降り注ぐ熱い太陽の光を受け、一輝はサンクチュアリに入った。険しく幾つもに切り立った丘は広大で、そのあちらこちらに十二宮は点在した。
 2ヶ月ほど前のサガの乱で、十二宮も半壊に近い損傷を受けたはずだが、驚いたことに全ての神殿が、再び美しい白亜の姿を見せていた。
 サンクチュアリ最初の宮は白羊宮で、ムウが守護し、黄金聖闘士と先陣を切る。つまり、神話の時代から何人たりとも白羊宮から先に、アテナの許可なく立ち入った者はいなかった。
 サガの乱では、教皇に疑惑を感じていたムウは、闘わずして星矢たちを通過させた。黄金聖闘士の中でも一級のテレパシストであるムウを、サンクチュアリ最初の護りに置いたのは、来訪者の可否を見定める力を見込まれてのことだというのは明白だった。
 代々、白羊宮でアリエスを保持する聖闘士は、例外なく強い超能力を持っていた。他の黄金聖闘士も、類い希な資質から、過酷な修練の間に、お互いの意志の疎通が可能な程度の感応力は会得していたが、ムウのそれは明らかに他者とは違う。生まれながらの超能力者だった。
 そのムウは、当然のことながら、一輝の来訪を予知している。アンクチュアリに近づいた段階で、見ようと思えばどの辺りにいるのかさえも把握出来る。
 険しい道を抜けて白羊宮までたどり着いた一輝を、入れ立てのお茶と優雅な微笑みでムウは迎え入れた。
 「よく来ました。元気そうでなによりです」
 「ああ、あのときは有り難う。礼を言うべきだよな」
 木訥な男は、気の利いたことが言えないで、つい的はずれなことを言ってしまう。しかし、そういうところをムウは楽しく思う。洗練された仲間としか接触する機会のない黄金聖闘士は、素朴で口べたな青銅聖闘士との会話は、新鮮でとても楽しい。
 「とんでもない。アテナを護ったあなた達を疑い、抹殺しようとしたのは私たちです。あのままあなたを殺してしまったら、私たちは永久に罪人です。一番ほっとしているのはシャカでしょう。処女宮にはこれから行くのですか?」
 「ああ。フェニックのクロスを受け取ったらすぐに」
 間髪入れずに一輝は答えた。
 「そうでしたね、あなたにとって、命の次に大切なクロスがあったのですね。別に私に会いに来てくれたわけではないのですものね」
 語尾のトーンを少し落としてムウは言った。なんとなく非難めいた要素が感じられ、一輝を焦らせる。
 「いや、クロスもあるけど、あんたにキチンと礼を言うつもりで来たのは本心だ。クロスだけのために仕方なく寄ったわけではないぞ」
 仕方なく、は余計でしょう。ムウは内心で毒づく。けれど顔には出さず、いつものような優雅な笑みを浮かべて見返す。
 「そんなに必死にならなくても、ちゃんと判ってますからご安心なさい。クロスはあなたにお返しします」
 ムウは立ち上がると、次の間の扉を開いた。そこには、フェニックスのクロスが以前と変わらない輝きをたたえていた。
 「フェニックスのクロス・・・」
 夢遊病者のように、一輝はクロスに吸い寄せられ、愛しい相手に触れるように、そっと手を添えた。
 「どうやら、あなたとフエニックスのクロスは相思相愛のようですね」
 一輝の様子を見ていたムウが微笑ましく、呟いた。もし、この男に愛する女性がいるとしても、ここまでやさしく、愛しくは触れないだろうとも思う。聖闘士になってしまうと、自分のクロスと離れることなど、考えられなくなる。けどいつか、自分のクロスと別れる日は来るのだ。自分の師が自分にクロスを授けたように、やがてクロスを後生の聖闘士に譲る日が来る。
 それまでは、一輝のように深い愛情を注いで慈しみ合うことこそ必要なのだ。ムウはそう自問自答した。
 「感謝するぜ、ムウ。この恩は、生きている限り忘れない」
 「その言葉、シャカに言ってあげて下さい。異次元空間から、そのクロスの欠片を死守したのは彼です」
 「ああ、言うさ。でも、あんたにもだ。あんたもいなきゃ、フェニックスのクロスは蘇らなかった」
 きっぱりと宣言され、ムウは少々戸惑った。この男は正直すぎていけない。
 「クロスが無事なのは判ってくれたようですね。でも、クロスを持ったまま、非戦闘時期のサンクチュアリを歩くのはあまり誉められた行為ではないので、ここでの用が済んで帰るときにクロスを取りに来て下さい」
 「そうか。それじゃ、仕方ないな。悪いけど、それまで預かっていてくれ」
 本当に名残惜しそうに、一輝はクロスから離れた。本来、争いを好まぬアテナは、戦闘態勢を除いてのクロス装着を良しとはせず、平穏な時期は、技の鍛錬以外では黄金聖闘士といえどもクロスは脱ぎ、平服でそれぞれの神殿にいる。
「そういえば、あんたに訊きたいことがあったんだ」
 クロスとの再会を果たした一輝は、思い出したように言った。
 「氷河にシャカの拳を送ったときの記憶が、氷河にはなかったんだが、それはあんたが意識的に消したからか?」
 「難しい質問ですね。そうだとも言えるし、違うとも言えます」
 「悪いが、俺にも判るように言ってくれないか」
 「消そうと思ったのは事実ですが、そうする以前に氷河は忘れているようでした。忘れたいような何かがあったのかもしれません」
 「忘れたいようなことが起こるものなのか?」
 「それは判りません。氷河の精神に直接乗り移ったのはシャカですし。私は単に道を造ったに過ぎません。氷河に伝導してからのことは、残念ながら私にも」
 どうやら本当らしかった。一体何が起きたのかは、ムウのいうようにシャカに直接訊くしかなさそうだった。
 それにしても、あの氷河が忘れたいくらいの出来事とは、一体何なのか。そのような出来事があるとは、一輝には想像出来ない。
 「シャカは」と言いかけてしばらく間を置き、思い直したようにムウは後を続けた。
 「シャカは悟りを開いた無の境地に心を置く男です。でも、やはり人間ですから自分でも想像も出来ないようなことが、ごく稀にですが起こります。たとえば、あなたと相打ちになったとか、そういうことが」
 「あれは相打ちとはいわない。俺が負けたんだ」
 「ええ。でも、シャカにとっては、それすら初めての出来事なのです。彼は、無の境地は絶対であり続け、自分が他の感情に流されることはあり得ないと信じてました。雑念がないから、彼は強くあり続けるのです」
 ムウの言葉は静かだったが、内に秘めた温もりと憂いがあった。
 「あなたと異次元に墜ちたものの、彼は自分の意志で異次元や死界を行き来できるのです。それだけの修行を積んでいましたから。あなただけ異次元へ置き去りにして、自分は戻るつもりでしたが、それが出来なくなりました」
 「何故だ?」
 「シャカは異次元で知ったのです。事件の真相を。彼はサガが悪事の首謀者とは、夢にも終わっていませんでしたから、全てを知った時の衝撃は想像を絶するものがあったでしょう。自分が間違った判断をするとは、シャカ自身、思わなかったでしょうし」
 そう言うとムウは目を閉じた。
 「俺が教皇の悪を問いただしたときも、シャカは教皇は善だと言い切った」
 沈黙したムウの代わりに一輝が口を開いた。
 「シャカほどの男が、教皇の悪を見抜けないとは、俺は思えなかった」
 「ええ、接したのが悪のサガなら、シャカも見抜けないはずがなかったでしょう。でも、シャカと接するときのサガは、紛れもなく昔のサガだったのです。どんな時も必ず」
 「昔のザカとは、誰からも尊敬されていたと言われていた頃のサガだと?」
 「そうです。サンクチュアリで一番美しい心の持ち主といわれたサガです。私も何度も会いましたが、誇りと慈愛を併せ持つ、聖闘士の鑑のような男でした。シャカが自らの精神を鍛え悟りの境地を切り開く仏陀の生まれかわりなら、サガは人々に慈悲と愛を与え、人々の罪を背負い自らが十字架にかかるキリストの生まれかわりのようでした」
 「そんなサガがどうして悪事に身を染めたんだ」
 「人間だからです、一輝。だから私たちは神にはなれない。善も悪も、紙一重なのです。神に一番近い男といわれたサガですら、ほんの僅かな隙間に悪が入り込んで性格を分裂させてしまった。シャカもまた然り、無の境地に達していても迷うのです」
 「俺を異次元から救い出すほど・・・に?」
 「私は、シャカに出会ってから、悲しみに支配されたシャカを見たのは初めてでした。あなたを抱いて、異次元から戻ってきた彼は泣いていました。シャカが泣くなどと、誰もが想像すらしなかった。何も語らず、何も見ようとせず、悲しみだけが彼の中に棲みついていました」
 そけだけ一気に言うと、再び短い沈黙が続いた。一輝は、異次元に墜ちていた時のことに記憶を遡らせたが、シャカの微笑んだ顔を最後に、全く覚えていない。気が付いたら、城戸邸で氷河に唇を塞がれていたのだ。思えば、それもシャカが氷河の身体を借りて、やったことなのだろうか。そんな余計なことにまで思案は飛んでしまう。
 「サガのことが深く関わっているらしいのですが、それも判りません。でも、あれ以来、シャカの心は深い悲しみが支配したままで、何日も瞑想することが多くなりました。アテナも案じているようです」
 「それで、俺にどうしろと?」
 「異次元に取り残されているシャカの心を、救い出して欲しいのです」
 「どういうことだ?」
 「記憶にないだけで、あなたは異次元にシャカと一緒にいた、たった一人の人間です。悲しみに支配された状態でも、あなたを助けるためにシャカは戻ってきました。あなたなら、シャカを理解出来るのかもしれない。私とアテナはそう考えたのです」
 「ちょっと待ってくれよ。確かにシャカと俺は仲良く異次元に墜ちたが、あんたの言うとおり、シャカが泣いてもわめいても、俺は全く覚えちゃいない。気が付いたら目の前に氷河のヤツがいて、俺は・・・」
 唇を奪われたと直訴しそうになって、一輝は慌てて止めた。
 「キスひとつがそんなに問題ですか。お望みならいくらでもして差し上げますが」
 こともなげに言うムウに、(お望みじゃないから問題にしてるんだっつーの!)と心の中で叫んでから、ムウがテレパシストであることを思い出し、更に慌てる。
 「あんたは、キスするんなら好きな相手としたいと思わねぇのか?」どうせ頭の中を読まれるのなら、開けっぴろげに訊いたほうがいい。
 「確かに、嫌いな相手としたいとは思いません。あなたは嫌いではないので、しても構わないというだけです。それより一輝、私は勝手に人の思考を読んだりはしません。あなたが”読まれる”と私に意識を飛ばすから、直接”聞こえる”だけです。聞かれたくなければ思考にバリアを張りなさい」
 やんわりと注意を受け、一輝は自分を少し反省した。テレパシストは好きで相手の思考を読むわけではない。無防備に全ての人間の思考が聞こえてしまったら、正常でいられなくなるのは一輝にでも理解出来た。常に、自分の考えを読まれているのだという身構えは、この上もなくムウを侮辱する行為にほかならないのだ。
 「すまない。慣れてないもんだから。自分にバリアを張るって感覚がよく判らねぇけど、慣れるよう努力するよ」
 素直に詫びられ、またしてもこの男の正直さにしてやられる。改めるとは言わずに、慣れるよう努力するとは。
 シャカの救世主に、この男を選んだアテナの目は確かなのかもしれない。
 この男は、サガの代わりになれるのだろうか。そして、サガの呪縛から、
シャカを解放出来るのだろうか。
 血の涙を流すシャカの姿を見た者は、その悲しみに感応して正気でいられなくなる。氷河は忘れることで身を守ったけれど、忘れることの出来ない自分は・・・・。
 ムウは深い溜息をひとつついて、処女宮へ向かう一輝の姿を、振り返って見た。
 
                                        つづく

牡羊座の溜息    第3話