今日の貴方への言葉
貴方に、心の安息を・・・為して明日への活力に。
2001/10/19
たとえば、小さな頃に犬に噛まれたという経験をしたとします。
そのときの痛みや怖さは、いつまでも心のなかに残っているのかも知れません。
大人になった今でも、犬が怖くて近づけないという人もいるでしょう。
それが小さな犬で、恐れることはないのだとしても、心のどこかには犬を見るたびに、噛まれたときの恐怖が、また蘇ってくるのです。
そんな恐怖を抱いていると、犬もまた恐怖を感じてしまい、こちらに向かって吠えてくるということもあるでしょう。
私たちは、ますます犬に対して恐怖を感じることになりますが、その現実は、自分自身が創りあげたものだと言えるのではないでしょうか。
恐怖は、そこから逃げだそうとすると、ますます私たちを追いかけてくるもののようなのです。
本来、恐怖というものは、私たちにとって役に立つものなのです。
それは肉体的あるいは心理的に危険を察知し、私たちに警報を与えてくれるためにあるのです。
この警報をキャッチすると、身体のなかでは交感神経が活性化したり、内分泌系ではアドレナリンなどのホルモンが分泌され、危険に対処できるように神経が敏感になったり、筋肉が緊張したりするのです。
だからこそ私たちは、それ以上の危険を避け、生き延びていくことができるのですね。
ところが、ときに私たちは実際の状況ではなく、自分の心のなかにある危険に反応してしまうことがあるようです。
先ほど見た、犬に対する恐怖のように、もう恐れる必要もない場合にさえ、いつまでも条件づけられた恐怖を持ち続けることさえあるのです。
そんな恐怖は、私たちが小さくてまだ弱かった頃に、自分自身を守るために掴んでいようと決めたことが多いのですが、ずっとしがみついていたために、
今度はそれを手放すということも恐怖の対象になってしまうようです。
そこでの問題点は、そんな恐怖心は危険を避けようとするだけでなく、私たちが、よりよくなっていくことや、何かを達成しようという積極的な意識にも、その邪魔をしようとすることなのです。
何であれ自分に変化を起こす状況を避けようとしてしまうようです。
もちろん、恐怖を感じることは、私たちが生きていくために必要なことなのですから、どんなときにも恐怖を感じるべきではないということではありません。
ただし、どんなときでも恐怖心に支配されてしまっていることは、自分の世界を限定することになってしまいます。
本当に必要なのは、心のなかの恐怖を支配することにあるようです。
「勇気」とは、恐怖心を無視することではなくて、何を恐れ避けることに意味があって、今、何をすることが大切なのかを感じることなのではないでしょうか。
私たちが何度も感じる恐怖のほとんどは、それを避けようとして自分が創りあげているのですが、本当は自分自身がそれを克服することを望んでいるからなのです。
それは、 「もう自分は、それを乗り越えるだけの力があるよ。
もっと自分を信頼して、もっともっと成長しようよ」という、自分自身からのメッセージなのかも知れませんね。
本当の「勇気」とは、「自分自身を信頼すること」だということのようですね。
2001/10/18
一休禅師のところへ、ひとりの老人が尋ねてきました。
「私は今年80で歳になるのですが、いつお迎えがくるのかと思うと、不安でなりません。
できればもう少し長生きがしたいと思うのです。
つきましては、長く生きられるようなご祈祷をしていただけませんでしょうか」
一休さんは、こう言います。
「よかろう。 ところで、どのくらい長生きがしたいのだ」「はい、もう20年ほど生きていられたらと存じます」
と老人が答えます。
「これは欲のない人だ。本当に20年だけでいいのかな?」 一休さんが、あきれたように言うと、老人はびっくりして、
「そ、それではあと40年くらい、長生きできるようにしていただきたい」 と答えます。
「ほう、40年か・・・ますます欲がない人じゃのう」 「では、あと100年ではどうでしょう」
老人が思いきったように言うと、一休さんは、こんなことを教えました。
「ご老人、考えてもみなされ。
あと50年や100年、よけいに生きてみたとして、いったい何になる?
そんな小さなことを望むくらいなら、どうして永遠に生きようという大きな欲を持たぬのじゃ。
仏の教えを学び実践することは、我々が真理に目覚め永遠に生きるためにある。
どうせなら、そんな大きな望みを抱いてはどうだ。もちろん、今からでも決して遅くはないぞ」
老人は、一休の教えに心から感服し、その後は仏の道を学び、心安らかな人
生を生きるようになったということです。
「永遠に生きる」というと、何だかとても大げさなような気がするかも知れませんね。
また、仏の教えの真髄に触れるのもちょっと難しそうな感じがします。
でも、もし私たちが、自分の人生に満足して一生を終えることができるのなら、それはまさに、「永遠に生きる」ということと同じことなのではないでしょうか。
なぜなら、そんなふうに毎日が充実していれば、とても密度の濃い人生を送ることになり、もはや人生の長さなどは気にならなくなるでしょうから。
こちらの方が、実感しやすいようですね。
たとえば、かつてブッダが弟子たちにこんなことを問うたことがあります。
「人生の長さは、どのくらいあると思うかな?」
当時は、50年も生きれば長生きだとされていたような時代ですから、誰かが、「50年」とまず答えました。
ブッダは、微笑んで、言いました。 「違うな」
すると弟子たちは、口々に答えます。
「40年」
「30年」
そのたびに、ブッダは、首を振り続けます。
「それではいったい、どのくらいなのです?」 しびれを切らした弟子のひとりが、たまらずそう聞き返しました。
ブッダは、こう答えました。
「人の命は、一呼吸する間しかないのだ」
そう・・・
過去や未来に、心をとらわれることなく、ただ「今」自分のまわりのすばらしい景色を感じ、自分が楽しいと思うことをやってみる。
そのときそのときを楽しみ、「今」を生きていれば、そんな充実した瞬間の積み重ねが、充実した人生を創りあげるのですよね。
自分自身でいて、「今」を楽しむということが、いちばん大切なのですね。
それが、自分という、他のどんなものとも比べることができない、すばらしい花を咲かせることになるのでしょう。
まずは、自分がワクワクすることをはじめるということから、やってみまし
ょうか。
2001/10/15
やっぱりあたしは体だけ?
「 恋人がいる人 」
「 昇格者と脱落者 」
「 やっぱりあたしは体だけ?
」
今回の事例はこのお話です。主人公はUちゃん、2?歳。
あたしが好きになった人には彼女がいました。
でもそれを知ったのは、彼のことを好きになった後でした・・・。
彼は仕事関係の人で、あたしに優しく、面倒も見てくれ、お酒にもよく誘われました。
彼女がいるなんて知らなかったし、お互い意識してるのも感じたし、あたしはこのまま恋人になれるような気がしていました。
ところが、ある日一緒にご飯食べてるときに、普通に彼女の話をされてしまったのです。
それで初めて彼女がいることを知りました。
・・・どうしようか悩みました。
でも、彼女に勝てなくてもいい遊びでもいいから、相手にして欲しいって思い、自分の気持ちを隠さずに接しようと決めました。
そしてそれからも、何度か食事をしたりお酒を飲んだりしました。
会った後、別れ際に「また会おう、電話する」とは言ってくれるのですが、いつも連絡はありませんでした。あたしが心配になってメールを入れると、電話くれたり予定を立ててくれるのですが、この繰り返しが多くて不安な日が続きました。それであたしは、連絡をするのをやめてみたのです。
このままもツライので・・・。
そしたら、彼から電話がきて「逢おう」って言われました。
その日、逢って食事した後に、いきなりホテルに誘われたのです。
どういうつもりで言ってるのか聞いてみたら、「彼女と別れることはできない
けれど、Uを抱きたい」って・・・。彼なりに迷って電話できなかったみたい
でした。
悲しいし迷ったけど、彼について行きました。
その後、彼から電話やメールがくるようになり、時々逢ってホテルへも行く
ようになりました。これってやっぱり、体が目的なのでしょうか・・・?
男の人って一度抱いた女のこと、どう思うんでしょう?
▼ 恋人がいる人 ▼
実はUちゃん、この半年後に彼とお別れしてしまいます。
中途半端な関係を続けていくのが不安でツラくなり、Uちゃんからお別れを告げたのです。
そこで、Uちゃんの疑問を考える前に、ひとつだけ・・・。
Uちゃんにもしも間違いがあるとするなら、最大の誤りは、「彼に彼女がいると知って、彼女に勝てなくてもいいから・・・」と思ったことではないでしょうか?
好きな人に恋人がいる。
それは当然のことなのです。
自分が「この人なら」と思って好きになった人なのです。
そんないい人を、他の人が放っておく方がおかしいと思いませんか?
好きになった人に、恋人がいない方がラッキーなのです。
▼ 彼の心理 ▼
彼女がいるのに、Uちゃんを誘った彼の心理を考えてみましょう。
・・・単なる浮気虫です。
と言ってしまうとミもフタもありませんね。えぇっと・・・
彼女に何らかの不満があった、もしくはマンネリ気味であった。
というのが一般的な解釈でしょう。
そこへ気の合うUちゃんが現れた・・・、と考えれば仲良くなるのも頷けます。
実はこういった状況、実際に経験した方も多いと思います。
そこで普通は、ある程度の仲になった段階で、Hの関係になるかどうかの別れ道があります。
これまた、実際に経験した方もいらっしゃることでしょう。
その後どうなるのか・・・?
恋人へ昇格するかしないかの別れ道があるのです。
完全に男と女の関係になり、全てを含めて相手を判断するようになるのです。
▼ 昇格者と脱落者 ▼
この違いはどこから生まれてくるのでしょうか?
大きく分けて脱落する場合には、二種類があります。
完全にダメな場合と、おしいけどダメな場合です。
完全にダメな場合は、ご愁傷様・・・という他ありません。
ですから、ここではお話しません。
肝心なのは、「おしいけどダメ」な時です。
考えてみてください。
何年か付き合っているような恋人がいるときに、新しい人が現れました。
あなたは恋人とすっぱり別れて、新しい人へいけますか?
明らかに新しい人が全てを上回るなら、それもできるかもしれません。
しかし、そうではないなら、これまでの人にある「情」のポイント分だけ、確実に負けてしまうのです。
そのハンデ分、背中を誰かに押してもらうか手を誰かに引いてもらうかしなければ、
新しい人にはいけないのです。
Uちゃんは、彼の手を引いていたのでしょうか・・・?
僕には疑問が残ります。
▼ やっぱりあたしは体だけ? ▼
思っていること、気持ちは相手に伝わります。
「彼女に勝てなくてもいい、遊びでもいいから」
そう思った気持ちは、きっと彼にも伝わったことでしょう。
そしてそれは、彼の手を引くのでなく・・・
後ろ髪を引いてしまった
に違いありません。
「絶対にあたしが彼女になるんだから!」と思っていたなら、結果は変わっていたかもしれないのです。
・・・わかりますか?
もしも、彼がUちゃんを体だけの相手としてしまっていたなら、そうさせたのは
Uちゃん自身かもしれない・・・ということです。
体を重ねた後に、また逢える相手。
Uちゃんは、「完全にダメだった人」ではなかったはずなのです・・・。
「男の人って一度抱いた女のこと、どう思うんでしょう?」
男は一度抱いた女を「もう一度抱きたい」と思うか、「もう逢いたくない」と思うか
のどちらかです。そしてそれは、女性も大差ないのではないでしょうか・・・?
何度でも僕は言います。
プラス志向が大事です。
なりたい将来を、希望を、夢を描いて、それに向かって進んでいきましょう。
2001/08/30
アジア人としてはじめてノーベル賞を受賞したインドの詩人タゴールが、かつてガンジス河に舟を浮かべたときのことです。
とても静かな夕暮れで、聞こえる音といえば船べりにはじける水の音だけでした。
西に傾いた夕日が、優しく水面を輝かせています。
タゴールは、ガンジス河のその壮大さにすっかり心を奪われていました。
ふとそのとき、1匹の魚が河面を打って飛び出し、舟を越えていきました。
きらりと光った銀輪の余韻が、波紋となって広がっていきます。
タゴールは、感動して思わず叫びました。
「これこそ自然だ! なんてすばらしいんだろう!」
タゴールのは、悠久の時を超えたガンジス河の荘厳な神秘さに強く心を打たれたのでした。
ところが一緒に乗っていた船頭は、残念そうにこう叫んだそうです。
「なんてこったい。あの魚が舟のなかに落ちてくれりゃよかったのに・・・もったいないことをしたぜ」
同じ世界を生きていたとしても、タゴールと船頭では、受け取り方がかなり違っていたようですね。
いくらすばらしい音楽や絵画があったとしても、聞いたり見たりする側が、それを受け取らなければ、何の意味もありません。
本当にその音楽や絵画を楽しもうと思えば、そのすばらしさをちゃんと受け取れるだけの感受性を大事にする必要があるようです。
専門知識や理論など知らなくても、いいものをただすばらしいと感じたり、心に響くものに感動することはできますよね。
これは幸福に関しても同じなのではないでしょうか。
いくら私たちが恵まれていても、しあわせのタネを与えられていても、それを感じる感性がなければ、やはり受け取れないことになっています。
ちょっと考えてみてください。
「今持っていないもので、これがあったら、もっと幸福になれる」と思うものが、どれだけありますか?
「お金」
「恋人」
「車」
人によっては、答えはいろいろあるでしょう。
その「ない」ものを手に入れていくことも幸福を感じる道ですよね。
では、
「今あるもので無くなると困る」そう思うものは、どれだけあるでしょうか?
ちょっと思いつくものを書いてみても、「空気」「水」「手や足」「命」「家族」「仕事」「テレビ」「お酒」
「映画」「本」「パソコン」・・・これはいくらでも挙げられるようです。
よく、
「別れてみて、はじめてあの人の大切さがわかった」とか、「無くしてみて、やっとありがたみを知ることができた」などということも聞きますね。
今、自分に与えられているものを感じることも幸福につながる道のようです。
どちらにせよ、「ない」ものを見るのではなくて、「ある」ものに気づこうとするこころが大切になるのですね。
それが幸福を感じる感性なのではないでしょうか。
「幸福の花」というものは、いろいろな草の生い茂る草原に小さく生えているようです。
よく探さないと、すぐに見逃してしまいます。
でも、よく見てみるとあそこにも、ここにも、たくさん生えていたことに気づくようになるのです。
そして、気づけば気づくほど、どんどん数多くみつかるようになるばかりか、だんだん大きな花が咲いてくるということです。
2001/08/20
なかなか思うようにいかないのが人生です。
恋人ができたと思っても、ふられてしまうこともあります。
成績が上がったとよろこんでいても、また下がってしまいます。
やっと就職できても、リストラされるかも知れません。
健康でいても、ケガをしたり病気にかかったりします。
でもこんなふうにも考えられますね。
ふられたとしても、もっとすばらしい恋人と出会うことができます。
成績が下がっても、がんばればまた上がっていきます。
リストラされても、就職活動を通していろいろな世界を知ることになるかも知れません。
ケガや病気は、いつかは治りますし、その経験で健康のありがたみが身にしみます。
このように「いいこと」と「悪いこと」は必ずペアになってやってくるようです。
また、「悪いこと」と思っても、実際はそのことと出会ったために大きな気づきがあったり、結果的にはその方がよかったということも多いようです。
だとしたら、何が「いいこと」で何が「悪いこと」なのかは、一概には決められないものかも知れませんね。
というよりも、そんな山と谷とを繰り返して進みながら、いろいろな経験をしていくことこそが私たちの成長なのかも知れません。
私たちがどこにいても、今の自分の環境や毎日出会う出来事を楽しむことができます。
たとえば、今が山道を上っているところで、とてもしんどくても山頂からの眺めを楽しみにがんばって進んでいくことができます。
決してあせる必要はないのです。
ただ、今目の前に広がるのそのすばらしい景色を楽しんでいけばいいのです。
また、下り坂にさしかかって、下を見れば暗く深い谷底しか見えなくても心
配したり、この道を選んだことを後悔する必要はありません。
いつかはまた上っていくことができますし、谷底でしか味わえない貴重な経験もあるのですから。
うまくいかないことがあるから、うまく行くように考えたり努力したりします。
失敗したり否定されるからこそ、今まで気づかなかったことを発見することもできるのです。
「いいこと」も「悪いこと」もすべてのことは、それらの経験はすべて私たちが大きくなっていくことにとても役に立つ経験となるのです。
たとえ落ち込んでも絶望したとしても、私たちがやめない限りは、どこまでも前に進んでいくことができるのです。
もちろん、その先にあるすばらしい目的地にたどり着くために私たちは生まれてきたのでしょう。
でも、その過程の方がもっと大事だということも、往々にしてあるようですよね。
2001/07/31
もう引退されましたが、米大リーグのロサンゼルス・ドジャースにラソーダという名監督がいました。
ドジャースは、ラソーダ監督が指揮をとりはじめるといきなり2年連続でリーグ優勝をしたり、監督の在任中にワールドシリーズを2度征するなど、とても強いチームに生まれ変わることになったのです。
「どうやってこんな強いチームを作ることができたのですか?」
そう聞かれるたびにラソーダ監督は、
「それは、ふたつのことばを選手に言い続けたからだよ」と答えたそうです。
そのふたつのことばとは、「プリーズ」と「サンキュー」だということです。
これは選手たちみんなが認めたことのようで、ラソーダ監督にそう言われると魔法にかかったように、やる気が出てきたり、自分の力を思いっきり発揮することができたといいます。
きっと監督は、「プリーズ」ということばで、「遠慮せずにガンガン行け! お前には、すばらしい力が備わっているんだ!」ということを伝えたのではないでしょうか。
そして、思いっきりプレイした選手には、結果はどうあれ自分の力を出し切ったということに感謝の意味を込めて、「サンキュー」と言っていたのだという気がします。
つまり、ラソーダ監督の強いチーム作りの秘密は、選手ひとりひとりのいいところを認めて、そこをどんどん伸ばすようにする手助けをするということのようですね。
さらに、自分を信じて力を出した選手には惜しみない賛辞を与えて、がんばったことを認めてあげれば、みんな気分が乗ってきます。
ですから監督は、選手の練習や好不調を見極める仕事は、すべてコーチに任せて、自分は選手ひとりひとりのことを、できるだけ深く知るように心がけていたそうです。
監督の手帳には、選手とその家族の誕生日などのデータがびっしり書き込まれていて、誕生日には必ずちょっとしたプレゼントをしていたということです。
ここまでされれば、やる気を出してがんばらない選手はいないでしょう。
そして、そんなに暖かく見守られるのなら、本当に自分のいいところや力を信じることができるでしょうね。
このラソーダ監督の方法を、職場や家族での人間関係に活かしてみてはいかがでしょうか。
もっとよく知って、いいところを認めて、すべてを受け入れて感謝してみるのです。
みんなが気持ちよく、やる気を出して自分の力を信じるようになれば、きっととてもすばらしいことになるでしょうね。
・・・でもその前に、いちばん身近で、いちばん大切で、でもいちばん大事にすることを忘れてしまいがちな人にこそ、この魔法を使ってあげてくださいね。
そう、自分自身にこんなことばをかけてあげてください。
「プリーズ!」
「自分の力を信じて、それを思い切り出してみようぜ!」「大丈夫! 必ずうまくいくよ。どんどん前へ進もう!」
「サンキュー!」
「いつもがんばっている自分に感謝!」「自分でいてよかった・・・本当に『ありがとう!』」
2001/07/26
今や円熟味を増した個性派俳優の夫婦として有名な長門裕之・南田洋子夫妻ですが、若い頃はさまざまな苦労をしたそうです。
なかでも知り合いの借金の連帯保証人になって、結局その莫大な借金をすべて背負うことになってしまったときほど困ったことはないということです。
住んでいた家はおろか、洋服や宝石などをすべてを手放してみましたが、それで間に合う金額ではなかったのです。
毎日のように債権者が夫婦の行く先々に押しかけてきます。
これではとても仕事どころではありません。
いつしか仕事も少なくなり、狭いアパートに閉じこめられて、息が詰まりそうな生活だったといいます。
先行きの希望も見えなくて、とても暗く、やるせない毎日を過ごすことになってしまったのです。
そんなある日、洋子さんは、こんなことを思わず言いだしました。
「もうこんな毎日はイヤ! どうせなら、もっと大きな家に住んで、美味しいものを食べたり、好きなことをしましょうよ!」
それを聞いた夫の長門さんは、
「そんなこと、できるはずがないだろう。これ以上、借金を増やしてどうなるんだ・・・」と思わず口にしそうになりましたが、どうせ借金を抱えているのです。
いざとなったら、そうなったときのことだと覚悟を決めました。
そして、それからは新築の大きな家に引っ越したり、おしゃれをしてパーティに出かけて、毎日を楽しむことにしました。
するとどうでしょう。
苦しい生活を強いられているはずなのに、いつも楽しそうにしている夫妻を見て、仕事をお願いしたいという人が多くなってきたのです。
夫妻は、もちろんどんなに小さな仕事でも、感謝して誠実に取り組んでいきました。
おかげで気がつくと、借金はいつの間にかキレイに返済し終わっていたということです。
きっとこれは、夫妻が自分たちの運命を嘆いてばかりいずに、もっと前向きに生きていこうと決めたからこそ生まれた結果なのでしょう。
考えてみてください。
もし私たちが、何かが思い通りにいかなくて、この世界を敵意を持って眺めていれば、きっと出会う人は、イヤな人ばかりになってしまうでしょう。
道を歩いていれば、誰かとぶつかるかも知れません。
そうすれば、「どこを見て歩いているんだ!」と怒りがこみ上げてくるでしょう。
電車に乗ろうと切符の販売機に並べば前の人が、もたついてなかなか順番が回ってこないこともあるでしょう。
すると、
「コイツ、わざともたもしているな!」そんなイライラを感じてしまいます。
でも本当に、まわりには私たちに敵意を持ったイヤな人ばかりなのでしょうか。
ひょっとすると、私たちが敵意を持っているから、そう思えるだけなのではないでしょうか。
道で人とぶつかったのも、切符を買うのに待たされたのも、何か理由があるはずです。
けっしてその人が、私たちに敵意を持っていたわけではないのでしょう。
信じられない人は、ちょっとこんな実験をしてみてください。
「あいつは絶対自分のことを嫌っているはずだ」そう思う人がいたら、そのときだけでも気分を明るくして、感謝の気持ちを込めながら、元気よく挨拶してみるのです。
きっと・・・
ある意味では意外な、そしてある意味では期待通りの反応が返ってくると思いますよ。
この世界の法則は、とてもシンプルのようですね。
「暗く見れば暗く見えるし、明るく見れば明るく見える」ただそれだけのようですね。
2001/07/24
何かに一生懸命になりすぎると、ずっと同じ姿勢ままで根を詰めていることがあります。
そして、気が付くと身体のあちこちが痛んだり、凝っていたりしています。
そんなときには、深呼吸をして、伸びをしたり軽い体操をしたりすれば、身体がほぐれて楽になってくるようです。
気分を変えて、またがんばることができますよね。
ときに私たちは、必死に努力しているつもりなのに、どうも思うような結果が見えてこないということがあります。
あるいは、自分がした失敗をいつまでも後悔して、なかなか前に進むことができなかったり、いろいろなことが不安になって、どうしていいのかわからなくなってしまうときもあります。
こんな場合は、何かにこだわったり、とらわれたりして、自分を小さなところへ閉じこめてしまっているのかも知れません。
真剣になりすぎると、身体と同じように、心も凝ってしまうようですよね。
そんな行き詰まりを感じたら、やっぱり深呼吸して、身体を伸ばして気分転換をしてみましょう。
そして、自分にこんなことを言ってあげてみてください。
「まぁ、いいや」
あるいは、
「それでいいよ」とか、「しょうがないね」など、自分にしっくりくることばをつぶやいてみるのです。
必死でがんばるのは、どこかで今の自分ではダメなんだという思いがあるからかも知れません。
また、何かを失敗したとしても、先に不安を感じていたとしても、くよくよしたからといって、どうなるわけでもありません。
「まぁ、これでいいや」
そんなふうに自分に優しく言って、今の自分を許してあげると、とても気が楽になってきます。
そして、こだわりやとらわれを手放すことができて、また違った視野からすべてを眺めることができるのです。
それが問題の解決につながるということも多いようですね。
もっといいのは、そんなふうに真面目にがんばっている自分を笑ってみることです。
一生懸命になっている自分を、冷静な目で見てみると、何だか滑稽に感じることもあります。
そんな自分を笑い飛ばしてみると、肩から力が抜けて、とても楽になってくるのではないでしょうか。
そればかりか笑うことによって、身体に備わっている自然治癒力が活性化して、健康になっていくという研究もされているようです。
また、気の流れもよくなり、よく笑っている人は運がよかったり、笑う人の多い場所は、波動もよくなるという人もいます。
それに、笑っている人の側にいると、こちらまで幸せになってくるような気がしますよね。
眉間にしわを寄せてがんばっている姿もいいですが、笑顔でいる方が、ずっといいようですね。
自分にも・・・
まわりの人たちにも・・・
そして、この世界にも・・・
2001/07/23
今の生活に、これといって特に不満があるわけはないけれど、ふとむなしさを感じてしまう。
心の奥から満たされるような、そんな「何か」が足りないような気がする。
それが「何か」はわからないけれど・・・
ときに私たちは、そんな気分に襲われることがあります。
いくら毎日が忙しく充実しているつもりでも、すべてに満足しているようでも、私たちの心のポケットには、そんな空虚さのかけらが潜んでいるのではないでしょうか。
また、つらいことが重なって、何もかもがイヤになってしまって、自分が生きている意味がわからなくなってしまうこともあるでしょう。
そんなとき私たちは、どうすればいいのでしょうか?
ひょっとしたらこれは、夜の砂漠の真ん中で道に迷ってしまったようなものかも知れません。
いくらまわりを見回しても、何も見えないし、どこへも行けないように思えてきてしいます。
そんなときには、早く砂漠から逃れようと、むやみやたらに走り回っても、疲れてしまうだけです。
あるいは、
「この先、自分は大丈夫なのだろうか・・・」という心細さを何かで紛らわそうとしても、一時的な気休めに過ぎず、またすぐに心のむなしさに悩まされることになるでしょう。
また、こんなところにいることになってしまった自分の運命を呪っても、どうにもなるわけではありません。
そして、何をやっても意味もないような気がして、そこに倒れ込んでしまったり、どうすることもできない自分をいじめてしまうことになるかも知れません。
でも、そんなときには、もっと自分にやさしくしてあげましょう。
むなしさを感じたのは、きっと私たちの心のメッセージなのです。
「いつもがんばって精一杯生きているけれど、どこかで本当に自分の行きたいところ、目指すところを見失っているよ」心は、そんなことを教えてくれているのかも知れません。
それに気づけば、うつむいてばかりいないで、ちょっと空を見上げてみてください。
大きな夜空には、たくさんの星たちが瞬いているのが見えるでしょう。
そこには、私たちを導く星たちが、それぞれひときわ美しく輝いているはずです。
・・・そして、これまでずっと私たちを見守っていてくれていたのです。
心理学者のユングのいう、「コンステレーション」という理論によれば、私たちには、それぞれ自分にしか見えない星座を持っているということです。
夜空には、無数の星が輝いています。
その位置はばらばらで、お互いに何の関係もありません。
でも、それを地上から見上げてみれば、ひとつの形にまとまり、星座として見えてくるのです。
誰でも自分の位置から見える、自分だけのの星座があるということのようですね。
そして私たちが出会う、さまざまな出来事だって、その星座という人生の物語を構成している星たちなのですよね。
それを知ることができれば、もう迷うことはありません。
自分の星が導くところに従い、それを生ききることこそが、この世界の私たちの人生のテーマなのですから。
2001/07/18
何もかも思い通りにいっているときには、とても気持ちがよく、幸福を感じますね。
それと同じように、私たちは、思うようにいかないことからも、幸福を引き出すことができるのです。
・・・ただ、そのためには現実を素直に受け入れる必要があります。そしてそれには、とてもイヤな気持ちになることを覚悟しなければなりません。
なぜなら、自分の至らなかった点、欠点や努力不足などという見たくもないことに直面することが避けられないのですから。
でもそうして今の状況の問題点や改善点に気づくことができれば、それを変えていくように努力していくこともできるのです。
結果的には、その思うように行かなかったことに出会ったために、私たちは
また大きく成長して、今度はもっとうまくいろいろなことを成し遂げるよう
なっていけるのではないでしょうか。
「現実を受け入れ」、イヤな気持ちも充分味わうことが、私たちを本当の満足や幸福に導いてくれるようですね。
ところが多くの人は、幸福になるためには、「イヤな気持ちになってはいけない」「いつも今に満足していなければならない」と思い込んでいるようです。
ですから「現実を受け入れ」て、イヤな気持ちになるよりは「現実を否定する」あるいは「現実に満足をしたふりをする」ことを選んでしまうのです。
うまくいかないのは誰かが悪いからだと考えたり、これでいいんだとあきらめてしまうのです。
また、無関心を装い、もうどうでもいいやと思ってしまうかも知れません。
・・・そんな思い込みから自由になることが、本当の幸福への道なのかも知れません。
たとえば、あなたが会社の会議で、自信満々の新しい企画を、意気込んで発表したとします。
その結果が、思ったほどでなかったとしたら・・・
「この企画のすばらしさなんて、誰にもわかりはしないんだ」「別に、はじめから期待なんてしてなかったよ」 と思うことで、イヤな気持ちになることを避け、わずかな幸福にしがみつくこともできます。
でも、どこが問題だったのだろう、何が足りなかったのだろうといろいろ考えてみることも可能ですね。
その結果、企画に間違いなく自信が持てるのなら、わかってくれないみんなの問題だということがわかり、その対策を考えることができます。
また、自分では気づかなかった改善の余地を指摘してもらったのなら、さらによくしていくこともできるのです。
どちらが自分に誠実で、本当の満足を感じることができるのでしょうか。
イソップ物語で、「キツネとぶどう」というお話がありますね。
キツネは、ぶどうが欲しくて何度も跳んでは取ろうとしますが、結局取れません。
そこでキツネはこう言います。
「ああ、あのブドウは酸っぱいんだ。別に欲しくはなかったのさ」
さてキツネは、どうすれば、「悔しいな。どうすれば、ぶどうを取れるのか考えなくては・・・」ということに意識を向け、本当の幸福を手に入れるための一歩を踏みだせたのだと思いますか?
2001/07/17
「酔っぱらったウサギのことをイメージしてみてください」
もし、いきなりそんなことを言われたとしたら、あなたはどんなウサギの姿を思い浮かべているでしょうか?
「次は、その酔っぱらったウサギのことを絶対に考えないでください」またそんなことを言われてしまいました。
するとどうでしょう。
考えないようにすればするほど、酔っぱらったウサギのイメージが頭を離れなくなってしまうのではないでしょうか。
では今度は、ウサギのことを考えてもいいし、考えなくてもいいですから自由にしてみてください、
そうなると、しばらくは酔っぱらったウサギのことが頭に残るかも知れませんが、きっとすぐにどうでもよくなって、他のことに意識が向いてしまうことになるでしょう。
私たちは、良いことでも悪いことでも、誰かに言われたことばが頭に引っかかって、いつまでも離れないということがよくあります。
イヤミを言われたり、自分の欠点を指摘されれば、落ち込んでしまうか、不愉快な気分を味わうことになります。
「期待しているよ」
「君なら、絶対できるよ」
などと言われたとしても、かえってそれがプレッシャーになってしまうこともあるでしょう。
どちらにせよ言われたことが気になり、「自分は、今のままではダメなんだ・・・」と自分のことを、受け入れられなくなってしまったり、何かをやろうとしても、「こんな自分では、うまくできないのではないだろうか・・・」という恐怖が生まれ、ちゃんと本来の力を出すことができないかも知れません。
これはいったい誰の「責任」なのでしょうか?
確かに、そのことばを投げかけたのは、他の誰かかも知れませんが、いつまでも考えたり、頭から追い払おうとすることによって、それを持ち続けているのは誰なのでしょう。
そう、誰でもありません。
それは自分自身なのですよね。
本当に楽になるためには、自分の責任をちゃんと明確にしておく必要があります。
・・・といっても、恐れることはありませんよ。
自分の「責任」とは自分を責めるためにあるのではないのです。
本当は、ただ、「今の自分ができることを、全力でやってみる」ということだけなのです。
それ以上のことは、自分の「責任」外のことなのです。
結果は、うまくいくこともあれば、そうでないこともあります。
相手の期待に添えることもあれば、そうでないこともあります。
それでいいのではないでしょうか
「こんな結果をださなくてはならない」 「こうあるべきだ」というのは、誰かの「責任」です。
私たちは、そんな他の人の「責任」まで背負って、「あの人が、そんなことを言ったから・・・」と被害者になったり、「うまくいきそうもない。やっぱり自分は、ダメな人間なんだ」と落ち込むことはありません。
ただ、自分のできること、できないことを明確にして、できることに全力でがんばってみる、それだけでいいのです。
そう考えてみると、するべきことをやった後では、そこから本当に自由になることができて、もっともっとこの世界を楽しむために、次のワクワクを感じることに意識を向けることができるのです。
今の自分ができることを精一杯やり、学ぶことをを学び、さらに成長して、すばらしい未来を作り上げていく。
・・・私たちの本当の「責任」は、きっとただそれだけなのですよね。
2001/07/16
人から聞いた話ですが、外国航路の航空旅客機は、時間にして95%以上は、正確なコース上を飛んでいないそうです。
飛行機というものは、さまざまな要因で、いつもコースから外れてしまうものだということです。
といっても、別に危険なことではなく、常に機内のコンピュータが自動制御で、小さな軌道のズレを修正して、正しいコースに導いているのです。
ですから、飛行機は安全に目的地まで、飛び続けることができるということです。
飛行機の世界では、コースを外れて飛ぶということは、当たり前であり、それをどう修正して、正しいコースに導くかというところに関心があるようですね。
何かをはじめるのに、
「絶対に失敗をしてはならない、いつもうまくやっているべきだ」と思うことは、大きなプレッシャーになってしまいます。
そんなときには、ちょっとしたミスしてしまっても、「あ〜、自分はなんてダメなんだ」と自分を責めてしまいます。
そして、自信を無くしたり、気持ちが弱気になったりして、さらにミスを繰り返すようになってしまうかも知れません。
そんなことが続くと、もう何もできる気がしなくなって、本当にやりたいことがあったとしても、チャレンジすることも無くなってしまいかねません。
もちろんミスや失敗をしないに越したことはないのですが、飛行機と同じように、「ミスは、誰でもするものだ。あって当然なものなのだ」と考え方を変えてみた方が、気持ちが楽になるのではないでしょうか。
そうすると、メゲてしまいそうなミスをしてしまったときでも、「だいじょうぶ、誰でもあることなんだ。何とかなるよ」と、そんな自分をやさしく受け入れることができます。
そして、プレッシャーも軽くなり、どんなミスでも乗り越えられるような、心の強さを持てるのです。
ミスをしたことを悔やんでも、ミスをした自分を非難しても、何もいいことはないみたいですね。
それよりは、ミスしたことに心を悩まされず、なぜそうなったのか、どうすれば同じ過ちを繰り返さないで済むかということに意識を向けた方が、ずっといいのではないでしょうか。
そうすれば、私たちはまたいつでも正しいコースに戻ることもできますし、今度はもっと、うまく進んでいくことができるのです。
ちょうど飛行機と同じように、いつかは必ず目指す目的地にちゃんと到着することができるのです。
・・・行きたいところがあるのなら、とにかく一歩を踏み出しましょうよ。ミスや失敗は、恐れるものではなく、私たちの成功への道しるべです。
そしてこの成功への旅は、目的地よりもその過程に、本当の楽しみや私たちの成長の糧があるということも多いようですね。
それをどんどん楽しむために、私たちは生まれてきたのでしたよね。
2001/07/09
古代ギリシャ時代に、クセノパネスという哲学者がいました。
豪快な人であったらしく、どんな権力者であろうと遠慮せずに、自分の正し
いと思ったことをとことん主張していたということです。
ある日クセノパネスは、親友から博打に誘われました。
そのとき彼は、こう答えたそうです。
「私は、博打なんかしない。今までもしたことがなかったし、これからも一切しないつもりだ」
それを聞いた友人は、バカにしたように笑いました。
「なんだお前は、卑怯だな。ふん、日頃偉そうなことを言っているのに、ただの臆病者じゃないか」
クセノパネスは、涼しい顔をしてこう返したということです。
「そうさ。私は、まったくの卑怯者で臆病者だ。ただし、そのようなくだらんことに関してはな」
本当の勇気を持っている人は、負けることや自分の弱さを認めることを、決して恐れません。
「いつも強くなくては・・・」
「絶対、勝たなくては・・・」
というのは、何かに負けて人に弱いところを晒すことへの恐怖から生まれてくるようです。
自分の弱さを知られたくないと、そこから目を逸らして、何かに追われるように強いふりをしたり、勝つことを追い求めているのです。
そして、どんなときにでも逃げずに、立ち向かうことが勇気だと思い込んでしまうようです。
でもそれが本当の強さでしょうか?
本当の勇気なのでしょうか?
もちろん、困難なことにも逃げずに立ち向かっていくのはすばらしいことです。
でも、それが、「いつも強くて、勝ち続ける自分だからでなければ、誰からも認められないんだ。もし逃げて弱いところを見せてしまったら、みんなは私のことをバカにするだろう」という恐怖から出たものなら、いつまでたっても本当の勇気を知ることにはならないかも知れません。
ときには自分の弱さを認めて、それを受け入れることも必要なのかも知れません。
イヤなものはイヤ。
怖いものは怖い。
そんなときがあって、逃げ出してもいいじゃないですか。
それが、あなたの気持ちならそれに従ってください。
そんな選択をできた自分の勇気を認めてあげてください。
自分の弱さを受け入れた人は、もっと自由に、大きな視野でものごとを見ることができます。
他人の弱さも受け入れることもできますし、本当に必要なときに勇気を持つ大切さもわかってくるのです。
それこそが本当に強い人間になるということなのではないでしょうか。
・・・自分自身を信じて、自分に従う勇気。
これこそが、最高の勇気なのかも知れませんね。
2001/07/05
何もかもうまくいかなくて、失意のどん底に落ち込んでしまったときは、私たちが成長するための大きなチャンスのようです。
冷静に現実を受け止め、どうしてこんなことになったのかを振り返ってみれば、自分のこれからの課題や問題点が見えてきます。
状況が苦しければ苦しいほど、それは自分にとってどんな意味があるのかを考えれば、自分の未熟なところがわかったり、思わぬ気づきを得ることができるかも知れません。
ところが多くの人は、不運に出会うとその現実から目をそらし、どこか他の所に責任をなすりつけようとします。
こんなふうになったのは誰かのせいだ、あるいは環境が悪いからだと、外に原因を求めたり、すべては自分がダメだからこうなってしまったんだと、自分を責めたりするのです。
誰でも自分の嫌なところやマイナスの面は見たくないものです。
誰かが悪い環境がよくないと思えば、今の自分の境遇にも諦観できますし、自分はどうしようもない人間だと絶望すれば、本当の自分の未熟なところに気づかないふりができるのです。
そうやって自分の課題、マイナス面を見ないでおけば、それを克服するために何かにチャレンジしなくてもいいし、自分に変化を起こす必要から逃げ出すこともできるかも知れません。
そして、
「あいつが悪いから・・・」
「自分がダメだから・・・」
という鎧を身にまとって、慣れた自分の安全圏に留まろうとするのです。
でも、いくら自分のマイナス面から目をそらしたところで、それがいつの間にか消え去るわけではありません。
それどころか、そこから逃げようとすればするほど、そのマイナス面や自分の嫌なところは、ますます私たちを追いかけてくるのではないでしょうか。
それは、いろいろな不運な出来事や不幸という形をとりながら、何度も何度も私たちの目の前に現れてくるのかも知れません。
・・・なぜなら私たちは成長していくために、ここに存在しているからです。
そのためには、気づいて克服しなくてはならない人生の課題が確かにあるようです。
それを知る機会が、失敗や思いがけない事故、私たちが出会う困難な出来事という形を取って姿を現すようですね。
だとしたら、何も恐れることはありません。
もっと生きることを楽しんでみましょうよ。
うまく行っているときには、充分それを楽しみましょう。
そして、不運な出来事に出会ったとき、何もかもうまくいかないときも、それを味わってみましょう。
そんなときは、私たちが安全圏から外に出て、さらに大きく向上していくときなのです。
そこで気づく、自分の未熟なところ、嫌なところは、私たちの成長のスペースです。
それはきっと・・・
もっともっと私たちが大きく成長して、もっともっと自分のことを好きになるためにあるのでしょうね。
2001/06/21 AM7:46
誰かに、嫌なことを言われた。
仕事でついついミスをしてしまった。
信じていた人に裏切られた。
そんなことがあった日は、夜、寝床に入っても、そのことばかりが思い出されて、なかなか寝つけないものですね。
そればかりか、だんだん昔に味わった嫌な経験や悔しかった思い出も、頭のなかにどんどん浮かんでくるかも知れません。
そしてますます胸が痛んで、眠れなくなったり、疲れてきたりしてしまいます。
そんな経験はありませんか?
そんなときには、こんな気分転換の方法を試してみてはいかがでしょうか。部屋が散らかっていれば、掃除をしてキレイにした方が気持ちが落ち着きます。
頭のなかも嫌なことやストレスが散らかっていれば、大掃除してすっきりとしてみるのです。
これは、立ったままや座ったままでもできますが、寝床のなかで横になりながらの方が楽にできると思います。
まず、目を閉じて少し心を落ち着かせましょう。
軽く深呼吸してみてもいいかも知れません。
そして、おでこの部分に、左右どちらの手でもいいですから、自分の手のひらを当ててみるのです。
もう一方の手を後頭部(ちょうどおでこの裏側のあたり)に当ててみてもいいでしょう。
そのまま楽な呼吸を続けながら、嫌なことを経験した場面をもう一度思い出してみるのです。
ひとつの場面だけでなく、今、思い浮かぶ嫌な場面をいくつでもみてみてください。
どうですか?
おでこに手を当てていれば、何となく守られているような感じがして、嫌な場面を思い出しても、それほどつらくはないのではないでしょうか。
どうしても、その場面を思い出すのが嫌だという場合は、そのまま次のステップに進んでも結構です。
次に、頭のなかでこんなイメージをしてみます。
自分の頭から胸のところを通って、ずっと下の方まで一本のパイプがあります。
先の方は、地下深くまで繋がっていて、もう見えません。
そして、このパイプは、強力な掃除機のホースのようなもので、なんでも吸い取ってしまいます。
このパイプを使って、自分の頭や胸のなかにある「嫌な感じ」とか「不安感」「イライラした気分」あるいは、「疲れた感じ」などを、どんどん流していくのです。
これを自分の内側が空っぽになるまで続けます。
パイプがイメージしにくい人は、たとえば水洗便所に流すとか、自分なりに楽しめる方法を考えてみてくださいね。
するとどうでしょうか。
スッキリとした気分となって、もう嫌なことなど、どうでもいいやという気分にはなってきませんか。
こんな簡単な方法ですが、ストレスを解消し、心の平安を取り戻すためには驚くほど効果があるようです。
さあ、キレイに片づいた部屋でぐっすり眠りましょう。
そして、朝が来れば、また新しい自分で、このワクワクする世界を楽しんでいきましょうね。
2001/06/20 AM3:50
何かをやっていて、うまくいきそうだと思えたときに、無意識のうちにそれを台なしにしてしまうような行動を取ってしまう人がいます。
それも何度も何度も、同じようなことを繰り返してしまうのです。
ひょっとしたら、そんな人たちは、どこかで「成功」するということを恐れているのかも知れません。
その理由のひとつは、「成功」すると、今の自分のままでいられないと思ってしまうからということのようです。
いくら良くなるためといっても、「成功」が自分にとって未知の領域ならば、本能的に恐怖を感じてしまうのです。
「自分は、どうせ何をやってもうまくいかないさ」と思い込んでいる人にとっては、現状が不満だらけでも、今のままの方が気
楽なのかも知れません。
それに「成功」してしまうと、
「そのときがくれば、自分に変化を起こして『成功』するんだ」ということで、今の自分に変化を起こさないでいる言い訳ができなくなって
しまいますから。
確かに、その人にとっては、仕事は忙しくて時間がないでしょうし、お金の余裕もないかも知れません。
それに、まわりが反対していることもあるでしょうし、その分野で「成功」するためには、かなりの勉強や鍛錬が必要で躊躇しているのかも知れません。
自分が「成功」するのが難しい理由はたくさん存在するでしょう。
でも、自分が「成功」できる理由を考えはじめない限り、いつまでたっても人生に「変化」を起こすことはできないのではないでしょうか。
そして、「変化」を恐れている限り同じ場所から動くことはできず、いつまでも、不満を感じながら生きていかなければなりません。
私たちにとって本当の「成功」とは、何かをやってみた「結果」ではなくて、その「過程」のなかにこそあるのではないでしょうか。
人生に本当のよろこびをもたらすのは、「結果」を気にせず、ときには冒険をしたとしても、より高い望みに向かって進んでいく瞬間のようです。
前に向かって進んでいる限りは、「失敗」や「挫折」は私たちに、「強さ」や「厚み」を与えてくれるものと受け取ることができるのです。
今日からは「成功」を恐れずに、一歩を踏み出してみてください。
自分の望むところへ進んでいくために「変化」を起こすのです。
その「変化」を楽しむことこそが、私たちが本当に生きているということなのでしょうね。
2001/06/19 PM4:42
今に不満を感じていたり、悩みを抱えている人は、しなくてもいいふたつの苦労をしていることが多いようです。
ひとつは『持ち越し苦労』、もうひとつは『取り越し苦労』です。
『持ち越し苦労』とは、過去のことにこだわって、「あのとき何でこうしなかったのだろう・・・」「何であんなことをしてしまったんだ・・・」
と、いつまでも思い悩んでいることです。
そして、
『取り越し苦労』は、「失敗したらどうしよう・・・」「それをしたら、今あるものを失うかも知れない・・・」
と、ものごとの結果も見えぬうちからいろいろ思い煩うことです。
でも、この苦労は本当は過去や未来が問題なのではないもののようですね。
たとえば、どんなに過去に大きな失敗を経験していようが、これからはじめようと思っていることが、どれだけ大きなリスクがあろうが、今の状況が充
実していれば、あまり気にはならないものです。
今を楽しんでいる人にとっては、たとえ過去にどんなに大きな失敗をしていたとしても、
「そんなことも、あったなぁ。今となれば、貴重な体験だ」と思えるものです。
そして、何か新しいことにチャレンジするときも、リスクを計算するよりは、ワクワクしながらそれを楽しむことに意識が向くでしょう。
多くの人は、自分の問題の原因が過去の失敗にあったり、将来の不安にあるものだと考えているようです。
しかし本当のところは、どんなときにも問題は『今』にあるもののようですね。
何が問題なのかって?
それは、私たちのものの見方にあるようです。
「失敗」と「学び」「不安」と「ワクワク」これらは本当は、同じものなのかも知れません。
コインの裏表のように、ただ私たちがどちらの面を選んで見ているかという違いだけということでしょうね。
そして、私たちが「失敗」や「不安」を見ているときには、何か変化の予感があるときなのかも知れません。
私たちは、たとえよりよくなる変化でも、慣れ親しんだ現状を変えることには、かなりの恐怖を感じるもののようです。
今の自分にいくら不満があっても、それを変えようとすると、無意識のうちに私たちは、「このままでいいんだ」と抵抗していることが多いようです。
だとしたら、そんなときこそが、私たちが成長するチャンスなのかも知れません。
今日から、
『持ち越し苦労』の代わりに、「その経験からどんなことを学ぶことができたか」を、
『取り越し苦労』の代わりに、「どれだけワクワクしながらチャレンジできるか」を、選んでみてはいかがでしょうか。
さあ、どんなものが見えてきましたか。
そして、どれだけ大きく私たちは、成長していけるのでしょうか。
それこそが、「今」を楽しみ、自分自身を生きるということなのではないでしょうか。
2001/06/18
私たちは、さまざまな状況や場所によって、いろいろな役割を演じている役 者のようなものです。
ある人は、子どもの前では父親であり、妻の前では夫です。
また、自分の両親の前では子どもでありますし、会社へ行けば何人もの部下 を指揮する立場かも知れません。
そして、どんな役割にも「義務」が存在するのも確かなようです。
父親だから、夫だから、子どもだから、社長だから・・・
あるいは、男だから、女だから、長男だから、日本人だから・・・
その役割において、当然果たさなければならない「義務」もあるでしょう。
でも、それが、 「・・・だから、こうでなければならない」 という思い込みであり、いろいろな苦悩の原因になっているということも多
いようですね。
たとえば、本当は自分としてはしたくないことでも、「・・・だから、しなければならない」
という思い込みからの行動を取った場合はどうなるでしょう。
その結果が、失敗に終わったとしたら、「本当は、自分が・・・でなければ、したくなかったのに・・・」
と後悔の念や、被害者意識を持つことになってしまいます。
また、それが成功したとしても、「・・・として、当然の義務を果たしただけだ」と、まるで自分とは別の・・・という誰かがいて、その人ががんばった結果
だとしか受け取ることができないかも知れません。
さらに、
「・・・だから、これはしてはいけない」という思い込みも、私たちの成長を制限するもののようです。
「男だから、台所へ入ってはいけない」「長女だから、しっかりしていなくてはならない」
という思い込みが、私たちの大きな楽しみを奪っていたり、重荷になっていることも多いようですね。
本当に、大事にしなくてはならないものは、「その『役割』だから、こうしなくてはならない」という思い込みではなくて、
「『自分』が、やるべきだと思うから、やってみる」ということのようです。
この考えは、ある人たちからは、受け入れ難いと感じられるものかも知れません。
「だって、その立場として、当然果たさなければならない義務があるだろう」「その立場なら、これはしてはいけないだろう」
そう思う人も多いでしょう。
でも、ちょっと立ち止まって、考えてみてください。
それは、誰の「思い込み」なのでしょう。
誰が決めた「義務」なのでしょう。
本当は、私たちが、ある「役割」を演じるときには、その役を楽しむためにそこにいるのではないでしょうか。
だとしたら、なぜ自分が楽しみたいように、楽しまないのでしょうか。
振り返ってみてください。
私たちが何かをやってみて、楽しめたり、うまくいくとか失敗するとかに関係なく充実感を持つときは、いつも自分が「したいからする」という選択を
したときなのではないでしょうか。
そして、楽しくなかったり、自分が被害者のように感じたのは、たいてい義務感や役割感からそれをしたときなのではないでしょうか。
思い出してください。
あなたが、この世界に生まれてきたのは、正しく「役割」を演じるためではなくて、生きることを楽しむためでしたよね。
2001/06/15 PM4:09
他人からネガティブなことばや態度を投げかけられたときに、私たちはその自分のネガティブな部分に焦点を合わせて、自分を否定したり、落ち込んで
しまうことが多いですね。
でもそんなときに、ネガティブな部分は決して自分の悪いところではなく自分の問題点や成長のための課題だと思うこともできます。
そうすると、他人からのフィードバックは、その存在に気づかせてくれるチャンスと捉えることができ、それをなくしていくにはどうすればいのかと考
ていけるのではないでしょうか。
自分自身をあるがままに受け入れることができれば、私たちはまわりの人たちに影響されることなく、ただ自分が望むところへむかって成長していくこ
とができるのです。
これは何も他人の意見など聞く耳を持たなくなるとか、自分中心にものごとを考えるとかいうことではありません。
本当に自分を愛情を持って生きている人は、そんなところにいる必要はないのです。
他の人の意見を聞かなければ、いろいろな考えを学ぶことはできませんし、他人が自分をどう思っているかを知ることは、鏡に写った自分の姿を見るよ
うなものだということを知っているのです。
ところが多くの人たちは、鏡に写る自分のそのままの姿を見るよりは、どうすれば相手が期待しているような姿に写ることができるかということに心を
砕いているようです。
そんな人たちは、他人からどう見られているだろうかということが気になり、他人からどう思われているかということを基準に人生を送ってしまうのです。
だから、その他人という鏡からネガティブな部分を指摘されれば、落ち込みますし、もっと相手の期待するような姿に写るようにしなくてはいけないと
思うのです。
でも、本当に自分の人生に責任をとれるのは自分しかいないのです。いくら他人に期待したり、望んだりしていても、幸福や満足は自分のなかに
しかみつからないものです。
そして、私たちが望むものは、すべて私たちのなかにあるのです。
自分が演じている人生という劇のシナリオを、誰か他人が書いて与えてくれるものと思っていれば、私たちはいつまでも同じ劇の同じ役を演じ続けるこ
とになるでしょう。
そのシナリオは、本当は自分が書いているのだということに気づけば、自分の思うように変えていくこともできます。
自分を愛することは難しいと思っている人は多いようです。
でも考えてみれば、ただ鏡に写った自分をそのまま眺めてみて、顔になにかがついていれば、それを取り、自分の思うように髪を整え、自分が気に入る
服を選んで着る。
ただそんなことなのではないでしょうか。
2001/06/14 AM05:31
私たちは、普段、足の小指の存在など気にもしないで歩いていますよね。
でも、その足の小指をどこかにぶつけて、痛みを感じたとしたら、急にその存在を意識することになるのではないでしょうか。
ケガでもしようものなら、歩く度に痛みが走り、いつも足の小指のことが気になってしまうかも知れません。
私たちが「自分」という存在を意識するときも、同じではないのでしょうか。
人間関係で悩む。
自己嫌悪や罪悪感を感じる。
自分の将来のことを不安に思う。
そんなときには、「自分」がどこかにぶつかって、痛みを感じているのかも知れません。
傷ついて、早く癒してくれるのを待っているのかも知れません。
「自分」とは、今、ここにいる私たちという存在です。
それ以上でも、それ以下でもないし、世界中のどこを探しても、それ以外に はみつかりはしません。
いま笑い、泣き、よろこび、悲しんでいる。
いいこともあれば、嫌なこともある。
そんな存在こそが、「自分」なのです。
そして、健康なときには、そんな「自分」の存在など意識もせずに、ただこの世界を楽しんでいくことができるのです。
「自分」は、「自分」だから、そのままでしか生きることはできないのです。
ところが私たちは、「自分」の道を歩かずに、他の道を歩こうとします。
「自分」を生きずに、誰か他のものになろうとしてしまうのです。
他の人と「自分」を比べてみたり、他と競争したりして、本当の自分を生きることをしようとしないのです。
あるいは、どこかに「本当の自分」がいるはずだと、今の自分を否定したりすることもあるでしょう。
そんなときには、「自分」が痛みを感じて、悲鳴をあげるのではないでしょうか。
何かに気づいてくれと、私たちにメッセージを送るのではないでしょうか。
私たちの心のなかの声は、いつも「自分」の夢や生きる目的を語っているようです。
本当に自分自身を生きるときにこそ、私たちはその声に従うことができるのです。
私たちは、ひとりひとりがかけがえのないユニークな存在なのです。
そして、この世界が私たちをサポートするに値する存在だと認めているからこそ、今ここにいるのではないでしょうか。
その事実を信じてみましょう。
そして、ただ自分自身を楽しんでみましょうよ。
2001/06/13AM03:39
生身の身体を持っている私たちは、目の前に壁があれば、前に進むことはできませんし、ときにはころんでケガをしたり、疲れ切ってしまうこともある
でしょう。
でも、だからといって、前に進むことをあきらめることはないですよね。
どんな大きな壁だって、どこかに回り道はみつかるはずですし、がんばって乗り越えていくこともできるでしょう。
もし、自分の手に負えないような壁なら、誰かの助けを求めてもいいですし遠回りになったとしても、別の道を通ることもできます。
ケガをしたり疲れたら、しばらく休息を取って、元気になるのを待てばいいのです。
そして今度は、ケガをしないように気をつけたり、疲れすぎないように歩き方を工夫して進んでいきます。
そして、私たちは、そのたびに一回り大きくなって、今度はもっと上手く壁を乗り越えたり、ケガをしないようにすることができるのです。
私たちが人生で出会う障害や悩みなども同じことかも知れません。
どんな大きな障害に出会おうとも、どんなに苦しくても、かならず乗り越えていくことができますし、そこから何かを学ぶことができるのです。
ところが、ときとして私たちは、大きな困難に出会うと、もうどうしようも ないと、頭を抱えてしまいます。
人によっては、目の前の壁をなんとかしようと、一生懸命に押し続けたり、ケガをして足が動かなくても、とにかく前に進もうとして、倒れてしまった
りすることもあるようです。
そして、うまくいかないと、一層深刻に悩んでしまうのです。
そんなときには、ちょっと考えてみてください。
その苦しみの原因は、壁やケガにあるのではなくて、私たちの、 「こうしなければならない」
という思いこみなのではないでしょうか。
これは、まるで大きな川のなかで、小さな杭に引っかかって、どこへも行けないと苦しんでいるようなもののようです。
なかには、自分から、しっかりと杭にしがみついている場合もあるようですね。
その杭から、自分を外してやれば、私たちは自由にどこへでも流れていくことができるのですが、こだわりがあるとなかなかそれには気がつかないので
す。
そして、一生懸命がんばってしまうのです。
ひょっとしたら、その壁やケガという障害さえ、「こうでなければならない」「こうあるべきだ」
という、私たちのこだわりが生み出しているのかも知れません。
「道は平坦で歩きやすくなければならない」と思えば、ちょっとした地面の出っ張りも障害物と見えてきます。
「ケガをすべきではない」と考えていれば、自分がころんでケガをしたことに罪悪感さえ感じるかも知れません。
本当は、この世界には、「こうでなければならない」ということなどないのでしょう。
壁はあってもいいものだと思えば、ロッククライマーのように、けっして大きな壁でも障害物とは見えず、かえってそれを乗り越えることに楽しみさえ
感じることができます。
ケガはつきものだと思えば、少々の冒険にも楽しみながら立ち向かうことができるのではないでしょうか。
できれば、
「こうでなければならない」の代わりに、「こうであったらいいし、そうでなくてもまたいい」
という考え方を持ってみてはいかがでしょうか。
そう思って、この世界を眺めてみれば、どんなことからだって苦しみのかわ
りに、楽しみをみつけることができるのです。
そして、きっと私たちの人生の本質が見えてくるでしょう。
それは、よろこびに満ちて、楽しみながら私たちが大きくなっていくために
あるのだということかも知れませんね
2001/06/12/AM04:47
いい絵を描くためには、理論を学ぶよりも、すばらしい絵を、たくさん見ることからはじめた方が上達が早いそうです。
料理が上手くなりたかったら、料理の本を読んだり、料理学校へ通うよりも、まず美味しいものをいろいろと食べてみる方がいいようですね。
自分が、こんな絵を描きたい、こういう料理を作ってみたいということが見えてくれば、そのために必要なものがわかってきます。
そして、そのために学ぶべきことも見えてくるのです。
これは、人生についても同じことが言えるのではないでしょうか。
自分がこんなことをしたい、あんな人になりたいという目的をみつけ、それに向かって必要なものを身につけながら進んでいく。
これこそが自己実現と呼ばれるものですし、その過程でのいろいろな体験を楽しむことが、幸福になるということなのかも知れません。
ところが、 「私は生きるのが下手だ、もっと上手くなりたい・・・」
と思っている人に限って、自分がどんなときによろこびを感じるのか、何をしているときが楽しいのかということをわかろうとするよりは、理論や技術
を一生懸命に学ぼうとするようです。
もちろん、上手く生きるための考え方や、方法を知ることも大切なのでしょ う。
確かに、いろいろな本を読んだり、勉強会や講演会に行ってみると、そのときは、こういうふうに生きればいいんだ、と元気がでてきます。
でも、しばらくするとまた、どうすればいいのかわからないと迷ってしまう ことも多いようですね。
これは、自分がどこへ行きたいのかもわからないのに、性能のいい自動車を 手に入れたようなものかも知れません。
いくらスピードが出るように自動車を整備しても、運転技術を磨いても、自 分がどこへ行きたいのかがわからなければ、宝の持ち腐れです。
世間がいいと言うところを目的地にしてみても、走りながら楽しみを感じられないとしたら、そこへ辿りついても本当の満足は得られないでしょう。
誰かに運転手になってもらっても、本当に自分が目指すところへ連れていっ てくれるかどうかはわかりません。
やはり、本当に人生を幸福に生きるためには、自分がどこへ行きたいのかと いうことを知る必要があるようです。
そして、それを知るためのヒントは、誰かに教えてもらうものではなく、どこか他のところではなく、いつも自分のなかにあるのです。
自分が今いる場所で、いまやっている仕事や人間関係。または、自分が興味を感じることをはじめてみる。
そんななかで、ふと感じる、「ちょっとした、いい感じ」
を大切にしてみるのがいいようです。
人の顔がみな違うように、よろこびを感じることや、やっていて楽しいことはそれぞれ違うのです。
「ちょっとした、いい感じ」を愛することを大切にしていれば、今までは灰色に見ていた世界が、さまざまなカラーに彩られた、すばらしい風景に見え
てくるでしょう。
そして、そんななかから自分が本当にやりたいことがみつかるのではないでしょうか。
幸せのタネは、あれこれ考えることよりも、ただ生きることを楽しんでいるときにこそ手に入るようですね。