月の光と人魚姫 4 


翌日、俊昭はミオに宣言した。
「今日はミオのお願いなんでも聞いてやるぞ」
「ですですですぅ〜♪」
飛び跳ねて喜ぶミオ。
「何がいい?」
「…ですぅ…」
ミオは急に俯いてしまう。
「どうした」
「……ですですぅ…」
顔を真っ赤にしてモジモジしている。

まずい。
スイッチ踏んだか。
ミオの普段の幼い無邪気な行動のせいで忘れがちだが、
コイツは俺にベタ惚れだったんだ。
この様子じゃどんな色ボケしたお願いが出てくるかわからない。
俺は所帯持ちだ。
久美子には無理言って実家に戻ってもらっているんだ。
さすがに恋愛絡みの要望は聞けない。
それにミオのこっ恥ずかしい桃色乙女時空に引き込まれるのは、
正直なところ勘弁願いたい。

俊昭はミオがモジモジしている間に先手を打った。
「あ、でも『結婚して』とか『子供欲しい』とか『キスして』とかダメな」
とたんにミオが膨れっ面で見上げてきた。
――図星だったか。危ないところだった。
「です!」
ヘソを曲げたミオは寝床に戻っていく。
不満の意思表示としてフテ寝することに決めたらしい。
いきなりの計画頓挫だった。
「ミオ〜」
「です!」
「ミオちゃ〜ん」
「です!」
ミオは布団に潜って篭城の構えだ。
ほう、そうかい。それならこちらにも考えがある。
俊昭は布団の端を掴んだ。そのままミオごと巻いてゆく。
簀巻きにされるミオ。
「です?」
布団のミオ巻きが完成したところで、
今度はシーツも巻きつけ両端を縛ってしまう。
これで布団は緩まない。芋虫布団娘のできあがりだ。
「ですぅ〜ですぅ〜」
完全に身動き取れなくなったミオがようやく事態を理解した。
情けない声で鳴いているのは、解くよう訴えているのだろう。

「そうして気が済むまで寝ているがいい」
俊昭は背を向けると歩き去ってしまった。
「でっ、ですー!ですー!」
ミオを梱包した布団巻きがもぞもぞ動く。
「ですですーっ!ですーっ!」
動きが激しくなった。もぞもぞからじたじたへ変わった感じだ。
「ですー…ですぅ…」
少しおとなしくなってきた。
布団の両端は固めに縛ってある。中辺りはやや緩く。
暴れるほど、真ん中の緩い部分に嵌るように仕掛けてあるのだ。
「ですっ…ですんですん…」
飴の包みのように真ん中の膨らんだ布団巻きから泣き声がする。

俊昭は気配を殺して布団に近づいた。
布団からはくぐもった泣き声が続いている。
おもむろに膨らんだ部分を突付く。
「ですっ!」ミオの驚いた声。
布団巻きがビクンと跳ねた。
「ですっ?!です?!」戸惑ったようなミオの反応。
俊昭は本格的に布団を叩き出した。
狙いをランダムにボスボスと強めに叩く。
「ですっ!でですっ!」
慌ててミオは身をよじる。しかし元々動きが取れない状態のうえ、
今度は俊昭が布団を押さえつけている。
前後左右、どこから来るかわからないオールレンジ攻撃に、
ミオはすっかりパニックを起こしていた。
「でぇぇええええーん!でぇぇぇええええーん!」
泣き叫びながら、もぞもぞと無駄な足掻きを続ける。

俊昭の手は止まらない。彼は元虐待派なのだ。
実装石が逆らえば罰を与える。
どんな些細な物事でも例外は無い。
相手が抵抗の気力を無くすまでは徹底的に躾ける。

甘やかしも厳しさも徹底させる。

それが彼の愛情の注ぎ方だった
たとえ最後の日であろうと変わらない。
最後だからこそ、ミオの懐いた自分を貫くつもりだった。
まあ、それでも今日の仕打ちは少々お遊び風だが、
ミオの感じている恐怖はいつもと変わらないだろう。

「で…ですぅ…」
布団がもう動く様子はない。
すすり泣くような声が聞こえるだけだ。
俊昭がシーツを解き、布団を剥ぐ。
ミオが怯えた表情で縮こまりながら、こちらを見上げていた。
「ですぅ…」
「わがままは許さん」
「ですぅ」
ミオは涙目で頷いた。




結局、ミオのお願いは仕切り直しとなった。
しかし、部屋からほとんど出たことの無いミオの発想では、
そうたいした内容を思いつくわけも無く、
いつもと変わらない子供の遊びに落ち着いてしまう。
だが、それでもミオは満足だった。
これほど長い時間、俊昭がミオをかまい続けてくれることなど、
今まで一度も無かったのだ。
ミオはその日一日中、俊昭にじゃれ付いていた。
ボール遊びにママゴト、おんぶに抱っこ。
ただそれだけでミオは満足だったのだ。

夜も更けてきた。
ミオも眠くなってきたようだ。
ソファーの上で俊昭の隣に座りTVを見ていたのだが、
だんだんと静かになり、そのうち寝息が聞こえてきた。

俊昭はミオの向かいに移動した。
安心しきった寝顔。
今日は楽しかったのだろうか。
ミオの口元は微かに微笑んでいた。

俊昭はミオの首に両手をかけた。
やるべきことは理解している。
両手を力いっぱい握るのだ。
ミオの首は細かった。
まるで俊昭が絞めやすいよう整えたかのように。

いいか、何も考えるな。
ミオのことも、自分のことも、何も考えるな。
ただ、両手を握り締める。
それだけだ。

さあ、やれ。

しかし、腕に力は入らなかった。
命令をがなりたてているのは脳の一部だけだ。
俊昭のその他の部分は一向に従おうとしない。
ミオの首筋を軽く掴んだまま、時間だけが過ぎていく。

「ですぅ?」
ミオの声に俊昭は我に返った。
ミオは目をしょぼつかせながら俊昭を見つめていた。
首に掛けられた両手の意図が分からない。
不思議そうな表情で首を傾げた。
そのまま俊昭の手に頬を擦り付け甘える。
「ですぅ」

俊昭は動けない。
次の行動が思いつかない。

俊昭の腕に頬擦りしていたミオが、ピクリと震えた。
何かに気づいたように俊昭に向き直る。

自分が何をされようとしていたのか、やっと気づいたのか。
俊昭の頭が冷静さを取り戻す。
バレてしまったのなら仕方ないな。
悪役のようなセリフを心の中で呟いた。

しかし、ミオの反応は俊昭の想定外のものだった。
ミオは顔を赤らめていた。
潤んだ目で俊昭を見つめていた。
やがて目を瞑ると唇を差し出すように顎を上げた。

……コイツ、バカだ…。

バカだバカだとは思っていたが、
ここまで色ボケバカだとは思わなかった。
自分の首に手がかかっているのをどう解釈すれば、
キスを求められているという発想になるのだ。
ミオのペースに巻き込まれた俊昭は心身ともに脱力状態だ。
緊張感がみるみる萎んでいく感じがする。

俊昭はミオの首から手を離す。
「ミオ、もう寝ろ」
「…ですぅ?」
「眠いだろ?今日はもう寝ろ」
「…ですぅ」
俊昭の事務的な口調にミオは戸惑っていた。
しかし、有無を言わさぬ雰囲気に黙り込む。
名残惜しげに何度も振り返りながらミオは寝床に向かった。




深夜。日付は既に変わっている。
俊昭は居間で一人ソファに座っていた。
その表情は僅かに硬い。
押しつぶした感情の下から滲み出す緊張のせいだ。

もうミオが眠ってから4時間が経過している。
完全に熟睡しているだろう。

時間はない。
もうなくなってしまった。

俊昭は立ち上がった。
物置から梱包用のロープを持ってくる。
ミオは横を向いて眠っていた。
その背後に回り首筋にロープを軽く巻きつける。
俊昭はロープの両端を手に巻きつけしっかり握った。

前のような失敗はもうしない。
ミオの首に触れてはいけない。
ミオの顔を見てはいけない。
ミオの正面にいてはいけない。
どうしてもミオのことを考えてしまうから。

だから背後から荷物のように締め上げる。
それがベストの方法だ。
何のベスト?
誰のベスト?
何のための誰にとってのベスト?

考えるな!!!!

自分を怒鳴りつける。
声には出さない無音の咆哮。
俊昭は渾身の力を込めてロープを引き絞った。
突然の息苦しさにミオが目を覚ます。
「………!…!」
喉に食い込むロープは呻き声さえ許さない。
俊昭はさらに力を込めてロープを引いた。
ミオの華奢な身体が布団から引きずり出される。
ミオが足掻く。
ロープを解こうと喉元をかきむしる。
しかし非力なうえ、ミオには左腕がない。
瑣末な抵抗などお構いなしにロープは深く食い込んでいく。
激しく暴れるミオ。
足をバタつかせ、腕を振り回し、のた打ち回る。
ミオの身体がひっくり返った。
俊昭とミオの目が合う。
ミオの可愛らしい顔が苦悶に歪みきっていた。
目を剥き、涙を流し、口元から涎と泡を吹いて、俊昭を見つめていた。

俊昭は目を逸らさなかった。
苦しむミオの視線を真正面から受け止めた。
ミオにこの苦痛を与えているのは自分だ。
自分の行動から目を背けるな。
ミオ、俺はお前の飼い主だ。
だから、飼い主としてお前の全て受け止めてやる。
お前の苦しみも、痛みも、死も全部俺が覚えていてやる。
俊昭はさらに力を込めた。

ミオの動きが小さくなっていく。
腕がだらりと落ち、足も痙攣を繰り返すだけになった。
やがて苦悶の表情を貼り付かせたまま、ミオは静かになった。


それからしばらくの間も俊昭はロープを絞め続けた。
動きが止まっただけでは仮死状態の可能性もある。

あらかじめ決められた予定に従うような機械的な行動。
冷静かつ合理的な判断で彼は動いていた。
動かなくなったミオを見ても、彼は何も感じなかった。
感情のロックは強固だった。

ミオの顔に近づき呼吸の有無を確認する。
呼吸停止。脈拍なし。


ミオは死んでいた。


俊昭の身体から突然力が抜けた。
その場にガクリと膝をつく。
彼が想定していたのはミオを殺すことだけ。
それだけで手一杯で、後の処置までは気が回らなかった。
為すべき役目にエネルギーを使い果たしてしまったようだ。
動く力も、考える力も、尽きていた。

俊昭は座り込みながら、ミオの亡骸を見つめる。
なんの感情もわいてこない。
何もかもが現実感を伴わない、映画を見ているような感覚。
眠ることも出来ず、俊昭は置物のように座り込んでいた。




夜が明けてきた。
カーテンを通して部屋に朝日が差し込んでくる。
今日は仕事がある。
いつもの生活に戻らなくてはならない。
俊昭はよろよろと身を起こした。
頭がぼんやりして考えがまとまらない。
朝の支度と、ミオの亡骸の処分。
どちらから取り掛かるかの判断もうまくできない。




「…カハァッ!」

なんだ、今の音は。

「ケッ!…ケホッ!」
咳き込むような音。

俊昭は足元を見た。

ミオが動いていた。
咳き込みながらゆっくりミオの手足が動き出す。

生き返った?!
失敗したのか?!
人間なら死んでるはず?!
人間相手の方法など通用しない?!
俺はいったい何をやっているんだ?!

俊昭の頭は酷く混乱していた。身体にも力がはいらない。
目の前でミオが身体を起こそうとしていた。
意識がはっきりしていないらしく、表情は虚ろだ。
布団の上にぺたんと座り込むと、ぼーっとした表情で俊昭を見つめる。
ミオの首にはまだロープがかかったままだ。

もう一度やり直しだ。
今度は不意打ちは効かない。
反撃されるかもしれない。
だが、このままにしてはおけない。
俊昭は身体を引きずるように、ミオに向かっていく。

近づいてくる俊昭にミオが気づいた。
その表情が泣き顔に変わる。
「ですぅ〜!」
次の瞬間、ミオは布団の上で土下座をしていた。
涙を流して何度も何度も頭を下げる。

あっけにとられる俊昭。
ミオの意図がわからない。

呆然とする俊昭の前でミオは頭を下げ続けていた。
ふと、何かに気づいたように下半身を見る。
糞を漏らしていた。
首を絞められたときに筋肉が弛緩して漏れたのだ。
これはミオのせいではないが、仔実装時からトイレ以外でのお漏らしは、
タブーであると厳しく躾けられている。
ミオの顔が蒼白になった。
「ですっですっですっです!ですぅ〜!」
ミオは額を床に擦り付けて必死に俊昭に謝る。

ミオの頭は罪悪感でいっぱいだった。
昨夜、怖いことがあったのもなんとなく覚えていた。
しかしそれは、自分がまた何か粗相をして、
ご主人様にお仕置きされたのだと考えていた。
実装石の頃は、死にかけるほどのキツイお仕置きも、
決して珍しくなかったのだ。

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ご主人様、もう怒らないでください。
 私を嫌いにならないでください。
 
ミオは必死で謝り続けた。
せっかくご主人様と二人で暮らせるようになったのに、
嫌われてしまったらこの生活が終わってしまうかもしれない。

「ミオ、もういい」
俊昭が声をかけた。毒気を抜かれた疲れた声。
「ですぅ」
ミオが涙と鼻水まみれの顔を上げた。
「もういいんだ」
「ですですぅ?」
いつもと違う俊昭の反応にミオが不安げに鳴く。
「いいんだ。それより退いてくれ」
俊昭はミオを退かすと布団を片付けた。
疲れは感じるが、身体は動くようになっていた。




朝の支度を始める。
ミオと暮らしていた頃の日課だ。
二人でテーブルについて朝食をとるが、会話は弾まない。
「今日は仕事だから留守番頼むぞ」
「です」
ミオはなし崩し的に許されたことが釈然としないようだ。
おどおどしながら俊昭の様子を伺っている。

しかし、その態度が俊昭を苛つかせた。
悪いのは俺だ。ミオは悪くない。
それなのにその申し訳なさそうな態度はなんだ。
いったい何が悪くて謝っているんだ。
いいかげんにしてくれ。

沈んだ朝食を終えると俊昭は出勤の用意を始めた。
彼が家を出るまで二人に会話は無かった。




会社には既に久美子が出社していた。
俊昭の顔を一目見て驚く。
特にやつれたり、容貌が変わったわけではないが、
その表情にはまるで精気が無く、別人のように違って見えた。

俊昭は久美子に事の経過を話した。
凄惨な内容に久美子の顔色が蒼白に変わっていく。
「そういうわけだから、すまない。解決にはもう少しかかりそうだ」
久美子は何も言えない。
事態は彼女の精神のキャパシティを越えていた。
自分も関係者なのに踏み込むことに躊躇してしまう。
「そう、無理しないでね」
それが今の彼女の精一杯の言葉。
しかし、心から俊昭を案ずる気持ちが込められていた。

俊昭は上司に休暇を申請した。
期間は明日から3日間。
急で無茶な申し出だったが、夫婦揃って座席まで頭を下げに来て、
しかも休むのは夫だけという状況に、上司は深い事情を読み取ってくれた。

彼は明日から3日間、ミオを外に連れて行くつもりだった。
そしてその3日間で全てを終わらせる。
昨夜は動揺したりもしたが、それは自分の覚悟が足りなかったせいだと、
俊昭は認識していた。
出来るだけ傷をつけない方法などを選択するから半端な結果になる。
ミオはもはや実装石ではないが、決して人間でもない。
今の彼に迷いは消えていた。




仕事が終わり、俊昭は久美子と一緒にデパートに寄っていた。
ミオに服や身の回りのモノを買ってやるためだ。
前回のプレゼントの件もあるので久美子の協力については、
ミオに知らせるつもりは無い。
二人で店内を廻る。
俊昭にはミオの具体的なサイズはわからない。
久美子の服では着られなかった事を伝え、
適当な服を久美子に見繕ってもらう。

「これどうかな」
久美子が手に取ったのはゆったりした形の白いワンピース。
シンプルだがミオに良く似合いそうだ。
「…いいな、それ」
異存はない。それで決まりだった。

二人はその他にも見て廻る。
買い物が終わった頃には、ちょっとした大荷物になっていた。
「今日はありがとうな。助かったよ」
「私はこのくらいしか手伝えないし…」
建物を出たところで久美子が立ち止まった。
「あの…本当に無理しないでね。何かあったら電話して。私、なんでも話聞くから」
「うん、何かあったら電話する。ごめんな心配かけて」

「じゃ。方角逆だし、荷物あるでしょ。だから送らなくていいよ」
久美子は何か言いたそうな素振りもあったが、
俊昭の返事も待たず背を向けると足早に歩き出した。
「うん、じゃあまた」
後ろから俊昭の声が返ってきた。
久美子は振り返らなかった。

――早く帰ろう。

歩調が早歩きから小走りに変わる。

私、だめだな。

服を選んだこと後悔してる。
最初はミオちゃんのためだと自分でも思ってた。
でも、ワンピースを見たときの俊昭の顔は嬉しそうだった。
その時に気づいた。
私はミオちゃんに嫉妬してる。
今のミオちゃんは好きじゃない。
あんないやらしい格好の女の子は好きじゃない。

服を選んだのはミオちゃんのためじゃない。
俊昭のため。
俊昭に協力するため。本当はそれだけ。
俊昭に協力して、早く処分してくれるのを待っている。

でも、本当はわかってる。
こんなの協力のうちに入らない。
踏み込むのが怖くて逃げてるくせに、協力した気になって安心してるだけ。
「電話して」なんていうのも自分のため。
話を聞いて欲しいのは自分のほう。
もしかしたら、自分の知らないうちに俊昭とミオちゃんが
関係を持ってしまうんじゃないかって、いつも不安を感じている。
だから電話が欲しい。
話をしたい。
安心したい。

自分でも勝手だとは思う。
安全なところで自分の手を汚さずにいるくせに。
何もしないで結果を待ってるだけなのに。
今だって本当は俊昭と一緒に居てあげるのが一番いいことだと、
自分でもわかってる。
だけど、
それでも、
ミオちゃんを殺す共犯になるのは怖いの――

俊昭…ごめんなさい…。




帰宅した俊昭をミオは玄関で出迎えた。
ミオのいつもの習慣だが、今の姿では違和感のある光景だ。

居間に入ると俊昭は両手の荷物を降ろした。
「ミオ、今日はお土産があるんだ」
「ですぅ?」
「これ全部、お前へのプレゼントだ」
「ですっ!」
俊昭が袋をまさぐる。
待ちきれないようにミオはその手元を覗き込んだ。
出てきたものは白いワンピース。
「これ、お前の服。いつも俺のトレーナーかぶってるのもなんだしな」
俊昭は片手でぞんざいにミオに手渡した。
しかし、受け取るミオの手は震えていた。

白いドレス。

ミオにとって初めての白い服。
絵本で見たモノとは少し形が違うけれど、今まで着たことの無い、
ふわふわで柔らかい生地のキレイな白い服。

ご主人様からのプレゼント。
何より欲しかった白いドレス。

ミオはワンピースを胸に抱きしめる。
涙が溢れ出す。ミオが生まれて初めて流した喜びの涙。

 ありがとう、ご主人様。
 私は幸せです。
 本当に幸せです。

「あとなー、耳隠し用の帽子となー…」
俊昭はミオにかまわずに荷物を解いていたが、
後ろが静か過ぎる事に気づいた。
振り返るとそこには声も出さずに服を抱えて俯くミオ。
「…どうした?」
ミオの肩が小さく震えている。
「ミオ?」
「です…」
顔を上げたミオは笑っていた。
大粒の涙をこぼしながらも、その顔は喜びに満ちていた。
「です……です…」
何度も涙を拭う。
それでも涙は後から後から溢れて止まらない。

ミオが笑った。
満ち足りた穏やかな笑顔。
この瞬間、俊昭には初めてミオが女性に見えた。
ミオの笑顔はいつもの無邪気な喜び以上に、
もっと切実で真摯な俊昭への想いが溢れていた。

俊昭は気圧される。
「…ま、まあ喜んでもらえてよかった…」
心のどこかが警告を発していた。
巻き込まれるな。
深入りするな。
自分の置かれた状況を忘れるな。

「俺、疲れているからもう寝るよ。ミオ、続きは明日な」
彼が疲れているのは事実だ。俊昭は寝室に向かう。
初めて見たミオの表情。
アレはよくない。あの眼差しは奇麗すぎる。
強烈に惹かれる部分があるのは確かだが、今の自分には毒にしかならない。
重い気分を放り出すようにベッドに身を投げ出す。
たちまち、意識は眠りへ落ちていった。




翌日、俊昭が目を覚ました頃には既に昼を過ぎていた。
自分が考えていたよりも疲労が溜まっていたようだ。

「ですぅ〜♪ですぅ〜ん♪」
ミオの鼻歌が聞こえる。
寝室を出ると、ミオが洗面所の鏡の前でフリフリ踊っていた。
白いワンピースを着てうっとりしながら腰を振っている。
「ミオ」
「ですぅ?」
振り向いたミオの表情に、昨日のような淑やかさはない。
いつも通りの無邪気さでにこにこしている。
俊昭は内心ほっとした。
感覚的にミオを女性と意識したくはなかったからだ。
「ミオ、腹減ったろ。メシ食べるぞ」
「です」




食事の後、二人は出かける準備を始めた。
ほとんど散歩にすら出たことの無いミオは、これが初めての本格的な外出になる
不安そうなミオに俊昭は最低限の規則を指示した。

 『俺の傍を離れないこと』
 
ミオにとっては願ったりかなったりだ。
これは俊昭も心配はしていなかった。
問題はミオの外見のカモフラージュだ。

俊昭は昨日買い込んで来た荷物を広げた。
服は白いワンピース。これでいい
靴はサンダル。サイズが分からないからこれでいい。
問題は耳と目の色だ。
俊昭はミオに帽子を被せた。
つばの広い白い帽子。
一応、ワンピースに合わせてある。
耳は完全に隠れた。
背の低いミオは自然と顔も帽子の陰で見えなくなる。

こんなものか。
左腕が途中までしかないのが少々目立つが、ぱっと見はなかなかのお嬢様ぶりだ。
白い帽子に白い服、白い肌に亜麻色の長い髪。
まるで絵の中から抜け出してしたかのように出来すぎな姿だ。
まさか、この姿を見て中身が実装石だとは誰も思うまい。
「よし、上出来だ」
「ですぅ」
ミオが顔を上げた。赤と緑の目が帽子の下から覗く。
やっぱりダメか。
この目は人間と違いすぎる。仕方ないか。
ミオにサングラスをかけさせた。

怪しい。

いきなり不審度が上がった。
これではワケ有りお嬢様にしか見えない。
視界の変化に慣れないミオはきょろきょろしている。
しかし、この格好なら相当注意しても実装石とは分からないだろう。
大抵の施設は実装石が入るのを禁止している。
今のミオに通常のペット実装石のような外での扱いはできない。
例えばトイレなど。
今のミオの姿で野外で排便などさせられない。
ヘタをすれば警察官が飛んでくる可能性もある。

存在自体がイレギュラーだからな…。

「ですぅ?」
じっと考え込んでいる俊昭をミオが覗き込む。
「ああ、悪い。考え事してた。」
「ですぅ」
「けっこう似合うな。可愛いぞミオ」
「ですぅ〜」
顔を真っ赤にして照れるミオ。その仕草は人間と変わらない。
決定的な身体特徴が見つからない限り、まずバレないだろう。

――これでいいか。

二人は出発することにした。




俊昭の運転する車の中。ミオは助手席で不安げだ。
「ですぅ〜」
トラックの荷台以外ではミオは自動車に乗るのは初めてだ。
音も振動も落ち着かないうえ、シートベルトがとても窮屈だ。
何度もシートベルトの金具をいじっている。
外したくて仕方ないのだが、ご主人様の命令では逆らえない。
「ですぅ〜」
俊昭に向かって右手を伸ばす。
俊昭の左手を掴むとバツの悪そうな笑顔で誤魔化す。
俊昭はミオの好きにさせていた。

ミオもだんだんと車に慣れてくる。
外の景色にはしゃいだり、CDの音楽に合わせて歌ってみたり。

歌い方も以前と変わってるんだな。
俊昭は感心する。
実装石の姿の頃のミオの歌声は、動物の鳴き声のような声で調子ハズレだった。
今ではやや動物っぽさはあるものの、ソプラノの女性の声に近い。
音程もそれほど外れないキレイな歌声だ。
「ミオ、歌が上手になったな」
「ですっ♪」

褒められてますます得意になってミオは歌う。
しかし、その歌声が徐々にくぐもってきた。
俊昭の左手を掴むミオの右手が汗ばんでいた。
「どうした?」
助手席を見ると、ミオが足をすり合わせモジモジ動いている。
表情にも余裕がないが、それでも歌うのを止めようとしない。
「…トイレ行きたいのか?」
「で…です」
ミオが小さく頷いた。

俊昭は車を手近なコンビニの前に止めた。
ミオを連れて店内に入る。そのままトイレへ直行。
「いいか…」
ミオは人間用のトイレを使うのは初めてだ。
俊昭は簡単に使い方を説明すると、ミオが何度も激しく頷く。
足元が変なステップを踏んでいる。決壊寸前らしい。
「よしいけ」
「ですっ!」
俊昭はミオの肩を軽く叩いて送り出した。
目の前でドアが閉まった。

雑誌を立ち読みしながら待つ俊昭。
20分ほど経ってミオが出てきた。
「です」
俊昭はミオの使用後のトイレに入る。
きちんとキレイに後始末できたか確認するためだ。
彼は責任感が強かった。
「です!です!」
嫌がって後ろで騒ぐミオにかまわず、便器周辺を確認する。
非常時下での使用法説明だったが、ミオはしっかり理解していたらしい。
ただ、姿は変わってもミオはやはり実装石だったようだ。

臭い。
それも強烈に。
このニオイは人間では生成不可能だ。

俊昭がトイレから出ると、ミオが真っ赤な顔をして怒っていた。
「です!ですです!ですです!」
恥ずかしいのだろうが、俊昭は今更そんなことは気にしない。
「うん、きちんと出来てるな。えらいぞ」
「で、です…」
素直に喜べないのか、返事は小さい。
「でも、すげー臭いわ」
「でぇぇえええええーん!」
ミオは一番言われたくなかった言葉に深く傷ついた。




俊昭とミオが海に着いた頃には、陽が傾き空が赤く染まりだしていた。
当初はもっと賑やかな場所を考えていたのだが、
コンビニでの客どころか、店員までミオを振り返って見ている状況に、
人の少ない場所に変更したのだ。
シーズンオフの平日の海。
しかも夕方ではこんな場所に用のある人間はまずいない。

波打ち際で二人は波を飛び越えて遊ぶ。
ミオには生まれて初めてのアウトドアでの遊びだ。
「ですっ♪ですっ♪」
スカートの裾が濡れるのも気にせず、楽しそうに飛び跳ねる。
俊昭が途中で休憩に離れてもミオは一人で遊び続けていた。

俊昭は少し離れた場所に腰を下ろした。
「ですぅー!」
ミオは頻繁にこちらを振り返り、手を振ってくる。
3分に1度は振り向いていた仔実装の頃とちっとも変わらない。
そして、俊昭もおそらく変わっていない。

彼はミオの飼い主だ。
厳しく躾け、優しく可愛がり、問題があれば自分の手で処分する。
そして、今がその時だ。

ミオをもうすぐ処分する。
だからその前に、彼はミオに外の世界を見せてやることにした。
それがミオにとって喜びの記憶になるのか、絶望の苦しみに繋がるのか、
それは俊昭自身にもわからない。
だが、彼はそれでもよいと考えていた。
自分が与えたいモノは与える。
ミオが生きたことは自分が全て覚えていてやる。
自分が全て与え、全て奪いさる。
ミオは俊昭の実装石なのだから。


夕日を背にミオが遊んでいる。
翻るスカートと長い髪がたなびき、逆光によく映える。

絵になるヤツだな――

映画のワンシーンのような光景に俊昭は目を奪われていた。
デジカメを取り出し写真を撮る。
「ですぅ?」
「そろそろ暗くなるからサングラスはとっていいぞ」
「ですぅ」

ミオは素顔になって波と戯れる。
赤く照らされて踊るように跳ねる人ならぬ美少女。
まるで現実感のともなわない幻想的な光景。
しかしその幻想の舞も、歓声も、異形のオッドアイの眼差しも、
全てが現実の俊昭一人に向けられたものだ。

俊昭は日が沈むまで、その姿を写真に撮り続けていた。







最終話へ