何も見えない、聞こえない。どこまで続いているのかも判らないような、永遠とも思えるような漆黒の闇。その闇の暗さすら感じなくなり、ただ、空間を漂っていることに迷いも不安もなくなってきた頃、不意に息苦しさを覚えた。
 漆黒の闇の中から、何かが見えてくる。次に鼓動のような音が、地響きのようにこだまするのを感じた。次第に息苦しさが増し、彼は大きく呼吸をしようとしたが、何かがそれを阻んでいる。
 一輝は目覚めた。
 視界が金色に輝き、思わず目を閉じる。光に慣れていないのか、刺すような眩しさだった。しかも相変わらず息苦しい。まぶたを閉じたまま光に目を慣らし、再びゆっくりと目を開く。金色にまばゆく見えたのは光ではなく、髪の毛であることが判った。
 次に判明した事実で、一輝は息苦しさの原因を知る。金色の髪の毛の主が、唇を塞いでいたのだった。叫ぼうにも、予想外の出来事に思考が定まらない。看護婦の一人が意識のない自分に悪戯でもしているのだろうか。
 意識を五体に集中させてみると、手が動くことが判った。感覚が戻っているらしい。一輝は両腕を動かし、さっきから唇を奪っている相手を、まず自分から離そうと試みた。
 相手の頭に手をかけ、ゆっくりと自分の顔から遠ざける。長く顔にかかる金髪のため、よく顔が判らない。一輝は軽く上体を起こし、相手を見た。
 ・・・・・?・・・・・
 氷河!?氷河がどうしてここに。しかも気絶している。自分に口付けしたまま気絶していたのだろうか。いや、氷河がそんなことをする理由がわからない。わからないというより、理由がない。
 「おい、起きろ。氷河、おい」
 どうやら声も出るらしいかった。一輝は氷河の肩を大きく揺すり、呼びかけた。しかし、
目覚める気配は一向になさそうだ。
 一輝は辺りを見回した。設備の整った病院の個室らしい。人の気配は、自分と氷河を除いてはなさそうだった。おそらく普通の病院ではないらしい見当はついた。
 寝台から起きあがってみた。やはり、足にダメージを感じる。どうやら1ヶ月以上、病室で寝ていたようだ。一輝は記憶をたどってみた。
 シャカとの一戦で五感を奪われ、シャカを道連れに異次元に墜ちたことまでは覚えていた。あれで自分は死んだのだと思っていた。自分は死んだが、シャカはそうではないということも知っていた。異次元へ墜ちたとき、シャカは大胆不敵にも微笑んでいた。弥勒菩薩のような微笑みをみて、自分だけが異次元に墜ちるのだと敗北を悟った。
 しかし、自分は死んではいなかった。しかも、五感も戻り傷も癒えている。誰かが自分を生かしたのだ、意志を持って。


 (目覚めたのですか?一輝)
 不意に意識に直接語りかけてくる声を感じた。この感覚には覚えがある。
 「ムウか?」
 (おや、覚えていて下さいましたか、光栄ですね。あなたは2ヶ月も眠り続けていました。氷河はどうしていますか?呼んでも反応しませんけれど)
 「ここにいるぜ。もっとも、俺にお目覚めのキスをし過ぎて気絶してるけどな。原因はあんたか?ムウ。氷河に何をしたんだ?」
 (私はメッセージを氷河に伝えただけです。氷河が何かをしたとしたら、それはシャカがさせたことです。あなたが目覚めないので、心配した瞬と星矢がサンクチュアリに来てアテナに相談したのです。アテナはシャカと私に、あなたの覚醒への手助けを求め、それに応じた結果です。氷河にはシャカとあなたを繋ぐ、パイプの役目をお願いしました)
 ムウの短い言葉で、一輝はことの次第を少しずつ理解していった。どうやら、自分を救った意志は、シャカの意志だったらしい。「らしい」ということは、まだ確信ではない。
 「パイプ役をやらされた可哀想な氷河は、よりによって俺と気絶するまでキスするハメになったってことかい?ちょっと冗談が過ぎやしねえか?地球上でお互い最後の人間になっても、男とキスするのはゴメンだぜ」
 (その苦情はシャカに直接言って下さい。私はシャカが、どうやってあなたを覚醒させたのかまでは知りません。ただ、シャカも私も、おそらく黄金聖闘士全員そうだと思いますけれど、男だからどうの・・・という理由でキスしたりはしません)
 ほんのブラック・ジョークで言ったつもりの部分にムウが反応したので、一輝はかえって面食らった。こういう答えが返ってきた場合、どう言い返せばいいのか判断しかねていたところに、ムウは続けて言った。
 (それに、シャカは更に特別な聖闘士なので、俗にいう恋愛的な感情や理由で、誰かに愛情表現をすることはありません。彼の愛は慈悲によるものですから。一輝、あなたは異次元から戻るとき、何も感じませんでしたか?)
 「いや。あの時は五感を奪われていたから、感じろといっても無理だし」
 慈悲といわれても、お互いに死闘を繰り広げていた身では、シャカからは殺気を感じても慈悲を感じることなど、出来るはずがない。一輝が鮮明に覚えているのは、順番に剥奪されていく、五感の存在だけだった。
 (そうでしょうか。異次元から戻るとき、シャカはあなたの五感を戻しているはずなのですが)
 意外ともいえるムウの言葉に一輝はたじろぐ。てっきり、五感が戻ったのは、氷河による遠隔操作、つまり今だとばかり思っていた。
 (異次元から戻るときも、私が道先案内をしました。シャカ一人なら自力で帰ってこれますが、あなたを連れるとなると難しかったのです)
 「シャカが、俺を?」
 (ええ。裸で傷だらけのあなたを抱いて戻ってきましたよ、シャカは。衝撃でクロスも全て粉々に分解して、あなたの肉体だけが辛うじて分解されずに残ったのでしょう。シャカに五感を剥奪されていたのも、不幸中の幸いでした。意識のあるまま異次元に墜ちたら、永久に戻れなかったでしょう。シャカとフェニックスのクロスが、あなたを護ったのです)
 「クロスが・・・俺を・・・。それじゃ、フエニックスのクロスは、もう」
 無くなってしまったのかと訊きたくても、あまりの現実に言葉が続かなかった。
 (安心なさい。フエニックスのクロスは不死身です。シャカが砕け散ったクロスの欠片を持って来てくれたおかげで、クロス本来の持つ自己修復能力に、私の修復力を加えてサンクチュアリで修復中です)
 言葉にならないほど驚くことがふたつあった。ひとつは、フエニックスのクロスが蘇るということ。あとのひとつは、シャカが異次元空間でそれをやってのけたということ。
 「ムウ。訊きたいことがある」
 (その答えなら私には判りません。あなたが直接シャカにお訊きなさい。まもなくクロスの修復が終わり、フェニックスのクロスが蘇ります。サンクチュアリまでいらっしゃい、一輝。そしてシャカにお会いなさい)
 それだけ言い残し、ムウの意識が突然途絶えた。辺りをみても、さきほどと変わらず、気絶した氷河が寝台に横たわっているだけだった。
 「そうか。ムウはテレパシストだったんだ。俺の考えてることはお見通しってことか。なんだか、いけすかねえな」
 そう呟きながらも、目は笑っていた。どちらにしろ、命までかけて闘った間柄で、真相が判れば昨日の敵は今日の仲間。共にアテナの聖闘士なのだ。いまさら隠し事なんてする気もないから関係ないか。
 一輝は物事を細かく分析して考える質ではない。ほとんど感覚で行動している。それが戦いの場で功を奏したりするのだが、平和な暮らしにおいては、単純明快にて鈍感な部類に入るのかもしれない。
 とりあえず、サンクチュアリに行こう。早くも、感覚的に物事は決まる。決めたら早いに越したことはない。2ヶ月も寝ていたリハビリも兼ねて、遠洋漁業の乗組員として肉体労働と報酬を兼ねた方法でギリシャまで行くのが一番望ましたかったが、時間が惜しい。遠洋漁業だと早くとも1ヶ月近くはかかってしまう。
 単純明快な思案に暮れながら、チラリと寝台で気絶したままの氷河を見る。
 初恋は修行していたデスクイーン島で済ませているが、思いを遂げる前に初恋の娘は死んでしまったので、キスは記憶にある限りでは経験がない。自分の初めてのキスの相手は目の前の氷河なのか、それともシャカなのか。どちらにしろ男には違いないので、どちらであっても良い想い出にはならない。
 とにかく、早いとこサンクチュアリに行き、クロスを貰い受けて、シャカに真相を確認したら、キスのことは忘れることにしよう。

 自分を目覚めさせるためにパイプ役をさせられ、意志とは無関係にキスしたまま気絶していた、氷河のキス事情を考慮するだけの度量を、この単純明快な男は持ち合わせていなかった。


                                           つづく

牡羊座の溜息   第一話