拓湧八十五年史  四の二自治会

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第1章部落の行政 
第1節、郷土の沿革 第2節、屯田兵の移住 第3節、功労者及び公職選任名簿 第4節、警防・火防 第5節、部落の自治活動


部落誌発刊に当って
      四ノ二自治会長  岡和田 幸一
 本日ここに銘銘すべき、部落史の発刊に当り、皆様型と共に、心から慶びとするところであります。
 茲に、四ノ二部落の生い立ちを振り返って見ますと、屯田兵をもって、草分けの人として、明治30年、31年の2年間で、67戸、414人の人達が、未開の地にあって筆舌に尽くし得ない苦労に耐えながら、血と汗を流した開拓時代の生活と、その開拓魂を受け継いだ幾多の先輩諸氏が、住みよい部落造りのため奮闘努力された当時に思いをはせるとき、私達は、ただ言葉もなく頭の下がる想いで一杯であります。
  中土場川の川懐に、抱かれる様に発展して続けて来た四ノ二部落、また東山、山麓を流れる灌漑溝、私達の幼い頃は、この二つの川の水の流れと共に育って来ました。山女釣に嬉々とした日々、そして川の小石を取除き、ざり蟹を取った想い出、私達にとっては、何時までたっても忘れる事の出来ない幼い頃の想い出となって今も蘇ってまいります。この中土場川の流れも時と共に今、大きく変わろうとしております。上流には、町の水道の水源地としての取入口、そして立派に完成した砂防ダム、改修工事と共に、今や百年に一度の出水にも耐える大きな川となりつつあり、また部落内に目を走らせますと、南、北通りの改良工事、防火水槽の設置等。そして間もなく行われるであろう中通り、および東1線通りの改良工事。他、部落に先駆けてのこれら一連の環境づくり。この南、北通りの先端に建って眺め見る時、誰が今日のこの様になる事を予想したでしょうか。時と共に流れる歴史は遙かに遠く、今日のことがらは、昨日の出来事となって未来に進み行く時、現代に生きる私達は、住み良い環境、住み良い部落造りに情熱を燃やし続けながら生き続けて行きたいと想う次第であります。
 昭和50年の部落総会に於て、部落史の発刊が決議され、それから今年で7年目、その間に編集委員会が発足し、資料の収集に努力をして下さいましたが、その後、55年度の総会に於て実行委員を選任し、発刊に踏み切りました。資料の乏しい中にあって、また寒さ厳しい冬の間、そして30度を超す連日の暑さの中、公民館に集まり、原稿用紙に「ペン」を走らせ、寝食を忘れて努力されておる委員の方々の姿を見る時、それが素人の能力を超えた仕事であるだけに頭の下がる思いと感謝の気持ちが一杯です。
 また、資料提供収集に御協力戴きました多くの皆様型には、心から感謝を申し上げると共に、厚く御礼申し上げる次第でございます。
  時の流れと共に、薄れ行く過ぎし歴史を個々の生い立ちをこの一冊の部落史をひもとく事により後生に語り継がれ、そして新しい歴史が綴り継がれて行くことを心から念じて発刊の言葉と致します。
    昭和56年12月20日

発刊に寄せて
     上湧別町長  佐々木義照
  南兵村八十有余年、それはそのまま本町の歴史でもあります。
  この部落誌には、明治30年、31年に入植した屯田兵67戸が開拓の鍬を入れて以来、現在の輝かしい自治会の姿に至るまで、永年の、先人の苦難の足跡がつぶさに記され、涙と笑いの中に温かい人情がかもし出され、連帯感のあふれる生活の様子がわかります。必ずやこれからの地域づくりに役立つことでしょう。
  北限のリンゴ栽培に、一生を捧げた方、寒地水稲耕作の研究の先駆者、つねに新しい時代を求め農業振興と部落づくりに尽力された方、更に、本町の指導車として活躍された方や、町外で重要な役割を果たしておられる当地出身者など、この地をふるさととする方々の生き方が手に取るようにわかります。
 今、めざましい文化の発達で世界の経済大国にのし上がった我が国ですが、一方では、激動の八十年代と言われ、世は不透明、不確実の時代だとも云っております。
 高度経済成長から低成長へ移行し国家財政は赤字再建第1年目、私達の生活も仕事にも厳しい荒波が打ち寄せてきました。
 このような時に、屯田二、三世代に生きる方々が、父母、祖父母の時代を振り返って、地域とここに住む人々の歴史をたずね、一冊の本として後世へ伝えることは誠に意義深く、次の時代の人びとが往時を偲ぶと同時に、この地への愛着を一層深め、郷土の歴史書として利用されることでしょう。
 過去、現在、未来のかけ橋となる本史の編集発刊に御苦労下さった方がたに深く敬意を表し、四ノ二自治会の永遠の発展を祈念し、発刊にあたってお祝いのことばにかえさせていただきます。
   昭和56年11月20日

部落誌発刊に寄せて
    上湧別町議会議長 渡辺 正喜
  私達の祖先は、一斧、一鍬をもって、うっ蒼たる森林に挑み、原始林を肥沃な土地に変えました。今整然とした家並み、縦横に走る道路、緑豊かに発展する上湧別町の姿は、礎となった祖先の血と汗の結晶の上に引継がれた。各世代の八十余年の当今の歴史の上に花開いたものであります。
  至誠をもって北辺の地を守り、全身全霊を打ち込んで開拓した先人の遺業と、開拓魂を讃えて、つぶさに当時の状況と、その後の発展の歴史を綴って後世に伝える意義は誠に深いものがあります。ともすれば散逸する記録、語りつがれた事などの貴重な資料を収集し、編集された方々の御努力は大変な事であったと拝察致します。
  南兵村二区は、各分野で活躍される人材が多く、とりわけ近隣愛、扶け合いの精神の強い集落であります。その伝統が今日の安定した部落を造り上げて来たのであります。この部落誌の集成も、こうした土壌から生まれたものでありましょう。郷土を思う南兵村二区部落民の御石に深甚な敬意と、発刊を心から讃えるものでございます。
  この部落誌が祖先の労苦を偲び、各世代の逞しい努力を後世代の活力として引継がれ、なお一層発展されますことを心から祈念致します。
  最後に私事ではありますが、私の先代も種々な形で大変御世話になりました、私の今日あるのも一重に御地の方々の永年の御愛願の賜と、この機会をお借りしまして心から御礼申し上げます。
  以上簡単ですが、部落誌発刊のお祝いの辞と致します。
    昭和56年12月10日


1章 部落の行政  第1節 郷土の沿革 
  1項 名称 
     四の二部落は、明治30年に屯田兵第四中隊第二区隊として、紋別郡湧別村の原野の現在地に5月29日、全国11県より33戸、翌31年34戸、計67戸の屯田兵が、其の家族と共に入植したのが始まりであります。
 屯田兵時代は、四中隊二区と称されていたが屯田兵解隊後、湧別村役場の行政区に入れ、部落名を南兵村二区と改称し現在に至っています。然し現在でも四中隊二区、又は四の二の略称で使用されています。
 
  2項 位 置 
     四の二部落は、紋別郡上湧別町の南東に位し、南は基線22号線を境にし、東は、ヌッポコナイ川の源流(通称中土場川)及び湧別町字芭露ポン川との境に起立する、東山を境に南兵村一区に接し、西は、湧別川を境に四の三及び富美部落、北は18号線を境に屯市に接しています。
 部落内は、中土場川及湧別川に沿って平坦な原野になって居り、中央には、屯田入植以前に開削された通称基線道路(現在の国道242号線)が、南北に縦貫されています。 標高は20号線で海抜35㍍あります。
 上湧別町役場は約2・5㌔㍍で、交通は至便のところにあります。
 
  3項 戸数・人口の推移 
     湧別の開拓は、屯田兵によって始まり、明治30年33戸、31年34戸計67戸の入植によるものです。
 年 度    戸 数    人  口  
 明治31 67  414 
 〃 39  80  
 大正 元  81  
 〃 7  89  
 〃11  89  
 昭和20  81  
 〃25  91  
 〃30  94 675 
 〃35  93  596
 〃40  90 495 
 〃45  86  416
 〃50  84  366
 〃53  84  365
 〃55  81  356

 その後基線通りに、農具鍛冶業が入地して、逐次人口の増加を見たのであります。
 大東亜戦後は国の施策により未墾地開拓が行われたのですが、当四の二部落の中土場の山林にも、大阪、京都方面より開拓者が当時9戸入植しました。
 昭和50年頃より、経済の回復に乗じて開拓者も1戸減り2戸減りして、遂に、昭和53年には全戸が離農して郷里に帰りました。しかし一方、基線通りには、給与者が入地して戸数は逐次増加した一時期もありました。

 
  4項 物価の動向 
     明治後半から大正時代に移住した屯田兵は、5年間扶助米と塩菜料が支給されて教練勤務に服し、家族と勤務以外の戸主は、給与地の開墾に全力をあげ、自家食糧の需給に雑穀を主体の生産に努めてきたが、明治36年頃から薄荷栽培へと転換に向かった。
 当時販売作物のナタネは、一石7円位、大麦は一石3円乃至4円、裸麦4円~5円であり、薄荷の増反に伴い雑穀も上値を示すとあり、白米は一石18円位であった。
 明治35年、36年頃の土地の売買価格1戸分(4・4町歩)300円乃至400円であったが、日露戦争後は移住者が急激に増えたのと、日露戦争に出征した兵士に対する賜金と、薄荷等の好況のため一躍千円以上に高騰し、小作料も1戸分200円に上昇した。
 明治40年に馬匹の改良著しく、白糠軍馬補充部から購買官が出張して軍馬18頭が購売になり、上湧別村が馬産地としての役割をもつに至った。
 同年郵便電信取扱が開始され、湧別浜局和田謙吉氏、屯田市街渡辺表太氏元四中隊は遠軽局の配達区域となった。
 元湧別村(戸長役場)90余方里(六か町村現在の)の明治40年度の予算額は、約2万円であった。
 当時の小豆一石7円50銭、白米一俵9円位、薄荷は高値模様であった。
 明治42年、裸麦一石10円、大豆6円、小麦8円と上昇したが、あいにくこの年は雨年で、悪路のため湧別浜から学田までの白米の運賃は1円に上がった。
 大正元年(明治45年)薄荷相場一組15円余と異常上昇し薄荷ブーム、成金の夢も、翌大正2年は俄然、5~6円に暴落して、不況極度に達し、加えて秋作皆無の凶作に遭遇し、開村以来始めての救済事業が行われた。同年の大凶作は東北地方にも及び、出稼者年(一夏)50円位で雇い入れられた。
 木炭一俵7銭~8銭で売買された。
 大正3年裸麦一石10円、燕麦3円、白米9円20銭くらいで価格変動なく、リンゴ一斤120匁で秋口2銭、翌春4銭~5銭となる。
 大正5年部落長報酬70円、薄荷組8円~9円であったが、越年後は逆に4円~5円に下がる有様で、道米6円20銭、内地米7円位の下降値となる。
 大正6年欧州動乱の影響で物価の急高騰となり、なかでも澱粉14円40銭、青蜿豆一石60円の異常値となる。 種子用は一斤1円に飛び上がり豆成金と言われる程であった。 白米一俵が3倍近い24円~25円に、石油(灯油)は一缶4円~5円が14円~15円に上昇し、北陸では米騒動が起こり、成金輩続出、買占め等横行し何時の場合も農家の手許から離れてからの高値であった。
 明治、大正以前から昭和の民主国家時代も、一貫して権力者と富める者の悪徳な行為が繰り返され、今後も続く様に思われる。
 大正7、8年以後の物価は平行線を辿り、大きな変調も見ず、道米一俵16円50銭、内地米18円~19円見当で、大正末期迄僅かずつ上昇を見る程度の恵まれない状態で、農家の冬期間は出稼ぎ等で僅かな収入を得る程度であった。
 大正末期から昭和の初期に、リンゴ栽培の動きが活発になり、稲作えの転換の兆しも出て来て、造田の話題が時代に農耕になって来た。
 太守2年の大凶作以後極度に農家の経済事情が悪く、頼母子講無尽が各方面に開かれ、昭和の初期まで続けられた。
 個人金融は金利が高く、唯一の金融機関であった拓殖銀行が一人舞台で、土地を担保で、、前利子の高利であった。

大工賃金の推移  (上湧別町調)
区分 年度   賃    金
 
大正元年
〃  5
〃 10
昭和元年
〃  5
〃 10
〃 15
〃 20
〃 22
〃 25
〃 30
〃 35
〃 40
〃 41
〃 42
〃 43
〃 44
〃 45
〃 46
〃 47
〃 48
〃 49
〃 50
〃 51
〃 52
〃 53
〃 54
円  銭 
60 
〃 
〃 
1 00
 1 20
1 50
2 50
5 00
8 00
15 00
250 00
300 00
500 00
800 00
800 00
800 00
1,100 00
1,200 00
1,800 00
2,000 00
2,500 00
3,500 00
4,000 00
4,500 00
5,000 00
6,000 00
7,000 00
   (以上は8時間労働)
利用料金の推移  (上湧別町調)
 区分 年度   理 髪 代
 
昭和25
〃 35
〃 41
〃 42
〃 43
〃 44
〃 45
〃 46
〃 47
〃 48
〃 49
〃 50
〃 51
〃 52
〃 53
〃 54
〃 55
 円
100 
170 
250 
  250 
300 
300 
350 
400 
450~500 
600~800 
900 
900~1,200 
1,200 
1,400 
1,400~1,600 
1,600~1,800 
1,800~2,000 

農産物の不作と豊作貧乏の繰り返しを続け昭和の時代をむかえた。

 農業用農薬価格 (昭和3年)
粉状砒酸鉛 一ポンド   55銭   硫酸銅 16貫入  19円520銭 
カゼイン石灰同右   35銭   細末硫黄百斤   7,95銭
ライム   同右   85銭   生石灰 一缶   1,00銭
硫黄合剤 一斗入   1円48銭      
 
 果樹苗木価格(大正13年) 
 大国光、紅国光、早生、紅玉  
                一年生苗一本一五銭
 ウルソ、新紅玉、新倭錝

 
  5項 経済の状況 
     入植当時は非常に経済的にも苦しいなかではあったが、部落経費はどうしても必要な事から、これを各戸から徴収して部落の経費に当てたわけです。
 各戸の割当の方法については、各班より一名の等級査定委員が迸出され、この委員の協議により各戸の負担額が割当られた。
 明治時代の記録を見ると、明治39年区費徴収金、60円(一戸平均82銭)当時区費の未納者は、神社祭典の折、罰として未納者の名前を張り出したという。
 大正11年、物価の上昇により、又、部落の事業も増えてきたことから、区費の徴収金も、561円25銭となる。
 昭和14年、日支事変によって物資の不足、加わうるに経済戦争の時代であったので、部落予算にも反映し予算額は極めて少ない、423円75銭也。
 昭和38年、自治会費徴収について従来の等級査定方式を改めた。
    平均割20% 所得割50% 資産割30% との比率を決める。
 昭和43年、自治会費徴収率を一部変更す。
    平均割30% 所得割40% 固定資産割30%
   この年の自治会予算額 288千円
 昭和50年総会に於いて自治会費徴収について、査定委員を選出して、更に公平な負担を期する事とした。

 査定委員 給与所得者より  松原祐治 上松留次
      農業所得者より  上松二雄 森谷重房
 昭和52年 自治会費 約 700,000円
 
  6項 交通の沿革 
     明治初期には海上交通が至便であったので、湧別港が利用された。 これにより入植者が次第に増加し、特にアイヌ人が海岸や、河川沿いに通行するようになったのが当地方の道路の始まりとされています。
 現在郷土の中央を南に縦走している道路(現、国道242号線)は、明治25年の着工であると云われています。
 この道路は、湧別浜を起点に湧別原野の中央を南に縦走し、終点野上で中央道路に接続する。
 基線道路は、湧別原野植民地、区画の基線に造成されたことから、その呼び名となったのです。 この道路は、網走分監囚人の就労で着工されたが、巾15間(27㍍)の伐開と、路面幅員3間(5,4㍍)に側溝の造成もされ、延長6里20町(26㌔㍍)には開盛、巌望の2大橋と、その他6橋のほか10ヵ所の暗渠が設けられ同年11月末には完成したのです。

兵村内の号線
 号線道路については、各中隊受持で共同作業によって順次造成が進められた。 しかもこの作業は、日曜日、祭日等の軍事の余暇に行われ、入植者が4年後の明治34年には兵村間の全号線が幅員2間(3、6㍍)に側溝つきの道路が完成したのです。

道路、橋梁の現況
 国道242号線(基線道路)は、上湧別~留辺蘂線
 昭和40年より舗装化され、この地方最大の交通量となって、産業経済発展の大動脈となっている。
 部落内道路の防塵舗装は、町の事業として実施され、昭和46年に中通り、昭和47年には、南通、北通りが舗装されました。
  橋梁については  永久橋  8
           木 橋  2

湧別線の開通
 明治43年、軽便鉄道が施行されると、野付牛(北見)、下湧別(湧別)間は、この法律によって敷設される事になった。 このため当時は湧別線軽便鉄道と呼ばれたのです。
 工事は、明治44年春に測量が開始され、翌明治45年3月から二区を、六つに分けて着工し、全長81、3㌔㍍は、4年5ヶ月の歳月と総工費153万円を費して大正5年8月完成し、11月21日営業が開始されました。

 当時の開通状況は次の通りでした。
 地 区   区   間    工事期間   開 通  
 第5工区

第6工区
 下生田原(安国)~社名淵(開盛)

  社名淵~下湧別(湧別)
大正3年8月
~4年8ヶ月
大正4年5月
~5年8ヶ月 
大正4年11月1日

大正5年11月2日 
 大正5年開通した当時は、1日3往復の運行でした。

  基線道路の由来

    明治39年 (第13部長 池田佐右エ門氏 手記より)
 基線道路は、網走分監囚人により湧別浜より遠軽の野上までを造成したが、その間の死亡者(病気その他事故) 186名と言われている。
一、国道巾十五間(27㍍)を予定したが当時は三間(5、5㍍)である。
  開盛橋は、六六間(121㍍)の大橋であった。
一、明治二十二年湧別原野、常呂原野g、夫々植民地に選定された。
一、荒城重雄少佐、栃内元吉大尉により当地方原野を調査し野付牛に至る(現北見市)。
  選定報告に 上湧別原野 ナヨザネ川 南 となることが適当と報告
        下湧別原野 ナヨザネ川 北 とされた。
一、明治二十四年、湧別原野植民地区画測量実施。
        (道庁技師 内田瀞主任一行)
一、明治二十八年十月九日 屯田歩兵四大隊長 小島正保が 湧別屯田予定地
  巡視  陸軍技手  笹本五郎次が実測する。

  7項 中土場川の改修工事 
     昭和45年10月、町役場より自治会長を通じて関係者の会合が開かれた。 当時関係者としての予定人員は、四の二地区に於いては20戸ばかり有った。 一応町役場及び部落出身議員の説明によると、町発展百年の大計の中で現有河川の中土場川の幅員では、大雨の際には田畑の冠水、若しくは家屋の浸水も免れないので、今般建設省で中土場川の改修工事として、四の二部落の東方灌漑溝を横断し灌漑溝沿いに掘削するとの説明があった。
 関係者一同は寝耳に水の話でもあり、一同騒然となり、説明も何も収拾がつかない程、一時混乱な状態であった。 早速工事反対期成会が結成され、会長に鈴木贇氏を筆頭に、役場に対し再三に渉って工事の計画撤回を要求し続けて来た。
 昭和46年8月頃になって、網走支庁より関係職員、網走土現より夫々担当技師、道より売収課長等の来湧があり、全長の関係者に対しての説明会が開かれた。 夫々の関係職員の説明の中で、工事堀削としての内容は上湧別町自体が道、国に対して改修工事を行って欲しいとの要求があったので、其の様に計画をして、航空写真やら設計図も建設省で作成したので、今更関係者が如何に反対しても撤回は出来ないだろうとの説明等もあったので、その後関係者一同が再び会合を開き種々話し合いの結果、どう反対しても撤回が出来ない事態であれば、泣き寝入りの様な形であるけれども納得せざるを得ないであろうと云うことになり、認めざるを得ない状態であった。 然し予定地としての関係者の中には夫々後継者が居り、それでなくても四の二に於いては農地が少ない地区でもあり、たとえ一反歩の土地であっても減反をすると云う事は大きな問題で頭痛の種である。 その後関係機関のほうから売収問題に付いての会合が開かれ、最初は湧別川合流地点と中土場川下流の五の二地区の土地売収、地上物件の補償問題から始まった。 我々は。あく迄も国、町の犠牲者であるので、少しでも有利な方法で売買する事が先決問題であった。
 最初の堀削路線を検討すると四の二地区の最も重要な地域の個所を掘削される様な設計であったので、先ず路線の変更を訴え、現場所より東方上手に路線の線引き変更をさせるべく関係機関に上京陳情を行い、路線の変更後、関係者一同も致し方なし改修工事の促進期成会にと変わって行った。
 国の示す土地価格、地上物件価格は余りにも低価格であった。 少しでも有利に導く為に、町長、議長を筆頭に関係者と道庁におもむき、町の事情説明或いは価格の交渉に、道議会議員を中心に再三にわたって上京して交渉を行った。
 土岐には、マイクロバスを一台借り上げ、関係者全員が便乗し、夜中の零時に出発出札した事もあった。
 売収問題については、誠に様々な問題、事柄があって地上物件、土地売収がやっと昭和52年に終わった。 46年の年から約7ヵ年の歳月が流れた。
 昭和50年、国の予算が付き、下流より基線道路下迄堀削工事が進められ、次いで昭和55年、基線道路の横断橋の鉄橋建設、中土場川に合流のヌッポコマナイ川の堀削等、漸次工事が進められつつある。
 中土場川上流には砂防ダムも建設され、拐取工事が完了すれば恐らく水害の心配は無くなるだろう。
 国の工事完了予定は、昭和59年度の予定である。
            (鈴木 贇 記)
 
topへ  第2節 屯田兵の移住 
     明治29年南兵村二区、20号線基線角に陸軍省経営部派出所があり、此処では、大工職、人夫等多勢の人を雇傭して第一次33戸の兵屋を建てたというが、ほとんどが未完成であったといわれています。
 家材は、ヌッポコマナイ(中土場)より集材したものをしようしたのです。
 明治30年5月29日、第一次屯田兵として、二区は南通り両側と、中通りの南側に入地したけれども、兵屋は未だ完成しておらず未完の家であったので、移住は、したものの露営的生活が続き、その苦労は並々ならぬものがありました。
 明治31年9月に、中通北側と、北通り両側に、34戸が入地したが、これも兵屋は未完成であり、入居早々その苦労は想像出来ない程ひどいものであった。
 明治32年春には一応完成したと云うが、壁は板一枚張り、夜は星を眺め、冬は雪の吹き込みがひどく、その生活は大変なものであったといわれています。
 この部落には、本州各県より入地しており愛知14戸、熊本11戸、山形6戸、岐阜2戸、福井3戸、宮城3戸、福島3戸、鳥取2戸、三重3戸、愛媛、山口、徳島、香川、青森、兵庫、和歌山、奈良、石川等30県より移住して来ました。
  明治30年 33戸。 11県より
  明治31年9月、湧別原野は、湧別川の氾濫により大水害に襲われたのでした。 湧別川上流の東山手より真直ぐに、二区に向かって流れました。 丁度現在の、池田氏宅附近は大水害となり、床上まで水浸しになった程で、その氾濫は物凄いものであったと云います。
 部落内は、20号線を中心としてんんぼくに2条の道路があり、その両側に兵屋があり、兵屋は6列にあり、その内、南通り両側と中通りの南片側が、明治30年5月29日に入地した屯田兵が入居し、中通りの北側と北通り両側が、明治31年9月14日入地の屯田兵が入居したことは前述の通りであります。
 明治30年入地の屯田兵が明治31年入地の、新兵の指導、援助等を1戸に1戸の受持として種々と援助と世話をしました。
 宅地1戸は、間口30間(54米)奥行60間(108米)に割当られたのです。
 兵屋は、建坪17坪5合 (57,75平方米)木造柾葦平屋建土間6坪(19,8平方米)座敷は、2部屋で6畳と4畳半で、6畳の部屋に3尺の巾1尺程の鉄砲棚があり、4畳半には押し入れがついていました。
topへ  1項 屯田兵略歴 (兵屋番号順) 


















































































































































































































































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   屯田兵が移住し開拓以来既に80年、今日文化の恩恵に浴しながら平和な生活の出来る我々は、開拓の偉業とその辛苦を偲び、心から感謝の意を俵するものであります。

70番 藤 本 大 吉 明治30年5月29日入地
 熊本県下益城郡豊田村大字藤山に於いて出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治40年 出生地へ帰郷する
 大正15年1月10日熊本にて死亡
 遺族 熊本県球磨郡水上村大字岩野252 実(長男)

71番 関  仁 七  明治30年5月29日入地
 熊本県宇上郡花園村大字杉山に於いて 出生
 明治38年3月8日 日露戦に従軍中奉天にて負傷し兵役免除
 明治40年12月8日南兵村にて死亡
 遺族 家族の死亡続きで不明

72番 原 田 武 蔵 明治30年5月29日入地
 福島県相馬郡石神村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和26年7月2日南兵村にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 武志(孫)

73番 川 副 卯 七 郎 明治30年5月29日入地
 熊本県上益城郡木倉村にて出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 大正15年国勢調査員、部落区長二期就任
 大正15年6月 村会議員当選
 昭和18年4月4日南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 辰雄(長男)

74番 国 枝 幸 吉 明治30年5月29日入地
 岐阜県本巣郡山添村にて出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和17年2月14日南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 清 (四男)

75番 花 木 銀 松 明治30年5月29日入地
 愛知県西春日井郡如意村に於いて出生
 明治37,8年日露戦役に出征
 屯田市街に移って農業に励む
 昭和5年12月4日屯田市街にて死亡
 遺族 上湧別町屯田市街 今日松(長男)

76番 池田佐右ェ門 明治30年5月29日入地
 三重県志摩郡畦名村に於いて 出生
 現役中諮問会公有財産委員
 毎時37,8年日露戦役に出征
 明治43年、大正12年の二期部落部長
 昭和3年 村会議員当選
 昭和16年9月7日南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 憲弥(二男)

77番 村 田 粂 七 明治30年5月29日入地
 愛知県東春日井郡柏井村字上条新田に於いて出生
 明治37,8年日露戦役に出征
 明治39年 四の三区に移り木材運搬
 明治43年 屯市にて料理店開業
 大正2年3月 再び四の三区にて農業
 大正7年 五の一区に移り農業
 昭和9年5月1日 兵村にて死亡
 遺族 足寄郡足寄町南町 光雄(四男)

78番 加 茂 寅 三 郎 明治30年5月29日入地
 宮城県柴田郡船岡村に於いて 出生
 明治37,8年日露戦役に出征
 昭和9年10月7日 南兵村二区にて死亡
 遺族 留辺蘂営林署 昇(五男)

79番 髙 橋 五 三 郎 明治30年5月29日入地
 岐阜県本巣郡上貴野村に於いて 出生
 明治37,8年日露戦役に出征
 明治39年果樹園経営
 大正9年 屯田市街にて商店経営
 大正13年9月 札幌にて北洋ゴム工業所経営
 昭和7年6月 瀬戸物、ゴム、皮革製品卸小売業
 昭和12年8月7日 稚内市福沢宅にて死亡
 遺族 余市町浜中町 福沢すなゑ(長女)

80番 菊 地 明 十 郎 明治30年5月29日入地
 福島県伊達郡栗野村二ノ袋に於いて 出生
 現役中供与班長、 諮問会 、公有財産委員等就任
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治39年湧別村、 大正14年、昭和9年、遠軽村会議員
 明治44年12月 遠軽郵便局長
 昭和19年12月16日 遠軽にて死亡
 遺族 遠軽町北区 敏明(長男)

81番 井 上 徳 太 郎 明治30年5月29日入地
 愛知県春日井郡小野村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和32年7月13日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 徳俊(孫)

82番 石 田 友 次 郎 明治30年5月29日入地
 愛知県東春日井郡勝川町にて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征 
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和24年3月10日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 繁(二男)

83番 佐 藤 長 四 郎 明治30年5月29日入地
 福島県伊達郡栗野村字二ノ袋に於いて 出生
 明治33年9月13日 現役中病死し、 弟長三郎、兵籍を相続し、
  日露戦役に応召したが病気で召集解除となる
 長三郎は、富美で2百町歩の牧場を経営し、部落部長、村会議員等を勤む
 遺族 札幌市南7条西5丁目 吉之助(長三郎の長男)

84番 上 野 寅 之 助 明治30年5月29日入地
 三重県志摩郡志島村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治41年 開盛に転居して農業
 明治42年 子ども5人を残して行方不明となる。
  妻フテ開盛で丸焼きとなり、生田原に移り開墾して子どもを養育す
 昭和11年5月4日 函館にて死亡
 遺族 生田原市街 南雲きせ(長女)

85番 中 島 村 吉 明治30年5月29日入地
 新潟県北蒲原郡堀越村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 大正3年 札富美に山林2百町歩を買い山林経営をする
 昭和3年~6年の四期部落会長 昭和7年 村会議員
 昭和6年 民有未墾地百町歩開放
 昭和38年5月16日 死亡
 遺族 上湧別町屯田市街 大十郎(五男)

86番 家 木 弥 三 郎 明治30年5月29日入地
 三重県阿芸郡明村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治45年 下湧別に移り農業
 昭和18年5月 赤平市茂尻にて炭鉱に働く
 昭和22年9月8日 茂尻にて死亡
 遺族 赤平市字茂尻新町5條15合6舎 清一(五男)

87番 射 場 初 火 明治30年5月29日入地
 香川県阿野郡羽床字羽床下に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 大正3年瀬戸瀬に移り農業経営
 昭和15年 札幌市の子供の所へ転居
 昭和17年1月29日 札幌にて 死亡
 遺族 札幌市北12条東12丁目 利行(四男)

88番 坂 田 末 広 明治30年5月29日入地
 熊本県飽託郡広畑村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治40年 網走監獄看守となる
 大正元年 家に戻り農業に従事
 昭和14年3月20日 四の二にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 国利(長男)

89番 安 藤 亀 次 郎 明治30年5月29日入地
 愛知県西春日井郡如意村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治41年 瀬戸瀬に移り農業に従事
 昭和22年4月26日 瀬戸瀬にて死亡
 遺族 丸瀬布町 誠一(孫)

90番 羽 根 坂 仙右ェ門 明治30年5月29日入地
 三重県志摩郡志島村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征 
 大正3年5月 瀬戸瀬に移り農業従事
 大正9年より7ヵ年 村会議員
 大正7年~昭和20年の七期部落部長
 昭和37年 茨城県より西バローに移る
 昭和41年3月2日 茨城に戻って死亡
 遺族 茨城県日立市小木町安良宿4067 弘(二男)
 
91番 菊 地  勤 明治30年5月29日入地
 福島県相馬郡大野村字小野に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 現役中 諮問会、公有財産委員
 明治39年、41年、43年、大正3年、5年、14年、昭和2年の
  八期村会議員
 大正12年、丸瀬布郵便局長 昭和3年、丸瀬布消防組頭、その他
  信用組合長、農会副会長、町内会長等公職が多かった
 昭和32年2月1日 丸瀬布にて死亡
 遺族 丸瀬布町 文彦(孫)

92番 矢 萩 民 冶 明治31年9月入地 
 山形県北村山郡山口村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 38年9月26日 戦地にて病気になり召集解除
 明治44年4月 生田原に移り農業に従事
 昭和9年3月 遠軽にて二男の精米業手伝
 昭和13年4月30日 遠軽にて死亡
 遺族 遠軽町豊里 民弥(二男)

93番 岡 山 次 郎 吉 明治30年5月29日入地
 三重県志摩郡志島村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 大正2年4月 下湧別村計呂地に移り農業
 昭和36年1月18日 計呂地にて死亡
 遺族 湧別町計呂地 益輝(孫)

94番 平 野 嘉 吉 明治31年9月入地
 岩手県二戸郡福岡町に於いて 出生
 現役中 諮問会、公有財産委員
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治39年、大正7年、二期村会議員、部落会長、
  南湧校保護者会長を数年勤めた
 昭和35年2月2日 南兵村二区で死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 昭二(孫)

95番 髙 橋 清 蔵 明治30年5月29日入地
 愛知県宇摩郡小富士村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 川西に移り農業
 大正8年武華市街番外地に転居
 大正10年 奔武華にて農業
 昭和3年 湧別信部内に移転
 昭和15年3月4日 信部内にて死亡
 遺族 札幌市北5条西16丁目 頻義(長男)

96番 阿 部 健 蔵 明治31年9月入地
 山形県北村山郡長瀞村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 屯田市街にて農業に従事
 大正15年 斜里町に移り精米業
 昭和39年8月13日 斜里町にて死亡
 遺族 斜里町本町 年男(孫)

97番 山 口 重 次 郎 明治30年5月29日入地
 長崎県北杉浦郡手戸村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村二区にて農業に励む
 昭和20年8月7日 兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 政雄(長男)

98番 田 中 喜 太 郎 明治31年9月1日入地
 福岡県三井郡善導寺村字木塚に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征 
 佐呂間町中武士に移り農業に従事
 昭和17年5月27日 湧別浜機雷事故にて死亡
 遺族 上湧別町中湧別南区 末雄(四男)

99番 志 方 市 冶 明治30年5月29日入地
 長崎県北松浦郡平戸村大字平戸に於いて 出生
 明治35年4月29日 病死す
 遺族 札幌市篠路町字拓北 音次(義弟)

100番 畑  与 八 明治31年9月入地
 石川県石川郡一木村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治38年3月10日 左胸部貫通の重症を負う
 明治39年2月 負傷の為死亡する
 遺族 上湧別町屯田市街 豊之(甥)

101番 大 川 徳 蔵 明治30年5月29日入地
 熊本県下益城郡豊田村大字塚原に於いて 出生
 現役中 諮問会、公有財産委員
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治36年4月より役場吏員となり途中四年間職を離れる
 大正8年12月 上湧別村収入役
 大正11年4月5日 兵村二区にて収入役現職死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 悦朗(孫)

102番 上 松 宗 太 郎 明治31年9月入地
 和歌山県東牟婁郡那智村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 大正8年 屯田市街にて農産物買入商
 昭和28年10月19日 屯田市街にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 留次(二男)

103番 早 川 松 次 郎 明治30年5月29日入地
 愛知県西春日井郡比良村に於いて 出生
 明治28年 日清戦争、明治37年 日露戦役に出征
 明治41年 瀬戸瀬に転住
 大正7年 遠軽にて宿屋
 大正10年 中湧別にて飲食店
 昭和21年9月22日 遠軽にて死亡
 遺族 遠軽町中区仲通り 庄吉(養子)

104番 髙 橋 巳 ノ 助 明治31年9月入地
 山形県北村郡大富村大字羽入に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征 
 明治38年、3月8日 八家子にて戦死す
 遺族 札幌市南13条西6丁目 政義(長男)

105番 玉 井 仙 次 郎 明治30年5月29日入地
 鳥取県東伯郡灘手村大字札上神に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 瀬戸瀬に移り農業、その後埼玉県に移る
 昭和27年9月25日 埼玉県にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 光男(弟ノ子)

106番 天 野 作 次 郎 明治31年9月入地
 愛知県幡多郡衣崎村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和35年10月24日 兵村にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 健一郎(長男)

107番 大 前 才 蔵 明治30年5月29日入地
 鳥取県東伯郡浅津村大字淺津に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治38年 奉天附近青子台にて重症し兵役免除
 明治41年 負傷療養の為郷里に帰り湯治
 明治44年3月12日 負傷快復せず死亡
 遺族 遠軽町上瀬戸瀬 とみ(弟ノ妻)

108番 菊 地 与 吉 明治31年9月入地
 山形県北村山郡長瀞村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和27年3月4日 兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 喜代松(三男)

109番 古 庄 例 喜 明治30年5月29日入地
 熊本県上益城郡大川村に於いて 出生
 明治27年 日清戦役に出征
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治36年7月 網走監獄看守
 大正2年11月 兵村に戻り農業
 昭和45年2月13日 兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 幸夫(三男)

110番 植 村 与 惚 吉 明治31年9月入地
 滋賀県蒲生郡岡山村大字牧に於いて 出生
 明治27年 日清戦役に出征、帰ってから京都府に勤める
 現役中 曹長事務取扱となり、諮問会長、公有財産委員長、
  学務委員等の公職が多かった。明治36年、諮問会長として
  責任のある事故が起きた
 大正2年 遠軽に移り、更に美唄に移って役場に奉職する
 大正11年4月19日 大阪の病院にて死亡
 遺族 滋賀県大津市船頭町3 隆紀(八男)

111番 赤 星 五 郎 作 明治30年5月29日入地
 熊本県下益城郡豊野村大字巣林に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治39年 郷里熊本へ帰り精米所経営
 昭和19年12月4日 熊本にて死亡
 遺族 熊本県八代郡千丁村大字大牟田1277 和田アキエ(娘)

112番 青 木 喜 之 助 明治31年9月入地
 福井県南条郡杣山村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治39年 佐呂間町に移り農業
 大正8年 再び上湧別に戻り農業
 昭和7年 再度佐呂間に戻り農業
 昭和20年1月9日 佐呂間町にて死亡
 遺族 佐呂間町中武士 菊太郎(長男)

113番 野 口 寿 一 郎 明治30年5月29日入地
 熊本県宇土郡花園村に於いて 出生
 現役中諮問会委員 公有財産委員
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治39年 鉄道に奉職し家に戻り農業
 昭和31年5月19日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 重道(二男)

114番 片 平 富 之 助 明治31年9月入地
 宮城県伊具郡東根村大字坂津田に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治38年7月1日 七師団最後の戦い獅子谷にて戦死す
 遺族 上湧別町南兵村二区 みどり(長男の妻)

115番 菊 地 伊 左 蔵 明治31年9月入地
 山形県北村山郡長瀞村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治43年5月 生田原に移り農業
 昭和3年5月23日 生田原にて死亡
 遺族 生田原豊原 三郎(三男)

116番 小 野 金 次 明治31年9月入地
 香川県阿野郡滝宮村に於いて 出生
 現役中諮問会員
 明治37,8年 日露戦役に出征 
 大正4年 御即位大典に在郷軍人旗手として参列
 大正14年 部落部長
 昭和34年11月7日 南兵村二区にて死亡
 遺族 音威子府 岩夫(四男)

117番 福 田 外 次 郎 明治31年9月入地
 富山県西栃波軍正得村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 大正7年 屯田市街にて飲食店経営
 昭和6年2月 屯田市街にて死亡
 遺族 東京都足立区興野1ノ192 福治(長男)

118番 瀬 古 清 次 郎 明治31年9月入地
 現役中諮問会員
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治45年 村会議員
 昭和18年5月11日 屯田市街地にて死亡
 遺族 上湧別町屯田市街 肇(長男)

119番 上 野 三 蔵 明治31年10月20日入地
 熊本県下益城郡豊田村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 佐呂間町武士に移り農業
 昭和20年8月10日 佐呂間町にて死亡
 遺族 佐呂間町若佐 光男(長男)

120番 谷 本 栄 八 明治31年9月入地
 香川県山田郡西樋田村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 昭和30年1月6日 池田町にて死亡
 遺族 池田町鉄道員公宅 政儀(四男)

121番 梶 原 与 七 明治31年9月入地
 新潟県西浦原郡坂井輪村に於いて 出生
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和26年1月26日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 照一(長男)

122番 平 岡 鶴 松 明治31年9月入地
 明治27年 日清戦争出征
 現役中諮問会員 公有財産委員、乗馬斥候兵
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治39年 四の二部落会長
 明治39年11月 美幌に移り農業、村会議員、産業組合長
  、保護者会長等公職多し
 昭和36年9月13日 美幌にて死亡
 遺族 美幌町美禽 亮(長男)

123番 松 村 松 五 郎 
 福井県今立郡北日野村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和25年7月7日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 正(四男)

124番 佐 藤 庄 左 ェ 門 明治31年9月入地
 愛知県海西郡川沿村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 昭和4年 村会議員当選
 昭和9年 部落部長
 昭和38年9月18日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 正一(長男)

125番 辺 春 福 造 明治31年9月入地
 大分県大分郡西庄内村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征 四台子にて重傷、兵役免除
 大正7年10月29日 南兵村二区にて死亡
 遺族 紋別郡白滝村 谷野菊枝(娘)

126番 沢 崎 太 作 明治31年9月入地
 福井県南条郡秈山村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和32年3月2日 南兵村にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 武信(長男)

127番 城 岡 太 助 明治31年9月入地
 富山県下新川郡貝谷村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和42年3月11日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 喜蔵(長男)

128番 麻 植 長 左 ェ 門 明治31年9月入地
 徳島県麻植郡西尾村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和13年11月7日 南兵村二区にて死亡
 遺族 旭川市東町3丁目 牛太(婿養子)

129番 髙 橋 鉄 五 郎 明治31年9月入地
 岐阜県揖斐郡久瀬村大字乙原に於いて 出生
 現役中諮問会員、公有財産委員等
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治38年 名古屋に移り鉄道奉職
 大正13年 新聞印刷業
 昭和8年より三期市会議員
 昭和14年 県会議員
 昭和20年 弘益印刷会社々長
 昭和24年8月6日 名古屋にて死亡
 遺族 名古屋市千種堀割町1の15 通平(養子)

130番 大 沼 東 吉 明治31年9月入地
 宮城県伊具郡桜村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 樺太落合町へ転住
 昭和16年9月27日 樺太にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 政子(甥の妻)

131番 竹 原 清 次 郎 明治31年9月入地
 石川県河北郡種谷村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 生涯兵村にて農業に励む
 昭和12年6月22日 南兵村二区にて死亡
 遺族 上湧別町南兵村二区 正子(長男の妻)

132番 藤 本 金 太 郎 明治31年9月入地
 兵庫県佐用郡大広村に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治41年 旭川に転住
 昭和37年4月12日 神楽町にて死亡
 遺族 旭川市神楽町本通3丁目 辻松枝(娘)

133番 松 川 隆 樹 明治31年9月入地
 新潟県に於いて 出生
 明治38年10月23日 日露戦役にて負傷し召集免除、
   各地にて柾職をなす。
 大正5年7月10日 相ノ内にて死亡
 遺族 遠軽町瀬戸瀬川向 隆一(長男)

134番 門 馬 伊 太 郎 明治31年9月入地
 福島県相馬郡石上村に於いて 出生
 明治38年3月10日 日露戦役にて北陵で戦死
  弟 熊治相続す
 遺族 上湧別町屯田市街 春義(甥)

135番 板 垣 与 太 郎 明治31年9月入地
 山形県南村山村大字新山に於いて 出生
 明治38年3月4日 日露戦役達子堡にて戦死
  妻ミナ後婿を迎え二女ヨシ長じて家を継ぐ
 遺族 上湧別町南兵村二区 隆(孫)

136番 三 谷 勇 次 郎 明治31年9月入地
 三重県員弁郡梅戸井村字金井に於いて 出生
 明治37,8年 日露戦役に出征
 明治44年7月 佐呂間町仁倉に移り農業兼鍛冶屋
 昭和17年12月 向遠軽に移り農業に従事
 昭和42年7月 浦河にて死亡
 遺族 中標津町 正(長男)

topへ  第3節 功労者及公職選任名簿 
    1項 名誉町民
 
 石田勝喜氏
   昭和50年6月13日名誉町民に推載される。
一、屯田兵の家族として本庁の開拓に尽力され、農村上湧別町の建設に貢献された。
二、氏の父は、明治31年9月屯田兵家族として入地し、開拓のため粒々辛苦、困難の限りを尽くして北限地の開拓に挺身されている。 氏はその長男として明治32年6月12日南兵村二区に生まれ、成長後一時北湧小学校に教べんをとること2年、以後父の家業を継承し農業に打ち込まれ、子弟の教育と農村発展に少なからず業績を挙げられた。
三、継ぎの公職(団体長)を歴任し、町発展のため貢献された。
 (1)昭和3年6月~昭和7年6月、昭和17年6月~昭和22年4月の9年間、村会議員として村行政の進展に尽力された。
 (2)昭和23年6月~昭和30年6月、7年間上湧別町農業協同組合長、昭和29年3月~昭和31年6月、6年間上湧別町農業共済組合長、昭和29年3月~昭和31年6月、昭和32年7月~昭和39年10月、9年間上湧別町森林組合長として、戦後の困難な組合経営と農林業の振興と農業経済の向上に尽力された。
 (3)昭和29年12月~昭和40年8月 11年間町長の重職にあって幾多の懸案事項の解決に努力された功績は誠に大であった。

 主なる業績
 (ア)昭和30年には組合立湧別高等学校を道に移管実現
 (イ)開盛橋永久橋架設(昭和34年)
    上湧別橋永久橋架設(昭和40年)の実現
     開盛橋の場合は、難行を重ねたが政治力が解決している
     道路の効率化が一段と増している
     上湧別橋は、災害と危険を繰り返しの15号線と21号線の
      2橋を1本にしぼって架設を実現し、かつ道々の昇格の下
      地をつくった
 (ウ)上社名淵~上湧別線道々昇格(昭和36年)、富美川、社名淵川、
     中土場川、ニッポコマナイ川の道費河川が氏の行動力をもって実現
 (エ)統合上湧別中学校建設計画を策定し、難行をきわめたが、氏の行動力
     をもって実現の域に達した。

 (参  考)
 上湧別町名誉町民條例 (昭和29年10月16日条例第15号)
         改工 昭和49年3月20日 条例第6号
            昭和55年3月13日条例第11号
(目的)
第1條、この条例は、上湧別町の進展に著しい功績があった者に対し、その功績
 と栄誉を讃え上湧別町名誉町民(以下「名誉町民」という)の称号を贈ってこ
 れを顕彰することを目的とする
(称号を贈る条件)
第2條、名誉町民の称号は左に掲げる事項に該当する者に贈ることができる
 一、本町に10年以上居住している者、若しくは居住していた者又は本町
   出身の者であること
 二、産業の振興、社会福祉の増進又は学術技芸の進展に功績があったこと
 三、町民が郷土の誇りとしてひとしく尊敬する者であること
(選定)
第3條、名誉町民は町長が町議会の同意を得て選定する
(顕彰)
第4條、名誉町民は、町長の賞状をもって顕彰し且つ記念章を贈る
 2、名誉町民の事績は町の公報機関を通じて公事する 
(待遇の特典)
第5條、名誉町民に対し、次の待遇及び特典を与えることができる
 1,その事績を永く伝える方法を講ずること
 2,町が行う式典の参列
 3,終身年金30万円の贈与
 4,死亡の際における相当の礼をもってする弔意
 5,名誉町民として栄誉を維持するため適当と認める待遇及び特典
(称号の取消)
第6條、名誉町民が本人の責に帰すべき行為により著しく名誉を失い町民の
  尊敬を受けなくなったと認めたときは町長は町議会の同意を得て名誉町
  民の称号を取消すことができる
 2,前項によって名誉町民でなくなった者はその取消の日から第5條の規
  定によって与えられた待遇及び特典を失う
(この条例の細目)
第7條、この條例施行に関して必要な事項は町長が別に定める

  附  則
 この條例は、昭和55年4月1日より施行する

2項 表彰者名簿
 上湧別町表彰状例が(昭和32年条例第29号)設定され、町発展のため
功労があったもの、又は町民の模範となるべき篤行のあったものを表彰をし
ておるが、四の二自治会寄りの被表彰者は次の通りであります
 表彰事項    表彰者名   表彰年度   適   要  
自治功労





教育功労
消防功労
社会功労






納税功労(個人)
同(団体)



社会功労

産業功労 
平野嘉平
平野 毅
石田勝喜
池田憲弥
柴山正一
池田英隆
大川一恵
片平武雄
古庄例喜
城岡太助
石田ふゆ
山口キヨ
八巻ヨシ
宇野き志の
城岡喜蔵
鈴木 贇
南湧第3納税組合〃 第1納税組合〃 第2納税組合
〃 北 納税組合
森谷新作
佐藤ユキ
八巻恒雄 
昭和32年

昭和41年

昭和43年
昭和44年
昭和33年

昭和36年
昭和40年
昭和41年
昭和42年
昭和43年
昭和44年
昭和45年
昭和33年
昭和34年
昭和36年

昭和41年
昭和49年
昭和53年
昭和49年 
旧表彰状例該当



















新表彰状例該当

同 

3項 公職者名簿
 公職名    氏  名   在任期間 
議会議員

















農地委員
農業委員







農協理事






農協理事

選挙管理委員会

表彰者審査委員
特別職報酬審議委員


農業構造改善推進協議会委員











農業共済事業運営協議会委員


農業共済事業損害評価委員


農業共済事業損害調査員



農業共済事業損害調査員













社会教育委員


町誌編集調査委員
交通安全指導員

民生委員






 
菊地 勤
平野嘉平

瀬古清次郎
平野嘉吉
川副卯七郎
池田左右ェ門
石田勝喜
八巻半右ェ門
井上徳嘉
城岡嘉蔵
平野 毅
松川寿夫
池田憲弥
麻植平冶
平野 浩
井上徳俊
上松芳男
平野 毅
池田憲弥
井上徳嘉
鈴木 贇
池田英隆
国枝 清
沢崎武信
石田静夫
板垣 隆
石田勝喜
井上徳嘉
鈴木 贇
松川寿夫
上松二雄
上松芳男
石田静夫
平野 毅
井上徳嘉
川副 力
柴山正一
平野 毅
平野 潔
川副正起
上松芳男
平野 毅

平野 浩
大川悦郎
平野 卓
天野健一郎
城岡嘉蔵
八巻光嘉
井上春一
八巻恒雄
池田英隆
川副 力
城岡隆至
沢崎武信

井上徳俊
井上春一
国枝 清

上松一雄
森谷重房
城岡嘉蔵

国枝 清
池田英隆
鈴木 贇
花木利雄

森谷重房
上松芳男
板垣 隆
池田孝嗣
八巻敏一
岡和田幸一
川副 力
城岡隆至
井上春一
池田隆喜
平野英一
八巻英俊
花木 昇
川副 力
八巻恒雄
森谷重俊
伊藤左近
麻植平冶
石田一夫
城岡嘉蔵
鈴木熊次郎
沢崎武信
八巻恒雄
麻植牛太
城岡嘉蔵
井上徳俊
 
明39,7~明45,6 、大4,6~大9,6
明45,6~大3,6, 大8,6~大13,6
昭3,6~昭7,6
明45,6~大3,6
明39,7~明1,6、大11,6~昭3,6
大15,6~昭3,6
昭3,6~昭7,6
昭3,6~昭7,6、昭17,6~昭22,4
昭7,6~昭11.6
昭11.6~昭16.6
昭22.5~昭26.4
昭22.5~昭42.4
昭26.5~昭30.4
昭30.5~昭42.4
昭42.5~昭46.4
昭42.5~昭46.4
昭46.5~昭54.4
昭54.5~現在
昭22.~昭24
昭26.~昭29
昭26.~昭32,昭35.~昭38
昭9.~昭35
昭32.~昭47
昭38.~昭41
昭41.~昭50
昭47.~現在
昭50.~現在
昭23.~昭30
昭32.~昭38
昭30.~昭35、昭38.~昭41
昭30.~昭35
昭41.~昭47
昭47.~昭53
昭23.~昭26
昭23.~昭26
昭26.~昭28
昭43.12.23~昭50.6.30
昭51.12.23~現在
昭42.2.1~現在
昭48.1.6
昭51.12.6
昭52.12.5
昭40.3.25~昭42.7.5

昭40.3.24~昭46.3.30
昭40.3.25~昭41.4.1
昭40.3.25~昭41.4.1
昭42.3.5~昭43.3.24
昭41.4.1~昭43.3.24
昭41.4.1~昭43.3.24
昭43.4.1~昭46.5.14
昭46.6.1~昭49.5.31
昭46.6.1~昭49.5.31
昭49.6.1~昭52.5.31
昭52.6.1~昭55.5.31
昭39.4.1~昭45.5.8

昭45.5.8~現在
昭51.5.15~現在
昭39.4.1~昭44.1.1

昭41.10.1~現在
昭50.10.1~現在
昭39.4.1~昭42

昭39.4.1~昭42
昭39.4.1~昭42
昭42.5.1~昭48.4
昭42.5.1~昭45

昭42.5.1~昭45
昭45.5.10~昭48.4
昭45.5.10~昭51.5.9
昭48.5.10~現在
昭48.5.10~現在
昭48.5.10~現在
昭48.5.10~現在
昭48.5.10~現在
昭48.5.10~現在
昭50.10.1~現在
昭51.5.10~現在
昭51.5.10~現在
昭51.5.10~現在
昭33.~昭34
昭37.~昭42
昭45.~昭47
昭40.3.1~昭44.3.31
昭44.7.1~昭48.3.31
昭48.4.1~現在
昭22.~昭24
昭25.
昭26.~昭37
昭28.~昭29
昭30.~昭31
昭31.~昭55
昭55.~現在

4項 歴代部落役員名簿
年 次   地区会長  農事部長   消警部長
 明治36
〃 37
〃 38
〃 39
〃 40
〃 41
〃 42
〃 43
〃 44
〃 45
大正 2
〃  3
〃  4
〃  5
〃  6
〃  7
〃  8
〃  9
〃 10
〃 11
〃 12
〃 13
〃 14
〃 15
昭和 2
〃  3
〃  4
〃  5
〃  6
〃  7
〃  8
〃  9
〃 10
〃 11
〃 12
〃 13
〃 14
〃 15
〃 16
〃 17
〃 18
〃 19
〃 20
〃 21
〃 22
〃 23
〃 24
〃 25
〃 26
〃 27
〃 28
〃 29
〃 30
〃 31
〃 32
〃 33
〃 34
〃 35
〃 36
〃 37
〃 38
〃 39
〃 40
〃 41
〃 42
〃 43
〃 44
〃 45
〃 46
〃 47
〃 48
〃 49
〃 50
〃 51
〃 52
〃 53
〃 54
〃 55
〃 56
菊地 九十九
 同
 同
平岡 鶴松
池田左右ェ門
 同
 同
菊地 勤
 同
瀬古 清次郎
平野 嘉平
 同
川副 卯七郎
 同
平野 嘉吉
平野 嘉吉
池田 左右ェ門
 同
平野 嘉平
 同
池田 左右ェ門
 同
小野 金次
 同
池田 左右ェ門
 同
八巻 半右ェ門
 同
 同
井上 徳嘉
 同
佐藤 庄左ェ門
 同
野口 寿一郎
 同
 同
 同
石田 勝喜
 同
板垣 藤七
 同
石田 勝喜
吉村 秀太郎
 同
鈴木 熊次郎
 同
池田 憲弥
 同
沢崎 武信
 同
池田 英隆
 同
城岡 嘉蔵
 同
花木 利夫
 同
国枝  清
 同
平野  浩
 同
城岡 嘉蔵
花木 利雄
平野  卓
城岡 嘉蔵
天野 健一郎
八巻 恒雄
鈴木  贇
上松 二雄
平野  潔
森谷 重房
井上 徳俊
上松 芳男
井上 春一
板垣  隆
池田 孝嗣
平野 総一郎
八巻 敏一
井上 徳俊
岡和田 幸一
 







































小野 金太
 同
髙橋 源吉
 同
平野  毅
 同
 同
国枝  清






沢崎 武信
 同
 同
 同




城岡 嘉蔵
花木 利雄
沢崎 武信
天野 健一郎
八巻 恒雄
天野  潔
森谷 重房
 同
 同
井上 徳俊
上松 芳男
井上 春一
板垣  隆
池田 孝嗣
平野 総一郎
八巻 敏一
池田 孝嗣
岡和田 幸一
沢崎 武信
大川 悦朗
 















平野 嘉平
 同
門馬 熊冶
 同
上松 三男平
 同
 同
井上 徳嘉
 同
板垣 藤七
 同
山口 政雄
 同
 同
 同
池田 憲弥
 同
 同
 同
松川 寿夫
 同
 同
 同
 同
 同
城岡 嘉蔵
花木 利雄
 同
松村  正
松村  正
 同
鈴木  贇
 同
八巻 恒雄
上松 二男
 同
森谷 重房
平野 嘉蔵
井上 徳俊
片平 勝市
梶原 喜作
上松 芳男
 同
 同
井上 春一
板垣  隆
池田 隆喜
岡和田 幸一
池田 隆喜
石田 静夫
大川 悦朗
古荘 昭一
川副  力
城岡 隆至
花木  昇
 同
国枝  均
 同
八巻 英俊
 同
佐藤 長次郎
上松  勲
 同
 同

5項 青年団(会)役員名簿(大正11年以降)
 年 次 青年団(会)長  青年団(会)会長(女) 
大正11
12
13
14
15
昭和 2







10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55 
山口 政男
井上  徳
池田 憲弥
平野  毅
森谷 繁四郎
 同
国枝  正



平野  卓
城岡 嘉蔵
小野  巌
井上 寿夫
 同
小畠 正治
松村  正
松島 性造
八巻 恒雄
松島  登
上松 一雄
 同
小野 敏晴
 同
峰谷 俊雄
 同
上松 芳男
山口 精一
板垣  隆
麻植 照義
池田 隆喜
沢崎 武雄
八巻 光嘉
城岡 隆至
川副  力
原田 武志
森谷 雅照
城岡 克行
石田 秀夫
門馬 哲夫
国枝  均
松村 峰一
上松  勲
 同
梶原 照司
 同
森谷 重俊
鈴木 勝義
 同
鈴木 義重
井上 政徳
梶原 秀喜
上松 和博
平野 秀樹
井上 和徳
池田 雅男
岡和田 博
板垣  徳
髙橋 源之 




















竹原 オキヨ
 同
梶原 文子 


小畠 春代
原田 スミ子
井上 昌子
平野 房子
平野 敬子
八巻 幸枝
板垣 喜枝子
大川 純子
麻植 キミ子
八巻 松江
井上 喜代子
国枝 静子
小野 とし子
山口 豊美
沢崎 静子
山口 豊美
山口 美代子
池田 マサ子
山口 美代子
 同
城岡 静子
菊地 和子
原田 とし子

topへ  第4節 警防、火防 
    1項 消防の始まり

  屯田兵村や開拓地の入植初期は火入れが多く、これがしばしば山火事の減員となり災害を招く例が多かった。 部落内に於いては、隅々の火災に対しても全くの無防備の状態であった。
  こうした中にあって、二回も兵屋の火災に遭った南兵村二区の部落民が逸早く、私設消防組を結成した(明治40年5月)のが消防の始めであります。 そして湧別原野の中央に位置すると言う意味から、中湧別消防組と呼称されたのです(昭和43年発刊上湧別町誌による)
  大正7年、当部落も消防の必要性を痛感し、部落財産の処分と部落民の據出金を以て「貳号型腕用喞筒」一基並びに付属品を購入し、同年8月に組員を任命し、11月に上湧別消防組第5部として発足したのです。 そして同年12月に行われた上湧別消防秋季演習に初参加しました。

2項 火の見櫓の建設

  大正7年、消防組の結成と同時に、二本建火の見櫓が建設されましたが、老巧の為危険となったので、四本建ての火の見櫓を、昭和8年に現在の場所に建立されました。
  昭和17年、四本柱の根際に、オンコの木で支柱をしたのが、腐蝕もせずに現在に至っております。(会長板垣 隆七)
  昭和46年、板塀の腐蝕によりこれをトタン張りにして現在は使用されていないが当分kのまま保存されるものと思われます(会長平野 潔)。
  消防は緊急火災の酒家活動が目的であり、従って平素よりポンプ器具の総点検、整備、ポンプの操作等の演習が行われております。
  上湧別消防組の合同演習が毎年、南湧校、北湧校々庭で華かに行われました。
 合同演習は各部が技を競い合い、部の名誉にかけた壮烈な競技であります。
  その中でも、急ぎポンプ取扱いと、一斉放水は演習の花形でもありました。

3項 火防団の設立

  昭和8年6月、六部制の消滅に伴って部落の消防組織がなくなったが、部落で購入した腕用ポンプ及び消火に必要な器材がそのままあったので、部落の火災に対する不安を除くため、火防団として私設することになりました。

4項 防護団結成

  昭和12年、支那事変の勃発と共に、防空に対する指導が行政を通じて部落まで浸透し始め、昭和12年10月部落区長が主体となり、防護団が結成されました。 そして防火管制(灯火を遮断して空襲を避ける)下の警報伝達、警護、救護、消防の担当本やにおける訓練が為された(団長松川寿雄)。

5項 警防団の設立

  戦後体制の確立のため、昭和14年警防団令が公布され、昭和16年6月15日第二区警防部が設立されました。
  昭和17年、戦争は苛烈となり、団員が次々と応召され、団員定数35名の確保が出来なくなり、警防団総会に於て、年齢40歳まで引上を決議して、部落総会に提案し承認を得たのです。
  昭和19年、20年に亘り国土に敵機の襲来が激しくなり、防空演習も度々行われ、町警防団のサイレンで警戒警報が伝達され、部落警防団では、半鐘を打ち鳴らし部落民に伝達し敬慕に当たりました。

6項 南湧火防団設立

  太平洋戦争終結により、警防団を解散し、昭和21年火防団が設立され、団則が次の通り決議された(当時の記録より)。
 第1条 本団は、南湧火防団と称す
 第2条 当団は、部落施設機関とす
 第3条 役員は、総会に於て占拠で選任し任期は1ヵ年とす
 第4条 役員は、団長1名、副団長1名、小頭3名とす
 第5条 団員は、35名を定員とし、年令35歳までとす
 第6条 団員は、団長の命令に従い行動するものとす
 第7条 本団は、水防、並に森林愛護も兼任す
 右、部落役員会に於て決議す (初代団長松村 正)

 上湧別消防団と各部落火防団の総合演習も行われました。
  昭和27年6月18日、初の全町公設消防団と火防団の連合演習が、上湧別小学校々庭で開催されました。
  連合演習前は、10日間全員が夕方集まり熱心に練習を重ねたのですが、急ぎ取扱の結果は残念ながら、ポンプの故障により賞を受けることが出来ませんでしたが、昭和28年には、練習はもとより機械整備にも万全を期した結果、中湧別小学校々庭で行われた演習に於ては、見事優勝の栄を得る事が出来ました。
  南湧火防団 1位優勝旗授与(機械急ぎ競技)
    団 長 上松 二雄
    機械係 平野総一郎、板垣 隆、髙橋修策

 火防団の服装は、町の補助を受け現在に至っております。
 昭和30年、火防団に顧問2名、設置を総会で決議した。

7項 消防番屋建築

  昭和8年、会館の新築により旧部落集会場であった会館を一時消防番屋として会館の横に建替へられていたのですが、昭和29年に部落会館の新築g為され、続いて同年消防番屋の建設もなされました。
  建設費用は、会館建築費用の残金で建てられたのです。
  坪数 7坪半 木造モルタルトタン屋根

8項 トーハツ小型動力喞筒の購入

  大正7年、腕用ポンプ購入以来、部落内は勿論部落外まで火災害に活躍してたのですが、近代的な自動車ポンプの発展に伴い、これが必要性を痛感し、昭和32年部落総会の承認を経て、ポンプの機種選定は旭川まで足を運び、トーハツ旭川代理店と契約して昭和33年4月、次の機種を購入しました。
  小型動力消防ポンプ一式   34万円
   トーハツ空冷二気筒 ガソリンエンジン 28馬力
   ジェットホース 8本 吸管其の他附属品
  購入資金として、町補助金14万円、残20万円については、火防団員が土地改良区の水路の吹上工事に出役した労賃を、これに充当したのです。
  この動力ポンプは、リヤカー式の車に載せて、人力で引いて走りましたが、放水威力は自動車ポンプと変わりありませんでした。

9項 火防自動車購入

  昭和33年、動力ポンプ購入以来、人力によって火災現場に急行していたが、これでは時代に相応しないと云う事から、また、火防団の強い要望もあって、中古車の自動車を購入し、常時、ポンプを自動車に積載することとしたのです。
  然し自動車を置く事によって火防団は、月3回定期点検をしなければならないので、冬期間は何時でもエンジンが始動するように保温に大変苦労しました。 団長になった人は、毎日そのことで神経の休まる暇がなかったという(元団長の話)。
  自動車購入代金12万円は、部落民の寄附によるものです。
  近代化の進むに伴い、道路の整備も完成され、また、国の施策による消防組織の一部事務組合が奨励され、本町に於いても遠軽地区消防組合に加入して、常備消防が設置された。 その為、火災発生時には消防自動車の出動態勢が整ったので、積載自動車は老巧でもあり廃止して、火防団は専ら予消防に重点をおく活動に切換え、団員が各戸を巡回して、啓蒙宣伝に努めております。

10項 歴代団長名(消防、火防)
年 度   氏  名    摘 要 
大正 7年
9年
11年
14年
昭和 2年
4年
8年
12年
16年
18年
19年
22年
24年
26年
27年
28年
29年
30年
31年
32年
33年
34年
37年
38年
39年
40年
41年
42年
43年
44年
45年
46年
47年
49年
51年
53年
54年
55年
 平野 嘉平
 上松 三男平
 門馬 熊冶
 井上 徳嘉
 板垣 藤七
 山口 政男
 池田 憲弥
 松川 寿雄
 松川 寿雄
 城岡 嘉蔵
 花木 利雄
 松村  正
 鈴木  贇
 八巻 恒雄
 上松 二雄
 森谷 重房
 平野 嘉康
 小野 俊晴
 井上 徳俊
 片平 勝市
 梶原 喜作
 上松 芳男
 井上 春一
 板垣  隆
 池田 隆喜
 岡和田 幸一
 池田 隆喜
 石田 静夫
 大川 悦朗
 古庄 昭治
 川副  力
 城岡 隆至
 花木  昇
 国枝  均
 八巻 英俊
 佐藤 長次郎
 上松  勲
 上松  勲
  






 火防団

 警防部 

11項 部落内の災害発生状況

 火 災
  入植後の明治33年に原田竹蔵氏の兵屋が全焼したのが始めで其の後部落内には、上湧別町祭もなく過ごして来たが、明治41年に、平野嘉吉氏の兵屋が全焼した、それ以後昭和の始めまで1件の火災発生もありませんでした。
  昭和になり度々の火災があったが、住宅の火災が1件もなかった事は、不幸中の幸いとも云えましょう。
昭和5年  井上  徳氏    小屋火災 
 7年  川副 辰雄氏    小屋火災 
8年   池田 憲弥氏    小屋火災 
11年   関  シカ氏    小屋火災 
15年   原田 仁吉氏    馬小屋火災 
20年   平野  毅氏    小屋火災 
24年   石田  繁氏    小屋火災 
39年   城岡 嘉蔵氏    小屋火災 
36年   岡和田 幸一氏    豚舎火災 
36年   城岡 嘉蔵氏    豚小屋火災 

 水 害
  四の二部落は、中土場の山麓に位置するため、未開の当時は大雨に、又雪解け水も、部落の中央を横断し、大洪水となって流れたことを物語る跡地が、このことをよく照明しています。
  開拓された後も、大正、昭和の今日でも治の雪解水、又長雨による洪水は度々であり、主に中土場山麓の沢水が、一度に流れ出し、山際を通っている灌漑溝の堤防を欠壊して、甚大な被害をもたらしたこともあります。

 火防団設置依頼主たる災害別出動一覧
昭和18年    湧別川洪水に出動 
19年    南湧澱粉工場火災出動   
20年    平野 毅氏宅火災出動 
21年    中湧別市街火災出動 
22年    上湧別厚生病院大火出動 
23年    野田 実氏馬小屋火災出動   
24年    石田 繁氏小屋火災出動 
25年    四の一区細川斉次郎氏、渡辺善三郎氏宅火災出動 
四の二区斉藤正輝氏、花木俊晴、福島正雄氏宅火災出動 
29年    城岡嘉蔵氏小屋火災出動 
32年    中土場川水害出動
33年    四の三区浅井 好氏小屋火災出動 
34年    四の一区鳥井茂雄氏土蔵火災出動
36年    岡和田幸一氏豚舎火災出動、城岡嘉蔵氏火災出動 
39年    中土場川出水出動 

12項 公設消防手
  昭和8年に上湧別消防組が解散となり、第五部も消滅し、新たに南湧火防団が新設された。
  当時上湧別消防組からの要請により、火防団員の中より消防手として、次の者が選抜されました。
 竹原 清、片平武雄、国枝 正、菊地喜代松、坂田国利、平野 潔
 松島 登、吉村 寛

 消防勤務年数
 氏  名    勤 務 年 数    役職名    
竹原  清  大正14・4・27~
昭和29・6・30 
上湧別消防団長  昭27・11・1~昭~ 
片平 武雄  昭4・4・1~昭36・4
・1 
上湧別消防団
副団長 
昭32・4・1・~昭36 4
平野  潔       
沢崎 武信    上湧別警防団
班長 
昭8
昭18 
吉村  寛  昭21・7・1~
昭33・10・31 
上湧別消防団
上湧別分団長 
昭32・8・1
昭33・10・31 
松島  登  昭22・9・5~
昭 29
   
蜂谷 俊雄  昭36・9・1~
昭35・4・1 
上湧別分団団員   
菊地 喜代松       
八巻 恒雄       

 
 topへ 第5節 部落の自治活動 
    1項 敬老会
   昭和12年、日支事変に端を発し、大東亜戦争へと拡大し、約10ヵ年に亘る長期の戦時体制下に、多くの軍人の召集、或いは徴用で、若い者に替わって老人や、女達が銃後を守ってきたが、遂に敗戦の憂き目を見るに至りました。
  戦前、戦後を通じて、20数年の苦難のうちに齢を重ねた老人に対して、報いられるものは何もありませんでした。
  昭和30年頃から、各部落で、敬老会の話題が出はじめ、部落では、青年会、婦人会が協力して敬老会が催され、昭和33年からは、町からも一人300円の補助金が出され、部落も力を入れて、盛大に年中行事として農閉期に敬老会が催されました。
  当時は老人に対する恩恵は全くなにも無く、慰問、慰安が全然ない為に唯一無二の行事として大変喜ばれました。 婦人会の心のこもった手造りの料理を味わい乍ら、孫や嫁達の隠し芸に和して、お国自慢の唄や踊りも出て、なごやかな場面が展開されたものでした。
  然し、昭和50年からは、町が主催して、9月15日の敬老の日に、70歳以上の高齢者を、一個所の会場に招待して盛大な敬老会が開催されるようになり、楽しい行事がたくさん折り込まれ、町内老人からも、又一般住民からも非常に喜ばれて居ります。

 昭和33、4年の軽費は次の通り
年 別  町補助金    部落支出   計   摘  要 
昭33  9,200円    6,000円  15,200円 記念写真1枚迄贈った 
昭24  9,200円   7,500円  16,700円 皇太子殿下御成婚の年で
殊に盛大であった 

 2項 救農土木事業の実施
   当地方は、北辺の極限地帯であるため、冷夏となり不作の年が多く、畑作や殊に水稲に影響が多く、この為、農家の収入も極端に減少し、生活費にも支障をきたすことさえあります。 この為、町に於ては、被害農家を調査して、救農土木事業の実施を国に要請し、この事業の認定を受けt、12月末までに現金収入の方法を講ぜられたので、農家も町が計画する町道の砂利撒布等の事業に馬搬にて出役し、労賃を得て正月を迎えたものであります。
  昭和29年は、春から季候が悪く、作物の発育が遅れ、不作が予想され懸念して居ったところ、9月26日の15合台風により(洞爺丸転覆)、りんごの落果、倒木や、農作物に壊滅打撃を受けた。 国に於ては、被害農家救済のため、19号線から、20号線の間の西二線道路の両側々溝造成事業が請負制で実施されることになりましたが、希望者が予想外に多く、各自が賢明な努力をして予定より早く公事を完了し、高賃金を受けて、正月を迎えた事がありました。

 
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