バケツの底で 前編
男がコンビニから帰ってきて袋をあけると、なぜか仔実装が入っていた。
「テッチ…テッチ…」
なんのつもりなのか、乾電池のパックをペチペチ叩いている。
聞いたことはあったが、これが実装石の託児ってやつか…。
そういや、やけにそばに寄ってくる実装石がいたと思ったが、
こういうことだったのか…。
幸い、食べ物を買いに行ったわけではなかったので、直接の被害はなかったが、
勝手に仔実装を押し付けられるのは、確かに面白くない。
「テチュー?」
媚びるでもなく、泣くでもなく、仔実装が袋の中から男を見上げる。
自分の置かれた状況が、理解できていないようだ。
さて、どうしたものかな――
男は実装石などとは、ほとんど縁のない生活をしていた。
そのため、実装石についての知識は僅かで、しかも断片的なものだった。
知っているのは、野良実装石がずうずうしく汚らしいことくらい。
あとは虐待派だった昔の友人からの受け売りだ。
男は以前、虐待の現場を見たことがあった。
友人は自分の飼い実装石をサンドバッグのように殴っていた。
「ストレス解消にはちょうどいいんだ」
「デスー!デスーゥゥ!」
笑いながら実装石を殴り続ける友人。
鼻血を撒き散らしながら泣き喚く実装石。
その一方的な暴行を見ながらも、
男には実装石に対し「かわいそう」といった感情はまったく起こらなかった。
むしろ、面白そうだと興味が沸いたくらいだ。
結局、飼育の手間などもあり実装石を飼うことはなかったが、
男の中では「実装石は虐めると面白い生き物」というイメージが出来上がっていた。
――いい機会だ、コイツを飼ってみようか。
男は仔実装を飼うことに決めた。
ペットとしてではなく、ストレス解消の道具として。
どうせ殴るなら無反応なモノより、派手に泣き叫ぶヤツのほうが楽しめる。
男の感覚は生き物を殺すことはいけないが、
逆に殺しさえしなければ、何をしてもいいという単純な認識だった。
男は仔実装を袋からつかみ出した。
「テチー」
仔実装は抵抗する様子もなく、おとなしくしている。
男にテーブルの上に置かれた仔実装は、周りをキョロキョロと見回す。
自分のまるで知らない景色に戸惑っているようだが、
徐々に状況が理解できてきたらしい。
ママの言ったとおりテチ。
ニンゲンのおうちはすごいテチ。
今日からワタチはここの子になるテチ。
うれしいテチ、すごくうれしいテチ。
仔実装はテチテチとはしゃいだ声で鳴く。
テーブルの上でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「テチュー♪テチュチュー♪」
ニンゲン、これからよろしくテチュ。
ワタチをたくさん可愛がるテチュ。
まずは、おいしいごはんとキレイな服がほしいテチュ。
首をかしげ右手を口元に当て、仔実装は媚びた声で鳴いた。
「テッチー♪」
しかし男は乱暴に仔実装を突付いて媚びに答えた。
「テチュッ!」
仔実装が派手にひっくり返る。
「テチ…」
「なにをいい気になってるんだ」
男が馬鹿にしたように薄く笑った。
「テチ?」
なにをするの?といった様子で戸惑う仔実装。
そこへデコピンの追い討ちが入った。
「テチャアッ!」
仔実装はテーブルの上を転がっていく。
大の字になって止まったところで、盛大に泣き出した。
「テ……テェェェエエーン!テェェエエエーン!」
「泣くな。うるせー」
男が突き放した言葉をかけた。
しかし仔実装の泣き声はますます大きくなる。
仔実装には男の言葉は理解できなかったし、
身勝手な期待が大きかった分、殴られたショックも大きかった。
「テェエエエ!テェェェエ!テェェェェエエエエエーン!」
仔実装はあらん限りの声を張り上げて泣き喚く。
男の顔が苛つきを露わにしてきた。
「おい!」
「テェェエエーン!テェエエーン!」
仔実装は駄々っ子のように、手足をバタつかせて泣き続けている。
バン!!
男の手がテーブルを力いっぱい叩いた。
衝撃で仔実装の身体が一瞬浮き上がる。
「……テチ…」
仔実装が驚いて固まっていた。
バン!!
また男がテーブルを叩く。
「テチィッ!」
仔実装が怯えて身を縮めた。
ガタガタ震えながら蹲る。
恐怖に漏らした糞が、みるみるパンツを盛り上げていった。
「コラ!人がモノ食うところで糞たれてんじゃねーよ!」
男が仔実装を慌てて引っつかむ。
「テチャアー!」
男の握力に驚いた仔実装が悲鳴をあげた。
男の手の中で、さらに糞があふれ出てきた。
「うわ、さっそくかよ」
実装石を飼う以上、糞の問題が付き物なのは男も理解していたが、
さすがに最初から大漏らしとは思っていなかったのだ。
男の手の中で、仔実装はなおも糞を漏らし続ける。
この小さな身体のどこに収まっているのかと、
呆れるほどの大量の糞が、ムリムリとパンツから溢れ出した。
「テテテチー!テッチー!」
仔実装は恐怖に駆られ、半狂乱で暴れる。
涙と涎をを撒き散らし、泣き喚く姿は滑稽ですらあったが、
手足をバタつかせるたびに糞が飛び散るのは、かなり迷惑だ。
男は腹を決めた。
手は糞まみれになっちまったし、どうせこれから徹底的に洗うんだ。
汚れるならとことん汚れちまえ――。
男が人差し指を、仔実装の総排出口に突き立てた。
根元まで深く差し込み栓をする。
「テチョォォォオオオー!!」
仔実装がおかしな悲鳴をあげた。
激しく暴れていたのがピタリと止まる。
男の指は小さな身体の胸の辺りまで届いているだろう。
「テテ…テチ…」
細かく痙攣しながら、虚ろに口をパクパクと動かす仔実装。
男が指を動かした。
「テチンッ!」
仔実装がピクンと跳ねた。
内臓をかき回される刺激が、苦痛なのか快感なのか、
仔実装は涎を垂らしながら、またピクピクと痙攣する。
男はいろいろと指を動かしてみた。
「テッチャッ!」
「テテテンッ!」
「テチョチョッ!」
仔実装は男の指に合わせて、
奇声とともにおかしなダンスを踊り続けた。
――変な奴。
男は面白がって様々な動きを試していくが、
だんだん仔実装の反応が鈍くなってきた。
「…テー……」
「なんだ、もう終わりか」
自分の指に刺さった仔実装に男がデコピンをかます。
「テチ…」
帰ってきた反応は弱々しくつまらない。
「ふーん、それじゃあ…」
がりっ。
男が爪を立てて引っ掻いた。
仔実装の腹の中をだ。
「………テチィッ!!!」
ぐったりしていた仔実装の身体が反り返った。
そのままエビ反り状態でプルプルと震えている。
目玉がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、
限界まで舌を突き出したまま、激しく痙攣をくり返していた。
その痙攣は男の指にも伝わってくる。
内臓がまた活発に排泄活動を始めたようだ。
――やばいな。
このままでは指の隙間から糞が飛び散りそうだ。
男が仔実装の腰を強く掴んで締め上げた。
「テヂッチィィ…」
仔実装が苦悶の声で鳴いた。
男は仔実装の腹を締めつけながら、浴室に急いだ。
浴室に着いたあたりで、仔実装の様子がおかしくなった。
内臓の痙攣はさらに激しくなり、手や頭をガクガクと振っている。
しかしその気持ち悪いとも思える動きが、男にはツボに入ったらしい。
「ウンコできなくて大変だなぁ、いやー、つらそうですねー」
仔実装を見ながらゲラゲラ笑っていた。
「テデヂッ…」
仔実装の動きがますます激しくなる。
痛みと恐怖で、仔実装は完全にパニック状態だった。
そこに生理反応の糞漏らしまでもが、力づくで妨害されている。
頭どころか身体反応までが狂いかかっていた。
泡を吹きながら、首をブンブン振り回す。
腕がピコピコと、早回しのようにせわしなく動いていた。
「テップゥ!」
仔実装の頬が膨れ上がった。
行き場を無くした糞が逆流してきたのだ。
「テベベベレベレベレ…!」
口をめいっぱい押し開き、血の混じった糞がモリモリ溢れてきた。
いや糞だけではない。
内臓までが一緒に吐き出されてきた。
「うわ、気持ちワリ!」
さすがにこれには男も不快なようだ。
指を引き抜くと、仔実装を床に放り投げた。
「テチッ」
床の硬さに仔実装が鳴く。
衝撃で肩の骨が折れていた。
「おーい、まだ死ぬなよ。せっかく飼ってやるんだからな」
男の声に仔実装は反応しなかった。
口から内臓を溢れさせ、ぐったりしたままだ。
「しかたないな」
男は仔実装を洗い出した。
とりあえず、汚いのだけはどうにかしないと飼うにも支障が出る。
服を脱がし、内臓を押し戻し、シャワーで糞を洗い流していく。
一段落したところで、仔実装を空いていたバケツに放り込んだ。
「ま、頑張って治ってくれ。そこまでは面倒見切れないからよ」
男は仔実装を浴室に置いて出て行った。
バケツの中で仔実装はかろうじて生きていた。
そのかすかな意識は疑問でいっぱいだ。
ママの言ってたことと違うテチ。
どうしてニンゲンはワタチに優しくしないテチ。
どうしてひどいことするテチ。
どうしてテチ…。
どうしてテチ…。
疑問の答えなど、仔実装のおめでたい頭では思いつかない。
無意味な思考を続けながら、仔実装の意識は沈んでいった。
飼い実装としての生活が始まった。
しかし男は実装石など今まで飼ったことはない。
当然、飼育道具もろくに揃えていなかった。
男が用意したのは安物の換えパンツだけだった。
もちろん実装リンガルなど買うはずもない。
餌皿もトイレも適当な容器を転用しただけ。
ケージにいたっては、初日に使ったバケツを代わりにしていた。
「テチュー…テチュー…」
無人の部屋に置かれたバケツの中で、裸の仔実装が泣いていた。
男が仕事に行っている間は、この狭い空間が仔実装の居場所だった。
面積にすれば通常のケージの半分にも満たない。
餌もない。
トイレもない。
寝るためのタオルすら敷いていない。
何もない場所に閉じ込められ、仔実装は必死に男を呼んでいた。
バケツの壁に遮られ、仔実装は男が外出していることを知らない。
日中の間、仔実装は泣いて男を呼び、泣き疲れて眠り、
目を覚ましてはまた泣くのを、何度もくり返して過ごしていた。
男が帰宅する。
部屋が照明に照らされると、仔実装がうるさく騒ぎ出した。
「テチー!テチテチー!」
部屋の隅で倒れないように押さえてあるバケツに男が近づいた。
仔実装がバケツの中で飛び跳ねている。
出してテチ、ここから出してテチ!
お腹へったテチ!ごはんほしいテチ!
それから服を返すテチ!
「ホント、コイツはウンコたれてばかりだな」
バケツを覗いて男が嘲笑する。
バケツの中の仔実装は糞まみれだった。
1日のほとんどをここに閉じ込められ、
トイレも用意されていないのだから、当然バケツの中は糞だらけになる。
その中で生活していれば、仔実装も汚れるのは不可抗力だ。
実は仔実装なりにも、糞を一箇所にまとめて出すなりの工夫をしているのだが、
狭い床面積に対して糞の量は多すぎた。
どうしても底の半分は糞に埋まってしまうのだ。
「テッチー、テッチー」
仔実装が男に向かって懸命に鳴く。
「うるせーぞ、ウンコ実装」
仔実装で遊ぶには、まずは汚れを落とさないとならない。
男は仔実装を相手にせず、バケツを持ち上げると浴室に向かった。
「テチャァアアー!」
浴室の床に置かれたバケツの中で、仔実装が悲鳴を上げた。
男がバケツに水を注ぎ込むからだ。
糞まみれの仔実装と、バケツを一度に洗うためだが、
仔実装にとっては水責めも同然だ。
しかし、仔実装にとってもこの扱いは慣れたものだ。
確かに水は冷たいが、ひどい苦痛とはいえない。
それにこの冷たさを我慢すれば餌にありつけるのだ。
仔実装は泣き喚くが、そう激しく抵抗はしなかった。
乱暴に洗われた後、仔実装は渡されたタオルで身体を拭き始めた。
しかし、ここからはその日によって事情が変わってくる。
すぐに餌を与えられたこともあるし、
水の入ったバケツに、また放り込まれたこともある。
つまり、男のその日の気分次第なのだ。
「テチュー…」
仔実装はチラチラと男の様子を窺いながら身体を拭く。
今日はすぐごはんくれるテチ?
ワタチを虐めないテチ?
男は仔実装が身体を拭き終えたのを見ると、服を渡した。
実装石の緑の服だ。
別にこれは親切でもなんでもない。
服を着せておいたほうが、糞で部屋を汚されにくいだろうという、
自己都合による判断だ。
仔実装がもぞもぞと服を着る。
よかったテチ、今日のニンゲンは優しいテチ。
少し安心する。
男が浴室を出ていく。
仔実装もその後をよちよちと追った。
居間に戻ってきたところで、突然男が仔実装を蹴り飛ばした。
もちろん本気で蹴ってはいないが、
仔実装が宙を飛ぶには十分すぎる強さだ。
「テェ!」
仔実装が床に落っこちた。
「テ、テチュ…」
痛みを堪えてなんとか立ち上がると、今度は一目散に逃げ出した。
やっぱり違ったテチュ。
今日のニンゲンは怖いテチュ。
仔実装は逃げながら、必死に隠れ場所を探す。
棚の陰に入り込むと、顔を出して男の様子を窺う。
男はテーブルの前に座り、TVのリモコンを取ろうとしていた。
よかったテチ、追いかけてこないテチ。
仔実装は息を潜めて、男の動きを見つめていた。
こうした男の理不尽な暴力は珍しいことではない。
むしろ、今日の例は軽いケースだ。
男は仔実装を虐めるために飼っているのだ。
なんの理由もなく殴るのも当然といえた。
男は仔実装に対してほとんど躾けをしていない。
そもそも男自身が、実装石の躾けというものを分かっていなかった。
教えたことは唯一つ、トイレの躾けのみ。
それも部屋を汚されたくないという理由だけだった。
もっともそのトイレの躾けも、
現時点ではまだまだ十分とはいえない段階だ。
その分の苛立たしさもあって、男は仔実装を理不尽に虐めていた。
理由もなく蹴ったり殴ったり、
餌も与えたり与えなかったり、
バケツから出してやらない日も、あったりなかったり、
とにかく男の仔実装への扱いは気まぐれで一貫していなかった。
そのわけのわからなさが、仔実装を常に緊張させていた。
普通に接していたかと思うと、突然殴るなど毎度のこと。
だから仔実装も蹴飛ばされた程度では、今では大げさに泣き喚くことはない。
そもそも泣くより先に逃げないと、さらに痛い目に遭わされるのだ。
男がテーブルの上にコンビニ弁当を広げた。
彼の今日の夕食だ。
仔実装がそれを見て涎を垂らす。
「テチー…」
仔実装は空腹だった。
餌は欲しい。
でも男は怖い。
仔実装は原始的な葛藤に苦しんでいる。
「テチュ」
答えが出たようだ。
ごはんをもらうテチュ。
ワタチがかわいくお願いすれば、きっとくれるテチュ。
空腹の苦しさが、実装石の幸せ回路をフル稼働させていた。
仔実装は男のそばへと近づいていく。
ビクついた足取りに不安が現れていた。
「テチー…」
仔実装が恐る恐る媚びる。男の返事は無視だった。
仔実装はさらに近づく。
「テッチュー…」
もう一度男に媚びる。その声には虚勢が混じっていた。
男が笑った。口の端だけを吊り上げる底意地の悪い笑い。
「ほらよ」
エビフライを摘んで仔実装の頭上に垂らす。
「テチッ!テチッ!」
仔実装が必死にジャンプする。
しかしエビフライは、仔実装がどうやっても届かない高さにあった。
「テッ!テチーッ!」
仔実装はジャンプを続ける。
しかしその目の前で、男はエビフライを自分の口に入れてしまった。
「テッ、テェェエエ!」
「残念でした」
「テッチィイーッ!」
仔実装の落胆が怒りに切り替わった。
男の足をポフポフと叩きだす。
「テチー!テチー!」
「なに怒ってるんだよ、バーカ」
男は仔実装を突き転がした。
「テ…」
ひっくり返った仔実装が身を起こす。
そこで男の右手に握られたモノを見て悲鳴を上げた。
「テチャァァアアアアー!」
男が持っているのは「孫の手」だ。
これが仔実装にとっては恐怖の象徴だった。
この硬い竹の棒の威力は、蝿叩きよりも数段強力だ。
仔実装はこの孫の手に、何度も手足を叩き折られているのだ。
さっきまでの怒りはどこへ行ったものか、
仔実装は男に背を向け逃げ出した。
逃げるテチ!
あの棒はすごく痛くて怖いテチ!
仔実装は必死で逃げているつもりだが、
そのよちよちと走る速さは、悲しいほどに遅かった。
男は孫の手を弄びながら、その後をゆっくりとついて行く。
「テチィ!」
すぐ真後ろを歩く男に気づき、仔実装が焦りだした。
死に物狂いで走るが、足がもつれ、かえって速度が落ちる。
案の定、派手に転んで仔実装は泣き出した。
「テェェエーン、テェェェエーン」
男が孫の手で仔実装を突付く。
「チャアアア!」
仔実装は怯えて激しく泣きだした。
それでも四つんばいのまま、這って逃げようとする。
仔実装の身体が不意に持ち上がった。
男が孫の手ですくい上げたのだ。
男はなかなか器用らしく、孫の手の先端を巧みに使う。
仔実装の身体が投げ出された。
床を転がる仔実装が起き上がる前に、また孫の手に引っ掛けて転がす。
転がしては放り投げ、放り投げてはまた転がし、男は仔実装を弄ぶ。
「テェェーン!テェェェーン!」
「テチュゥゥー!」
「テェェェエエエーン!」
「テピャァアアー!」
仔実装はなす術なく翻弄され、泣き叫び続けた。
男は仔実装を散々に転ばせたところで、ようやく開放する。
仔実装はふらふらした足取りで、また逃げ始めた。
「テッチ、テッチ、テッチ」
何度も転びながら、隠れ場所を探してよちよち走っていく。
男はその様子を笑って眺めていた。
まだ遊びは終わっていないのだ。
仔実装は棚の陰に隠れた。
「テチュ…」
しばらく隠れるテチュ。
ニンゲンが優しくなるまで待つテチュ。
一安心したところで、仔実装は僅かに顔を出して男の様子を窺う。
「テェ?」
目の前には大きな布の壁。
「おい」
男の声が真上から聞こえた。
見上げた仔実装と、男の目が合った。
「テチィィィイイイー!」
仔実装の知らない間に、男が至近距離まで近づいていたのだ。
「テッ、テッ、テェェエエ!」
仔実装は慌てて逃げ出した。
何度もつんのめりながら、今度は棚の下の隙間に潜り込む。
這ってしか入れない狭いスペースの奥まで進むと、
仔実装は頭を抱えて蹲った。
「テチ…テチ…」
身体が震え、糞が漏れ、歯はカチカチと鳴りっぱなしだ。
唐突な恐怖に、今頃になって身体が反応してるのだ。
しかし、仔実装は知っている。
今いる場所が決して安全な隠れ場所でないことを。
いや、この部屋に安全な場所など、どこにもない。
せめて、ここに逃げ込んだことが男に知られていませんように。
仔実装には、ただ祈ることしか出来なかった。
しかし、実装石が祈ったところで聞き届ける者などいない。
棚の下に孫の手が差し込まれた。
怯える仔実装の目の前を、孫の手が盲目の怪物のように、
手探りで獲物を探している。
「テェェ…」
仔実装はただ隅で小さく蹲っていることしか出来ない。
男は業を煮やしたように、ガツガツと荒っぽく棚の下を探る。
振り回した孫の手が仔実装の腕に当たった。
「テチュッ!」
小さな叫び。手応えアリだ。
孫の手の先端が仔実装を捕らえ、奥から掻き出してくる。
「テェェエーン!テェエーン!テェェエエーン!」
転がされ、引き摺られながら仔実装が泣き叫んでいた。
棚の下から引っ張り出された仔実装は怯えきっていた。
パンツを糞で盛り上げて、歯をカチカチ鳴らしながら震えている。
右腕がおかしな曲がり方をしていた。
孫の手が当たったときに、へし折られたらしい。
「テテチュ…テチテチ…」
男を見上げ小さく泣き続ける。
おそらく許しを乞うているのだろうが、男にはわからない。
それに、たとえわかったところで男が聞き入れる筈もない。
男が仔実装を孫の手で軽く殴った。
軽くとはいえ、手首のスナップが効いている。
仔実装は軽々と跳ね飛ばされた。
「テチャアアー!」
鼻血を出して転がっている仔実装に男が話しかけた。
「ほら、早く逃げないとまた掴まるぞ」
意味が通じたのかどうか、仔実装は起き上がりまた逃げ出していく。
「テッチ、テッチ」
よちよちと、また隠れ場所を探して走る仔実装。
隠れるなら静かに行動しなければならないのだが、
なぜかこの仔実装は走るときに声が出る。
おかげで居場所がまるわかりだ。
男は仔実装の後を、鼻歌混じりにのんびりと追っていた。
仔実装は困っているようだった。
なかなかいい隠れ場所が見つからないのだ。
後ろからは孫の手をヒュンヒュンと唸らせて、男が迫って来ている。
「テェェー…テェエエエー…」
仔実装はべそをかきながら懸命に走る。
しかし、目の前はもう行き止まりだった。
「テチ!」
困ったテチ。
逃げるところがないテチ。
立ち止まる仔実装。
その後頭部を突然強く突付かれて、仔実装は派手に転んだ。
「テチュ…」
涙目で振り向くと男がすぐそばまで来ていた。
しかし男はまるで気付いていないように、よそ見をしている。
今のはニンゲンじゃないテチ?
じゃあ、まだ気付かれていないテチ。
今のうちに逃げるテチ。
仔実装は方向転換すると、男のわきをもたもたと通り抜けていく。
男は仔実装が背中を向けたところで、また突付いて転ばせた。
「テチュッ!」
仔実装が頭を押さえながら振り向く。
男はまたもや知らん顔。
まだ見つかっていない、逃げるなら今だと、仔実装が走り出す。
こんな単純な手に何度も騙されながら、仔実装は走り続けた。
1時間近くもそんなマヌケな追いかけっこを続けて、
さすがに飽きてきた男はゲームを終了することにした。
「仔実装みーつけた!」
わざとらしく大きな声。
「テチィッ!」
それでも仔実装は飛び上がらんばかりに驚く。
「こいつーこんなところにいたのかー」
男は棒読み口調で仔実装を捕まえた。
「テェェエエエエーン!テェェエエーン!」
仔実装がこの世の終わりのように激しく泣きだした。
今まで自分が見つかっていなかったと、本気で信じていたようだ。
「さあ、おしおきだぞー」
もはや何のお仕置きか男も分からないが、
これから今日の仔実装遊びの締めに入るつもりらしい。
手をデコピンの形にして、仔実装に近づけていく。
「テチャァーッ!チャァァアーッ!」
その素振りだけで仔実装が悲鳴を上げた。
ニンゲンやめるテチ!
怖いことしちゃだめテチ!
やめてテチ!
やめてテチ!
おねがい、やめてテチ!
デコピン一閃。
「テチャアッ!」
さらに連続。
「テチチィッ!」
泣き喚く仔実装の顔面に、延々とデコピンを打ち込んでいく。
「チャッ!」
「テチッ!」
「テチュン!」
「テェェェエン!」
鼻血を吹き、歯が折れ、仔実装の顔がみるみる腫れ上がる。
「…テェ…」
「うわ、ブッサイクな顔」
ほとんど反応しなくなった仔実装を見て男が笑った。
男は仔実装をその場に放り出すと、また食事を始める。
「…テー…、テー…」
傷ついた仔実装は、床の上で丸くなって蹲るのがやっとの状態だった。
その日、仔実装に餌は与えられなかった。
2ヶ月が経った。
仔実装は紐に繋がれ、部屋の片隅で座りこんでいた。
その傍にはトイレの容器。
トイレでの排便が出来るようになった仔実装は、
今ではバケツに入れられることもなくなっていた。
だからといって、待遇が特によくなったわけでもない。
紐に繋がれての行動範囲がバケツよりマシになった程度で、
仔実装は相変わらず不条理に虐待される毎日を送っていた。
「テチー…」
仔実装は男の帰りを待っていた。
男は仔実装を何かと虐めるが、
それでもこの退屈と空腹が続く時間よりはマシだと思っていた。
おなかへったテチ。
ごはん欲しいテチ。
特に空腹はつらかった。
男の与える餌の量では、仔実装にはまるで足りていない。
仔実装の体格も、この家に来てから僅かにしか成長していなかった。
仔実装は自分を縛る紐を見た。
仔実装を繋いでいる紐は、荷造り用の丈夫な物だ。
何度も抜け出そうとしたが全て無駄だった。
仔実装は紐を睨みつける。
このヒモが悪いテチ!
きらいテチ!
仔実装が紐を引っぱりペチペチ叩く。
すると紐がポトリと落ちた。
壁のフックに結んでいた部分が緩んでいたらしい。
紐がほどけた仔実装は自由の身だ。
「テチュ♪」
やったテチ♪
これでどこでもいけるテチ♪
まず最初の目的地はキッチンの冷蔵庫だ。
あの箱の中には食べ物がいっぱいテチ♪。
みんな独り占めテチ♪
仔実装は冷蔵庫に一直線に向かって行った。
しかし冷蔵庫の前まで来て、仔実装は途方に暮れた。
冷蔵庫のドアの取っ手は、仔実装の背丈よりはるか上にあった。
どうあっても届く高さではない。
「…テチューン…」
目の前にそびえ立つ冷蔵庫を見上げ、仔実装は小さく鳴いた。
仔実装がすごすごと居間に戻ってきた。
空腹と落胆で歩き方にも元気が無い。
なにか食べるものはないかと、そこらじゅうを漁るが、
餌になりそうなモノは見つからない。
結局、ホコリまみれになるだけの結果に終わった。
「テチ…」
疲れきった仔実装の目に、もこもこしたモノが入ってきた。
男が座椅子に乗せて使っているクッションだ。
いつもニンゲンは気持ちよさそうに座ってるテチ。
きっとアレはいいものテチ。
仔実装はクッションのそばにやってくると、軽く突付いてみる。
柔らかい感触が返ってきた。
ふわふわテチュ♪
気持ちいいテチュ♪
仔実装はクッションが気に入ったようだ。
もぞもぞとよじ登ると、その上で飛び跳ねる。
「テッチューン♪」
「テチテチー♪」
仔実装には生まれて初めて体験する気持ちよさだ。
クッションの上で飛んだり跳ねたり転がったり。
仔実装は大喜びで遊び続けていた。
ふと仔実装の目が、テーブル脇の小さなクズ篭に止まった。
床の上とは違い、クッションの上からだと中身がよく見える。
仔実装はそこに飴の包み紙を見つけた。
見つけたテチ!
あそこにおいしいモノがあるテチ!
仔実装はクッションから飛び降りると、クズ篭に取り付く。
この小さな入れ物なら、仔実装の力でも何とかなりそうだ。
「テッチチー!テッチチー!」
仔実装が渾身の力を込めてクズ篭を押し倒す。
中からゴミがこぼれ出て来た。
仔実装は目の色を変えてゴミを漁る。
「テチューン♪」
飴の包み紙を見つけて歓声を上げると、夢中で舐め始めた。
僅かに残った欠片の甘さに仔実装は大はしゃぎだ。
次々と包み紙を引っ張り出して舐めまわす。
「テチュ?」
仔実装が何か別のモノに気付いた。
飴とは違う美味しそうな匂いのするモノ。
「テッチー♪」
仔実装はその塊を手に取って舐めた。
なんとなく甘酸っぱい味がする。
それはガムだった。
「テェーン♪」
大喜びの仔実装が舐めているうちに、ガムははどんどん柔らかくなっていく。
その感触に仔実装はさらに喜んだ。
ふにゃふにゃテチ♪
おもしろいテチ♪
仔実装はガムをこねて遊んでいた。
それがどういう結果を招くかも知らずに。
仔実装が異変に気付くまで、そう時間はかからなかった。
手からガムが剥がれない。
「テチュ?!」
仔実装は焦りだした。
やめるテチュ!
はなせテチュ!
しかし仔実装が暴れるたび、ガムは身体にくっついてきた。
顔にも、服にも、髪の毛にもガムがへばりつき、
さらにガムには、ゴミまでがくっついてくる。
すっかりガムに絡め取られて、仔実装が泣き出した。
「テェェェエーン!テェェエーン!」
ごめんなさいテチ!
もう放してテチ!
ゆるしてほしいテチ!。
ごめんなさいテチ!
仔実装は泣きながら必死にガムに謝る。
しかし当然ながら、ガムにそんな行為は通じない。
「テェェェーン!テェェエエーン!テェェェエエエーン!」
無人の部屋に、仔実装の泣き声だけが響いていた。
男が帰宅すると仔実装の泣き声が聞こえた。
仔実装が泣くのは珍しいことではないが、
今日の泣き声は少し様子が違った。
部屋に入ると、テーブル脇にゴミまみれで泣いている仔実装がいる。
――コイツ、勝手に紐から逃げ出しやがって!
男の眉が釣りあがった。
「おい」
仔実装を掴み上げるとベタつく感触。
男はすぐに事情を理解した。
――ははーん、ガムか。自業自得だな、ざまあみろ。
「テチューン」
手の中で仔実装が媚びてきた。
ゴミを顔にくっつけて、涙目で見つめてくる姿はなんとも惨めだ。
仔実装なりに必死なのだろう。
助けてもらおうと何度も媚びて鳴く。
「テチュー…テチューン」
しかし男はゴミ仔実装をぶら下げて、ゲラゲラ笑うだけだ。
「ウンコとかゴミとか、おまえってホントに汚れるの似合うわ」
「テェェェェーン!」
馬鹿にされたことは理解できたのか、仔実装がまた泣き出した。
「あーうるせー」
男は仔実装をクズ篭に放り込む。
その上から仔実装が散らかしたゴミも、どんどん投げ入れた。
「ゴミはクズ篭に捨てましょーね」
「テェェエーン!テェェエーン!」
クズ篭の底で仔実装が泣き叫ぶ。
しかし、男はもう仔実装に関心を払わなかった。
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