十二宮の死闘で半壊した処女宮は、以前と変わらぬ姿に修復されていたが、一歩中に入ると、長い間、誰も住んでいないような、ひんやりとした無機質な空気に包まれていた。
荒れてはいないが、生活の臭いもしない。ムウのいる白羊宮も決して贅沢な作りではないが、少なくとも人の生活を感じることが出来た。しかし、この処女宮は全くそれが無いのである。
といって、無人であるわけでもない。一輝には、確かに聖闘士の気配が感じられた。広間を抜けたところにある大きな扉の向こうから、シャカの気配がした。
仏像の曼荼羅が一面に彫り込まれた、重厚な観音扉だが、おそらくシャカが内から封印しているためか、押しても引いてもびくともしない。
「ムウの言っていた、瞑想か」
無理矢理扉を開けることも、考えないではなかったが、下手に相手を怒らせてしまうのは得策ではない。一応、礼を言いに来たのだということを思い出し、一輝は待ってみることにした。半日待っても出て来なかったら考えよう。
扉にもたれかかり、目覚めてからのことを色々と思いめぐらせているうちに転た寝をしてしまったらしい。いくぶん冷たくなった風が入り込み、一輝は起こされた。
「もう夜か。どのくらい寝てたんだ?俺は」 と言いながら辺りを見回してみたが、やはりシャカは戻っていないらしい。
「叫んでも、出て来ないだろうな」
なんとか自分が中へ入るか、相手に出てきた貰うか方法を考えるよりなさそうである。いくら瞑想中とはいえ、何日も待つほどの辛抱強さは持ち合わせていない。
「シャ・・・・」
シャカを呼ぼうと扉に触れた一輝は、ほんの少しだけ扉が開かれているのを感じた。自分を転た寝から起こした風は、どうやら扉の向こうから吹き込んでいるらしかった。
「ここは、外に通じてるのか?」
開かれた扉に、一輝は身体を滑り込ませた。扉の向こうは真っ暗な闇が広がっているようだったが、目が慣れるとそこは広い草原であることが判った。
小高い丘のようなところに、二本の木が立っている。三分の一程度欠けた月が、闇に包まれた世界を薄く浮かび上がらせる。
「シャカ?そこにいるのか?」
木の陰に佇む人影を感じ、一輝は声をかけながら慎重に近づいた。シャカしかいないはずだが、シャカの小宇宙(コスモ)が全く感じられない。別人なのかもしれない。
処女宮に入ったときから、強い力を持つ気配は感じていたが、どうやらそれはシャカではないようだった。
一輝が近づいても、人影は動く素振りを見せない。やはりシャカではない、誰かがいるのだろうか。ムウの白羊宮には、従者の貴鬼がいるが、シャカがそうした者を住まわせている話は聞いていない。
すぐ後まで歩み寄ったとき、二本の木の間で座禅を組んでいる人影を確認できた。細い両肩にかかる真っすくで長い髪。やはりシャカだった。
「シャカ」
一輝は安心したように、声を掛けた。しかし、シャカは微動だにしない。いくら瞑想といっても、後から人が近づいても無反応なわけはない。仮にもシャカは、黄金聖闘士なのである。何をしていようが、侵入者に気づかないはずはないのだ。死んでいるなら別だが。
そう考えた瞬間、一輝はシャカの肩を揺さぶった。「おい、シャカ」
一輝に触れられ、バランスを崩した積木のように、シャカは地面に崩れ落ちた。
まさか、本当に死んでるんじゃ。
「しっかりしろ、どうしたんだ。シャカ」
何度も揺すってみたが反応はない。頬に触れてみたが、ひんやりとするものの体温はある。硬直もしていないようなので、死んでいるわけではなさそうだ。瞑想に入るということは、こういうものなのだろうか・・と、狐につままれたように思いながらも、一輝は安堵した。
草原に倒れたままのシャカを、処女宮に連れ戻そうか、このまま元の姿勢にしたほうがいいのか、思いあぐねて抱き起こすと、月のおぼろ明かりがシャカを照らした。
閉じられたシャカの双眼から、血のように赤い涙が流れていた。目を怪我しているようには見えない。まさに血の涙なのである。
「シャカ・・・しっかりしろ。目を覚ますんだ、シャカ!!」
一輝にも、ただごとでは済まない何かが、シャカの身に起きていることは判った。その何かが、なんなのかを突き止めなければいけない。それも出来る限り早く。
死んではいないはずのシャカだったが、一輝の腕の中にいるシャカの心臓は、脈打つことなく止まっていた。
死んではいない。体温がまだあるし、死後硬直の症状も出ていない。心臓は停止しているが、死んではない。鼓動を止めて、一体どこへ行っているんだ、シャカ!!
一輝は念を込めて、見えない何かに向かって叫んだ。
戻れ、戻って来い。シャカ。
ムウは、異次元に迷い込んでいるシャカの心を連れ戻せと言った。そういうことなのだろうか。シャカは、自分の身体を離れて、再び異次元に舞い戻ってしまったのだろうか。一体、なんのために!?
「連れ戻して来いとか、簡単に言うけど、呼んで戻ってくるわけねぇよな」
お手上げだった。シャカと闘ったときは、シャカによって自分は異次元に飛ばされた。自分から異次元に飛ぶことなど、出来るはずがないのだ。
「助けてくれよ、ムウ。シャカが、あんたの仲間が死んじまうぞ。どうすればシャカを自分の身体に連れ戻せるんだ、ムウ!」
白羊宮まで届けとばかりに叫んでみたが、ムウのテレパスは何も感じられない。この場所には、シャカが結界でも結んであるのかもしれない。でなければ、こんな状態になっているシャカに、ムウが気づかないはずがないのだ。
シャカと異次元に落ちたとき、何が起こってどうなったのか。覚えていない経験しか、もはや縋るものがない。何があった、あのときに。自分とシャカに何が起こった?
そういえば・・・氷河の身体を借りたシャカは、俺に気を送る術として唇を・・・もしや、異次元に落ちたときもシャカは。
これで何もなかったら後味のよいものではないだろうが、そんな悠長なこともいってられない。可能性が他に無い以上、なんでもやる覚悟は出来た。
シャカを腕に抱きながら、一輝は自らの小宇宙(コスモ)を集中させ、高めた。シャカの混沌している精神の中に自分を同化させるのだ。そして、シャカが迷い込んでいる場所まで行き、引きずってでも連れ戻す。
一輝はシャカを引き寄せ、奪うように激しく唇を重ねた。
目を開くと、腕の中にいたはずのシャカは消え、二本の木も消えていた。月も星もない世界だった。景色も見えなくはない。見えなくはないのだが、景色自体が無かった。
一輝には、無の中から人が出てくるのを、意識として捉えた。
「君がフェニックスの一輝か。よくもまぁ、こんなところまで来れたものだ」
その男は言った。
「生憎、諦めが悪くてね。命の恩人に、礼を言うまで帰れないんだ。これでもわりと礼儀正しいほうで」
皮肉をこめて一輝が返す。
「殊勝なことだ。礼なら私が代わりに伝えておこう。一輝。悪いことはいわない、このまま帰り給え」
穏和だが、反論を許さないといった口調で相手は答える。
「はいそうですか、と俺が帰ると思うか?ジェミニのサガ」
「ほう、知っていたのか」
一輝の言葉に、驚いたように相手が反応した。
「君に余計なことを吹き込んだのは、さしずめムウであろう」
「関係ねぇだろ。サガ、判っているだろうが、シャカは生きてるんだ。返して貰う」
「だめだと言ったら?」
「どうあっても連れて帰る。シャカが厭だと言っても、引きずって連れて行くぜ」
どちらも譲らない様相のまま、会話は平行線をたどる。
「一輝。私は君と闘う気はない。アテナのために命をかけて闘った君を、私は殺せはしない。どうか黙って引いてくれ」
意外にも、サガからは戦闘意欲が感じられないのは事実だった。一輝の前に存在しているのは、ムウがいっていた、悪に墜ちる前のサガなのだと直感した。
「出来ない相談だと言ってるだろう。こんな、あの世とこの世の間みたいな世界に、シャカを閉じこめておくつもりか?このままじゃ、シャカは生きることも死ぬこともできないし、あんたも成仏できないんだぜ」
戦闘意欲のない相手では、一輝も闘争心が起こらない。不本意ながらも、正論で挑むしかない。
「もっともな話だが、それでシャカが救われるならば、それで構わないのだ」
サガはそう言うと、目を伏せた。
「聞かせて貰おうか。どうしてシャカが、生き戻れば救われないのかを」
つづく
牡羊座の溜息 第五話