十五年前。
 アテナの黄金聖闘士として、各地から集められた十二人の聖闘士の大半はまだ、あどけなさの残る少年だった。
 彼らは卓越した才能と天性ゆえに、アテナの小宇宙(コスモ)に導かれ、教皇によって選ばれた生ける奇跡となった。
 長い聖戦で、先代の黄金聖闘士たちは、ただ二人を除き、戦死した。
 そのため、師から弟子へ授けられるクロスではなく、当人の才能に添ったクロスがアテナより授けられた。一人の例外を除き。
 ライブラの童虎と、アリエスのシオンは共に聖戦を生き残り、アテナに使えた。アテナの命を受け、童虎は遠く中国の地でアテナの封印を見守り、シオンはサンクチュアリに残りアテナを護り、聖闘士を育成に力を注いだ。そして、シオンの元へ送られたのが、まだ十五歳だったムウである。
 アリエスのクロスをまとったシオンは、気高く優雅で、美しかった。黄金色に輝くクロスに、長くたなびく薄緑の髪が、師の美貌をいっそう際だたせた。
 しかし、美しい外見に似ず、ひとたび修行に入ると想像を絶するほど厳しかった。もともとテレパシストであったムウより、はるかに優れた能力者であるシオンは、ムウが考えるより以前に行動を察してしまい、手も足も出なかった。
 「どうしました。その程度でお終いですか?それなら、おまえの命も、もうお終いですよ」
 優雅な微笑みを口元にたたえ、それでも決して手加減しない。何度も殺されかけた。
 相手は黄金聖衣を装着しているのだから、どうしたって勝ち目はない。投げやりな気持ちでぶつかっていくと、必ず半殺しの目に遭う。
 「ムウ。その気持ちが相手への隙になるのですよ。闘う前から諦めている者は、絶対に勝機はつかめません。戦場で諦めるということはムウ、死んでもよいということになります」
 意識が朦朧とするなかで、やさしく語りかける師の言葉を聞いた。修行においては並ぶ者ない厳しさを持つ師であったが、修行が終われば穏やかで温厚な人だった。
 聖闘士と認められる日まで、弟子は師と共に暮らし、その技を伝えられる。ムウも例外なく慣例に習った。
 ムウ自身、聖者のような師が子供心に憧れであったので、修行の辛さを差し引いても、側で仕えることが自慢だった。
 普段の生活に超能力を使うことを固く禁じられていたため、水くみも掃除も食事の世話も、すべて自分の手でこなした。
 「そんなことまで、する必要はないのですよ」と言われることまで、すべて好んでやっていた。どこへ行くのにもまとわりつく弟子を、決して邪魔にすることもなく、師はいつも物静かで、やさしかった。
 仕えてから二年が過ぎようとする頃になると、修行の厳しさは相変わらずであっても、半殺しにされることもなく、互角に戦えるほどにムウは成長していた。
 それでも、身の回りの世話は、相変わらずせっせと好んでやっていた。食事の好みから、衣裳の寸法まで、師のことはなんでも熟知している。

 その日は、師はアテナに呼ばれ、白羊宮を留守にしていた。師の出掛けるところには、どこへでも供をするのが務めであっても、アテナ神殿だけは別格であり、選ばれた聖闘士しか立ち入ることを許されていない。ましてや、聖闘士でもないムウには、近づくことすら許されていない場所である。
 夜遅くなり、師は戻ってきた。
 「お帰りなさいませ」
 いつものように、入り口まで出迎えに行く。
 「わざわざ起きて待たなくてもいいのだよ。といっても、今日はおまえに話があるので、休んでいたら起こしに行くつもりだった」
 優雅な足取りで師はムウの傍らを通り過ぎた。心なしか言葉に憂いを感じる。
 「私にお話が?」
 ムウは小走りに後に続いた。シオンは広間を通り越し、自室に向かった。シオンの自室は、いかなるテレパシストをもってしても侵入不能の、強いバリアを張り巡らせている。そこで話をしようとは、よほど大切な話なのだろうと、ムウは察した。
 「ムウ。私は今日、アテナに呼ばれ新しく命を受けました。心して聞いて下さい」
 いつになく真剣で、張りつめた重苦しい空気がムウを包む。
 「明日より私はこの白羊宮を出て、教皇としてアテナを補佐し、サンクチュアリを治めます」
 そう言われても、ムウにはピンと来ない。ひたすら修行に身を投じ、師についてここまできただけで、教皇がどうのと言われても、全く見当がつかない。
 「アテナは、まもなく眠りに入り、蘇る準備に入るのです。やがて生まれかわるのですが、その間、誰かがサンクチュアリを護らねばなりません。新しい黄金聖闘士が育つまで、私が教皇としてその任を受けるのです。私と共に前の聖戦を生き残った童虎は、別の命で中国の奥地にいて、ここには私しか残っていません」
 「私は、私はどうなるのでしょう」
 「アテナは、あなたならば白羊宮の後継者として大丈夫だと思っておいでです。私もアテナと同意見です」
 「いいえ。私はまだ先生の教えを受けたいのです」
 ムウは必死で訴えた。明日から師がいなくなるなど、想像も出来ないことだった。
 「それを決めるのはアリエスのクロスです。おまえがクロスにふさわしいか否か。黄金聖衣は着る者を選ぶのです。これから、それが試されるのです」
 そう言うと、シオンは机に置かれた飾り箱の中から、なにやら変わった道具を取りだした。
 「そこにお座りなさい」
 シオンに言われるまま、ムウは床に膝をついた。
 「おまえは私の最初で最後の弟子になるでしょう。その証として、額に印をつけます。これは、おまえの持つ能力を何倍にも高め、また、怒りに能力を使わぬよう封じる役目も持つはずです」
 穏やかに発する声は、気が遠くなるほど心地よく耳に入ってくる。シオンは細く長い指で、ムウの額の髪をかき上げた。
 そして二本の指を、さきほど出した箱の中に入れ、ムウの額に印を押すように触れた。指で触れられた部分が焼けるように熱く感じられ、稲妻のような衝撃が身体を貫くように走る。ムウの身体から緊張と力が抜け、倒れかかったのをシオンが支えた。そして、ムウの両の頬に手を添え、印を押した額にシオンはやさしく口づけた。
 ムウはただ目を閉じて、無言のままそれを受けていた。激しい稲妻が貫いた身体を、今度はやさしい光が包んでいるようだった。

 「ムウ。黄金聖闘士となるということは、自分が自分でなくなることです。クロスを装着したその日から、おまえの時間はゆっくりと止まります。このサンクチュアリにいる限り、四年で一年となり、十年で一年となり、やがては自分が幾つになるのかすら忘れてしまうほど、時の流れがゆっくりと経過します。普通の人間であれば得られるであろう喜びや楽しみとも無縁です。ただアテナと正義のために生きることを、運命として受け入れねばなりません。覚悟はできていますか」
 ムウを抱きしめたまま、シオンは強い口調で言った。
 「はい。その覚悟がなければ、今日まで生きられませんでした」
 それだけ言うのがムウにはやっとだった。黄金聖闘士となることより、シオンと離れることのほうが辛く、それしか考えられない。そのシオンが聖闘士として生きることを自分に託すのなら、それが運命なのだと思う。
 アテナの聖闘士になれなければ、この二年間の自分は存在しないも同様なのだ。
 「さぁ、服を脱いで、アリエスのクロスを呼びなさい。」
 ムウは言われるまに、上着を脱ぎ、内なる小宇宙(コスモ)を高め、アリエスのクロスを呼んだ。今まで感じたことのない、強大なパワーが体の芯から沸き上がるのを覚えた。
 ムウの小宇宙(コスモ)に感応するように、金色に輝くアリエスのパーツが現れ、次々にムウの身体に装着された。
 「こ、これは・・・・」
 際限なく溢れ出る泉のごとく、小宇宙(コスモ)がみなぎるのが判る。黄金聖衣とはこういうものなのかと、半ば愕然とする。黄金で出来ているはずなのに、重さが全く感じられない。それでいて、身体をしっかりと防御している。まさに、神が作った聖衣なのだ。
 「よく似合いますよ、ムウ。教皇としておまえに命じます。今から、おまえがアリエスを保持し、アテナの聖闘士として、この白羊宮を護るのです」
 穏やかだけれど、はっきりとした口調でシオンは言った。それは、師と弟子の、訣別の言葉でもあった。

 ムウのたっての願いを聞き届け、シオンは白羊宮で最後の夜を過ごした。おまえは黄金聖闘士だからという言葉もきかず、ムウは今でと同じようにシオンの身の回りの世話をし、今までと同じように、狭い自分の部屋で休んだが、一睡もできずに夜明けを迎えた。
 昨日までそうしたように、身支度のための用意をし、師の部屋を尋ねると、既に支度を調えたシオンがいた。
 「おまえはもう弟子ではないのだから、そのようなことはせずともよいと、昨夜も言ったはず・・・」
 シオンが言い終わらないうちに、ムウの両眼から涙が落ちた。
 「私は、あなたが好きでした」
 「晴れて黄金聖闘士となった者が、そんな子供みたいに泣くものではありませんよ。でもまぁ、おまえはまだ十七ですから、今日だけは大目にみましょう」
 そう言うと、昨夜したように、シオンはムウをすっぽりと抱きしめた。
 「大人におなりなさい。そして、私を補佐して下さいね。おまえが来るのを、教皇の間で待っていますよ」
 しゃくり上げて泣き続けるムウに、ちょっと困ったように微笑みながら、シオンはやさしく口づけた。


 「あんたは、キスするなら好きな相手としたいと思わねぇのか?」
 一輝の声がプレイバックして、ムウは飛び起きた。
 「夢か。一輝がおかしなことを言うものだから、とんでもない夢を見てしまった」
 うたた寝をしていたムウは、いつの間にか日が落ちていたことを知った。
 久しぶりに師の夢を見て、心の奥に閉じこめた記憶が鮮やかに蘇る。師の言葉どおり、時がゆるやかに流れるサンクチュアリでは、外見こそは変わらないが、あれから十三年の時が流れた。
 自分は大人になったのに、師は待っていてはくれなかった。断末魔の中で、自分を呼んだシオンの声。結界が張られたアテナ神殿の中で、最愛の師は殺された。
 結界を破って聞こえた叫び声。「ムウ」とだけ叫んで逝った。額と唇に残された感触を、たったそれだけを残し、永遠に消えてしまった。
 十三年経っても忘れられない叫び声。支えを失なった喪失感は、癒える日がくるのだろうか。 
                                      つづく

牡羊座の溜息     第四話