拓魂八十年

昭和の小漁師top
南兵村一区top

   総 説  自然風土  部落沿革  屯田時代 明治後期時代 大正時代 昭和前記時代 昭和後期時代   


 部落史発刊に当って

南兵村一区自治会長 石田 敏雄 

 美しい自然に恵まれた東山にも、八十年の星霜が流れ、明治の昔も今も変わりなく、我が部落にも、カッの声と共に若葉青葉が目にしみます。
 原生の山野に入植して、この盛運の基礎を築いてくれた先人の血のぬじむ辛酸、苦闘の跡を偲び、この意義ある開拓の偉業を讃えると共に、併せて永遠に我が郷土の発展を祈念して、茲に“拓魂八十年”と名づけて、部落史を刊行しました。
 私の幼かりし頃、仙人の様な真白い美事な髭の祖父(屯田兵家族)の背で、西の畑二給地古川跡に俺の来た頃は、秋になると、川に立てた棒が倒れない程、秋味が居た、と聞きましたが、今は大型機械の導入で整地され、一面平らな畑となっております。
 厳しい開墾と兵役に身を挺しながら、部落の誕生に神を祀り、時代の移り変わりの中であらゆる困難を克服して、神社を守り、現在に至って居ます。 思い出は村の悪童たちと遊んだこと、神社の手洗い沢水の中から「ザルガニ」を取り、灌漑溝で泳ぎ、記念碑うしろのドブ沼に蒲の穂を取りにいった処が、体一面に黒い虫が吸いつき、泣きながら走り回る内に血を吸い、見る間に何十匹も大きくなり、えらい目に合った記憶があります。 後日古老に聞いたら、入植当時家族の人々が開墾作業に疲れ、肩が凝りその悪血を取るのに、内地からヒルを取り寄せ放したと知りました。
 この村で育った私と同年代の人達は、神社の秋祭りを思い出すでしょう。村中の子ども達と青年団員が御神輿をかつぎ、稲の刈り上がった水田を近道に走り、部落中一軒ずつ、ワッショイ、ワッショイと走り廻り、裏道を帰り神社に着いた時は、全員が動かれなかった。 又、祭典余興の村芝居などは、団員全部が歌手になり、踊り手となり、夜の十一時迄も毎晩練習して、大きな芝居小屋を作り、村人と共に楽しんだ事でした。
 昭和初期の経済不況と、冷害の中で生まれた私は、大東亜戦争の真只中にスパルタ式に育てられました。此の鉄人のような父親が、三月六日になると一日中布団を被り、寝ていた事を思い出します。 それは、父が四歳の時、日露戦役で祖父が戦死した命日でした。 父と活した十八年、二人で笑い合った事は、上湧別村役場が焼けて、後の戸籍簿に父の生まれた日が六月三十一日となり、一生誕生日が無かった事です。
 私は釣りが好きで湧別の浜に釣り糸をたれる時、屯田兵とその家族が乗ってきた武州丸が、三日も海が荒れて、浜に上がれなかった事を思い出し、北国のオホーツク海の嵐のすさまじさ、又厳しい冬の風雪との闘いを思い浮べます。
 恵まれない生活環境と戦い、斧をふるい木を倒し、大地に鍬を打ち込んだ先人の開拓精神と質実剛健な気風を受け継ぎ、今後此の村を発展飛躍させ、理想郷の建設を目標とし、努力することが、私達の大きな勤めであると思います。
 ふりかえって見て、編集に着手して以来五年の歳月が過ぎ去り、此処に部落史の刊行となりましたが、その間、前自治会長並に編集委員の方々にお世話になり、特に樋口雄幸氏には原稿整理、又製本迄も色々と力添えにあづかる所大であった事を心から敬意を表する次第であります。

 昭和五十五年六月十二日

部落史の刊行を祝して   

            上湧別町長  出倉 定夫 
 歴史にふれ、先輩のなした仕事にふれ、教えられるところが多い。
 今の時代に、こころのふれあいがどう、あいさつもろくにかわすこともしない等、連帯意識が遠のいた、物たりなさは洵に淋しいと思う。
 兵村誌や町史に目を通せば、屯田兵に始まって、当時の模様がありありと脳裏に焼き付くことが多い。 今吾々が目覚めてやろうとしていること、なさなければならないことがらが、多少ニューアンスは違うにしても、先輩が一つひとつ着実に実行していたことの多いことに、今更ながら驚きもし、敬服している次第である。
 先輩が連帯意識を固いものにし、協同の力によって町の基礎を築き上げてくださった。 私どもは是非お手本にしたい。
 今回、南兵村一区部落史「拓魂八十年」が発刊された意義は深い。 町史などでは収録しえなかった飼料も含み、しかも詳しく、ゆきとどいた貴重なものである。
 発刊にあたり心から敬意を表し、お祝い申し上げる次第である。
  昭和五十五年六月二十日 

 拓魂八十年の発刊に寄せて  

上湧別町議会議長  渡辺 正喜 

 私の生まれ育った南兵村一区の部落史が、発刊されます事を心からお喜び申し上げます。
 過去の開拓から現在発展された部落の歴史を収録して、未来に引継ごうと企画されました。 四ノ一自治会の御意義に、先づ賞賛と感謝を申し上げるもので御座います。
 語りつがれたこと、書類として残された各種の記録などを集め、分類編集された方々の玄人、努力は大変な事であったと拝察致します。
 南兵村一区からは、多くの優秀な人材を生み出して居ます。 其れは部落全体が協力して盛り立て、上湧別町の発展に多大の貢献をなされて参りました。 その土壌は古くから培われた南兵村一区の、風土によるもので御座います。
 北辺の守りと開拓に従事した私達の祖先は、哀歓の歴史とたくましいフロンティア精神があります。 往時は、空を見ることの出来ないうっそうたる森林に、一鋸、一鍬をもって幾星霜。 開拓に流された汗は、誠に尊いものであり、そのたくましい精神は、今なを部落の人達に引きつがれて居ると思います。
 冷害、風水害、病虫害に、一朝にして農作物の壊滅的打撃を受けた事もあり、又戦争による働き手を失いながら、じっと耐え偲んで来た事も御座いましょう。 酷寒にふるえ、ひもじさに耐えて、ひたすら開拓に励まれた先人に、心から感謝を捧げるものであります。
 部落発足以来八十年、部落の名、共進の名のもとに、人々皆和して信じ合い、勤勉に励んだ結果、豊かで住みよい農村を創造されました。 先人の流した汗は地にしみ込んで、今なを生きて居る事と思います。
 今日を創り出した偉大な業績を、その時々の歴史を明らかにして、後世に伝える事は、先輩の方々に対する敬慕の上からも、誠に意義の深いことで御座います。
 長い間の先人の労苦、それを花開かせた各世代の輝かしい記録を、今後に引継がれ、尚一層発展されます事を、心から祈念申し上げます。

   昭和五十五年七月五日

 
 青山河拓魂永久にゆるぎなし  秦野 凍声    
総説 自然風土 名称   我が部落は、明治三十年に、屯田歩兵第四大隊第四中隊第一区隊として、紋別郡湧別村原野の現在地に、五月二十九日三十三戸の屯田兵が、その家族と入植したのが始まりである。
 屯田兵時代は四中隊一区と称されていたが、屯田解隊後湧別役場の行政区に入り、部落名を南兵村一区と改称し、現在に至っている。
 然し現在でも、四中隊一区、又は四ノ一の略称で使用される場合が多い。

    位置  我が部落は、紋別郡上湧別町の南東に位し、南は開盛橋、湧別川を境に開盛部落に接し、北は基線二十二号線を境にし、東はヌッポポコナイ川の源流(通称中土場川)との境に起立する東山(タチカルナイ)を境に、南兵村二区に接し、西は湧別川を境に富美部落に接している。
 部落内は湧別川に沿って、北に傾斜する平坦な原野で、中央には明治二十五年開削された、通称基線道路、現在の国道二四二号線が、南北に縦貫している。 標高は二十二号線で海抜四十メートル、二十四号線で、四十五メートルである。 上湧別役場までは、約四キロ、遠軽市街までは、約八キロの交通至便の場である。

    土質・面積  平坦な部落の原野は、湧別川流域の沖積土で、河流の跡が各所に残っており、基線二十四号線より南の上手は、表土が浅く砂礫の地が多く、北の下手は砂質礫土で、梢や深く肥沃な土地が多い。
    気象   北海道のオホーツク海斜面に属する北見地方のうちにあって、当地方は比較的温暖の地である。 春の終融雪は平年四月十四日・五日で、春は好天が続き、桜の開花は平年五月十三日前後で、旭川地方より梢早く、終霜は五月二十五日頃となっている。
 四・五月は平均に温暖の日が多く、五月下旬より六月下旬まではオホーツク海高気圧のため海霧の発生や、低温湿潤の日が多く、七・八月は高温となる。 高温時はプラス三十度を超すが、平年一週間位である。
 この七・八月の月間平均気温は、プラス十九度及至二十度前後であり、十九度以下の年は不作になり、二十度を超す年は豊作となるのが通常である。

 冬は一月中旬より二月中旬頃までが最も寒く、オホーツク海の流氷の接岸が、大きく影響している。 一月二月の平均気温は、マイナス八度〜十度で、最低気温はマイナス二十五度前後が平年で、特にはマイナス三十度以下に下る時もある。
 春秋は雨量が少なく好天が続き、七・八・九月は梢雨量が多い。

 冬の降雪も多くなく、年間の雨量は平均七五0ミリ〜八五0ミリ程度で、北海道では最も少ない地帯である。 積雪は平年八0センチ前後でである。
 当地方は台風の影響を受けることが少なく、唯五月に北見地方特有の、西南の烈風を受けることがあるが、風速二0メートル以上の強風は、何十年に一度あるか無しである。 従って集中豪雨などの被害を受けることもない。
 地震も少なく、僅かに感する弱震が年に一・二度ある程度である。

  部落沿革 開拓以前 郷土の夜明け
 我が部落は屯田兵の入植で開拓されたが、それ以前は原始林に覆われた太古のままであった。 然し近年考古学の上から、当地方に出土する石器や、土器の解明が進み、一万年以前から、人類が住んでいたと云われている。 当部落東山麓に続く、タチカルシナイ移籍からは、多くの石器が発掘されている。
 これ等の事柄は専門の研究書や、近隣町村の町村史に評記されているので省略する。
 幕末の探検家松浦武史郎が、略百三十年前安政五年五月北見管内各地を巡視し。五月二十二日(旧暦)湧別の浜より四人のアイヌを案内にして、湧別川を沿って原野を上り、ウベツカイ(現在の開盛)下手に一泊し、二十三日遠軽まで足を伸ばして探り、イタラ川口(生田原川)まで戻って一泊し、翌二十四日夕暮れに湧別の浜に戻った。(戌申由字辺都日誌)
 これが和人として当地方に足を踏み入れた最初の人であった。
 明治に入って北方の警備と開拓が急務となり、道内各地に屯田兵が置かれたが、明治十九年七月に、当時の屯田本部長、永山武史郎将軍は、荒城重雄少佐、栃内元吉大尉、富田貞賢曹長等部下を従えて、増毛に上陸宗谷を経て北見各地を巡視し、湧別原野を踏査した。
 この時湧別原野の肥沃にして、交通の使なるを察し、北門警備と開発に屯田兵の設置を決意し、翌三十年更に栃内副官を派遣して、湧別原野、常呂原野の内部を実地調査せしめた。

 明治二十二年夏永山道庁長官は、忠別太(旭川神居一条)より網走間道路は、兵備上植民上緊急の事業として、空知監獄の囚人を使い、白滝峠を越え湧別浜まで、幅六尺の仮道路を切開かせた。 湧別原野のこの地に、道路らしきものがつけられた最初である。

 道庁は明治二十二年に湧別原野と常呂原野を植民地として選定し、明治二十三・四年に区画測量が、道庁技師内田瀞を主任として実施された。 湧別の浜より遠軽町野上変電所に至る、上下湧別原野が巨木を倒し、身丈を超す葺、笹の中を刈分け測量が行われた。 

中央道路、基線道路の開削
 北見地方の開発を急いだ北海道庁は。明治二十三年釧路集治監(現在の刑務所)の囚人を網走に分監(現在の網走刑務所)を開いて移し、翌二十四年四月から網走より、忠別太(現旭川市神居一条)に至る中央道路の開削に当たらせた。 旭川よりは空知集治監が当り、網走から野付牛(現北見市)、ルベシベ、遠軽を通って白滝まで、二三0キロの新道は、網走分監の囚人が使われた。 就役囚人は千弐百人近く、日夜の酷使で死亡する者、二百人を超したと云われる尊い犠牲によって、この年十二月に完成した。
 翌明治二十五年には、湧別浜を基点として遠軽町野上の中央道路まで、二十六キロの基線道路が、同じく網走分監の囚人の手によって、開削された。 死亡者は十九名と言う。こうして全くの未開地の当地方が、旭川、滝川と道央に通じるようになったのである。

屯田兵設置決る
 明治二十五年には湧別原野・上常呂原野が屯田兵設置のため、陸軍用地に編入された。 湧別原野は基線六号より南方サナブチ川までの土地、一、二九四万二千坪を予定地とした。
 明治二十八年には屯田兵村として、新たに区画の測量調査が行われた。
 この年当時屯田兵第四大隊長小泉正保中佐は、根室国和田村より太田屯田と視察し、標茶・弟子屈・野川を経て北見入りした。 この復命書によると、
 九月二十九日部下を従えて根室を馬で出発し、太田屯田兵村を視察後、十月三日厚岸を出発、弟子屈を通って硫黄山で一泊し、四日野川を経て網走に到着した。
 網走で屯田兵の入地及び物資輸送や、交通事情調査等を行い、七日網走を出発、中央道路を野付牛に向かい、二号駅逓(端野一区)に一泊し、翌八日野付牛・相内を視察して、四号駅逓(ルベシベ峠)に宿泊、九日遠軽を経て湧別屯田予定地の状況を詳細に視察した。
 この時、湧別屯田の実測は、陸軍技手笹木五郎次が当っており、その説明を受け、湧別浜で一泊し、翌日オホーツク沿いに網走に向かい帰途に着いている。(小泉正保小伝鈴木三郎著より)
 この二十八年の実測は、屯田兵に給与する土地や、兵屋、中隊本部、各施設用地、学校、墓地、市街地(番外地)等の選定設計図の測量で、現在上湧別町郷土館に保存されている湧別屯田地図が、その時の測量図と思われる。

兵村工事
 明治二十九年春屯田兵村工事は、根室の鈴木松吉が入札請負で始められた。
 湧別屯田兵の詳細については、上湧別町史(四十三年刊行)に記載されているので、以後我が部落に関連する事項について述べよう。
 我が部落では、開盛橋の上手に高磁場が設けられ、イクタラ原野(現安国駅東の沢)より松材を伐出し、湧別川を流送して、ここで木挽製材して、建築に使用された。
 初年度移住の兵屋が、北通南側に二十四戸中通りの北側に九戸、計三十三戸の兵屋が建築された。 六戸共同の井戸も掘削された。
 然し兵村工事は、未開不便の地で職工人夫共に不足で、悪天候が加わり、木材の運搬物資の供給とうに故障百出し、工事は進行せず、三十年春の入植に支障ありとして、十二月二十九日に請負工事は取消となった。
 その後は陸軍経営部の直営で、古丹(現中湧別駅前)と南兵村二区入り口に派出所を置き。 職員人夫を増員し、賃金も増して工事の完成に全力をあげた。 然し三十年五月に第1回の屯田兵が入地した時はほとんどが半成の状況であった。

 追記 本誌原稿が総て終わった五十五年四月、部落最後の兵屋、六十七番石田周一、(清美の妻百代住居)の兵屋が取壊された。
 この時、中引、中央のカプセ接の断面に、大工名が墨で記されたのが発見された。
(記)沼 村 九六番戸(注住所と思う)
 大工 斉藤仁三郎
  大十二月十四日造  (注明治二十九年)
 これは建上げの日付と大工名であり、一区の兵屋の建上げだけで二十九年十二月いっぱいかかったものと思われる。


 戻る   屯田時代 屯田兵の移住
 湧別屯田兵の第1回移住は、明治三十年五月、武州丸であったことは周知のごとくである。
 湧別兵村誌には「輸送船ハ陸軍省御用船タル武揚丸、武州丸ノ二隻」とあるだけである。
 昭和四十三年刊行の、上湧別町史には「武州丸の乗船者は、野付牛村に入地する、第一、第二、第三中隊の二九九戸と、湧別兵村に入地する、第四、第五中隊の一九三戸であり」と誌している。これは武揚丸を無視した独断で、誤記である。
 端野町史を編集し、北見屯田兵の研究調査中の鈴木三郎(北見市)が、武州丸の第二船が、常呂屯田、湧別屯田兵を乗せ、日本海岸の敦賀より、七尾、酒田を通って宗谷岬より、網走港に着いていることを発表している。
 昭和五十三年七月、相羽静太の孫、候孝宅から、静太が故郷新潟県の父嘉尚へ出した手紙が発見された。 その移住乗船の記述で、武州丸の第二船航行が確認された。


武州丸第一船 
 屯田兵の輸送船は、いづれも二千トン以上の船で、当時の港湾事情が悪く、こうした大船の荷役の出来る港が少く、特定の港まで屯田兵は家族をつれ、荷物を持って集合した。
 熊本や宮崎県の人達は、門司まで、四国の高知、徳島の人達は、神戸まで、三重、岐阜県の人達は、愛知県武豊港
まで何日もかけて集合した。
 小田井鶴治の家族は、鳥取県の下郷村から、中国山脈の峠を越て岡山に出て、広島県の尾道港に出ている。 相ノ内屯田兵が残した日記によると、鳥取県東伯郡の倉吉(郷里より二里)を立ち、関金温泉に宿り、翌日、「二里の上りの峠に登れば、四方開濶展望自在、雲の如く幽かに見ゆる馬の山、橋津が浦の青海、あの辺りこそ我等が生れ故郷ぞ、生まれて再び此の国境を越ゆることの有や無やと、同じ境遇なる同行の友達と憩ふて、語り合いつつ目を転ぜば、雄然として立つ三個の蛭山、更に眉を上ぐれば、巍々として雲表として立つ大神山(伯耆大山)、中国山脈の主峰として、我等が国自慢第一の名山を仰ぎつつ、さながら巨人に送らるる心地して、八月の炎天を汗に沁みて歩みぬ。
 父は病気殆んど癒えて近来希に見る元気なりしかば、十歳の弟光太郎の手を曳き、母は末の妹とみ子を背負い、十四歳と十八歳の妹には、小荷物を背にして甲斐甲斐しく草鞋がけ、休みては行き憩ふては歩みぬ。
 一日の行程四・五里の山路を、子供連れの捗らねば幾夜の旅枕を重ねて、卒しも着きし美作の高田、此地よりは船揖の便ありければ、高瀬舟に乗りて山陽一の大河なる旭川の急流を下りぬ。 途中、屏風嶽等の奇勝をめでつつ、十八里が程を日のうちに下りて備前の岡山に着きぬ。 これよりは鉄道によりて汽車の窓より福山城などを見つ、程なく尾ノ道市に到着して、一週間の滞在に旅の疲れを癒し」

 この文のように小田井一家も、この道を同じように幾夜の旅を続けたであろう。
 武州丸第一船は湧別屯田兵のみで、沢口作一の手記では、三十年五月八日夜半、門司を最初の屯田兵を乗せて出航したと言ふ。
 樋口幸吉の日記には
 五月十三日 午前七時四十分大垣発(岐阜県)
         午后十二時  武豊着(愛知県)
 五月十七日 武豊出発  午後四時(注武州丸)
    十九日 午前八時 陸奥萩ノ浜ニ着シ
    同 日  午後六時 発シ
 五月廿一日 北海道小樽ニ午後二時着
         是ヨリ廿二日廿三日碇泊シ
    廿三日 午後十二時発シ
    廿五日 午前四時湧別ニ着
    廿六日 船中ニ碇泊シ
    廿七日 午前九時上陸ス
    廿九日 午前六時当地出立 午前十二時我家ニ着ス
 以上の記録から、武州丸の航行は

  門 司 五月八日出発
  尾ノ道
  神 戸
  武 豊 五月十七日着
  萩ノ浜    十九日着
  小 樽   二十一日着 二十三日夜発
  湧 別   二十五日朝着
         二十七日上陸
 となるが、翌年の東都丸は、門司から三重県の四日市まで、同じ航路で、四日間であるのに、武州丸がなぜ門司、部豊の間を十日もかかったのか疑問の点が多い。
 第一船の武州丸は、湧別屯田兵一九0戸を乗せて来たが、宮城県萩ノ浜で、一人の男の子が生まれた。 船での出生はお目出度いことだと、船長が名付け親となり、船の名をとり、武修と命名した。 この人が当部落の服部熊次郎の弟、服部武修であった。

 武州丸は小樽港に碇泊して、兵村用の物資材料を積みこんで、五月二十五日早朝、湧別の浜に着いた。 しかし海が荒れて上陸出来ず、二十七日午前九時頃から、百人乗の船五隻で上陸が開始された。 時化の余波で荒れる海での乗移りは、女や子供には命がけの仕事で、後々まで話のたねになった。
 当時の湧別市街は、駅逓、説教所の外四十戸ばかりの民家があるだけで、数戸の家族が、一軒の民家に割当てられ分宿した。
 二十八日は陸上げされた荷物wお受け取ったり休養し、二十九日指示を受けたそれぞれの区隊の兵屋に向かって出発入地したのである。


武州丸第二船
 五月二十七日、屯田兵を上陸させ、荷物を下ろした武州丸は、直ちに石川県七尾港に向け出航した。 これが第二船である。
  前記のように、相羽静太が湧別浜に到着し、同地で郷里の父宛に出した手紙は、

 新潟県中頸城郡大崎村石塚
   相羽嘉尚様
     北見国紋別郡湧別兵村第四中隊
       第六十号  相羽静太


 謹啓、前略御免下度候  陳者  必要品ハ来ル廿四、五日頃迄ニ取調御送リ可申候間、宜敷御取計被成下度奉願候 今ハ唯航路丈ケ御報申上候
 廿六日ハ幸ヒ汽船通航可致旨、佐渡ヨリ通知之有回船問屋ニテハ責任ヲ負うテ 引請候ニヨリ 夕刻迄待居候処、三艘之汽船入来リ候ニ付 午後十一時頃北越丸ヘ乗込ミ候(注直江津港)コノ日ハ風波険悪ナリシタメ船ノ動揺繁シク、一同船眩ヲ感ジ  頗ル困却仕候翌朝新潟ヘ着任リ、新潟県庁ヘ届出候処、三十日早朝出航可仕ニ付其準備ヲナスヘキ様 言達有之候ニヨリ 其間一同新潟ヲ見物致シ候
 三十日出立セントテ 夫々用意致候処 船ハ来ラズ 且ツ何船ナルヤ判然不仕候 七尾ヘ向ケ照会相成候処 二、三日ニ来ル筈トノ回電有之候ノミニシテ 何日出立トモ難計候也、一日午後十一時頃ニ至リ、県官ヨリ明日午後一時頃出航可仕候言達有之候ニヨリ 夫々準備致シ 午後五時 本船ニ乗移リ候

 新潟県ヨリハ 本県人五戸 福島県人十一戸乗込ミ 七尾ヨリハ石川県人七十六戸乗込ミ候 本県人ハ重ニ四・五中隊 他ハ一、二三中隊ニ有之候 人数ハ凡ソ六百名モ有之候 船ハ横七間 長五十間モアル鉄船ニシテ 動揺尠ク 上甲板ニ至リ海上ヲ見テ 始テ船ノ進行スルヲ知ル位ニ候
 翌日 舟川(注秋田県男鹿船川)ニ至リ 山形県人十一戸 其翌日ハ青森ニテ 同県人三戸乗込ミ 同日小樽ヘ向テ出航致シ 五日午後四時ニ同地ヘ着仕候 爰ニテ石炭 味噌 米等ヲ積込ミ 六日午後十一時頃 同地出航網走ヘ向ケ進行仕候(中略)
 網走ニ至リテハ、一、二、三中隊ヲ上陸セシメ候 此船ハ巳ニ第一回屯田兵ヲ乗戴して湧別ニ至リ 今回ハ第二回目トノ事ニ御座候八日午後十一時出航後戻リヲナシ 紋別ニ至リ 夫レヨリ湧別村ニ至リ候 一同何レモ無事ニ御座候 当地ハ怡乍 内地ノ四月下旬頃ノ気候ノ如ク 山桜ハ目下花盛リニ御座候(以下省略)

                   六月九日  相羽静太
 以上の記述から 武州丸第二船は
 五月二十七日夜 湧別浜出航七尾へ向う
 六月一日     七尾港(石川県)着
    二日     新潟着  夜出港
    三日     船川港(秋田県男鹿)
    四日     青森港着 同日出航
 五日午后四時  小樽港着
 六日午後十一時 小樽出航
 八日        網走鱒浦着 夜十一時出航
 九日        湧別浜着


 第二船の湧別屯田兵は、九日に上陸し湧別浜で一泊し、十日に兵村内に移住した。
 この第二船に、湧別屯田兵は、新潟県五戸、青森県三戸、秋田県一戸の計九戸であり、常呂屯田兵(一、二、三中隊)は、石川県七十六戸、福島県十一戸、山形県十一戸で、約百戸が乗船していたのである。
 湧別兵村誌(大正十年刊行)の各伝記に相羽静太は、明治三十年五月二十九日移住と誌されており、その他調べると、新潟県人五戸のうち、相羽静太、高橋仁平(五ノ三)が、五月二十九日となっており、青森県の三戸のうち、工藤柾次郎(四ノ三)、野崎勇吉(四ノ三)が、五月二十九日、秋田県具田保治が、六月十一日となっている。 これはいずれも、六月十日の誤記である。 又愛知県で高木脇太郎(五ノ三)だけが、六月十日となっており、これは五月二十九日の誤りであろう。
 明治三十年の湧別屯田兵は、武州丸第一船で一九0戸、第二船で九戸、残り一戸は、三重県萩州秀吉(五ノ一)で、七月二十二日に移住し、合計二00戸の移住が完了した。
 武揚丸は、常呂屯田兵の輸送にあたり、愛知県武豊を最初の出航地とし、武州丸とは反対に、神戸、呉、門司より日本海を廻り、敦賀、伏木(富山県)を回航して、六月五日網走に着いた。 この間十五日を言われている処から、五月二十日頃に武豊を出港したものと思われる。 この武揚丸には、約二00戸弱の屯田兵が乗船し、六月五日網走の鱒浦に上陸し、七日に端野、野付牛(北見市)相内の各兵村に移住した。


屯田兵の入地
 五月二十九日午前六時、いよいよ兵村に向かって浜市街を出発した。 大きな荷物は、区隊毎に中隊で雇った馬車に乗せて運ばせ、小さな荷物は、背負ったり手に掲げたり、幼い子どもの手を引いて、四中隊一区のものから順に歩き出したという。
 五月も末と言うのに、山肌や、窪地には、雪が残っており、打ち続く林は枯れ木同様に、青い芽も吹かず、荒漠とした原野の中に、兵村工事のため踏み荒れた基線道路をお互いに声を掛け合い、励まし合いながら歩き続けた。 
 語注隊の人達と別れて、四中隊の人達は、二里余り(八キロ)を四時間以上もかかり、中隊本部(十五号線)に着いた。中隊本部では、鷲山実平曹長から「お前達の入る弊屋はまだ出来上がっていないし、道路もないので、今から鎌を渡すので、笹を刈りながら自分の番号を見て、家を探して行くように」と種々の注意を受けて出発した。
 道路は基線道路だけで、兵村内は建築工事の人夫が通った跡があるのみで、木舞に書いて立てある番号を探して、自分の家に入るまでは、大変なことであったと思う。
 樋口日記は「午前十二時我家ニ着ス」と書いてあり、家に着いてみると、兵屋とは名のみで、柱の上に屋根が出来ているだけで、家の中の土間には、熊笹がいっぱい繁っている始末であった。 この有様にかねて覚悟の上とは言え、女や子どもの中には泣き出す人もあったとゆう。
 まづ炉端に土を入れて火を焚けるようにすること、家の中の笹や木株を片付け土間の整備、共同井戸までの刈分道路をつけて飲用水の確保や、壁板を立掛け寝む処の造作など、休む暇なく第一夜を迎えるまで働いた。

 夜はまだ相当に冷える時で、未完成の兵屋の中で、官給の寝具持参した夜具を合せ、家族中だき合って、兵村最初の一夜を、どんな思いで過ごしたことでしょう。 遠く離れた故郷のことや、これからの不安と期待、希望が入り混じって、ほとんど眠られない夜を明かしたと言う。
 到着後二日間は中隊よりの炊き出しが行われ、三日目から白米が給与された。 四中隊は、南兵村二区中通りの小川にかかっていた。 大和橋のそばにあった兵村工事作業場が、炊事場となっていた。 ここから各区隊の中心まで運んで、各戸に配分されたとゆう。
 大工が壁板を張ったり、戸障子を立てたり、障子を張りに来る作業を手伝って、一日も早く住宅を完成することが第一であった。
 この間、中隊よりの官給品、鍋、鉄瓶、茶碗、皿、水桶などの炊事道具や、鍬、鎌、鋸、鉈などの農具を、本部まで行って支給を受けた。
 兵村内は、間口三十間、奥行六十間の六反歩の第一給与地の道路に面して、兵屋が三十間おきに建てられた。 道路の北側の兵屋は南向きに、道路南側の兵屋は東向きに建てられていた。 従って本部の命令などは「おーい鍬や鋸を渡すから、本部まで直く出ろー」と、隣から隣に声をかけ合えば、一戸一戸命令を、つたえるより早かったと言う。 又異なった県人が隣り合っても、心強く張合いもあったであろう。
 家族のものは、中隊の指導で弊屋内外の整備に取りかかった。

1, 道路から家までの通行路は、路巾二間とし、左右に深一尺、巾二尺づつの溝を掘りその堀上げた土を路の中央にカマボコ形に盛り砂利を敷くこと、路の実巾を九尺とし、溝の縁には木材を置き、道路がくずれないようにすること。
2, 門柱は廻り三尺以上の木を、丈九尺に切り、皮をはぎ、根焼を為し、路巾に倣い三尺地下に埋め、入り口左右に樹ること。
3, 兵屋の外廻りは、前四間、後五間、左右は三間の地面を、雑草笹を取って均平し、その周囲に小溝を掘り、作物収穫の場として整備すること。
4, 両隣に通じる小径は、一間巾に造り、其両側に小溝をもうけること。
5, 家屋入り口の階段及び雨落土留は、適宜石又は木材を以て造ること。
6, 家屋水流しの後方三間の処に、横三尺、縦四尺、深三尺の下水溜を掘り、総て木で囲い、常に蓋を覆い置き、肥料に供すること。
7, 兵屋内にある炉中には、土砂を入れ其の上に灰を入れ、火災の患いなき様充分注意すること。
 これらの作業を到着後、十日以内に仕上げて、係官の検査を受けることになっていた。
 このように家の廻りの整備が出来ると、直ちに開墾が始められた。 この開墾も中隊の指示で、道路に面した左右の土地を開墾し、それが終わってから、家の奥の土地を開墾するという順序であった。

 南兵村一区は疎林原野地帯であったが、それでも鋸や斧で立木を倒し、背丈もある熊笹を刈り、焼きはらって、唐鍬で一鍬一鍬、はねかえる太い笹の根、木の根をたたき切るようにして起して行く事は、大変な仕事であった。大の男でも一日かかって、一畝か一畝半位を耕す程度であったと言う。
 樋口日記には
 六月五日  芋植え    七日  夏大根種蒔
    十日  唐トウモロコシ種蒔  十五日  人参 種蒔
   廿四日  アハ種蒔
 とあり開墾蒔付が遅々としている状況が推測される。
 屯田兵の入隊式が何時行われたか不明だが、武州丸第二船の常呂屯田兵も、六月十日の移住であることから考えて、六月二十日の前後に入隊式が行われたものと思われる。
 こいして屯田兵は、軍隊教育を受けるかたわら、共同で区内の道路の掘削、橋架けなどの作業に努力し、家族は原野の開墾に精魂を打ち込んで、この部落の基礎づくりの、第一歩が踏み出されたのである。

 明治三十年五月二十九日、当部落に入地した屯田兵は、三十二戸で(相羽静太が六月十日に移住)、この日は上湧別町の開基であり我が部落の誕生の日でもある。
 出身府県は
   愛知県  拾壱戸   岐阜県  五戸
   熊本県  五戸     三重県  四戸
   宮城県  三戸     福島県  二戸
   新潟県 愛媛県 鳥取県  各一戸
 計三十三戸となっている。


三十一年兵の移住
 三十一年兵の移住は、兵屋の建築が遅れて、春の入植予定が大幅に延びて八月まで待たされた。
 輸送船は東都丸(日本郵船)で、最初は門司から神戸、四日市、萩ノ浜と太平洋を回航して、小樽から湧別、網走港に入ったのを、第一船と言う。 その後日本海の敦賀から新潟、酒田を回航したのを第二船と言っている。
 この東都丸の運行について、湧別屯田兵や相ノ内屯田兵の手記、談話から見ると、次のように運行された。
 東都丸第一船  太平洋岸回航
 八月十八日  門司港を出船
    十九日  尾ノ道(広島県)
    二十日  神戸
   二十二日  四日市(三重県) 萩ノ浜(二十五日頃か)
   三十日朝  湧別浜着 湧別屯田兵上陸
   三十一日  網走に到着海荒れて上陸出来ず
   九月一日  ポンモイ岬より常呂屯田上陸
 この東都丸第一船に乗船した阿部史郎の手記によると、

「四日市ヲ出港セシ時ハ 晴天ニテ波静ナリ。 遠州灘ニサシカカリシ時ヨリ 急ニ雷雨ヲ伴ウ暴風雨トナレリ。 船ハ前進デキズ雷雨ト大波ノ中ヲ漂ウノミ 大波船上ヲ洗流シ同様甚ダシク 恐ロシサニ悲鳴ヲアゲル者アリ。 又船酔ニ苦シム声 船中ヲ満ス。コノママ航海ヲ続行セバ、人名ヲモ失フ状態ナリ。 指揮官遂ニ避難ノ命ヲ船長ニ下シ 漸ク荒海ヲ凌ギ辛ウジテ房州(千葉県)館山ニ入港ス」
 大暴風に遭遇した模様を記している
 東都丸第二船  日本海廻航
  九月一日夜  日本海廻航
     七日    敦賀出港
            七尾(石川県) 新潟 酒田(山形県)
  九月十三日  湧別浜着 湧別屯田兵上陸
     十四日  網走着 常呂屯田兵上陸
 東都丸第一船、第二船とも、小樽港に寄港しているものと思われる。 八月三十日上陸した第一船の屯田兵は、九月一日に兵村に移住し、九月十三日に上陸した第二船の屯田兵は、十四日に兵村に入植した。
 三十一年兵(新兵)の入地は、兵屋も完成し、古兵が受持と称して、新兵一戸を担当し、炉には火を炊き御飯を炊いて、歓迎し、生活から開墾に至まで世話をしたと言う。一区では、中通りの古兵が、兵屋順に南通南側の新兵の受持として世話をした。
 三十一年兵は、三十六戸二四五人で、山形県人が十一戸、石川県が三戸其の他は一、二戸である。
 両年度の入植者は合計六十九戸、四六一人で、我が部落、南兵村一区が完成されたのである。

     
屯田兵略歴  (兵屋番号順)
一番 上屋梅吉  明治31年9月1日入地  奈良県吉野郡十津川村大字小山
家族 父正義 母とら 妻ふゆ 弟武次郎 貞光 長女シゲノ
長男秀雄 二男熊等
大正2年開盛に移り 昭和7年11月死亡 
二番 井上繁治  明治31年9月14日入地  山形県北村山郡長静村大字長静
家族 父八右ェ門 母ヒデ 妻トラ 弟富治 弟妻トメ
日露戦役従軍 38年3月8日転湾橋にて戦死
 
三番 浜口鉄蔵 明治31年9月1日入地  鳥取県東伯郡下北条村大字松神村
家族 父善平 母きみ 弟虎蔵 善太郎 妹すゑ
昭和34年12月死亡 
四番 大泉富蔵  明治31年9月14日入地 山形県西村山醍醐村大字日和田
家族 兄豊吉 妹モト 弟助四郎 妻ちゑ
昭和32年7月31日死亡 
五番 小野 豊  明治31年9月1日入地 福島県伊達郡上保原村
家族 母タツ 弟友治 惣太郎 妹マン (妻トミ田中光三郎妹)
昭和20年3月23日内郷市で死亡
六番 阿部忠蔵  明治31年9月14日入地  山形県東村山村大字中野目
家族 父熊次郎 母みね 妻のよ 妹みを みゑ つた
日露戦役従軍明治37年11月30日呂洵赤坂山にて戦死 
七番 宮崎一之助  明治31年9月1日入地  岐阜県稲葉郡加納町大字東加納七軒町
家族 父源兵衛 母イト 姉ジヨウ 弟源六 幸吉 妹トノ トメ ハマ
昭和13年7月19日死亡
 
八番 遠藤善蔵  明治31年9月14日入地  山形県南村山郡東沢村大字宝沢
家族 養父亀治 養母ミエ 妻ミサ 義妹ミン ミエ フク タツ
 義弟栄七 弟須松 竹松 鶴吉 長男善之助
昭和12年8月遠軽にて死亡
九番  阿部四郎 明治31年9月1日入地 三重県桑名郡野代村大字南の郷
家族 父儀三郎 母シキ 妹マサオ マキノ サワノ ハルオ
弟三郎 妻とら
昭和41年5月11日死亡 
十番 穴田助太郎  明治31年9月14日  石川県河北郡花園村字岸川
家族 父次郎助 母キン 弟宗太郎 三四郎 妹ハル (妻キノ)
昭和27年2月21日死亡 
十一番  杉谷芳太郎  明治31年9月1日入地  佐賀県藤津郡五町田村字谷所
家族 父又次郎 母タケ 祖母スマ 妹マス ワキ スエ 
 弟藤太郎 梅吉
昭和29年3月死亡 
十二番  小関与八  明治31年9月14日入地  山形県東村山郡明治村大字灰塚
家族 兄文四郎 兄妻ユリ 甥洵一郎 姪チン
昭和45年10月4日 屯市にて死亡 
十三番 西村幸一  明治31年9月1日入地  山口県玖珂郡本郷村第七二七番屋敷
家族 小宗助 母シゲノ 妹テイ キク
昭和30年5月29日死亡 
十四番  中橋兵次郎  明治31年9月14日入地  石川県石川郡一木村字村井
家族 父善四郎 母津ヨ 弟長松 安次郎 義兄与三郎
義兄妻くさ 甥与作
昭和3年8月14日遠軽にて死亡 
十五番  中村俊潁  明治31年9月1日入地  三重県志摩郡浜島村大字迫子
家族 父宗助 母ハル 兄幸吉 弟宗吾 辰平
日露戦役従軍38年3月4日姚家屯にて戦死 
十六番 佐藤喜久治  明治31年9月1日入地  山形県北村山郡大富村大字羽入
家族 母ミカ 妻キヨ 姉フテ 弟喜代三 喜三郎 妹トメ 
ヨ子 伯父重蔵
昭和24年2月10日富美娘の家にて死亡 
十七番 熊勢 勲  明治31年9月1日入地  高知県香美郡槇山村大栃百三十番
家族 父正 母美津 姉敏 弟一徳 孫彦 
妹乙女 辰(妻終西村幸一妹)
昭和22年2月11日死亡 
十八番  山崎佐太郎  明治31年9月14日入地  石川県河北郡西英村字多田
家族 父市三郎 母めつ 弟乙吉 長松 
(妻フヨ穴田宗太郎妹)
昭和44年8月7日死亡 
十九番  鳥井 始  明治31年9月1日入地  熊本県上益城郡六嘉村大字六嘉
家族 父嘉平 母トシエ 姉モキ ツデ 弟三四郎
(妻シモ松野和蔵妹)
昭和24年10月17日死去 
二十番  水野安太郎  明治31年9月14日入地  富山県下新川郡萩生村大字萩村
家族 父米吉 母ヨキ 弟松次郎 直次郎 貞次郎 権作
石次郎 妻ミキ)
大正2年9月17日死亡 
二一番  小野寺半右ェ門  明治31年9月1日入地  岩手県東磐井郡生母村赤生津103
家族 祖父官平 父恒三郎 母チヨ 弟正 勇 
妹カシク (妻イトヂ遠藤清五郎妹)
昭和36年8月1日死亡 
二二番 佐藤小三郎  明治31年9月14日入地  山形県西村山郡醍醐村大字箕輪
家族 父吉蔵 母ミナ 妻モト 妹ミヨ シゲエ マサ江
アサノ
昭和11年9月29日死亡 
二三番 川野小太郎  明治31年9月1日入地  千葉県西瑳郡白浜村大字木戸
家族 父永五郎 母ツネ 妻サダ 長男忠嘉 妹徳
義弟荒治郎 義妹テツ
昭和3年2月29日死亡 
二四番 谷口栄吉  明治31年9月14日入地  福島県今立郡北日野付蔦岡二号二番
家族 父恭平 母サキ 兄善蔵 弟勇吉
日露戦役に従軍壮烈な戦死 
二五番 田島芳平  明治31年9月1日入地  埼玉県児玉郡東児玉村阿那志
家族 父常吉 母スキ 妹ヌイ フサ 妻シナ
昭和31年4月13日死亡 
二六番 細川綱治  明治31年9月14日入地  新潟県西蒲浦郡松長村
家族 父清作 母ヤエ 兄鉄蔵 弟福治 音蔵 
斉次郎 達次 妹セイ セキ
大正14年4月9日死亡 
二七番 安本喜代八  明治31年9月1日入地  鳥取県東伯郡竹田村大字曹源寺三番
家族 父信蔵 母しか 弟庄蔵 義信 妹つね
(妻しげ江佐藤小三郎妹)
大正5年9月4日死亡 
二八番 中野弥作  明治31年9月14日入地  新潟県南蒲原郡田上村大字田上
家族 父弥吉 母スキ 弟弥一 (妻サツキ加茂) 
二九番 野田喜一  明治30年5月29日入地  岐阜県山県郡厳美村石原二三番地
家族 父芳松 母古満 弟源 (妻むめ石田周一妹)
昭和39年8月24日死亡 
三十番 市村喜次郎  明治31年9月1日入地  岐阜県郡上郡北濃村
家族 父銀十郎 兄啓次郎 須之助 弟儀三 妹カツ
(妻フイ松野和蔵妹)
昭和24年8月8日死亡 
三一番  田宮森太郎  明治30年5月29日入地  愛媛県新居郡金子村大字新須賀
家族 父吉 母エイ 妹マサ 数代 キミ 愛
大正11年8月27日死亡 
三二番  矢萩市次  明治31年9月14日入地  山形県北村山郡大高根村大字白鳥
家族 父宇多治 母フジ 弟助治 藤多 妹トメヨ
養子耕造 (妻ユカ奥山)
昭和15年7月7日交通事故死 
三三番  南 緩蔵  明治30年5月29日入地  熊本県上益城郡木倉村
家族 父亭 母春 妻繁母 弟明 妹末女 セイ 愛
忠(粂)
昭和20年5月1日死亡 
三四番  三品玉吉  明治31年9月1日入地  福島県伊達郡栗野村
家族 父丈右ェ門 母リヤウ 妻トラ(菅野) 弟玉七
長女シイ
昭和45年3月28日死亡 
三五番 加茂干治  明治30年5月29日入地  宮城県柴田郡船岡村大字中名生
家族 父勘六 母ゆう 姉つる 弟留吉 熊蔵 兄勘蔵
兄の妻しな (妻ハル)
日露戦役従軍38年7月1日戦死 
三六番  東海林作太郎  明治31年9月14日入地  山形県北村山郡福原村大字野黒沢
家族 父武助 母サヨ 妹サダ 弟与惣治 要太
(妻ミヤ高橋三之助妹)
昭和10年5月19日死亡 
三七番  秦野又三郎  明治30年5月29日入地  愛知県東春日井郡小牧町大字小牧原新田
家族 父甚九郎 母さわ 弟栄九郎 兼松 勘三郎
妹こぎん (妻うめ長谷川兼次郎妹)
昭和17年11月2日死亡 
三八番  遠藤清五郎  明治31年9月1日入地  宮城県伊具郡桜村左倉
家族 父幸助 母まさよ 妻ちん 弟幸右ェ門
昭和16年5月28日死亡 
三九番  福田仙次郎  明治30年5月29日  三重県三重郡八郷村大字伊坂
家族 父彦兵衛 母志げ 兄彦蔵 
(妻すゑ諸岡元太郎妹)
昭和13年3月26日死亡 
四十番  佐藤助蔵  明治31年9月14日入地  山形県西田川郡袖浦村大字黒森
家族 父今蔵 母久野 弟甚吉 甚蔵 甚作 庄蔵
福次郎 妹信
失踪行方不明 
四一番  吉村友弥  明治30年5月29日入地  岐阜県本巣郡本巣村大字真桑
家族 父藤三郎 姉ぬき つね 弟政治 甥秀太郎
(妻ミツヨ嘉野十松妹)
昭和19年4月21日死亡 
四二番  会田小七  明治31年9月14日入地  山形県南村山郡東沢村大字妙見
家族 父小三郎 母キク (妻ちん斉藤) 
四三番  落合仲次郎  明治30年5月29日入地  愛知県東春日井郡小牧町大字原新田
家族 父萬右ェ門 母志よう 兄金五郎 妹かね 
れい 弟仙太郎 (妻信佐藤)
昭和35年3月5日死亡 
四四番   井上亀蔵 明治31年9月1日入地  京都府与謝郡本庄宇治村大字本庄浜
家族 父辰蔵 母ふき 姉よつ 叔父友吉
(妻シヨウ高木脇太郎妹)
日露戦役従軍38年3月2日戦死 
四五番  野田松次郎  明治31年9月1日入地  愛知県東春日井郡志談村大字下志談味
家族 母きく 弟政次 鎌次郎 伊三郎 妹れい
あき (妻カネ落合仲次郎妹)
大正13年4月3日死亡 
四六番  河瀬弁次郎  明治30年5月29日入地  岐阜県揖斐郡八幡村大字市橋
家族 父円四郎 母わゑ 弟惣三郎 
(妻とき高橋太蔵妹) 
昭和35年11月15日列車事故死
四七番  中村平五郎  明治30年5月29日入地  熊本県飽託郡広畑村字長領
家族 父慶吉 母タツ 弟巳之八 妹ハツモ アキ
(妻カメ川上) 

大正13年7月22日死亡
四八番  長谷川幸八  明治30年5月29日入地  愛知県西春日井郡如意村大字宇如意
家族 父勝治郎 妻くう 養女かく
昭和17年5月27日湧別浜機雷事故で死亡 
四九番  樋口幸吉  明治30年5月29日入地  岐阜県安八群神戸町大字北一色
家族 父兼助 母ふき 弟耕平 七作 妹きしの
むら しげの いちの きくゑ
昭和34年5月18日死亡 
五十番  宍戸運次郎  明治30年5月29日入地  宮城県伊具郡東根村小坂
家族 父喜三太 母とよ 姉さく 弟善吉
昭和24年12月11日死亡 
五一番  岡村小太郎  明治30年5月29日入地  熊本県飽託郡浜田村八四二番地
家族 父幸八 母サチ 妹ナツ 弟金作 金太郎
(妻ツデ鳥井始妹)
日露戦役従軍38年3月8日戦傷
昭和20年11月1日死亡 
五二番  安部川環  明治30年5月29日入地  宮城県遠田郡桶谷村字桶谷
家族 父嘉蔵 母こちやふ 妻むめ 長男銀助
妹ひさよ とめの はるへ
日露戦役従軍 明治45年3月2日死亡 
五三番  栗木重太郎  明治30年5月29日入地  愛知県東春日井郡岩崎村大字岩崎
家族 父重右ェ門 母きぬ 姉きん 義妹ますよ
(妻ぎん小島善助妹)
昭和13年3月16日死亡 
五四番  原野秋蔵  明治30年5月29日入地  三重県鈴鹿郡関村大字古厩
家族 父吉蔵 母りき 弟五百二 萬蔵 大蔵
(妻とめ梶原石五郎妹)
昭和17年4月2日死亡 
五五番  諸岡元太郎  明治30年5月29日入地  三重県三重郡朝上村田光
家族 父善四郎 母つる 兄寅松 兄の妻まつ
妹とら すゑの 姪みつゑ (妻敏 熊勢勲姉)
昭和17年7月14日死亡 
五六番  中山長蔵  明治30年5月29日入地  福島県伊達郡栗野村二野袋字大正
家族 養父徳蔵 母ナチ 弟徳治 妹ナツ トメコ
弟徳三郎 (妻ギン栗木重太郎姉)
昭和5年4月25日死亡 
五七番  服部熊治郎  明治30年5月29日入地  愛知県西春日井郡終わり村大字市之久田
家族 父市兵衛 母きぬ 妻れい 祖父定七
祖母れい 弟平八 兼吉 安次郎 武修
昭和30年5月1日死亡 
五八番  小川国次郎  明治30年5月29日入地  愛知県西春日井郡如意村大字如意
家族 父喜右ェ門 母きの 妻てる 弟伊三郎
弟妻なか 妹はな
昭和3年2月28日死亡 
五九番  脇島末三郎  明治30年5月29日入地  愛知県西春日井郡如意村大字喜惣治新田
家族 母多か 妻せき 養女まさの
日露戦役従軍 
昭和24年8月10日死亡 
六十番  大甕慶蔵  明治30年5月29日入地  福島県相馬郡金房村飯崎字原
家族 父栄光 母マツ 妻トヨ 弟鉱造 広治
日露戦役従軍
昭和5年11月29日死亡 
六一番  平手宮次郎  明治30年5月29日入地  愛知県東春日井郡岩崎村字岩崎
家族 父銀右ェ門 母たき 妹かね 妻あさ
弟蔦三郎(弟平義)
昭和44年死亡 
六二番  福田甚吉  明治30年5月29日入地  三重県三重郡八郷村大字伊坂
家族 父甚作 母いな 妻いし 弟甚平 利正
政義 妹すゑ 八重
昭和42年3月死亡 
六三番  相羽静太  明治30年6月10日入地  新潟県中頸城郡大崎村大字石塚
家族 父嘉尚 母テイ 妻ミキ 妹ツエ トエ リエ
マツヱ
昭和12年2月25日死亡 
六四番  石坂岩彦  明治30年5月29日入地  熊本県飽託郡供合村大字推字
家族 父次郎作 母サチ 妻松女 弟熊彦
昭和17年7月12日死亡 
六五番  松野和蔵  明治30年5月29日入地  熊本県鹿本郡嶽間村大字推持
家族 父和三次 母ユキ 妹フイ シモ 
弟謙三(妻まさの脇島末三郎養女)
昭和15年6月24日死亡 
六六番  小島善助  明治30年5月25日入地  愛知県東春日井郡高間村大字幸心
家族 父八右ェ門 母わき 弟鉄治 妹ぎん
(妻みか井村伊三郎妹)
昭和47年12月16日死亡 
六七番  石田周一  明治30年5月29日入地  岐阜県揖斐郡池田村大字六之井
家族 父弥助 母いと 妹むめ 弟喜一
(妻かつ市村喜次郎妹)
日露戦役従軍
38年3月6日戦死 
六八番  稲垣兼吉  明治30年5月29日入地  愛知県東春日井郡片山村大字牛山
家族 父勝平 母やす 弟音松 喜兵衛 金十郎
妹たき (妻じょう宮崎市之助姉)
大正15年9月6日死亡 
六九番  小田井鶴治  明治30年5月29日入地  鳥取県東伯郡下郷村大字杉下村三番
家族 父亀次郎 母かつ 弟孫蔵 哲二 
妹なか たに
明治31年10月7日死亡 



兵村内工事
 屯田兵は移住すると、午前中は教練などの軍隊教育を受け、午后は開墾に従事した。 教育のない日は、中隊の式で区内の道路の掘削、橋梁の構築に当った。 道路は、幅員二間に排水溝を掘り、その土を路面に盛上るもので、大きな伐根では、二人掛で一日に片付けられないこともあった。 道具は唐鍬、鋸、斧、鎌、水糸などを持参するように命令されている。
 我が部落は、開盛橋の南サナブチ原野に、二六戸の新兵が第二給与地を受けた。このため部落の区域は、現在の開盛部落全域に渉り四・五中隊を通じて、一番面積が広かった。
 したがって各号線の開削距離は、最も長く橋梁も多く、区内だけでも十数ヶ所に構築された。こうした兵村工事を進める一方、給与地の開墾に努力、三十四年の秋には、ほとんどの者が皆起届を出す、優秀な成績であった。

給養班
 第四中隊 第一区隊長 歩兵中尉津田教清
        第二区隊長 歩兵中尉鈴木七郎
        第三区隊長 歩兵中尉入江鶴太郎
 各区隊は二ヶ給養班に分け、四中隊一区は第一・第二給養班、二区が第三・第四給養班、三区が第五・第六給養班となっている。
 給養班長は、最初中隊本部の下士が任命されたが、後に区隊の屯田兵の下士官が、班長に任命され、班長助手は上等兵から任命されて班長を助け、給養上の事務及び兵員家族の指導監督に当った。
 第一給養班長と勤めた樋口幸吉の日記によると、第一給養班は東一線を境にして西側の古兵新兵を合せ三十五戸で、第二給養班は東一線より東側三十四戸であった。
 最初の第一給養班長は中隊本部付の、特務曹長越智百太郎であったと言われているが、第二給養班長の名は不明である。
 明治三十二年五月二十九日付で、二等軍曹(後伍長と言う)に任官した相羽静太、樋口幸吉は、その後第一給養班長に樋口幸吉が、第二給養班長に相羽静太が任命された。
 班長助手は  第一給養班 上等兵福田仙次郎
           第二給養班 上等兵福田甚吉
 明治三十五年に給養班の区域が変更され、第一給養班は中通の南側と南通、即ち三十一年兵のみ三十六戸で半著王は軍曹相羽静太、助手は上等兵福田仙次郎、第二給養班は従って三十年兵のみ三十三戸で、班長伍長樋口幸吉、助手上等兵福田甚吉であった。
 給養班長は中隊本部の統治に入って、軍事的な兵器、被服の給与交換はもちろん、扶助米、塩菜料の給与をはじめ、教練演習の連絡、兵村工事の出役、日直、当番等の割出し等を行い、部落内の、衛生検査、家族の生活、児童の就学状況から、開墾、作付け状況等の調査等広範は仕事を受持っていた。

川上神社の創建
 部落内の屯田兵から給養班長が任命されて、部落内意見が中隊に反映し、僅かながらも自治活動が認められるようになった。
 三十二年樋口日記(六月頃と推定される)
 1,区隊ニテ空地ノ場所有之ニ付払渡シヲ願ヒ区隊ノ共有財産トスルコト
 2,前項共有財産ノ地ニ於テ神社ヲ設置スルコト
 3,前項ニ件ニ関シ特ニ委員ヲ選挙スルコト
 4,委員ハ四名及至八名トシ内壱名ヲ委員長一名ハ副長ヲ選定ス
     (以下省略)
 こうした協議がどのような人達を集めて、行われたか分からないが神社の造営を決議し中隊長に申請したものと思われる。 然し許可にならなかった。
 明治三十三年三月十四日中隊諮問会で、練兵場に神社社殿を建築し(七月一日落成予定)七月十四日より十六日まで、三日間祭典を行いことが決議された。(樋口日記)四月九日「神社建築委員各区隊、壱名選出せよ」の命令が出ているが、社殿の造営は実施出来なくて、神木標を祭り、祭典と余興が行われただけであった。
 こうした経過から部落では、三十三年の秋班長相羽静太、樋口幸吉が発起人となり、部落内に神社を創建することになり、屯田市街地の坂上大工に社殿の造営を頼み、十二月三十一日に落成現在地に祭神天照大神を祠り、初めて祭典を行った。これが川上神社の始まりである(川上神社については別項に詳細に述べる)
 屯田現役時代の大きな出来事は、兵村の工事の外、明治三十一年九月七日の大洪水と、明治三十四年の秋から、三十五年の春までに行った、灌漑溝掘削の一大事業がある。

三十一年の大洪水

 
明治三十一年九月一日に、第一船(東都丸)の屯田兵が兵村に入地したが、其の後長雨が続き五日六日には大暴風雨となった。 このため七日八日は全道的に大洪水となり、この時の北海道の被害は、実に死者二四八名、家屋倒潰流失三、五五壱戸、浸水耕地五四、五00余町歩(ヘクタール)という未曾有の大洪水であった。
  阿部四郎談
 「わし等は31年兵で、9月1日に一区の兵屋に入ったが、荷物の整理やら家の廻りの手入れに忙しかった。 雨が続いて家が低い処に建っており、家の前が河になって来たので、6日の暮方、女、子供、年寄を裏の宮崎の家に避難させて、弟と2人家に残った。
 ひどい暴風雨で夜中に水の流れが急に増し、家の中まで流れはじめたので、家財道具をまとめて床に高く積み一睡もせず夜を明かした。 明るくなって家の前を見ると、1尺(30センチ)ばかりの楢の木が倒れていた。 なにせ湧別川は倒れ木や流木で、流れが悪く川巾も狭いので、雨が降ると原野の低い処を一面に流れたもので、それはひどい水でした。」
 9月14日に入地した三品玉吉は、湧別の浜から歩いて来ると、道端の草は泥まみれに倒れていて、中には背丈もある高い木の枝に麦稈が引っかかっていた。一区では樋口が二給地で作っていた裸麦の堆が、そのまま中通りを越して流され、木に引っかかっていたと話している。
 この大洪水は湧別川が当時一区部落の上手で、東山麓から西山に向かって90度に曲がっていて、未曾有の大雨に溢水し、もともに上湧別原野を一なめにした。
 現在の中湧別市街などは、背丈の深さがあり、湧別の浜から川舟で、南兵村二区の陸軍経営部派出所まで、連絡調査に来たと言う。
 現在では想像も出来ない大洪水であった。 南兵村三区と北兵村一区では兵屋が流出する被害があった。 一区でも北通りの栗木重太郎の兵屋の一部が、流水のため破損した。
 翌32年中隊本部は命令を出し、各区隊で湧別川支流並に本流を清掃し、流水を容易ならしめるよう命じた。
 八月十二日  命令  (樋口日記)
 第二給与地内ヲ貫流スル湧別川支流ニ係引若シクハ埋底シアル材木ノ取片付ヲ為シ、流水方法ヲ購ズルコト
湧別川先支流ノ水源ヲ適宜ノ方法ヲ以テ堅固ニ堰切ルコト
湧別川本流ニアル倒木若シクハ乱木ノ樹木ヲ出来ル限リ片付ケ 本流ノ水流ヲ偏ナラシムルコト(以上略)
 我が部落は、湧別川から溢水した支流の堰切りの堤防工事や、流木の片付けなどの工事で焼くに当たったが、これが我が部落にとって、湧別川の洪水対策の始まりであった。

水田土木工事
 
中隊本部では各種の農作物を試作させて、寒地に適応する作物を求め、農業経営の安定を計った。 藺草、陸稲、水稲の試作がそれである。
 明治33年と34年に種籾を配布し、各区隊で河水を利用試作させた。 我が部落では33年に秦野、穴田、諸岡、宍戸が。 34年には秦野、穴田が拾坪の試作をしている。
 34年10月第七師団機動演習が、滝川、岩見沢方面で実施され屯田歩兵第四大隊は、各中隊の精鋭を参加させた。 この年は水稲が豊作で水田地帯の豊かな実りを見て帰った。
 時の第四大隊長三輪光儀は、屯田兵の農業経営を安定させ、永住心を起させるためには、水田耕作によるべきだとして、11月に入ると各中隊に命じ、灌漑溝の掘削造田工事を起させた。 湧別屯田では11月5日、北湧校に於て両中隊の諮問会を開き、水田土工工事の議決をし、直に水田調査委員を選挙した。
  四中隊水田土工委員
     委員長  植村与惣吉(四ノ二)
       委員  (四ノ一) 樋口幸吉 河瀬弁次郎 上家梅吉
            (四ノ二) 菊地明十郎 平野嘉吉
            (四ノ三) 関運喜 清水彦吉 藤枝作太郎
  以上究明が選出された。
翌日調査委員は、開盛橋上流の木挽小屋(兵村工事の跡)より二区方面を踏査し、7日にはサナチ原野の現地調査をし、8日、本部にて委員会を開き、調査にもとづいて協議された。
 中隊本部では最初、四中隊一区の上手湧別川に水門を設け、一区を縦貫して二区三区を通り、五中隊まで通じる、一大灌漑溝を堀削し、広く水田を造成させようと考えていた。
 然し開拓途上にあった兵村の状況では、水田の耕作は宅地付近のみに限られ、地勢の上から流水に無理があるので、各区隊で適宜水源を求めて、工事を行う事に決定した。
 11月11日二区の事業場で中隊の諮問会を開き、瀬尾式に水田土工工事が決定され、前に選任された調査委員を,水利土工委員に選任した。

サナチ原野水田工事
 翌12日より各区隊で、実施調査測量が行われ、一区では18日より屯田兵全員の共同事業で、水路の掘削工事が始められた。
 折柄降雪向寒の季節に、唐鍬とツルハシ、ジョレン、モッコなどの道具のみで、この一大事業に着手した。 この大要については、町史(43年刊)に詳細に述べられているので省略し、我が部落の工事について、樋口日誌を抜粋してみよう。
11月12日 火 晴天 区毎ニ実地踏査
   サナチ原野小川借受地ノ上ヨリ水口ヲ選定シ同中央ヲ通シテ田宮ノ先ニ出ス此間水測ス
   出場人員、樋口、河瀬、上家,会田、小川ノ五名ナリ
同月13日  水 晴天 実地踏査前日ノ処水測ス
同月14日  木 晴天 前日ニ同ジ
同月16日  土 晴天 本日平井中隊長赴任、出発ニ付開盛橋マデ見送リ其後直ニ鈴木中尉殿ト
   同行実地踏査ス
同月17日  日 晴天 サナチ原野実地割当ノ為踏査
同月18日  月 晴天 水路土工開始 水口ヨリ二百間ヲ為ス
   出場人員六十二名 午前九時弐十分事業開始 午后三時二十分解散ス
同月19日  火 曇天 南風
   水路百五十間ヲ為ス出場人員六十三名 午前九時事業開始ス 午后三時解散ス
   一、ツボ系三把 「カ店ニテ 壱拾七銭
   一、モトイ一把ヲ求ム 藤倉ヨリ
   一、罫紙 壱帖 樋口ヨリ
11月20日  水 晴天 午前九時開始ス 水田高低直シ百三十坪
   出場人員五十七名 本日自分ハ正午出場ス 午后三時解散ス
11月24日  日 晴天 午前九時開始
   監督植村軍曹出張 解散ノ際特務曹長出張アリ 水田高低直シ
   出場人員五十九名
11月27日  水 晴天 午前九時三十分開始 水田高低直シ 
   出場人員五十九名ナリ (十日間省略ス)
12月8日   日 晴天 西風烈シク積雪飛ブ 事業割当ス 一工事ヲ三日分トシテ六工事トス
   本日出場員六十名 省略
12月9日   月 晴天 西風烈シ時々雪飛散ス 事業ハ前日ノヲ継続 本日三日分ヲ終リタルモノ
   五工事アリ 出場人員六十一名
12月10日  火 晴天 梢暖 前日ヨリ継続事業終リ 出場人員(井亀、会田、中平、栗木)
   十二月一日割当ノ分末終ニ付本日出場(西村ノ通リ 小野寺、中村ヲ除ク外皆都合十名
   第一区内水測 河瀬、上家、小田井、岡村ニテ実地ヲ調査ス
   川口堤防右方弐拾間高一尺五寸 敷三尺厚サ二尺 同 左方四拾間高一尺五寸
   敷三尺厚一尺 午前十時半始メ 午后二時終リ
12月11日  水 晴天 西風 本日サナチ原野川及高低等ヲ予メ工事ヲ片付ル
   出場人員五十六名 此内区隊ノ水測二三名ヲ出セリ
 以上樋口日記の一部を抜粋した。 この工事はサナチ原野(開盛部落)まで、約四キロの道を通って行われ、12月11日に大略終了した。 日記の略図を見ると、現在の国道社名渕橋の附近の社名渕川に水門を設け、北に向かって開盛駅前を通り、約650メートルの水路を掘り、試作田が造られたものである。

区隊内水田工事
 サナチ原野の水路造田工事が終わると、直に区内を貫通する灌漑溝の測量が行われ、12月14日から工事に着手した。
12月12日 水 区隊ノ水測ヲナス 途中ニテ中止ス 小川ノセキ止ヲ他ノモノト代否ノ為メ遂ニ評議ス
   本日特務曹長出張セラル
12月13日 金 曇 区隊水測 市村ト三品トノ界ニヲ北ニ通スル
   (水野ノ境ヨリ始メル)
   第一号 一寸三部下
   第二号 九寸上 水野市村境
   第三号 一尺七分上
   第四号 三尺七寸七分上
   第五号 一尺二寸七  以下省略
 この測量番号は、20間(約36メートル)毎に測量杭を打ち、水平器で土地の高低を計り掘削の基準としたものである。
 水源地は湧別川で、現在の第2導水門附近に水門を設け、これより北に水野安太郎の給与地を通り、三品、市村の給与地の境界を直進して、24号線を超え、杉谷の宅地に出て、東1線にそって北に、服部の宅地の下までが幹線となっている。
 第1支線は24線の処で、中村半五郎の二給地を北上し、上家と浜口の宅地の境を通り、中村と樋口の境を北に掘削した。
 第2支線は、杉谷の南で東に分かれ、能勢と鳥井の宅地の境を、北に向かって掘削された。
 樋口日記によると、12月13日から始まった区隊内の水路工事は、比較的天候に恵まれたようで、17日の午后より降雪があり、20日21日の両日は、風烈しく休んだ外は、連日、厳しい寒気の中、積雪を除けて凍土との闘いが進められた。
 灌漑溝は湧別川の水門より、支線に分れる24号線まで、底巾3尺(約90センチ)深さ3尺であり、三品玉吉と市村喜次郎の二給地の南境界附近は、一番の難工事で、深さ5尺(1.5メートル)も掘り下げられた。 支線は底巾1尺5寸(45センチ)に掘られた。
 幹線支線には河川跡の低地が何ヶ所もあり、凍土を掘って3尺も盛土をする工事が多かった。 これに使われた道具は、唐鍬、モッコの外は記録によると、34年着工と同時に四中隊では、第五中隊の佃伝三に依頼して、小樽より、ジョレン(井戸掘又は砂金掘に使われた砂利掬う器)30丁、十字鑿(ツルハシ)20丁を、60円80銭で購入し、三区隊で分けて使用している。
 35年の正月も、一週間も休むと事業が割り当られ、幹線支線の掘削と、土盛工事が行われた。
 この年は特に寒さが厳しく、入植日浅く防寒衣服の乏しい屯田兵の辛苦は、想像以上のものであった。 1月23日にも、九工事が割当られているが、この年35年1月25日の朝は、旭川の気象観測所で、最低気温零下41度と、日本気象観測史上最低温度が記録された。 この時青森の歩兵第五連隊の精鋭一ヶ中隊二百十名の将卒が、1月23日より、八甲田山縦走の雪中行軍演習に入り猛烈な吹雪と厳寒に道を迷い、25日から27日にかけて遭難死者百九十九人を出す、悲惨な八甲田山遭難、事件の起きた年であった。
 2月10日より3月末まで、土工工事は休止となったが、その間水門の井関や、道路横断の桶管用の材料取りが、一人に付き割板一坪五合と、丸木二本が3日分として割り当られた。 いよいよ融雪が急となり、蒔付が迫って中隊本部の督励がきびしく、3月30日の桶管材料の伐採から始まり、4月に入ると、雪中工事の水路や、堤防の盛土、地崩のなどの手直や、桶管の埋設工事が、連日にわたって強行された。
 出役簿を見ると4月中の出役は、一人平均25日となっている。
 こうして屯田兵の共同事業による幹線、支線の掘削削や、試作田、苗床田の工事が、強行されている一方、家族の者は幹支線から、自分の宅地まで水路を開き、2畝〜4畝と造田に努力、まさに兵村総力をあげての作業であった。

水門工事
 
水源地の導水門の井関について日記に
    井関
  各板ノ厚サ五寸トス長サ四間以上ニして、入口ハ二尺ニ三尺ニヌキヲ以テ固ク打チ付ケルコト
 この記事のみで当時の木材と土のみの工事の内容を知ることが出来ないが、五中隊一区の水源地井関の設計からみて、サナチ原野の試作田の水門は、サナチ川に3・4間の川巾に長材を埋め、井関を作り、両岸に堤防を築き、一定の水位を保つようにし、その水を堤防に水門をつけて、水路に導く構造であったと思われる。
 区隊の灌漑溝の水源地は、兵屋材料を挽割った木挽小屋附近で、旧湧別川の本流が東山の麓から、西方に湾曲した地点であった。
 4月10日能勢勲、中村俊穎等が割削停止を申立し、4月15日、両中隊長をはじめ水田委員会全員が現地の調査をし、午后区隊委員会を開いて協議した。 これは湧別川の湾曲した地点に水門を設けた場合、湧別川の洪水で水門が破れ、一挙に水路を通って、兵村原野の中心を流れる心配があると言うものであった。 こうして導水門は、木挽小屋(現第二水門)より、3・4間(約60メートル)上流に変更された。 勿論湧別川を堰止める工事ではなく、誘水による水門工事であった。
 小島善助、三品玉吉の話によると、取入口の附近は大石が多く、動かすことの出来ない大石は、発破(ダイナマイト)をかけて破いて水路を造り、川に面した堤防は、大石を積み上げて流失を防いだと云う。
 5月に入って一般耕作の蒔付を急ぐ為め、10日間共同事業を中止する事になった。この間に苗床の籾蒔や、水路の水測が行われ5月16日から、再び工事が始められた。 水路の掘下げや盛土、堤防の手直し、掛桶や桶管の埋設、又は水門工事などが、急ピッチで進められた。

灌漑溝通水
 五月二十一日 晴天 工事実施 水源地桶管設置外諸々 尾崎中尉出場
   午后五時頃ヨリ水貫通ス
 五月廿二日 晴天 暖 事業休 昨日出不足ノ者 小川、脇島・平手・石坂・宍戸五名掛桶運搬
   服部・中山ハ 中山宅地北堤防破レノ憂アルヲ認メルニ依リ之ニ充ツ 尾崎中尉出張
 五月廿四日 晴天 土曜 事業実施ス
   樋口・長谷川間ノ橋梁架ケ 大泉井繁 二人
   第一支 口川底直シ  小野浜口    二人
   第二支 中野前川川底及堤防直シ   四人
       中略
  明二十五日勤ム衛兵  中俊・山崎・市村並浜口 本日水流通ス
     (樋口日記)
 こうして5月25日初めて、灌漑溝に水を流し、水路の高低や決壊のおそれのある盛土の手直し、掛桶や桶管埋設の手直しが、6月の中頃まで行われ、ようやく本格的な通水が行われるようになった。
 サナチ原野では、6月11日から14日にかけて、サナチ川の堰止め工事が行われ、其の他本田の畦畔の手直し、水路の手直しが行われている。

稲代と育苗
 第四中隊の水田工事会計簿によると、種籾は上川郡当麻村兵村三丁目 近藤幸五郎に為替で、30円25銭を送金している。
 種籾の運送は
 丹羽仲次郎 種籾四俵当麻ヨリ運搬賃  八円
 野田松次郎 種籾八斗運搬賃       四円
 長谷川勝次 籾壱石六斗上川ヨリ運搬賃 八円
となっており、これは34年内に白滝峠を越えて、馬で運搬されたもので、四斗俵にして十俵である。 従って三区隊に分配され、一区隊は一石三斗余りであった。
 四月廿三日 中隊より種籾受領
 四月廿七日 籾種浸水
   月二日   水ヨリ引上ゲ毎昼夜湿度ヲ取リ
 五月五日   風呂ニテ温湯ニ浸ス  六日僅発芽ス
 五月七日   曇天 籾種下シ  落合・野田喜・佐藤喜・遠善以上四名風防ケヲ為ス
 五月八日   本日東ノ方種下シセリ 尚八升程余リタルニヨリ苗代ノ東ニ増苗代ヲ造レリ
 こうして待望の共同苗代に籾蒔が行われた。 苗代は共同苗代と、個人に籾を配布して試作させたものとあり、小島善助の話によると共同苗代は石田周一の二給地に造られ、神社の前を流れる川の水を利用したと云う。
 樋口日記には
    苗代ノ位置
 中山宅地ニテ  百坪    公有財産地 六十坪
 諸岡宅地ニテ  三十坪   小田井宅地 三十坪
 五月十九日  苗代試作者
 二畝吉村 参畝落合 四畝長谷川 弐畝・野田・中山・大泉・服部・阿忠  弐畝遠善・東海林 参畝会田 弐畝浜口・井上亀・中村 参畝諸岡 五畝穴田 七畝井上繁 参畝福田 四畝三品
 共同苗代の管理は、担当者を決めて水の管理や育成に万全を期した。 担当者は石田周一、松野和蔵、小島善助の三名であった。 当時は水苗代で、苗代は麦稈で風除の囲いを作り、雀除けのカスミ網を使っている。新田の漏水に水廻りは、相当な苦労があったものと思われる。

苗  植
 五月十九日 (樋口日記)
  本日水田反別左ノ通リ報告ヲナス
  共同  七反歩  各戸  一町五反歩
 となっており、苗植は先づ最初に、共同試作地の石田と小川の本田に、6月18日に行われた。 これが終わると21日朝各戸に苗代の配分が行われ、各自が個別に数日にわたって苗植へを行った。
 サナチの共同試作田の苗植は、6月30日より始まり、7月7日に終わった。
 試作田の面積は正確には分からないが、サナチ原野(現開盛市街附近)に、約四反歩(40アール) 石田二給地二反歩(20アール)小川宅地一反歩(10アール) 合計七反歩(70アール)であり、各屯田兵の水田は、合計一町五反歩(1.5ヘクタール) 総計二町二反歩の水稲が作付された。

灌漑溝監守規定
 五月廿七日 灌漑溝監守規定ヲ造リ監督将校殿ノ閲検ヲ受ケタリ (樋口日記)
    通水が始まると灌漑溝監守を任命して、監視に当らせ、円滑な流水と水路の保安維持に当ったが、雨降りの増水や、早の渇水に悩まされた。
  七月十四日 雨降 加茂東北掛桶破レタリ湧別川水嵩ミ依テ栗木・原野・吉村・南ノ四名
   第一ヨリ五名ヲ出シ修繕ヲナス
  八月十七日 桶管前ノ掘下ゲ 野喜・吉村ノ二名
  八月廿八日 曇天 水早水ニ付交互流水ス
    第二支線川ヲサラヘル 田宮一名
    第二支線本日 本線今晩第一支線明日廿九日ノ順トス
  八月三十一日 晴天 湧別川セキ止メ 上家・市村・谷口 長サ十四間全

大凶作に終る
 中隊命令で強行されたこの水田工事については兵村誌(大正九年刊)は本事業ハ各区隊ニ於テ単独工ヲ越シ 地勢ニヨリ難易ノ差アリシト難 各支線共溝梁ヲ築設スル等アリテ  短キハ半里長キハ里餘ニ及ビ 全村ヲ通ズルトキハ総延長約六里ニ達シ 実ニ兵村開闢以来ノ大工事ニシテ 其辛酸労苦ハ蓋シ兵村作業中第一ト称セリ
 と記述されている。
 我が区隊の灌漑溝の掘削は、サナチ原野と区隊内の総延長が、五キロを超え、湧別兵村中最も長い巨離であった。
 34年11月から、翌35年6月までの間、区隊で調査や作業に従事した日は、約百日で、屯田兵一人の実作業日は、平均六十日程度となっている。 区隊六十九戸の屯田兵の延出役日数は、四千人を超える大工事であった。
 こうした工事に対する、屯田兵の不平や不満がなかった訳ではない。 阿部四郎の思い出話に
  「作業の一休み中に、お互いに水田耕作の不安や強制的作業によって、自分たちの農作業が遅れるなどの不満が、がやがやと話し出され、その内に、宮崎の戸主が積んであった木材の上に立って、大声で中隊の水田耕作の見透しの甘さや、工事について批判のアヂ演説をやった。 丁度尾崎中尉が見廻りに来ていたが、ほかの戸主達も、やんやと拍手して応援した。 宮崎中尉は、よしお前達の話はよくわかった。 中隊長に話してみようと、云ってくれた」と語っている。
 五月十六日 曇天 南風 河手直シ 出場人員五十七名 内サ印ハサナチ水測 尾崎中尉監督セラル 事業終テ工事ニ付 兵員一同ヨリ種々申込
 樋口日記には簡単に記されている。
 こうして屯田歩兵第四大隊 約一千戸の屯田兵が、それぞれ、端野・野付牛・相の内・湧別兵村と、幾多の辛酸をなめ、血と汗で築いた大工事も、35年は冬の寒気に続いて、7・8月の低温、9月中旬の早霜などで、大凶作となり、試作田の水稲は、一粒の稔りを見ることが出来なかった。
 翌36年3月屯田兵は解隊され、軍隊の規律から解かれると、申合わされたように水田耕作は放棄され、血と汗で構築された灌漑溝は、邪魔者として荒れるにまかされ、現在ではその形跡さえ見る事が出来ない。
 年を経て約八十年、各中隊ともこの一大工事の記録がほとんどなく、一人我が部落にその資料がのこされているのみであり、あえて部落史を編集するに当って、紙数を考えず概略を述べたものである。
 今思うに一見画餅となり、骨折り損の無駄な事業であったと見られる。 この灌漑溝掘りの一大事業を、我々にはどう評価すべきか、考えさせられる、多くのものを残している。

共進青年会の発足
 屯田兵が入植して兵村共同事業や、開墾農作業が一家を上げて進められる中で、子弟の教育が問題となり、31年3月から仮学校が開設され、同年12月には北湧校が新築開校 兵村の児童教育の場が完備された。
 而し学齢を過ぎた戸主の若い弟達は、農作業の外に何の活力のはけ口が無いまま、その素行が問題となった。 各区隊の屯田戸主の間には、これ等若い衆の組織や、会合の場、錬成の機会を与えようと考えられていた。
 旧上湧別村誌(大正十年刊行)によると、我が共進青年会は明治36年5月15日設立となっている。 又昭和13年に村役場に出した共進青年分団長細川勝の報告書では、明治32年9月15日と届出されている。
 然し今回の調査によると、第一給養班長樋口幸吉の残した、明治34年の文書の中に
    共進会規定
 第一条  本会会員ハ第一区ニ現住スルモノニシテ満十五歳以上二十五歳迄ノ者トス
 第二条  本会二名
    男 十五歳以下  家四0  附九
       十五歳以上    五七   四
    女 十五歳以下    七一   三
       十五歳以上    三五   九
 これは雑紙に下書きしたもので、青年会の規約を考え、その対象人数を調査したものと思われる。 表中家、四0とあるは屯田兵家族中の人員が四十名で、附、九とあるのは附籍の家族数である。 当時十五歳以上の青年男子は合計六一名いたのである。
 川上神社が、明治33年12月31日創建され、神社境内の整備や清掃、祭典や余興の執行を、青年の活動として位置つけることが、区隊の指導者の考えであり、共進会の設立が、34年の秋であったことは間違いないと思われる。
 川上神社の二年目の祭典が34年11月10日に行われているが、35年の樋口日記には
 二月十日 夜共進会総代小島・谷口・野田来宅、35年祭典及神社備品(長旗・提灯・鳥居)購買ノ件申出タリ
 の記事があり、共進会が神社の祭典に責任を持っていた事が推測される。 これら等の調査から、共進会の創立は34年9月で36年に狂信青年会と、改称されたと断定しても良いと思う。
 創立された共進会は、総代の協議で運営されたようで、総代は小島鉄治・谷口勇吉・野田政活等であった。 36年共進青年会となった時の会長、その他の役員は不明である。
 共進青年会の名称は時の給養班長樋口幸吉がつけたもので、その後部落の別名となっている。

戻る   明治後期時代  屯田兵解隊と部落自治
 明治34年11月1日、屯田兵制度の改正によって、屯田歩兵第四大隊は、36年3月31日解隊され、屯田兵は現役から後備役に編入された。
 湧別兵村では3月31日、練兵場(現中学校校庭)に、第四、第五中隊の屯田兵を集め、第七師団長代理参謀長、陸軍歩兵大佐小泉正保(初代屯田第四大隊長)並に屯田兵第四大隊長歩兵少佐徳江重隆が臨席して、厳粛に解隊式が行われた。
 今まで屯田兵村として、中隊長の指揮下にあり、教育、産業、土木、財政などは、兵村諮問会の議決があっても、中隊長の許可がなければ、実施出来なかった。 現役解除によって総ての束縛から解き放され、4月1日より湧別戸長役場の行政下に入り、はじめて自由な郷土の建設に励むこととなった。

湧別村第十四部
 明治36年4月1日、湧別村の第十四部となった我が部落では部落の総会を開き、区長、副区長を選挙によって選任し、部落内を組に分け、組より評議員を選出し、部落内の諸事は、評議員会議で協議、実施するようになった。
 初代の区長は、給養班長であった樋口幸吉であったと云われているが(屯田戸主の話)公有財産取扱委員会の文書に、一区能勢正(戸主の父)二区菊地勤、三区清水彦吉の名が出ており、36年5月起 部落の雑役簿の証印に中村の印が押してある。 その真相の解明は困難であるが、当時総て屯田兵が戸主として法的な権限を持っており、部落区長は、戸主の内から選任されたとみるのが妥当と思われる。
 行政上からは湧別村第十四部であったが、一般には現役時代から使われていた、四中隊一区の呼称が使用された。現在部落に残っている最も古い文書は
   明治三十六年五月起
   雑 役 簿  元四中隊一区
の半紙綴の一冊である。 この記録は36年から、39年まで、区長が公務に部落民を出役させた記録である。
 36年の6月、部落区長用の書類が新調され、その後約八十年区長、自治会長と引継がれて、現在も使用し貴重な記念物として、幾多の歴史を物語っている。
 こうして我が部落の自治活動が始まった。

日露戦役従軍
 帝政ロシアの、満州及韓国への進出や、軍備の拡充が目にあまり外交上の交渉も断絶して、37年2月10日遂に宣戦が布告された。
 後備役に編入されて僅か1年足らずで戦争となり、日頃軍人として覚悟していた動員令が、8月4日第七師団に下りた。
 湧別屯田兵には早くも4日の夜に召集が伝えられ、8月7日に充員召集令状が渡された。 後備役の屯田兵全員と、家族(弟)の予備役補充役のほとんどが、充員召集を受けた。
 部落では戸主六九名全員の外、家族の上家武二郎、遠藤幸右ェ門が召集を受けた。 戸主達は留守家族の難儀を察し、折からの麦焼きを急ぎすませ、金も旭川までの路金だけを持参し、勇躍し白滝峠を越え、旭川に入営したのが8月13日であった。
  湧別兵村誌による部落屯田兵の出征先は
  第二五連隊補充大隊 旅順ー奉天戦    二六名 
  第二六連隊補充大隊   旅順ー奉天戦  一九名 
  後備第二五連隊 札幌ー北韓戦  六名 
  後備第二七連隊 函館守備ー北韓   五名 
  第二十八連隊補充大隊   旅順奉天戦   三名 
  後備第二十八連隊 旭川ー北韓   三名 
  第二十七連隊補充大隊 旭川ー奉天戦  二名 
  現隊より病気其の他で  召集解除  五名 
  満州従軍兵士は五十名で、北韓軍は十四名であった。
 我が部落の勇士二十六名が、従軍した第二十五連隊は、最も壮烈をきわめた旅順攻撃戦に加わり、多くの犠牲を出したため、補充大隊は、10月27日旭川を出発、11月21日、ダルニーに上陸直に第三軍に編入し、第三回の旅順総攻撃に屯田兵として、初めて参加勇戦した。

屯田兵の戦死
 203高地の激戦で湧別屯田兵が、11月28日横山信次郎(五ノ一)上田卯吉(五ノ二)田中光三郎(五ノ二)の三名が、名誉の戦死を遂げた。 次いで11月30日、我が部落の阿部忠蔵が、赤城山の戦闘で、壮烈な戦死を遂げた。 その戦功により勲八等功七級金鵄勲章が贈られた。 これが湧別屯田兵の最初の戦死者であった。
 旅順で勝利をおさめた日本軍は、敵兵を追って本拠地奉天にせまり、38年3月1日より包囲戦の総攻撃がはじまった。 湧別屯田兵の属する第七師団は、第三軍乃木軍に属して勇戦猛進し、3月10日遂に奉天を陥落した。 この激戦に湧別屯田兵も、多くの戦死を出した。 当部落の戦死者は次の如くである。
死亡年月日 死亡地  官 等    氏 名 
37年11月30日 赤坂山 上等兵 阿部忠蔵 
38年3月2日  達子堡  上等兵 谷口栄吉
38年3月2日 達子堡 上等兵  井上亀蔵 
38年3月4日  姚家屯 伍長  中村俊穎 
38年3月6日  劉家富棚  上等兵  石田周一 
38年3月7日  転湾橋 上等兵  井上繁治 
38年7月1日  獅子峪  上等兵  加茂千治 
38年12月1日  旭川(遼陽病) 一等兵  小田井孫蔵 
 この日露戦には、我が部落で七名の一名の病死者と出したが、名誉の負傷もあった。
37年3月7日  旅順203高地  貫通銃創  細川綱治 
38年3月8日  奉天附近  貫通銃創  栗木重太郎 
38年3月8日  奉天附近  胸部貫通  東海林作太郎 
38年3月8日  奉天達子堡  大腿部貫通  落合仲次郎 
38年3月8日 奉天広樹屯  銃 創  野田松次郎 
38年3月8日 奉天小集屯  銃 創  浜口鉄蔵 
38年3月8日 八家子  腹部貫通  岡村小太郎 
 其の他に重傷を受けたが療養を全治して、戦線に戻った勇士も多くある。

谷口栄吉
 3月2日達子堡の激戦で、谷口栄吉が壮烈な戦死を遂げたが、この時の模様を阿部四郎は、
 「奉天の旧鉄道線路の盛土の東側にロシア、それから西側に日本とピッタリとくっついて、どちらも乗り超す力がないんです。 車の音がごうごうと響くんです。 あの音は敵が退却だと思っとった。 ところが増員しとった。 さあ夜が明けたところが、今度はすこたま攻撃に出て来たんです。 自分達は味方もなにも両方から接近するから、弾は射てないでしょう。 そうこうすると本部の方から、退却するか退却するかと言ってくるんです。 それでわし等は、もう十分もう二十分と言うて、待っとったんです。 そしたらちょうどそのうちに今度は、ずうと左翼の方に土煙がパアパアと、とてつもなく立つんです。 それは一師団が来たんです。 そこへ砲兵旅団が来たんです。 それを待っっとたんです。 それが到着したと思うと、さあ攻撃が始まった。 それからたちまち空が見えなくなっちゃった。
 もう日暮れのちょっと薄暗がりという時に谷口が死んだのさ。 となりの兵から聞いたらね、谷口がちょっと顔を上げた時、やられたそうですよ。 やられたと思うと、もうパッーと血が出たと言う。 あゝ髭伸ばしている。 あいつは目の玉の大きい奴だったがね。 その血がバッーと、もう駄目だと思ったから銃剣にぎって、パァッと突っ込んだそうだ。 もう自分は死んだと思ってね。 そしたら向こう側のロスケ、それには負けたらしいんだね。 そこん処で退却を始めたというだな。
 だから谷口栄吉の戦死は、本当に湧別屯田として又七師団として三年忌に三日も四日も新聞に出たそうだけれどもね、北海の勇士、谷口栄吉という記事が出たと、まあ実際のところはそういうわけさ」
 谷口はこの日即日上等兵に昇進、殊勲によって、勲八等並に功七級金鶏勲章が授与された。湧別兵村誌にも特記し、その勇戦をたたえている。
 部落の戦死者全員が勲八等に叙せられ、功七級金鶏勲章を賜った。
 凱旋勇士で、功七級金鶏勲章を下賜された者は、阿部四郎、遠藤清五郎の二人である。
 日本軍は38年3月10日奉天会戦で大勝し、尚も満州の野を北上していたが、米国ルーズベルト大統領の講和勧告を受諾し、9月7日停戦の命が下った。

留守家族と部落
 兵村全戸から戸主達が召集された。 出発を見送る家族の心境は、どうであったろうか。 普段着のままで草鞋をはいて、さあ行って来るぞと、出て行く戸主を、門戸まで見送って、元気で行ってこいより励ますのが精一杯で、若い青年達は開盛橋や、遠軽まで送りに行った者もあると言う。
 火の消えたようだったと云う部落では、お互いに励まし合い、力をあわせて農作業に励み、戦線の子や夫、兄弟の無事を祈り、部落の神社へ日参するなど、苦労の連続であった。
 部落の区長は戸主の父が、その職につき、役員も又、戸主の父や兄がなって、世話をした。 部落の37・8年の使役簿を見ると、能勢正(戸主の父)小野寺恒三郎(父)小田井亀次郎(父)中村幸吉(兄)等の印が見られる。 これ等の人が交替で、部落の役を勤めていたと思われる。

凱旋と歓迎
 明治38年10月16日、平和克復ニ関スル詔勅 が発布されて出征兵士が凱旋の途についた。
 先づ北韓軍の後備第二十五連隊(湧別屯田兵が従軍)は、10月24日会寧を出発、清津より乗船宇品広島を経て、11月11日室蘭港着 13日旭川原隊に帰還した。 同月18日各隊召集解除となり、湧別兵村の戸主達は帰還の途についた。
 湧別兵村の戸主達は当時鉄道が名寄まで開通していたので、名寄まで汽車に乗り、下川峠を通り、紋別廻りで凱旋した。
 四号線まで村長をはじめ、青年会員や、家族の者多数が出迎え国旗行列で兵村まで歓迎行列をつらね、万才万才の歓声で、長い出征の労苦をねぎらった。 この時を最初にして、帰還部落毎に、何度か凱旋行列が行われた。
 我が部落では、凱旋出迎の祝いの中で不幸にも、火災事件が起きた。
 出征中38年3月8日の八家子の戦斗で、腹部貫通の重傷を受け、各陸軍病院で療養していた岡村小太郎は、召集解除となり、白滝峠を越えて帰還した。 39年2月24日の曹長、家族の者が馬橇で六号駅逓まで、出迎えに出発した後、置き忘れた提灯の火から出火し、折からの強風でたちまち厩舎並に兵屋を一なめにし、東隣の栗木重太郎の兵屋も全焼する、悲惨な事件となった。 幸いにも人畜に被害はなかったが、部落中に凱旋の祝が一瞬にして不幸な火災に驚き、協力してその復興と慰問に当った。 又他部落からも、多くの同情の金品が見舞われた。 不幸な出来事であった。
 満州軍の第七師団は、39年2月28日柳樹屯出発、室蘭を経て3月6日旭川に帰還し、12日に湧別兵村の戸主達の大半は、解隊凱旋の帰途についた。 (16日解隊の者もある)
 部落では3月10日、かねて建設していた花門を修理して待ち、各戸国旗をかかげ、盛大に凱旋の兵士を歓迎した。
 部落区長の小野寺恒三郎は、かねて出征兵全員の帰還が終れば、戦病死者の追善会と、凱旋祝賀会を行うよう評議員会を開いて、準備をしていたが、3月18日の総会で、部落集会所建築の重要案件が、否決されたため、区長はじめ役員一同が、総辞職してしまった。

追善会並凱旋祝賀会
 超えて4月に入り臨時総会を開き、規約の修正と役員の改選が行われた。
   明治三十九年度
   日 誌    元四中隊壱区
 四月  日  総集会ヲ開ク此日副区長福田甚吉会長ノ席ニ着キ  之レ迄ノ経歴ヲ延ベ終テ本日ノ総会ノ
         旨ヲ延ヘ一般ノ賛成ヲ得 左ノ事項ヲナス
     一、区隊申合規約ノ大修正ヲナス
     二、集会所ノ件
     三、役員ノ改選ヲナス
        三項共異議ナク決議ヲナシ午后四時解散ヲナス 本日改選ノ結果区長 五十点 樋口幸吉
        副区長福田甚吉 協議員ハ各組ヨリ推薦セリ  左ノ通リ
     上家梅吉 水野安太郎 中野弥作 東海林作太郎 諸岡寅松
     小島八右ェ門 野田芳松 佐藤小三郎
 四月十一日  協議会ヲ開ク午后七時ヨリ自宅ニ於テ左ノ事項ヲ決議ス
     一、追善会ノ件   二、祝賀会ノ件
     三、集会所ノ件
 四月十四日 浜及殖民地ノ代表トシテ大益福松氏及西沢柵収氏来宅
     出征軍人ノ為メ明十五日招魂祭 明后十六日ハ平和古復ノ奉告祭ヲ浜ニ於テナス 尚軍人ニ対シ
     一人ニ付金四十銭迄ノ酒肴料ヲ寄贈セラル 戦死者遺族ニ対シテハ一々招待状ヲ託サル
 四月十六日 共進会員ハ本日ヨリ舞台ニ着手セリ
 四月十七日 福田君ト買物ノ協議ヲナス 本日降雪アリ
 四月十八日 降雪ニ尺余 明十九日挙行スベキ追善会ノ件ニ付福田君ト協議ヲナス処アリ
 四月十九日 本日追善会ノ処降雪ノ為メ 見合トナリニシ依リ市街地ノ僧侶ノ許ヘ
        右ノ赴キ(趣)ヲ雑役井上兼吉ニ使ヲ命ズ
        福田甚吉氏来宅明二十日委員会ヲ開クコトニ約ス
 区長の日誌はその後の記述がないので不明であるが、予定していた追善会並に祝賀会が、時ならぬ大吹雪のため、一週間以上も延期されたものと思われる。
 古老の話によると、共進青年会員によって、川上神社の境内に舞台が整備され、部落中の男女が集まり、僧侶の読教にはじまり、厳そかに戦病死者の追善供養が、執行されたという。
 その後に凱旋の奉告祭と、祝賀会が盛大に行われた。 一年有半にわたり異境に転戦し、幾多の戦功を立て、又名誉の負傷を受け、帰還した勇士の辛苦に感謝し、戦勝を祝いながらも、出征兵士の中から八名の戸主が、名誉の戦病死をしている部落としては、遺家族の深い悲しみを察し、誠に複雑な祝賀会であった。 祝賀の宴は、出征兵士の武勲話に花が咲き、それぞれ、祝賀は最高潮となった。 熱狂した妙齢の娘が、全裸で祝いの踊りを舞い、流石の若者達も、度胆をぬかれたと云う。
 この娘は熊本県出身の南緩蔵の妹、オタカさん姉妹二人で、車座になった部落民の中を踊ってあるいた。 ところが夢中で見ていた宮崎の戸主の吸っていた、煙管の火が、目の前のオタマさんの、股間に飛び込んでしまった。 怒ったオタマさんは、妾たちは、命がけで戦って来た勇士に感謝して、熊本県に残っている勝ち戦の祝事として、はずかしい娘の身を素っ裸になって、真面目に踊っているのにふざけて見るとは何事か、と激怒したと云う。
 阿部四郎はこの妙齢の娘の一世一代をかけた裸踊りは、素晴らしいものであったと激賞していた。

日露戦没記念碑建立      明治四十年十月
  明治三十九年度  区長日記
 二月七日   日露記念碑建設ノ件ニ付同日曹洞寺ヘ集合ノ通知有リタルモ欠席
 二月廿五日 日露記念碑寄附ノ件ニ付 来ル廿七日中村幸吉宅ヘ集合アリ度旨
        福田甚吉氏ヘ通知 三区ヨリ火災見舞来リニ付 栗木 岡村 此旨通知
 二月廿七日 中村幸吉氏ノ宅ヲ借リ受ケ記念碑建設 集合場建設費寄附ノ件ニ付
        栗木 岡村 此旨通知
 以上の記事からみて、日露戦役記念碑の建設は、湧別兵村として全体で、39年春、出征兵士全員の凱旋を待たず、発企協議されていたものである。
 然し其の後、部落の記録には記念碑のことがないので、寄附金や建設位置などのことで、話がまとまらず、立ち消えになったものと思われる。
 翌四十年になって、部落として独自に戦死者の霊を祭り、永くその功績を伝えようと、記念碑の建立が協議された。 時の区長は加瀬弁次郎で、古老の話によると、瀬戸瀬の山神を祠ってある東の山から、良形の自然石を求め、部落中が出役し、ドンコ車に乗せて運んだと云う。
 表面に「日露戦役記念碑」の七字を刻み、川上神社境内の南側に建てた。 この年には川上神社の神殿が、新たに神明造りで造営され、10月17日に遷宮大祭を行い、この記念碑の除幕式が同日執行され英霊を慰めた。
 その後毎年3月10日陸軍記念日に、神官を招き、慰霊の祭典を行ふようになった。 これは本町内で、最初の記念碑の建立であった。
  (詳細は日露戦役記念碑の項に述べる)

開盛橋の流失
 明治25年湧別浜より、中央道路六号駅逓(現遠軽野上変電所)まで、開削された基線道路は、網走分監の囚人の労働によって竣工した。 湧別原野をほぼ南北に縦貫する、当時としては道内でも珍しい直線道路であった。
 開盛橋は我が部落の南、湧別川に架けられ、当時長さ六十六間(約119米)の吊橋で、三千二百円の巨費を投じた。 道内屈指の長大橋であった。
 明治31年9月7日、湧別川の大洪水で、開盛橋の北の橋脚が流され、吊橋が上流に傾く被害を受けた。 この為め道費で、新に北の方に七間(約13米)の吊橋を増設、修繕工事に行った。
 我が部落の屯田兵のうち、31年兵(新兵)二十六戸が開盛橋を渡って、サナチ原野(開盛)に、第二給与地を給与された。 従って、開墾耕作をするのに、開盛橋は重要な交通路であった。
 32年8月12日水害調 樋口日記
 開盛橋ハ昨年新調ノヶ所七間釣橋全部上ニ向テ落下三十度ノ傾斜ヲナセリ、浜見橋及手前ノ橋詰ヲ破壊セリ
 明治32年8月の洪水にも被害を受け、34年9月10日の大洪水など、開盛橋の受難が続いた。
 明治39年は四月中旬に大雪があり、5月に入って、奥地の融雪が一時に進み、湧別川は大洪水となった。 このため開盛橋は、北の増設橋脚が流失し、吊橋の半分も落下流失する大被害を受けた。
 当時この基線道路は、明治37年、紋別から名寄までの道路が開通して、網走までの海岸線が県道に昇格し、基線道路は村里道に格下げとなって、橋の架橋修繕も、地元村で行わなければならなかった。
 開盛橋は、我が部落の中心にあって、サナチ原野へ通い作の者が多く、部落に取って最重要な問題であり、復旧を村に訴えたが、金が出ず、樋口幸吉が委員長となっていた南兵村公有財産から、工事費30円74銭7厘を出して、北側の破損部分を取り除き、仮橋を架け、人がようやく通行出来る程度に、修繕工事を行った。 其の後夏の洪水にも橋がいたみ、傾斜した橋から、部落の娘3人が落ち、2人が水死する事故が起きた。
 阿部四郎の話では
 39年の大洪水で、開盛橋の半分が流失し、半分も吊橋が東にかたむく大被害であった。 雄武出身の田口源太郎が道議会議員になって名寄ー網走線を国道にし、この基線道路を村道に格下げしてしまった。 開盛橋の復旧工事に国の予算が出ない。 ほんとうに田口のために、金が出なくなってしまった。 村役場では金がないし、なんぼ陳情しても埒が明かない。 皆怒ってしまい、橋を流してしまえと云う話になって、雪の降る頃になって吊橋の金具を外し、取れる材料は取って、馬橇の通れる冬の氷橋に使った。 ところが翌40年春の雪解水で、残っていた橋全部と取り外した金具や材料まで流されてしまった」と言う。
 こうして明治25年に架橋された開盛橋は、道内有数の近代橋として、湧別屯田兵やエンガル学田同志会の入植以来、当地方の交通開発に、大きな役割を果たして来たが、39年の大洪水に、その偉容を破られ、15年の歴史を閉じた。 開盛橋の写真は今だに発見出来ず、今では幻の長大橋である。
 40年春の出水が終わると、南兵村公有財産より50円を支出し、仮橋を架け取りあえず交通を確保した。 然しこれは、我が部落だけでなく、学田部落としては、死活の問題であり、共同で仮橋維持について相談が行われた。
    明治四十年   部落日誌   区長河瀬弁次郎
 六月廿日  臨時仮橋費徴収原簿調製
 七月二日  仮橋ニ関シ嘆願書提出ス郵税六銭
 七月三日  仮橋ノ件ニ付青木部長来訪セラル(学田部落ニテ更ニ仮橋架設ニ付)
         右ニ付午后七時ヨリ集会所ニテ協議会ヲ開ク
 七月四日  午前十一時半、紙面ヲ以テ仮橋ノ件ニ付下記ノ如ク青木部長ヘ回答ヲナス 申込ノ
         大意ハ了承然ルニ以前ノ委員ヨリノ交渉ニテハ到底確認シ難シ云々
        午后三時頃野口、菊地ノ両氏仮橋ノ件ニ付来宅 学田部落ト兵村トノ円満ヲ斗ル様何
        トカ致シ度モノトノ交渉ニ付 昨日青木部長ヨリノ噺シヲナシ種々談合ノ末帰村ノ途
         上家氏来訪セラレ両氏ハ引返シ談合スル所アリ 明朝出頭スルコトニ約シ帰途ニ着
        カル夫レヨリ組合委員ヘ書面協議ヲ出ス
 七月五日  午前六時ヨリ前日ニ引続キ交渉ノタメ自分ト上家 会田ノ三名ニテ出張 鈴木橋守ヲ
        解約ス 仮橋ニ付野口氏宅ニ行キ種々交渉ノ末 午後四時帰宅ノ途ニ付ク
 七月七日  午前六時自宅ニテ前日来ノ仮橋ノ件ニ付協議会ヲナス 同八時ニ解散シ直ニ仮橋ニ
        テ野口 菊地ノ両氏ト会合シ前日ニ引続キ交渉ヲナス正午ニ至リ調定済トナル大約左
        ノ如シ
         一、現在ノ橋ハ両部落ニテ修繕保存スルコト
         二、現在ノ橋流失シタル時ハ両部落ニテ架スルコト 但シ材料ハ学田ヨリ
         三、一般無賃トス
         四、学田ヨリ百円ヲ出金スルコト
         五、爾後ハ両部落ニテ架スルコト
 七月十日  明十一日仮橋ノ橋爪ヲ修繕スルニ通知ヲナス 井上兼吉氏ヨリ浜見橋北ノ橋破損ノ
        報告アリ
 八月八日  未明誠心橋流失セリ(昨日ノ強雨ニテ湧別川ノ増水一方ナラズ)
 以上の記録から開盛橋の流失後は、仮橋を架け、鈴木隠恵を橋守とし、兵村の者は無賃で、学田や其の他一般の通行人からは、通行料を取っていたもので、学田部落では、絶対必要な交通路として、開盛仮橋の維持を申出て、両部落の役員で真剣に協議されたが、八月上旬の洪水で、仮橋も又、流失してしまったものと思われる。

開盛渡船場の開設
 こうして両部落役員が、仮橋の架橋や維持について、協議を進めながら、一方では毎年春秋の大洪水で湧別川が荒れ、河流が変ることも考えられ、両部落だけの経費負担の徴収にも、大きな問題があった。 結局七月末に至って仮橋の建設維持を断念し、経費の安い渡船を開設することになった。
 明治四0年七月三一日  湧別浜菅谷甚之と川船  一艘 但シ巾七尺 長サ三0尺、金額
          九五円也 但シ手付金トシテ五0円、残金ハ受領ト同時支払フ
 以上の請負契約をし、川船の建造に当たらせた。 この川船は、馬車馬橇など人馬共に乗せられるもので、9月10日より、開盛渡船場が開設された。 この渡船場開設の経費は、我が部落と、学田部落の半額負担で、部落民から渡船費を徴収して経営された。
 渡船の取扱人は鈴木隠恵(通称長鈴木)で、渡船の請負は一ヶ月十円の契約であった。 部落の記録によると、渡船費四十三年度、一戸二五銭、四十四年度一戸十銭を徴収している。 こうした部落営の渡船経営にも、幾多の問題があり、四十四年十二月村営となった。

渡船場村営となる
 明治四十四年十二月 上湧別村では、開盛渡船場を村営とすることに決定し、競争入札の結果、鈴木穏恵が二五0円五0銭の賃貸料で、落札契約した。 これより以後村営となった。 (町史四十三年刊参照)渡賃 人二銭 馬四銭
 四十五年八月二十七日二十八日の大洪水で、開盛渡船場の船設備が流失し、川流も二つに分かれた為め、東山手にある道路を廻し、渡船場を山手に移し、一切の設備は、鈴木が負担し開設した。 但し災害の日より以後、翌年の三月末日まで、請負料を全免除することにした。
 大正三年十二月の契約更新時に、鈴木穏恵の嗣子栄作が、賃貸料年額一五0円で、大正七年三月末日まで契約を結んだ。
 大正七年「渡船ハ村ニ於テ設備シ請負料ヲ徴収セズ」と決定し、四月一日より引続き鈴木と取扱契約した。 然し大正七年の部落の記録には、久しく交通吐絶の開盛橋渡船は、上家武二郎が取扱人となり、九月の末に開始されたとなっている。
 渡船場の位置は洪水のたびに変り、現開盛鉄橋(鉄道)の下手まで上がっていたが、大正十年一月十日付、網走支庁指令第三号で、元開盛橋跡私設渡船場が廃止になり、同年五月八日、 二十八号線渡船場が開始された。
 その後も大正十一年八月の大洪水で、川船設備一切を流されるなど、多難な渡船時代が続いたが、かねて運動中の県道昇格が、大正十五年に至って決定した。
 この年二十八号線に、第二代目の開盛橋が、十一月十日落成、渡橋式が盛大に行われた。 かくして、同年十一月三十日付の支庁指令で、二十八号線渡船場が廃止され、永かった二十年の渡船時代の幕を閉じた。
 その後この川船は、翌昭和二年部落民十一名が、湧別川を渡って西山(フミ)の開墾が許可され、通作のため二十四号線下手に、私設渡船場を設け、これを使用した。

神社神殿造営
 昭和四十年は区長河瀬弁次郎、副区長福田仙次郎が就任し、各種の建設工事が行われた。 日露戦役に戦病死した勇士の記念碑を建設する計画(前に詳記)と同時に、川上神社の社殿を新たに、神明造神殿に造営し、玉垣を新築することが決定された。 
 建設委員に、河瀬弁次郎(区長)樋口幸吉、小田井亀次郎、水野安太郎が選任され、大工渡辺熊次郎と請負契約を結び、神殿を新造営し、十月十六日遷宮式並に大祭を行った。 (詳細について別項にゆずる)

馬頭観世音の建立
 明治三十六年発起で、斃死した耕馬の霊を供養するため、本柱に馬頭観世音を祠り、僧侶を招き毎年供養を行ったと云われている。
 明治四十年春落合仲次郎の父萬右ェ門等の唱導で、東山に自然石を求め、馬頭観世音の石碑を、樋口幸吉二給地、中通入口の南に建て、旧七月十七日除幕供養を、曹洞宗明光寺の僧侶によって執行された。 この碑の文字は当時の区長、河瀬弁次郎の筆によるものである。 これより馬頭観世音の供養が毎年の盆に行われている。 以後は別項に詳記する。

部落集会場設置
 明治三十九年、区長小野寺恒三郎は、部落の役員評議員の賛成を得て、新たに集会場を改革し、材料の用意までしていたが、三月十八日の総会で、新築計画は時期尚早として否決され、役員は総辞職した。
 翌四十年谷口の兵屋が、空家となったのを購入し、集会所として使用した。 永年個人の家を借りて、役員会や総会を開くなどの不便はこれによって一応解決された。
 以上述べたように、明治四十年は、日露戦争出征より帰還した戸主達が、部落自治の意欲に燃え、協力一致して、多くの事業を達成した年であった。

上湧別第七部
 明治四十三年四月一日 湧別村より上湧別村が独立分村した。 行政区域から、第一部を北兵村三区とし、北兵村二区、北兵村三区、屯田市街地、南兵村三区、南兵村二区、南兵村一区と順番に我が部落は第七部であった。 この年の第七部長は、穴田助太郎が任命された。 四十四年二月に、上湧別村衛生組合が設立され、村長を組合長とし、各部落に衛生伍長が選任され、部内の清潔検査伝染病の予防消毒其の他一般部落民の保健衛生の向上に当った。
   衛生伍長  穴田助太郎が任命された。

青年会場新築
 明治四十四年五月 共進青年会長中村辰平等青年会員は、当時区長福田仙次郎迄に青年会活動の場として、集会所を建築いたしたいので、部落より補助を願いたい旨、嘆願書を提出した。 直に部落総代会が開かれ、部落としても、各種の会合の場として必要を認め、
    部落費の補助が承認された。
      部落に提した建築予算は
    会場建坪  十二坪(三間×四間)
    建築費    一坪 十円  計一二0円也
 直ちに大工棟梁渡辺熊次郎と契約、建築に着手し、六月一日竣工し六月十日盛大に落成式が挙行された。
 この青年会場は木造平屋柾葺 建坪 十三坪(玄関一坪を増す)で本町最初の青年会場であった。 (詳細は別項に譲る)

一山共同牧場払下
 開拓が進むに従って、兵村の原野も少なくなり、我が部落でも、薪炭の用意困難となった為め、明治四十三年春、区長穴田助太郎外組惣代五名の連署で、東山国有林九五万坪(約316ヘクタール)の払下の願書を出した。 然し当時未開地の払下は、農地の開墾、又は牧場経営のみで、一般薪炭備林払下の申請は却下となった。
 このため数度の協議をなし、出願も共同牧場地とし、四十四年両三度申請を重ねた結果、明治四十五年四月三十日付きで、国有林の払下が許可された。 その面積は、実に三九0ヘクタールであった。 この共同牧場は、現在部落民が所有している東山の山林である。 其の後については別項に詳記する。
 
 
戻る    大正時代  開盛部落の発展
 明治31年入植の屯田兵(新兵)のうち27戸内1戸は古兵サナチ原野(現開盛部落)に、第二給与地4町4反歩の給与を受けた。
 翌32年には、サナチ原野の開墾が、本格的に行われ、開盛橋を渡っての通い作のため、作小屋の設置論願が出されている。 樋口日記に
 七月十三日 第二給与地小屋設置願 井上繁治
 七月十四日 第二給与地  〃     服部熊次郎
 七月廿五日 第二給与地  〃     穴田助太郎
 八月四日   第二給与地  〃     上家梅吉
 8月4日には井上繁治、阿部忠蔵、8月9日に上家梅吉の小屋設置届が出ている。 これが開盛部落で最初の作小屋である。
 部落区長の分家調査表(44年)によると、33年5月、井上繁治の兄、井上富治が中隊長の許可を得て分家しているので、この年に開盛に分家したもので、開盛最初の居住者であった。
 明治36年3月屯田兵が解隊されると、佐藤小三郎、安本喜代八、川野小太郎等が開盛に移り、その後、佐藤吉蔵、細川綱治、阿部熊次郎が相継いで開盛に移った。 特に39年の大洪水で開盛橋が不通となり、40年渡船となるに及んで、通い作の不便から移転する者が増え、又屯田兵を頼って単独移住して来た人も、部落財産地の開墾に開盛に入居した。
 こうして大正元年の末には、サナチ原野の居住者は40数戸を数えるに至った。
 当時サナチ原野の指導的立場にあった阿部四郎は大正2年に開盛に移転し渡船による交通不便と、本部落との遠距離、人口の増加などから、南兵村一区より分離し、新しい部落の結成を、住民に呼びかけた。 開盛郷土史(昭和47年刊)によると、「大正2年1月15日、開盛部落有志が会合し、部落の分割独立を決議し、直に本部落に申出て、分割独立し、第十八部落として発足された。 此の日を開盛は創立日としておる」と述べている。
 大正2年1月の総会で、区長穴田助太郎、副区長阿部四郎が選任され、又共進青年会では、大正2年に共進連合青年会長阿部三郎が大正3年に共進第二青年会長に、佐藤甚作が就任している。 この年の区長業務は開盛を含めて執行されている。
 この事実から見ると、大正2年は開盛部落の独立を前提として、部落事業が行われ、開盛特別教授所の建設にも、部落を上げて協力寄附を行ったものと思われる。

第十八部(開盛)独立
 大正3年2月の村議会で
三部落の設置が議決された。
 第十八部(開盛下社名渕)、第七部(南兵村一区)より分離、第十九部(奥生田原)、第十四部(イクタラ一円)より分離、第二十部(丸瀬布)、第十二部(野上ヨリ白滝マデ)より分離
 こうして大正3年開盛部落は、我が部落の分家として、分離独立した。
 初代の第十八部長は、阿部四郎が任命された。 8月6日、部落分割最初の総会を開催するので、御出席願いたいとの案内状を、阿部四郎より、穴田助太郎区長が受けている。
 この開盛部落の分割によって、我が部落は屯田兵以来の広範な地域から、湧別川を境に現在の行政区域となったのである。

南兵村一区となる
 上湧別村では、大正4年6月14日の告示で、部制を廃し区名に変更された。 即ち番号部名が地区固有名に改正された。 我が部落は南兵村一区となり、第十八部が開盛となった。 この名称は屯田兵解隊後、公有財産取扱委員会の名を四中隊は南湧別兵村とし、五中隊を北湧別兵村と称していたのが、明治40年、公有財産の管理監督権が第七師団長から、村長に移譲され、兵村部会が設けられた。
 この時から、湧別の二字を省き、南兵村部会、北兵村部会と称するようになり、区名にも一区、二区、三区の様に、使用されたものである。
 然し通常四中隊一区、又は四ノ一の呼名は現在に至るまで使用されている。

消防組第六部結成
 明治39年、相継いで二回も住宅火災に会った南兵村三区では部落の総力をあげて、40年5月、本村初めての私設消防組を結成した。 43年この私設消防組は、当時の西村湧別警察分署長、兼重村長の強い指導要請で、消防ポンプ機具及置場等を寄附し、本村はじめての公設消防組となった。
   明治四十三年十二月廿九日
     部長水野安太郎殿        湧別警察分署
 今般兵村全部ニ公設消防組設置ノ事ニ決定候ニ付テハ 消防手採用ノ必要有之候条 貴部落ヨリ三名ヲ選出シ来ル四十四年一月五日迄ニ志願者提出方御取計相成度 尚四中隊二区ト一区ノ二部落ニテ一名ノ小頭ヲ採用致度(以下省略)
   明治四十三年十二月二十四日   部長宛
     消防被服ノ件
 前項代金寄附ノ議 至急御送金相成度此段申進候也  以上のように公設消防組は、兵村全域の組織として、消防手を任命し経費を負担して、村内の消防警備の任にあたった。
 当部落でも明治の末から大正の初めにかけ、細川、佐野、加茂、渡辺清三郎、稲垣小島と毎年のように火災が発生し、大正7年に相羽 小島の火災が発生した為、消防ポンプの購入が3月の部落総会で決定した。
 部落の私設消防組は大正7年5月、団員33名で結成された。
      部長 岡村小太郎    小頭  遠藤清五郎
                      小頭  秦野兼松
 ポンプは独逸式二号型卿筒(腕用)で、名古屋卿筒株式会社より、附属機具一切を購入した。 この腕用ポンプは6月12日到着し、翌13日始めての放水試験消防演習が盛大に行われ、集まった部落民一同は、その威力に驚嘆の声を上げて喜んだと云う。
 この年南兵村二区も、同時に腕用ポンプ(同型)を購入し、私設の消防組が組織された。 又中湧別市街にも消防組が結成されたので公設消防組に加入する事になり、大正7年11月11日、上湧別消防組第六部の発団式が部落会場で行われた。
 初代第六部長に岡村小太郎、小頭に遠藤清五郎、秦野兼松が任命された。 (以後消防の項に詳記)

農事改良実行組合結成
 大正7年道庁は道農会に指示して、町村農会の下部組織として、農事改良実行組合を設立させ、農業技術の普及による生産向上と、農家経済の安定を期し、その設立を勧奨した。
 大正8年村農会長(村長)は、各部落に通達をだしその趣旨や目的方法を説明し、各部落毎の設立を促した。
 当部落の記録には、大正8年四ノ一農事改良実行組合が設立され投票によって役員が選出され、組合長に岡村小太郎が就任している。 この組合の記録が発見出来ず、その状況が不明であるが、当時村農会は僅か一人の技術員で、農業技術の指導も十分でなく、且つ果樹組合、甜菜耕作改良組合などの作目別組合が結成されるなどで、単に村農会の技術指導の伝達機関として、有名無実の状態にあったものと思われる。
  大正八年 設立  組合長岡村小太郎
  大正十年        〃 穴田助太郎
  大正十一年       〃 岡村小太郎
 大正15年に至って、農事実行組合と改称された。

四ノ一果樹組合設立
 本町に於けるリンゴ栽培は、屯田兵入植当時に始まり、特に我が部落では、明治末期より大正にかけて村内で、最も多く栽培されていた。 村農会では、全村に広く栽培されている果樹の栽培技術を向上させる目的で、果樹組合の結成を勧奨した。
 大正11年春から当部落では、組合結成の協議が行われ、3月7日青年会場でリンゴ栽培者が集まり、四ノ一果樹組合創立総会が開かれた。
  大正十一年三月七日  於共進青年会場
    四ノ一果樹組合創立総会
 組合員  二十七名  出席二十二名、代理出席五名
 規約の審議と事業計画予算が議決され、役員を選出した。
  組合長   穴田助太郎
  副組合長 岡村小太郎
  評議員 水野直次郎 秦野兼松 小島鉄治 小田井亀次郎
 果樹組合ではこの年、共同使用のため、宿谷式T字型噴霧器三台を購入し、病虫害防除に最新式の威力を発揮し、リンゴ栽培上一転機を造った。 この果樹組合は、昭和十年に解散しているが、詳細については苹果栽培の項に譲る。

四ノ一甜菜耕作改良組合
 大正十年村農会の奨励と斡旋で、北海道製糖株式会社と契約栽培したのが、当部落の甜菜栽培の最初であった。 その世話役として耕作者総代には、岡村小太郎、秦野兼松がなっていた。
 大正十二年村農会の指導で、各部落に甜菜耕作改良組合が造られたが、我が部落では大正十二年二月に耕作者が集まって、四ノ一甜菜耕作改良組合を結成した。
 目的  本組合ハ甜菜耕作ノ改良発達ヲ図リ、組合員共同ノ利益ヲ増進スルヲ以テ目的トス
 区域  南兵村一区一円トシ、五反歩以上ビート耕作スルコト、但特別ノ事情アル者ハ此限リデナイ
 事業 一、ビート耕種肥培ノ改善
     二、家畜ノ増殖厩肥ノ生産施用
     三、病虫害駆除予防
     四、種子肥料薬品器具機械其ノ他共同購入
     五、耕作契約生産物運搬受渡ニ関スル斡旋
     六、茎葉根冠及パイプノ利用
     七、ビートニ関スル講習講和会及品評会ノ開催
 役員 組合長 一名  副組合長 一名  幹事 一名
 相談会 決議報告 認証計画ヲ行フ
 決議事項 一、経費ハ補助金ノ内ヨリ壱反歩ニ付十銭徴収ス
        一、組合費ハ一時借入レスルコト
        一、役員選挙ヲ行ヒ次ノ如ク就任ス
     組合長   秦野兼松
    副組合長 岡村小太郎
     幹事    小島鉄治 出席者二四名
 こうして結成された組合は、製糖会社と接渉し、耕作条件の改善や、作付反別の増加などに努めたが、大正十五年二月に、農事実行組合に統合し、組合は解散した。

共進産業組合の設立
 本町の産業組合は、大正三年に湧別兵村信用販売組合(南兵村二区組合長菊地勤)が、最初に設立され、大正九年北湧産業組合(北兵村一区組合長鈴木峯次)が設立された。
 村農会は、農民の協同組織による経済の安定と、農業の振興を計るため、産業組合の設立を勧め、大正十年三月十六日より四日間、役場に各部落の区長外農業関係者多数を集めて、産業組合講習会を開くなど、奨励に努めた。
 わが部落では大正十二年、区長の小島鉄治、副岡村小太郎、穴田助太郎、樋口幸吉等が協議し、産業組合の結成に尽力し、三月四日創立総会を開催した。
 三月四日  産業組合創立総会ヲ開催ス
  出席人員 水野直次郎外二十一名委任出席四名
  座長  部落区長 小島鉄治
 形議事項
        一、本組合ヲ組織シ設立ノ認可申請スルコト
        二、組合加入者、本月廿日迄申込ムコト
        三、像約金徴収スルコト、本月末日迄トス
        四、予約金ハ設立認可迄一時銀行預金スルコト
        五、役員、理事長 岡村小太郎理事専務穴田助太郎
        理 事  小島鉄治 水野直次郎 東海林作太郎
      世話係 三品玉吉 鳥井始 竹内連勝 三品玉七
 この総会は、設立準備会的なものであった。
 この組合設立の動きに、南兵村二区の産業組合長菊地 勤は、小部落の組合経営の困難性を体験しており、この機会に、南兵村三部落を一組合にすべきであると、四月九日合同加入を、一区並三区に申入れを行った。
 当部落では役員会を開き、検討の結果単独設立することにし、五月二十日改めて創立総会を開いた。
 規約の制定、事業計画、役員の選任を決定し、同日付で道庁長官に、設立認可申請を行った。
 同年九月二十一日付で、道長官の認可となった。 この年南湧(四ノ三)、富美、札富美、共進の四つの産業組合が設立された。(以下農業団体の項で述べる)

開村三十年記念式並事業
 大正十五年は、屯田兵入村三十年目に当るので、区長岡村小太郎副区長秦野兼松等、部落民と協議し、開村三十年記念式並に記念事業を行うことになった。
 大正十五年五月十六日
  開村三十年記念祭並記念式 川上神社にて、この日川上神社にて神官の奉告祭祝詞の後、区長岡村小太郎の式辞があり、功労者表彰が行われた。

部落功労者表彰
 穴田助太郎 水野安太郎 樋口幸吉 岡村小太郎 小島鉄治 秦野兼松 純銀盃径二寸贈呈
 能勢正 小野寺恒三郎 福田仙次郎 河瀬弁次郎 相馬静太 純銀盃径二寸贈呈
 功労者の前記六名は部落内であり、後記六名は部落外に移った、区長を勤めた人である。
 この日祝賀会並敬老会を、青年会場で行い、敬老者には、記念品朱木盃(径三寸)を贈呈した。

敬老者名
菊地カツ  87才  三品丈右ェ門  75才  中村タツ  72才 
山本ヒサ  85才  遠藤コテフ  75才  穴田キン  71才 
山本粂治  84才  山崎ミツ  75才  安本信蔵  70才 
松野和三治  82才  東海林サヨ  74才  樋口オスエ  69才 
稲垣勝平  80才  細川ヤエ  74才  遠藤マサヨ  68才 
工藤タマ  77才  竹内ツウ  74才  小野ヨキ  67才 
小田井亀次郎  76才  小田井カツ  73才     
樋口兼助  76才  安本シカ  73才  計二十二名   
 敬老者の招待は、一般は70才以上で、特に屯田兵の親並親替りの者は、70才以下でも招待された。
 この記念式典並祝賀敬老会には、新野尾村長をはじめ、学校長外多数の来賓を招待し、部落民挙げて盛大に行われた。
 功労者並敬老者への記念品は、会津若松氏松本兄弟商会より購入し、銀盃大は一ヶ5円50銭、銀盃小は4円20銭で、代金の総計は、59円であった。
 ちなみに、大正十五年九月三十日現在の、上湧別村の敬老者数は、(役場の調査)総人口、7.021人尚、65才以上は250人であった。
 記念事業として次の事業が行われた。
 一、開村三十年記念碑建立  神社境内
 一、行啓記念碑建立       神社境内
 一、川上神社鳥居補強工事
 一、北海道地形池の掘削工事
 以上の事業は別項で詳述する。

戻る    昭和前期時代  概 況
昭和になって、部落の変遷は著しく、詳述することが難しく、又各項目と重複することが多いので、以下概況を述べる。
 昭和の前期は経済界の不況で、農産物の価格が下落し、加えて凶作が連続し、農家は疲弊困ぱいの中にあった。 部落の中ではハッカ栽培が衰退し、玉葱栽培の最盛期を迎え、玉葱組合や、養鶏組合が設立され、又農事実行組合が組織を改め、法人化され活発な活動に入った。
 昭和7年には、土功組合の灌漑溝が完成し、水稲栽培が始まり、芋果境界が設立されて、芋果栽培も又盛んに行われるようになった。
 昭和6年、青年会場の移転にともない、会場の整備と、門柱の建設、消防番屋
火の見櫓の移転等が行われた。 又部落民待望の伝統が全区内に通電されて、不況の中にも明るい生活が出来るようになった。
 昭和8年には消防組第六部が、共進火防団と改称され、11年秋から区内に火防井戸の掘削を行い、消防活動の強化に当った。
 昭和12年、日支事変の勃発によって、部落内から応召出征兵士を多く出し、戦時体制の強化、銃後活動、食糧増産時代に入って、人手不足にあえぎながら、勝まではの意気で、部落民一致協力、銃後の守りをかためた。
 昭和12年、国防婦人会四ノ一班が結成され、出征兵士の慰問や、遺家族の慰問援護にあたった。 昭和17年部落一丸となって、銃後後援会を組織し、応召家庭の農作業援助や慰問等を行い、昭和18年には、勤労報国隊が結成され、軍需産業へ出動した。
 食料統制や、衣料其の他の日用品等配給制度がしかれ、食料の供出制度が強化され、部落では階級係を置き、農事実行組合では、供出係を置いて、執行の強化にあたった。 こうして昭和20年終戦を迎えたのである。
 
    昭和後期時代  概 況
 悪夢のような大東亜戦争が終結し、虚脱の状態から、民主化への第一歩として、昭和21年の総会で、四ノ一部落親交会と改称、新しく自治が出発した。 22年に農事実行組合が二つに分離し、共進第一農事実行組合(南通以南)、共進第二農事実行組合(中通以北)を設立し、相互に共励して農事発展に努力した。
 昭和23年部落民協力一致して、新部落会館を建設し、9月落成した。 24年12月共進第二農事実行組合は、最新鋭のラジオ共同聴取設備を設置し、拡声スピーカーからは農作業中にも明るい放送が、部落中に流れた。 25年、新しく四ノ一婦人会が誕生し、婦人の自主活動と学習活動が始まり、成人式の祝品贈呈や、敬老会など活発な活動に入った。
 農業では農地解放の画期的な事業が推進され、食糧不足のなかで食糧増産を最優先に、供出制度が強化され、農家の経済は一応うるおった時代であった。 特に統制をはずされたリンゴの販売は好調で、当時は菓子、果物などが少なく、貴重品として引張りだこであった。
 物々交換が盛んで、りんごの木に服や着物が生なり、お札を物差しで計って、尺祝いをしたなどと噂さが出た程であった。 昭和26年11月、多年要望運動を続けていた、名寄線共進乗降所が設置され、翌27年一区中通りバス停留所が建設された。
 この年四ノ一納税貯蓄組合が結成された。 又この平和発行を記念し、日露戦役記念碑の文字を消し、新たに平和塔として改造建立し、多くの英霊を祠り平和を祈念した。
 28年部落会館を増築し、消防ポンプ置場もこれに併置した。
 
開拓六十周年記念祭
 昭和31年は、開拓入地以来六十周年に当るので、部落会長 野 馨は総会の賛同を得て、婦人会青年団の協力で、記念祭並に敬老会を行った。
   昭和三十一年五月十五日   部落会館にて
    開拓六十年記念祭
   感謝状贈呈  開拓功労者  在部落屯田兵
    樋口幸吉 三品玉吉 山崎佐太郎 河瀬弁次郎
   公職功労者(区長)  高齢者のみ
    小島鉄治 渡辺善三郎
   敬老会招待  70才以上  記念品湯呑贈呈
工藤留三  82  小島鉄治  78  小島ヌイ  75  三品ウタ  72 
吉村ミツヨ  81  河瀬弁次郎  78  樋口耕平  74  安本庄蔵  72 
三品玉吉  80  樋口幸吉  77  樋口テジユ  74  稲垣音松  71 
渡辺善三郎  80  三品とら  77  工藤きよし  74  菊地善太  71 
山本くら  80  三品玉吉  76  平手ヨシ  73  伊藤ふじの  71 
岡村つで  79  服部平八  75  渡辺ゑん  73  上楽てい  70 
山崎佐太郎  78  掘 敬助  75  松野マサノ  72     
  招待者は、石田町長 遠藤農協組合長等十三名
 29年9月27日の十五号台風は、家屋の倒壊をはじめ、果樹の倒木落果其他農作物に大被害を生じ、その影響は数年に及んだ。
 30年は大豊作で、新農村計画による造田や客土事業が行われ、水田面積は倍増した。 然し31年32年と凶作が連続し、加えて、諸産業の発展から、農産物の価格が低迷して、農家の収入減、負債の激増など、経営が窮迫の度を増していった。
 32年四ノ一納税貯蓄組合は、五つに分割されて、小単位の組合組織となった。
 34年火防団では、今までの手押消防ポンプに替り、トーハツの動力消化ポンプ一式を購入し、防火消防に威力を増した。
 33年はじめて、部落内に耕転機が導入され、農作業の動力かがはじまり、34年には、りんご栽培者が、四ノ一防除組合を結成し、トラクタースピードスプレアを購入し、共同防除に着手した。
 36年、かねて兵村内の浸透水に悩まされていたが、町の単独工事として5月より兵村内浸透水排水工事が着手され、12月に完成した。
 昭和37年3月、町条例の改正によって、農事組合を解散、統合して、新たに、南兵村一区自治会が発足した。 自治会は会長一名と副会長を二名とし、一名が農事部(当時生産部)を担当した。 この年、新しく国土調査が、部落内で行われ、土地所有の境界、面積等が確認され、其の後町の告示で地名番地が、南兵村一区何番地と変更された。
 37年春から企画された、南兵村地域団体加入電話が完成し、9月15日通話を開始し、当部落でも大半が加入、その恩恵に浴した。 この私設は支庁管内、四番目の文化施設であった。
 39年1月19日、四ノ一子ども会が全町にさきがけて結成され、同時に後援会(育成会)も結成し、活発な活動を行い、この年8月8日NHKから、子ども会活動が全道放送された。 子ども会の育成会では、40年、四ノ一幼駒運動場の広場を。子どもの遊び場として整備事業を行い、翌41年にも、遊園地の造成に努め、お盆には子ども角力や、ソフトボール大会を開催した。
 42年4月、川上神社の鳥居が強風で倒れた。 とにかく信仰心の薄れがちの時世から、神社維持の噺が集められ、43年1月31日、55歳以上の高齢者を会員として、川上神社護持会が結成され、神社の祭典清掃が、月々行われるようになり、鳥居はこの年4月に建立された。
 42年、共南地区農業構造改善事業(主幹作目果樹)が着手され、狂信機械利用組合を結成、トラクター、ミストスプレア、其の他の作業機が導入され、次いで44年にも大型機械が導入された。
 この頃から打ち続く冷害凶作で、水田耕作を転換する農家が増え、政府の米穀生産調整政策によって、45年46年の二ヶ年で、部落内30数ヘクタールの水田は皆無となった。
 46年自治会一致の協力で、四ノ一自治会館が新築され、12月5日盛大な落成式が行われた。 この会館の新築を機会に、60才以上の高齢者を対象に、北進福寿クラブが12月に結成された。 48年から川上神社護持会は、福寿クラブに吸収され、神社護持の仕事は福寿クラブが行っている。
 49年1月の総会で、自治会より農事部を独立させ、農業者のみの組織とすることが決議され、放送アンプを設備して、農事部活動が活発に行われるようになった。 この年四ノ一子ども会館が、育成会の手で遊園地に建設された。
 部落の農業も大きく変り、機械化が進んで47・8年頃には、農耕馬はほとんど影をなくし、各戸自家用車、小型トラックを備え、住宅も近代住宅に新築された。
 50年代に入り、りんごの腐燗病の発生が益々増発して、果樹園は荒廃し、廃園して転作する者が多く、八十年の長い歴史を持つ我が部落のりんご栽培は、一大危機に立っている。 この間農業の衰退によって、専業農家が減り兼業農家が増え、53年には三町歩(3ヘクタール)以上の農家は24戸となり、1町歩以上の兼業農家を含めて、33戸となっている。
  

昭和の小漁師top 南兵村一区top