月の光と人魚姫 2
それからは、俊昭の部屋に久美子は頻繁に訪れるようになった。
お菓子をおみやげに持って来てくれたり、声をかけたりと、
何かとミオにかまうのだが、ミオは一向に彼女に懐こうとしなかった。
俊昭はますます外出時間が多くなった。
餌の用意などを欠かすことは無かったが、外泊することもたびたびだった。
ミオは日々、寂しさを募らせていった。
何日もかまってくれないことがあると、さすがにミオも癇癪を起こす。
ある日、朝帰りしてミオの餌の用意だけをすると、
またすぐに出勤しようとした俊昭にミオが抗議した。
「デスデスデスー!デスデスー!」
(ご主人様ひどいです!もうずぅーっと遊んでくれてないです!)
考えてみれば、ここ2週間近く俊昭はミオをまともにかまっていない。
「悪い、ごめんな、今は忙しいんだよ」
「デスデスデース!」(前だってそう言ってたです!)
彼が最近忙しいのは本当だ。どうにも時間の都合がつかない。
「わかった。じゃあ何かミオにプレゼントしてやる。それで勘弁してくれ」
具体的なモノを想定していたわけではないが、半分でまかせ気味な条件を出した。
「デスゥ♪」
プレゼントと聞いてミオの機嫌は瞬間的に直ってしまった。
「じゃあ、行ってくる」
ドアから俊昭は逃げるように走り出していった。
「デッスゥ♪」
上機嫌で見送るミオ。ご主人様からプレゼントなど初めてのことだ。
今日はなんていい日なんだろう。
ミオはすっかり有頂天になって浮かれていた。
俊昭は久美子と出勤途中に合流した。
ここ最近はほとんどの時間を2人一緒にいる。
いろいろと2人で考えなくてはならないことが増えたからだ。
2人はもうすぐ結婚する予定になっている。
急な話だが、いわゆる「できちゃった婚」なので当然だ。
もっとも両者とも付き合い始めのころから、
多少なりは結婚を意識していたので、問題なく話は進んでいた。
結婚式のこと。
新居のこと。
生まれてくる子供のこと。
やらなければならない準備は山ほどあった。
その日の仕事を終え、二人はペットショップに来ていた。
ミオにプレゼントをあげることになった件を話すと、
久美子は一緒に選ぼうと提案してきた。
実装石とはいえミオも一応は女性だ。
ここはやはり女性の意見も取り入れたいところだった。
二人で実装石コーナーを見てまわる。
「うーん、思ってたより難しいかも」
久美子が途方にくれていた。俊昭も似たような表情を浮かべている。
ミオは服やアクセサリーなど、普通の実装石が好みそうな物に、
ほとんど興味を示さない。食べ物についても同様だ。
その点では非常に飼いやすい実装石なのだが、
おかげで物の好みがさっぱりわからない。
ずっと飼ってきた俊昭にすら見当がつけられない。
「なんか無難なもので済ましちまおう」
当初はミオの機嫌を直すため、喜びそうな物を探していたのだが、
もはや目的が入れ替わっている。
プレゼントするためのプレゼント探しだ。
「…これなんかどうかな」
久美子が俊昭を呼び止めた。見るとキレイなシルバーのブレスレット。
「これ?ミオには、まさしく豚に真珠だと思うけど…」
「何がいいのか分からないなら、普通にいい物あげようよ」
「いい物?」
久美子はミオのことが決して嫌いではなかった。
自分になかなか懐いてはくれないが、ミオは特に反抗的な態度を取るわけではない。
素直に言うことは聞いてくれるし、マナーも良い。
それに、ミオもこれからは一緒に暮らす家族になるのだ。
自分と俊昭には指輪がある。
さすがにミオにも同様の指輪とはいかないが、家族の絆のような物があれば、
ミオも喜んでくれるのではないかと考えたのだ。
そこで、指輪をはめることが出来ないミオには、ブレスレットというわけだ。
「いや、なにもそこまで考えてくれなくてもいいのに」
口では遠慮するものの、俊昭も久美子の心使いがとても嬉しい。
結局プレゼントはブレスレットに決まった。
普段、質素な生活をさせている分、少々奮発して高めのモノを買った。
その日、ミオは朝から落ち着かなかった。
プレゼントが楽しみで頭がいっぱいになっていた。
おもちゃで遊んでいても、絵本を読んでいても、上の空だ。
何をくれるんだろう?
どんなスゴイものだろう?
ミオの狭い世界では具体的なイメージが沸かないまま、期待だけが暴走している。
手元の絵本には、王子様がお姫様を抱きしめている場面。
有頂天のミオの頭では乙女回路がフル回転を始めた。
舞い上がったミオにとっては最高のプレゼントは王子様のキス。
もはや、不条理の域まで妄想が高まってしまっている。
「デスデスゥ〜♪デスゥ〜♪」
ミオはお姫様気分で鼻歌交じりに踊る。
玄関から居間、居間から奥の部屋へ。
自分では優雅なつもりの、コミカルなステップを踏み踊りまわる。
テーブルの上に目が止まった。
1冊のパンフレットが置かれていた。
豪華な宮殿内部のような写真。絵本のお城の絵そのままだ。
「デスゥ♪」
ミオが開くと、そこにはミオの夢の世界が広がっていた。
キレイな純白のドレスを着て微笑むお姫様の写真。
これだ。
ご主人様はきっとこれをプレゼントしてくれるんだ。
それは、結婚式場のパンフレットだった。
今朝、俊昭が置き忘れていっただけなのだが、
見るもの全てがプレゼントの妄想に繋がってしまう今のミオに、
冷静な判断は不可能だ。
「デッスゥ〜♪」
愚かな期待に振り回され、ミオは踊り続けていた。
「ただいま」
俊昭が帰宅した。
「デスデスゥ♪」
ミオは既に玄関でスタンバイ状態だった。
「ミオちゃん、こんばんは」
「デス?」
続けて入ってきた久美子にミオは怪訝な声を出す。
どうしてこの女の人がいるの?
「ほらほら、ミオ、ぼーっとしてないでこっち来い」
先に居間へ向かった俊昭の声で我に返った。
「デッスゥ!」
すっかり機嫌を直して走って行く。
居間に3人がそろった。
俊昭の前でミオはそわそわと落ち着きが無い。
久美子はソファでそんな様子を微笑ましそうに眺めていた。
勿体つけたそぶりで俊昭が宣言する。
「ミオ、しばらくかまってやれなくてごめんな。
今まで、そしてこれからもよろしく記念として、お前にプレゼントだ」
「デスッデスッデスッ♪」
待ちきれないように飛び跳ねるミオ。
「ほーら、開けてみな」
俊昭が可愛いリボンの付いた包みを渡す。
「デッスゥー♪」
包みを受け取るやいなや、ミオは急いで開いた。
中から出て来たのはブレスレット。
「デスゥ?」
何コレ?
どうしてドレスじゃないんだろう?
包みを見れば、ドレスなど入るサイズではないことに気付いてもいいだろうに、
そもそもプレゼントがドレスだなんて誰も言っていないのに、
勝手な想像のために落胆するミオ。
ミオの落胆は俊昭たちにもはっきり分かった。
お互いの目線が合う。
――やっぱり気に入ってもらえなかったか。
感じていることは同じのようだ。
しゅんとしながら、ミオはブレスレットを見つめている。
俊昭はミオの前に屈みこんだ。
「ごめんなミオ。お前の欲しいモノがよくわからなくてさ。
いろいろ考えたんだよ。久美子と一緒に見てまわってさ」
ミオの背筋がざわついた。
あの女の人と一緒に。
私のプレゼントを、あの女の人と一緒に選んだ。
「まあ、その、俺たちが家族になろうっていう証というかだな、
指輪の代わりというかだな…あ、結婚指輪とは違うぞ」
言い訳のような説明を俊昭が続ける。
でも、これはミオに対する自分たちの愛情の形。
それだけはどうしてもミオに伝えたかった。
しかし、ミオにはそうは聞こえなかった。
私は、あの女と家族になんてなりたくない!
どうしてあの女は、私とご主人様の間に割り込んでくるの?
あの女は邪魔ばかりする!
ドレスだってあの女が邪魔してこんな輪ッカにしちゃったんだ!
ミオの思い込みはどんどん加速していく。
激しい怒りがどんどんこみ上げてくる。
「デスッ!」
ミオがブレスレットを投げ捨てる。
居間に乾いた音が響いた。
時間が止まったかのような沈黙。
それを破ったのはミオの怒声。
「デスデスデスッ!デスーッ!」
(私はドレスが欲しかったです!こんな輪ッカじゃないです!)
ミオの体が宙を舞った。
床に落ちても勢いは消えない。そのまま隣の部屋まで転がっていく。
「…デ…デ……」
仰向けに倒れているミオの頬の形が歪んでいた。
俊昭の右拳の跡だ。渾身の力を込めた手加減なしの本気の拳だ。
――ダメだな。所詮ミオもただの実装石だった。
俊昭は元虐待派だ。
虐待派だったからこそ、ミオをここまで育てることが出来たのだ。
しかし、虐待派ゆえの豊富な知識は先入観にもなる。
ミオの主張は実装石特有の傲慢な欲求ではない。
夢見がちな少女のような思い込みから生まれた、嫉妬と落胆の発露でしかない。
だが、それは多くの実装石を見てきた俊昭の目には、増長としか映らない。
俊昭が立ち上がった。
無表情でミオに近づいていく。ミオを拾った夜の目をしていた。
そこに久美子が飛び込んでくる。
俊昭の腰にしがみ付き、必死に止めようとした。
「俊昭やめて!勝手に気に入らないモノ買ってきたのは私たちだよ!」
「俺はそういうことで怒っているんじゃない!」
俊昭に引きずられながらも久美子は離そうとしない。
「ミオちゃん!気に入らないモノ買ってきたのはごめんなさい!
でも、気に入らないからって投げたりしちゃダメなの!
そのことだけは謝りなさい!」
ミオがふらつきながら起き上がった。
頭がくらくらする。久美子の声もよく聞き取れない。
顔が痛い。自分に何が起こったのかよくわからない。
すぐ近くに俊昭の足が見えた。
見上げると怒りの表情で俊昭が睨みつけていた。
ご主人様が怒っている。
今まで一度も見たことの無い恐ろしい顔で怒っている。
ミオは反射的に俊昭へ頭を下げた。何度も頭を下げた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ご主人様許してください。
怖い顔して怒らないでください。
床に頭を擦り付けて謝り続けた。
何が悪かったのか分からない。
けれどもご主人様に怒られたくない。嫌われたくない。
俊昭の蹴りが土下座するミオの体を弾き飛ばした。
「もうやめてぇっ!」
久美子が泣き叫ぶ。
「こいつらは都合悪くなれば、土下座だろうが命乞いだろうが、なんでもやるんだよ!
そうやって、人間騙して利用する生き物なんだよ!」
「なによ!ミオは他の実装石と違うって、いつも言ってたの自分じゃない!
どうして急にそんなひどい扱いに変わるのよ!」
久美子の言葉に、少し冷静さを取り戻す俊昭。
そうだ。ミオがこんな反応を示したのは初めてだ。
自分達が思っていた以上に、ミオは不満が溜まっていたのかもしれない。
俊昭は今回のプレゼントの理由を思い出した。
それに、一度増長したからいきなり切り捨てるという考えは短絡的過ぎだ。
いくら自分にとってショックな光景だったとはいえ。
ミオの方を向くと、蹴り飛ばされた先でまた何度も土下座を繰り返していた。
お仕置きの効果としては十分だろう。
「久美子、苦しいんだけど」
「え?あ、ごめんなさい」
無我夢中で腰にしがみ付いてる久美子に声をかけた。
力は緩むが離してくれない。まだ安心できないのだろう。
「ミオ、久美子に謝れ」
「デスゥ?」
「お前が投げたブレスレットは、久美子がお前と家族になりたいという、
精一杯の気持ちを込めたプレゼントだ。
そんなに土下座をするのなら、まず久美子に謝れ」
ミオは素直に久美子のそばへやって来た。
両手をついて頭を下げる。
床に涙が零れ落ちた。
久美子がミオの頭を優しく撫でる。
「もう、いいのよミオちゃん。そんなに泣かないで」
違う。
久美子は勘違いしていた。
ミオの涙は悔し涙だ。
素直に頭を下げたのも俊昭の命令だからだ。
こんな女に頭なんて下げたくない。
こんな女のプレゼントなんて嬉しくない。
こんな女と家族になんて絶対なりたくない。
だが、それでも、俊昭の命令ならば従う。
ご主人様のためなら、このくらい我慢できる。
ご主人様のためなら、悪者になってもかまわない。
ご主人様に嫌われるくらいなら、なんだってやってやる。
こんな女に負けるものか。
久美子の手がミオの頭から離れた。屈辱の時間は終わった。
俊昭を見上げた。穏やかな表情に戻っていた。
よかった。許してもらえた。
ごめんなさい。もう、わがまま言いません。
だから、怒らないで。嫌いにならないで。
ミオはブレスレットを拾いに行く。
コレを投げ捨てたから怒られたのだ。
「デスゥ」
俊昭のそばへかけ戻ると、ブレスレットを差し出し不安げに鳴いた。
「これ、いらないか?」
ミオは首を振り左腕を差し出した。
俊昭がミオの腕にブレスレットをはめてやる。
「デスゥー」
ミオが鳴いた。その声からはあまり感情が感じられなかった。
ブレスレットの一件があってからも、俊昭たちは忙しかった。
ミオは相変わらず一人で留守番が続いた。
「デスゥ…」
憂鬱な声で鳴くミオ。
俊昭と久美子が親密さを増していることは、ミオの目にもはっきり分かる。
ミオは二人が結婚することを知らない。
ただ、二人の仲に自分が入り込みずらくなったと肌で感じ取っていた。
このままではご主人様は完全にあの女に取られてしまう。
もう現実には手遅れ、いや、最初から勝ち目などなかったことに、
ミオは気づくことができなかった。
その日は朝から慌しかった。
そして、ミオは朝からケージに閉じ込められていた。
目の前を俊昭と久美子が忙しく動き回る。
棚から荷物を引っ張り出し、ダンボールに詰めていく。
今日は引越しだ。
ミオは何も聞かされていなかった。
労力に数えられていないのだから当然ともいえる。
二人が協力して作業を進める姿が、ミオには面白くない。
「デスデスデスデスー!」(私も手伝うですー!)
ケージ内から声を張り上げるが、まるで取り合ってもらえない。
荷造り作業が片付いた。
ミオはまたケージの中で騒ぎ出す。
「デスデスデスー!デスデスー!」(ここから出してー!遊んでー!)
ミオの目には仕事が完了したと映ったからだ。
家具がなくなった部屋は、遊ぶには絶好の広さだ。
しかし、ミオの要求はやはり取り合ってもらえない。
ケージごと外に運ばれるとトラックの荷台に積み込まれた。
「デスデス?」
混乱するミオにはお構いなしに扉が閉まる。
周囲は真っ暗だ。
突然トラックは走り出す。
「デェエエエエーン!デェエエエエエーン!」
暗闇と振動に怯え泣きじゃくるミオ。
新居に着いた頃には、ミオは泣き疲れてぐったりしていた。
新居に着いてもミオはケージの中だ。
今度は荷解き作業。やはりミオの出番は無い。
移動中の疲れと諦めからか、ミオはおとなしくしている。
時折「デェ…」「デスゥ…」と小さなうめき声らしきものが聞こえるが、
俊昭たちは気にしない。
まずは生活スペースの確保が先決だからだ。
「…ねぇ、なんか臭わない?」
「臭うな。この臭いって確か…」
俊昭はケージを覗き込む。思ったとおりだ。
ミオがケージ内で糞を漏らしていた。
朝から閉じ込められていたのだから仕方が無い。
見つかったことに気づいたミオが激しく泣き出した。
「デ…デェェエエエーン!」
「すまんミオ、トイレに行かせるの忘れてたよ」
傍から見ていればコメディのようだが、ミオにとっては笑い事ではない。
ミオ本人の自意識は、ほぼ思春期の少女と変わらない。
それが好きな相手の前でのお漏らしだ。しかも大きい方である。
俊昭からすれば、仔実装時から世話をしている相手だから、
何を今更といったところだが、その無神経さもミオの乙女な心を傷つける。
とにかくミオにはこの羞恥の苦痛は耐え難い。
「ミオ、今いそがしいから自分で始末してくれ」
顔を覆って泣いていたミオがバスルームに放り込まれる。
「デスゥ…」
服を脱いで下半身を洗い、服も洗い始めた。
なんだか落ち着かない。今日は変な感じがする。
新しいバスルームを眺めながらミオは思った。
朝から俊昭たちはまるでミオに関心を向けなかった。
寂しい思いをしたことは今まで多かったけど、それは俊昭が不在の時だ。
目の前に俊昭がいるのに届かない。振り向いてもらえない。
忙しいのは見ていて分かった。
だから手伝おうと思った。
でも、なにもできなかった。させてもらえなかった。
ミオはキレイなバスルームを見廻す。
前の狭いバスルームの方が好きだ。
ご主人様と一緒に入ったお風呂。歌を歌って楽しかった。
不意に涙が出てきた。過去への感傷の涙ではない。
ふと、この家に自分の居場所は無いような気がしたのだ。
夜になった。
ミオは昼間不愉快な思いをした分、たくさん遊んでもらうつもりだった。
しかし、邪魔な久美子が何時まで経っても帰らない。
「デスデスデスゥー?」(ご主人様、久美子さんはまだ帰らないですか?)
一瞬あっけに取られた表情を俊昭が浮かべた。
しかし次の瞬間には大爆笑する。
「バカ、久美子の家はここだよ」
今度はミオがあっけに取られる。表情からはわからないが。
「今日から久美子も一緒にここで暮らすんだ。お前に言ってなかったっけ?」
知らない。
聞いてない。
何時の間にそんなことが決まっていたの?
久美子が現れてからミオはいつも蚊帳の外だ。
ミオの知らないうちに、知らないことが、知らない事態へと変わっていく。
「ミオちゃん、これからもよろしくね。私のことママって呼んでいいからね」
久美子が笑顔で声をかけてきた。
「そうだな。ミオ、お前はこれからうちの長女だ。よろしくな」
俊昭も笑顔で話しかける。
ご主人様が笑ってる。
ご主人様が話してる。
ご主人様に返事しなくちゃ…。
「デスゥ」
終わったんだ。
楽しかったご主人様との二人の暮らしは、もう完全に終わったんだ。
あの女が笑っている。でもご主人様も笑っている
だったら、私も笑おう。
ご主人様が笑ってくれたら、私も嬉しい。
ご主人様が元気だったら、私も元気になれる。
「デッスゥ!」
俊昭一家が引越した3日後。
ミオはペットホテルにいた。
二人の結婚式と新婚旅行の間、預けられているのだ。
ミオは当然、実装石のコーナーに入れられたのだが、
そこはミオにとって刑務所のような場所だった。
決まったスケジュールに沿って毎日が過ぎる。
それ自体はミオにとって苦痛ではない。
しかし、ここには他の実装石がたくさんいた。
ミオは実装石が嫌いだった。
生まれてすぐに成体実装石に襲われた恐怖が、トラウマとなっているのだ。
仔実装の頃に俊昭が公園に連れて行った時も、集まって来た野良達に怯え、
ベンチから降りることが出来なかった。
怯える様子を見て嘲笑う野良実装石達。
それを見てますます怯えるミオ。
泣き、糞を漏らし、ベンチの上をヨチヨチと逃げ惑った。
それを見て面白がり、野良達はさらにミオをからかった。
当時、まだ虐待師体質の抜けきっていなかった俊昭が、
その様子を放置して楽しんでいたのも悪かった。
おかげでミオは、実装石の身でありながら大の実装石嫌いになってしまった。
ペットホテルはそんな大嫌いな実装石達でいっぱいだ。
しかも、わざわざ実装石などをペットホテルに宿泊させる飼い主の多くは、
愛護派と相場が決まっている。
当然、躾けのなっていない性格の悪い実装石がほとんどだ。
基本的に1体づつケージに入れ、実装石同士が会わないようにしているが、
絶え間なく響く罵声、嘲笑、怒号、油断していると糞までが飛び交う様は、
さしずめセレブ実装石の戦場だ。
ミオの繊細な神経には、ここに居るだけで大変な負担がかかる。
毎日嫌でも目に入ってくる実装石の醜態。
大嫌いな醜い生き物。
しかし、自分もその実装石のうちの一匹だ。それが現実だ。
だからこんな場所に自分は居る。
だから自分はご主人様に置いていかれた。
この場所は文字通り、内と外からミオを責め苛む牢獄だった。
俊昭たちが迎えに来たとき、ミオの神経はすっかり参っていた。
だから夢中で走りより、抱きついてしまった。
それが嫌いなあの女だったことも気にせずに。
ミオにとっては失点。
久美子にとっては喜び。
ついにミオが自分に懐いてくれたと感じた久美子は、
ミオにいっそう優しく接するようになった。
久美子が喜べば、俊昭も喜ぶ。
ミオは久美子にも甘えるようになった。
それがミオにとって、ご主人様のための仕事だった。
ある休日の午後。
テーブルに写真の山が並んでいた。二人が新婚旅行で撮った写真だ。
あれこれと思い出話に花を咲かせながら、写真をアルバムに納めていく二人。
そんな様子をミオが離れて見つめていた。
ミオは最近、こうして二人を離れて見ていることが多い。
声をかければ甘えてくるが、以前ほど遊びをせがんでは来ない。
「ミオ、もうすぐお前はお姉さんになるぞ」
「デスゥ!」
以前、俊昭がミオに子供のことを話したとき、ミオは元気よく返事をした。
――年長者の自覚が出てきたかな。
甘ったれ仔実装だった頃を思い出す。
ミオの成長が素直に嬉しい。今では俊昭にとってミオは娘も同然だった。
しかし、成長が嬉しい反面、寂しくもある。
だからちょくちょく声をかけるようにしている。
「ミオ、こっち来い。一緒に写真見よう」
「デス」
やってきたミオを久美子が抱き上げた。
久美子の膝の上が最近のミオの定位置だ。
旅行の写真に当然ミオは写っていない。
少しさみしい。
ついでに整理しようと、俊昭が他の写真も持ってきた。
幼い頃のミオの写真。
ミオの知らない俊昭の写真。
以前の部屋で撮った写真。
ミオは昔を思い出していた。
理由もなく楽しかった頃。ご主人様と二人だけの生活。
では今は?
今だって楽しい。ご主人様はとても優しい。
昔よりずっと優しい。まるで本当のお父さんのよう。
だから幸せ。私は幸せに生きている。
白いウェディングドレスの写真。
ミオの呼吸が止まった。
外界と切り離された感覚。
音も光も無い。
眼前の写真だけが見える。
白いドレスは王子様のプレゼント。ご主人様のプレゼント。
どうしてこの女が着ているの?
どうしてご主人様が隣に立ってるの?
これじゃまるでこの女がお姫様じゃないか!
おかしい!
間違ってる!
なにもかもが間違ってる!
家族になんてなりたくなかった!
お姉さんになりたくなかった!
お父さんだなんて思いたくなかった!
本当は、ご主人様と二人だけで居たいだけだった!それだけだったのに!
「デスゥ」
ミオは久美子に向き直った。
ぽふぽふと久美子の腹を叩く。
「ミオちゃん、どうしたの?」
「デスデスゥ」
こんな赤ん坊がなんだ。
ミオは黙々と腹を叩き続ける。
「ミオちゃん、お腹には赤ちゃんがいるの。ビックリさせちゃだめよ」
ミオは返事も返さず、なおも叩き続ける。
ご主人様の赤ちゃんは私が産むハズだったんだ。
「おい、ミオ止めろ!」
ミオの動きが止まった。
しかしそれも一瞬のこと、今度は蹴りも加えて腹を叩く。
こんな赤ん坊、死んでしまえ!
「ちょっと、やめなさい!」
久美子がミオを掴みあげる。その手にミオが噛み付いた。
「痛たッ!」
久美子がミオを振り払った。テーブルの上にミオが落下する。
起き上がったミオはハサミを掴んでいた。
「デス!」
ハサミを振り上げ、鋭い鳴き声をあげるミオ。
だが、そこまでだ。
ミオの体を俊昭の腕が捕らえた。ハサミを腕ごと引き千切る。
「デッギャァアアアアアアア!」
久美子から離すため、ミオの体を反対側の壁に投げつけた。
そのまま床に転げ落ち、ミオはうつ伏せに倒れている。
「デスゥゥ…」
ミオは顔を上げた。見えたのはこちらに蹴り込まれるつま先だった。
顔がひしゃげる感覚の後、ミオの意識は消えた。
久美子は居間で震えていた。
驚きと恐怖と混乱とで思考がまとまらない。
娘のように可愛がっていた実装石が、突然刃物をを自分に向けて、
襲い掛かってきたのだ。
悪ふざけで片付けられる事態ではない。
俊昭がミオをケージに閉じ込めて戻ってきた。
「ミオちゃんは?」
「ケージに入れて鍵をかけてある。頭を破壊したから再生するまでは動けないし、
もう大丈夫だよ」
「よかった…」
自分の安全の確保と、ミオの命、どちらもひとまず安心だ。
俊昭がすぐ隣に座った。
「あの、さっきの…どうしてミオちゃんはあんなことしたの?」
「…俺にもわからない。だけど…」
はっきりしていることは、もうミオを飼い続けることはできないということだ。
ミオの行動は、普通の飼い実装石が増長して暴れだす例とは違っていた。
明らかに久美子を敵視して、危害を加えるための攻撃だった。
ミオの中で何が起こっていたのかはわからないが、
そんな危険な意志をもった者を同居させておくわけにはいかない。
だがしかし、
具体的にミオを処分するとなると心情的に抵抗がある。
保健所に連れて行くのか。
モノのように処理されるミオを思うと胸が苦しい。
公園にでも捨てるのか。
箱入り実装石のミオでは辛い目にあうことは確実だ。
自分の手で苦しめずに処分するのか。
最も良い方法だが、すぐには決心がつけられそうにない。
1年以上いっしょに暮らしてきたのだ。
自分が餌をやり、遊んでやり、躾をし、育ててきたのだ。
しかも、ミオは非常に素直で優しい子だった。
今では大切な家族の一員だった。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
翌日、俊昭が様子を見に行くと、ミオの頭はほぼ再生していた。
千切られた腕も、手当てのおかげで元通りにくっ付いている。
俊昭は昨夜は結局、一睡も出来なかったが、
一度ミオとしっかり話し合ってみるという結論は出ていた。
「ミオ、起きてるか」
「デスゥ…」やや濁った声で返事がある。喉の再生が不十分のようだ。
「昨日、なぜ久美子に襲い掛かった?」
「デスデス…」 (久美子さんはいるですか)
「いや、いない」
たかが実装石とはいえ万一のため、
久美子はミオに近づかないように話してある。
「デスデス…」 (ここから出してほしいです)
ケージから出してやると、俊昭の正面にミオはちょこんと正座した。
しばらく無言が続いたが、やがてミオがゆっくりと話し始める。
「デスデスデスゥ」(私は久美子さんが嫌いです)
「デスデスデスゥ」(久美子さんは私の邪魔をします)
「デスデスデスゥ」(だから久美子さんと家族になりたくなかったです)
驚いた。
ミオがこれほどまでに久美子を嫌っていたとは、想像もしていなかった。
そして、それ以上に驚いたのは、
今まで感情を隠し通したミオの演技と意志の強さだ。
こいつは凄い実装石だったんだな――
今更ながら感心する。
知能は並、学習能力も決して高くはないが、
情緒面では人間並、いやそれ以上かもしれない。
「デスデスデスゥ」(ご主人様が喜んでくれるから)
「デスデスデスゥ」(久美子さんと仲の良いふりもしたです)
「デスデスデース」(でも、これ以上無理でした)
「デデスデスデス」(私が欲しいものずっと我慢しているのに)
「デスゥデスデス」(久美子さんがみんな持っていってしまうんです)
「デスデスデース」(そして、ニコニコ笑うんです)
「デースデデース」(悔しくて、殺してやりたくなりました)
そこまで話すとミオは黙ってしまった。
溜まりに溜まった久美子への嫉妬と憎悪。
これは無理だ。もう話し合ってどうにかできる事態ではない。
「そうか、わかった」
俊昭が腰を上げた。
「デスゥ」 (待ってほしいです)
「デデスデスゥ」(私はもう一度、ご主人様と二人で暮らしたいです)
「それは無理だ」
「デス!デス!」(無理じゃないです!私頑張るです!)
何を頑張るというのだろう。だがミオの言葉にはさらに熱がこもる。
「デスデッス!」(あの女よりも私の方がご主人様を好きです!)
「デスデス!」 (私と結婚した方がご主人様は幸せです!)
何を言っているんだ、こいつは。
実装石のミオと久美子では、比較すること事態馬鹿げている。
こいつに久美子の何が分かる。
どん底まで落ちた俺を支えてくれたのは久美子だ。
自分の休みを返上して、仕事を手伝ってくれたのも、
面倒な相談に親身に乗ってくれたのも、みんな久美子だ。
今の俺があるのは久美子のおかげでもあるのだ。
「ふざけたこと言うな」
「デデッス!」(ふざけてないです!)
「デスデス!」(あんな女と一緒にいてはダメです!)
熱くなっているミオは、俊昭の表情が険しくなっていくのに気づかなかった。
「いいかげんにしろ!」
「デグゥッ!」
ミオが蹴り飛ばされた。
「デ…デス、デス」 (私はご主人様と一緒に暮らすです…)
倒れたままだが、ミオの言葉は止まらない。
「デスデスデスゥ」 (二人であの女が邪魔しないところにいくです)
「俺には家族がいる。そんなことは無理だ」
「デス!デデッス!」(私が家族です!私が赤ちゃんを産むです!)
ミオが立ち上がる。ミオは泣いていた。
感情の堰が決壊している。自制心など吹き飛んでいた。
自分の緑の服に手をかけた。勢いよく脱ぎ去る。
パンツも脱ぎ捨てた。
「デスッ!」
俊昭に向かって飛びついていく。
足にしがみ付き、夢中で下半身を擦り付けだした。
俊昭のズボンが分泌液でたちまち汚れていく。
「デェッ!デェッ!デェッ!デスゥ!」
股間をべとべとに汚しながらミオが喘ぎ声を上げた。
ミオは誘惑しているつもりなどない。そんな計算は働いていない。
大好きなご主人様に抱かれたい。
ただそれだけだ。
「気持ち悪いマネすんな!」
俊昭の怒号。続いて強烈な蹴り。
転がったミオの腹の上に踵が力いっぱい蹴り込まれた。
「デブフォッ!」
ミオの口から血が迸る。胴体が蹴り足の形に潰れ変形していた。
「気持ちはわかったがな、お前は実装石なんだ。それを忘れんじゃねぇ!」
俊昭の声にも表情にも、嫌悪感が滲み出ていた。
ミオは髪を乱暴に掴まれると、ケージ内に投げ込まれた。
思い出した。自分は実装石だったんだ。
忘れていた。
いつも、忘れていた。
いつも、忘れるようにしていたから。
俊昭が部屋を出て行く。
これが自分と彼との距離。もう離れることはあっても縮むことはない。
嫌だ。ずっと嫌だった。
短い腕が見える。潰れた丸い胴体も見える。
不恰好な実装石の体。
無表情な顔。
デスゥとしか話せない口。
夢に見る自分の姿とはまるで違っている。
俊昭の姿が脳裏に浮かんだ。
その傍らに立つ自分の姿は亜麻色の髪の人間の少女。
違う!
もう認めよう。自分は実装石なんだから。
ミオの頭の中の映像が変わる。
俊昭の傍らに実装石が立っている。
軽く微笑む俊昭。
ちんちくりんの実装石が無表情に彼を見上げた。
開きっぱなしのA型の口が動く「デスー」
我ながら可笑しい。実に滑稽な図だ。
どこかで見覚えがある構図だと思ったら、
児童向け教育番組のお姉さんとマスコットのぬいぐるみだ。
とてもカップルなんかに見えようのない、コミカルな取り合わせ。
そんな間抜けな姿が自分の現実。
「デプププ」
嘲笑う声が漏れた。
目尻から涙も漏れた。
バカな自分。不恰好な自分。こんな自分は消えてしまえ。
ミオの体が痺れて来る。
体の中心が刺すように痛みだした。
内臓が溶け出したかのように熱くなってきた。
そんな苦痛の中でも、ミオの意識は眠くなるように遠ざかっていく。
そうだ。こんな自分は消えてしまえ。
全ての感覚が拡散して消えていく。
さあ、消えてしまえ。
――でも、ご主人様にもう会えないのは嫌――
第3話へ