無であるはずの空間に、いないはずの人影を、一輝は見つめた。
十二宮の闘いで、我に返ったサガは、アテナの前でその不義を詫び、自害して果てたと人づてに聞いた。
自分が見ているのは、目に見えているサガの姿ではなく、意識が直接感じている映像なのだろうと一輝は思う。
他の黄金聖闘士と同じく、サガは長い髪を持ち、端正な顔立ちをしていた。
「シャカは、無我の境地を悟り、迷える者を救い導くのが宿命であるかのような男だった。高潔でいて慈悲ぶかい。仏陀の生まれかわりだった」
サガはゆっくりと、確認するように呟いた。 「ああ、それは聞いてる。あんたはキリストの生まれかわりのようだ、って話もな」
付け加えるように一輝が続ける。
「キリストは神の言葉を聞き伝えるだけで、自らの精神を磨き悟ることはしない。神に頼るだけの者は脆いものだ。正しくあればあろうとするほど精神がずれてゆく。自制できるうちはそれで構わないが、できなくなると歯止めがきかなくなる」
「それが、あんたが人格を変えた原因ってわけか」
「変えたのではない。常に自分の意識はあるのだ。しかし、表に出ることができない。意に添わぬ意識に押さえ込まれ、目を覆いながら自分が犯す罪を見続けていたのだ」
静かにサガは過去を振り返った。言葉には、自己に対する弁護も弁解も感じられなかった。
「二重人格ってわけか。そして、あんたの場合は、もう片方が表層に出ている間の記憶があったってことか。そりゃ気の毒だったな、と言いたいところだが、もう片方のあんたのおかげで、大変な目にあったから同情はやめておくぜ。けど、そのことを責める気持ちは、もうない」
一輝が言い終わっても、サガは無言のまま聞いていた。
「俺がシャカと闘ったとき、教皇の悪になぜ気づかないと詰め寄ったら、シャカは教皇は正義だと言い切っていた。シャカの前では、今のあんたが表層に出ていたってことか?」
沈黙したままのサガに一輝は尋ねた。
少しの間、サガは答えを押し黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「そう。もう一人の私も、シャカだけは恐れていた。無我の境地のシャカには幻影は効かない。シャカが本気を出して闘いを挑んでいたら、いくら私でも勝算は少ない。それに、シャカが異を唱えれば、他の黄金聖闘士たちも同調する。それを回避するために、シャカと対峙するときは、もう一人の私は意識的に表層から消えた」
「だったら、その時に何故、真実を言わなかったんだ?」
「私は、もう一人の私に人質を取られていたのでね」そう言いながら、サガは視線を一輝から逸らした。それを見逃さず、一輝が詰め寄る。
「どういう意味だ」
「シャカを、もう一人の私に渡すわけにはいかなかった。あの時はもう、私の身体の主導権はもう一人の私が握っていた。私は、あいつが消えたときしか表層には出られない。けれど、あいつは自分の必要に応じて、突然表層に出てくる」
「つまり、あんただと思って油断したシャカを、突然別のあんたが出て殺すかもしれないってことか?」
「まぁ、そんなところだ。君が言っていたように、本当のことを告げようとしたことがあった。その瞬間にあいつは私とすり替わり、シャカに狼藉を働こうとしたことがある。幸いにしてすぐに私が表層に戻ったが、それがあいつの”見せしめ”だということは判った」
サガの言葉には、なにか秘密めいた匂いがしたが、一輝はそれには深く追求せず、結論を急いだ。
「そうまでしてシャカの命を守ったんなら、なんだって今頃になって、こんなところに閉じこめるんだ?」
「シャカが君と異次元に墜ちたとき、取り乱したシャカを見ただろう」
意外なことをサガは言った。
「いや。あの時のことは何も覚えちゃいないんだ。ムウにも言われたけど、本当に覚えてない。墜ちていくとき、シャカが俺をみて不敵に笑ったところまでの記憶しかない」
「そうか。ではシャカに消されたのかもしれないな。私は、アテナの前で命を絶ち、死界へ墜ちたが、その途中で異次元に引き込まれ、漂うシャカ見た。シャカにも私が見えていたようだった。おそらく、それでシャカは地上で起こった全てを知ったのだろう。信頼していた教皇が、別の人格に支配されアテナ殺害を企てていた。シャカにとっては天地が崩壊するような衝撃だったはずだ。幾度となく会っていたはずの教皇が悪に染まっていたことも、本物のアテナが瀕死の状態で、自分たちが打ち倒していた青銅聖闘士によって守られていたことも、何ひとつ気づかなかった事実を知って、シャカは狂乱した。そして、私を救えなかったことを悔い、血の涙を流した。君がいなければ、あのまま異次元で狂っていたかもしれない」
「それは、シャカに責任はない」
話をじっと聞いていた一輝は、それだけを答えた。
「そうなのだが、シャカは自分が許せないのだ。君を助けなければという一心で、異次元から戻った。しかし、心が再び安らぐことはなく、瞑想に入ることが多くなりついには瞑想から戻ることをやめてしまった」
「それで、ここにいるってわけか?あんたの元に?違うなサガ。シャカがここに来たのは、あんたが呼び続けたからだ」
核心を突くように、一輝は言い放った。サガは一輝を見据えたまま、押し黙った。
「どうやら図星かい。たとえ真相を知って取り乱したとしても、俺を連れて戻ったら、シャカは自力で立ち直るはずだ。いつまでも取り乱したままの、弱い男じゃない。シャカとサシで闘った俺には判る。あいつは最強の聖闘士だ。そのシャカが、異次元に入り浸りになったのは、誰かが手招いたからさ。殺せなかったといいながら、自分が死んじまったら、今度は連れていく気か?」
「なんだと?」
「反論できるならしてみろよ。あんたに巣くった悪魔を見抜けなかったと嘆くシャカの罪の意識につけこんで、あくどい真似をやってくれるじゃないか。本当にシャカを助けたいなら、アテナの元に返せ」
「黙って聞いていれば、言うに事欠いてなんたることを。このままシャカを地上に返したら、血の涙を流しきり、息を絶ってしまう。そうはさせぬ。シャカは渡さない」
「ふん。やっと本音を出したな。あんたのシャカへの執着は異常だ」
「私を侮辱する気か?そこまで言われては、力ずくでも渡すわけにはいかない」
サガは身構えた。
「最初からそうすりゃいいんだ。クロスなしで、正々堂々と勝負といこうぜ」
口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、一輝が応じる。異次元で、実体のないまま闘って、どういう結果になるのか、見当もつかないが、その一番目の例になるのも悪くない気がする。
命がけで自分とフェニックスのクロスを救い出してくれたシャカを、なんとしてでもサンクチュアリに返す。一輝には、その言葉だけを何度も思い返した。
サガの放った拳が、一輝の脇腹を直撃した。目の前が真っ白い光に包まれる。その白の中に一条の赤い帯が見えた。誰かの血のようだ。倒れゆく一輝には、相手にも確実に自分の拳が入ったことを認めた。
相打ちなのか、自分だけが倒れているのか判らない。ただ、相手に一撃を与えたという手応えだけを感じ、意識が遠のいた。
サンクチュアリ教皇の間で、教皇は月に一度、十二宮を護る黄金聖闘士から報告を受けることを責務としていた。
その日は、処女宮よりシャカの来訪を受けていた。非戦闘時期のため、黄金聖衣ではなく、幾重にも折り重なった僧衣のような装いのシャカは、教皇の間でサガと対峙していた。
「報告は以上の通りでございます。アテナは息災でおられますか?」
儀礼的な報告のあと、シャカは尋ねた。しかし、教皇は玉座に座ったまま沈黙し続けていた。何か考え事でもしているのか、心が離れている。
「教皇?どうしました、サガ」
シャカにそう呼ばれ、教皇は我に返った。
「ああ。ご苦労だった。アテナは無事息災だ。何も案じることはない」
「それは祝着なことです。それでは、また来月に参ります」
「まぁ、待て。そう慌てることもないであろう。茶でも飲んでいくがよい」
帰ろうとするシャカを、教皇は引き留めた。教皇に就任する前から、ジェミニのサガとは親しくしていたので、引き留められて話をすることは珍しいことではなかったが、お茶を勧められるのは例がなかった。シャカは飲食に対しての欲がほとんど無い。死なない程度に口にすればそれでよい、という性格をよく知るサガは、飲食を勧めることは無かった。
「はい。戴きましょう」
不思議に思いながらも、シャカは応じた。
従者を呼ばず、自らお茶の支度をし、ふるまった。やはり少しおかしい。シャカはなんとなく思った。
「目は、開けないのか?」
不意にそう訊かれ、シャカはサガを見た。
「相変わらず、美しい青い瞳だ。シャカ、私を見て何か感じないか?」
「何か、とは?」
オウム返しのように呟いて、シャカは開いた目でじっとサガを見つめた。今日のサガはどこかおかしい。いつもと何かが違うような。穏やかな眼差しの奥に、何か影のようなものを感じるのは気のせいだろうか。
「私に伝えたいことが、おありですか」
「ある」
サガの様子がおかしい。顔から血の気が引いていき、目の焦点がぼやけていた。まるで、見えない何かと闘っているような。
「教皇、どうしました?ご気分でも悪くなりましたか?お話なら後で伺いましょう。ムウを呼びます」
さっと側に寄り、サガの背中に手をかけた。
「心配には及ばない。病気ではない。それより、話を聞いて欲しい。シャカ、私は・・」
シャカの腕を掴み、サガは苦しい息の下から言った。これは尋常ではないとシャカが直感したとき、掴まれた腕を強く引き寄せられた。
「教皇、どう・・」
言い終わらないうちに、シャカは後手にされ、テーブルの上に押し倒された。茶器が床に転がり、テーブルに長い金髪が散らばった。
「教皇。・・・サガ・・・?」
「教皇となった今でも、余をそう呼ぶのはそなただけだ、シャカ」
おかしい。教皇だが、サガではないような。しかし、確かにサガである。シャカは混乱していた。黄金聖闘士である自分が、テーブルの上に組み敷かれていることも原因のひとつだが、目の前のサガの変貌も大きな原因だった。
「正気とは思えませんが・・・・、私がお名前を呼ぶのは、お気に召しませんか?」
青い双眼でサガを見据えたまま、シャカは言った。
さきほどまでのサガと違い、いつもの穏やかな雰囲気を取り戻したサガが目に映った。シャカは安堵したものの、目の奥に潜む影が消えていないのを悟った。
「すまない。時折、疲れからか思ってもみないことを口走る。呼び名のことは気にしていない。今までどおり、好きなように呼んでくれ」
サガは押さえていたシャカの腕を放した。解放されても、サガに動く気配がないので、シャカもしばらくそのままテーブルの上にいる。
「このことは・・」
「口外するつもりはありません」
ためらいがちに言うサガに、きっぱりとシャカは答えた。
「あとで、ムウに頼んでよい薬を持って来させます。時折と言ってましたが、どのくらいの間隔で起こるのです?」
「数ヶ月に一度くらいだ。少し休めば大事ない。驚かせて悪かった」
「確かに少し驚きましたが、あなたをそうさせるほど教皇とは激務なのでしょう。気を送りましょう。それで少しは楽になるはずです」
そう言ってシャカは細い腕を伸ばした。上体を起こすと、端正な顔がゆっくりと近づいてくる。
シャカは迷える者、瀕死の者を救う力を持っている。シャカが気を送った者は、たとえ瀕死の状態であっても復活することができる。そう聞いたことがある。
私は迷える者でも瀕死の者でもない。私はただ、シャカを愛してしまった、愚かな男に過ぎないのだ。
そんな罪念にさいなまれながら、サガは唇を開いた。
一輝は目を見開いた。
確かに、はっきりと、誰かの思念が自分の記憶と同化していた。ザカなのか、シャカなのか。現実にあった出来事が、頭の中で繰り返された。
どういうことだ?今のは、誰の記憶なんだ。自分にこの現実を見せたのは、一体誰なのだろう。
「サガ!!!」
一輝は、出せるだけの力を振り絞って、その名を叫んだ。
つづく
牡羊座の溜息 第六話