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産業
  経済
 
 畜  産    明治30年5月29日、屯田兵が初めて入植したが、この年に土産馬が数頭飼われた。
  明治34年7月  人畜物件統計表
             第一給養班 35戸
  馬     39頭
  プラオ   12台
  ハロー   9台
  馬車    19台
 この統計表のように、34年7月には、1戸1頭の馬が飼養されていた。 当時は土産馬で、乗用や運搬用に多く使われ、37,8年頃から、洋種種牡馬の種付事業が行われ、次第に産馬の改良が行われた。
 
      種牡馬の導入
 秦野兼松は特に馬産に熱心で、宅地に広い牧柵を設け、10数頭の馬を育成し、種牡馬の貸付を受け、種付事業を行った。
 明治43年、種馬第三ベーベル号   秦野兼松
         種馬北寿号トロッター種 鈴木穏恵
 秦野は宅地で、鈴木は開盛橋附近で、渡船を請負のかたわら、種馬事業を行っていた。
大正2年  種馬第11ツウンパー号  秦野兼松 
大正3年 交尾料1頭 10円也  35頭種付 
年代不詳 種馬 湧星号  秦野兼松 
   〃 第7ベーベル号  秦野兼松 
   〃 天竜号  秦野兼松 
大正10年 種馬第11ガスバラン(ペル系)  秦野甚吉 
 秦野兼松は以上の種馬を大正10年頃まで繋留して、種馬事業を行っていた。
 こうした種馬事業も、湧別種馬所、遠軽種馬所が充実強化され、生れる産駒も良い事から、民間の種馬事業も停止した。


軍馬購買
 大正3年屯田市街で、始めて軍馬購買が、釧路軍馬補充部支部長等購買官を迎え、盛大に行われた。 軍馬の購買は、乗馬適格のむずかしい検査に合格し、御買上となると、普通相場の3倍4倍の値段となった。 このため町村や郡畜産組合は、品評会を開き、産馬の改良振興に努めた。
  大正4年8月28日〜29日  屯田市街地
  網走外3郡畜産組合主催  当歳馬品評会
  出陳頭数  管内より98頭
  審査員  北海道庁農業技手  津田信寿
   〃    十勝種馬牧場員    熊谷万太郎
   3等入賞 北天号         岡村小太郎

競 馬
 屯田兵現役時代から祭典余興として、競馬が行われた。 明治43年秋、上湧別競馬会が結成され、以後毎年競馬が盛んに行われた。
 大正6年10月16日〜17日に行われた競馬は、遠く旭川、頓別、渚滑、常呂、斜里などから出場馬があり、当時の地方競馬の騎手は専門騎手であった。 村内出場馬の記録は、
 兼重正夫、中張籐吉、塚本乙次郎、城岡作之助、福田甚吉、山崎佐太郎、秦野兼松、市村儀三
村内8頭の内半数が、我が部落であった。
 こうして部落内でも、馬産の熱が上がり、軍馬や、農耕馬の生産が盛んに行われた。


愛馬倶楽部の結成
 網走外3郡畜産組合の、代議員を勤めた秦野兼松は、部落の馬産振興のため、当時若手の熱心家、吉村 薫、遠藤正雄等を糾合し、昭和6年、共進愛馬倶楽部の結成を計った。 部落の青年は殆ど会員となり、産駒の育成や、又耕馬の購入には役員が世話をして、良馬の選定に協力した。
 昭和7年南兵村部会は、馬産振興のため、部落財産地の中隊本部跡地、8町5反9畝を、競馬場として上湧別村に寄附した。
 この事から愛馬倶楽部では、岡村小太郎(区長)、秦野兼松、吉村 薫、遠藤正雄等が、兵村部会に強力に運動して、昭和8年秋、幼駒運動場敷地として、部落財産地、1町6反2畝歩(現四ノ一公園)を無償で貸付を受けた。
 其の後倶楽部員の出役で、立派な幼駒運動場が整備され、戦後まで長く使用された。


馬の思い出   吉村  薫記
 四ノ一部落の馬の生産は、明治末期から、秦野兼松氏の第四初椿号の、出張種付けの世話に始まり、大正初期第三ベーベルス号、湧星号、天竜号の種付所として、又馬商も致していた関係上、城司12,3頭の馬を繋留していた。
 其の後秦野甚吉氏が、種馬重種ガスバラン号の出張種付所として、世話をしていました。 当時軍馬の買付が盛んになり、価格も上昇し、各戸競いて飼育頭数も多くなりました。
 秋の祭典余興には草競馬が盛んになり、特に両湧別が盛大で、部落では市村喜次郎、山崎佐太郎氏の飼育馬が出場で、血を湧かしたもので、秦野兼松氏が騎手として活躍したのも、この時代でした。
 大正7年野付牛(現北見市)に第一回共進会が開催され、上湧別代表として、多くの出陳馬の中から、穴田助太郎氏所有馬、ハクニー種牡馬、菊花号が共進会2等賞の栄誉を上げ、万丈の気を吐いたものです。 この頃から中間種が盛んに飼育される様になり、岡村小太郎氏のハクニー種、吹雪号が、代々名馬を生産しました。
 当時中間種には、トロッター種、ハクニー種、アングロノルマン種と、種々雑多でしたが、昭和5,6年頃よりアノ系が、他の中間種に比して、一、骨量に勝る 二、粗食で飼育される 三、極寒に耐える 四、仕事感がある。 などの利点をあげて、アノ系一本の奨励でした。
 我が部落は、重種、雑種が多く、品評会にも入賞はほとんどなく、毎年の品評会は五中隊3部落の独占的入賞で、部落の馬飼育者は、切歯扼腕ただ傍観の体でした。
 当時農家の収入は、7,8百円が最上の状態で、2才馬1頭、軍馬で百7,80円で最上2百円程度、畜産組合種馬買上で、3百円から4百円止り。 共進会最上位牡馬1等で、農林省種馬買上げで壱千円、酒4斗樽の鏡を打ち抜いて、一般参加者に馳走する盛大な共進会風景でした。
 毎年の種馬配合検査では、軍馬並みに種馬の買上で、外国産と内国産種馬とでは格段の差があり、外国産種馬の配合合格者はは、部落に帰って祝盃を上げていました。
 当時アノ系種馬として名を上げた名馬は、外国産ヴオクルール号、エミグレ号、オリジナル号、ユーニコロール号いづれも名馬でこの系統が足跡を残しました。
 我が部落では昭和10年1月、馬持ち連中の総会を開催、走馬の改良を計ることに決定。
 名称 四ノ一共進愛馬倶楽部と称す。
 目的 走馬の改良をはかること。
 事業 一名10円出資積立すること。
     一ヶ年5頭先着申出者に融通する。
     交換又は買入には役員に申し出、良馬の入替を計ること。
     春秋2回乗馬隊を組織し近村を旅行し愛馬心の高揚に勉め、不幸死亡馬には会員応分の香典を送ること。
 以上当時の会則ができました。
 創立役員に遠藤正雄、山崎正康、鳥井茂雄、工藤良雄、小関文司、吉村 薫が選出され、初代会長に大先輩の秦野兼松氏、相談役に岡村小太郎氏の顔ぶれで出発しました。
 資金は1戸10円でしたが、1回分として半分の5円でお願いしました。


幼駒運動場
 満州開拓の為、走馬が飛ぶ様に売れた時で、酒井村長、今野畜産係の熱の入れ様は格別で、産駒運動場の造成には、小型でも馬政局より200円程の助成金がいただける話がまとまり、東山の官林より楢材の払下を受け、製材しました。 場所は岡村小太郎氏の尽力で話が進み、当時部落財産であった2町歩の土地を開放していただき建設する事に決まりました。 3寸角6尺物の柱、横木は巾3寸厚さ1寸5分材料で、2廻りの牧柵の幼駒運動場が出来ました。
 凹凸の土地でしたので、造田用のずりで埋立する箇所もあり、なかなか困難でしたが、倶楽部員一同で3日間の出動で、立派に完成しました。 2百円助成の中、80円程で野田木工場の支払いを済せ1百2十円の残金と出資金2百円、合計3百2十円程の資金が出来、当時産馬の改良に大いに役立ちました。
 この運動場に毎朝、2才馬の飼育者が放牧し大変助かったものです。
 昭和11年第1回の乗馬隊を組織し、下芭露より西芭露を過ぎ、遠軽廻りで近村視察し、第2回目は、昭和13年同じく乗馬隊で野上より瀬戸瀬を経て発電所視察と云う里程にて、愛馬心の高揚に努めました。
 昭和11年の品評会では、工藤良雄、小関文司両氏の奮斗実り、1等賞の1席2席を競い、湧別での管内2才馬共進会では、1等2等の優秀な成績で、四ノ一共進愛馬倶楽部ありと、大いに気勢をあげた。 これが手本となり今野畜産係は、各部落に愛馬倶楽部の結成を促すなど、我が倶楽部員一同面目を上げました。
 同11年代表の畜産組合代議員木村滴造氏が辞任し、村1名の代議員に、四ノ一愛馬倶楽部で、秦野翁を推薦する事に決定し、南兵村に協力の運動を起こしました。 その後馬商連中が、松浦清五郎翁を選出し、2名の出馬でなかなかの激戦でしたが、見事当選、部落初めての代議員を、送り出すことが出来ました。

相馬大明神
 昭和13年、相馬大明神建立の話が進み、健康馬持続する様、供養塔の建立に決定しましたが、なかなか良い石の見当がなく、1日秦野翁と共に東山に行き、26号線附近に土中に埋もれていた石を見つけ、掘出してみると、大変良好で、その辺で台石も見つけました。 石工は横幕末吉氏の手により、題字は秦野翁の筆であり、見事に出来上がりました。
 この年の祭典余興に、落成記念の班対抗挽馬競技が行われ、、盛大な行事でした。 細川斉次郎翁の馳馬の立乗り、馬場一周の名技、また挽馬競技では、第3班松野末松、源蔵両氏の持ち馬の大奮斗で、湧勝は北通に凱歌が上り、盛大に終わりました。
 昭和17年、種馬配合検査には、北見種馬所(遠軽)村上所長の特別来場し、南兵村区域(四ノ一、四ノ二、四ノ三、屯市、開盛)の配分検査会場に当てられ、当日岡村小太郎翁の座敷を解放し、盛大な感謝を兼ねた歓迎には、村上所長も感激され、酒井村長殿の馬政方針に最大の祝辞があり、今思うと、感慨無量のものがあります。
 馬産に熱心な酒井村長は、今野畜産係同伴で、役場出勤前自転車で激励に廻ったものです。 昭和初期20円の優良牝馬保留金を、昭和12年日支事変勃発し、軍馬の買上げや、他町村に売却するのを防ぐため、40円に引上げた保留金は、この時見るべき助成でした。
 現在農家の畜舎も、今は納屋又はりんご取込所と変わりましたが、昭和12年、畜舎建築に始まり、大工頭領渡辺喜三郎翁の設計によるもので、、下で馬を飼育し、2階に1ヶ年の飼料と寝わらを上げて飼育が出来るなかなか便利なもので、競って建築したものです。
 これは産駒生産が、農家の最大の収入であり、産馬黄金時代を思い出される建築物の一つであります。

飼    料
 馬産の振興はこれに供なう飼料の事を、忘れてはならんと思います。 上湧別は湧別町あっての馬産の改良であり、湧別町の馬は丁寧から、川西野津牧場、沼の上小向迄、広大な湿地原は、馬の飼料が密生して、上湧別の馬持連中は競って買求めたものです。
 5把一つにして頭をしぼったものを1島という。 これは丁度娘の島田に似た所で、これを1島という名が作られたと、湧別の古老から聞かされました。 始め1島を、2,3銭で買い求められたが、買手が多くなるにつれ5,6銭に上がりました。
 雪が降ると運搬に行く、悪い草でも近くの便利な所は高く、良い草でも道の遠い所は安く売らなければならない。 草原には谷地坊主が有り、1尺8寸の馬橇では、右に左に返り、ついには積直すという有様で、一家で1週間以上は運搬にかかりました。
 それでも馬糧には充分でなく、餅黍の稈、薄荷桿を切り混ぜて与えたもので、薄暗い提灯の火をたよりに、押切りで切るので、当時指を切った人々が、たくさんいたもので、馬産事業もなかなか大変な事でした。

授 賞 馬

昭和10年 当才管理品評会  3等  春風号  三品玉吉 
昭和11年  管内共進会  1等  春姫号  工藤良雄 
 々 年     〃 2等  第2スター号  小関文司 
     〃 3等  第2リリー号  吉村 薫 
昭和12年  管内共進会  2等  ほまれ号  山崎正康 
   〃 共進会  3等  空知畜産組合買上  吉村 薫 
   〃 共進会  2等  山桜号  秦野兼松 
昭和13年  共進会  3等 双葉号  渡辺正喜 
昭和14年  品評会  3等  朝風号  渡辺謙吾 
  〃  品評会  3等  潮風号  石田勝実 
  〃  共進会  3等  栄進号  平手直利 
昭和15年  共進会  2等  三日月号  渡辺正喜 
  〃  共進会  3等  第4リリー号  吉村 薫 
昭和16年  共進会  3等  上川畜産組合買上 日の本号  吉村 薫 
昭和17年  品評会  3等  第1誉号  山崎正康 
  〃  品評会  3等  良陽号  三品玉吉 
  〃  共進会  3等  第1日高号  岡村 稔 
昭和18年  品評会  3等  第5リリー号  吉村 薫 

戦後の馬
 終戦後は軍馬の買上もなく、保留金制度も廃止され、馬の生産も後退の一路をたどり、他部落では酪農経営に切り変わり、真に愛馬家のみが生産する様になりました。
 種馬所もなくなり、1町村では品評会も成り立たず、網走管内で3,4ヶ町村を選び、品評会並に共進会を開催する様になりました。
昭和29年 品評会  4等  春風号  三品 栄 
30年  品評会  1等  曙号  秦野春義 
32年  品評会  1等  (遠軽)竜世号  三品昌一 
34年  共進会(遠軽町)  3等  春風号  三品昌一 
35年  品評会(遠軽町) 1等  栄春号  三品昌一 
36年  品評会(遠軽町)  2等  栄勝号  三品昌一 

輓馬競走
 戦後は農耕馬が主体となり、大型馬の飼養に変り、網走管内でも各所に輓馬競技が開催され、上湧別神社祭典の余興に、上湧別商工振興会主催の輓馬競走が開かれ、近隣町村の輓馬の名馬が集まりました。
 最後の呼び物は、部落別リレー大競技で、優勝旗が授与されました。
昭和27年輓馬競技出場馬  豊栄号鹿毛 工藤辰雄、松風号鹿毛 市村一恵、初姫号青色 鳥井茂雄、朝風号鹿毛 渡辺謙吾 
昭和34年 輓馬競技
 三流馬優勝
 
第5リリー号栗毛 吉村邦彦 
昭和36年 輓馬競技  三才馬優勝 初姫号青色 鳥井茂雄 
昭和41年 佐呂間町
競馬競技
 
三流馬優勝 照姫号栗毛  岡村 稔 
昭和43年 遠軽町
競馬競技
 
三流馬優勝 旭号鹿毛 渡辺光雄 
昭和47年 上湧別
輓馬競技
 
部落対抗リレー競技 優勝
初姫号栗毛 吉村邦彦、初姫号青毛 鳥井茂雄、照姫号栗毛 服部照明、椿姫号栗毛 石田敏雄
 
 部落出場の輓馬競技は、この優勝旗獲得が最後の記録として残るでしょう。
 昭和48年代に入り、農業の機械化が進み、1年ごとに馬の飼育が減少し、44年農協では、6号線の種付所高橋喜次郎氏に、1頭の種馬に減少した。
 47年馬産に熱心な、岡村 稔氏が農協より委託で、種馬1頭を飼養し、町内はもとより遠軽、瀬戸瀬まで、出張種付けを行っていたが、3年ばかりで廃止となりました。
 昭和50年1月 飼育者調べ
 工藤 武、安本明雄、竹内東洋児、石川信一、三品 勲、服部照明、鳥井茂雄、吉村邦彦、石田繁雄、佐藤義幸、牧野勝一 以上11名
 52年には最後の工藤 武、安本明雄両氏もついに売却し、四ノ一部落では1頭の飼育者もなくなりました。 今は黄金時代を築いた話題も農家の脳裏より遠く去り、栄枯盛衰も一つの物語りとなりました。
                以上 吉村 薫記

愛馬倶楽部の解散   昭和38年
 昭和38年1月、自治会の総会の席上、遠藤正雄から発言あり、現況から倶楽部を解散し、自治会に統合を計り、承認を得た。 5月12日総会を会館で開き解散した。
 歴代会長  秦野兼松 工藤良雄  吉村 薫 遠藤正雄 鳥井茂雄 岡村 稔

 
戻る    乳 牛   エアシアの飼育
 大正12年秦野甚吉、秦野兼松が、エッシャ種(赤牛)を購入、自家用として搾乳をはじめた。 我が部落乳牛飼育の最初であった。
 秦野 薫、美徳の話では、南湧校の小杉校長や、庄田医院等注文者に、通学の途中牛乳瓶や、1升瓶に入れて配達したと言う。
 当時は近くに種牛がいなく、一番近い所で社名渕の家庭学校まで、種付けに通った。 秦野兼松は大正14年、道庁の甜菜振興補助規定で、乳牛飼育振興のため、種牡牛の貸付を受けた。
 道貸付種牡牛 エッシャ種
  第11キャバリエルス、エキスプレッション号
 この種牛は2年足らずで、上富美山口元免に譲り、両秦野の牛飼は、4,5年で止めた。
 昭和5年10月、遠軽に酪連工場が新設されたので、村農会では有畜経営を盛んに奨励した。 昭和6年鳥井 茂が、ホル系雑種を初めて導入し、次いで三品 榊、山本静太が乳牛の飼育をはじめた。 其の後道の補助牝牛制度で、牧野光一、阿部利五郎、吉村 薫、渡辺喜三郎等が購入飼育をはじめた。
 昭和10年に入って、各戸別に遠軽工場に生乳を運ぶことは、労力的に無駄が多いとして、集乳分離所設置の相談が成立った。


集乳分離所  昭和10年春設置 前記7人組
 元野田政治の風呂場を購入し、現吉村真己宅地の一角を借用。 9尺×2間の建物を建てる。 産業組合や清水尚彦の斡旋で、手廻セパレーター(中古品)を購入、冷却桶、薪ストーブ、湯わかし釜等を揃える。 薪は各自持ち寄りであった。
 持ち寄った牛乳を、戸別に湯沸かしで適温に温め、手廻しセパレーターにかけ、クリームに分離し、秤量して輸送缶3,4個に入れ、交替で運搬中、馬に馳けられ、馬橇が転覆し、輸送缶の蓋が抜けて、クリームが流れ出すなど、苦しい経験が思い出される。 又菓子の好きであった三品 榊が、時折買って来て皆んなに振る舞った菓子の味は又格別であった。
 昭和12年頃の乳牛飼育者
 山本静夫、樋口雄幸、阿部利五郎、渡辺正喜、牧野光一、三品 榊、鳥井 茂、工藤良雄、三品一男、三品太七
 しかし、果樹と水田耕作を主とし、狭い兵村内での乳牛飼育は困難で、2,3年で大半の者は飼育を止め、共同集乳分離所も閉鎖した。
 昭和13年春、樋口は遠軽より型框を借り、町内はじめての簡易サイロを建設し、翌14年には鳥井 茂がブロックのサイロを建て、エンジレージの給飼をはじめた。 15年から中湧別工場に出荷していたが、鳥井が満州開拓団に転出し、樋口も又乳牛の飼育を止めた。 これが当部落乳牛飼育の最後であった。
 昭和40年代に入って、鳥井茂雄が育成牛や、肉用牡犢の飼育を試みたが、現在では1頭もいない。
 
    養 鶏   昭和35年2月11日調 第2休養班 34戸
  雌 78羽 雄 147羽 計225羽
 以上の記録があり、屯田兵現役時代から、鶏の奨励から、ほとんどの農家が飼っていた。
 大正の末期から市街の発展や、交通の便から、鶏卵の消費が伸び自家用の外に販売養鶏が成立つようになった。


共進養鶏貯蓄組合  昭和3年4月10日設立
 秦野甚吉、遠藤清治等が発起して、昭和3年4月、共進養鶏貯蓄組合が設立された。
 組合長 秦野甚吉  副組合長会計 遠藤清治
 役  員 石田清美、石田勝実、市村喜次郎、安本庄蔵
 部落の飼養者全員が組合員となり、鶏卵は組合長秦野宅に集荷し、共同販売した。
 集荷日 毎月 5,10,15,20,25,30日
 当時はプリマスロック、名古屋コーチンなど、1戸2,30羽の飼育で其の後白色レグホンが入り百羽飼育者も出て来た。 集荷日には、手籠などに卵を入れて、中通本門西側の秦野宅に持ち寄ったものである。
 販売業者は、屯市、柴山商店、中湧別林商店であった。 売上金の1割は、各人毎に備考貯金として積立て、組合員の希望に応じて貸付をなし、その利息で貯金の利息に充当した。
 その後上湧別産業組合が、集卵販売事業を強化するに及んで、昭和9年2月3日総会を開いて解散した。 貸付未収金は役員の責任で昭和11年12月残務整理を完了した。
 その後も副業的に、養鶏が進められた。


大型養鶏計画  吉村 薫記
 終戦後畜産は、軍馬の買上なき為、農耕馬一本となり、他部落は酪農に切り変わり、四ノ一部落では、馬は種付けせず農耕一本の農家が多くなりました。
 日ごとの用品買求めすら困難の状態の折、29年9月、開村以来歴史的にも名高い、15号台風が北海道を襲い、北辺の果樹地帯上湧別も、果樹は総落果、収入皆無、加えて水稲作は冷害により3分作で、明年の種子を、上川農協に御願いしたほどでした。 農家の惨状極度に達し、目も当てられぬ有様でした。
 当時農家の養鶏は、2,30羽がすべての有様で、50羽飼養者は2,3名位で、養鶏貯金組合を造り、卵集荷は日取りを決め、1ヶ所に集卵のことにし、月掛け貯金を奨励した有様でした。
 この事から同志相計り、大型養鶏事業を起こすことに相談まとまり、最低18坪、コンクリートブロック造り2階建て、階上は板張り、鶏の育成と云う方針で、近隣町村の模範的飼育場を見学しました。
 最低の見積でも、1戸5万円で、5戸25万円の捻出に困却しました。
 当時農協の運営も困難で、借用が出来ず、最後に石田町長の口添えにより、遠軽信用金庫より5人連帯にて、25万円借用が出来ました。
 渡辺光雄、鳥井茂雄、山崎正康、阿部利五郎、吉村 薫
 このような顔ぶれで出発し、31年春渡辺組に依頼建築、立派に落成をみました。
 同年各戸約百50羽の雛の飼育に力を得て、32年度より3百羽目標の運営に望みをかけて、階上階下の2段の飼育に努めました。 飼料は自家製で小麦、燕麦、唐もろこしの混合飼料を造り、馬鈴薯、野菜も飼料に併用し、当時は自家製の為か割合に分止りも良く前進が出来ました。
 約十ヶ年近く経済の大難時代を切り抜けて参りましたが、労働力の不足や、植え込んだりんごの成長もあり、ついに終止符を打つことになりました。
 昭和37年、大型養鶏を計画、農協にも飼料の運搬車まで用意して奨励のことで、遠藤正雄、岡村 進両氏が、最新鶏舎を施設し、モデル式経営で前進し、居りしも、39年遠軽より、専門家の酒井 清氏が、部落6班に入居するに及んで、いよいよ熱がかかり、遠藤氏は最高8百羽、岡村氏は4百羽、酒井氏は最高1千5百羽の飼養により、最高度の経営家でした。      (以上吉村 薫記)


養鶏友の会結成
 遠軽で孵卵育雛事業を行っていた酒井 清(元北見孵卵場長)が昭和39年小関文男の転出跡地に入り、育雛養鶏事業を始めた。
 これが刺激となって町内熱心家を集めて、昭和43年養鶏友の会を結成し、3百羽5百羽の多頭羽飼育を目指した。
 上湧別養鶏友の会  昭和43年
  組合長 遠藤正雄
  会  員 遠藤正雄、岡村 進、酒井 清、鳥井茂雄、工藤敬二、阿部 太
  五ノ三  内匠貞雄、加藤重治、月脚正三
  フミ    片桐英蔵
  屯市   瀬古 肇
 これ等の人々は、ケージ飼方法を取入れるなど、根強い近代養鶏へ努力したが、近代的大企業養鶏に太刀打ち出来ず、4,5年後には、町内から養鶏の影が消えてしまった。

 
    家 兎   兎は早くから、子供の愛玩用や、小遣取りとして飼育されていた。 満州事変頃から、軍用毛皮として兎の飼育が奨励され、又衛生試験用にも需要が多かった。
 村農会は副業として、青年団員の飼育を奨励し、優良種兔の斡旋や、販売にも力を入れていた。
 昭和8年 養兎組合結成 組合長 片桐英蔵
 富美片桐英蔵が村農会の奨励、補助金を受けて、300羽収容の兎舎を建て、村養兎の中心として優良種兎を生産し普及に努めた。
 その後日支事変などで軍需用品とし購買が行われ、村農会守口技術員の指導で飼育が盛んになり、昭和14年頃から部落内で各戸が飼い、学校生徒にあつかわせた。 16年頃から各部落で購買が行われた。 穴田寿之は当時小学生で、40数羽を飼い、養兎組合長伊藤寅彦より、優良種兎生産の表彰を受けたという。
 昭和20年春、村農業会長(村長)が組合長となり、上湧別村養兎組合が結成され、各部落に支部が設けられた。
  四ノ一支部長  渡辺善三郎
  主な飼育者 渡辺善三郎、伊藤寅彦、秦野正弘、工藤敬蔵、穴田寿之、石田清美、石田勝実、外共進青年団員学童
 種兎試験用兎購買  昭和20年8月6日〜8日
  南湧青年会場、共進青年会場、明徳青年会場、旭、北湧青年会場、北湧支所
 以上の階上で購買が行われ、当部落でも多くの頭数が買上された。
 昭和22年農業会では、村外から130頭の種兎を購入斡旋している。
 その後は何戸かの飼育があったが、昭和30年代には全く影を消した。
 
    緬 羊   緬羊と言えば、城岡獣医と云うほど、大正中期に屯田市街の南で数十頭の緬羊を飼っていた。 城岡作之助の有名であった。
 城岡は、樺太庁に、種緬羊として大半を売却し、大正12年佐呂間幌岩に転出した。 当時一般に、緬羊の飼育は普及しなかった。
 大東亜戦に入り、衣料品の不足から、自給用として、緬羊の飼養が奨励され、急速に普及した。
 昭和20年5月村内各部落に、緬羊増殖実践班を設け、増殖に努めた。
 四ノ一緬羊増殖実践班 班長 渡辺善三郎 飼育戸数 7戸
 遠藤清治、市村一恵、田島八郎、渡辺ハナ、細川斉次郎、渡辺善三郎、牧野ウメ
 農業会では技術員が、剪毛鋏を持って各部落を廻り、剪毛技術の指導や、洗毛紡毛の技術を教えた。
 昭和22年、国有貸付種牝緬羊20頭を入れ、組合員に仔返し制度で貸付し、々年福島県より64頭の仔緬羊を導入し、農家に飼育させるなど、増殖奨励に努めた。
 当部落では、24年頃には、ほとんどの家が2,3頭以上を飼養し、手軽な紡毛機カードを購入して、毛糸を紡ぎ、手袋、靴下、セーターなどの時給を行った。
 24年 農協中湧別紡毛工場操業  委託加工
 24年10月10日 村内緬羊品評会 農協主催
 25年 第1回総合家畜品評会 緬羊之部
 26年2月22日 上湧別緬羊振興会設立
  会長 沢口健蔵 各部落委員選出
 その後農協青年部が、部落毎に共同剪毛、集荷を行い、農協の委託加工事業で、優良な毛糸や生地と交換するようになった。
 部落では緬羊が増えるに従って、種付に不便なため、種緬羊の委託飼育が行われた。
 28年 種緬羊  1頭 飼育者 秦野美徳
 24年全村で約800頭の緬羊が、28年頃には3.000頭を超え、30年の種緬羊は豪州産2頭を含め、13頭が飼育されていた。
 飼育者 沢口健蔵、川崎 毅、形部義勝、千葉敏雄、四戸忠一郎、井上義夫、帯刀助三、佐藤与吉
 昭和33年頃から、衣料品が豊富に出廻るようになり、緬羊の飼養が減少し、40年代に入って部落では、細川 勝、三品正十郎等を最後として、緬羊の飼育が絶えた。
 
    養 豚   豚は屯田兵時代に、種豚払下の申込を取るなど、飼育の奨励がなされたが、一般に肉食の習慣がなく、自家用に飼養するものも、極めて稀であった。
 当部落の記録はなく、大正時代末期に秦野兼松、秦野甚吉等3,4戸が、自家用に豚を飼いはじめたと思われる。
 昭和の初期農会は、自給自足の経営と地力維持のため、有畜農業を盛んに勧めたので、ようやく豚の飼育が増えて来た。
 昭和10年3月  冷害対策として
 家畜家禽ノ飼養  自家消費ノ残ヲ産業組合ヘ
 各戸 牛1頭 犢1頭 豚3頭 鶏30羽の有畜経営が勧められ、農家の食生活の改善から、部落でも大半の農家が、1,2頭の豚を飼うようになった。
 自家用の豚は年末になると、3,4人共同で密殺し、解体臓物を処理し、鋸で4つ割にする。 この屠夫のまねは誰でも、気持ちの良いものでなく、焼酎をあふって一杯機嫌でやる。 これが1回で、やり損なうと大変だ。 真青になるのは人間の方だ。 夕飯がのどに通らなかったなどの話が、今だに語りぐさとなっている。 こうして3,4人で分けて、正月用に使用した。
 戦後食糧事情が好転し、食生活が変わり、豚の需要が増え、肉豚の販売が成り立つようになった。
 町では昭和30年、中湧別屠場を町営として経営し、34年には7号線湧別川畔に、近代的屠殺場を新設した。 こうして屠場の整備と、農協の飼料の供給、仔豚の斡旋で豚の多頭飼育が大きく進められた。


四ノ一養豚組合結成  昭和36年2月12日 牧野 光一調査 
 組合長 牧野光一  副組合長 安本 明
 会  計 阿部利五郎
 理  事 遠藤正雄、工藤良雄、山崎正康、秦野春義、秦野正弘
 組合員 上楽和夫、小関文男、菊地滝之助、  外総員27名
 養豚組合では1頭以上の飼育を目標とし、町より資金の借入若干の補助を受け、小型地下サイロ、チョッパ器等設備、仔豚の購入、飼料の配給等、諸般の改善に努力する。 しかし生き物の飼育は並大抵のものではなく、数年にして、大半の人は止めた。 その中で佐藤義幸、工藤良雄等2,3人が10年近く飼育を続けたが、現在は全く養豚の影もない。

    遠軽孵卵場種鶏場
 昭和40年  
 昭和27年、遠軽町で内藤伝次郎が、遠軽孵卵場を設け、種鶏4.000羽を入れて、孵化育雛事業をはじめた。 その後内藤は、日本精粉会社の飼糧部と提携して、飼料を多量購入し、経営の安定を計っていた。
 当時は農家の養鶏熱も盛んであったが、養鶏の大型化が進行し、農家の零細養鶏が衰退し、孵卵事業も困難となって来た。
 時勢を見透した内藤は、ブロイラー生産に着目し、近郷にその適地を求め、39年の秋、南兵村一区小島金吾の土地、約2町8反歩を農業委員会、会長田島澄歳らの斡旋で購入した。
 種鶏場は、40年2月から建築に着手、7月に第一期工事を完了飼、8月より種鶏4万羽の飼育をはじめた。 この事業は、内藤と日本精粉会社との合資で、資本金1千万円の合弁会社を設立し、学田にも土地を購入して、一区と2ヶ所で、ブロイラーの種鶏コーニッシュの飼養をはじめたのである。
 一区の種鶏場は、建設総業費は約5千万円を要したと云う。 場長は中村勝雄で、職員5名がその管理にあたり、順調に成績を上げ、年間27万羽を生産出荷し、鶏糞は部落農家の肥料として喜ばれた。
 45年学田の種鶏場を、野上に土地を拡張して移したが、上湧別と2ヶ所の経営は、無駄が多く、不便であり、又犢牛の育成にも手掛けたことから、1ヶ所に集中するため、遠軽町の斡旋で、野上種鶏場の隣地約3町歩の土地を確保することが出来た。
 当時育成犢牛の取引をしていた。 群馬県長柄農協矢島組合長は、北海道に犢の哺育育成所の開設を計画中で、上湧別種鶏場の移転計画を聞き、かねて懇意にしていた内藤に懇請し、48年9月、土地設備そのまま売却契約をした。
 こうして遠軽孵卵場種鶏場は、10ヶ年の経営の幕を閉じたのである。
 
    長柄農協哺育センター 昭和48年            遠軽孵卵場種鶏場跡(元小島金吾所有地)
  長柄農協 群馬県邑楽郡(オオラ) 邑楽町篠塚
          組合長 矢島芳男
群馬県長柄農協は、肉豚生産農家が多く、又肉牛の飼育も盛んで、農協事業の主体が特に組合の生産販売にあった。
 このため畜肉の生産加工販売までの一貫システム化が企画され、肉豚と併せて肉牛の育成肥育を効率的に行わせ、直営のミートセンター(邑楽町狸塚)を設立し、パック詰めなどに加工し、数ヶ所の直売所(東京亀戸他3ヶ所)を開設した。
 こうした販売は、一定した良品質と年間安定した数量の供給が必要であり、北海道の乳牛の犢を購入し、農家に委託育成肥育を行うにも、粗飼料や土地などに制約があり、多頭飼育は困難であった。
 このため矢島組合長は、北海道に犢牛の哺育育成の基地を置き、安定供給を計るべく、適地を求めていた。
 矢島組合長は育成仔牛の取引で、遠軽孵卵場の内藤伝次郎と懇意であり、たまたま南兵村一区の種鶏場を移転したい計画がある事を知り、その敷地施設の規模、交通の便などを考え、内藤に懇請して、其の儘の施設ぐるみ買収した。  昭和48年9月、土地の売買登記を行った。
 直ちに職員を派遣して、住宅の整備畜舎の改造を行い、同年10月長柄農協哺育センターを開所した。 センター開所について、上湧別町農協と協定し、地元遠軽、紋別地区からは、犢の買入れを行わず、北見地区、釧路、根室、旭川方面を主として、仲買業者又はホクレンを通して購入集荷した。
 センターでは1ヶ月の哺育と、6ヶ月250kgの育成を目標にし、後長柄農協に送って農家に肥育させた。 濃厚飼料はホクレンと契約、中湧別飼料センターより配送を受け、地元との協調に心を気張り、事業の発展に努力、着々と成績を上げている。
 開所当時は、育成牛の繋留は約3百頭であったが、現在は2,3才牛の肥育を行い、上質肉の生産に成功、市場で好評を拍している。 年間の肥育牛は約200頭を出荷し、常時繋留は育成肥育牛を合せ、約800頭を飼育し、年間約1千頭の出荷をし、現在畜舎の増設中である。
 敷稈の代用に鋸クズが使用されているが、多頭飼育になり、近隣町村からの入手が、困難になっていると云う。 この鋸クズ糞尿は、当部落農家に堆肥として、希望者に配布され、堆肥不足の農家に喜ばれている。
  哺育センター職員
  主任 金子拓夫 遠軽町在住
  職員 植木孫一、尾中繁之、今野陽一

 
 
  林業
山林
 
山一共同牧場  山林払下運動
 現在当部落民の所有する東山は、明治の終りに、部落民を挙げて運動の結果、共同牧場として、国より払下を受けたものである。
 明治43年、部落の薪炭備林として、東山山林95万坪(約316ヘクタール)の払下願書を出している。
  国有未開地売払願(下書毛筆)
一、北見国紋別郡湧別村基線 自二十一号線 至二十九号線
一、官林地 別紙図面ノヶ所
一、未開地 九拾五万坪 薪炭用材地ノ目的
  但シ本地内ノ樹木   尺  本(四行省略)
右官有林地御解除之上、処分法第二条及施行規則第七条ニ依リ相当代価ヲ以テ、土地及立木共ニ売払相成り度、別紙図面相添ヘ此段奉願候也
  明治四十三年二月十日
    紋別郡湧別村十四部落
        代表者   部  長 穴田助太郎
                区惣代 東海林作太郎
                     矢萩市次
                     秦野兼松
                     小野  豊
                     秦野又三郎
 添付された図面によると、南兵村二区中土場の入口、21号線の東山から峯境に南方、常磐山(東山の最高峯)に至り、29号線タチカルシナイ川(鍛冶屋ノ沢)までの、東山全体となっている。
 然し当時の未開地の払下は、農地の開墾か牧場経営が主体で、薪炭用備林の払下は却下となった。
  翌四十四年五月十日(区長福田仙次郎)総代会で
一、先般出願シタル官林ノ解除ニ付更ニ出願之件が協議されている。
   領 収 書
一、金四拾参円七拾壱銭也
 但シ共同牧場地売払出願ニ付組合員ヨリ納入シタル金
 右金額正ニ受領仕候也
 明治四拾四年六月二十四日
                   組合会計 穴田助太郎
 区長福田仙次郎殿
  号外  再度通知
 当区共同牧場地内ニ於テ馬草刈ヲ一般組合諸士ヘサセマス
 仍テ大至急御望ノ諸士ハ小生宅迄何卒御届下サイ
 追而場所タッカルシナイ川東南方下イクタラ境
   明治四十四年九月廿日
             福田共同牧場惣代
 当時道庁の、上湧別村移民勧誘指導員として、未婚地払下等の世話をしていた、南兵村二区の菊地勲が、この払下に尽力したと言われ、翌45年1月の総会で協議し、二区との関係もあり、23号線神社山頂より、南方の払下け出願が決定した。  


共同牧場地払下認可
 菊地勲の尽力もあって、最初21号線より南方払下げを、23号線まで二区に譲りその替わり、学田東山33号線までに伸ばして出願した。
 この出願と共に、一山共同牧場組合を設立し、規約を設け役員を選任した。
 出願者65名  組合長 福田仙次郎 会計 穴田助太郎
阿部 四郎 
南   亨
田島 芳平
杉谷芳太郎
松野 和蔵
矢萩 市治
岡村小太郎
谷口 勇吉
井上 富治
和田 やゑ
阿部熊次郎
樋口 幸吉
井上 兼吉
 
  東海林作太郎
野田 政治
会田 小七
川野小太郎
諸岡元太郎
三品 玉吉
三品 玉七
市村喜次郎
穴田助太郎
小野  豊
鳥井  始
脇島末三郎
秦野又三郎
 
  小野寺半右ェ門
中野 弥作
寒河江幸作
高橋留太郎
稲垣 音松
遠藤清五郎
服部市之助
石田安次郎
福田 甚吉
福田仙次郎
野田松次郎
小田井亀次郎
井上八右ェ門
 
  小野宗太郎
吉村 友弥
福田 彦造
上家 梅吉
河瀬弁次郎
中村 幸吉
小倉 藤吉
渡辺熊治郎
細川 綱治
小野 友治
小島 鉄治
山崎佐太郎
熊勢  勲
 
  水野安太郎
浜口 虎蔵
中橋兵次郎
小関文四郎
吉村秀太郎
岩瀬 定助
斉藤 与作
鈴木 穏恵
石田 喜一
木村弥平治
加茂 留吉
原野 秋蔵
安倍川 環
 
 この出願運動の結果
 明治四十五年四月三十日道庁払下認可
旧村誌(大正十年刊)によると
南兵村一区共同牧場  字タチカルシナイ
 放牧地 987.024坪(約329ヘクタール)
 牧草地  90.000坪(約30ヘクタール)
 穀菜畑  90.000坪(約30ヘクタール)他1.000坪
 合  計 1.168.324坪(約389.33ヘクタール)
 共同牧場は、約390ヘクタールに及ぶ大面積で、この内穀菜畑は、27号線以南湧別川の東平地であった。 払下代金は不明である。
 当時上湧別村役場の財産係であった、樋口幸吉が、国有林払下境界の測量を行った。 境界は東山の中段を通って、24号線で山頂に至っている。
 樋口幸吉の残した文書に、一山購販信用組合定款の草案が
第一条本組合ハ牧野ヲ経営シ傍ラ組合員ノ産業ニ必要ナル物品ヲ購買シ之レヲ組合員ニ売却スルヲ以テ目的トス
第二条本組合ハ無限責任一山購販信用組合ト称ス
第三条本組合ノ組織ハ無限責任トス
第四条本組合ノ区域ハ上湧別村一円トス
 以下23条までの規約を作製し、一山産業組合を設立しようとしたが、当時の人々に理解させることが、出来なかったものと思われる。


山一牧場組合
 明治45年春に、一山牧場組合を設立し、共同牧場として、牧柵や管理小屋などの建設工事を行い、耕作可能地の開墾、牧場内の立木の払下など、成耕検査が合格するように、整備が行われた。
 払下運動経費は、第1回加盟証拠金、第2回出札運動金、第3回今後の経費備金として集められた。
 組合運営や設備の経費は、希望者に土地の貸付立木売払などの収入と、各戸からの負担金を徴収した。
   受 領 証
 一、金弐拾円也
  但一山牧場土地貸付契約本代金壱名ニ対スル金五円迄四名分
 右金額正ニ領収候也
  昭和四十五年六月拾七日
          一山牧場組合会計 穴田助太郎
 組合長 福田仙次郎殿
 国有地の売払代金は、分らないが、牧柵の建設や払下運動経費、其の他の経費を総て合わせて、成耕検査後、山野牧野を各戸に分割時点には、1戸約18円負担となっていたと言う。 勿論立木の売却代金や、畑地の売却収入を差引いた金額と思われる。
 穴田俊一談
 
『東山の共同牧場は私の父が、世話をしていたようで、何処かの古家を買ったのか、私の家の東に建て、販場として5.6人の人夫が寝泊りして、牧柵造りをした。 或る時人夫が刃物を持って、喧嘩をし大騒ぎになり吃驚して見ていた、大正の初めだったでしょうか』
 と話しているように、牧柵は神社山の頂上から、真直に降りて東山の麓を南に、イクタ川の附近まで建設された。 昭和の初期にはまだその柵が残っていた。
 この成耕検査がいつ行われたか不明だが三品玉吉が
 
『牧柵を学田のはずれまで長々と作って、検査日には、検査官の心証を良くするため、部落民の馬は勿論、学田方面の馬まで、1日50銭で借用して、牧場に放して検査を受けた』と話している。
 その後牧場経営について、大正3年に組合長迄に建議書が出された。
 共同牧場ノ組合亨有ノ保全ヲ計ランガ為メ左ノ事項ヲ速ニ確立セシメラレ、一般組合員ヲ安堵ノ念ヲ永ク保タシメ以テ寸毫ノ疑惑ヲ抱カサラシメンコトヲ望ム
一、組合規約ヲ謄写シ組合員ニ領布スルコト
二、組合規約ヲ改正ヲナスコト
三、大正二年度事業報告並ニ決算報告ヲナスコト
四、大正三年度予算並ニ事業計画ヲナスコト
五、堤防地(元渡船場附近)ヲ賃貸シアリト聞ク本年本庁ヨリ調査ノ暁キニハ謂迄モナク犯罪ヲ構成シアルモノト愚考ス 之シガ善後策ヲ講究セラレンコトヲ望ム
理由
 第一組合規約ナルモノ一般組合員之ヲ知ラザルベカラズ、然ルニ之ヲ知ルモノ殆ト無之為自分財産トシテ其何タルヲ知ルモノナシ 依テ各一部領置シ亨有保全ヲ計リ 以テ利益ヲ増進セシメントスルニアリ
 第二組合規約ハ組合創立ノ初期ニ於テ設ケラレタルモノナレバ幾分利害得失其他事業ノ方針ニ依リ箇条改訂ヲ要スルヶ所多々有之モノトス 依テ当今適切ナ改定セラレンコトヲ望ムナリ
                以下省略
 この文書に、松野・安倍川・小島・稲垣等の名が上げられている。
 こういう問題が、どう処理されたか不明だが、種々問題が多く、大正5年に各組合員別に、又は数戸の共有に所有権利を分割し、一山共同牧場組合は解散したと云う。


組合解散山林の分割
 大正5年2月、一山牧場の内一.434番地を四筆に、又1.507番地を三筆に、分割登記が行われている。
 この年畑地は希望者に売却し、山林原野は、1戸約5.6町歩の見当に大割に分割して、3戸分・5戸分とし、希望者が、分割別にセリ入札で、売払を行ったと云う。
穴田俊一談
 『父から聞いた話ですが、共同山の売払の時、部落階上に皆んなが集って、分割山をセリで入札したが、普通の山は号線を境に、5戸分の共同になっていた。 掘割の上の方に1戸分の山があり、共同でないので、是非自分が落札しようと思っていた。 1戸分は18円が普通の値段であったが、便利な山なので、競走者も多いと思って、倍の35円に入札した。 そこに遅れて来た樋口の隠居が、値段は分からないなあと言いながら入札した。 開けて見たら56円で、樋口の隠居に取られてしまった。 あれはおしい事をしたと話していた。』
 この分割は大正15年に登記されている。

遠藤清治談
 『共同山は、生田原川まであって、当時は山麓に馬車道が通じていたが、何分遠い処だし、また薪炭の手当に、不自由をしなかったので、学田方面の山は、希望する者がなかった。 あの思慮の深い小関の爺さんでさえ、自分に当った山を、あんな遠い処はと、秦野兼松さんに売ってしまった。 結局皆んなの山を兼松さんが、一手に引受けたが、今になったらたいした財産だ』
 分割当時の所有者
 部落を上げて、共同牧場として払下を受けた山林は、今日共有地は個人に分割されて、薪炭備林又は造林地として、大きな財産となっている。


山林所有者
 前項共同牧場払下に述べたように、薪炭備林を所有する者があるが、林業的なものは行われていない。 昭和25年、時の村会議員三品太七は、遠藤清治と協力村に要請し、改正西山の村有林を払下げ、山林未所有者に購入させた。 この時渡辺正喜他11戸が払下を受けた。
 その他個人で、山林を購入した者を合わせて、現在部落内で、30戸が山林を所有している。
南兵村一区山林
 三品玉吉・阿部岩雄・市村照子・小島鈴松・田島澄歳・稲垣正美・東海林武敏・穴田俊一
 細川 勝・牧野光一・吉村 薫・山崎正康・樋口雄幸・遠藤清治・三品昌一・三品 栄・石田 誠(中土場に)
開盛山林
 三品正十郎・三品玉吉・渡辺うめ・安本 明・工藤良雄・佐藤義幸・渡辺光雄・遠藤清治・
 秦野 馨・秦野春義・遠藤盛幸・秦野正弘
遠軽町新遠軽山林
 秦野春義・秦野松寿


落葉松造林
 昭和の初期から、落葉松の造林などが奨励されていたが、部落内では、一度に皆伐することもなく、比較的東山は樹木の繁生が良く造林を行う者はいなかった。 昭和5年頃牧野円四郎が落葉松を又鳥井始が堤防附近に造林した。
 昭和6年頃樋口幸吉が、上家梅吉に依頼して、トド松約6反歩を造林した。 その後樋口は、21年31年と8反宛のトド松造林を行っている。
 森林組合の造林事業の振興奨励により、秦野美徳・遠藤清治・穴田俊一等が、落葉松の造林を行い、40年頃から多く人が造林を行った。
 現在造林者
 三品正吉・阿部岩雄・市村照子・田島澄歳・小島鈴松・稲垣正美・東海林武敏・穴田俊一・牧野光一・
 吉村薫・山崎正康・樋口雄幸・遠藤清治・三品昌一・三品 栄・秦野春義・秦野松寿・秦野馨


 
    森林愛護組合  四ノ一森林愛護組合
 北海道庁は昭和12年改正の、道庁令第24号を以って「森林防火組合設置規則」を制定、組合には自家用材、薪炭材払下の特典を与え、国有林隣接地域住民をもって、森林火災の予消防にあたらせることになり、一部落一組合を原則として、組合組織を結成せられた。 当地域では営林署より個人的に、山火巡視人の依嘱を遠藤清治、渡辺善三郎が受けて、予防期間中穀竜林の巡視に従事した。
 その後、支那事変の長期臨戦体制の強化にともない、昭和15年9月11日、内務省訓令第十五号「町内会、部落会、燐保班整備要領」に基き、森林防火組合は、昭和16年4月1日より、町内会、部落会に吸収統合され、森林防火部となった。
 戦後町内会、部落会が廃止されたことにともない、森林防火部もその機能が失われたので、道では昭和21年4月、道庁告示に依り「森林愛護組合」として、再出発させることになった。
 昭和22年5月26日、森林愛護組合設立協議会が、村役場会議室に於て開催され、それを受けて同年7月7日、四ノ一会場に於て、四ノ一森林愛護組合設立総会が開かれた。 現下の森林の重要性に鑑み、満場一致を以て、設立を可決し、組合長に渡辺善三郎、副組合長に牧野光一を選任。 部落在住62戸の全戸加入を以て、組合を発足するに至ったのである。 爾来隣接組合との連絡協調をはかり、毎年1回総会を開き、国有林、町有林、鉄道敷地林、私有林山火予防巡視をはじめ、国有林の植林、下刈り等の育成保護事業の完遂に、協力を続けると共に、国有林、町有林より自家用材、薪炭材の払下買受をなし、組合員に配分供給を行った。 私有林を持たない組合員にとっては、最大の薪炭の供給源となったのである。
 昭和33年7月31日を以て、共用林野設定契約終結のため四ノ一森林愛護組合は、発展的解散をした。


役  員
年 度  組合長  副組合長  監  事   班    長 
昭22年  渡辺善三郎  牧野 光一  秦野 美徳
山崎 正重 
三品 栄・菊地滝之助 
昭23年  渡辺善三郎  牧野 光一  秦野 美徳  山本 静夫 
昭24年  渡辺善三郎  秦野 美徳  田島 澄歳
山崎 正康 
三品 正吉・菊地滝之助
山本 静夫 
昭25年  渡辺善三郎  牧野 光一  田島 澄歳
山崎 正康 
秦野 美徳・渡辺 正喜
山本 静夫・菊地滝之助
石川 福次 
昭26年  渡辺善三郎  牧野 光一  田島 澄歳
山崎 正康 
 
昭27年  渡辺善三郎    田島 澄歳
山崎 正康
牧野 光一・吉村 真己
掘   勝雄・三品 正吉
安本  明 
昭28年  秦野  馨  阿部利五郎  遠藤 清治
牧野 光一 
服部 照明・三品 一男
石田 清美・小田井徳好
安本  明
昭29年  秦野  馨  阿部利五郎  遠藤 清治
牧野 光一 
細川  勝 ・三品 一男
石田 清美・秦野 正弘
石川 福次 
昭30年  秦野  馨  阿部利五郎  遠藤 清治
牧野 光一 
細川  勝・三品 一男
石田 清美・今野 古美
安本  明 
昭31年  秦野  馨 阿部利五郎  牧野 光一
岡村  進 
服部 照明・松野 源蔵
小関 文男・三品正十郎
河瀬 一衛 
昭32年  安本  明  菊地滝之助  秦野
阿部利五郎 
渡辺 謙吾・三品正十郎
牧野 源一・小田井徳好
工藤 良雄 
昭33年
7月31日 
安本  明  菊地滝之助  秦野
阿部利五郎 
 

南湧共用林野利用組合
 昭和26年6月23日、農林省告示、法第240号、共用林野法の施行が告示された。
 之を知った森林愛護組合長渡辺善三郎は、同年11月25日、部落会場に於いて臨時総会を開き、最も深刻化して来ている。 薪炭難の打開と確保は、本町地域内にただ一箇所残存する。 国有林遠軽事業所、野上経営区七九林班を共用林野として、契約設定をなし、その恩典を受くる事の重要性を強調、協議の結果満場一致で、出願申請が議決された。
 この出願に当っては、国有林隣接の四ノ二森林愛護組合、と協力一致して共同請願することになり、池田憲弥四ノ二組合長とも相計り、遠軽営林署に第1回目の、共用林野の申請書を提出したのである。


共用林野出願の理由
 一、戦時中の乱伐によって、荒廃した山林を増殖林、又は除間伐等の手入れにより、森林の育成を図り、大雨又は長期降雨による不時の出水から生じる洪水渦を防ぎ、農民の生活基盤であり、生命線である農地の保護、及び道路、橋梁等の保全に努力したい。
 此の要因をなす森林資源を確保し、前記の被害を最小限度に食い止めるため、我々農民は百年の計を樹て、共用林野の設定をお願いしたい。
二、現在まで毎年、四ノ一、四ノ二の森林愛護組合、合せて700石程度の薪炭材の、払下げを受けて来たが、尚不足を来して居る現状であるので、不用の風倒木、梢裏木等、又は除間伐によって生ずる材を薪炭用として払下げを受け、最も深刻化している。 薪炭難打開の一助としたい。
三、上湧別町にある国有林では、七九班が現在残って居るのみであるので、共用林設定契約がなされた上は、造植林並に山火防止に全力を傾注したい。
四、契約後は営林署の計画指示により、出願者一同一致協力して森林愛護に万全を期したい。  〜出願書より〜
 其の後引続いて、請願陳情の運動は、強力に推進されたが、営林署は共用林の設定箇所は道内に於て、未だ一箇所も設定の例がないので、調査中ということで容易に、その実現を得ることが出来なかった。
 渡辺組合長の後任として就任した秦野馨も、前任者の意志を引継いで、池田憲孫と共に再三再四、営林署長や、北見営林局長を訪ねて、世体の実現を請願陳情を行った。 その長期に亘る請願陳情の熱意が遂に、北見営林局長を動かして、昭和33年4月、共用林野設定契約の内報を受くるに至った。
 四ノ一、四ノ二両森林愛護組合は、それぞれ発展的解散をなし、昭和33年5月、四ノ二会館に於いて、南湧共用林野利用組合の設立総会を開催、組合長池田憲弥、副組合長秦野馨、鈴木武その他役員を選任し、ここに新たな組合が発足したのである。


共用林野契約書
 一、共用林野契約の目的たる国有林野の所在地
  (1)所在地 紋別郡上湧別町字南兵村
          遠軽営林署 野上経営区七九林班二小班
  (2)面  積 二一一町三段六畝一八歩
二、契約の存続期間
         自 昭和三十三年八月一日
         至 昭和三十八年七月三十一日
三、採取することのできる、林産物の種類、数量、採取方法
  (1)種 類 自家用薪炭の原木採取
  (2)数 量 六九0石以内
  (3)採取方法 採取の都度協議して定める
四、使用料 国有林野産物売払手続(昭和二十五年農林省訓令第一0二号)に基き、毎年採取標準量により定める。
上記について国有林野法に基き、下記事項を条件としてここに、共用林野を設定し、契約を締結する。
  昭和三十三年八月一日    北見営林局長  宮村六郎  印
                       共用者代表  池田憲弥  印
 昭和38年7月31日の第1期の期限満了に次いで、第2期契約の申請をなしたが、営林局の方針等の変更があり、容易に継続契約が出来ず、1ヶ年毎の継続更新契約と言うことで、其の後年々延長契約を行った。
 昭和41年3月31日、営林局の事業方針に依り、共用林野契約解除の決定やむなきに至り、設定契約以来、丸8ヶ年にて南湧共用林野利用組合を、解散するに至ったのである。


共南森林愛護組合
 昭和41年3月31日を以て、共用林野の契約解除に伴い、南湧共用林野利用組合は、自然解散の止むなきに至りたるため、同年4月26日、四ノ二会館に於て総会を開催、共用林野契約解除後に於ける、組合の組織替えについて協議をなし、今後の薪炭材、自家用材等の払下、並に国有林七九班の管理協力等にも、これに替る組織を必要とする点から、森林愛護組合に立戻って運営をする事になり、昭和41年4月1日を以て、共南森林愛護組合として再出発をすることに決定をした。
 爾来国有林七九班、町有林、私有林等の山火消防、春の防災期間中の巡視等の協力を続け、薪炭材、自家用材等の払下も毎年継続実施をして来たが、昭和46年に至って、時代の推移に従い燃料も石炭、石油等に移行したため、薪炭材の受給希望者も殆んどない状態となり、薪炭材払下の事業も廃止するに至った。
 山火予消防事業については、年々継続実施現在に及んでいる。


 
  商工業  商 店   明治40年諸岡元太郎が、基線道路23号西側、吉村友弥の二給与地に、呉服雑貨商を開いたのが、商店の始まりである。
 当時鉄道はなく、湧別浜市街から遠く、日常生活用品を売る商店が必要であった。
 つづいて野田松次郎が、23号線(中通)の北側、相羽の給与地に、小川国次郎が北通の北側二給与地に商店を開いた。
 サナチ原野(開盛)に、川野小太郎、井上富治等が、物品販売業を開いている。
明治44年地方税物品販売業調査
 諸岡元太郎・小川国次郎・野田松次郎・福田甚吉・川野小太郎
 井上富治・和田やゑ・寒河江とら
明治45年物品販売業(営業税)
 落合仲次郎・和田やゑ・井上富治・脇島末三郎・寒河江とら
 松木初太郎・佐藤今蔵・原野秋蔵
大正3年地方税物品販売業
 脇島末三郎・寒河江とら・二瓶豊治・松本初太郎・渋谷ふき
 渡辺りん
 これら物品販売業のうち、店を開いたのは、部落内では4店であった。
 諸岡商店 中通本門西 吉村の給与地
  呉服雑貨日用品  明治40年開業
  大正9年7月、下佐呂間川口に移転する
 野田商店 中通本門北 相羽の給与地
  荒物雑貨日用品  明治41年頃開業
  大正4年廃業 7月中湧別別にて運送業
 小川商店 北通入口北 小川給与地
  荒物雑貨日用品  明治42年頃開業
  大正2年廃業 10月遠軽へ転任
 福田商店 中通本門西 野田喜一給与地
  荒物雑貨日用品  明治42年頃開業
  大正7年商店、商品、一切を秦野甚吉に売渡し遠軽へ移転す。
いずれも日用雑貨品を扱っていたが、戸数の僅かな部落では、経営が無理で他へ転出した。
 秦野商店 中通本門西  大正8年開業
  荒物雑貨日用品 福田甚吉より店舗譲受
 秦野甚吉は福田商店を引受け、部落一つの店として、便利に利用されたが、当時の不況で掛売となって、回収に困難することが多かった。 大正14年頃には店舗販売を止め、農業のかたわら、園芸野菜の種子、果樹の苗木を取扱うようになった。
 秦野種苗店
 野菜園芸作物の種子の販売は、区内は勿論南兵村、開盛、学田、社名渕方面まで、巡回販売し農家に調法がられた。 甚吉が病弱で、長男馨が父に替って販売に当り、昭和17年頃まで続けられた。
 渡辺豆腐店
 大正6年頃来住した渡辺栄治は、基線の東相羽給与地の中間の地に、豆腐店を開き、昭和の初期まで、豆腐油揚げなどの製造販売をしていたが、昭和7年4月下社名渕へ転出した。
 
    水 車   明治36年に福田仙次郎が、25号線東の湧別川支流を利用し、水車を設置し、精米精麦製粉工場を開いた。 現在の工藤武の土地で、住宅も建て移り住んだが、明治45年火災で全焼し、翌大正2年屯田市街に移り、商店を開業した。
 明治41年の村勢報告に水車精米業は、福田仙次郎、安本喜代八、福田甚吉
福田水車  福田仙次郎  明治36年操業
 位置 25号線東 現工藤武土地
 明治43年 原野秋蔵に譲渡する
原野秋蔵 43年福田水車を引受け25号線西の湧別川支流に移し大正3年まで操業し、白滝支湧別へ転出した。
工藤留治  大正3年原野水車を引受け操業
 大正10年息子の初男が引継ぎ、12年頃鳥井に譲った。
鳥井始  工藤水車を引受け、昭和5年頃まで操業した。
安本水車(喜代八)  明治40年頃より大正5年
 位置  開盛橋の上手安本の二給与地
 明治42年5月9日の、雪解大洪水で畑流出水車被害額150円の災害を受けた。
栗木重太郎  大正5年、安本喜代八死亡後。 水車を引受け、昭和3年まで操業する。
福田甚吉水車
 明治40年事操業し、数年で廃止する。
 位置 22号線西、福田甚吉二給与地の下手(現菅野賢所有地)
 開拓当時は裸麦、稲黍が常食であり、その精白は麦つき臼で、又小麦ソバの製粉は石臼で、自家精白製粉を行っていたので、水車の設備は多く利用された。
 昭和4年2月上湧別産業組合が、南兵村二区に、電動の精米所を建設したので、水車は廃止された。
 
 
    澱粉製造   馬鈴薯から製造する機械を入れて、南兵村三区服部岩吉が明治33年にはじめて、澱粉を製造した。当初は手回しロール式であったが後馬廻しに改め能率を上げた。
 第一次世界大戦がはじまり、澱粉価格が高騰し、村内で水車や馬廻で、澱粉製造する者が多くなった。 当部落では大正7年に三品、東海林共同澱粉工場
  場所 24号線東一線 三品給与地
  馬廻し澱粉製造機ロール巾3尺 函館より購入 1日製造能力10袋Z〜15袋(50キログラム入)
 工場は幕田善八が主となって働き、ロールの目立て、井戸より水の汲上げ、澱粉の乾燥など行ったと云う。
 当時は澱粉の歩止りも悪く、1袋の価格は、4円50銭前後であったと言う。
 世界大戦が終ると、澱粉価格が暴落し、採算が合わなくなったので、4・5年で工場を止めた。
 
戻る  金 融  金銭貸付業   明治44年の記録では、村内金融貸付業の登録者は2名である。
 諸岡元太郎  南兵村一区 呉服雑貨商
 越智キクヨ  屯田市街地  郵便局
 大正2年 福田仙次郎 屯市  荒物雑貨商
部落の中では、其の後金融業の登録した者はいないが、部落民の要望で田島芳平、小島鉄治等が、私的に融通していた。


組合金融
 大正12年共進産業組合が設立され、信用事業が開始された。 当時の農村の私的な金融は、月5分前後の高利が普通であり、農民の青田売りや、高利より守ることが目的であった。 しかし小規模の部落組合では、資金が不足し、組合員の信用評定があって、困った者ほど金融の道が、満足に行われなかった。

無人講(頼母子講)
 民間の金融として無尽講が、当部落で早くから行われていた。
 これは災害や破産などの急場を救うためや、土地や馬の購入など一時に多額の資金が必要な場合、親戚や知人隣組などで無尽を起した。
 大正時代から昭和の初期、経済不況が深刻になり、秦野兼松や、秦野甚吉等の世話で幾つかの無尽が開かれた。 行啓記念講などもその一つである。
 助け無尽は、災害者を救済するのが目的で、初面の講金を全額貸付て、無利子で融通し、次回から分割支払いする方法である。 昭和25年5月1日。 住宅、畜舎、納屋、作業場等を全焼の災害に遭遇した渡辺善三郎は、部落内外より多くの救済の手が伸べられたが、家屋再建に当り、遠藤清治、秦野馨等の発議で、金5万円の助無尽講会が設立。 年3回掛、10回終了の復興資金を借用して、無事完了出来た事を感謝していた。
 戦後経済的に落着きをみせて来たので、助け無尽はほとんどなくなった。 昭和31年から、牧野光一、秦野馨らの世話で、睦講が3期に渉って開かれた。


婦人講会
 昭和25年に設立された婦人会では、衣類や、家具などまとまった買物資金を目的に、又婦人の親睦を計るため、婦人むつみ講会を開いた。 昭和26年2月25日第1回講会を開催、1回2千円、10回掛2万円、年3回掛けである。 その後40年の初めまで続けられた。
 
交通
 土木
 
道 路  屯田兵の道路工事   開拓の第一要件は、道路の整備であった。 明治24年網走から旭川までの中央道路が、網走分監囚人の手で開削され、翌25年4月から、湧別浜から遠軽野上駅逓まで、基線道路が湧別原野を縦貫して、開削された。
  道路敷地 15間巾  伐開
  路面幅員  3間  側溝を掘る11月完成
 屯田兵入植5年前に、開削された基線道路は、我が部落を南北に通り、開盛橋、浜見橋誠心橋等が架設され、暗渠が2ヶ所あった。
 明治30年5月、屯田兵が入地すると、第一の命令は道路造りであった。
 『移住地到着後十日以内ニ於テ左ノ作業ヲ為シ係官ノ検査ヲ受クルベキコト』
一、道路ヨリ家屋ニ到ルベキ通行路ヲ造ル此路幅二間トス而シテ此左右ヘ深一尺幅二尺ヅツノ小溝
  ヲ穿チ全ク道路ハ九尺トス、其道路ヘハ溝ヨリ掘揚ゲタル土ヲ中央ニ盛リ蒲鉾型ニ敷均シ其上ヲ
  砂利ニテ履くヲ可トス
二、通行度ヲ作ルト同時ニ門前ノ溝ニ道幅同様ノ小橋ヲ架設シ牛馬車ノ通行スルモ容易ニ陥落スルコ
  トナキ様注意スルコト肝要ナリ
三、門柱ハ三尺廻リ以上ノ樹木ヲ選ビ丈九尺ニ伐採シテ皮ヲ剥キ取根焼キヲ為シ路幅ニ倣ヒ三尺地下
  ヘ埋メ地盤ヨリ六尺ノ高サトシ入口ノ左右ニ之ヲ樹ツベキコト
五、両隣ニ通ズル小径ハ一間幅ニ造リ其両側ニ小溝ヲ設ケルコト
 屯田兵は自分の道路を造ると、部落内道路の構築を共同事業ではじめた。 道路面2間に側溝を掘り、小川には橋を架け、低地は暗渠を入れた。
 北通  橋6ヶ所 中村西、樋口前、安倍川東、服部前、平手前、稲垣東
 中通  橋5ヶ所 野田西、吉村前、秦野前、矢萩東、田島前
 南通  橋4ヶ所 上家西、穴田前、中橋前、水野前
 兵村だけで、15ヶ所に橋が架けられた。


号線工事
 第二給与地の開墾がはじまると、各号線道路の工事が、中隊の命令で行われた。 四中隊一区の区域は広く、号線は23号、24号、25号、27号、28号と、各中隊に比べて一番多く、距離も長かった。 工事の仕様は同様で、2間巾に側溝を掘り、小川には橋を架け暗渠を入る工事である。 当時はスコップが無く、鋸斧で立木を切り倒し、唐鍬で溝を掘り、道床に土を盛り上げ、低地にはモッコで土を運ぶ工法であった。
 一区は原野が多く、比較的能率が上がったとみえ、33年の夏には区隊内が終って、三区の号線構築工事が命ぜられた。
 
7月10日  33年樋口日記
  明11日第三区共同事業準備として午前8時迄に敷島橋に班長及び上等兵以下壱名出すこと
 7月17日 月 曇
  明18日より第3区共同事業を開始す
  依て午前第6時第3区垣本の近くに集合のこと 携帯品は 鎌各人 唐12
   鋸3 斧2 井戸組にて水縄30間 平鍬2
  30名の処16名事故 出場人員 19名
   (注 樋口班長19名 相羽班長16名 計25名出役)
 7月23日
  第三区作道成工に付渡し
  第6の内木の株1佐藤喜久治 同 1中村俊  高低1 稲垣 倒し株に 南6の内巾9尺
 7月24日 火曜 曇天
  第3区共同事業残の百間余りの分 来る25日人員15名を出し成工すること
  尚外の悪しき分も手直しせしむること

 このように号線の工事は、中隊長の命令で、他の区隊の遅れている分まで出役し、将候検査の上、手直しするなど、相当に厳しい作業であった。
 兵村内の北通南通は、はじめ基線道路までなく、一度中通りに廻って、基線道路に出た。
 これは不便と言うので、33年の春北通りは相羽の二給地、南通りは樋口の二給地に、6間巾の道路を基線道路まで構築した。


東一線の開通
 屯田兵の土地給与地図でわかるように、一区と二区との東一線道路はなく、24号と25号との間も道路が無かった。 このため耕作に通うのに、一度基線道路に出て遠廻りすることになり、不便なことから中隊の許可を得て、東一線道路が開削された。
 明治33年の秋、一区と二区間の東一線が、屯田兵の共同事業で両区隊の出役で竣工
十月十八日    (樋口日記)
 共同事業区隊内出場人員 五十六名
十月廿二日
 来ル二十四日ヨリ共同事業開始
 但シ左ノヶ所水野安太郎ノ第二給与地ニ通する道
三品玉吉談
 『自分の二給地を通るが、中隊の命令で仕方がなかった。 基線に付いた東海林や小関の給与地の東の端を2,3間と自分の土地も2間ばかり出し合って、道路をつけた。 私のは3百間なので、その交換地を別にもらいました。』と話している。
 この様に現在の部落内の道路は勿論、開盛の号線も27号から29号までの各号線が、屯田現役中に建設されたものである。


道路補修工事
 部落内の道路は当然の義務として、補修維持が共同作業まで行われた。 明治37年基線道路が、仮定県道からはずされて、里道(町村道)となったので、補修工事は各部落で行った。
 明治四十二年十月四日  湧別役場
  第十四部長  水野安太郎殿
   道路補理修繕ノ件
 貴部落ノ受持基線通り道路ノ破損甚敷、交通上支障不少候、至急補理修繕施行相成度此申候也 追テ馬車ヲ所有シ居ルモノハ馬車ヲ携帯出役セシメ、砂利ヲ敷設セラレタシ

 このように当部落が受持った基線道路(現国道242号線)は22号から、学田との境29号間約4キロの長いものであった。
 この道路補修維持は、大正15年、再び仮定県道に昇格するまで続いた。


道路補理掃除規定  明治四十三年施行(抜粋)
 第三条 道路掃除ハ路面中ノ塵芥汚物ヲ除去スルハ勿論下水溝ヲ浚渫シ倒木其他障害物                     取除キ等其保存復旧ヲ計ルモノトス
 第四条 道路沿下水及河川ニ農産物又ハ竹木笹草等ヲ堆積シ 或ハ 塵芥汚物ヲ放棄シ
     其他下水ヲ堰止メ道路ノ乾燥ヲ防グモノアルトキハ速ニ之ヲ取除カシムベシ
 第五条 道路ニ小破ヲ生シタルトキハ直ニ補修シ交通ニ支障ナキヲ期スベシ
 第六条 道路掃除ハ定期臨時ノ二トシ定期ハ春秋ノ二季施行シ臨時ハ其必要ニ応シ之ヲ施
     行期日ハ村長之ヲ定ム
 第八条 各掃除区ニ道路看守ヲ置キ部長ハ以下之ニ充ツ道路看守人ハ名誉職トス
 第九条 道路補修掃除受持区域ハ部長規則ノ名称区域ニ依ル
 こうした規程は昭和の戦前まで、長く続き部落では毎年春と秋の2回、部落中が総出で砂利敷橋直し排水溝掘りなどの共同事業を行い道路橋の補修保全に当った。

東山掘割道路の開削
 明治45年5月の融雪による、湧別川の大洪水で開盛橋跡の渡船が流失し、緊急に東山麓に、基線道路を迂回し28号線に渡船場を設けた。
   
村議会議案   (樋口文書綴)
一、開盛橋従来ノ私設渡船場ハ全部流失シタルノミナラズ 該所ハ復旧ノ見込ナキニ依リ 上流
 二十八号線ニ変更セラルル事
 廿八号線ニ変更ヲナス場合ハ廿五号線ヨリ廿八号線迄山手ニ仮道路橋梁設備ヲ要ス但民有
 地通過ニ付テハ南兵村部落財産ヨリ相当ノ手続ヲナス事      中略
四、先年築堤シタル開盛橋附近堤防破損ニ付之レガ修築ヲナシ成功ノ上ハ第一項ノ仮道路ヲ此
 堤防地ニ変更スル事
六、開盛橋山手道路、橋梁設備其他ノ道路橋梁堤防等ノ復旧工事及治水上必要ノ応急工事ハ臨時夫役ヲ賦課シテ施工シ夫役ニテ不可能ノ部分ハ請負ニ付シ之ヲ施工スル事    以下省略
収 入
 南兵村部落財産ヨリ  百四十三円寄附
 北兵村部落財産ヨリ     五十円寄附
 村費 前年繰越金     三00円
 臨時夫役賦課     一、一0七円

   
計 一、六00円
支 出
 役場費         一二0円00  委員実費弁償外
 救助費           二0円00
 仮道路橋梁      七0三円0七
 道路橋梁復旧     二四六円九三
 渡船設備費        四0円00
 災害応急工事     一五0円00
 設計図面         四0円00
 雑   費         三0円00
    計         一、六00円00
 注  説明 二十五号ヨリ廿八号  一、八00間(一間平均五0銭)
      二十八号ヨリ下イクタラ   三、二二五間(一間平均六銭二厘)

 この基線道路は主要な交通路であり、渡船場が不安定のため28号まで上げ、東山手に道路が開削された。 そして万一の水害の場合を考え、下イクタラまで刈分道路が付けられた。
 翌大正2年8月28日は全道的大暴風雨で大きな被害が出て、大凶作となり、天皇陛下の御下賜金御下賜農具を賜るような、暴風雨であった。
 28号渡船場が不通となり、村長より部落区長へ通達で、山手道路の復旧と、イクタラまでの刈分道路工事の命達があり、8月29日部落民総出で工事にあたった。
 工事収入の内、夫役賦課とは当時村税(等級割)が納められず、2年3年も滞納する者が多く、税金の替わりに人夫で村の工事等に働き、税金の徴収に当てたものである。 工事予算が千六百円の内、夫役が千百円と約7割を占めている。
 この山の手道路は、大正15年準地方費道路に昇格し、28号線湧別川に、第2の開盛橋が架橋されるまで、部落区域内として補修管理が行われていた。
 昭和3年25号線から山の手の掘割道路が、28号橋まで、山を削って立派に竣功した。
 この基線道路は以後30有余年の間、山手を廻っていたが、昭和35年現在の新開盛橋が開通し、町村道となった。


道路愛護組合
  道路工事の主なる記録を拾ってみると
明治42年5月20日
 サナブチ原野新設道路測量着手
 基線29号(現開盛音羽商店)より2里12町
 同秋に竣功
明治44年10月より
 開盛橋ーサナチ橋間砂利敷工事 夫役にて大正2年11月より凶作救済工事
 基線12号ー29号 800立方坪3.200円
大正2年
 開盛西一線道路27号ー28号間 29号ー30号間
 各300間を開削工事
其の他大正時代より昭和にかけて、救済事業として、砂利採取砂利敷工事が、区内で毎年のように実施された。
昭和4年、上湧別村道路愛護組合規則公布
一、組合員は一戸の内世帯主又は青年団員在郷軍人会員を以て組織する
二、各部落に支部をおく、村内11部
三、土木事業奨励規程
 支部事業の優秀なものを表彰する
 一等100円 二等 75円 三等50円 四等30円
 この村長を組合長とした道路愛護組合は、後に部落毎に組合を組織する様に変わった。
昭和10年4月
 四ノ一道路愛護組合設立   組合長 岡村小太郎
  班長  部落班長が兼任する
 道路愛護デーの設定  全村一斉に道路補修工事
   9月24日
昭和9年と10年に、村長酒井佐一より『道路愛護事業ノ成績優秀ナリ』と表彰を受けている。


橋梁工事
 区内の橋は鉄道の通過と、灌漑溝の掘開で水流が一定したが、この橋の架替工事の多くは区内の共同事業、又は青年団請負工事で行われた。 戦後は町の直営工事となった。
  主なる橋梁工事(記録から)
明治31年 開盛橋北側流出 6間釣橋増設
明治39年 開盛橋流失仮橋架橋30円74銭
同  40年 開盛橋仮橋(氷橋)60円 上家梅吉請負
同  40年8月 誠心橋流失架橋 52円05銭
同  40年 以後冬期仮橋(氷橋)が毎年村費で架設
同  40年5月 浜見橋架替工事  区長監督
大正 4年 中通秦野前橋 南通中村前橋架替工事
大正10年 会合橋(23号線部落財産へ通ずる)架替工事
大正15年 神社橋補修工事
昭和 6年 暗渠コンクリート管理設2 3号線1ヶ所8寸2本 北通2ヶ所 石田前と後 2尺 7本
昭和26年 神社橋補修工事 3.800円
同  31年 東一線灌漑溝橋架替
昭和31年 23号灌漑溝橋架替工事
同  32年 神社橋架替工事橋脚コンクリート
同  38年 東一線灌漑溝橋橋脚コンクリート
同  41年 湧光橋(24号線灌漑溝) 永久橋完成
同  44年 境橋(東一線中土場川) 楓柳橋永久橋完成
同  49年11月 神社橋 コンクリート永久橋完成


戦後の道路工事
昭和37年 中通東改修工事鉄道土盛工事
同  39年 23号24号線幅員拡張側溝工事
同  41年 25号線幅員拡張側溝工事
同  46年 東一線22号より24号まで砂利敷
同  46年 25号線基線より東一線砂利敷
同  47年 東一線24号より25号まで砂利敷
同  50年 南通 防塵工事
同  51年 中通北通 防塵工事
同  53年 東一線24号より池内まで簡易舗装工事


基線道路 (国道242号線)
  昭和30年11月 新開盛橋架橋測量はじまる
  区内関係地主との交渉あり
昭和32年 新開盛橋橋脚工事着手
同  34年 新開盛橋並取付道路完成
同  35年 開盛鉄道跨線橋落成 新道全面開通
同  38年5月 18号線〜25号まで路面拡張工事
同  39年 18号線よりサナフチ橋間舗装工事完成す
この基線道路は、上湧別ルベシベ間開発道路となっていたが、昭和49年国道242号線となった。
 開盛橋流失後、20年間の渡船時代、昭和に入って約30数年の、東山掘割道路時代を思うと、今遠軽市街まで車で14,5分で行けることは夢のようである。

 
  鉄 道  共進駅   鉄道は大正5年湧別線が、社名渕駅(現開盛)より湧別まで開通し、地方開発に大きな役割を果たした。 然し上湧別駅まで、3キロ開成駅まで約5キロと、汽車には不便であった。
 戦後24年の大雪に、汽車による死亡事故が発生し、部落民から、簡易乗降所設置の声が強く上がった。
 昭和30年部落会長秦野美徳は、役員と共に鉄道当局へ陳情に努めた結果、12月に中通り神社前に、乗降所が設置された。
  共進乗降所 昭和30年12月6日7日
   乗降ホーム  鉄骨 床板張り
   施工業者 渡辺組 人夫は部落共同事業
昭和35年11月17日〜18日 会長 吉村薫
    乗降ホーム増設工事  コンクリート板敷南へ増設
共進駅に昇格  この年駅に昇格する。
昭和38年12月10日 自治会長牧野光一
  駅待合所建築  1間×3間  3坪木造平屋  町費助成20万円
  渡辺組寄附3万円  計23万円
  牧野会長は冬期通学児童の乗降保護上  町に要請し 建築費の助成を確保 渡辺組の協力で完成した。
昭和40年12月  自治会長鳥井茂雄
  便所併設工事  かち合い所の南に併設する  町費助成 4万円
 経費計4万9千円  渡辺組施工
 共進駅は、区内の中学生、高校生の通学はもとより、遠軽方面其の他一般に広く利用されている。


バス停留所
 昭和24年北見バス会社が、認可を受けて5月より、湧別、遠軽間1日3往復で、バスの運行をはじめた。
 駅に遠い部落では便利なバスの運行を歓迎したが、雨降りや吹雪時の待合所の設置が、強く要望された。
 昭和26年会長秦野美徳は、部落民に材料の寄附を要請し、区内2ヶ所にバス停留所を建設した。
 一区中通バス停  木造平屋  2坪
 25号線バス停   木造平屋  2坪
 昭和38年基線道路拡張基盤改良工事で、路面が盛り上げられ、バス停敷地の認可が無いため、低地に停留所を移転し、まことに不便であった。 このため歴代会長は、町当局を通じ土木現業所に、陳情を続けた結果、43年秋許可となった。
昭和43年12月  バス停2ヶ所土盛工事
 同年        神社鳥井材と同時に材料払下を受け
昭和44年2月   沢口木工場にて製材
 同年   5月   中通バス停  25号線バス停
            新築工事完成  木造平屋  2坪
 町費補助  10万円 施工業者 渡辺組  これが現在のバス停である。


 
  土木治水  治水工事   区内の土木工事は、湧別川の水害防止工事が、主要な事業であった。 明治31年の未曾有の大洪水をはじめ、湧別川の奥地開発が進むに従って、明治末期から昭和の初めにかけて、湧別川の洪水氾濫が続いた。
 洪水時の応急防止工事は、常に区長の指揮で、部落民が出動し、被害の防止にあたった。
 
堤防工事記録より
明治43年(前年入札不調)2月10日入札
 一、湧別川  開盛橋より上流へ  350間 築堤
 二、湧別川  19号〜20号間    150間 築堤
 三、サナブチ川  30号〜31号間  60間 築堤

これが記録の上で最初の大きな工事である。
 その後何度かの飼う随に見舞れ、堤防の補強工事が行われた。
大正9年4月 開盛橋上手堤防工事着工
 第一工事場  岡村外9名
 第二工事場     33名
 第三工事場     12名
大正11年8月24日の、大洪水の被害は甚大で、湧別川の根本的治水工事を、要望陳情を続けたが、一部護岸工事の着工があったのみである。


湧別川治水5ヶ年継続工事
 昭和6年頃から、上湧別地区湧別川治水の調査が進められ、昭和8年南兵村区会で、湧別川治水工事敷地買収費寄附、7百中円を議決した。 こうして略現堤防地の買収が行われた。
   昭和9年7月16日
  湧別川治水5ヶ年継続工事  起工式
 この工事は、灌漑溝第二水門の堤防からはじまり、基線道路を横断して、北へ中湧別に至大工事であった。
 終戦後28,9年、湧別川の恒久的治水計画が樹てられ、一大堤防の建設が決定した。 このため、区内では敷地売収問題で、町当局や石田農協組合長が、斡旋に入って、円満に解決した。


湧別川堤防拡張工事
 昭和30年5月18日起工式  24号線にて
 この工事は、第二導水門から、湾曲した堤防を直線にし、堤防敷地を拡け盛上る工事で、トロッコを十数台馬に曳かせる、大掛かりなもので、現在の堤防が完成したのである。


浸透水排水工事
 昭和5年灌漑溝工事がはじまり、造田による浸透水の心配のため10年頃兵村内に暗渠排水の土管入れなどが行われた。
 特に昭和30年の造田工事で水田面積が増え、床かき時期には幹線支線とも満水となり、南通りでは遠藤庄一・穴田・渡辺謙吾・山崎などの低地では、道路の上を流れるほど、浸透がひどくなった。
 34年に購入した、スピードスプレアが、りんご畑で立往生するなど、作物にも大きな被害が出て来た。
 昭和36年、会長吉村薫党役員は、町に強く要請運動を進めた結果、町費で排水工事を実施することになった。
 しかし広い区域の浸透水を、集めて流す排水溝を何処に掘るかが大きな問題で、部落民はそれぞれ得失があり、紛糾した。 町長、農業委員会長、土地改良区理事長や、部落有志の斡旋で、排水溝は道路敷地を通し、一部秦野美徳所有地を通って、旧河川に落す事に決定した。
  昭和36年7月13日着工
明渠工事  南通渡辺正喜前より東一線まで
 東一線東側を中通まで、西に向かい中通の南側を遠藤の境まで、中通を北に超え、秦野美徳
 畑を斜に、吉村薫境の旧川まで
 旧河川(現在の)は中通より、北通りを越え、鉄道まで河底を掘上工事を行う
暗渠工事  2寸4寸土管使用
 実施者 渡辺謙吾・東海林武雄・阿部利五郎・服部照明・秦野美徳
 11月末工事完成 町直営工事
 翌37年1月7日部落総会を兼ねて、落成祝賀会を開き、石田町長・高橋農委会長・林土地改良区理事長・秦野工営課長等を招待し浸透水問題の解決を喜び合った。
 その后45年6年と、水田の転換が全町的に行われ、浸透水は無くなり、排水溝は無用の長物となって、48年埋立を町に申請し以後漸次埋立られている。

 
    建築業   明治39年3月、遠藤清五郎を頼って、宮城県より、大工渡辺熊治郎一家が、弟子数名を連れて入地した。
 渡辺熊治郎はこのトシ、南兵村三区の八幡宮の神殿を建築、翌40年川上神社神殿を建築し、以来三品玉七、東海林作太郎、秦野兼松の土蔵、青年会場など、部落内はもとより、村内広く各種の建築を請負、良い建物を残した。
渡辺熊治郎の弟子
  渡辺喜三郎(佐藤喜久治の弟熊治郎長女ハナと結婚入籍)熊治郎棟梁の入婿として後を継ぎ、
   消防第6部長、部落区長等を勤める。 現渡辺組社長渡辺正喜の父

 細川斉次郎 渡辺熊治郎次女ミヨと結婚 大工の腕を磨き独立し建築業を営み、昭和23年部落
   会上建築、其の他建築多し
 市村 清 女満別にて建築業(啓次郎の長男)
 上野佐一 上野寅之助の子
渡辺喜三郎の弟子
 渡辺正喜 喜三郎長男 終戦後建築業より、土木建築業に発展、渡辺組を組織兄弟一族協力し、
  今日道内有数の渡辺組に発展、部落会館建設等多くの功績を残す。 現在渡辺組社長
  北兵村一区へ転出
 渡辺寅喜 喜三郎次男 父に就いて早くより大工修業終戦後、兄正喜を扶け渡辺組を盛上げ、専
  務として経営に当る 現在遠軽町
細川斉次郎の弟子
 細川 勝 斉次郎長男 父の建築業をつぎ、部落会館増築工事等に尽力、多くの住宅建築の業績あ
  り、現在娘婿正一が大工として家業をつぐ
 遠藤盛幸 細川大工の弟子として修業 戦後渡辺組に入り 主要な幹部として活躍中
 小関幸雄 大工修業后滝川へ転任
渡辺正喜の弟子
 秦野正昭 正喜の弟子として修業 渡辺組にて建築関係の幹部として活躍 現在 遠軽町へ転任
 佐藤文雄 建築業修業渡辺組勤務
 遠藤誠一 建築業修業渡辺組勤務
 上楽好天 建築業修業后上川町に移り 現在札幌市 土建業伊藤組勤務
牧野円四郎 大正6年北檜山町より 札富美入地建築業 昭和2年当部落へ転入し建築業 五ノ一
        牧野鍼蔵と組み、産業組合役場関係建築を行う。 弟子を持たず

 
    建具・家具業   菊地長之助 大正4・5年頃転入し、建具家具大工として良い道具を数多く制作、昭和8年5月下社名淵へ転住
 服部正清 菊地長之助の弟子として修業、各地に修業出稼ぎを行っていたが、戦後渡辺組に入り、美事な鉋仕事は今だに話しの種となっている。 現在興部町へ転出。

 
    渡辺組砂利砕石
プラント
 
 株式会社渡辺組(社長渡辺正喜)は、昭和29年5月より、土木現業所の認可を受けて、湧別川の砂利採取事業をはじめた。 当時は人夫を使い、スコップで砂利一杯一杯すくい、砂利トウシで精選していたもので、管内はじめて、ドレンジャーを購入し、穴田喜代治が運転した。 ドレンジャーが砂利をすくい上げ、見る間にトラックに精選砂利が流下する偉力に、各土建業者が殺到する盛況であった。
 昭和43年、開盛に生コンクリート工場を開設し、砂利の需要象から6年9月、南兵村一区25号線の西、阿部利五郎所有地外を買収、渡辺組砂利砕石プラントを設置した。 トラックで運ばれて来た切込砂利が、砂、細石と選別され、大きな石は、大割、中割、小割の3段の砕石機を流れて選別されるものである。 湧別川の砂利は死石が少なく、良質でコンクリート製品、建築、土木等、貴重な資源となっている。 現在従業員5名で操業中で、高々と積み上げられた砂利の山と春から秋にかけ砕石の音が部落の空を賑わしている。
 渡辺組は、明治39年3月宮城県伊具郡より移住して来た。 大工頭領渡辺熊治郎を祖父とし、父喜三郎が昭和10年後を継ぎ、現社長正喜が戦後、弟寅喜等と渡辺組を設立した。
 株式会社  渡辺組 昭和34年設立登記
  資本金  300万円 社長 渡辺正喜
 事業 土木工事・建築工事・上下水道下水道工事・造園工事の設計
    工事請負・工事資材機械類の斡旋販売・石油販売・砂利採取販
    売・コンクリート製品製造販売等
 本社  中湧別南町 支店遠軽町  営業所紋別市 北見市
 現在  資本金 5.000万円 株主43名 社員65名
   工員75名 労務者150名
今や渡辺組は管内有数の土建業者として、官公の大工事を請負、大きな実績を上げている。

 
  諸車・橇  馬車   明治34年7月31日、人畜物件統計表第一給養班35戸の報告には、馬39頭馬車19台となっている。 即ち馬車が2戸に1台強の所有で、意外に早く馬車が使用されていた事がわかる。
 当時の馬車は2寸巾の鉄輪で、荷台も5尺ばかりの長さで、軽量なものであった。 大正に入って、3寸輪となり、2寸輪の馬車は危険として禁止された。
 明治40年建設の日露戦役記念碑の、碑石を瀬戸瀬よりの運搬の時は、ドンコロ車を使用したと云う。 大木を輪切りにし、車輪としたもので、車輪幅が広く、悪路に強く、重量の荷物を載せ、馬に曳かせた。 又薄い輪で荷台も小型に造って人で引く、荷車も利用された。
 不通馬車は昭和に入って、4寸金輪となり馬鈴薯、ビートの重量運搬に耐える、丈夫なものが、一般に使われるようになった。


保導車
 昭和10年頃から、自動車のタイヤ付前輪車軸を利用した軽量の保導車が、使用されはじめた。 タイヤとスプリングのクッションがきいて、馬には引き易く、部落では三品昌一が早く使用した。
 昭和14年頃石田勝美が、運搬用にトラックの後輪デフ付車軸を利用した保導車を、はじめて造らせ使用した。 この型式は戦後急速に普及し、ほとんどが保導車となった。
 昭和40年に入って、農家に小型トラックが、一般に使用され、馬も保導車も今では見る事が出来ない。

 
      手 橇
 屯田兵入植当時の冬の運搬用具は、手橇であった。
明治34年1月14日 樋口日記
一、明十五日使役七名手橇及昼食携帯ノ上午前八時迄ニ差シ出スコト
一、薪半敷迄中隊本部ヘ運搬セザルモノハ、一両日中ニ運搬スルコト

 このように各戸が手橇を使用し、原野から薪を運ぶのにも使用された。 橇はイタヤ材を良く乾燥させ、長さは2・3尺の小型のもの、又は6尺前後の薪運搬用の大型のものがあり、橇巾は1尺6寸〜1尺8寸位が普通であった。


土橇 (ベタ橇)
 これは巾4・5寸、高さ6・7寸、長さ6尺前後の楢材を、梯子に組み、橇の形にし、馬に引かせた。 簡単に素人にも造れるので、畑への種子や肥料運び、プラオ除草機などを乗せ、畑通いに大いに利用された。

馬 橇
 明治34年7月の調査に、馬橇の数が出ていないが、その以前から所有する者があった。
 
明治32年2月13日  火 晴天 樋口日記
 第二区銃槍日 宍戸運三郎ヘ塩菜料トシテ壱円相渡シ 同岡村ヘ
 金弐円内壱円ハ越智君ノ送別ノ別ノ際馬橇代  (以下略

 岡村小太郎の馬橇所有が、早かったと思われるが、当時は価格も高く、明治40年頃に一般化されたものと思う。
 最初の馬橇は尺6寸巾で裏金がなかったが、後に裏金をつけ滑り良くなり、橇巾も尺8寸となり、荷物を積んでひっくりかえらないゆに巾が広げられた。 昭和に入って、2尺巾2尺2寸と橇巾を広げ使用された。
 馬車馬橇には明治時代から、税金が課せられていたが、大正7年の村議会で、地橇玉橇にも、1台50銭(当時1日の出面賃金)の税金が課せられるようになった。

  
  車・自動車    自転車
 自転車が本村に入ったのは、大正の初めと言われ、大正6年に玉橇自転車の所有台数の調査が行われている。
 当部落では中村辰平が最初で、三品一男が大正10年頃自転車を買ってもらい、これを乗り廻して青年達に,羨ましがられたものであるという。 昭和に入って一般に普及した。


オートバイ(原付自転車)
 戦後昭和26年頃、自転車に小型空冷エンジンを装備した、原動機付自転車が出現し、間もなく、90cc、120ccのオートバイ(規則では原付自転車)が出廻った。
 当部落では昭和30年前後に、細川勝、渡辺寅喜、穴田俊一、三品昌一等が、トーハツなどの原付を購入使用した。 以後36年頃から多くの人が乗るようになった。


小型トラック
 昭和37年、南兵村二区の果樹経営農家2・3戸が、りんご運搬販売用に、小型トラックを購入し使用をはじめた。
 当部落では翌38年、竹内東洋児、阿部岩雄が中古の軽四輪トラックを購入し、次いで吉村邦彦、穴田寿之等が購入使用した。
 45年頃には、専業農家は、ほとんどが使用するようになり、現在所有者は23戸


軽、普通自動車  
 昭和40年頃から、普通自動車を竹内東洋児、阿部岩雄、三品秀行、牧野勝一等が相次いで購入し使用しはじめた、43年頃からは普通車を、多くの家庭で持つようになった。
 現在、普通自動車所有者 36戸


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