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Peaceful Days -1

Peaceful Days -1

 着慣れない服が自分の身に及ぼす息苦しさを、一人になってから不意に感じた。堅苦しさの代表のように存在する襟に指をかけ、緩めようとして止める。
「……ま、いいか」
 肌を掠める風は穏やかで清々しい。単にこういった場所で不用意に着崩れる面倒よりも、深呼吸を選んだだけなのだが、様々な意味で間違いはないだろう。
 気晴らしに辺りを見渡すと、数人の同年代らしき男子生徒が遠くに見える。じゃれあいながら、楽しそうに会話を交わす少年たちを、見るとも無しに遠目に眺めた。
 これから自分があの中へと入ってゆくのかと、妙に実感の伴わないまま、その姿を頭の中に浮かべてみる。
「……」
 想像が付かない、と微かに眉を寄せていると背後から「京」と、自分の名が聞こえ、呼ばれるまま振り返った。
 廊下の先のを歩いてくる影が、自分に向かって軽く手を挙げている。通常とは少し違う経緯で入学する息子のために、各種手続きや説明を聞き終えた母親が戻ってきたのだ。
「終ったわ、お待たせ。あとは入学式を待つばかりね」
「うん」
 開いた窓から、またそよそよと風が舞い込んでくる。木々の枝を揺らした風は新緑を躍らせ、風化に耐えた外壁に美しい模様を絶え間なく描いていた。
「本当にここって素敵な学校ね」
 私立らしさを感じさせる、重厚で歴史的な石造りの建物を見ながら、月乃 京つきの きょうの母親、沙耶さやは感心したような声で呟いている。
 主な外観と柱などは石造りだが、職員室の前の廊下は、深みのあるオーク材の仕上げだ。腰壁はアラベスク模様のボーダーが走り、壁と天井の境には漆喰による瀟洒なコーニスが廻っている。長い年月を経て飴色に光った木材は、その学校そのもののにかけられた期待を表す様に、上品な重みを充分に感じさせた。
「……うん」
 付き合い程度の返事をする感情の起伏の見えない息子を見て、母は彼によく似た顔でおっとりと微笑んだ。
「京……」
「……?」
 風に少しだけ乱れた黒髪を、軽く撫でられながら名を呼ばれ、疑問を隠さず首を傾げる。
「ありがとう。京が帰ってきてくれて嬉しいわ。……やっと一緒に住めるわね」
 素直に喜びを表す言葉に照れたのか、珍しく京が白い頬を淡い色に染めた。それを見た沙耶が、幸せそうな微笑を浮かべた事は言うまでも無い。
 校門を出て、春先の優しい気温に包まれた通学路をゆっくりと二人で歩く。
 両脇には桜の樹の大木が並木を作っている。あと数日で一斉にほころび始めるだろうピンクの蕾は春風に揺れ、訪れる艶やかな満開を心待ちにしているようだ。
 この道を通り、京は日本で新たな学生生活を始めることになる。
「ね、本当にこの学年でよかったの?」
 帰路の途中、不意にそんな事を問われた。
 京がアメリカで取得した飛級の事を指して言っているのだとすぐにわかったが、小さく首を振って、このままでいいと答えた。
「こっちの事……全然解らないから」
 家族と一緒に住めるようになった今、京が急いで『大人』になる必要はない。特殊ともいえる環境から抜け出した京にとって必要なものは、年相応の事に慣れ親しんでゆく事なのだろうと思う。それには沙耶も同意見らしく、そうねと頷いてくれた。
「急ぐ必要は無いものね……」
 柔らかに微笑む沙耶の顔を見て、京は一つ頷く。
 都内でも進学校として名高い私立中学に、帰国子女枠で入学した京だが、最近までアメリカで生活していた事以外、特に口外しないという約束を学校側と交わしている。様々な状況からみて、それが最善の方法だと、双方で納得し出した答えだった。

 晴天に恵まれた入学式。桜並木が満開の花を揺らし、新しい門出を喜んでくれているようだ。
 掲示板に張り出された一覧を見て、自分がAクラスであることを確認した京は、母親と二人、他の父兄や生徒たちと混ざりながら、旧校舎にある1年生の教室へと向かった。
 幼い頃に遭った事故以来、京は成長をやめてしまったかのように他の生徒たちと比べて見て頭ひとつ小さく、そして哀しくなるほど細い。そんな息子を見て、沙耶は上手くやってゆけるだろうかと、一人心配で仕方が無かった。
 アメリカでの生活は、なんとか京の「声」を取り戻してはくれたが、身体の成長までは時間が足りなかったのは事実で、こればかりはどうしようもない。
 それでも、遠い異国で過ごしていた息子が自分の為に戻ってきてくれた事は何よりも嬉しい。これからは、過ごせなかった家族四人の時間を取り戻せるのだ。
――背だってすぐ伸びるわ。そしてもっともっと元気になる……。
 息子の好きなものを沢山作ってあげよう。そして、皆で沢山遊びにいって、楽しい時を一緒に過ごそう。そうすればまたあの頃のように、屈託無い笑いを取り戻してくれるに違いない。
 沙耶は教室内を見渡し、生真面目に前を向いて担任の話を聞いている息子の姿に、にっこりと微笑んだ。


 新学期が始まり、一週間が過ぎようとしていた。
「お友達は出来た?」
 沙耶の言葉に、京は何かを考えるように少し上を向き、ちょっとだけ首を傾げた。
「あら」
 決して社交的ではない息子の性格を知っている沙耶は、急がなくても大丈夫よと、コツンと額を付き合せ、そっと抱きしめてやる。
 中学に上がった子供へのスキンシップにしては過剰とも思うが、京が置かれた境遇は特殊過ぎて、彼の心の傷を思えば、触れる事による親の愛情は必須だった。
 しかも沙耶には、二度目の手術が控えている事情があった。離れる物理的距離は今までとは比べ物にならないほど近いが、入院となれば、また京に寂しい時間を過ごさせてしまう事になる。
――ごめんね、ありがとう。
 沙耶は自分の為に戻ってきてくれた息子に、心の中でそっと告げた。
「……Watch television」
 しばらく抱きしめられるがままになっていた京が、突然ポツリと言った。まだ頭の中が英語なのか、油断している家の中では、日本語よりも英語が出ることが多い。
「あら珍しい」
 コンピューターと海ばかりが好きで、あまりテレビ等の娯楽的なものに興味を示さなかった息子が、日本に来て、正確には中学に行くようになってから、良くバラエティなどのテレビ番組を観るようになった。
 面白いかと聞けば、よく解らないという返事をするので、どうやら今の日本では、どんなものが流行っているのか、懸命に覚えようとしているようにも見える。
「がんばれー」
 リモコンを操り、目的の番組を探している小さな背中に声援をコッソリ送る。
 真面目で不器用なのは父親譲りか。それでも懸命に現状へ馴染もうとする努力が微笑ましい。
 頑張る息子と、頼りになるしっかり者の娘。そして長い出張からようやく帰宅する夫の為に、今夜は特別に美味しい食事を作ろうと、沙耶は張り切って食材を手にした。
 リビングのほうから、楽しげではあるが、あまり上手いとは言えない女の子たちの歌声が、リズムに乗って聞こえてくる。ワンコーラス途切れることなく聞こえてくる所を見ると、京のお目当ての番組が見つかったらしい。沙耶はフフ……っと微笑を浮かべた。
 両親が一番に心配していた事は、京の体力的な問題だった。事故による肉体的な後遺症や、精神の傷をそのまま表した様に成長が遅い小さな身体は、事実を知るだけに痛々しく、保護者として居た堪れない気持ちにさせられる。
 アメリカに居た頃の京には、それらの問題を常に身近にいて上手くカバーしてくれる、ジェームスという頼もしい存在が居てくれたお陰で、極端な心配は無かったのだが、日本ではそうもいかない。慣れない環境で、友人の一人も居ない孤独な状態から始めなくてはならないという、非常に難しい現実が待っていた。
 しかし、実際に通学を始めて一番困ったのは、意外にも『言葉』の問題だった。
 京にとって日本語という言語は、歳相応に読み書きでき、解らない訳でも話せない訳でもない。しかし、通りの良いゆっくりとした喋り方をする父親と、穏やかな母親の言葉に聞き慣れた日本語は、同年代の少年少女が口にする、独特な流行語と早口のスラングが耳慣れなく、且つ意味が解らないものが多過ぎたのだ。
 かなりの注意を持ってヒアリングをしても、彼らの話す大概の言葉が、己の知るはずの言語とは似て非なるものに響き、意味を記憶と照合しているうちに話題はどんどんと先へと流れていってしまう。
 テレビなどを見て、意味や語感を掴もうと努力はしていようだが、普段から極端と言って良いほど口数の少ない京には、何かの問いかけに対しどのような『日本語』で返せば良いのか、咄嗟に繋げる事は非常に難しい。ボキャブラリーの不足を最大の原因とし、ノリの良い返事をする事は不可能に近かった。
 それほどまでに月乃京という少年の頭が、英語に染まってしまっているという事になるのだが、相手に言葉の不便を無言でアピールできる、肝心の見た目というものが、どうしようもなかった。黒髪と黒い瞳は肌の白さをもってしても、日本人である事に疑いようもなく、事実京の国籍は日本である。これがせめて青い目や金色の髪ならば、多少相手もそれなりの気構えで接してくれていただろうが、それも無理な相談だった。
 クラスメイトが次々に新しい友人やグループを作ってゆく中、京はひっそりと孤立してゆく。京自身も、この状態は好ましくない。なんとかしなければいけないと、頭では解ってるようだが、特に寂しいとも感じないし、独りのほうが楽だという気持ちがどうしても強く、積極的になれない。
 仲の良い友人達の死を間近にし、自らも酷い怪我を負い生死の境をさまよった。優しかった大人の、暴力的な豹変を目の当たりにした京には、既に他人との接触を拒むような厚い壁が心を頑なに覆ってしまっていたのだ。

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