「そうですか」
 一輝の話をじっと聞いていたムウは、短くそれだけ言った。
 シャカが立ち上がるくらいにまで回復するのを見届け、一輝が白羊宮に再び戻ったのは翌日の夕刻になっていた。
 復刻したフェニックスのクロスを受け取った一輝は、そのまま白羊宮に留まり、サガとの間に起こったことをムウに伝えた。
 いつもに増して寡黙になってしまったムウを正面に見据え、間が持たない一輝は、冷たくなったお茶をすすった。
 「ああ、すみません。せっかくのお茶が冷めてしまいましたね。入れ換えましょう」
 こちらを見透かしたように、ムウは立ち上がり、熱くなっている陶器を囲炉裏から取り、新しいお茶を注いだ。
 「あなたには、どんでもない頼みを押しつけてしまいましたね」
 穏やかな口調でムウは続ける。
 「シャカを連れ戻してくれただけでなく、サガをも救ってくれたのですから、お礼の言葉もないくらいです」
 「サガを救えたかどうかは判らないが、シャカは恩人だから当然のことをしただけさ」
 熱い陶器を口元に運び、息を吹きかけお茶を冷ましながら一輝は素っ気なく言う。
 テレパシストのせいなのか、ムウの本心が見えないことに、一輝は無意識に苛ついてくる。ほんの一瞬考える仕草を見せる以外は、口元に笑みを絶やさない、穏やかな様子を崩さない。
 「サガは、あとのことはあんたに任せるそうだ。あんたなら全てを知ってるから大丈夫だとも言っていた」
 「そうですか」
 「あんたは、知ってたのか?」
 「何をでしょう」
 「いや、その・・・」
 しどろもどろになる一輝を見て、ムウは軽く微笑んだ。
 「ああ、サガのことですね。ええ、知ってました。人格を分ける前のサガは、聖人のようでしたから隠し事をすることもなかったのでしょう、思考を防御する必要がなかったのでね。彼の切ない想いが思念派になって伝わりました」
 とりたてて取り繕うでもなく、自然にムウは語った。
 「驚くことではありません。聖闘士は人を愛してはならぬという掟はありません。むしろ、人を愛することを尊しとするのが、アテナの願いですから。黄金聖闘士には許されないことですが、白銀聖闘士以下は結婚も認められていますしね。サガを苦しめたのは、黄金聖闘士という自分の立場と、想う相手が仏に仕えるシャカだったことです」
 ムウの話は頭では理解できるが、一輝には感覚的にわかり得ないことが多すぎた。そもそも日本で生まれ、デスクイーン島で修業時代を過ごした彼には、サンクチュアリなど、遠く無関係な世界でしかない。そんなところでの暗黙のルールなど知る術もない。
 「私たちは、幼い頃からサンクチュアリで生きているので、世間とは少しずれているかもしれません。それに、黄金聖闘士にとっては、女性を愛するほうが、もっと辛いかもしれません。結婚は無理な話ですから」
 疑問符が頭を支配している一輝に、ムウは教え諭すように言った。
 「どうして無理なんだ?アテナが禁じているのか?」
 結婚に対する興味はなかったが、白銀聖闘士以下に許され、黄金聖闘士には許されない片手落ちな掟への興味はあった。
 「黄金聖闘士と他の聖闘士とは、寿命が違いますから」
 「え?」
 「黄金聖衣を授かったときから、黄金聖闘士はとてもゆっくりした時を生きるのです。私も外見は若く見えますが、標準時間に置き換えると、幾つになるのか忘れてしまうくらいの時を生きています」
 物憂い表情を垣間見せ、ムウは続けた。
 「ですから、子供も望めませんし、結婚も無理なのです。これはアテナが決めた掟ではなく、黄金聖闘士となったときから、自らが自覚した結論なのです」
 言葉を失っている一輝に視線を送り、ムウは静かに続ける。
 「だからといって、逃げているわけではないのです。人の気持ちは、なかなか思いどおりにはいきません。ずいぶんと生きていても、迷いもするし、悩みもします」
 「あんたも、想う誰かがいたのか?」
 ためらいがちに一輝が口を開いた。
 「・・・・ええ。残念ながら、もうこの世にはいませんけれど」
 そう言って静かに微笑んだ。
 「どうやって、思い切れたんだ?」
 「思い切れてなどいません。たぶん、永遠に思い切ることはないでしょう。死ぬまで、この想いを抱いて生きるのです」
 穏やだけれど、芯の強さが込められた言葉を、一輝は真摯に聞いていた。
 「俺は、デスクイーン島にいた娘を愛していた。っていうより、自分の気持ちに気づいた時には、彼女は俺の身代わりになって死んでしまったけどな。それが俺のトラウマだった。彼女を踏み台にして、俺は聖闘士になったようなもんだから」
 思いがけず、ムウに身の上話をしている自分に戸惑いながらも、黙って聞いてくれる人の存在が心地よかった。
 「あなたの、初恋だったのですか?」
 「ああ」
 「それでは、なおさら理解出来ないかもしれませんね。私たちは、いわば特殊な環境での暮らしが長くなっていますから、習慣や考え方も世間とはだいぶんずれてきているようです。あなたを見て、そう思いました」
 ムウは自分に言い聞かせるように言った。
 「そうでもないぜ」
 遮るように放たれた一輝の言葉に、ムウは意外な顔をして視線を返した。
 「俺がエスメラルダをいまだに忘れられない気持ちと、死んでからもシャカを想うサガの気持ちも、それほど変わらないぜ。そりゃ、男か女か、っていう尺度の違いはあるけど。二重人格だったもう一人の自分の贖罪は消えても、シャカへの気持ちは消せなかったんだろうな。報われなくても、シャカを救おうとして、再び地獄へ墜ちようとしてた」
 異次元でのサガの悲しい記憶が蘇り、一輝の声のトーンが落ちる。
 「あながち、報われなくはなかったかもしれません」
 「シャカは色恋とは無縁の男だったぜ」
 予想に反した反応を示すムウに、一輝は反論する。
 「ええ。おそらく、永遠に無縁であり続けるでしょう。表層面では。そういう人生を彼は選んだのですから。でも、人間は誰にも心の奥の、自分でも気づかない部分を抱いています。シャカは無意識のうちに、サガの気持ちを受け入れていたのでしょう。でなければ異次元に閉じこもったりしませんよ。生きながらにして、冥界へ行くことの出来る男なのですから」
 「そうは見えなかったが」独り言のように一輝は続けた。
 「シャカは、サガを救いたかったんじゃねぇかな。自分が死界に留まることでサガを救えるんなら、それでもいいと思うくらいのこと、しそうだぜ。サガが自分に手を出すならさっさと出てっちまうだろうが、側にいるだけだってんなら構わなかったんだろう。自分の思考を封じ込め、サガのお飾り人形になってサガの傷が癒えるまで、いつまでも死界にいる気だったんじゃねぇかな」
 「あなたって人は、本当に俗物的なことを平気で言うのですね」。笑いをこらえながらムウが訴える。
 「でも、当たらずとも遠からずかもしれません。さずがシャカと冥界まで一緒に墜ちた仲ですね。シャカの腕に抱かれた気分はどうでしたか?」
 「だから、男に興味はねぇっつーの。氷河相手の目覚めのキスでも天変地異なんだぜ。一生根に持たせてもらうからな、あれは。」
 楽しそうにからかうムウに、うるさ気に
一輝は答えた。
 「氷河は綺麗なのに、そんなに厭でした?」 「そういう問題じゃないだろ!」
 「あなたは余程、僻地で修行したのですね」 「大きなお世話だ」
 どう考えても、からかわれているとしか思えない一輝は、次第に機嫌を急降下させていた。確かにデスクイーン島は僻地だし、ご立派な師匠もいなかったが、だからこそフェニックスの聖衣を装着することが出来たのだと、自信を回復した彼に、ムウが冷水を浴びせる。
 「アクエリアスの後継者とキスしたなんて、果報者なのに」
 「なんだって?」
 「氷河はカミュの掌中の玉でしたからね。いずれはアクエリアスを受け継ぐ身です。あなたと氷河をキスさせたなんて、カミュが生きていたら私もあなたも氷詰めじゃ済まないところです」
 「なんで俺まで氷詰めされにゃならん。俺は被害者だ」
 「氷河を弟子にとった日から、彼がキグナス聖闘士となるまで、1度もサンクチュアリに帰らずシベリアに行ったきり。様子を見に行ったスコーピオンのミロが、偶然氷河と出会いあまりの可愛いさに仲良くしているのをカミュに見られ、殺されかけたそうですよ」 「そいつは節操なしのホモなのか?」
 「まさか。いたってノーマルな黄金聖闘士です。白熊と氷河とでスケートしていただけだと怒ってました」
 「じゃ、カミュとやらが」
 言いかけて一輝はやめた。ムウの話が本当なら、カミュは氷河を偏愛していたことになる。確かに、氷河は少し変わっている。いつも遠くを見ているような視線で、黙りこむことが多い。何より、女と会話しているところを、そういえば見たことがなかった。沙織とすら氷河は会話しない。
 アイツは可愛いお姉さんじゃなく、綺麗なお兄さんが好きな男なのかもしれないな。気の毒に、とんだ師匠についちまったもんだ。 カミュはチラリと姿を見たことがあるが、女でもああまで美しい人間はそうはいない、神々しいまでの美貌だったことが思い出される。すでに死んだ者の話題をここでしても不毛なだけだ。一輝は再び思考を現実に戻した。 「で、あんたは男と女の、どっちなんだ?」 面と向かい、真面目な顔で一輝は尋ねる。
 「さぁ、どうでしょう?」
 「言っとくが、試してみる気はないぞ」
 ムウが答えを言い終わらないうちに一輝が言葉に釘を刺す。それを聞いて、ムウは腹を抱えて笑い出した。
 「あなたと話していると、楽しくて時間を忘れてしまいそうです。そろそろ下山しないと、いくらあなたの足でも空港まではたどり着けませんよ。日本への飛行機は、今回を逃すと三日後までありません」
 ムウら促され、一輝は長居していたことに気づく。いつの間にか夜明かししたらしい。修復された不死鳥聖衣を背負い、白羊宮の玄関口にあたる扉までムウに見送られて歩く。
 「ここでいいよ。白羊宮は双児宮のような迷路造りじゃないだろう」
 「さぁ、判りませんよ」と微笑み「これから処女宮へ行き、シャカと懐かしの対面でも果たしましょう」と冗談半分で言う。
 「シャカによろしくな。世話になったな。感謝している、ムウ」
 一輝にしては珍しく、神妙に頭を下げた。 その一輝を覗き込むようにして、ムウは一輝の唇に自らのそれを重ね合わせた。
 目を見開いて硬直している男の頸に手を回し、更に深く口づける。
 「判ったでしょう?黄金聖闘士の口付けは、恋愛を語るためだけのものではないのです」
 そう言って回した腕をほどき、微笑んだムウは軽い足取りで、処女宮のある上へ続く道を駆け上っていった。
 しばし呆然と見送っていた一輝は、唇を指でなぞり、ムウの感触を確認する。
 確かに違う。その時々に気に入った女たちと交わした口づけとは全く違う。内なる小宇宙(コスモ)と共鳴し、相手の力を取り込むようなエネルギーを感じる。
 黄金聖闘士を師匠に持ったことのない一輝には経験はないが、時としてこういう手段を交えながら、師から弟子へ小宇宙(コスモ)が伝承されるのかもしれない。
 一輝はカミュへの偏見を撤回した。しかし、女性への興味を示さない氷河への偏見は継続していた。
 日本へ帰ったら、まず氷河を男にしてやろう。そう考えながら、馴染みの女性達の顔を思い浮かべる。氷河より顔の綺麗な女性となると問題だが、重要なのは顔ではない、体なのだと、身勝手な結論を下し、満足げに白羊宮を後にした。 

                                        完


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牡羊座の溜息

第8話