開基70周年記念   「思い出の虹     湧別町西芭露

                                       昭和54年10月4日発刊

第3部 回   想

昭和の小漁師top
西芭露郷土史

火難の思い出 十六年間の思い出 西芭露の思い出 西芭露三十有余年の想い出 芭露生活の思い出 移住当時の思い出  思い出 回 想
 開校当時の思い出
 西芭露のむかし タイム・マシン 
座 談 会


火難の思い出 茶山 秀吉  大正15年5月6日、それは私にとって忘れられない思い出の日です。その
年は、例年より雪解けが遅れて、まだ北向きの斜面には一面に雪が残り、南向
きの日当たりの良い所だけ乾燥して農耕可能になっていたが、それでも間近に農
作業に着手するので、今日は遠軽に地下袋を買いに自転車で出掛けた。珍ら
しく南風の強い日で、風に向かっては進行困難な程だった。これから農繁期に入
れば遠軽にも買い物にも出られないので、今日はサボって種馬を見て帰ろうと考
え、今の遠軽の西町山の手団地付近に種馬三頭繋養されていたので、乗馬訓練等
を見て、午後の四時頃遠軽峠を自転車を押して上る途中だった。当時の村会議員
の梅津氏が明日の議会出席のため前日から出掛けるのに出会い、「やぁ、今
お帰りですか」の挨拶に一瞬不思議に思ったところ、梅津氏は、言いにくそう
に、「誠に気の毒な事が起こって・・・」と言うのだ。私は即座に、「私の家が
焼けたか」と言ったら、「そうなんだ」の返事。「それなら、裏の物置は残ったか」
の問いに、残った様に思うとの話で、物置さえ残れば急場を凌げると考え
ながら、急いで我が家へもどった。
 帰って見ると、何一つ残らずに焼野原と化し、焼けた雑穀類の残りから煙が
出ているのを家族が茫然と眺めていた。その状況を見て、愈々我が身の上に災
難が降りかかった。それまで特別な不幸や災難もなく平穏無事な生活を続けて
来たのに、一瞬にして裸一貫となり、一から出直す身となり、これでは褌を締め
て掛からなければと言う事を感じた。
 その晩は家族がバラバラになって近所や親類に別れて泊まり、次の日は組内総
出の援助を受けてバラック建てに取りかかった。当時、伊藤辰五郎氏が青年団
長で、総出動で山に入り、建築資材の切り出し、組内の人は手分けして馬車で遠
軽に板買いやら、屋根の柾集めをして下さり、二日でどうにか住める家が出来
て、四日目で家族揃って我が家に寝られた。住宅、家財、食糧何一つ無くても
人畜に被害の無かった事をよろこび、社会の皆様から厚い援助を受けたことに
感謝しつつ、新しい我が家での一夜を過ごした。
 かくして人家は建てて貰ったが、馬小屋がないので野天に馬を立たせて置いた
ため、数日の後、疝痛を起こしたが、寝わら一束ないのには困った。色々と手
当をする内に、旭川に入営中の弟が健康を害して入院していたが、「ヨシキチ
ワルイスグコイ」の電報が入り、老父がすぐに行ったのだが、その時思ったのは、
こんな運の悪い時だから、馬も直らないし、弟の命もないと覚悟したものだ。
幸いにも、馬も直り、弟の病気も全快して安心した。人生には運不運があり、
如何に努力しても運の悪い時は仕方のないものです。「何時までも有ると思う
な親と金、無いと思うな運と災難」の古言を痛切に感じ、西芭露生活五十年の
中で最大の不幸な思い出を記述しました。

十六年間の思い出 茶山 房吉  光陰は矢の如しとやら、茲に記念誌発刊の運びとなりましたことを、お悦び
申し上げますと共に、編集に当たられた委員会の皆さんの御苦労に対し、深
く感謝の意を表します。
 顧みるに明治末期、人跡未踏の大自然の地に入植された西芭露第一世の皆さ
ん、鋸、鍬、鎌、鉞と二本の腕にたより開拓に挑み、掘立小屋に住み、寒さに
耐え、ランプの光で夜を過ごし、粗食で飢えをしのぎ、馬を交通の利とし、教育は
大正二年特別教授場の開設までは一切無く、野獣的生活によって、今日の西芭
露を造り挙げられました。その闘志、私共は子供心に当時の状景が心に深くし
み込んで居ります。
 私は特別教授所二年九才の春三月、まだ雪の深い西芭露の地を踏みました。そして
昭和四年二月西芭露を離れ、約十六年間の青少年期、即ち西芭露の発展途上期
を当時の皆さんの御指導の下に、成長させていただきました。
 其の間に施設も拡充され、生活も進歩したように思います。その第一は道路
が部落民によって大きくその姿を変えたことでありましょう。
 明治末期に入植された人は、川の流れを辿って歩き始められたものと思われ、
川に沿っての道路であったようです。処が、その道路は融雪期の増水によって
浸水して、人の通行すら容易でない事態になっている場所が数百米になって居
りました。
 年次は何年であったか完全な記憶にありませんが、大正五年頃ではなかった
かと思います。秋の農作業が一段落した時期に、部落民総動員の奉仕作業(当
時は共同事業と言っていた)で、部落入口より西側の山麓を山を切り崩して、
約二キロの新道を開さくされたことが思い出されます。
 其の後大正十年であったと思います。国か道か(私共の子共の社会では不明)
の手によって、部落民の奉仕作業によって造られた、道路の本格的改良工事が
約半年間で完成しました。
 これと並行して、遠軽に通ずる道路も工事が進められていたように思います。
工事中は交通も遮断されていまして、用件のある時は乗馬で川を歩いたことを
思い出します。
 この工事中に、一つのエピソードが浮かんでまいります。工事の人夫は、大隅
さん宅のハッカ小屋を飯場と事務所にしておりました。この秋、遠軽湧別間の
平野を利用して、第七師団秋期機動演習が実施されていました。
 ある夕方、数名の騎兵将校斥候(敵の状況を探る密偵)がこの工事中の道路
を遠軽へ抜けるため通りかかったのです。時刻はもううす暗く、人の顔も充分
見分けがつかない頃でした。馬の通る物音に、工事場の主任某は大声で呼び止
め、馬のクツワを掴み、この道路を無断で通るとは何事だ!と強く叱りつけると、
乗馬の数名は馬から降りました。其の瞬間、指揮刀がキラメキ、異様な音がし
た。時既におそく、「お前は自分等を何に人と思うか」と逆に大喝一声あり、
これに気付いた主任某氏、土下座をして謝った。例の将校曰く、「自分等は軍
の命により一分一秒を争う身だ。」「此処で費した時間をどのように解決してく
れるか。」と、軍人独特の言葉を述べたとのことでした。
 話は一段落の後、斥候数名は、自分等の馬の足跡を調べ、この損害を師団の
経理部に請求するようにとの言葉を残して立ち去ったという。面白い話もあっ
たことが思い出されます。
 大正八年から数年、部落の東側一帯に造材が盛んに行われました。出材は抗
木、矢板(炭坑及鉱山の採掘に用いるもの)でした。春から降雪期までは、伐
採及び集材が行われていましたので、これに従事する若者の、集材のあの独特
の掛声が山にコダマし、夕方帰路に就く途中の歌声が、今でも耳に残っていま
す。
 殊に六線の沢には、飯場や事務所が山間を埋めていた光景を今でも瞼に映り
ます。
 当時は降雪期を迎えると部落内の老いも若きも、この木材の搬出作業に従事
し、毎日数百頭の馬が遠軽間を往来し、壮観を呈した。峠には数百米の長蛇の
列をなし、人馬一体となって上る光景も思い出されます。
 このような状況は数年間続けられ、副収入を得たものであったでしょう。
 私共は当時十四才であったように思いますが、何しろ朝は三時頃から家を
出るので、当時の寒気は殊に厳しく、夜が明けて馬を見ると、凍って真白く鼻
の穴の周囲には小さなツララが着いていることも珍しくないようでした。私
は意志が弱いので、三日続けると一日は休むとの形をとっていたように記憶して
います。
 当時、大正初期の青年には娯楽もなく、お盆などの農休日には学校へ集合し
て、名目だけの俳句会などを開き、題を出して、これを所要の用紙に記入し、
互選して楽しみ、時には講演会という名目で、各人が教壇に立ち、思い思いの
話をしたこともあったように思います。
 毎年一回、湧別校に於て青年大会が開催されていました。私共もこれに参加
していました。二日間開催され初日は、各部落選出弁士による講演会、次の日は
陸上競技になっていました。
 参加するための出発の日は遠軽まで徒歩で、深緑の山道を種々話し合い、鶯
の声や、名も知らない小鳥の名曲を耳にして歩くこと約十二キロ、遠軽からは
車中の人となり約一時間、着いた処は下湧別駅で正午頃であったように思いま
す。例によって午後から各代表による講演会、出演者は全村で五名か六名でし
た。処が我が青年会では、普通二名、時には三名弁士を出していたこともあり
ました。陸上競技の成績は毎年一番ビリでしたが、講演の方は、全村の半数
を出していた事は珍しいケースで、自慢に価するものであったと思います。
 それに前後して、西ノ沢部落にも、学校と青年合同の運動会が開催され、そ
の資金を集めるため、各戸を訪問して無理をお願いして歩いたことも思い出さ
れます。開催の日は、旧暦の五月五日(現在の子供の日)か、六月十五日(当
時は札幌祭)の一般休日を利用したように思います。一周わずか百米内外の校
庭でありましたが、娯楽のない当時は、部落全員の楽しい一日を過ごすことが
出来たように思います。
 一方、各家庭ではこの季節になると、農作業に追われ、主作物であるハッカ
の除草、各戸の全員が畑の中に一列横隊、丁度歩兵の散兵の型になり雑草を抜
き取る。風のない夕暮れになると、ムカ虫の攻撃を受け、如何なる小さな衣類の
空間からも潜入して、このゲリラを防ぐため、ボロで縄を作り、これに点火し
て煙幕を張ったことも思い出になっています。
 夏の間の汗の結晶、秋の収穫、ハッカ刈り取り、そして芭露独特の乾燥方法
の縄編みをして細長い小屋に吊す。そして製品にするための蒸溜作業、その特
有の香りが、部落いっぱいに漂うこの六十年間の公益が思い浮かんで来ます。其
の季節になると、仲買人が昼夜の別なく走り廻っていたようなことも思い出さ
れますし、秋祭りは芭露の沢の下の方から、次第に奥の方へ進んで来たように
も思います。
 時代は早くも大正十年代になりまして、私共も成人を迎え、徴兵検査が遠軽
の学校で行われ、同僚数名と検査を受け、私は甲種合格となり、大正十三年十
二月七日、忘れることもできない、あの部落の中心、懐かしい三差路で、多数
のお見送りを受け、入隊の途に就いた光景を昨日のように思われますが、もう
六十余年もの歳月が流れた昔の物語となりました。一年八ヶ月の現役兵として
の義務も果し、除隊の際にも忙しい中を多数のお出迎えをいただき、当時の皆
さんには感謝の二字があるばかりです。
 帰郷して見ますと、あのなつかしい学校も新築されていて、一つしかなかっ
た教室も二教室になり、住宅も大きくその姿を変えていました。
 年次は前後になりましたが、十年頃であったでしょうか、はっきりした記憶
がありませんが、青年会館が学校の下側に建てられた思い出があります。遠軽
峠の下の山から材料の原木を搬出して、これを人力によって製材し、今は亡き
松村さんが棟梁となり、建前当日、一っぱい機嫌で、言葉の聞き違いから少しト
ラブルが起きたことも記憶に残っています。
 時は流れて昭和を迎えた四年の二月、以上のような数々の思い出を残し、な
つかしい西芭露を後にすることになりました。お別れの宴まで開いていただき、
皆さんのお世話になりっぱなしの私に、記念品までお贈り下さったことを心か
ら末筆ではございますがお礼を申し上げます。
 以後三十年、一般から最も危険視されています鉱山会社に勤め、微少の怪我
もなく定年を迎えました。このことは皆さんの御指導の賜と感謝しております。
そして現在では美唄市の片隅に細い煙を立てて余生を送っています。

西芭露の思い出 玉根 松助  西芭露は、私にとって第二の故郷である。
 西芭露を離れて、三十七年たったが、今でも忘れられない思い出は数々ある。
 以前に住んでいた上白滝から、西芭露へ移り住んだのは大正十四年三月末で、
四月から私は、上芭露の高等科へ、毎日五キロの道を徒歩で通学した。
 二年後、卒業して一家の働き手となりハッカ作りに専念した。そして青年団
に入団し、冬期は夜学研修をし、視察も行った。八月十七日の馬頭観世音祭、
十月十七日の秋祭りの行事等、青年団の活動は多かった。
 其の活動資金づくりは、冬期間学校で使用する薪を切ることが、主な仕事で
あった。薪の搬出が終わって或る年、その慰労会に、しるこの会食をしたことが
あった。その時の人員は確か二十二名であったと記憶している。場所は松村さん
の家であった。用意した小豆は一升で少ないから、うんと甘く作ってくれと言う
ことになり、八升半の砂糖を入れた。出来上がったしるこの甘いこと。一杯す
ら食べるのに苦労した者もあり、腹一杯食べた者はほとんどなかった。
 其の中に甘党が二人居た。佐藤忠兵衛氏宅に働いていた森本幸一君と、私
であった。森本君が六杯、私が七杯食べた。あまり手柄にもならないが、其の
時のことが忘れられない。森本君は間もなく大阪方面に行ったが、其の後消息
は不明である。今思い出してなつかしい。
 西芭露へ移ってから、前記佐藤氏の小作を三年間、四年目に佐藤氏の土地を
買って自作農になり、それからは毎年冬期間雪の少ない時節は、未開地部分の開墾
や、小川の整理、暗渠排水の施行等の土地改良から、ハッカ乾燥用の吹貫小屋
建て等、すべて自家労力で行った。屋根の柾つくり、たる木、小舞つくりまで
自己の手で行ったので、出稼ぎはしなかった。
 それ等の仕事が無くなってから、近くの山仕事に出るようになった。
 たしか昭和十五年春であったと思うが、遠軽沢支流の横尾さんの沢で、上田
造材という仕事のあった時、私は道つけ人夫として出役していたときのことで
ある。その山の主任の山田さんに呼ばれて事務所へ行くと、上田さんの話では
木材搬出の馬は充分居るが、搬出洋のタマが不足しているので、幸い楢の損傷
木が出来たのでタマを造りたいが、造る人が見つからないので困っていたが、
他人の話で、玉根さんなら造るだろうと聞いたので頼むのだが、是非引き受け
てくれと言われたので、私も造るには造って、現在も使っているが、人の見ま
ねで造ったので、専門家の使うのは造ったことがないからことわったが、そ
れでも是非にと頼まれた。
 造り賃は、単価が幅一寸当三十五銭、一台が平均二尺として七円の計算にな
る。その時の私の賃金は、他人より十銭高く三円十銭だったから、1日一台は
出来そうだと判断して、欲も出て引き受けてしまった。
 しかし、事務所を出てから考えた。タマには出来のよいのと悪いのがあるこ
とに気づいた。
 私が小学六年生で上白滝に居た頃、学校の往き帰りの途中でタマを造ってい
る人を見たことがあった。その人は大塚竹松さんと言う人で、私の叔母が嫁い
でいる人であった。
 元来、刃物いじりの好きな私は、見事に出来上がってゆくタマに手を触れて楽
しんだ。後程、そのタマを使った人達が、大塚さんのタマは、仕上げは美しく
良く出来ているが、どうもひっくり返るようだと話をしていたことを思い出し
た。
 いくら素人でも、賃金を貰って造ったものを、使用する人に批判されること
は、金銭は別として、人間信用の問題だと考えた末、一つの考えが浮かんだ。そ
れは戸梶太郎さんのことであった。
 戸梶さんは、私達より二、三年遅れて滝ノ上から来て、佐藤さんの小作に
なった人であった。当時普通の人では使用出来ないような、性の荒い馬を上手
に使用していた。近所の人も、馬使用にかけては戸梶さんの右に出る人は少い
だろうと言っている話を思い出した。
 戸梶さんにタマの良、不良の急所を尋ねようと決めて、夕食を終わらせると、
前山の稲妻形の雪道を登って訪ねた。
 丁度折り悪く戸梶さんは、上芭露方面に出かけて不在であったが、奥さんに話
をすると、主人が果して期待通り知っているか否か判らないが、夜の雪道をわ
ざわざ訪ねてくれたと、日頃愛想のよい奥さんは酒まで出してくれて、待たせ
て貰っていると、戸梶さんが帰って来られ、早速話を切り出すと、戸梶さんは、
タマの良、不良は大いにある。良いところに気がついたと、図まで書いて説明
してくれ、タマばかりでなく、ヨツの良、不良、その使用方法まで詳しく話を
してくれ、気も軽くなって夜道を帰った。
 早速翌日から造り始め、四日で六ヶを仕上げた。一日十円也の賃金になった。
またそのタマを使用した人の、よいタマだという話を聞き、主任の上田さんは
玉根さんがこんな技術者であったのかとほめてくれた。いやいや、技術者は私
ではなく戸梶さんであって、私が現在使っているタマは、上白滝で子供の時に
見て作ったもので、ひっくり返るものであることから一夜、戸梶さんを訪ねて
秘訣を受けたことをすっかり話をした。上田さんは、世間にはかくされた名人
が居るものだなと感心をした。
 今、四十年昔の思い出を新たにして、戸梶さん御夫妻が今尚健在なら、是非
お逢いしてあの時のことを語り合いたいと思う次第である。
西芭露在住三十有余年の想い出 阿部 市太郎  私一家族は、北海道農業を思い立ち、山形県より昭和四年三月、最初に私と
妻よつ、長男貞太郎(三歳)を連れ、住み慣れた生まれ故郷を後に、希望を持ち
叔父様に当る白田丑松氏を頼り、白田氏が居住して居られる西芭露に向かって出
発したのです。其の頃は、石北線も開通して居ませんので、名寄廻りのため途
中名寄で一泊、其の晩は三月彼岸の頃とは申しても、名寄附近は大吹雪で又寒さ
も厳しく、寒いのは覚悟して来たものの閉口しました。遠軽駅到着は、確か三月
二十四日の昼過ぎの様に記憶しています。
 白田様宅よりは、養次郎氏が馬橇にて迎えに来て下され、早速便乗させて戴
き、雪解け道の特別悪い時なので、道はシャクリが沢山あり、ゆられ乍ら峠に
かかった。四囲は大森林で、大木ばかりの峠を下り、狭く長い沢を通り、分岐
点に出ました。此処から半道程上る。馬も大分弱った様に足の運びもおそくな
る。途中、何処の家の外がわにも、内地ではとても見られない。立派な木を割
った薪が幾敷も積んで居られるのを見て驚いたたのです。やがて、夕方叔父様宅
に着き、始めて草履をぬがせて戴いたのです。白田様宅にて十日余御世話に
なり、叔父様に御心配して戴き、其の後石山一二氏所有の薄荷畑三町歩程借り
受け、小作となりました。現在、峯田繁蔵氏所有となり奥の方に位置した処で
した。
 薄荷小屋を仮家に造り、謂ゆる掘立て小屋だった。夜は電気もなければ、下げ
ランプの光だけで、初めは淋しく思った。内地より来たばかりのため、知る人
も少なかったのと何も無かったので、近所の方々からは、野菜其の他種々と、
心尽し預かった。故佐藤作太郎氏宅からなど、馬鈴薯を土橇に山程積み、その
上馬を貸して下され運び、内地での馬鈴薯の収穫より多いなどと、喜ばせて戴
いたことも忘れることの出来ない一生の思い出です。
 雪が消えて畑に出るようになり、広々とした肥沃な土地であったが、荒廃地
でもあり、薄荷畑ではあったが雑草が多く、薄荷はあちらこちら少し生えてい
るのみであった。
 内地の仕事とは異なり、一時は閉口した位でした。
 五月に父母、祖母、長女来道して一家揃い、其の後は四人で慣れないなが
ら、朝早くから起きて一生懸命に働いた積もりでしたが、仕事は一向進まず、初
めは二畝か三畝程しか出来ず、雑草を見ては驚くこともしばしばでした。
 其の後佐藤作太郎氏が、石原氏宅より帰りには必ず草畑に立寄り、いろいろ
と除草の方法を手を取って教えて下さる等、心温まる指導をうけました。
 隣には千葉様の叔母さんが住んで居り、また現在の長屋政二氏宅があり、
薄荷畑には雑草一本見当たらぬきれいな畑で、真白いシャツ姿で働くのを見ては
うらやましく思ったものでした。
 其の年はお蔭で作柄もよい年でありました。而しながら私達家族にとっては、
不幸にも長女が亡くなり悲しみの年でもありました。
 石山様とは三ヶ年の小作契約でしたが、都合上一年だけで、翌五年には或る
人の世話により、当時村有地であった六線の宮田喜代松氏の跡地を引き受ける
ことになりました。
 昭和六、七年と冷害凶作の年が続き、救済事業等に出約して苦労しました。
 年を重ね、仕事にも慣れ面白味も出てきました頃、昭和十二年七月、支那事
変が突発して、薄荷刈りの始まる直前、私にも充員召集令状が来て、八月三十
日、部落民一同の歓呼の声に送られ一路征途につきました。
 留守宅では部落の皆様に多大なお世話に預り、只々感涙にむせぶのみでし
た。三ヶ年戦場にあり、昭和十四年帰還復員となり除隊致しました。
 除隊の日は、折悪しく大吹雪のため、道の無いところを青年団初め部落の皆様
の温かい心づくしがあり感謝の他ありませんでした。
 昭和二十年八月十五日、終戦の詔書が発せられた時は、部落中誰も仕事に手
もつかず、混迷の時節を経て、戦後再建の期は物資食糧の不足が続き、薄荷は
不急作物として減反の一途を辿り、其の頃、老巧化した校舎の改築の声が起り、
敷地、位置等のことで多少の経緯はあったが、昭和三十年十二月には、新校舎
の竣功落成式となり、近代的な校舎として部落一同喜んだものです。
 私にとりまして西芭露は第二の故郷でもあり、永久に忘れることの出来ない
思い出の地でございますが、皆様に御恩返しもせず、昭和三十六年三月、日高
管内平取町へ転居致し、今年で十九年になりました、
 光陰矢の如しとか、早いものですね。今年は西芭露開基七十周年を迎える事、
御目出度うとお祝い申し上げると共に、先輩各位の労苦に感謝申し上げ、今後
西芭露の益々の御発展を御祈念致し、私の思い出の一端にかえさせて戴きます。
芭露生活の思い出 宮田 富蔵  今年西芭露開基七十周年の祈念の年を迎えて、記念事業として記念誌の発刊
が行われますとの話を承わり、私も上、西芭露を通じて約五十年間お世話になり
ましたので、思い出も多く、実に懐かしい忘れ難い処であります。
 明治三十年四月、秋田県雄勝郡小野村桑ヶ崎字平城と言う寒村に生まれ、小
野尋常高等小学校の尋常四年を修業すると、直ちに隣り部落の菅野直吉という
人の所に奉公に出されて、生まれて初めて他人の飯を食わされて五年勤めた。
その後、泥温泉にて浴客の荷物の駄送等の仕事をして二十二歳の春まで勤務、
その間、大正六年徴兵検査を終えて、翌大正七年三月、生まれて育ち、住み馴
れた秋田県を後に、父や兄の住む芭露に移住した。この時初めて西芭露の住人
の仲間入りして、青年団にも加入して色々と指導を受けました。
 渡道して初めて造材山出稼ぎに行き、飯場生活も体験した。兄一家の居候の
身なれば年末整理の責任もないので、年末でも餅つきの心配もなくのんきに三十
一日に帰宅したこともありました。
 大正十年の春、花嫁を迎えて、その年の秋まで二人して兄の農業を手伝い、十
一月、上芭露四線の沢の久保牧場の造材跡地の未開地の小作人として裸一貫
で入植、将来はハッカ専業農家として頑張る考えで希望に燃えて開拓の第一歩
を踏み出したのですが、この時から苦難と耐乏の生活が始まりました。生活の
資金を得るために、ひと冬じゅう木材運搬をした。貴い労賃の不払いにも逢い、
また、愛児が死亡したり、将来優良馬になると見込みをつけて買った二歳馬が
急死したり、兄の生活を援助のため大切な馬を売ろうと年の瀬迫る時に北見に
行った事もあったりして、色々と不運に泣いたのですが、なりふりかまわず、
明けても暮れても粗食と重労働の連続で、目的の開墾に全身全霊うちこんで、
ようやく完成しました。ところが、何と言っても小作人の悲しさで鍬下の年限
が過ぎると高い小作料が徴収されるのと、管理者の横暴に不満を抱き小作人が
団結して自作運動を起こして遂に成功、多年の念願の自作農に成る事は出来ま
した。元来、耕地が狭くてもハッカ専業なれば何とか経営は成り立つけれども、
時代は変わって戦時のため食糧増産時代にて広い耕地が必要に迫られた時、都
合良く佐々木氏の二戸分十町歩を入手する事が出来たので、苦労して自分で開
拓して二十五年間耕作した土地を手放して、なつかしい青年時代世話になり知
人も多い西芭露部落に復帰することが出来たのが昭和十九年五月であった。戦
争の末期で食糧難時代でも耕地も広げて食糧を多く生産し、従って供出も思う
様に出す事が出来ました。
 いよいよ二十年、終戦となり、出征中の息子も復員して、次々と二人の息子
に嫁を貰い、稼働力増えて分家も出して安定した経営に移り、自家用の飯米も
充分生産したけれども、冷害に襲われる恐ろしさから冷害の軽微な地帯で米作に
専念したい希望にて空知、上川地方を物色中、幸いにも現住地を見つけた。永
年住み馴れて友人も多く、殊に両親や愛児の地下に眠れる芭露の地には強い借
別の情と未練はあったが、思い切って別れを告げたのが忘れもしない昭和四十
一年三月二十七日で、以来、空知の住人となって早いもので十三年になり、減
反、転作に苦しみつつも現在に至っております。
 顧みれば六十数年前、二十二歳の若者が単身渡道して、現在では子供は札幌、
函館、手塩、北見と広く散り、孫も各地に沢山居り、ひ孫も各地から出産の報
が折々入り、何れも健康で成長しつつある頼りを唯一の楽しみに老後を送って
居ります。
 私も長い芭露生活の中には数多くの思い出があり、一々書き切れませんが、
昭和二十六年部落駐在員として、無学無能な私には重荷ではありましたが、過
重な食糧供出の割当を受けてその責任の完遂には不安でしたが、幸いにも部落
の皆様の暖かい協力を頂いて供出百パーセント達成し得ました事は、忘れ難い
思い出であり、感激でありました。また、西芭露実行組合長を勤めさせて貰っ
た時も、組合員一同が援助協力下さった為に、無事欠点もなく職責を全うし得
ました事は感謝して居ります。また、若い血気の頃、大正十年西芭露幹線道路
工事の人夫に出て本職の土工夫の仲間に入り、モッコ担いで専門の土方と力比
べ腕比べしたり、遠軽峠越しの馬の尻をたたいて、馬は弱いが回数でこいと頑
張って賞を受けた事もあり、釧路の大楽毛市場まで馬を求めての旅をしたり、
人生の大半を芭露の地で過ごした私には、うれしい事、悲しい事、数限りなく
頭に浮かびます。
 目を閉じると、なびく程に良く繁ったハッカ畑、湯気立ち込める製造場風景
等が浮かんで来ます。一般社会の過疎化は西芭露にも及ぼしたけれども、時代と
共に作る作物は変化しても、堅実な伝統ある西芭露精神はあくまでも堅持して
開拓一世の労苦に報わるべく二世、三世の皆様の御健闘をお願いしまして、末
永く西芭露部落の繁栄を祈念致しまして拙い筆を止めます。
移住当時の思い出 村井 玉吉  私は大正九年に、岐阜県武儀郡乾村柿野より移住しました。 移住の初めは、
兄豊助が郷里に遊びに来て、其の時一しょに連れられて来たが、其の当時の青
森港は桟橋が無く、ハシケという小舟に運ばれて、沖の本船に乗り代えたので
した。
 こんなことで函館に上陸した時は身体が疲れたので、其処で一泊して、其の
頃当地に来る一番の交通路、池北線で今の北見、当時の野付牛を経由して、
遠軽へ到着しました。其処に一泊、当時、遠軽市街で馬追い(馬夫)の立寄る
四、五、六屋という飲食店がありました。其処へ行き、兄豊助が馬夫に頼み、
遠軽峠を越えて分岐点まで乗せて貰いました。
 現在は植林地となっている、西芭露の一番奥の兄の家に着きました。それ
は大正九年二月十五日でした。長い旅路の終わりでもあり、ほっとした安堵感も
手伝って、寒さが大へん身に沁みて感じました。
 其の頃は乗り物もない時代、兄が踏切の自転車を持って居ましたが、
道路も笹やぶを刈り分けた坂の多い道で、とうてい自転車の乗れる道はありま
せんでいsた。
 道路のことについて述べれば、大正十年の秋、西四線(藤根さん)より西芭
露二十九号線までと、遠軽へ通ずる二里十七丁の、巾九尺の道路が完成して、
交通の面に於て画期的な発展が遂げられ、住民は非常に喜んだものでした。
 其の頃は、まだ入植期よりあまり年代も離れて居りませんので、どこの畑に
も桂や楡の大木が、幹のまわりを鉞で切り廻されて枯らされて居りました。
 其の頃の生活としては、ストーブもなく、囲炉裏で薪は長いまつを燃やして
煮炊きをして居りました。当時をしのぶ言葉に、「粗衣粗食に甘んじて」と言
いますが、食糧は裸麦、小麦が主食で、夏から秋にかけては南瓜やトウキビ、
馬鈴薯がほとんどでした。
 販売作物としては薄荷ばかりでした。今、当時の薄荷造りのことを薄荷成金
などと言いますが、本当に成金になった人は余程運のよい人で、薄荷作りもな
かなか難儀なものでした。
 秋には関西方面から、大手の薄荷買商人が来て、北見、遠軽へと泊まり込み、
仲買人を使って買い集め、売る側も、朝と晩では可成りの値段の相違があった
りして、面白味もあり、喜ぶ人も、がっかりする人もありました。
 今の若い人々に、当時の住宅の話などしても実感が出ないと思いますが、其
の頃、大工さんにより造られた土台付きの住宅は、松村岸太さん宅、石塚勘蔵
さん宅、阿部義蔵さん宅だけでした。
 大正時代を経て、昭和五十数年にもなり、電灯電話、舗装道路の時代となり、
昔の生活は全く夢のようです。
 開基七十年を迎える時、この部落のますますの発展を祈念して、思い出の一
端を述べさせていただきました。
思 い 出 第三代校長
    今井 義雄
 貴部落開基七十周年及び西芭露校開校六十六周年をお祝い申し上げます。昭
和十六年から同二十二年まで、御承知の第二次世界大戦の最中に貴部落の人と
なり、学校経営に携わりましたが、戦争遂行の為、銃後の国民として、また、
学校経営者として全くの微力者であったことを深く反省しております。
 衣も食も配給制であった不自由さから、恵まれた農村部落に入った私達は、
前任地で泥の混じった澱粉かすのようなものを受けたことのある者にとっては、
有難い思いをさせて戴きました。
 以下、二、三の思い出を綴っていきましょう。
  (一) 初めての西芭露部落へ
 御地に赴いたのは確実には覚えておりませんが、急に発令されたので前任地
の校長も私も驚きました。 幸い、所用で来た義弟(原・・・後に上芭露校の主席
教員)に事情を話してしゃにむに興部校の教員にさせて、私は出発したわけで、
五月に赴任したのではないかと思います。
 当時部落区長の玉根産に御出迎えを受け、芭露から貸切バスで西芭露へ、
そして、もとの船戸さんのところから徒歩で百以上ある階段を上りつめて学校
に着きました。部落の歓迎を受けて、やっと部落民となったわけです。
  (二) 援  農
 たしか青森か秋田の農学校の生徒達が各農家に分宿し、働き手が応召して
畑仕事に困難を来たし、部落の淋しさも加えられつつありましたが、この若い
人達の姿が各所の畑にあったことは頼もしく、また、淋しさを紛らわすことも
出来たと思います。
 地元の学校も勿論応援すべきで、薄荷の除草が主な仕事でした。やったこ
とのない私も、フーフー言ってやりましたが、三年生にも負けてしまいました。
ところどころ蛇の死体があって、びっくりもしました。夏の暑い日の亜麻抜き
も、私にはこたえました。ですが、昼食やおやつの時のふあkしまんじゅう、う
どんやおそばなど、忘れられないおいしさでした。ビート汁の甘さは、当時最
高のものだったと思います。配給の佐藤はとっておきのものでした。
  (三) 学校と青年
 既に青年訓練所と言うものがあり、夜学でランプのあかりで教え学びました
が、また、青年団との交流にも色々な思い出があります。学校向かいの山を越し
て冬の日も雨の日も戸梶さん兄弟の通学、私も一、二度その山を越えたことが
ありますが、急で上り下りに苦労しました。
 盆踊りは、もと船戸さんのところで催されましたが、躍りつづける青年の楽
しそうな姿はいいものでした。然し、次々と召集されて青年の減少したことは
青年団の運営も困難になったりもしました。
 秋のお祭りは皆一生懸命に練習を積み、その発表を教室二つを通してやり、
部落の方々の楽しい一夜を過ごすのですが、事務室、住宅がその日の準備室に
なって、愚妻も何かにとお手伝いして少しは役に立ったようです。
 始めて赴任した年であったと思いますが、梅津さんの長女の方の歌声はちょ
っと聞かれない美声で大変印象が深いです。この方には、愚妻の父が仲人役を
つとめ、訓子府の方にお嫁入りさせたのも何かの縁と思います。飛び入りの須
藤さん、小泉さんの歌もすばらしいものでした。
 いつかの青年訓練所査閲に、上芭露で東芭露も集合して釧路連隊区の査閲官
に視察を受けましたが、私が徒歩で行くので、小泉さん(当時教練科指導員)
の自転車にのせてもらって行った記憶があります。小泉さん、あの時はどうも
有難う存じました。
  (四) 学校と戦時中、戦後
 戦時中であるから学校も色々なことを忍ばねばならぬのは当然ですが、先ず、
授業は軍の要請でしょう。イタヤの水を集めてある程度につめたり、また、ど
んぐり拾いなどをしたりして、授業ができなかったり、一、二時間しかやらな
かった日もありました。
 米国より贈られた親善目的のための青い人形はなくなり、米英の国旗を玄関
に置き登校下校の際土足で踏みにじれとの達示があったり、全く当時のやり方
は児童のきれいな心を踏みにじる何ものでもなかった。(文章が粗雑になりまし
たが・・・)
 戦争遂行の為ですから、教育事業もおざなりノート、紙などは配給、また、
ゴム長ぐつ、短ぐつなども学校が配給の仕事をやる様になり、月一回、まや二
回と役場へ受け取りに出かける様になった。配給の基準があるので履物などは学
校までの距離に応ずるものがゴム靴等で、一、二の不備の方もあった様ですが
止むを得ないことでした。
 色々な苦労をしましたが敗戦となり、修身科はなくなり、歴史の本は「国の
あゆみ」と変わり、本によっては間に合わせに国家主義によるものと考えられ
る言葉は皆、黒で消したものでした。体操などは、号令らしいものはできず、
秩序立った体操らしいものは影をひそめてしまった。算数の教科書などは西洋
紙の裏表を粗末な印刷で表紙もなく製本せずに、二、三回に分けられてあるも
のが多かった。混乱の教育は、ただ批判もなく、確固たる信念もないものであ
った。
  (五) その他
イ、赴任した年の冬でしたが、丁度ドラム缶よりひと廻り大きいタンクに、ス
トーブの燃え残り火を入れて置くのが、何だか、入っている消し炭がまっかな
おきとなる様な気がし、当時二晩三晩は夜中に起きてそのタンクの中をのぞい
たものです。
ロ、武藤先生の最も得意な時は、私しか誰もしらないでしょう。それは、試験
問題を刷る時で、西洋紙を二、三十枚手にして十枚ずつに分けて数える、誠に
立派な手さばきでした。若い時に印刷屋に勤めたことがあるとか言っていまし
た。
ハ、終戦になって帰られた村田正太郎君が、海軍は負けなかったのだと言われ
た言葉が耳に残っています。
ニ、私が志撫子校に転任を命ぜられて赴任する日、もとの船戸さんのところで
部落の皆さん及び生徒諸君と別れる時、工藤先生がしゃがんでしまって顔を上
げなかったこと、その時、児島和夫君が送ってくれたこと。
ホ、皆さんに志撫子校まで馬車で送られ住宅に着いたら、たく薪ができておら
ず、送ってくださった方が一応の薪をこしらえてくれたこと。その時、茶山さ
んが、志撫子の人に言われたこと。私は、迎えられざる校長であったようで、
当時の主席が後任校長に成ろうと運動していたことを後日わかりました。
ヘ、その後も暫く色々な問題がありましたが、そのつど、西芭露でのご厚情が
思い出されてなりませんでした。

 だんだん駄文になりそうです、これでご免ください。
回  想 第七代校長
   吉田  豪
 私が西芭露を去ったのはついこの間の様な気がしますが、時は流水の
如く過ぎ、早九年になります。しかし、西芭露在職中のことは、教職から離
れて札幌に居を構えた今も、学校に御協力を下さった皆様、個人的にも親しく
していただいた方々を懐かしく思い出します。
 五年間の在職中における一番大きな出来事と言えば、中学校の統合でした。
此の問題は、私の赴任以前からあったことでしたが、私の赴任後活発化し、四
十四年三月実施されましたが、この間PTAをはじめ、部落の皆様が校長の立
場を充分考慮されて行動下さった事は何にもまして有りがたい事でした。また、私
自身も教育長より説得を依頼された事もありましたが、学校と校下との間に波
風をたてることは、児童生徒の教育への影響を考え拒否し通しました。
 また、生徒への教育予算への差別をしない様、常に教育委員会へ働きかけた
ものでした。 いよいよ統合される見通しになったころは、先生方は全員転任に
なるわけで心中おだやかでなかったことと思いますが、最後までそれを表面
に出さないようにしながら頑張って下さったこと、また、統合後、備品や書類
の引き継ぎには小学校の先生方が協力して手際よく進めてくれたことなど、特に
印象に残っています。部落の方々の言語につくせない御苦労は、私の想像以上
のものがあったことと思います。
 今、当時をふりかえって、公私とも御協力をいただいたことを思い、思い出
と共に自分では一生懸命努力したつもりでしたが、結果はどうだったろうかな
と反省しています。
 最後になりましたが、西芭露校下の皆様の御多幸をお祈り申し上げます。
開校当時の思い出 美唄市にて 
     茶山 芳吉
 大正二年と言えば、東北、北海道は大凶作に見舞われた年であったように記
憶している。その年の九月一日に、西ノ沢特別教授場が開設された。私どもは
それまでは上芭露小学校(のちに、種馬所が設置された場所)に通学していた。
数人の仲間と共に約六キロを往復し、その年の夏は雷鳴が多く、南西の空に雲
が出ると毎日のように、同じような時間に雷が鳴り出したように記憶している。
放課後、南西の空を眺め、雲が出ていると、下駄を持ち裸足で走ったが、何し
ろ距離があるので簡単には我が家に着くことは出来なかった。当時は西ノ沢部
落の入口(栗山さんと言う家があり、後で藤根さんになった)から道路らし
いものはなかった。五、六十センチの道幅で、両側には一メートル以上の草が
生い茂っていて、一メートル二、三十センチの青大将が道路を横切っていたり
して、度肝を抜かれる事が毎日二、三回は繰り返されていた。
 夏休みが終わると西ノ沢特別教授場が開校され、九月一日に開校式が催され
たが、当時、来賓があったかどうか、私の記憶にない。私は三年生で、同級生
は六名か七名であったように思う。先生は一名で、網走方面で巡査をしておら
れた大塚先生で、五十歳位の小柄の人であったように思う。校舎は天井もなく、
外壁の板一枚で日光が節穴から射し込んでいたし、また、内壁の居たが張ってな
いので横のヌキが出ており、子どもたちがそれにのぼって遊んだりした。よく
先生に見つけられ、高い所は危険だからと注意を受けたりしたが、先生が見えな
くなるのを待っていたと言わぬばかりに、またのぼる。このようなことが毎日
のように繰り返されていたように記憶している。
 当時の全校生徒数は十八名であったと思う。そして、三年生の私どもが上
級生だったが、つぎの年には、私どもの上級生が三名位出来たような記憶があ
る。転入して来たものと思われる。その当時の校舎は、かなり高い場所に建っ
いて、これに通ずる道路も完全なものがなく、私どものように学校から下の
方からの者は、畑と畑の間の細道をいくつもの坂を上ったり下ったりして行き、
学校から奥の方から来る者もやはり同じように、斜めに上って来ていたので、
校門などはなかった。校庭には、大木の切株が数十本もあって、近所に住む若
者が大鳶口を持って来て、その根株を取ってくれたことが思い出される。その
当時の休み時間はどのように過ごしていたか、あまり記憶に残っていない。通
学をするにも完全な道路がないので、雨が降るとどろんこになった。幸いに大
自然を切り開くために立木を切り倒し、これを焼くか又は道路の両側に並べて
置いたのである。雨の日は、その並べてある両側の丸太の上を丁度猿のように
渡って歩いたものである。今考えると、貴重な木材を粗末にしたものだが、そ
の当時は、木の処置に困っていたようである。現代では想像もつかないことだ
ろう。
 多分、大正四年頃の秋であったと思うが、西ノ沢青年会が発足し、発会式を
期し開校以来初めての運動会が催された。何しろグランドがないので、学校の
下のハッカ畑を青年の人が奉仕作業で仮グランドを造成し、合同運動会が開催
された。秋晴れに恵まれ、来賓各位の祝辞もあったように思われる。いよいよ
競技が始まったが、部落民も少ないため見物人も少なく、児童の遊戯などの華
やかなものは全然なく、コースは縄を張り、その周囲を走る子供の服装もさまざ
まで、今考えると漫画そのものであったと想像をしている。終了時には、赤飯
の祈りをいただいたことが印象に残っている。
 開校当時、冬になると、昼食弁当が全員と言ってよい程ジャガイモであった。
これを教室に備え付けの薪ストーブの上に並べられる。ストーブは直径七十セ
ンチ位の円形、高さは四十センチ位であっとと思う。並べられたジャガイモ
は、各家庭で色も大きさも違っていて、他人のと間違うようなことはなかった
ようだ。燃料の薪は、父兄の奉仕作業でつくられていたようだが、何しろ必要
期になって切って貰うのでよく燃えず、焚くのに骨が折れたように思われた。
そして、風雪が強まると雪が吹き込んで、床も机の上も真白になり、子供等の
服装も現在のようにズボンではないので、下の方下半身がとても寒かったのが
記憶にある。
 当時の交通機関は、馬であった。本校(上芭露)の先生も乗馬で来られたし、
また、大塚先生も馬で本校まで連絡に行かれたように記憶している。その頃、
山の親父(熊)が学校附近に出没したことも数回あった。秋のある夜、先生宅
の飼犬が異様に吠えるので、住宅よりランプを戸外に持ち出してみると、学校
の裏のトウキビ畑を駆け出す物音がしたとの先生の話であった。昼休みに数人
の仲間と共に先生の指導で行って見ると、トウキビを踏み倒し、イナキビの穂
を足の指で抜き取って逃走した足跡が歴然と残っていた。あまり大きな熊
ではないらしいが、数頭で現れたことは明白であり、思わず見ぶるいしたもの
だった。
 次は私にとって忘れて成らないことであるが、確か五年生の時であったと
思う。下湧別村(現在の湧別町)において、農産物品評会と村内各学校の展覧
会が開催された事があった。勿論、当特別教授場からも大塚先生の指導で出品
してあった。どのような関係で決定したのかは、私ども子供の社会では知るよ
しもないが、僻地の子供達にこれを見学させてやりたいとの話になり、何日で
あったか記憶にはないが、秋の日の早朝、湧別に向かって出発する事になった。
参加者の人数は覚えていないが、十二、三名であったと思う。言うまでもなく、
下湧別までは二十四キロ位はあるだろう。現在なら車で十五分か二十分だが、
何しろ徒歩だ、五時間位は要するであろう。当然一泊しなくてはならないが、
ある篤志者があって、そこに一泊世話になる事が決まっていた。父兄の一人に
引率されて、現在テレビ映画の時代劇を見るあの子供役姿、長衣にワラジ履き、
秋も深まっているので、道路には水溜まりが多く、これを左に右にと迂回して、
やっと目的の湧別尋常高等小学校に到着したのは、午後三時ごろだったと思う。
私は、二、三年前までこの学校に通学していたので懐かしかった。先ずワラジ
を脱ぎ、教室に入ったが、私達子供には農産物には興味がないので、各学校か
らの作品を見ることにしたが、何れも劣らぬ作品に驚くばかりであった。約三
十分ほどで見学も終わり、再び旅装をして校門を後にして湧別神社に参拝した。
大木に囲まれ、重々しい感じであった。私は以前に数回来ていたので、ただ懐
かしさでいっぱいであった。秋の日はつるべ落としとやら、夕闇迫る頃になり、
一夜の宿を借りる家に着いた。先ず、足を洗う。今テレビ映画で見る木製のタ
ライが出されていたようであった。そして、部屋に案内された私ども開拓地の
子供には畳が珍しく感じられた。現代の子供さんには想像もつかない事だろ
うが、当時の西芭露では畳の上で休む家庭はあまりなかったのではなかろうか。
夕食後は、若い娘さんが、お嫁さんであったか、私どもにはよくわからなかっ
たが、その人がリーダーになって輪をつくり、唱歌やゲームをして、味わうこ
とのできない楽しい数時間は過ぎ、九時頃疲れた体を横にした。翌朝は七時す
ぎ、まだ濡れている足袋とワラジを履き、宿の人と別れ、帰途に就いた。四号
線の十字路で小休止、そこの商店で田舎の子供には珍しいキャラメルを、家
への土産として買った。そして、とぼとぼと膝栗毛で歩き出す。天高くの秋空
を一群の雁が西ノ空に消えていく光景が印象的で、私の頭の中に六十数年も前
のことがはっきりと残っている。拾い湧別平野も歩を運ぶに従って消え、次第
に両側は密林に変わり、遂には山に囲まれ、晩秋の太陽はつるべ落としとやら、
私ども一行の影も長く地に落とし、ようやくにして紅葉も落ち果てた淋しい夕
暮れ時、我が家近くに辿りつくことができた。そして、一泊二日の旅は終わり
を告げ、皆とお別れしなくてはならない時が来た。その時の引率者の言葉、「ど
うも長い道中ご苦労であった。本当であったらお宅まで送りとどけて責任を果
たすべきだが、ここで別れる。家に帰ったら家族の皆さんによろしく伝えてく
ださい。そして、今夜はゆっくり休み、明日は学校を休まないように。」この丁
重な言葉には私は強く胸を打たれ、今でも私の頭の中に浸透している。その時
の引率者は船戸さんという人で、当時は学務委員と言ったように覚えている。
現在のPTAと同じようなものでないかと思うが、その人も今は彼の世の人と
なられたものと思うが、心から感謝している。
 思い出を書くにつれ、次々と懐かしい状景が浮かんで来るが、下手の長談義と
やら、このへんで終わることにする。
 終わりに、同級生の諸氏よ、お健やかに、そして多幸であることを祈り、ペン
を置く。
西芭露のむかし 五年  長屋 金喜  ぼく達の住んでいる西芭露は、開拓されてから今年で七十年になります。
今、ぼく達は何不自由なくくらしていますが、開拓時代の人々は、どんなに
つらい思いをして、この西芭露を開いたことでしょう。
 「西芭露のむかし」という題で、そのことを調べることにしました。
 ぼく達の学校の前に、大きな石ひが立っています。それには、ぼく達が知ら
ない人の名がおおぜいほってあります。調べた結果、それは西芭露の開拓者の
名だということがわかりました。ぼく達のおじいちゃんや、そのお父さん達で
す。
 西芭露の開拓がはじまったのは、ぼくのおじいちゃんが、はるばる岐阜県か
ら親につれられてきた大正七年より十年も前のことだそうです。
 現在、家のたっている所も、道路も、畑も、そのころは大きな木が空いっぱ
いに枝をひろげ、人間の二ばいもあるささやふきがおいしげって、ひるでもう
すぐらかったと聞きました。
 その大きな木をオノで切りたおし、切りかぶを掘りおこして、ささといっし
ょに焼きはらいました。ときには、ぼく達子ども十人ぐらいでかかえる大木も
あって、二日間かかってやっと切りたおしたのもありました。くわとオノだけ
が道具だったのです。
 そのころの家は、切りたおした木を何本もななめにし、その上にぶどうのつ
るだとか、草をのっけて雨をふせぎました。一番かんじんな食りょうは、そう
して開いた、わずかな併置にトウモロコシやいもをまいて食べていました。
 次にぼく達の学校のことですが、むかしは今のようなりっぱな校しゃではな
く、名まえも「西の沢特別教授場」といい、今ぼくの家の牧草畑のあたりにた
てられていたということです。それでもおじいちゃんのころは、生徒が四十五
人ぐらいいたというのですから、今よりおおいわけです。
 生徒が学校にかよう道は、川ぞいのささをかり分けた道でした。雨が降ると
すぐぬかったり、川がはんらんして、学校がすぐ休みになったりしました。そ
れでも、理科の時間に、川に魚とりにでかけたりして楽しいこともあったよう
です。
 服そうは、着物にもんぺで、夏はしなの木の皮でこしらえたぞうり、冬はお
なじしなの木の皮でこしらえたつまごをはいて、ふろしきにつつんだ教科書を
かかえてというかっこうでした。
 こんな話を聞いたり、調べたりしていると、ほんとうに大へんだったろうな
と思います。ぼく達がこうしてべんりなくらしができるのは、苦ろうして開拓
の仕事をした人々のおかげだと感謝をしなければならないと思います。
タイム・マシン 四年  佐藤 輝美  ぼくは、タイムマシンで、今から七十年前にもどろうと思いました。それは、
ぼくたちの部落がひらかれて、今年がちょうど七十周年だと聞いたからです。
 さっそく、七十年前にもどるためにマシンに乗りこみました。いよいよ、出
発です。目の前に、十年前、二十年前、三十年前と書かれたボタンがならんで
います。
 ぼくは「七十年前」のボタンを強くおしました。すると、いつのまにか、
七十年前の西芭露にきていました。でも、西芭露とはよばずに、「西の沢」とよ
んでいました。
 まだひるだというのに、西の沢は、もうまっくらになるほど、大木やささや
ぶがはえています。
 ぼくのおじいちゃんのおとうさんが、開たくにきました。じいちゃんは、まだ
子どもで、わふくをきて、げたをはいています。女の子はぞうりです。冬は、
もんぺとつまごです。
 じいちゃんたちの遊びは、魚つり、山登り、おにごっこやじんとりなどで、
女の子たちは、あやとりやこままわしで、とても楽ししうです。
 学校に行ってみました。かんばんは、「西の沢特別教じゅ場」です。教室は
一つで、体育館はありません。体育館がないと、ふべんだろうなと思いました。
先生はたった一人で、生徒は四十人ぐらいいました。
 この西の沢には、五十けんぐらいの家があって、人口は三百人ほどです。今
の西芭露の二ばいもいるのに、びっくりしてしまいました。
 みんな、のこやおので、木を切りたおし、かまでささをかって、まるぐわで
畑を作っていました。できるだけ、平らでよいところをえらんで畑にしていま
す。作物は、ほとんどがハッカで、すこしは、かぼちゃやばれいしょ、むぎな
どもうえていましたが、なかなか大へんだろうと思いました。
 だいたいのことがわかったので、ぼくは帰るためにまたタイムマシンに乗り
ました。こんどは「昭和五十四年」と書いてあるボタンをおしました。
 道ろには、自転車が走り、畑にはトラクターが、どの家にもテレビのある西
芭露にもどりました。

topへ

          座 談 会
                                                  「往時を語る」
                                          主  催  西芭露老人会(会長 伊藤留作)
                                          日  時  昭和五十四年四月二十九日
                                          場  所  西芭露  寿の家
                                          出席者   西芭露老人会々員
                                                 村井豊助氏(上芭露在住)
                                                 茶山秀吉氏(遠軽町在住)
                                                 高橋  哲氏(西芭露小学校長)
                                                 池田恒夫氏(西芭露小学校教頭)
会 長   雪どけがおくれましたが長い冬も去り、ようやく春でございます。
そして今日は昔流に言うと天長節でございます。さて、部落の元老の
お元気のうちにと、かねて心がけておりましたが、なかなかその運び
に至らず本日になりましたが、八十のお齢をとっくに越えられた御高
齢の村井さんが、御不自由な足にもめげず本当にお達者で「昔の話を
いっしょにさせてもらえるのが嬉しく喜んでまいりました」とお出を
いただきありがとうございました。
 部落拓けて七十年、この七十年を通して記念誌をつくろうと、だい
たいの資料があつめられましたが、いまひとつ、開拓の”四方山ばな
し”といったものを添えてみたいと思うのでございます。それで荒山
を拓いた当時の苦労話、そうした名家電お部落づくりとでも申しますか、
そのへんの事情を思い出しながら、しばらくの間、聞いたり聞かれた
りの楽な気持ちでお話し合いをしていただきたいと思います。
 それでは、佐藤さんからひとつ話の糸口をつけていただきたいの
すが・・・。
佐藤豊太郎   村井さんは若くして区長さんになられたので、たいへん苦労も
多かったと思いますが、その間一番印象に残っていることと言え
ばどういうことでしょうか・・・、やはり上の方にあった学校建築
にまつわることでしょうか。そのへんの事情は茶山さんもご存じ
と思いますので、お二人でお話下さいませんか。
村井豊助   西芭露の学校は大正二年、西ノ沢特別教授場として発足したのだ
が、その後生徒数も増え教室も足りないということで、昭和十四年、
小学校昇格の運動と共に校舎の新築が問題となったが、敷地がせま
く、そのためには、教授場に隣接する梅津さんの土地を分けてもら
う必要があった。やはり私は、大正十五年に新築した小学校のこと
に思い出が多いですね。
佐 藤   小学校の昇格運動には網走支庁まで出かけたのですが、その時でし
たか、佐々木直太郎さんがけがをされたのは・・・。
茶山秀吉   そうです。そのとき、お酒の好きな滝田先生がいっしょで、網走
の旅館で一ぱいのみ、階段から落ちてけがをしたということです。
佐 藤   そのときは、村田重蔵さんもごいっしょでしたか。
茶山秀吉   いや、村田さんは大正九年ごろ白滝に引越しされたので、このとき
は同道されていないはずです。
石山信治   古い話ですね、私の父は大正二年の入植だったが・・・。
佐 藤   大正二、三年、そのころはまだ通い作の人が多かったのだろうか、
定住されていた人にはどんな方がおられたか・・・。
石山信治   一番奥に外島さん、次が私、そして大岡、宇野、船戸さん、ずっと
こっちへきて阿部さん、阿部さんと私のところは前後して入植しまし
た。通い作では南達さん、小泉さん・・・だろうか。
池 田   そのころは何戸ぐらい入っていたのですか。
茶 山   私も大正二年だが、二十九戸ぐらいだったな。
 石 山   大正二年という年は、部落の独立総会、教授場の開設、神社の建立
と、西芭露部落発展の記念すべき年と言える。初代の区長は千葉仲助
さんだった。
村 井   さて、その学校問題にもどるが、一番の懸案は幼稚のことだった。
茶 山   そう、小学校の昇格と新築には敷地を拡げることが第一の条件で、
私はその時分、まだ若かったのでよくわからんのだが、村井さんは年
長者でもあり部落の役員でもあったので、相当苦労されたことと思い
ますよ。
佐 藤   敷地を拡げるには、どうしてもうしろに拡げなくてはならんので
難儀したことでしょう。
村 井   そこで梅津さんに、巾を十間拡げるために土地を分けてもらえんか
と交渉したのだが、婆さんにずいぶん叱られた思い出がある。
茶 山   あのお婆ちゃんは元気だったからな。
佐 藤   もっとも、それ相当の金を出すというのでなく、寄付してくれというの
だから虫のいい話だよ。
村 井   そうなんだ、しかし、土地は要る。かれこれ五、六回くらい足を運ん
だな。
佐 藤   ところで、この学校新築には運動費もずいぶんかかり、当時そうとう
の批判を受けたということを聞いているのだが・・・。
村 井   うん、学校新築についてはすでに村議会で否決されていたことを復活
させようというわけで、部落の石山議員と共に、村会議員全員の戸別
訪問をして陳情した。そんなことで約六百円ぐらいはかかったろうね。
今とちがって車があるわけでなし、戸別訪問もテクテク徒歩だ。十一日
間も北湧館という旅館に宿泊して、ねばったのだから金もかかったわ
けだ。
佐 藤   当時は国の交付金なんかあったのだろうか。それともすべて村費で
まかなっていたものだろうか・・・。
茶 山   交付金など無かったようで、だから村としてもそうとうしぶっていたよう
だ。
村 井   まあこんなに金のかかる大仕事なので、部落の総会を何度も開かね
ばならなかった。
茶 山   総会はずいぶんもめてね、八鍬さんという人が、この運動費につい
て総会も開かずそんな大金を使うなんてとんでもない、今後は役員
会ぐらい開いて承認を得るべきだと、と強い意見を出した。そ
のとき、石山議員も興奮して、そうまで言うなら俺が自弁すると意気
まく一幕もあったりして・・・。
村 井   金はかかったが、待望の学校建築が実現することになったのだから
と、最後はみんなも了解してくれました。
佐 藤   さて入札額はいくらでした。
村 井   入札のとき私も札入れしたが、結果は中湧別の早川さんが落札した。
たしか四千六百なにがしだったはずで、私のは二番札で六十円の敗
だったね。
高 橋   工費は決定したが、その金のでみちはどうしました。
佐 藤   茶山さん、そのときは起債などあったのですか。
茶 山   起債などなかった。部落でも寄付として何割か出すことになった。
村 井   寄付は千五百円くらいだったと思う。運動費と合わせると二千円を
超したのだから、半分近く部落で拠出したことになるわけで、これ
は大へんなことだ。
高 橋   その頃は、いわゆるハッカ景気で部落は相当金まわりが良かったん
でしょうね。
 茶 山   たしかに金もあったようだが、それよりもみんな開拓精神が旺盛で、
裸になってもやりとげたいという気持ちだったわけですね。金ばかりでな
く労力奉仕もたいしたものでした。高台の傾斜地をならす仕事に、当
時リヤカーもなく、つるはしとモッコ、馬車をもち出して、それをみ
んなで引っ張って精を出したものです。
佐 藤   校庭の二宮尊徳の銅像は、紀元二千六百年記念のときだから、昭和
十五年でしたが・・・。
茶 山   あのときも村井さんでなかったかな・・・。
村 井   遠軽の吉川石材店に制作依頼をしたのだが、あれをつくるには見本
がいるということで、主人が旭川まで出かけて、合金の模型を買って
きて、それをもとにこしらえたといういきさつがある。
佐 藤   それからでしたか、今の神社の神殿を改造したのは。
村 井   うん、その前後だったか・・・。
茶 山   はじめて神社を建立したのは大正二年だった。私が入植したのも大正
二年で、神社の一隈に、明治天皇崩御御遙拝式の跡があったのを記憶
している。そのころ、ニュースが耳に入るのはずいぶんおそく、明治
天皇の崩御、乃木将軍の殉死などの大ニュースもかなりおそくなって
から知ったものでした。
佐 藤   二宮尊徳像、神殿、頌徳碑の建立経費はいずれも百六十円だったの
でおぼえている。
村 井   ほかに道路の問題等もいろいろあったが、学校問題が一番難儀だっ
たので印象深い。
・・・・・・・・・・・・・・・・ここで遠佐線の話が出る・省略・・・・・・・・
池 田   開拓当初の住居、着手小屋と呼ばれているものについてはどんなふ
うでした。
佐 藤   今みんなが住んでいる家は、どうだろう、二、三回建て替えられて
いますよね。
大隅政雄   着手小屋は掘立てで、屋根も、側も長柾だった。すき間風がひど
くどの家も冬は雪が入りこむ仕末だった。
池 田   その着手小屋を、今再現して子どもたちに見せるのは意味があると
思うのだが・・・。
佐 藤   そうだね。できないことはないが、今となっては材料がないだろうな。
池 田   その掘立て小屋が、土台つきの家になったのはいつごろですか。
大 隅   土台つきの家を建てるようになったのは、大正九年になってからだ
った。
池 田   当時、柱とか板とかの製材はどうしてましたか。
茶 山   製材なんてできなくて、みんな丸太をもってきて、柱はまさかりで
削り、板は手引きしたもんです。浅井さんは大工だったので、地所の
樹をあれは床柱に、これは棟木にというふうに、家族に指示して残さ
せ、後にそれを材料に家を建てたね。
高 橋   こうして話を聞いていると、たいsかにたいへんな苦労はあったにせ
よ、学校建築とかそのほかいろいろな事業をやってのけたのは、やは
りその頃のハッカ景気で、部落に経済力があったわけでしょうか。
佐 藤   この頃になると、西芭露はハッカ専門で、このハッカは投機的なも
のだから、ただにちかいような値のときもあったが、自分達が驚く
ような高価のときもあった。
高 橋   記録によると、学校を新築して五、六年目に、二年つづきの大凶作
がありましたね。そう、満州事変がはじまったころ・・・。
佐 藤   大正二年にも凶作があって、入植間もないときで、米はおろか塩を
買う金もないといったありさまだったが、以後ずっと作は悪くなかった。
 そして大正六、七年と凶作に見舞われた。しかし、昭和七年のとき
ハッカは半作ぐらいあったろうね。
大 隅   そんなにあったかな。
佐 藤   作はたいしたことなかったが、ハッカの値段が暴騰して何とかしの
げたね。前の年はとれないところに値が安く、みんなまいったもんだ
った。
・・・・・・・・・・しばらく景気の良かった時代のエピソードが語られる。
        ハッカ御殿とか百円札などということばが出る・・・・・・・
高 橋   それから、よく”三菱の山”と言うのを聞くが、これと西芭露の人
々とのかかわりはどういうものでしたか。
佐 藤   三菱の山というのは東側の山のことで、千四百五十町歩ほどあった
が土地は三菱のものでなかった。
大 隅   山は川上という人の所有だったと聞いている。
佐 藤   三菱の仕事が終わって、山の所有権が徳川家達に移り、噂でそれが買
えるのでないかということで、当時、軽川に居た徳川の支配人某とそ
の山の売買について交渉した。大正十三年春に、喫約は順調に運んで、
初めは全部買うつもりだったが、みんなの希望をまとめてみると、そ
の半分の七百五十町歩になり、反当り十円、七万五千円、三年年賦支
払いという約束が成立した。今にして思うと測量もしないで、「お前、
山買わんか」と声をかけて決まったことだが、よくまとまったものだ
と感心するね。今なら絶対にまとまらん話さ。さて、大正十三年、
十四年と二回支払いをしたが、三回目は不作の年で支払いが困難だっ
たので、延納について東京の本店と交渉したところ、一二回の金が
入金されていないことがわかってね、しかし、こちらには領収書もあ
るので、残金について、今度は直接本店と個人毎に喫約をすることに
なった。
会 長   いまわれわれが持っている山には、そんな経緯もあるわけだね。
さて、話はつきないわけですが、また後の機会にゆずるということで、
校長先生、如何でしょう。今までの話をお聞きになって感想というか、
それをまとめにして、一応この座談会に区切りをつけたいと思います
が・・・・。
高 橋   そうですね。いろいろ興味深いお話をうかがっておもしろかったの
ですが、やはりここの開拓は、最初に話題になった学校建築のこと、
つまり、教育をだいじな柱にされていたということが感銘深いですね。
殊に、この地の入植事情は、他に見られるような団体での入植ではな
く、内地の各地からてんでに入って来たわけですよね。そうした人が
相寄り、助け合って、一家族のように団結して開拓にあたられたとい
うことはすばらしいことで、その気風が今の西芭露に受け継がれてい
るんだなとしみじみ思いました。
会 長   それでは、みなさんどうもありがとうございました。



 このほかに多勢の方々の御発言や、話題も数々
 ありましたが、紙幅の都合で割愛させていただ
 きましたが御了承ねがいます。

topへ