月の光と人魚姫 1
自販機でタバコを買おうとしたしたところで、
男はその陰にあるダンボール箱に気づいた。
グシャグシャにつぶれたダンボールは、
ところどころ汚い緑の染みで汚れていた。
捨てられた実装石が野良実装にでも襲われた跡だろう。
彼は惨状をたいして気に留めることなく、自販機のボタンを押した。
ガタンと落ちてきたタバコを取ろうと身を屈めたとき、
「テチー…」と、かすかな鳴き声が聞こえた。
見ると自販機の下に仔実装の姿がある。
仔実装と目が合った。
「テ…テチ、テチ…」
這って逃げようとする仔実装。
襲われながらも、運良く生き延びたらしい。
しかし、よく見れば下半身がボロボロに千切れている。
左腕も途中までしかない。
彼は仔実装を拾い上げた。
「テ…テチュ…」
重傷の体では身をよじることさえ難しい。
仔実装は手の中で、怯えて震えるだけだ。
彼は仔実装をハンカチにくるむと、上着のポケットに入れた。
そのまま自宅へ向かって歩き出す。
布越しに手を当てると仔実装の震えが伝わってきた。
彼の名前は「俊昭」元虐待派だ。
しかし、現在は実装石虐待にさほど関心はない。
――久しぶりに飼ってみてもいいか。
この仔実装を拾ったのも、そんな軽い気まぐれでしかなかった。
俊昭は部屋に着くと、早速仔実装を取りだした。
彼は実装石の扱いには馴れている。
しかしその分、手当てには手加減がない。
処置は最適だが、仔実装の痛みには無頓着だ。
ボロボロの両足と左腕を切断し、傷口を消毒。
栄養剤をたっぷり注射する。
「テチッ!テチィィィイー!」
歯を食いしばり仔実装が絶叫した。
身を焼くような激痛に耐えかね、頭を激しく振る。
彼は仔実装をタオルでくるみ、ケージの中に寝かせた。
「テェ…テチ…」
息も絶えだえの仔実装はそのまま気を失った。
俊昭が仔実装を拾って1週間ほどが経った。
適切な処置もあって仔実装の体は順調に回復していた。
動くようになった左腕。
以前と変わらずに歩ける両足。
一度は死の恐怖に囚われていたのが、今はこうして元通りだ。
嬉しい。
「テチューテチュー」
思わず声が出る。
そこに俊昭が近づいてくる。餌の時間だ。
急いでタオルの中に潜り込む。
怖いニンゲンがきた。
ご飯をくれるけれど、すごく痛いことをしたニンゲンだ。
タオルで頭を覆って震える仔実装には構わず、彼は容器に実装フードを盛った。
仔実装用に牛乳に漬けて柔らかくしてある。
仔実装に声をかけるでもなく、用が済むと彼はさっさと行ってしまった。
足音が遠ざかるのを待って、仔実装が顔を出す。
餌を食べ始める。
食欲は満たされるが、なにか物足りない。
ここに来てわずか1週間だが、仔実装の時間感覚では随分長く感じていた。
その間、俊昭は手当てと餌やり等、必要最小限の接触しかしてこなかった。
もちろん、話しかけたことなど一度も無い。
実装石の人の関心を求める本能が騒いでいた。
かまってほしい。
でも怖い。
痛いことをされたのはずいぶん前だ。
だいじょうぶ。もうだいじょうぶ。きっとだいじょうぶ。
「テチー」
鳴いてみた。
何も起こらない。
「テチューテチュー」
今度はもっと大きな声で。
俊昭がやってきた。
恐怖に、思わず身がすくむ。
「テェ…テチー…」
それでも恐る恐る鳴いてみた。
かまって。遊んで。それからご飯ありがとう。
彼は相変わらず無表情だ。
「外に出たいのか?」
言葉はわからない。でも答えてくれた。うれしい。
「テチュテチュ、テチュー」
大きな声で鳴いてみる。
俊昭の手が伸びてくると仔実装を掴んだ。
また思わず身をすくませてしまう。
しかし、彼の手は柔らかく仔実装を持ち上げると、床に下ろしてくれた。
仔実装は彼を見上げる。途方も無い巨人だ。
"大きいもの"
ふと思い出す記憶。ダンボールを覗き込んだ大きな影。
姉妹達を食べ散らかし、自分も食い殺されかけた。
大きな緑色のもの。恐ろしい大人の実装石。
「テチ…テチ…」
恐怖が蘇り、目の奥が熱くなる。手足の力が抜けていく。
その時、俊昭が腰を下ろした。
仔実装の目の前で胡坐をかく。
無表情な彼の顔が仔実装から見える角度にあった。
これはニンゲンだ。自分は食べられたりしない。
少し気分が落ち着いた。一歩踏み出す。
よちよちと近づいていく。手が届く距離。
恐る恐る俊昭の膝に手をつく。
見上げると目が合った。
「テチ…テチテチ…」
怖いことしないで。痛いことしないで。
俊昭の表情が和らいだ。鼻で笑うような薄い笑顔。
人が見ればいい気分はしない笑顔だ。
しかし仔実装には違うものに映った。
「テッチュー♪」
笑ってくれた。優しいニンゲンだ。いいニンゲンだ。
俊昭が指で仔実装の頭を突付く。
やや乱暴な手つきだったが、それすらも仔実装にはうれしい。
「テチューテチュー♪」
夢中で指にじゃれ付いた。指はじっとはしていない。
逃げたり、突付いたり、ギュッと摘まんできたり。
突付かれ、バランスを崩した仔実装が尻餅をついた。
「テチテチー♪」
それでも仔実装は上機嫌。手足をバタつかせて歓声を上げていた。
すごく楽しい。すごくうれしい。このニンゲンが好き。
仔実装から恐れは完全に消えていた。
優しいニンゲン。
遊んでくれて、ご飯をくれて、助けてくれて、それからえーと…。
仔実装の頭はニンゲンのことでパンク寸前だ。
もう自分でもわけがわからない。
ただ夢中で目の前のニンゲンにじゃれ続けた。
遊び疲れて寝てしまった仔実装をケージに戻す。
「テチュゥ…」寝言らしい。
俊昭が苦笑気味に軽く笑った。
「このくらいの時期はみんな可愛いんだよな」
彼は仔実装の傷が完治したら、公園にでも放すつもりだったが、
今では予定は変更されていた。
本格的に飼うことに決めたのだ。
「しっかり躾けないとならないな」
彼は眠る仔実装の頭を軽く撫でた。
次の日から仔実装への躾けが開始された。
まずは会話。
話しかけられるだけで大喜びする状態では、躾け以前の問題だ。
ある程度、人間とのコミュニケーションに慣れさせる。
それが済んだらトイレの躾け。
ここから先はビシビシ躾けた。
彼は元虐待派。罰のタイミング、力加減、最も得意とするところだ。
仔実装には「ミオ」と名づけた。
ミオの知能は並程度。贔屓目に見積もっても並の上。
トイレを覚えるのにも、かなりの時間を必要としそうだ。
ただ、ミオの長所は非常に素直な性格だという点だ。
多少の悪知恵くらい思いつきそうなものなのだが、
ミオはバカ正直というのか、そこまで頭が回らないというのか、
失敗をごまかすこともなく、その場逃れをするでもなく、
叱られると大いに凹み、褒められると大いに喜んだ。
躾を通して徐々に相手の性格がわかってくる。
ミオは少々変わった実装石だった。
食事に不満を言い出すこともなく、キレイな服をを要求するでもない。
分をわきまえている、というよりはそういった欲が無い。
正確には欲望に向ける分を、別方向に向けているのだ。
別方向とは"ご主人様"だ。
ミオの世界は常に飼い主の俊昭を中心にして廻っていた。
生まれてすぐに捨てられ、姉妹も失い、
初めてまともなコミュニケーションを持った相手が、今の飼い主だ。
最初に得た喜びは、ミオの心に強烈に焼きつき、作り変えてしまっていた。
ミオは常に俊昭のそばにいたがる。
彼が歩けば、よちよちとその後を追って行く。
彼がトイレに入れば、ドアの前で待っている。
開くドアに跳ね飛ばされるのも、毎度のことだ。
何をしていても、3分に1度は俊昭の方を振り返る。
もしも、そこに彼の姿がなければ一大事だ。
「テチッ!テチッ!テッチー!」
泣きながら必死になって彼の姿を探しまわる。
普通の仔実装ならひっくり返って泣き喚き、飼い主を呼ぶところだが、ミオは違う。
短い足で懸命に走り回る。
転んでもめげたりしない。
俊昭の姿を見つけると大喜びで飛びついてくる。
「テッチュー♪」
実に単純な性格だ。
一番大変なのは、俊昭が仕事に向かう時だ。
毎朝、出勤前に彼はミオをケージに入れる。
このときばかりはミオも従順ではない。
非力なりにも、泣き、暴れ、力いっぱい抵抗する。
結局は抵抗空しく、昼の分の餌とともに放り込まれてしまうのだが。
「テェエエエーン!テェエエエーン!」
ミオは主人が帰宅するまでの間、ケージの中で一人ぼっちの寂しさに、泣いて過ごすのだ。
わがままは少ないものの、ミオは大変な甘ったれ仔実装だった。
一方、俊昭も躾けを続けながら、ミオへの認識が変わりつつあった。
いつかは卑しい本性が現れてくると考えていたのだが、
この仔実装にはその様子が一向に現れない。
実装石の中には、主人を巧妙に欺く狡猾な個体が存在することは、彼も知っていた。
しかし、それらは主人の心象を良くし、自分の待遇を引き上げるための行動だ。
ミオが善良な実装石のフリをして、自分を欺いているとした場合、
連日のドジで殴られたり、食事を抜かれて泣いている理由が説明できない。
ガチャン。
食器の落ちる音。
思考が現実に引き戻された。
テーブルにばら撒かれたチャーハン。呆然としているミオ。
ミオはまだ小さいので、スプーンをうまく使えない。
業を煮やしたミオは小皿を持ち上げ、口に流し込もうと考えたらしい。
しかし固形物のチャーハンが、そう上手く落ちてくれるハズも無い。
しかも小皿に盛っている分量とはいえ、仔実装にはなかなかの重量だ。
ついには小皿ごとひっくり返してしまったというわけだ。
「おい、ミオ」低い声。
「…テ、テェ…」涙目で振り返るミオ。
「行儀の悪い食べ方をするな」
「テチュー…」
「罰としてメシ抜き」
「テ、テェエーン」
ボロボロ涙を流すミオをどかして、落ちたチャーハンを片付ける。
「テチュ…」ミオはがっくり肩を落としていた。
――考えすぎだな。ミオはどう見ても天然のドジ実装石だ。
悩むのがバカバカしくなった彼は疑念を振り払った。
テーブルの隅で丸くなって鼻をすすっているミオを見て、
思わず口元がほころぶ。
「ミオ、そんなにハラペコなら水でも飲むか?」
「テチー…」
ミオは力なく頷いた。
3ヶ月ほどが過ぎた。
ミオはほぼ成体に成長していた。
性格にも落ち着きが出てきたが、甘ったれなのは相変わらずだ。
ミオが絵本を持って、主人のズボンを引っ張った。
「デスデスーデスゥ」(ご主人様、本読んで欲しいデス)
最近ミオは絵本がお気に入りだ。
俊昭が暇そうにしていると、読み聞かせてくれるようにせがんでくる。
今日のタイトルは「シンデレラ」だ。
「人魚姫」「マッチ売りの少女」などは1度読んでやったのだが、
主人公に感情移入するらしく、途中から泣き出してしまったのだ。
どうやらミオはハッピーエンドが好きらしい。
しかも傾向がかなり女の子仕様だ。
定番はお姫様と王子様の幸せ物語。
読み終わった後は、潤んだ目で俊昭を見つめてくる。
「デスゥ…デスゥ…」
もじもじしながら、膝の上からなかなか降りようとしない。
「あーはいはい。わかったから降りてくれ」
彼はミオをひょいと床に降ろした。
「デスデス!」
「絵本タイムは終わり。あとは一人で遊んでてくれ」
「デスゥ…」
とぼとぼと絵本を棚に戻しに行くミオ。
すぐにぬいぐるみを抱えて戻ってきた。
タバコを吹かしながら読書する俊昭のそばで、ママゴトを始める
「デ、デスデスゥ」(姫、愛してます)
「デデスデスー」 (王子様、いけないデス)
「デ!デッスゥ」 (姫!私は私はぁ!)
「デースー」 (あーれーデスー)
俊昭が何気なく実装リンガルを覗くと、なにやら爛れたセリフが表示されていく。
カチン
人の足元で気色悪いマネしやがって…昼メロでも見て覚えやがったか。
俊昭はタバコを大きく吸うと、ミオの顔を覗き込んだ。
「デスゥ?」
顔面に至近距離からタバコの煙を吹きかける。
「デッデデ、デホッケホッ!」
「そんなエロママゴトは俺のいないところでやれ!気持ち悪い!」
珍しく激しい怒声に、ミオは驚き硬直していた。
じわりと目が潤んでくる。
「デ…デェエエエエエエエエエエーン!」
涙がスイッチになったのか、大泣きしながら走って行った。
部屋の隅で膝を抱えて泣いている。
「お前、意味わかっててあんな遊びしてるのか?」
「デスゥ?」
形から入ってみただけのようだ。
ミオが成長するにつれて、分かってきた事がある。
ミオは食べ物や衣装に執着しないが、その分性欲が強い個体のようだ。
いや、性欲というよりは情欲といったほうが適切か。
ミオの嗜好は男女関係に関するものに集中している。
絵本も恋愛モノを好むし、テレビでラブシーンが映ると、
放心したかのように見入っている。
実装石は基本的にメスだが、ミオはその女性的傾向が特に強い。
しかし、実装石に多く見られる淫乱多情な性質はあまり感じられない。
どうやらミオ自身が、いわゆる淑女的な理想像を自分に課しているらしい。
子供の情操教育のような絵本を、いろいろ読ませたせいだろうか。
最近では排便を見られるのを恥じるようにもなってきていた。
そして、もう一つ。これには俊昭も気づいていない。
ミオは主人を異性として意識している。
まだ幼いものだが、ミオの主人を親と慕う気持ちは、恋愛感情に変わりつつあった。
俊昭とミオの二人での生活は続く。
「じゃあな、行ってくる」
「デス」
ミオの日課の一つは毎朝のご主人様の見送りだ。
部屋を散らかさなくなったミオは、もうケージに入れられることはない。
玄関で俊昭を見送った後は一人で留守番だ。
ミオは部屋の奥に向かうと、お気に入りのおもちゃを持って玄関に戻ってきた。
そのまま玄関で一人遊びを始める。
「デスーデスデスゥ」
遊びながらも、時々ドアの方を振り返る。
以前、忘れ物を取りに俊昭が戻ってきたことを覚えているのだ。
めったに起こらないアクシデントを期待しながら、玄関で時間をつぶすミオ。
ご主人様、また戻ってこないかな。
もしかしたら、すぐそこまで来ているかもしれない。
でも、あれから一度もない。
やっぱり、いつもみたく夜まで帰ってこないのかな。
ドアを見つめるミオの頭は、堂々巡りを繰り返す。
午前中いっぱいは、こんな調子の毎日だった。
「デスゥ」
お腹が空いてきた。
ミオは時計を読めないが、おおまかな時間の把握はできる。
針が2つとも上を向いたら、お昼ご飯。
ミオは12時にまだ少し間がある文字盤を見つめる。
長針と短針が真上で重なった。ご飯を食べていい時間だ。
用意してある実装フードを食べだす。
半分は残しておく。
今、全部食べてしまうと夕食までにものすごくお腹が減るのだ。
だから、残りは夕方に食べるおやつの分。
これはミオが自分で考え出した工夫だった。
ご飯を食べたら昼寝の時間だ。
しかし、ここ最近では、その前に行う秘密の習慣があった。
コソコソと本棚に向かう。
誰も見咎める者がいないのに、人目はばかるかのような動きは、
自分の行動に後ろめたさを感じるせいか。
少し前にミオは本棚の一角に興味深い本を発見した。
一人暮らしの男の定番アイテム。いわゆるエロ本だ。
本を発見したのは数日前。
男女関係に関するモノに興味しんしんなミオには、
この直接的な表現物は、たまらなく刺激的な誘惑だった。
文字は読めないが絵を見ていれば内容は理解できる。
貪るように読み耽った後、下半身になんとも言えない物足りなさを感じたミオは、
そこで初めて自慰を覚えた。
終えた後は、どうにもやりきれない自己嫌悪に陥るのだが、
結局は欲求には逆らえず、密かな習慣となってしまったのだ。
「デスゥ」
本を開いた。今日はコミックを使用するらしい。
紙面には、グラマラスにデフォルメされた男女の絡みの絵。
俊昭は胸の大きい女性が好みのようだ。
漫画も写真集もそちら系統に偏っている。
ミオは自分の股間へ手を伸ばした。
既に頭の中では妄想への自己投影は完了済みだ。
人間の女性の姿でご主人様に抱かれる自分。
ミオは自分を実装石だとあまり意識していない。
もちろん人間のつもりでもないが、メンタリティは明らかに人間寄りだ。
「デッフゥ…!…テ…テフ…!」
ひとしきり自慰に没頭し、満足すると今度はいつもの自己嫌悪に襲われる。
またやっちゃった。なんか…みっともない…。
本を戻して、衣服を整え、手を洗いに行く。
後始末は慎重かつ念入りだ。
ご主人様に知られたら、きっと嫌われる…だから絶対に秘密。絶対に。
証拠隠滅したところで寝床に横になった。
自慰後の気だるさが、ちょうど良い眠気を運んで来てくれる。
ごめんなさい…ご主人様…。
ゆっくりと意識が沈んでいった。
日が沈む頃、ミオは昼寝から目覚めた。
残してあったおやつを食べると、テレビをつける。
ミオが見て面白い番組は放送していなかった。
「デスゥ」
ご主人様、早く帰ってこないかな。
今日はどの絵本を読んでもらおうかな。
ぼーっと画面を眺めながら、今夜のささやかな予定を考える。
時計の針が両方とも左下を向いた。
そろそろ俊昭が帰宅する時刻だ。
ミオはおもちゃ片手に玄関に向かった。
玄関マットの上にちょこんと座り、ドアを見つめる。
もうすぐ、ご主人様が帰ってくる。
ドアよ開けー、早く開けー。
しかしドアは沈黙を続けていた。
3時間が過ぎた。
俊昭はまだ帰宅していなかった。
ミオはマットの上でだらけた姿勢で横になっていた。
「デスゥー…」
ご主人様、遅いな…。
変だな、いつもはもう帰ってきてるのに…。
俊昭が帰ってこない理由を考えてみる。
しかし、部屋の外の世界をほとんど知らないミオには見当もつかない。
ずっと待ってるのに、どうしたのかな…。
ひょっとして、嫌われちゃったのかな…。
私、捨てられちゃったのかな…。
もう、帰って来てくれないのですか?
じわりとミオの目が潤んでくる。
お腹も空いてきた。
眠くなってきた。
早く、早く帰ってきてください…ご主人様…。
結局、俊昭の帰宅は日付が変わった後だった。
ドアの開く音にミオが目を覚ます。
「デス!」
入ってきた俊昭の表情は憔悴しきっていた。
「デスゥ?」
いつもと違う彼の様子にミオも気づいた。
「デスデスー?」(ご主人様、どうかしたですか?)
「ミオ、悪いけど今日は疲れてるんだ。遊んでやれない」
俊昭はスーツを脱ぎながらミオの横を通り過ぎていく。
そのままどっかりとソファに身を放り出した。
大きくため息をつくと、タバコに火をつける。
「デスデス?」(ご主人様、どっか痛いですか?)
ミオの発想では、心配事もこの程度しか思い浮かばない。
「ミオ…もう遅いからお前は寝ろ」
「デスゥ…」素っ気無く言われて、ミオはしぶしぶ寝床に向かった。
俊昭は台所から缶ビールを取ってきた。
しかめっ面のまま、いっきに飲み干す。
今日、彼は仕事で大きな失敗をしてしまったのだ。
当分はその始末に追われることになるだろう。
会社内での信用もガタ落ちだ。
彼は仕事に対して非常に真面目な性格だった。
自分の不始末であるからこそ、自分の到らなさがたまらなく腹立たしい。
また大きなため息がもれる。
気分が滅入り過ぎて、服を着替える気力も沸いてこない。
そんな彼の様子を、ミオはドアのかげからじっと見ていた。
ご主人様、元気ないです…。
かわいそうで見ていられません…。
ご主人様の元気が出せるようにしないと。
ミオが主人のそばにやってきた。
「デスゥ」
ギュッとその足にしがみ付く。
「なんだ、今日は遊んでやれないぞ」
「デスデス」
ブンブンと首を振り、さらにミオは抱きつく力を込める。
「しつこいな。そんな気分じゃないんだって!」
乱暴に振りほどいた。尻餅をつくミオ。
「デス、デスデスゥ」
「ったく、なんだってんだよ」
諦めの悪いミオを追い払いながら、ふとテーブルの上の実装リンガルに目がとまった。
ご主人様、元気出してください。
私、ご主人様を抱きしめてあげます。
ギュッてしてあげます。
だから、元気になってください。
そこにはミオの主人を気遣う言葉が表示されていた。
ミオは自分が泣いている時に、俊昭に抱きしめられたことを思い出していた。
自分が嬉しかった行為を、俊昭にもしてあげようと考えたのだ。
まだ幼いミオの稚拙な発想ではあったが、精一杯の愛情表現だった。
――こいつ、俺を心配してたのか。
ミオを振り返る。
「デスデスデスゥ」
その無表情な顔からは、心配の意図など読み取ることは不可能だ。
フンと鼻をならす。
今日の彼は特別疲れていた。気分もひどくやさぐれていた。
いつもなら感心し、素直に喜ぶであろうこのミオの行動も、
残念なことに、今日に限ってだけは、彼をいっそう苛立たせるだけだった。
「実装石にまで同情されるようじゃ、俺も終わりかな」自嘲的な口調。
皮肉な笑いを浮かべミオを見た。
「おまえ、俺をバカにしてるだろ」
「デ、デスデスッ!」(そ、そんなことないです!)
「実装石の分際で人間様に元気だせと命令かよ。調子にのるな!」
「デ、デスゥウウウ!」
泣き出すミオ。
「うるせぇ!とっとと寝ろ!」
「デスゥウウ!デスゥゥ!」
泣きながらミオは寝床へ走っていく。
棚のガラス戸に自分の姿が映っていた。よたよたと走る実装石。
「実装石の分際で」彼はそう言った。
自分は実装石なんだ。
ご主人様とは違う存在なんだ。
当たり前の現実がどうしようもなく悲しかった。
届かない気持ちがどうしようもなく悲しかった。
次の日の朝は気まずいものだった。
俊昭はほとんど睡眠をとることができなかった。
ミオは落ち込んだままだ。むしろ昨夜よりも悪化していた。
二人で沈んだ食卓を囲む。
「昨日は悪かった。ごめんな」
「デス…」
会話は途切れた。
それでもミオは見送りは欠かさない。
主人の後を玄関までついてくる。
「ミオ、今日からしばらくは帰るのが遅くなると思う。
晩御飯も用意しておいたから一人で食べてくれ。」
「デス…」
俊昭は出て行った。
「デスゥ…」
一人で留守番。でも今日は特に寂しく感じる。
なにもする気にならない。
食欲もわかない。
その日、ミオは一日中横になって過ごした。
俊昭はミオと関わる時間が少なくなった。
夜は遅くまで帰ってこない。
朝はミオが起きる前に出勤する事もある。
休日出勤もそう珍しくなくなった。
しかし、決してミオに冷たくなったわけではない。
時間を見つけては遊んでくれる。
むしろ、以前よりも優しくなったとミオは感じていた。
それでも、いっしょにいられる時間は少ない。
優しくされた分、より好きになった分、感じる寂しさは大きい。
今日もミオは一人で留守番だ。
一日の大半を玄関で過ごす。
「デスゥ」
ご主人様、早く帰ってきてください。
どれほど願っても目の前のドアは開かなかった。
そんな生活が半年ほど続いていた、ある休日。
主人は朝から仕事に行き、ミオはいつもの留守番。
時間は午後を回っていた。
ミオが昼寝から起きて、まだ頭がぼんやりしていた時、
玄関のドアが開く音が聞こえた。ミオの意識が一瞬で明瞭になる。
ご主人様、帰ってきてくれた。
今日は早く帰ってきてくれた。
今日はたくさん遊んでもらえる。
「デス♪デス♪デス♪」大急ぎで玄関へと駆け出した。
玄関には俊昭が帰ってきていた。
「デッスゥ♪」ミオは急いで駆け寄っていく。
その時、俊昭の後ろからもう一人現れた。
「デス?」ミオの足が止まる。
「おうミオ、ただいま。さ、あがって」
俊昭が背後の人物に声をかけた。
「うん、おじゃまします」
女の人だ。
ミオは後ずさる。この人誰?
予想外の事態に混乱する。
俊昭のそばに駆け寄ると、その後ろに隠れる。
「こらミオ、挨拶くらいきちんとしろ」
女が近づいてきた。ミオの目の前でしゃがみこむ。
「はじめましてミオちゃん。私は久美子っていうの。よろしくね」
しかしミオは返事をしない。
優しそうな笑顔、やわらかい声、とてもいい人に見える。
でも、なんだか嫌だ。好きになれない。
ミオは押し黙ったまま、主人のズボンの裾をさらに強く掴む。
「ゴメンね、こいつ俺以外の人間と喋ったこと無いからさ」
「そうなんだ、それじゃ怖がらせちゃったかな…」
「いいよ、早く慣れてもらわないと困るし」
「そうだよね。ミオちゃん、飴食べる?」
聞く前にポケットから飴を取り出している。
「デスゥ」
「はい口開けて」ミオが恐る恐る口を開けた。
久美子が飴の包みを破き、ミオに食べさせる。
「上手いね。実装石は食べ物で懐柔するのが一番手っ取り早いからな」
「違うってば、ただのお近付きのしるし」
飴は美味しい。
でも、やっぱり、好きになれない。
どうして、そんなにご主人様に馴れ馴れしいの?
どうして、そんなにご主人様は楽しそうなの?
こんなの見ていたくない。
「デスゥ!」
ミオは部屋の奥へと走り去っていった。
「…ブルーベリー嫌いだったのかな」
「アイツ人見知りするんだよ。実装石のくせに珍しく」
俊昭と久美子が付き合いだしたのは、3ヶ月ほど前からだった。
彼女は俊昭の会社の同僚だ。
所属部署も同じ、入社時期もほぼ同じ。
以前からそれなりに親しくはしていたが、俊昭の大失敗の後始末を、
彼女が手伝ってくれたことをきっかけに、今の関係になった。
どちらかといえば地味な雰囲気だが、よく気の付く優しい性格の女性だ。
ここのところ、俊昭の外出時間が長かったのは、
もちろん仕事もあるが、実は彼女と会っていたという理由もあった。
「あんまり期待しないでね。そんなに料理得意じゃないの」
「そうか?こないだの弁当はおいしかったぞ」
さすがに2人とも、ある程度落ち着きのある年齢なので、
キャッキャウフフ状態とはならないが、十分に痛いバカップルぶりだ。
布団に潜り込んでいるミオにも、その会話は聞こえてきてしまう。
俊昭がこんなに口数が多いのは珍しい。
彼がミオにこれほど話しかけることは無い。
「デスゥ…」
耳を塞ごうにも不器用な短い手と、頭の上方にある大きな耳では、
それも上手くいかない。
時々、電話で楽しそうに話していたのは。
遅くまで仕事をしていたのに、機嫌のいい時があったのは。
今日も朝早く出かけていったのは。
みんな、あの女の人がいたからなんだ…。
どんどん気持ちが沈んでくる。不快な衝動が湧き上がってくる。
知識が無いミオには理解できなかったが、それは嫉妬の感情だった。
久美子が部屋にいる間中、ミオは布団から出なかった。
彼女が帰り際に声をかけてくれたときも、ミオは返事を返さなかった。
彼女を送りに行った俊昭が帰宅すると、また玄関でミオが待っていた。
「ミオ、ただいま。今日は知らない人が来て驚いただろう」
「デスデス」(あの女の人また来るですか)
「うん、これからちょくちょく遊びに来ると思うぞ」
「デスゥ…」
ミオが落胆した声で鳴いた。
そんなミオを俊昭が抱き上げる。頭を撫でながら居間へ向かった。
「そんなにびびるなって。今度会ったらデスーって甘えてみろ、
久美子は俺より優しいぞ」
慣れない来客に緊張していたミオを労うように、
その晩、俊昭はミオとたくさん遊んでやった。
「デスデスデスゥ♪」
ミオはいつも以上にじゃれ付いてくる。
ただ、その様子には焦りのような余裕の無さがあった。
俊昭の膝の上で甘えていたミオの動きがふと止まった。
じっと俊昭の顔を見上げている。
「デスデスーデスデスー?」(ご主人様は私とあの女の人、どっちが好きですか)
「久美子」即答。
「デ…デデェ…」かたまるミオ。みるみる目に涙が浮かんでくる。
「おいおい、泣くようなことか?当たり前のことだろ?」
「デェエエエエ…」本格的泣きモードに入りそうだ。
「泣くな。俺は泣く奴は嫌いだ」
とたんにミオは声を抑え、涙をこらえる。
まるで親の再婚か、弟か妹に焼きもちを焼く子供のようだ。
「デスデスゥデスデスゥ」
(あの人をもっと好きになったら、私がいらなくなったりしないですか)
俊昭はミオを必要と思ったことも無いが、話を合わせることにした。
「そんなことにはならない。俺は久美子が好きだが、お前のことだって好きだぞ」
「デーデーデスゥ!」(どっちも好きなんて優柔不断です、ヘタレ男です)
ミオはこういった色恋絡みの言葉には意外に詳しい。
「久美子は人間。お前は実装石。一緒にするなよ」
それは何気ない一言だったが、ミオの急所を抉った。
実装石。
私は実装石――。
自分とご主人様を分かつ、越えられない現実の壁。
「俺は本来、実装石は嫌いだがお前は特別だ。
お前が今のままいてくれたら、嫌いにはならないよ」
ミオのショックには気づかず俊昭が続ける。
「デス?」
よく聞き取れなかったが、嫌いにならないと言われた気がする。
「デデスデス?」(私のこと、嫌いにならないですか)
「ああ。なんだ?お前、俺に嫌われるようなことしたのか?」
「デ、デス!」(してないです!)
若干、心当たりのあるミオは慌てて首を振った。
「だったらいいだろう。俺は飼った以上は責任持つつもりだ。安心しろ」
またミオの頭を撫でてくれた。
ご主人様に撫でられるのはとても気持ちがいい。
今日はたくさんのことがあった。
女の人が来て、不安になって、好きと言ってもらえて、
でも、自分はやっぱり実装石なのが悲しくて、
それでもご主人様は安心しろと撫でてくれて。
いっぺんにたくさんの気持ちが沸いてきて、ミオ自身にもよくわからないけれど、
ご主人様は優しくて、前よりもまた好きになった。
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