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宗教記念碑 川上神社   神社の創立由来 (明治33年12月31日創立)
  大正10年1月発行の湧別兵村誌に、川上神社は『明治35年10月、第一区有志ノ寄附ニ依リ造営ス』と誌されているが、今回の調査で、これより2年前、33年12月に創建されたことが明らかとなった。
 大正12年の川上神社由来の文書には『33年7月、給養班長相羽静太、樋口幸吉が、区内有志一般と協議し、伊勢神宮のご神体を奉載し、神社を創立することになり、福田仙次郎(班長助手)の父彦兵衛が帰郷の際、お伊勢さんに参詣し、ご神体を授けて帰り、9月17日鎮座祭を挙行した』と述べている。
 この由来書は樋口幸吉が書いたものであるが、今回の調査に幾分の食い違いがある。
 御神札には
 祭 神 天照大神
   明治33年12月31日
     本社建立  発起人  相羽 静太  樋口 幸吉
             世話人  西村 宗助  南   亨
                  小田井亀次郎  三品丈右ェ門
                   阿部儀三郎  諸岡 寅松
  社殿は、屯田市街地、大工坂上作助に依頼して、神明社造(方2尺5寸ばかり)壱棟を金15円で造営した。
 社殿は現在の拝殿の位置に建立し、12月31日厳かに遷宮大祭が行われた。
 
 創建当時の決算書   樋口文書
収入ノ部  
明治三十三年
 十二月卅日
 
 十七円二五○  戸数六拾九戸  壱戸平均二十五選徴収 
明治三十四年
  七月四日
 
 五・五二○   戸数六拾九戸  壱戸平均八銭徴収 
同十二月一日   一○・三五○   戸数六拾九戸  一戸平均拾五銭徴収
 通  計 三三・一二○   
     
支出ノ部 
明治三十三年
十二月卅一日
 
 一五円○○○   神社建築費 屯田市街地坂上へ払
一四円大工賃、木挽一人六○銭 釘四○銭
 
同十二月卅一日  一・二六○  神前供物 酒二本 菓子 イグイ こんぶ みかん 半紙 
明治三十四年
 四月十九日 
五四五  右に同ジ(金巾 麻 半紙)(三十四年三月廿三日 
同 五月一日  一・○○○  神楽殿御膳料トシテ払出 皇大神宮 
同 八月三十一日  四・一八八  国旗新調着地三円六八銭八厘編賃五○銭緩蔵 
同十二月卅日  七・八一三   祭典費
  同  一・二○○  右ニ同ジ 餅米五升 原野秋蔵へ 
  同  一・一五○  神宮西村幸一父へ一円阿部忠蔵一五銭角力分 
  同  六九○  正月神前供物 
 通  計  三二・八四六   
差引残  二七四  翌年度へ繰越金高 

 
社名由来
 川上神社、社名は、伊勢神宮の五十鈴川の清澄な流れを、神社前の小川(当時は流水が多く清かであった。)
に模し、屯田兵村では一番川上であることから、中隊長の認可を得て、川上神社と名付けられたと言う。
 三十四年の祭典は
  仕払証
一、金壱円拾五銭也
 但明治卅四年十一月拾日祭典執行ノ際神官西村幸一父ヘ御礼トシテ金壱円 同御礼トシテ阿部忠蔵父ヘ金拾五銭之ハ角力ノ分右仕払候也
 明治三十四年十二月一日  樋口幸吉
以上の記録から、三十四年の祭典は十一月十日に挙行され、会計簿の支払が十二月となっている。

 
神社委員
 神社の維持や祭典の執行は、部落内から選挙で、委員を選出し、神社に必要な経費は、全部部落民が負担し、共同事業で道路境内の整備、景観の美化等が行われた。
 明治三十五年の通知書
   神社ニ関スル件
 去ル八月一日総選挙ノ結果貴殿等四名委員当選相成候ニ付此段及通知候也
  弐拾四点  西村幸一父様  了承仕候  (印)
  弐拾壱点  諸岡寅松様
  同   点  小田井父様
  拾   点  上家梅吉様
 追而本日夕食后御疲レニシテ気毒ナガラ小生宅迄御来成度候
   八月五日     樋口幸吉
 この通知書からも、神社の創建から維持は、屯田兵の父や兄が、給養班長を中心にして、世話をしてしていたことが分かる。
  三十五年      樋口日記
二月十日 夜共進会惣代小畠・谷口・野田来宅 三十五年度祭典及神社備品(長旗・提灯・鳥居) 
  購買ノ件申出タリ
二月二十八日 勤倹貯蓄ヲナスヤヲ一般ニ尋ルコト共同事業ノ件ニ付云々 (神社用材ヲ取ルヤ
  又ハ薪材ニカ)本年御祭ニ付今ヨリ準備スベキ長旗、提灯、及鳥居、其他太鼓等購入ノ件
  本年度祭典時日ノ件 三十年兵ニテ調製ノ兎網売却ノ件及之ヲ神社ニ寄附之件一般賛成ナリ
三月十一日 金参円神社へ寄附セラル、津田中尉殿
 以上の日記から、神社と青年会の役割が推察されるし、この三十五年の秋には、初めて鳥居が建てられ、長旗提灯、太鼓等が購入された。

獅子連と祭典余興
 三十五年の大祭は、十月一日二日に行われ、この年始めて結成された獅子連(戸主青年を含めた獅子舞の連中) によって盛大に、獅子舞や、歌舞伎、にわか芝居が行われた。
 三十五年樋口が尾張、批木己島まで
謹啓 陳者毎度御手数ヲ煩シ御苦労ニ預リ候処、当地祭典モ先ツ首尾ヨク去ル本月一日二日ノ両日ヲ以テ相済ミ候ハ獅子ノケイコモ初メテノモノニシテ僅カ 朝顔日記宿屋ノ一段丈ニテ 獅子舞ハ五人 太鼓二人、笛四人、楽屋六人ニテヤリトウシタリ 他ニ壮士ノ様ナ我カノ様ナ事ニテ 『三日月お六捕ばく七段』ヲ壱ケ興行セリ、今尚来ル十一月三日けいこあげヲナス筈ニテ、目下熱心ニけいこ中ニ有之候条、先月御無心申上候本御送リ相成度此段御願上候 尚外ニ『忠三』一部御認メ被下度候
  十月十四日  出  (下書文)
 獅子頭  太鼓などの購入は、小川国次郎に依頼し、親戚に注文したものである。
 尾張国西春日井郡如意村大字如意小川由太郎
獅子カブ  1個  
太鼓     1組(二ケ)  八月二十九日荷物送付
獅子笛   八本      小包ニテ三十日送付
書籍台本 三冊      廿六日送付
    以上は三十五年九月十五日  遠軽局着
  これ等の祭典購入費用は、
 小川へ  獅子頭太鼓外   三0円八四銭五厘(送金十五円)
 坂上へ               七円三十銭
 提灯                 四円三五銭
 辺春店払            一五円八四銭
 其の他を入れ     合計約六五円
歌舞伎の台本は、書うつし台本を注文したもので、次は台本名である。
一、梅川忠兵衛  一、伊賀七八   一、矢口ノ渡
一、千本桜志いの木場  一、朝顔日記   一、白木屋

 三十五円十一月廿七日  獅子連のけいこあげ会が盛大に開かれた。
根雪の時期であり、何処で典行したのか不明だが、お花(祝金)の、帳面は、
一、金五拾銭  南  亨  一、金弐拾銭  水野安太郎 
一、金五拾銭  四ノ二 大前店  一、金弐拾銭  安本喜代八 
一、金弐拾銭  川上郡当麻村牧野貞次郎  一、金五拾銭  福田仙次郎 
一、金壱円  無伝武雄  一、金弐拾銭  西村 幸一 
  無伝重光  一、炭沢山  吉村 友弥 
  無伝一二  一、金五銭  吉村 
  無伝市之助  市、金弐拾銭  小田井亀吉 
一、金弐拾銭  四ノ一  中山  一、金弐拾銭  谷口 勇吉 
一、金弐拾銭  小島八右ェ門  一、金壱円五拾銭  歌方連中 
一、金弐拾銭  中村 幸儀  一、金五拾銭  野田 喜一 
 部落外からもお花が上がっている。
 当時各部落で歌舞伎や、新派にわか芝居が行われていたが、南兵村二区では、一足早く『いろは連中』を結成し、高橋鉄五郎が中心となって、他部落まで興行して歩いた。
 一、金参円也
  右受領候也
 明治三十五年七月廿八日
     湧別いろは連代表   高橋鉄五郎
第二給養班樋口幸吉殿
 この受領証の内容は不明だが、歌舞伎のけいこなどの礼と思われる。
 明治三十六年八月の興行(お盆と思われる)
お半長七   東京新聞 
舞  秦野兼松    与七    市村儀造 
長七 宮崎市之助    巡査  小島鉄治 
鉢   木     宗安  長谷川 
舞  服部安吉    うどんや 服部兼吉 
市助  東海林与三治    仕出  宮崎源六 
忠  七     東海林 
平右ェ  秦野兼松  御堂前 
舞  川瀬宗三郎    九八郎  宮崎市之助 
西   郷    藤助  野田喜一 
舞  市村儀造    ゆき  小島鉄治 
隆盛  谷口栄吉    長安  秦野又三郎 
早助  秦野兼松    三太  谷口栄吉 
      戴取  樋口幸吉 
      戴取  稲垣兼吉 
  以上六つの興行が行われた。
獅子連有志者連盟を見ると、三十八名となっており、戸主の父服部市兵衛などが師匠格であった。 前記役者名の外次の名前がある。
 服部市兵衛、福田甚吉、小川国次郎、河瀬弁次郎、長谷川幸八、
 服部熊次郎、野田松次郎、石田周一、稲垣金十、野田源、平手、
 秦野栄九郎、野田鎌次郎

 神社の境内を拡張して、仮舞台を造り、石油や、大ローソクの灯で、夕方明るい中から始めて、夜晩遅くまで日頃のけいこの腕や、声を見せる大熱演に、部落内はもとより、六キロ、八キロの遠くから観客がつめかけ盛大に行われた。
 秦野兼松、野田源、谷口栄吉、宮崎市之助、市村儀蔵、小島鉄治、東海林与三吉などが、名役者と言われ、小島鉄治の女役は、想像するだけでもほほ笑ましい。
 この獅子連は、その後唐狗の絵を入れた幕を購入し、祭典余興として続けられたが、共進青年会が、神社祭典余興の主役となって引き継がれ、明治末期には解散したようである。

神  官
 当時神官は、湧別神社岩佐伝のみであったため、部落では、西村宗助(戸主幸一の父)に神官を依頼し、以後大正の中期まで、祭司を勤めた。
 何処頃から毎月の、月例祭が行われるようになったが不明だが、四十三年の文書では、
  追テ当神社ノ月次祭モ本月分ハ昨日午后三時執行致候ニ付為念御報知方申候也
  明治四十三年弐月十八日
     祭典執行者  西村宗助
  南兵村一区区長穴田助太郎殿
とあり、月例祭は毎月十七日に行われた。
 神官の礼は各戸から、初穂料として、裸麦、稲黍を集めて、現物で贈った。 四十三年の初穂料は、稲黍一石斗が奉納された。

新神殿の造営     明治四十年
 明治四十年区長河瀬弁次郎の時、川上神社神殿造営が決定し、建築委員を選任し、渡辺熊治郎と工事契約をした。
  神殿工事契約
   建築委員  河瀬弁次郎・樋口幸吉・小田井亀次郎
           水野安太郎
   請負人    渡辺熊治郎
     保証人  遠藤清五郎・小野寺半右ェ門
  四月二十日契約
 一、神社神明造り    一棟
   間口  三尺九寸  奥行  三尺九寸
   仕様  現四中隊三区の神社と同じ、別紙図面の通り
   用材     松  無節とする
   請負金額    七五円也  手付金四十円
   期限       九月十日限り
 一、玉垣  一式
   間口  三間   奥行  三間   高サ  五尺
   請負金額    三0円
   期限       九月十日限り
 以上の契約がなされた。
 七月廿日   部落区長日誌
  戸数調書(九十六戸)ヲ役場ヘ郵送ス  郵税三銭  水野委員へ社殿建築着手方ヲ督促スル様依頼ス
 の記事がある。
 新社殿と玉垣が竣功して、十月十六日遷宮式並に大祭が行われた。
  明治四十年十月十六日
祭  神
  手置帆負命   祭主 岩佐伝  西村宗助
  彦狭知命     創立総代  河瀬弁次郎
  天目一箇命   建築委員  樋口幸吉
                     小田井亀次郎
                     水野安太郎
             頭領  渡辺熊治郎
 当日は、日露戦役記念碑除幕式も、併せて挙行され、青年会の角力、芝居などが盛大に行われた。
   社殿並に記念碑建設費調
一、建築費   渡辺熊治郎作料外          118円90銭
一、金具其他諸品  名古屋清水商店払        50円13銭
一、記念碑文字刻  永井藤吉(遠軽)          5円20銭
一、余興費   熊勢一徳(青年会長)         10円00銭
一、リンゴ代他  樋口幸吉(リンゴ5円、縄代15銭) 5円15銭
一、借用金利息   福田仙次郎 (元金70円)     6円30銭
一、酒菓子外雑貨品代 各商店支払          44円52銭
  合   計                        240円20銭
 
 収 入 は
一、寄附金    区内割当徴収   212円60銭
一、特別寄附金 区外寄附金       6円00銭
  合  計                218円60銭
  不足金   21円60銭   部落会計より支出す
 明治三十三年十二月創建された、小さな社殿に替り、新たに造営された神殿は、その後昭和十六年十月十六日、渡辺喜三郎大工によって、そのままの型に、新造営され、現在上屋を掛けて維持されている。

神社創立十年祭
 明治四十二年十月十六日、神社創立十周年の記念奉告祭が、大祭と共に行われた。 神官は西村宗助で、この年各戸を廻って祈年祭執行した。

雨止祈願祭
 干魃のため、雨乞祈願の話は、良く聞くが、明治四十三年珍しい、雨止祈願祭が行われた。
   建議書
今般農家一般ハ当今之雨天ニ付農作物腐敗致シ大ニ困リ居候ニ付当神社ニ信頼ノ上雨止メ祈願致シ一日モ早ク晴天ニ相成候様致度候間 組惣代会ヲ召集相成度此段建議候也
   明治四十三年九月五日
    組惣代  小川国次郎・樋口幸吉・秦野兼松・井上八右ェ門
           安本信蔵・井上富治・小田井亀次郎・秦野又三郎
           諸岡元太郎
 区長穴田助太郎殿
区長宛  西村宗助の書面
『本日午后ニハ樋口君其他三名ノ御方熊々御足労相成リ候時ニモ種々御断リ申上ケ候得共 天候晴雨ニ不狗是非トモ祈念執行方致シ呉レトノ事ニ付止ムナク承諾仕リ候ニ付準備相成リ云々』と祈願祭の供物準備方を、区長へ申出ている。
 祈願祭は、九月六日から、始められたが、九月七日、雨止祈願料受納帳によると、部落内96戸より、穀物が2升3升と寄進された。
 裸麦  壱石六斗弐升  稲黍  弐斗七升
 大麦     三斗二升  白麦     三升
 現金     八十五銭
神官西村宗助へ謝礼となっている。
 明治四十二年十五月
 神鈴寄進   阿部熊次郎

境内の整備
 川上神社は中通東山の麓に木を切り、山を削って境内を造り、造営されたもので、年々境内を拡張し、永松、椴松、桜、落葉樹を植えて美観と神厳を保つよう、部落民の労力で造り上げられた。
 境内は上段に社殿を祠り、下段は間口十数間奥行八間ばかりの広場にして、湧別川の玉石を運び、二ツの階段を作り、上段の土留に石垣を造った。
 風防林地から、神社までの参道の両側には、桜の並木が境内の桜と共に、美事な花が咲き、大正から昭和にかけて、遠く遠軽、北見からも花見客が訪れるひど有名であった。

 大正十二年、鳥居根元コンクリートで補強工事が行われた。

拝殿建築   大正十二年
 大正十二年、区長小島鉄治は部落の協議を経て、川上神社の新築を決定した。
皇太子殿下行啓記念事業(大正十一年七月十六日行啓)
 拝殿   一棟   二間半×二間半  六坪二五
       木造   内壁床板は桂材
       大工   渡辺熊治郎  請負工事
 六月起工し  十月竣功
十月十七日 落成奉告祭並秋の大祭を挙行す。
 この拝殿の造営には敷地が狭いため、先づ敷地の拡張工事を行い、神殿は一段高くし、湧別川の玉石を運び、石垣を組み、ほぼ現在の地形にして、造営された。 現在の拝殿である。

建築経費の決算は
  収入 神社積立金   184円90銭
      氏子寄附金   305円10銭
      特別寄附金    20円55銭  鳥井始・小島善助
      割  柾          10把  南雲仁太郎
      合  計      510円55銭
  支出 建築請負支払 510円55銭
      割  柾          10把
 以上となっている。

御神燈寄進外修繕工事
 大正十二年十月
 石燈籠寄進  対  右寄進者  三品玉吉
  左寄進者 三品玉吉・三品玉七・三品太七
  ルベ軟石  石工  諸岡繁太郎
 大正十三年十月十六日 区長 小島鉄治
  鳥居修繕  トタン巻  白ペンキ塗り
   鳥居の柱、並傘木をトタンで巻き腐朽を防ぐ
   工事費   40円也  加藤ブリキ店請負
 大正十五年十月 区長 岡村小太郎
  一、鳥居補強工事  柱地下より地上五尺余り金網を巻き、約十五、六センチのコンクリー
     ト巻きに補強工事を行う。
     工事者  渡辺善三郎・幕田善八に一任する
  二、北海道地図池の造成
    消防組青年会の共同で、手洗水の流水を利用し、北海道地図の形を正しい方角に合せて、
    周囲を堀り上げ池を造った。
    この年皇太子殿下行啓記念碑を、この北海道島に建立した。
  三、独逸唐檜植樹   二年生200本  樋口幸吉寄進
 大正十五年十月十七日
  太鼓寄進   大日本漫遊呑気会
   渡辺喜三郎・吉村秀太郎・秦野甚吉・細川斉次郎・中村辰平
   安部川銀助・遠藤清治・東海林武雄・岡村進
   積立講方式で五ヶ年に交替で、東京・伊勢・京都などの周遊を目的に、呑気会が作られた。
 昭和二年七月    区長 小島鉄治
  神殿屋根葺替工事
   七月十五日遷宮式  拝殿に御神体を移す
   施工者請負   遠軽  市野宇之次郎
   経費   152円12銭
   収入  神社積立金に部落費 特別寄附  竹内辰蔵
 昭和二年十月
  狛犬  一対寄進  奉納者 単独移住者
   発企人  渡辺熊治郎・渡辺善三郎・竹内連勝・長倉鶴次郎
          工藤留三
   移住者  竹内治郎・伊藤虎彦・吉田豊治・牧野丹四郎
          幕田善八・阿部岩治・阿部他人田・菊地善八
          今野吉五郎・菊地長之助
   石工  横幕末吉  石材ルベ軟石
  兵村開拓以後当部落に移住し、今日の隆盛を感謝し、今後の加護を祈念したものである。
 昭和三年十月十七日  区長  小島鉄治
  上階段コンクリート造寄進(現階段)
   奉納者  三品玉吉・三品玉七・三品太七
 昭和六年六月八日  区長  小島鉄治
  桜並木2本  落葉松6本 神社敷地より  土功組合へ売却代金24円
   第2導水門に植樹
 昭和六年十月
  玉垣建造  玉垣材料一切  秦野甚吉寄進
   大工賃16円50銭  渡辺熊次郎・渡辺喜三郎・牧野円四郎・服部正清
                 細川斉次郎・菊地長之助
 昭和六年十月十七日
  下階段コンクリート造寄進  開村三十五年祭記念
  寄進者 中村巳之八・樋口幸吉・樋口耕平・安部川銀助・石田勝実
        長倉鶴次郎・平手宮次郎・相羽静太・山本三之助・松野和蔵
        小島鉄治・石田清美・稲垣音松・今野吉五郎
 昭和三・四年頃
  石燈籠  一対寄進  札幌軟石
  奉納者 下佐呂間  今野勝蔵
                同  嘉子(旧姓諸岡)
 昭和八年十月
 川上神社社標  寄進  札幌軟石造り
  寄進者 田島八郎・三品太七

神殿再造営
  昭和十六年十月十六日
明治四十年に造営された神殿が、約三十五年の風雨で老巧化したため、部落民一般寄附金をつのり、前神明造りそのままに造営された。
   神殿  神明造り  屋根トタン葺
    大工請負工事   渡辺喜三郎
    経費 部落民一般寄附金の外 神社積立金会計より100円を繰入した。
   拝殿増築工事  一坪半 同時に工事建築
         建築委員長  小島鉄治  副委員長  穴田助太郎
   寄附金 727円  特志寄附 30円 山崎佐市郎
 昭和十七年    会長 三品太七
  拝殿屋根  錆色ペンキ塗  経費17円
 昭和二十六年四月十七日  会長 秦野美徳
  落葉松伐採売却 十石代金3万円  積立金
 昭和二十九年十月十一日  会長 牧野光一
  神殿  拝殿鳥居 ペンキ塗り工事
 昭和三十一年五月十五日  会長  秦野 馨
  鳥居新建替工事  開基六十年記念事業
   会長秦野は、森林愛護組合長でもあり、国有林よりの払下に尽力し、三月中土場より、
   ヤチタモ材4本の払下げを受けた。
  共同事業  伐採搬出人夫  72人  馬5頭
  建設工事  大工 11人  人夫  34人
          馬    2頭  木山人  1人
  工   費  木代金  営林署へ  19.000円
  雑   費  大工・人夫外       11.980円
  合   計                 30.980円
 昭和三十三年   会長  穴田俊一
  川上神社大祭を、九月二十九日上湧別神社祭を同日にする。
 昭和三十四年   会長  穴田俊一
  大祭を十月十七日にもどす
 昭和三十七年七月 会長  樋口雄幸
  神殿階段、欄干改修工事  腐巧箇所 渡辺組
 昭和三十九年一月  会長  牧野光一
  神社護持委員五名選出 神社の世話を一任す
   委員  穴田俊一・吉村薫・山本静夫・三品太七・岡村進
  落葉松苗木植樹  500本  敷地内へ
 昭和四十二年  会長  秦野春義
 一、四月五日鳥居烈風のため倒壊す
 二、神社大祭を、九月十七日に改める(現在に至る)
 三、拝殿修繕工事  屋根破損ヶ所其の他
 四、鳥居材払下搬出事業  森林愛護組合役員秦野正弘等の協力で、
    町有林より払下を受け
    十二月十九日  東山町有林松材調査  正副会長外
    同月二十八日  松材伐採搬出す  共同事業

神社護持会結成  昭和四十三年  自治会長  三品正吉
 昭和四十三年一月七日 自治会総会で、神社の運営維持を自治会より離し、護持会を結成することに決定し、準備委員を選出する。
 準備委員 遠藤正雄・吉村薫・工藤良雄・小島鈴松・穴田俊一
                       (委員長 吉村薫)
神社護持会設立総会  一月三十一日開催
  一、毎月の月例祭並大被祭を行う。
  一、夏季神社の清掃軽い補修工事を行う。
  一、秋大祭歳旦祭は自治会長が執行する。
  一、自治会より、月例祭等の祭典費を助成する。
  一、会員は五十才以上の高令者男女全員とする。
 以上の協議が承認された。
  役員  会長  吉村  薫
      副会長  遠藤正雄
       会計  穴田俊一
  班長  山崎正康・秦野美徳・小島鈴松・秦野正弘・岡村進
       工藤良雄
 護持会が発足し毎月の月例祭の執行と、神社境内の美化清掃を、高令者が協力して行うようになった。

鳥居新建築   昭和四十三年四月五日より三日間
 前年町有林払下松材を一部製材し、
 大工奉仕者  細川勝・服部正清・秦野正昭・遠藤盛幸・渡辺寅喜
   中村薫・渡辺秀一
   自治会護持会員多数の労力奉仕で落成
 五月七日  紫つつじ山取・ストーブ松植樹

 拝殿修復工事  四十五年十月十六日竣功
    屋根、土台が腐巧しこれが修復工事を行う
   施工者  渡辺組  渡辺正喜請負工事
   経  費  護持会長吉村薫の尽力で、自治会員一般寄附金を募集
          約十万円で完成す。

神殿上屋建設工事  四十七年七月自治会長 遠藤清喜
 神殿の腐巧防止のため、上屋を建設する。
  施工業者  渡辺組社長渡辺正喜
   工事見積書は、製材代トタン代其の他で
    78.900円であったが、別途補強工事
    34.000円を加え 総計112.900円となった。
    護持会が主体となって工事推進する。
昭和四十六年十二月、高令者の四ノ一福寿クラブが結成されたので以後は福寿クラブの事業として、神社護持会を引継ぎ、維持管理月例祭等が行われるようになった。

むすび
 川上神社八十年の歴史を顧る時、入植当時屯田戸主の親達が、この地を墳墓の地と定め、伊勢神宮の御神体を奉載して、神社を創建し、依頼営々として社殿の造営、神域の清浄美化に努め、その厚い信仰が代々引継がれて来た。
 神社は里社として境内は狭く、輪魚の美はなくとも、東山の懐に囲まれ、永年の手入れによって、毛氈を敷きつめたような青苔の境内は、訪れる人々を驚嘆させている。
 我が部落の開拓神社として、祖先の労苦を偲び、永く信仰維持されんことを、切に望むこのである。

   湯殿山  山形県人と湯殿山
 
我が部落では、三十年兵(古兵)三十三戸のうち、三重、愛知、岐阜三県の出身者は、二十戸に及び、信仰の中心となる伊勢神宮の天照大神を部落神社に祭祀するには、大きな力となった。
 三十一年兵(新兵)三十六戸の出身県は、山形県十一戸の外は、十八府県から一戸乃至二戸の入植であった。 従って、山形県人のなかに郷里を偲び、湯殿山祭祠の希望が強かった。
明治三十四年四月二日  樋口日記
  神社ノ地内ニ湯殿神ヲ祭納スルコト
 以上の記事がある。 然し実際には山形県人のみの信仰で、一般の支持が受けられず、実施されなかった。
 明治三十六年三月  山形県人の発企で湯殿山が祭られた。
湯殿山  碑石  自然石(東山)台石  自然石
 裏面  明治三十六年三月吉日
 世話人 山形県 遠藤善蔵・阿部熊次郎・会田小三郎・佐藤吉蔵・東海林武助
            矢萩市次・佐藤喜久治・遠藤亀治・佐藤今蔵・井上八右ェ門
      福島県 三品丈右ェ門
 石工人  田沢(自然石に刻字)
 位置 佐藤善蔵二給地基線道路の東(現安本明、所有地)に台石の上に碑石を祀る。
毎年六月十五日を例祭日とし、県民の多くが集まり、佐藤吉蔵が祭主となり祭典を行い、郷里を偲び、お互いの親睦を深める習しであった。

開盛へ移祭する
 三十一年兵の大半は、第二給与地をサナチ原野(開盛)に給与されたため、明治の終りから大正にかけて、住宅を移す者が多く、山形県人のほとんどが、開盛に移転した。
 このため湯殿山を開盛に移すことになり、大正五年頃に、阿部忠蔵の二給地の北西隅に、(現在中村貴所有地の南)移し祠った。
 其の後開盛部落では、昭和十七年五月、西山旭が丘(町立開盛公園内)の眺望絶桂の地に移し、守本尊の祭祠とともに信仰を深くしている。

 
   平和塔  日露戦役記念碑の建立  区長  河瀬弁次郎
 現在川上神社境内に、建てられている平和塔は、明治四十年に建立された日露戦役記念碑が、その前身である。
 沿革で述べたように、日露戦役で八名の戦病死者を出した部落では、その英霊を祠り戦勝を記念して、記念碑を建てた。
 碑石は瀬戸瀬山神を祠っている東山の安山岩を、ドンコロ車で運んだ。
  碑文  日露戦役記念碑
        明治四十年十月十七日建之(右側面)
  碑石  高二・三m 巾0.七m 厚さ0.二五m
  台石  東山自然石を多数積上げる。
碑文は誰の筆によるものか不明だが、河瀬区長の書いたものとの説もある。
  刻字は記録に、記念碑文字彫  永井籐吉
  支払金5円20銭とある。
川上神社社殿の落成奉告祭と、同日記念碑の除幕式が、盛大に行われた。
 其の後毎年三月十日の陸軍記念日に、慰霊祭を行い、英霊の冥福を祈った。
大正十三年十月、神社境内拡張と、石垣の修復工事が行われ、記念碑は台石の強化のため、現在の位置に、玉石コンクリート基礎に建替へ改造が行われ、十七日奉告祭が挙行された。

平和塔に改祭
 大東亜戦で、我が部落では多くの戦死者を出したが、終戦の混乱から、日露戦役記念碑を、台上より撤去し、お祭りも遠慮していた。
 昭和二十七年四月十日、日米平和条約が発効し、戦病死者の慰霊の声が高くなった。 時の部落会長遠藤正雄、副会長田島澄蔵は部落民と協議し、撤去してあった日露戦役記念碑の文字を削り、新に平和塔の三字を刻み、元の台石の上に建立した。
 平和塔  昭和二十七年十月十七日除幕
   台に鋼板植込し、日露戦役戦病死者八名、大東亜戦 戦病死
   者十六名の氏名を刻字する。
 銘文  昭和二十七年四月十日
   終戦茲七年 平和発効日
   殉国士想起 転感慨無量
 平和塔の題字は、秦野美徳の書で、銘文は遠藤会長が屯田兵の生残り、樋口幸吉に依頼したものである。
 十月十七日川上神社大祭の日、併て除幕式を行い、戦病死者の慰霊と、平和国家の建設を誓い合った。

馬頭観世音
 馬頭さんを最初に祠ったのは、明治三十六年に、弊死した農耕馬の供養のため、木柱に馬頭観世音を祭り、毎年供養を行ったと言う。
 明治四十年、落合仲次郎の父萬右ェ門等が提唱し、東山の自然石を用い、馬頭さんを祠った。
 馬頭観世音   自然石  高約1m 巾0.6m
  裏面刻字  明治四十年旧七月十七日
  台石     自然石
  題字     当時の区長河瀬弁次郎書
  位置     中通入口南  樋口幸吉二給地
 旧の七月十五日に、僧侶により供養が行われ、以後毎年青年有志が、区内より寄附を集めて、祭典と余興が行われている。
 来ル旧七月拾五日例年ノ通リ当区馬頭観世音ノ供養有志者ニテ執行仕度
 付テハ 余興トシテ花角力挙行仕度 其費用ヲ当区ヨリ若干ノ寄附募リ度候ニ付
 何卒御許可被下成度此段有志連署ヲ以テ申込候也
 明治四十三年八月十七日
 有志者 服部安次郎・吉村秀太郎・東海林要太・岡村金太郎
       落合仙太郎・稲垣金十郎・福沢文造・秦野甚吉
 区長穴田助太郎殿
 八月廿五日決算  区長宛報告書
 寄附金総額  金11円80銭也
  花角力之部    6円78銭5厘 賞品代
  小共角力之部  壱円25銭    賞品代
  雑  費      参円76銭  和尚礼50銭他
 経費総計  金11円79銭5厘

 
201頁不明

 202頁から

 方々は、ほとんど取り上げていただきました。 晩年原野の婆様、中風で倒れ寝たきりの病状の折、母に言いつけられて、お見舞いに御菓子を持参したことを覚えています。
 羽根坂の婆様は磊落で、手製のキセル、雁首を小貝の物で作り、当時”萩”と云う四十勿目の刻み煙草を、月に三包も吸うと云うことで、鼻から煙筒の様に吹き出すので、子供心にも、入道様の再来かと思い、当時は名物婆様でした。
 御詠歌は今云う民謡の様な気持ちでありましたが、仏の供養が中心であり、御供物はほとんど煎餅の様で、御供の数量は一ちゃん(落合長男)が遊び相手で、また連絡係でもあり、御詠歌の終わるころを見て、後に座って御参りしたもので、必ず御煎餅がいただけたもので、思い出の一つでした。
 当時遠軽学田の大平饅頭、湧別落合菓子店のハイカラ餅、この餅は餅の表面に赤、黄、青の色をつけた米粒を、点々とつけて飾った餅、この品は開拓切っての主菓子で、天下一品の売行きで、これが御供えしてあるから子供にも、御詠歌が一番好きでした。
 御詠歌は一番の札所から、三十三番の札所まで、全部終わることを古老連中は、自慢したもので、一つ積んでは父の為、二つ積んでは母のためと、御詠歌の哀調は、子供心にも頭から離れなく、今思うとなかなかの教訓でした。 (吉村薫記)

相馬大明神
 愛馬倶楽部会長秦野兼松、幹部の吉村薫、遠藤正雄、山崎正康等が、馬産振興発展のため発企し、昭和十三年、相馬大明神を発祠した。
 相馬大明神  自然石碑
    裏面  昭和十三年八月建立   愛馬倶楽部
    台石  玉石コンクリート積
    位置  幼駒運動場中央      現在地
    碑文字  秦野兼松書   刻字  横幕末吉
 祭典は毎年八月十六日(新盆)に、神官を招いて、愛馬倶楽部が行っていた。 昭和三十八年愛馬倶楽部が解散して、以後は自治会がその祭典を受継ぎ挙行している。

 
   各記念碑  開村三十年記念碑    川上神社境内
   右側面  大正十五年九月十日
   碑  石  自然石(東山産) 高サ1.2m 横0.7m
   台  石  自然石  基礎玉石コンクリート積
   工  事  九月八日着工十日に落成する
 区長岡村小太郎は、この年開村三十年に当り、五月十六日記念式典を挙行した。 ついで、 祈念碑と、 皇太子殿下の行啓祈念碑が、建立された。

行啓祈念碑   川上神社境内南  北海道島内
   裏面  大正十一年七月十六日
   碑石  自然石(東山産) 高サ1.3m 横0.6m
   台石  自然石 基礎玉石積上げ
   石工  横幕末吉
   建立年月日  大正十五年九月十日除幕
   由来 大正十一年七月十六日 摂政宮殿下北海道巡行中、この日上湧別村を通過、
     官民上げて歓送迎する。 この感激を記念し、開村三十年記念事業として祈念碑
     を建立した。 区長岡村小太郎
   碑文は副区長秦野兼松の書である。
   両、石碑建立経費は、35円であった。
   昭和五十四年手洗水の上手に移設する。

水    神   開盛鉄橋下頭首工
   昭和六年十月建立(碑面右二)
   裏面  地崎組  主任 平田外次郎
                   逆井吉次郎
   碑石  自然石      春日 寅治
   台石  自然石
   由来  湧別土功組合灌漑溝工事を請負った地崎組が、頭首工(水門)幹線の竣功を記念し、水路の安全と豊作を祈って建立す。

湧別土功組合記念碑   灌漑溝第二導水門
   昭和六年十一月竣工  (注 右二)
   正三位勲一等男爵佐藤昌介書 (注 右二)
   碑石  自然石 高3m 横1.8m 地上5m
   台石  自然石 大小積組み
   台石鋼板植込み  刻字
    上段  役員並職員氏名       下段創立発起人氏名
     組合長網走支庁長茶谷 幸一     小島 鉄治
          網走支庁長島倉 民雄     穴田助太郎
          網走支庁長大橋干次郎    外二十四名
                (以下省略す)
  由来  湧別土功組合が創立されて、最大の幹線工事が、札幌市地崎組の請負で
   竣工し、その記念に建設された。
 この年川上神社境内より、桜二本、落葉松六本が、この堤防地に植えられた。

開盛頭首工落成記念碑    開盛鉄橋下手
   (注碑面横書)
水恵悠久   網走支庁長  岩田利雄書
    昭和四十二年建之
          贈 株式会社  地崎組
           北辰産業株式会社
    (注コンクリート台中瀬戸板埋込記事)
    (注  上段) 概  要
  一、昭和四年六月十二日  地区面積2.101町6反6畝を以
     て湧別土功組合設立認可
  一、昭和二十六年三月三十一日組織変更認可 湧別土地改良区と
    なる。
  一、昭和四十年五月十六日融雪期の異常高温による出水、開盛頭首
    工破損一部流失の災害を受ける
  一、同年十一月二十九日道営災害復旧工事として採択され、総工費
    93.578千円の巨費を投じてここに完成
    (注下段)
     湧別土地改良区  理事 松浦太郎外四名
                  監事 清水竜彦外一名
        上湧別町    町長 渡辺  要
                  技師 早川延幸
     設計監督
      網走支庁耕地課土地改良係
                  係長 原   透
                  技師 鎌田  一
    碑石  自然石  高1.8m 横2.0m 厚さ0.4m
    台石  コンクリート基礎
 由来 碑文にある様に巨額の経費をかけて頭首工が完成した記念碑である。

 
消防・警備  消防組  火見櫓の建設   明治四十五年
  上湧別村公設消防組が、明治四十三年に結成され、当部落から消防手が三名任命された。 部落では消防防火の必要から、四十五年の春火の見櫓の建設が協議された。
   惣代会協議事項  四十五年初惣代会
 共同事業施設方法  
 一、本門柱 新設 長弐間弐本(橋向一本南通一本)
 二、火見櫓用門柱  長六間モノ弐本径末口四寸以上(北通一本、南通一本)
 三、区内並ニ作道ノ橋渠用材 四ヶ所分
      径尺長三間十六本  長弐間弐十本  各組割当
 右作業配当ハ各組合ニ割付ヲナス
 このように火見櫓(二本の梯子組)が、共同事業で建立された。
 場所は青年会場の前である。

半鐘購入
 この年半鐘を購入し、火見梯子に釣した。
   購入金額  19円90銭也
 半鐘の銘  北見上湧別四中隊一区
 大正元年十月山形市銅町  小野田才助作

消防組の結成   大正七年  区長岡村小太郎
 沿革で述べたように、大正七年続発する火災に、部落で消防組の結成が決議された。
  五月  四ノ一消防組結成  消防手  三十三名
    部長岡村小太郎  小頭  遠藤清五郎
                 同    秦野 兼松
  六月十二日独逸式二号型ポンプ購入到着
  同  十三日初放水試験演習実施する
 この腕用消防ポンプは、本体一式の外、纏、竹梯子、差又(破壊道具)鳶、水嚢(すいのう)、提灯や、冬期間の橇などが必要であり、多額の経費を要し、二・三年かかって整備された。
 三月の予算では部落民寄附金、400円、部落財産補助150円、計550円を計上していた。
  決算では
   収入 525円50銭  寄附金外
   支出 492円97銭 ポンプ購入代外
        62円00銭 ポンプ置場
        30円69銭 祝賀会他
   合計 585円66銭
 この決算のように、ポンプ置場は部落の経費で、火見梯子のそばに建築された。

公設消防組第六部
 この年南兵村二区も同時に、腕用ポンプ(同型)を購入したので公設消防組に加入が決まり、大正七年十一月十一日に、中湧別第四部南兵村二区第五部、南兵村一区第六部の、発開式が行われた。
 第六部は青年会場で盛大に行われ、寄附収入102円48銭で、その経費は78円70銭となっている。
 湧別警察分署長より任命を受けた役員は、
  上湧別消防組第六部 部長 岡村小太郎
                 小頭 遠藤清五郎
                 小頭 秦野 兼松
 良く八年春、二区と共同で消防手の制服である、火見半纏、浅紺の股引、腹掛、帽子、火頭巾を購入配布している。

組   織
 消防組の組織は、上湧別消防組に最高指揮者、組頭一名を置き、各部に部長一名、小頭二名を、警察署長が任命した。
  第六部の組織は  部長  一名
               小頭  二名
               会計  一名
               旗手  一名
               纏係
               機械係 三名一組 三組
               破壊係
               衛生係 一名
     消防手は定員三十名で組織された。
 消防手は身体強健思想賢固な壮青年で、区長の推せんされた者が、採用された。
 服部正清談
 『消防手にはなかなかなれなかった。 欠員があると補充されるので大正九年に区長から、消防手に推せんすると通知をもらい、喜んだものです』と話している。

演   習
 消防は緊急火災の消火活動が目的であり、普段機具の整備と点検と、ポンプ操作の練習が熱心に行われた。
 消防組の合同演習の時期がせまると、会場前の広場で、勇ましい号令でポンプ取扱いの練習が、一週間以上も行われた。 機械係は三名一組で、帽子のあご紐をかけ、腹掛、股引、地下足袋姿が、号令できびきびと動作する様は、まさに部落中の花形であった。
 『急ぎー掛れっ』の号令で、三人の機械係は、いなごのようにポンプ車に飛びついて、放水菅、吸菅、ホース、押木をおろし、車の円木を上げ、ポンプを降ろす。 車を引く。 吸菅を付ける。 ホースをつなぐ。 押木をつける。 放水菅を持って走る。 アッーと云う間に放水準備が仕上げられる。
 合同演習は学校校庭が利用され、各部の整列点呼、ポンプ基本装法、急ぎ装法、服装競技、伝令競技などが行われ、後模擬火災演習が行われた。 最後に分列行進を行って終了した。
 南湧校校庭で演習が行われ、模擬火災演習の時、火元吉村商店前に煙が上がる。 気負い立って待つ各部は、半鐘の一打を聞くや、一斉にポンプの前網を引いて、校庭から校門へ駆出す。 狭い橋に我先に殺到し、競合って、一大のポンプ車が消防手もろ共、アッとゆう間に川に転落する。 不思議に一人の怪我もなく、直くポンプを引上げ。火元に曳きつけ、放水する。 勇壮な演習であった。
 我が第六部は、大正十一年一月六日の出初式に、成績優秀として道庁より名誉ある、金馬簾が授与伝達された。
 この時の第一機械係は、渡辺喜三郎、中村辰平、服部安次郎であった。
 正月恒例のでぞめしきは、祥天股引姿で、役場前に六部全部が勢揃いして、華々しく梯子乗の曲芸が披露された。

警備の任務
 消防は単に防火消防のみではなく、河川の水防や、部落一般警備の役に当る。 重要な任務があった。 大正の末期、網走監獄の脱走囚人事件当時は、命がけの覚悟で、夜間の見廻り、歩哨に立つなど、数日続いたと言う。 このように警察署の指揮による、治安維持の任務を兼ねていた。

経   費
 
消防ポンプ一式、其の他の備品は、部落で購入し、その儘公設消防組に寄附し、以後は村費で、消防夫手当、被服、備品、消耗品費が支給された。
 昭和二年の記録によると、区費徴収額240円90銭の内、消防慰労費15円、消防組織補助40円、計55円が支出されている。
 提灯の張替、ローソク代、被服の修繕代、部内演習の費用などが主な経費であった。
 大正十四年 消防番屋新築 部長 渡辺喜三郎
  ポンプ置場が手狭なため、青年会場前に、木造平屋 柾葺 二間×三間六坪
  床板張、建築費50円 酒外10円 計60円
 大工  渡辺喜三郎

火の見櫓新設   昭和三年四月十五日
 今までの火のみ梯子が老巧したので、新に四本柱の火の見櫓が建てられ、この長材は、当時上湧別消防組の組頭である、秦野兼松がきふして、組員が鍛冶屋の沢から切り出したものである。 建舞は二本の柱を組み、掘った穴に二組を建て、高さ五間の頂上で梁を掛け、組合わせる危険な作業だった。
  昭和七年んしちが津 消防番屋移転する
  消防組第六部は、幾多の功績と思出を残し、昭和八年七月、公設消防組の改組により解散し、共進消防団に引き継がれた。

役員名
年度  部 長  小     頭 
大正 7年     岡村小太郎    遠藤清五郎・秦野兼松 
同  9年  遠藤清五郎  秦野 兼松・渡辺喜三郎 
同 11年  秦野 兼松  渡辺喜三郎・細川斉次郎 
同 13年  渡辺喜三郎  細川斉次郎・安部川銀助 
昭和 4年  細川斉次郎  安部川銀助・三品太七
同  6年  安部川銀助  三品 太七・遠藤清治・岡村進 
同  7年  三品 太七  遠藤清治・岡村進・服部正清
同  8年  岡村  進  遠藤清治・服部正清・山本静夫 
八年五月現在の部員
石田清美・阿部利五郎・佐藤寿喜・石田勝実・東海林武雄
穴田俊一・長倉元治・渡辺謙吾・三品一男・幕田善一・鳥井茂
工藤良雄・吉村薫・吉田吉雄・安部川清司・安本庄一
菊地滝之助・牧野光一・小関文司・渡辺正喜・秦野馨
中村嘉一・三品栄・平手直利・樋口国男・松野政喜・工藤政雄
市村一恵・平間勇
   

公設消防手

 昭和八年七月、第六部を解散し、新たに共進火防団が新設されたが、当部落から公設上湧別消防組に、消防手として次の者が、選抜されて入団し、以来警防団、消防団の現在まで、引続き部落から選抜勤務している。
牧野光一昭8〜18  渡辺正喜昭8〜9     秦野馨昭8〜12
牧野政喜昭8〜17  鳥井茂雄昭8〜19    樋口真幸昭9〜
秦野春義昭10〜18 三品正十郎昭22〜35 秦野松寿昭22〜36
工藤辰雄昭28〜50 秦野哲男昭32〜現


   共進火防団  消防組の改組
 昭和四年、遠軽町に消防自動車が購入され、その機動力と偉力に秦野組頭等幹部は、酒井村長や村議会に働きかけ、昭和八年二月の村会で、消防自動車二台の購入と、上湧別消防組、中湧別消防組の組織が議決された。
 五月に今までの六部制を廃し、新たに上湧別消防組、中湧別消防組が設置された。
 我が第六部は、昭和八年七月十二日総会を開き、消防組の解散式と、新たに四ノ一共進火防団の創立総会を行った。

共進火防団設立
 消防組第六部の所有する、手押ポンプ其の他一切の機具備品及建物、被服などを火防団に引継ぎ、部落立の私設火防団となった。
 団則では、団員は三十五才までの青年男子、定員は三十名 役員は団員の互選による。
  団長  一名  小頭  三名  会計  小頭兼任
   各通りに班長を置き、機械係三名一組、三組を選任、旗手、衛生係などが置かれた。
 解散式に第六部会計から、宴会費23円46銭を支出し、85円を消防組員の慰労のため、旭川市に開催の国防博覧会観覧の補助として支給された。
 この八月に開かれた国防博覧会には、旧消防組員二十六名、新団員六名、計三十二名が参加した。
 火防団の組織、任務は消防組と変わらず、春秋二回の演習をはじめ機械繰連の練習、防火査察、水防演習、又は部落内警備などであった。

主なる事業
 昭和九年   火防団旗購入 火防団名入袢天衿付(11円52銭)
      提灯代14円30銭
 昭和十年   火防番屋外修繕18円70銭 衛生カバン購入 火防
      水防演習実施
 昭和十一年 水防団結成(火防団全員)水防デー 水防小屋建設
      21円50銭 旧開盛橋付近 水防鳶 金具、柄、 制作29円
      20銭
      七月二一日 産業視察青年団と共進北見方面
      九月二六日〜二九日  天覧リンゴ 卸下賜リンゴ 警備
      十一月火防井戸設置計画樹立、予算480円 火防井戸設置費
      造成のため、堤防地雑木払下を受け 伐採作業
 昭和十二年 資金造成のため砂利採取事業
      一月火防井戸設置委員による計画樹立
      堤防地雑木 売上益金55円99銭
      八月二日  団長岡村進 団員遠藤正雄出征
      十一月二日〜一五日まで 火防井戸三基掘削
      水防団旗購入す
 昭和十三年 秋火防井戸掘削  三基
 昭和十五年 火防井戸掘削    三基
      三月二八日秦野兼松 住宅火災出動
 昭和十五年五月  火の見櫓新設工事
 昭和三年建立の火の見櫓は、その後根元をコンクリートで巻き、補強していたが、老巧が著しいため再建工事が決定した。 地下に水松材を埋め、その上に五間余の柱を継ぎ足し、櫓の四囲を板囲にし、腐朽を防ぐことにした。 頂上は元の屋根組を使用した。 二組の梯子組を建て、この頂上で櫓に組む作業には、流石の若い者も尻込みして登る者がいない。
 この時穴田の戸主が 『誰もいないか、それでは』 とするすると登って、目のくらむような高さで最初の梁を組んだ。 この年穴田助太郎は六十四才の高令で、部落民は只目を見張るばかりであった。 渡辺謙吾、秦野正弘、平間勇等が登って組み上げたと言う。

火防井戸設置計画
 消防組が改組され、昭和九年に自動車ポンプが購入された。 農家の掘抜き井戸では、水量が不足で特に冬期は、役に立たなく、不便な位置が多かった。
 団長岡村進は火防井戸の設置を計画し、昭和十一年の秋、その資金造成のため、湧別川堤防地第一導水門より二十四号線間の、白揚柳、外雑木の払下を、治水事務所に申請した。
 その認可を受けて、伐採した処以外に収入金が多かった。 昭和十二年一月六日の、団総会に提案し、現在までの積立金90円と、伐木売却収入金80円を合せ、170円を基金とし村、並に部落の補助を要請し、火防井戸九基を掘削設置することが議決された。
  協議事項 昭和十二年一月六日団総会
一、区内火防井戸設置の件
   別冊計画書通り之ヲ一般部落総会ニ提案シ設置委員会ヲ設ケル事トス
   本事業ハ大演習記念(昭和十一年陸軍特別大演習北海道にて)
   トシテ之ヲ計画スルモノトス
 部落の総会でこの事業が承認された。
  火防井戸設置委員   七名
  委員長  区長 小島鉄治
  委  員  細川斉次郎・岡村進・穴田俊一・東海林武雄
         渡辺謙吾・牧野光一(公設消防手) 樋口雄幸
  設  置  区内九ヶ所 南通・中通・北通各二ヶ所・本通り三ヶ所
  三月一日 小島委員長外委員全員と、部落袢著9宇竹内連勝立会で、ヶ防井戸設置場所の検分に廻り、九ヶ所を決定した。
 この年日支事変が激化し、団長岡村進が八月二日応召したため、後任穴田俊一団長の指揮で、十二月二日より井戸掘工事に着手、十五日に三基が完成した。 当時は村費で、上湧別小学校庭、中湧別小学校庭にヶ防井戸が設置されていたのみであった。

火防井戸工事
 このヶ防井戸は十二月、一月の渇水期に掘り、木枠は七尺の鉄道枕木の不合検品を買い、縦二ッ割を板に、横割を柱にして、七尺角、高五尺の枠を、鉄ボート、折釘で、枠組をした。 この枠を水没するまで、揚水ポンプで水を汲み上げながら掘り下げるものであった。
 先づ雪を広く除き、スコップ・ツルハシを使って六m及至七m四方の穴を掘り出し、深くなると板敷の段を造り、二段はね、三段はねと掘り下げて行く。 多数の団員でも、水の出るまで一日かかった。 水が出ると枠を入れて揚水ポンプで、水を汲みながら、枠の深さまで掘り下げるのに一日がかりであった。
 枠の上に厚板を乗せ、コンクリート管(内径二尺一寸長三尺) を枠穴に合せて積み重ね、土を埋めもどすのである。 三日乃至四日で一基が仕上げられた。 火防井戸九基を昭和十五年完了した。
 設置場所とコンクリート菅使用数
一号  安本正蔵前  七本 
二号  幼駒運動場前  六本 
三号  北通入口北  五本 
四号  南通遠藤庄一前  五本 
五号  同  鳥井始前  六本 
六号  中通市村一恵前  六本 
七号  同  吉村薫前  六本 
八号  北通樋口耕平前  五本 
九号    同  小島鉄治前   七本 

火防団役員名
 年 次   団  長     小       頭   会計(小頭) 
昭和 八年  
同   九年
同   十年
同 十二年

同 十三年
至 十六年 
岡村  進
岡村  進
岡村  進
岡村  進
八月ヨリ
穴田 俊一 
渡辺 謙吾
 
服部正清・山本静夫・穴田俊一
東海林武雄・山本静夫・穴田俊一  
東海林武雄・山本静夫・石田勝実



東海林武雄・石田勝実・渡辺謙吾
三品一男・吉村薫・山崎正康
 
遠藤清治
服部正清
穴田俊一

 

穴田俊一
樋口雄幸
 

警防団
 昭和十四年一月に警防団令が公布され、本村の公設消防組は、四月から上湧別警防団、中湧別警防団と改名された。
 然し私設の火防団は、そのまま火防団が継続されていた。
 昭和十七年、部落会館組織の強化にともない、村から部落警防団として、取り扱われるようになって、はじめて共進警防団と称した。
 戦争は苛烈となり、団の幹部や若い団員が、次ぎ次ぎに応召入営し、団員定数三十名を確保出来なくなり、十七年の部落総会の承認を得て、年令を四十才まで引上げた。
 銃後の後援、部落の治安、火防、水防は勿論、防空演習や訓練など、臨戦体制の強化に当った。
 昭和十九年から二十年にかけて、北海道にも敵機の襲撃が激しくなり。 村役場棲上よい全村へ、サイレンで警戒警報、空襲警報が伝達され、部落警防団では半鐘を打鳴し、部落民に急報し、団員は交替に軽微に当った。
 後には警報の伝達が遅れるため、警防団幹部が直接ラジオを聴き警報を出し軽快に当った。 二十年夏には基線道路両側に、約一町おきにタコ壷穴を掘ったり、各戸に防空壕が掘られた。 八月に入って火の見櫓に、空襲監視硝を設け、団員交替で監視を行った。
 二十年八月十五日終戦となり、出征応召中の団員が漸次帰郷した。

概   況
 昭和十七年  一月応召入営で団員不足のため年令を四十才までとする。 
           二月防空演習
 昭和十八年  二月五日〜十五日、二十一号線湧別川防水三脚枠設置
           工事協力、五月湧別川洪水出動
 同   八年  六月二十日午后九時、警戒警報 下湧別沿岸防備隊より   
           二十二日解除
           十月二十日 南澱粉工場火災出動
           十一月二十七日午前三時 竹内連勝住宅火災出動五時鎮火
           跡始末
 同  二十年  六月二十六日午前二時 警戒警報発令
           六月二十七日 空襲警報発令
           八月七日 空襲監視硝設置 部落会場
 同二十一年  四月二十五日 四ノ二石田繁小屋火災
           八月十一日 中湧別市街火災出動
           十一月三日 遠藤庄一風呂場出火出動
 同二十二年  二月七日 上湧別厚生病院大火出動
 同二十三年  一月四日 四ノ三野田実畜舎火災出動
 同二十四年  四月 大雪の雪解増水の応急対策に、基線道路つき当り
           湧別川護岸出動
           十月三日 二五号 二六号間湧別川治水工事 玉石運び蛇籠
           入れ協力

警防団役員
 年 次    団  長     副団長      小  頭        会  計
 十七年  樋口 雄幸  山崎 正康  三品 一男・小関 文司 菊地滝之助
 十八年  樋口 雄幸  山崎 正康  穴田 俊一         小関 文司
 十九年  秦野 美徳  五月吉村薫  工藤 良雄
                 樋口 雄幸  吉村  薫          小関 文司
 二十年  秦野 美徳  樋口 雄幸  吉村  薫・三品  栄   安本  明
                          山崎 正康
二十一年  遠藤 正雄  秦野 美徳  三品  栄・山崎 正康  菊地滝之助
二十二年  牧野 光一  秦野 美徳  三品  栄・山崎 正康  菊地滝之助
二十四年  秦野 美徳  田島 澄歳  樋口 雄幸・山崎 正康  三品 正吉
                          遠藤 清喜

 
 
戻 る   戦後の火防団  火防団に改名
 
戦時中の警防団は、戦后二十二年四月に消防法が公布され、本村では七月消防団設置条例、消防団員服務規律などが施行されて、上湧別消防団が発足した。 然し部落の私設警防団は、そのまま放置されていた。
 昭和二十四年五月一日、共進火防団と変更したが、内容は全く同じであった。
 昭和二十五年一月十三日 総会にて
 一、定年の変更について
   部落の総会で火防団員の定年定数について、論議あり、団として、
   次ぎの通り決定する。
 一、昨年まで四十才定年としていたが、これを廃し、満十八以上の
   者で定員三十五名を確保すること
 この結果実質的には、三十三才位まで、年令の引下げとなった。

五月一日の大火   昭和二十五年
 二十五年五月一日は 朝からフェーン現象下の生暖かい風が吹き、不幸にして部落始まって以来の、大火災が起きた。 以下火防団の記録を述べる。
五月一日  火災出動  団長 安本明
 場所 当部落 細川斉次郎 渡辺善三郎宅
 五月一日午前八時頃、細川斉次郎宅より発火、時に蒔付の最中で
 附近に働く団員、ポンプと共に時を失せず、現場に到着せるも当時の
 天候は近年に無い天気続きで、乾燥せるため、すでに住宅は猛火に
 包まれ、手の施し様もなく、馬屋其の他へも飛び火、まもなく渡辺氏
 住宅にも発火。 全員部落民と協力、渡辺氏宅に全力を尽くす。 
 上湧別、中湧別消防団、二区、三区、各団も協力せるも、ついに及ば
 ず両家共に全焼せり、この間打人日頃の訓練を発揮、団長の指揮に
 したがい、消火搬出等に協力せる事を認められる。
 場所 三区  斉藤氏外
 この頃より穏やかなりし風は強風となり、残火を警戒中、三区の火災
 発見、寸時にして他家に飛火、急を知りたる団は、一部団員ポンプを
 置き、警戒にあたらしめ出動す。
 夜警戒のため、本部を青年会館に置き、交替にて不寝番を置く。
 残火二・三度火を出したるも消火する。
五月二日  火災跡片付け 部落民と協力、両氏宅の清掃に協力する。
 部落中を驚倒させた、細川渡辺両家の火災は、消防組結成以来最も
 大きな災害であった。

消防団・火防団連合演習
 昭和二十七年六月十八日 上湧別小学校庭にて、初めて全村の公設消防団と、火防団の連合演習が開催された。
 これに先立って四月十七日午前八時から、火防団では春季演習を開き、上湧別消防組の竹原副団長、片岡宗雄、長谷川尚富、秦野馨機械係の指導で、機械操作の練習、水勢試験等が行われた。 又連動演習前には、一週間全員が午后五時より七時迄で、練習を重ねた。
 連合演習の競技結果は
 共進火防団  一位優勝旗授与(総合点)
  機械基本操作  指揮号令 遠藤清喜
    機械係 東海林武敏・阿部岩雄・石田敏雄
  機械急ぎ競技  指揮号令 阿部  太
    機械係 松野末松・服部照明・吉村邦彦
  其他競技  百米仕度競走 今野吉美・河瀬一恵
          ホース巻競走 阿部岩雄・細川公雄
 この年より村費で、火防団員の被服に補助を出して、二ヶ年で全員の新しい制服が整備された。
  昭和二十八年九月十八日  団長三品正吉
     火防番屋新築  青年会場の増築工事に併せて建築
      二間×三間  六坪
 七月一日 連合演習 機械競技  二位

競技授賞紛争
 昭和二十九年六月二十五日 上湧別小学校庭で、町消防、火防連合演習が開かれた。
 我が火防団は、機械操作や、急ぎ捜査が一位であり、其の他の競技も優秀であったから、団員一同は一位優勝を確信していた。
 ところが演習最後の好評と擬賞で、二位と発表された。 おさまらない団員は、採点表の再検を申立た処、計算のミスで共進火防団が一位であることがわかった。
 然しこの時は賞状授与が終っていた。 怒った団員達は、二位の賞状を返し、秦野消防主任、野田係長に激しく抗議、紛糾したまま帰った。 慰労会の席上、主任と係長を呼んで話し合ったが酒の入った団員を怒らせ、混乱を深めるだけであった。
 この紛争解決のため、部落会長牧野光一、町議会議長遠藤清治等が、町に話をし、正式に採点のミスを訂正させることになった。
 七月三日 町消防団火防団長会議開催
    連合演習競技採点の訂正が承認された。
 七月七日 共進火防団臨時総会開催
    遠藤町議会議長、野田消防係長が出席、部落会長牧野光一、顧
    問樋口雄幸・安本明が立会
    経過の説明と町からの陳謝挨拶があって、団員一同納得し、ようやく紛争が解決した。
 その後も毎年の連合演習には、一位二位の好成績を上げていた。
 しかし町当局は、毎年競技がエスカレートし、成績採点の方法で、紛争が絶えないので、採点擬賞は昭和三十三年で中止した。
三十年九月八日   湧別川増水出動 
九月十三日   四ノ二城岡小屋火災出動 
三十一年五月二日   ヌッポコ沢熊沢山林火災出動 
三十二年五月九日   佐藤寿喜住宅小火出場 
五月二十三日   中土場川出水出動 
三十三年四月七日   札富美大川火災出動 
四月二十日   四ノ三浅井小屋火災出動 
三十四年二月十九日   各火防井戸ざらへ掃除 
四月一日   鳥井茂雄土蔵火災出動 

動力消防ポンプ購入  昭和十五年より
 
昭和十二・三年に掘った火防井戸は、其の后地下水の低下で、冬期は特に水不足となり、加えて動力ポンプに変わり、役に立つ井戸が少なくなったので、新たに火防井戸の掘削が計画され、町では補助金を出すことになった。
  火防団では五ヶ年で、六基掘削した。
三十五年二月十日〜十二日   基線工藤良雄所有地
三十六年一月十一日〜十二日 基線二十三号南樋口所有地
同   年二月十一日〜十二日 北通入口掘直し

三十七年一月十日十一日    北中通秦野三品境界
三十八年一月十二日十三日   北通牧野幸一前
三十九年一月十一日十二日   南通東一線角

退団者町表彰
 昭和三十六年十二月五日 火防団長会議で施設の火防団でも、地域警備消防活動に永く勤務した団員には、その功労を表彰してほしいと要請し、十五年以上勤務の退団者に、町長の感謝状を贈呈することに決定した。
 翌三十七年の連合演習の場で、はじめて永年勤続退団者に、町長の感謝状が贈呈された。

規約の変更
 三十六年 (1)団員数定員三十五名を三十名に改める。
        (2)腕用ポンプの使用を止める。
 四十年   火防団顧問を自治会、正副会長二名と改める。

ポンプ搭載車の購入  昭和四十年
 昭和四十年に入ると、一般農家でも小型トラックを使用する者が増えて来た。
 動力消防ポンプの機動力を増すため、石田敏雄団長等幹部が、自治会に要請し、中古の小型トラックの購入が決定された。
  四十年九月七日
    小型トラック購入  日産キャプライト
     ポンプ取付工事を行う
  四十一年一月四日  入魂式  上湧別神社
 こうして自動車搭載により、機動力を増したが中古車のため四十二年一月に、エンジンが故障、使用不能となった。 団長穴田寿之等は自治会に代替車購入を要請した。

ポンプ搭載自動車寄贈   昭和四十二年
 要請を受けた自治会会長秦野春義は、自治会の負担は困難であるとし、火防団長幹部と共に、渡辺組社長、自宅を訪問し、小型トラックの寄贈を懇請し快諾を得た。
  四十二年五月十八日  渡辺組社長より寄贈
   日産小型トラック(キャプライト)寄贈受領
   五月二十日  入魂式  超総合演習終了后
    祝賀会  町長、自治会長外役員、火防団員等70名出席
     渡辺正喜社長へ感謝状贈呈する。
  新車の寄附を受けて、火防団の機動力は充実し、トウハツポンプ並に自動車の機能試験を兼ね、毎月、一日、一五日の二回の演習を行い、不時の出動に万全を期している。

定年延長される
 昭和四十三年一月の自治会総会で、火防団員が減少し、今後も補充の見透しがないため年令を四十五才までに、引上げが議決された。

火の見櫓取壊し サイレン塔建立
 昭和四十六年十月四日、火の見櫓が老巧化し危険となったため、これを取壊が行われた。
 これに替わって、サイレン塔が建立された。
 この年、永年使用した独逸式ポンプ一式を、町郷土資料館へ文化財として寄贈した。

車庫新築  昭和四十六年
 四十六年十一月、会館新築記念に、渡辺組社長渡辺正喜より寄贈される。 平屋トタン屋根角波トタン張二間×三間シャッター戸

火防井戸再編掘削工事
 冬期地下水の低下で井戸水も切れる状態が深刻となり、火防井戸も又渇水のため、掘直しが必要となった。 町では火防井戸掘削の経費を補助し、団員の労力で掘削の計画を樹て、四十五年から、五十二年までに、十三基を設置した。
  四十五年一月  石田誠前渡辺組ショベル
  四十六年一月  会場前
  四十七年一月  岡村・長柄農協センター間
  四十八年一月  二四号線石川信一前
  四十九年二月  酒井清・工藤武境界
  五十年一月    南通細川横(掘直し)
    同        中通吉村薫前
    同        北通石田勝利前
  五十一年二月  本通岡村稔前
    同        南通東一線東
    同        中通市村照子北側
  五十二年一月  北通小島鈴松東
    同        本通二三号北 石川信一土地
 この工事はブルドーザー・ショベルの機械力を使って行われた。

四十九年の風害
 十一月一日夕方、火防団定期点検作業中、折柄の烈風で、車庫の屋根が吹飛され、サイレン塔が倒れる被害が出た。
 翌二日車庫屋根の復旧工事と、サイレン塔の再建工事が行われた。
  サイレン塔  山崎正康寄贈古電柱

消防ポンプ新購入  昭和五十一年
 消防ポンプが古くなったので、町費半額補助で、新たにポンプを購入した。

  
消防ポンプ  ラビット・森田ポンプ会社(旭川)
 四月十七日  到着受領
 四月十九日  入魂式 来賓町長・遠軽警察署長・町議会議長・
           自治会長

団出動事業
 三十五年五月四日     笹島南汽車飛火火災出動
 三十六年三月二十二日  四ノ二岡和田豚舎火災出動
 同   年四月二十八日   四ノ二城岡豚舎火災出動 
 三十七年四月三日     四ノ三菅野倉庫火災出動
 三十九年十月四日     屯市農協職員住宅火災出動
 四十年六月一日       四ノ三宮島子住宅火災出動
      八月十四日     四ノ三町営ゴミ捨場出動
      十月十四日     開盛秋葉住宅火災出動
    十二月十三日     屯市平間板金火災出動
 四十一年五月十九日    四ノ三小島・内田住宅火災出動
 四十一年十月十五日    部落会館小火、発見早く消火
 四十二年八月二十六日  屯市高橋正義住宅火災出動
       十一月二十一日 中湧別松寿し火災出動
 四十三年三月二十一日  三品玉吉小屋小屋火災出動
       十二月二十一日 開盛火災出動
 四十五年六月十七日    岡村進りんご貯蔵庫火災出動
 四十七年五月十八日    池内工業乾燥工場火災出動

火防団役員  戦後
   
 年 次   団  長   副団長  
二五年 安本  明  田島 澄蔵 
二六年  穴田喜代治   田島 澄蔵 
二七年  田島 澄蔵   三品 正吉 
二八年  三品 正吉   阿部  太 
二九年  阿部  太   遠藤 清喜 
三〇年  遠藤 盛平   遠藤 清喜 
三二年  服部 照明   遠藤 清喜 
三三年  遠藤 清喜   松野 末松 
三六年  遠藤 清喜   阿部 岩雄 
三七年  阿部 岩雄   小関 文男 
三九年  小関 文男   阿部 岩雄 
  五月阿部岩雄   穴田 寿之 
四〇年  穴田 寿之   石田 敏雄 
四一年  石田 敏雄   穴田 寿之 
四二年  穴田 寿之   吉村 邦彦 
四四年  吉村 邦彦   牧野 勝一 
四六年  穴田 寿之   三品  勲 
四七年  吉村 邦彦   牧野 勝一 
四八年  牧野 勝一   三品  勲 
四九年  三品  勲   秦野 正則 
五〇年  竹内東洋児   秦野 洋一 
五一年  秦野 正則   安本 明雄 
五二年  安本 明雄   三品  勲 
五三年  牧野 勝一   三品  勲 
五四年  三品  勲   佐藤 松幸 

 
戻る  災害史 死亡者第一号
 
沿革の項で述べたように、明治三十年五月屯田兵第一陣の、武州丸の船上で男子誕生。 愛知県出身服部熊次郎の弟で、船長が武修と命名した。
 服部一家は喜びの中に、五月二十九日当地に入地した。 未完成の兵屋の整備、荷物の整理や、兵屋周囲の整地などに忙殺されていた。 六月一日、長旅の披露から、祖父定七が死亡した。
 入地僅かに四日目であった。 湧別兵村死亡者の第一号であり、墓地の割当が出来ていないまま、第一区墓地の一番目の墓地に埋葬された。
 船上で男子出生の喜びと、入地四日目に祖父の死去に会う悲しみとが相つぎ、我が部落としても、喜びと悲しみの永い歴史の第一頁であった。
 以下部落の災害について、概略を述べる。

 
   水 害  重なる水害
 我が部落は、湧別川が東山の麓から九十度の急角度で西山に向かって流れる、下手に当たる。 未開の当時は、川岸まで木が繁り、大雨の時は原野の低地を、一杯になって流れた。
 春の雪解け水、夏秋の大雨には毎年のように洪水を起こし、数多くの水害を受けた。
 明治三十一年九月七日  大洪水
   全道的暴風雨にて被害甚大(沿革に詳記)
 同三十四年九月十日  長雨大洪水
   一区被害浸水反別三九町四反  橋流失二ヶ所
 同三十九年五月  湧別川融雪洪水
   開盛橋北側半分流失  (開盛橋流失の項詳記)
 同四十年五月   湧別川洪水
   開盛橋全部流失  九月渡船となる(別記)
 同四十二年五月八日〜九日 湧別川融雪洪水
   サナチ川が溢水、開盛部落全体を流れる 湧別川二十七号上手
   より、安本二給地を横断して流れ、最も多くの被害を受けた。
 被害調査  区長報告
  被害調査  種目   反別   被害額
安本喜代八 薄荷畑   六町歩   175円浸水
         畑     三町五反 140円肥土流失
         畑     二町五反  35円畑見込ナシ
         薪     百 敷   100円
         水車           150円諸道具家屋
安本庄蔵   薄荷畑   八反歩    64円
         麦畑    二反歩    35円肥土流失
         柾葺家屋 二十坪   薄荷小屋六十坪
福田仙次郎 裸麦    一町二反 菜種 二反歩
         薄荷畑   一町一反 苹果木  三十本
         畑地上土流失  二町二反歩
中野弥作   作土流失 一町五反歩
秦野兼松   給与地流失 一町歩  公有地流失一町二反薪十敷
阿部四郎   薪五五敷  用材二石  農具プラオ一台  鍬一
        鋸二  熊手一  畑流失  三町五反歩
穴田助太郎  本年道庁配布魯桑苗式百本流失
  総計では              以下省略
 一、肥土流失荒地となった面積  二四町九反歩
 一、耕作地作物被害面積総計   五八町五反歩
 丸瀬布、白滝、生田原原野の奥地開拓が進に従って、湧別川の水害が多発し、四十四年四十五年と、大きな被害を受けた。
 四十四年五月の雪解水で、二十六号、二十七号間の決壊が多く、浜見橋の橋脚を流し、これが架替工事が行われた。

四十五年の大水害  十月七日公書抜粋
 『湧別川ハ常呂川ト其性質ヲ異ニシ、元来砂利川ニシテ従ッテ勾配急ニ所々乱流ヲナシ、将来益々荒廃セントスル傾向ヲ有ス (中略)野上駅ヨリ上流ハ欠壌氾濫ヲ見サルモ、下流ハ別図面ヲ示ス如ク、湧別村二十七号二十四号十一号六号五号四号及ビ三号ノ七ヶ所ニ於テ欠壌氾濫ヲ生セシノミ、就中二十七号ハ河身変更シ耕地内ニ新川筋ヲ作リ現在ハ本流ヲ形成シ、本川中被害最モ甚敷箇所ナリトス』
 この年は春の雪解出水で、湧別川二十七号から、安本代八治の二給地を横断し、大部分の耕地が可流地となったが、八月下旬の長雨強雨で、二十七日には大洪水となり、とうとう本流となって河筋が二つとなった。
 この為急遽、基線道路を東山麓に廻し、渡船場を二十八号線に変更した。  (沿革に詳記)
 その後大正五年五月七日八日、融雪の大洪水に見舞われ、堤防の改修や、護岸工事が行われた。

大正十一年大洪水
 八月下旬に入って連日の雨が、暴風雨となり、二十三日の夜から湧別川が増水し、二十四日朝には大洪水となった。 開盛鉄橋から一気に押しよせる濁流は、基線道路上手の堤防を溢れて流れはじめた。 もし堤防が上手で破れれば、一区部落のど真中を一なめにして、河が出来る最悪の事態となった。 部落総出で堤防に土嚢を積み重ね、防水工事に努力したが間に合ず、危険状態となった。
 当時役場職員であった樋口幸吉は、区長岡村小太郎、消防部長秦野兼松等有志と、緊急協議し、現、工藤敬蔵裏を通る旧河川の堤防位置で、堤防を切って水流をここに集めることに決した。
 一刻を争う時で、消防部長秦野兼松は服部正清等消防手数名を連れて、安本信蔵宅に駆けつけて、避難救助に当った。 堤防は切られて濁水は二十五号線で、基線道路を越えて、ごうごうと流れだした。
 安本家では (当時現場堤防附近) 若い者は出動して、年寄りと女子供が残っていた。 秦野等消防手は、年寄りや子供を背負い、女の手を引いて、基線道路の股を越す急流を、ようやくの思いで救助することが出来た。
 安本明は、消防手の背中に負れて、濁流の中を超えた恐怖の記憶を、昨日の出来事のように話をしている。 秦野兼松は道警察部長より人命救助で表彰を受けた。
 この洪水は開盛鉄橋の橋脚を破り、堤防を切った濁流は、岡村裏手から、四ノ三部落の真中を流れ、五ノ一では中土場川と合流して兵村内を通り、中湧別市街を一面水浸しとした。
 明治三十一年の大洪水以来の大洪水で、多くの耕地を荒廃地とし収穫前の農作物の被害は甚大であった。
 其の後河流は変わり、堤防工事の強化で、大きな水害は出なかった。
 然し毎年のように春の出水や、夏秋の大雨で、湧別川沿いの耕地の決壊を除くため、出動する異が多く、昭和十一年には、水防団を結成し、水防小屋の設置、水防鳶の整備など災害の発生防止に努めたのである。

 
topへ   火災、水難其の他  主なる出来事
 
明治三十九年二月二十四日  火災
  
岡村小太郎・栗木重太郎 住宅厩舎火災 岡村 舎より失火し
   住宅を全焼、隣家栗木住宅へ燃焼住宅全焼する
 明治三十九年           水難
  三十九年春湧別川の氾濫で、開盛橋の半分が流失、半分が流下
  傾斜してしまった。 遠軽のお祭りとかで、能勢の娘と佐藤喜代
  治の妹二人の三人が、壊れた開盛橋を手を連いで渡るうち、川
  に落ちて遭難。 佐藤の姉は背中に風呂敷を背負っていたので
  一人助かり、二人は水死する悲惨な事故となった。
 明治四十年七月二十四日    火災
  加茂勘蔵・佐藤安蔵住宅馬舎火災全焼
 同四十四年三月 稲垣兼吉住宅・小島鉄治馬屋全焼馬二頭死
 同     年五月 加茂留吉・馬舎火災
 同四十五年    福田仙次郎住宅 舎全焼火災
 大正三年六月   高浜子之八 掘立住宅全焼 岡村小太郎裏
 同  七年三月  汽車の飛火により火災
    相羽静太住宅(空屋) 小島鉄治馬屋全焼
 同  九年九月三十日
    遠藤盛  村祭競馬騎上中事故にて死亡
 大正十二年十二月 小田井亀次郎小屋火災
 昭和六年七月十八日
    野田政治住宅馬屋全焼 幼児一名死亡
 昭和七年六月十八日
    今野吉五郎住宅馬屋全焼(北通東端)
 同年七月十七日          水難
    東海林スエヨ・広  勇 三名で蕗取りに二十三号上手の湧別
    川を馬車にて通行中流されてスエヨ、勇の仁明水死す
 同十年七月二十八日
    火口真幸開盛橋跡湧別川原へ草刈り帰途河中にて馬車転覆し、
    馬もろ共水死す
 同十五年三月二十八日暁方   火災
    秦野兼松裏の小屋より失火、住宅共に全焼、まだ雪が残ってい
    る暁の火災で、消防組員部落民が駆けつけ、消火にあたり、馬
    舎への延焼を食い止めたが、少し家財道具を出しただけで、二
    階建住宅全焼す。
 同十九年十一月二十七日午前三時
    竹内連勝住宅(二十四号線西側)火災全焼 消防、部落民協力
    五時鎮火、導水門住宅転居馬屋修理手伝す。
 同二十一年十一月三日 遠藤庄一風呂場火災
 同二十四年三月四日    佐藤弘義鉄道事故死
 同二十五年五月一日    区内大火災
   細川斉次郎・渡辺善三郎住宅 畜舎・納屋・作業小屋等全焼・
   細川家幼児一名死亡
   この日朝からむっとする生温いフェーン現象の中。 午前八時過ぎ
   細川家に火の手が上り、一早く半鐘の乱打でポンプ出動したが、
   折から南の風が烈風となり、あっと云う間に住宅・畜舎を一なめに
   し、道路こしに渡辺家に延焼した。 渡辺家の井戸に入れたポンプ
   も頭から火災をかぶり、脱出するのがようやく、南西に変風で乾燥
   しきったりんご畑の草や、堆肥に燃えうつり、中通遠藤清治の住宅
   畜舎に、火の粉が舞い落ちる事態となった。
   南兵村二区、三区、開盛のポンプは勿論、上湧別、中湧別の消防
   車も出動、必死の活動で他への延焼を、やっと防ぎ止めることが
   出来た。 両家の住宅畜舎など八棟の建物が、僅か三十分足らず
   で全焼した。 この火災で細川家の幼児一名が、逃げ遅れて死去
   するいたましい事故となった。 この余塵も収まらない、十一時過
   ぎ、南兵村三区斉藤賢宅より出火し、三戸が全焼する。
   本町で最悪の日であった。
同二十三年五月四日
  小田井哲二の娘正江が暴風雨のため切れた電燈引込線にふれ、
  感電死する
同二十六年五月二十八日
  細川稔男の幼児、家の前の灌漑溝に落ち水死す
同二十七年五月五日
  遠藤庄一幼児、灌漑溝に落ち水死す
同三十年九月二十九日
  工藤良雄一家食中毒  不幸に二児死亡
同三十四年四月一日
  鳥井茂雄土蔵内部火災
同三十六年七月十四日
  田島清一中学二年 生田原豊里にて汽車事故、両下肢切断の重
  傷を受け、部落民の輸血協力で快癒する。
同四十三年三月二十一日
  三品玉吉小屋火災

topへ   農業災害・凶作  大正二年の大凶作
 北海道開拓史のなかで、今日まで語草となっている大正二年の大凶作は、夏季の寒冷と秋の早霜のため、全道的に未曾有の大被害を受けた。
 上湧別では、夏季の寒冷に続き、八月十六日降雹があり、特に開盛方面の被害がひどく、九月中旬の降霜で大凶作は決定的となった。 わずかばかりの水稲栽培で、籾摺りを禁止し前年の籾の貯蔵を奨励している。
 当時本村では、薄荷栽培最盛の時代で、穀類其の他の食用作物が比較的少なく、特に開拓日浅い移民は食糧に困窮し、生活はみじめなものであった。 この年の暮早速救農工事を実施して救済にあたり、翌大正三年一月、上湧別村凶作救済会を設立し、窮民救済に当った。

救済事業の顛末  大正三年事務報告
 本村ハ薄荷栽培ノ名声と共ニ近時ハ 移住民頻来シ昨年ノ如キ移民四百五十七戸 人口千四百二十九人ニシテ 是等ノ多クハ着手後レトナリ 稲黍ノ如キ秋作物ヲ主トシテ耕作セシニ凶作ニ遭遇シ収穫皆無ノモノ多ク 且ツ先住者ノ多クハ主トシテ薄荷栽培ヲナシタル為雑穀ノ余持ナク 随テ他ニ融通スルヲ得サルガ故ニ 罹災民ハ食糧欠乏シ塗炭ニ苦ミ 漸ク木炭を製出シ又薪材伐ヲナシ或ハ瓜甲ヲ造リ辛クモ露命ヲ撃キツツアリシガ、 是等ノ業務モ其生活ヲ維持スルニ足ラズ 困窮日追テ悲惨ノ極ニアリシヲ以テ 上湧別村凶作救済会ナルモノヲ興シ 慈善家ノ同情ニ訴ヘ寄附ヲ仰ギ以テ窮民救済ノ実ヲ挙ゲント開始セラルルヤ 北見救済会ノ設立セラレタルニ依リ、 之ト合併スルに至レリ
 寄附金ノ募集ハ各青年会之ガ其衝ニ当リ今日迄募集シタルモノハ現金百弐十七銭物品ノ換算百四円九十三銭 其他ハ目下募集中ニテ救済会ニ於テ救助シタル延数六十四戸、人口三百五十二人ナリ
 二月十日村会ニ於テ救済ノタメ土木事業ヲ起スコトトナリ 其総額六千四百円中三千二百円ハ起債ニ待チ 三千二百円ハ土木費ノ補助ヲ受ケテ土木工事ヲ施行シ凶作罹災民ヲ救済スルコト、ナリ、同月廿日工事ニ着手(中略) 工事ハ六月尽日ヲ以テ略完了シタルヲ以テ第二期検定ヲ申請中ナリ、 本工事ンニ就業シタルモノ四百七十五人 一戸当労賃十三円五十銭弱ニ達セリ
 此外別表救済事業調ノ通リ 国費地方費等ノ事業ヲモ施行セリ(注砂利敷工事二〇四立方坪 九一四円三〇銭) 此工事ニヨリ得タル労銀ハ時々支払セルニ非サリシモ便宜各商店ニ極メテ安価ニ特約シ労銀ノ一部ヨリ其日ノ口粥ニ差障ナキ程度ヲ以テ伝票ヲ交付シ 物品ノ供給ヲナシタルヲ以テ窮民ハ梢々生活ニ苦シマサルニ至リ 為メニ本年ノ播付モ支庁指命第一二八号ニ依リ 就業資料(注種物トシテ)ヲ受ケタル者三百十一戸ニ対シ(本文ヨり列記)
 稲黍一〇石七二五合  大豆七石七四〇  小豆四石八五二
 蕎麦一七石弐七〇合  金時六石七七〇  鶉豆六石七七〇
 玉蜀黍四、七五〇    小麦五、〇〇〇   裸麦二九石七〇〇
 馬鈴薯二、八二一貫
ノ給付ヲ受ケ 第二回目トシテ北海道凶作救済会ヨリ八百二十五円ノ交付ヲ受ケ
 裸麦二〇・五石  大豆八・八石  小豆一・九九石  馬鈴薯八俵
 蕎麦一〇・一石  鶉豆九・五石  玉蜀黍八・石ヲ買入レ 二一三戸ニ配当ス
御下賜金品
 天皇、皇后両陛下ニハ昨年凶作ノ趣被聞食 御救洫トシテ御下賜相成タル農具鍬壱挺ホー壱挺迄(柄付)柄ニハ御下賜品ノ四字ヲ烙印シ、四百八十三戸ニ対シ兼重村長ヨリ親シク 御聖旨ヲ伝達シ 御下賜金参銭九厘宛モ前様授与セラレタリ (以下省略)
 部落の記録によると、両陛下の御下賜金品は、大正三年六月十一日北海道罹災者に下賜され、本村では七月二十一日区長が拝受して当部落では御下賜農具と慰問袋を、二十六戸に渡されている。 又一戸三銭九厘の御下賜金は、全戸村の勤倹共成組合に貯金積立られた。
 本村で受けた慰問袋は、衣類二一五袋、食料品五三六袋、仁丹十銭袋四四〇袋、米麦入二七五ヶ、薬袋三一袋、外米一俵、味噌二樽、平麦一俵、正油一樽
   救済工事内容     三年二月二〇日より六月まで
 基線  七号〜十二号  砂利敷一一二坪    四四八円
 基線十二号〜二九号   同   八〇〇坪  三、二〇〇円
 基線二九号〜六号駅迄 同   四八〇坪  一、九二〇円
 この外救済会の八百円で、生田原、丸瀬布、白滝、フミ等で砂利敷工事を行う。

大正十三年 ブランコ毛虫大発生
 前年山野にに発生したブランコ毛虫が、十三年大発生し、野山の樹木の葉を食い荒らし、遂に果樹園に蔓延して、りんごの木に青い葉のない惨害を与え、実は落果して収穫皆無となった。 秋には越冬の毛虫の卵が、樹の又や住宅の軒先窓の縁に、隙間のない様に生みつけられた。 翌十四年も大発生したが、寄生蜂の発生で、ブランコ毛虫は絶滅した。
同年八月十二日 早魃雨迄祈願 川上神社にて
昭和二年五月十九日  湧別川掘割附近にバッタ大発生 部落全員出動 麦棹等で焼却駆除する。

十五号台風  昭和二十九年九月二十七日
 あの洞爺丸の参事を起こした十五号台風は、 道南から北海道のど真中を北上し、オホーツク海に抜け、台風として北海道に未曾有の惨害を出した。
 二十七日の夕方六時に『津軽海峡に猛烈な台風接近中、厳重警戒を要す』 とラジオニュースの後急に南西の風が強まり、ついに九時に停電となった。 一晩中家をきしませ土台まで持ち上げるような烈風の中、収穫間近のりんごの落果を覚悟し一夜を明かす。
 いまだ烈風の中夜明を待ちかねて、戸外に出ると、道路上までりんごが散乱している。 真赤に色づいた旭も、真青な国光も全部落ちている。 何十本かのりんごの大樹が根こそぎ倒れている。 驚いて部落中を見廻れば今野吉五郎の住宅は屋根が飛ばされて無く、一家は一晩中水田の畦蔭にかじり付いて夜を明かしたという。 部落中で家屋の被害は、半壊、今野吉五郎、佐藤寿喜、渡辺謙吾、畜舎全壊細川斉次郎、その他屋根の傷んだものや、煉瓦の煙突の倒れたものが多く出た。 直ちに役場に通報其の日の内に、修繕用割柾を遠軽、丸瀬布で買入れを行わせた。 りんごでは皆無、水稲は三分作、其の他多くの被害を出し、忘れる事の出来ない台風であった。

昭和三十一年大凶作
 本町で昭和七年土功組合の灌漑溝が竣功して、水稲栽培がはじまり、三年に一度は不作凶作の年があったが、昭和三十一年の凶作は全道的に多くの被害を出した。
 七月八月が低温続きで日照不足、八月二十頃には大凶作が早くも決定的となった。
 八月三十一日、全町を挙げて、冷害対策町民大会が上湧別中学校屋体で開催し、緊急対策、恒久的対策要請を決議し、後筵旗を立てて、市街を行進し、役場に集合気勢を上げた。
 この年水稲小豆菜豆収穫皆無麦類半作で、この凶作を境にして、本町の農業経営は大きく転換をはじめた。

降雹被害
昭和四十二年八月十八日
 南兵村一区全域、 二区開盛一部降雹被害甚大
 この日十一時過ぎ、西山に暗雲がかかり久しぶりの雨と思う間もなく、雲は部落を覆い一陣の冷風と共に、ガラガラとトタン屋根を叩いて、二糎、三糎に近い大粒の雹が襲来し、約十分近くも降った雹と云うよりも氷塊で、軒下に積もった雹は翌朝まで残っていた。
 特産のりんごは傷穴がつき、南瓜の実に傷をつける無惨さで、水稲はじめ菜豆類の被害は多く、実りはじめたスイトコーンの葉はずたずたに破れてしまった。 傷ついた旭などは腐敗しはじめ、晩生種も又、圧傷となって約半分は売物にならなかった。
 その後水稲の転作が進み、耐冷寒地作物を主体の経営に変わり、冷害による凶作は、軽い被害となった。

りんご腐爛病の激発
 昭和四十年代に入り、りんごの腐爛病が多発し、あらゆる対策がこうじられたが、蔓延を止められず、廃園する者が増加した。
 四十八年以後は、幼木園まで蔓延し、被害は全域にわたり、つぎつぎと廃園伐採し、りんご栽培最盛期には、約八十町歩のりんご園が、五十四年末には十町歩足らずに激減した。
現栽培者  三品正吉・三品勲・三品昌一・秦野正則・穴田寿之・
   阿部岩雄・樋口雄三  七戸

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