拓湧八十五年史  四の二自治会

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                                         第3章 社会・文化


                    第1節神 社  第2節宗教・記念碑 第3節史 跡 第4節文 芸 第5節文化施設及兵事 第6節社会団体 第7節生活・文化



第3章 社会・文化    第1節 神  社 
     1項 北見天満宮
  全国各地から、志願した屯田兵が家族と共に、当時異境と云われた、オホーツクの北辺の湧別原野に、先祖の墳墓の地を離れ、そして近親や、知人と別れて移住して来ただけに、敬神崇祖の念が殊に厚く、開拓も進み人口の増加に伴い、日を追って発展を見るにあたり、期せずして神社建立の議が起こり、植村与惣冶、平野嘉吉、野口寿一郎、平岡鶴松、髙橋鉄五郎、菊地勤、大川徳蔵、瀬古清次郎、志方市治、菊地明十郎、小野金治、髙橋五三郎、の各人が発起人となり、部落融資の寄附金を以て、南兵村二区中央東方山麓の部落を眼下に眺望できる景勝の地点に神殿の建設を計画しました。
  明治35年11月25日に神殿の施工を終わり、祭神は、京都北野天満宮、菅原道真公の御分霊を奉載し、神社名を北見天満宮と称し、当時の監督将校、鈴木中尉を初め、屯田兵と多勢の家族が参列して、おごそかに遷宮されたと言われています。(初代総代 平野嘉吉氏の「メモ」から)。
  爾来、毎月の月並祭、6月12月の大祓、10月25日の大祭には、岩佐伝親祭(湧別神社宮司)菊地九十九、平野嘉吉の両氏の奉仕、氏子多数の参拝者で盛大に厳粛に行われました。
  日露戦争で、一家の中心である屯田兵が充員召集された留守家族が、戦勝祈願と出征兵士の武運長久、無事帰還の祈願に、日中のきつい作業の疲れを忘れお百度参りをして、ひたすら神の加護を願ったといわれております。
  明治38年11月から、良く39年2月迄に輝く戦勝で凱旋された兵士を迎えた家族の歓喜は、頂点に達し、旗行列、提灯行列が神社に繰り込まれ、感激のあまり、女の裸踊りさえあったと云われている。(石田ふゆさん語る)

  拝殿の建築
  大正13年の総会で天満宮拝殿の議が起こり、左記の人が選任されました。
  建築委員長 池田佐右衛門
    委 員 平野嘉吉、菊地九十九
    会 計 小野金治
    神 官 岩佐 伝(湧別神社宮司)
    神務係 菊地九十九
    施 工 渡辺熊次郎
   部落区長 池田佐右衛門
  大正13年7月25日竣工、部落民挙げて盛大な落成式が行われました。
  軽費は、部落氏子の寄附と労力奉仕によるものです。

 2項 神殿の改築
  昭和3年に神殿が改築されました。
   建築委員  平野嘉吉、平野嘉平、川副卯七郎、小野金次
   区  長  池田佐右衛門
   神  官  清水彦吉Z(上湧別神社宮司)
   契  約  8月10日
   金  額  2百8十円
   施  工  渡辺熊次郎
  昭和3年10月25日次第に落成式が挙げられました。
  社務係として初代、菊地九十九、平野嘉吉氏が選任されましたが、昭和2年菊地九十九氏物故後は、神社総代として、昭和34年まで平野嘉吉氏が選任され、昭和44年までその人に当たりました。

 3項 総代制の改革
  昭和44年の部落総会で神社総代四人制となり、次の方が選任された。
    平野 浩  城岡嘉蔵
    花木利雄  國枝 清
  昭和50年には         昭和54年には
    城岡嘉蔵  國枝 清       城岡嘉蔵  松川寿夫
    池田英隆  松川寿夫       國枝 清  天野健一郎

 4項 神社の維持運営
  天満宮建立以来約80年にわたる間、氏子として歴代部落会長(区)が主体となり、社務係(総代)の奉仕と、氏子の敬神の強い協力で立派に護持されて来ました。 神社建立以来毎月の氏子あげての清掃奉仕により、神社の尊厳を保ち、春の桜や梅、つつじの花の競い咲く季節には、部落の老若男女棟の花見の場となり、秋の例大祭には参道に数多くの幟が立ち、夜は立ち並ぶ行灯に火が入り、青年の芝居等に親戚、知人等多数集まり親睦融和の場となり、屯田兵の遺風を継承し敬神崇祖の念が培われて来たが、大東亜戦争で惨めな敗戦国に転落した二本が、時代の流れと社会的風潮に押し流され、敬神の念が薄らいできたことは淋しい感じがしてならない。
  昭和44年以降は前述のように、氏子総代の改正により、月並祭を廃止し年間6行事により、神社の護持運営が為されています。
   一月 元日祭   四月 祈願祭   六月 大祓式
   八月 例大祭  十一月 感謝祭  十二月 大祓式
  上湧別神社宮司の司祭により、各総代の奉仕、自治会長を中心に氏子の参拝により実施されている。 夏季間は随時氏子の奉仕による清掃護持につとめており、自治会は、公園化の企画を進めて居るようです。

 5項 相馬神社
  日支事変以降、大東亜戦争が長期に亘るに従い、地方産業伸展の上にも、軍馬補給の面からも強い余旺盛に応えて、異常な生産馬の上昇を見ることになった。 従って、良馬の生産と馬体安全の守りの神として、信仰厚い四の二、四の三両部落の人達が協力して、相馬神社が建立されました。
  建立は、昭和40年、場所は、基線20号線南側で、元南湧校の奉安殿です。
  祭主は、四の三部落が隔年交替で8月15日に、上湧別神社宮司、神祭で祭典が行われ、愛馬関係者多数の参拝者で荘厳に行われました。
  諸経費は、上湧別農業協同組合の南湧種馬所の関係からの支出と、特別寄附によるものです。
  終戦後、馬の需給度の旧衛gキナ減少による馬産減退に伴い、昭和43年には上湧別神社に合祀されました。

 
topへ  第2節 宗教・祈念碑
 
     1項 日露戦役祈念碑
  湧別屯田兵は、明治36年3月31日解隊され、後備役に編入されましたが、翌37年日露戦争が始まり、未だ開拓途上の明治37年8月4日、屯田兵はじめ兵籍にある者は殆ど動員下令をうけて8月30日までに入隊の為、それぞれ家族や、近親に別れを告げて勇躍入隊したと言われているが、召集令状、受領してから入隊までの期間が短く、生別、死別の悲痛な現実に、行くのも、送るのも無我夢中で涙すら出ない位であったと、当時幼い四人の子供を、かかえてどうなることかと、途方にくれたと戸主の妻、石田ふゆさんは、当時の思出を語っていました。
  屯田兵である一家の中心が召集されたので、あとに残されたのは老人と幼い子供達ばかりであったので、銃後にある妻の座は筆舌に尽くせない、きびしい生活であり、移住して間もないので、お互い親類、縁者が少なく、同じ立場の井戸組の人達と互いに慰められたり、励まし合って出征軍人の妻であることを誇りとして、必死の努力で銃後を守ってくれた御苦労の程は、想像に余りあるものがあります。 又、その蔭に、板垣与太郎、髙橋巳之助、門馬伊太郎、佃 与八の5氏が名誉の戦死をされて居ることは、わすれてはならない痛恨事であります。
  日露戦争は、屯田家族にとって密接な関係があることから、このことを永く記念する為に、天満宮境内に「日露戦争記念」とおおきな標柱が建てられていましたが、腐朽したので、大正15年7月25日小野金次区長は部落民と相計り、これが実施に当たっては、在郷軍人四の二班長井上徳嘉氏、南湧青年会長、平野 毅氏等が中心となり班員、会員、相協力して、天満宮境内に「日露戦役記念碑」が建立されました。 碑文は、真言宗米本竜厳師の書により、施工は、横幕石工でした。
  「日露戦役記念碑」建設関係者は次のとおりです。
  設計委員  小野金次(区長) 池田佐右衛門 平野嘉吉
  賛 助 員   平野嘉平 川副卯七郎 八巻半右エ門 上松三男平
        坂田末松 菊地九十九 佐藤庄左衛門 城岡太助
        麻植長左衛門
  建設委員
    在郷軍人 井上徳嘉  石田友一
    青年会  平野 毅  岩本亀太郎 池田憲弥 川副辰雄

 2項 馬頭観世音
  湧別屯田兵が、明治30年、明治31年に未開不毛の地に移住して、官給品の鍬や鋸、まさかりで原始林の巨木や、広い原野の開墾に従事した。 屯田兵や家族の労苦は、現代では想像のできない悲惨なものであったと思われます。
    (現在上湧別町資料館に保存されている)
  従って、開墾を始めて交通に、物資の輸送に、必要の条件は農耕馬の導入であったと言われて居り、本町での馬の飼育の始まりは明らかではないが、屯田中隊の連絡上の乗馬歩兵用として南兵村に「4頭」の馬が配置され、南兵村一区では屯田兵、平間鶴松氏がその衝にあたり、これが馬の飼育の始まりとなって居ります(兵村誌より)。
  湧別屯田兵が移住して馬の飼育が異常なくらいに増加したことは、道産馬が割合に低廉な価格で入手出来たこと、農耕馬による開墾、農耕の高能率と、交通に物資の移送に、絶対の必要に迫られ競って馬の導入につとめ、日露戦争から帰還して一時金の支給もあって、馬の購入は積極化され、馬産振興の基をなしたと言われています。(町誌から)
  部落の中で早く馬を求めたが、金13円であったと、屯田兵の妻、石田ふゆ氏が語って居る。
  南兵村二区は、兵村の中でも立地条件に恵まれ、また、馬に対する先覚者でもある岡山次郎吉、花木銀松氏等のはたらきかけが活発に行われたので、本町内の馬の導入が早められたといわれています。
  また、特筆すべきは、岡山次郎吉氏「上湧別にはじめて種牡馬、花椿号(ベル系青毛)を導入飼育し、交配に努めたが、その後、五中隊三区の西潟徳治氏の手に移りましたが、これが本町の馬産の基礎をつくったので、その功績は大きなものがあると言えましょう。その後農耕馬ににつぎ、日露戦争は軍馬の育成や、又、地力維持、農業基礎づくりと、本町産業開発のためにも、その貢献度が実に大なるものがあります。 従って各部落では、馬頭観世音を建立して馬体の安奉を祈り、斃死した馬の供養等につとめたのです。
  南兵村二区部落では、大正10年8月、区長平野嘉吉氏が部落民と相図り、基線20号線地先の、片平兵十郎氏所有地を借り受け、馬頭観世音を建立しました。 そして、お盆に僧侶による供養行事が行われたが、それが今日まで続けられて居ります。
  正面の馬頭観世音の書は、平野勇助氏、施工は横幕石工であります。
  昭和29年部落公民館敷地内、南西部に移転しました。
  明治から大正、昭和の中期までは、家畜として、また農業の原動力として、本町産業開発の一翼をになった重要な存在であったが、大東亜戦争の敗戦後は、機械科時代に替わり、馬の生産も急激に減少の一途を辿り、僅かにレジャー用(輓馬)にとどまり、遂には食肉酔おうに供される等悲哀の結末に終り、今はただ空しく、馬頭観世音は風雪の中に淋しく安置されて居ます。

 3項 稲荷大明神 鶏権現、地神、山神
  稲荷大明神  (五穀の神で農作祈願のため祭られる)
         祭主  岡和田幸一  岡和田幸一 宅地内
  鶏 権現   祭主  菊地 勤   神社境内
  地 神  (作物の神)
         祭主  麻植平冶   麻植平冶  宅地内
  山 神  (安産の神)
         祭主  板垣 隆   板垣 隆  宅地内

  明治44年4月、先代の祖父が屯田の二給地(現屯市地内)の耕地を農作業中、突然考えられない様な軟石の長方形の大石が埋もれているのが発見された。 あまりにも変わった形の石でもあったので、なにか謂われの有る石に相違無きものと判断して、当時の巫女さんに見て貰ったところ、神になりたい方であるとの仰せであったので、山神と命名して、其れ以来(毎年旧10月12日)を祭日として祭祠を続けている。
  当時の神官は湧別町の岩佐 伝氏のみで有ったため、其れ以来現在に至る。
  当時は交通の便が無く、神官は乗馬で御足労を願ったとか・・・。 年代と共に祭主も3代に替り、宮司も3代目に変わった。 年月は早いもので、創立以来70周年を迎えた。 毎年行事は続行中である(祭主 板垣 隆 伝言を語る)。

 4項 七福神
  大正3年頃、当時区会議員で有った平野嘉平氏が、官林の下(8号沢奥、通称青木山)町有林約8町歩を公売入札し払下げして入手したのが事の始まりであった。
  当時、部落内の気心の知れた同志、所謂る飲み友達、池田佐右衛門、川副卯七郎、平野嘉平、小野金次、石村勇助、板垣藤七(以上7人)が、毎年秋に成ると、払下げをした山林に青木の年々育ち行く姿を眺め楽しむ為に、一升を下げ乍ら8号沢の山奥迄行き、一同が和気あいあいのうちに一献交し合う事が唯一の楽しみであった。 然し、年を重ねる毎に屯田の戸主さん達も山登りが大変になって来たので、後になって毎年持ち廻りで宿を変え酒宴を開く事になった。
  山の木を育てて行くと云う事は、一つの財産を増すと云う意味合いから、各戸に大黒像と金像の二柱を安置して、お祭りをし乍ら行われた。 各人は何れも酒豪の寄せ集まりで有ったので、大黒さんのお祭りの酒宴の時には、7人で一斗の酒も余す事のない時もしばしばあったとか。 豪傑で愉快な話も聞かされている。 お互いに気が合う同志達で有ったので、内地旅行を夫婦で神社、仏閣のお詣りや、各所の名所巡り等も数多く行われて来た。 想出多い寄集まりであった。
  偶々小野金次氏が、息子の岩夫氏の事業等で他町村に移転をした関係等もあってこの会を脱退した。 その代わり石田勝喜氏が加わり行動を共にした。
  昭和13年頃、中土場に所有していた相羽 誠氏の所有地(鈴木 贇氏奥東より官林境迄)役38町歩が売り出されたので共同購入をし、仲間で耕作をしたり他人に小作をさせ続けて来たが、偶々終戦当時、上湧別町に京都、大阪より疎開者が入植する事に成った為、町役場より農地解放の手続が取られ、共同畑であった為に、官林の場所と共同畑が開放され、中土場に大阪、京都よりの疎開者が昭和21年の年に10戸程入植をする事になった。
  昭和35年頃迄営農が続けられて来たが、町市街よりは交通の便も悪く、電灯は無く、農地もあまり良い場所で無かった事等もあり、成功をした人達もなく、一人減り二人減りして、遂に昭和28年頃にはこの地を捨て、疎開前の京都、大阪方面に戻って仕舞った。
  農地解放は強制的であったので、共同の者達は、関係機関に接衝し、農地の交換分合として王子製紙の山林を代替地として貰った。 其の後、山林の條件により、分筆登記をして7人で分配し所有をいて居る。
  当時行われて来た会合は年代も替わり現在は行われていないが、当時の発足した目的は達成され、山林は財産として子孫に残され現在に至っている。
              (板垣 隆記す)。

 
topへ  第3節 史 跡 
     1項 射撃場と火薬庫
  屯田兵は旧軍隊であり、軍律、訓練共にきびしく、北海道開拓という兵、農、二重の至上命令が家族にまで負荷されており、6ヶ年と云う普通軍隊の二倍以上の現役軍人として服務しながら、給与地5町歩の開墾と、生活の自給を図る生産をあげ、子弟の教育と、重荷を持ちながら、軍人として射撃、銃剣道は、現役軍人と代わらない厳しい訓練がなされたと言われて居ります。
  従って、中隊本部には銃器庫、火薬庫があり、射撃場は基線16号線東方山麓の長方形の一帯の地で、標的場が構築されて、これに併行する塹壕があり、射的場として南北両中隊への実弾射撃が屯田兵解隊になった明治36年3月迄続き、7ヶ年の間、山間にこだました銃声も収束を告げました。
  解隊後の射撃場は撤廃され、団地は開放されて、今は一介のこん跡も認められない。 農耕地として再生され、大東亜戦後の農地改革で、上松芳男氏の所有となって居ります。
  射撃場に関して、中隊本部に銃器庫、火薬庫には衛兵が立ち警備の任にあたったと言われています。 火薬庫は、明治36年3月屯田兵解隊後、四中隊二区の射場初次氏が払下げをして、其の後平野嘉平氏が譲り受けたが、3坪に近い正方形の建物で、壁は松板の二重張りで、内壁板は正六分の鉋がかけてあり、天井はなく、屋根板は正一寸(3㎝)巾一尺(30㎝)の松の板で、無節で鉋がかけてあり、兵屋とは比較にならない堅造物であり、三方の窓は鉄棒入りで、金網張内戸つきで、外扉があり、出入り口に大きい銅の施錠がしてあった。 地上二尺余(約70㎝)の地杭の上に置かれてあった。 屋根は亜鉛板葺きで、屯田兵関係の建造物の中では委嘱であり、屯田兵解隊まで歩哨が立って警戒されたと言われています。
      (昭和17年に解体処理されたと平野嘉平氏は語っていた)。

 2項 湧別兵村建設と事業所
  明治28年に湧別屯田兵の設置が決定され、翌29年春に工事を起し、現在の基線20号線(四の二区入口地点)に陸軍省経理部派出所が置かれ(兵村誌)、又、四中隊の建設基地として工事現場が出来て、集会所(板張)、雑穀種置所と土間に区分されて居り、周辺に木材小屋が並び、建築資材が集積され、多くの労務者の出入りがあったようです。 また、其の後、農業授産施設が計画され、その地積は1・6ヘクタールで、現在四の三区八幡神社付近の敷地が予定されていたが、戦後の農地改革で耕作者に開放されました。 (町誌による)。
  明治30年5月29日屯田兵第一陣が入地した時は、多くの兵屋は未完成の為、5日から10日まで前記の事業所から食事の受領を受けたと、石田ふゆさん「戸主の妻」は離しておられました。
  兎に角、兵屋の工事完了が明治32年春であったと記録されていることから、明治30年に入地した屯田兵及び家族の労苦は、想像も出来ない程ではないかと思います。
  前記の事業所との関連もあったのか、明治36年には逸早く附近に店舗が出来、その後舌禍点、魚屋、菓子店、鍛冶屋等、明治時代に軒を並べて、大正年間及び昭和の初期まで市街地の形成をなしていたものです。
  腐楽の中心に特別教授所が設置され、又、子女教育には福沢裁縫所が開校された。
  南分教場は、南湧小学校に昇格、特に南湧実科女学校の設立は、本町の教育文化の面に貢献しました。 これは当時近隣町村に魁けたもので、大きく評価されたものであります。

 3項 昭和改元 
    御成婚(今上天皇) 植樹記念碑

  一、 場所  神社神殿裏 (境内敷地)
  一、 樹種  とど松、から松
  一、 建立  昭和2年6月
  一、 建立者  南湧青年会々長 井 上 徳

 4項 天満宮鎮座五十年   植樹記念碑
    大東亜戦争講和成立

  一、 場所  北見天満宮  境内
  一、 樹種  とど松、から松
  一、  昭和26年6月
  一、 建立者  南湧青年団々長  麻 植 照 義

 
  第4節 文 芸
 
     1項 短 歌
  大正9年群馬県から、南湧小学校の教師として、大沢雅林氏と、いよ婦人が就任されました。 先生から一度遊びに来ないかと誘われた、四の二区部落の青年、森谷吉郎、加茂寅治、平野 毅氏等が先生の住宅を訪問したのが動機となり、其の後、谷本金四郎、大川一恵、松村武雄、小野義男氏等も同調して、短歌の教えをうける様になり、四の一、四の三、屯市の青年層にも普及するに従い、当時の北湧校の教師、平野徳治、島田梅十、上野英雄氏、屯市の二階堂円城氏等、多数の人達が大沢氏を師事したことから短歌の同人が多くなり、大沢氏は、これら同人の作品を発表する為に、大正9年に短歌誌(にほぶえ)を創刊しました。 半紙四つ切りの5頁位の粗末ながら版印刷でした。
  (にほぶえ)巻頭君の歌に
      にほぶえに歌ませし人のおほかたは
        歌にかゝはる心うせらし
  素朴な農村青年の一時的な盛り上がりから、冷えていくことを案じられてか、大正11年に上湧別を去るにあたり、
      日本歌壇に、その歌光らす人いでよ
        にほの花咲く 北見の国より
  
  北見の一角に芽生えた(にほぶえ)の同人の進出に期待をかけられて、東京に向かわれた。
  大沢雅林氏去って、(にほぶえ)同人は島田梅十、平野徳治、上野英雄、森谷吉郎氏等を中心にして歌会をもち乍ら、歌集「覇王樹」「野菊」に、投稿を続けておったが、平野徳治、島田梅十、森谷吉郎氏等の転居により次第に影を、ひそめることとなった。
  大正15年3月、大沢雅林氏の歌集「りんどう」が野菊社から発刊になって居るが、その中に(にほぶえ)の同人30余名の短歌がのせられてゐたが、現在まで持続して居る人は少ないようである。

 
  第5節 文化施設及兵事
 
     1項 部落集会所(青年会館)
  大正2年は、希有の大凶作の年で、凶作救済会が出来ました。 時の部落区長(平野嘉平)氏が、部落に集会所がない事から(当時兵屋だけで大きい家屋がなかった)、部落民にはかり、総意を以て建設に踏み切った。
  場所は、20号線の部落の中央である。 上松宗太郎氏の宅地の一角を借用して、15坪(49,5平方㍍)を、谷本栄八氏の請負で、大工、中島理太郎氏の施工で完成しました。
 これにより部落の集会所とし、又、青年子女の研修の場ともなり、当時部落では唯一の文化施設でもあったわけです。
  軽費は、部落の寄附によるものです。 (平野嘉平氏の手記)
  昭和6年、区長井上徳嘉氏、総会の議決により、髙橋徳蔵氏の宅地を、部落財産から支出をして、12・25坪(73平方㍍)の部落集会所を、中湧別の早川市郎佐衛門氏の請負で、部落中央部に新築しましたが、これは、部落民の寄附金、労力奉仕で総力をあげて完成しました。 其の後、昭和29年、区長池田英隆氏は、66坪5合(約200平方㍍)を増築し、公民館としての利用価値が大いに上がりました。

 2項 四の二公民館
  四の二公民館新築決定(昭和44年1月8日部落総会に於て)
  最近は、防寒建築が一般住宅や公共的施設にも広く用いられるようになり、各部落でも、近代的な暖かい会館が続々と新築されて来ました。 このような状況から、わが部落でも会場の新築が強く要望されるようになった。
  これkらの使用状況を考えると、少なくとも100名以上の収容が出来る建物が必要であると云う事から、早急に公民館新築に踏み切る事に決定した。
  新築工事の費用の捻出については左の通り
  一、 神社裏のカラ松の成木を間伐して売却すること
  二、 部落民の一般寄附金によること
  三、 町に対し助成金を要請すること
  四、 その他、特志寄附金を受けること
   尚、公民館建設委員会を結成して次の役員を置く
  建設委員長  池田憲弥  副委員長 八巻恒雄
  総務委員長  池田英隆  副委員長 松川寿夫
  事業委員長  城岡嘉蔵  副委員長 國枝 清
  会   計  平野 卓
  総合的な責任は、部落会長 鈴木 贇と副会長 上松二雄が当たる。
  神社裏のカラ松伐採は共同事業で、人夫の割当をして、木挽きは馴れた戸田 誠、鈴木勝夫が当り、長材の搬出は川瀬泰三がブルドーザーで心よく引受けて搬出することになった。
   建築は部落出身の屯市、井上組に一任する。
   昭和44年10月29日上棟式、同年12月21日落成式を挙げる。
    会館建築収支決算書
  収入の部
科 目   内      容     金  額 
寄附金
助成金
特別寄附金  
財産売払代
 合 計 
自治会内一般寄附金
町よりの助成金
関 ジュカ氏より
神社裏カラ松伐外       
 120万2,500円
109万2,000円
60万0,000円
30万6,327円
320万0,827円
  支出の部
  科 目     内     容       金  額   
建 築 費
会場 備品
祝賀会 費
雑   費
繰 出 金
 合 計 
井上組請負工事代
机、椅子、炊事用具代
祝賀会記念品代、其他
出役雑費、大工接待、上棟式他 
部落一般会計へ
 147万1,000円
32万5,000円
21万3,000円
12万8,327円
6万3,500円
320万0,827円

 (付  記)
    四の二公民館建築工事について (鈴木 贇 記)
  昭和44年1月8日、部落総会に於いて、自治会長に鈴木 贇、副会長に上松二雄が選出された。 今年度の事業の一つとして、これは前年度からも話が出ていた事でもあるが、今迄の会場も古くなり、且つ又、各戸の家も老巧化し又、改造された家々も個室が多く、冠婚葬祭等の使用不可能の状態であると云う事から、100名以上が収容出来得る建物が必要であるという事から、公民館建築に踏み切る事に決定したものである。 新築工事の費用の捻出については、
  一、神社のカラ松の成木を間伐して売却する事
  二、部落民一般寄附金によって当る事
  三、町に対して助成金を受ける事
  以上の事柄について計り決定したものである。
  会計は、特別会計とする。 特別会計を平野 卓と決め、3部門に分け事業に当る。 一、総務委員、これは一般寄附その他雑務に当る。 二、建築委員、この委員は建築設計監督に当る。 三、事業実行委員、これは人夫の割当仕事の手配等に当る。 総務委員長には池田英隆、副に松川寿夫、委員には石田静夫、平野 潔、天野健一郎、菊地喜代松、伊藤左近、井上徳俊、井上春一、婦人部から石村ヨネ子等が当り、建築委員長に池田憲弥、副を八巻恒雄とする事業実行委員長城岡嘉蔵、副に國枝 清等と決める。
  3月に入りカラ松材を伐採する事に成り、企業委員長の城岡嘉蔵、国枝 清氏らは連日、人夫の割当て、監督に当り、外に各班長が委員として当り伐採が始まる。 これを相内の三洋木材に電柱材として、青木の一割安の価格にて売買する事になる。 この伐採には、間伐のため、又神社がある為に、木挽の馴れた方と云う事で、戸田 誠、坂田櫂三郎、鈴木勝夫氏等が当り伐採はしたけれど、長材の為に搬出が困難な為、川瀬泰三氏のブルドーザーを依頼したところ心よく引き受けて下さり、搬出するが、橋の上で横すべりし、雪の高低が激しい事もあり、ブルが転倒し、川瀬氏が下敷きになり、立ち居る人々は大変驚き夢中になって雪をかき分けしも、仲々困難であったが、漸く助ける事ができたが、命に別状なかった事は誠に奇跡でありこれも神の御加護と感謝する。 其の後川瀬氏もかなりの重傷であり乍らも忍耐の強さで快復され、其の後も会場の地ならし等にもブルで奉仕をして下さり、部落民一同有難く感謝した次第です。
  又、長材を馬にて搬出し、3日程かかり裏木は全部薪材として切り、其の後十年位も炊事用として使用する。 この長材の売上代金30万6,317円也。 外に収入源では特殊寄附金として、関 ジュカさんの代金60万円は、大いなる資金であり、名誉部落民として讃えたいものです。
  一般寄附金も、部落民の協力により、一金120万2,500円也、町よりの助成金109万2,000円也。 外に旧公民館備品販売等の収入もあり、総収入合計金額320万827円と、資金面も幾多の難関もあったがどうやら予定通り進み公民館の建築請負契約を行う。
  その後は工事も順調に進み、10月29日上棟式となる。 上棟式用の餅つき炊事一切は、婦人部3役及び監事が受けもち、一俵の餅を28日に八巻綾子宅でつく。 城岡フミ、天野トミ、池田キヌ、八巻ヨシ子、石村ヨネ子ら手伝う。 29日の上棟式も無事に終わり、其の後、内装工事も着々進み、内装用具等も、八巻恒雄氏、大川悦朗氏等には世話になり割安にして戴き、無事に12月21日に落成式を終える事が出来たのである。 その間種々と難問題もあったが、立派な公民館が完成した事は心暖まる思いがする。 他部落に先駆けて部落民一致団結し、自力で立派な公民館が完成した事は、他部落からも羨望の的にされ、又、部落民も大いに喜び、一日の空間もない位に活用され、全く良い時期に立派な公民館の出来た事は喜ばしい限りであり、これから左記も大雪に永持ち出来る様心掛けたいものである。 修す決算も立派に出来、支出の主なものは、井上組工事内金として支払金100万円を11月4日に支払い、後のぶんは工事完了及び追加工事分含めて金147万1,000円を12月29日支払完了済みとなっております。 外に内装具品代等も支払い済みとなり、収支決算零と云う事で綺麗な会計になっておりますが、残念な事に、特別会計の平野 卓氏が郷土史作成半ばにして死去された事は悲しい限りです。
  次に部落公民館一般寄附名簿を附記します。
  金三万円也  城岡嘉蔵、平野 均、麻植平冶、平野 毅、池田憲弥、八巻恒雄
          花木利夫、井上徳俊、井上春一、石田静夫、平野 卓、池田隆喜
  金二万五千円也  上松芳男
  金弐万円也  八巻敏一、石田一夫、国枝 清、岡和田耕一、山口精一、石村志朗
         沢崎武夫、上松二雄、森谷重房、板垣 隆、川副 力、梶原照一
  金一万五千円也  天野健一郎、池田英治、梶原喜作、藤本光利、佐藤 照
  金一万円也  佐藤正一、松川寿夫、片平武雄、大川悦朗、麻植只雄、菊地喜代松
         平野嘉康、鈴木勝夫、平野 毅、平野 祐、原田武志、平野昭二、
         菊地キク子、坂田重盛、髙橋修策、柴山正一、福沢幸之、吉村登一、
         髙橋 豊、野口重光、小畠富士男、松原祐治、古庄昭治、松島 登
  金七千円也   髙橋信司、髙橋寿美
  金五千円也   麻植則章、森谷大勝、松村 正、河村藤吉、竹原正子、千田とみ子、
         伊藤左近、松島性造、原田仁吉、片平みどり、坂田権三郎、神野 忠
  金三千円也   三上吉松、渋谷祐一、吉村 寛、戸田 誠、河瀨泰三、
         (外にブル代等一切奉仕される)
  金二千円也   鈴木武文、大川市松、青柳 清、河村 進
  金一千五百円也 平野儀助、石田静夫
  金五百円也   今野留造
  金三万二千円也 鈴木 贇
    以上合計金額  120万250円也 (名簿通り記帳す)

 3項 屯田戸主会、家族会、湧別屯田会、遺族会
  明治30年と31年に、湧別屯田兵とその家族、399戸が四中隊と五中隊の六区に定着しました(内四の二は67世帯であった)。
  きびしい軍律下に兵農一体の実を挙げ、明治36年3月、屯田兵が解隊して地方自治体としての発足が為されました。
  明治37,8年の日露戦争に参戦した屯田兵は、戦勝国の勇士として意気もさかんに、年をおっての開発も目覚ましく、近隣町村に頭角を現す存在となりました。
  昭和4年に「屯田戸主会」が結成されましたが、これは相互の親睦を図り、屯田兵の遺風を交配に継承させ、併せて村の振興にキヨする事を目的として発足しました。 従って会発足は活発な活動がなされた。 わけても日支事変、大東亜戦争の戦前、戦後を通じ銃後の活動は目覚ましいものがあった。
  南兵村戸主会長に樋口幸吉氏、北兵村会長に沢口作一氏が選出されました。
  その後「屯田家族会」が結成され(両兵村を併せて)家族の親睦を図り、会員の慶弔、物故者の慰霊等につとめ、移住以来の暗くを語り合う楽しい集いでもあった。 会長に長谷川春治氏が選ばれましたが、その後高木源蔵氏が受け継いだ。 高齢者が多くなり、「屯田会」の結成となり、旧屯田家族の後援につとめ会長に渡辺要町長が就任しました。
  その後昭和52年5月屯田兵の二世、三世あわせて百数十名の参加者で「湧別屯田会」の発足となり、屯田兵の遺風を永く継承し、旧屯田家族の後援につとめることとなったのです。 会長に福田保国氏、副会長に南、北兵村から平野 毅氏と新国二三夫氏が選ばれて発足しました。
  尚「屯田戸主会」が結成された当時「老兵会」と云う会がありましたが、これは、屯田兵の下士官層で結成された親睦の集まりであったようです。
  「遺族会」は、戦没者遺族の団体で、5月の招魂祭、8月の合同法要、その他の遺族会活動につとめられて居ります。

 4項 戦没者と戦死場所
  日露戦争、日支事変、大東亜戦争に出征して名誉の戦死をされ、護国の神として祭られた方々は次の通りです。
 氏 名    階  級    戦没年月日    場  所  
板垣与太郎
髙橋巳之助
片平富之助
門馬伊太郎
佃 与八
上松 幸雄
竹原 外吉
加茂  稔
国枝 国治
森谷 英策
平野 水華
辺春 福造
林  太市
佐藤松次郎
国枝 義一
神野 守国  
陸軍上等兵
〃  〃
〃  〃
〃  〃
〃  〃
海軍二等兵層
陸軍 准尉
陸軍 伍長
陸軍 少尉
陸軍 兵長
陸軍上等兵
陸軍一等兵
陸軍一等兵
陸軍上等兵
陸軍 伍長
陸軍一等兵 
明治38.2.4
明治38.3.8
明治38.7.1
明治38.3.10
明治38.2.28
昭和20.7.30
昭和20.6.7
昭和20.4.10
昭和8.10.9
昭和19.7.9
昭和20.8.11
明治38.3.10
昭和15.6.21
昭和19.6.16
昭和20.6.23
昭和 20.8.21
奉天附近四台子  
奉天附近八家子
奉天附近獅子山谷
北陵
大寒屯、戦病死
本土南方海上
ニューギニア
北島 ルソン
満州 羊山
千島
北支 学収
日露戦
支那事変
支那事変
支那事変
支那事変 

 5項 戦時体制下の行政
  昭和12年日支事変から、大東亜戦争の終結までの昭和20年までを挙げて臨戦体制一色となり、国家総動員法の制定のもとに、銃後後援会、国防婦人会、在郷軍人会、青年団、消防団、各学校は必勝を期して強力に活動を続けましたが、当時の公文書、戸主会の宣言書、決議書等を掲げましたが、当時の人達が如何に真剣に臨戦体制に身を挺していたかがよくうかがえます。
  公文書 (写)
   昭和13年1月14日
               上湧別村長 酒井 佐一
  各種関係各位殿
     応召者見送りに関する件
  この度動員下命に接したる、四の二区       二君が来る15日午前10時30分
          、上湧別液発列車で出発に付いては、村を挙げて名誉の応召兵を見
          送相成る様一般に周知せしめられ度 此段及御依頼候也

  日支事変に際し戸主会の宣言文
     宣       言
  今ヤ帝国ハ重大時局ニ直面シ、政府ハ(ソノ長期戦ヲ覚悟シ、不満、不信極
  リナキ支那ヲ庸燃シ以テ東洋平和ノ基礎確立ヲ宣明セリ
  コノ秋ニ方リ、我々村民ハ其ノ非常時局ノ認識ヲ深クスルト共ニ、全支ニ亘
  ル数倍ノ大敵ヲ撃滅シ皇軍ノ威武ヲ中外ニ輝セツツアル将兵各位ニ深基ノ謝
  意ヲ表シ銃後ノ護リヲ益々堅固タラシメンコトヲ期ス
     昭和13年1月23日
         上湧別村 南北兵村  戸主会

  日支事変に際し戸主会の決議文
   決     議
  一、我が国民は、一致団結政府の声明に基き全支に於ける頑迷執拗深刻なる排
    日、侮日の暴挙を根底より排除する為、断乎飽く迄従来の目的達成に邁進
    し東洋確立を益々確固ならしめんこと期ス
  二、対支問題の解決は断じて、三国の容豚を許さす、東洋に於ける帝国の優越
    権を確保sんことを期ス
  三、吾等村民ハ協力一致堅忍持久、応召者の家族に対し積極的に各般の援助を
    為し以て、出生将兵各位をして後願の憂なからしめんことを期す
        昭和13年1月22日
            上湧別村南、北兵村  戸主会

 日支事変時の部落予算書
       昭和13年度歳入歳出予算書
 二区長   平 野 嘉 吉   職印
     収 入 Ⅰ 部
 賦課すべき金額     摘     要      備  考  
Ⅰ金 壱百 円也
Ⅰ金 壱百 円也
Ⅰ金 壱百 円也
Ⅰ金 壱百 円也  
昭和13年3月25日  徴収 
昭和13年5月25日  徴収
昭和13年9月25日  徴収
昭和13年11月15日 徴収 
 

     支 出 Ⅰ 部
  項       目        金    額     摘  要  
祭 典 費 







警 備 費 



寄 附 金



手   当

消 耗 品 費

電 灯 料 費

補 助 金



通 信 費

土 木 費

会 議 費

役員慰労費

備 品 費

雑   費

予 備 費


招魂祭費
馬頭祭費
村祭費
天満宮祭典費
月並祭
大祓式祭
神官謝礼

火防団出初式費
火防デー費
火防団補助金

上湧別小学校運動会費 
青年学校後援会費
消防後援会費

区長手当

消耗品費

神社、消防番屋電灯料

入退営歓送迎会
衛生組合
青年団補助金

通信料

土木費

会議費

役員に浪費

備品費

雑費

予備費
 
金弐拾四円也
金七円也
金九円也
金拾弐円也
金拾弐円五拾銭也
金 四円也
金拾弐円五拾銭也
金 拾五円也
金五拾五円也
金 拾五円也
金 弐拾円也
金 弐拾円也
金八拾六円五拾銭也
金五拾五円也
金弐拾四円也
金 七円五拾銭也
金 七拾円也
金 七拾円也
金 拾五円也
金 拾五円也
金拾八円四拾八銭也
金拾八円四拾八銭也
金弐拾参円五拾銭也
金 四円五拾銭也
金 九円也
金 拾円也
金 九拾弐銭也
金 九拾弐銭也
金 六円也
金 六円也
金 八円也
金 八円也
金拾弐円也
金拾弐円也
金九円拾銭也
金九円拾銭也
金八円五拾銭也
金八円五拾銭也
金拾五円也
金拾五円也
 
 
   合計金四百円也

  昭和12年に日支事変が勃発して、大東亜戦争になり、昭和20年8月15日の、ポツダム宣言の詔勅がくだり、敗戦となりましたが、この間国を挙げての臨戦体制で、在郷軍人会、青年団、消防団を始め、国防婦人会、学校と、あらゆる団体、職場を問わず、対戦一色で長期に対応してきましたが、これよりさき、村内では銃後後援会が逸早く結成され、また、防護団の発足、翼賛会の結成が相次ぎ、挙村一致で銃後ノ宅守りに万全を期し、国民総動員の線に沿い忠実活発な活動がなされました。
  長期戦のため部落からの応召軍人が年を追って増加し、これに伴い、中心稼働者の激減と、物資不足は当然のことながら起こって参りました。 当時、物資統制令が制定されて、生産資材の極減と労働力の低下に追い打ちをかけられたようなもので、これ等の苦しみに耐え乍ら、出征軍人の観送迎と、留守家族の慰問に、又、労力援助等、本部指令に基き、部落会長を筆頭に在郷軍人班、青年団、国防婦人会等、相呼応して終戦の詔勅のくだるあmで、必勝を念じて、あらゆる苦斗を続けてきましたが、惨めな敗戦で終止符がうたれたわけであります。
  日の丸の旗と多くの人々の見送りと歓呼の声で、勇躍出征した応召軍人の中で、五国の鬼と化して帰らぬ英霊に対し、心から哀悼の意を表し、御遺族の皆様に、深甚なる弔意を表するものであります。
  日支事変から、大東亜戦争と長期戦に移行し、本格的な戦時体制下で、大本営発表に一喜一憂、出征軍人の戦死者、戦没者が続出し、日をおって戦局が新国二進展して参りましたが、昭和17年7月に、本土空襲を受け急遽防御体制に入ったのでした。 部落では、銃後後援会に25名が登録されました。 そして同時に、空襲警報発令、灯火管制の実施となったのです。
  昭和17年には、湧別浜で引き合えた機雷爆発により、湧別、上湧別、遠軽の消防団員、警察官、学校の生徒等、百余名の死傷者を出した惨事がありました。 屯田戸主塚本正次郎氏、長谷川後八氏が爆死されました。  日露戦争に武勲をたてた勇士が屯田兵として上陸した所縁の湧別浜で事故死とは、誠にいたましい事であります。
  神社の表額、寺の釣鐘、火防の半鐘、庄田万里翁の銅像の献納や供出が強行されたものです。 統制経済による金物類、配給制度の実施と、生活はいよいよ窮屈となりましたが、戦勝への望みをもって、あらゆる困苦欠乏に耐えて頑張って来ました。

 6項 応召軍人留守宅慰問
  昭和12年12月21日、上湧別村銃後後援会は、第1回応召軍人留守宅慰問を、第四班の兵事主任藤本武一初期に、四の二区長野口寿一郎氏国防婦人会長菊地りん氏が同行して行われた。 (以下藤本武一氏記)
   12月21日、北西の風強く雪を飛ばし、晴天なれども
   寒気殊に厳しい南兵村二区を最初に歴訪した。
  ○ 小畠勝四郎さん宅を訪問した
    何時も笑顔でお父様が相変わらず元気で私を歓待してくれる
    妹さんは、裁縫に出掛けているらしい
    御慰問申し上げて平野さん宅に向かう
  ○ 平野 浩さん宅では、昨年9月生まれの可愛らしいお子さん、大変
  太っていて、お母さんに抱かれて家庭を賑わして居りました。 ご主人不
  在で何かと不自由でお困りでせうと、お尋ねしますと、ご妻女は、皆様
  のお陰で何一つ不自由は感じて居りませんと、誠に良い心掛けに感動し
  て辞去する。
    相変わらず風は強く身にしみる
    国防婦人会長の菊地りん、山口さんと合流して、野口さんを加えて
  片平さん宅を訪問する
  ○ 片平兵十郎さんの宅では、ご妻女一人、夫に送る毛糸の、チョッキを
  編みながら、独り思いを北支に走らせて居るらしい
    先ずストーブにあてさして貰い、御慰問を申し上げているうちに、お
  母さんが孫さんを、おんぶして帰られ、戦地から送ってきた沢山の写真を
  見せて貰い、承徳の景勝を賛美して、おいとまする
  ○ 山口重次郎さん  鈴木熊次郎さん  麻植長左ェ門さん  小野
  金次さん、と順次御慰問を終わり一行と別れて、四の三区に向かった。
  村内を、四つの班に別け、出征兵士の留守宅を訪問した状況を、パンフレットにして慰問品とともに出征兵士に送りました。

 7項 現役及応召者の兵籍
  氏 名   生年月日   現役応召年月日  退役解除年月日  入隊地   階 級 
戸田 誠
八巻恒雄
鈴木 贇

鈴木 昇
平野 毅
平野嘉平

井上徳嘉
井上徳俊
石田友一
石田 繁
石田正義
池田英治
池田孝嗣
国枝 清

国枝隆男 
明40.4.15
大7.8.21
大5.2.20

大元.10.19
明36.6.23
明10.12.15

明32.3
大11.10.23
明31.6
明35.1.8
大5.1.3
明42.2.20
大14.7.2
明42.1.10

大2.4.15
現・昭3.1.10
応・昭18.12.1
応・昭14.5.1
応・昭19.2.
  昭5.4.1
現・大12.12.8
現・昭30.12.1
応・昭37.8
現・大8.12.8
現・大18.3.10
現・昭7.12.8
現・昭11.1.8
現・昭12.1.10
応・昭19.6.25
現・昭19.12.8
現・昭4.1.10
応・昭16.8.3
現・昭9.1.10
応 ・昭15.7.19
昭4.7.10
昭21.6.10
昭18.11.
昭20.11.20
昭20.11.10
大14.10.30
明32

大9.10.30
昭20.12.19
大11.10.30
大12.10.30
昭22.11.23
昭19.9.17
昭21.4.30
昭5.11.30
昭21.5.21
昭10.11.30
昭 23.12.22
旭川
愛知県
旭川

陸軍幼年学校
旭川
弘前

旭川
旭川
函館
旭川
旭川
旭川
旭川
旭川

旭川 
上等兵
海軍二等整備兵曹
軍 曹

少 佐
上等兵
上等兵

一等兵
兵 長 
曹 長
一等兵
准 尉
二等兵
上等兵
曹 長

上等兵
国枝幸男


川副隆喜
戸田 豊

吉村益男
小畠元治
小畠正治
片平正一郎片平 勇
大沼次雄
大沼英馬
藤本市賢
山口秋義
片平勝市
古庄 昇
上松建造
上松二雄
天野福雄
天野正道
天野貞雄
坂田利勝
上松千馬蔵
大7.1.5


大8.3.19
明4.5.7

大7.5.7
明38.3.1
大2
大元
大11
大9.7.10
大11.9.10
明32.10.5
大2.10.3
大12.12
明36.1.5
大11.5.10
大9.2.23
大9.4.19
大13
大7.1.20
大6
明32.4.16
現・昭14.5.10
応・昭17.1.10
応・昭18.1.7
現・昭11.6.1
現・昭7.1.10
応・昭14.9.15
現・昭14.5.1
現・大13.12.10
応・昭18.3.20
応・昭17.3.25
現・昭18.1.10
現・昭16.5.1
現・昭18.1.10
現・大8.12.8
応・昭19.10.1
現・昭17.1.10
現・大12.12.8
現・昭18.4.1
応・昭16.11.1
現・昭16.2.1
現・昭20.2.1
応・昭19.6.10

現・大7.12.8
昭16.11.30
昭17.11.30
昭20.8.17
昭19.20.16
昭8.7.10
昭15.6.10
昭20.10.10
昭20.10.5
昭18.6.20
昭17.9.10
昭21.5.1
昭23.10.5
昭21.9.10
大9.10.30
昭20.9.10
昭21.3.1
大13.10.30
昭20.9.1
昭17.2.10
昭19.2.10
昭20.9.10
昭20.12.27

大8.10.30 
満 州


横須賀
旭 川


旭 川
旭 川
旭 川
満 州
横須賀
満 州
旭 川
旭 川
満 州
旭 川
盛岡航空隊
札 幌

旭 川
旭 川

旭 川 
兵 長


海軍上等兵層
伍 長 

兵 長
大 尉
上等兵
二等兵
上等兵

兵 長
上等兵
一等兵
伍 長
上等兵
兵 長
一等兵
上等兵
一等兵
上等兵
上等兵
一等兵
小野 巌
上松三男平
鈴木勝夫
平野嘉一
平野嘉直
平野嘉次
平野嘉敬
平野昭二
平野 浩


平野 潔

森谷重房
山口精一
山口勝夫
上松芳男
坂田国利

天野健一郎

平野嘉康
野口重道
麻植只雄
井上昌二 
明43.10.15

大7.6.20
明30.2.6
明45.6.7
明33.1.7
大8.6.2
昭2.1.1
明 40.1.2


大4.1.11

大9.5.1
大14.11.23
大5.3.13
大4.1.10
明39.10.29

大3.1.1

大10.7.15
大4.1.14
明43.3.30
昭3.4.1
現・昭17.3.27

現・昭14.5.1
現・大7.12.1
現・昭8.1.20
現・大14.12.10
現・昭11.6.1
現・昭20.6
現・昭3.1.10
応・昭12.8.2
応・昭18.3
応・昭13.9.13
応・昭18.9.13
現・昭16.1.20
応・昭20.3.1
現・昭12.3.1
現・昭20.4.1
現・大15.12.1
応・昭18.3.20
応・昭14.8.30
応・昭19.8.10
現・昭17.1.10
応・昭 19.3.26
 昭6.3.10
 昭19.4.1
昭17.9.1

昭20.11.10
昭10.10.30
昭23.6.2
昭2.10.30
昭15.5.30
昭20.10
昭4.7.20
昭15.8.3
昭20.6.11
昭15.9.20
昭24.9.25
昭21.5.5
昭20.9
昭21.7.5
昭20.9.10
昭3.6
昭10.10
昭25.5.30
昭20.9
昭21.3.11
昭19.6.10
昭7.4.10
昭 20.10.5


旭 川
旭 川
旭 川
旭 川
横須賀
旭 川
旭 川


旭 川

旭 川
旭 川
旭 川
千葉県
旭 川

旭 川

満 州
旭 川
弘 前
奈 良 

二等兵
曹 長
上等兵
准 尉
上等兵
海軍一等機関兵曹
二等兵
曹 長


兵 長

曹 長
一等兵
准 尉
一等兵
軍 曹

上等兵

伍 長
一等兵
一等兵
兵 長 
板垣藤七
竹原福松
竹原外吉
城岡嘉蔵

千田義種
沢崎武信
松村 正

佐藤松次郎

菊地喜代松

柴山正一


梶原喜作
松村留八
松村秀次郎梶原与作
柴山竹松
麻植牛太
髙橋信司
石村志郞 
明32.3.25
明42.9.20
大6.7.6
明2.3.30

大10.1.22
明40.8.8
大3.8.8

大4.1.3

明45.6.19

大元11.20


大13.3.31
明19.5.4
明22.3.7
明25.3.25
明37.7.20
明37.5.20
大13.2.9
大 13.12.15
現・大9.11.1
現・昭5.11.10
現・昭12.1.10
現・昭15.1.10
応・昭19.9.15
現・昭18.3.1
現・昭3.7.10
現・昭9.12.10
応・昭20.3.20
現・昭8.7.1
応・昭16.9
現・昭8.7.10
応・昭14.9.15
現・昭8.1.20
応・昭14.9.15
応・昭20.3.23
現・昭19.9.25
現・昭39.12.1
現・昭39
現・大2.12.10
現・大13.12.1
応・大12.8
現・昭20.8.1
現・昭20.4.1
昭10.11.30
昭20.8
戦 死
昭6.11.25
昭20.9.23
昭20.11
昭4.11.30
昭11.6.11
昭10.8.30
昭9.6.30
昭19.1.13
昭8.9.10
昭15.6.5
昭10.3.13
昭15.7.31
昭20.8.19
昭20.9.10
昭8
昭20
大3.12.10
大15.10.31
大15.10.20
昭20.8.15
昭20.10.10 
旭 川
旭 川
旭 川
旭 川

函 館
旭 川
東 京

旭 川

旭 川

旭 川
 
北 見
旭 川
旭 川
横須賀
旭 川
函 館
函 館
福 島
福 島 
上等兵
大 尉
准 尉
兵 長

上等兵
上等兵
上等兵

上等兵

上等兵

軍 曹


上等兵
大 尉
海軍少佐
上等兵
上等兵
上等兵
二等兵
一等兵 
平野 卓

平野 祐
井上春一
青柳 清

川副正起
三上吉松
大沼政雄
吉村 寛
佐藤 熙

松川秋衛
蜂谷俊雄
片平武雄

松島性造
松島 登

松川隆一

荒木敏春
原田正雄
千田光秋
城岡元一
明41.9.17

大13.8.20
大15.2.8
大2.4.7

大5.10.3
明42.5.5
大7.1.2
大4.10.4
大4.5.7

大9.9.26
大12.11.11
明43.8.8

大3.1.12
大8.1.10

明42.2.13

大10.2.10
大5.8.19
大12.9.23
大 3.5.4
現・昭4.1.10
応・昭20.7.5
現・昭19.12.5
現・昭20.6.30
現・昭15.6.30
応・昭19.4.10
現・昭8.5.1
応・昭19.8.10
現・昭13.2.1
現・昭12.1.10
現・昭11.1.10
応・昭12.12.4
応・昭18.10
  昭19.4.1
現・昭5.1.10
応・昭12.8.30
応・昭19.3.26
現・昭15.1.15
応・昭19.8
現・昭4.1.10
応・昭18.4.10
現・昭17.3.10
現・昭19.3.21
  昭19.4.10
  昭 15.7.1
昭5.7.10
昭20.9.17
昭21.5.21
昭20.10.5
昭15.9.10
昭20.9.17
昭13.11.10
昭19.11.5
昭17.12.19
昭20.9
昭12.21.1
昭11.10.20
昭21.6
昭20.10.20
昭6.7.10
昭15.2.13
昭19.6.10
昭15.7
昭20.4.1
昭5.6.30
昭22.4.30
昭31.3.20
昭19.6.23
昭19.7.10
昭 20.10
旭 川

旭 川
旭 川
千 葉

横須賀
旭 川
満 州
旭 川
旭 川

満 州
旭 川
旭 川

旭 川
旭 川

旭 川

満 州
弘 前
旭 川
満 州 
一等兵

上等兵
二等兵
上等兵

海軍二等機関兵曹
二等兵
権 層
軍 曹
伍 長

一等兵
憲兵兵長
伍 長

二等兵
一等兵

一等兵

兵 長
一等兵
二等兵
伍 長 
梶原吾作
平野儀助
上田七郎
(井上) 
明44.11.9
明44.4.21
大 9
現・昭7.1.10
  昭19. 3.30
  昭 14.1.20
昭8.7.10
昭19.5.18
昭 20.11.10
旭 川
旭 川
満 州 
上等兵
二等兵
曹 長

   
 topへ 第6節 社 会 団 体 
     1項 青 年 団

 青年会誕生 
  明治36年11ガル20日、青年の自己修養と、部落内の諸行事への協力など、社会奉仕を目的として結成されました。(別記に規約登載)
 上湧別村連合青年会結成
  明治40年、各部落の青年会長を集めて、上湧別村連合青年会が結成されました。 当時会長は村長、副会長、北湧校校長が就任しました。
  昭和3年各部落青年の名称は統一されて、青年分団と改名しました。 青年団結成後活動も盛んになり、勉強会を通じて新しい知識の吸収、礼儀作法、文化の向上、部落民としての共同石木、時代の流れの中にあって、青年団活動は今日の部落発展に寄与したと思われる。
 結成以来の青年団活動
  青年団の奉仕的活動は、お祭りの余興では、子供角力、大人角力、夜の芝居、お盆には、角力、盆踊り等、青年団が中心となって進められてきました。
  大正5年、湧網線開通の祝賀パレードに仮装行列をして参加した。 南湧青年分団の出し物は赤穂義士の討ち入りで、播州赤穂浪士と右襟に、左襟には浪士の名が白地に宣明に書き出され、鉢巻き姿も勇ましく、大石内蔵助以下の浪士が鼓笛、楽士を乗せた華麗な山車(花車)を引いて、威風堂々と押し出したその壮観に、参観者の賛辞のどよめきもあり、祝賀行事コンテストの第一位になりました。
  体育の面では、義団時代から優秀であり、青年団対抗や祭典奉納角力抜群の力を発揮して、連続優勝により記念すべき優勝旗が残されておりますが、これは若人の誇りであり、部落の名誉でもあるわけです。 後年になってからは、「櫻の咲いた公園で」という応援歌に必勝を期しての声援ぶりに、他の青年団の羨望の的であった。
  また、各種陸上競技に於いても優秀な選手が多く、他の青年団からは、恐れられた存在であったが、特筆されることは、村内マラソン大会に、第一位となり大優勝旗を獲得したことである。

  大正初期頃少なかった団員も、大正5年頃より屯田戸主の子供達が青年団に入団したので大正7年には30名となりました。
 青年会館の建設(部落集会所)
  青年の集会所建築については、屯田戸主の有志が先頭に立って進められました。 明治45年、部落の約中央である上松宗太郎氏宅地の角に建てられました。
 屯田入地依頼の娯楽芝居
  屯田入植後、娯楽の少ない部落民の中で、各県よりの入植者の中には内地で芝居をしたり、見たりして来た者も多数居た事から、天満宮の祭典余興として、また、青年の集いの場として、芝居を始めたのです。
  明治35,6年頃より始められたものと思われますが、昔のことで明治、大正初期頃迄は、歌舞伎芝居が主だったよです。また、大正、昭和初期頃まで青年芝居が続けられましたが、当時は大根芝居と云って、部隊の中央の上に大根を5本位縛ってつるしたのが、見物人の眼をひきました。 入植以来永い年月続けられたのですが、昭和初期で一時中断されました。
  昭和16年に再び青年演芸会として始められ、昭和25年に、戦後の娯楽の移り変わり等もあり終止符がうたれました。
 当時の思出に古老は語る
  青年芝居の一番の面白さは、知った人が出るので大変楽しかったものです。 又、演劇の幕合いに、太鼓の音と景気よい、お花の御礼も興を添えて、お祭りには、なくてはならない行事であった。
  天満宮の祭典は毎年10月25日で寒い夜であるが、部落民は勿論他部落からも大勢見物に来たものでした。

   湧別村南兵村義勇団規約(この規約は明治41年3月義勇団結成明治36年)
               第十三部
   本規約の目的は、親睦を旨とし、善憤美風を採り延て後進者の  
   模範となり、本区の交誼を全し、倶に名誉公益を博し、発達を
   期するを以て目的とす
 第一條 本組合は区内に住居するものにして、16歳以上、満25歳以下のものを以て組織し、其範囲内の年令に於て其の義務を欠く者は凡て交誼を除く、但し学生及其の理由あるものは此の限りにあらず
 第二條 年令25歳と云えども、在団継続する事を得
 第三條 本団は、学術研究の為め毎年11月上旬より、翌年3月下旬迄の間に於て夜学会を開催するものとす、但し退団者と云えども夜学会継続し得るものとす
 第四條 夜学会費は、通学者の負担とす
 第五條 本団の規約を実施する為め取締及左の役員を置く
     一、取締役  弐名
     一、団 長  壱名
     一、幹 事  参名
 第六條 役員は、名誉職として任期一ヶ年とす
 第七條 役員の改選は、毎年壱月七日に於て行ひ、団長及幹事は団員の内
 より選挙し、其の方法は投票を以てし、最も高点者を以て当選者とし、若し
 同点なる時は県庁舎を以てし、同点なるときは、抽選を以て定む、但し役
 員当選者氏名を部長に報告するものとす
 第八條 改選の当日は、取締の立会を迄ふものとす
 第九條 役員に当選したるものは、正当の理由なくして辞任する事を得ず
 第十條 取締は区内の有望者に依頼するものとす
 第十一條 総会は、毎年1圧7日に之を招集し規約の変更並に利害
      得失の研究をするものにして、若し其変更等なる場合は取締を
 経て、部長の同意を得、確定するものとす、但し急を要する場合は臨時会
 を開く
 第十二條 本団会に団員必ず出席するものとす、但し不得止事項により欠
 席せんとする者は其の理由を団長に届出可し、本項に違犯者あるときは、
 団長責任を以て大いに訓戒をなすものとす
 第十三條 役員の職務は左の如し
    一、団長は、団内一般の事務を掌理するものとす
    一、幹事は、団長を補佐し、且つ風紀を維持し、親睦に
      努め勤勉貯蓄をするものとす
 第十四條 社殿に関する事、部長の依頼に応ずるものとす
 第十五條 法令違反は勿論、本団規約に違背したる者は、左の罰科に処す
     一、法令違反者にして其の筋の処刑を受けたるもの又は本団規約
       に違背したる者は、一ヶ年間の本相談会又は、宴会等に於て
       他人より上席に座する事を許さず猶、素行修まらざる者は団
       員を除く
 第十六條 本団の費用は部内より補助を受け負担するものとす、但し補助
      額が壱ヶ年金拾五円と定めらる
 第十七條 本規約を遵守する為め、加盟者は記名捺印するものとす
 第十八條 団長不在の時は、幹事の内、年長者之を代理するものとす
       附    則
 第十九條 団員に於て特に秀越なる成績ありたるとき之を取締を経て部長
      に上申し夫相当の賞品又は、賞状を与へるものとす
   取 締  大川 徳蔵
   同    平野 嘉吉
   団 長  門馬 熊冶
   幹 事  赤星 六郎 同 谷口 岩吉 同 佐藤島三郎 同 麻植 栄
   同 板垣 冷冶 同 三谷長次郎 同 岡山 留吉 同 天野松五郎
   同 平岡権太郎 同 上野 舛人 同 片平兵十郎 同 城岡作之助
   同 松村秀次郎 同 梶原 与作 同 山口伊太郎 同 髙橋 源吾
   同 村田市太郎 同 松川 国平 同 髙橋九郎太 同 森谷 新作
   同 大沼今朝吉 同 髙橋 金吉

 女子青年団誕生
  女子青年団は、大正14年当時の南湧校々長小杉秀太郎先生の指導によって、校下の女子青年で結成された南湧処女会が最初であった。
  昭和6年には、女子青年団への村費補助も計上されました。
  昭和17年の事務報告には、団長には村長、北海道区団長には北湧校校長が就任している。 当時の分団名は南湧女子青年分団と称した。 団員数、68名となっている。 分団長は各小学校校長が選任されている事から、校下単位に行政的に結成されたようです。
 南湧女子青年団結成される
  昭和16年4月、従来の女子青年分団は解散となり、あらたに部落単位の分団となり、分団長も女子青年団員から選出されることになりました。
  初代 団長 竹原きよ、 副団長 梶原文子
  部落内における男女青年分団は二本建てではあったが、事業運営等はすべて合同で行われた。
 男女青年演芸会
  昭和16年に、暫く中断されていた青年演芸会が再びよみがえってきた。 明治時代より、天満宮の祭典には演芸会が神社境内で行われるのが通例でしたが、昭和18年には、現在の公民館横に舞台を作り、会館を楽屋にして行われる様になりました。 終戦前後の娯楽の少ない青年にとって芝居をし踊りをして皆にみてもらうのも一つの楽しみであり、また、各部落青年の演芸会を見物に行くのも楽しみであったのです。 これが昭和25年頃まで続けられました。
  例年10月25日には、天満宮の祭典ですが、寒い夜である。 男女青年団員は一日の畑作業を終え夕食を済ませてから、会館に集まっての練習です。 芝居踊りを皆一生懸命でした。 夜中の12時頃まで、約一ヶ月くらいは毎晩の練習です。今思えばよくやったの一言につきると、王子の団員は迷懐しておられました。
   昭和10年  男子分団員  29名
   昭和17年  同      27名 女子団員21名
 青年耕作畑
  昭和6年、部落より借受けて、共同作業によって農作物を耕作し、収入金は、青年団の資金として運営にあてられた。
  昭和40年頃まで耕作されていたが、部落のグランド整備により耕作不能となり、その後団員の会費を、部落の助成金によって運営されたが、団員も少なくなり、昭和44年青年会は解散して「友の会」と名称を改め、現在は部落主催のお盆の行事のお手伝い位が事業といえましょう。
 戦後の青年団組織
  昭和21年 男女別の連合青年団を結成した昭和22年 男女一本化され本格的な連合団活動を始めた
  昭和24年 上湧別村団体連絡協議会と改称された
  昭和29年 4Hクラブが農村青年で結成され連合会は解散する
  昭和32年 上湧別青少年協議会と改称される
       その後団員の減少により部落青年会活動も低下していった。
 青年団の体育
  △ ソフトボール
  戦後、町教育委員会の指導普及により部落青年を中心とした「ソフトボール」会が結成されました。 町内ソフトボール大会には、たびたび優勝し、又、上位入賞の記録があります。 また部落内のソフトボール愛好者の中心となり、部落民の体育に対する関心は急速にたかまりました。
  △ 卓 球
  昭和43年、同44年の上湧別青年団体連絡協議会卓球大会には、優勝を獲得しました。 43年には男女共個人一位、44年には男女個人一位、男女混合一位。
  南湧青年会は、明治、大正、昭和の今日まで、体育競技に対しては、対抗となると非常に盛り上がりを見せ、団員の結束が良く、また、練習にも全員揃って参加する良き利点が誇りでもあったのです。
 青年一反歩耕作
  昭和12年、日支事変後、青年勤労総動員令により、青年活動は各部落青年団共に盛んでした。 団員一人一人一反歩を研究は竹とし、各自、作目別に増産研究がなされました。 また、耕作畑により得た収入金は各自貯蓄をして、娯楽、修養の資金としました。
  昭和16年女子青年団設立後は、男女合同参加で耕作畑をもって参加した。
 村、青年研究発表
  昭和17年南湧分団より男子一名、女子一名が発表大会に参加したが、男女共一位に入賞し優勝の栄に輝きました。
  また、同年北見管内青年発表大会に、村代表として出場し、優秀な成績をおさめた記録が残されております。
 当時の団員の思い出
  一反歩耕作畑に薪付けされてから、作物が青育を始めた6月中旬頃より、団員の耕作畑の実施指導が始められたわけです。 朝5時には全団員が会場に集合して、当時青年指導員であった、中島吉一先生も、ゲートル巻き、地下足袋の姿で出てきて、朝野冷たい風を受けながら、団員と一緒になって見廻りを指導してくれました。 収穫迄月2回の巡回指導で、非常に熱心な先生でした。 昭和18年頃から小島先生が中島先生と交替されたが、同じように熱心に指導されました。
  昭和14年頃より、兎の毛皮が軍需用として必要に迫られたのですが、これは、当時満州の兵隊の防寒服として最高のもので、そのために増産が指導されました。
  昭和16年、男女青年活動のなかで、団員全員が兎の飼育をすることになり、兎の飼育、管理、優良品種の改良を目的として、養兎組合が結成されました。 当時兎の飼育に熱心であった、天野定雄氏が初代組合長となり、年々養兎数も増え、優良兎に改良され、南湧青年団主催で品評会も催されたものです。

 兎の道品評会
  昭和16年より道主催の兎の品評会が開催され、南湧分団より迷年数点出品したのですが、その都度一位、二位三位と青年団の兎は、上位入賞を果たしました。 今でも賞状を十数人の人が持って居ります。 その当時、南湧養兎組合は上湧別一位と云われた程です。
  又、上湧別町は、道内一位と折り紙をつけられました。 従って南湧青年は北海道一と云うことになりました。
  尚、当組合の生産された兎は、優良種兎として町外に多数出荷されました。

  昭和18年、道青年教育視学の酒井主事が、南湧青年の養兎状況を視察に来られた記録も残っています。
 戸田侍従御差遺
  青年勤労総動員運動状況史だつのため、昭和17年来村されました。
南湧男、女青年分団は、21号線、国道西側(現在池田孝嗣氏)の畑(当時は松田氏畑)にて、団員40数名の、ビートの根草取り作業状況を、戸田侍従長は視察されました。 これはまたとない名誉なことであり、青年団活動の仲野喜六の一頁でもあると思います。
 角力、剣道の普及
  屯田入植当時、娯楽のない部落民の中で、また、若い青年の娯楽として、また、心身の鍛練の上からも、角力、県道が盛んに行われました。
  青年角力は、入植当時より永く続けられ、昭和30年頃迄盛んに行われました。 特に部落対抗青年角力では、南湧分団は何時も上位入賞したものです。 連合青年角力大会が上湧別神社祭典行事として行われ、昭和17年総合2位、昭和31年は、総合1位に入賞しました。
  剣道、銃剣術は、屯田兵の入地だけに、既に明治32年頃に防具を備えて訓練されました。
  大正6年頃より青年団員数も次第に増加したので、大正14年には前記防具が不足して来ましたので、剣道の用具購入の話が持ち上がり、このため、青年の活動資金造りに鉄道の除雪を青年団で請負い、日当の中から一割を防具購入のために積立てとし、大正末期にはこの積立金を以て用具を購入したのです。
 百人一首
  大正末期より、小倉百人一首が、青年の中で一番の娯楽として取り入れられたのですが、冬期間の農閉期には多数の青年が集まって、集会場やまたは各戸の家を廻り番にして、夜の更けるのも忘れて盛んに行われたもので、昭和25年頃までこれが続きました。
 連合青年団陸上競技大会
  昭和初期より陸上競技大会が開催され、昭和13年まで続きました。
  当青年分団は、毎年上位入賞を果たして来ました。
 校下部落対抗競技
  昭和14年より、青年団8百㍍リレーが小学校の運動会と合わせて行われる様になりました。
  昭和16年より、女子青年団が結成されてから、女子8百㍍リレーも行われる様になりました。
  小学校の運動会の最終に行われた青年リレーは、各青年団の応援歌によって、運動会に花を添えました。 当分団は、男子、女子共に度々優勝旗を受けたものです。
 連合青年団陸上競技大会再会
  一時中断されていた大会も、戦後青年団員の帰郷によって再開されましたが、団員の減少により昭和28年再び中止されました。
  昭和30年代の体育も、新たにソフトボール大会、卓球大会と変わりました。 当時の競技大会記録に、女子百メートル個人一位、二百メートル一位、四百メートル一位、男子二百メートル競争一位、毎年総合二位以内と云う記録が残されています。

 2項 婦 人 会

 婦人会の発足(戦前)
  昭和6年満州事変が勃発すると、郡部の要請によって、昭和7年10月全国的組織として、大日本国防婦人会が結成され、その下部組織に各市町村毎に婦人会支部が結成されました。
  昭和12年日華事変の始まった頃、村長夫人を顧問に、屯市の有志の夫人が会長、副会長となり、全戸加入のため各部落でも婦人会を結成して、村支部が発足したのであります。
  四の二の初代会長 菊地リン、麻植クニ等が選ばれ活躍されました。
  出征軍人の観送迎、戦地将兵への慰問袋の送付、留守家族の訪問等が行われるようになって、始めて自主活動をする婦人団体の社会進出が見られるようになり、戦時中、エプロン着に肩からタスキで、大日本国防婦人会の名入りの布をつけ、全国的に目覚ましい活動を続け、これが婦人団体の総称ともなったのです。 然し、昭和17年2月、婦人団体強化のため、中央部で活躍していた愛国婦人会との統合が行われたので、大日本婦人会と改称され、本町もその支部に変更されました。
 戦後の婦人団体
  戦後協力団体として結集を余儀なくされていた婦人会は、終戦によって、その存在価値を失ったので自然解消の運命となったが、折から寄せる新時代の波は、新憲法による基本的人権の尊重、男女平等、民主主義思想の普及と共に、夫人の自覚と、自主性の発動を促し、占領政策による、GHQの社会教育の活動は本町にも及んで、婦人の社会的活動進出の芽生えを与えてくれた。
  また、戦前の婦人会活動を育んだ会員の親睦は、民主主義のもとにも変わることなく、必要なものであったから、何らかの形でその存在が望まれたし、混乱した世相から生ずる社会悪の増は多くの非行少年の誘発を伴い、健全な社会育成のためには婦人の強力な活動がなによりも期待されたわけです。
  こうした機運の盛り上がりから、昭和25年7月7日に、上湧別村連合婦人会が誕生したのであります。 そうして、昭和25年には、各部落に単位婦人会が出来ました。
  初代会長として、 麻植クニ、小川ハナ、平野トメ、池田キヌの各夫人が選ばれました。
  昭和31年、当時の農協組合長、遠藤春治氏のとき、農協運営のより良き向上を図るため、農協婦人部を結成することになり、同年1月13日上湧別町準備委員会が開催され、1月22日に漸く結成大会となり、農協婦人部が結成されたのであります。
  初代部長に浅井芳美夫人が選ばれ、同時に支部が結成されたが、初代四の二支部長に、平野トメ、副支部長に、城岡フミ、池田キヌ夫人g選出されました。
  爾来、農協婦人部は、農協からの財政援助の下に、貯蓄による営農資金の協力、一元集荷の協力、購買部の利用などを始め、共済保険の加入促進等々、数多くの事業に取り組み、努力しながら現在に至っているのです。 その頃より、婦人部、青年会と共催にて、敬老会の実施もして参ったのでありますが、昭和35年より、町の助成を受け、部落からも助成を受け実施をして参りましたが、団員の減少により青年団も解散となりましたので、婦人部のみで実施することになり、これが昭和47年まで続きました。
  昭和27年4月10日の役員会に於て、公民館の座布団を作ることを話合い、ボロ布を集めて綿加工に廻す事になり、その結果、約53貫7百匁(約2百キログラム)が集まりました。
  当初座布団50枚を作る計画だったが、同じ柄のものがなく、取り敢えず40枚を作ることとしたのです。 翌昭和38年3月19日の会合で、40枚では足りないという事から、またボロ布集めを行い、10枚を作り、全壊と合わせて50枚となり湧校に利用されています。
  その時の金額、一枚100円、綿加工賃を含めて支払額5,615円也。
  また、昭和44年度に公民館建設の議起り、このため、婦人部3役、幹事共に、建設委員となり、上棟式の折には餅つきから、内装具の買物、料理一切等を受けもち協力しました。
  昭和46年3月、永い間婦人部の団員として活躍された池田キヌさんが退団することになったので、同年5月紋別市みゆき「ローヤルパレス」に於て、記念品と感謝状を贈りました。
  昭和52年度婦人部の会費は次の通りです。
    会 費 年間 1,000円
    会 員     53名
    若妻会     14名
  自治会からの助成も昭和49年より交付され、昭和52年度には、2万円に増額されました。
 敬老会の実施
  昭和48年、同49年は、自治会が主体となり婦人部は手伝いということに変わり、協力をして来たのですが、昭和50年から町の主催行事となり、会場も全町一個所に集合して行うようになり、毎年9月15日の敬老の日に実施することになりました。
  また、昭和36年に若妻会の誕生をみたのであります。
  昭和46年頃より、若妻海藻婦人部の一員とみなすことになり、会費の徴収もし、団体として活発な活動を続けて現在に至っております。 若妻部会は、あくまでも婦人部の下であるため、何時も婦人部と共に並んで来たのであり、代表の名称も連絡委員と云う名称になっています。
  初代の連絡委員に、岡和田リエ子夫人が選出されましたが、その後、池田節津子、松原栄子、原田貞子、八巻惠子の各夫人が、連絡委員として活躍して現在に至って居るのであります。

 婦人部活動の記録
  昭和31年度
  支部に於いて一俵貯金を申合わせ、毎年雑穀一俵を出荷し、個人貯金とした。
  購買品の日用品、石鹸、食用油、野菜の種、配布等婦人部の事業として行い、これが今日まで続けられている。
  昭和32年度
   4月10日 敬老会  青年団と共催で敬老会を行う。
            部落会より6千円補助、町より独り2百円の助成を
            受け、婦人部は手料理作りを受けもち、青年団は、
            老人の送迎及び唄や踊りで老人の慰安をした。
              対象者  46名
   7月19日 網走市への研修旅行   参加者30名
            本部より百円、支部より百円の補助
   11月3日 上湧別農協婦人部料理コンクール
            池田きぬ、柴山文子 出品し3位入賞
  昭和34年度
   家の光、普及活動  一部 65円(内5円婦人部手数料) 
   4月10日 敬老会  青年団と共催
           町より9,200円  部落会7,500円の助成
   4月18日 中学校へ雑巾 40枚 寄附 婦人部員一人3枚以上を
        小学校へ雑巾 57枚 寄附 手縫いして寄附する
   8月15日 盆 踊 青年団と共催
  昭和35年度
   2月17日 四の二支部に於て、第一回若妻の集いを開催
       来 賓 松橋秀雄氏、外に支部役員 4名
       役 員 会長1名 連絡員4名 決定する
        会 長 岡和田リエ子
        連絡員 井上静子(南通)
        同   池田節子(中通)
        同   柴山文子(北通)
        同   井上千代(基線)
   4月3日 敬老会  青年団と共催
        部落より7,500円 町より一人100円助成
        対象者 60名  記念品として茶碗一個贈呈
   4月25日 小、中学校に雑巾寄附  102枚
   5月19日 映画会開催 (我が胸に鐘がなる)
   8月15日 盆踊り 青年団と共催
   12月29日 婦人部一俵貯金
  昭和36年度
   5月5日  婦人部花見  出席者 35名 会費100円
   8月16日 盆踊り(班対抗) 青年団と共催
   12月19日 国民年金説明会
        町国民年金の集金を婦人部事業として引受け手数料を受く
        現在まで引き続き継続されている
        7月、2,230円 12月、2,006円 2月、2,010円を
        国民年金の手数料として収入する
  昭和37年度
   4月10日  敬老会  青年団と共催
   5月14日  花見会Z(瀬戸瀬)
         出席者 59名 経費は国民年金手当と、グループ活動
                積立金による
   12月  一俵貯金実施
  昭和38年度
   3月24日 リンゴ「ガサ」かき作業に出役 日当を会員割りに充る
   4月10日 敬老会  青年団と共催 町及部落より助成ある
   5月 5日  花 見 (ポン湯) 出席者59名
   10月23日 肥田フトン店より座布団10枚新調
  昭和39年度
   3月25日 上湧別婦人部レクリエーション大会研修道場にて開催
         支部出場  五輪音頭 柴山 外10名
               斉太郎節 岡和田 外11名
               その他  岡和田リエ子
   4月12日 敬老会 町及部落会より助成ある
   5月17日 温根湯温泉にて慰安会 55名参加
   9月3日  町施設見学 39名参加
  昭和40年度
   2月28日  定期総会  出席者 42名(全員58名)
   5月18日  花 見(天満宮境内) 出席者 54名
   2月4日   婦人部幹部研修会並に活動実績発表会  於 温根湯
  昭和41年度
   3月6日   定期総会
   2月16日  栄養料理の講習会 講師 北川先生
  昭和42年度
   11月28日 餅つき講習会  於  四の二公民館
  昭和43年度
   7月30日  公民館敷地内グランド開き、運動会に参加
   9月22日  農民運動会に参加 大競争で、2位に入賞
  昭和44年度
   8月8日   町有施設見学に参加
   9月18日  北海道国民年金協会長より表彰を受ける
  昭和45年度
   12月6日  町民簡易婦人バレーボール大会に参加
   1月21日  冬季巡回講座開催に参加
  昭和46年度
   10月19日 北海道社会貢献賞を受ける
          国民年金に協力した旨を以て、北海道知事より
   12月6日  科学洋裁講習会開催  出席者 30名 於公民館
          講師(岩手県) 松岡先生
  昭和47年度
   8月25日  婦人部ソフトボール大会開催(天満宮祭典余興)
  昭和48年度
   4月15日  敬老会
  昭和49年度
   12月15日 社会保険庁長官より感謝状を受ける(年金事業協力で)
   11月16日 町内ママさん卓球大会参加  3位入賞する
  昭和50年度
   1月26日  四の三区老人クラブと交歓会開催 (四の三公民館で)
   3月 3日  四の二部落史編集委員会に出席 
           石村支部長
  昭和51年度
   9月25日  果樹研修会開催(おしどり会と共催行事)
          優良果樹園視察  (於四の一公民館)
   11月10日 収穫祭展示会に出品
  昭和52年度
   ソフトボール大会参加 終了後 ドッチボールの指導受
   12月16日 農家後継協力育成会議参加 役員出席
  昭和53年度
   10月26日 自衛隊協力会父兄会、婦人協力会合同会議に参加
   12月14日 着物の着付け講習会 (於四の二公民館)
  昭和54年度
   3月30日  旭川市ふこく綿工業、北海道味噌工業を視察
   1月13日  石村ヨネさんに感謝状贈呈する
          役員14年、支部長8年勤続に対して
  昭和55年度
   8月20日  モデル地区事業地域環境美化運動の為巡回
   8月31日  婦人部、ミニ運動会参加
  昭和55年度 部員名簿 ◎印班長 (45名)
一班  原田貞子 ◎髙橋ヒデ 川副松江 石田令子 池田花美 国枝真佐  
二班  八巻清子 岡和田リエ子 八巻惠子 平野千恵子 ◎石田和代
松原栄子 井上静子 
三班  上松千代子 坂田みさ子 ◎天野とみ 池田節子 古庄隆子
平野房江 
四班  山口春江 大川久子 上松すみ 森谷きぬ 鈴木とみ子 菊地きく子
平野文江 ◎平野愛子 
五班  沢崎啓子 千田とみ子 松村梅子 ◎柴山文子 梶原みつえ
麻植久子 城岡節子 
六班  井上千代子 花木かよ 平野千代子 ◎平野道子 髙橋利子
藤本年子 小畠ヤス江 
七班   吉村リサ ◎上松和子 大沼政子 加茂惠子 

 支部 役員
  支部長  池田花美
  副支部長 岡和田リエ子(年金係)
  同    藤本年子  (家の光)
  会  計 石田令子
  体育部長 城岡節子
  果樹部長 池田節子
  畑作部長 川副松江
  監  事 井上静子
  同    上松すみ子

 歴代 役員名
年 度  支部長  副支部長  班 長    摘   要   
昭和31年 
32年
33年
34年
35年
36年
37年
38年
39年
40年
41年
42年
43年
45年
46年
47年
48年
49年
50年
51年
52年
53年
54年
55年
56年
平野トメ
平野トメ
池田キヌ
平野トメ
城岡フミ
城岡フミ
池田キヌ
池田キヌ
城岡フミ
城岡フミ
池田キヌ
池田キヌ
石村ヨネ子
八巻綾子
石村ヨネ子
石村ヨネ子
石村ヨネ子
井上千代子
石村ヨネ子
石村ヨネ子
梶原みつえ
梶原みつえ
池田花美
池田花美
池田花美
  
池田 キヌ
池田キヌ
石村ヨネ子
松川フジ
池田キヌ
池田キヌ
石村ヨネ子 
石村ヨネ子
石村ヨネ子
八巻綾子
八巻綾子
八巻綾子
城岡フミ
城岡フミ
天野トミ
八巻綾子
天野トミ
天野トミ
梶原みつえ
梶原みつえ
梶原みつえ
井上静子
井上静子
岡和田リエ
岡和田リエ
城岡フキ
大沼政子
鈴木とみえ
池田キヌ
平野トメ
平野キヌ
松川フジ 
八巻綾子
八巻綾子
松川フジ
鈴木マツ
鈴木マツ
天野トミ
八巻綾子
城岡フミ
城岡フミ
井上千代子
井上千代子
八巻清子
井上千代子
池田花美
池田花美
上松すみ
藤本利子
池田節子

平野トメ支部長、本部副部長に  




石村副支部長、本部副部長に
右同じ
右同じ







本部監事、城岡フミ
石村支部長、本部副部長

石村支部長、本部副部長


 3項 若 妻 会
  農協婦人会の仲野若妻会として昭和36年に発足し、婦人部の協力を得ながら事業が進められた。 経営は主として婦人部からの助成金によって事業が行われていたが、部落会及び農事部よりも若妻会に助成がなされる様になった。
  昭和38年頃よりは、若妻会も独自に事業を進め、町主催の若妻研修会に参加したり、管内研修にも参加する等をはじめ、四の二公民館に於て、料理の講習会や育児の講習会を開き、独自で学収に励みました。
  また、軽スポーツ大会の参加、農事の視察等活発な活動をするようになりました。
  54年頃には、会員も12,3名となり、会員の親睦を図る事にも力を入れ、農閉期を利用して講習会等が開かれました。
  若妻会 役員名
 在 任 期 間   連絡員(会長)   幹 事  
昭和35年~40年
昭和41年~46年
昭和48年~49年
昭和50年~52年
昭和53年
昭和54年
昭和55年
昭和56年 
岡和田リエ
池田節子
花木かよ
松原栄子
原田貞子
八巻惠子
佐藤一子
菊地和子
上松久美子
上松喜美子 









上松久美子 
 会 員 
  佐藤イチ子 千田泰子 髙橋百合子 梶原眞知子 森谷文子
  井上京子 池田和子 鈴木一江 鈴木光江 上松喜美子
  岡和田みち代

 4項 老人クラブ
  社会福祉の一環として、町の指導と、上松二雄自治会長の協力によって、昭和45年2月8日、四の二老人クラブが発足しました。
  会員は、四の二部落の居住者とし、65歳以上の希望者によるものです。
  しあkし60歳以上で入会を希望する者は、賛助会員として受け入れることとしたのです。 目的は、会員相互の村僕と融和を図ると共に、協力して良い人間関係をつくろうとするものであります。
  発足時の会員は、男32名、女32名の計64名で、運営費は、会員相互の会員割、町、自治会からの補助金、並に寄付金により、毎年度3月に定例総会を開き、事業計画による予算の議決により夫々執行されます。 また、前年度の決算の承認も受けるようになっております。 なお80歳以上の会員に対しては会員割免除としてあります。
  老人クラブの主たる事業は、毎月例会を開き、健康相談、血圧の測定、保健婦の講話、高齢者の慰問、会員の病気見舞い、会員物故者の合同慰霊法要、花壇づくり、花見会、講習講話会、新年会、忘年会、旅行などが主な行事になっております。
  毎年3月の総会は規約による役員選出を行います。
  歴代役員は次の通りです。
 年  度   会 長    副会長    会  計    監  査  
発足時 池田憲弥 平野 毅
麻植クニ 
伊藤左近  沢崎武信
八巻敏雄 
昭和48  平野 毅  伊藤左近
池田キミ 
沢崎武信  八巻敏雄
城岡嘉蔵 
昭和50  平野 毅  伊藤左近
池田キク 
沢崎武信  八巻敏雄
城岡嘉蔵 
昭和51  沢崎武信  池田英隆
八巻ヨシ 
城岡嘉蔵  八巻敏雄
平野 毅 
昭和52  沢崎武信  池田英隆
八巻ヨシ 
城岡嘉蔵  八巻敏雄
平野 毅 
昭和53  城岡嘉蔵  国枝 清
松川フジ 
沢崎武信  八巻敏雄
平野 毅 
昭和54  城岡嘉蔵  国枝 清
松川フジ 
池田憲弥  八巻敏雄
平野 毅 
昭和55  国枝 清  沢崎武信
池田キヌ 
城岡嘉蔵  八巻敏雄
平野 毅 
昭和56  国枝 清  沢崎武信
松川フジ 
城岡嘉蔵  八巻敏雄
平野 毅 

  (参  考)
                四の二老人クラブ会長 国枝 清
   当部落の老人クラブの一年間の歩みを次に記載します。 昭和55年度会員
  総数70名、内男35名、女35名、80歳以上10名、最高96歳、
   石田ふゆ、平野きしの、両氏は100歳で死亡された。
   毎月の8日を励会とし、その日は全員血圧測定と健康相談を行う。
        記  
 4月    新会員の歓迎会、国道美化の為清掃奉仕作業  
5月    櫻の花見会、交通安全講話会又は映画(町役場及巡査駐在所)  
6月    公民館周囲の清掃、花壇に花の苗植込作業 
7月    花壇の草取、公民館周囲清掃、一泊研修旅行(温泉) 
8月    物故者追悼法要、高齢者昭和大運動会、自治会運動会参加 
9月    二泊三日温泉研修旅行、知床横断道路一周とゲーム大会 
10月    花壇の草取、公民館周囲の清掃奉仕 
11月    花壇の後始末と交通安全指導講話 
12月    忘年宴会と趣味の娯楽 
1月    新年宴会と趣味の娯楽
2月     五泊六日の温泉湯治、ゲーム大会
3月     役員会、役員改選、定期総会 
  多彩な行事が行われ、会員の皆さんは会合の度に、日の丸弁当持参に昼食時には飲物あり、お菓子あり飲みたい方は飲み、食べたい方はお菓子を食べ、一日をゆっくりと過ごして貰うのですが、娯楽道具には碁盤、オセロ、花札、輪投げと準備されてあるので、楽しく冶監の過ぎるのも忘れて遊び、次の励会が待ち遠しいと、老人クラブは楽しい広場と申して良く出席して下さいます。 クラブの皆さん仲良く楽しく一生懸命勉強して、健康造りと幸せを求めて、生甲斐のある悔いのない毎日を送っています。 花壇には丹精込めて作った色々な花が咲き、町内花壇コンクール審査の結果、努力賞を受賞しました。 また、町内高齢者大運動会には、2位の成績でした。

    長 寿 の 心 構 え
  一、70歳にして、お迎えある時は、留守と云え
  一、80歳にして、お迎えある時は、まだまだ早過ぎると云え
  一、90歳にして、お迎えある時は、そう急がずともよいと云え
  一、100歳にして、お迎えある時は、時期をみてこちらから
                ボツボツ行くと云え

 5項 子供会と子供育成会
  昭和40年、小、中学校の児童生徒の心身の健全な発達をはかる目的で、子供会が通学区ごとに結成されました。 それ以来、子供達の自主的で活発な活動が続きましたが、種々と運営上むずかしい問題に直面していたわけです。
  それは活動に伴う経費の問題、各種協議会に参加する時の交通の問題があります。
  昭和42年、町教育委員会の肝入りで、全町的に、子供会の後援会組織として子供会育成会が結成されることになりました。
  四の二自治会としても、これをうけて、初代会長に加茂光男氏が選ばれて組織造りに努力し、二代会長上松留次氏は、父母の協力を呼びかけて、公民館裏の広場に、教育委員会の助成をうけ、不足分は各人の資材の持ち寄りと、労力奉仕でバックネット、ブランコ、鉄棒、遊動円木、水呑場が新設されて、子供達の安全な体育の場となることが出来たわけです。 また、娯楽、交友の場ともなって、父母からも、子供達からも大変喜ばれました。(昭和45年7月31日竣工)
  主なる行事は、小学校新入生の歓迎会、中学生の歓迎会、土用丑の日の父母同伴の海浜遊び等、当面活動の基礎作りをしたわけです。
  子供会は、町内のバレー大会、交通安全祈願駅伝競走、ソフトボール大会等で優勝するなど、健全な活躍を続けております。
   育成会長    班会長  
初代 
2代
3代
4代
5代 
加茂光男
上松留次
坂田重盛
坂田重盛
花木 昇 
石田一夫
大川悦朗

池田節子
 

topへ   第7節 生活・文化
     1項 ラジオ共同聴取施設
  昭和25年の春より、南湧第三実行委組合長 井上徳嘉氏外役員は、当時あまり一般化されていなかったラジオの共同聴取と、有線アンプ設備を検討していたが、中湧別田中電気商会に依頼し、翌年4月、電柱健架線に着手し5月初めに完了して、ここにはじめて放送が開始されたのです。
  この共同聴取設備は、管内としては大変珍しく、四の一に次ぐ、南湧第三実行組合の有線放送施設が出来たのです。
  昭和26年5月、この共同聴取設備は一基(本機)ラジオ受信機と放送アンプによって、各家庭にラジオの放送、組合の連絡事項を放送するもので、ラジオニュースや楽しいレコード放送もなされました。
  次いで、南湧第二、南湧北、南湧第一の各実行組合も、翌27年には続々と開通しました。
  その後、町役場、農協に本機を置き全村を結ぶ施設に改め、連絡事項等が朝夕放送されました。 始めの頃は朝夕定時放送が行われていましたが、有線の切断、本機の故障等、維持管理が完全に行われない為、全町放送を止めて、農事組合、又は部落会単位に戻してしまいました。 その後昭和36年に、町役場、農協、普及所の主唱で農事実行組合が解散となり、新たに自治会の農事部に統合したので、各実行組合にあった本機もつぎつぎに処分され、新たに部落自治会で、総務部、農事部の連絡事項を朝夕自治会長が行うようになりました。
  こうして昭和51年まで続けられたのですが、昭和51年度に町、農協から助成を受け、別個に農事部に本機が施設され、農事部独自で放送連絡が行われるようになりました。 然しその後、総務部、農事部についても、有線の支柱架線の修理、本機の修理等問題が出て来たので、昭和52年の総会決議により、有線放送廃止となり、ここに36年間続けられた共同聴取もピリオドがうたれたのです。

 2項 農村地域団体加入電話
  昭和34年、新制度による地域団体加入電話が有り、南兵村3部落の地域g、密集戸数の規模に好条件なので、設置してはどうかと、四の一部落会長穴田俊一、副会長樋口雄幸氏より呼びかけが有り、樋口氏宅に四の二部落より平野毅、池田憲弥の両氏、四の一より浅井好氏等が出向き、その後数回の会合を持ち、公社の三村局長、稲沢業務課長等の説明を受けました。 各部落は会合を開いて加入申込みを取ったのですが、仲々集まらず、時期尚早との意見も多く、延期になっていた。 その後公社は、新国上湧別局長の協力で町理事者にはたらきかけ、昭和37年町役場に南兵村3部落の役員を集め、地域団体加入電話の説明会が開かれました。 その結果、役員は積極的に話を進めて、3月2日、南兵村地域団体加入電話期成会を発足させたのです。
  期成会会長 牧野光一 副会長 平野 浩 八巻智也 会計 秦野 馨
 南兵村地域団体加入電話組合設立
  昭和37年3月、設立総会が開かれ、この総会で電話組合の設立と、地団電話の設立を決議し、公社へ正式に認可を申請しました。
  役員は、留辺蘂町大和地団電話組合を視察し、電話交換所や、組合運営内容を研修し、清国局長の指導で電話交換所を二区、大沼正雄氏宅に設置を決定しました。
  札幌東光電業社により、7月より架線工事が着手され、9月工事完成し、開通式を行い、ここに多年念願の電話が実現したのです。
  地団電話組合では、公社に支払う基礎料金、交換機の賃貸料、交換所の運営経費、交換手の給料等の支払計算から、各戸の電話料金の計算徴収、支払などの業務を、組合長、会計が行うことになりました。
 第二次 増設工事
  最初の電話加入者は地区の約6割弱程度の加入でしたが、電話の便利さに、一年足らずで新たに加入を希望する者が増え、牧野組合長の尽力で、公社に増設工事を認めさせたのでした。
  昭和38年10月、第二次架設期成会が355戸で設立されました。
  既成会長 堀 勝雄 副会長 片平武雄 会計 上松二雄
  10月に測量設計に着手し、架設工事が進められた。
  12月開通式
  これにより架設期成会は解散して、直ちに地団電話組合に加入しました。
 第三次増設工事
  この地団電話は、一架線に5戸及至8戸の電話が設立される為に、1戸が使用中は他の家では通話できず、受話器をあげると他人の話が聞こえるので問題が多かった。 然し反面又、新規加入の希望もあったのです。
  昭和40年公社は、増設工事をかね、交換機を共電式秘話交換機に入替えを計画し、8月大惨事の増設工事が完成しました。
 農村集団加入電話設置
  昭和44年5月、中湧別電報電話局が開設され、これを機会に全農村集団電話の架設が計画され、富美地区、旭、五の三部落を、一集団とし、南兵村地団電話に、開盛地区を含めて、一集団とし、農村加入電話(一架線に数戸の電話、個別呼出秘話式)の設置工事が行われ、昭和45年3月開通した。
  農集電話の開通で、南兵村地区電話組合の交換所も必要がなくなり、業務の整理を行って昭和45年解散式を行いました。

 
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