バケツの底で 後編
「テェェン、テェェェン」
翌日になっても仔実装はクズ篭の底で泣いていた。
空腹と疲労、ゴミの重さと周囲の暗闇。
今が昼なのか夜なのかもわからず、
男に助けを求めて泣き続けていた。
どのくらいそうしていたのか。
突然、クズ篭の持ち上げられる感覚。
やがて上からガサガサと音が聞こえてきた。
途端に仔実装の身体が強い力で引っぱられる。
「テチー!」
驚く仔実装を男が摘み上げていた。
照明がついているから、今は夜なのだろう。
男が無言で仔実装からゴミを引き剥がし始めた。
仔実装が痛みに暴れる。
「テチュテチュー!」
「うるせー、キレイにしてやるんだから暴れるな」
男はお構いなしに、どんどんゴミを剥がしていった。
一通りゴミを取り払うと、今度はガムだ。
だがガムはベッタリと仔実装に貼り付き、簡単には剥がれそうに無い。
――髪と服に付いてる部分は切っちまえばいいか。
男がハサミを取り出した。
髪を途中でばっさり切断。
袖も腕ごと切り落とす。
これで服は脱がすことができるようになった。
「テチャチャァアアアーッ!チャァアアアーッ!」
それにしても仔実装の泣き方が凄い。
いつもの怯えた様子ではなく、
どこか壊れてしまったかのように泣き叫んでいる。
「うるせー」
「テチャッ!テチャァァアーッ!」
男が強めにデコピンしたが仔実装の絶叫は止まらない。
――腕切られて狂っちまったかな…。
男は実装石の服や髪が再生しないことを知らなかった。
そしてそれが、実装石にとって命に等しい貴重な財産だということも。
もっとも、それを男が知っていたとしても、対応は変わらなかったのだが。
男はキッチンへ移動すると、作業を続行する。
身体と顔に付いたガムは、油で溶かして剥がすつもりのようだ。
仔実装の全身にサラダ油をかけて、
ガムが溶けてきたところで掻き落とす。
「チャアー!チャアー!」
仔実装が身をよじって暴れた。
傷や目に油が入り、そこをガシガシと擦られるのだ。
痛くないはずが無い。
ガムをすべて剥がしても、まだ終わりではない。
今度は油を落とす作業だ。
洗剤まみれの仔実装を、わざわざタワシで荒っぽく擦る。
「テェェエ!テェェ!テェェエーン!」
泣き喚く仔実装は、全身が真っ赤に腫れ上がっていた。
一通り作業を終えると、男は仔実装をまたバケツに放り込んだ。
仔実装は荒く息をつくのやっとだ。
「テー…テー…」
しかしその目には、また涙が滲んでいた。
手を切られて痛いテチ。
からだがヒリヒリするテチ。
髪の毛切られちゃったテチ。
服も切られちゃったテチ。
大事なものだったのにボロボロテチ。
全身の痛みに身動きも出来ず、仔実装はただ泣いた。
翌日、男は仔実装に服を返してやった。
仔実装が着てみると、服には袖が無くなっていた。
特に右側はガムの付き方がひどかったせいか、
肩の部分まで大きく布地が切り取られている。
裾もあちこち切り取られギザギザだ。
「テチー!」
「なんだよ、ガムくっつけた自分が悪いんだろが」
ニヤニヤと男が笑う。
実際、今の仔実装の姿はみっともない。
髪は右側だけが短く、両腕も無い。服もボロ布状態だ。
男が仔実装に鏡を見せた。
「よく似合ってるぞ」
「テェェェエエエエエーン!」
みすぼらしい姿に仔実装が激しく泣きだした。
ガムの一件から、仔実装の暮らしはまたバケツの中に戻った。
仔実装自身も懲りたのか、バケツの中でもおとなしくしている。
部屋の中は怖いテチ。
ここにいれば大丈夫テチ。
このバケツはワタチの家テチ。
バケツの中にいる間、仔実装は安全だった。
その安全な場所で小さく蹲り、仔実装はいつも考えていた。
あのニンゲンはひどいヤツテチ。
可愛いワタチにひどいことするテチ。
服も髪もボロボロテチ。
静かに燻る男への恨みつらみ。
しかし散々虐められたせいで、自分が男に立ち向かう力などまるで無いことも、
仔実装はよくわかっていた。
いつかここから逃げるテチ。
もっと優しいニンゲンに飼われるテチ。
仔実装はこの部屋から逃げ出すことを決めた。
ある暑い夏の日、チャンスが訪れた。
男が玄関のドアを開け放して涼んでいたのだ。
仔実装は男が部屋にいるときは、放し飼いにされている。
男の目を盗んで仔実装は、部屋の外へと出て行った。
仔実装は上機嫌だった。
これからの人生が明るく楽しいものになると、理由もなく信じて疑わなかった。
すっかり舞い上がっている仔実装は、通行人に片っ端から媚びて廻る。
「テチテチ♪」(ワタチを飼ってテチ♪)
「テチュー♪」(おいしいもの欲しいテチ♪)
時折、妙な姿の仔実装を構う者もいたが、
ほとんどの通行人は実装石など相手にしない。
バカバカしい計画と現実とのギャップに、仔実装は焦りだした。
「テテチテチー!」(ワタチはこんなにかわいいテチュ!)
「テチュテチュ!」(どうしてワタチにごはんをくれないテチュ!)
仔実装の態度も厚かましくなってきた。
ついには通行人の足をたたき出す。
「なんだコイツ?」
「テチィン!」
とうとう仔実装が通行人に蹴り飛ばされた。
蹴飛ばした男はそのまま歩き去る。
仔実装は信じられないという表情で固まっていた。
こんなつもりじゃなかった。
人間はみな自分に優しくしてくれるハズだったのに。
ひどいテチ!
みんなひどいニンゲンばかりテチ!
仔実装は自分の愚かさに気付かないまま、身勝手に怒っていた。
だから自分の幸運にも、当然気付いていなかった。
この場所が公園でなかったから、
たまたま出会った人間に、虐待派がいなかったから、
小さな身体の仔実装がまだ無事でいられたのだ。
しかしその幸運も、もうすぐ尽きそうだった。
結局、優しい人間はいなかった。
すっかり日も暮れ、辺りも暗くなってきている。
ひどく腹もすいてきた。
さすがに仔実装も不安を感じ始めた。
仔実装は夜道をとぼとぼ歩く。
母親も、男もいない、仔実装には初めての一人ぼっちの夜だ。
仔実装は部屋を出てきたことを後悔し始めていたが、帰りの道がわからない。
「テェ……」
不安が仔実装の我慢を決壊させた。
「テェェェエーン!テェェェエーン!」
大声で泣き始める。
それが危険を呼び寄せる行動だと、仔実装にはわからなかった。
「テチー」
後ろから聞こえた声に仔実装が振り向いた。
そこには野良の仔実装。
「テププ!」
仔実装を見つけると、その格好をみて嘲笑う。
変な服着てるテチ。
髪型も変でみっともないテチ。
「テッチン!」
仔実装が怒った。
元々、自分の格好に不満があった所に、
こうも露骨にバカにされては我慢が出来なかった。
「テチテチテッチー!」
仔実装が野良に向かっていく。
しかし、野良の手前までやってきて少々戸惑う。
野良は仔実装よりも身体が大きかったのだ。
仔実装は年齢で言えば、そろそろ成体に近づく頃だ。
しかし、男の与える餌が足りなかったせいか、発育がかなり遅れていた。
体格はいまだに仔実装のままだ。
「テ、テチ!」
自分が男に拾われてから、ほとんど成長していなかったことに、
軽くショックを受ける仔実装。
しかし、それと目の前の生意気な野良への怒りは別だ。
仔実装が野良へ飛びかかる。
「テテッチー!」
「テッチュー!」
たちまち取っ組み合いが始まった。
丸い手でお互いがポフポフと叩き合う、微笑ましい戦いだ。
能力的にはほぼ互角、いや仔実装のほうが若干有利のようだ。
「テテッ!テチュー!」
「テェェエーン!」
仔実装が野良を組み敷いてペチペチ殴る。
野良はとうとう泣き出した。
このまま勝負アリかと思われたその時、
仔実装は突然後ろから突き飛ばされた。
「テチュ!」「テチー!」「テッチュ!」
見知らぬ野良仔実装達が仔実装を取り囲んでいた。
その数3匹。おそらく泣いている野良の姉妹達だ。
形勢逆転だった。
仔実装と野良達は睨み合っているが、
圧倒的に不利なのは仔実装も理解していた。
4匹の野良が一斉に襲い掛かってきた。
たちまち一方的に殴られだす仔実装。
懸命に反撃しようとするが、数の差はいかんともしがたい。
野良実装石お得意のリンチは続いた。
ふとその場に大きな影が現れる。
「デス?」
成体実装石。野良の母親だった。
「テッチュー♪」
強力な味方の登場に野良仔実装達が歓声をあげた。
母親のそばに駆け寄ると、仔実装にけしかけようと騒ぎ立てる。
ママ、あいつをやっつけてテチ。
ママ、あいつに叩かれたテチ。
ママ、あいつは悪いヤツテチ。
「テェ!」
仔実装は一目散に逃げ出した。
成体実装石の相手など餌にされるだけだ。
「テチュ!」「テッチ!」
野良仔実装達がそれを追う。
逃げるなテチュ!
まてテチュ!
殺してやるテチュ!
野良仔実装達は狩りのように、仔実装を追い立てていた。
しかし、仔実装はその経験上、逃げ慣れしていた。
走る速度は遅くとも、隠れ場所を探すのは得意なのだ。
ヒョイと角を曲がると、民家の植え込みにすばやく隠れる。
野良仔実装達は仔実装を見失い、しばらく周囲を探し回っていたが、
やがてあきらめ去っていった。
仔実装は息を殺してじっと身を潜めていた。
かつて母親の言っていたことを思い出す。
――この世界は危険がいっぱいだから、
オマエはニンゲンの家で暮らすデス。
ニンゲンの家はいいところデス。
飼い実装石になって可愛がってもらうデス――。
母親は多くのことを教えてくれた。
野良実装石の危険。
虐待派の人間の危険。
その他の危険から身を守り、逃れる方法。
そして母親は仔実装の未来のため、男に託児をしたのだ。
ママ、ごめんなさいテチ。
仔実装は自分の浅はかさを後悔していた。
飼い主は意地悪だが、少なくとも自分を殺そうとはしない。
量は少ないが餌もくれるし、バケツの中では安全に眠れる。
仔実装は男の部屋のありがたみを理解した。
元の部屋に帰るテチ。
ニンゲンにかわいがってもらうよう頑張るテチ。
仔実装は用心深く道に出た。
野良実装石に見つからないように。
人間に見つからないように。
帰りの道はわからないけれど、一生懸命思い出してみる。
仔実装は歩き出した。
しかし、そう世の中うまくいくものではない。
意気込み空しく、仔実装はすっかり迷子になっていた。
「テチュ…」
道端にへたり込む仔実装。
もう1時間以上も歩き続け、やわな体力の限界だった。
そこに足音が近づいてきた。人間らしい。
仔実装にはもう逃げる元気はなかった。
「テェ…」
怯えて小さく泣く仔実装を、人間が掴み上げた。
「やっぱり…」聞き覚えのある声。
「テチュ?」
「どっかで見た格好だと思ったら…」
仔実装は飼い主の男に拾い上げられていた。
コンビニ袋をさげている様子から、買い物帰りのようだ。
「テェェェエン!」
緊張の解けた仔実装が泣き出した。
そこにデコピン。
「テチャッ!」
「なんか静かだと思ってたら、てめぇ脱走してたんだな」
ここで見つけるまで、仔実装の脱走に気付いていなかったらしい。
男の声は低く不機嫌だった。
しかしそれでも仔実装は男に甘える。
「テチューン、テチューン」
男は仔実装を乱暴に掴んだまま帰宅した。
部屋に着くと仔実装は、すぐにバケツに投げ込まれた。
バケツの中は狭かったが、今はとても安らぐ。
「テチューン♪」
ここは安心テチ。
せまいけれど1番好きな場所テチ。
ニンゲンも助けてくれたテチ。
やっぱりいいニンゲンだったテチ。
ワタチはここの子でよかったテチ。
仔実装は満ち足りた気分で眠りについた。
家出から連れ戻されてから、仔実装は男にやたらと甘えるようになった。
殴られても、蹴られても、その場は泣いて逃げ惑うが、
しばらくすると媚びてくる。
しかし、男はそんな仔実装に情を移す様子はまるで無く、
相変わらず孫の手で毎日殴っては楽しんでいた。
1ヶ月程が経ったある日、男の転勤が決まった。
新しい勤務先はここから遠く離れている。
しかも、会社で手配した引越し先のアパートは、ペット禁止だった。
もちろん実装石を飼うなどもってのほかだ。
引っ越す予定日は1週間後。
男は仔実装を捨てることにした。
残り1週間、男は仔実装に餌を与えなかった。
どうせ捨てる実装石だ。
そんなモノに餌をやるのは、金の無駄だと考えていたからだ。
臭くならないよう糞の掃除はするが、
たまに殴って遊ぶ以外は、バケツに入れっぱなしだった。
「テェェェン…テェェェン…」
空腹に耐えかね、仔実装が泣いている。
時折、糞を食べて空腹をまぎらわせているらしい。
「テチュン…テチュン…」
仔実装がバケツを叩いて男を呼ぶ。
出してくれと懇願しているのだろうが、男は相手にしなかった。
引越しの日が来た。
荷造りも既に完了し、あとは運送業者が来るのを待つだけだ。
しかし予定の時間までには、2時間ほどヒマがある。
男は仔実装を捨てに行くことにした。
バケツの中から仔実装を出してやる。
「テチュテチュー♪」
しばらくぶりに構ってもらえて、仔実装が無邪気に喜んだ。
しかし、男は仔実装をいつものように洗い、服を着せると、
そのまま小さなダンボール箱に詰め込んだ。
「テェェェエン!テェェェン!」
箱に閉じ込められて、仔実装が激しく泣いた。
男はダンボール箱を抱えて公園に向かう。
男の感覚では生き物を殺すのは悪いことだった。
保健所に送って死なせてしまうくらいなら、
野良として生きていくほうが良いと考えているのだ。
仔実装の能力も、性格も、育った環境も一切考慮していなかった。
公園に着いた男は、植え込みの中にダンボール箱を置いた。
すぐに男は立ち上がる。
箱の中でテチュテチュ鳴く仔実装に、餞別どころか、
一言の言葉すらかけずに、男は背を向け歩き去って行った。
もう箱は揺れない。物音も聞こえない。
「テチュ?」
ナニがどうなったテチュ?
仔実装は男を呼ぶ。答える者も当然いない。
「テェェェン…」
仔実装は小さく泣いた。
見知らぬ箱の中は落ち着かない。
こんなところからは出るテチ。
バケツのおうちに帰るテチ。
仔実装は脱出を決めた。
泣いたところで、出してもらえないことは経験上よく知っている。
箱の壁に向かい、仔実装は懸命にジャンプを始めた。
小さな箱が大きく揺れる。
何度か跳ねるうちに、バランスを崩した仔実装が壁に向かって倒れこむ。
仔実装の重さでも、小さな箱を転がすには十分だった。
「テチン!」
横倒しになったダンボール箱から、仔実装が転がり出てきた。
周囲は仔実装の知らない景色だった。
そこは公園の植え込みの隅。
少し離れたところには、野良実装石達がうろうろしていた。
その中にはいつぞやの野良親子の姿も見える。
「テ…」
大変テチ!ここは外テチ!
早くニンゲンの部屋に帰らないと、また怖いことになるテチ!
「テッチ、テッチ」
仔実装は走り出した。
人間、野良実装石、その他の動物。
外には危険がいっぱいだ。
仔実装は周囲に細心の注意を払いながら、よちよち走る。
部屋はどこかにあるテチ。
知ってるところを探すテチ。
仔実装は家出の時の記憶を思い出しながら、道を探して走り続けた。
人間の足ではほんの近くでも、仔実装にとっては大変な長距離だ。
仔実装が男の部屋の前までたどり着いた時には、もう日が暮れていた。
「テチュー!テチュー!」
玄関の前で仔実装が必死な声で鳴く。
ニンゲン、ただいまテチ。
頑張って帰ってきたテチ。
すごくつかれたテチ。
すごくおなかへったテチ。
はやく部屋に入れてほしいテチ。
仔実装はドアをポスポスと叩く。
空腹で力が出ない仔実装では、ノックの効果などまるでない。
あけてテチ。
あけてテチ。
おねがいテチ、あけてテチ。
はやく部屋に入れてほしいテチ…。
仔実装はがむしゃらにドアを叩き続ける。
しかし、どれほど叩いても、いつまで叩いても、ドアは開かなかった。
仔実装のドアを叩く腕が止まる。
小さな目にみるみる涙があふれてきた。
「テチ…」
仔実装はドアの前にちょこんと座り込む。
涙が滲んだ目でドアを見上げた。
ニンゲン寝てるかもしれないテチ。
すこし待ってからまた叩くテチ。
仔実装にはわからない。
ドアの表札が外されていることも、
窓から覗くカーテンがなくなっていることも、
仔実装には意味が理解できなかった。
男は仔実装を捨てに行った後、すぐにこの部屋を引き払っていたのだ。
深夜になり、雨が降ってきた。
どんどん激しくなる雨が、仔実装の全身をズブ濡れにしていた。
寒いテチ、冷たいテチ。
おねがいテチ、はやく部屋にいれてテチ。
おねがいテチ。
おねがいテチ。
仔実装はまたドアを叩きだす。
しかしその音は雨音にかき消され、仔実装にも聞こえない。
仔実装は考える。
ここからでは中には音が聞こえない。
もっと男に近い場所へ。
仔実装は居間の窓の側へと回り込んだ。
しかし、そこで仔実装は絶句した。
「テェ……」
大きな窓から見える部屋の中には、何もなかった。
暗い夜でも僅かな明かりで見通せるほど、部屋からは一切の物が消えていた。
ニンゲンいないテチ…。
バケツもないテチ…。
なにもないテチ…。
仔実装には引越しの概念はわからない。
しかし、自分が置いて行かれたことだけは理解できた。
「…テチュ…」
仔実装がその場にへたり込んだ。
身体に力が入らなかった。
張り詰めていたモノが、一気に切れたようにあふれ出す。
涙が、嗚咽が、ついでに糞が。
「テェェェェエエエエエエーン!」
ズブ濡れの仔実装が、顔をクシャクシャにして激しく泣きだした。
ひどいテチ!ひどいテチ!
おいていくなんてあんまりテチ!
せっかく帰ってきたのに、
頑張って帰ってきたのにあんまりテチ!
「テェェェン!テェェエエーン!テェェェエエエーン!」
仔実装は泣いた。泣くことしか思いつかなかった。
「テチュ…」
仔実装はひとしきり大泣きし、落ち着いてきたようだ。
しかし次に圧し掛かってきたのは、底無しの不安だ。
今後、飼い主の庇護無しで自分が生きて行けるのか。
それがほぼ無理なのは、仔実装にもわかっていた。
ニンゲンを探すテチ!
もういちどおねがいするテチ!
おねがいしてまた飼ってもらうテチ!
仔実装は夜道を駆け出して行った。
激しい雨の中を、仔実装が歩いていた。
その足取りはふらつき、弱々しかった。
ニンゲンどこいっちゃったテチュ…。
仔実装には男の行き先を知る方法はない。
元々、無謀とさえ呼べないような思いつきだ。
ただやみくもに走り回るだけの仔実装が、
自分の無駄足に気付くのに、そう時間はかからなかった。
「テェェ…テェ…」
仔実装は肩を落として歩く。
その視界に見慣れたものが飛び込んできた。
バケツだ。
「テッチュ!」
仔実装が走りよる。
間違いない。
自分の使っていた、あのバケツだった。
そこはゴミステーション。
男が引越しの際、不要なゴミとして捨てていったのだ。
「テチュテチュ♪」
親友に再会したかのように、仔実装ははしゃいでいた。
バケツにしがみ付き、頬擦りを繰り返す。
よかったテチュ。
ほんとうによかったテチュ。
これで安心テチュ。
もう大丈夫テチュ。
仔実装にとって、バケツは安心の象徴だ。
理屈など関係なく、仔実装の不安は消し飛んでいた。
今日は疲れたテチュ。
もう寝るテチュ。
このバケツは仔実装の寝床だったが、
背が高いのでこのままでは入れない。
仔実装はバケツのそばのゴミ袋によじ登った。
「テチュ♪」
おやすみなさいのつもりなのか、嬉しげに一声鳴くと、
バケツの中に飛び込んだ。
「テッチューン♪」
バケツの中は冷たかった。
「テチ!」
仔実装の胸の辺りまで、雨水が溜まっている。
これでは寝るどころか、座って休むことも出来ない。
「テェェェ…」
仔実装は落胆した声で小さく鳴いた。
しかし、仔実装の高揚した気分はまだ続いていた。
仔実装にとって、バケツと水は1セットだ。
毎日、男にバケツから出してもらう前には、
いつも冷たい水で洗われていたのだ。
いつもと同じテチュ♪
キレイになったらニンゲンが出してくれるテチュ♪
自分の妄想の不条理さに気付かず、仔実装は舞い上がっていた。
「テッチュー♪テチュチュー♪」
仔実装はバケツの中ではしゃぎ続ける。
調子外れの歌を歌い、パチャパチャと水で遊ぶ。
もうすぐごはんテチュ♪
もうすぐ遊んでもらえるテチュ♪
ニンゲン、はやく来るテチュ♪
雨はなおも激しく降り続けていた。
バケツの水位も徐々に上がってくる。
ついに仔実装の顔までが水に浸かりだした。
「テチィッ!」
開きっぱなしのA型の口に水が流れ込む。
口腔を満たす水の冷たさと息苦しさ。
仔実装はようやく気が付いた。
目の前まで迫っていた溺死の恐怖に。
「テチャァァアアーッ!」
仔実装が絶叫した。
雨はなおも降り続く。
その勢いは弱まるどころか、激しくなる一方だ。
バケツの中の水面でもがく仔実装の顔に、
マシンガンのような水滴が降り注ぐ。
「テテチィーッ!テチィー!」
仔実装の悲鳴は雨音にかき消され、誰の耳にも届かない。
どんどん増していく水かさに、仔実装の身体が沈んでいく。
仔実装はその身を浮かべるために、必死で水をかいた。
短い手足をバタつかせ、水面に顔を出す。
「テチュチュッ!テテチュッ!」
恐怖に引きつった顔が、何度も浮き沈みしていた。
涙と鼻水と涎と雨水が、仔実装の鼻と口に流れ込み、
さらにパニックに拍車をかける。
「テテチッ…ベフォッ!」
「テェェェーン!…ガボッ」
「テチュー!テェェェン!…ブホッ!」
浮き上がるたび、水を吹き出しながら仔実装が泣き叫ぶ。
もはやバケツは、仔実装の安らげる寝床ではなかった。
それは仔実装を閉じ込める水牢だった。
ひどいテチ!
大好きだったのにひどいテチ!
このバケツも悪いバケツだったテチ!
優しいバケツだと思ってたのに悪いバケツだったテチ!
このワタチを裏切ったテチ!
仔実装は水面をもがきながら、バケツを叩く。
泣き叫び、ありったけの力で、バケツを蹴る。
「テェェェン!テェェェエン!」
愚かにも仔実装は悲しんでいるようだった。
勝手にバケツに親愛の情を感じ、勝手に裏切られたと怒りをぶつける。
当然、バケツの反応などある筈も無い。
仔実装は無駄に体力を消耗しただけだった。
水かさは更に増した。
その深さは仔実装の背丈を完全に越えていた。
足のつかない水の深みで、仔実装はもがき続けていた。
「テチュ…テチュチュ…」
しかし、それにも限界が近づいていた。
空腹に加え、今日は走りとおしだったのだ。
仔実装は疲労しきっていた。
もうダメテチ…。
バケツさんごめんなさいテチ…。
もうゆるしてテチ…。
もう助けてテチ…。
バケツ相手に見当ハズレの詫びを入れながら、仔実装が水をかく。
しかしその動きが、徐々に弱くなってきていた。
仔実装の身体が沈んでいく。
「テチュッ!テチューッ!」
いやテチ!
こわいテチ!
死にたくないテチ!
死にたくないテチ!
死にたくないテチ!!
見上げる頭上には、波紋に揺れる暗い水面。
街灯の光がいくつにも分かれて光っている。
「テェッ…」
息苦しさに仔実装が小さく呻いたその時、
頭上の光が翳った気がした。
光を大きな影が遮っている。
目を凝らした仔実装は、そこに飼い主の男の姿を見た。
ニンゲンテチ!
来てくれたテチ!
迎えに来てくれたテチ!
やっぱりいいニンゲンさんだったテチ!
ありがとテチ!ありがとテチ!
ニンゲンさん大好きテチ!
仔実装が必死に水をかいて浮き上がる。
希望が仔実装に力を与えていた。
水面に顔を出した仔実装は男の姿を捜す。
男がいた。
いつものように男が仔実装を見下ろしていた。
いつものように男が手を伸ばす。
それはバケツから仔実装を取り出す動作。
「テチューン♪」
仔実装も手を伸ばす。
男の手にしがみ付こうと、力いっぱい手を伸ばす。
しかし、その手は宙を切った。
「テ…?」
すり抜けた手が空しく水面を叩く。
仔実装は男を見た。
男が笑う。口の端だけを吊り上げる底意地の悪い笑い。
仔実装の知る、たった一つの男の笑い。
そして男が笑うのは、仔実装を苦しめる時だけだった。
いつもの笑いを貼り付けたまま、男の姿が消えた。
引っ越した男がこんな場所にいるはずが無い。
男は仔実装のおめでたい頭が作り出した幻だったのだ。
手を伸ばしたまま、仔実装が水に沈む。
「…テェェエ…」
正気に戻った仔実装が泣いた。
しかし、もう手足は思うように動かなかった。
疲れた身体が重い。水をかくことが出来ない。
仔実装の身体がバケツの底へと沈んでいく。
水が冷たい。
息が苦しい。
身体が重い。
しかし何よりも、目に焼きついて離れない男の笑いが、
つらく、悲しい。
仔実装が男に大切に扱われたことが、一度でもあっただろうか。
仔実装が男に愛されてると思えたことが、一度でもあっただろうか。
なかった。
あるはずがなかった。
男にとって仔実装は、泣かせて遊ぶ道具でしかなかった。
家出した仔実装を連れ帰ったのも、自分の落し物を拾っただけだ。
仔実装がどんなに懐いても、どんなに甘えても、
男は何一つとして応えなかった。
男の中に仔実装の居場所は、最後まで作られることはなかった。
なによりそれは、仔実装自身がいつも肌で感じていたことだ。
いい子にしたら優しくしてもらえる。
一生懸命に頑張ったら大事にしてもらえる。
ニンゲンは本当は、優しい良いニンゲンのはずだから、
いつか必ず、自分を大切に可愛がるようになる。
自分はきっと、ニンゲンに幸せにしてもらえる。
…でも、してもらえなかった…。
いつも虐められた。
餌ももらえなかった。
服も髪もボロボロにされた。
そして、捨てられた。
冷たい現実の前では、仔実装はもう自分を欺くことはできなかった。
男が仔実装を助けることはない。
「テェェェエエエーン!」
仔実装が泣いた。
だがその涙も、声も、体温も、冷たい水に吸い取られていく。
「テェェエエーン!テェェェエーン!テェェェエエエーン!」
それでも仔実装は泣いた。
水の底に横たわる自分が出来ることはこれしかないと、
自分を捨てた男に、この悲しさの声を届けようと、
仔実装は残り少ない息の全てを使って泣いた。
しかしその泣き声は僅かに水を揺らしただけで、すぐに雨音にかき消された。
仔実装は冷たいバケツの底で死んだ。
男の部屋へ来た日と同じように、バケツの底に横たわっていた。
翌朝は、昨夜の雨が嘘のように晴れていた。
ゴミステーションの前に、ゴミ収集車が止まった。
職員が手際よくゴミを回収していく。
職員の一人がバケツを手に取った。
中には汚らしい緑色に濁った水が溜まっていた。
汚水が路上に投げ捨てられる。
ごみ収集車が去った後には、糞混じりの汚水にまみれた、
ぶよぶよにふやけた仔実装の死体が転がっていた。
それは程なくして、カラス達についばまれ、野良実装石に貪り喰われ、
やがて跡形もなく消えた。
戻る