ナナ 前編
朝起きるとまた由佳が泣いていた。
由佳は僕の同棲している彼女だ。
先月、飼っていた実装石が死んでから、彼女は泣いてばかりいる。
「…ナナがまた夢に出てきた…」
ナナというのは死んだ実装石の名前。
実装石としては例外的に賢く、非常にしっかりしたヤツだった。
ただ、それは僕が仔実装時から徹底的に躾けたからだ。
僕は元虐待派。
ナナがほぼ理想の実装石に仕上がっていたのと、
彼女の手前もあってひとまず虐待派は休業中だ。
由佳は別に愛護派というわけではない。
実装石には無関心だったというのが正確だ。
実装石については「あまりお行儀のよくない生き物」程度の認識だった。
だから、僕と付き合い始めて最初にナナと会った時、
その礼儀正しさにとても驚いていた。
いろいろとかまっているうちに、ずいぶんと気に入ったらしく、
由佳はナナを娘のように可愛がるようになった。
ナナという名前をつけたのも実は彼女だ。
だが、彼女は僕が虐待派だったことは知らない。
ある日のことだ。二人で外出したときに公園で実装石の親子を見かけた。
なんてことない、そこらによくいる汚らしい野良実装石だ。
しかし、由佳には何か思うところがあったらしい。まじまじと見つめている。
「あの子供、飼ってあげられないかな…」
――どうしたものか。
以前にあまりの落ち込みようを見かねて、ペット用仔実装を買ってやろうしたが、
もう実装石は飼わないと断られたのだが。
まあ、実装石1匹で落ち込みっ放しの彼女の気持ちが、
少しでも改善してくれるなら考えなくもない。
実装石の扱いなど僕にはどうとでもできる。
「わかったよ」
二人で親子実装石に近づき声をかけた。
「ちょっと子供を見せて欲しいんだけど、いいかな」
「デスゥ」
ナナが死んでから、実装リンガルは部屋の引き出しにしまったままだ。
親が一匹の仔実装を差し出すように持ち上げる。
「デスデスデス」「テチー」早速親子で媚びだした。
だが、由佳はそんな様子をまるで見ていなかった。
親の足元、こちらを見上げながら媚びる仔実装達の中に、
姉妹の後ろに隠れるようにして、こちらの様子を伺っている仔実装がいた。
「ねえ…あの子、なんだかナナに似てないかな」
僕に耳うちしてくる。
いや、似てないだろう。
実装石には珍しい、人見知りをする点が共通してるだけだ――
と、言いかけて止めた。
由佳の声に、ここ最近は聞いてない高揚したトーンが混じっている。
「似てる…かな」
曖昧に同意しておく。
「やっぱり?そうだよね、なんか似てるよね。ほら、おいで」
仔実装たちに手を伸ばす由佳。
たちまち仔実装たちがテチテチ纏わりついてくる。
が、肝心の人見知り仔実装はオロオロこちらを見上げているだけだ。
「ほら、おいで」
ようやく手にすがり付いてきた仔実装を、由佳は抱き上げた。
「あははー、やっときてくれたー」
由佳に撫でられたり、つつかれたりしながらも仔実装は大人しくしている。
ときおり「テー」「テチー」と鳴きながらもされるがままだ。
途端に周りがうるさくなった。
残りの親子実装がデスデスと喚いている。
どうせ「私も可愛がるデスー!」とかゴネているのだろう。
由佳は仔実装いじりに夢中になっているが、
残りの親子実装達がうるさいわ臭いわで、僕は帰りたくなっていた。
「由佳、もう帰ろう」
「あ、そうだね」
由佳が続ける。
「あのね、この子ウチで育てようと思うんだけど…」
「かまわないよ」
「そういうわけで、この子をウチで引き取っていいかな」形だけのお伺い。
「デスデス!」元気よく返事。交渉成立。
僕と由佳は歩き出す。親子実装たちもぞろぞろついて来る。
「デスデッスゥ♪」「テチュテチュ♪」ご機嫌だ。
案の定だった。
どさくさに自分も飼ってもらおうと、部屋に乗り込む気満々だ。
「あれ?なんかついて来てるよ。やっぱり子供が心配なのかな」
「ちょっと、先に帰っててくれないかな」
暢気なことを言ってる由佳を急かす。
由佳が角を曲がり、姿が消えるのを確認して、実装石たちに向き直った。
「デスデスー?」「テチー?」
ここはまだ公園内。片付けの手間は省ける。
右足を踏み出す。足の下には仔実装。
左足でも踏みつける。地面の仔実装全滅。
残った仔実装を親の手から叩き落す。踏む。
これで仔実装は処理完了。その間数秒。
ポカンとしている親実装石を突き飛ばした。
地面に転がっても声一つあげない。まだ呆然としたままだ。
顔を踏みつけられてようやく状況を理解したようだ。
「デェッ…ギュウウウ」
口元に踵を乗せ力を込めた。
今は汚い悲鳴は聞きたくない。
靴の裏以外汚したくない。
時間だってもったいない。
そのまま踏み抜く。半端な造りの頭蓋が砕けた。
離れてこちらの様子を窺っていた野良実装石に声をかける。
「おーい、これ食べていいよ」
「デッスー♪」
これでよし。
「おかえりー」
僕が部屋に戻ると、姿は見せずに声だけのお出迎えだった。
「ほらー、ナナ、キレイキレイになりましょねー」
「テチュテチュー♪」
バスルームか。
桶で即席実装風呂。
由佳は仔実装を洗ってやっている真っ最中だった。
「あのね、この子"ナナ"って名前にしようと思うんだけど…」
「うーん、ナナはもう死んだんだよ」
「分かってる。でも…なんだか…」
沈黙。
「テチー?」
「あっ、ごめんね。まだお風呂途中だったね」
あやす由佳。はしゃぐ仔実装。もうすっかり懐いたようだ。
会話は途切れたまま。
「ねえ、この子は生まれてどのくらいかな」
「まだ1週間くらいだろうな」
また沈黙。でも僕には先のセリフが分かっていた。
「この子、ナナの生まれ変わりじゃないかな」
「………」
「きっとそうだよ。よく似てるもん」
「………」
「ナナ、また戻ってきてくれたんだよね?」
「テチー」
「戻ってきてくれたんだよね…」
由佳の声に嗚咽が混じる。
「テチュ?」
由佳が仔実装を抱きしめた。
服が濡れるのもかまわず強く抱きしめる。
「テッテチュ…テチュ」苦しそうな仔実装の呻き。
「ああぁ、ごめん!ごめんね!」
僕は浴室から出た。
由佳が鼻をすすりながら、仔実装を洗う水音はしばらく続いていた。
夕食後、由佳にきりだした。
「その子の今後のことなんだが、躾けは僕に任せてくれないか」
膝の上で仔実装をあやしていた由佳の動きが止まる。
「由佳は実装石については素人だし、その点、僕は世間一般よりは詳しいつもりだ。
実装石は決して飼いやすい生き物じゃない、僕が――」
言葉を続けられない。由佳がどんよりした目で見つめてくるからだ。
いわゆるジト目だ。
ものすごく不満そうだね。気持ちはわからなくもないが。
「でも〜」
「僕の方針に従ってくれ」
「ずるいよ。前の時は無理だったけど、
今度は私が最初からナナを育ててあげられると思ってたのに」
そういう問題ではないんだが。
「はっきり言っておくよ。実装石は犬や猫とは違ってとても躾けが難しい。
傍目には虐待に見えるほど厳しい躾けが必要なんだ。
だから僕はナナにも相当に厳しい躾けを施した。」
由佳は絶句している。やはり『虐待』という言葉のインパクトは大きいようだ。
「ダメだよ、そんなの躾けじゃないよ」
しまった。態度を硬化させてしまった。
「きちんと愛情もって言い聞かせれば大丈夫だよ」
――甘い。
甘すぎるよ、由佳。
その甘過ぎる寛容さは君の大きな美点だけど、
そんなものが通用しない、どうしようもないヤツも存在するんだよ。
「まあ、一口に実装石と言っても個体差が大きいからね。
そこまで厳しく躾けなくても、しっかりした実装石に成長するヤツもいるよ」
一応フォロー的な言葉を続けておくと、途端に由佳の表情が和らいだ。
「そうだよねー。きっとナナは大丈夫だよ。賢いもん。がんばろーねナナ」
「テチュー」
多分、由佳は分かってないだろうが、今日はここで話を切り上げた。
言葉を重ねるより、実際に経験してもらう方が早いだろう。
当然のことだが、由佳の仔実装の躾けはまるでうまくいかなかった。
拾ってきてからもう1ヶ月が経とうというのに、
仔実装には何一つマナーが身についていなかった。
「ただいま」
帰宅すると部屋はいつもの惨状だった。
食べ散らかし、投げ散らかし。いや、今日はとくにひどいな。
「あはは、おかえりー」苦笑いしながら由佳が返事をする。
彼女は雑巾掛け中だった。
仔実装が小便をもらしたらしい。
当の仔実装は我関せずと横でおもちゃで遊んでいる。
「なんかナナが癇癪起こしちゃってさー、参っちゃった」
口調は軽いが、ここ最近の由佳の表情が疲れているのは僕も感じていた。
「やっぱり、その子の躾けは僕が代わるよ。少し疲れただろう」
「え?うーん…じゃあ、ちょっとお願いしていい?」
「うん。まかせて」
その時、僕らの会話を気にする様子もなく遊んでいた仔実装がしゃがみ込んだ。
パンツを下ろすとその場で糞をし始める。キツい臭いが漂いだした。
「あああ、この子はもうー!」
僕は慌てて駆け寄ろうとする由佳を手で制した。
仔実装を掴みあげる。
「テチュテチュ」(うんちいっぱいでたテチュ)
見れば分かる。
「糞はトイレで出しなさい」
「テチュー」(イヤテチュ)
仔実装の右腕をへし折った。
「テチャアアアー!」
「きゃあああああ!」これは由佳の声だ。
止めようとしがみついてくる由佳を避けながら続ける。
「漏らすな。左腕も折るよ」
仔実装は漏らしかけた分を必死にこらえている。
涙をボロボロこぼしながら僕を見上げ、歯をカチカチ鳴らしていた。
暴力らしい暴力など一度も経験が無いから、相当の恐怖を感じているようだ。
仔実装を床に下ろしてやった。
「トイレでしなさい」
仔実装は大慌てでつんのめり、転びしつつ実装石用トイレに向かった。
「なんてことするの!!」由佳が僕に突っかかってきた。
「実装石はこうやって躾けるんだよ」
「ひどいよ!こんなの本当に虐待でしょう!」
「最初に言っただろう。このくらい厳しくしないと効果ないんだよ」
「テチー…」
用を足し終えた仔実装がこちらにやってきた。
きちんと尻を拭かないから床に糞がこぼれ落ちる。
僕が殴ろうと腕を振り上げた瞬間、横から由佳が仔実装を掻っ攫った。
「やっぱりダメ!私がやる!」糞付き仔実装を抱え込む。
「無理だよ」
「無理じゃない!私がんばるから…」
「僕は由佳が疲れてしまうのを見たくないし、これ以上部屋が荒らされるのも嫌だ。
この方法がベストなんだよ」
「…前の時もこうやって躾けたの?」
前の時とは先代ナナのことか。
「そうだよ」
長い沈黙が続く。先代ナナへの躾けの成果は彼女が一番よく知っている。
「………もう少し待って。私、もっとがんばってみるから」
「テチュ…」(いたいテチュ)
「だから、ナナも一緒にがんばって…」
「テチテチー」(手がすごくイタイテチー)
由佳は実装リンガルを見ていない。
その言葉が通じていないことにも気づかない。
それとも、気づいていないことにしたいのか。
虐待によって先代ナナが育てられたこと。
自分にまるで従わなかった仔実装が、腕1本折ることで従順にトイレに向かったこと。
今日はもうこれ以上、彼女を消耗させたくはない。
「わかったよ。でも何か問題があったら何時でも僕を頼ってくれ」
「…うん」
返事は消沈した、そして怯えたような小さなものだった。
それから由佳の仔実装への態度は変わっていった。あまりよくない方向へだ。
一言で言えば余裕が無くなった。
きちんと躾けたい。
仔実装は従わない。
暴力は使えない。
仔実装は従わない。
自分の夢が、望んでた関係が築けない。
やればやるほど、心を砕けば砕くほど、相手に通じない虚しさが募る。
努力が全て裏目に出て、認めたくない虐待まがいの躾けの有効性を思い出させる。
焦りが焦りを呼ぶ悪循環だった。
さらに1ヶ月後、仔実装は体格ならば成体並みにまで成長していた。
しかし中身は相変わらずだ。
むしろ成体の狡猾さを身に付け出した分、タチが悪くなってきたといえる。
以前に腕をへし折られたことが相当ショックだったらしく、
僕がいるときは大人しくしているが、時折、由佳に対し食って掛かることがあった。
僕がいない時の様子はだいたい想像が付くが、由佳は話そうとしない。
話せば当然、僕が代わって容赦ない躾けを行うと考えているのだろう。
その日、自室にいると居間から何かが割れるような音が聞こえた。
急いで飛び込むと、真っ先に目に入ってきたのは頭を抱えてうずくまる由佳の姿。
辺りは皿と料理がぶちまけられひどい有様だ。
その惨状の真ん中、実装石はテーブルの上で喚きながら飛び跳ねていた。
由佳の傍に駆け寄る。
皿でもぶつけられたのだろう、額にこぶができていた。
破片で多少の切り傷ができているが、そうたいした傷ではないようだ。
「デッデスッデッスデス!」
実装石が僕へ向かって騒ぎ立てる。
どうも由佳への不満を訴えているようだ。
おおかた「このバカ女にお仕置きしてやったデス!礼をしろデス!」といったところだろう。
次の瞬間には実装石は壁に叩き付けられていた。当然、僕が殴り飛ばしたのだ。
壁際で転がっている実装石を拾いに行く。
「デジャッデジャア!」
実装石が怯えて悲鳴を上げた。痛みで動けないようだ。
掴み上げるとジタバタ暴れる。
かまわず右足を引き千切る。
悲鳴がうるさい。
顔面に一発入れて歯を折ってやった。
「デグゥゥ」声がくぐもり静かになった。
「そこで大人しくしてるんだ。鳴いたら殺すよ」
実装石は涙を流しながら頷いた。嗚咽も押し殺そうと懸命だ。
また由佳のところへ戻る。
「大丈夫か」
「………」返事もできないくらいショックを受けている。
体にかかっているのは焼きそばか。そばに大皿が落ちている。
こんなものぶつけられたのか。それはショックも受けるだろう。
その時、由佳の服に染みを見つけた。
洗濯しても落としきれない緑の染み。
実装石の糞をぶつけられた跡だ。
由佳を奴隷扱いか。
ここまで増長させてたとはな。うかつだった。
――もうダメだな。
「由佳、聞いてくれ…」
僕が言いかけた時、由佳がふと身を起こした。
ふらふらと実装石に近づいていく。
「ねえ、ナナ…」
「デスッデス!」実装石が吠える。僕相手とは違って随分威勢がいい。
「私、一生懸命やってるよ…」
「デデッスデッス!」
「みんなナナのためだよ…」
「デスッデジャアッ!」
「どうして、分かってくれないの…?」
「デッデッデジャッデギャアアア!!」
「アンタ、人の話聞きなさいよッ!!!」
パーン
奇麗な平手打ちだった。
由佳が手を上げたところなど初めて見た。
跳ね飛ばされた実装石は呆然としている。
だが、すぐに怒りだした。
奴隷扱いの相手にに殴られるなど、実装石には大変な屈辱だろう。
「デギャアアアア!デェエエエ!」
ものすごい暴れようだが、右足を千切り取られたせいで、立ち上がることもできない。
「うるさいっ!」
再び平手が飛ぶ。転がっていく実装石。
いい傾向だ。
由佳の中の体罰への戒めが綻び始めている。
僕は少々の満足感を感じながら、目の前の光景を眺めていた。
そのうち、状況に面白い変化が起こってきた。
感情のままに泣き喚きジタバタ暴れる実装石。
だが、それ以上に感情的になって泣きながら、実装石を叩く由佳。
徐々に実装石の抵抗が弱まってきた。
しかし、由佳の昂ぶりは一向におさまる様子はない。
泣いて、訴え、感情のありったけを平手打ちと共にぶつけていく。
ついに実装石は顔を庇いながら泣き出した。
人間の方が非理性的度合いで実装石を圧倒している。
「デ…デスンデスン」
「うるさい!アンタが泣くなあ!」
由佳は止まらない。
実装石の腕をこじ開けながら引っ叩く。
うずくまる実装石を、無理矢理立たせて引っ叩く。
這って逃れようとする実装石を、引きずり寄せて引っ叩く。
引っ叩いて引っ叩いて、さらに引っ叩く。
結局、由佳は1時間以上も実装石を平手打ちし続けた。
「もう、いいかい」
「…うん…手が痛い…」
そうだろうね。手のひらが腫れ上がってる。
由佳はぐったりとへたり込み息を荒げていた。
かなり消耗している。
実装石を見た。
腫れ上がり過ぎた顔は、涙と血にまみれて原型を留めていない。
「デー…デスンスン…デー」時折痙攣しながらしゃくりあげている。
「この実装石はどうしようか」
「あ、…手当てしてあげて。今、手が使えそうに無いから」
処分していいかという意味で聞いたんだが。
「実装石は回復力が強い。3日くらいで治ると思うよ」
「よかったぁ。やりすぎちゃったもん。ナナごめんね」
いや、君に落ち度はない。いたって適切な対応だったと思う。
動けない実装石を部屋に放り込み、その日は久しぶりに2人だけの食事となった。
由佳の晴れ晴れとした表情が見れたのも久しぶりだった。
結果からいうと、先の「由佳大爆発事件」は絶大な効果があった。
あれから実装石は非常に従順になった。
この家で自分が最下位の存在だと思い知らされたのだろう。
由佳との関係も良好になったように見える。
素直になった実装石に彼女は大いに喜び、
先代ナナと同じように家事を教えたり、一緒に遊んだりしていた。
ただ、たまに彼女の表情が曇ることがあった。
やがて日が経つにつれ、それは顕著になっていった。
由佳が実装石を険しい表情で見つめる場面が多くなった。
「どうして、そんなこともできないの?」
「デスゥ…」(ごめんなさいデスゥ)
最近よく見るようになった光景だ。
由佳が教える。実装石が失敗して責められる。
このパターンだ。
今日はDVDビデオデッキの操作法を教えているらしい。
無茶なことを要求してるようだが、先代ナナはこれができた。
実装石だから手先の器用さは期待できなかったが、
賢さならば人間並みといってよかった。
「前のナナはできたのに」
「デスッ」
先代ナナの名前がでると俄然やる気を出す実装石。
なにかと普段から比較されているので、どうやらライバル意識があるようだ。
必死に説明書をにらんでいる。
ここしばらく見ていて気づいたことがある。
この実装石はかなり賢い。
以前はろくな躾けがされていなかったからわからなかったが、
物覚えはいいし、頭の回転も速いほうだ。
漢字は無理なようだが、ひらがなカタカナは読めるようになった。
実装石としては驚異的な賢さだが、不幸なことに比較対象が超・実装石レベルだ。
「デスゥ…」
見ると実装石が落ち込んでいた。
説明書が理解できないらしい。それはそうだろう。
専門用語に漢字・横文字。実装石の手に負えるものではない。
「いい?もう1度だけ教えるからね!」
「デスッ!」
由佳がゆっくりボタンを操作する。実装石は真剣に見つめている。
「はい、やってみて」
「デ…デ…」
まごつきながら、恐る恐るボタンを押していく実装石。
「ちがーう!」
「デッ」実装石が飛び上がった。
「どうして、覚えてくれないの」明らかに不機嫌な声。
「デスデスゥ」怯えの混じった媚びる声。
今では由佳は実装石に態度を合わせたりしない。
先代ナナと暮らしていた頃のように、素の部分で接するようになっている。
一方、実装石は由佳の機嫌に非常に敏感になった。
例の一件以来、彼女の機嫌が悪くなることを異常に恐れるようになった。
由佳本人はごく穏やかな性格なのだが、実装石にとっては眠れる魔神に等しいのだろう。
自業自得なので同情はしない。
「ナナ、もういいよ」失望の声色。
「デスッデスデス!」(待って、必ず覚えるデス!)
実装石などの都合で由佳の気分を損ねたくは無い。僕は声をかけた。
「由佳、その子には無理だよ」
「…んー、でも前のナナは出来たんだよ」
「アイツは特別だよ。あんなに賢く優秀な実装石はものすごく珍しいんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。油田を掘り当てるより見つけるのが難しいくらいだ」
――でなければ、僕がアイツをいつまでも飼い続けるわけが無かった。
「それに、この実装石もなかなか賢い方だよ」
「デスッ」実装石が喜んだ声を上げた。
「ほら、こうして僕らの会話を聞いて理解しているだろう。
これだって並の実装石には簡単なことじゃない」
「デスデスデスー」
実装石が僕の足元にやってきて媚びだした。自分の味方だと判断したのか。
「でも、この子にナナほどの期待をかけても無駄だよ。
所詮、秀才クラスのこの子と天才実装石だったナナとでは比較にならない」
「デ…」絶句している。
「やっぱり、そうなのかあ…」
「デスデスデス!」(違うデス私だって賢いデス!)
「難しいこと言ってごめんね、ナナ」
「デスッデスゥ」(難しくないデス!)
由佳は取り合わず腰を上げた。
「ご飯の支度するね。ナナ、手伝いはもうしなくいていいからね」
キッチンに向かう。慌てて実装石が後を追った。
「デスデスー!」必死に由佳にまとわりつく。
「あーもー、邪魔しないでよ」
追い払われた実装石がすごすごとこちらに戻ってきた。
僕を見つめると「デスー」と鳴いた。
何も変わらない。表面的には。
しかし、由佳は以前ほど実装石に対する熱心さは無くなったようだ。
先代ナナがいた頃のような、楽しい生活は望めないと悟ったのだろう。
実装石のことで一喜一憂するようなことは無くなった
初めの頃のわが子へのような愛情も、単にペットに対する感情に近くなっている。
今日もいつもと変わらずに実装石をかまう。遊ぶ。
しかし、どこか冷めた雰囲気がある。
何も期待してない。以前ほど重要ではない。役目を終えた実装石。
もう彼女には理解できている。
ナナとこの実装石は違う。代わりは務まらない。
いや、本当はもっと前から理解していた。
彼女の先代ナナを失った悲しみが、大きすぎた悲しみが、現実に抵抗していただけだ。
しかし、僕の言葉で彼女は認めた。
とても穏やかに現実を受け入れた。
一方で実装石の方でも、由佳にとって自分の存在が、
以前ほど大きくないことに気づいていた。
なまじ賢いことが災いした。
人の関心を求めるのは実装石の本能だ。
過去の手痛い経験から必死に人の顔色を伺う努力。
そこから相手の感情を推し量れるだけの知性。
それらが表面には現れないかすかな無関心を読み取ってしまう。
本能的苦痛には抗えない。
「デスー…」
考える。飼い主の関心を取り戻すためには。
そして結論がでた。
決して容易いものではなかったが、方法はそれしかないように思えた。
部屋におかしなことが起こるようになった。
しまったハズのものが出ていたり、物の配置が変わっていたり。
とくに大きな被害があったわけではないので放置していたのだが、
後日、真相が分かった。
実装石が僕らのいない間に家事の練習をしていたのだ。
部屋にセットしておいたビデオカメラの映像には、
おぼつかない手つきで家事の真似事をする実装石が映っていた。
掃除機を引っ張り出してくる。吸い付かれて泣いている。
アイロンを取り出してくる。やけどして飛び上がる。
食器を洗おうとキッチンに登る。足場にしている椅子からシンクに転落する。
実装石自身は真剣そのものだが、これではまるでNG名場面集だ。
これで納得がいった。
ここのところ、実装石が僕らの行動をじっと見ていることがあった。
自分が有能だと証明したいのだろうが、もう由佳が実装石に仕事を教えることは無い。
だったら観察して学ぼうというのか。
この実装石は実に面白い発想をしてくれる。
僕もこの涙ぐましい計画に陰ながら協力してやることにしよう。
それから僕は実装石の前では大げさに動くようにしてみた。
DVDなどの家電操作、ささいな家事の手伝い、
わざと実装石に見えやすいようにしてやった。
しばらくたったある日、僕らが居間でテレビを見ていると、
実装石が立ち上がり「デス」と得意げに鳴いた。
そのまま棚へ走り1枚のDVDを持って来た。
「なあに、それ見たいの?」
「デス」
由佳がそのDVDを受け取ろうとするが、実装石は渡さずにデッキの前に走っていく。
そのままディスクをセットし再生する。
停止、チャプター選択、リモコンで操作していく。
「えええええ?!」驚いたのは由佳だ。
「デスッデッスゥ!」こちらを振り向き実装石が誇らしげに鳴く。
画面の前に実装石が立っているので見づらいのだが。
「すごいすごい!すごいよー!」
由佳が実装石に駆け寄り抱え上げた。
「ナナ、いつのまに出来るようになったの?すごーい!」
「デスデスデッスゥー♪」
久しぶりに抱きしめられて実装石も大喜びだ。
「ねえ、見たでしょ!ナナすごいよ。この子も天才なのかも!」
「そうだね。ここまで賢いとは驚きだよ」
天才などではない。がむしゃらな努力だ。
人の歓心を買うためだけのひたむきで浅ましい努力だ。
「すごいよー、やっぱりナナの生まれ変わりだよー♪」
「デッスーデッスー♪」
由佳は実装石を抱きしめくるくる回っている。
その後ろでテレビの画面が乱れていた。
実装石がディスクの表面を汚していたのだろう。
キュルキュル空回りする音が続いていた。
由佳はひとしきり実装石を猫可愛がりした後、何か思いついたように言った。
「そうだ、ナナにプレゼントあげようか」
「デスッ?!」
「ちょっと待っててね♪」
「デッスゥ〜ン♪」
奥の部屋に向かうと、暫くしてヒラヒラした服を持って戻ってきた。
「じゃーん!この奇麗な服をナナにプレゼントー!」
「デスッデスッデスゥ〜ン♪」実装石が飛び跳ねて喜ぶ。
あの服は先代ナナの服だ。由佳がクリスマスにプレゼントしたものだ。
「今、着せてあげるからね」
由佳が実装石を着替えさせていく。
ところどころにリボンの付いたピンクの服。
あまりにも少女趣味だが、実装石にはストライクだったようだ。
着替えが終わると大はしゃぎで鏡の前に走っていった。
「デスゥデスゥ〜ン♪」妙なシナをつくりながらポーズを取る。
「デスデス!」こちらに向かって鳴く。自分を見ろとでも言っているのだろう。
よせばいいのに由佳もポーズを取らせたり、髪をセットしてやっている。
有頂天になった実装石は、僕のところにまでやってきてポーズをとる。
無視していると「デスデスッ!」と不満げに鳴いて鏡の前に戻っていった。
どうやら今度は由佳が他の服も引っ張り出してきたらしい。
その日は夜遅くまで見苦しいファッションショーが続いた。
翌日から実装石は先代ナナの服を着るようになった。
由佳もまた以前のように実装石を可愛がり始めた。
いや、以前に輪をかけてのベタ甘の猫かわいがりようだ。
初めのうちは従順にしていた実装石も、1週間もするとだんだん態度が大きくなってきた。
本当に僕の期待通りの実装石だ。
これで、ずさんな計画に協力してやった甲斐があったというものだ。
成果は予想より早く現れた。
その日の夕食時、実装石が食事に文句を言い出した。
「デスデスデッスゥ!」(こんなモノよりもっと美味しいモノが食べたいデス!)
パーン
実装石がかたまっていた。
こんなに早く平手打ちが出てくるとは、考えていなかったのだろう。
いつものように姑息な顔色伺いの間すらなかった。
初手から伝家の宝刀を抜くとは僕にも予想外だ。
「ナナはそんなわがまま言わなかった!」
由佳は憤怒の形相だ。
「デ…デ…」実装石は恐怖に凍りついている。
ガタガタ震えながら涙、鼻水、垂れ流しだ。
異臭も漂ってきた。パンツの中の惨状が想像できる。
食事時なのに勘弁して欲しいものだ。
「くさっ、なに漏らしてるのよ!」
「デェー…」
「ちょっと!早くあっちいきなさい!」
「デスゥ…」
「ここじゃ食事は無理だ。僕の部屋に行こう」
自分たちの皿を持って僕らは席を立つ。
「お前はここの後始末だ。元通りにするんだぞ」
「デスンデスン」
「うー、なんか食欲なくなっちゃった…」
1時間後、居間に戻ると実装石が実装フードをもそもそ食べていた。
まだぐすぐすと泣いている。
由佳がつかつかと詰め寄った。実装石が怯えて身構える。
「この服も脱ぎなさい!ナナの服、ウンコで汚して何考えてんの!」
パンツは換えたものの、大のお気に入りの服は脱ぎたくなかったようだ。
由佳は実装石を捕まえると無理矢理脱がしていく。
「デエェーンデェーン」実装石は泣いて激しく抵抗する。
「暴れるな!服が破れる!」
平手打ち。抵抗をやめる実装石。涙がボロボロこぼれる。
「ナナはね、食べ物にケチつけたり、ウンコもらしたりしなかったのに、
それにひきかえアンタはなんなの!」
「デスンデスン」
「もうナナの服着るの禁止!」
「デエエエエエエーン!」
「うるさい!」
由佳の怒り方が激しい。
以前のような感情の爆発ではなく、明確な怒りの意志を持っている。
僕はこれを待っていたのだ。
先代ナナは由佳にとって聖域だ。
由佳は常に実装石にナナを重ねて見ている。
だから実装石がナナに及ばなければ落胆し、ナナにあるまじき行動を取れば怒りを覚える。
しかも、以前殴ったことで彼女の体罰への抵抗は払拭されている。
実装石が先代ナナに追いつくことは不可能だ。元の素質が違いすぎる。
由佳に依存している実装石は、これからも死に物狂いの努力を続けなければならない。
能力も行動も、その身に不相応な成果を要求され続ける。
応えられなければよくて体罰、最悪は見切りを付けられ捨てられるだろう。
実装石はその無理矢理な努力によって、ナナの位置にまで登ってしまったのだから。
もう落ちることはできない。
もうただの実装石に落ちることはできない。
次に落ちたときには「忌々しいナナのニセモノ」になるのだ。
死ぬまでがんばってくれ、実装石。僕は応援しているよ。
次の朝、実装石は真っ先に由佳のところへ走っていった。
「デスッデスデスゥ」(昨日はごめんなさいデス)
「ああ、いいよ。反省してるみたいだから許してあげる」
「デスデスー」(ありがとうデス)
しかし、実装石はまだモジモジしている。
「なに?なにかまだあるの」
「デスデスデスー」(またキレイな服を着たいデスー)
「う―――ん、もう汚さない?」
「デスッ」
「じゃあいいよ」
「デッスゥーン♪」(ありがとうデス♪)
実装石が服を着替えている。
由佳に見えないようデププと笑っているのが見えた。
本当に馬鹿だ。
その服はお前にとって拘束着にも等しいというのに。
それからというもの、実装石は叩かれる頻度が大幅に増えた。
下手に以前頑張ってしまったものだから、過大評価されてしまっているうえ、
先代ナナと重なる分、由佳の判断基準も厳しい。
本来なら仕方ないと考慮される能力の差が「怠けているから」と責め所になってしまう。
もっとも、由佳にしてみれば目の前でナナの姿をしたモノが、
ナナにあるまじき醜態を連発するのだから、冒涜以外のなにものでもないだろう。
今日もまた由佳の叱責が飛ぶ。
「ほら、またボロボロ食べ物こぼして!なんで普通に食べられないの!」
実装石は普通食べ方が汚いことは黙っておく。
「デ、デスゥ」
実装石がまた落ち込む。
もそもそと実装フードを口に運ぶが、やがてその手も止まった。
「なに、当て付けのつもり?ナナはそんな嫌味なことしなかったのに!」
「デスゥーン…」
「もういい!食べないなら食べないで結構!」
「デッデスッデスッ」必死に首を振り、慌てて実装フードをかき込む。
「デフッ!ブホッ!」むせてぶちまけた。
「………♯」
「もういいから、その子は放っておきなよ」
「…うん。そうする」
放っておけという言葉に傷ついたらしく、ぐすぐす鼻をすすりながら
ぶちまけた実装フードを拾う実装石。
最近は何かとこんな調子だ。
ヘマをする。
↓
怒られる。
↓
萎縮する。
↓
ますますヘマをし易くなる。
泥沼の悪循環だ。
その可愛らしい服を脱げば、由佳の気に障る度合いも多少は減るのだが、
実装石は頑なに着続ける。
そうでなくては面白くないが。
ここ最近、由佳は随分と神経質になってきた。
今では、彼女が実装石を叱る理由など、取るに足らないようなことがほとんどだ。
仕事が忙しい時に甘えてきた。
食べ物を好き嫌いした。
トイレの後始末がきちんとしてなかった。
室内で走り回ってうるさかった。
おもちゃの片付けが雑だった。
しかし、それがナナとよく似た姿をしているのがものすごく腹立たしい。
おそらくそんなところだ。
他人が聞けば、こんなピリピリした家で生活するのは御免だと言うだろう。
しかし、この家が僕はとても楽しいのだ。
日々の生活の中で、薄皮一枚剥がし、または貼り付けるように、
ぬるま湯に浸かっていた実装石が、
すこしづつ牢獄に閉じ込められていくのを眺めているのが、
楽しくて楽しくてたまらない。
状況はより楽しく変化してきている。
すぐに泣く。
すぐに媚びる。
そしてすぐに増長する。
全ては自分のため。
懸命な努力も、殊勝な態度も、相手を欺き身勝手な欲望を満たすため。
結局はどこまでも自分勝手な生き物。
とても優しくて思いやりのあったナナとは違う。
似て異なるモノ。
中身はまったく別の卑しいモノ。
はっきりとではないが、由佳はうすうす気づいてきている。
実装石というモノの本質を理解し始めてきている。
その日の晩、僕らは連れ立って近くのレンタルビデオ店に来ていた。
実装石には初めての場所だ。ご機嫌ではしゃいでいる。
「ナナ、何か見たいのあったら選びなさい」
「デッスー♪」
案の定どっさり選んできたので、その中から3本に絞らせる。
「劇場版AIR」
「火垂るの墓」
「アイアンジャイアント」
いい選択だ。しかも上2つは先代ナナと同じ作品を選んでいる。実にいい。
「それでいいの?」
「デスー」
家に帰ると早速鑑賞会となった。
由佳は実装石を膝に乗せて話しかけている。
「この映画ね、前のナナも好きだったんだよ」
「デスゥ?」
「あはは、同じ映画選ぶなんてねー」
今日の由佳は随分機嫌がいい。
映画が始まると彼女らは真剣に画面を見つめている。
由佳は前にも見たことがあるだろうに。
正直、僕には退屈な映画だ。一眠りさせてもらおう。
僕が眠って暫くたった頃に突然、実装石の叫び声で起こされた。
見ると実装石が床に蹲って泣いていた。
少し位置が離れている。
由佳に放り投げられたのだろう。
由佳は立ち上がって怒りの表情のまま涙を流している。
肩を震わせ、何か話そうとするが言葉にならない。
殺しかねない激しさで実装石を睨み付けている。
テレビ画面を見るとちょうど「火垂るの墓」の終盤だった。
狙い通りだ。
僕が自室に戻らずここで寝ていたのは、これから起こる事態を見るためだ。
「アンタはッ!」
うまく言葉が出てこない。
「やっぱりナナなんかじゃない!」
目を見開いて叫ぶ。
「ナナのニセモノ!顔も見たくない!」
その目には憎悪しかない。
近くにあったクッションを実装石めがけて投げつけた。
リモコン、灰皿、雑誌、手当たり次第に投げつけていく。
「デエエエエン!デエエエエエエン!」
実装石が泣き叫びながら逃げ回る。
逃げる実装石を見て、さらに逆上する由佳。
飛び掛ろうとして足をもつれさせ転んだ。
興奮に体が追いついてない。
まずい。
僕は走り回る実装石を捕まえた。
臭い。また漏らしている。
顔面を1発殴ると奥の実装石の部屋に放り込んだ。元々は先代ナナの部屋だ。
「そこでおとなしくしていろ」
ドアを閉め鍵をかける。この部屋だけは鍵が外側に付いている。
ドアを叩く音「デスゥーデスゥー」と泣き声が聞こえる。
うるさい。お前の出番はしばらく後だ。
ドアを蹴ってやるとおとなしくなった。
由佳のそばに戻ると、倒れてゼイゼイ喘いでいた。
興奮で呼吸が乱れている。背中をさすり深呼吸させた。
徐々に落ち着いてきたようだが、今度は大声を上げて泣き出した。
僕にしがみつき泣きながら訴える。
ところどころ聞き取りずらかったが、実装石が笑ったことが許せないとのことだった。
映画の終盤、いわゆる泣きポイントだ。
そこで不幸な兄妹を見て実装石がデププと嘲笑ったらしい。
本当に期待を裏切らない実装石だ。
もっともそれだけならば由佳はこれほどまでには怒らない。
この映画は彼女にとって特別だ。
以前、彼女は先代ナナと一緒にこの映画を見たことがある。
まだ、ナナと出会って間もない頃だ。
この催涙ガスのような強引泣かせ映画を見て、二人でおいおい泣いていたのだ。
そして見終わった後に、ナナは彼女に実装リンガルを使って懸命に話しかけたらしい。
慰めたのではない。
どうすればあの兄妹が幸せになれたか必死に考え、自分に出来ることを考え、
ボロボロ涙をこぼしながら由佳に伝えようとしたそうだ。
その時に由佳はナナに惚れ込んだらしい。
とても優しい心を持った子。深い思いやりを持った実装石。
あの瞬間の思い出は由佳にとっては宝物なのだ。
それをあの実装石が汚した。
できる限りの愛情をかけて育てきたつもりなのに、
ナナと同じように育ててきたつもりなのに、
ナナと同じ服を着て、ナナと同じ場所に座り、ナナと同じ顔をしながら、
ナナが絶対にしない卑しい行為を平気でする。
嘲笑、侮蔑、他者の不幸を喜ぶおぞましい優越感。
コイツは何?
忌々しいニセモノ。
もう由佳の中に実装石への愛情など欠片も残っていなかった。
僕は実装石の処分をどうするか確認したが、
殺すのはさすがに忍びなく、さりとて捨てるのも迷惑になりそうとのことで、
これからも飼い続けることとなった。
彼女は虐待派ではない。こう答えることも僕には予想できていた。
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