目覚めて3日後に、一輝はギリシャに向かう機上の人となっていた。思い立ったら即、実行が信条の彼は、すぐにでも出掛けようとしたが、当然のことながら、城戸邸を預かる執事達によって止められた。
 たとえ並みの人間より体力が優れていたとしても、2ヶ月間ものあいだ昏睡状態だった人間に、すぐに渡航を許可する医師はいない。
 特に、一輝の保護と治療は城戸財閥の宗主でもある、沙織より絶対の命が下されていた。まるで示し合わせているように、かたくなに頸を縦に振らない。
 そんな城戸邸の人間達を説得したのは、丸一日気絶していた氷河だった。
 氷河は一輝の回復を喜び、すぐに出発しても大丈夫だと、しぶる医師達を説得し続けた。根負けした医師達は、一輝の再検査を条件に、異常がなければ外出を承認した。

 「なぁ、氷河。お前、シャカから遠隔テレパシーを受けてる間の記憶はあるのか?」
 検査のため、ガウンを着せられたままの一輝が尋ねた。
 「いいや。ムウはシャカの思考が乗り移るみたいなことを言っていたけど、何も感じなかったな。忘れたのかもしれないけど」
 「忘れる?」
 「ああ。シャカの思考が乗り移るってことは、ある意味、意識を共有するってことだろ。いわば、俺もシャカも、お互いの頭ん中が丸見えになる。だから、用が済んだら忘れちまうように、ムウが細工したんじゃないか?」
 「そんなもんかね。テレパシストのやることは、よく判らねえな」
 さして興味もなさそうに呟く。一輝の興味は他人の記憶を消せる魔法の話より、これからしなければならない、退屈な検査の山を、どう手早く終わらせるかにあるようだった。
 「お前の目、なんとなくシャカに似てるな」
 突拍子もなく言われ、氷河は面食らった。 「そうか?そう言われても、俺はシャカの目を見たことがないからな」
 バルゴ装着時のシャカの目を見た者で、生き延びたものはいない。そんな有り難くない伝説を持つ目に似ているといわれ、嬉しい者はあまりいない。
 「澄んだ青だったな。お前の目よりは少し深い青だった」
 氷河はロシア人である母親譲りの、薄いブルーの瞳を持っていた。
 「ふーん。シャカの目を見て生きているのは、お前だけかもしれないな」
 「瞬と星矢も見たらしいぜ。もっとも、クロスを着けていない時だけどな」
 なぜ知っている?と言いかけて氷河は言葉を引っ込めた。瞬の動向を、知らない一輝ではない。ほとんどストーカーの域に達するくらいの勢いで、この兄は弟の行動を知り尽くしている。
 「もう日本に向かってるのか?」
 「ああ。たぶん、俺と入れ違いになるだろう」
 行動は把握したいが、一緒には行動する気はないらしい。変わったストーカーである。一輝に感応力がないことに感謝しつつ、氷河は好き勝手なことを思い浮かべていた。
 それにしても、自分の目がシャカに似ているなどと、意外なことを言う。出会ってから何年にもなるが、一輝が弟の瞬以外の人間に執着した記憶はない。氷河にはそれが不思議だった。
 いつも自由で、唯一、弟の存在を除いて、どこへでも飛び立つ不死鳥が、初めて他人に気を留めた。やはり、生死をかけて戦い、共に異次元にまで墜ちた相手となると、さすがの一輝も気に留めるのかもしれない。
 氷河も、命をかけて絶対零度を自分に伝えて死んだ、師もであった宝瓶宮を護るアクエリアスのカミュを生涯忘れない。
 死んでも悔いのないほどの戦いを交えた相手なら、深く記憶に刻まれるのは当たり前のことなのかもしれない。一輝であっても、例外ではないのだろう。氷河がそう結論づけたとき、一輝が真面目な顔で話しかけた。
 「氷河。考えたんだが、心電図をとりながら採血と血圧を同時進行っていう案はどう思う?他に同時進行できる検査を考えたんだが・・・」
 長年の付き合いなのに、一輝が物事を深く考えない性格であることを忘れていた自分が情けなくなり、自然と口数が少なくなる氷河だった。こいつだけは例外だ。どんな事例があっても、こいつには該当しない。


 大西洋に向かう外国籍貨物船に、荷物運搬兼甲板員として乗り込み、ギリシャ入りを計画していた一輝を、執事が顔色を変えて説得し、航空機で行くことを条件に3日後の出発が認められた。
 星矢たち青銅聖闘士には、城戸家より十分な金額の入ったカードが渡され、当面の生活に不自由ないよう、沙織によって配慮されていた。
 しかし、当然ながら、誰かの庇護を受けて暮らすことが選択肢にはない一輝は、沙織から用意された金を使う気になれず、自力でサンクチュアリまで行く覚悟だった。
 それも執事によって強行に阻止され、仕方なく航空券を受け取った。ヘタに拒否したらこの別荘に軟禁である。沙織に借りを作るのは癪に障ったが、背に腹は替えられない。
 自分は確かにアテナの聖闘士だが、決して金で雇われているつもりはない。一輝の、僅かばかりのプライドだった。
 国際線の入国審査で、荷物が無いために散々質問され、やっとゲートを通過した一輝は、ぼんやりと目に映る景色を疲れた様子で眺めていた。
 いろんな人種の人間が溢れ出ては、また吸い寄せられるように消えていく。楽しげな恋人達もいれば、忙しそうに時計を気にしているビジネスマンもいる。
 その中に、懐かしい面影を思い出させる少女を見つけた。
 エスメラルダ・・・なワケないか。
 一輝は心の中で呟き、打ち消した。孤児院から城戸財閥に引き取られ、強制的に与えられた運命のまま、送り込まれた孤島、デスクイーン島。そこが一輝にとって、聖闘士への修練の場となった土地だった。
 聖闘士候補として、孤児の中から数人が各地に送られた。厳しい訓練に耐え抜いた者だけが聖闘士と認められ、クロスを授かった。
 一輝が送り込まれたデスクイーン島は、別名、死の島といわれ、冷酷無比な首領が統治していた。一輝は何度も殺されかけながらも、試練に耐え抜いた。
 しかし、本当に死にかけたこともあった。これで終わりだと思ったとき、身を挺して一輝を助けたのは、島に住むたった一人の少女、エスメラルダだった。
 厳しい修行の中で、一輝にとって彼女は密かな支えであり、希望だった。いつか聖闘士となり、彼女を救い出し、共に島を出ていくつもりだった。
 その彼女が、自分を護るために死んだ。目の前で息絶えた。愛する者の死を、初めて経験した一輝は、怒りを爆発させ、それが内なるコスモを誘発させて全てを焼き尽くした。
 一輝の聖闘士としての本能を目覚めさせるため、エスメラルダと自分の命を犠牲にし、首領も死んだ。荒廃した大地で呆然と立ちつくす一輝には、そうまでする意味が判らなかった。命よりも重いクロスとはなんなのだ。恋心を抱いた少女は、死んだ首領の娘だった。娘と自分の命と引き換えに、自分を聖闘士にすることが、正しい選択なのか。自分が自らのコスモを自力で目覚めさせることが出来たのなら、2人は死なずに済んだのだろうか。 憎悪と悲劇を内に宿し、フェニックスのクロスは一輝に授けられた。
 2年前か。俺もガキだったが、エスメラルダはふたつ年下で、まだ幼かった。俺を聖闘士にするために、あの人でなし親父に犠牲にさせられた。何のために生まれたんだか、判らない。おかげで、同じ年格好の少女を見るたびに深く落ち込む。その娘が災難に遭ってると条件反射で助けに行ってしまう。
 とんでもねぇトラウマ込みで聖闘
士になっちまったよな、まったく。一輝は深い溜息をついた。
 「気が強いオンナだったなぁ、エスメラルダは。じゃなきゃ、俺を庇って死んだりしないか」
 誰に問いかけるわけでもなく、ひとりごちる。
 アテナの化身である沙織お嬢さんの気の強さも相当だ。自分の周りには、どうも気の強い女性しかいない気がする。
 「そこいくと、俺なんて気が弱いもんだよな、2年経ってもまだ立ち直れねぇぜ」
 呟いたところで、搭乗のアナウンスが流れ、一輝は搭乗口へ向かった。
 Fクラス?やれやれ、さすがはブルジョワだな。座席じゃ俺、浮きまくりだぜ。
 着席と同時に睡眠突入を心に決め、一輝は機内に消えた。

                                          つづく

牡羊座の溜息    第2話