月の光と人魚姫 5
翌日、二人の朝は早かった。
ミオも多くのことがあったせいで疲れていたのだろう。
二人ともぐっすり熟睡できたために、調子はすこぶる良好だった。
今日の予定は遊園地だった。
週末ならばかなりの混雑だが、平日はさほどの人出でもない。
「ミオ、何か乗りたいものあるか?」
「ですぅ」
ジェットコースターを指差す。
どちらかといえばおとなしい性格のミオの希望としては意外だったが、
俊昭は一緒に乗ることにした。
「先にトイレ行っておけよ」
「でずっ…ですんですん」
ジェットコースターの上でミオは泣いていた。
以前、TVで男女のカップルが乗り、
歓声を上げている場面を見たことがあった。
ご主人様と一緒に乗れたら…と、その時は密かに憧れたりもした。
しかし今、コースの高みへゆっくり昇っていく車体の上で、
ミオは自分の浅はかさを心底後悔していた。
高いです。
怖いです。
もう、降りたいです。
ご主人様、私こ…
ガタン。
ミオを突然襲う風圧とGの手荒な洗礼。
「………ッ!…ッ!」
声も出せない。涙が後方に吹き飛ばされていく。
恐怖に思考が停止したままミオはバーにしがみ付いていた。
ゴールに着いても放心しているミオに声をかけた。
「お疲れさん」
「で…?」
「終わりだよ。降りるぞ」
その時ようやくミオは俊昭が、帽子を押さえていてくれたことに気づいた。
ご主人様、大事な帽子をありがとうございます。
さりげない気遣いに感激するミオ。すぐにでも俊昭にしがみ付きたい気分だ。
しかし、座席から出ようにも足が震えて立ち上がれない。
「もう一度乗りたいのか?」
「で、でぇええええ!」
涙を流しながら激しく首を振るミオ。
結局、時間ぎりぎりまで怖がらせてから、俊昭はミオを引っ張り出してやった。
「…でー…」
最初のアトラクションで既に疲れきった様子のミオ。
次は怖くないモノをと考え観覧車を指差した。
二人で観覧車に乗る。
ゴンドラの上昇とともに変わっていく外の展望に、ミオは大はしゃぎだ。
立ち上がって動き回るのでゴンドラが揺れる。
「ですぅ♪」
ミオが俊昭の隣に座った。ゴンドラが傾く。
バランスを崩したミオの身体が俊昭に押し付けられた。
「危ないからそっちに座れ」
「ですぅ」
ミオはしぶしぶ戻るが、またすぐ飛びついてきた。
「こっち来んなっての」
「ですぅ〜♪」
調子に乗ったミオは何度も飛びついてくる。
そうこうしている間に観覧車は一周してしまった。
「もう終わりだ。降りるぞ」
「ですぅ〜」珍しくミオが抵抗する。
「ミオ」
「…ですです!」
もっと乗りたいようだ。
「すいません、もう1回乗ります」
俊昭は係員に頭を下げた。
ゴンドラはまた上昇していく。
今日はミオのために遊園地に来たのだ。こんな我侭くらいは聞いてやってもいい。
俊昭が考えている一方で、ミオはまた飛びつき作戦を再開した。
「ですぅ〜♪」
「だからこっち来んなっての」
ゴンドラがまた激しく揺れる。
結局ミオは5周も廻ってようやく満足したようだ。
降りるときに係員がニヤニヤしながら二人を見ていた。
その後も俊昭はメリーゴーランドやコーヒーカップといった、
まったりしたアトラクションに付き合わされ続けた。
ミオはかなり人目を引くようで、メリーゴーランドに乗った時など、
晒し者にでもされたかのような気分だったが、
それでも楽しそうなミオの表情を見るのは悪くなかった。
今日はミオにとっても、自分にとっても思い出深い1日になるだろう。
たくさんの写真を撮ったデジカメを見て俊昭は思った。
時刻も夕方近くなった。
二人がそろそろ帰ろうかと出口に向かおうとした時、
子供の泣き声が聞こえた。
そこには3歳ほどの幼い男の子と、その手を引く実装石。
おそらく親とはぐれたのだろう。
男の子は母を呼びながら泣いていた。
そして、その子をあやしながら実装石は手を引いていく。
その家で飼っている実装石なのだろう。
頭にリボンを付けて、可愛らしい服を着ている。
実装石が肩にかけた小さなカバンから、飴を取り出し男の子に与えると、
泣き声が小さくなった。
ぐすぐすと泣く男の子を連れて実装石が向かう先には、
サービスコーナーの建物がある。
かなり賢い個体だ。
ミオはその様子をじっと見つめていた。
無言。無表情。
そのまま微動だにしない。
俊昭にはミオが何を考えているのかはわからない。
だから彼はミオをそのままにしておいた。
サービスコーナーの方から両親らしき大人がやってくる。
男の子が母親に向かって走っていく。
その後をよちよち走る実装石。
母親は子供を抱き上げる。多少叱っているようだ。
父親が実装石を抱き上げた。
実装石の頭を撫でている。
実装石はデスデスと頬を摺り寄せ甘えた。
幸せそうな家族と実装石。
家族の一員として愛し、愛されている姿。
かつて俊昭と久美子が望んでいた形がそこにあった。
「です…」
ミオが家族に背を向けた。
「帰るか?」
「です」
二人は帰宅の途につく。
しかし、楽しかった1日の終わりの筈なのに空気が重い。
「です…」
「……」
車内でも、二人は終始沈んだ雰囲気のままだった。
その夜、ミオはなかなか寝付けなかった。
自分は何を望み、何に憧れたのだろう。
遊園地で見た家族のことを思い出していた。
実装石が羨ましかった。
自分に用意されていた幸せを、自分で否定したはずなのに、
家族の中の実装石の姿に羨ましさを感じる。
自分の望みを僅かに抑えれば、必ず実現していただろう幸福。
久美子のことを思い出した。
久美子は優しかった。
自分が一方的に嫌っていただけだった。
ミオの中に初めて久美子への後悔の気持ちが沸いてくる。
自分が久美子の立場だったら…。
他者の事情を慮る思考というのは、実装石にはめったに無い。
ミオは知能も情緒も思考の広がりも、もはや実装石ではなくなっていた。
高度になった思考は複雑な感情のうねりを次々と生み出す。
自分が久美子の立場だったら――他には何もいらない。
あの家族の母親のように、愛する相手の傍らにいられるのなら、
あの子供も、飼い実装石も必要ない。
ご主人様の子供が欲しいとも思わない。
私とご主人様だけがいればそれでいい。
ご主人様には私だけがいればそれでいい。
だから、ご主人様に抱かれたかった。
でも拒否されたから、身体を変えた。
今の自分は魅力的なはず。ご主人様の好みの姿になったはず。
ミオはいまだに自分を偽っていた。
俊昭に拒否されることを何よりも恐れていた。
もしも、今の自分が俊昭に迫ったら。
もしも、今の自分でも俊昭に拒まれてしまったら。
考えるだけで恐ろしい可能性。
だからいつもの無邪気なフリを装った。
自分の中の沸き立つ情欲をひた隠しにしていた。
でも、このままじゃ何も変わらない。変われない。
ミオは静かに自室を出た。
俊昭の部屋のドアがゆっくりと開いた。
ミオが入ってくる。
衣服は着ていない。
ゆっくりとした足取りはあまり足音を立てなかった。
俊昭は熟睡している。
ミオはその上に身を屈めた。
首筋に頬を寄せ軽く擦り付ける。俊昭は起きない。
ミオはベッドの上に身体を移動させた。マットが重みでたわむ。
俊昭が動いた。
ミオは動きを止める。息を殺して様子を伺う。
起きる様子はない。
ミオは俊昭の顔に自分の顔を近づけていく。
そのとき俊昭の目が開いた。
暗い。目の前に何かがある。
そう気づいた瞬間、俊昭は目の前の影を突き飛ばしていた。
「ですぅ!」
ベッドから何かが転げ落ちる音と、ミオの悲鳴。
「ミオか?」
ベッドの向こうではミオが全裸でひっくり返っていた。
ゆっくりとミオが身を起こす。
「なにやってんだ、お……」
俊昭はそれ以上言葉が続けられなかった。
目の前に裸のミオがいる。
しかし、自分の知っているミオと何かが違っていた。
暗い部屋ではミオの姿ははっきりとは見えない。
にもかかわらず何か強い違和感を感じる。
ミオが立ち上がった。
俊昭をみる表情は別人のようだった。
憂いを帯びた縋るような目。
いつもは不相応にも思える成熟した肢体が、
今はそのポテンシャルを存分に発揮していた。
肩から続く曲線も、うすく浮かび上がる白い肌も、顔にかかる乱れた髪も、
そのどれもが、軟体動物のような柔らかさと湿り気を帯びて見える。
ミオがベッドに昇ってきた。
俊昭に向かいゆっくり近づいてくる。
その身体は猫のように柔らかくしなる。
ミオの全身を包む妖艶な雰囲気に魅入られたように、
俊昭は動くことが出来ない。
ミオの身体から視線を逸らせない。
「…………です…」
息がかかるほどそばに身を寄せると、
俊昭の顔を見つめミオは切なげに小さく鳴いた。
俊昭は、なぜ自分がミオを女性とみなすことに、
抵抗を感じていたのかを理解した。
ミオの目の奥――
一見、弱気にさえ見える瞳の奥にギラつく貪欲な光がある。
コイツは"牝の怪物"だ。
自分の身体を差し出して、抱いた男の全てを貪り尽くすサキュバス。
蠱惑的な肢体も、男の保護欲そそるような切なげな表情も、
全て誘い込むための餌。
これがあの無邪気な表情の下に潜んでいたミオの本性。
この誘惑に乗るのは危険だ。
俊昭は背筋が寒くなるのを感じた。
俊昭の判断は正しい。
ここ数日間、極端な精神的プレッシャーが続いている俊昭の直感力は、
異常に研ぎ澄まされていた。
ミオ自身が意識していなくとも、ミオの肉体は強烈に飢えている。
そのように作り変えられているのだ。
俊昭に抱かせて最高の快楽を与えるように。
俊昭に抱かれて最高の快楽を感じるように。
それは、二人で飛び込む無限快楽の底無し沼のように、
一度入れば二度とは正気に戻れない地獄の交わりだ。
もしもミオを抱けば、その異常な悦楽は俊昭を発狂するまで追い込み、
肉体は人外の快感に追い立てられるまま猛り狂い絶命するだろう。
今のミオの肉体はそういった危険なモノに変わっている。
これはミオの実装石としての欲望の強さが、無意識に望んだことだ。
久美子から俊昭を奪い取る。
いつまでも二人は一緒。
しかし人間と実装石は結ばれない。
幼稚ともいえる願望と現実の絶望。
ミオは潜在意識の中で、俊昭との心中を願っていたのかもしれない。
だが、俊昭の頭脳は冷静だった。
感情の揺らぎは凍結状態となっている。
合理的な判断が彼を動かす。
バシッ!
ミオの頬に平手が飛んだ。
乾いた音と頬の痛みにミオが固まる。
ミオは動けない。
拒まれた現実を受け入れることができない。
俊昭は動かない。
ミオの受けた衝撃の大きさが理解できるから。
「ミオ、降りろ」
俊昭の言葉が沈黙の均衡を崩した。
ミオの肩がビクッと跳ねる。
言葉に従いのろのろとベッドからミオが降りた。
その姿には、先ほどまでの異常な艶めかしさなど、まるで残っていない。
「部屋に戻れ」
「………です…」
ミオは動かない。
唇をかみ締め、涙をこらえながら俊昭を見つめる。
ここで拒まれたらもう後が無いのだ。
ミオにとっての自分の存在意義が無くなってしまう。
「戻れ」
「…です…」
大粒の涙をこぼしながら、ミオはその場を動こうとしない。
「……です…」
しゃがみこみ、シーツの端をギュッと握る。
縋るような目。先ほどまでの誘いの技ではない。
離されまいとしがみ付こうとする必死の目だ。
ご主人様ごめんなさい。
もう迫ったりしません。
だから、戻れなんて言わないでください。
そばにいさせてください。
そばにいられるだけでいいんです。
それだけでいいんです。
お願いです。
お願いです、ご主人様。
どうかお願いします。
「部屋に戻れッ!」
一瞬の硬直。
ミオの感情に逆らい身体は立ち上がった。
逆らえない。ご主人様が怒ってる。
身体は勝手に動く。そう躾けられているから。
わかりました。戻ります。
でも…、
ご主人様の言うこと聞きましたから、
私のこと嫌いにはならないですよね。
明日はまた遊んでくれますよね。
そうですよね、ご主人様。
ミオが部屋を出て行く。
肩を震わせ、すすり泣きを漏らしながら。
私はどうすればいいのだろう。
もう、わからない。
なにもわからないんです。
ご主人様、助けてください。
寝床に戻ったミオは泣きながら眠った。
俊昭は考えていた。
自分には家族がいる。久美子を愛している。
しかし、ミオにも惹かれている。
さっきも一瞬はミオに心が動いた。
だが、それだけだ。
久美子とのように将来を考えられない。
ミオと生きる生活。
ミオと生きる未来。
ミオと生きる人生。
どれも像を結ばない。具体像が浮かばない。
現実の前ではミオの存在など、あまりに虚ろで儚いものだった。
翌日、ミオはなかなか起きてこなかった。
俊昭もあえて起こすようなことはしなかった。
もう少しだけ一人の時間が欲しかった。
最後の1日に臨む心の整理の時間が。
昼を過ぎて沈んだ表情で現れたミオに、
俊昭はいつも通りの調子で話しかけた。
「ミオ、今日は山に行こうか」
普段と変わらない彼の態度にミオは安心した。
「ですぅ」
笑顔で返事を返した。
ドライブの最中、ミオは上機嫌だった。
昨夜から俊昭に嫌われてしまったのではないかと、
不安でいっぱいだったのだ。
それが普段どおりの態度で接してくれた。
それだけでも嬉しいことだったのに、
今日もまた遊びに連れて行ってくれるという。
こんな嬉しいことは無い。
俊昭の横顔を見つめるミオの目には、普段より一層熱が込められていた。
峠の休憩所で食事を取ったり、二人で湖を見たり、
楽しい時間は続く。
平日のみやげ物売り場は、客がほとんどいなかった。
最近は珍しいアクセサリーの露店の若い女が、手持ち無沙汰にしていたが、
風変わりな二人連れを見つけ声をかけた。
「お兄さん、かわいい彼女連れてるねー。プレゼントにどう?」
俊昭は無視して通り過ぎようとしたが、ミオが反応した。
「ですぅ?」
ミオの返事に訝しげな顔をする店員。
「ああ、この子ちょっと障害があってね」
俊昭の説明も、ミオの左腕を見て店員は納得がいったようだ。
「あはは、そうなの?大変ねー。でさ、こんなのどう?」
失態を誤魔化しながらも、売り込みを諦めないあたり立派だ。
取り出したのは2対のネックレス。
「ペアになってるよー。お嬢さんに似合うと思うよー」
ペアという言葉にミオがまた反応する。
「ですぅ♪」
ニコニコしながら売り物の一つを指差した。
「え…」店員が引きつる。
指差したものはシルバーのペアリング。
店員はチラリと視線ですばやく確認する。
男の左の薬指には指輪がはめてある。既婚者か。
先ほどの「この子」という呼び方からして、二人は夫婦ではない。
しかも女の子の方は左腕が無いではないか。
この二人何かワケアリ?
商品が売れるのはいいけど、揉め事は勘弁してほしい。
営業トークが止まった店員を尻目に、ミオがリングに手をとった。
「ですぅ♪」
俊昭にリングを渡す。
「ですぅ」
ニコニコしながら俊昭を見ている。
はめてくれるのを期待しているのだ。
「あのなミオ、俺はもう指輪は付けてるし、お前左手無いだろ。
どこに指輪するつもりだ」
俊昭の情け容赦ない指摘に店員は呆然となる。
営業トークのフォローなど挟みようがない。
いや、この気まずさはどうにかしないと。
せっかくの売り時を逃がすわけにはいかない。
店員はミオの方を向く。
そこでフォローなど不可能だと悟った。
ミオは泣いていた。
直立不動のまま、肩を震わせ、口元を震わせ、
無言でサングラスの下から涙を流していた。
「あ、邪魔して悪かったね」
俊昭が戸惑う店員にリングを返す。
そのままミオを庇うように肩を抱き、足早に立ち去っていった。
ミオは虚ろな意識のまま肩を抱かれ歩いていた。
自分には左腕がない。
繭から出たときには、なぜか自分には左腕が無かった。
左腕は苦しい。
捨てられてすぐ野良実装石に襲われ、最初に食い千切られたのは左腕だった。
生まれて初めて死の恐怖と激痛を感じた場所。
久美子の選んだブレスレットをはめていたのも左腕だった。
あの腕輪を見るたび、いつも悔しさを思い出させた場所。
だからきっと生まれ変わるときに、もうこんな苦しい思いをしないように、
左腕を無くしたのだろう。
自分のことだからそんな気がする。
馬鹿だ。
なんて馬鹿なんだろう。
ミオは結婚指輪の意味を知っていた。
左の薬指のリングが特別なことを知っていて、憧れていた。
左腕が無い自分はリングをはめられない。
あまりに象徴的じゃないか。
自分がご主人様に拒まれたのは当然だ。
最初から愛される資格が無かったのだから。
この左腕がその証拠。
ミオには全てが運命的に繋がっているように思えた。
全てがミオの絶望を暗示しているようにしか思えなかった。
悲しみに涙が止まらなかった。
深夜の山道を俊昭が車を走らせていた。
ミオは泣き疲れて助手席で眠っている。
峠を昇り山頂近くの休憩所の駐車場に入った。
ここには大きな食事施設と展望台がある。
昼間は多くの人が利用するのだろうが、営業時間はとうに過ぎている。
広い駐車場にも車は1台も止まっていなかった。
「ミオ、起きろ」
「…ですぅ」
目の下に涙のあとをつけたミオが身を起こす。
俊昭はミオが目を覚ましたのを確認すると、駐車場の奥へ歩いていった。
ミオも急いでその後を追う。
俊昭は山頂へ続く階段を登って行く。ミオもその後ろをついて行く。
静かな夜だ。
虫の声以外は何も聞こえない。
空が近かった。
こんなに多くの星は都市部では見られないだろう。
その美しさにミオは見とれてしまう。
生まれて初めて見る自然そのものの姿に、
ミオはしばしの間、悲しさを忘れた。
足取りが軽くなっていく。
気持ちが高揚してくる。
かなりの段を登り、二人は山頂に着いた。
そこは広い展望台。
360度周囲を見渡すことができる。
見上げれば満天の星空。
ひときわ大きい満月と無数の星に展望台は明るく照らされていた。
その幻想的な美しさに圧倒され、ミオは声も出せない。
こんな光景をミオはどこかで見た覚えがある。
絵本で見た舞踏会の場面。
バルコニーのお姫様と、彼女を照らす大きなお月様。
まるで自分がお姫様になったよう。
いや、白いドレスを着た自分はお姫様。
今の自分は本当のお姫様になったような気がする。
嬉しさに身体が自然にステップを踏む。
ミオは踊るのが好きだった。
展望台の真ん中で月に照らされミオが踊る。
そのステップはワルツのリズムだ。
俊昭は近づくとミオの手を取った。
「…です」
思わぬ展開にミオが驚く。
「お相手、お願いできますか」絵本の王子様のようなセリフ。
恭しくミオの手を取る俊昭。
二人だけの舞踏会が始まった。
ここにはミオと俊昭しかいない。
あとは月の光と虫達の声だけ。
メロディはミオの口ずさむ歌声だけ。二人しかいないのだからそれでいい。
少しぎこちないステップを踏む二人。二人しかいないのだからそれでいい。
ミオは夢心地だった。
昨夜のこと。左腕のこと。立て続けに思い知らされた現実の絶望。
もう生きていけないとさえ考えていた。
でも、今はこうして大好きなご主人様の腕の中にいる。
今日はなんて良い日なんだろう。
ずっと望んでいた夢がかなった日。
白いドレスを着て、お姫様になることが出来た。
ここには自分とご主人様の二人だけ。
ずっと願っていたご主人様と二人だけの世界。
ご主人様、ありがとうございます。
私の夢がかないました。
もう、何もいりません。
私は幸せです。
本当に幸せです。
ご主人様、ありがとうございます。
ミオが歌う。ミオが微笑む。ミオの頬を涙が伝う。
言葉にならない思いを振り撒くように、
ミオは俊昭の腕の中で踊り続けた。
やがて、ミオの歌声がやんだ。
さすがに踊り疲れたのだろう。
俊昭の胸にもたれかかり、甘えた声を出す。
「……です」
俊昭は身を屈めるとひょいとミオを抱え上げた。
いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢だ。
一瞬驚いたミオも、すぐにうっとりした表情に変わる。
言葉がなくともわかる、ミオの喜びと僅かな照れ。
俊昭はミオを抱き上げて展望台の端まで歩いていく。
手摺の向こうに広がる雄大な景色。
星空に照らされて浮かび上がる山の稜線。
その向こうに続く海も、水面に星の光を映し輝いている。
闇と光のコントラストの中の、宝石のような小さな光は街の明かりだろう。
こんなに美しいモノが世の中にあったなんて。
こんなに楽しい時間をご主人様と一緒に過ごせるなんて。
ご主人様、最高のプレゼントをありがとうございます。
私はご主人様に会えて幸せです。
私は生まれてきて本当に良かった。
ご主人様に会えて本当に良かった。
ミオは俊昭の顔を見上げた。
彼は穏やかな表情で優しく微笑んでいた。
とても穏やかな表情で。
俊昭は身体を伸ばした。
ミオを抱いた腕が手摺の外側に出る。
彼はそのまま、腕を放した。
一瞬の浮遊感。
その直後、猛烈な勢いで全身が後ろに引っ張られる感覚。
自分が落下していることさえミオは認識できない。
だが、ミオにはそんなことはどうでもいい。
まわりの景色がスローモーションで流れていく。
視界の中の俊昭が遠ざかっていく。
手摺の向こうの姿が小さくなっていく。
待って!
置いていかないでください!
せっかく…せっかく二人だけになれたのに、
私を置いて行かな…
ドサッ。
全身がバラバラになるような、途方も無い衝撃がミオを襲った。
身体が痺れて動かない。
動かそうにも体中が痛くて身動きがとれない。
そんなことより、ご主人様は。
はるか上方に展望台の手摺があった。
しかし、どんなに目を凝らしても俊昭の姿は見えなかった。
身体が熱い。でも手足はとても冷たい。
時々意識が遠くなる。
いや、きっとご主人様が迎えに来てくれる。
きっと来てくれるから眠っちゃダメだ。
静かだ。
今は虫の声も聞こえない。
ご主人様は迎えに来ない。
月がやけに大きく見えた。
さっきまでは優しげに見えた満月が、動けないミオを覗き込んで、
意地悪く笑っているようにも見える。
――嫌なお月様。
私はこんなお月様を知っている。
昔、ご主人様に読んでもらった絵本。
「人魚姫」のラストの場面で大きな月が描かれていた。
ミオは人魚姫の物語は嫌いだった。
大好きな王子様と結婚するため、人魚姫は姿を変えて人間にまでなったのに、
最後に王子様は別の女の人と結ばれてしまう。
なんだ、私と同じだ。
ご主人様と一緒になれない私と同じ。
人魚は死んだら泡になる。
じゃあ、実装石が死んだらどうなるんでしょうか。
ご主人様…。
ご主人様、教えてください…。
ミオの肉体はもうすぐ息絶えようとしていた。
ミオの身体構造は基本的には実装石のままだ。
偽石はセンサーにも反応しないほどの小さな粒状となり、
全身に散らばっているのだ。
落下の衝撃でその大部分が砕けてしまった以上、
もうミオの肉体は再生することができない。
あまり良く聞こえなくなったミオの耳に足音が入って来た。
激痛をこらえて頭を向ける。
かすむ視界の中に俊昭が立っていた。
頭がとてつもなく痛む。
それでもミオは俊昭を見つめていた。
俊昭もミオを見つめていた。
穏やかな表情の俊昭の顔が、ミオのかすむ視界の中では、
悲しみに歪む泣き顔に見えた。
ミオには本当の俊昭の姿が見えていたのかもしれない。
階段をゆっくりと降りて俊昭はミオに近づいた。
驚いたことにミオはまだ生きていた。
展望台は地面から40メートルの高さにある。
人間でなくても即死するだろうと考えていたのだが、
判断が甘かったようだ。
だが、そう長くは持たないだろう。
ミオは重傷を負っていた。
腰から落ちたらしく下半身がおかしな向きにひしゃげている。
衝撃に裂けた腹からは内臓がはみ出し、
あふれ出した赤と緑の体液が白いワンピースを汚く染めていた。
頭の辺りに血溜まりが出来ているのは、後頭部に傷を負ったせいだろう。
胸が弱々しく上下する以外、ミオに動きは無かった。
俊昭に気づいたらしいミオがこちらに顔を向けた。
顔は無傷だった。
ところどころ吐き出した血で汚れていたが、
それでもミオの端正な美しさを損なってはいなかった。
ミオが震える腕を俊昭へ伸ばす。
「……で…す」
俊昭は穏やかな表情を貼り付けたまま、それを見下ろしていた。
「………です…」
ミオは腕を伸ばし続けている。ミオは笑っていた。
力の抜けた腕が落ちた。
しかしまたミオは震えながら腕を持ち上げる。
笑顔で俊昭に腕を伸ばし続ける。
俊昭がミオの手を取った。
身を屈ませ肩をがっちりと抱いた。
ミオの身体は冷たかった。
ミオが残りの僅かな力で俊昭の手を握り返す。
「…………です……で…す…」
聞き取るのがやっとの小さな小さなミオの呟き。
ミオが大きく息を吐いた。
ミオの腕から力が抜けた。
それきり、もうミオは動かなかった。
俊昭の頭が澄み渡っていく。
なんの感情もわいてこない。
自分に設定したプログラムどおりの反応だ。
さあ、次の仕事が残っている。
俊昭は用意してきたスコップを取って来ると、
ミオの遺体を担ぎ上げ、山の奥に入っていった。
4時間ほど後、俊昭は駐車場に戻ってきた。
とうに日付も変わったこんな時間には、
ミオの血で汚れた姿を見咎める者もいない。
少し休もう。
俊昭はベンチに腰掛けた。
また今日からは、いつもの日常に戻らなくてはならない。
頭が痛い。
気分が滅入って仕方が無い。
ここから家までは遠く離れている。
今の状態で何時間もの運転は危険かもしれない。
捕らえようの無いモヤモヤした気分が苛つきを煽る。
落ち着かなくては。
ポケットのタバコを探す。
胸ポケットに手を入れたときに、違和感のある手触りがあった。
取り出してみると、それは実装リンガルだった。
表情でミオと会話が出来ていたせいで、しばらく使っていなかった物だ。
ミオはどんな気持ちで逝ったのだろうか。
少しでも苦しまずに逝けたのだろうか。
俊昭はリンガルの履歴を確認する。
そこにはミオの最後の小さな呟きが克明に翻訳されていた。
ご主人様…。
ご主人様…。
私、大きくなりました。
私、ご主人様を抱きしめられるくらい大きくなりました。
泣かないで、ご主人様。
私が一緒にいます。
私がずっとご主人様と一緒にいます。
だから、もう泣かないでください。
ご主人様、元気出してください。
私、ご主人様を抱きしめてあげます。
ギュッてしてあげます。
だから、元気になってください。
ご主人様…。
ご主人様…。
ミオは苦しんでなどいなかった。
幼い仔実装の頃と何も変わらない、
愚かしいほどに飼い主のことが大好きなミオのままだった。
俊昭が与えた全てから、ミオの愛情が生まれた。
俊昭が全てを奪っても、ミオの愛情は消えなかった。
ミオにとっては死に逝く自分よりも、ご主人様の元気が大切。
ミオはそんな馬鹿な実装石だった。
俊昭はようやく理解した。
あのミオの伸ばした腕は俺を求めていたのではなかった。
俺を救おうと、俺を抱きしめようとしていた腕だったんだ。
最後までお前は俺のことしか考えていなかったんだな…。
本当に…。
本当にバカな奴だ。
ミオ…。
自分の中で何かの糸が切れてしまったような感覚。
俊昭の視界が暗くなる。
足元に力が入らない。
アスファルトに突っ伏したまま動けない。
自覚が無かっただけで、彼の心身も限界に来ていたのだ。
義務感と感情が乖離したまま、自分を捻じ伏せての行動は、
彼に非常な負担と消耗を強いる。
自分の感情を遮断してここまで進んできたが、
とうの昔に精神は力尽きていたのかもしれない。
冷たいアスファルトの上で俊昭の意識は徐々に薄れていった。
久美子が警察から連絡を受けたのはその日の午後だった。
自宅から遠く離れた展望台施設の駐車場で倒れていた俊昭は、
出勤してきた従業員に発見された。
命に別状は無く、衣服の汚れも実装石の体液と判明。
本人の証言から事件性はないとして、特に問題とはならなかった。
久美子は連絡があった病院に急いだ。
「ああ、久美子迎えに来てくれたのか」
ロビーで待っていた俊昭が声をかける。
その顔を見た瞬間、久美子は彼を一人にしていたことを深く後悔した。
たった3日で人はこれほどやつれるものだろうか。
顔つきにも、動きにも、まるで精彩がない。
それなのに、俊昭の顔にはあの穏やかな表情がまだ張り付いている。
久美子は俊昭の手を強く握った。
「お疲れ様…」
そう言うのがやっとだった。
二人は家に戻ってきた。
「ちょっと散らかったままなんだ」
俊昭は優しい笑顔のまま、ミオの遺品を片付けていく。
身を屈めた俊昭を久美子が抱きしめた。
「おい、これじゃ片付けられないって」
相変わらず穏やかな口調で俊昭が軽口を叩く。
久美子はより強く俊昭を胸に抱きしめた。
「もう、いいから」
「もう、そんなに頑張らなくていいよ」
「俊昭、まだ泣いてないでしょ」
「家に帰ってきたんだから、もういいんだよ」
俊昭は答えない。
久美子は抱きしめ続ける。
やがて俊昭の身体が震えだした。
小さな嗚咽から激しい慟哭へ。
自分の一部を抉り取り、切り捨てた痛みと悲しみ。
それは家族のため。間違ってはいない。
それでも苦しい。悲しい。ミオはもういない。
血を吐くような俊昭の慟哭は続いた。
久美子は泣きながら優しく強く、彼を抱きしめ続けた。
ありがとう。
それから、ごめんなさい。
私の分まで背負い、あなたはこんなに深く傷ついてしまった。
だから、今度は私の番。
私がずっとあなたと一緒にいるから。
私が抱きしめてあげるから。
だから、元気になって。
5年後。
「ただいまー」
娘の香織が帰ってきたようだ。
香織は今年で5歳になる。
活発な性格のおてんば娘だ。
帰ってくるなり母親におねだりが始まる。
「おかーさん、じっそーせき飼っていい?」
「ダメ」久美子は即答した。
「えー、かわいいんだよー。
ともちゃん家にじっそーせきの赤ちゃんいて、すごいかわいかったんだよー」
「可愛くてもダメ」
普段は甘い母親にしては予想外のつれない対応。
香織は当てが外れて不満そうだ。
「ふんだ。いーもん」
香織は作戦を変更した。
俊昭が帰宅した。
母親にダメ出しされた手前、香織はすぐには行動を起こさない。
父親が自室に行ったのを見計らって後を追う。
「おとーさん」ドアの隙間から顔だけを出す。
「どうした香織」
「あのねー、ほしいものがあるの」
父親は母親以上に娘に甘い。香織には十分な勝算があった。
「わたし、じっそーせき飼いたいの」
「ダメだ」即答。
母親以上のつれない返事。取り付くしまなどありゃしない。
こんなはずでは――
香織はあせった。
しかし、まだ手は残っている。取って置きの奥の手が。
「えー、おとーさんずるいよ。
おとーさん、昔じっそーせき飼ってたんでしょ?」
香織は壁にかかった写真を指差した。
それはミオの写真。
仔実装の頃のミオがちょこんと座っていた。
「ああ、それはね、実装石とよく似ているけど違うんだ」
香織にはよく分からない返事が返ってきた。
「えー、おんなじに見えるよー」
「でもね、違うんだよ」
俊昭の視線の先にはもう一枚の写真。
夕日を背景に波打ち際で笑う少女の写真。
白いワンピースを着たどこか不思議な雰囲気の少女。
香織は何か誤魔化されたような気がしたが、
父親の説得が不可能なのは理解できた。
釈然としない顔で部屋を出て行く。
娘を見送った俊昭は大きなため息をつく。
昔に聞いた噂を思い出した。
実装石は、はるか昔に一人の天才だった男が、
人々の心を癒すために作った人形達の成れの果てだ――
当時はあまりの荒唐無稽な内容に、バカ話として片付けていたが、
ひょっとすると、真実も僅かに含まれているのではないかと思う。
卑しさの塊のような実装石の奥深くに、祖先の持っていた資質が、
今でも僅かに残っていて、
ごく稀に、
本当にごく稀に、
そうした先祖返りのような個体が現れるのかもしれない。
しかし、たとえそうだとしても、これは最初から設計ミスの失敗作だ。
人の心を癒せるほど人に密接に関わるモノならば、
同時に人の心を傷つけることができるモノにもなる。
わかってないよ。天才さん。
そこまで考えて俊昭はとりとめの無い仮説遊びを止めた。
所詮、真相定かならぬ噂の話でしかない。
「おとーさーん」家族の呼ぶ声がする。
「なんだー」
俊昭は部屋を出る。
ふと振り返ると写真の中のミオと目が合った。
香織が実装石を飼いたいだとさ。
実装石はミオ、お前だけで十分だ。もうこりごりだよ。
心の中で呟くくだらない冗談。
写真の中のミオはいつもの笑顔で聞いている。
――じゃあな、行ってくる。
俊昭のいつもの挨拶。
部屋を出て行く俊昭の背中を、写真の中のミオが優しい笑顔で見送っていた。
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