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第九編 公安と防災 第一○編 地域活動
上湧別町史top
年 表
第九編 公安と防災 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第1章 治安と法務 | 第1節 警 察 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
犯罪の発生状況 遠軽警察署管内(七町村)における平成八年(1996)の刑法犯発生は331件で同年元年(1989)以降減少傾向にあったが、同七年(1995)から増加に転じている。 同八年は窃盗が圧倒的に多く314件で全体の約95%を占め、次いで粗暴犯が8件、知能犯が5件、その他4件となっている。この増加は、窃盗が前年より一挙に同七年に84件、同八年に44件も増えたことによる。 管内地域別犯罪の発生状況では、人口が最も多い遠軽町に集中している。 昭和六十年(1985)から平成八年までの十二年間は管内の55.9~73.6%を占め、同八年は55.9%であった。 上湧別町は、昭和六十一年(1986)を除いて、常に管内二番目と多く、5.5~19.7%という発生割合を記録している。発生件数は、同五十九年(1984)の一○九件を境に減少傾向にあり、年によって増減はあるもののほぼ二十~七十件台にとどまっている。 上湧別町内の平成八年の犯罪発生状況は、四〇件で前年より一三件増加している。 このうち乗物盗一一件、自販機荒らし八件、かっぱらい四件、次いで事務所荒らし三件、出店荒らし三件、工事場荒らし二件などが報告されている。 少年非行の補導状況は、昭和五七年(1982)以降、全体として減少傾向にある。平成八年の上湧別町内での少年非行の補導は、深夜徘徊の六件のみであった。 遠軽警察署管内の刑法犯発生状況(昭和五九年以降)および少年非行補導状況(昭和五一年以降)は、表1,表2のとおりである。 このほか、遠軽警察署が平成八年に検挙した特別法犯は一四件であった。「水産資源保護法」違反五件、「覚醒剤取締法」違反四件、(漁業法)違反三件、「銃刀法」違反一件などである。検挙件数としては昭和五○年代(1975~)に比べ、大幅に減っているが、平成に入ってからは若干増える傾向にある。
表2 少年非行補導状況(遠軽警察署管内)
警察官駐在所 上湧別町内には、北海道警察北見方面本部遠軽書の出先機関として、中湧別駐在所と上湧別駐在所が配置されている。中湧別は二人、上湧別は一人の常駐三人体制で両所にパトロールカー一台、無線機一台、授令機一台が配置されている。 平成七年(1995)から役場所在地にある上湧別駐在所には警部補が配置され、所長として警察業務を統括している。 犯罪捜査や犯罪・事故の取締り、防犯や事故防止の指導などに当たるほか、住民の相談窓口としても地域に密着した活動を行い、住民に親しまれる交番を目指している。 中湧別駐在所が昭和五七年(1982)に改築されたのに次いで、同六三年(1988)には上湧別駐在所が新築されている。 特に上湧別駐在所の建物は、ドーム型の玄関フードをつけたユニークなデザインが注目され、当時“おしゃれ交番第1号”といわれた。 昭和五○年(1975)以降の歴代駐在警察官は、次のとおりである。 ≪中湧別駐在所≫ 小林昭伍巡査部長(昭和四八年八月~同六一年四月)、髙橋秀章巡査部長(昭和六一年四月~平成四年九月)、島田武彦巡査部長(同四年九月~同八年四月)、千葉英博巡査部長(同八年四月~現在)、神部義幸巡査(昭和四八年四月~同五三年四月)、堂下弘之巡査(同五三年四月~同五九年四月)、北嶋浩巡査(同五九年四月~六二年四月)、沖村雅彦巡査(昭和六二年四月~平成三年四月)、桜哲典巡査長(同三年四月~同五年四月)、湊昌寿巡査(同五年四月~現在) ≪上湧別駐在所≫ 金山武男巡査長(昭和四五年四月~同五一年四月)、佐藤朗巡査部長(同五一年四月~同五六年四月)、原勲巡査部長(同五六年四月~同五八年五月)、川島清巡査部長(同五八年五月~同六○年四月)、斉藤亘巡査部長(同六○年四月~六二年四月)、横山忠明巡査部長(昭和六二年四月~平成四年九月)、道下岑生巡査部長(同四年九月~同七年四月)、吉田義智警部補(同七年四月~現在) |
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top | 第2節 防犯活動 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
防犯協会 遠軽地区防犯協会上湧別町支部は、昭和に八年(1953)に結成されている。 犯罪のない明るく住み良い町づくりを目指して、各関係機関、団体の協力を得ながら防犯思想の普及、犯罪の防止活動に自主防犯の立場から取り組んでいる。 毎年四月ごろ支部総会を開き、前年度の事業・決算報告、当該年度の事業計画・予算を審議して決定するほか、情報交換などを行っている。 支部長は上湧別町長が務め、副支部長は助役と上湧別、中湧別の両分会長の三人が選任されている。 理事、監事を含めた役員については任期二年となっている。 規約上、代議員の任期と定数はなく、支部長が委嘱している。 平成九年(1997)四月一日現在では、支部長、副支部長のほか、理事一四人、監事二人、代議員四六人の構成である。 毎年実施している事業は、防犯チラシ、町広報、看板、防犯旗、広報車などによる啓蒙宣伝活動をはじめ、防犯パトロールの実施、青少年健全育成と非行防止活動の推進、悪徳商法からの高齢者被害防止活動の推進などである。 これらの活動は、春、夏、全国、歳末の各防犯運動に併せて行うほか、お盆、秋祭りなどの諸行事においても防犯パトロールを中心に実施している。 昭和五○年(1975)以降の防犯協会支部長・副支部長は、次のとおりである。 【遠軽地区防犯協会上湧別町支部長】 渡辺要(昭和四○年一○月~同五二年一○月)、出倉定夫(同五二年一○月~同五六年一○月)、佐々木義照(昭和五六年一○月~平成五年一○月)、松田隆(同五年一○月~現在) 【遠軽地区防犯協会上湧別町支部上湧別分会長】(支部副支部長) 髙橋誠意(昭和五二年四月~平成元年三月)、加藤勇(同元年四月~同三年三月)、花木清治(同三年四月~同九年六月) 【遠軽地区防犯協会上湧別町支部中湧別分会長】(支部副支部長) 加藤元一(昭和四九年六月~同五八年二月)、田中重一(昭和五八年三月~平成三年四月)、橋本二郎(同三年五月~現在) 主な防犯活動 毎年六月下旬に展開される防犯運動・自転車総合対策強調旬間では、自転車防犯診断、防犯標語書道展、防犯パレード、街頭啓発、自転車防犯点検などを行っている。 七月に一か月間実施される青少年の非行防止道民総ぐるみ運動では、特別補導。キャンプ場などの巡回指導、街頭啓発、自転車防犯診断のほか、社会を明るくする運動パレード、青少年非行防止吹奏楽演奏会などで趣旨の徹底を図っている。 一○月一一日から二○日までの全国地域安全運動では、老人クラブ会長との地域安全意見交換会、全国防犯功労者表彰伝達、乗物盗防止事業所訪問、住宅防犯診断、防犯パトロール、自転車の防犯診断と防犯登録促進、小中学生の防犯標語作成など多彩な行事を繰り広げている。 恒例の歳末防犯運動は、毎年一二月一日から三一日の大晦日までである。 年の瀬の犯罪を防ぐため、金融機関強盗模擬訓練、盗難等防止家庭訪問、防犯診断、少年補導、防犯パレード、防犯パトロール、車輌防犯診断などを実施している。 防犯の町宣言 町民の防犯意識を高め、犯罪をなくして明るい町を実現しようと、昭和六三年(1988)三月一六日、上湧別町議会は「防犯の町」を決議した。 遠軽警察署管内の七町村が一斉に議会で取り上げ、乗物盗、車上ねらい、空き巣などが各町村で多発していることから、遠軽警察署と遠軽地区防犯協会が呼びかけて実現したものである。 「防犯の町」宣言文は次のとおりである。 私たちの日常生活が平穏かつ安全であることは、町民共通の願いである。 しかしながら、社会情勢の目まぐるしい変化に伴い、犯罪は一向に減少する傾向がみられない。 上湧別町は、町民の平穏で安全な日常を確保するため、町民一致の協力で、青少年の非行防止、長寿社会に対応した高齢者の犯罪被害防止などに努めるとともに、防犯思想の普及高揚を図り、犯罪のない明るく住み良いまちづくりを決意し、ここに防犯の町を宣言する。 以上決議する。 昭和六三年三月一六日 北海道紋別郡湧別町議会 暴力追放推進協議会 上湧別町内では、昭和五六年(1981)ごろから暴力事件が多発し、同五八年(1983)一月には暴力団構成員らが逮捕されるという事件が起こった。 これは、北海道で以前から勢力を伸ばしていた暴力団に対し、関西系の暴力団が新たに北海道に進出し、上湧別町にも入り込んで抗争事件を引き起こしたものである。 不安を募らせた町民は「暴力をこのまま放置すれば、暴力の絶えない町になってしまう」と立ち上がり、上湧別町暴力追放推進協議会を結成することになった。 同協議会は昭和五八年五月、田中重一(防犯協会中湧別分会長)を会長として発足した。 自治会、婦人会、教育委員会、学校、消防団、商工会、農協など町内の各団体の代表者がメンバーとなった。 事業としては、①暴力団には一切金を出さない、②暴力団を利用しない、③暴力団に施設を利用させない、④暴力団には泣き寝入りしない、を重点目標に、約三○店ある飲食店組合加盟店入り口に「暴力追放の店」の看板を出したほか、立て看板、チラシなどにより暴力追放の啓発活動、警察と協力しながらの防犯パトロールなどを実施している。 暴力犯罪の防止に結束した町民の意識高揚を背景に、上湧別町議会は平成五年(1993)四月に、次の「暴力追放に関する決議」を可決した。 私たちの日常生活が平穏で、かつ安全であることは町民共通の願いであります。 しかしながら、最近の社会情勢において犯罪・暴力は一向に減少する傾向が見られず、中でも暴力団は、ますます、資金源犯罪の悪質化、巧妙化、潜在化を強め、町民に多大の不安を与えております。 暴力行為のない住みよい郷土を築くことは、全町民の願いであり、住民生活を脅かす暴力行為は、町民の切なる願いである安全で明るく住みよい町づくりの実現のためにも、断じて許すことはできません。 よって、我々は、町民が安心して暮らせる「暴力のない安全で平穏な地域社会」の実現のため、町民及び関係機関と一体となって、広範な運動を推進し、暴力団の根絶に向け、全力を尽くすことをここに決意するものであります。 以上決議する。 平成五年四月二六日 北海道紋別郡湧別町議会 こうして暴力団の追放運動は、さらに強化された。 平成六年(1994)から上湧別町暴力追放推進協議会と上湧別、中湧別両祭典委員会が遠軽警察署の協力のもと、秋祭りの露店から暴力団関係者の出店を完全に排除することを決めた。 この方針に基づき、出店を希望する露天商からあらかじめ出店申請書の提出を義務づけて厳しい審査を行い、出店場所の区割りや電気設備などについても、両祭典委員会が事前に指定し準備するなど、従来の露天商主導型から地元祭典委員会主導型へ変わった。 これにより、同年以降、上湧別町の秋祭りから暴力団関係者の露店はすっかり締め出された。 平成九年(1997)四月一日現在の顧問・会長・副会長は次のとおりである。 【顧問】 松田隆(上湧別町長)、宮下成昭(遠軽警察署長) 【会長】 橋本二郎(防犯中湧別分会長) 【副会長】 花木清治(防犯上湧別湧別町分会長) 防犯推進委員 |
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第3節 その他の司法機関 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
人権擁護委員 人権擁護委員は国民の基本的人権が侵犯されることのないように監視し、万一侵犯された場合は、その救済のため必要な措置を講じ、また、常に自由人権思想の普及高揚に努めることを指名としている。 任期は三年で、活動は秘密を守り、厳正公平であることが求められている。 人権擁護委員は、市町村長が議会の同意を得て推選した者を法務大臣が委嘱する。 上湧別町は、昭和四八年(1973)に法務省から人権モデル地区に指定され、五年間にわたり自由人権思想の普及に努め、その徹底を図った。 北見人権擁護委員協議会と釧路地方法務局北見支局は、毎年網走支庁管内各市町村で特設人権相談所を開設している。 上湧別町でも毎年一回開かれており、町内から選任されている人権擁護委員と法務局職員が、相談に応じている。 北見人権擁護委員協議会は毎年、特設人権相談所の開設のほか、ポスターやリーフレットの作成配布、作文(中学生)、書道(小学生)の募集、講演会・座談会の開催、委員研修会の開催などの事業を行っている。 昭和五○年(1975)以降の人権擁護委員は、次のとおりである。 【人権擁護委員】 大滝敬二(昭和四三年一月~同五七年六月)、渡辺要(同五七年九月~同六○年一○月)、曽我由仁子(同三八年四月~現在)、古川正道(同六○年一二月~現在) 調停委員 社会が複雑になり、価値観が多様化するにつれ、人間関係をはじめあらゆる生活の分野でトラブルg急増してきた。 しかし、裁判には持ち込めず問題解決の糸口さえ見出せない人達も多い。 こうしたもめごとの当事者が、調停委員会の斡旋のもとに話し合い、お互いに譲り合って妥当な解決を図る制度が調停である。 調停委員は、地方裁判所または家庭裁判所が選任している。 遠軽地区では、調停委員による協議会が結成されていて、担当地区を決めて調停に当たっている。 昭和五○年(1975)以降、上湧別町から選任されていた調停委員は次のとおりである。 【調停委員】 小池正躬(昭和三五年一月~同五二年三月)、三野遜子(昭和四○年一月~平成二年三月)、熊沢らん子(昭和五五年四月~平成七年九月) 保 護 司 昭和二五年(1950)に公布された「保護司法}に基づき、法務大臣から委嘱されるのが保護司である。 過って罪を犯した人たちを、奉仕の温かい心で励まし、再び犯罪を起こさないよう相談相手になるのが仕事で、任期は二年である。 上湧別町は、釧路保護観察所遠軽保護区の管轄下にあり、保護司は現在五人に委嘱されている。 昭和五○年(1975)以降の保護司は、次のとおりである。 【保 護 司】 石田友一(昭和二九年五月~同五二年二月)、川村尚道(同四○年二月~同五○年二月)、出倉定夫(同四四年一○月~同五○年一○月)、酒井幹夫(同四四年一○月~同五一年九月)、坂田キヨ(同四八年一○月~同六二年七月)、髙橋誠意(昭和四九年一一月~平成六年九月)、熊沢権寿(昭和五一年一一月~平成元年七月)、菊地信義(昭和五二年三月~同五三年一一月)、古川正道(昭和五二年一○月~平成三年九月)、加藤勇(同四年一○月~同六年八月)、西川仁吏(同二年四月~同八年三月)、星川昌司(昭和五二年三月~現在)、中川トシ子(平成元年四月~現在)、藤井春司(同二年四月~現在)、八巻志郞(同四年一○月~現在)、髙橋直司(同五年一○月~現在) |
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第2章 交通安全 | 第1節 交通事故 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
発止状況 交通事故は以前として増える傾向にある。 様々な交通安全運動が展開され、交通安全設備の施設が進み、交通指導や交通取締りが強化されているにもかかわらず、事故防止の願いは思うように達成されていない。 平成八年(1996)は、網走支庁管内、上湧別町内とも発生件数、死者数、傷者数のすべてが同七年(1995)に比べて減少している。 町内の事故 兵士八年(1996)の一年間における上湧別町内の事故は、発生件数二三件で前年より五件減少した。 傷者三二人は、前年より八件の減少であった。 事故の原因をみると、前方不注意、ブレーキ操作の誤りなど安全運転義務違反が一七件で最も多く、次いで交差点徐行違反、最高速度違反、交差点安全通行違反、歩行者保護違反、追い越し違反、その他の違反が各一件となっている。 事故の類型別では車どうしの事故が一四件でトップ、車と自転車の衝突が五件、横断中、車輌単独各二件となっている。 また、第一当事者のうち五○歳代が八人、一六歳から二四歳が四人、二五歳から二九歳、六○歳から六四歳各三人、三○歳代、六五歳から六九歳各二人、七○歳代一人となっている。 この結果、五○歳以上のドライバーが一四人で半数以上になっている。 昭和五○年(1975)以降の北海道内・網走支庁管内・上湧別町内の交通事故発生状況は、表1のとおりである。
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第2節 交通安全対策と運動 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
交通安全協会 北海道交通安全協会遠軽地区支部が設立されたのは、昭和二三年(1948)である。 当時は遠軽警察署長が支部長を兼務、会員は自動車の所有者、運転免許の所有者で構成されていた。 車両台数もドライバーもまだ少なく、活動は交通法規の趣致や交通道徳の高揚などが主となっていた。 同二七年(1952)七月、同支部は遠軽地区交通安全協会と改められた。 車輌の増加が目立ち、交通事故が次第に増えてきたのは昭和三○年(1955)以降であった。 遠軽地方でも交通事故が徐々に社会問題化したのは同三○年代の後半に入ってからで、同三八年(1963)に発足した上湧別町交通安全推進委員会とともに、地域の交通安全対策を担う役割が大きくなった。 交通安全協会は、交通安全の確保と交通秩序の維持を通じて地域交通文化の発展を目指すことを目的としている。 具体的には交通安全指導車を走らせて街頭啓発活動を行ったり、関係諸法規の周知徹底、交通道徳・順法精神の高揚、優良運輸関係従業者・交通功労者の表彰などに取り組んでいる。 会員は通常会員、きぃおうかいの趣旨に賛同する者、自動車運転者団体による賛助会員で構成されている。 各町村にはその地域に応じて支部がおかれている。 上湧別町には上湧別、中湧別の両支部が設置されていたが、交通事故が多発し、事故形態が複雑化する中で、効率的にそれらに対応するため、また一町村一支部が主流になってきた。 そこで、上湧別支部一本化の方向が検討されることとなった。 平成六年(1994)一二月一三日、上湧別、中湧別両支部合併についての打合せ会議が始まり、「両支部合併問題専門委員会」、「両支部合併問題常任委員会」が設置された。 翌七年(1995)三月から、数回にわたり両委員会において、会則素案・構成などが協議され、同年一一月二九日に最終的な原案が整い、同八年(1996)四月一二日から一本化が図られて全町民加入による遠軽地区交通安全協会上湧別支部となった。 初代支部長は渡辺肇である。 上湧別支部は平成八年三月一四日、中湧別支部は同年三月一五日に解散した。 昭和五○年(1975)以降、合併前の歴代支部長は、次のとおりである。 【上湧別支部】 沢口一雄(昭和四二年四月~同六○年四月)、出口一三郎(昭和六○年四月~平成八年三月) 【中湧別支部】 坂田直光(昭和四二年四月~平成八年三月) 交通安全推進委員会 高度経済成長の波に乗って乗用車を中心とした車輌の国内生産が急増、家計にゆとりが出てきた国民の間でも自家用車が増え、これに伴い交通事故の発生が深刻な社会問題になった。 国は昭和三八年(1996)六月、「地方自治法」の一部を改正して、地方公共団体に交通安全保持のため適切な施策を講じることを義務づけた。 この方針に基づいて同年一○月六日、関係機関、各種dンタ居、各企業などが結集して上湧別町交通安全推進委員会を設立した。 遠軽地区交通安全協会中湧別、上湧別両支部と協力し合い、街頭指導や広報・啓発活動、交通安全教育、安全施設の整備など幅広い事業に取り組んでいる。 具体的な取り組みとしては、①交通安全家庭新聞を町内全家庭配布、②保育園児対策に腹話術などによる楽しい交通安全教室の実施、③新入生児童に蛍光ランドセルカバー・交通安全教育教材の配布、④町内各老人クラブに夜光反射材・交通安全リーフレットを配布して警察官との懇談会実施、⑤小・中学校児童生徒によるオホーツクセーフティロード作戦で、通過車輌などに対し交通安全を呼びかけ、児童生徒の交通安全意識の醸成と定着を図る体験学習実施などがある。 同委員会のメンバーは、会長を勤める町長のほか副会長(一人)、理事(若干名)、監事(二人)、委員(若干名)となっている。 活動費には町費補助と寄付などが充てられている。 昭和五○年(1975)以降の交通安全推進委員会歴代会長は、次の通りである。 【歴代会長】 渡辺要(昭和四○年一○月~同五二年一○月)、出倉定夫(同五二年一○月~同五六年一○月)、佐々木義照(昭和五六年一○月~平成五年一○月)、松田隆(同五年一○月~現在) 交通安全指導員 車両台数の増加に伴い交通事故の発生も多くなり、深刻な社会問題となってきた。 遠軽警察署は、これらの監視と指導のため、昭和三一年(1956)、各町村の有志に委嘱し、交通指導員を配置した。 交通指導員は朝夕、街頭に出て交通安全の確保に努めたが、交通整理誘導のほか各種行事への参加協力など活動量が増加する一方で、身分保障もなく無報酬であったため、待遇の改善が求められるようになった。 上湧別町は、昭和四四年(1969)七月一日から「上湧別町交通安全指導員設置条例」と「上湧別町苦痛安全指導員規則」を施行し、待遇の改善と身分保障を定めた。 それによると、身分は非常勤特別職とされ、報酬や出張などに伴う費用が支給されることになった。 平成九年(1997)四月一日現在の年額報酬は、指導部長10万7800円、副指導部長10万1400円、指導員9万6000円である。 定員は二二人、任期は二年となっている。 指導員には制服が貸与され、交通安全思想の普及と街頭指導を主な職務としている。 毎月の定例街頭指導をはじめ安全運動期間に歩行者と自転車など軽車両の交通指導、登下校時の児童生徒の誘導、非常災害時の街頭指導など重要な役割を果たしている。 その出動回数は毎年九○回に及んでいる。 昭和五○年(1975)以降の歴代部長、副部長は、次のとおりである。 【歴代部長】 坂田直光(昭和五○年四月~平成元年三月)、本間幸雄(平成元年四月~同九年二月)、伊部和夫(同九年四月~現在) 【歴代副部長】 沢口一雄(昭和五○年四月~同六一年四月)、渋井慶一(同五○年四月~同五八年三月)、田中重一(同五六年四月~同六○年3月)、本間幸雄(昭和六○年4月~平成元年3月)、鎌田正祺(昭和六一年六月~平成九年三月)、鎌田三子雄(同元年四月~同六年三月)、伊部和夫(同八年四月~同九年三月)、坂本忠義(同九年四月~現在)、佐藤文吉(同九年四月~現在) 交通事故死ゼロ運動 交通災害の中でも、最も悲惨な結果を招く死亡事故を、何とかゼロに抑えようという交通事故死ゼロのキャンペーンが、大々的に取り上げられるようになったのは昭和五○年(1975)ごろからである。 網走支庁管内は数多くの観光地、行楽地を抱えているため、六月から一○月にかけての期間(年によって異なる)に事故死ゼロ一○○日を設定し、住民参加の安全運動を展開した。 この期間中、事故死ゼロを達成した市町村には、網走支庁地区交通安全推進協議会から感謝状、記念品が贈られた。 当時、上湧別町における事故死ゼロの記録は四○六日(昭和七年四月一八日~同四八年五月に八日)であったが、昭和五○年四月九日から始まった同運動では、この一○○日運動と併せてゼロ目標を一○○○日に設定し、化帝、職場、地域が一体となって町ぐるみで取り組んだ。 新記録達成を目前にした翌五一年(1976)四月四日には、上湧別町、上湧別町交通安全推進委員会、遠軽地区交通安全協会上湧別・中湧別両支部が共催して交通安全町民大会を上湧別町社会福祉会館で開き、参加した町民代表約三二○人が事故死ゼロへの決意を誓い合った。 こうした町民の熱意が実り、昭和五○年四月九日から続いていたゼロ記録は、同五三年(1978)一月二日には見事、目標の一○○○日を達成した。 これを記念した交通安全町民大会は六日後の一月八日、上湧別町社会福祉会館で開かれ、新たに目標を一二○○日と定めたが、同五三年四月二日に五の三の国道で湧別町在住の二人が死亡するという事故が発生、記録は一○八九日でストップした。 この記録は、平成に入ってからの一一七七日に次ぐ上湧別町における二位にあたる。 その後も毎年知恵を絞った運動を繰り返し、警察と連携して指導や取締りを強化した。 また、重大事故が発生すると非常事態を宣言したり、町民決起大会を召集し、気持ちを敷締めた。 非常事態宣言は、お年寄りを含む町民四人が輪禍の犠牲になった昭和六三年(1988)と二日連続して死者を出した平成元年(1989)に町長が出している。 昭和六三年一二月に佐々木義照町長名で出された宣言は、次のとおりである。 上湧別町交通事故非常事態宣言 交通事故のない回的な地域づくりは、住民全ての願いです。 しかし、北海道の交通事故による死者は、すでに五○○人を超 える尊い人命が失われています。 また、本町においても、十二月四日町内で死亡事故が発生し、 今年、四名の町民が交通事故により人命を失っており、本町 にとっては、昭和四十六年以来の極めて憂慮すべき事態でありま す。 これから季節的にも一段と事故の発生が懸念されるところから 「上湧別町交通事故非常事態」を宣言するとともに、悲惨な交通 事故の防止に総力を挙げて取り組んでまいる決意であります。 町民のみなさんもこの非常な事態を重視して、一人ひとりが、 人の命の尊さに思いを新たにし、運転者も歩行者も交通ルールを 厳守し、交通事故に「あわない」「起こさない」運動を化帝、地域、 職場、団体等で展開し、町民一人ひとりが交通安全意識を高 め自らの事故防止に努力されることを切望します。 右宣言する。 昭和六三年十二月六日 上湧別町長 佐々木 義照 こうした町民の決意にもかかわらず、翌平成元年一一日と一二日に連続して死亡事故が発生したために、四月一三日に急遽交通事故死非常事態町民決起大会を開催すると同時に、交通安全全町民書名運動に立ち上がった。 その結果、七一一五人の町民のうち八二・三%に当たる五八五九人の署名を集め、縁ある警察署へ届け、町民の決意を改めて伝えた。 平成八年(1996)四月一日現在の上湧別町における交通事故死ゼロ最長記録は、同元年五月一三日から同四年(1992)八月一日までの一一七七日間である。 これは、記録がsyターとした前々日と全日に連座区して沖田死亡時上湧別町を教訓として、町民が必死に一丸となって努力した結果であった。 一二○○日の大記録までにあと二三日という同四年八月二日午前一○時二○分ごろ、札富美会館前の町道で、おがくずを摘んだ普通トラックが炉外に逸脱横転して町外の運転者が死亡した事故で、この大記録はストップした。 平成四年以降は交通事故の発生が続き、毎年の交通事故死ゼロ運動を五○○日と設定して、まずその目標突破に取り組んでいる。 同八年五月二十日、目標五○○日を達成、次の目標を一○○○日と設定してゼロ運動を展開している。 同九年(1997)七月一日で九○七日である。 上湧別町交通事故ゼロ運動の推移及び年別交通事故による死者数は、表2,ひょう3のとおりである。 表2 上湧別町交通時こそゼロ運動の推移
表3 年別交通事故による死者数
町ぐるみの運動 全道的に交通事故防止運動が展開されるようになったのは、昭和三七年(1962)に交通安全道民運動推進委員会が結成されてからである。 上湧別町でも同年から広報「かみゆうべつ」などを活用して、交通安全キャンペーンを展開、翌三八年(1963)に上湧別町交通安全推進委員会が発足すると、遠軽地区交通安全協会上湧別・中湧別支部、交通安全指導員が一体となって本格的な運動を推進した。 これに呼応して昭和四二年(1967)から子ども会交通安全駅伝大会が毎年開催されるようになったのをはじめ、同五一年(1976)、建設業の経営者と従業員で組織している建設友の会が、マイカーによる事故防止のため「私用車輌運転管理部会」を設立、同五三年(1978)みのり幼稚園では町内初の幼児交通安全グループの「こぐまくらぶ」を結成して、独自の活動を始めた。 地域住民の間でも交通事故防止の意識が高まり、昭和五一年ごろいまでに上湧別(現、屯市)、池内、南町、中町、北町、中鉄、東町の七自治会に交通安全部会が設置され、交通安全座談会や事故防止研究会などの開催、安全声かけ運動の展開などに取り組んだ。 このうち上湧別自治会は、同五三年に北海道交通安全推進委員会の交通安全推進モデル団体に指定された。 同自治会は二年間にわたって、「交通安全は家庭から」をキャッチフレーズに飲酒運転の追放、シートベルトの着用、夜光反射板の借用、正しい道路横断の励行などの努め、高い評価を受けた。 その後、自治会の交通安全部会は、全町的に輪が拡がり、草の根の高越安全運動に一役買っている。 これに先立つ昭和五一年、屯田市街地の婦人会も北海道交通安全推進委員会から交通安全運動婦人団体に指定され、やはり二年間でモデル的な実践を行い、成果を上げた。 くした地域的盛りあがりを背景に、全町的な交通安全町民大会や総決起大会も機会をとらえては開催された。 さらに、同五四年(1979)には上富美、富美、札富美の地区住民が交通安全宣言大会を自主的に開き、事故防止への決意を示したのが注目される。 このほか昭和五四年に上湧別町建設業協会が交通安全部会を設置するとともに、同五九年(1984)には四の一に交通安全塔を建てて寄贈している。 このあと同六三年(1988)にチューリップ公園のそばに交通安全塔を寄贈し、ドライバーの目を引いている。 中湧別小学校は平成二年(1990)から毎年五月一一日を「交通安全宣言の日」と設定、括弧ぐるみで立ち上がった。 高齢者社会を迎え、お年寄りのドライバーが増える一方、輪禍に遭う事故も増加している。 このため昭和六○年(1985)八月、遠軽警察署長と上湧別町交通安全推進委員会長連名委嘱のシルバー交通指導員制度を導入、平成八年(1996)度の場合は八八人に委嘱状を交付している。 また、老人クラブに交通安全リーフレット、夜光反射材を配布している。 ユニークなのは福寿老人クラブが同元年(1989)から数年にわたって行った「交通安全目撃日誌」の試みである。 この日誌には、街角の人や車の動きで交通安全上で気付いたことを何でも自由に書き込んでもらおうというもので、お年寄りらしい注意深い観察が、安全指導の資料として役立てられた。 交通安全施設の整備も年々進み、平成八年度には、町道主要交差点に警戒ひょおうしき六基を設置、町道交差点にはクロスマークを三五ヶ所に標示している。 交通安全保護帽の着用 昭和五八年(1983)五月一六日午後五時二三分ごろ、中湧別南町の国鉄名寄線一○号線踏切を自転車乗ってわたろうとしていた塾帰りの中湧別小学校の男子児童が、通過列車にはねられて死亡した。 直接の死亡原因が頭部の打撲によるものであったため、犠牲となった児童が、もしヘルメットをかぶっていたら命はとりとめることができたのではないか、という声が事故直後に町民の間から高まった。町内各小、中学校のPTA(でも論議されて着用への機運が盛りあがり、連合PTA(安藤国夫会長)では、「児童・生徒交通事故防止対策会議」を数回開催し、対応を検討した。 この問題は、実は昭和五六年(1981)一二月の町議会で既に上げられ、町教育長も「緊急課題として十分調査検討したい」と答弁していたが、結論を出すに至っていなかった。 このため町議会でも着用の早期実現を求める意見が相継ぎ、小学校では同五八年一○月から、中学校では翌五九年(1984)四月から着用に踏み切った。 ヘルメットの購入については町が二分の一を助成した。 このあと、車にはねられた児童がヘルメットのお陰で大事故に至らず、その効果が実証された。 女性ドライバークラブ 屯市自治会女性ドライバークラブは、平成二年(1990)七月一日に発足した。 女子によるドライバークラブは、網走支庁管内では美幌町に続いて二番目であった。 毎年実施される遠軽地区交通安全協会上湧別支部主催の交通安全パレードに、屯市自治会の女性会員が個人的に参加、彩りを添えていた。 kれらの人たちが中心となり、自治会内で運転免許証を持つ女子に働きかけ、クラブ結成にこぎつけた。 約一二○人の免許所有者全員が参加、初代会長に渡辺幸子が選ばれた。 二代松村真理子に続いて、三代吉田保子、現在は四代石田聖子に引き継がれている。 事業は、交通道徳の向上、会員相互の親睦などを通じ交通安全に寄与することを目的に、①交通道徳の普及宣伝、②交通法規、運転技能などの研修、③会員相互の親睦交流、などを進めることとしている。 具体的には夏や秋の交通安全運動における車輌パレード、町主催交通安全街頭啓発活動などに参加している。 平成七年(1995)に、同クラブは屯市ふる里祭でのバザー売上金を町の交通安全活動に寄付した。 交通安全表彰 交通安全は、道路の機能を改善したり、安全施設設備を整備するなどのほか、国、地方公共団体や警察の指導、取締りの強化だけでは十分な効果が挙げられるとは限らない。 眠姦の安全運動推進団体やドライバーの協力があって初めて実効が期待できるのである。 交通事故防止のために、地域の先頭に立って活躍、大きな成果を残した交通安全功労者や団体、そして永年無事故、無違反を続けた優良運転者には、様々な顕彰制度があり、その功績をたたえ、労苦に感謝している。 顕彰を行っているのは地方公共団体、交通安全推進委員会などのほか、交通安全協会、安全運転管理者協議会、警察、内閣総理大臣など各種各級にわたっている。 また、眠姦の業界団体などが自主的に行っているものもあり、こうした顕彰制度が交通安全運動を下から支えているともいえる。 交通安全関係者の最高栄誉とされる緑十字章には銅章、銀章、金章がある。 このうち銅章、銀章の受賞者は町内から数多く出ているが、金章となるとまだ二人しかいない。 最初の金章受賞者は、遠軽地区交通安全協会元会長で前中湧別支部長の坂田直光である。 当時警察署管内では初の受章であった。 坂田は昭和二三年(1948)四月から遠軽地区交通指導員になったのを皮切りに、遠軽地区交通安全協会長(昭和五一年~同六一年)、同協会中湧別支部長(昭和四二年~平成八年)、運転免許更新時講習指導員(昭和四六年~同六三年)など数多くの役職を努めた。 砂利トラックの交通安全には、湧別川砂利協同組合の事務局長として人一倍努力してきた。 こうした業績が認められ、昭和六二年(1987)一月二一日、全日本交通協会長緑十字章を受章した。 坂田は平成三年(1991)七月にも警察表彰で最高位の警察協力章(警察庁長官表象)を受賞している。 これは北海道警察北見方面本部管内でも初めての受賞であった。 もう一人の緑十字金章の受章者は、(株)横山サービスセンター会長の横山美治である。 平成五年(1993)一月一四日、優良運転者として最高の栄誉に輝いた。 横山は当時で運転歴五二年であった。 この間のトラック運転、マイカー運転を通じ無事故無違反を続けた。 さらに自分の会社の従業員にも無事故無違反、安全運転の指導を徹底したほか、交通安全協会に交通指導車を寄贈したり、自宅前の横断歩道に自費で交通安全間版を設置するなどの社会貢献を果たした。 町内の民間団体では、湧別川砂利協同組合が、昭和四一年(1966)から優良運転者表彰を行うとともに、文書啓発指導、交通法規講習会の開催、組合独自のパトロール制の採用などで効果を挙げている。 また、網走支庁地区交通安全推進協議会長表彰での交通安全功労章の受賞団体は、次のとおりである。 【交通安全功労章受賞団体】 (株)渡辺組、北見興農土管(株)、中湧別郵便局、中湧別保線区、(株)村上組、(株)横山サービスセンター、上湧別小学校PTA生活指導部、NTT中湧別電報電話局、中湧別地区子供会育成連絡協議会、上湧別町青年団体協議会、上湧別町商工会青年部、上湧別町商工会婦人部、屯市自治会 |
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第3節 交通災害共済制度 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
沿 革 網走支庁管内二三町村によって、「地方自治法」に基づく一部事務組合である網走支庁管内町村交通災害共済組合が、昭和四三年(1968)に結成され、翌四四年(1969)一月一日からこの共済制度が発足した。 町民一人当たり年額三六○円の会費を納めて加入すると、加入者が国内のでこで交通事故(汽車、電車、船舶、飛行機は除く。)に遭っても、その被害程度(一等級~六等級)に応じて、五○万円から二○○○円の見舞金を支給するという制度である。 その後、昭和五○年(197)、同五六年(1981)と何度か会費や見舞金基準が改定され、現在は会費が五○○円にアップされたほか、等級も八段階に細分化し、死亡したときの一等級の見舞金を一○○万円、七日以下の治療期間を要する障害を受けたときの八等級は二万円と改めている。 加入と支給の状況 昭和五三年(1978)度以来、加入率が八○%台を超えている。 これまでの最高加入率は、平成八年(1996)度の八四・五%であった。 加入者の実数は、人工の過疎化により減少傾向にある。 見舞金の支給は、件数で昭和五六年(1981)度~同六二年(1987)度、金額で同五六年度~同六三年(1988)度の期間が比較的多く、平成八年度は一八件、一六三万円にとどまっている。 |
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topへ | 第3章 消 防 | 第1節 遠軽地区広域組合 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
沿 革 地域の発展と交通網の整備に伴う生活圏の拡大が顕著になる一方で災害は複雑・多様化し、事故・急病などが年々増加した。 常備消防力の充実強化が、一層強く求められるようになったのである。 これらの課題を広域的に解決するため、昭和四六年(1971)一○月に遠軽地区消防組合が発足し、遠軽地区の遠軽町、上湧別町、湧別町、丸瀬布町、白滝村、生田原町、佐呂間町の七町村で構成された。 消防本部と消防署は遠軽町に、消防支署は外の六町村にそれぞれ設置され、七町村に消防団が配置された。 こうして現在のような消防署(支署)という常設の消防機関と、普段は職業を持ちながら非常時に消防活動に従事する消防団の組織が出来上がった。 この二つの消防機関が両輪となって、火災や各種災害から町民の生活と財産を守っている。 同組合の管轄地域は約二二四○並行㌔で、人口約六万人を抱えている。 昭和四六年(1971)に職員五八人、団員九二三人、消防ポンプ自動車三四台、小型動力ポンプ二九台、防火水槽一四八基をもって業務を開始した。 平成九年(1997)四月一日現在では職員一二六人、団員六九八人、消防ポンプ自動車、水槽付消防ポンプ自動車、山林工作車、積載車など併せて三九台、防火水槽二四八基のほか、救急車八台、指揮・広報車一一台に増強されている。 この間、昭和五九年(1984)に衛生、隔離病舎両組合を合併して複合組合に改め、名称を遠軽地区広域組合としている。 ただし、隔離病舎部門は組合から分離して紋別地域に合併し、現在は消防と衛生の二部門が残っている。 上湧別支署 昭和四六年(1971)の遠軽地区消防組合の設立に伴って発足した上湧別支署は、年ごとに消防隊制を強化拡充した。 それまでは中湧別分団に常備団員一八人が配置されていたが、上湧別支署になって消防職員四人に増員された。 その後も何度か増員し、同五四年(1979)から支署長を含め一四人の大盛になっている。 中湧別には、分遣所がある。 機動力の増強、近代化にも努め、昭和五二年(1977)から平成八年(1996)までの間に更新、または増車している。 現在、消防ポンプ自動車五台(うち水槽付二台)、小型動力ポンプ三台、指令車一台を購入、救急車一台を配置している。 これらは更新、または増車で充てられた。 また、昭和四九年(1974)に消防無線局を開局、連絡通信の正確化とスピードアップを図った。 消防施設の整備も、目覚ましいほど進んだ。 消火栓は一五基と変わらないが、防火水槽は平成七年(1995)度までに七九基に整備されている。 これは昭和四五年(1970)以降、各地にあった防火井戸の地下水位低下によりその機能を果たせなくなってきたためである。 防火水槽の整備は同四九年度から進められ、推理基準に適合した四○㌧級のものを計画的に配置してきた。 平成七年度までの消防水利数推移は、表1のとおりである。 表1 消防水利数推移 (水利基準適合分)
支署の新築庁舎は、昭和六二年(1987)九月に完成した。 町役場庁舎と併せて、その南側に建て替えた。 鉄筋コンクリート平屋建て、約四八五平方㍍の広さで総事業は一億三七四○万円である。 訓練塔を兼ねた昇降装置付ホース乾燥塔、昇降式ホース収納棚、訓練副塔、車輌排気設備、車庫床暖房を備え、事務室、資機材庫などのほか上湧別町消防団のための団長室、団員控室、更衣室なども併置した。 上湧別支署の歴代支署長は次のとおりである。 【消防組合】 吉村秀也(昭和五九年四月~同六一年八月)、小田井宗重(同五四年六月~同五六年一二月)、松橋秀雄(同五七年四月~同五九年三月) 【広域組合】~改組 松橋秀雄(昭和五九年四月~同六一年一一月)、奥谷進(昭和六一年一一月~平成二年四月)、土屋淳(同二年四月~同四年六月)、長谷川末広(同四年七月~同四年一二月)、野田英己(同四年一二月~同六年三月)、阿部正行(同六年四月~現在) 上湧別支署中湧別分遣所の新築移転 中湧別地区の消防力を強化するため、老巧化し、手狭になった中湧別分遣所を従来の中湧別南町から中湧別中町に移転新築した。 新分遣所は、地域住民の生活と密接な関係がある消防dんかつどうを円滑に進めることを目的に、コミュニティ機能を備えた”コミュニティ消防センター”という性格を有している。 総工事費約二億一○九二万円をかけ平成八年(1996)六月二五日に着工、同年一二月に関し、同月から供用を開始した。 鉄筋コンクリート二階建て、延五三七平方㍍の広さである。 一階は消防車二台分の車庫やシンボル的な塔となるホース乾燥室をはじめ消防団事務室、会議室が配置されている。 事務室と車庫を結ぶ通路は、緊急時のスムーズな出動を考慮してスロープを施し、また事務室は消防車の活動に支障がないよう、常に車庫前を見通せる位置に設けている。 二階は九○平方㍍の広さの集会室や二○畳の和式談話室、吹き抜けのロビー、給湯室などを備え、地域住民の利用に解放されている。 この新築移転に伴い老巧化した消防ポンプ車も更新し、水槽付ポンプ車一台を導入するとともに、消防車無線機(移動局一○W一台、携帯局五W二台)を整備した。 さらに分遣所から遠くなりサイレンが聞こえにくくなる地域をカバーするため、最新のサイレン遠隔吹鳴装置を新たに設置し、防災通信大盛の充実を図った。 火災発生状況 産業や生活文化がますます発展し、生活様式の多様化が一層進んだ。 このため電気製品をはじめ石油、ガズなどの危険物を使用する生活が一般的となり、火災が増加し、さらに死者や負傷者を伴う火災の危険性は高まる一方である。 昭和五○年(197)から平成八年(1996)までの二年間に発生した火災は合計一一○件で、一年平均五件である。 一件も火災が発生しなかったのは、同二年(1990)のたった一年だけで、最も多かったのは、昭和五五年(1980)の一○件である。 また、二二年間の死者は七人、負傷者は一五人で、総体の損害は二億五七八三万円に及んでいる。 さいわい昔のような大火はなかった。 車両火災は平成元年(1989)以降やや増える傾向にあり、同四年(1992)と同六年(1994)に二件発生した。 林野火災は昭和五○年代に散発的に発生したが、同五九年(1984)からはゼロを続けている。 この間、最も大きい林野火災は、同五五年五月二三日に○・六㌶(上富美)を消失した事例がある。 危険物施設と防火対象物 社会の進展や発展などにより、町内の危険物施設や防火対象物は、徐々にではあるが増加している。「消防法」の定めでは、危険物施設は石油類など発火性、引火性の強い物品を製造、貯蔵したり、取り扱うところをいい、危険防止のため一定の制限を加えている。 主なものとしては屋外、屋内、地下、移動、簡易のタンク貯蔵所や屋内外貯蔵所、給油所、一般取扱所がある。 また、「消防法」により指定される防火対象物は、万一出火すると危険が大きい不特定多数の人が出入りする施設や駐車場、倉庫などで、やはり防火、避難態勢や施設設備面で一定の認可条件が課せられている。 危険物施設の設置状況は,昭和五七年(1982)に遠軽地区消防組合(のち遠軽地区広域組合に名称変更)管内では四○五件で、このうち上湧別町は五九件(14・8%)であった。 これが兵士元年(1989)に遠軽地区消防組合管内で四○三件とわずかに減少したが、上湧別町内では六三件(15・6%)に増えた。 さらに同九年(1997)四月には同管内で四二八件、上湧別町内で六四件(14・9%)となっている。 一方、指定防火対策物も増加傾向をたどっている。 昭和五七年に遠軽地区消防組合管内で一○六三件、このうち上湧別町内で一三七件(12・9%)であったが、平成元年に同管内一一三○件、上湧別町内一四九件(13・2%)、同九年四月に同管内一二○四件、上湧別町内一八二件(15・1%)と年々増加している。 このような施設は、火災や事故防止の各種運動などに合わせたキャンペーンや定期的な巡回立ち入り検査などを行い、問題のある点などの改善を求めたり、指導に努めている。 救急活動 消防業務の最大の使命は、人命の救助である。 救急車による救急活動は、遠軽地区消防組合発足後、消防署を拠点として進めてきた。 上湧別町では昭和四八年(1973)、渡辺組創立十五周年記念として渡辺正喜社長からセドリック四八年型救急車の寄贈を受けてから、これを上湧別支署に配置し、より地域に密着した活動ができるようになった。 その後、同六○年(1985)と平成六年(1994)に日本赤十字社からⅡB型救急車の貸与を受け、それZぉれ更新している。 昭和五○年(1975)から平成七年(1995)までの救急出動状況は、火災、自然災害、水難による出動はわずか一四件で非常に少ない反面、交通やスポーツに伴う事故、労働災害が目立つようになった。 急病患者の搬送の増加も著しく、最近は年間七○~九○件に達している。 全体の出動件数は年ごとに増え続け、同七年は一七九件を記録、一一年前の昭和六○年の一四一件に比べ約一・三倍となっている。 救急出動件数および搬送人員の状況は、表3のとおりである。 表3 緊急出動件数および搬送人員(昭和50~平成7年、5年ごとの資料)
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第2節 消防団 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
組織と人員 上湧別町消防団本部の下に中湧別、上湧別、開盛の三分団が配置されている。 団員の定員は、人口過疎化の進行につれて減員されている。 昭和五一年(1976)には一三七人であったが、同五五年(1980)に一一八人、同五八年(1983)に一○六人に改定され、現在に至っている。 平成九年(1997)四月現在の団員の配置は、団本部一三人(うち女性団員一○人)、中湧別分団三九人、上湧別分団二九人、開盛分団一九人である。 機動力の配備は中湧別分団(中湧別分遣所)に消防ポンプ自動車一台、水槽付消防ポンプ自動車一台、小型動力ポンプ一台、上湧別分に消防ポンプ自動車一台、小型動力ポンプ一台、開盛分団に消防ポンプ自動車一台、小型動力ポンプ一台、このほか支署に水槽付消防ポンプ自動車一台と指令車一台、救急車一台が常備されている。 消防設備は、支署に基地・固定局を置き、各消防車の移動局やその他一○台の携帯局と結んで、緊急体制に備えている。 また、各分団二設置されている緊急伝達システム装置は、団員の召集や附近金住民の避難命令をサイレンや放送で知らせるもので、設備近代化の一環として昭和六○年(1987)、平成二年(1990)の両年度で整備された。 歴代消防団長は、次のとおりである。 【消防団長】 ○上湧別町消防団 片山勝茂(昭和三二年四月~同四二年七月)、三宅悟(同四二年七月~同四六年一○月) ○消防組合に改組 三宅悟(昭和四六年一○月~同五一年一二月)、塩田輝正(同五二年一月~同五四年三月)、 出口一三郎(同五四年四月~同五七年三月)、鳥羽喜市(同五七年四月~同五九年三月) ○広域組合に改組 鳥羽喜市(昭和五九年四月~同五九年八月)、花木清治(同五九年九月~同六三年三月)、 福本正巳(同六三年四月~現在) 全道大会で準優勝 消防団の活動としては、春と秋の火災予防運動や歳末警戒時の啓蒙や査察、出初め式、春と秋の消防演習などがある。 このほか毎月の定期訓練も行い、ポンプ操法の技術などをみがいている。 遠軽地区連合消防演習は、後期組合加盟の七町村の持ち廻りで毎年一回開催されている。 上湧別町では昭和五二年(1975)、同五九年(1984)、平成二年(1996)、同九年(1997)に開かれた、同年七月六日、チューリップ公園駐車場・文化センターTOM前広場で行われた第三九回演習では、消防車一九台・指令車七台と団員四九六人、署員四九人が参加した。「消防精神の高揚と技術の錬磨」、「指揮統率、命令の徹底」、「消防団相互の連携強化」などを目的に、日ごろの訓練の成果を披露した。 平成三年(1991)、上湧別町消防団が日本消防協会から竿頭綬を受けた。 昭和五○年(1975)に次ぐ栄誉である。竿頭綬というのは、規律が厳正に保たれ、技能も優れていて、しかも消防施設が充実し、日ごろから使命達成のために努め、成績優秀な消防団に与えられる栄誉である。 また、平成五年(1993)八月、江別市で開催された北海道消防操法訓練大会の「小型ポンプ操法の部」に出場した上湧別町消防団は、一年以上にわたるっも羽訓練の成果を十分に発揮して見事、準優勝に輝いた。 出場隊員は、北村茂、吉田耕造、細川洋之、武田昌一の四人で、北村茂が隊長を務めた。 女性消防団員の誕生 消防団の新しい顔として平成五年(1993)四月一日から登場したのが女性団員である。 女性団員の登用は、優しく気配りの行き届く女性の特性を生かして、住民に密着したきめ細かな予防活動を展開しようというもので、二三歳から四八歳まで(平均年齢三五・二歳)の主婦を中心として一○人が採用された。 役割は、緊急時の後方支援のほか、お年寄り世帯、独居老人宅などに対する予防査察巡回や啓発活動で、その感性が役立つものと期待されている。 また、それまで男性だけで堅いイメージの消防団に、さわやかな雰囲気を漂わせることになり、ソフトムード化に一役買っている。 平成九年(1997)四月一日現在の女性団員は、次のとおりである。 【女性消防団員】 片岡節子、遠田涼子、矢野寿江、黒岩榮子、佐々木和枝、斉藤則子、井上暁子、 大野弘美、黒川寿子、井上美奈 団員不足と高齢化 消防団が抱える問題の一つは、団員のなり手が少なくて定員を満たすことができないことと、団員の高齢化である。 いぞれも全国、全道的な傾向であり、将来に不安を残している。 社会の仕組みの複雑化や価値観の変化などに伴う自衛消防意識の低下が原因である。 上湧別町消防団においては、ここ数年定員を満たす団員数が確保できず、慢性的な団員不足の状態である。 平成九年(1997)四月一日現在では、定数より六人少ない一○○人にとどまっている。 特に若年層の入団希望者がほとんどみられないことが、団員の高齢化にもつながっている。 団員の平均年齢は平成九年四月一日現在で、約三九・五五歳に達している。 同五年(1993)に平均年齢三五・二歳という女性団員が入団したため、若干低下したとはいえ、昭和六三年(1988)四月一日の三八・○八歳に比べ一・四七歳もアップしている。 既に半数以上が四○歳を超えている。 しかし、上湧別町消防団は、災害出動、演習、訓練、警戒・査察、点検など毎年八○回前後出動している。 平成八年(1996)の出動は一○○回に及び、延べ出動人員も二一七七人を数えている。 消防団員数及び平均年齢の推移は、表4のとおりである。 表4 消防団員数および平均年齢の推移(定数106人)
火 防 団 地域集落の自衛のために組織されていた自治会独自の火防団は、現在も南兵村一区、南兵村二区、南兵村三区、富美、上富美で存置され、活躍している。 しかし、長い歴史を持つ火防団も、町の消防体制の確立に伴い、その役割を終え解散したところもある。 旭、五の三、五の一などが既に姿を消しているが、残る五つの火防団は、町や消防支署の指導を受けながら、火災や水害などに出動するとともに、防災意識の高揚に努めている。 それぞれの火防団には、動力ポンプ一台が配置されている。 町は、自治会などが消防施設を設置したり改修する場合に、その軽費に対して一定の費用を助成している。 |
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第4章 災害と防災 | 第1節 防災体制 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
防災会議 昭和三七年(1962)施行の「災害対策基本法」に基づいて、翌三八年(1963)に設置された上湧別町防災会議は、毎年一回会議を開き、災害情報の収集、機関相互の連絡調整、地域防災計画の点検などを行っている。 会長(町長)と委員二九人で構成している。 災害発生時に備えて設置されている災害対策本部は、平成四年(1992)の二度にわたる台風被害に対して、消防本部、消防団に出動を要請するなど非常配備を行い、被害を最小限度にとどめる対策を講じた。 上湧別町は幸い地震などの災害は少ないが、台風や集中豪雨、強風による被害がたびたび発生している。 これらの被害をできるだけ小さく食い止めるには、正しい情報をより早く知り、避難を含めた万全の備えをしておくことが大切である。 上湧別町地域防災計画では、災害情報伝達系統を確立するとともに、避難場所を設定するなど、万一に対応している。 水防協議会 水防法により、上湧別町水防計画の策定や水防に関する重要事項を調査、審議するため昭和六二年(1987)に上湧別町水防協議会が設置された。 会長(町長)と委員二五人衣にで校正紙、河川の洪水などの水害に備えて水防本部を設置している、防災会議の災害対策本部と一体となって活動に当たるが、重要水防区域として湧別川右岸一四号線地先(延長三○○㍍)、湧別川左岸一六号線~上湧別橋(延長一一○○㍍)の二ヶ所を指定している。 また、湧別川の遠軽町字川向、上湧別町字開盛、上湧別町字中湧別の三ヶ所にある網走開発建設部網走西部河川事業所管轄の水位観測所で情事水位を観測して、万一に備えている。 林野火災予消防対策協議会 禁煙、観光開発、道路交通網の発達、レジャー人口の増加などにより森林利用が多様化している。このため林野火災の危険性は高まっている。 林野火災予消防対策協議会は上湧別町、上湧別町森林組合、森林愛護組合、町有林巡視人、遠軽地区広域組合上湧別支署、上湧別町消防団、火防団、警察官駐在所、自治会、上湧別町農業協同組合、上湧別町教育委員会、小学・中学・高等学校、上湧別町観光協会、上湧別町建設業協会、陸上自衛隊第二五普通科連隊、網走支庁、林業関係企業の代表で構成、町長が会長を勤めている。 林野火災が心配される期間を危険期間(四月二○日~六月三○日)、予防強調期間(四月二○日~六月一○日)、無煙期間(五月一○日~五月三一日)と設定、町内関係期間が一丸となって毎年、林野火災予消防運動を展開している。 この期間、広報車、標語、ポスターによる警防思想の普及宣伝、入林者に対する携帯用灰皿の携行などの指導、林野の享司、火入れの安全対策に徹底などの活動を行っている。 |
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第2節 治 水 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
水害と治水対策 上湧別町内を流れる河川は、大小合わせて一九となる。 一級河川の湧別川水系を本流として、これに合流する一次支流一級河川の中土場川、富美川、ヌッポコマナイ川と、二次、三次支流の普通河川がある。 これらの河川は、開拓時代から豪雨や融雪によって幾度となく増水氾濫を繰り返し、農地や橋、道路、住宅に被害をもたらしてきた。 人命をも犠牲にする悲惨な被害もあり、治水への期待は常に大きかった。 しかし、治水対策は遅遅として進まず、ようやく戦後の昭和二六年(1951)以降、上湧別河川を中心に着手、その後逐次改修整備が行われた。 このため国や道が管理する一級、二級の河川については、上湧別町内において水害に見舞われることは少なくなったが、普通河川は国営・道営の農業基盤整備事業などにより改修工事の手が加えられているが、いまだ原始河川状態のところも残されていて、早急な改修整備が待たれている。 平成四年(1992)には、二度にわたり台風による大きな被害を受けている。 まず同年八月九日、台風一○号崩れの低気圧が北海道を通過したのに伴い短時間に集中豪雨が襲い、同日午後九時三五分ごろ湧別川の水系が危険な状態に達し、その後も増水が続いたため旭地区や東町地区など四ヶ所で浸水が始まった。 町は直ちに対策本部を設置して、排水活動などを行い被害を最小限にとどめたが、牛舎浸水四戸、農作物冠水九・八㌶まどの農業被害(被害額400万2000円)、河川四ヶ所、道路九ヶ所、橋梁二ヶ所、町道一ヶ所が決壊するなどの土木被害(被害額1182万9000円)が出た。 この年の九月一一日から 一二日にかけては、さらに大きな被害に見舞われた。 北海道東部を通過した台風一七号は、八月九日を上回る手中豪雨をもたらした。 各地域の小河川が氾濫、最初は地域の火防団が応急措置をしていたが、それでも被害が拡大しつつあったので、対策本部は消防本部に出動を要請し、浸水家屋の排水活動を行った。 河川増水による家屋浸水、農作物の流失、浸水などの被害のほか崖崩れなども発生、わずか一か月ほどの間に二度の災害を受けた町民はいまさらながら自然災害の恐ろしさをかみしめた。 牛舎などの浸水家屋一五戸(うち床上浸水1戸)、農作物被害二○二戸・一二六一㌶(被害額7億73万8000円)、河川(一三河川一九か所)、道路(一六号線三二ヵ所)、林道(一路線二ヵ所)、灌漑溝(一ヵ所)の土木被害(被害額159万4000円)が報告された。 給水対策が進んだといっても、自然の猛威の前には万全ということはあり得ない、改めて全般的な防災整備の重要性が認識されるようになった。 湧別川の改修事業 湧別川に本格的な治水工事の手が入ったのは、昭和七年(1932)の大水害が契機となってのことである。二年後の同九年(1934)に改修工事に着手した。 このあといったん中断されたが、昭和三二年(1957)度に湧別川改修全体計画が策定され、、同三五年(1960)の第一次治水五ヵ年計画(富美左岸築堤工事等に着手)から第二次(上湧別右岸築堤工事等に着手)、第三次(遠軽右岸築堤工事等に着手)、第四次(遠軽橋下流岩石発削工事等に着手)、第五次(湧別左岸築堤嵩上げ工事等)、第六次(湧別左岸五号樋門改築工事等)、第七次(上湧別右岸築堤嵩上げ工事等に着手)、第八次(遠軽右岸低水護岸工事等)にわたり五ヵ年計画を進めてきている。 また、平成九年(1997)から同一三年(2001)までの第九次(河口部の改修等)が進行中であり、現在では上湧別町の流域においてはほぼ安心できる状態になっている。 中土場川改修工事の完成 中土場川は、一級河川の湧別川下流部に合流する緩流河川である。 湧別町、上湧別町、遠軽町の町介に標高四一八㍍の山麓がその源となっている。 延長一三㌔㍍の中小河川だが、改修の手が加わっていない原始河川であったため、融雪期や豪雨時にはたびたび氾濫を繰り返す”暴れ川”であった。 昭和四一年(1966)六月にも、大きな被害を出している。 このため、地域住民から流域全体の改修を求める声が強く出されていた。 昭和四○年(1965)に二級河川、同四四年(1969)に一級河川の指定を受けたのを機会に、改修要望の機運がさらに高まり、北海道は同四六年(1971)度から改修工事に着手した。 山側の灌漑用水路に沿って九・四三三㌔㍍の新水路を掘削、支流のヌッポコマナイ川三六六㍍を切り替えた。 さらに、延長11㌔㍍の築堤、一六㌔㍍の護岸や道路橋一四、鉄道橋一、水路橋二などの付帯工事も行い、一八年の歳月と総工事費約47億3000万円の巨費をかけた工事が昭和六三年(1988)一一月二完了した。 流域面積は約四三・二平方キロ㍍に及び、このうち四・二平方㌔㍍が氾濫の被害から解放されて、耕地として生き返った。 湧別川支流一級河川の富美川でも、昭和六三年以降掘削工、護岸工が実施されており、平成八年(1996)までに延二七八○㍍を完了、水害に強い河川に生まれ変わりつつある。 網走開発建設部網走西部河川事業所 昭和二六年(1951)、北海道開発局設置とともに、網走開発建設部湧別川上湧別改修事業所が中湧別に開設された。 同所は堤防がない地区の築堤と河道安定を図るために護岸、内水処理などを行う一方、既設堤防の除草、高水敷区間の切り開き、樋門捜査、河川巡視などの維持管理に当たった。 昭和五九年(1984)四月から、上湧別河川事業所と改称したが、同六三年(1988)四月から網走開発建設部渚滑河川事業所を統合、新しく網走開発建設部網走西部河川事業所として再スタートした。 事務所を中湧別に置き、湧別川と渚滑川の管理に当たっている。 昭和五○年(1975)以降の歴代所長は、次のとおりである。 【湧別川上湧別改修事業所】 山川雅三郎(昭和五○年)、宮川易(同五一年)、川本定男(同五二年~同五四年)、 髙橋原充(同五五年~同五六年)、田中清(同五六年)、角敏行(同五七年~同五九年) 【上湧別河川事業所】 角敏行(昭和五九年)、森本康夫(同六○年~同六二年)、近光一(同六二年) 【網走西部河川事業所】 近光一(昭和六三年)、大谷敏明(平成元年~同二年)、執行義久(同三年~同五年)、 五十嵐誠(同六年~同八年)、髙橋高吉(同九年~現在) |
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第3節 治 山 | 平成四年(1992)の台風一七号被害で一部に山崩れが発生したが、幸い町内では山崩れなどによる災害は少ない。 しかし、土砂の流出のおそれのあるところなどはあらかじめ保安林を設けたり、樹木の植栽、芝張りなどで災害防止に努めている。 保安林については、道営小規模治山事業(道単独事業)として平成五年(1993)度に上富美九一九番の一・五㌶、翌六年(1994)度に開盛七一四番の一・一㌶を指定している。 いずれも民有林だが、南兵村一区(四の一)の国有林二五三・五二㌶も保安林に設定している。 町内の名勝地、五鹿山の山腹の一部に、崩壊して土砂が流出する危険ヵ所があるため、昭和六○年(1985)から平成六年にかけて治山事業を行った。危険な山腹斜面に土砂流出防止の土留工事と早期緑化をはかるための芝張りと植栽を施し、第一期、第二期工事合わせて5434万3000円を投入した樹木の植栽は二六四本となった。 平成七年(1995)度からは、開盛公園内の小規模治山事業を実施して云える。 池に流れ込んでいる渓流上部の不安定土砂の流出を防止、河の勾配を緩和するなどして園内への土砂の流れ込みを未然に防ぐことを目的としている。 同九年(1997)までに3000万円を投ずる計画である。 |
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第10編 地域活動 | 第1章 住民活動 | 第1節 地域づくり助成事業 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これより先、漢数字表記を変えます。 | 地域づくり振興助成事業 自治会や老人クラブなどの 地域組織が、連帯感に基づいた自治意識を盛り上げ、心のかよいあう暖かな地域づくりを進めることを目的に、町独自の制度として昭和五六年(1981)五月一日に「地域づくり振興助成補助金交付要綱」(以下「要綱」という)が施行された。 ここでいう地域組織とは自治会、老人クラブのほか交通安全協会支部、防犯協会支部、身体障害者分会、母子会、小中学校PTA、青年団体、婦人団体、資少年指導センター、子ども会、スポーツ少年団、暴威スカウト、文化段田、体育団体、商工団体、勤労者団体である。 補助金の対象となる事業は、①生活環境の整備に関すること、②死活上の安全確保に関すること、③レクリエーション施設の整備に関すること、となっている。 要綱は、これまで何度か改正されて現在に至っている。 補助の実績 要綱施工時初年度の昭和五六年(1961)度は、ごみ焼却が(一六基)、札富美自治会の花壇設置(一ヵ所)、五の一自治会と四の一自治会の公園内遊具設備(各一式)の四件に、合わせて66万3000円の補助金が交付された。 自分たちが住み、活動する身近な地域や団体において、自らのテで住みよい環境作りが行政の補助のもとで実行できるとあって、町民の関心は高く、次年度以降もこの制度の活用が相次いだ。 補助を受けた事業主体は、主として自治会である。 事業内容としては、ゴミステーションや防犯灯の設置など生活環境、安全施設の整備に関する件数が圧倒的に多く、、公園施設整備、バス待合所設置などの活用も多い。 これらの事業の中で、補助額が最も大きいのが自治会の会館の増改築である。 増改築だけみると、昭和五七年(1982)度から平成八年(1996)度までの間に延べ一二件、4266万2000円が交付され、全体の交付額の約三分の一を占めている。 平成八年土間での一五年間に対象となった事業は、延べ三九二件で、補助金の交付額も1億2035万2000円に達している。 一年平均では二徳・一件、約30万7000円となっている。 集会所の整備 集会所は、各種集会、打合せ、憩いの場、懇親の場として欠かせない施設で、自治会活動の拠点となっている。 活用しているのは自治会のほか農事組合、婦人部、子ども会、老人クラブ、各班などであり、冠婚葬祭に活用される場合もある。 要項では、これらの施設が老巧化したり、手狭になったとき、その増改築、補修、維持管理に対しても補助金を交付している。 補助率は、初め事業費の二分の一以内であったが、やがて三分の一以内に改善され、現在は四分の三以内になっている。 その補助を受けて建設し、維持・管理している集会所は、次の表のとおりである。 集会所(要項対象)
集会所(国および北海道の補助事業対策)
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第2節 住民運動 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コミュニティ活動 自治省のモデル・コミュニティ施策が昭和46年(1971)度にスタートした。 この構想は、住民が新しい地域的な連帯意識のもとに、安全で回的な日常生活が営めるような近隣社会(コミュニティ)の形成を促進しようというもので、1970年代(昭和45~)における地方行政に大きな課題であった。 自治省としては初年度に各都道府県に一ヵ所ずつモデル徳を指定する方針で、北海道からは深川市納内地区が第一号に選ばれた。 しかし、この構想を新しいまちづくりの根幹として重視した北海道も独自で取り上げ、上湧別町中湧別地区ただ一ヵ所をモデル・コミュニティ地区に指定した。 この指定に基づき組織作りが進められ、中湧別地区コミュニティ協議会が昭和46年12月に設立された。 地区は旭、五の三、北町、中町、みなみまち、東町、中鉄(中湧別鉄道自治会)、五の一、の8自治会で構成、①生活環境を整え、明るい生活を営みましょう、②教養を高め、暖かい人間関係をつくりましょう、③スポーツに親しみ、健康の増進に努めましょう、④交通道徳を守り、交通事故をなくすよう努めましょう、⑤心の触れ合うコミュニティづくりを進めましょう、⑥省資源、省エネルギー運動を進めましょう、をコミュニティプランとして掲げた。 協議会には環境、体育、青少年、社会などの各部会が設けられ、プランにのっとって花いっぱい、一斉清掃、ゴミゼロ、あいさつ、青少年健全育成、歩け歩け、交通安全、地域づくり、省資源などの各種運動に取り組んでいる。 昭和53(1978)12月には地域住民による自主的な組織として上湧別地区コミュニティ協議会が発足した。 四の一、四の二、四ノ三、屯市、池内、札富美、富美、上富美、開始の9自治会で構成した。 これにより全町にわたってコミュニティ活動が広がることになった。 現在は文化活動、青少年活動、生活環境、地域活動、交付活動の6振興部会を設け、積極的な活動を推進している。 なお、その後開盛は、上湧別地区から独立して活動している。 具体的な活動としては、年2回の古紙・空きびんの回収、子ども会リーダーの養成、パークゴルフ大会の開催、各種清掃参加、花いっぱい運動の推進、神社講演にある藤棚の造成と管理、東山樹木公園の電飾点灯、リンゴ並木の管理と収穫などを行っている。 特に収穫した林檎を「湧愛園」、小学校、保育所などに配り喜ばれている。 コミュニティづくりの主役はあくまでも県李と責任を自覚した住民一人ひとりといわれている。 それだけに地域住民の熱意が、この住民主体の活動を盛り上げる鍵ととなっている。 運動はその性格上、一朝一夕に成果を期待できるものではないが、着実に1歩1歩進んでいる。 コミュニティ協議会歴代会長は、次のとおりである。 【中湧別地区コミュニティ協議会】 我妻嘉人(昭和46ねん~同7年)、坂田直光(同47年~同57年)、 木村久(昭和57年~平成3年)、三宅悟(同8年~現在) 【上湧別地区コミュニティ協議会】 樋口雄幸(昭和63年~同61年)、川副正起(昭和62年~平成2年)、 上松芳男(同3年~現在) 新生活運動 毎日の生活からムリや無駄をなくしたい、と誰しも願いながら昔からの習慣や世間体から、なかなか実行できないものである。 生活の簡素化を全町的に運動として広げようと、昭和51年(1976)6月、上湧別町新生活運動推進協議会が結成された。 町が音頭をとり、自治会、農協婦人部、連合婦人会、町労働組合(地区労)、老人クラブなどのほか各事業所に呼びかけた。 同協議会は、会合などの時間厳守の励行をはじめ、結婚祝賀会、葬儀、見舞い・祝い金について申し合わせた重点推進事項の徹底を図った。 結婚祝賀会については、会費制として会費は2000円以内、葬儀の香典は2000円以内、見舞い・祝い金は1000円以内というのが内容であった。 これらの金額は時代の推移とともに改定され、平成9年(1997)度現在、結婚祝賀会会費4500円以内、香典と見舞い・祝い金がいずれも3000円以内となっている。 重点推進事項の実施状況は全般に必ずしも十分とはいえない。 特に結婚祝賀会については徹底が難しく、町内施設で開催されたもののうち、新生活運動に沿って実施されたのは平成元年(1989)度が10件中2件、同2年度(1990)5件中1件、同3年度(1991)10件中2件、同4年(1992)度11件中5件、同5年(1993)度9件中2件、同6年(1994)度7件中4件、同7年(1995)度9件中6件、同8年(1996)度6件中3件であった。 葬儀については香典返しの廃止、弔花・生花の自粛などを中心に一定の簡素化が進み、評価されている。 同協議会は、独自につくった供花札やのし袋を販売して、趣旨の神道に一役かっている。 新生活運動歴代会長は、つぎのとおりである。 【歴代会長】 樋口雄幸(昭和51年~同62年)、木村久(昭和63年~平成3年)、 上松芳男(同4年~現在) 花いっぱい運動 人々の心をなごませる花づくりは、明るい住み良いまちを築くために欠かせない。 上湧別町の花づくりは、各地区に結成されている老人クラブから、始まったといっても過言ではない。 昭和49年(1974)には、町老人クラブ連合会(遠藤晴治会長)が全町的な花いっぱい運動を提唱した。 上湧別町寒地園芸営農センターなどの指導を受け、お年寄りたちがハウス造りから始め苗を育てた。 翌昭和50ねん(1975)、老人クラブ連合会は、中湧別地区コミュニティ協議会を協力し、町内関係機関の協賛を得て、役場、学校などの公共施設や市街地に234基のフラワーボックスを置いたほか、花苗を無償で配布し、全町的な花いっぱい運動の第一歩を踏み出した。 花いっぱい運動の推進母体は、花いっぱい運動推進会であるが、その運営は、昭和47年(1971)に発足してから同49年までは老人クラブ連合会が中心だった。 同50年以降は組織も全町に広がり、同57年(1982)からhさ新しい規約も定められ、「町民に広く住みよい環境作りを進める」という目的のため、①花いっぱい運動の普及、②花の育苗知識・栽培技術・研修・講習会の開催、などの事業を展開している。 平成8年(1996)度の事業では、チューリップ公園における育苗、国道242号沿いに200個のフラワーボックスの配置、花苗(9種22色、約4万株)の配布、先進地花壇視察などを行っている。 町民の関心を集めている花壇コンクールは、昭和55年(1980)から始まった。 当初は老人クラブと学校、職場であったが、平成2年(1990)から個人も加わり、最優秀賞、優秀賞、努力賞、奨励賞を園蘭でいる。 毎年アゲラダム、インパチェンス、ベゴニア、サルビア、マリーゴールドなど約4万株の色とりどりの花が咲き競う花壇の美しさは、街に鮮やかなアクセントを付けているr。 札富美老人クラブが花壇コンクールの始まった昭和55年以来平成8年まで最優秀賞9回・優秀賞7回の受賞は特筆すべきである。 花いっぱい運動推進会歴代会長は、次のとおりである。 【歴代会長】 遠藤清治(昭和47年~同51年)、片岡時雄(同52年)、小池正躬(同53年~ 同56年)、新国二三雄(昭和57年~平成5年)、坂田直光(同6年~同7年)、 国枝守(同8年~現在) あいさつ運動 あいさつは、心豊かな人間関係を確立し、明るい家庭、楽しい職場、快適なまつづくりを進める基本ともいえる。 昭和55年(1980)に、町長を本部長とする上湧別町あいさつ運動推進本部が設置され、コミュニティ活動の一環として全町的な運動に着手した。 当初は運動月間を設け、ポスター・標語の募集、看板の設置、ステッカー・ポスターの配布・掲示、あいさつ道路の設置などによって趣旨の徹底を図ってきた。 あいさつ道路は、上湧別と中湧別の両市街地区とも西一条通りを指定、ここを通交する時に「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」などのあいさつの励行を指導している。 「人と人の心をむすぶあいさつ運動を広げよう」をテーマに運動を進めている。 初夏(6月1日~6月10日)、秋(9月21日~9月30日)の交通安全運動にあわせた強調週間を設定し、期間中、西一条通のあいさつ道路で毎朝30分間、街頭指導を行っている。 上湧別町自治会長連絡協議会 上湧別町自治会長連絡協会は、平成2年(1990)4月、上湧別町内15の自治会の会長が集まり結成した。 同会は、相互の連絡を密にして親睦を図るとともに、自治会の自主的な活動を促進、共通の問題について研究協議を行い、その解決に努めるkとによって住民の福祉増進と地域振興に資することを目的としている。 毎年4月に総会を開催しているほか、10月には同連絡協議会の研修会を開き、地域における実践活動の在り方などについて研さんを深めている。 具体的な活動として、最も大きな成果を挙げているのが、町に対する各種要望運動である。 毎年12月に同連絡協議会として、町長に対し当面する地域の問題解決のため要望書を提出しているが、これまで街路灯・防犯灯の電気料補助が2分の1から3分の1に増額されたのをはじめ、古くなった防犯灯の器具取り替えが新設の場合と同様に新たに補助対象に加えられ、また、福祉バスが運行(月2回、第2・第4土曜日)されるようになった。 自治会長連絡協議会歴代会長および副会長は、次のとおりである。 【歴代会長】 ○平成2・同3年度 田中重一会長(南町)、三宅副会長(中町)、 加藤勇副会長(屯市) ○同4・5年度 三宅悟会長(中町)、加藤勇副会長(屯市)、 髙柳友五郎副会長(東町) ○同6年度 加藤勇会長(屯市)、髙柳友五郎副会長(東町)、 平塚定夫副会長(開盛) ○同7年度 髙柳友五郎会長(東町)、梨沢稔副会長(南町)、 三浦昭二副会長(5の1) ○同8年・同9年度 髙柳友五郎会長(東町)、三浦昭二副会長(5の1)、 長倉義副会長(富美) |
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topへ | 第2章 集落の歴史と自治活動 | 第1節 旭自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 明治40年(1907)、湧別屯田第五中隊に所属していた篠野佐寿郎の弟、篠野光蔵が、最初の鍬を下ろした。 篠野は、一体が湧別兵村の公有財産地であることを知らなかった。 その後、屯田家族の遠藤鶴吉らが入地し昭和5年(1930)ごろには通い作も含めて22戸になった。 兵村公有財産地は、昭和7年(1932)民有未開地として解放され、集落も39戸に達したので翌8年(1933)4月1日付で、旭として北兵村三区から独立した。 人口と戸数は、同5年ごろ約80人・22戸であったが、同22年(1947)ごろには200人を超え、57戸となった。 同35年(1960)に292人・55戸を数えたが、このころから離農が始まり人口減が続いた。 人口と戸数は、同40年(1965)189人・37戸、同45年(1970)128人・30戸、同50年(1975)81人・19戸、同55年(1980)74人・17戸、同60年(1985)68人・17戸、平成2年(1990)64人・13戸と下降線をたどり、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では58人・13戸となっている。 区域は町内の最北端に位置する。 多少の起伏はあるが、おおむね平坦な土地である。 西北は湧別町川西、南は11号線、東は五の三(北兵村三区)が境になっている。 開拓以来、一貫して農業が主体の地域である。昭和10年(1935)ごろには、薄荷栽培全盛の時代もあったが、同40年代から酪農を導入、現在ではそれが主流となっている。 主な出来事 旭自治会開基50周年記念式典が昭和58年(1983)11月24日、旭公民館で行われた。自治会全員、佐々木町長、当時の開拓者や町議会議員ら多数が出席、先人たちの労苦をしのぶとともに、今後の地域発展を誓い合った。 表彰式、祝賀会は、会場を移して上湧別町社会福祉会館で開催された。 記念事業として、旭公民館敷地内に開拓碑を建立した。 昭和63年(1988)、老巧化した旭公民館(旧、旭小学校)を取り壊し、その跡に町が国の補助事業により集会施設の旭農業センターをを建設した。 同年9月12日に旭自治会が盛大に落成祝賀会を催した。 同センターは、木造平屋建て78平方㍍で、総事業費は865万円であった。 平成4年(1992)には8月8日と8月15日の二度にわたり豪雨に見舞われ、旭東ノ沢川が氾濫して、片岡幸雄所有の畑や牛舎が水浸しとなったが、町職員、消防団員、一般町民の協力により被害を最小限に食い止めた。 自治会年表(昭和51年以降)
自治会の活動 年中行事として実施しているものに旭神社祭、馬頭観世音供養祭、子ども会七夕祭りなどがある。 旭神社の例祭は、毎年9月2日で、上湧別神社の宮司を迎え、豊作、防災などを祈願している。 毎年7月17日の馬頭観世音供養祭では、僧侶を招き家畜の厄除けを祈っている。 子ども会七夕祭りは、毎年8月7日、旭農業センター敷地内で開かれている。 夜はキャンプをしながら花火を打ち上げ、思い出深い一夜を過ごす。 このほか、3月下旬に小学校新一年生の歓迎会、12月24日にクリスマスイブの催しも開催している。 自治会が管理しているものは、旭農業センター(町が委託)、旭神社、旭開拓祈念碑、馬頭観世音などである。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 佐藤吉一(昭和45年~同59年)、柿崎昭太郎(昭和60年~平成元年)、 松岡武雄(同2年~同5年)、沢口満男(同6年~同8年)、片岡幸雄( 同9年~現在) 【農業委員】 佐藤吉一、名取忠信、片岡幸雄 【農協理事】 松岡武雄、片岡幸雄 【農事部長】 名取忠信、姉崎昭太郎、小川博一、松岡武雄、片岡幸雄、楠瀬浩一 【農協婦人部支部長】 小川コハル、片岡京子、姉崎芳子、沢口敬子、楠瀬撤江、佐藤まき子 【旭老人クラブ】 名取ツヨノ、佐藤吉一 |
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第2節 五の三自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 五の三(北兵村三区)は、屯田兵が入地した由緒ある地域である。 明治30年(1897)に34戸、同31年(1998)に35戸が入り、北の守りを固める一方、開拓に従事した。 北は6号線から南は8号線まで、東5線から西3線までの区域で湧別町界に接している。 屯田兵村解隊のあと、農村集落として発展した。 昭和50年(1975)以降、上杉製作所の工場建設、雪印乳業(株)社宅跡地に中湧別工業団地造成、セイコーマート高田中湧別商店の進出、ホクレン農協スタンドゆうゆう給油所の開所、Aコープゆうゆう(現ゆうゆう食事処)の開店などが続き、商工業の発展も目につくようになった。 さらに、中川住宅団地に住宅新築がみられるなど、農村集落からの脱皮が進行している。 しかし、基幹産業の農業も、青年たちの手で経営規模拡大の努力が続けられている。 昭和医展望として、国鉄湧網線跡地道路の整備により、公営住宅の建設、商工団地の造成を進め、中湧別市街商工発展の起爆剤にしようという夢が描かれている。 戸数は、ほぼ横ばいだが、人口は、わずかながら減少傾向をたどっている。 人口と戸数は、昭和50年368人・100戸、同55年(1980)359人・96戸、同60年(1985)351人・102戸、平成2年(1990)343人・101戸、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では322人・99戸となっている。 主な出来事 五の三公民館の増築工事が、昭和59年(1984)7月に完了した。 これは、2回目の増築で、床面積は174/9平方㍍となった。 事業費は、423万8000円(町補助金282万5000円、自治会寄附金141万3000円である。 昭和8年(1933)に建造された神明宮拝殿は、年とともに老巧化が進み、改築の声が高まった。 当時の中川辰雄自治会長らの努力により、渡辺正明を建設委員長として改築事業が始まり、平成3年’1991)7月、新拝殿が完成した。 新国二三雄の150万円をはじめ、自治会以外の寄附金、自治会内寄附金150万4000円など、合計409万2000円が改築費に充てられた。 自治会年表(昭和51年以降)
自治会の活動 毎年夏に運動会か盆踊りを実施してきたが、平成6年(1994)から趣向を変え、催しの内容を充実した。 8月18日、文化センターTOMを会場に子供、大人、老人クラブ、婦人部の盆踊りのほか、民謡やマンボ踊り、カラオケ大会も加わって、多彩に繰り広げられ、200人以上の人たちが、夕方6時から10時ごろまで歌と踊りの一夜を楽しむ。 当日、五の三睦会老人クラブの励会と併せて、公民館を会場に物故者の供養を行っている。 五の三自治会と農事部が管理しているものは、五の三公民館と五の三グランドのほか、神明宮、馬頭観世音、地神、第五中隊三区兵屋の跡地、北湧校仮校舎の跡碑などである。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 髙橋尚一(昭和41年~同50年)、西潟明男(同51年~同55年)、 伊藤昭夫(同56年~同62年)、中川辰雄(昭和63年~平成3年)、 松浦光明(同4年)、小山新之助(同5年~現在) 【町議会議員】 高木喜六、室井利男、加藤政紀 【農業委員】 中川幸一、加藤政紀、髙橋茂夫、中川菊夫、杉原顯治 藤井勇一 【農協理事】 松浦清、松浦光明、加藤政紀、中川菊夫 【農事部長】 原田信一、髙橋茂夫、中川佳明、吉田哲司、加藤政紀、西潟治男 中川菊夫、杉原顯治 【農協婦人部支部長】 伊藤孝子、水野信子、大野よし子、松浦菊枝、小山好子、帯刀たえ子 松浦和子、月脚千恵子、中川永子、中川順子、加藤富士子、 吉田勝江、杉原ツルコ 【五の三睦会老人クラブ会長】 帯刀助三、新国二三雄、渡辺正明 |
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第3節 東町自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 明治30,同31年(1897,1898)にわたり、第五中隊第二区隊の屯田60戸とその家族が、この地域に入地したのが始まりである。 地域内高台地は、濃厚に適さなかったため、同36年(1903)の屯田兵解隊後は第二給与地であった現在の中湧別市街や他の地方に移住するものが多かった。 しかし、現在、屯田兵の家系で同地域にとどまっているのは2戸だけである。 大正5年(1916)、湧別線が開通したのを皮切りに名寄本線、湧網線が開通すると、中湧別駅が交通の分岐点として重要な役割を担うようになった。 その周辺に店舗、工場が次々と張り付き、人口も急増、市街地として発展した。 当時の五の二区は、集落と4つの町内会が複雑に入り組んでいたため、昭和44年(1969)に中湧別地区自治会の区域が再編成され、翌45年(1970)1月から現在の東町自治会が発足した。 東町自治会は、かって北兵村二区といわれた地域内の一部であり、8号線から11号線までの旧名寄本線跡地以東町界までが現在の区域となっている。 地域内には商店が1軒もなく、4事業所のみで、公営住宅(67戸)、個人住宅が立ち並ぶ住宅地域である。 南町・北町・中町を含め農家はわずか12戸で、五の二農事部を結成している。 区域内には五鹿山公園、町営スキー場、パークゴルフ場、町営ゲートボール場があり、文化センターTOM、バスターミナル、役場出張所など公共施設に隣接している。 自治会発足当時の人口と戸数は、547人・151戸であったが、平成9年(1997)3月末の住民基本台帳では640人・239戸に増え、住宅地域となっている。 主な出来事 、 公営住宅「さくら団地」が昭和58年(1983)度から同62年(1987)度にかけて25戸が完成、公営住宅「つつじ団地」が平成元年(1989)度から同4年(1992)度にかけて、24戸が完成、公営住宅「いちい団地」が同5年(1993)度から同7年(1995)度にかけて18戸が完成した。 農村地域は、一段と住宅地域に移っている。 昭和62年に湧網線、次いで平成元年に名寄本線が廃止され中湧別駅構内の跡地が大きく変貌した。 その跡地には、文化センターTOM、町営ゲートボール場、鉄道資料館、上湧別町開基百年広場と百年記念塔などが建設され、現在も再開発計画が進められ、その周辺は大きく変わりつつある。 自治会年表(昭和45年以降)
自治会の活動 自治会が全力で取り組んだのが、東町自治会館の建設運動である。 鉄道全線の廃止に伴い、その跡地利用を含めた中湧別再開発事業計画が策定されたが、これにより約20年間も地域活動の拠点として利用されてきた(寿の家)が撤去されることになった。 このため、自治会は、東町会館建設検討委員会を設置、アンケート調査の実施などを経て、その建設を決定し、平成5年(1993)6月13日に広さ84・24平方㍍の会館が落成した。 総事業費の900万円は、町補助金と篤志寄付、東町全戸の寄付によって賄われた。 自治会設立以来毎年続けていた運動会は、平成2年(1990)の二十周年を機に取りやめた。 最後の運動会には、国際交流事業の一環でアメリカから来日、当時役場に勤務していたイーストウッド・マイケルも参加、親善を深めた。 明るく住み良い地域づくりのため、自治会館各組毎に清掃責任区域を定め、クリーン上湧別町全町一斉清掃に併せて各組長を中心に清掃を実施、生花を挙げている。 自治会と農事部が管理しているものは、東町自治会館、五の二公園、屯田開拓顕彰碑、屯田兵集落跡碑、五中隊練兵場跡碑などの記念碑、馬頭観世音、町の保全樹木などである。 歴代自治会長他 (昭和45年~平成9年) 【自治会長】 沢口健蔵(昭和45年~同52年)、酒井孝(同53年~同60年)、 髙柳友五郎(同61年~現在) 【町議会議員】 佐々木克郎 【農業委員】 田中正、田沢栄雄、髙柳友五郎、因芳民 【農協理事】 因芳民、沢口勝男、高桑義博 【農協監事】 髙柳友五郎(昭和50年~同61年内代表幹事)、高桑義博 【農事部長】 野村忠雄、因芳民、沢口勝男、高桑義博、田中正、髙柳友五郎、 沢口豊 【農協婦人部支部長】 大沼はな子、久保美智子、田沢佐和、加藤正子、因光子、高桑美恵 【東町寿(老人)くらぶ会長】 髙柳清治、酒井孝、大沼勝博 |
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topへ | 第4節 北町自治会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 北町自治会は、かって中町、南町、中鉄(中湧別鉄道自治会)とともに、中湧別自治会であった。 しかし、地域全体の人口が増加したため、昭和44年(1969)に再編成を行い、翌45年(1970)2月からそれぞれの自治会が再発足した。 地域は、9号線と中湧別3091番地の1の交点から西に直進し、北は五の三自治会境界、東は東町自治会境界とする一円である。 地域内は大きく変貌している。 中核企業で会った雪印乳業(株)中湧別工場が、昭和54年(19799に閉鎖され興部工場へ合併吸収された。 その跡地の約半分が同56年(1981)、中湧別工業団地として生まれ変わった。 昭和62年(1987)に湧網線、平成元年(1989)に名寄本線が相次いで廃止され、住民に衝撃を与えた。 翌2年(1990)にはその鉄道跡地に町営バス車庫、町職員住宅などが建設された。 さらに、同年、網走開発建設部網走西部河川事業所跡地に北見トヨペット(株)トヨタピークル中湧別営業所、雪印乳(株)跡地に北見日産自動車(株)中湧別店がそれぞれ新設開業した。 同3年(1991)にも工場新築が地域内で続き、活気を呈している。 人口と戸数は、1306人・427戸であった昭和53年(1978)がピークで、同60年(1985)は1207人・417戸、平成2年は1064人・401戸と次第に減り、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では1005人・411戸となっている。 主な出来事 子供の遊び場、地域住民のレクリエーションの場として、昭和50年(1975)に北町広場が開設された。 数々の功績を残し、昭和52年(1977)に町特別功労者第1号となった井上正志が、同59年(198)に他界した。 雪印乳業(株)中湧別工場の撤退に当たっては、地元住民も強力な移転反対運動を展開した。 しかし、その熱意も実らず予定どおり興部町へ移転し、昭和54年(1989)には工場も解体され、完全に姿を消した。 平成8年l(1996)月弐中湧別北町太陽の会(鈴木一豊会長)が、明るく開かれた生き甲斐のある地域づくりを目的として、設立された。 具体的な活動としては高齢者家庭の除雪、屋根の雪降ろし、独居高齢者への定期的訪問による声掛け運動、パークゴルフ等に招いてのレクリエーション等を行っている。 現在、会員数は30数人である。 自治会年表 (昭和4年以降)
自治会の活動 第1回自治会大運動会を昭和51年(1976)7月25日、北町広場で開いた。 同じ北町広場で同53年(1978)から仮装盆踊り大会は、第5回(昭和57年)大運動会は、うち2回の中止があったが、第11回(同63年)を最後に打ち切っている。 仮装盆踊りは一時、湧別、遠軽方面からの参加もあり、200人近い人の踊りの輪ができた。 自治会組織に婦人部、交通安全部、防犯部が新設されたのは、昭和55年(1980)のことである。 これで組織の充実強化が一挙に図られた。 自治会発足当時の組編成は10組であったが、その後、公営住宅などが増えたので、現在は15組に膨れあがっている。 自治会で管理しているものは、北町広場のほか忠魂碑、店舗発祥の地や徳広農場の跡などの史跡などである。 歴代自治会長他 (昭和455年~平成9年) 【自治会長】 上杉藤雄(昭和45年~同50年)、宮口留蔵(同51年~同52年)、 木村久(昭和53年~平成3年)、此下清一(同4年~現在) 【町議会議員】 立野信男、原昭二、因二夫、中津川稔 【中湧別長寿(老人)クラブ会長】 鈴木光左衛門、小池正躬、池田賢蔵、田中嶬、西川照憲 |
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topへ | 第5節 中町自治会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 明治36年(1903)、屯田兵第五中隊第二区隊が解隊した。一般人として職業の自由を与えられた兵村民は、第二給与地がある現在の中湧別市街に移り、商業を営むものが多かった。 これと同時に他町村から来住し、店舗を構える商人も多くみられた。 湧別線、名寄本線、湧網線の鉄道開通により、中湧別市街はその分岐点として、また、交通の要衛として発展した。 とりわけ中湧別駅前に位置する中町の発展は、目覚ましかった。 昭和45年(1970)、自治会の再編成により、中町自治会が発足した。 区域は、北の9号線から南のヌッポコマナイ川まで、東は鉄道までであったが、鉄道廃止後は東3条通までとなった。 中湧別鉄道自治会(中鉄)は、国鉄各線の廃止で国鉄職員が地域を離れたため、自治会として機能しなくなり、徐々に中町、東町、南町各自治会に分割併合され、平成5年(1993)4月1日、完全に消滅した。 中町は、商業の中心地域として発展してきたが、まちの過疎化に伴い、いまひとつ活気が出ないのが現状である。 それでも商店、飲食店が立ち並び、旅館、ハイヤー会社、郵便局、金融機関などが集中していて、ショッピングや歓楽の中心地になっている。 人口と戸数は、自治会が発足した昭和45年は625人・178戸であったが、同50年(1975)は532人・154戸、同55年(1980)は479人・147戸、同60年(1985)は469人・143戸、平成2年(1990)は386人・134戸と次第に減り、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では309人・134戸と自治会発足当時に比べほぼ半減した。 主な出来事 地域内の最も大きな変化は、鉄道の廃止とそれに伴う跡地利用によるものであった。 湧網線(昭和62年)と名寄本線(平成元年)の廃止に伴い、中湧別駅と線路などの跡地利用がクローズアップされた。 その中心となったのが、多目的施設である文化センターTOMの建設である。 平成5年(1993)に図書館、漫画美術館、バスターミナルを併設してオープンした。 また、町役場の中湧別出張所、上湧別町商工会もTOM内に開設され、地域住民の利便性が高まった。 自治会年表 (昭和45年以降)
自治会の活動 中町自治会の要望が実り昭和54年(1979)、農村公園(通称、きのこ公園)が中湧別駅横に完成した。 遊具、野外ステージ、ベンチなどが設置され、子供たちばかりでなく、一般町民からも親しまれてきたが、湧網線・名寄本線廃止に伴う周辺再開発事業により平成4年(1992)に取り壊された。 「憩いの家」横の青空広場も遊園地からゲートボール場へと変貌し、同5年(1993)には単身者公営住宅(チューピットハイツ)が建設されたので、姿を消した。 いずれも自治会が管理していたものである。 新しくできた文化センターTOMの周辺では、毎年各種行事が行われている。 広場は、平成6年(1994)から冬の一大イベント、湧別原野オホーツク100kmクロスカントリー大会のゴールとなる。 夏には駅前通りから文化センターTOMまでを会場にして七夕祭りが行われ、本州から取り寄せた笹竹でにぎやかに飾り、楽しい歩行者天国として解放される。 同5年から秋の屯田ふるさと祭りが開催されるなど、一年を通して町民の感性が響く、これら地元の行事は上湧別町商工会、上湧別町、中町自治会が一体となって実施している。 同8年(1996)8月4日には七夕祭りが上湧別町開基百年記念事業として行われた「よさこいソーラン踊り」と共催された。 中町自治会にある史跡は、陸軍経営部と仮学校の跡、兵村工事作業場んp跡などである。 歴代自治会長他 (昭和45年~平成9年) 【自治会長】 宮川俊彦(昭和45年~同50年)、小池正躬(同51年~同4年)、 三宅悟(昭和555年~平成5年)、坂本忠義(同6年~現在) 【町議会議員】 大滝敬二、手塚一、林新一、坂本堅弥 【中湧別福寿’老人)クラブ会長】 坂田直光 |
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topへ | 第6節 南町自治会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 昭和45年45年(1970)1月、中湧別自治会から新しく発足した南町自治会は、穂が資は旧名寄本線、西は湧別川堤防、南は11号線、北は中町との境界を分けるヌッポコマナイ川に囲まれた地域である。 発足当時は420戸ほどあったが、核家族化の傾向があるにもかかわらず、鉄道各線廃止の影響が大きく上湧別町数は減り、平成2年(1990)に450戸、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では386戸まで落ち込んでいる。 昭和55年(1980)に1374人を数えた人口も、平成9年3月末には1000人台を割り、929人に減っている。 北町、中町と稚貝商店などは少ないが、上湧別町社会福祉会館、上湧別町綜合体育館、両湧別学校給食センター、上湧別厚生病院をはじめ、警察官駐在所、網走開発建設部河川事業所などの公的な施設が集中している。 また、中湧別小学校、湧別高等学校、さくら保育所、みのり幼稚園など文教施設や建設会社を中心とした事業所が多いのも特徴である。 しかし、平成6年(1994)、NTT中湧別営業所が合理化のため廃止された。 主な出来事 北海道湧別高等学校の改築、中湧別小学校の改築、上湧別町綜合体育館の新設、上湧別町農業協同組合中湧別支所店舗の新築など公的な施設の改築、新築が続いた。 このうち老巧化した湧別高等学校の校舎改築については、昭和1年(1976)に改築期成会が結成された。ねばり強い要請活動が実り、同54年(1979)に調査設計費が認められ、翌55年(1980)に着工した。 新校舎は、同57年(1982)に完成したが、改築落成式は、開校三十周年記念式典と併せて同58年(1983)に行われた。 自治会年表 (昭和45年以降)
自治会の活動 自治会発足の翌年の昭和46年(1971)に初めて監事を置いたのに続いて、随時、部会を新設して自治会の運営、事業を充実させ、現在の組編成は15組である。 部会には子供育成会(昭和51年設置)、体育部、衛生部、交通安全部(同54年)、福祉部(へ制3年)などがある。 自治会としては、各部会の事業を中心に活動している。 子供育成会は、年2回程度古新聞・空きビンの回収、毎年1月のしめ縄回収などにより事業費を確保、子供の一夜研修、七夕提灯行列、ウォークラリー大会、駅伝競走などの行事を行っている。 体育部は、ミニバレーボール、パークゴルフ大会の実施をはじめ、町内の各種大会に参加している。 衛生部は、春秋の一斉清掃に併せた河川清掃やクリーン上湧別事業推進など地域の環境衛生と美化に取り組んでいる。 交通安全部は、毎年計画的に防犯灯に対する夜行性交通安全板取付を進め、さらに、交通安全運動期間中などには部員が各種活動に積極的に参加、事故防止に努めている。 福祉部は、独居老人に対する声かけ運動を実施、異常を発見した場合はすぐに民生委員など関係機関に連絡がとれる体制をとっている。 また、独居老人、老夫婦世帯で冬の除雪が困難な場合は組で対応している。 さらに、年に1回、上湧別町「湧愛園」と湧別町「オホーツク園」の特養施設を慰問し、入園者に必需品などを贈っている。 歴代自治会長他 (昭和45年~平成9年) 【自治会長】 村松康(昭和45年~同50年)、星幸男(同51年~同52年)、 菊地信義(同53年)、小野寺幸男(同53年~同57年)、田中 重一(昭和58年~平成3年)、頓西国一夫(同年)、梨沢稔(同 4年~同7年)、中川抉(同8年~現在) 【町議会議員】 我妻嘉人、西山鴻冶、田中正、頓西国一夫、小野寺幸男、渡辺正 利、西川仁史、小池寿冶 【中湧別南町喜楽(老人)クラブ会長】 村松康、星幸男、野村忠雄、小野寺幸男 |
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第7節 五の一自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 五の一(北兵村一区)は、明治30,同31年(1897,1998)に入地した屯田兵(第四大隊第五中隊第一区隊)70戸によって開拓された。 大正10年(1921)、湧別川以西19戸を分離して札富美を創設、昭和45年(1970)には自治会再編成により、一部を中湧別市街に編入して現在に至っている。 地域は町のほぼ中央にあり、東は山林に、西は湧別川に、南は15号線で屯田市街地に、北は11号線で南町自治会と東町自治会にそれぞれ接している。 肥沃で平坦な土地が多いところから開拓以来農業が盛んで、大正4年(1915)には140戸の集落となり、人口も約850人を数えた。 その後、一部地域を札富美へと分割したことや、昭和30年代(1955~)からの離農増加で農家戸数は急激に減少した。 手話50年(1975)以降の地域内人口と戸数は、同年506人・132戸、同55年(1980)598人・156戸、同60年(1985)644人・179戸、平成2年(1990)602人・188戸、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では559人・192戸で、農家戸数は減少しているが、一般家庭戸数は、増加に転じて住宅地域に移っている。 主な出来事 自治会の活動拠点である五の一会館は、昭和33年(1958)に一度改築されている。 しかし、その後30年以上経過し老巧化が再び目立つようにった。 このため、平成3年(1991)改築計画が決まり、同6年(1994)10月に着工、翌7年(1995)2月12日に落成した。 総事業費は1689万2000円。 四分の三を町が補助、四分の一を自治会が負担した。 木造平屋建て、125・7平方㍍の広さで、内部は会議室2室のほか、台所を備えている。 自治会ばかりでなく、老人クラブ、婦人会、子ども会などの活動に幅広く利用されている。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 毎年1月の最終日曜日に自治会内対抗ミニバレーボール大会を催し親睦を深めている。 老人クラブが例年3月13日に開催する例会では、物故者の供養が行われている。 毎年6月、五の一会館、五の一公園などの清掃には自治会役員、各班の衛生係、班長が参加して実施し、また、8月には墓地の清掃を関係者で行っている。 自治会が管理しているものは、五の一会館、五の一公園のほか、開拓記念碑、屯田歩兵第五大隊第四・五中隊本部跡などの碑や史跡である。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 黒川一郎(昭和41年~同54年)、工平恵造(昭和55年~平成3年)、 三浦昭二(同4年~現在) 【町議会議員】 村上清司、渡辺正喜(昭和34年~同50年までは四の一自治会 に所属)、冨田勝弘(旧、中鉄自治会出身)、黒川毅一 【農業委員】 前川美夫、林功、藤井政幸、山田明 【農協理事】 工平恵造、中村行雄、田浦多三次郎、藤井勝治 【農協監事】 髙柳良吉 【農事部長】 黒川一郎、工平恵造、藤井政幸、田浦多三次郎、佐野正幸、藤井勝治 山田明、森正美 【農協婦人部支部長】 三浦郁、中村ヒデ子、中川カヲル、山田みつ子、工藤エミ子、田浦 和子 【五の一ニコニコ(老人)クラブ会長】 藤井勇、黒川久蔵、横山仁三郎、村上藤七、庄田繁、浅井良美 |
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第8節 屯市自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 明治30年(1897)の屯田兵入地と同時に、機船7号線(現、町役場付近)を中心に防風林地で囲まれた100区画の論田市街地が設けられた。 この年、新潟県人の渡辺表太が上川の長山村から来住し、雑貨商を営んだのが、屯田商業の始まりである。 その後、浜湧別(現、湧別町)や道内各地から次々と商人がやって来て店を開いた。 また、同39年(1896)から屯田兵村建設工事に従事していた職人、木挽、運搬人などが、この屯田市街地に定着、たちまち、にぎわいをみせるようになった。 生活物資や木材運搬などで活気を呈し、明治45年(1912)ごろには料理店、旅館、運送店、その他の商店を合わせて40数件が立ち並び、市街地に膨れあがっていた。 しかし、鉄道の開通によってその分岐点となった中湧別に物資輸送の拠点が移り、ややさびしくなった。 それでも役場や学校、郵便局、警察などの官公庁が集まり、中心地としての役割を果たして来た。 昭和40年(1965)、池内自治会が上湧別自治会(現、屯市自治会)から分離独立した。 同自治会はその6年前に佐呂間町から移ってきた池内工業(株)上湧別工場の社宅、独身寮入居者で組織し、独自の活動を行っていた。 しかし、工場縮小に伴い同58年(1983)、再び屯市自治会と合併した。 地域は15号線と湧別川の交点より同川を上り、16号線と17号線の中間を左折して西1線に至り右折、17号線に至り左折し、西1線と上湧別土地改良区灌漑溝第1支線との中間を右折して18号線に至り、さらに、同線を左折し、灌漑溝第1支線に至り、これを右折して19号線に至り、同線を左折直進して湧別町界になり。 北は五の市自治会界とする一円である。 人口と戸数は、昭和50年(1975)1543人・443戸、同55年(1980)1456人・439戸、同60年(1985)1458人・460戸、平成2年(1990)1313人・443戸、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では、1223人・443戸と人口は減りつつあるが、一貫して15自治会中咲いたの住民を抱えている。 主な出来事 自治会は行政の中心地にあるので、上湧別町総合庁舎をはじめ特別養護老人ホーム「湧愛園」、農村環境改善センターなどの建物が地域内で次々と完成した。 このうち総合庁舎は役場庁舎とコミュニティdsンター、消防庁者も併設されている。 総合庁舎は昭和61年(1987)7月、消防庁者は同年9月にそれぞれ完成、同年11月3日に盛大に落成祝賀会が行われた。 昭和53年(1978)、著名な画家である馬堀法眼画伯が、湧別屯田の屯田兵386人の肖像画を町へ寄贈した。 農村環境改善センターで、その除幕式をおこなったあと、郷土資料館に展示し、現在は上湧別町ふるさと館JRYで一般の公開している。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 納涼盆踊り大会は、昭和63年(1988)から実施してきたが、平成5年(1993)に上湧別屯田夏祭りと名称を変更、内容をさらに充実させた。 上湧別商工振興会、上湧別町農業協同組合、屯市自治会が町の助成を受けて共催し、毎年8月15日から6日間、農協整備工場の広場で開催している。 プロ五ラムの仲野盆踊り大会は、大人と子供の部があり、近隣町村からの参加も含め約300人が楽しむ、バンド演奏、カラオケのど自慢大会のほか、縁日広場では様々な出店がある。 上湧別神社祭典は、毎年9月28日から30日までの3日間にぎやかに催される。 上湧別神社みこしをはじめ、屯市自慰誓いのおどり山車、子供みこしなどを繰り出し、祭典に彩りを添える。 昭和51年(1976)から実施しているカラオケのど自慢大会は、ちびっ子、各地区職場代表、ゲスト歌手の3部に分け歌声を競う、協賛行事のメーンの一つになっている。 屯伝兵関係などの史跡をはじめ記念碑、信仰碑、原始木など町民の貴重な財産は、屯市自治会が管理している。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 石田友一(昭和34年~仝1年)、髙橋誠意(仝52年~同63 年)、加藤勇(平成元年~仝6年)、柴田喜好(同7年~同8年)、 太田仁(同9年~現在) 【町議会議員】 北原良男、出口一三郎、井上昌二、福島憲次郎、福田保信、平間勝 義、上家玄司、岩瀬昌俊、片岡昭五、吉田耕造 【農業委員】 長谷川好雄、井上伸一郎、花木和治 【農協理事】 片岡昭五、服部尚敏、長谷川尚行、井上伸一郎 【農事部長】 八巻光嘉、服部尚敏、井上伸一郎、長谷川好雄、花木豊、長谷川尚 行、平野日出男、花木和治、花木英紘、出口博徳 【農協婦人部支部長】 花木幸子、片岡チヤ、高野八重子、花木ユキ、八巻智恵子、平野 静子、服部稔子、長谷川絹子、井上文子、三沢ふみ子、 花木恒子、花木定子 【屯市高砂老人クラブ会長】 八巻伝助、浜口善太郎、花木今日松、藤島末蔵、吉村明雄、高松武 【上湧別商工振興会会長】 福田保信、柴山希郎、井上昌二、出口一三郎、樋岡秀樹、安藤英 夫、藪正志、渡辺肇 |
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第9節 四ノ三自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 明治30、同31年(1897,1898)に64戸が屯田兵として入地したのが始まりである、 当時の南兵村三区(四ノ三)は、北は15号線から南は21号線の間、東は基線を境にして市街の宅地を除き、西は湧別川西18号以南富美小学校付近基点までの広大な地域であった。 明治43年(1910)富美地区が南兵村三区から独立し、さらに、その後16号線から17号線までの間が屯田市街地に移された。 その結果、現在の区域は17号線から21号線間(四の二を除く)湧別川堤防から国道242号までである。 此の区域には屯田兵のほか、一般移住者も次々と入植、発展の基礎を築いた。 明治から大正にかけて木材加工業が栄えたが、農業中心の区域だけに昭和36年(1961)ごろから農業経営の大型化、機械化に対応、町内最初の酪農共同経営と生活共同経営が試みられた。 しかし、校歌があがらず同40年(1965)ごろ解散、個別経営に戻った。 最近は、秋まき小麦、玉葱、馬鈴薯、ビートの栽培を中心に農村地帯として発展している。 昭和50年(1975)以降の人口と戸数は、同年287人・64戸、同55年(1980)233人・53戸、同60年(1985)225人・52戸、平成2年(1990)243人・61戸、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では194人・53戸となっている。 主な出来事 四ノ三自治会史『星霜八十年』を昭和52年(1977)9月に発刊、先人たちの足跡をたどり遺徳をしのんだ足かけ6年をかけた労作であった。 同59年(1984)7月、四の三公民館の増改築が完成した。 既存部分を改築し、一室分増築したもので総面積は188・72平方㍍となった。 857万1000円の工事費は、町補助が574万2000円、自治会負担が282万9000円であった。 町内初の上湧別リバーサイドゴルフ場が手話61年(1986)、17号線と21号線間の湧別川河川敷に完成した。 上湧別振興公社が造成、管理しているもので、ゆったりとしたレイアウトでフラットの中にも細かな起伏のある18ホールのコースは、町内外のゴルフファンから親しまれている。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 毎年8月12日、明徳寿クラブ(老人クラブ)の例会と併せ、四の三公民館を会場に物故者供養祭を行っている。 祭壇を飾り僧侶を招いて、参加者全員が焼香、故人をしのび、冥福を祈っている。 自治会では8月15日に馬頭観世音の供養を行い、家畜の厄除けを祈願している。 八幡宮では元旦祭(1月1日)、豊穣祈願祭(4月25日)、例大祭(9月1日)、大祓祭(12月25日)を行い、上湧別神社の宮司が司祭し、自治会の人たちが参拝している。 神社境内、公民館などの日常的な清掃、草刈り、などの作業も行っている。 現在も四の三火防団は、消防ポンプ一台を所有、10人余の団員によって定期的に整備点検して万一に備えている。 運営は町と自治会の補助金による。 自治会が管理しているものは、四の三公民館(ゲートボール場、グランド併設)、八幡宮をはじめ、第四中隊三区兵屋の跡、日露戦役祈念碑などの史跡、碑など多数ある。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 国枝守(昭和47年~同50年)、代等正揮(同51年)、加藤幸美 (同52年)、中西隆(同53年)、野田昭二(同54年)、福本正巳 (同55年)、八巻貢(同56年)、菅野盛一(同57年)、長谷川繁雄 (同58年)、馬場純男(同59年)、宮嶋初男(同60年)、松本栄 (同61年)、高井恒(同62年)、片岡武寛(同63年)、野田寿幸 (平成元)、八巻志郞(同2年)、長谷川真治(同3年)、渡辺勇 (同4年)、前川芳男(同5年)、武藤公司(同6年)、宍戸一文 (同7年)、宮嶋寿雄(同8年)、渡辺寿憲(同9年~現在) 【町議会議員】 八巻貢、片岡秋美 【農業委員】 片岡時雄、内田清、国枝守、片岡武寛、八巻貢、渡辺勇 【農協理事】 長谷川繁雄、八巻志郞 【農協監事】 内田清、八巻貢 【農事部長】 宍戸正、野田昭二、福本正巳、菅野盛一、馬場純男、福島嘉三 大泉守、高井恒、片岡武寛、野田寿幸、長谷川真治、渡辺勇、 前川芳男、塚本旻、武藤公司、宍戸一文、宮嶋寿憲、渡辺昭男、 加藤英俊、片岡節夫、武藤俊美、国枝撤 【農協婦人部長】 浅井芳美 【農協婦人部支部長】 矢口芳、中西藤江、片岡はつ枝、国枝うめの、花木トヨ子、宍戸 ミヨ子、馬場咲子、福本八重子、片岡トミ子、八巻成子、松本和子、 高井良子、前川美代子、長谷川ひで子、渡辺ふみ子、武藤キク、 渡辺厚子 【明徳寿(老人)クラブ会長】 片岡時雄、松本馨、菅野賢、中村明義、国枝守 |
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topへ | 第10節 四の二自治会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち この地区の屯田兵が草分けである。 明治30,31年(1897,1898)に第四中隊二区の67戸、414人が入地した。 同36年(1903)には屯田兵が解体された。 その後、南兵村二区、四の二町内会、南兵村二区と変更をたどり、昭和37年(1962)に四の二自治会と改称され現在に至っている。 区域は、北が19号線を境に屯田市街地に接し、西は21号線湧別川の地点を境に四の三二隣接している。 また南は四の一、東は山地分水嶺で湧別町と分けている。 純農村地域であり、昭和40年(1965)ごろから離農により戸数が減り始め、一時90戸前後あったが平成9年(1997)3月末の住民基本台帳では78戸に減り、人口も273人にとどまっている。 主な出来事 地域の歴史を後生に伝える四の二自治会史『拓湧八十五年史』は、編集に7年の歳月をかけて調和57年(1982)1月発刊された。 254頁に及ぶ貴重な記録である。 この年、四の二ジウ眠姦の改築と天満宮神社鳥居の建設に向けて、自治会に建設委員会を設置、その翌年に公民館の増改築が決まった。 公司が完成し、落成式を行ったのは昭和61年(1986)3月1日である。 建物の床面積は、284・44平方㍍で、2350万円の建設費には町補助金と自治会内寄附金が充てられた。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 南湧(老人)クラブは、毎年8月14日、四の二公民館で物故者供養を執り行っている。 翌15日には馬頭観世音の供養祭を実施、家畜の厄除け祈願をし、自治会からも多くのものが参加、供養している。 天満宮神社の祭典には元日祭(1月1日)、豊穣祈願祭(4月25日)、豊穣感謝祭・例大祭(10月25日)、大祓祭z(12月25日)などがあるが、いzぅれも上湧別神社宮司が司祭し、自治会の人たちが参拝している。 このほか日常的に草刈り、清掃作業、12月下旬にはしめ縄作りの奉仕を行っている。 自治会が管理しているものは、四の二公民館(グランド併設)、南兵村二区北見天満宮神社、第四中隊事業場跡、南湧小学校跡などの史跡、碑である。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 井上春一(昭和50年)、板垣隆(同51年)、池田孝嗣(同52年)、 平野総一郎(同53年)、八巻敏一(同54年)、井上徳俊(同55年)、 岡和田幸一(同56年~同57年)、池田隆喜(同58年)、沢崎武夫 (同59年)、藤本光利(同60年)、大川悦郎(同61年)、坂田重盛 (同62年)、川副力(同63年)、加茂光夫(平成元年~同2年)、 城岡隆至(同3年~同4年)、加茂光夫(同5年~同6年)、髙橋年 一(同7年~同8年)、花木昇(同9年~現在) 【町議会議員】 井上徳俊、上松芳男、麻植平冶、平野隆樹 【農業委員】 石田静夫、板垣隆、井上徳俊、岡和田幸一、池田隆喜、国枝均 【農協理事】 上松芳男、石田静夫 【農事部長】 池田孝嗣、平野総一郎、八巻敏一、池田隆喜、岡和田幸一、沢崎武夫 大川悦郎、城岡隆至、川副力、原田武志、花木昇、平野英一、国枝均 八巻英俊、佐藤長次郎、上松勲、菊地優、森谷重俊、鈴木勝義、鈴木 義重、梶原秀喜、井上政徳、上松和博 【農協婦人部長】 池田節律子 【農協婦人部支部長】 石村ヨネ子、梶原ミツエ、池田花美、井上静子、岡和田リエ子、池田節 律子、城岡セツ子、花木カヨ、原田貞子、松原榮子、八巻憲子、佐藤 イチ子、上松久美子 【四の二南湧(老人)クラブ会長】 平野毅、沢崎武信、城岡喜蔵、国枝清、柴山正一、天野健一郎、平野 潔、森谷重房、八巻恒雄、静毅勝夫、上松芳男 |
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第11節 四の一自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 四の一は、かって南兵村一区といわれ、明治30,同31年(1897,1898)に第四中隊第一区隊の69戸が入地した。 同36年(1903)、兵村がかいたいされたあと、屯田兵たちを頼って本州から来住する者も多く、開拓時代を支えた。 地域は、南が湧別川を境として開盛と接し、北は基線22号線で四の二、、東は中土場。南東山地は遠軽町界、西は湧別川を挟み富美とそれぞれ隣接している。 此の地域は湧別川流域の平野の中にあり、納漁王遅滞を形成している。 人口と戸数は、昭和50年(1975)243人・58戸、同55年(1980)236人・55戸、同60年(1985)200人・52戸、平成2年(1990)167人・46戸と減少傾向をたどり、同9年(1997)3月末の住民基本台帳では142人・44戸となっている。 主な出来事 郷土誌『拓魂八十年』(380頁、350部)を昭和55年(1980)9月に発刊した。 編集委員長は樋口雄幸が務め、発刊費用は160万円であった。 四の一会館が狭くなったため昭和60年(1985)、老人室、控室、玄関、物置、便所などを増改築した。 68・73平方㍍広くなり、総面積は198・744平方㍍となった。 事業費876万9800円のうち、町費補助は584万6600円、自治会負担は292万3200円であった。 平成2年(1990)12月、四の一公園内に簡易屋内ゲートボール場が完成した。 鉄骨造り平屋建て272・16平方㍍の広さで、コートは横16㍍、縦10㍍である。 正規のものより少し狭いが、小上がりもあり休憩できる。 総工事費は、721万円であった。 自治会年表 (昭和51年以降)
自治会の活動 四の一会館の清掃と備品の確認は毎月2回婦人部が、また、敷地内の清掃、花壇の手入れは毎月1回共進福寿(老人)クラブが行っている。 四の一公園については、公園役員が梅園の剪定、防除、収穫、販売を担当、パークゴルフ場はそれぞれの同好会が管理している。 毎年8月15日は、自治会の手によって相馬大明神の祭祀、馬頭観世音の供養が行われる。 川上神社の月並祭に当たる毎月17日、狂信福寿(老人)クラブが同神社の清掃を行うほか、1月1日の新年祭と10月17日の例大祭は、自治会が祭祀を執り行っている。 物故者の供養は、毎年12月8日の共進福寿(老人)クラブの例会に併せて行い、故人の霊を慰めている。 自治会が管理しているものは、四の一会館、四の一公園、川上神社、有線放送施設をはじめ数多くの史跡、碑である。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 田島澄蔵(昭和50年)、穴田寿之(同51年)、吉村邦彦(同52年~ 同53年)、工藤武(同54年)、石田敏雄(同55年)、秦野哲男(同5 6年)、田島澄蔵(同57年)、阿部岩雄(同58年)、工藤武(同59年)、 穴田寿之(同60年)、吉村邦彦(同61年~同62年)、工藤武ZZ(同 63年)、遠藤清吉(平成元年~同2年)、牧野勝一(同3年~同4年)、 三品勲(同5年~同6年)、遠藤盛幸(同7年~同8年)、穴田寿之( 同9年~現在) 【町議会議員】 三品正吉、渡辺正喜(昭和50年以降は五の一自治会に所属)、 穴田寿之、吉村邦彦、細川正美 【農業委員】 田島澄蔵、吉村邦彦、東海林武敏、三品勲 【農協理事】 秦野松寿、穴田寿之、吉村邦彦、牧野勝一、三品正幸 【農協監事】 穴田寿之 【農事部長】 吉村邦彦、工藤武、石田敏雄、秦野哲男、牧野勝一、三品勲、安本 明雄、竹内東洋児、岡村恒男、岡村勉、三品正幸、三品幸義 【農協婦人部支部長】 三品ユキ、牧野サダ、工藤ハナ、田島徳子、秦野久子、阿部みち子 、石田セツ子、吉村テル子、穴田千恵子、工藤桂子、東海林百合子 、牧野ミキ子、三品美代子、竹内美恵子、安本近 【共進福寿(老人)クラブ会長】 遠藤清治、小島鈴松、遠藤正雄、牧野光一、樋口雄幸、安本明、阿 部太 |
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第12節 開盛自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 開始地区の最初の永住者は、山形県人の山口長之助だが、いつ入地したのか定かではない。 サナブチ橋の上流で、15町歩(約15㌶)の原野を開拓していた。 次いで明治31年(1898)に南兵村一区に入地した第二次屯田兵のうち26戸が、開盛地区に第二給与地を与えられ、その翌年から開拓を進めた。 その結果、明治末期には耕地が160町歩(約160㌶)となり、入地も45戸に増えた。 大正2年(1913)には、兵村からの住民22戸と一般移住の26戸の計48戸担った。7このため、南兵村一区から分離して第18部落会として独立した。 同4年(1915)、学田と社名淵が第18部落会から分離したので、開盛部落と改称、現在の開盛自治会の区域が定まった。 町内の南端に位置する開盛は、湧別川に沿って南北に長くサナブチ川の流域を境に遠軽町と接している。 農業中心の地域だが、幾多の変遷を経て酪農に移行している。 人口と戸数は、上湧別の町制施工時(昭和28年)に1006人・152戸を数え、最高を示した。 その後は減少を続け、平成9年(1997)3圧松野住民基本台帳では448人・149戸に落ち込んでいる。 しかし、最近は遠軽町のベッドタウンとして新築住宅が目につき、人工・戸数ともに増加傾向に転じつつある。 主な出来事 老巧化していた開盛小学校の木造校舎は、昭和58年(1983)12月に鉄筋コンクリート2階建てに生まれ変わり、翌59年(1984)1月22日、盛大に校舎落成記念式典が行われた。 総事業費は、2億9191万円であった。 開盛生活館も狭くて老巧化が進んできた。 このため平成元年(1989)に北海道の振興補助により開盛住民センターが新しく建設された。 総事業費は、8400万円であった。 大正4年(1915)11月、社名淵易として開業した開盛駅は、平成元年4月、名寄本線廃止と同時にその歴史に終止符を打ち、翌2年(1990)4月には自治会住民の見守る中、駅舎が取り壊された。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 大正7年(1918)、住民の氏神として建立された光華神社の祭典は、毎年9月23日に行われ、五穀豊穣、諸災害鎮護を起案し、豊かなめ組に感謝している。 宵宮にはビアパーティー、本祭では子供のための金魚すくい、宝さがし、よーよつりなどの楽しい催しが組まれている。 農事部の収穫祭は、平成2年(1990)から毎年11月に開催、会場の開成住民センターに農作物や果物を持ち寄り、料理を味わいながら豊穣の秋に感謝する。 婦人会による演芸も花を添える。 このほか馬頭観世音、子守地蔵尊、聖徳太子堂などの供養・祭事を自治会の手で執り行っている。 また、開盛寿(老人)クラブは毎年8月20日、物故者を供養している。 自治会が管理しているものは、開成住民センター(町が委託)、光華神社などの施設のほか、開盛特別教授場仮教室の跡などの史跡、碑、保全樹木の原始木、光華神社境内の北限の三本杉などである。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 山口長蔵(昭和29年~同50年)、井上正治(同51年~同55 年)、山口宏幸(同56年~同57年)、吉田早一((同58年)、遠 田隆一郎(同59年~同62年)、長谷川薫(昭和63年~平成元 年)、平塚定夫(同2年~同6年)、堀下武敏(同7年~現在) 【町議会議員】 山口長蔵、吉田早一、山口宏幸、平塚定夫 【農業委員】 吉田早一、堀下武、山口宏幸、中村貴、谷本八州男、斉藤勝利 【農協理事】 堀下武、中村貴、堀下武敏 【農協監事】 谷本八州男 【農事部長】 加茂秀雄、滝田尚正、井上照夫、木村博、井上政雄、中橋進、堀下 武敏、斉藤勝利、谷本八州男、中村貴、山口啓司、小倉武 【農協婦人部支部長】 加茂オキク、吉田竹子、山口房子、小倉ケイ、井上久子、井上みつ 、加茂キクヨ、中村浪子、井上洋子、中村浪子、木村照子、松本勝 子、堀下クニ子、山口幸子、秋葉キミ子 【婦人部長】 遠田チエ、佐野敬子、遠田涼子 【開盛寿(老人)クラブ会長】 及川隆見、石垣義治、山口長蔵、山口重雄、加茂秀雄、平塚定夫 |
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第13節 富美自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち 明治30年代(1897~)の富美地区は、兵村公有財産地があって、南兵村民の一部が通い作をしていた。 富美開拓は、同39年(1906)、三井作次郎が国有未開地に入植したのを初めとしている。 次いで同41年(1908)道庁の区画測量実施、翌42年(1909)の植民地解放告示によって開拓に加速がつき、大正男4年(1915)ごろには34戸に増えた。 明治43年(1910)、南兵村三区から分離独立して富美が誕生、その後、大正9年(1920)に神富美地区を分割したので、現在の富美の区域が確定した。 区域は、富美南の沢上流の分水嶺(280・3㍍)より北に稜線をたどり、富美5号線と基線との交点に達し、左折して同基線を上り、紋別市界達し、湧別町の界を経て札富美・四の三。四の二・四の一・開盛の各自治会を境とする一円である。 農村地域として発展著しく、昭和29年(1954)ごろには153戸に増加、人口も973人となった。 その後、離農者が続出して過疎化が進み、人口と戸数は、同50年(1975)には267人・69戸と激減、平成9年(1997)3月末の住民基本台帳では220人・50戸となっている。 しかし、町内の主要な酪農地帯となっている。 特筆されるのは、酪農業の本多正雄が上湧別町出身唯一の北海道議会議員として、富美地区から出ていることである。 戦後初の昭和22年(1947)の選挙で当選、Ⅰ期四年努めている。 主な出来事 昭和53年(1978)12月富美開拓七十周年記念式典・祝賀会が富美小学校で行われた。 これに先立ち富美開拓記念碑が同校校庭に建立された。また2年後の同55年(1980)7月、記念誌『拓いて七十年』が刊行された。 待望の富美地区住民センターは、北海道の振興補助により昭和59年(1984)12月完成。¥、翌60年(1985)1月16日に記念式典・祝賀会が催された。 建物は木造一部軽量鉄骨平屋建て、473・7平方㍍の広さで、総事業費に7650万円をかけた。 老巧化著しかった富美神社を昭和61年(1586)に改築、奉祝祭と落成式を行っている。 富美小学校の老巧校舎改築は、平成元年(1989)11月末に関し、鉄筋コンクリートの校舎と鉄筋鉄骨中間構造の屋内体育館で総事業費は3億2294万円であった。 落成記念式典は、翌2年(1990)1月28日に行われた。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 自治会住民全員参加の親睦会は、昭和60年(1985)から毎年6月から8月にかけて1~2回実施している。 一斉清掃にも、ほぼ全戸が参加し、富美神社公園、富美地区住民センター、墓地の清掃と草刈りを行っている。 毎年楽しみの盆踊り大会は、8月16日に催し、子供盆踊り、仮装盆踊りがあり、住民のほとんどが男堀の和に加わる。 富美神社祭典の10月10日は、地域の平和と作物の豊作を祈りながらカラオケ、踊り、児童の太鼓などによる演芸会を楽しむ。 自治会が管理しているものは、富美地区住民センター(町が委託)、営農飲雑用水施設、富美神社、神社公園、乳牛品評会場、花壇(老人クラブ)、墓地のほか史跡、碑、保全樹木の原始木などである。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 辻正夫(昭和33年~同50年)、村田憲夫(同51年~同53年)、 成瀬徳雄(同54年~同59年)、斉藤昭三(昭和60年~平成 3年)、長倉義勝(同4年~現在) 【町議会議員】 辻正夫、斉藤昭三、村田豊彦、成瀬徳雄、髙谷紀雄 【農業委員】 岩崎樫三郎、竹内孝一、木村新市 【農協理事】 長倉義勝、吉田農夫男 【農協監事】 村田豊彦、斉藤昭三、村田耕一 【農事部長】 長倉義勝、成瀬徳雄、斉藤昭三、松田剛、竹内一徳、 緑川光雄 【農協婦人部支部長】 成瀬キクイ、村田梢、斉藤むら、三沢ヒフミ、本多キサ、関口美子 長倉キミ子、松田清子、小畠文子、村田札子、以東藤子、片平 悦子 【富美老人クラブ会長】 青柳盛、武田万、三井甚五郎、村田利雄、竹内孝一、片平正雄 |
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topへ | 第14節 上富美自治会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち まだ富美地区に含まれていた当時の明治42年(1909)ごろ、現在の上富美入口付近に武田三郎が入地した。 それをきっかけに、その後、奥地への入地もみられ、大正2年(1913)には7戸になった。 さらに、滋賀団体の入植と多田農場や山中農場開設があり、同7年(1918)には40戸に達した。 このため同9年(1920)7月、上富美が富美から分離独立した。 開拓当時は薄荷生産が主であったが、地力が衰えると麦類の生産が中心となった。 しかし、昭和10年代(1935~)から酪農が次第に盛んになり、これが発展して現在に引き継がれている。 戸数は、大正13年(192)の74戸をピークに下降線を描き、平成9年(1997)3月末の住民基本台帳では10戸に減り、人口もわずか39人となっている。 区域は、町内西部、湧別川左岸にイチし、東と西北は富美に、東南は開盛に、南と南西は遠軽町に、そして西は紋別市にそれzぉれ隣接している。 上湧別市外から地区の中心まで約12㌔㍍離れている。 主な出来事 地域の過疎化で児童数が激減し、昭和61年(1986)に上富美小学校が閉校、富美小学校に吸収合併された。 酪農家に朗報となったのは昭和50年(1975)のバルククーラー導入である。 それまで牛乳は缶に入れて輸送していたが、これにより乳質管理上の問題が解決し、乳牛多頭飼養に拍車がかかった。 昭和59年(1984)6月末、共栄の沢道路(1325㍍)の改修工事が完了、交通安全性が図られた。また、翌60年(1985)に開盛~上富美間の町道も改修され、急カーブ、急坂あ解消された。 自治会活動の拠り所として昭和53年(1978)11月、国の補助事業により上富美農業センターが建設された。 それまでは各種会合に狭い集会場しか利用できなかったので、住民の喜びは大きかった。 大雨が降るたびに道路の冠水などの被害を及ぼしていた地域内の原始河川が、平成3年(1991)に改修され、その悩みも解決した。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 昭和41年(1966)に自治会が結成した上富美火防団は、自衛組織として消防活動だけでなく、その他の災害出動にも備えているが、同53年(1978)、それまでの威力のない消防ポンプに代わり、町、農業協同組合の助成を受けて森田式34馬力の新鋭消防ポンプを導入した。 上富美神社の例大祭は、毎年10月15日で、五穀豊穣、諸災鎮護を祈願、馬頭観世音の祭典は毎年8月16日に催し、家畜の厄除けを祈願している。 このほか電気利用組合を通じ上湧別町農業協同組合分収林において補植、下草刈り、間伐、除伐などを行い、七割分収の事業を進めている。 自治会が管理しているものは、上富美農業センター(町が委託)、バス待合所、上富美神社、馬頭観世音のほか、記念碑、史跡などである。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 諸橋誠一郎(昭和43年~同50年)、山中巌(同51年)、山口 政行(同52年~同57年)、花木直治(昭和58年~平成5年)、 今井哲也(同6年~現在) 【農業委員】 千葉敏男、三谷義明、山口政行、佐藤与作 【農協理事】 佐藤与作、千葉紘一 【農協監事】 山中巌 【農事部長】 山口政行、佐藤与作、山口正巳、近藤正司、今井哲也、鈴木光俊 【農協婦人部支部長】 諸橋てるの、千葉トキ子、山口久、佐藤豊子、花木ミエ子、千葉 京子、今井さだ子 【上富美寿(老人)クラブ会長】 千葉敏男 |
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第15節 札富美自治会 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成り立ち その地域の一部に屯田兵村の第二給与地が配置されていたので、大正3年(1914)ごろには解隊後の屯田戸主やその家族を中心に7戸が入植していた。 同8年(1919)以降中島、安藤、小山永などの各農場が相次いで開設され、入植者が急増した。 同10年(1921)には、五の一から分離、札富美として独立した。 大正14年(1925)、15号線地先の湧別川に札富美橋が架設されると、交通の便が良くなったので翌15年(1926)には戸数が42戸に増えた。 大正の中ごろから昭和13年(1938)ごろまでは薄荷の黄金時代で、地域内の80%は薄荷畑であったが、その後幾多の変遷を経ながらも酪農が着実に盛んになり、現在に至っている。 区域は、18号線と湧別川の交点から18号線を西へ進み湧別町界に至り、旭・五の一・屯市・四の三の各自治会界とする一円であり、湧別川の西に位置する。 平成9年(1997)3月末の住民基本台帳では人口と戸数は、37人・8戸で、大幅に減少している。 主な出来事 昭和56年(1981)、道営草地整備改良事業により旧岡本川に明渠排水工事が実施され、草地整備が大きく進んだ。 翌昭和57年(1981)、札富美寿老人クラブが北海道花壇コンクールに参加し、見事に奨励賞を射止めた。 同クラブは、町の花いっぱい運動の常連で、平成8年(1996)までに最優秀賞9回、優秀賞7回の素晴らしい成績を収めている。 自治会年表 (昭和50年以降)
自治会の活動 毎年5月と10月の2回、道路脇の空き缶拾いを、7月に農免道路の草刈りをそれぞれ自治会全戸の参加で実施している。 また、6月16日の馬頭観世音の供養、8月19日の老人クラブ主催の物故者供養も年中行事になっている。 自治会が管理しているものは、札富美会館、馬頭観世音などである。 歴代自治会長他 (昭和50年~平成9年) 【自治会長】 深見信之(昭和48年~同54年)、片岡隆雄(同55年~同62年) 、深見信之(昭和63年~平成5年)、志鎌哲雄(同6年~現在) 【農業委員】 安藤国夫、熊谷時男 【農協理事】 安藤国夫 【農協監事】 安藤国夫(平成8年から代表監事) 【農事部長】 深見信之、片岡隆雄、志鎌哲雄、熊谷時男 【農協婦人部長】 福島よね子 【農協婦人部支部長】 福島よね子,菊地常子、志鎌靖子、片岡由美子、深見 静子、熊谷基美 【札富美老人クラブ会長】 斉藤一盛、片岡幹雄、安藤コト、片岡隆雄、深見信之 |
慶長 9年 1604 |
1・27 | 松前慶広、徳川家康から黒印状拝受 | 寛政 2年 1790 |
○ | フランス革命起こる | |
寛永12年 1635 |
○ | 村山掃部左衛門、蝦夷地を巡行し地図作成 | 寛政 9年 1797 |
○ | 板垣豊四郎、宗谷、斜里、樺太の三場所 を請負う |
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寛文 元年 1661 |
○ | 松前藩士・吉田作兵衛が作成した「元禄 御国絵図」に「ゆうべち」の地名 |
寛政10年 1798 |
○ | 幕府勘定吟味役・三橋籐右衛門、蝦夷地 を巡察して宗谷に至り、属僚を派遣して斜 里まで北見沿岸を調査 谷口青山が「ユウベツ」写生図を作成 |
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寛文13年 1670 |
○ | 津軽一統志に「ゆうべつ村300人ほど」 の記録 |
寛政12年 1800 |
○ | 伊能忠敬、海岸線を実測し蝦夷地図を 作成 |
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貞亨 2年 1685 |
○ | 松前藩、宗谷場所を開設 | 文化 4年 1807 |
○ | ロシア人が千島、樺太、蝦夷地北辺を 襲撃 |
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宝永 3年 1706 |
○ | 阿部屋村山伝兵衛、宗谷場所を請負う | 文化 4年 1807 |
○ | 宗谷警備、斜里警備についた津軽藩士た ちが厳冬の猛威の前に壊滅状態に陥る |
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安永 4年 1775 |
○ | 飛騨屋武川久兵衛、宗谷場所を請負う | 文化 5年 1808 |
○ | 宗谷、斜里両場所が藤野喜兵衛、坪田左五 兵衛、西川准兵衛の共同請負に |
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安永 5年 1776 |
7・4 | アメリカが独立宣言 | 弘化 3年 1846 |
○ | アメリカ使節、浦賀へ来航 | |
天明 3年 1783 |
○ | 天明の大飢饉始まる。宗谷などのアイヌ も多数餓死 |
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天明 5年 1785 |
8・23 | 佐藤玄六郎、オホーツク沿岸を知床まで 調査 |
安政 元年 1854 |
3・3 | アメリカと神奈川条約(日米和親条約) を調印 下田、函館の開港決定 |
明治 元年 1868 |
9・ 8 9・ |
明治と改元し、一世一元を制定 函館裁判所属吏・平井幸一郎、網走に来 て新制を布告 |
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安政 3年 1856 |
松浦武四郎、北蝦夷地を巡見 | 明治 2年 1869 ○ |
3・28 6・ 4 7・12 8・15 8・25 9・28 11・17 11・ |
首都を東京に遷都 開拓史が設置される 開拓督務鍋島直正を開拓し長官に任命 蝦夷地を北海道と改称、11国86郡を設置 東久世通譆を開拓し長官に任命 場所請負制度を廃止 スエズ運河開通 開拓史、「移民扶助規則」などの諸規制が 制定される 紋別場所が函館府根室役所の所属に |
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安政 4年 1857 |
幕吏・細野五佐ヱ門、逸見小十郎が紋 別で391坪を開墾、野菜栽培 |
明治 3年 1870 |
この年、北海道人工約10万人 白井巌らが紋別詰め産物係として 配置される |
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安政 5年 1858 |
5・22 | 松浦武四郎、湧別川をさかのぼり、ウベカイ (現、開盛橋下手)とイクタラ川合流点で一泊 |
明治 4年 1871 |
4・ 4 5・10 5 7・14 12・ |
戸籍法」が制定される 「新貨条例」公布(1両を1円に) 開拓史庁、札幌に設置される 廃藩置県の勅書が出される 藤野伊兵衛が紋別場所の漁場持ちとなる |
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安政 6年 1859 |
3・3 | 安政の大獄はじまり、桜田門外の変起こる 会津藩、紋別に駐屯、警備と開拓に従事 |
明治 5年 1872 |
1・29 3・ 6・23 7・ 1 8・ 3 9・12 9・14 9・ 11・ 9 |
戸籍が皇族、華族、士族、平民に分けられる 北見4郡の村名が定められ「ユウベツ村」が 誕生、紋別戸長管下となる 横浜市街にガス燈がつく 全国に郵便制施行 学制(学区制、義務教育制)が制定される 新橋~横浜間に最初の鉄道開通 札幌開拓史庁を本庁と改め、函館、根室、 宗谷、浦河、樺太の5支庁を設置 紋別に官設病院設置 太陽暦を採用(12月3日を明治6年1月1 日とする) |
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文久 2年 1862 |
山田寿兵衛、紋別、斜里、標津を請負う | 明治 6年 1873 |
1・10 7・28 7・ |
「徴兵令」発布 「地租改正条例」公布 網走に根室支庁網走出張所が設置される |
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慶応 3年 1867 |
10・14 12・ 9 |
第15代将軍・徳川慶喜、大政を奉還 朝廷、王政復古の大号令 |
明治 7年 1874 |
8・ 2 9・19 10・30 |
陸軍中将兼開拓次官黒田清隆の兼任をと き、参議兼開拓使長官に任命 米国人地理学者・ライマンが根室、斜里 を経て常呂に到着 「屯田憲兵例則」が制定される |
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慶応 4年 1868 |
1・3 3・14 4・12 4・17 4・21 7・17 7・27 |
鳥羽・伏見の戦い始まる 五箇条の五誓文発布 函館裁判所設置、すぐ函館府に改称 政府、蝦夷地開拓条項(七箇条)を指令 政府、太政官制を定める 江戸を東京都改称 明治天皇即位 |
明治 8年 1875 |
4・14 5・ 7 5・ 5・ ○ |
元老院・大審院を設置 樺太と千島の日露交換条約が調印される 常呂郡の各村、カナ地名を漢字に改め、 「ユウベツ」は「湧別」となる 最初の屯田兵が琴似村に入地 根室支庁網走出張所が廃止され、同支庁 民事課派出所を設置 |
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明治 9年 1876 |
1・ 1・ 2・ 3・28 8・14 ○ |
郵便路線の全道一周完成 紋別郵便取扱所が開設される 日朝修好条規調印 特例を除き帯刀を禁止(廃刀令) 札幌農学校が発足 紋別郡、第27大区第四小区となる |
明治17年 1884 |
○ ○ |
群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田 事件など相次ぎ発生 湧別に駅逓が設置され、初代取扱人に和田 鱗吉就任 |
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明治10年 1877 |
2・15 4・12 6・ 8・21 12・13 |
西南戦争起こる 東京大学開設 大森貝塚を発見 第1回内国勧業博覧会開催(~11月) 「北海道地券発行条例」が制定される |
明治18年 1885 |
5・ 7 11・ 5 12・22 |
屯田事務局が屯田本部と改められ陸軍少 将永山武四郎、本部長に就任 徳広正輝、北海道物産共進会で褒状を受ける 太政官制から内閣制に移行、第1次以東 博文内閣発足 |
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明治11年 1878 |
7・22 | 「郡区町村編成法」「地方税規則」、「府県 会規則」が公布される |
明治19年 1886 |
1・26 2・23 4・10 5・16 6・29 7・ ○ |
三県一局を廃止、北海道庁の設置を布告 (3月1日に開庁)。初代長官に岩村通俊 が就任 根室支庁の管轄と官制が定められ、網走 外三郡もその管轄下に 「小学校令」・「中学校令」公布 樺戸収監の囚徒を使役し、中央道路開 削に着手 「北海道土地払下規則」が区付される 屯田兵司令官陸軍少将・永山武四郎らが屯 田兵村設定地域視察のため、紋別を出発し 湧別・網走の各地を回る この年、北海道の人口30万3746人 、耕地2万5311町歩 |
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明治12年 1879 |
4・ 4 7・23 9・29 |
琉球藩を廃し、沖縄県を置く 開拓史が郡区町村制により大小区を廃し、 郡区町村を編成 学制を廃止、「教育令」を制定 |
明治20年 1887 |
○ ○ ○ |
徳広正輝、ナオザネ(中湧別)に移住、牛 豚を飼育し、リンゴを試作 湧別村戸口は21戸76人 戸長、警察分署を兼務 |
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明治13年 1880 |
11・28 ○ ○ |
手宮~札幌間に道内初の鉄道が開通 宮川房治、湧別川鮭漁業権を得て漁業経営 大小区制が廃止され、郡区町村制を編成、 網走郡役所を設置 |
明治21年 1888 |
4・25 4・30 6・15 12・14 |
市制・町村制公布(ただし北海道は除 外) 黒田清隆内閣成立 北海道庁第二代長官に永山武四郎 北海道庁本庁舎(現在の赤れんが庁舎) が落成 |
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明治14年 1881 |
7・ 8 9・1 ○ ○ ○ |
釧路国網走郡が北見国網走郡に編成される 樺戸郡月形村に樺戸集冶監が開庁 北海道開拓史官有物払下げ問題起こる 紋別郡の耕作面積6反3畝と判明 この年の道内人口約22万人 |
明治22年 1889 |
1・22 2・11 2・11 6・29 12・24 ○ ○ |
改正「徴兵令」が公布され、国民皆兵制 を供花 「大日本帝国憲法」公布 皇室典範制定 空知監獄署囚人により北見道路(忠別太 ~網走間)の開削に着手 第1次山形有朋内閣成立 旭川~北見峠~遠軽~湧別間に一間幅の刈 り分け道路を開削 湧別原野、植民地選定の指定受ける |
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明治15年 1882 |
1・ 4 1・11 2・ 8 10・ 2 10・10 ○ ○ |
軍人勅諭を発布 参議農商務卿西郷従道を開拓史長官兼任 とする 開拓史を廃止、函館、札幌、根室の3県を 設置 紋別戸長役場が開設され、初代戸長に 半沢真吉が就任 日本銀行開業 徳広正輝が湧別に定住 ドイツ人コッホ結核菌を発見 |
明治23年 1890 |
5・17 7・ 1 9・ 6 10・30 10・ 11・10 11・25 ○ |
府県制・郡制を公布 第1回衆議院議員選挙執行 「屯田兵土地給与規則」が公布される 教育勅語発布 「屯田兵及び華族教令」を制定、また、 兵村に兵村諮問会を設置 「屯田兵召集規則」が制定される 第一回帝国議会開く 湧別原野植民地の区画測量開始(遠軽6号 駅逓野上~湧別浜間) |
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明治16年 1883 |
2・19 3・ 1 4・ 1 7・ 2 8・13 10・ 9 11・28 ○ |
紋別に巡査派出所設置 天気予報開始 常呂村外6ヶ村戸長役場が設置される 「官報」発刊 十勝でバッタ大発生、北見諸国まで蔓延 共同運輸会社が国後、択捉、北見地方に 汽船航路を開設 鹿鳴館が開館 和田鱗吉、湧別に定住 |
明治24年 1891 |
4・ 5・ 6 6・15 9・ 1 ○ |
網走から石北国境に至る中央道路の開削 工事に着手 第1次松方正義内閣成立 北海道庁第三代長官に渡辺千秋 上野~青森間鉄道開通 湧別原野植民地選定の測量完了 |
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明治25年 1892 |
3・10 4・ 1 7・19 8・ 8 ○ ○ ○ ○ ○ |
遠軽6号駅逓(現、野上)の設置を告示 湧別原野基線鉄道が開通 北海道庁第四代長官に北垣国道 第二次伊藤博文内閣成立 開盛橋が架設される 湧別巡査派出所が設置される 湧別郵便取扱所が設置される 上湧別原野のうち4314町歩屯田兵村 予定地に決定 この年、道内で天然痘大流行、死者15 99人 |
明治33年 1900 |
2・16 2・26 3・ 2 3・ 7 3・10 3・29 4・28 6・13 6・ 8・20 8・ 10・19 10・ ○ ○ ○ ○ |
北海道拓殖銀行、営業を開始 「産牛馬組合法」公布(7月1日施行) 北兵村三区に上湧別初の碑石・湯殿山が 祀られる 「産業組合法」公布 「治安警察法」公布 「衆議院議員選挙法」改正に伴い、北海 道に選挙区(定員6人)設置 雄武村外三村戸長役場を設置 網走郡北見町外八村戸長役場を設置 湧別村三代目戸長に岩橋佐吉が就任 「小学校令」および「施行規則」を制定 (尋常科四年まで義務化) 南、北兵村に公有財産地約2100町歩 を給与 第四次伊藤博文内閣成立 網走外三郡農会を設立 湧別村納会を設立、初代会長に岩橋佐吉 戸長 コタン(中湧別)に水車精米所できる 南兵村二区の服部岩吉が澱粉製造開始 この年、農産物の生産価格が水産物を 超過 |
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明治26年 1893 |
6・30 12・ |
7号滝ノ上駅逓(現、南丸瀬布108番 地)の設置を告示 下湧別原野植民地の貸付方法告示 |
明治34年 1901 |
2・ 1 2・ 5 3・28 5・13 6・ 2 8・10 8・15 10・ 11・ 12・10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
網走区裁判所が設置される 南、北兵村に公有財産取扱委員会設置 「北海道会法」、「北海道地方費法」を公 布 北兵村一区に北湧青年会を設立 第一次桂太郎内閣成立 第一期北海道会議員選挙執行 網走警察署湧別分署が設置される 屯田兵給与地未登記土地所有権の保存 登記が実施される 兵村で水田工事に着手(翌35年6月竣 工) 田中正造、足尾鉱毒事件で天皇に直訴 庄田万里を医学校に派遣 兵村共同販売組合を設立、菜種を販売 道から払下げを受けた種馬候補の初椿 号を兵村で飼育 兵村の薄荷栽培普及 第七師団が札幌から旭川へ移転 第一回ノーベル賞授与式 北海道の戸口18万9526戸、101万 1892人 |
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明治27年 1894 |
7・12 8・ 1 ○ ○ |
「屯田兵条例」を改正、予備役を廃止 日本、新国二宣戦布告(日清戦争) 医師髙橋謙造、四号線に居住 高知県等から下湧別原野植民地への農業 団体移住開始 |
明治35年 1902 |
1・30 2・22 3・ 8 3・13 3・25 8・10 9・27 9・30 10・23 11・25 11・ 12・ 1 ○ ○ ○ |
日英同盟協約調印 北海道二級町村制改正公布 「北海道土功組合法」公布 網走町ほかを二級町村制施行地に指定 (4月1日施行) 「商業会議所法」クフ(7月1日施行) 北海道初の衆議院議員選挙執行 北湧尋常高等小学校に名誉旗(就学旗)が 授与される 北海道会議事堂が完成 南兵村一区の川上神社(天照大神)創祀 南兵村二区に天満宮(菅原道真)を建立 屯田兵の寄り網走道路(7号線~計呂地 間)が開削される 屯田市街に郵便受取所を開設 遠軽郵便局が開設される 水稲の試作、凶作で失敗 網走産牛馬組合設立 |
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明治28年 1895 |
4・17 10・ 9 ○ ○ |
日清講和条約(下関条約)に調印 屯田兵第四大隊長小泉正保中佐、湧別兵村 予定地を視察 徳広正輝、農耕にプラオを初使用 湧別兵村の地割測量を実施 |
明治36年 1903 |
3・20 3・31 4・ 1 4・ 1 4・11 5・15 5・ 6・15 7・18 11・20 12・ ○ ○ ○ ○ ○ |
北海道集冶監網走分監を網走監獄と改称 屯田兵現役解除、公有財産は第七司令 部の直轄監督へ 北兵村二区で青年会結成 郵便電信局を郵便局と改称 「小学校令」一部改正により国定 教科書制度導入 南兵村一区に共進青年会設立 南兵村三区に八幡宮(応神天皇)建立 南兵村三区で明徳義団結成 南兵村三区に初の馬頭観世音碑建立 南兵村二区に南湧義団結成 湧別村四代目戸長に石川正之助就任 南、北屯田兵村、北湧尋常高等小学校へ 基本財産として6000円寄付 薄荷取卸油の販売開始 北兵村三区に神明宮(天照大神)建立 ライト兄弟、飛行機の初飛行に成功 |
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明治29年 1896 |
3・31 4・ 7 5・12 5・14 5・29 9・18 ○ ○ ○ ○ |
拓殖務省が設置される 北海道庁第五代長官に原保太郎 札幌に第七師団創設、屯田兵司令部を 廃止 「北海道鉄道敷設法」公布 道庁、植民地選定及び区画施設規定を 制定 第二次松方正義内閣成立 兵村工事用材のため発の造材開始 湧別兵村の建設工事着手 渡部(辺)精司、湧別で薄荷を初めて栽培 コタン(中湧別)に店舗開設 |
明治37年 1904 |
2・10 8・ 9・ 9 11・28 ○ |
日本、ロシアに宣戦布告、日露戦争が 始まる 湧別屯田兵、日露戦争に出征 「屯田兵条例」を廃止(屯田兵制度終了) 横山信次郎ら湧別屯田兵7人、中国旅順 203高地で戦死 屯田兵村で薄荷の共同販売実施 |
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明治30年 1897 |
3・30 4・10 4・ 5・ 7 5・ 7 5・29 5・29 5・13 6・13 7・15 9・ 1 9・ 4 11・ 2 ○ ○ ○ ○ ○ |
「北海道国有未開地処分法」公布 拓殖務省「北海道移民規則」制定 屯田市街の宅地割、東西に各50戸設定 信田寿之ら北海道同志教育会が学田に入植 学田農場に小作人30高尾来住 湧別屯田第一陣が移住 北海道区制・北海道一級町村制・北海道 二級町村制、勅令として公布 根室和田村から第四、第五中隊本部が 湧別兵村へ移駐 野付牛村外一村戸長役場を設置 湧別村が紋別外九ヶ村戸長役場から分村 開庁、初代戸長に小池忠吉 拓殖務省廃止、北海道の政務が内務省へ 北海道庁第六代長官に安場保和 郡役所を廃止、19支庁を置く 屯田本部に軍医着任 兵村で馬の飼育開始 屯田市街に渡部表太の店舗開店 旭地区公有財産地で山火事発生 この年、天然痘、赤痢大流行、死者多数 |
明治38年 1905 |
2・11 3・24 5・27 9・ 5 12・24 ○ ○ ○ |
屯田市街に中央青年会結成 郵便受取所、三等郵便局に昇格し、屯田 郵便局に改称 連合艦隊、日本海でロシアのバルチック 艦隊を撃破 日露講和条約が調印となり、南樺太 (サハリン)が日本領土となる 南湧小学校の前身、南分教場を開設 屯田市街で大火災発生 道庁から種馬の貸与受け、出張所種付け を開始 網走外三郡牛馬組合が結成され、湧別村 産牛馬組合支部を設立 |
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明治31年 1898 |
1・ 1 1・12 2・15 3・ 5 3・20 6・30 7・16 9・ 1 9・ 6 9・16 10・ 11・ 3 11・ 8 11・12 12・ 1 ○ ○ ○ |
北海道に「徴兵令」施行 第三次伊藤博文内閣成立 元陸軍経営部に五中隊が刈り学校開設 西本願寺説教所に四中隊が刈り学校を開設 第四、第五中隊にそれぞれ兵村諮問会を 設置 第一次大隈重信内閣成立 北海道庁第七代長官に杉田貞貞一 湧別屯田第二陣(第一船)が移住 湧別原野に水害 湧別屯田第二陣(第二船)が移住 湧別~紋別間に仮定県道完成 中央練兵場に大国主之命を祀り、初めて祭 典・競馬など実施 第二次山県有朋内閣成立 北海道庁第八代中間に園田安賢 北湧尋常小学校を創立 南兵村に初めてリンゴの苗木入る 菊地勲、水稲試作に着手 キューリー夫人、ラジウム発見 |
明治39年 1906 |
1・ 7 1・ 2・22 3・31 4・12 6・14 7・ 3 8・ 9・ 10・31 12・20 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
第一次西園寺公望内閣成立 中湧別小学校の前身、北分教場を開設 渚滑村、湧別村を北海道二級町村制施 行地に指定(4月1日施行) 「鉄道公有法」公布 「屯田兵土地給与地規則」廃止 初の村会選挙執行 「北海道移民規則」改正 庄田万里を村医に委嘱 屯田市街に琴平神社(大国主之命)建立 北海道町令「貸付地定存置規則」公布 北海道町第九代長官に川島酵 公有財産地が村長管理のもと兵村部落 財産となる 日露戦役に出征していた湧別屯田兵凱旋 部落部長任命 湧別川が氾濫、開盛橋を流失 初代村長に佐藤信吉が就任 稚蚕共同飼育所、主繭殺蛹場を屯田市街 に開設、養蚕奨励 三井作次郎、富美へ移住 鈴木峯次、村農会長に就任 湧別屯田兵の日露戦争戦病死舎が42人に |
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明治32年 1899 |
1・ 4 3・ 2 3・ 6・ 9 7・31 ○ ○ |
北兵村三区に北辰青年会設立 「北海道旧土人保護法」公布 湧別村二代目戸長に高木栄が就任 「農会法」公布。翌年「農会令」施行 北兵村一区に水天宮が建立される 兵村で洋雑種馬の飼育開始 この年、北海道屯田兵召集を廃止 |
明治40年 1907 |
1・17 2・28 3・21 5・ 6 9・16 10・17 12・10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
北湧尋常小学校、不審火で全焼 北海道国有未開地立木処分手続を制定、 貸付地内の立木処分を有償へ 「小学校令」既成、義務教育を四年から 六年に延長(翌41年度から施行) 湧別村二代目村長に兼重浦次郎が就任 遠軽に巡査駐在所設置 南兵村一区に初の日露戦役記念碑建立 農事指導奨励のため、全道六区に農区 定め、農事指導員を配置 南兵村三区に施設消防組結成 湧別村初代収入役に藤島倉蔵が就任 旭地区に篠野光蔵が定住 開盛橋跡で渡船経営 南兵村三区に公益社軸木工場が建設される 北兵村二区に蠣崎軸木工場が建設される 北兵村二区で宮崎製材工場操業開始 この年、北海道人工139万79人 |
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明治41年 1908 |
4・15 6・ 1 7・14 10・3 ○ ○ ○ ○ |
改正「北海道国有未開地処分法」公布 全道5署の一つとして網走営林区署設置 第二次桂太郎内閣成立 北湧尋常高等小学校新校舎の落成式挙行 農作物に晩霜・早霜被害 公益社軸木工場が火災焼失 富美植民地区画の測量実施 因製材工業が操業開始 |
大正 4年 1915 |
3・16 3・17 3・17 6・21 6・ 8・ 1 8・12 8・18 9・15 10・23 11・ 1 11・10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
美幌村、斜里村、常呂村、隥沸村、興部 村、雄武村を二級町村制施行地に指定( 4月1日施行) 網走町および野付牛村を一級町村制施行 地に指定(4月1日施行) 常呂郡置戸村および武華村を置く(4月 1日施行) 「北海道拓殖銀行法」改正により、畜産 組合に対する年賦、定期無抵当貸し付け が認められる 鴻之舞金山が発見され、住友鉱業の経営 下に入る 「畜産組合法」が施行され、組合事業の 拡大、畜産の改良を図る 北海道庁第一四代長官に俵孫一 大阪朝日新聞社主催第一回全国中等学校 優勝野球大会が豊中中学校グランドで開催 される(全国高校野球の始まり) 内務・文部両省、青年団の指導発達に関 する訓令を出す。これを受け道庁も通牒 常呂郡隥沸村を佐呂間村と改称(11月 1日施行) 湧別軽便線が下生田原から社名淵駅まで 開通 大正天皇即位の礼挙行 湧別軽便線の改正鉄橋が完成 多田・山中農場、上富美に開設 十勝種馬放牧場湧別種付所、6号線に移築 第二青年共進会を開盛青年会に改称 富美青年会を結成 サミュエル商工事件起こる |
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明治42年 1909 |
3・17 3・26 4・14 4・15 9・13 10・19 10・26 ○ ○ ○ ○ ○ |
紋別村、野付牛村を二級町村制施行地に 指定(4月1日施行) 興部村戸長役場を設置(4月1日開庁) 「種痘法」公布。 新生児の種痘が義務化 北兵村三区の野火から出火、兵屋24戸 焼失 文部省、直轄学校に対し修身教育の重 視、教育勅語、戊申詔書の趣旨徹底を訓令 北海道拓殖事業十五年計画(第一期拓殖 計画)が閣議決定 伊藤博文、ハルピン駅頭で韓国人に射殺 される 北見鉄道期成会が結成され、開庁に野口 芳太郎就任 富美植民地の貸し付け開始 蠣崎軸木工場で火災発生 小麦の第一回立毛品評会を開催 道内の人口150万人を超え、耕地50 万町歩となる |
大正 5年 1916 |
1・ 2・ 1 3・ 7 3・19 5・30 5・ 7・22 10・ 9 10・31 11・ 3 11・21 11・ 12・24 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
野付牛の丸玉鈴木商会がベニア製造開始 開盛教授場が開盛尋常小学校に昇格 北見地方管轄の根室地方裁判所が釧路に 移転、釧路地方裁判所となる 野付牛村を野付牛町と改称(4月1日施 行) 南、北両兵村の寄付により開基二十年開村 記念碑を上湧別神社境内に建立 北海道木材組合聯合会が創立される 北分教場が中湧別尋常高等小学校に昇格 寺内正毅内閣成立 「工場法施行細則」が公布される 裕仁親王殿下の立太子礼挙行 湧別軽便線の社名淵~下湧別(現、湧別) 間が開通 中湧別保線区・遠軽機関区中湧別駐泊所 が設置される 道庁が特別教育規定を改正、教育所の名 を廃しすべて尋常小学校とする 上湧別村議事堂が新築される 鉄道運送店が開設される 早川木工場が操業開始 日本製麻会社湧別繊維工場が設立され、亜 麻の栽培始まる 小島歯科医院開業 牡馬の去勢を強制的に実施 開盛巡査駐在所廃止 この年、オホーツク海沿岸、高波で大きな 被害受ける |
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明治43年 1910 |
6・28 4・ 1 5・25 5・ 6・10 6・14 7・ 8・22 8・25 11・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
湧別村を分割し上湧別村を置き、湧別村を 下湧別村と改称(4月1日施行) 初代村長に兼重浦次郎就任 大逆事件の検挙始まる 富美部落が独立 湧別川19号線地先の渡船が官設へ移行 上湧別村会議員選挙執行 屯田市街に巡査駐在所設置 韓国併合に関する日韓条約調印(29日 条約公布、施行) 上湧別村初代収入役に清水彦吉就任 分村により上湧別村農会発足 公設上湧別消防組を設立 上湧別村同志会を結成 勤検共成組合結成 上湧別村競馬会結成 在郷軍人会上湧別分会結成 この年、拓銀、預金部資金により地方 低利貸付制度を開始 |
大正 6年 1917 |
1・ 5・22 8・16 9・ 11・ 7 12・ 1 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
ロンドン農産物相場急騰 青豌豆天井知 らずの商況。 道内各地に青豌豆、薄荷、 澱粉の成金続出 山火事が全道各地に発生、上湧別村白滝 奥で230戸焼失 屯田郵便受取所が上湧別郵便局に改称 名寄線の鉄道工事、中湧別と名寄を起点 に着手 ペトログラードでポリシェビキの武装蜂起 、ケレンスキー政府が転覆し、軍事革命 委員会がソビエト政権樹立を宣言 道庁、「農事改良実効組合設立綱領」を支 庁長へ通牒、部落単位の組医設立を奨励 チフスが大流行し、兵村に隔離病舎が開設 富美森林防火組合結成 中湧別座設立 新妻木工場が操業開始 開盛青年会館建設 上湧別村農会初の技術員に永田孝雄が就 任、リンゴの剪定や穂継ぎを指導 |
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明治44年 1911 |
1・18 2・21 3・29 4・ 7 5・16 8・21 8・30 9・25 12・14 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
幸徳秋水ら大逆事件被告24人に死刑 判決 日米新通商条約調印 日本最初の労働立法「工場法」公布 改正市制・町村制公布 北海道庁第十代長官に石原健三 警視庁、特別高等課を設置 第二次西園寺公望内閣成立 池田線鉄道、野付牛まで開通、野付牛 駅開駅 ノルウェーのアムンゼンが初めて南極点 に到達 「郵便鉄道法」による湧別線の起工決定、 測量開始 上湧別村衛生組合設立 城岡作之助、獣医師を開業 薄荷記念祭を挙行 上湧別村連合青年会結成 共進青年会間建設 中央青年会館建設 |
大正 7年 1918 |
3・26 3・27 4・ 1 7・23 7・25 7・ 8・ 2 8・ 6 8・15 8・15 9・ 1 9・29 11・11 11・11 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
渚滑村を分割して滝ノ上村を置く(4月1日 施行) 「市町村義務教育費国庫負担法」公布 これにより教員俸給に対する国庫、市町村 連帯支弁制度が確立 札幌に北海道帝国大学設置 富山県魚津市に米騒動が起こり全国に 波及 富美教授場が富美尋常小学校へ昇格 上湧別村初代村長・兼重浦次郎が現職の まま死去 政府、シベリア出兵を宣言 上湧別村第二代村長に本多国彦就任 開盛に光華神社(天照皇大神)を建立 開道五十年記念北海道博覧会が札幌、小 樽で開催される 中湧別市街に巡査駐在所設置 原敬内閣成立 上湧別消防組の発団式挙行 ドイツが連合国との休戦協定に調印(第 一次世界大戦終結) 種馬初椿号の供養石碑建立 藤島煉瓦工場が創業 中湧別市街に煉瓦を使った建物が初登場 藤島木工場が操業開始 五の一鈴木峰次が甜菜を試作 この年、スペイン風邪が流行し、全国で 死者15万人に達する |
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明治45年 1912 |
1・ 1 7・ 5 |
南京に中華民国臨時政府成立 屯田市街地の郵便局舎が移転、集配局 となる(8月25日) |
大正 8年 1919 |
1・ 3・29 3・29 4・ 1 4・ 1 4・ 5 4・18 4・18 4・30 5・23 6・28 9・19 11・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
新国覚次郎らが中湧別開発期成会を設立、 湧網線の早期敷設運動を推進 紋別郡上湧別村を分割し、遠軽村を置く (4月1日施行) 網走郡美幌村を分割し、津別村を置く(4月 1日施行) 斜里村を分割し小清水村を置く(4月1日 施行) 上湧別村から遠軽村が分村、現在の上湧別 町の区域となる 津別村、小清水村、遠軽村各戸長役場 開庁 「都市計画法」公布 北海道庁第一五代長官に笠井信一 北海道信用勾配組合聯合会が設立され る。全道八組合参加 紋別村を紋別町と改称(5月1日施行) 「衆議院議員選挙法」が改正公布され る。小選挙区制を採用、納税□が10円 から3円に緩和される ベルサイユ講和条約が調印され、第一次 世界大戦が終結 北海道、明治三一年以来の豪雨被害を 受ける(~22日) 上湧別村第三代村長に新野尾国之就任 「北海道造田助成法」制定に関する件が 道会に提出され、道庁決議により「植民地 選定心得」が定められる 上湧別初の五の一農事改良実行組合を設立 「種牡馬保留規程」制定 北海道農産物検査所が開設され、上湧別、中 湧別、富美、開盛に駐在所設置 上富美神社(多賀神社分霊、大地主神)が建 立される 上湧別消防組が6部制に |
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大正 元年 |
7・30 9・ 11・30 12・19 12・21 12・28 ○ ○ ○ ○ ○ |
明治天皇崩御、皇太子嘉仁親王践祚し 大正と改元 上湧別神社の創立委員会結成 北見地方の薄荷生産農民代表、サミュエル 協会横浜支店と販売契約を締結 第一次護憲運動起こる 第三次桂太郎内閣成立 北海道庁第一一代長官に山之内一次 富美に初の店舗開店 熊沢商店、みそとしょうゆの製造開始 南湧青年会館建設 大正座開設 この年の内地人工5252万2752人、 外地人工・朝鮮1456万6783人、 同台湾321万3221人、同樺太2 150人 |
大正 9年 1920 |
1・10 4・ 5 5・ 2 5・ 5 5・25 7・20 10・ 1 10・25 10・ 11・23 11・25 ○ ○ ○ ○ |
国際連盟が発足 「上湧別村誌」を発行 日本最初のメーデーが東京上野公園で 開催される 置戸村を分割し訓子府村を置く(6月1 日施行) ニコライエフスクで捕虜になったシベリア 出兵軍将兵と居留民122人がバルチザ ンに虐殺される(尼港事件) 上富美部落、富美部落から独立 第一回国勢調査が実施される(全国76 98万8379人、北海道235万918 3人 名寄西線(後に名寄本線)の下川~上 興部間)開通 中湧別市街に郵便局開局 北海道産米100万石祝賀会が札幌で開 催される 北湧信用購買販売組合設立 道補助牡牛エーアシャ種20頭導入 上富美青年会結成 大沢雅休、短歌誌「にほぶえ」を創刊 この年、道庁、地価値と北見地方に甜菜 栽培を奨励 |
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大正 2年 1913 |
1・25 2・20 2・27 6・ 4 6・ 9 6・10 10・ 1 10・ 5 10・17 10・31 10・ 12・15 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
開盛部落が独立 第一次山本権兵衛内閣成立 北海道庁第一二代長官に中村純九郎 北湧尋常高等小学校富美特別教授場の 設置認可 北湧尋常高等小学校開盛特別教授場の 設立認可 森永製菓、ミルクキャラメルを発売 北海道庁令で北海道雑穀商聯合会が 委任を受け、大豆、小豆、菜豆、小麦な どの輸出に伴う検査を実施 官幣大社札幌神社の神殿落成 上湧別神社祭典を執行(以後継続) 在郷軍人会上湧別分会が忠魂碑建立 常紋トンネル開通、工事に伴う死者の慰 霊祭執行 大凶作となり、道庁内に官民合同の北海 道凶作救済会を設置 北湧尋常高等小学校基本財産約676町 歩を下富美484番地ニ取得 大水害と早霜で大凶作 十勝種馬所湧別出張所種付所を7号線に 開設 富美神社(明治天皇)建立 北兵村一区に消防第二部設立 北見義正が株式会社を設立 明徳青年会館設立 |
大正10年 1921 |
1・20 3・ 3 3・25 3・31 3・31 4・ 4 5・27 5・29 7・ 1 9・29 10・ 5 10・20 10・25 11・ 4 11・13 11・15 12・13 ○ ○ ○ ○ ○ |
『湧別兵村誌』が発刊される 内務省、手宮洞窟、阿寒湖マリモなど道 内の史蹟名勝、天然記念物を指定 名寄東線(後に名寄本線)の中湧別~興部 間が開通 紋別町を一級町村制施行地として指定 (4月1日施行) 網走町、野付牛村を分割し、二級町村と して女満別村、相内村、丹野村を置く (4月1日施行) 米の需給を調整するため「米穀法」公布 北海道庁第一六代長官に宮尾舜冶 常呂郡武華村を留辺蘂町と改称(6月1 5日施行) 中国共産党創立大会が上海で開かれる 開基二五周年記念式典・祝賀会が北湧 尋常高等小学校で開催される 名寄西線の上興部~興部間が開通。 名寄~中湧別間が全通し、名寄線と改称 中湧別列車従業員詰所が設置される 沿線関係五町村が中湧別で湧網線聯合 大会を開催 原敬首相、東京駅頭で中岡良一に刺殺 される 髙橋是清内閣成立 皇太子裕仁親王殿下、摂政となられる ワシントン会議で日英米仏四国条約調 印、日英同盟破棄 菊地善八が南兵村一区で玉葱の栽培を開始 石川善三郎が上湧別農会技術員に就任 富美青年会館が建設される 桑原経木工場が操業開始 この年、土功組合設立ラッシュ始まる |
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大正 3年 1914 |
1・10 2・24 4・14 4・16 4・21 6・14 6・25 7・28 7・ 8・15 8・23 8・24 10・ 5 ○ ○ ○ ○ |
上湧別村凶作救済会設立、救農工事を実施 道庁が村の中心地に村社を設置すること など神社整理の件を通牒 道庁、タコ労働者の酷使虐待を取り締まる 「労役者募集紹介雇傭取締規則」を出す 第二次大隈重信内閣成立 北海道庁第一三代長官に西久保弘道 上湧別村、郡制を廃止、区名に変更する 旨告示 多田農場、上富美に開設 オーストラリアがセルビアに宣戦布告、第 一次世界大戦始まる 御下賜金で農具を購入し配布 パナマ運河開通 日本、ドイツに宣戦布告 留岡幸助が仮定学校農場と分校を上湧別村 社名淵に開設 常紋トンネル開通により、湧別軽便線の留 辺蘂~下生田原(現、安国)間が開通 湧別兵村信用販売組合を設立、組合長に 菊地勤就任 初の軍馬勾配を実施 開盛に巡査駐在所設置 この年、大戦の影響で青豌豆、菜豆が 高騰 |
大正11年 1922 |
3・ 7 4・ 9 4・10 4・12 4・16 6・12 7・15 7・16 8・20 8・24 9・ 2 10・31 11・ 12・24 12・30 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
南兵村一区に果樹組合(穴田助太郎組合 長)が結成され、次第に各部落に波及 日本農民組合、神戸で創立される 改正「鉄道敷設法」公布。「北海道鉄道敷 設法」が廃止され、予定鉄道路線が22線と される 改正「農会法」公布。農会碑の強制徴収 決定 道庁「旧土人児童教育規程」を廃止、アイ ヌ児童に対する教育を一般規程に準拠さ せる 加藤友三郎内閣成立 日本共産党、非合法下で創立大会を開く。 委員長に堺利彦就任 摂政宮殿下を開盛、上湧別、中湧別の各駅 頭で奉迎 湧網線速成期成会が網走町で開催される 豪雨で河川が氾濫し湧別原野も大水害に見 舞われる。(~25日) 湧別軽便線が湧別線と改称される イタリアにムッソリーニ内閣成立 米村喜男衛ら網走に北見郷土博物館を 開設 「北海道甜菜耕作補助規程」公布 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が 成立 甜菜が試作される 除虫菊の栽培が始まる 札富美部落が北兵村一区から独立 伊藤幸二が認可を受けて下湧別~上湧別間 に一日5、6回自動車を運行 第一回堆肥品評会が開催される この年、流行性脳脊髄膜炎が大流行、6 71人が死亡 |
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大正12年 1923 |
2・ 3・30 4・ 1 6・ 8・20 9・ 1 9・ 2 9・16 9・28 9・29 9・ 10・ 5 10・ 12・27 ○ ○ ○ |
南兵村一区に甜菜耕作改良組合が設立さ れ、各部落に波及 戸長役場を全廃し、町村制を施行(内省告 示)(4月1日施行、市6,一級町村99,二級 町村155となる) 網走郡美幌村を美幌町と改称 北湧産業組合購買部事務所が設立される 中湧別駅前から出火、駅前通り両側11戸 を全焼 関東地方に大地震発生、死者9万1344人 、全壊焼失家屋46万4909戸 第二次山本権兵衛内閣成立 憲兵大尉甘粕正彦、大杉栄、伊藤野枝らを 扼殺 道庁、「土人九五規程」公布 北海道庁第一七代長官に土岐嘉平 富美原野道路(湧別川19号線渡船場を西 に渡り、20号線近く~フミ原野20号線附近 )が開削される 「北海道移住者世話規程」公布 第一回果樹園品評会が実施される 難波大助、摂政宮殿下を狙撃(虎ノ門 事件) 富美、札富美、共進、南優に信用購買販売 組合が設立される この年、北見地方の甜菜作付け2700町 歩に達する この年、道産米、200万石突破 |
昭和 5年 1930 |
1・11 1・21 2・12 4・22 5・26 8・30 10・ 11・14 11・18 ○ ○ ○ ○ ○ |
金輸出解禁、金本位制に復帰 新労農党北海道支部聯合会が結成される 湧別軌道(株)湧別~丁寧間の運輸業務を 開始 ロンドン海軍軍縮条約に調印 湧別土功組合の設立が認可される 湧別川大洪水により札富美橋(15号線) が流失 地崎組が灌漑溝(幹線、支線)の堀削くじ に着手 浜口雄幸首相、東京駅頭で佐郷屋留雄に 撃たれ重傷、翌6年8月26日死亡 道産米300万石達成の記念会、札幌で 挙行 湧別家畜市場が定期開設に 中湧別商工会が結成される 多額の造田資金が南、北兵村区有財産から 三ヵ年にわたり交付される 酪連遠軽工場が完成 この年、不景気のため失業問題深刻化 |
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大正13年 1924 |
1・ 7 2・ 2・ 4・15 6・11 6・22 7・18 7・22 11・26 ○ ○ ○ ○ ○ |
清浦奎吾内閣成立 南兵村公会堂を改善、南湧裁縫教授所を 開設 上湧別、中湧別両郵便局に特設電話が開設 され、中湧別に30戸の加入電話を架設 北海道庁管内土功組合聯合会が創立され る 第一次加藤高明内閣成立 上富美に特別教授場が開設される 衆議院で北海道拓殖促進に関する建議 案、北海道土功組合事業促進に関する建 議案が可決 「小作調停法」公布(12月1日施行) 紋別郡遠軽村を分割し生田原村を、紋別 郡興部村を分割し西興部村を設置(大正1 4年1月1日施行) 上富美の山口元免と南兵村一区の秦野兼松 が種牡牛の飼育開始 富美で丑谷経木工場が操業開始 湧別臨時家畜市場が6号線に開設される 軍馬購買地が6号線の湧別種付所に移る 南、北兵村が上湧別神社造営のため400 0円の寄付を決定 |
昭和 6年 1931 |
1・26 1・ 4・14 6・ 6 8・24 9・18 9・20 9・ 10・ 2 10・ 12・13 12・ ○ ○ ○ ○ |
日本農民総同盟と全日本農民組合が合 同、日本農民組合(日農)が結成される 上湧別村第四代村長に堺佐一就任 第二次若槻礼次郎内閣成立 道庁、「北海道旧土人奨学資金給与規程」 を制定 米人リンドバーグ夫妻、北太平洋横断飛 行に成功し、根室に到着 関東軍参謀らが柳条溝の満鉄線路を爆破 、これを中国軍の行為として攻撃を開始、 満州事変が始まる 国鉄釧網線全線開通 屯田兵屋を上湧別神社境内に移設し、屯 田兵屋記念館を設置 北海道庁第二一代長官に佐上信一 湧網線関係5町村の実行委員が上京、敷設 実現を陳情 犬養毅内閣成立 道庁、「北海道方面委員規程」を制定、「 救護法」の施行に対応 湧別土功組合の第一期灌漑幸二着工 岩上喜久三、「湧別新聞」を発刊 屯田市街地にキリスト協会が開設される この年、全道冷害凶作 |
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大正14年 1925 |
1・22 2・ 3・ 1 3・25 4・22 5・ 5 5・10 8・ 2 9・ 1 9・18 ○ ○ ○ ○ ○ |
上湧別、中湧別両市街に電灯ともる 湧網線促進陳情が帝国議会で採択される (社)東京放送局がラジオ仮放送を開始(7 月本放送開始、北海道でも受信) 衆議院で「北海道甜菜糖業補助法」制定 に関する建議案可決 「治安維持法」公布(5月12日施行) 改正「衆議院議員選挙法」クフ(25歳以上 男子に選挙権を付与) 日農北海道連合会が結成される 第二次加藤高明内閣成立 南湧裁縫教授所が南湧実科女学校に昇格 北海道庁第一八代長官に中川健蔵 札富美青年会が結成される 南湧処女会が結成される 北湧産業組合精米所が設立される 喜楽座が開設される 屯田市街・中湧別市街などに電灯ともる |
昭和 7年 1932 |
1・28 2・ 9 3・ 1 5・15 5・21 5・26 6・ 2 7・16 7・30 7・31 8・ 2 8・ 4 9・15 10・ 1 10・ 1 10・ 6 ○ ○ ○ ○ ○ |
上海で海軍陸戦隊が中国軍と激戦に入 り、上海事変興る 前蔵相井上準之助、血盟団員に射殺sれ る 満州国建国宣言を発表、9日に宣統帝溥儀 が執政に主任 海軍青年将校と陸軍士官学校生らが首相 鑑定で犬養首相を射殺(5・15事件) 紋別郡渚滑村を分割し下渚滑村を置く (6 月1日施行) 斉藤実内閣成立 湧網線測量主任の吉田技師が網走に到着 上湧別産業組合の再建総会が開かれ、熊 沢助三郎が組合長に就任 來道中の床次竹次郎鉄道大臣に、酒井佐一 村長が湧網線の早期着工など陳情 ドイツ国会選挙でナチスが第一党となる 来村した池田嘉元鉄道建設局長に、酒井 佐一村長が湧網線の早期着工など陳情 札幌出身の南部忠平、ロスアンゼルス・オリ ンピック大会三段跳びで15・72㍍の世界新記 録で金メダル 日満議定書に調印、満州国を承認 湧別線のうち下湧別~遠軽間が名寄本園に 編入される 国鉄石北線上川~遠軽間全線開通 農林省、「農山漁村経済更正計画助成規 則」を交付 上湧別苯果協会が設立される 庄田医院に上湧別最初の自転車が入る 民有未墾地開発資金5万円を導入、南、北 兵村区有財産地の開放資金とする 湧別土功組合が灌漑溝の第二期堀削工事 に着手 この年、全道的に冷害凶作に水害が加わり 被害甚大 |
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大正15年 1926 |
1・30 2・16 2・27 4・ 9 4・20 4・24 5・24 5・24 6・ 5 6・22 6・24 6・30 7・ 1 8・31 8・ 9・27 9・29 9・ 10・ 8 11・10 ○ |
第一次若槻内閣成立 中湧別郵便局が集配局となる 道庁、商工会会則準則を告示 「労働争議調停法」、改正「治安警察法」 公布(7月1日施行) 「青年訓練所法」公布(7月1日施行) 本州(青森)と北海道(函館)に初めて 電話開通 十勝岳が大爆発、死者行方不明144人 糸屋銀行「本店旭川)が休業に入り、道 北、道央の経済界に打撃与える 湧別巡査派出所が湧別警察署に昇格 「酪農奨励規則」公布 府県制・市制・市町村制改正公布、男子 普通選挙制を採用 「畜牛馬匹奨励規則」公布 北湧、南湧、中湧別、改正、富美各青年 訓練所が設置される 上湧別村連合処女会の発会式挙行 南兵村共同墓地に無常堂が建立される 上湧別神社の神殿、拝殿、社務所が完成、 遷宮式を執行 開基三十年記念式典を挙行 労働農民党北海道支部連合会が結成され る 中湧別で湧網線促成連合大会が開催される 開盛橋、山の手側(28号線)に架設され る 開盛渡船場が廃止される |
昭和 8年 1933 |
1・ 1 2・20 3・27 3・ 4・ 4・ 7・20 12・ 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
産業組合拡充五ヵ年計画実施へ 小林多喜二、東京築地署に検挙され、同 日虐殺される 日本、国際連盟を脱退 湧網線のルートが選定される 旭部落が北兵村三区から独立 渡辺愁平らが句集「屯田」発刊 網走刑務所の囚人多数が湧網東線の開削 工事に出役開始 屯田市街地に加入電話が架設される 上湧別産業組合の石造り倉庫(130坪) が落成 南、北区有財産の寄付により幼駒運動場が 旧中隊本部跡に設置され、競馬が実施される 19号線の渡船が廃止される 21号線の湧別川に富美橋を架設 片山木工場が操業開始 湧別バロー山手間共同牧場、上富美薪炭 備林地が払い下げられる 自動車ポンプの導入により、消防の6部制 が改正され、2消防組(上湧別、中湧別)の 体制となる |
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昭和 元年 |
12・25 ○ |
大正天皇崩御。摂政宮裕仁親王殿下が践 祚し、昭和と改元 この年、全道的に凶作となり、特に東北 部の被害甚大 |
昭和 9年 1934 |
2・ 5 3・ 1 3・20 3・21 3・22 4・ 3 4・ 5・ 4 6・30 7・ 8 8・ 1 10・ 1 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
社名淵駅が開盛駅と改称される 満州国が帝政を実施、薄儀が皇帝に 北紋医療利用組合連合会の設立申請が 道庁に出される 函館で大火発生。 死者行方不明2716 人 紋別郡遠軽村に一級町村制を施行し、遠軽 町とする(4月1日施行) 中湧別市街で開村以来の大火発生 旭部落の会館が建設される 「治安維持法」違反容疑により道内で71人 検挙される (全協5・4事件) 大火で類焼した中湧別郵便局舎が移転新築 岡田啓介内閣成立 上湧別産業組合青年連名が結成される 北湧、上湧別、富美各信用販売購買組合が 合併、上湧別村信用販売購買組合となる 道庁補助牛(ホルスタイン)20頭を導入 薄荷の作付面積約800町歩となり、最盛 期を迎える 初めての消防自動車が2台入る 湧別川築堤の第一期工事に着手 キュリー夫妻が人工放射能の放出に成功 する この年、全道的に冷害凶作 この年、北海道の人工300万人を突破 |
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昭和 2年 1927 |
2・ 7 3・15 4・18 4・18 4・19 4・20 4・30 4・ 5・29 8・26 8・27 10・10 ○ ○ ○ ○ |
大正天皇大喪の礼執行 東京で銀行の救漁王相次ぎ、京浜地方に取 り付け騒ぎが広がり、金融恐慌始まる 湧別兵村、南湧、共進各信用公売販売組合 が合併、上湧別信用公売販売利用組合が発足 蒋介石、南京に国民政府を樹立 富美、札富美両信用購買販売組が合併、川 西(後日富美に改称)信用購買販売利用組 合が発足 田中義一内閣成立 北海道庁第一九代長官に沢田牛麿 第二期北海道拓殖20ヵ年計画が開始 元屯田歩兵第四・吾中隊本部跡の碑が完成 除幕 「民有未墾地開発資金貸付規定」公布 北海道一級町村制・二級町村制公布(10月 から施行)、普通選挙制、自治の拡大などが 内容 石北東線丸瀬布~遠軽間が開通 兵村部落財産を区有財産と改称 本多正雄宅でラジオ第一号購入、この年 上湧別に8台入る 部落部長の故障を区長と改める 口語歌誌「山脈」発刊、主宰は渡部要 |
昭和10年 1935 |
4・ 1 4・ 6 4・ 9 6・ 8・27 8・ 10・ 1 10・20 12・ 1 12・22 12・ ○ ○ |
「青年学校令」交付。全国に青年学校が 開設される 湧別警察署が廃止され、遠軽警察署の管轄 下に入る 憲法学者美濃部達吉、天皇機関説により 不敬罪で告発され、著書が発禁となる 湧網線に関し原田吾一、斉藤友左衛門が上 京陳情 釧路の丹頂鶴とその繁殖地が天然記念物 に指定される 旭青年会が設立される 国勢調査実施、内地人口6925万4148人 、外地人口2844万3407人、北海道世帯数 54万5390,人口306万8282人 湧網西線の中湧別~計呂地間が開通 東海道本線の丹那トンネルが開通 道庁、婦女子の身売り防止並びに職業紹介 要綱をを制定 上湧別村産業組合の開盛支所と中湧別支所 が開設される 女子青年団が結成される 若松座が中湧別に開設される |
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昭和 3年 1928 |
1・12 2・20 3・15 4・10 4・21 5・18 6・ 4 6・ 6 6・29 10・14 10・17 11・ 1 11・10 ○ ○ ○ ○ ○ |
大相撲のラジオ実況放送開始 最初の普通選挙となる第一六回総選挙執 行。北海道の定員20人、有権者45万64 64人 全国で共産党関係者一斉に検挙される (3・15事件)、道内の検挙者は250 人 日本商工会議所が設立される サロマ湖の新湖口が三里番屋付近に開削 される 上湧別神社が村社格に認可される 張作霖、関東軍の謀略で爆死(張作霖事 件) 日本放送協会札幌放送局が開局 「治安維持法」改正公布。死刑、無期懲役 刑を追加 役場議事堂「仮庁舎)から火災発生 湧網線関係五か町村連合大会が中佐呂間 で開かれる。(12月13日には札幌で) ラジオ体操の放送始まる 昭和天皇御即位の大礼が挙行される 各部落に農事実行組合の設立始まる 遠軽土功組合の開盛地区灌漑溝が完成 上湧別村役場庁舎が新築される 玉葱栽培が盛んになり、四の一玉葱組合が 設立される 昭和二年の北海道二級町村制の改正に伴 い、村会議員の任期が二年から四年に |
昭和11年 1936 |
1・15 2・26 3・ 9 3・22 4・12 4・22 6・15 6・21 6・30 7・10 8・29 9・25 9・26 9・ 9・ 10・10 10・17 11・ 3 11・25 12・ 6 12・ 9 12・15 12・ ○ |
日本、ロンドン軍縮会議脱退を通告、無制 限建艦競争に突入 陸軍青年将校が1400人余の部隊を率い て決起、首相官邸などを襲撃し内大臣・斉 藤実ら重心を殺害(2・26事件) 広田弘毅内閣成立 上湧別村産業組合本部、火災で焼失 湧網東線建設事務所官吏が来村、村から鉄 道に関する陳情を行う 北海道庁第二二代長官に池田清 山田網走町長ら来村、村から鉄道開通祝賀 会について打合せ 建設列車従業員の歓迎会が開かれる 富美に診療所が設置される 国鉄北興浜線浜頓別~枝幸官が開通 上湧別村産業組合が北湧地区に澱粉工場 を設置 「帝国在郷軍人会令」交付。 在郷軍人会が 軍の公的機関となる 天皇が陸軍特別大演習のためご来道 旭神社が建立される 開村四〇年記念式典挙行 湧網東線の網走~常呂間が開通 湧網西線の計呂地~佐呂間間が開通 北海道文化協会が設立される 日独防共協定調印 開盛尋常小学校の校舎が改築される 上湧別村産業組合事務所の新築落成式 北湧校と南湧校が統合、上湧別尋常高等 小学校が創立される 中湧別尋常高等小学校が8号線から10号 線へ移転新築 陸軍特別大演習に際し、上湧別リンゴが天 覧品、御下賜品謹製の光栄に浴する |
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昭和 4年 1929 |
3・4 4・ 7 4・16 5・ 6・17 7・ 2 7・ 5 7・11 8・12 8・19 9・10 10・14 10・ 11・28 ○ ○ ○ ○ |
端野村、相内村を一級町村制施行地として 指定(4月1日施行) 南、北両兵村に戸主会が結成される 「治安維持法」違反容疑で全道で115人 検挙される(四・一六事件) 湧別土功組合の設立認可が申請される 駒ヶ岳大爆発、山麓8町村に大きな被害 浜口雄幸内閣成立 北海道庁第二十代長官に池田秀雄 富美に郵便取扱所が設置される 石北東線丸瀬布~白滝間開通 ドイツの飛行船ツェッペリン号が世界一周 の途中、日本にも立ち寄る 文部省が国体観念明徴、国民精神作興の ため教化動員を実施 ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌 始まる 長岡萩邨らが南柯直系誌「樹心」を創刊 北見産米35万石達成 苯果研究同志会が結成される 造田反対運動が果樹地帯を中心に起こるが 、区有財産から補助金を交付して一応解決 上湧別商工会が結成される 母船式サケ、マス漁業が興り、工船での缶 詰生産盛ん |
昭和12年 1937 |
1・15 2・ 2 2・11 2・23 4・ 1 4・ 5 5・25 5・ 6・ 1 6・ 4 6・ 5 6・ 9 7・ 7 8・24 10・ 6 11・ 6 ○ ○ ○ ○ |
「方面委員設置規程」交付。 地域の生活 保護を法制化 林銃十郎内閣成立 「文化勲章令」交付。第一回受章者は佐々 木信綱ら9人 北見地方に養狐・養狸協会が結成される 日本航空輸送(株)が札幌~東京間の定期航 空路開設 「防空法」公布 上湧別に季節託児所が開設される 中湧別線の実測隊が入地 中湧別に季節託児所が開設される 第一次近衛文麿内閣成立 北海道庁第二三代長官に石黒英彦 第五回冬季オリンピック大会の札幌開催が 決定、翌年中止 盧溝橋付近で日中両軍が衝突、日華事件 が起こり、日中戦争が始まる 閣議、国民精神総動員実施要綱を決定 紋別郡渚滑村を上渚滑村と犯行(11月 1日施行) イタリアが日独防共協定に参加 旭民有未墾償還組合が結成される 日中戦争へ上湧別村から多くの出征兵士を 送る 上湧別村でも国防婦人会が結成される 上湧別村産業組合本部が店舗、南湧澱粉工 場、本部倉庫などを新築 |
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昭和13年 1938 |
3・22 4・ 1 4・ 1 4・ 1 4・ 1 4・ 1 4・ 2 5・ 3 5・28 5・ 5・ 7・30 8・15 10・ 11・ 1 12・18 12・23 ○ ○ |
常呂郡留辺蘂町を一級町村制施行地とし て指定(4月1日施行) 上湧別村が一級町村制を施行。初代助役に 川崎政雄が就任(8月8日選任) 富美郵便取扱所が郵便局に昇格、集配局と なる 上富美特別教授所が尋常小学校に昇格 「国家総動員補王」公布。(5月日に施行) 「国民健康保険法」と「社会事業法」公 布 「農地調整法」 公布。 農地委員会を設置 へ 満蒙開拓青少年義勇軍222人が札幌出 発 庄田万里翁の銅像が建立される 北紋医療利用連合会の設立が認可され、 病院の設計に入る ガソリンの配給切符制度始まる 北海道地方物価委員会が綿、皮革、ゴム、 金属などの公定価格を決定 開道七十年記念式典で旧湧別屯田兵に開 拓功労感謝状を受ける 井上木工場が操業開始 開盛に郵便取扱所が開設される 斜里村を斜里町とする(昭和14年1月1 日施行) 北海道庁第二四代長官に半井清 上湧別村が経済更正特別助成指導村に 指定される 区有財産を村に寄付し、区会が解散 |
昭和21年 1946 |
1・ 1 1・ 4 1・19 1・25 2・17 2・17 3・ 1 3・ 3 3・ 6 4・10 4・25 4・ 5・ 1 5・ 3 5・22 7・26 9・ 8 9・ 9 9・13 9・27 9・27 9・29 10・ 8 10・10 10・10 10・21 10・ 11・ 3 11・16 12・ 1 12・ 5 12・15 12・22 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
天皇、神格化否定の詔書発布 (人間宣 言) GHQ、軍国主義者の公職追放と超国家主 義団体27の解散を指令 NHKラジオ「のど自慢素人音楽会」の放送 開始 北海道庁第二九代長官に留岡幸男 「金融緊急措置令」公布。 預貯金を封鎖し 新円を発行 「食糧緊急措置法」公布。主食の供出に ついて強権発動を規定 北海道教職員組合(北教組)が結成され る 道庁、北海道開拓者集団入植施設計画を 定め、緊急開拓事業を進める 政府、「憲法」改正草案要綱を発表。 主権 在民、天皇の象徴化、戦争の放棄などを 規定 戦後初の総選挙が行われ、北海道からも 婦人代議士2人誕生 北海道庁第三十代長官に増田甲子七 上湧別村連合青年団が結成される 戦後初の復活メーデーが行われる 極東国際軍事裁判所が開廷、東京裁判が 始まる 第一次吉田茂内閣成立 紋別郡遠軽町を分割し、丸瀬布村、白滝村 を置く (8月1日施行) 網走郡津別村を津別町とする (9月10日 施行) 「生活保護法」公布 (10月1日施行) 「民生委員令」公布 (10月1日施行) 府県制が道府県制に改められ、「北海道 会法」、北海道地方費法」を廃止し、自治権 が拡大強化される 市町村制を改正公布、首長公選、選挙権 拡大、基本的人権の尊重、リコール制の採 用など規定 上湧別村開基五十年記念式典挙行 文部省、教育勅語棒読の廃止を通達 初代村会議長に出口助次郎就任 選挙管理委員会などが設置される 「農地調整法」改正、「自作農創設特別措置 法」公布(「第二次農地改革法」) 上湧別村遺族会が結成される 「日本国憲法」公布 政府、当用漢字表と現代かなづかいを 告示 方面委員制度に代わり民生委員制度が導入 され、民生委員を委嘱 樺太からの引揚げ第一船が函館に入港 農地委員会が設置される 農地改革のため全道一斉に市町村農地委 員の選挙執行 上湧別青年学校の独立校舎、北湧校跡に建 築される 役場機構に課制採用 上湧別村共同募金委員会が結成される 薄荷耕作者組合が結成される 中土場川の切り替え工事が実施される 北見乗合自動車が北見バスと改称される この年、発疹チフス、天然痘、コレラなど 流行 この年、インフレと生活物資窮乏で生活 困苦極まる |
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昭和14年 1939 |
1・ 5 1・17 1・ 2・ 2・14 3・25 4・26 5・12 7・ 8 8・23 8・30 9・ 1 9・ 3 9・ 5 9・20 12・ 9 12・12 ○ ○ |
平沼騏一郎内閣成立 閣議、生産量拡充計画要綱を決定 消防組が上湧別警防団、中湧別警防団と なる 酪連中湧別工場が旧中湧別尋常高等小学 校跡で操業開始 女満別村を一級町村制施行地として指定 (4月1日施行) 「酪農業調整法」公布。 牛乳生産を統制 青年学校、義務制となる 満蒙国境ノモンハンで日本、モンゴル両国 軍が衝突(ノモンハン事件) 「国民徴用令」が公布。施行される 独ソ不可侵条約調印 阿部信行内閣成立 ドイツ軍、ポーランドへ進行開始。第二次世 界大戦始まる 英仏が対独宣戦布告 北海道庁第二五代長官に戸塚九一郎 北海道最初の組合病院「久美愛病院」が開 院。初代院長に曽我耕作就任 紋別郡下渚滑村を渚滑町と改称(昭和15 年1月1日施行) ソ連船インデギルカ号が宗谷郡猿払村沖で 遭難、遺体確認394人 青年訓練所が青年学校と改称 部落火防団が警防団となる |
昭和22年 1947 |
1・ 4 1・ 8 1・31 2・ 4 2・ 7 2・ 8 2・24 2・ 3・ 5 3・31 4・ 1 4・ 1 4・ 5 4・ 6 4・ 8 4・14 4・17 4・20 4・29 4・30 4・30 4・ 5・ 3 5・ 3 5・ 5・ 6・ 1 6・ 5 6・ 8 6・30 7・ 5 7・ 7 7・20 7・ 8・ 9 8・13 9・10 9・25 9・ 10・ 1 10・20 10・21 11・ 8 11・19 12・ 1 12・12 12・17 12・22 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
「公職追放令」改正公布、対象範囲が拡大 閣議、北海道開発庁の設置など決定 マッカーサー総司令官、全官公庁労組の 2・1ゼネスト中止を指令 北海道庁第三一代長官に岡田包義 久美愛病院で火災発生、病棟110坪を残し 本館など焼失 網走町を廃し分割して、網走市及び東藻琴 村を置く (2月11日施行) 「参議院議員選挙法」公布。北海道地方区 の定員8人となる 学校給食、道内10市で始まる 内務大臣、政府供出米に強権発動を指示 「教育基本法」と「学校教育法」公布。 (6・3・3・4制を実施) 新制度による小、中学校発足 町内会、部落会、隣組が廃止される 公選による道庁長官選挙が行われ、初代 道庁長官に田中敏文当選(第三二代) 公選の初代村長に今野和七が当選 公共職業安定所官制公布により、公共職業安定所、公共労働安定所が発足 「独占禁止法」公布 「地方自治法」公布 (5月3日施行) 北海道庁は北海道、長官は知事、北海道会 は北海道議会となる 第一回参議院議員選挙執行 戦後初の村会選挙執行 都道府県議会、市区町村会議員選挙執行 富美の本多正雄(無所属)が道議会議員に 初当選 農村建設連盟が農民同盟と改称 「日本国憲法」施行 「地方自治法」の施行により、北海道庁は 北海道と改まり長官は知事(初代北海道知事 田中敏文)、道会は道議会、内務部を総務部 と改める 農産物検査所が食糧事務所と改称 上湧別村役場中湧別出張所が開設される 片山内閣成立 第二代村会議長に林要作が就任 日本教職員組合(日教組)が結成される 北海道農民連、営が結成される NHKラジオ「鐘の鳴る丘」放送開始 四の一森林愛護組合が結成される 主食の遅配、北海道で90日に達する 「消防団設置条例」、「消防団員服務規律」 などが制定され、本部と3分団制の上湧別村 消防団が発足 古橋広之進が400㍍自由形鏡映で4分38秒 4の世界新記録樹立 中湧別市街で火災、8棟10戸類焼 津別町神社祭典で露天商と朝鮮人が乱闘、 2人死亡 紋別郡滝の上村を町とする (10月1日施 行) 旭部落に鉄道の簡易乗降場が設置される 臨時国勢調査、総人口7810万1473人、同 世帯数72万2226戸 北海道共同募金会が結成され、赤い羽根 募金始まる 「国家公務員法」公布 (翌23年7月1日施 行) 「道路交通取締法」公布 「農業協同組合法」、「農業団体整理法」 公布 「失業保険法」、「失業手当法」公布 「児童福祉法」公布 (翌23年4月1日施 行) 「警察法」公布。国家地方警察、自治体警察 を設置 改正「民法」公布。家の制度など廃止へ 新学制により上湧別にも中学校が設置さ れる 長岡萩邨の提唱で葦牙上湧別支部「谺吟社」 が結成される 遠軽営林署中湧別担当区駐在所が設置さ れる 栞果協会が果樹協会と改称 富美橋が流失 引揚者団体上湧別村支部が結成される 新生婦人会(佐藤スカ会長)、中湧別婦人 会(筒井コウ会長)が結成される 隔離病舎が久美愛病院北側に移転 |
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昭和15年 1940 |
1・16 1・18 2・16 3・15 4・ 8 4・ 8 4・ 6・10 7・ 1 7・22 8・15 9・23 9・27 9・ 10・12 10・24 11・ 2 11・10 11・20 11・20 12・ 1 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
米内光政内閣成立 上湧別村産業組合中湧別精米所で火災発生 、焼失 澱粉の公定価格決定 上湧別村を一級町村制施行地として指定 (4月1日施行) 「石炭配給統制法」公布 「国民体力法」公布、17~19歳男子の 身体検査を義務化 上湧別村農業協同組合の国民健康保険事 業代行組合が設立される 「麦類配給統制規則」公布 「砂糖配給統制要綱」で砂糖切符制を実 施 第二次近衛文麿内閣成立 大日本農民組合解散 日本軍、仏領印度支那に進駐 日独伊の三国同盟調印 統制物資の配給を円滑に進めるため、上湧 別村商業組合設立される 大政翼賛会発会式挙行 「米穀管理規則」公布。11月1日から米の 町村別割り当て供出を実施 「国民服令」公布 紀元2600年記念奉祝の式典挙行 道庁、「町内会部落会規則」公布 「治安維持法」違反で小学校訓導3人が検 挙される(北海道綴り方教育聯盟事件) 開盛郵便取扱所が郵便局に昇格 畜牛組合が設立される 初の牛の品評会開催 林産物検査所が中湧別に開設される 畜牛共同種付所が15号線に開設される 旭部落に牛馬検査所が設置される この年「義務教育費国庫負担法」公布 |
昭和23年 1948 |
1・ 1 1・26 1・30 3・10 3・21 3・31 3・31 4・ 1 4・10 4・28 6・ 6 7・ 7 7・15 7・20 7・29 8・13 9・ 9 9・27 10・ 5 10・19 11・12 11・15 12・10 12・12 12・18 ○ ○ ○ |
「新戸籍法」施行 都市帝国銀行椎名町支店で行員12人の 毒殺強盗事件発生 (帝銀事件) インドのガンジー、暗殺される 芦田均内閣成立 常呂郡佐呂間村を分割し若佐村を置く (4月1日施行) 旭分教場が小学校に昇格 新学制により青年学校廃止 新制高等学校が発足 上湧別村農業協同組合、農業共済組合が 設立される サマータイム実施 (昭和27年4月11日 廃止) 北海道PTA連合会が結成される 「地方財政法」、「地方税法」公布 「教育委員会法」公布 「国民の祝日に関する法律」公布 「民生委員法」公布 大韓民国樹立の宣布式挙行、大統領に李 承晩就任 朝鮮民主主義人民共和国樹立。首相に金 日成 紋別郡雄武村を町とする (10月1日 施行) 第一回教育委員会委員選挙執行 第二次吉田茂内閣成立 極東国際軍事裁判、A級戦犯の東条英機 ら25被告に有罪判決z8うち7人絞首刑) 道立遠軽高校上湧別分校(定時制)が設置 される 国連総会で「世界人権宣言」を採択 国民協同党と日本農民党の北海道支部が 合同、北海道農民新党を結成 GHQ、経済安定9原則を発表 農地改革に基づき第一回農地買収を実施 無縁故引揚者住宅が建設される この年、北海道の結核による死亡率が全国 一となる |
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昭和16年 1941 |
1・10 1・16 1・18 2・ 1 2・ 1 2・26 3・ 1 3・ 1 4・ 1 4・ 1 4・13 4・22 6・ 9 7・18 9・ 4 9・ 6 10・15 10・18 12・22 12・ 8 12・27 ○ ○ ○ |
大政翼賛会北海道支部が結成される 大日本青少年団が設立される 北海道産業報国聯合会を解散、北海道産業 報国会を結成 北海道青少年団が結成される 「臨時農地管理令」公布。 不用不急作物の 作付けを禁止、重要作物作付けを奨励 大政翼賛会上湧別村支部が結成される 「国民学校令」公布。尋常小学校を国民学 校と改称 (4月1日) 食糧増産のため学徒動員を通牒 北海道興農公社設立 「生活必需物資統制令」公布 日ソ中立条約調印 上湧別村商業愛国会が結成される 「麦類配給統制規則」公布 第三次近衛文麿内閣成立 徴用軍馬の購買始まる 御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定 国際スパイの嫌疑で尾崎秀美を検挙(10 月18日ゾルゲを検挙。 ゾルゲ事件) 東条英機内閣成立 「国民勤労報国協力令」公布。 勤労奉仕 義務を法制化 日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発 「農業生産統制令」公布 南兵村部落財産の寄付により農産物検査上 湧別派出所の庁舎が建設される 開盛東山一帯の国有林を馬産限定地として 貸付を受ける この年、道内は冷害凶作 |
昭和24年 1949 |
1・ 3 1・26 2・16 3・ 7 4・ 1 4・23 4・ 5・24 5・31 6・12 7・ 5 7・15 8・ 2 8・17 8・26 9・19 9・20 10・ 1 11・ 3 11・ 3 12・ 7 12・11 12・26 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
NHKラジオ「とんち教室」の放送開始 法隆寺金堂内壁画が焼失 第三次吉田茂内閣成立 米穀ドッジ公使、経済安定9原則の実行につ いて声明 (ドッジライン) 上湧別商工会、中湧別商工会が再結成され る (戦時中一次休止) GHQ、一ドル360円の単一為替レートを 設定 分団制を廃し、上湧別、中湧別、開盛の3消 防団制へと組織を改正 「年齢の唱え方に関する法律」公布。満年齢 を採用 「国立学校設置法」公布。 新制国立大学校 を設置 北海道高等学校教職員組合が結成される (高教組) 国鉄総裁下山定則が行方不明。6日常磐線 の線路上で轢死体となって発見される (下山事件) 中央線三鷹駅で無人電車の暴走事件起こり 6人死亡 (三鷹事件) 閣議、米価審議会設置を決定 東北本線金山川~松川間で旅客列車の転 覆事件起こり3人死亡 (松川事件) シャウブ税制使節団長、税制改革勧告案を 発表 人事院、政治的行為に関する人事院規則を 定め、公務員の政治活動を規制 庄田万里翁の石像が建立される 毛沢東主席、中華人民共和国と中央人民政 府の成立を宣言 湯川秀樹博士のノーベル賞受賞が決定 「北海道家畜貸付規則」が定められ、乳牛、 山羊、緬羊の子返しによる貸し付けが行われ る 国民政府が首都を成都から台北へ移す 南兵村一区で村内初の有線放送施設の運 用が開始される 常呂郡置戸村を町とする (昭和25年1月1 日施行) 農業改良相談所が開設される 上湧別役場の課制が廃止される 上湧別村農業組合から国民健康保険事業が 村に移管される 連合青年団が青年団阿智連絡協議会と改称 上湧別村4Hクラブが結成される 畜牛組合が酪農組合と改称 富美畜学校基本財産118町7反歩が売却さ れる 湧別~東芭露間(中湧別、芭露経由)に下湧 別村営バス運行 富美橋の架設工事に着手 上湧別村農業改良委員会が発足 上湧別、中湧別、富美家畜診療所が開設さ れる 北見作物報国事務所上湧別出張所が開設 される 北見種馬所の廃止により、6号線種馬所が 湧別農協と上湧別農協の共有となる 湧別牧野305町歩と湧別家畜市場の土地と 建物を湧別農協と上湧別農協の共有財産とし て払下げを受ける この年、道内で小児マヒ流行 この年、ベビーブームがピークに達する この年、初のお年玉つき年賀はがきが売り出 される |
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昭和17年 1942 |
1・ 1 2・ 1 2・21 2・ 2・ 4・18 5・26 5・27 6・ 5 6・11 6・ 6・ 6・15 7・17 2・ 1 ○ ○ ○ ○ ○ |
塩の通帳制配給を実施 味噌・醤油切符制、衣料点数切符恵氏が実 施される 「食糧管理法」公布 愛国婦人会と国防婦人会が合併し、大日本 婦人部上湧別村支部が結成される 上湧別村でも農作物の作付けが制限される 空母発進の米軍機が東京など初空襲 下湧別村海岸に漂着した機雷が処理作業 中爆発、死者106人、負傷者63人 常呂郡野付牛長を廃止、北見市を置く (6月10日施行) ミッドウェー海戦で日本海軍四空母を失い 戦局一変 国鉄山陽本線の関門トンネル竣工 上湧別村森林組合が設立される 翼賛壮年団上湧別村支部が結成される 北海道庁第二六代長官に坂千秋 天皇陛下の名代として上湧別村に戸田侍 従が御差遣される 道内日刊一一紙を統合「北海道新聞」を 創刊 銃後後援会(奉公会)が結成される 金属回収運動で庄田万里翁の銅像が応召 金属回収運動で屯田兵開拓記念火鉢が献 納される 熊沢中湧別木工場が早川木工場を買収、 操業を開始 産牛馬組合湧別村支部が北見馬産組合 上湧別支部と改称 |
昭和25年 1950 |
1・ 7 1・ 2・ 9 2・18 3・ 1 4・15 4・ 5・ 1 5・29 6・ 6 6・25 7・ 2 7・ 7 7・ 8 7・11 8・10 8・ 10・ 1 10・21 11・16 12・13 ○ ○ ○ ○ |
聖徳太子の1000円札が発行される 農協が南兵村地区農村女子教育のため、屯 田市街地に洋裁学校を開設 道教委、「北海道公立高等学校通学区域 設立要綱」を改正、小学制、男女共学を導 入 第一回札幌雪祭りが開催される 自由党が発足。 総裁に吉田茂 「公職選挙法」公布 屯田兵に対する感謝事業の一環として、本州 の神社仏閣参拝の旅行が実施される 「北海道開発法」公布(6月1日施行、北海道 開発庁が設置) 生田原町で大火、125戸焼失 GHQ、共産党中央委員24人の公職追放を 指令 韓国と北朝鮮両軍が全面戦争に突入(朝鮮 戦争) 金閣寺が砲火により全焼 上湧別村連合婦人会が結成される。初代会 長に川村清井就任 マッカーサー指令により国家警察予備隊(自 衛隊の前身)の創設と海上保安庁の拡充強化 が図られる 日本労働組合総評議会(総評)が結成さ れる 「警察予備隊令」公布 共済組合の畜牛人工授精が再開される 国勢調査実施、北海道人口429万5567 人 常呂村を町とする(11月1日施行) 全北海道労働組合協議会(全道労協)の 結成大会が開かれる 「地方公務員法」公布 (翌26年2月13日 施行)。政治活動を制限、争議行為を 禁止 第一回綜合家畜品評会が開催される この年、朝鮮戦争による特需景気起こる この年、道内に動力耕転機普及 この年、物資の配給、統制が相次ぎ撤廃 される |
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昭和18年 1943 |
3・11 3・12 3・20 3・20 3・28 3・30 4・18 4・18 4・20 4・ 5・12 5・17 6・25 9・ 8 10・21 11・10 12・24 12・25 ○ ○ ○ |
「農業団体法」が公布され、農会、産業組合 、農事実行組合、畜産組合などを農業会に一 本化 「商工経済会法」公布。商工会議所を商工 経済界に改組 (6月1日施行) 改正府県制・市制・町村制公布 (6月1日 施行) 北海道一、二級町村制廃止 斜里郡斜里町、斜里郡小清水村を各分割 し、一級村として上斜里村を置く (4月1日 施行) 網走郡津別村、常呂郡佐呂間村を一級町村 制施行地として指定 (4月1日施行) 山本五十六聯合艦隊司令長官がソロモン群 島上空で撃墜され戦死 初めて防空警戒警報が発令される 中湧別小学校旭分教場が設置される 満州開拓北海道実験団(10戸)が渡満 北海道、東北出身者を主とするアッツ島 日本軍守備隊2500人が全員玉砕 企業合同による小売業の整備が行われる 閣議、「学徒戦時動員体制確立要綱」決定 イタリアが無条件降伏 文部省など主宰、出陣学徒壮行大会が神宮 外苑で行われる 上湧別村が教化村に指定される 「徴兵適齢臨時特別令」公布。徴兵年齢20 歳を19歳に引き下げる 上湧別村農会が解散 衣料不足により緬羊の飼育が始まる 勤労報国隊が結成され、徴用が始まる 上湧別村産業組合所有の農地が開盛、富美 地区の自作農家に解放される |
昭和26年 1951 |
1・ 3 2・22 3・17 3・29 3・31 3・31 4・23 4・30 5・ 2 6・12 6・13 6・21 7・20 8・ 1 8・10 9・ 8 9・ 8 9・ 9・ 9・ 10・20 10・24 10・25 10・31 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
NHKラジオで第一回紅白歌合戦をスタジオ 放送 緬羊振興会が結成される(沢口健蔵会長) 女満別村、興部村をそれぞれ町とする (4月1日施行) 「社会福祉法」公布 湧別土地改良区が設置される 「農業委員会法」公布 公選村長に今野和七再選 第二回北海道知事選挙、田中敏文再選 第三代村議会議長に遠藤清治就任 「警察法の一部を改正する法律」公布、 これにより自治体警察廃止へ 北海道開発局が設置される ユネスコ、国際労働機構(ILO)への日本 加盟が承認される 農地委員会、食糧調整委員会、農業改良委 員会が解散、上湧別農業委員会が発足(阿部 三郎会長) 新しい「森林法」施行 上湧別村公平委員会が設置される 対日平和条約調印 日米安全保障条約調印 (翌年4月発効) 上湧別中学校新校舎の落成式挙行 上湧別村社会福祉協議会が結成される(今 野和七階調) 中湧別神社が建立される (例祭日9月2 0日) 上湧別農協青年部が結成される (鈴木勝男 部長) 社会党が左右両派に分裂 札幌~東京間の民間航空再開 訓子府村を町とする(11月1日施行) 遠軽信用金庫上湧別出張所が開設される 国保中湧別診療所の業務を厚生連に委託し て経営 森林組合の上湧別木工場が操業開始 上湧別村社会教育委員会が設置される 遠軽ハイヤー中湧別営業所が開業 上湧別村農業協同組合による全村の有 線放送が開始される 北海道銀行中湧別支店が開設される 中湧別消防番屋が改築される 湧別川上湧別築堤(開盛~2号線)拡幅工 事が始まる 児童憲章が制定される 500円札が発行される |
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昭和19年 1944 |
1・23 6・23 6・30 7・22 10・18 10・23 11・ 1 11・24 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
村農会と産業組合が合併して村農業会とな る 壮瞥村の麦畑で大爆発が起こり、溶岩が噴 き出し昭和新山ができる 閣議、児童の集団疎開を決定 小磯国昭内閣成立 「兵役法施行規則」改正、17歳以上兵役に 編入(11月1日施行) 農林・商工省「松根油緊急増産対策措置法 要綱」を決定、 ガソリン代用燃料増産を図 る たばこが隣組の配給制となる 米軍B29約70機が東京を初爆撃 畜牛人工授精の業務が始まる 北見馬産組合上湧別支部が北見馬匹組合 上湧別支部と改称 季節託児所が閉鎖される 皇国標準農村に指定される 満州開拓北海道実験団第二団(27戸)が 渡満 農作物の作付け前供出割り当てとなる 役場庁舎が増設される |
昭和27年 1952 |
1・21 1・ 2・18 2・24 2・28 3・ 4 3・10 4・ 1 4・ 9 4・10 4・28 4・28 4・ 5・ 1 5・ 1 5・19 7・15 7・21 7・31 8・ 1 8・ 10・ 5 10・10 10・20 11・ 1 12・ 6 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
札幌市警察本部警備課長白取一雄、札幌市 内の路上で射殺される )白鳥事件) 結核病棟の第一期工事が竣工 改進党が結成される 網走支庁管内総合開発促進期成会が設立 される 日米行政協定調印 十勝沖地震が発生、道東一帯に大きな被 害 北海道法(HBC)、道内初の民間ラジオ放送 を開始 北海道総合開発第一次5ヵ年計画がスタ ート 日航機もく星号、大島三原山に墜落し37 人全員死亡 NHKラジオで「君の名は」放送開始 日華平和条約調印 対日平和条約、日米安保条約発効し、GH Q、極東委員会、対日理事会が廃止され る 遠軽信用金庫中湧別出張所が開設される 第一次北洋母船式漁業の3船団が試験操 業に出漁 第二三回メーデー、皇居前広場でデモ隊と 警察隊が乱闘 (血のメーデー) 白井義男、プロボクシング・フライ級世界チャ ンピオンになる。 日本人で初めて 「農地法」、「農地施行法」、「自作農創設特 別措置法」公布 「破壊活動防止法」公布。これにより10月15 日から国家警察予備隊が保安隊に編制替え となる 日本電信電話公社(現、NTT)が発足 南湧種馬所が建設され、農協直営の種馬事 業始まる 公選の上湧別村教育委員会が発足 農地改革による農地の売り渡しが終了 第四次吉田茂内閣成立 全道の市町村に教育委員会が設置される 国鉄湧網線常呂~下佐呂間間が営業開始 農家の2、3男分家対策の一環として新篠津 村への入植始まる 開盛国有林牧野改良計画が樹立される 消防自動車が上湧別、中湧別領分団二配車 される 農協が種牡馬を全頭地区連に返還し、人工 授精のみ行う 中湧別に最初の公営住宅が建設される(ブロ ック建て5棟10戸) 湧別川開盛左岸築堤工事に着手 |
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昭和20年 1945 |
2・ 1 2・ 6 4・ 1 4・ 7 4・21 5・ 7 5・11 6・23 6・25 7・ 6 7・14 8・ 6 8・ 8 8・14 8・15 8・17 8・28 9・ 2 9・ 9・ 10・ 4 10・ 5 10・ 9 10・11 10・13 10・24 10・27 10・29 12・17 12・18 12・22 12・29 12・31 ○ ○ ○ |
松葉を採集し、松葉油を蒸留する作業が割り 当てられる 「国民勤労動員令」公布 米軍、沖縄に上陸 鈴木貫太郎内閣成立 北海道庁第二七代長官に熊谷憲一 ドイツ軍、連合国に無条件降伏 「北海道国民義勇隊組織要綱」公布 「北海道集団帰農者受入要綱」制定、道庁 が市町村長、農業会長に疎開者受入を指 示 B29、北海道上空に初めて飛来 東京から集団帰農者第一陣来道 室蘭、釧路、根室、帯広など米軍の空襲 、艦砲射撃を受ける 米軍、広島に原爆投下。 9日は長崎に 投下 ソ連、対日宣戦布告 御前会議、ポツダム宣言受託を決定 戦争終結の詔書をラジオ放送、第二次世界 大戦終わる 東久邇宮稔彦内閣成立 連合国総司令部(GHQ)が設置 米軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印 多くの出征、応召の兵士が続々帰郷 富美、中土場方面に他府県から集団帰農者 を受け入れる GHQが政治、民権、信教の自由に対する 制限撤廃の覚書を発する 米軍8000人が小樽に上陸、その後、235 ヵ所に2万1630人駐留 幣原喜重郎内閣成立 マッカーサーが婦人解放、労働組合結成 、学校教育民主化、秘密審問司法制度撤廃 、経済の民主化など5大改革を要求 道庁、「北海道戦後開拓実施要領」を定め 、復員者、戦災者の受入を準備 国際連合が正式に発足 北海道庁第二八代長官に持永義夫 日本勧業銀行が第一回宝くじ発売 「衆議院議員選挙法」改正公布、婦人参政 権実現 日本協同党結成、委員長は山本寅彦 「労働組合法」公布 (21年3月1日施行) 「農地調整法」改正公布 (第一次農地改 革法、翌21年2月1日施行) GHQが日本歴史、修身、地理の授業停止 、教科書の回収を指令 援農学徒(慶応大、茂原農学校、小諸農学 校など)を受け入れ 農民錬成農場が旧北湧校跡に設置される この年、全道的に冷害凶作 |
昭和28年 1953 |
1・21 2・ 1 2・28 3・ 5 3・ 7 3・23 3・31 4・ 5 4・22 4・29 5・21 7・27 8・28 9・ 1 9・18 9・18 9・29 9・ 10・22 11・13 ○ ○ ○ ○ ○ |
農民組合総同盟が結成される NHK、東京地区でテレビの本放送を開 始 組合立北海道湧別高等学校の設立が認可 される (全日制普通科3学級) ソ連首相のスターリン死去 佐呂間村を町とする (4月1日施行) 中国からの引揚げ第一船が舞鶴に入港 「上湧別村史」が発刊される 湧別高等学校の開校式・第一回入学式が仮 校舎(中湧別中学校)で行われる アスパラ耕作組合が設立される 湧別川の氾濫で富美橋と川西橋が流失 第五次吉田茂内閣成立 板門店で朝鮮休戦協定調印 日本テレビが民間初の本放送を開始 「独占禁止法」改正公布 紋別郡下湧別村を湧別町と名称変更 ( 10月1日施行) 下湧別村、小清水村、丸瀬布村をそれぞれ 町とする (10月1日施行) 上湧別村に町制が施行され、上湧別町とな る 初代町長は今野和七 結核病棟の第二期工事が竣工 国鉄湧網線網走~中湧別間が全線開通 組合立北海道湧別高等学校の校舎本館が 竣工 林業指導員駐在所が中湧別に設置される 青年学級が開設される 乳牛経済検定組合が結成される 中湧別橋 (7号線)が竣工 上湧別町においても雪印乳業と森永乳業の 集配争奪戦が激化 |
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昭和29年 1954 |
1・ 1 1・ 6 3・ 1 3・15 4・21 4・ 5・15 5・ 6・ 5 6・ 8 6・ 9 6・25 8・ 7 8・ 9 8・14 8・30 9・20 9・26 9・26 10・16 10・27 11・11 12・10 12・10 ○ ○ ○ ○ ○ |
一円未満の通貨単位廃止 北海道吉岡と青森県三厩間の青函トンネル 工事の起工式が行われる ビキニの米国水爆実験により第五福寿丸が 被爆 生田原村を町とする (4月1日施行) 犬養健法相、造船疑獄の渦中で指揮権を 発動、自民党の佐藤栄作幹事長の逮捕を阻 止 上湧別町農民連盟が再結成される 地方交付税交付金制度ができる 五鹿山まつりが始まる 富美郵便局が改築される 改正「警察法」の公布により、国家地方警察 と自治体警察を廃止、北海道警察に統合して その下に5方面本部を置く 「防衛庁設置法」、「自衛隊法」公布。 これ により保安隊を改組、陸、海、空の3軍方式 の自衛隊が発足 (7月1日施行) 紋別町、上渚滑村、渚滑村の各町村を廃し その区域をもって紋別市を置く (7月1日施 行) 天皇、皇后両陛下がご来道、道内各地御巡 幸後、第九回国体 (札幌)にご出席 北海道農業協同組合中央会が創立される 北海道農業会議が設立される 米国駐留軍が北海道から撤退開始、自衛隊 の移駐部隊が来道開始 道、町村合併促進を決める 15号台風により上湧別町の果樹に大きな被 害発生 (~27日) 台風15号で青函連絡船洞爺丸などが沈没 、死者1320人、行方不明206人の大惨事が 起きる 「名誉町民条例」制定、庄田万里医師を推薦 (11月3日) 組合立北海道湧別高等学校の第二期工事 が竣工、全後者の落成式を挙行 「上湧別町監査委員設置条例」制定、初代監 査委員に佐藤吉之助(学識)、坂田尚光(議会 )が就任 第二代上湧別町長に石田勝喜が当選 第一次鳩山一郎内閣成立 農林省から新農村建設計画町村の指定を受 ける 新農村建設計画を樹立 上湧別町役場で課制を再度採用 「国有林野整備措置法」により国有林189 町9反歩の払下げを受ける 商工資金制度を開始 |
昭和38年 1963 |
2・11 3・28 3・31 4・ 1 4・15 4・17 5・ 1 7・12 7・21 8・ 1 8・15 9・12 9・21 10・1 10・ 6 10・17 11・ 1 11・ 9 11・22 11・25 12・ 9 12・27 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
青函トンネル調査杭の着工が行われる 全国農民総連盟が結成される 町立旭小学校が廃止され、中湧別小学校 に統合 第二期北海道綜合開発計画スタート 女満別空港(第三種)が供用開始 町村金吾知事が再選される 上湧別季節保育所が設置される 自衛隊父兄会が結成される 閣議、生存者叙勲の復活決定 日本で今世紀最後の皆既日食が網走を中 心に観測される 「老人福祉法」施行 政府、第一回全国戦没者追悼式を東京・日 比谷公会堂で開催 最高裁、松川事件再上告審で上告棄却、 被告全員の無罪確定 湧別高等学校が創立十周年を迎え記念式典 農業共済事業が町営に移管される 交通安全推進委員会が設置される 白鳥事件で村上国治被告の懲役20 年の有罪が確定 新千円札発行 三池三川鉱でガズ爆発、死者458人 ケネディ米大統領、テキサス州ダラスで暗 殺される 鮭鱒孵化場の増築工事が完了 第三次池田勇人内閣成立 町史編纂委員を委嘱 町母子会が結成される 伝染病隔離病舎組合が遠軽厚生病院に移設 される 遠軽通運中湧別支店が開設される 甜菜の集荷が大日本精糖の区域となる 低開発地域工業開発促進法の開発地区に 指定される 中湧別老人クラブが結成される 上湧別老人クラブが結成される 消防自動車の新車が上湧別分団に配車 される 上湧別スケート協会が設立される この年、年間経済実質成長率8・3% (名目 13・6%)を記録、以後10%台の成長率続 く |
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昭和30年 1955 |
2・14 2・25 3・19 4・ 3 4・23 4・ 5・ 7 6・ 7・21 8・ 6 9・16 10・ 1 10・ 1 11・15 11・22 12・19 12・25 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
(財)日本生産性本部が設立される 中学3年の学力テスト、全道一斉に実施さ れる 第二次鳩山一郎内閣成立 「北海道青少年保護育成条例」公布 第三回北海道知事選挙、田中敏文再選 遠軽信用金庫中湧別出張所が視点に昇格 第四代町議会議長に遠藤庄吉が就任 身体障害者上湧別分会が結成される 斜里郡上斜里村を清里村とし、それを清里町 とする (8月1日施行) 第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催 される 原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成 される 北海道上湧別高等学校(定時制)の廃止によ り、定時制課程4学級が組合立湧別高等学 校に併置される 国勢調査実施、総人口8927万5529人、北 海道人口477万3087人 自由党と日本民主党が合同し、自由民主党 を結成する 第三次鳩山一郎内閣成立 「原子力基本法」、「原子力委員会設置法」 公布 国鉄名寄本線、渚滑線、興浜南線でレール バス運行開始 厚生病院前に国鉄の簡易乗降場が設置さ れる 「町有林分林条例」 (学校林)が制定され る と畜場が町営となる 町森林組合事務所で火災発生、焼失 中湧別市街の側溝工事始まる 消防タンク車、中湧別消防団に配車され る 消防自動車、開盛消防団に配車される 湧別川上湧別築堤(24号線)暫定拡幅工事 に着手 この年、道内は未曾有の豊作 この年、下期から景気上昇、神武景気始ま る |
昭和39年 1964 |
1・25 1・ 3・16 4・ 3 5・16 5・18 5・30 6・ 1 6・16 7・ 1 7・ 9 7・10 8・ 4 8・ 8 9・ 1 9・10 9・10 9・26 10・ 1 10・10 10・16 11・ 9 11・17 11・28 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
文部省、都道府県に養護学校の設置を要 望 屯市北区と四の一に町内初の子ども会が結 成される 名誉町民の庄田万里死去、のち町葬を執行 道議会、交通安全宣言を決議 習志野空挺団が上湧別町で落下傘の降下訓 練を実施 ソ連が歯舞、色丹への墓参を認可、8月に実 現 道教委、教頭任命制などを内容とする「北海 道学校管理規則」を改正公布 知床、国立公園に指定される 新潟地震で死者26人、全壊全焼2250 戸 「母子福祉法」公布・施行 「林業基本法」 公布 朝日新聞の1000万円懸賞小説に旭川の 主婦・三浦綾子の「氷点」が一位入選 第一回子ども会指導車養成講習会(海浜 学校)がサロマ湖畔で開かれる 新仮勝トンネルが貫通 北海道の鳥にタンチョウヅルを選定 開盛神社公園が町立公園に指定される 札幌神社が北海道神宮と改称 自衛隊の部外工事により開盛~上富美間の道路 工事が竣工、完成祝賀会挙行 国鉄、東京~新大阪間で東海道新幹線の営業を 開始 第一八回オリンピック東京大会が開幕 中国、初の核爆発実験成功を発表 郷土史研究会が結成される 町青少年問題協議会が結成される 札富美の中島大十郎、全道民有林経営コンクー ルにおいて農林大臣賞を受賞 上湧別町が全道乳質改善共励会で最優秀賞受 賞 中湧別消防分団会館が二階建てに改築され る 農協富美支所が改築される 農協中湧別デパートが開店 この年、全道的に冷害凶作 この年、道内の企業倒産が258件で戦後最高 を記録 |
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昭和31年 1956 |
1・ 1 1・ 7 1・22 2・ 9 3・ 3 3・31 4・ 6 4・14 5・ 4 5・ 9 5・10 5・20 5・24 6・30 8・31 9・12 9・23 9・28 9・ 10・19 10・23 11・19 12・18 12・22 12・23 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
改正「北海道工業誘致条例」公布 湧網線でレールバス運行開始 上湧別町農協婦人部が結成される 衆議院、原水爆実験禁止要望議案を可 決。 2月10日参議院でも可決 組合立湧別高等学校の第一回卒業式挙行 湧別高等学校、道立に移管される 閣議、「新農山村漁村建設総合対策要綱」 を決定 「積雪寒冷地域における道路交通の確保に 関する特別措置法」(積雪法)公布 「日本原子力研究所法」、「核原料物資開 発促進臨時措置法」、「原子燃料公社法」 (原子力3法)公布 日本登山隊、ヒマヤラのマナスル峰(81 25㍍)の初登頂に成功 私立中湧別保育所(季節保育所)が光照寺 境内に設置される 米国、ビキニ環礁で初の水爆投下実験を 行う 「売春防止法」公布 (翌32年4月1日 施行) 教育委員を任命制とする「新教育委員会 法」公布 冷害対策町民大会が上湧別小学校で開か れる 常呂郡相内村を北見市に編入(9月30 日施行) 上湧別町出身の俳人栗木踏青の句碑が明 光寺境内に建立される 常呂郡佐呂間町および若佐村を佐呂間町 に合併して置町する(9月30日施行) 旭臨時乗降場が駅に昇格 日ソ国交回復に関する共同覚書に調印 (国交回復) ブタペストで学生、労働者の反政府暴動 が起こり、ソ連軍鎮圧に出動(ハンガリー 事件) 町新生活運動推進委員会が結成される インフルエンザ大流行、翌年2月末まで に道内で19万7000人被患、394校 休校 国連総会で日本の国連加盟を全会一致で 可決 NHK札幌中央放送局のテレビ部門開局 石橋湛山内閣成立 遠軽地区主役酪農地区に指定される 納税奨励小家畜(豚)の貸し付け開始 資金導入による冷害休農工事が各部落で 実施される 種馬ブルトン種ケラデネック号をフラ ンスから購入 富美墓地が三角点下から南の沢入り口に 移転 湧別川上湧別築堤暫定拡幅工事が完了 湧別川中湧別築堤堤防拡幅工事に着手 この年、大冷害凶作となり、総栽培面積 の91%に397億円の被害が発生 この年、熊本県水俣湾の魚介類常食者に 奇病発生(のちに水俣病と認定) |
昭和40年 1965 |
2・ 7 3・ 7 3・21 4・15 5・15 5・15 6・22 7・27 8・ 9・ 3 9・24 9・24 10・ 1 10・ 1 10・ 6 10・10 10・15 10・21 10・25 10・25 10・25 10・28 11・10 12・10 12・15 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
米機、北ベトナムの爆撃を開始(ベトナム戦争 拡大) 全北海道中小企業労働組合連合会が結成され る 湧別高等学校の定時制課程が閉課 自民党。(衆議院 ILO特別委員会で87号条約 承認、 関係国内四法案を一括強行採決 中湧別ロータリークラブが結成される 道教委、「公立高校の小学区制を廃止し大学区 制への以降を決定 「日韓基本条約」に調印 (日韓の国交樹 立) 「戦後初のサハリン(樺太)墓参団30人が稚内 港を出港 文部省文化財保護委員会、網走のモヨロ貝塚を 史跡公園に選定 統合中学校の工事着工 乳牛30万頭、牛乳300万石突破記念大会が 札幌市で開かれる 国鉄にコンピューターによる指定券発売の「みど りの窓口」開設 上湧別巡査部長派出所が完成 国営調査実施、総人口9827万4961人、北 海道人口517万1800人 遠軽信用金庫が上湧別消防団に水槽付消防自動車 を寄贈、中湧別分団に配車 第三代町長に渡辺要当選 道央と道東を結ぶ最短道路(日勝道路)が 開通 朝永振一郎のノーベル物理学賞受賞が決まる 中湧別橋(7号線)が竣工、落成式挙行 上湧別橋が竣工、落成式挙行 全道橋梁感謝式が旧上湧別橋跡で行われる 網走、宗谷管内の乳価闘争で初めての牛乳出荷 ストと搬入阻止を行う 中国で文化大革命が始まる 日本、国連安全保障理事会非常勤常任理事国 となる 米宇宙船がランデブーに成功 国鉄湧別川鉄橋(開盛)の架設工事が完成 甜菜の紙筒栽培が奨励され、好成績を挙げ る 農協開盛支所が改築される 失業対策事業が中止される 旧札富美橋脚が爆発により撤去される 兵村地区開拓パイロット事業、(屯市、四の三 地区)に着手 国民健康保険の給付が家族7割となる (世帯主 は昭和38年) 富美に僻地保健福祉会館が建設される 林業指導所中湧別駐在所が遠軽林業指導事務所に 統合される 道庁新庁舎の建設着工 |
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昭和32年 1957 |
1・27 2・25 3・15 3・ 4・ 6 4・ 5・12 7・ 8・13 8・27 9・13 10・ 1 10・ 1 10・ 1 10・ 4 11・25 11・ 12・ 6 12・28 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
名寄本線に48200型気動車が導入さ
れ、客貨車が分離される 北海道放送(HBC)がテレビ放送開始 北海道綜合開発第一次5ヵ年計画終了、 国費投入777億円、達成率約60% 「自動車取得税法」公布 消防組織が再編成され、1団3分団制 になる 屯田家族会(会員130人)が結成される (長谷川春治会長) 北日本航空、旧陸軍飛行場を補修して丘珠、女満別、西春別間の運行を開始 文部省、学校に対し勤務評定の実施を通 達 茨城県東海村原子力研究所の原子炉が運 転を開始、原子の火をともす 北教組、勤務評定反対の闘争方針を決定 日本、国連総会で安保理事会非常任理事国 に当選 大雪国道(層雲峡~留辺蘂間)が開通、石 北峠で完工式を行う 芝浦精糖北見工場が操業を開始 ソ連、世界初の人工衛星スプートニク1号 打ち上げに成功 「中小企業団体の組織に関する法律」公布 (翌33年4月1日施行) 国鉄の川西乗降場が設置される 東京で日ソ通称条約調印 NHKと日本テレビ、カラーテレビの実験 放送を開始 青年団体連絡協議会が青少年団体協議会と 改称 国保中湧別直営診療所が厚生病院に移管さ れる 火葬場が改築される 火防倉庫が設置される 青年研修道場が屯田市街に建設される 果樹協会青年部が結成される 甜菜の集荷区域が芝浦精糖畜となる 農民同盟が農村連盟と改称 チュ-リップ耕作組合が設立される( 大野明会長) 新開盛橋の橋脚工事に着手 国費による失業対策事業が実施される。 昭和39年まで継続 この年、道内の交通事故が5000件突 破(件数5125件、死者419人、負傷 者3958人) この年、下期から「なべ底不況」に入る |
昭和41年 1966 |
1・17 2・ 4 3・ 4 3・ 5 4・ 1 4・ 1 4・ 4 4・10 4・26 5・ 6 5・29 6・ 1 6・25 6・30 6・30 7・ 1 7・ 6 7・21 8・23 9・29 9・30 10・31 10・ 11・10 11・14 12・ 1 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
青少年指導センターが発足 札幌雪祭り客らを乗せた千歳発全日空機が 羽田沖に墜落、133人全員死亡 カナダ航空機が羽田空港で衝突炎上 BOAC機が富士山付近に墜落、124人全員 死亡 北見工業短大が 四年制の北見工業大学と なる ホクレンが「不足払い法」に基づく指定生乳生 産者団体に指定される NHKテレビ「おはなはん」 放送開始、平均視 聴率50%に達する超人気番組 国鉄湧網線に大型ジーゼルカーが導入され、 運行開始 国際オリンピック委員会、72冬季オリンピック 開催地を札幌に決定 農林省、水銀系農薬を非水銀系へ切り替えるよう 通達 中国精華大学付属中学に近衛兵組織が結成される。 文化大革命起こる 「公職選挙法」 改正公布。 永久選挙人名簿を作成 (6月30日施行) 「国民祝日法」改正公布。 敬老の日(9月15日) 、体育の日(10月10日)とし、建国記念の日(2 月11日9は6ヶ月以内に政令で制定することとする ザ・ビートルズ、日本武道館で公演、爆発的人気 旭川空港(第三種)が供用開始 台風四号による豪雨のため水害発生 人事院、林業労働者の白ろう病を、公務疾病と 認定 紋別空港(第三種)が供用開始 戦後初の国後島墓参が行われる (~26日) 開基七十年記念式典と鉄道開通五十周年記念式典 が行われる 道民投票で北海道の木に「エゾマツ」が選定 される 開道100年のスローガン、「風雪百年・輝く 未来」と決定 国鉄湧網線に北湧簡易乗降所が設置される 北海道青少年育成推進協議会が発足 北海道畜産振興審議会、知事諮問の酪農近代化 計画(昭和41~46年度)を了承 認可保育所の中湧別保育所が設置される 遠軽地区7ヶ町村組合立協同屎尿処理場が設置さ れる 南湧澱粉工場が閉鎖され、町内から澱粉工場が 消滅する 南湧種馬所が閉鎖される 第一次農業構造改善事業(果樹)の調査地区に 共南地区が指定される 町郷土史研究会、町内の史蹟33ヵ所と原子木を 指定し、表示板を建てる 自衛隊協力会が結成される ホクユウ食品工業がアスパラ工場を操業 この年、全道的に大冷害、。 被害額は61億円 にのぼる この年、成人病(脳溢血、がん、心臓病、高血圧 症)による死亡が過半数を超える |
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昭和33年 1958 |
2・ 3 2・ 9 3・27 3・27 4・ 1 4・ 1 4・ 7 4・18 5・12 5・12 6・23 6・ 7・ 1 7・ 5 7・25 7・ 7・ 8・23 9・ 1 9・21 10・ 1 11・ 1 11・ 1 11・17 152・ 1 12・ 1 12・23 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
若乃花、横綱に昇進、栃若時代迎える 強制連行された劉連仁(中国人)、当別 町で穴居生活中14年ぶりに発見される 上湧別神社公園が町立公園に指定される フルシチョフ、ソ連首相に就任 北海道綜合開発第二次5ヵ年計画スター ト 「売春防止法」施行で道内の業者880人 転廃業 網走支庁管内観光連盟が設立される 衆議院、原水爆禁止決議案を可決。 4月 21日参議院も可決 屯田家族後援会(観桜会)が結成される 第二次岸信介内閣成立 皇太子殿下ご来道 湧網線の五鹿山に国鉄の簡易乗降場が設置 される 網走・大沼道立公園が国定公園に指定され る 北海道大博覧会が札幌、小樽で開催され る 日本貿易振興会(JETRO)が設立される 電話局番が中湧別局扱いになる 「国鉄興浜線雄武~北見枝幸間などの建 設に着工 青函トンネル掘削の海底ボーリング始ま る 北教組勤務評定闘争を開始 湧別高等学校で創立五周年記念式典挙行 ホクレン中斜里製糖工場が操業開始 クローバー乳業、雪印乳業と合併し解散 ビジネス特急「こだま」が運転開始 正田美智子さん、皇室会議の儀を経て皇太 子妃に決定 石田勝喜町長が再選される 一万円が発行される 東京タワーの完工式挙行 南兵村一区と二区の森林愛護組合が合併 南湧協同林野利用組合が発足(池田憲弥組 合長) 消防自動車の新車が中湧別分団に配車さ れる 中湧別に産業会館が建設される 開盛消防分団会館が改築される 奨学資金制度が創設される 上湧別町農業改良相談所が上湧別地区農業 改良普及所に改称 上富美畜農地保全事業開始 国土調査事業が開始される 家族計画の指導始まる 生活改善センターが建設される 湧別川中湧熱築堤、社名淵川逆水堤工事が 完了 |
昭和42年 1967 |
1・22 2・14 2・17 3・ 4 3・ 4 3・ 6 3・31 4・15 4・15 4・28 5・ 8 6・ 5 7・ 6 7・15 8・18 10・ 9 10・18 10・18 10・31 11・22 12・ 3 12・ 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
北海道協同乳業が帯広で設立される 北海道青少年憲章が制定される 第二次佐藤栄作内閣成立 青函トンネル吉岡側の調査斜坑が完成 ハワイ出身の高見山が外国人 初の関取(十両) に昇進 道立図書館新館 江別市大麻に新築、落成式 挙行 開道百年にちなみ道章と道旗が決定 第六回道知事選挙、松村金吾 三選 東京都知事に社会・協賛両党推薦の美濃部亮吉 が当選、初の革新新都政が誕生 町議会議員選挙執行 第五代町議会議長に大滝敬二が就任 アラブ諸国とイスラエルとの間に中東戦争 始まる 釧路湿原、天然記念物に指定される 「住民基本台帳法」公布 南兵村一区、開盛地区に降雹があり、大きな 被害発生 札幌にソ連領事館が開設される 町立上湧別中学校の統合校舎が完成し、落成式 典挙行 ソ連の金星四号、金星表面の軟着陸に成 功 吉田茂元首相の国葬執行 町消防団が笠頭綬を受ける 南アフリカのバーナード博士、世界初の心臓 移植に成功 屯田市街地に児童会館が設置される 開拓使札幌庁舎跡の赤れんが庁舎が史蹟に 指定される 開盛頭首工が落成 上水道第一期工事に着手 甜菜のポット栽培が促進され、サークル式移植 機も8台導入 共南地区で第一次農業構造改善事業(果樹)が スタート 農業振興基本計画が策定される この年、国民総生産43兆1167億円で資本主 義国第三位、1人当たり国民所得同第21位となる この年、道産米、初めて100万㌧を突 破 この年、北海道の亜麻の歴史、完全にピリオド この年、道内の自動車保有台数53万284台に 達する |
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昭和34年 1959 |
1・ 1 1・ 1 1・ 1 3・ 1 3・26 3・28 4・ 1 4・10 4・15 4・16 4・23 4・ 9・ 1 9・20 9・26 11・ 2 11・10 11・20 11・27 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
「メートル法」が施行される 改正「国民健康保険法」が施行される キューバ革命がバチスタ政権打倒。 2月16 日カストロが首相に就任 日本甜菜製糖美幌製陶所が発足 安保打倒道民会議が結成される 社会党、総評、原水協など、日米安保条約 改正阻止国民会議を結成 「北海道寒地畑作営農改善資金(マル寒冷 資)融通臨時措置法」公布。 道内寒冷地畑作 地帯中規模以下の農家に対する融資制度 皇太子殿下、正田美智子さんgご成婚 「最低賃金法」公布 「国民年金法」公布(11月1日施行) 第四回北海道知事選挙 。町村金吾(自民 党)、横道節雄(社会党)を破って当選 (以降3期) 札幌テレビSTV)開局 国民年金制度の事務請求手続や相談業務 が開始される 上湧別郵便局が新築される 台風15号が中部地方を襲い、5041人 死亡 (伊勢湾台風) 水俣病問題で漁民1500人、新日本窒 素水俣工場に乱入、警備隊と衝突 町立精神医療センターが完成、落成式挙行 新開盛橋、社名淵橋が完成、竣工式挙行 安保阻止第八次統一行動で国会誓願デモ 隊2万人が国会構内に突入 池内工業の建設開始 果樹地帯にスピードスプレアーが導入され る 作物報告事務所が設置される 自動耕転機の飼養が始まり、アスパラガスの 耕作増える 農協中湧別支所が改築される 町有林5ヵ年計画が策定される この年、エゾヤチネズミが全道で異常発生、 造林地11万㌶に被害 この年、下期から「岩戸景気」始まる |
昭和43年 1968 |
1・ 3 2・ 5 2・26 2・29 3・30 3・31 4・16 4・22 5・18 6・ 1 6・14 6・18 6・26 6・29 7・ 1 8・ 8 8・31 9・ 2 9・ 4 10・17 10・21 12・10 12・10 12・23 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
北海道テレビ放送(HTV)がUHF(超短波 帯)によるテレビ本放送を開始 北海道農民総連合(北農総連)が発足 成田空港反対の農民、学生らと機動隊が衝突、 400人重軽傷 テレビの受信契約世帯数が2000万件を超え、 米国に次ぎ世界第二位へ 「上湧別町史」が発刊される ジョンソン米大統領、北爆停止を声明 道心身障害者対策協議会が設立される 北海道庁本庁舎(新庁舎)が完成 十勝沖大地震が発生、死者2人、負傷者133人 、被害総額約118億円 開道百年を記念して、「東山樹木公園」が造成 される 道・札幌市などの共催の北海道博覧会、札幌で 開幕 町章と町旗が制定される 小笠原諸島が日本に復帰 両湧別町学校給食センターの設置場所が中湧別 に決定 郵政省、郵便番号制度を導入 札幌医大の和田寿郎教授、日本初の心臓移植 手術に成功 中湧別電報電話局の局舎が完成 北海道百年記念式典が札幌市丸山競技場で開か れる。 天皇・皇后両陛下、佐藤栄作首相も 出席 国鉄諮問委員会、赤字線83線区の廃止を求め る意見書をまとめる。 道内では湧網線など8線 区が対象 川端康成、ノーベル文学賞に決定 旧北海道庁本庁舎の赤れんが庁舎復元工事が 完工 東京・府中市で現金輸送車が白バイ警察官を装 った男に襲われ3億円が奪われる 北海道車百年記念として網走市庁管内26市町 村が協力して建設した「かき島青年の家」が常呂 町栄浦に完成 上湧別、中湧別両市街に上水道が通水され る アポロ8号、月周回飛行に成功 乳牛の飼養頭数が2000頭を突破 遠軽地方初の生コン工場が開盛で操業を 開始 果樹保健臨時措置法に基づいて果樹保健が実施さ れる 富美温泉の試験ボーリング調査が行われたが、温 度が上がらず中止 湧別川、富美川左岸築堤工事完了 ヘレン・ケラー女史が死去 この年、対米貿易収支が大幅輸出超過となり、日 米貿易摩擦が発生 |
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昭和35年 1960 |
1・19 1・24 1・31 2・23 4・ 1 4・ 1 4・ 5・20 5・24 6・15 6・20 6・23 7・ 1 7・19 8・ 1 9・ 1 9・10 10・12 11・20 12・ 8 12・10 12・20 12・27 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
改訂 「日米安全保障条約」調印 (6月23 日発効) 民主社会党(のち民主党と改称)が結成さ れる (西尾末広委員長) 町体育協会が設立される 皇太子妃が浩宮徳仁親王をご出産 富美道路、中湧別駅前道路が道道に昇格 「精神薄弱者福祉法」 施行 町立中湧別保育所(現、僻地さくら保育所) が設置される 自民党、衆議院本会議で新安保条約を強 行採決 チリ地震津波が道東に大きな被害を及ぼし 死者11人、行方不明41人、漁船沈没296 隻 全学連主流派、安保改定阻止を叫び国会突 入を図り警官隊と衝突、東大生の樺美智子 死亡 大雪国道を国道39号線に名称変更する 新安保条約、批准書交換により発効 自治省が発足 第一次池田勇人内閣成立 上湧別巡査駐在所が部長派出所に昇格 開盛郵便局が移転新築 NHKがカラーテレビ本放送を開始 浅沼社会党委員長、日比谷の三党党首立会 演説会で元大日本愛国党員の少年に刺殺さ れる 名寄線の跨線端が完成、社名淵橋まで新道 の通行始まる 第二次池田勇人内閣成立 新しい「道路交通法」が施行される 南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が結成さ れる 閣議で国民所得倍増計画が決定 屯田市街の側溝工事に着手 中湧別公園が町立公園に指定される 徹水組合が設立される 町設スキー場が設置される 薪炭備林地林道工事に着手 (昭和37年ま で継続) 甜菜耕作振興会が設立される スイートコーンの契約栽培が始まる 遠軽地区防犯協会上湧別町支部が結成さ れる 有線方式でテレビの共同視聴が始まる 有楽座が開館する 夕張地区を中心に小児マヒが多発 即席ラーメン、インスタントラームンなど 新登場 日本映画の製作本数(545本)、映画館数 (7457館)がピークに達する |
昭和44年 1969 |
1・14 1・18 1・21 2・ 1 2・ 4 3・12 3・31 4・ 1 4・ 1 4・28 5・16 5・20 5・23 5・23 5・26 6・10 6・12 6・14 7・ 1 7・ 1 7・20 8・ 1 8・16 8・23 8・ 9・14 9・20 9・29 9・30 10・ 1 10・20 10・21 10・ 11・ 8 11・19 11・25 12・ 9 12・20 12・21 12・25 12・25 12・25 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
ソ連、人間宇宙船ソユーズ四号を打ち上げ る 機動隊8500人が東大に出動、ガス弾と放 水で安田講堂などの封鎖を排除 両湧別学校給食センタ-が給食を開始 町政モニター制度が発足 全道的な暴風雪害のため、死者13人、負傷者 40人 札幌の北海道庁旧庁舎と小樽の旧日本郵船(株) 小樽支店が重要文化財に指定される 「北海道市町村振興基金条例」公布 網走支庁管内町村交通災害共済制度が発 足 米の配給登録制度が廃止される 沖縄デー、反日共系学生が北大理学部を襲い、教 授ら20人余重傷 長岡萩邨の句碑が上湧別神社境内に建立 革マル派学生が北大本部を封鎖し、堀内学長を 監禁して大衆団交を要求 電話交換がダイヤル式に切り替えられる 自主流通米制度発足 東名高速道路の東京~小牧間が全船開通 南ベトナムに解放戦線の臨時革命政府樹 立 国内初の原子力船「むつ号」が進水 上湧別中学校のグランドと野球場の建設 工事が自衛隊の部外工事によって施工。7月 完成 上湧別町交通安全指導員制度が発足 「農業振興地域の整備に関する法律」公 布 米アポロ11号、月面着陸に成功、人類初 めて月面に立つ 網走管内農業改良普及所を8ヵ所に統合 十勝管内忠類村でナウマン象の臼歯発掘 。翌45年7月、本体発掘に成功 北方領土復帰書名1000万人突破全国大会 が札幌で開かれる 映画「男はつらいよ」 寅さんシリーズ第一 作が公開される 町長に渡辺要が再選される 上湧別厚生病院が開院三十周年記念式典挙 行 北電、原子力発電所建設地を後志管内共和泊 地区に決定 農業構造改善事業でリンゴ集荷貯蔵所が建設 され落成 北方領土問題対策協会が発足 「北海道公害防止条例」公布 ホクレン飼料中湧別中継基地が中湧別に建設 される 北大の建物封鎖解除に機動隊3000人が出動 、学生32人を逮捕 佐藤・ニクソン日米首脳会談で沖縄返還が 決定 北海道テレビ(UHB)北見放送所が開 局 北海道新幹線期成会が発足 開盛生活館が落成 四の二公民館が落成 中湧別橋が落成、渡橋式が行われる 上湧別町寒地園芸営農センターが落成 湧別地方(事業内)協同職業訓練校が落成 中湧別自治会区域が再編成 富美地区第一次農業構造改善事業に着手 中土場川、富美川、ヌッポコマイナイ川、社名淵 川が道費河川となる 湧別川が国費河川となる 米の生産過剰に伴い、水田の減反奨励が開始 される 湧別川開盛左岸築堤工事が完了 |
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昭和36年 1961 |
1・ 1 4・12 4・ 4・ 5・23 6・ 1 6・12 7・ 1 7・20 8・ 8 8・12 8・22 9・16 9・25 9・26 9・29 10・ 2 10・26 11・13 11・15 11・29 12・18 ○ ○ ○ ○ ○ |
道内全市町村で国民健康保険が実施され る ソ連宇宙船ウォストーク一号、地球一周旅行 に成功、ガガーリンが搭乗 上湧別消防分団に鉄鋼角望楼が完成 上湧別町婦人団体連絡協議会が結成される 天皇、皇后両陛下ご来道、国土緑化大会植 樹行事 (24日)、北海道体育祭 (25日)に ご臨席 湧網線の完全客貨分離が実施され、これに 伴い時刻改正 「農業基本法」 公布。 農業生産の選択的 拡大、生産性向上、構造改善、流通の合理化 などが目的 湧網線に9600型式機関車が導入される 小児マヒ流行のため、ソ連製生ワクチンの使 用開始 仙台高裁、松川事件の差し戻し審で全員に 無罪判決 東ドイツ政府、東西ベルリンの境界に壁を 構築 常呂郡端野村を町とする (9月1日 施行) 北海道農民連盟、北見地区農協連、十勝農 民連合が合同、全北海道農民連盟が発足 日本航空、東京~札幌間のジェット機使用 開始 文部省、小学校と高校の全国摘出学力テス トを強行 開基六五年奉告祭が行われる 大鵬が横綱に昇進 文部省、中学校2・3年生でも全国一斉学力 テスト実施 「低開発地域工業開発促進法」公布 「災害対策基本法」公布 「児童福祉手当法」公布 上湧別、中湧別、両商工会が合併、上湧別町 商工会が結成される 湧別スノー食品が操業を始め、上湧別から 原料薯供給 道アスパラガス増産奨励補助金を受けて25 町歩を耕作 法務局出張所が中湧別に新築移転 この年、道内の交通事故が1万件を超え1万 1732件に達し、死亡638人、負傷9044人 を記録 この年、日本の農林業就業者が全就業者の 29%となり、初めて30%を下回る |
昭和45年 1970 |
1・14 1・23 2・ 3 2・11 3・14 3・24 3・25 3・31 4・ 1 4・ 1 4・ 1 4・11 4・28 5・ 1 5・ 3 7・ 4 7・ 6 7・14 7・27 8・ 1 8・16 8・25 9・ 2 9・12 10・ 1 10・ 3 10・ 7 10・23 11・ 3 11・11 11・25 12・21 ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
第三次佐藤栄作内閣成立 オオワシ、オジロワシが国の天然記念物に 指定される 日ソ貿易交渉調印 国産初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに 成功(世界で四番目) 日本万国博覧会、大阪千里丘陵で開幕 (~9月13日) 湧別土地改良区が解散 農村地域の集団電話が開通 日本航空機「よど号」赤軍派学生に乗っ取ら れる 町立開盛保育所、(現、僻地開盛保育所)が 開設される 「農業者年金基金法」成立 「過疎地域対策緊急措置法」公布 豪雨による融雪洪水により中土場川とヌッポコ マナイ川に被害が発生(~12日) 中国、初の人工衛星打ち上げに成功 上湧別土地改良区が発足 創価学会、公明党との政教分離を表明 農業後継者奨学金公布制度が発足 酪農事情視察のため渡辺町長が欧州へ出張 閣議、日本の呼称を(ニッポン)に統一 遠紋地区が広域市町村圏に指定される 留辺蘂町のイトムカ水銀鉱業所が33年間 の歴史を閉じる 台風9号のため果樹園に大きな被害 北海道公害対策本部が設置される 北海道百年記念塔の落成式を挙行 上湧別町家畜管理所が落成、業務を開始 国勢調査実施、総人口1億372万60人、 北海道人口518万4287人 札幌市が百万都市宣言 町立上湧別中学校野球場整備委託工事の 竣工式が行われる 北海道議会、全国初の「自然保護条例」を 可決 社会福祉会館で落成式挙行 上湧別町観光協会が設立される 作家の三島由紀夫ら陸上自衛隊東部方面総 監部(市ヶ谷)でクーデター呼びかけに 失敗、割腹自殺 町議会議員の定数が町議会で20人に減少 議決 国営東地区直轄明渠排水事業に着手 わさびの契約栽培が始まる 湧別家畜市場が増改築される 米の生産調整に伴う減反政策により、水田 からの転換が行われ、休耕田113㌶、転換 40・9㌶となる 湧別川上湧別右岸築堤工事が完了 この年、道内の交通事故件数が3万件を 超え、死者882人で全国一位となる |
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昭和37年 1962 |
1・18 2・20 2・26 3・31 4・ 1 4・ 1 5・ 1 5・ 1 5・ 1 5・ 3 5・10 5・25 6・10 6・20 6・29 7・10 8・ 3 8・12 8・30 9・15 10・22 11・ 1 11・ 3 11・10 11・18 12・ 1 ○ ○ ○ ○ ○ |
陸上自衛隊に8個師団が誕生。 北海道は 旭川の第二、帯広の第五、札幌の第一一の各 師団が配置される アメリカ、初の人工衛星フレンドシップ七号 打ち上げに成功 町文化協会の設立総会が開かれる 湧別高等学校が定時制課程の募集を停止 湧別高等学校の全日制課程普通科が一学 級増え四学級募集 国立工業高等専門学校が函館、旭川に設置 される 国鉄遠軽~札幌間に名寄経由の急行「紋別 号」が運行される 国鉄旭川~遠軽~名寄~旭川間に循環急行 「旭川号」が運行される 興部~網走間に準急行「天都号」が運行され る 国鉄常磐線三河島駅で列車二重衝突事 故が発生、死者156人、重軽傷者325人の 惨事 「新産業都市建設促進法」公布 農林省、「草地改良事業実施要綱」を制定、 草地改良を国の公共事業費へ編入 国鉄で日本最長の北陸トンネルが開通、全 長13・09㌔㍍ 上湧別、中湧別両市街に水銀街路灯が設置 される 十勝岳が爆発、北見地方におびただしい降 灰、行方不明5人、負傷12人 町青少年問題協議会が発足する 台風9号、10号全道で猛威、死者29人、行 方不明8人、負傷46人 堀江謙一、日本人で初めて小型ヨットで単独 太平洋横断に成功 国産のYS11が初飛行に成功 南兵村地区に団体加入電話が新設される ケネディ米大統領、キューバ海上封鎖を 宣言(キューバ危機) 「北海道防災会議条例」、「北海道災害対策 本部条例」公布 第一回町総合文化祭が中湧別小学校で開 かれる 国民年金還元融資を受け、国保中湧別診療 所(現、曽我病院)が新築される 町長に石田勝喜が三選 町母子健康センターが新設される 札富美部落の農村電化工事が完了し、町内 から無灯火地区がなくなる 傷病軍人会上湧別分会が結成される 白樺・楓団地に公営住宅が建設される 町有トラックによる塵芥処理が始まる この年、道内都市部の人口が50%を超え る |
昭和46年 1971 |
1・ 1 1・ 1 2・ 9 2・22 3・ 4 4・11 4・14 5・ 6 5・11 5・30 6・12 6・17 6・19 6・29 7・ 1 7・ 3 7・16 9・27 9・27 10・17 10・28 10・ 11・14 11・20 12・ 5 12・10 12・15 12・21 12・ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
農業者年金制度が発足 日本が国連の安保理事国になる 富美地区農業構造改善事業が完了、祝賀会 を開催 成田空港用地収用の強制代執行始まる 網走管内民有人工造林地100万㌶達成記念 式典が網走市民会館で行われる 第七回統一地方選挙。北海道知事に堂垣内尚広 当選(以降、三期) 北海道開拓記念館、札幌市野幌森林公園内に 開館 上湧別町敬老祝い金公布要綱が制定される 第六代町議会議長に渡辺正喜就任 米・ソが火星探査機を打ち上げ 網走地方はじめ道東一帯に異常低温晩霜、農作 物に大きな被害 沖縄返還協定に日米調印 北海道文化放送(UHB)が放映開始 勤労者生活資金貸し付け制度が発足 環境庁が発足 丘珠発函館行き東亜国内航空機「ばんだい号」が 渡島管内の横津岳に衝突遭難、乗客乗員 全員死亡 町民プールが竣工し、プール開きが行われ る 上湧別町郷土資料館が旧上湧別中学校体育館 で開館 天皇・皇后両陛下、欧州7カ国親善訪問に ご出発、アンカレッジでニクソン米大統領と ご会見 中湧別地域が道のモデルコミュニティ地区に 選ばれる 農村花嫁対策推進全道協議会が開かれる NHK綜合テレビがすべてカラー化 鉄建公団、福島町で青函トンネル工事の起工 式挙行 第一期上湧別町総合計画が策定され、町長に 答申される 四の一会館が新築され、落成式が行われる 湧別高等学校の銃剣道場が完成 札幌市営地下鉄が開業 最後の屯田兵三浦清助翁に名誉町民の称号が 贈られる 青少年会館の新築工事が竣工 冷害対策本部が設置される 上湧別屠畜場が閉鎖され、遠軽屠畜場と広域 合併 農業振興地域に指定される 自衛隊の部外工事により東山産業開発道路 が完成 リンゴ腐爛病が大発生 東山の再開発事業対象地域に指定される 札富美地区の自家発電が北電に移管される 米の生産調整施策による畑地転換が町内で 10町歩余り行われ、45、46年で約30 0町歩に及ぶ この年、ボウリングが大流行 |
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昭和47年 1972 |
1・ 9 1・10 1・11 1・24 1・ 2・ 3 2・ 6 2・ 8 2・17 2・28 3・ 7 3・26 4・ 1 4・16 5・15 5・31 6・ 1 6・ 3 6・10 6・11 6・22 7・ 7 7・20 7・31 8・16 9・24 9・29 10・23 11・ 3 12・22 12・ ○ ○ ○ ○ ○ |
玉葱句作組合が結成される 東町高台地区に待望の給水施設が完成 旭川医科大学の設置が正式決定 元日本兵の横井庄一、グアム島で28年 ぶりに発見される 70歳以上の老人医療費無料化が全道一斉 スタート 第11回冬季オリンピック札幌大会が開幕 (~13日) 札幌オリンピック70㍍級ジャンプで笠谷 (金)、今野(銀)、青地(銅)がメダル 独占 湧網線の営業体制合理化が実施される 北大に機動隊が出動、教養部、文学部のバリ ケード封鎖を解除 連合赤軍が籠城した軽井沢「あさま山荘」に 警官が強行突入し、人質を救出 連合赤軍のリンチ殺人事件が発覚 奈良県明日香村高松塚古墳で極彩色壁画が発 見される 札幌市が政令指定都市となる ノーベル賞作家の川端康成がガス自殺 沖縄の施政権が米国から返還され、沖縄県 発足 中湧別東一条通りの舗装工事が竣工、町内初の 舗装工事 旭川の平和通りで全国初の「買物公園」が オープン 上湧別町手をつなぐ親の会が発足 北見地方の降雹、甜菜、豆類に大きな被 害 田中角栄通産相、日本列島改造構想を 発表 くるみ里親会上湧別支部が発足 第一次田中角栄内閣成立 全道市の長大橋・石狩河口橋が開通 網走支庁管内社会福祉大会が町社会福祉会館で 開催される 上富美自治会開基六十年・上富美小学校開校五十 年記念式典挙行 開盛自治会開基六十年・開盛小学校開校五十年 記念式典挙行 日中国交回復、9項目の共同声明に調印 旭川市常磐公園の「風雪の群像」が爆破さ れる 北兵村三区の神明宮神社境内に開拓碑が建立さ れる 第二次田中角栄内閣成立 さくら保育所の新築工事が落成 さけ・ますふ化場湧別事業所(開盛第二ふ化施 設)が完成 中湧別市街にボーリング場が開業 旭地区で道営畑地帯土地改良事業に着工 中土場川砂防ダム第一期工事に着工 女満別湿生植物群落、国の天然記念物に 指定される |
昭和55年 1980 |
1・ 1 1・22 3・31 4・ 1 4・ 7 4・10 4・25 5・27 6・10 6・12 6・22 7・ 3 7・17 7・19 8・ 2 8・ 7 8・29 9・ 6 9・22 9・25 10・14 10・17 11・13 11・16 11・22 11・25 12・ 6 12・ 8 12・11 12・25 12・27 ○ ○ ○ ○ |
老人世帯、心身障害者世帯、母子世帯を 対象に福祉灯油制度が実施される ソ連、ノーベル平和賞受賞のサハロフ博士 を反国歌活動を理由に栄誉を剥奪、国内流刑 とする 「過疎地域振興特別措置法」公布(対象市 町村219) 町過疎振興計画第二期(前期計画)が指定 される 道、北海道地域別農業経営指標を発表 米国ラスベガスの賭博事件が発覚した浜田 幸一代議士が自民党を離党、国会議員も 辞職 東京銀座でトラック運転手が現金1億円を 拾得したが、持ち主現れず 中国の華国鋒主席、国賓として来日し天皇 陛下、大平首相と会見 全国に上湧別を紹介する「風景入り日付印 が完成、上湧別、中湧別両郵便局で使用開 始 大平正芳首相、急性心不全で死去 憲政史上初の衆参ダブル選挙が行われる イエスの方舟と呼ばれる謎の教団事件が 明るみに出る 鈴木善幸内閣成立 モスクワオリンピックが開幕。 ソ連のアフ ガニスタン進攻に抗議、 日米など65カ国が 参加をボイコット 第一回母子家庭休養事業が斜里町で行われる (~3日) 第一回スタルヒン杯争奪全道スポーツ少年団 体会で中湧別スポーツ少年団が準優勝 (~8日) 住民代表、旭川鉄道管理局長に湧網線・名寄 本線廃止反対を強硬に申し入れ 第一回ふるさと祭りが開催される (~7日) イランとイラクが全面戦争に突入 秘境知床に横断道路 (ウトロ~羅臼間、2 7・3㌔㍍)が開通 上湧別地区コミュニティ協議会主催の第一回 壮年体力テストが行われる 北海道とカナダのアルバータ州が姉妹都市 調印 斜里岳、道立自然公園に指定される 常紋トンネル工事殉難者追悼碑が留辺蘂町 金華小学校跡に建立、除幕される 北海道鉄道開業100年を記念して、義経号と 静号が札幌~小樽間を走る 町労が名寄本線、湧網線廃止反対の決起集会を 開催 ビートルズのジョン・レノン、ニューヨークで 射殺される 中湧別郵便局が交通事故ゼロ目標300日を達 成 上湧別町第二期総合計画が策定される 「国鉄再建法」公布 町あいさつ運動推進本部が発足 四の一自治会郷土史「拓魂八十年」と富美自治 会七十周年記念誌「拓いて七十年」が発刊され る 上湧別町青年団体協議会、記念誌「仲間づくり の礎」を発刊 この年自動車生産台数が1104万2884台 に達し、米国を抜き世界第一位となる |
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昭和48年 1973 |
1・ 8 1・27 2・14 4・12 5・23 5・23 5・27 6・11 6・19 7・20 7・28 8・ 1 8・ 8 8・25 9・ 9 9・13 9・14 9・21 10・ 1 10・23 10・25 11・17 12・ 6 12・22 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
中湧別歯科診療所が開業 パリでベトナム和平協定調印 政府、円の変動相場制移行を決定 「祝日法」改正案が成立、休日振替を 告示 富美温泉開発の調査を福島県三本杉温泉開 発研究所の手により行う (~26日) 第一回上湧別町高齢者教室(寿学級)が開設 される 町、旬報の発行開始 上湧別歯科診療所が開業 留辺蘂のイトムカ鉱業所が水銀回収業に 転換 日航ジャンボ機、オランダ上空でパレスチナ ゲリラにハイジャックされる 道民スポーツ網走夏季大会が上湧別町を主会 場に開催される (~29日) 全農連、北濃連が米価諮問案に抗議、米の 出庫拒否で実力行使 韓国の金大中元大統領候補、白昼東京のホテ ルから連れ去られる 町営野球場が建設される 町長に渡辺要 三選 北海道自然環境保全審議会が北海道自然環境 保全基本方針を知事に答申 湧別高等学校が創立二十周年記念式典挙行 日本とベトナムの間に国交が回復 旭地区営農用水給水開始 江崎玲於奈博士にノーベル物理学賞が決 定 商工会館が落成、記念式典挙行 町立上湧別超学校で交通公園の開園式を 行う 上湧別保育所の新築工事が竣工、新施設使用 開始 政府、石油緊急事態宣言を出す 上湧別町屯田太鼓保存期成会が設立される 道営札富美・旭地区農免道路の整備事業に 着手 自治省の「明るい選挙推進の重点啓発地区」 に指定される みのり幼稚園(学校法人和光学園)の設立が 認可される 群馬県の長柄農協(矢島芳男組合長)が南兵 村一区に肉用牛の哺育センターを開設 中湧別地区に生活道路(中湧別小学校~社会 福祉会館)が完成 川西地区の第二次農業構造改善事業に着手 この年、石油ショックで物価が高騰、トイレッ トペーパー、砂糖、洗剤などの買いだめ、売り惜 しみが横行 |
昭和56年 1981 |
2・ 7 2・11 3・ 2 3・2 3・16 3・22 4・ 1 4・ 2 4・12 5・10 6・10 6・28 7・22 8・ 4 8・22 8・25 9・ 1 9・13 9・21 10・19 10・28 11・29 11・30 11・15 ○ ○ ○ ○ |
閣議、「北方領土の日」を2月7日に決 定 女性解放と政治浄化に尽くした市川房枝女史 死去 中国残留孤児47人初めて来日 関係閣僚会議で興浜南、興浜北、相生各線など 国鉄道内8路線の廃止に合意 第二次臨時行政調査会(土光敏夫会長) が発足 全国軍人・軍馬恩給資格者連盟の上湧別支部が 結成される 社会科副読本「かみゆうべつ」が発刊され る 国家公務員の週休2日制(4週5休)が スタート 米国、スペースシャトル「コロンビア」打ち上 げに成功 ウトナイ湖畔にバードサンクチュアリ(野鳥の 聖域)がオープン 国鉄、本道8線を含む全国地方40線の廃止を 運輸省に申請 国家公務員に準じ道職員も週休2日制(4週5 休)を実施 千代の富士、横綱に昇進 上湧別郵便局の局舎が落成 台湾でボーイング機が墜落、作家の向田邦子ら 101人が死亡 政府・自民党、行革大綱を閣議決定 屯市に旧上湧別郵便局の局舎を転用した青年会 館が設置される 第五代町長に佐々木義照が当選 道内初の民間FM放送「エフエム北海道」が 発足 福井謙一京大工学部教授にノーベル科学賞 決定 ロッキード裁判で榎本敏夫被告前夫人が 「ハチの一刺し」発言 第一回子ども文化祭が開かれる 綜合体育館が竣工。 12月6日にこけら落 としの第一回町民バレーボール大会が開かれ る ガス突出事故(10月16日)で93人 の犠牲者を出した北炭夕張炭鉱、「会社更 生法」を申請、負債総額721億円 道営旭地区の畑作地帯綜合と近い両事業が 完了 町土地開発公社、中湧別工業団地を分譲 (5事業所) 農村綜合モデル事業により上湧別神社公園 を整備 この年、道内の倒産負債総額が過去最高記 録の3000億円を突破 |
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昭和49年 1974 |
1・16 2・26 3・10 3・22 3・23 3・27 4・ 1 4・ 1 4・16 5・ 4 5・ 4 5・21 6・26 7・24 8・ 8 8・23 8・30 9・ 3 9・17 9・20 10・ 8 10・15 10・19 12・ 9 12・20 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
石油不足による電力規制で、広告塔などの 灯が消える 北海道物価対策委員会が設置される ルバング島で小野田寛郎陸軍少尉の救出に 成功 環境庁、硫黄酸化物排出基準の規制強化を 決定 上湧別町消費生活モニター制度の制定 町明るい選挙推進協議会が設立される みのり幼稚園が開園 乱開発の規制を盛り込んだ「北海道自然環境 等保全条例」を施行 町老人クラブ連合会、待ち寒地営農園芸センタ ーの協力を得て花苗の育成を開始 上湧別神社公園の池に太鼓橋が架けられる 堀江謙一青年、マーメイド三号で単独無帰港 世界一周を達成、忠岡湊に帰港 ゴミ収集車が本格的に活動開始 国土庁が発足 北の湖が第五五代横綱に昇進 ニクソン米大統領、ウォーターゲート事件の責任 を負って辞任 上湧別町土地開発公社が設立され、勤労者の宅地 造成開始 東京丸の内三菱重工ビル前の歩道で白昼時限 爆弾が爆発、8人死亡、380人 重軽傷 富美温泉の本格的な温泉ボーリングを開始 初の北方圏環境会議が札幌で開かれる サロベツ原野の一部を加えて利尻・礼文国定 公園が利尻・礼文・サロベツ国立公園として 誕生 佐藤栄作首相、ノーベル平和賞に決まる 日本近距離航空路線(札幌~奥尻~函館、 札幌~中標津、札幌~紋別)が運行開 始 ヌッポコマイナイ生産林道が完成 三木武夫内閣成立 北海道経済連合会(道経連)が正式発足 社会福祉会館内に井上文庫が開設される 富美地区営農用水事業に着工 道道上湧別~生田原~留辺蘂線が国道( 242号)に昇格 国営東地区明渠排水事業が竣工 商工業者に「上湧別町商工振興設備資金 貸付要綱」による設備資金の貸し付けが開 始される この年、経済成長率が状況っしつマイナス 0・5%で戦後初のマイナス成長となる この年、卸売物価指数31・3%、消費者 物価指数24・5%それぞれ上昇、いわゆる 狂乱物価となる |
昭和57年 1982 |
1・ 7 2・ 8 2・ 9 3・ 1 3・21 3・29 3・31 4・ 1 4・ 1 4・ 2 4・ 4 6・12 6・23 7・17 7・23 7・30 8・ 5 8・10 8・23 9・13 9・28 11・ 7 11・15 11・27 12・12 12・14 12・15 12・25 12・25 ○ ○ ○ |
第一回席書大会が社会福祉会館で行われる 東京赤坂のホテル・ニュージャパンで火災 発生32人死亡、28人重軽傷、防火設備の 欠陥が問題となる 日航機が北海道羽田沖に墜落、24人死亡、 147人重軽傷。 心身症の経歴を持つ機長の 異常言動が問題に ソ連の惑星間ステーション「金星13 号」が金星に軟着陸、 カラー写真撮影に 成功 北海道全域にマグニチュード7・3の大地 震が発生。 浦河で本道初の震度6の烈振を 記録 湧網線の営業体制合理化が実施される 町教委が上湧別町の「碑・史蹟集」を発刊 湧別高等学校の第一学年学級編成が一学級 減の三学級等学となる 500円硬貨搭乗、金売買も始まる アルゼンチン軍、英領フォークランド諸島 を占領 (~6月14日) 町営浴場「憩いの湯」が中湧別中町に開設 される 札幌で北海道博覧会が開催される (8月~ 22日) 東北新幹線 (大宮~盛岡間)が開業 第一回オホーツクサイクリングが開催さ れる 国際捕鯨委員会総会で、全面禁止案が可決 される 第二臨調、国鉄、電電公社の民営化などの 基本方針を決定 中湧別野球スポーツ少年団、スタルヒン全道 大会で三位に入賞 (~6日) 「老人保健法」成立。 翌58年2月から一部 患者負担となる きたみ東急百貨店オープン 上湧別・湧別両町水道施設の起工式が東山浄水 場で行われる 上越新幹線(大宮~新潟間)が開業 第一次中曽根康弘内閣成立 上富美地区営農用水施設が完成 全日本民間労働組合協議会(全民協)が 発足 名寄本線・湧網線廃止反対住民会議が設立 される 湧別高等学校の新校舎が落成し全面移転 道議会、5議席増を可決 神田建設、上湧別町で初めてマッシュルーム の栽培に成功 中湧別巡査部長派出所の改築 中湧別歯科診療所の新築 |
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昭和50年 1975 |
1・ 1 1・17 4・13 4・28 4・30 4・ 4・ 5・ 7 5・16 6・19 6・19 7・19 7・19 7・23 8・23 9・30 10・22 11・ 5 11・11 12・ 1 12・14 12・16 12・25 ○ ○ ○ |
寿の家が竣工、オープン 道東を中心に大暴風雪、交通網マヒ 道知事に堂垣内尚広再選 前年春の教職員ストにからみ道教委が1 49人、市町村教委が7万3400人を 処分 ベトナム戦争が終結する 遠軽地区衛生事業組合の南兵村屎尿処理場 が四の一地区に建設され、操業を開始 花いっぱい運動推進委員会が設置される エリザベス英国女王が来日 (~12日) 日本女子登山隊が世界の女性で初めてエベ レストの登頂に成功 上湧別町、遠軽町とともに網走北部地区の 玉葱生産地として農林省より指定を受ける 初の国際婦人年会議がメキシコ市で開催さ れる 道警本部三階で時限爆弾が爆発、四人負 傷 沖縄開洋国際博覧会が開幕 上湧別町消防団、全道消防操法訓練大会で 日本消防協会から竿頭綬を受ける 台風6号による集中豪雨で各地に大きな被害 。 9市町村に災害救助法適用 天皇・皇后両陛下、米国親善旅行へご出発 ソ連の金星9号が金星表面の軟着陸、写真 送信に成功 道の消費者保護基準制度が告示される 第一回農協婦人部の収穫祭が開催される 社会福祉会館の、増改築工事が、竣工 オー プン 道内国鉄最後の蒸気機関車(客車)が走り、 103年の歴史に幕 どか雪が道東を襲い、交通機関が混乱 文部省、学校の主任制度を正式決定 町営中湧別スキー場にベビーリフトと夜間 照明完成 北兵村地区、第二次農業構造改善事業の指定 を受ける 町が農村綜合整備モデル事業実施地区に指定 される |
昭和58年 1983 |
1・ 1 1・ 9 1・27 2・ 1 2・ 2 2・ 4 2・ 6 2・23 3・17 4・ 1 4・ 1 4・10 4・16 5・ 6 5・13 5・23 5・26 6・12 6・26 6・ 8・25 9・ 1 9・ 7 9・25 10・12 10・12 10・14 10・20 10・28 11・21 11・24 12・10 12・13 12・27 12・ ○ ○ ○ |
富美小学校が開校七十周年を記念、「風雪 七十年」と題する富美っ子カレンダーを制作 名寄本線・湧網線廃止反対上湧別町民総決 起大会が開催される 青函トンネルの先進導坑が貫通 老人保険制度が上湧別町でも発足する 町内小中学校・高校生のローカル線廃止作文 が中曽根首相らに送られる 日本初の実用通信衛星 「さくら二号a」の 打ち上げに成功 第一回郵便局長杯争奪町民300歳バレー ボール大会が開かれる 札幌市、スパイクタイヤ使用で全国初の 指導基準案をまとめる 渡辺要元町長への名誉町民の顕彰が決定 湧別高等学校の第一学年の学級編成が一学 級回復し四学級となる 「北方特別法」施行。根室市で国後、択捉、 色丹への転籍始まる 北海道知事に横道孝弘当選 (以後、 三期) 江別市野幌に北海道開拓の村が開村 町暴力追放推進協議会が設立される 名寄本線廃止に絶対反対する沿線10市町 村住民総決起大会が興部町で開催される 寿学級が開設十周年を迎える 秋田沖でマグニチュード7・7の日本海 中部自身が発生、津波で104人死亡 谷川防衛庁長官が歴代長官として初めて 北方領土を視察 比例代表制導入の初の参議院議員選挙が 行われる 町産業開発事業推進委員会の専門委員会が 設立される エキノコックス症汚染、津別、斜里両町に 広がっているkとが判明 ソ連空軍機、領海侵犯の大韓航空機を撃 墜 第一回高齢者ゲートボールリーグ戦決勝大 会が開催される 湧別高等学校が校舎改築落成と開校三十周 年記念式典を挙行 名寄本線の上湧別町10号線踏切における列 車衝突事故死を契機に児童生徒にヘルメットを 着用させる機運高まる ロッキード裁判で田中元首相に受託収賄罪に より懲役四年、追徴課税5億円の実刑判決が 下る 宮城県の主婦、初の体外受精児を出産 網走支庁に冷害対策本部が設置される 第一回ミニバレーボール大会が開催される 北海道の冷害被害が過去最悪の1500億円 に達すると道農務部が発表 旭部落、開拓五十周年記念式典を挙行 町立開盛小学校の改築工事が完了 札幌市の人口、150万人を突破 第二次中曽根康弘内閣成立 町営中湧別スキー場が6000平方㍍余り 拡張される 町内史蹟の表示を3ヵ年計画で石碑に建て替え ることが決定 パソコン、ワープロなどのOA機器が急速に 普及 戦後最長の不況が2月に終了したと経済企画庁 が景気底離れを宣言 |
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昭和51年 1976 |
1・ 8 1・31 2・ 5 2・18 3・ 2 4・ 5 4・13 4・15 4・22 5・ 7 6・11 6・15 6・22 6・25 6・30 7・20 7・25 7・27 7・ 8・20 9・ 3 9・ 4 9・ 6 9・ 9 9・15 9・26 9・30 10・ 6 10・12 11・ 2 11・10 12・10 12・24 ○ ○ ○ |
周恩来中国首相が死去 鹿児島市立病院で5つ子誕生 米国ロッキード社のエアバス売り込みに関し 米国上院でコーチャンが証言、ロッキード汚職 事件が明るみに 国会でロッキード事件の証人尋問が始ま る 道庁本館一階ロビーで消化器爆弾が爆発、 死者2人、重軽傷者85人を出す 中国で天安門事件起こる 専管水域200㌋時代に入る 町過疎地域振興計画が策定される 湧別高等学校改築期成会が結成される 開基八十年記念事業協賛実行委員会が設立 される 開基八十年記念事業協賛臨時専門委員会が 記念事業の策定を進める 上湧別町新生活運動推進協議会が結成され る ロッキード事件で全日空幹部ら4人逮捕 河野洋平代議士ら6人が自民党を離党、新 自由クラブを結成 道東、道北地方に記録的な晩霜。 薄氷も 張る低温に 米国の無人探査機バイキング一号が火星軟 着陸に成功 北町広場にグランドが完成、オープン記念 の大運動会が開催される 東京地方検察庁、ロッキード事件に関連し 田中角栄前首相を外為法・外国貿易管理法違 反容疑で逮捕 屯田市街地の婦人会が北海道交通安全推進 委員会から交通安全運動の推進婦人団体に指 定される 佐藤孝行元運輸政務次官がロッキード事件 の受託収賄罪で逮捕される 足寄町で1500万年前に生息していた デモスチルスの全骨格に近い化石を発見 町立上湧別中学校が開基十周年記念式典挙 行 ソ連空軍ジェット戦闘機25,函館空港に 強行着陸、乗員ベッレンコ中尉は、米国に亡 命 中国の毛沢東主席が死去 町主催ノ敬老会が開かれる 開基八十年記念式典が挙行される 普通林道南の沢線が開設される 町内15号線の町有地に老人農園が開設され る 中国で江青ら四人組がクーデター未遂で 逮捕される 第一回高齢者文化祭が開催される 天皇陛下ご在位五十年記念式典が日本武道館 で挙行される ソ連、200㌋専管水域を設定 福田赳夫内閣成立 第三次町酪農近代化10ヵ年計画が策定さ れる この年、北海道倒産件数が1300件に達す る この年、ジョギング・ブーム起こる |
昭和59年 1984 |
1・15 1・22 2・12 2・10 2・25 2・26 3・18 4・ 7 5・13 5・24 6・10 6・25 7・16 9・ 6 9・27 10・ 5 10・19 10・31 11・ 1 11・23 12・10 12・10 ○ |
第一回下の句カルタ大会が開かれる 町立開盛小学校、校舎落成記念式典を挙行 植村直己、北米大陸マッキンリー 単独登頂に 成功。 しかし下山途中で法則不明 湧別町と共同事業で工事を進めていた上水道施 設が竣工 道警北見方面本部、安田端野町長を収賄容疑で 逮捕 第一回上湧別自治会長杯争奪各組対抗・ミニバ レーボール大会が拓かれる 江崎グリコ社長の誘拐・監禁事件が起こ る 牛肉、オレンジなどの輸入問題に日米合 意 国土緑化推進運動の一環として、農村セン ターの周囲にりんご並木が造られる 滝上町と上川町を結ぶ浮島トンネルが 開通 ’84小樽博覧会開幕(~8月26日) 厚生省、留萌小平沖の沈没船を樺太引揚 船「泰東丸」と断定、遺骨収拾の方針決定 幌延町議会、高レベル放射性廃棄物貯蔵・ 研究施設の誘致を議決 全斗煥韓国大統領が初来日、天応陛下と 歴史的会見 北電泊原発の起工式が行われ、反対派が 抗議デモ 中湧別スポーツ少年団が文部大臣から社会 体育優良団体として表彰される 遠軽町初の大型店として道東市民生協の 「プラザコープ」オープン インド首相のガンジーが暗殺される 1万円、5000円、1000円の新札 が発行される 第一回町民音楽の広場が拓かれる 国鉄美幸、興浜南、興浜北、相生四線が バス転換されることが正式決定 五鹿山公園用地の町有化が完了し、五鹿 山公園が町立公園に指定される この年、日本の総人口が1億2000万 人を突破 |
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昭和52年 1977 |
1・ 1 2・15 2・19 2・21 2・23 3・29 4・ 4 4・23 5・ 3 5・ 8 5・13 6・ 2 6・ 8 6・10 7・ 5 7・20 8・ 7 8・18 9・ 3 9・11 9・22 9・28 11・ 4 11・28 12・ 2 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ |
認可保育所の上湧別保育所が設置される 幌加内町の北大演習林で国内史上最低の 氷点下42・1度を記録 道教委、北海道教育長期総合計画を決定 検事総長名を語り三木首相へニセ電話を かけた鬼頭史郎京都地裁判事補の弾劾裁判が 開廷される 日本初の静止衛星「きく二号」の打ち上 げに成功 青函トンネルの海底部が貫通 国鉄、赤字ローカル線の大幅切り捨て、 55年度までの5万人合理化などを含む経 営改善計画を田村運輸省に提出 上湧別厚生病院新築工事の地鎮祭が執り行 われる 道東に異常な積雪。 紋別市で29㌢ 成田空港で開港反対派と警官隊が衝突、双 方で重軽傷者400人を超える 屯田戸主会を解散し、湧別屯田会を結成 学校給食に週二回の米飯が導入される 文部省、新小中学校学習指導要領案を発表、 君が代を国歌と明記 土地開発公社が36区画の宅地分譲を開始 町立中湧別小学校の新築工事に着手 札幌の道立美術館開館 有珠山が大爆発、付近町村に30㌢を超す 降灰 国鉄、具体的な合理化計画を組合に提示、 53年度までに本道の貨物駅111の廃止な どが盛り込まれる 巨人軍の王貞治選手、通算756本目の本塁 打を放ち、世界新記録樹立 第四代町長に出倉定夫が当選 井上正志翁、町の特別功労者第一号として 顕彰される パリ発東京行き日航機、日本赤軍派5人組 にハイジャックされる。 政府、超法規的措 置で対応 第三次全国総合開発計画で、 定住圏構想が 決定される 本道選出の中川一郎代議士、農林大臣に 就任 改正「独占禁止法」(企業の分割、課徴金規 定の設置、株式保有制限の強化など)が施行 される 国営農地開発事業で旭牧場の造成に着手 季節就労者に対する冬季生活資金貸付制度が 発足 南兵村地区の第二次農業構造改善事業を実施 上湧別歯科診療所が新築落成 果樹の凍害被害甚大 この年、企業倒産1万8471件、負債総額 2兆9871億円を記録 この年、大阪を発祥地としカラオケブーム 起こる |
昭和60年 1985 |
1・16 1・16 2・15 3・ 5 3・10 3・11 3・16 4・ 1 4・22 5・22 6・13 6・21 7・25 8・12 8・30 9・ 8 9・10 9・11 10・ 1 10・ 1 10・11 11・ 1 11・13 11・14 12・12 12・21 ○ ○ |
町の経済・産業の振興を図る産業開発セン ターがオープン 富美地区住民センターがオープン 第一回湧網線特定地方交通線対策協議会 が開催される 網走支庁管内初の本州大手スーパーのイ トーヨーカ堂北見店オープン 青函トンネル本坑が貫通、世界最長53・ 85㌔㍍、20年10ヶ月の大工事 ソ連共産党の書記長にゴルバチョフが就 任 科学万博つくば85が筑波研究学園都市で 開幕 日本電信電話(株)(NTT)、日本たばこ産 業(株)(JT)が発足 道内六番目のジェット化空港として新女満 別空港が開港 上湧別神社公園にふじ棚が作られる 中湧別ロータリークラブが五鹿山公園に東 屋を寄贈する 第二電電(DDI)が発足 第三セクター・(株)上湧別振興公社が設立さ れる 羽田発大阪行き日航ジャンボ機、群馬県 御巣鷹山に墜落 町営ソフトボール場の照明設備が完成 皇太子ご夫妻、ご臨席のもと、第五回全国 豊かな海づくり大会が湧別町サロマ湖畔で 行われる (~9日) 町長に佐々木義照が再選 警視庁、ロス疑惑の三浦和義を逮捕 保存樹木が指定される 国勢調査実施、北海道人口567万943 0人 (前回調査より10万人増) 政府、国鉄の6分割と民営化を閣議決定 開盛地区の簡易水道事業施設工事が完成 コロンビアのネバド・デル・ルイス火山 が噴火、今世紀最大の被害発生 青少年指導センター、設立二十周年記念式 典挙行 両湧別町簡易水道事業・農村綜合モデル事 業が完成、合同で浄水場完成祝賀会を挙行 五鹿山スキー場に大型リフトが完成、オー プン 上湧別リバーサイドゴルフ場の造成工事始 まる この年、貿易黒字額が史上最高の526 億㌦に達し、うち対米分は433億㌦ |
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昭和53年 1978 |
1・ 5 1・ 9 1・14 2・11 2・28 4・ 1 4・ 2 5・ 1 5・20 6・12 6・22 7・ 5 7・14 7・16 7・25 7・26 8・12 8・ 9・ 1 9・28 9・29 9・30 10・ 1 10・ 3 10・ 8 10・ 8 10・22 12・ 1 12・ 7 12・17 12・28 12・ 12・ ○ ○ ○ ○ ○ |
老人憩いの家がオープン 道、天塩岳周辺を天塩岳道立自然公園に 指定 伊豆大島付近でマグニチュード7の大地震発生 、死者21人 建国記念の日奉祝運営委員会主催の記念式典が 東京で行われる 政府、新北海道総合開発計画(昭和53年~同 62年度)を決定 町の交通事故死ゼロが1089日でストッ プ 妹背牛商業高校、第九回全国高校バレーボール 選抜優勝大会で優勝 探検家の植村直己、ただ一人犬ぞりを駆って北 極点に到達 新東京国際空港(成田空港)、着工以来12年 ぶりに開港式挙行 宮城県沖でマグニチュード7・5の大地震 発生 文部省、高等学校の新しい学習指導要領案を 発表 農林水産省発足(農林省改組) 札幌市在住の作家、髙橋揆一郎が「伸予」の 作品で芥川賞を受賞 第一回商工会大運動会が中湧別小学校グランド で開かれる 世界で初の試験管ベビーがイギリスで 誕生 道、開道110年記念で募集した北海道の花に 「ハマナス」を決定 日中平和友好条約が北京で調印される 福祉バス(やすらぎ号)が購入される 高齢者や重度心身障害者に対する通院無料 バス制度が発足 馬堀法眼制作の屯田兵肖像画386人分が 新装の農村環境改善センターで除幕 町農村環境改善センターが落成オープン 中湧別西一条道路の改良舗装工事が完成 町立上湧別小学校が開校八十周年記念式典 を挙行 教員の主任制・手当に関する道教委と北教 組の公傷が終わる。 道教委、12日に主任 制実施を通達 第一回産業観光祭が開催される 第一回町内ママさんバレーボール大会が開 かれる 中国の鄧小平副首相来日 国鉄名寄本線上湧別駅の貨物取扱が廃止 される 第一次大平正芳内閣成立 町立中湧別小学校で校舎落成と開校62周年 記念式典を挙行 イランが石油生産を全面ストップ。 第二次 石油危機起こる 上湧別地区コミュニティ協議会が設立され る 特別養護老人ホーム「湧愛園」の新築工事が 落成 学校法人和光学園みのり幼稚園にこぐまクラブ (幼児交通安全クラブ)が誕生 上湧別自治会が北海道交通安全推進委員会から 交通安全推進モデル団体に指定される 富美地区営農羊水事業が完成 札富美・旭地区農業構造改善事業完成 この年、京都、旭川など革新自治体の選挙敗退 が目立つ |
昭和61年 1986 |
1・22 1・28 2・ 2 3・ 1 3・11 3・23 3・26 4・ 1 4・26 5・ 8 6・18 6・ 7・14 7・15 7・19 7・20 7・22 7・31 7・31 8・11 8・27 8・31 9・ 6 9・26 9・30 10・ 3 11・ 9 11・15 11・17 11・21 11・25 11・28 12・ 9 12・22 ○ |
エイズの家庭内二次感染が国内で初めて 確認される 米国スペースシャトル「チャレンジャー 号」打ち上げに失敗、 全員死亡 第一回湧別原野オホーツク100kmクロス カントリースキー大会が開催される 第一回冬季アジア大会が札幌で開かれる (~8日) 生涯スポーツの町を宣言 町立上富美小学校が閉校、町立富美小学校 に統合される 上湧別町ゲートボール同好会が結成される 「男女雇用機会均等法」施行 ソ連チェルノブイリ原子力発電所で原子炉 が破損し、 炉心溶解とみられる大惨事発 生 英国チャールズ皇太子夫妻が来日、ダイアナ フィーバー起こる (~13日) 旧町役場本庁舎が取り壊される 町寒地園芸営農センターにバイオテクノロ ジー試験研究施設が設置される 役場庁舎とコミュニティセンターの建設工 事に着工 第一回名寄本線特定地方交通線対策協議会 が札幌で開催される 北海道ゲートボール連合会から講師を招き 、ゲートボール講習会が開かれる リバーサイドゴルフ場がオープン (9ホー ル) 第三次中曽根康弘内閣成立 網走支庁管内社会福祉大会が町綜合体育館で 開かれる 第一回児童宿泊研修会、上湧別小学校五年生 を対象に常呂町かき島青年の家で開かれる (~8月1日) 町行政改革に関する最終答申が提出される 釧路地裁、無期懲役刑(強盗殺人・死体遺棄 罪)の梅田義光に無罪判決 町立上湧別中学校、開校二十周年記念式典 挙行 日本社会党委員長に土井たか子就任、日本初 の女性党首 湧別屯田会、屯田の昔を偲ぶ会を開く 開基九十年の記念式典が綜合体育館で挙行 され、席上上湧別音頭が発表される 中湧別郵便局舎が改築落成 第一回上湧別中学校吹奏楽部演奏会が開か れる フィリピンで三井物産の若手支店長が武装 フィリピン人に誘拐される (翌62年3月3 1日に解放) 第四回湧網線特定地方交通線対策協議会が 開かれる (網走) 伊豆大島の三原山噴火 三菱銀行有楽町支店で現金輸送車強奪事件が 発生 国鉄分割民営化8法案が成立 ビートたけし、フライデー編集部を襲撃 五鹿山スキー場にロッジが完成 上湧別地区国営農地開発事業の兵村団地雑 用水施設(五の二、五の三の高台地区)が完 成 |
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昭和54年 1979 |
1・ 1 1・13 1・16 2・ 1 3・18 4・ 8 4・10 4・24 5・ 4 5・ 6 6・22 6・28 7・ 1 8・20 9・ 4 9・10 10・26 11・ 9 11・20 11・27 12・27 ○ |
乳幼児の医療費無料化が拡大、母子家庭、母親 入院なども対象に 初の国公立大学共通一次試験が実施される(~ 14日) イランの革命でパーレビ国王がエジプトへ 亡命 パリ亡命中のイラン革命運動の指導者 ホメイニ師、帰国して回教共和国の樹立を 宣言 米国スリーマイル島で原発放射能もれが 発生し、原発史上初の最悪事態になる 道知事に堂垣内尚広が三選 特別養護老人ホーム「湧愛園」の開園式が 行われる 元号法案、衆議院本会議で可決される サッチャー女史、女性初の英国首相に 就任 上富美、富美、札富美地区住民が交通安全大 会を開催 湧別高校改築の調査設計費が認められる 東京サミットが開かれる(~29日) 国鉄、再建基本構想を森山運輸省に提出。 昭和60年度を目標に7万4000人の人員 削減を盛り込む 全国戦後強制抑留保証要求推進協議会北海 道連合会上湧別支部が設立される 東京・上野動物園名物パンダのランラン 死ぬ 札幌の豊平川にサケのそ上が25年ぶりに 確認される 朴正煕建国大統領、KCIA部長に射殺され る 第二次大平正芳内閣成立 「上湧別町史」(昭和編)が発刊される 農村綜合モデル事業により中湧別農村公園 が完成 ソ連軍、アフガニスタンに侵攻 この年、札幌市の人口137万4715人 となり、神戸市を抜き全国で六番目の都市 となる |
昭和62年 1987 |
1・17 2・ 3 3・ 8 3・19 3・20 4・ 1 4・12 5・ 3 5・10 5・23 5・23 6・ 9 7・10 7・31 8・ 1 9・18 10・ 4 10・11 11・ 3 11・ 6 11・19 11・29 11・29 12・ 2 12・ 8 ○ ○ ○ |
国内初の女性エイズ患者が神戸で認定さ れる 高松宮宣仁親王殿下がご逝去 上湧別町青年団体協議会、創立三十周年記 念式典挙行 国鉄湧網線のさよなら列車が運転され、五 一年の歴史に幕 国鉄湧網線の代替バスが運行開始 国鉄が民営化され、日本旅行鉄道(JR)とし て業務開始 横道知事が再選される 朝日新聞神戸支社が襲撃され、記者一人死亡 一人重傷 横綱千代の富士に道民栄誉賞が贈られる 第一回チューリップフェアが開かれる 東山樹木公園の名物チューリップ型芝ザクラ にイルミネーションがともる 湧別ライオンズクラブ、五鹿山公園にアジ サイの苗木3000本を植樹 ゲートボール同好会主催第一回ゲートボール 大会が開かれる 釧路湿原が国立公園に指定される 町役場新潮社、コミュニティセンターが完成 業務を開始 遠軽地区広域組合消防署上湧別支署庁舎が完成 業務を開始 第一回子ども会ミニバレーボール大会が 開かれる 第一回五鹿山公園クロスカントリー大会が 開かれる 上湧別町総合庁舎落成記念式典・祝賀会が 開かれる 竹下登内閣成立 自家生産物を使ったわが家の自慢料理「第一回 OHAKOグルメコンクール」が開かれ る 東京上湧別会が発足 大韓航空機が乗客115人を乗せたまま消息 を絶つ。 韓国、蜂谷真由美と名乗る女性を逮 捕、後に北朝鮮の金賢姫と判明 利根川進、米国マサチューセッツ工科大教授に ノーベル医学・生理学賞が決定 レーガン・ゴルバチョフ会談で INF(中距離核 戦略)全廃条約に調印 JR 名寄本線の利用促進のため、3人以上 の団体利用に対し補助制度(3分の1以内) を定める 十勝出身の北勝海と大乃国が横綱に昇進 千歳空港の昭和62年の乗降客数が10 00万人を突破 |
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昭和63年 1988 |
1・12 3・13 3・13 3・ 4・ 1 4・10 4・15 5・29 6・ 3 6・ 7・ 1 7・ 9 7・12 7・20 7・23 8・ 6 8・22 9・22 10・20 10・27 11・ 9 11・24 12・ 1 12・ 6 12・24 |
金賢姫、大韓航空機爆発は北朝鮮の指示と 自白 青函連絡船、80年の歴史を閉じ廃止 青函トンネルが供用開始 星の街コンテストスターウォチングで 「星空の街」に指定され、環境庁大気保全局 長から表彰される 老人農園が町営チューリップ公園に指定さ れ、チューリップが増殖される 瀬戸大橋が開通、日本列島がレールで結ば れる 上湧別町廃棄物処理場が完成、使用開始 庁舎落成記念像「飛翔」が建立される 道主催の「世界食の祭典」開幕。 大幅赤 字で問題となる (~10月30日) リクルート事件が発覚する 移動図書館車による図書の巡回サービス開 始 青函博(青函トンネル開業記念博覧会) 開幕 (~9月18日) 屯田兵服装制作期成会が設立される 新千歳空港が開港 横須賀海上で自衛艦「なだしお」と釣り舟 「第一富士丸」が衝突、釣り客30人死 亡 「星空の街」上湧別を彩る第一回七夕祭り が開かれる (~7日) チューリップ公園入口に上湧別町安全運転 監理者協議会により交通安全塔が設置される 昭和天皇ががん性腹膜炎で入院され、皇太 子殿下が国事行為を代行される ロス疑惑の三浦和義と大久保美邦が殺人罪 で逮捕される 国営上湧別地区農地開発事業が完了、竣工式 ・祝賀会が行われる 中土場川改修事業が完成、竣工式・祝賀会が 行われる JR名寄本線の廃止、バス転換が第四回特定 地方交通線対策協議会で決定 町立上湧別小学校、開校九十周年記念式典・ 祝賀会挙行 北電泊原子力発電所の第一号機が発電を開 始 衆議院、消費税の導入など税制六法案を可 決 |
平成 8年 | 1・11 1・16 2・ 6 2・14 3・22 4・ 7 4・11 4・24 5・31 6・ 1 6・16 6・18 7・13 7・13 7・14 7・26 8・ 1 8・ 1 8・ 8 8・21 8・25 9・17 9・18 9・29 10・11 10・14 10・20 11・ 5 11・10 12・ 1 12・ 8 12・17 12・17 12・25 平成9年 3・31 |
橋本竜太郎連立内閣が成立 上湧別町清酒年指導センター、創立三十周年記念式典を挙行 道議会で網走保健所のカラ雇用疑惑明るみに 将棋の羽生善治が史上初の七冠達成 不正問題で道職員が裏金相当分21億円を一括返還 上湧別身障者分会創立四十周年芸能チャリティショーが開かれる 遠軽地区交通安全協会の上湧別支部、中湧別支部が合併、改めて上湧別支部として再発足、新支部長に渡辺肇就任 オウム事件で松本被告の公判始まる 2002年開催のサッカーW杯は日韓共催に決定、(五日札幌市も開催地に選定される) 「新食糧法」施行でコメの販売自由化 賛否両論の中、遠軽町で自衛隊の武装パレード実施 住専処理法と金融関連五法が成立 町観光協会、宮川基金バーベキューハウス2棟を五鹿山公園に寄贈 大阪の堺市でO-157集団発生 新設の上湧別ラジコン飛行場で「ラジコン飛行機・ヘリコプター世界チャンピオンデモフライト全道大会」を開催 札幌市で開かれた交通安全子ども自転車北海道大会で、上湧別小学校の自転車クラブ(5人)が特別賞を受ける ふるさと館 JRY がオープン 英語指導助手スティーブン・パン着任 俳優の故渥美清に国民栄誉賞 ミドリ十字に薬害エイズ事件初の強制捜査(~22日) 上湧別町国際交流センター主催の国際交流のつどいが開催される 野茂投手が米大リーグでノーヒットノーランを達成 韓国海岸で北朝鮮小型潜水艦が座礁、乗員11人が自決、1人逮捕 上湧別町開基百年記念式典挙行。式典終了後、百年広場で開基百年記念塔除幕 上湧別町開基百年記念事業として、NHKラジオ公開番組「ふるさと自慢うた自慢」が文化センターTOMで収録される 屯市の出口一三郎、全国防犯協会連合会から防犯栄誉銅賞をを受ける 新しい選挙制度・小選挙区比例代表並立制による初の総選挙が執行される 米大統領選でクリントン再選 上湧別中学校吹奏楽部が日本管楽合奏コンテスト全国大会で優秀賞を受賞 泊原発三号機のアセス始まる 中湧別小学校、開校八十周年記念式典を挙行 中湧別橋が完成、渡橋式が行われる ペルーの日本大使館公邸で武装ゲリラに占拠され、青木大使ら約90人が人質となる 消防中湧別分遣所が中湧別中町に完成。 中湧別分団に水槽付ポンプ車が導入される 上湧別栃改良区解散 |
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昭和63年 1989 平成 元年 |
1・ 7 1・ 8 1・12 3・19 3・23 4・ 1 4・ 1 4・ 3 4・30 5・ 1 5・13 5・17 6・ 2 6・ 4 6・24 8・ 1 8・ 9 9・ 9 9・10 11・ 1 11・10 11・23 12・ 6 12・15 ○ ○ |
昭和天皇崩御される 明仁親王殿下が皇位を継承され、新年号を 「平成」と制定される 札幌の藤堂志津子、「熟れていく夏」で 直木賞受賞 伊藤みどり、フィギュア世界選手権大会で 金メダル 中湧別地区再開発事業推進専門委員会が発 足 国際交流事業が発足、町臨時職員のマイケ ル・イーストウッド着任 3%消費税スタート ハマナス国体スポーツ百選に上湧別町のスポ ーツ種目が最多入選 JR名寄本線が70余年の歴史を閉じ、廃止 され、さよなら列車を運行 JR名寄本線の代替バス運行開始 交通事故死非常事態町民決起大会が開かれ る 中国・北京で民主化を求める学生と市民10 0万人が天安門広場でデモ 宇野宗佑内閣成立 JR池北線、第三セクター「ふるさと銀河 線」として再出発 歌謡界の女王・美空ひばりが死去 英語指導助手のブラッドリィ・アンプリー 着任 第一次海部俊樹内閣成立 はまなす国体のオホーツクの火・炬火リレーが 上湧別町内を駆け抜ける 町長に佐々木義照三選 社会福祉法人として上湧別社会福祉協議会が 発足 東西ドイツを分けるベルリンの壁の取り壊し が始まる 開盛住民センターが完成、落成式・祝賀会 挙行 上湧別駅前に三角屋根のバス待合所完成 ルーマニア・チャウシェスク大統領夫妻が 処刑され、24年間の共産党独裁政権崩 壊 湧別地区公社営畜産基地建設事業に着工 田中角栄元首相、政界引退を表明 |
主な参考文献・資料 「上湧別村誌」(大正9年、上湧別村) 「湧別兵村誌」(大正10年、上湧別村) 「上湧別村誌」(大正28年、上湧別村) 「上湧別町史」(昭和43年、上湧別町) 「上湧別町史」(昭和54年、上湧別町) 「上湧別百年史」(昭和57年、上湧別町) 「北見市史・上巻」(昭和56年、北見市) 「北見市史・下巻」(昭和58年、北見市) 「北見市史・年表編」(昭和62年、北見市) 「新北海道史・第九巻」(昭和55年、北海道) 「北海道教育史」(昭和54年、北海道教育研究所) 「北海道の歴史60話」(平成8年、三省堂) 「開盛郷土史」(昭和47年、開盛自治会) 「星霜八十年 四の三自治会史」(昭和52年、4の3自治会) 「郷土誌 拓魂八十年」(昭和55年、4の1自治会) 「拓湧八十五年史」(昭和57年、4の2自治会) 「上富美部落史」(昭和61年、上富美自治会) 「拓いて七十年」(昭和55年、富美自治会) 上湧別町「碑・史蹟集」(昭和57年、上湧別町郷土研究会) 「屯田兵班長樋口日記」(昭和59年、上湧別町郷土研究会) 湧別屯田「公有財産あれこれ」(平成4年、上湧別町郷土研究会) 「組合の歩み」(昭和47年、上湧別町農業協同組合) 「北海道屯田兵制度」(昭和48年、北海学園出版会) 「屯田兵村の百年・下巻」(昭和54年、北海道新聞社) 「端野の夜明け・端野小史第一集」(昭和63年、端野町) 「北海道民のなりたち・第一巻」(平成7年、北海道) 「名寄本線」(平成2年、名寄本線代替バス運営協議会) 「北海道大百科事典・上巻・下巻」(昭和56年、北海道新聞社) 「図解、地方自治法の要点」(平成6年、第一法規出版) 「治水事業の歩み 湧別川・渚滑川」(昭和63年、(財)北海道河川防災研究センター) 「北海道がよくわかる」(平成5年、北海道新聞社) 「北海道開発レポート’95」(平成7年、大蔵省印刷局) 「北海道道路史’Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」(平成2年、北海道道路史調査会) 「北海道の冷害」(平成6年、北海道農林統計協会協議会) 「労働組合研究」(平成4年、(社)国際労働運動研究会) 「北海道農業の動向」(平成7年、北海道) 「北海道林業の動向」(平成7年、北海道林業改良普及協会) 「商工労働観光白書」(平成7年、(社)北海道雇用開発協会) 「北海道の蝶」(昭和61年、北海道新聞社) 新版「北海道の野鳥」(平成2年、北海道新聞社) 「オホーツクの植物」(昭和58年、北海道新聞社) 改定版「自然ガイド」(平成元年、北海道新聞社) |
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平成 2年 1990 |
1・ 6 1・28 2・ 1 2・28 2・28 3・ 1 3・13 3・27 5・13 6・ 1 6・10 6・29 7・ 1 7・ 6 8・ 2 8・ 8 8・22 8・23 8・28 9・ 5 10・ 3 10・15 12・ 8 12・20 |
町民信念交流会が初めて開かれる 町立富美小学校で校舎落成式・祝賀会挙行 連合北海道が発足 第二次海部俊樹内閣成立 JR名寄本線の記念誌・記録映画ができ る 地区内の農業共済組合が合併、遠軽地区農 業共済組合が発足 ソ連が大統領制施行、初代大統領にゴルバ チョフ就任 三菱石炭南大夕張鉱業所が閉鎖される 第一回五鹿山公園祭りが開かれる 湧別高等学校にコンピューター25台が設 置される 南米ペルーの大統領に日系二世のアルベル ト・フジモリが就任 礼の宮さまと川嶋紀子さんの結婚の儀が 行われる 屯市自治会、女性ドライバークラブを結成 兵庫県立神戸高塚高校で遅刻した女子高生 が、教師の押した鉄製の校門に挟まれ 圧死 イラク軍、クウェートに侵攻。 米が多国 籍軍派兵と海上封鎖で対応 上湧別漫画振興協会が設立される 文化人招聘事業の一環として、東京造形大 学講師の画家と網走在住の画家が町内で創作 活動を始める (~25日) 常呂町で合宿中のアジア大会マラソン日本 代表2選手が交通事故で死亡 ソ連サハリン州で大やけどしたコンスチン 君を救助リレーにより札幌医大に収容 治療 文化村構想事業の一環として、「オホーツ ク国際漫画大賞」が創設される 東西ドイツが統一 ソ連ゴルバチョフ大統領のノーベル平和賞 が決定 共進スポーツ公園(南兵村一区)に簡易屋 内ゲートボール場が完成、コート開きが行わ れる 第三期上湧別町総合計画 「花と漫画・SKI」 が定例町議会で可決される |
フィールドガイド「日本の野鳥」(平成元年、日本野鳥の会) 「原色牧野日本植物図鑑」(昭和61年、北隆館) 「標準原色図鑑全集」(昭和47年、保育社) ①蝶・蛾 ②昆虫 ③樹木 別巻 動物Ⅰ・Ⅱ 各学校、各種団体記念誌 編集を終えて 平成八年は、上湧別町開基百年という意義深い節目に当たり、一世紀にふさわしい記念事業として、百年の歴史をひもとき、前町史の保遣版として、開基百年「上湧別町史」を改めて編纂することになりました。 上湧別町には、幸いにも大正九年発刊の「上湧別村誌」、大正一○年発刊の「湧別兵村誌」、昭和二八年発刊の「上湧別村誌」、昭和四三年発刊の「上湧別町史」、昭和五四年発刊の「上湧別町史」の五冊の村誌と町史が残されています。 今回は、昭和五○年以降の史実に重点を置き、さらに、以前の史実は「通史」という編を設けて、その概略を記述しました。 編集事業は、資料収集・筆稿・校正・印刷製本などの業務を専門業者に委託し、編集室では、素原稿から三(四)校・レイアウトまでの校閲・校正などの編集作業に当たってきました。 この種の事業そのものの性質からみて、長い時を要するものです。 着手すると、資料収集・校閲・校正・書き替え・修正・補筆など編集作業は、想像以上に困難を極め、その工程は紆余曲折の繰り返しでありました。 山積みにされた膨大な資料と悪戦苦闘し、度重なる原稿の整理・訂正・削除・補筆など校閲の苦労は大変なもので、人知れぬ苦悩を味わいながら冶監とも闘う長い道のりでした。 幸い前役場職員の佐伯勉氏が平成八年より参加して戴き、大きな力となりました。 事業開始から三年数か月の歳月が流れ、暗中模索の長い道程も、周囲の方々の理解と協力により、ようやく日の目をみることができました。 可能な限り史実の究明に努めましたが、遺漏、誤謬もあるかと思いますが、御指摘を戴き、後日の「新上湧別町史」発刊の機会に訂正をお願いしたいと思います。 本史誕生に深く関係された総務課を始め各課、資料の提供や諸々のご協力を戴きました方々、関係機関・諸団体に深甚なる謝意を表し、感謝を申し上げまして、町史編纂室の編集後記といたします。 (西山記) 平成九年九月 上湧別町史編纂室 |
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平成 3年 1991 |
1・17 2・14 2・23 2・25 3・ 8 4・ 1 4・ 3 4・ 7 4・16 4・21 4・26 5・31 6・ 3 7・29 7・31 8・19 9・29 9・30 10・14 10・19 10・24 10・29 11・ 5 11・23 11・30 12・ 3 12・ 7 12・16 12・25 12・26 ○ |
多国籍軍、イラク空爆を開始、湾岸戦争に 突入 第一回オホーツク国際漫画大賞の入賞作品 が決まる 皇太子の立太子の礼が行われる 第一回全国漫画サミットが開かれる 東京都新庁舎の落成式が行われる 湧別高等学校第一学年の学級編成が一学級減 の三学級となる 町屋内ゲートボール場の落成式が行われる 道知事に横道孝弘が三選 ソ連ゴルバチョフ大統領来日 議員定数が16人に減員となった最初の町 議選が実施される 自衛隊が初めて海外(中東)に派遣され る 上湧別町パークゴルフクラブが結成される 長崎県の雲仙普賢岳で大規模な火砕流が 発生、大惨事となる 第一回野外漫画学校が五鹿山公園で開かれ る (~8月1日) 街のメーンストリートに漫画の壁画登場 ソ連でクーデター起こり、ゴルバチョフ を軟禁、国家非常事態委員会が実権を握る 宝くじコンサート札幌交響楽団特別演奏会 が開かれる 町営野球場に夜間照明施設が完備 ミャンマーのアウン・サン・スー・チー 女史のノーベル平和賞が決定 第一回商工祭りが屋内ゲートボール場で 開かれる (~20日) 湧別高等学校科学部、第三十回全道高等学 校理科研究発表大会で最高位の総合賞を受賞 政府、ウトナイ湖(苫小牧市)をラムサー ル条約の登録湿地に指定することを決定 第一次宮沢喜一内閣成立 渡辺正喜翁、曽我耕作翁が名誉町民として 顕彰される チューリップ公園にモダンなチューリップ 館が建設される 上湧別町農業協同組合本部の新築記念式典 が行われる アメリカで真珠湾奇襲五十周年記念式典 が行われる 五鹿山スキー場にセミナーハウスが完成 中湧別橋の架け替え工事に着工 ソ連最高会議共和国会議がソ連消滅を宣 言 中湧別地区開発計画(中心施設)の基本 構造図がまとまる |
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平成 4年 1992 |
1・ 3 1・13 1・22 1・28 1・30 2・14 2・26 3・ 1 3・17 4・ 1 4・22 4・28 4・29 6・ 3 6・15 7・ 1 7・22 8・12 8・24 8・30 9・11 9・12 10・ 8 10・10 10・23 11・ 3 11・ 7 11・20 11・30 12・12 |
中学・高校生国際交流派遣の一行がカナダ ・アルバータ州へ出発 東京地検特捜部、共和汚職で本道選出の 阿部文雄代議士を逮捕 第二回オホーツク漫画大賞、第一回オホー ツクジュニア漫画大賞決まる(~23日) 上湧別町商工会、創立三十周年記念式典を 挙行 札富美老人クラブ、網走支庁管内花いっぱ い運動推進優秀団体表彰受彰 東京佐川急便事件で4人逮捕される 中湧別ロータリークラブ主催の「上湧別町 ・湧別町交歓子ども会等リーダー研修会」が 五鹿山スキー場で開かれる 暴力団による「不当行為防止法」が施行 される 道央自動車道でバス、タンクローリーなど 186台が次々衝突、死者2人、重軽傷者 108人 湧別高等学校第一学年の募集定員が一学級 40人に減員される 北方四島住民との相互ビザなし渡航が始ま る 上湧別町高齢者就労センターが発足 ロスアンゼルス市で暴動 地球環境再生の道を探る国連の地球サミ ットがリオデジャネイロで開幕 政府、国連平和維持活動(PKO)協力 法案を可決成立 新千歳空港の旅客ターミナルビルが開業 新しい英語指導助手のクレア・スターリン グ着任 遠軽地区広域組合消防署上湧別支署に最新 装備の指令者が配備される 中国と韓国が国交回復 第一回ふれあい広場かみゆうべつが開かれ る 台風17号が本道通過、上湧別でも崖崩れ 、家屋浸水、農作物被害など発生(~12 日) 道産子宇宙飛行士・毛利衝を乗せたスペー スシャトル「エンデバー」が打ち上げに 成功 国営灌漑排水事業に着工 町立富美小学校、開校八十周年記念式典 挙行 天皇・皇后両陛下、歴史上初めて中国訪 問 (~28日) 米大統領にビル・クリントン当選 ”新星”上湧別吹奏楽団、演奏会を開く 上湧別町のイメージキャラクター「チュ ーピット」とロゴが決定 多目的施設「文化センターTOM」が完成 第二次宮沢喜一内閣成立 |
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平成 5年 1993 |
1・ 7 1・15 1・21 1・27 2・ 1 2・21 2・23 2・25 2・26 3・ 6 3・23 4・ 1 4・22 4・23 4・26 4・27 5・ 8 5・11 5・16 6・ 9 6・ 9 7・10 7・12 8・ 9 8・21 8・25 9・ 6 9・19 10・ 2 10・ 2 10・15 10・27 11・ 1 11・ 6 11・ 7 11・14 11・19 11・24 11・30 12・15 12・16 |
文化センターTOMに併設したバスターミ ナルがオープン 釧路沖でマグニチュード7・5の大地震 発生、死者2人、重軽傷者役900人 寿学級、開設二十周年記念式典挙行 曙、初の外国人横綱に昇進 役場中湧別出張所、文化センターTOM内 に移転オープン 第一回町民大雪合戦大会がチューリップ公 園駐車場で行われる 町青年会議、網走管内教育実践表彰を受け る チューリップ公園、北海道まちづくり10 0選大賞の部門賞を受賞 チューリップ公園を題材にしたふるさと絵 葉書の発行を記念、北海道郵政局が上湧別町に 記念の盾を贈呈 脱税容疑で金丸信前自民党副総裁が逮捕 される 札富美の福島保、北海道指導農業士に認定 される 町消防支署に女史消防団員10人誕生 文化センターTOM周辺、建設省の「道の 駅」に指定される 天皇・皇后両陛下、沖縄を初めてご訪問 町議会、「暴力追放に関する決議」を満場 一致で可決 文化センターTOMオープン 北海道の「一人一本植樹運動定着促進事業 」の一環として森林教室、植樹祭が文化セン ターTOM周辺で行われる 町ゲートボール同好会、町ゲートボール協 会に改称 プロサッカーのJリーグが開幕 ラムサール条約締結国会議が釧路市で開 かれる 皇太子さま・雅子さまご結婚の儀 第一回緑の体験ふれあい学習(お年寄りと 子供達)が五鹿山公園で開かれる 北海道南西沖でマグニチュード7・8の 大地震が発生、直後に襲った津波と火災で 奥尻島の青苗地区がほぼ全滅 反自民を結集した細川護熙内閣が成立 ’93オホーツク国際交流のつどいが五鹿 山公園で開かれる 第二一回全道消防双方訓練大会で、上湧別 町消防団が準優勝 東京農大生物産業学部学生が、町内で酪農 体験 第六代町長に松田隆当選 町文化協会、創立三十周年記念式典を文化 センターTOMで挙行 ロシアのエリツィン大統領が初来日(~1 3日) 全道高等学校サッカー新人大会で、湧別高 等学校イレブンが3位入賞 (~17日) 「花と漫画・SKI 」によるまちづくりが 、過疎地域活性化により国土庁長官表彰を 受ける マーストリヒト条約(欧州連合条約)が 発効 ミニバレージャパンカップ大会で、町内の チームが優勝 (~7日) 学校法人和光学園、みのり幼稚園の開園二 十年記念式典を挙行 第一回遠軽地区子ども会ミニバレーボール 大会が町総合体育館で開かれる 第一回あすのまちづくりアイデア・コンテ ストにおいて、チャレンジャー21上湧別が 特別賞を受賞 アメリカ上院、「短銃規制法」案 可決 オランダで世界初の安楽死法成立 ガット・ウルグアイ・ラウンド(新多角 的貿易交渉)が最終的に決着 田中角栄元首相が死去 |
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平成 6年 1994 |
1・31 2・ 4 3・ 4 4・26 4・26 5・ 6 5・ 9 5・24 6・27 6・30 6・30 7・ 8 7・14 7・19 7・25 7・28 9・ 4 9・14 10・ 2 10・ 4 10・13 11・10 11・23 12・28 ○ ○ |
全道労協センターが解散、44年の歴史 に終止符 初の純国産大型ロケットH2の打ち上げ 成功 小選挙区比例代表並立制など政治改革関 連四法案が成立 羽田孜内閣成立 名古屋空港で中華航空エアバスが着陸失 敗墜落、乗客・乗員 イギリスとフランスを結ぶ英仏海峡トン ネルが開通 南アフリカ共和国で初の黒人大統領にネ ルソン・マンデラが就任 大規模畑地灌漑事業として南兵村一区で 通水式が行われる 長野県松本市の住宅街で深夜、数十世帯の 住民が有毒ガスを吸い7人が死亡、50人 以上が病院に運ばれる (松本サリン 事件) 自民、社会、さきがけ連立の村山富市内閣が 成立 新千歳空港、二四時間運用開始 日本人初の女性宇宙飛行士、向井千秋が、 米国のスペースシャトルで宇宙へ カナダから中学・高校生ら一行5人が来町 (21日) 菅野茂、参議院社会党比例代表で繰り上げ 当選となり、アイヌ民族初の国会議員と なる 新しい外国語指導助手のジャネット・レディ ース着任 社会党中央執行委員会、非武装中立の歴史 的役割の終焉、自衛隊の合憲、日米安保条約 の堅持、日の丸・君が代は国旗・国歌の認識 。稼働中の原発容認など基本政策を大きく 転換 関西空港が開港、二四時間運用 上湧別町開基百年記念事業推進委員会が発 足、 会長に古川正道 第一回ふれあいスポーツデーが開かれる 北海道東方沖を震源とするマグニチュード 8・1の地震が発生。 釧路の震度6 作家の大江健三郎、ノーベル賞決定 地域づくりアイデアコンペ表彰審査会で、 チャレンジャー21上湧別が国土庁長官賞を 受賞 貴乃花が第六五代横綱へ昇進 マグニチュード7・5の三陸沖地震発生 各地でコメ不足騒ぎ起こる プロ野球にニューヒーロー・イチローが 登場 |
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平成 7年 1995 |
1・17 2・12 3・15 3・18 3・19 3・20 3・23 3・30 4・ 9 4・ 9 4・15 5・21 6・ 1 6・29 7・20 8・ 1 8・24 8・29 9・ 4 9・28 10・ 5 10・ 6 10・13 10・25 11・ 1 11・10 11・19 11・21 12・ 1 12・ 8 12・ 8 12・15 12・26 ○ ○ ○ ○ |
戦後最大の阪神淡路大震災が発生。 死者6308人 五の一自治会館の新築落成式典・祝賀会が行われる 上湧別町開基百年シンボルマークとキャッチフレーズ「花・緑・風かがやいて未来へ」が決定 道内最後の内陸炭鉱だった空知炭鉱が閉山 上湧別町開基百年記念のNHK公開録画「げんきです北海道」が文化センターTOMで行われる 東京都内の地下鉄でオウム信者により同時多発的に有毒ガスのサリンがまかれ11人死亡、約5500人が治療を受ける 上湧別中学校の第二体育館がオープン 国松孝次警察庁長官、自宅マンション前で狙撃され重傷 反自民の堀達也が道知事に当選 無党派タレント候補の青島幸男が東京都知事に、横山ノックが大阪府知事にされぞれ当選 中湧別ロータリークラブ、創立三十周年記念事業の一つとして町役場に太陽電池式街頭時計を設置、後に町に寄贈 中湧別ロータリークラブ、創立三十周年記念式典挙行 町開基百年記念事業実行委員会が設置される 羽田発函館行き全日空機が山形上空でハイジャックされる。 翌30日函館空港で警察隊が機内突入し犯人の銀行員を逮捕 (株)上湧別振興公社創立十周年・上湧別リバーサイドゴルフクラブ結成十周年の記念式典・祝賀会が町農村環境改善センターで行われる 北大医学部で遺伝子治療開始 文部省と日教組和解、新たな協力関係へ 動力炉・核燃料開発事業団の高速炉増殖原型炉「もんじゅ」がプルトニウムによる国内初の発電に成功 沖縄で米兵による少女暴行事件が発生。これをきっかけに県民の怒りが爆発する イスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長がパレスチナ自治拡大協定に調印 第四四回全国へき地教育研究大会が富美小学校で開かれる エイズウイルス感染の血友病患者らが国、製薬会社五社に損害を求めている訴訟で東京、大阪両地裁は国と製薬会社の責任を指摘、一人当たり4500万円を支払う内容の和解案を提示 一連の道庁公金不正問題で道庁、堀知事以下職員の大量処分、管理職を中心とした全額返済を決定 富美小学校、(財)才能開発研究財団の才能開発実践教育賞を受賞 53年間続いた「食糧管理法」が廃止され、「新食糧法」が施行される。コメの流通、販売は自由となり価格競争時代へ 宗教法人改正案、衆院宗教法人特別委員会で可決 東京上湧別会、上湧別町開基百年記念に桜の苗木100本寄贈 中湧別北町婦人部、道国民年金協力会表彰を受彰 ディサービスセンター、在宅介護支援センター「YU愛」のオープン式が行われる 知事、道警本部長連名の初の交通死亡事故多発非常事態が宣言される 高速増殖原型炉「もんじゅ」で冷却材のナトリウムが漏出、事故を起こす サッカーのJリーグ入りを目指すJFL東芝の札幌移転が決定 一連の道庁公金不正問題で道議会は堀知事と横道孝弘前知事の問責決議案を可決 米大リーグ・ロスアンゼルス・ドジャースの野茂英雄投手が大活躍 フランスの地下核実験再開、中国の地下核実験に対し、世界各地から抗議の声 この年、地震、オウム事件、金融機関の不正・破綻、不景気など暗いニュース続く この年、信用組合、銀行、住宅金融専門会社などの破綻・不正が相次ぐ |
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