一輝の呼びかけに、反応はない。どのくらい気を失っていたのか判断がつかないが、存在している場所がそもそも実体がないのだ。ほんの数秒のことかもしれないし、数日が過ぎているのかもしれない。
 一輝は上体を起こし、辺りを見回すうちに、少し離れたところに人影を捉えた。サガだと直感したが、しばらく傍観していた。
 幻魔拳を受けて正気でいられるはずはないのだが、サガは既に死んでいるのだ。死者に致命傷を与えられたとは思えない。
 立ち上がろうとしたが、脇腹に受けたサガの拳は、生身の自分には十分すぎるダメージとなっている。どうやら内蔵を損傷しているらしい。一輝は立ち上がることを諦め、這うようにサガに近づいた。
 「サガ。もう一度いう。シャカを渡して貰おう。サンクチュアルに連れ戻す」
 痛みで脂汗が吹き出る。激痛を押し殺して、尚もサガに詰問する。
 「さっき、俺にあれ見せたのは、あんたか?あんたがシャカをどう思っていても、シャカは生きている。生きている人間を、ここに閉じこめておくわけにはいかないんだ。シャカには、まだ課せられた運命がある。シャカをサンクチュアリへ戻し、アテナの元に返せ、サガ」
 苦しい息の下から諫言する一輝を、穏やかな顔でサガは見下ろしていた。
 「君も見たのか。あれは私が見せたものではない。我々は、どうやら同じものを見ていたようだ。忘れていた、昔のことを」
 「いや、あんたは忘れちゃいなかったはずだ。ずっと忘れられなかったから、死んだ今もシャカを呼び続けていたはずだ」
 「シャカに届くとは思わなかったのだ」
 「え?」
 しばらくの間をおいて独り言のように呟いたサガの言葉を、一輝は驚いたように聞き返す。
 「自ら命を絶ってから、異次元の迷宮でシャカを見て、私は確かにシャカを呼んだ。だが、それがシャカの耳に届いていたとは思わなかった。私の呼ぶ声が、シャカを縛り、苦しめていたとは、思わなかったのだ。一輝、君には想像できないだろう。高潔で誇り高かったシャカが、日夜、血の涙を流し苦しみ、己を責め続ける姿を見るのが、どれほど辛いことかを。そんな姿を見続けるくらいなら、ここで解放してやろうとした」
 「それが、あんたの愛情か。でも、シャカは立ち直る。それが判らないあんたじゃないはずだ。ここに閉じこめていたら、確かにシャカは安らかに、廃人として生きられるだろう。けど、今度はあんたが自分を責め続けて、死んだのちまで苦しむことになる。いや、現に苦しんでいるはずだ」
 「君の強さと自信は、どこからくるのかな。まだ半人前の青銅聖闘士なのに。いや、十二宮でも、私はその半人前の聖闘士たちに敗北した。これで二度目の敗北だな」
 サガは力なく呟き、笑った。
 「シャカが、もしもこの先、寿命がきて死ぬことがあれば、そのときこそ堂々と連れて行け。その時は、俺はもう止めない」
 自分でも、おかしなことを言っている自覚があったが、一輝は、ほかに言葉が思い浮かばなかった。
 「それは慰めの言葉か?おかしな奴だな、君は。その時になったら、シャカが来るとは思えないが、有り難くきいておこう」
 やさしい目をして穏やかに微笑むサガは、まるで別人のように見えた。これが、ムウの言っていた、聖人のようなサガの姿なのかもしれない。
 シャカを愛するあまり、消えていたはずの悪のサガが一瞬、現れたのだろうか。だとしたら、なんという不幸な宿命なのだろうと一輝は思う。
 誰からも尊敬され、慕われるべき人格者でありながら、絶えずもう一人の自分の影に怯え続けた一生。
 シャカを愛してしまったことで、押さえていた影の自分が出てきてしまったのだろうか。欲望と自制。サガは、知らぬ間に、その波に呑まれてしまったのかもしれない。
 「シャカを、連れて帰る」
 はっきりと断言した一輝の言葉を、サガは黙って聞いていた。
 「私は死界へ発つ。私が去ったあと、シャカをここに戻そう。処女宮の沙羅双樹の平原に、シャカと君の身体は存在しているはずだ。そこに戻り給え。シャカは小宇宙(コスモ)を使い果たし、抜け殻のようになっているだろうが、君が気を送れば意識は戻すだろう。その後のことはムウに頼むがいい」
 「ムウに?」
 「彼は、すべてを知っている」
 言い終わると、サガは立ち上がり、一輝の腹部の辺りに手を当て、そしてゆっくりと辺りの景色と同化し、無と消えた。
 「サガ!あんたは・・・」
 何も恥じることはないと、言いたかったが言葉にならなかった。死してなお、誰かを思い続けることが悪いことだとは思えない。自分がエスメラルダを忘れないように、死んだ彼女も自分を忘れないでいるのだろうか。
 一輝の目から涙が溢れた。聖闘士であっても、誰かを愛することはあるのだ。愛することができるから、命をかけて闘えたのだ。
 涙でかすんだ視野の先に、金色に光る何かが横たわっていた。シャカだろうかと、立ち上がろうとして、一輝は傷が癒えているのを知った。おそらく、サガが治していったのだろう。シャカが五感を戻したように、拳を放った者はその傷を癒す術も心得ていた。


 頬を撫でる風を感じ、一輝は目を開いた。異次元に墜ちる前と変わらず、シャカを抱き寄せたままの状態だった。
 腕の中のシャカの鼓動は戻っていたが、体温がなく、冷たくなっていた。
 そのまま引き寄せ、唇を重ねて一輝は気を送り続けた。
 少しして、閉じられていたシャカの目が突然、開かれた。
 「おい、このままの姿勢で目を開くなよ。いくらなんでもバツが悪すぎるぜ」
 慌てて唇を離し、一輝は言った。
 「気を送ってくれたのだろう。どうしてバツが悪いのだ?」シャカは平然と答える。
 「その通りでございますが、気の送り方に問題があると思わないか?恋人同士のような熱烈なキスじゃないと、気は送れないわけ?」
 「?よく判らない男だな。ところで、いつ私を解放してくれるのだろうか」
 一輝の腕に抱かれたまま、シャカは言った。
 「少なくとも、体温が戻るまでは我慢して貰うぜ。サガの遺言だからな」
 しんみりとした口調で一輝は言った。
 「サガの。そうか、君は異次元にまで行ったのか」
 「ああ。あんたにフェニックスのクロスと、俺を拾ってきて貰った礼をしようと思ってね。そうしたら意外なヤツに出会っちまった、ってわけだ」
 「君がここにいるということは、サガは行くべきところに戻ったというわけか」
 「シャカ。立ち入ったことを訊いていいか?答えたくないなら、そう言ってくれ」
 質問の内容はおおよそ見当が付くといった顔で、シャカは目で了解した。
 「サガの気持ちに、いつ気づいていた?」
 「君に、見せたと思うが」
 シャカにそう言われ、異次元でサガと拳を交えたときに見た、断片的な映像が浮かび上がった。
 「サガが私に寄せているのは、単なる好意ではなく、私を求めているのだと自覚し、そのショックで別人格を見抜けなかった。今考えると、あれは別人格のサガの画策だったのだろうな」
 視線を宙に浮かべ、シャカは呟いた。
 「あんた自身は、サガをどう思っていたんだ?」
 一輝の問いに、シャカはしばらく考えていた。
 「判らない。尊敬していたし、好意も持っていた。それが世間で愛だというのなら、たぶんそうであろう」
 「サガに、別の意味でキスしたいとか、どうこうなりたいとか思ったことあるのか」
 「あるはずがない」間髪を入れずに言う。
 「なら、それは愛じゃない。ただの尊敬と、好意さ。サガには気の毒だけどな」
 「君は随分と気にしているが、唇を触れ合うことが、それほど重要なのか?我々は、手を触れ合う程度にしか考えていないが」
 不思議そうに、今度はシャカが尋ねる。
 「唇へのキスは重大な行為だぜ。愛し合った者同士がすることさ。今は理解しているが、最初のキスの相手があんただと知った時は、少なからずショックだったんだぜ」
 「それはすまなかったな、許せ」
 慰めにもならない、抑揚のない謝罪の言葉が、シャカから発せられる。
 この男の、どこをサガは愛していたんだろうか。確かに見かけは美しいが、悟りきっているせいか、堅物すぎる。それに、この先、可能性は限りなく薄いにしても、もし恋人ができるとしたら、やはり女性がいいと一輝は一人考えていた。
 「あんたの身体が回復したら、帰りに白羊宮に寄ってムウに頼んでおくよ」
 「ムウに?」

 「ああ。これもサガの遺言でね。あとのことはムウに頼めってさ。なんでもお見通しみたいなことを言ってた」
 少しずつ顔色が戻ってくるシャカを見つめ、一輝は言った。
 「ムウとは、同じ頃にサンクチュアリに入った、いわば腐れ縁だからな。昔は素直で可愛らしい性格であったが、テレパシストとしての能力が増してくると同時に、身を守るために殻に閉じこもってしまってからは、非常に性格が悪くなった」
 淡々と話すシャカの話を聞く限りでは、どっちもどっちという気がしたが、こういう状況では逆らわずにいるほうがいい。一輝は聞き役に徹した。

                                          つづく

牡羊座の溜息     第7話