開基70周年記念   「思い出の虹     湧別町西芭露

                                       昭和54年10月4日発刊

第2部 学校のあゆみ

昭和の小漁師top
西芭露郷土

学校沿革略史 沿革年譜 歴代校長一覧 旧職員一覧 児童生徒の推移 同窓生名簿 上芭露の高等科へ進んだ人々


校  旗
校  章
西芭露小学校々歌 一、山並み若く  水清く
   光あふれて 空たかし
   心のみやこ 北のさと 
   せいしんの 風ひかる 
  
二、朝(あした)に鍛え 夕に練り
  たゆまぬ意気を 励まして
  健(たけ)き我等が 勤(いそ)しめば
  高き未来ぞ 花薫る

三、熱血たぎる 父祖の地に
  逆巻く嵐 躍り越え
  旋(さか)巻く嵐 行くところ
  我が学園に 光輝あれ
学校沿革略史 
創立の事情    (学校沿革史より原文のまま)
 明治42年11月上旬(3日頃)、高橋忠兵衛他6名、西之沢に入地開拓
に従事したるを始めとし、当時戸数僅少にして、住民開墾の業に忙しく、経済
状態不振にして余裕なかりしかば、学令児童は約二里余を距るる上芭露小学校
に通学せり、然るに、当時は道路極めて不完全にして、川岸を僅かに刈取りた
るに過ぎざるを以て、雨天或は融雪の際は泥嚀膝を没するの状態なり。殊に、
冬期間の困難、実に言語に絶し、更に熊の出没するありて通学の不安を感じた
り。
 一方住民漸次増加し、学令児童の数を加うるに至りしかば、学校開設の議を
決して、西之沢特別教授場を創立せり。
 ○位   置 西9線22号134番地
 ○創立認可 大正2年4月28日
 ○開   校 大正2年7月28日
 ○通学区域 西之沢部落一円
 ○名   称 西之沢特別教授場
 ○所 属 校 上芭露尋常小学校
特別教授場時代  前述のように、部落民の要望がかなって、特別教授場設置の認可となったの
は大正2年4月、そして、3ヶ月後に開校の運びとなった訳であるが、宇山三平
氏の骨折りにより、学校敷地を松村岸太氏の土地に決め、建築材の一部を運
んだが、奥地の人々に異議がおこり、村議上伊沢伝氏の努力により、高橋久之
助氏所有の未墾地5反歩の寄付を受けて敷地を決定した経緯がある。この年は
、大凶作の年であったと言われている。
 4月末建築起工に当り、村田重五郎氏請負、森原五百吉氏棟梁にて建設し
7月落成した。校舎は、教員住宅を併置して建坪29,5坪、工費は495円50銭
だったという。
 当時の貧困な村財政下での学校設置の殆どが、部落住民負担に求められる
慣習であったようで、本建築の場合、如何程の部落負担であったか定かではな
いが、指定の教育熱に燃ゆる部落民挙げて、資金や労力を出し合い、建設に汗
を流したものと思われる。
 開校式には先生代理として、小野宗孝氏がなった。
 (当時の教育規程について)
 町内覚学校の沿革をみると「簡易教育所」、「教育所」、「特別教授場」等の名
称がよく出てくる。上芭露小学校の場合も、明治41年、上伊沢伝氏の住宅を
改造して、これを仮校舎として「簡易教育所」を設けたのが始まりとなっている。
 この簡易教育所は、小学校教則によりがたい開拓地の実情に適合する教育推
進のために定められた。「簡易教育所規程」によるもので、開村5年以内の町村、
戸数数百戸未満の町内、旧土人部落の町村に適用され、出張教育や嘱託教育に
よることとしたものという。そして、明治41年3月、義務教育期間延長の改正小学
校令の要旨をとりいれた規程改正により、「教育所」に改称されている。
 「特別教授場」とは、他の小学校に付属する、いわゆる分教場である。
 開校当時は、児童数27名であったのが、大正4年45名、10年53名、12年64
名、14年には75名と漸増し、同年7月7日に尋常小学校に昇格したのである。
尋常小学校昇格時代   欧州大戦の影響で、一時、豆景気押されて沈滞した薄荷栽培も、戦争終結
によって豆類暴落に及び、薄荷栽培の意欲は復活した。部落戸数も、それに促
進されるかのように漸増し、大正14年には53戸を数え、児童数も75名に及ぶ
に至った。
 これまで上芭露尋常小学校所属の特別教授場であった本校は、同年7月、
小学校昇格の認可を得て、西之沢尋常小学校と改称、笠原郡司氏が初代校長
として任命された。
 複々式の2学級編成となったが、教室不足のため、隣接の青年会館が仮教室
に充てられた。このような事情から、翌15年に入って校舎を新築する運びとなり
、同年5月、隣接する梅津氏の土地を校舎敷地として、部落総出役(3百余名、
1戸当り6人の出役)で地均し作業を行い、総建坪111坪5合(うち、住宅20坪5
合)の新校舎が、9月30日着工、11月5日に竣功、同月28日、盛大な落成式
が挙行された。この新築の総工費は45百円15銭、その3分の1にあたる1千5
百円が部落負担となっている。同時に、部落全戸より、学校備品購入費として
512円80銭の寄付がなされている。
西芭露尋常小学校
 から国民学校へ
 昭和5年6月、字名の改正にあわせて西芭露尋常小学校と改称した。以来、
昭和16年に国民学校となるまでの11年間が、西芭露尋常小学校時代である
が、校下部落の開拓も殆ど限度に達した情勢のもとに、児童数は80名前後と
定着する。部落戸数及び児童数が安定した推移をたどるこの時代ではあったが、
昭和6年に勃発した満州事変が拡大するにつっれて、戦時色が次第に強まって
いった。
 昭和8年、西芭露校にも青年訓練所が設置された。この青年訓練所は、小学
校修了後に従事する青少年に対して兵式訓練を施すところの教練科に重点
をおく教育機関であった。この教練科修了者には、軍隊の在営年限を約半年短
縮するという恩典借置が講じられていた。学校長が主事に任命され、普通学科
は学校教員、職業科は農会技術員、そして、軍事教練科は在郷軍人の中から適
任者が指導員に嘱託され、徳に教練科は、年一回現役将校の厳しい査閲を受け
る仕組みになっていた。なお、この青年訓練所は、昭和10年に青年学校と改称、
昭和14年青年学校令の改正により、満12歳以上満19歳までの男子に義務制
が実施されたが、昭和18年に至って、西芭露農業青年学校は廃止されて、上芭
露の青年学校に整理統合された。
 昭和16年3月、戦時体制化の一環として、小学校令は国民学校令に改められ
施行された。同令第1条「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的
錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」によって教育方針も改革され、同年4月1日、校名も
西芭露国民学校と改められた。
 「皇国民の錬成」の大眼目のもとに、知的教育は疎外され、もっぱら精神教
育に重点が移された。朝会には必ず、神宮、皇居遙拝、月、木曜日には「海ゆ
かば」を斉唱、体操は軍隊式の訓練に近付いて教練が主になり、また、生産増
強に結びつく勤労奉仕等を通じ、精神力を練練するという方向に体系化されて、
戦時下の教育がいやおうなしに行われたのである。
 国民学校の義務教育年限は初等科6年、高等科2年の8ヶ年に延長、昭和1
9年度より実放されることになったが、18年の「教育ニ関スル戦時非常借置
方策」により、「義務教育8年制ノ実施ハ当分ノ内之ヲ延期ス」とされて終戦
になった。戦後、21年5月になって、西芭露にも高等科の増設が認可され、
翌年3月、つぎの8名の高等科第1回卒業生を送り出している。(同年4月、
新学制実施に伴い、高等科修了生は、この1回かぎり)
 阿部 藤作、 宇野  覚、 船戸 金政、 峯田  学、 石原富士雄
 阿部  博、  上松ツネ子、 石塚ハナ子
新学制の発足  昭和20年8月15日、ポツダム宣言の受諾で終戦となり、連合軍の進駐と
いう有史以来の出来事に全国民は虚脱、混迷、ただ進駐軍におびえるばかり。
しかも、連合軍は「日本をして第2次大戦を引き起こさせたのは教育にあり」、
として、日本の教育のあり方に鋭い批判と避難を集中、厳しい指令を出して国
家主義教育の解体を迫った。かくて、日本の教育は、占領軍によって管理され、
軍事教練の廃止、木刀、薙刀等の焼却処分と共に、修身科、国史科、地理科な
どの国家主義、軍国主義的教材と決めつけられた教科書は回収処分となり、
児童は墨を塗って文意の通じなくなった教科書を使って間に合わせるなど、混
沌とした中で学習を続けなければならなかった。
 このように、指令による急速な民主主義教育へのいわばコペルニクス的転換
は、学校に極度の混乱を来したが、やがて、教育基本法及び学校教育法が公布
され、新しい教育の体制を迎えることになった。
 昭和22年4月1日より、義務教育年限の延長を定めた教育基本法及び学校教
育法に基づき、いわゆる6,3制が発足した。これによって従来の国民学校は小
学校と改め、中学校を併置したが、当時は、上芭露中学校の分校であった。
 24年11月、西芭露中学校に小学、独立校になった。
 これに伴う校舎の整備として、24年10月に1教室(19、25坪)及び廊下を増
築、翌25年10月に校舎付属便所並びに教員住宅1棟2戸、26年11月にはブ
ロック物置1棟がそれぞれ建築されている。
 新学制により発足した昭和22年より、湖陵中学校へ統合した44年までの22
年間、小、中併置校時代が続いたが、その間の児童、生徒数は併せて百十名
から百二十名にも達し、認可学級数は小学校2学級、中学校1学級であったが、
実質は3学級と2学級の編成であった。
新校舎落成と
 中学校統合
 大正15年に建築して以来、20数年の星霜を経て、甚だしく老巧化し、部
落出役で応急的に修繕して何とか間に合わせてきたり、また、教室不足で青年
会館を使用したり、2教室を3教室に区切るなどしてきたが、新校舎の建築が
急務となった。
 部落開拓以来、人々は、学校を中心として親睦がはかられ、団結してきたわ
けだが、学校があくまで部落の中心部にあることを望んだ。部落総会に於いて、
上は現墓地附近より現校舎附近までと限定したが、地形悪く、適当な整地を決
定することは困難であった。
 その時、いろいろ経緯はあったが、結局、須藤清三郎氏に転出願って、此処に
小池勝氏の畑の一部を合併して整地を決定し、建設の議がまとまった。
 昭和30年に至って、3百坪に及ぶ近代的な校舎が、時の建築学の権威であっ
た北大、落藤教授の設計のもとに宮本組が請負い、その秋に竣功、12月25日
に落成式が挙行された。
 昭和35,6年頃より農村の過疎が進み始め、児童、生徒数の減少傾向が
見られるようになり、町教育行政の方針で、町内中学校の統合計画が具体化、
各部落で、懇談会や説明会が開催されるようになった。
 芭露市街地に湖陵中学校々舎の竣功と相俟って、志撫子(39年)、計呂地
(40年)、東芭露(42年)の統合となり、44年に入って、町議会は、上芭露、
西芭露中学校の強制統合に踏み切るに至った。これは、開拓以来学校を中心
として生活し、発展して来た住民にとっては、大きな衝撃であった。
 両部落は、強固な反対姿勢を打ち出し、湧別市街に2度にわたって、統合反
対の示威行動をおこしたが、結局は既定の事実として認めざるを得ない結果
となってしまった。
 現在、生徒の通学はスクールバスが配置され、朝、夕、生徒のいる家の前
まで送り迎えをしてくれ、また、このバスには、上芭露保育所へ通う幼児をは
じめ、一般住民も利用することができるようになっている。かつ、このスクー
ルバス運行により、冬期間、すみやかなる道路の除雪が確保され、部落民に有
利一面も見られるようになり、長い年月の間に、昔日の怨響を越えた親睦も
見られるようになった。
現   況  本校は、役場所在地から30km余、芭露駅より14km、隣町遠軽駅より11,5
kmの地点に立地し、その南北に連なる山峡の部落一円を校下としている。
開拓の初期より薄荷の生産地として栄え、戸数も60数戸に及んだが、社会
情勢の推移と共に離農者相次ぎ、現戸数は34戸である。一部酪農を営む者
もあるが畑作を主とし、一般に中規模の安定した営農をしている。
 現校舎は前述の如く昭和30年に建築されたが、逐年、環境の整備、施設の
充実が計られ、周囲は一面の芝生明治その中にジャングルジム、回旋塔、ブラン
コ等の遊具類が配置され、一段低いところにグランドが拡がり、美しい新緑と
咲き乱れる草花との調和は、素晴らしい教育環境を形成している。
 昭和44年、学校統合により中学校を分離して以来、普通教室の特別教室
への転用、TV、O・H・P等の視聴覚機器の導入により、学習空間と学習形
態の多様性が一段と向上してきた。
 児童数は漸減の傾向にあったが、現在14名、近接学年複式による3学級
、教員定数4であり、この編成と規模は当分続く見通しである。
 本校の教育は、児童の心身の調和のとれた発達を目指し、健全な国民の育
成を期して行われているが、特に「自主的に学習し、行動する子ども」の育成を
課題とし、地域や児童の実態を踏まえ、学校の特色を生かして生き生きとした
活動を生み出すことをねらいとしている。
 基礎的、基本的な内容を重視し、ひとりひとりが成就感をもつ学習指導、学年
のわくを外した総合学習の集会活動、課外活動としての小動物飼育、すでに
地域ぐるみとなった卓球等々、着々とその成果を挙げ、創意に富む教育活動の
展開に努めている。
 父兄の教育に対する関心も高く、住民のすべてがPTA会員として、学校環
境の整備、行事の協力と参加、児童活動への援助を惜しまない。
 学校は、地域の学校としてその役割を期待されている。
  『職員構成』
  職 名    氏   名     着年月日  
 校 長 高橋  哲 昭和53,4,1
 教 頭 池田 恒夫 昭和52,4,1
 教 諭   長谷川常博 昭和52,4,1
 教 諭 渡辺智逗子 昭和47,4,1

  『学級編成』
一年 二年 三年 四年 五年 六年   計  


 男 3 1 0 2 1 2 9
 女 0 1 2 0 2 0 5
 計 3 2 2 2 3 2 14
学級担任 渡辺智逗子 池田 恒夫 長谷川常博

  『学校教育目標』
一、明るく美しい人
  ●自分で計画を立て、ねばり強く学習する子ども
  ●美しい心で自然を愛し、生活を楽しむ子ども
  ●身のまわりをきれいにし、元気で運動する子ども

二、真剣に最後までなしとげる人
  ●きまりを守り、進んで自分のつとめをはたす子ども
  ●仕事をいやがらず、最後までやりとげる子ども
  ●たがいに助け合い、はげましあっていく子ども
 
三、自分を愛することのできる人
  ●自分を大切にし自信のある行動をとれる子ども
  ●自分の長所や短所を知って、すすんで努力する子ども

四、自分の考えをあらわすことの出来る人
  ●ともだちの意見を大切にし、自分の考えを言える子ども
  ●すすんで発表し、みんなとともに高まる子ども

  『学校経営の方針』
一、明日に伸びるたくましい子どもを育てる(保障する教育を)
 激変する社会にあって、今日ほど学校教育のあり方をきびしく問われている
時代はない。埋没しがちな僻地の教育を広く「今日的課題」に照らし、明日に伸
びるたくましい子どもを育てる教育を保障することに努める。

二、ゆとりある充実した学校生活を実現する(手づくりの教育を)
 学校がおかれている地域の自然的、社会的条件を生かしながら、創意のある
充実した学校生活や、多様な学習形態の工夫により、ひとりひとりの子どもた
ちの可能性を最大限に伸ばすことに努める。

三、人間的ふれ合いを重視する(ふれ合い、ひびき合う教育を)
 教育の原点は、教師と子ども、子ども相互の人間的なふれ合いにある。厳し
さと愛情をもって子どもたちに、はたらきかけ、ひきだし、すすんで学習する
生き生きとした教育活動の実現に努める。

  『主な年間行事』
( 4月) 入学式  始業式  身体測定  花だん作業  交通安全教室
      家庭訪問  参観日
( 5月) 遠足  健康診断  学校園作業
( 6月) 運動会  修学旅行  歯牙検査
( 7月) 体力測定  海浜教室  花だん作業  複式校集合学習
      大掃除  学校新聞発刊  終業式
( 8月) 始業式  夏休み作品展  身体測定  学校園作業
      親子卓球教室
( 9月) 社会見学  教育大釧路分校まりも公演  遠足
(10月) 開校66周年記念学芸会  体力測定  花だん作業
      交通安全教室
(11月) 複式校集合学習  避難訓練
(12月) 参観日  大掃除  学校新聞発刊  終業式
( 1月) 新年書き初め大会  始業式  冬休み作品展  身体測定
( 2月) スケート大会  スキー大会
( 3月) 参観日  卒業生を送る会  大掃除  文集やまなみ発行
      学校新聞発刊  修業式  卒業式

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 沿革年譜 
大正 2・ 4・28
2・ 7・28
5・ 7・ 9
13・11・ 7
14・ 7・ 7
14・ 8・ 7
14・11・ 9
15・ 5・18
15・11・28



昭和 3・ 4・30
4・ 2・10
4・ 3・20
4・ 6・ 9
4・ 6・  
4・10・ 6






5・ 6・27
6・ 4・29
6・    
7・ 5・12
7・10・23
8・ 4・29
9・ 6・21
9・ 8・24
12・ 8・ 3
14・10・ 2
14・10・29
15・10・  
16・ 4・ 1
21・ 5・ 6
22・ 4・ 1
22・ 4・ 1
22・ 9・11
23・ 6・ 8
23・ 8・26
24・10・25
24・11・ 1
24・11・ 6
25・10・26
26・11・12
29・ 3・20

30・12・25



31・ 7・ 4
31・10・13
31・11・10
32・ 3・18
32・ 6・24
32・10・ 5
33・11・11
34・ 5・ 7
34・ 8・10
34・ 9・28
34・10・31
34・11・ 6
35・ 3・ 3
35・ 3・ 3
35・ 4・ 1
35・ 9・25
36・ 7・ 7
36・ 9・14
36・11・25
38・ 5・27
44・ 4・ 1
45・ 9・ 1
48・10・11
49・12・25
51・ 4・ 1
54・ 8・ 3
 上芭露尋常小学校所属西之沢特別教授場として認可、単級
 授業開始、校舎、教員住宅併置(29,5坪) 児童数27名
 井戸開鑿、深さ25尺 部落出役10人
 皇太子殿下御手播落葉松5本植樹
 小学校に昇格
 校名改称 西之沢尋常小学校 3学級
 教員勅語、戊申詔書、国民精神作興ニ関スル詔書拝載
 校舎敷地のチキン作業 部落総出役300余名 1戸当り6人の出役
 新築校舎落成式(9,30着工、11,5完成)
  ・総建坪 112坪5合(内校舎、玄関、廊下79坪、事務室7,5坪、物置4,5坪
   住宅20坪5合)
  ・総工費 4千5百円15銭、内部落寄付1千5百円
 御大典記念植樹 落葉松百本(父兄会)
 物置建築 5坪、工費百25円、部落寄付30円、計百55円也
 校門、服部安次郎氏より寄贈を受く
 御沙汰書拝載
 水量不足につき、部落出役し、古井戸にポンプ据付く
 校舎新築のため隣地地主梅津庄左衛門氏と交換
  ○旧敷地 反別4反9畝28歩(1498坪)
   校地1,303.5坪 旧校門前4間道路160坪
   北側道路34.5坪
  ○新敷地 反別4反9畝16歩(1.485坪)
   校地平地1.305坪 校門脇傾斜地180坪 屋外運動場625坪
   実修地35坪
 校名改称 西芭露尋常小学校
 愛林樹栽日 遠軽営林署より落葉松20本寄贈 植林
 水量不足につき、傾斜地の水路より道管して水を引く
 教育者ニ賜リタル勅語拝載
 井戸小屋建築 3坪7合5勺 工費47円
 開校20周年記念植樹(同窓会)
 教育者御見閲ニ賜りタル勅語拝載
 校舎傾き修理 工費39円47銭
 学校敷地梅津氏の土地と交換登録済
 軍人援護に関スル勅語拝載
 青少年学徒ニ賜リタル勅語拝載
 皇紀二千六百年記念二宮尊徳像建立
 校名改称 西芭露国民学校 2学級
 高等科併置認可
 6.3制により校名改称 西芭露小学校 2学級
 上芭露中学校西芭露分校を併置 1学級
 電気工事完了
 校舎老巧のため応急修繕 部落半数出役
 上芭露中学校より通勤授業
 中学校併置により1教室増築
 上芭露中学校西芭露分校より昇格し 西芭露中学校と改称、併置校 1学級
 学校放送スピーカー施設
 校舎付属便所並びに教員住宅1棟2戸(31坪)建築
 校舎付属物置(ブロック)1棟建築
 校内放送施設完備
 教室不足にて青年会館を使用したるも不便につき、2教室を3教室に区切り授業す
  (PTA出費)
 新築校舎落成記念式
  教室3,特別教室3,宿直室、器具室、職員室
  体育館、総坪数277坪
 新校舎校庭地均し、(ブルドーザーによる)旧校舎敷地より二宮尊徳の像移動
 旧校舎玄関等解体、物置、薪小屋建築
 校舎敷地囲いに生垣用落葉松植樹(5百本)
 学校林設定 湧別町有林内 6町3反7畝8歩
 テニスコート地均し完了
 学校林トド松植樹 3千本(1町3反)
 学校林落葉松植樹 6千3百本(2町7畝)
 校舎敷地囲いに生垣用落葉松植樹(3百本)
 電話架設
 校長住宅新築 ブロック建 1棟1戸15坪
 校長住宅物置建築 6坪 PTA経費
 学校林トド松植樹 3千本(1町)
 部落開基50周年記念ピアノ購入
 校歌制定
 中学校 2学級
 学校林トド松植樹 6千本(2町歩)
 校章制定
 職員住宅新築 モルタル仕上げ 1棟4戸(18.5坪)
 児童生徒用付属物置新築 6坪.PTA経費
 開校50周年、開基55周年記念式典
 併置の西芭露中学校は湖陵中学校へ統合する
 石炭小屋新築(木造、2.7×7.2米)
 開拓65周年、開校60周年記念碑校庭に建立
 学校林町に売却  面積 2町2反1畝8歩 価格 128万403円也
 児童数18名に達し、3学級認可となり、教頭配置の3学級複式で出発する
 グランド地均し(西村組)
歴代校長一覧
歴代   氏  名     着任年月日   退任年月日    期 間 
 笠原 郡治  大正14. 8.31  昭和 7. 4.30 6.08
 大和田 豊 昭和 7. 4.30 昭和16. 3.10 8.11
 今井 義雄 昭和16. 3.31 昭和22. 4.30 6.01
 高瀬  清 昭和22. 4.30 昭和25. 3.31 2.11
 菊地 幸治 昭和25. 3.31 昭和34. 3.31 9.00
 佐藤 美晴 昭和34. 5. 1 昭和40. 3.31 5.11
 吉田  豪 昭和40. 4. 1 昭和45. 3.31 5.00
 遠藤 正信 昭和45. 4. 1 昭和49. 3.31 4.00
 河原田昭二 昭和49. 4. 1 昭和53. 3.31 4.00
10  高橋  哲 昭和53. 4. 1
旧職員一覧    小学校の部 
 氏  名   職  名   着任年月日   退任年月日   期間 
 大塚  イ邑 
 伊藤 祐義
 伊藤  トラ
  林  信次
 中川 ヨネ
 石塚勘之丞
 山本 泰雄
 山本キヨウ
 滝田多一郎
 滝田 ヨシ
 笠原 郡司
 笠原シノブ
 中島 吉一
 遠藤勝太郎
 笹木 信雄
 後藤徳三郎
 富樫キヨノ
 大和田 豊
 大和田ヒデヨ 
 吉野巳一郎
 祖父江芳雄
 桑原 邦正
 篠原  寛
 武藤 武夫

 今井 義雄
 武藤 重恵
 今井 テル
 工藤 隆俊
 高瀬  清
 松田 照子
 船戸 金政

 菊地 幸治
 菊地 マツ
 菊地千代子
 菅井 哲夫
 野津 寿雄
 小林美智子

 三井 喜人
 佐藤 美晴
 佐藤 美代
 広島 勝利
 石塚 澄子
 安孫子千代子
 吉田  豪
 工藤 萩子
 吉田 雪江
 柏倉貴栄子
 井尻 清司
 遠藤 正信
 遠藤 鈴枝
 岩佐 富弘
 河原田昭二
 河原田美代子
 畑山  巌
代用教員
代用教員
代用教員
准   頭
代用教員
代用教員
代用教員
代用教員
代用教員
代用教員
訓導兼校長
代用教員
代用教員
代用教員
訓   導
准   訓
代用教員
訓導兼校長
代用教員
代用教員
准   訓
訓   導
代用教員
代用教員
助   教
訓導兼校長
助   教
助   教
教   諭
教諭兼校長
助   教
講   師
助   教
教諭兼校長
講   師
助   教
助   教
助   教
助   教
教   諭
教   諭
校   長
講   師
教   諭
教   諭
教   諭
校   長
教   諭
教   諭
教   諭
教   諭
校   長
技   助
教   諭
校   長
技   助
教   頭
大正 2・ 8.25
大正 6. 5.12
大正 6. 6.13
大正 8. 5.15
大正 9. 2.22
大正 9.10. 8
大正10.11.11
大正11. 4.20
大正12. 6.19
大正13. 2.15
大正14. 8.31
大正14.10.12
大正14.10.26
大正15. 6.30
昭和 2. 3.31
昭和 4. 8.20
昭和 4.12. 2
昭和 7. 4.30
昭和 7. 6.13
昭和 8. 8.31
昭和 9. 1.22
昭和14. 3.31
昭和14. 9. 7
昭和15. 7.31

昭和16. 3.31
昭和16. 5.31
昭和17. 4.30
昭和22. 3.31
昭和22. 4.30
昭和22. 6.30
昭和23. 5.30

昭和25. 3.31
昭和25. 4.30
昭和26. 4. 1
昭和26. 5. 1
昭和28. 5. 1
昭和29. 5. 1

昭和32. 4. 1
昭和34. 5. 1
昭和34. 5.16
昭和35. 4. 1
昭和36. 4. 1
昭和38. 4. 1
昭和40. 4. 1
昭和40. 4. 1
昭和40. 7. 1
昭和42. 4. 1
昭和42. 4. 1
昭和45. 4. 1
昭和45. 6. 1
昭和47. 4. 1
昭和49. 4. 1
昭和49. 4. 1
昭和51. 4. 1
大正 6. 5.12
大正 7. 4.30
大正 7. 4.30
大正 8.11.30
大正 9. 9. 2
大正10.10.28
大正12. 5.30
大正12. 5.30
大正14. 5.30
大正14. 6.10
昭和 7. 4.30
昭和 7. 5.30
大正15. 4. 6
昭和 2. 4. 9
昭和 8. 9. 4
昭和 5. 2.28
昭和 5. 3.31
昭和16. 3.10
昭和16. 3.31
昭和 8.12.26
昭和14. 3.31
昭和14. 8.31
昭和15. 6.21
昭和22. 3.31

昭和22. 4.30
昭和17. 3.31
昭和22. 5.31
昭和23. 1.31
昭和25. 3.31
昭和26. 3.31
昭和30. 4.30

昭和34. 3.31
昭和34. 3.31
昭和29. 3.31
昭和27. 6. 1
昭和32. 4. 1
昭和34. 9. 1

昭和36. 4. 1
昭和40. 4. 1
昭和40. 3.31
昭和38. 4. 1
昭和42. 3.31
昭和40. 4. 1
昭和45. 3.31
昭和41. 3.31
昭和45. 3.31
昭和46. 3.31
昭和47. 3.31
昭和49. 3.31
昭和49. 3.31
昭和52. 3.31
昭和53. 3.31
昭和51. 3.31
昭和52. 3.31
5.09
0.11
0.10
0.06
0.06
1.00
1.06
1.01
1.11
1.03
6.08
6.07
0.05
0.09
6.05
0.07
0.04
8.11
8.09
0.04
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0.05
0.09
6.08

6.01
0.10
5.01
0.08
2.11
3.09
6.11

9.00
8.11
3.00
1.01
3.11
5.04

4.00
5.11
5.11
3.00
6.00
2.00
5.00
1.00
4.09
4.00
5.00
4.00
3.10
5.00
4.00
2.00
1.00

  中学校の部
 氏  名   職  名   着任年月日   退任年月日   期間