雑な飼い方2
玄関のチャイムが鳴ると友人が立っていた。
以前、実装石を預けに来たいいかげんな友人だ。
「また実装石預かってくれってんならお断りだぞ」
「いや、今回は違うよ」
友人の仕事は出張が多い。
今回も急遽、明日から約1ヶ月間の出張に出なくてはならない。
そんな生活してるくせに、この友人は何かとペットを飼いたがる。
まったくもって、いいかげんな性格をしている。
そして今回も例のごとく、ペットホテルの予算も無く、他の友人達には断られ、
この大雑把男にお鉢が廻ってきたというわけだ。
「なんだよ、前と同じじゃないかよ」
「いやー、今回預かって欲しいのはコイツなんだよ」
友人が抱えていた大きなカバンを開ける。
「ダワッ!」
赤い服をきた小さな生き物。
実装紅だ。
「ナノダワッ!」
荷物のような扱いに実装紅は明らかに気分を害していた。
抱き上げた友人の腕をぺしぺしと叩く。
見るからに生意気そうな態度に、男が眉間に皺をよせる。
「頼むよ。コイツは前の実装石ほどは行儀悪くないからさ」
友人は男の手にいくらかの札を握らせた。
ペットホテルの予算には少々不足な額だ。
「…おい」
「じゃ、時間無いからもう行くよ。ソイツのこと頼むな」
友人はそそくさと走り去っていった。
男は実装紅を見た。
「ダワ」
ふてくされたようにプイッとそっぽを向く実装紅。
…なんだよ、前の奴よりもずっと生意気じゃねえかよ。
男の実装紅への第一印象は最悪だった。
友人は本当に急いでいたようだ。
実装紅以外の荷物をほとんど持って来ていなかった。
カバンには実装紅の着替えとティーカップ、
あとはメモと実装リンガルしか入っていなかった。
とりあえずはメモを読む。
餌は紅茶と書いてあるくらいで、他は以前の実装石の内容と大差なかった。
「ダワダワッ!ナノダワー!」
足元で実装紅が騒いでいる。
玄関先でメモを読む男に、早く室内に案内しろと要求しているのだ。
「うるせーぞ、ちょっと待ってろ」
蹴り。
実装紅が転がった。
この実装紅はペットショップで買われてからこちら、
甘やかされるばかりで一度も体罰を受けていなかった。
おかげで傲慢な性格に増長が加わり、人間を完全に見下していた。
人間は自分の世話をするために存在する。
そんな思い上がりを当然としていた。
下僕!下僕!早く私を抱き起こすのダワ!
抱き起こして部屋に運ぶのダワ!
実装紅は玄関に大の字に寝転び騒ぎ続ける。
「うるせー奴だな、鬱陶しいからずっとそこで寝てろ」
男は実装紅を一瞥しただけで、さっさと奥に引っ込んでしまった。
玄関の靴の上に寝転んだまま、置き去りにされる実装紅。
このニンゲンはなんという無礼者なのダワ?
下僕のクセに躾がなっていないのダワ!
なんとしても立場を思い知らせてやるのダワ!
迎えに来るまで許してやらないのダワ!
実装紅は決めた。
男が自分を恭しく部屋に招き入れるまでここを動かないと。
高貴な自分の方から下僕に歩み寄るなど、あってはならないことだ。
まあ下僕が抱き起こさせてくれと、頭を下げて頼み込んでくるのならば、
考えてあげてもいいのダワ。
実装紅は大の字になったまま男の迎えを待つ。
しかしドアの向こうからはTVの音が聞こえるだけで、男が現れる様子は無い。
実装紅は男を待つ。
男は出てこない。
実装紅はさらに待つ。
男はやっぱり出てこない。
待つ。
出てこない。
待つ。
出てこない。
そんなこんなで結局4時間以上も待ち続け、今や実装紅は怒り心頭だ。
ここまでないがしろにされた記憶は久しく無い。
いいかげん背中も痛くなってきた。
起き上がれば済む話なのだが、プライドの高さがそれを許さない。
あの新しい下僕に、何がなんでも抱き起こさせないことには気が済まない。
下僕!下僕!グズグズし過ぎなのダワ!
背中が痛くてたまらないのダワ!
早く迎えに来るのダワ!
今すぐ来ないと許さないのダワ!
ドアを睨みつける実装紅の目の前で部屋の明かりが消えた。
…寝た?……あのニンゲン寝たのダワ?…
下僕の分際でこのワタシを無視して寝たのダワ?…
このワタシを放り出したまま、グースカ寝やがったのダワ?!!
もう!絶対許さないのダワァアアアアーッ!!!!
実装紅は激怒した。
勢いよく跳ね起きる。プライドなど後回しだ。
今は下僕へのお仕置きが最優先だ。
「ナノダワーッ!ダワダワダワダワダワーッ!!」
ドアを手で叩き、ツインテールを打ちつけ、実装紅が喚き散らす。
そうこうしているうちに部屋の明かりがついた。
ドアに近づいてくる男の足音が聞こえる。
さて、あの生意気な下僕にどんなお仕置きをしてやろうか。
頭の中で勝手な算段を練る実装紅の前でドアが開いた。
「ナノダワダワダ…」
「うるせぇえええええええええええーっ!!!!」
実装紅の計画は、男の踵落としに頭部もろとも粉砕された。
「ったく今何時だと思ってんだ」
頭を潰された実装紅を玄関に放置したまま、男はまたベッドに戻った。
実装紅が目を覚ましたのは翌日の夕方だった。
再生した頭がまだ少し痛む。
昨夜のことを思い出した。
またムカムカと腹が立ってくる。
「ナノダワ!ナノダワ!」
相変わらず玄関で騒ぎ続ける実装紅。
そこへ男が顔を出す。
「もう再生したのか。もう少しやっつけとくんだったかな」
ウンザリした顔で実装紅を見た。
いったいその目はなんナノダワ。
下僕のクセに生意気ナノダワ。
実装紅は男を睨みつける。
しかしもとより実装シリーズの表情は読み取りづらい。
男には実装紅の怒りはこれっぽっちも伝わらなかった。
下僕の落ち度をいちいち気にしていても仕方ないのダワ。
実装紅は自分をなんとか納得させると、男に向き直る。
「ナノダワ。ダワ」(下僕、ワタシを抱き上げ部屋を案内なさいダワ)
男は実装紅を見ている。ウンザリした表情は相変わらずだ。
「ナノダワ。ナノダワ」(さあ、早くワタシを部屋に案内なさいダワ)
実装紅は必死に冷静さを取り繕い、男に要求する。
しかし実装リンガルを使用していない男には、実装紅の言葉は伝わらない。
男はしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「おまえ、そんなに玄関が好きなのか?」
「ナノダワーッ!!」(そんなワケないのダワーッ!!)
元はといえば下僕が悪いのダワ!
ワタシをすぐに運ばないからこんなことになってるのダワ!
いやいや、落ち着くのダワ。
このニンゲンは鈍すぎるのダワ。
こんな奴に期待したワタシが間違っていたのダワ。
あれこれと考える実装紅は、下を向いたり男を睨んだりとせわしない。
男はその様子を呆れたように眺めている。
「ま、いいか。お前の好きにしろよ」
男が部屋に戻ろうとする。
「ナ、ナノダワーッ!」
実装紅が駆け出した。
悩んでいる場合ではない。このドアは自分では開けられないのだ。
男がドアを閉じようとしている。
実装紅は隙間めがけて飛び込んだ。
バンッ!
「ダワーッ!」
「なんだ?」
男が声のした方向を見ると実装紅がドアに顔面を挟まれていた。
「ダ…ダワ…」
涙目で睨んでくる実装紅を男は部屋に入れてやる。
「ナノダワッ!」
不機嫌そうにのしのしと入ってくる実装紅。
玄関が大好きなのかと思ったら、部屋に飛び込もうとする。
前の実装石もよくわからない奴だったが、
この実装紅も輪をかけてよくわからない奴だ。
男は実装紅との今後の付き合い方を一瞬だけ考えかけて、止めた。
問題があれば殴ればいい――どうせすぐ再生するのだから。
乱暴この上ない結論だった。
「ナノダワ」
テーブルの傍に座ると実装紅がすました声で鳴いた。
男は無視している。
「ナノダワ」
もう一度実装紅が鳴いた。
その目線は男の飲む缶ビールに注がれていた。
「ビール欲しいのか」
「ナノダワッ!」実装紅は首を振る。
ビールが飲みたいのではない。
単に腹が空いているのだ。
昨日の昼から何も口にしていないのだ。
「ナノダワ!ダワ!ダワ!」
実装紅は騒ぎ続ける。
黙っていたらこの男は、餌のことなど思いつきもしないかもしれない。
男の方も苛ついてきた。
前の実装石は単純でわかりやすかったが、
今回の実装紅は何を考えてるのかさっぱりわからない。
そして、さっぱりわからないまま、こうして目の前でやかましく鳴くのだ。
ただその真剣な様子から、何か訴えているらしいことは理解できる。
そういや実装リンガルがあったな…。
男はスイッチを入れた。
下僕!下僕!
男はスイッチを切る。
――ダメだ。コイツは話にならねえ。
男が薄く笑いながら実装紅を見た。
「ナノダワ」
やっとワタシの言いたいことが理解できたようダワ。
まったく、グズグズし……。
実装紅の顔面に男の拳が叩き込まれた。
実装紅の身体がキレイな放物線を描いて飛んだ。
床に転げ落ちた実装紅は何が起こったのか理解できなかった。
男の拳はそれほど速かったのだ。
「…ナノ…ダワ」
顔がひしゃげているせいで視界がおかしい。
口の中に血の味が広がった。
「おい」
低い声と同時に髪が引っ張られ、そのまま持ち上げられた。
男と目が合った。
実装紅は男が怒っていることを理解した。
だが、彼女はプライドが高過ぎた。
その気位の高さが、下僕に屈することを拒否させる。
「下僕ってのは俺のことか?」
「…ナノダワ」
実装紅は震えながらも頷いた。
下僕への躾などという愚かな考えがまだ残っていた。
実装紅はこの期に及んで、まだ人間をなめていたのだ。
男は実装紅を床に降ろした。
「…ダワ!」
実装紅は男に向けて強い声で鳴いた。
男が自分に従ったと考えたらしく、居丈高な声だ。
「居候のクセにふざけんじゃねえっ!」
実装紅の脳天に男が腕を振り下ろした。
衝撃に首がひしゃげ、腰がおかしな角度に曲がり、
実装紅の身体は床に叩きつけられた。
しばらくしてから襲ってくる激痛。
首と腰部分の背骨が粉々になっていた。
「誰が下僕だって?」
男が本格的に殴りだす。
足がへし折られる。
顔を庇う腕がへし折られる。
無防備になった顔面を滅多打ちにされる。
実装紅はなす術なく殴られ続けた。
喉はとっくに殴り潰されていた。
悲鳴も上げられず、ただ口をパクパクと動かすことしか出来ない。
激痛と恐怖に思考は麻痺していた。
麻痺した頭にじわりと浮かぶイメージ。
目の前の男とは別の恐怖のイメージ。
別のモノではあるが、男とどこか重なりそうでもある。
しかし実装紅がその正体を理解する前に、男のパンチが実装紅の頭を潰した。
こうして、実装紅のこの家での2日目は終わった。
実装紅のボロボロの身体が再生したのは3日後だった。
意識が戻った実装紅は、自分がダンボール箱に入れられているのに気づいた。
この扱いはいったいなんなのダワ!
ワタシは荷物ではないのダワ!
早くここから出すのダワ!
下僕!下僕!……
そこまで考えて思い出した。
あの男に対して下僕扱いは危険だということに。
この家に来てから既に2度も殺されているのだ。
ここは対応を考え直す必要がある。
しかし、増長しきった実装紅はまた判断を誤った。
あのニンゲンにワタシが負けたのは、武器が使えなかったせいダワ。
今度は髪の毛で切り裂いてやるのダワ。
ニンゲンに下僕の立場を思い知らせてやるのダワ。
身の程知らずな目標を掲げる実装紅。
その時、男がダンボール箱を覗き込んだ。
「お、生き返ったのか」
「ナノダワ!」
闘志を固めた実装紅が勇ましく鳴く。
しかし男は身構える実装紅をひょいと抱き上げた。
「ダワ?!」
混乱する実装紅をテーブルに着かせる。
「おまえ、ずっと寝てたからな、腹減ってるだろ」
実装紅の前にティーカップを置き茶を注ぐ。
…なによ、いい下僕じゃないのダワ。
少し見直したのダワ。
実装紅は先ほどまで敵意満々だった自分を恥じた。
「ナノダワ」
行儀よく座り直し、カップを口元へ運ぶ。
ぶほっ。
盛大に吹き出した。
「うおっ、汚ねっ」男が身をかわす。
実装紅は肩を震わせて俯いていた。
「おまえなぁ…」
「ナノダワァーッ!!!」
実装紅が吠えた。
あっけに取られている男に向かいまくし立てる。
「ナノダワナノダワ!ダワダワ!ナノダワ!ナノダワーッ!」
(これはいったい何なのダワ!どうして紅茶じゃないのダワーッ!)
「なに言ってんのかわかんねーよ」
実装紅はカップを指し、テーブルを叩き、涙目になって騒いでいる。
「なんだ?ウーロン茶じゃダメだってのか?」
「ナノダワッ!」
実装紅が猛烈な激しさで、何度も頷く。
「紅茶もウーロン茶も、茶には変わらんだろ。気にするな」
男がカップにまたウーロン茶を注いでやる。
「ダワッ」
「だいたいウチには紅茶なんてねーよ、ウーロン茶で我慢しろ。
文句あるなら飲むな」
…そう、わかったのダワ。
少しでも見直したワタシが馬鹿だったのダワ。
オマエのようなニンゲンにはお仕置きが必要ナノダワ。
従順な下僕になるよう、ワタシが躾けてあげるのダワ!
実装紅がカップを手に取る。
男に向け茶を浴びせかけた。
「ナノダワ」(いれ直しなさいダワ)
空のカップを突き出し、すました口調で命令する。
「…あ?!」
シャツを濡らされた男の形相が変わっていた。
しかし実装紅は気にした様子も無く続けた。
「ダワ?ナノダワ」(聞こえなかったの?いれ直しなさいダワ)
男が怒ることなど計算済みだ。
その時は自分の力を思い知らせてやるだけのこと。
男が立ち上がった。
「2回死にかけても自分の立場がわからないとはな」
男が実装紅に手を伸ばす。
ヒュン。
実装紅の髪が唸る。
とっさに男が手を引っ込めた。
しかし僅かにかすったらしく、手の甲が赤くなっていた。
「ナノダワ」
実装紅が男に優しく声をかける。
まるで「あら、どうかしたのかしら」とでもいった態度だ。
「…そうかい。わかったよ」
男の声が変わった。場面にそぐわない落ち着いた声だ。
「ナノダワ」(そう、分かればいいのダワ)
実装紅が答えた。寛容を装った高慢な響きがあった。
男は身を屈めた。
テーブルの上の大型の金属灰皿を掴む。掃除したばかりで吸殻は入っていない。
一連の男の動きは自然だった。
何気ない普段の生活のようなさりげなさに、実装紅はすっかり騙されていた。
男が灰皿を投げる。
重さ2キロを超える灰皿は、すましている実装紅の顔面を直撃した。
頭蓋を割り、歯をへし折り、肉を削いで灰皿は実装紅を跳ね飛ばす。
人間ならば自転車を顔面にぶつけられたようなものだ。
自慢の髪を振り回す隙も無く実装紅は倒れた。
しばらくの意識の混濁の後、
実装紅は自分が大の字に倒れていることに気づいた。
顔が流れ出す血でヌルヌルしている。
見ると男がすぐ傍に立っていた。
「…ヂャワ!」
歯が折れているせいで悲鳴が濁る。
男は実装紅の髪を掴んだ。
知識の無い男でもこの髪は危険だと判断できる。
躊躇無くツインテールを引き千切った。
「ヂャワァアアアアアアアーッ!!」
実装紅が絶叫した。
実装紅にとって髪は財産であり、武器であり、大切なステイタスでもある。
しかし、悲しんで泣いている暇などない。
男が実装紅を掴んだ腕を大きく振りかぶったのだ。
実装紅の身体が壁に叩き付けられた。
転がり落ちる身体を男が拾い、また叩き付ける。
何度も続けるうちに壁には血が飛び散り、
壁にぶつかる音も湿ったものに変わった。
男は血まみれで痙攣する実装紅を床に投げ出した。
「…ヂャ……ヂャワ…」
痛みと恐怖に実装紅は泣いていた。
ここまで痛め付けられて、ようやく自分の認識の誤りを理解した。
――このニンゲンは下僕にはできない。自分よりもはるかに強い。
プライドばかりが肥大した実装紅には、事実を認めるだけでも苦痛だった。
しかし、いまだ思い上がった思考を捨て切れていない
なんとか紅茶の用意だけはさせようと、考えを巡らせているのだから。
男はしばらく実装紅を見下ろしていた。
今後の対応を思案しているのだ。
とにかく、この実装紅という奴は生意気で、
そのうえ人間に危害を加える意図もある。
こんな不愉快な生き物と1ヶ月も同居しなければならないのだ。
普段使わない大雑把な頭脳を、男は珍しくフル回転させていた。
男の出した結論は「殺す」だった。
実装紅を殺しても2・3日で蘇生するのは確認済みだ。
だったら友人が迎えに来るまでの期間の大部分、
コイツには死んでいてもらおう。
ただ、蘇生時にムカつく行動されるのも嫌なので、
二度と人間にケンカを売らないよう徹底的に痛めつけておく。
以上、方針は決まった。
男は腰を下ろすと実装紅を抱き上げた。
「ヂャワ…」
もう男の怒りがおさまったと判断した実装紅は小さく鳴く。
しかし、それもたちまち濁った悲鳴に変わった。
男が実装紅の身体を毟り始める。
身体を毟り取られていく激痛に、実装紅が泣き叫んだ。
しかし、どんなに泣いて抵抗しても男の手の動きは止まらない。
実装紅の手足がみるみるボロ屑に変わっていく。
「ヂャヂャワァアーッ!」
ごめんなさいダワ!
ワタシが悪かったのダワ!
もうあなたを下僕扱いしないのダワ!
だから、だからもう許して欲しいのダワ!
動物の鳴き声にしか聞こえない叫び声に、
ありったけの謝罪と反省を込めて実装紅が泣くが、
リンガル無しでは男にその気持ちも伝わらない。
男が実装紅の顔を見た。
その顔は変形し、血と涙でぐしゃぐしゃになっている。
正直、汚らしいと言っていい惨状にも男は眉一つ動かさない。
その冷め切った目が実装紅の視線と重なった。
「……ッ!!」
実装紅は金縛りのように動けなくなった。
瞬間的に全身を包む恐怖。
自分がよく知っている恐怖。
身体に染み付いた昔の恐怖。
ワタシが間違っていたのダワ……。
ニンゲンに逆らってはいけなかったのダワ…。
恐怖の正体は目だ。
男の目は、かつて自分を躾けた調教師と同じ目だった。
それはモノを扱うかのような冷酷な目だ。
ペット実装紅として躾けられ、教え込まれた鉄則は、
ニンゲンに従い、逆らわないことだったはず。
そして、その鉄則を守れなかったモノはみな処分されたのだ。
――どうしてこんな大切なことを忘れていたのか。
実装紅はようやく理解した。
自分は処分されるのだ。
実装紅は泣いた。
助けて。
殺さないで。
ごめんなさい。
しかし残念ながらその声は、男の不快感を煽る要素にしかならない。
男は実装紅の首を掴んだ。捻る腕に力が入る。
実装紅の視界が力づくでずらされていく。
「…ナ…ノ…」擦れた声が漏れた。
実装紅は死を目前にして記憶を辿る。
楽しかったはずの増長の日々が、今は苦々しく思えてならない。
首が痛い。
呼吸が苦しい。
バカなのダワ。
本当にバカなのダワ。
一番大切なことを忘れていたのダワ。
ワタシはバカなのダワ。
深い後悔の中で実装紅の意識は消えた。
5日後、実装紅はまた蘇生した。
目覚めた場所は浴槽の中だった。
今回は以前の実装石を預かった時のように、閉じ込める水槽が無い。
そこで男が実装紅の隔離場所として選んだのが、浴槽の中だった。
ここならば実装紅が漏らそうが暴れようが、問題はない。
服も脱がせてしまえば汚れない。裸なら洗うのも楽だ。
男の部屋の風呂はバス・トイレが一緒のユニットバスだった。
しかし、風呂に近所の銭湯を利用している男は、たまにシャワーを使うくらいだ。
今回の措置も生活にほとんど支障は無かった。
「ダワ?!ナノダワ!」戸惑う実装紅。
浴槽内には何も無かった。
自分も服を着ていなかった。
何もかも無くなってしまっていた。
生き返ったのは良かったが、これでは何もできない。
「ナノダワー!ナノダワー!」
実装紅は大声で泣いた。
声を聞きつけた男がバスルームに顔を出した。
「起きたのか。これ食べな」
取り出したのは実装フード。
本来、実装紅の食べ物ではないが腹は酷く空いていた。
実装紅は夢中で食べ始めた。
男はその様子を確認するとバスルームを出て行った。
2時間ほど後に男はまた実装紅を捻り殺した。
この5日間の間に男も勉強していた。
肉体の再生は偽石に大きな負担がかかること。
負担がかかり過ぎると偽石が壊れ、本当に死んでしまうこと。
男は実装紅が蘇生するたび体力を回復させ、また殺した。
しかし男は虐待派ではない。
これは単に世話の手間を省くための、合理的判断だった。
実装紅は蘇生するたびに考えた。
殺されないためにはどうすればいいのか。
毎日のように殺される男の処置に、
人間の恐ろしさは徹底的に思い知らされていた。
今や、実装紅に以前の傲慢さは残っていない。
幼い頃の厳しい躾を思い出した実装紅は、
ペットとして適切な状態に戻っていたが、男にそれは分からない。
この実装紅の知能は平均よりも高かった。
自分と人間の関係を考え直すことが出来た。
考え出された打開策は、とにかくここから出してもらうこと。
そして、男の心情を改善することだった。
閉じ込められた場所がバスルームだったことは、
実装紅にとって大きな幸運だった。
ここは男が毎日利用する場所だからだ。
男が用足しにやってきた。
「ナノダワ」
「また、生き返ったか」
男が餌を取りに行き、戻ってくる。
「ほれ、食べろ」
しかし、実装紅は口を付けない。
「ナノダワ」
男を見上げ話しかけてくる。
「いいから食べろよ」
男はなかなか取り合わない。
「ナノダワ、ダワ」
実装紅は諦めずに話しかける。
短気を起こしてはいけないのダワ。
もう逆らわないことを理解してもらわなきゃナノダワ。
「ナノダワ」
さすがに男も変化に気づく。
餌を食べないのは困るが、実装紅自体は暴れたり騒いだりする素振りは無い。
むしろ普段よりも落ち着いた様子に見える。
「何か言いたいことでもあるのか」
「ナノダワ!」
実装紅が頷いた。
しばらく考えてから、男は実装リンガルを取ってきた。
「言いたいことって何だよ?」
「ナノダワダワ」(ここから出して欲しいのダワ)
「ダメだ」
「ナノダワナノダワ」(生意気な態度とってごめんなさいナノダワ)
「……」
「ナノダワ、ナノダワダワ」(ちゃんとアナタの言うこと聞くのダワ)
「……」
男は考えている。
現状の方法は確かに楽だが、本当に殺してしまう危険が伴う。
実装紅がおとなしくしているのが、最善の方法なのだ。
「わかった、出してやる。ただしおかしなマネしたらココにすぐ戻すからな」
「ナノダワ」(わかったのダワ)
男は実装紅を浴槽から抱き上げた。
一度は敵意を向けてきた相手を完全に信用は出来ないが、
武器になる髪を失った実装紅を恐れる必要も無いだろう。
男は実装紅を連れて部屋へ戻った。
助け出された後の実装紅は、男が驚くほど従順になった。
元々プライドが高いとはいえ、しっかりと躾を施されたペット用実装紅だ。
男のお仕置きで本分を思い出した現在は増長が消えていた。
プライドの高さもよい方向へ作用していた。
他者へと同様、自己への厳しさも取り戻していた。
そういった実装紅本来の高潔さがあったからこそ、
自己を反省し、修正することができたのだろう。
男の実装紅への印象は大きく変わり始めていた。
一方、実装紅の方でも男への意識が変わりつつあった。
この男はたしかにガサツで大雑把だが、狡猾さや卑怯な部分がない。
自分がペットの領分を踏み越えない限り、怒ることも無かった。
この行動が一貫している部分は好ましい。
その場の気分次第でベタベタかまってくる本来の主人よりも、
実装紅にとっては好感が持てた。
また男は必要な時以外、ほとんど実装紅に干渉しなかった。
基本的に孤独を好む実装紅にはありがたかった。
1週間ほどたつと、二人はお互いに快適な同居相手だと認識し始めていた。
男と実装紅の生活は続いた。
素っ気無くも互いの領域を侵さない穏やかな生活だった。
そんなある日、男が帰宅すると袋からペットボトルを取り出した。
「ほれ、おまえ紅茶好きなんだろ?」
それはコンビニに売っている紅茶のペットボトル。
「ウチに来てからウーロン茶ばかり飲ませてたからな」
実装紅は驚きに声も出せない。
男の無関心は楽だった。
しかし、それはここが仮の居場所であるとの意識も働いていた。
自分は歓迎されない居候。
邪険にされないけれど、大切にもされない。
楽だけども男の無関心は少し寂しかったのも事実だった。
「ナ…ナノダワ」
実装紅はペットボトルを両手で受け取った。
「ナノダワ、ナノダワ」
何度も男へ頭を下げる。
「いいって、そんなジュース一本くらい」
男の適当な対応はいつもと変わらない。
だからこそ、嬉しかったのかもしれない。
飼い主の洪水のような一方的な甘やかしとは違う、
自分へ向けられた初めての本当の心遣い。
実装紅はペットボトルを抱きしめ、感激に固まっていた。
「おーい、それじゃ飲めないぞ」
男がペットボトルを奪い、カップに紅茶を注いだ。
あまり好きじゃないはずの安い紅茶の味が、
実装紅にはたまらなく美味しく感じた。
「ナノダワ…」(ありがとうナノダワ…)
お礼を言いなれていない実装紅の声は小さく、
男の耳にはかすかにしか聞こえなかった。
約束の1ヶ月が過ぎた。
男の部屋には実装紅を迎えに友人が来ていた。
ツインテールの無くなった実装紅の姿を見て最初は驚いていたが、
理由を聞くと「ま、いいか」で済ませてしまった。
彼のいいかげんさはこういう時には都合がいい。
友人は実装紅を抱き上げた。
「それじゃあ、世話になったな」
「いや、大変なのは最初だけだったよ」
「ナノダワ」
「お前も元気でな」
友人の腕の中で実装紅が頭を下げた。
帰っていく友人を男は見送る。
友人の肩越しに実装紅が男を見つめていた。
実装紅が手を振った。
男も軽く手を振り返してやる。
実装紅は手を振り続けていた。
いつまでも止めようとしない。
友人の肩から身を乗り出し、男に向けて懸命に手を振る。
友人がそれを諌めているようだが、実装紅は止めようとしなかった。
男は二人の姿が見えなくなるまで見送っていた。
1ヵ月後、男は例の友人と会っていた。
二人で歩く途中、ふと友人に聞いてみる。
「そういや、アイツ元気にしてるか?」
「アイツって?」
「ウチで預かっていた実装紅だよ」
「ああ、あれね。あれは捨てたんだ」
「は?!」
あまりに無責任な言葉がサラリと出てきた。
いや、コイツなら当然ともいえる。
前科が山ほどあるのだ。
「いつだ?」
「つい一昨日だよ。新しく実装燈が飼いたくなってさー。
いや実は実装燈、今ここに連れて来てるんだよ…」
友人の言葉に耳を貸さず、男は詰め寄った。
「どこに捨てた?」
「保健所に連絡して連れてってもらっただけだよ」
男は友人に背を向ける。
「ちょっ…実装燈見てくれって。すげーかわいいだろ?」
男は僅かに振り返った。
「お前、ペットは二度と飼うな」
それだけ言って走り出した。
「ルトー」
一人取り残された友人の胸ポケットから実装燈が顔を出す。
「いったい、なんだってんだろねー」
友人が実装燈をその手に乗せた。
「ルトルトー」
実装燈は羽をはばたかせ飛び上がる。
しかし、友人の周りを2・3周ほど廻るとそのまま飛び去ってしまった。
「あ、逃げやがった。高かったのに…」
男は保健所に向かっていた。
友人と別れてすぐ電話で場所は確認してある。
到着すると前もって連絡していた件を伝え、奥に通してもらう。
野良動物の処分は定期的にまとめて行う。
予定を確認したところ、処分は来週の予定だった。
実装紅はまだ無事のはずだ。
野良実装石の収容場所に来た。
保健所ではいちいち実装シリーズを分けて収容したりしない。
そもそも野良実装の9割以上が実装石なのだ。
檻の向こう側の広い部屋に、実装石達がひしめいていた。
まったく躾のされていない野良実装石の群れは、
臭いもやかましさも酷いものだ。
「おい!実装紅!いるか?!」
男は大声で実装紅を呼ぶ。しかし反応はない。
「すいません、中に入りたいんですが」
男は職員に頼む。
「それは困ります、許可できません」
押し問答の末、職員が中に入り探してくれることとなった。
「デスー!」
「デスデスー!」
大声で喚く実装石を掻き分け、職員が部屋の中を調べる。
「いましたよー!」
職員が赤いモノを拾い上げた。
ボロボロに汚れていたが、確かにそれは探していた実装紅だった。
男のもとに連れてこられた実装紅は酷い状態だった。
実装石にリンチにあったのだろう。
身体中が傷だらけだった。服も破れ糞を塗りたくられている。
この実装紅は武器となる髪を失っている。
実装石に抵抗することもできず、痛めつけられる一方だったのだろう。
「おい、生きてるか?」
男が実装紅の頬を軽く叩いた。
実装紅が弱々しく目を開く。
「…ダワ…」
「よかった、生きてたか」
男の言葉はあんまりなものだが、心配する気持ちは本物だ。
実装紅が男に気が付いた。
「…ナノダワ…」
あまり変わらない表情からでもはっきり分かる驚き。
…どうしてこの人がいるのダワ?
…ワタシは捨てられてしまったハズダワ。
この人が助けてくれたのダワ。
もう一度会いたかったこの人が助けてくれたのダワ…。
たちまちその目に涙が溢れ出す。
「ナノダワァー!」
実装紅が男にしがみ付いた。
地獄から助け上げられ、一気に緊張がほぐれたのだろう。
身体を小刻みに震わせて、大声を張り上げて泣いている。
どうやら見た目ほど弱ってはいないようだった。
男は実装紅を抱きしめてやる。
「すいません、この実装紅ウチで引き取りたいんですが…」
こうして、また実装紅は男の部屋で暮らすことになった。
以前と特に変わることもなく、基本的にはお互い不干渉の関係だ。
いや、不干渉なのは男の方だけかもしれない。
実装紅は以前よりも男に親近感を感じているようだ。
最近の実装紅は紅茶に凝っている。
具体的には、安い紅茶の美味しさをどうやって引き出すかの研究に余念が無い。
紅茶が実装紅の主食であると、男も後から知ったため、
今では紅茶は欠かさないようにしている。
しかし男の懐具合では、そうそう高級品に手が出せるはずもなく、
自然と安物主体となる。
実装紅もそのへんの事情は理解しているから、以前のように傲慢な我侭は言わない。
"質の低さは工夫でカバー"をモットーに今日も実装紅の努力は続く。
「ナノダワ!」
紅茶の味に満足げな声を上げる実装紅。
さっそく男の分の紅茶も入れると、トレーに乗せてよちよちと運ぶ。
「ナノダワ」
「また紅茶いれたのか?」
「ダワ」
「もう紅茶はいいっての」
「ナノダワ!」
よほどの自信があるらしく、今日の実装紅はなかなか退かない。
「わかったわかった」
男はカップを受け取ると口をつけた。
「ダワ?ダワ?」
男の口元を見つめる実装紅の目は真剣だ。無表情で分かりずらいが。
今日の紅茶は会心の出来だった。
実装紅がこんなに頑張るのは自分のためもあるが、
男に美味しい紅茶を飲ませたいというのが、理由の大部分を占めている。
この人は食事を楽しむという心がないのダワ。
ほっとくと味気ないものばかり食べているのダワ。
この実装紅は意外にも、本来は世話焼きな性格だったらしい。
男にアレコレ指図はしないものの、
テレビや雑誌でよさそうなモノを見つけると、男に熱心に勧めてくる。
あれは健康に良いノダワ。
あの服はアナタに似合いそうナノダワ。
あのゲームはアナタの好きな感じナノダワ。
あーはいはいと男に聞き流されるのは毎度のことだ。
しかし以前とは違った意味でうるさくなった実装紅に、
男はそれほど不満は感じていなかった。
男への要求はそれほどしつこくは無かったし、
なにより実装紅と暮らすようになってから部屋がキレイになった。
この几帳面で生真面目な性格の実装紅は、ゴミを片付け、棚を整理し、
小さな身体ながらも男の部屋をしっかり管理しているのだ。
男は内心、実装紅に感謝していた。
男は紅茶を飲んでいる。カップを置いて一言。
「…まずい…」
「ナノダワ…」
実は男はあまり紅茶が好きではない。
しかも毎日飲まされてすっかり飽きがきている。
カップをさげる実装紅。後姿がしょげていた。
「あー、そんなにへこむなよ。今度高い紅茶買ってきてやるから」
「ナノダワ…」
「おーい、実装紅…」
呼びかけて男がふと思った。
もう3ヶ月近く飼っていて、いつまでも実装紅という呼ぶのもなんだな。
コイツに名前付けてやろうか。
この男、思い立ったら即実行の単純な性格をしている。
「実装紅、名前欲しくないか?」
ぱっと振り向く実装紅。随分と反応がいい。
名前?
ワタシに名前付けてくれるのダワ?
本当はずっと欲しかったんだけど、
なんだか「特別扱い」要求しているようで、
なかなか言い出せなくて、気が引けていて、
でもいつかは付けて欲しいなーってずっと思ってたのダワ…。
ワタシの名前、アナタに付けて欲しいノダワ…。
アナタに付けてもらえるなら、どんな名前でもすごく嬉しいノダワ…。
頭の中が興奮でオーバーヒートしている実装紅は、表面上は無言だった。
不自然なだんまり状態に男が尋ねる。
「やっぱ、今まで通り『実装紅』がいいのか?」
「ナ…ナノダワ!」
激しく首を振って否定する実装紅。
「んーと、それじゃあな…」
男が腕を組んで悩む。その間約5秒。
「『コーチャ』だ。お前、紅茶好きだから」
「ナノダワーッ!」
実装紅が全身で抗議する。
前言撤回ナノダワ!
アナタが単純で適当な人間なのは十分知っているけれど、
いくらなんでも適当すぎるノダワ!!
「なんだよ、変に凝った名前だと俺が忘れちまうだろが」
「ナノダワ…」
男の言い分は否定しきれない。
しかし「コーチャ」なんて名前は、あまりに安直過ぎる。
コーチャは男の適当さを侮っていた自分を悔いた。
「名前が簡単だからって死にゃしねーよ。気にすんな」
終わり
…あってもなくてもいいおまけ。
「おい、コーチャ」
「ナノダワ」
結局、コーチャという名前はすぐに馴染んでしまったようだ。
しかたないのダワ。
あの人なりに考えてくれた名前ナノダワ。
細かいことは気にしないことにするのダワ。
二人の出会いは最悪だったが、今ではおおむね良好な関係だ。
のんびり肩肘はらずに一緒に居られる生活に、二人は満足しているようだった。
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