恵 久 丸

濱屋漁業所属

昭和の小漁師



採網漁業

                                                                  上の画像は借り物です。恵久丸は青色の船体色

自分史の明神丸の部分は、エロ気を殆ど省いて書き込んでいるので
本来の自分ではない。
 恵久丸は、余りにも仕事・船員仲間・余暇が凄まじくて何時かは
 書き込んでみたい時期の物語でしょうが、この時期にもエロな部分はあって
「やくざがらみ・アイヌがらみ(当時の言葉です)・女がらみ」など、枚挙には厭いませんが、
虚飾は剥ぎ取って表面に出すべきでしょうが、
当時の自分は余りにも若く、畏れを知らない馬鹿者だったのです。

 何処の船に乗り込んだとしても、
一匹狼状態ですが当時の自分のあらましは
「身長152cm、体重46kg、胸囲78cm、握力右41kg、左37kg」
こんなんで北海道はもとより、
本州から四国、
九州へは寄港地として3度立ち寄った程度かな?

 本当は
釧路での体験談を自分史として書き込むには、躊躇があります
ですから、若い船乗りの女性観と体験談を除いて、語る事にしましょう

 昭和48年2月24日、
根室半島落石町にサンドバック状の荷物を右肩に背負い、
汽車から右足を降ろした、風采のあがらない若い男が降り立った。

 根室の2月は厳しい寒さで、
太平洋からの海風とオホーツク海からの風が
知床半島で山颪の風となり、
野付半島を凍れさせて根室周辺へと横殴りの風となって、
駅周辺を巻き込んで風の反対方向上空へと雪を運んで行く。
 
 右頬にその凍てつく風を受けて、
くわえ煙草の煙が目に突き刺さるのも構わず、
その男は駅から続く海岸周辺にへばり付くように並んでいる町並みの一角を目指して、
素手を構わずザックの紐を右手で、
左の手はラッパズボンのポケットに忍ばせて、
寒さを凌いでいる。

 落石の道は2月だというのに、
雪は少なく
この男が履く「せった」から道と金属音とが、
喧嘩をするように甲高く響かせ、
人一人通らない道を男は1軒の事務所へ入る。

「ごめんよ、恵久丸に乗る事になった荒木というものだが、誰か話の分かる者はいるか?」
随分と横柄な態度を取る奴だと思われようが、この時この男には覚悟が腹の中にあった。
どのように態度を取ろうとも、この男には男としての力量が備わってはいない。
 旅を漁船で渡り歩く漁師は、体格も重要な売りになるのであるから
その部分が備わっていない以上、この男には取るべき方法が限られてくるのである

 昭和40年代は、漁船員の最盛期であり、乗組員は数多いた時期であるから
自らを売り込むには「はったり」しかこの男には残されていない
 この男には技術も力量も無い代わりに、意地だけは他に負けない自信があった。
 その自信を「はったり」に交えてこの事務所の中にいる
 数人の人物へと向けたのであった。

{誰だお前は?一人で来たのか?
  誰かの紹介で来たのか?}
事務所の中には数人の男に交じって、
中年位の事務員の格好じゃないから
お手伝いか、周りの男の女房かなと思える2人の女が
自分に向けて言葉に刺を乗せて運ぶ
{兄ちゃん・・・そんな身体で何処の船に乗るつもりだ
   うちの船には柔な男なんて通用しないから帰んな}
 ポニーテール風の髪型に真っ赤なカチュウシャを、派手目の花柄で縛り付け
自分の方へきつめの目線でにらめつける
 どうやら、男衆の一人、やくざ風の男の女のようである。
自分に言葉を投げつける度にその男へ顔を幾度も向けるから・・・
「なんでもいいから、誰かいないのか?」
ザックを事務所の床に降ろして、ザックに付いた雪を払いのけながら、高飛車に言葉を発する。
 ここで、負い目を見せる事は出来ない。男の世界へ一歩足を踏み入れたが最後、意地だけは負ける訳にはいかない。
「北海道の熊」を自認すると決めた直後の頃だから、何が何でも引き下がれない。
  男は、この船に乗り込むことを決める前には、紋別港所属の「宝栄丸」96トン、掛廻し底曳船に乗っていたが、前年に冬を控え拠点を花咲港に移すため、オホーツク海から太平洋へと回航途中、貝殻島過ぎで拿捕されている。
 ソビエト監視船に曳航され、船内にはトカレフの銃口を向けられて、乗組員一同、船長・船頭・無線士を除いた21人が船室に拘留されていた。
 乗組員の中には拘留経験者も居て、片言のロシア語で話しかけているものもいるが、警備員の顔つきが変わる度毎に、機銃の銃底で殴られるのは話しかけているものではなく、従順なものが選ばれているようにも見える。
 こんな非常時にも姑息な奴にとっては、チャンスなのかも知れない。
超法規的な出来事であっても、自分には大して驚くことではない。
 子供の時分に間借りした住居の隣人家族は、ヤクザ渡世の輩であったから理不尽な事であっても、何時何時自らの身に降りかかってもおかしくない現実を、経験しているのであるから、この様な事態になったとしても驚きはあっても、狼狽えて自身を見失うことはしなかった。
 この間の事情は、自身の中で時効を迎えたと判断されれば、何時かは書き込むことになるでしょう。

 事務所の中で威圧的な態度で、自分に向かってくるその女と数人の人に対して、威圧的な態度には高圧的に向かって行くのが、一時的には有効であると幾多の極限を経験しているものにとって、判断をするのに要する時間は数秒しかかからなかった。

 数人の男達の一番奥
自分がこの建物に入ったときから、一度も口を開いていないものが
「すまんな。こいつらも今日始めて来た奴だから、何か言ってもこっちの方でお前に文句がある訳じゃないから」
「それから、この女、これ俺のだから・・・」

{あんたは?}
「機関」
{船頭は?}
「いない」
{だれが決める}
「誰でもない、もうみんな決まっている」
{何時船を出す}
「今晩」
{何処へ}
「シュムシュ」
{内?外?}
「内、それもとびきり奥」
{ブリュシュトル?}
「いや、反対のもっと奥」
{何隻で?}
「1隻、うちのだけだ」
{ほう〜〜〜っ}
自分が20才と5ヶ月の時
自分の持ち場は、操機手(機関長の部下機関員とも)
 当時は、飯炊きから始まる、炊事の燃料は石炭、飲料は水を天秤棒に担ぎ、船と岸壁に渡された「あゆみ板」を幾十度も往復して船に水を運ぶのである。
 飯炊きとは良く言ったもので、甲板員と同じ仕事をしながら、飯の支度をさせられる。
熟練の漁師と同じ給与を頂くからには、当たり前と言えば当たり前なのだが、素人なのであるから仕事は出来ない、飯も満足に炊くことも叶わない
 飯炊きになっている間、仕方のないことだと諦めているが、逃れる方法はただ一つ、新しい素人が入ってくるか、自身より仕事が出来ないものが乗り込んでくるかの、二通りしかない。
 初めての顔合わせの機会を、目一杯捉まえて自分を売り込む。
当時の漁船員は、世間の吹き溜まりの集合といえるほど気性が荒く、今日の金は今日使い切るというように、性分から出るものではなく、仲間との男気の張り合いから、散財を繰り返すものも多かった。
 従って、船によっては手当の額が違ってくるのは当然で、優秀な船頭に仕えることは即、金回りにつながって行くように、自分が居るこの場所は、富山県出身の船頭で、この会社に高額で引き抜かれ、会社の礎を一代で築き上げた船頭でもある。
 その船頭の船に乗れること自体、余程のことがなければ叶わないことであって、いきおい自分の態度も通常より違ってくるのは仕方がないと、自身に言い聞かせながら、目の前の事態に対処しているのである。

 当時の北海道の漁業会社では、地獄船と呼ばれる船が数隻あって、船頭の器量で漁をする地獄船と、船頭が漁の数で勝負をする地獄船とがあった。
「寅丸」
「八幡丸」
「美登丸」
「やまさん丸」
「恵久丸」
これらの会社では数隻の船を所有していたが
大船頭の息の掛かった者が所属会社の船頭になれるし
漁業会社の間でも、腕の良い船頭の引き抜き合戦が、見えないところでひしめき合っていたのであろう
自分の知り得ない世界でもあった。

 この船は、125トン型釣り船の造りで、北海道の漁船の形態としては珍しい形をしている。
 甲板上は船首部分から船尾甲板まで、一直線上に遮るもののない甲板で覆われている。センターブリッジであるから、船橋だけが突出している形容は、船を見慣れている自分にも何ともいい知れない不安を与えてもいた。
 船体を覆う藍色は何のために塗られているのか?。漁船の色と言えば白が定番であり、魚種によっては一時的に色分けされることもあるが、強いて云えば、底曳き船の所属港の色分け位でしょうか。
稚内機船所属は白地に黄色の襷がけで、釧路機船所属は薄茶色。
 これらを見知っている自分であっても、藍色の船体とは?これは、何かの機会に聞いてみないとと思いながら、「機関」に今度は何を狙う?
 「ニシン」・・・!!
{何日くらい?}
 「2週間」
{したら、買い貯めないと・・・}
 昼になり、女が事務所から出て行くと同時に、事務服を着た眼鏡の男が入ってきた。
集まっているね。前渡し金を用意してきたから、名前の順番に受け取って領収書に名前を書き込んでくれないか。
 「まずは機関長から、船長は後から来るので、皆さんは船長と一緒に釧路まで行って貰うよ。そして、顔合わせで社長と船頭に引き合わせるから。」
 「一旦船に荷物を積み込んで、それから風呂に入って貰い・・・ああ!!そうだ、風呂は船の中で頼みます。」「各自、部屋の割当が終わったら、顔合わせの時間まで間がありますから、買い物に行ってください。錦町に市場がありますから、そこで必要なものは総て整いますから」
 自分の番が回ってくる、郵便茶封筒に少しの厚みが見える。懐には、千円札が数枚しか残っていない。
 釧路の町で買い物をして、夜、顔合わせが行われるとすれば、それで終わるわけがないから、手持ち金は2万円は持っていないと恥をかく。
 キャバレーは座っただけで3千円、ボックスには女性が必ず一人いるが、その女性はボックス料の中に入っているので問題は飲み物である。
ビール一本を5〜6人で飲むわけがない。
 顔合わせの時には、酒かビール。二次会になればウイスキーかビールになる。
ボックスに5〜6人が座れば、女性が2〜3人座ることになる。
 ボックスの女性とヘルプの女性、その他に指名という制度があってこれが高い。
指名料3千円、一般人の一月の給料が2万円台の頃だから、キャバレーに入る。
飲み物を注文する。
ボックスに女性を指名する。
これだけで、半月分お給料が消えてしまうのですが。100名は入るキャバレーは時間ともなれば殆ど満杯か、それに近くなるほどの盛況の時代だったのです。

 釧路行きの汽車に乗り込み、トイレに行き茶封筒を確かめます。
中身は5万円が入っていました。すごい世界です・・・
 事務員からの説明で、一月の給料が11万円。家族のあるものには家宅送金というものがあり、給料が総て家族に送られるという。
 自分に事務員は、あんたは独り身だからどうする?
{実家に送って頂きます。総て・・・・}(これが失敗の元でした。この多額のお金が毎月送られてくるのですから、両親がこのお金を当てにしないはずがないではないですか) 良かれと思っても、真実良い方向へ向いて行くとは限らない事を後々知ることになるのです。

釧路駅に到着。 駅を後にして街頭へ出ます。
真っ直ぐな大通りに右手に商店街、左手にはデパートが並び、人の通りも喧騒に似たものがある。
 まずは船に荷物を置きに海運町の岸壁に向かいます。
恵久丸・・・始めて見る船型が自分の前に横たわり、青色の船体色に赤錆色のの船底がモヤイ綱に繋がれて岸壁で揺れている。
 砂井という名前の案内人に、船室の位置を指図されて荷物を自分の個室に入れ、船内を探索する。
 恵久丸は二重甲板の船で、上部は船橋だけが突出し、上部がニシン刺し網とサンマ漁に使用するという。
 二重甲板の下部は、釣りものに使用するため、船橋前の一部だけが開放されて、ラインローラーが、据え付けられている作業甲板は、前部が急速冷凍室になり、釣り上げた魚体は箱詰めされ冷凍室内へと送り込まれる。
 冷凍された漁獲物は冷凍室から甲板へ送られ、そこで「ダッパン」(冷凍物を水を張った箱へ投入し箱から出す)され、作業甲板から船倉室へと投入される。
 作業甲板から後は船橋の下部となり、船尾へ向かう通路の右手に船頭・船長・機関長・無線技士の船室があり、船尾部は釣りの作業場になる。
 自分達船員と、機関部の部員は通路から船体中心部の賄い室から、下の方に船員室があり部屋の屋根の上が、釣りの作業場になる。
 機関室へ入ってみる。機関室は上下2階構造を形成して、下部は主機関(新潟低速1,200ps×750rpm 直接逆転方式 可変ピッチ)補助機関×2(ヤンマー350ps×1200rpm 発電機・冷凍機)機関ワッチ室が配電盤の後にある。
 機関室の上部には、清水装置(海水から真水を造る)オイル濾過器が並び、主機関の上方向を除き各種装置や機器類が配置されている。
 その直ぐ後に風呂室が設置される。

 この時代の最新鋭の機器や装備に感嘆する。
 買い物へ、海運町2丁目の岸壁から海運町1の市場へ。
真新しい建物が広い浜通りから目に入る。
 漁業全盛期の時期なのは、ひっきりなしに通過するトラックの種類の多さにも現れて、自分の目の先が定まらない程、生魚を積むトラック、箱物を積み込むトラック、冷凍物を運搬するトラック等々、活気に溢れている。
 歩きながら周囲の建物や行き交う車に、何某かの物語を自分なりにふくらませ建物に入る。
 2ヶ月分の買い物
 タバコは、自分が吸う分と賭け事時に分配する分があり、賭け事とはギャンブルも含まれるのだが、何気ない当てっこの時に、1本ずつ賭ける長い航海の気晴らしから行われる、大切な漁船員のストレス発散に、必要になるため多めに買い込む。
 栄養剤は、普段は必要はないものの、操業が佳境にはいると日夜兼行になり、寝る間も無くなるために食事だけでは体力を保てないことから、10本入りを10箱。
 チョコレートは、長い航海に於いて、コックの献立が一番の楽しみになるが、随時自分の気に入るものが出ることはあり得ないので、栄養補給も兼ねて明治製菓のブラックを50枚ほど。
 菓子類は、休息時に気晴らしになる。
 焼酎は、自分は飲まないが、酒の好きな漁船員は必ず航海後半に、足りなくなるのを知っているので、航海後半、漁船員間のいざこざが起きたとき仲裁にはいるためには必要不可欠のもの。20リットル缶で3個。
 下着類と作業着及び合羽類
 これらを市場の車で船に運び入れる。
○  商店の車は、懐かしい三輪車で左右のウインカーに飛び出す形式が採用されている。自分が小学6年生の時に「第5正宝丸」でイカ釣りの荷揚げに使用された。小関のばあちゃんの経営する紋別運輸の車以来でしょう。未だに現役で働いているなんて・・・
 荷物を積み込み、汗を風呂で流すが塩水風呂でした。
 風呂から上がる時に清水をシャワー状に流して、身体の塩分を取り除くという方式なのです。
 面倒なようですが、塩水の風呂は初めてで、風呂から上がって身体を拭き出すが、次から次へと汗が噴き出してくる。
上半身裸にして甲板に上がり、港の風に身を晒しても身体の火照りは中々消えてくれません。
 1時間も風に当たっていたでしょうか?その間に、釧路港は自分の視線がパノラマ映像のように、至る所の風景や作業状況を観察することが出来、長い航海時の話題作りに事欠かなく成りそうです。
 航海が長くなると、船員の話題は決まったように下ネタに吸い込まれるように向かうようで、その話題は次から次へと、方向を変え、深度を変えるが、止まることはない。
 そのような時に、ひょいと話題をそらす剽軽さも持ち合わせるのも、一匹狼故の世渡りなのかなと・・・
 航海が始まる前の、船員の顔合わせの時間には間があり、散策に出かけることにします。散歩が好きなわけではなく、田舎者で大きな船の漁師としては、新参者である自分にとって宴会中の話題作りも又、方便となるからです。
 釧路港を端から端と歩きます。石炭の山から木材の山、遙か遠くに石油タンクが3個ほど見えます。
 明らかに新しい時代が始まっていることを、石油タンクと木材の山が、陽光の輝きと同時に自分に向かって知らせているように感じる。
 釧路魚市場から、仲買人の魚菜市場。
 魚の匂いと船員食堂の匂いが絡み合い、大型船の揺らめきと共に、海面の照らし返しが小さい目に飛び込んでくる。
 匂いに背を向けて、広い目の前に広がる工場用地に、真新しい事務所や工場がまばらに並ぶ中を、釧路市街へと向かいます。
 一町歩く毎に食堂があり、店舗がある。

歩く自分の脇をトラックや自家用車が、走り去るけれど砂塵も飛散しないとは?
 総てがアスファルト舗装でしょう。
歩道にしても、新しい縁石やアスファルトに敷き詰められた上を、一歩一歩と町に近付いてゆきます。
海運町から浪花町へ出て、右手に釧路合同庁舎の大きな白い建物があり、右手にはカトリック教会と思える木々に囲まれた家があり、ゆっくりと歩きながらその光景を楽しむ。 行き止まりになり、倉庫群の脇から釧路川が見え、左手に向かい錦町の古い市場が目の前に広がります。
 市場へ入る前に空腹が・・・
 斜め右手後に古びた食堂があり其処へはいる。
 食堂前には両脇に水槽が並び、金魚やメダカ類が右手に配され、左手にネオンテトラやキッシンググーラミー、グッピーの水槽は2つと、直ぐに食堂に入るには勿体ないと思える陳列なのである。
 熱帯魚を飼育していた者にとって、懐かしさと親しみを覚えたから、この食堂に向かわせるものが働いたのかも知れない。
 店の中に入り、注文を受ける老獪そうな老女に向かい、店舗前の陳列に話を移すと、老女の顔がほころびを見せ、数本の前歯が抜けた唇を、閉じる間もなく立て続けに話し始める。
 止まることを知らない老女に向かって、お腹が空いているので天麩羅定食を2人前お願いしますと注文を述べる。
 話足りないのかこちらを振り向きながらも、食堂の奥に向かって自分の注文を誰もいない店内なのに、店の外にも聞こえるように告げる。
 箸置きと香味料を持ち、又こちらに向かってくる店員。
 自分の座っているテーブルの前に腰を下ろしたから、又同じ話をするのかなと思っていたら、
 「にいちゃん、どこから来た?」
紋別から・・・。
 「何処の船に乗る?」
濱屋水産の恵久丸、釣り船だけれど・・・なにか?
 「食べながらで良いから聞きな」
と、釧路川の近辺の栄枯盛衰を語り始める。
 考えてみると、この辺りは漁港の中心部でしょう。
 目の前にあった市場は佇まいから見て、釧路港と共に発展を続け、川の対岸に広がる入舟町は、元遊郭のあった場所ですから、この辺りが釧路の繁華街をなしていた。
 その当たりの寂れた歴史を知らせたいのかも・・・
 でも、何故に自分に向かって!!
遅い昼食を取り、又散策にと思い会計を申し出ると、そのおばちゃん!!
 宴会が終わって二次会になるから、行く所がなければおいで
 2階が開いているから、船が出るまで休むことも出来るし、街にも近いから出直す事も出来るからね・・・
 そうは云っても目つきがそうは云っていないようにも見えます。
 食堂を出て、一杯に脹らんだお腹をさすりながら「雪駄」の下の鉄板をアスファルトに「カチャラカチャラ」と響かせながら、市場を過ぎ大通りに出ると、右手に橋があり丸い交番がある。交番内のお巡りさん3人を見ながら、橋に向かいます。
「弊舞橋」
橋の通路を歩くと後に釧路駅から続く町並みがあり、駅から押し出される人並みと、街の小道から出てくる人の波に背を向けるが、橋の周りには人の気配すらない。
 橋に向かう前側には、車用のロータリーがあり、橋を過ぎると右手に遊郭跡の入舟町です。
 釧路川に沿って入舟町界隈を散策。
入舟町から港町を過ぎ、高台方面に向かうと米町。
米町には、啄木の碑があり厳島神社も林の中に厳かに佇む。
 悔やまれるのは、カメラを手放したこと。
ポケットに手を入れたら、充分にカメラを購入しても足りるほどのお金が入っているが、手放したカメラを購入するのに、どのような経過を経たかが思い出され、思いつきで買うことを許さない自分が居る。
 目の中に焼き付け、高台からの釧路の街を充分に胸の奥に仕舞い込む。
船の顔合わせの時間に、小一時間ほどとなり、栄町方面へ歩き出すと、元の遊郭の町並みからぽつりぽつりと人が出てくるのに気付きます。
 歩きながら、「弊舞橋」へ向かう自分に、後でこっちへ寄っておいで・・・と!!
2〜5人から声を掛けられながら、橋を過ぎて右手栄町に向きを変え、○○銃砲店を過ぎた当たりから末広町へと向きを変えて、道行く人に宴会場の店の名前を尋ねます。
 その当たりから、あちらこちらに船員らしき風体の人達が見受けられ、間違いなくこの当たりであったと、胸をなで下ろします。
 初めての船で初めての顔合わせですから、30分前に到着するのが一応の節度というものであることは、漁師の家に育っている自分には当然の行為ではあるが、この時間の余裕が自分に大きな出会いと、この船での自分への姿勢へと変わるのですから、誠意有る姿勢というものがどの場面に於いても、人物評価に与える影響を知るのである。

 記憶を辿っての迷走ですから、街の名前は定かではありませんが、お許し下さい。
 その時の自分の出で立ちは、相変わらずのザック袋に着替えなどを潜ませて、肩に担いで歩いているが、そばを通る人が必ず振り向く姿です。
 サングラスは「レイバン」で、メッシュ地で茶系のワンピ、ラッパ系統の黒いズボン。素足で雪駄を大股で鳴らし、白いメッシュの肌着ですから、一見するとヤクザ風な出で立ちに、肩で風を切って歩くなんて、どう見てもおかしいでしょう。
 150cm位の背丈で大股で闊歩する姿は、犬の遠吠えに近いものがあるけれど、その位自分を見せないと当時は「なめられる」と思い込んでいたのですから。
 栄町の繁華街の喫茶店。
 この格好で入ります。
「ウインナーコーヒー」を注文し、スパゲッティを3人前頼むと、店の人が2人顔を見合わせています。
 「コーヒー」と「スパゲッティ」どちらを先にします?
 どちらも一緒に・・・
やせの大食いという言葉がありますが、自分に例えるなら子供の大食いでしょうか?
 でも、自分にとってこの3人前というのは、決して無理な注文ではありません。
ざるソバなら5人前はお腹の中に入りますから、3人前というのは腹ごなし程度なのですが。
 お腹を満たして、店の人に今晩自分が行く場所の位置を聞き、時間前に宴会場へ向かいます。
 店に入る。
 仲居さんが宴会場へ案内をしてくれます。
 床柱を上座に6席、片方に20席で両側合わせて40席です。
自分は新参者ですから、一番入口に近い席へ座る。
 ザブトン前に灰皿が、1人に一つ置かれ、白身と赤身の刺身、酢の物、数の子3本の添え物、紫海老とコハダの天麩羅、お吸い物が並んでいます。
 誰も来ていない会場の中を、仲居さん数人が料理を運んで、物腰は静かに動きは慌ただしく、行ったり来たりを自分の目の前で繰り広げている。
 時間が近付く、会場に人が次々と入ってきます。
上座の人は、部屋に入ると真っ直ぐに席へ向かうが、船員らしき人は席を見比べ、自身の座るべき席を推し量るようは仕草です。
 段々席が埋まって行き、自分の周りの席が何席か空いているが、定刻に顔合わせが始まります。
 会社の役員らしき人が、始まりの挨拶を始め、上座中央「おつむの薄い」人が立ち上がり、挨拶を始める。
 社長です。
では、社長の隣は船頭かな?
 社長の挨拶の中で、船頭と機関長は触れていましたから、判断に迷うことはないが、では船長は?
 社長の挨拶に続き、船頭の話が始まりますが、その時、遅れて入ってきた乗組員らしき3人。
 船頭が立ち上がって、その人達に甲高い声で「帰れ」と・・・
腕時計に目をやると、20分も遅れていますから、仕方がないと言えばそうなのですが、3人も居なくなったら、今回の航海はどうなるの?
 その人達が居なくなって、船頭が再び立ち上がり全員に声をかけて、24人の仲間が21人になったが確かに厳しくなる・・・が、その分お前達の取り分も増やさせるから、頑張れるか?
 船頭のその声に、自分の席側の上座に近い所の一人が立ち上がり、船頭が声をかけているのだから何とか返事はないのか?
 そう言うなり、そのものは船頭に向かい、大丈夫です。
みんな頑張りますから・・と、何か一人だけ目立つよう社長の方にも目配せしたような気がしたのは、穿ちすぎだろうか?
 乗組員達は、バラバラであるが声を返す。
やれるかどうかは、船頭次第です。
漁さえさせてくれるなら、金になるなら何だってします。
その為に、釧路くんだりまで来て居るんだがら・・・
 社長が大声で、それでは決まったようだし、仲居さん「酌をたのむ」
その時、和服姿の女性30人位が入ってきた。
上座に4人。両側の席2人の間に1人と、座ります。
 機関長らしき人が立ち上がった。
その瞬間に女性達が、コップやお猪口にビールと酒を、目の前の相手に聞くと同時に注ぐ。 

自分の前に座ったのは、ぼっちゃり系でまん丸顔の笑顔が愛くるしい人です。
この人とは、この先縁が続く。

 乾杯に、一同一斉に唱和し一段と騒がしくなるが、明日正午に釧路港を出港するので、勢い宴会に気持ちが入るのでしょう。
 社長の言葉で、自己紹介が始まります。
が、宴会が始まっているので騒がしい。
 仲居さんを含めて、この会場に100名近い人が、めいめいに言葉を交わしているため、自己紹介の声が自分には、周りの言葉の合間をかすめて届くように、耳を澄ませていないと聞き届けづらく、その時に目の前の女性が、「大丈夫ですよ」この後、二次会がありますから、その時に皆さんで聞き合えばいいからねって、自分のお猪口に燗酒を注ぎながら教えてくれます。
 この女性方は、「キャバレー銀の目」のホステスと言うことです。
この相手の応対の美しさに目を奪われて、自己紹介が自分の所へ回っているのにも気が付きませんでした。
 自分の番だと女性に教えられ、立ち上がります。
今までの自己紹介が、雑談の声にかき消されて、末席までに届かなかったことから、今までの人以上に大きな声を張り上げて・・・!!

 紋別から来た、荒木と言います。
船には小学校の時から乗り込み、イカ釣りやサンマ漁を行ってきました。
この様な大きな船は初めてですが、皆さんの足を引っ張らないように、頑張りますので宜しくお願い申します。

 自分の自己紹介が終わって、対岸の席に移りますが、自分の声が大きかったので、それ以上からは雑談に掻き消される事もなく、自己紹介が最後の席が終わるまで、全員が聞くようになり、前の女性が社長に呼ばれて行ったのも自分は知らなかったが、二次会でのこの女性の話では、宴席の場を辨えているような歳には見えないが、性根が坐っていて面白い奴が来たと、その女性に行っていたという。
 操業の航海が2度、3度と重ねる度に、その都度社長に呼ばれて、「銀目」へ同行するようになり、「クラブ銀の目」へも同行を促されるようになり、釧路商工会の数名、記憶に残っているのは釧路デパート「ぼうにもりや」(屋号だと思います)の社長。
 この人にも自分がこれから、縁が寄って来るとは知る要しもなく、目の前の女性がらみで縁がつながってゆくのです。
 宴会が終わり、二次会へと全員が向かいます。
「キャバレー銀の目」へ入る。
 入口からフロアーへ向かうと、目の前が広場になり、ボックスが壁に沿うように片側12席、中央6席、反対方向8席となり、広いステージが広がり、ステージ前には天井から大きなシャンデリアがフロアー中央に吊り下げられ、4方向からスポットライトが、回転するミラーボールへ向けて、光線を集中させ反射した光が回転しながら、部屋中を回る姿は異次元の空間のように見えます。
 女性の案内で、4人ずつボックスに座り、ボックス付きの女性と合わせて、3名のホステスが自分達のボックスに居る事になります。
 女性達が、和服の胸の合わせから、名刺を差し出し、一人ひとりに渡す毎に「宜しく」と笑みを浮かばせる。

○ このキャバレーには下のフロアーに100人の和服のホステスがおり、2階への階段を上れば「キャバレー香港」となり、100人近くのチャイナドレス姿のホステスが出迎えてくれる。
 外部からの出入り口は一般客用のものであり、「銀の目」からはホステスを通して螺旋階段を登る。
 和服を選ぶかドレスを好むかは客次第となるが、「香港」が雰囲気を楽しむものとすれば「銀の目」は格式を尊ぶというところでしょうか。
とは言っても、自分のように最下層の下っ端が出入りする場所でも無いように思えるが、その実、下から「香港」へと上がってゆく客も多いことから、ホステスの言い様をまともに聞いても、赤っ恥をかかされる恐れがあるように感じた。
 宴会時に自分の前にいた女性は、この場所ではbRらしく椅子に腰掛けている、ホステスの片言の断片を繋ぎ合わせると、そういう事になるらしい。
 自分にとってこの場所は、二度と足を向ける所とは思えなくて、おもむろにその女性に聞いてみる。
 ・・・お前は、銀の目では何番目になる?・・・
応える筈もないと思っていたが、
「今は3番目か4番目といったところ」でも、「かならずbQになってみせる」
 ・・・いつ頃に?・・・
「さぁねっ、お母さんのようには行かないかも」
 ・・・母親もホステス?・・・
「私の前のトップで、のぼるさんていうの」
 ・・・お前と同じ源氏名か?・・・
「うん、後で一緒に行ってくれる?だったら紹介する」
 ・・・いいけど、自分はお前が思うようなお金にならないよ・・・
「当たり前でしょ。みればわかるもの」
22時を過ぎた頃、機関長が二次会のお開きを促し、自分達はこのキャバレーを出ることになる。
「のぼる」11時まで店から離れられないけど、お母さんの店へ行っててくれると良いなぁ〜〜
「自分」 わかった、船の人達ともう一軒行くから、時間前にはその店に行っているから・・・
「のぼる」という店に、のぼると謂う年配女性と待ち合わせですか・・・!!
 店に着くと、入口は近頃流行始めた、スナックの和風様式とでも思わせたいのか、オレンジの3尺余りのチョウチンが、風に揺られて縄暖簾と一緒にとびらへと誘っているように・・・
 「失礼します」と、一言中に告げて足を踏み入れる。
入って右手にカウンターとその奥に、ママらしい年配の女性が「いらっしゃい」とこちらに応える。
 白いエプロンの下は、紺碧の海を思わせる大島紬に福々しい身体を包み、自分に向かって微笑みを浮かべている。
 店の右側には畳を敷いて、6人は座れる座卓を3つ並べてある。
店の入口側は12畳はあろうか、奥側にも2つの部屋があるから、スナックにしてはやや大きい店造りなのでしょう。
 自分は入口近くに、ぽっかりと空いている3席の入口に近いところへ腰を降ろします。「ママが、なにになさいます」
カウンターの中にもう一人、自分より年下の見える女性が一人、忙しそうに働いています。 ・・・ダブルで・・・
「スコッチ?」
「ウイスキー?」
 ・・・カティサークで・・・
「一本入れます?」
 ・・・いや・・・
「お通しは?」
 ・・・おまかせします・・・
 自分の前に、用意してあったのでしょう「お通し」が灰皿と共に直ぐに出されます。
洋酒を棚から降ろして、自分のお酒を造り始めました。
 店の中は、勤め人が会社での話や、友達の話でごった返しています。
店の女の子は人気があるのでしょう。
 ひっきりなしに彼方此方のお客さんから、注文と同じ数のたわいない話を投げかけています。
 自分の座っているカウンターの端の方が、この女の子目当ての客層なのかなと・・・
その内、「のぼる」が店に、何分、何十分なのか遅れてきました。
 「銀の目」の女性を2人連れて、入ってきました。
「ママ、お客さんをお連れしました」
・・・自分を見ながら、ご免なさいねお客さん、恵久丸の乗組員の顔合わせでしたから、この子にいい人を連れてきてとお願いしておいたんです。
あなたがお店に入ったときから、この人だと判っていました。・・・

 なんだ?、怪訝そうな顔をママに向けて、自分は遅れてきた「のぼる」に向かって、お前何考えて居るんだ。
 帰る・・・
店を飛び出しました。
 その自分に、店から女の子が出てきて自分の腕を掴み、お客さんご免なさい。
ママね、楽しみにしているの。
 ママは「銀の目」でbPを張ってきていた人で、名前をあの子に譲って、スナック「のぼる」を開店してから、毎年この船の人を宴会の時に一人だけ決めて、店に連れてくるのが習わしのようになっているの!!
 私ね、ママの娘で「八重子」と言います。
機嫌を直して、戻ってくれないと私も戻れないから・・・
 内心、しめしめ、このままこの子と飲みに行こうかななんて、思いましたがそうは行きません。
明日は自分は、海の上の人になるのですから、名残を残しては駄目でしょう。
まして、「銀の目」の「のぼる」に他の連れ立ちにも失礼になります。
 戻って
今度は、店の奥側の小部屋に、店は娘と「銀の目」の女性達に任せて、ママとのぼる、そして自分の3人で飲み会ですが、ひっきりなしに娘やら、他の女性達が手が空く度毎に自分達の部屋に押しかけます。
 自分はママに聞いてみました。
ママ、何で自分なの?、ああそうか、自分に目を付けたのは「のぼる」だから、「のぼる」なんで自分なの?
 あの席で、一瞬の感がさえていたから、そして話に聞き耳を立てていたら、あなたは相手の話に相づちを打ちながら、相手の話を深く深く話をさせているように感じたから・・・
 ママが・・
私ね、息子がいないのね、女の子二人だけだから、男の子を一人欲しいと思って、毎年あちらこちらへお邪魔して、探していたの
 だからね、船が釧路へ入ったら私の家に来て頂戴船が出るまでの間でいいから・・・

 あらまぁ〜〜〜
生活に困らなくなりました。陸に揚がったカッパになる所でしたが、食事も住まいも心配なくなります。
 午前1時。
のぼるの店が終わり、男性は自分だけで後はママ、のぼる、むすめ、やよい、がママの家に向かいます。
 釧路駅の真後ろ方向へ、タクシーを走らせ松浦町へ、建物が見えました。
アパートの造りで下の階に3軒、上の階に2軒の「マンション」おいおい・・・
鉄にアスファルトを敷き詰めた階段を登り、2階のママの家に・・・
自分はこの時、初めて女性ばかりの部屋というものにお目に掛かるのです。
40年は起とうという歳を隔てても尚、はっきりと光景や空気の色香まで浮かびます。
それ程までに印象が強かったのか、定かではありませんが、強烈な想い出と共に、痛恨の別れをこの家族と迎えるのは3年後になるのです。

「出港」

 海運町の岸壁から「恵久丸」が旅立とうとしています。
甲板上には、船長と機関長、それに無線士を除いた乗組員が勢揃いをして、家族や会社役員、港湾関係者とそれらの人とは明らかに、この場所にそぐわないような出で立ちの女性連が、甲板上の乗組員と声を掛け合っている。 
 午前10時。
 船橋後の煙突に備え付けられている、エアー式警笛、通称ラッパから哀愁を帯びたような、もの悲しい出港の汽笛が鳴り響く・・・
 甲板上から、岸壁から
 おのおの別れを惜しむかのように、テープが繋がれる
船が岸を離れ、テープが岸壁と船とをカラフルな色に包み込む
拡声器から、「釧路の夜」の音楽が流れる
 家族の無事を祈る人、思い人の帰りを祈るもの
甲板上では、テープを握る本数が優劣を決めるのは、独身のものの特権でもあるように、得意げに左右を見渡すものもいる。
 自分には、ホステスの「のぼる」とその仲間2人
テープは3本・・・
 港の中を、延びきったテープが色取り取りに流れ、海面に気持ちとは裏腹な明るさを漂わせている。
 船は釧路の港を出る。

 ここから乗組員は、甲板部員と機関部員に「ワッチ」(見張り)が別れる。
2人ずつの交代制で、24時間体制の見張りの仕事に就く。
 新人は、この航海中に各々の仕事の詳細と分担が、先輩達から伝達されても行く、貴重な雑談の日々が続く。
 これから船の中での会話の中心になるのは、仕事の自慢話と、女性経験と特殊な経験談が、乗組員の気晴らしになって行くが、自分のこの時期の目標は、先進の技術と機器類の操作経験が主な目的なのである・・・・が
 若さ故の悲しさでしょうか
この船の目新しい装備類の数々と、釧路の街で夜起こった男性女性問わず、人の力量と器の大きさばかりではなく、女性連の美しさと可愛さが自分の中から消えてくれません。が、この辺りの時代、乗組員の中では狭い船の中で、凄まじい位置取りが行われていて、毎日目まぐるしい程に、変わって行くのであるが、そればかりではなく、稀にではありますが女性の取り合いも行われているのです。
 この時代、海の上で航海中に誤って船員が、海中転落で行方不明なんて事も、実際起こっていたのであるから、夜間「ワッチ」のように、船橋で2人きり、機関室で2人きりなんて、気を緩められない時間帯もあったのです。
 「ワッチ」は、同じ人同士でず〜〜〜っと一緒なのではありません。
 自分が乗っていた船では、どの船も「ワッチ」は毎回違う人同士になるように、組み合わせが図られていると言うことを、大型船から降りて以降に知ることになるとは・・・

「小型漁船」

 自分が生まれた、砂原村は漁村です。
育った紋別市も漁師町です。
 当時の小漁師は(小型漁船1〜10トンの漁師)は貧乏でした。
流氷開け前から操業の準備をして、木船の化粧、電気着火エンジン(ガソリンエンジン)の整備ですが、このエンジンさえ導入できないものも居た。
 自分の家は貧乏の部類にはいるので、焼玉エンジンでした。
この焼玉でさえ、貧富の差が現れていた。
少し余裕のあるものはA重油。
自分の家では、サメ油の燃料を使っていたから、春先や冬前の気温が低くなる頃になると、出航前に焼玉の火を入れる前に、燃料タンクをバーナーで温めなくてはならないから、出港の1時間半前にそれらの仕事をこなさなくては成らず、兄たちの仕事を見ていた自分にとって、なすべき事は限られていたとも云えよう。
 そう、父親と共に仕事を遣るか、家の仕事は父に任せて、仕送りを続けて船の装備類を更新するという、大目標と共に最新の技術をもたらす。
 和船で「艪」や「かい」を操っていた身体ですから丈夫なのです。
自分の船の「正宝丸」は、和船から発動機になっても、相変わらずの小漁師でした。
 船の装備といったら、「コンパス」のみです。
ですから、当時の漁師は山の猟師と一緒で、気象の変化を五感を研ぎ澄ませて、感じていたのですから、自分にとって、漁師そのものが神と同義と感じていたのも、間違いではなかったのです。
 父は、子ども達に何も残すことはありませんでした。
それは、自分自身で感じ取りなさいと、言っていたのだと思っています。
最下層の貧乏からは、登るしか途は残されていませんから、楽と言えば楽でしょうし、崖っぷちが続くと言っても間違いではありません。
 この様な生い立ちですから、「恵久丸」では、これから待ち受ける未知の世界への、不安などは無く希望という、段々明るくなる途を真っ直ぐに歩むような、感覚が暗い海上へ視線を「ワッチ」で投げかける中でも、何処かしら明るい何かが胸の奥深くから、沸き上がってくるような気持ちで、機関室と甲板での「ワッチ」の時間を過ごしていた。
 この船には、自分の家の船には無い、超短波無線機、短波受信機、モールス信号機、
無線方位探知機、レーダー、ジャイロコンパス、ファックス受信機、自動操舵機、デッカ受信機などが、無線室と操舵室に、整然と並べられそれらの隙間から、甲板「ワッチ」が行われ、機関室内では、直接逆転式主機関(新潟ディーゼル製低速640PS)、可変ピッチプロペラ、アンモニア式冷凍機駆動用補機(ヤンマー製120PS)、発電機駆動用補機(ヤンマー製120PS)オイル濾過器、清水製造器等々の総合計器盤の点検のための、機関「ワッチ」がある。
 機関「ワッチ」は原則2名体制が遵守されなければならないが、実際のところ1名で、配電盤と併行して設置されている、機器類の数値を1時間毎に機関日報に記帳して行くという、とても単調な作業が2時間続くのである。・・・が
 自分にとって、単調などとは程遠く、目にするもの総てが目新しいものばかり
数値の記入だけであっても、貴重な経験と思えてくるのも無理からぬ事であった。

「小樽港」


 恵久丸の荷揚げする港は、東京晴海、小樽港、釧路港であるが、漁獲種類によって荷揚げする港を変えているらしい。
 ニシン網では、小樽港を使います。
 銀タラ延縄漁では晴海埠頭を使い、タラ釣り漁では主に釧路港をメインにするようです。
 
 小樽の港は、古代文字で名を知られる、手宮洞窟が目の前まで迫ってくるような岸壁に、恵久丸を着け、大きな冷蔵庫群に荷揚げを行うのです。
冷凍されたニシンは、船倉内の冷蔵庫から手作業で上げ出します。
 荷揚げ作業は2日間行われるため、着岸の夜、荷揚げの夜2日間、都合3日間は小樽の街の楽しみを満喫するわけになります。
 昭和40年代中盤から後半にかけての、北海道内の港町には繁華街と遊郭(当時は売春防止法で遊郭は禁止)擬きがあり、通称駅前が一般居酒屋が建ち並ぶが、駅裏、通称ですから必ず駅裏にあるとは限りませんが、直接女性と接触を持つことが目的なら、駅裏と云われるように、飲み屋街と区別を漁師連はしていたようです。

 ニシン漁で、余分に漁獲されたニシンは、甲板上に高く野積みされ腐敗を誘発させていたのは、身欠きニシンを造るのが目的ではなく、数の子を製造し30トンは入る水槽に海水を張り、その中にニシンから取り出した数の子を投入しておくと云った、単純な方式であっても水槽内に10分1くらいの、数の子を造り貯めて船員の小遣いとしたものであり、当時は数の子20kg入れの箱1箱で、キャバレーで散財をしておつりが来るし、駅裏で女性を数名買う(漁師用語として)事も可能なほど、高価なものであった。

 黒いダイヤが石炭ならば、黄色いダイヤは数の子で、赤いダイヤといえば小豆といい、北海道で産出され、生産も製造もされていたのである。
 この時期には、往年のように東北各地から、加工場の女工として北海道に出稼ぎに来るものも、少なくって来た時代でもあるが、港周辺には栄華の面影を今に残す、加工場や倉庫群が立ち並んでいた。

 港の香りは、磯や潮風が運んでくる香りではなく、倉庫群や朽ち果てた加工場跡地から、強烈に運ばれてくる魚の腐った匂い。
 手宮洞窟はその香りの真っ只中におかれる、地元では忘れられた名所であったが、さもありなん。
 荷揚げ岸壁から小樽市街へと、街道を徒歩で歩く道々、昭和初期の創設であろうか、道路側溝から手宮山というのは小さいけれど、山の名称は記憶に残っていないが、岸壁から街道に出て小樽市街へ向かわずに、山に沿う形で町並みに誘われるままに、高みへと向かえば観音堂に行き着く。

 その途中道に距離を置く建物と、道を塞ぐように立ち並ぶ建物群があり、この場所がその謂われの場所ではなかったかと思われる、年老いた女性達がこの時期の老女とは趣を分けるように、道に腰を降ろし、あるものは片膝立ちで、数人が話し合っているのか、昔話をしているのか、歩きながら近付いて聞く事は、さすがに出来なかったが、化粧の濃さといい、物腰といい、昔の面影を残しているのか、時代に取り残されての集まりなのかは定かではないが、奇妙に観音堂からの帰り道では、違和感なく思える。

 日差しが眩しく、春遅くとはいえ明るい日の光が、小山に囲まれた集落全体を緑色の記憶色として自分の脳裏に残されているのは、観音堂の趣と見晴らしがもたらしたものかも知れない。

 手宮交差点(信号は無かった)から市街地へ向かう。
見えてきた先の倉庫群は、小樽運河として観光名所となる建物であるけれど、運河というには密閉された空間に澱んだ海水が、ごみと共に異臭を放ち、港町独特の香りとは異なり当日の気温が高かった所為でもあるのか、鼻につく異臭が目に刺さるように飛び込んでくるもので、観光名所となってからの小樽運河とは一線を画する必要があると、記憶を消去しようとするが、鮮明に刻まれたものは消えないようで、観光目的で子供を連れて再来したけれど、綺麗に整備された運河周辺から、思い出すものは何も浮かび上がることはなく、運河周辺の倉庫群から海岸へ脚を運ぶと、懐かしい香りと古びた鉄錆と共に、浮かび上がってくるようで、目で得た記憶と香りから得た記憶は、同じ環境で初めて甦るものだと、30数年後に知るのである。
 広い道路周辺の散策は、自分の好みに合わないようで、自分は不思議と脇道へと歩を進める傾向にあるようです。

 町名は忘れてしまったけれど、職人街と自分は勝手に名付けた町並みは、鍛冶屋、竹細工店、金物屋、写真店、ガラス(浮き玉)店、眼鏡店や食堂が一直線上に並んで、散策というには一向に進まぬ歩が、示すように一店一店に趣があり、話と共に歴史と風土がこちら側へと向かって歩んでくるような、気さえ起こさせる家々があった。

 夕方になり、食堂へ入ってソバを注文し、空腹が満たされなかったので天麩羅定食を2人前、呆れかえったご主人と奥さんの顔と共に店を後にし、広い道を探して、繁華街へと自分の姿は消えてゆく。 

「ニシン網」
 恵久丸は、釧路港を出て根室海峡をオホーツク海へ出る。
国後島と、知床半島との境を一路、北へ針路を固定しまっしぐら・・・
 オホーツク沿岸の山並みと、千島列島の島々がだんだん小さくなって行く。
レーダーから、島影が消え画面には何も写らなくなった。
 「ワッチ」が交替で機関部と船橋部に2名ずつ・・・
レーダーにカムチャッカ半島が見えた。
 船は針路を北西に取る。
狙う場所は「マガダン」沖のタウイ湾。
 2百海里施行まで8年・・・
2百海里法・・・[海]1982(昭和57)第3次国連海洋法会議で採択された国連海洋法条約により、領海12海里(22.2km)とは別に、公海上に最大200海里(370km)の排他的経済水域(EEZ)の設定権が認められる。
 沿岸国による海洋資源の管轄権は認められているが、水域内は公海上のため、他国による学術調査や軍艦の航行なども基本的には制約できない。

 いよいよ気合いが入る。
ニシンの沖刺し網は、父と直ぐ上の兄と自分とで、オホーツク海に春先流氷が去った海岸沿いを、鍋釜を船に積み込み「上」は枝幸まで、下は斜里沖まで南下して操業をした経験がある。が・・・
 20数名もの漁船員との共同作業を経験をしてはいない。
場所取りが、いの一番である。この場所取りで、仲間内の立場も自然と決まって行くように。
 大ベテランの数名は、艫にいて、揚がってくる網を艫の甲板上に、次の投網を容易なように整理してゆく。機械化はされていません。
 船首側の網巻きドラムが、機械化と言えばそうなのだろうなぁ〜〜、位にしかなにもない・・・
 網揚げドラムの直ぐ後に、人一人が入る余裕があり、ドラムを操作するものの後で、ドラムから網を引っ張る役目。これには、中ベテランのものが交替であたるために、4人が、表側で網に掛かったニシンを外す。
 ドラム側と向かい合って、「あば」(浮子)側に6名が並び、1名は、揚がってくる網を、開きやすいように網を動かしたり、魚と網を操作する役目のもの、これは、ベテランの内、最も大ベテランに近いものがあたるようです。
 揚がってきた魚と網は、前と後ろに並んだ仲間が、一斉に前後、左右に網を開きながら、魚をふるい落とす。
 網に残ったニシンは、「あば」側の人間がそれを、船橋まで網が行く前に外すのである。 ふるい落とされたニシンは、船橋前の「間口」(1b)に木の柵を船首方向に、逆ハの字で取り付けられ、船首側から海水が甲板上を洗うように流れて、ふるい落とされたニシンを、「間口」まで押し流す。
 甲板下部には、冷凍班が待機して、甲板から海水と共に落ちてくるニシンを、「冷凍パン」と呼ばれる箱に並べ入れてゆく。
 並べられて満杯になった、「冷凍パン」は、急速冷凍庫へと運ばれる。
1室が3メートル四方の 冷凍庫が3室あり、1室には6段の収納スペースが設けられ、「冷凍パン」が立て方向に2枚、横方向に6枚、1段に「冷凍パン」は12枚、240kg。1室で72枚、約1,200kgを収容する。
それが3室であるから、一挙に3,600kgが入るのであるけれど、大漁とも成ると、フル回転状態になり・・・
 ニシンを箱に詰め冷凍室へ。
 冷凍室から出して、真水に「冷凍パン」を順次投入し、固いものに冷凍パンを当てて、ニシンと冷凍パンを剥離させる。これを「脱パン」と呼ぶ。
 「脱パン」した魚は、魚倉内へ入れられる。
 急速冷凍室の機能として、2時間で冷凍が完了。
魚倉内へ魚を入れ、冷凍室が空くと同時に、「冷凍パン」は冷凍室内へ・・・
 この繰り返しが、昼夜続くのである・・・。
魚倉内では、冷凍されたニシンを、整然と並べてゆくのだが、魚倉内は周囲1数bも在る上に、室温がマイナス状態。
 順序よく、切れ間無く魚倉内へ魚が運ばれるのなら、員数も必要としないが、大漁とも成ると、本当に目が回るような忙しさに変わる。
零下の気温の中で、周囲が冷凍機からのパイプの羅列が、単調に並べられている中で、作業をしていると、方向感覚が失われて行く。
 大漁になると、冷凍班が間に合わなくなり、魚倉班も休みのない状態になる為、甲板上ではニシンが山のように堆く積まれ、甲板作業員は次の投網へと、船尾側へ移動し、投網場所が決まる間だけ、休憩を取ることが出来る。
 その間も、下の甲板と魚倉内は挌闘が続いている。
順次交代で、朝食・昼食・夕食と食堂室へ向かっては、誰かが出てくるといったアリの行列、行進が行われる。
 網を投網してから、3〜4時間
その間に、下の甲板上にあるものを総て、魚倉内へ納めなければならない。
それが遅れると、船橋にいる船頭が降りてくる。
 自分は全く気にすることはないが、廻り、特に船頭と同郷の者達は、びくびくし始めるので、自分にはその様子がたまらなく愉快で、辛い作業なのであるけれど、一時の楽しみの一つともいえた。
 網を投入してから、いきなり大漁にぶち当たれば、3昼夜で魚倉内は満杯になる。
魚倉内が満杯になれば、陸へと帰港になるから、作業する間中、仲間内の関心事となるのは、魚倉内の収納状態の確認と経過に一喜一憂するのである。
 大漁になると、でも、大漁でなくとも、甲板上にニシンが100kgくらい、魚体を「むしろ」に覆われ、鮮度をわざと落とす。
 ニシンの腹が柔らかくなるのを待って、指で腹を割き、数の子を取り出す。
取り出した数の子は、海水で洗われ海水の張った、飲料水タンクへと入れられる。
 漁船員の「余禄」(よろく・・・まかない)になる。当時、20kg入れで、1万円でしょうか?一航海で一人当たり、4箱。自由に会社から許された「余禄」ですが、大漁の出来る船に乗っている者達は箱数は守るが、漁の恵まれない船頭の船に乗っている者達にとっては、「歩金」の配当が少ない分をこの「余禄」が、穴埋めに使われることが多い。聞くところの話では、20箱とも・・・!!
 独身の者にとっては、「余禄」が現金ならまだしも、現物支給の物は換金する手間が加わることになり、1箱1万円の相場の物が、1箱5〜7千円位に叩かれることになるのである。
 この差は大きい。
当時、高校卒業で、月1万円になったかどうかの時代。

 小樽港で荷揚げが終わる頃になると、何処からともなく、時間を見計らったように、仲卸人が船に近付いてくる。
 船頭のいる「ブリッジ」へ・・・!!
ニシンの数の子の買い付けに、段階が設定されている。
相場の買値は、船頭と船長・無線士・機関長などである。
 これは、この人達の力関係ばかりではなく、資格を有する人達ですから、一発で気持ちよく取引をしてあげないと、船員達の分を他所の仲卸人に変えられるからであろう。
 次に、甲板長・躁機長・「まかない」(船のコックさん)が、7〜8割で買い付けられる。
 船員の分になると、損をした分を取り戻すように4〜6割となり、実際の値段を在る例に見れば、船頭クラス1万円、甲板長クラス7千円、船員5千円という事になろうか?
 しかし、4箱で2万円には、なるのであるから多少気持ちは穏やかならざるものがあったとしても、心は夜の帳に向けられているものが殆ど。
 当時の時世で、一晩に2万円ものお金を使う人種は、港町では皆無でしょう。
 この後、釧路、函館、稚内と北海道の大きな港町を、知ることになる自分には、この時の2万円が、どんなに多額のお金であったかを、デパートの社長・冷凍会社の社長・商店連合会の会長等々の、階層の方々と知り合いになり、2万円ものお金が凄く貴重なものと思えるようになったのである。
 若い独身の乗組員は、貯金をするという気持ちすらなく、昼日中から街へ繰り出す。
自分は、港周辺を散策しながら、兎に角この町を頭に刻み込むことを念頭に、若い者と向かう方向を別にして歩き出すが、一人違う方向を向いて歩くのは、自分だけであるから、当然のように汚い言葉が自分に向けられるが、全然意に返さない。
 自分から、街へ向かう者達に夜に会えるから、構わなくて良い。「ほっとけ」・・・と!!
当時の手宮付近から、小樽運河を過ぎるところまで人も少ない。
手宮遺跡をあっちにこっちに、懐かしいものでもみるように・・・街へ続く道路から右手に逸れて手宮の山をぐる〜〜っとまわる。
 元の道路まで戻るのに要した時間は、幾らくらい歩いたのだろうか?
自分の歩調では、この山をぐる〜〜っと巡るのにはたいした時間はいらないはずなのに、懐かしさと、珍しさが混濁していたのでしょうか?
 元来た道へ向かって歩こうと、ふと足を止める!!
左腕の時計に目をやる。
 時間が、空模様がそれを許しませんよって・・・
街に向かう・・・
 街へ続く道と、運河を挟んで海岸道路が平行に続いている。
運河に沿って倉庫群があり、岸壁沿いに進むには、大きな荷揚げ装置や「ウインチ」が立ちはだかって、迷路のように見える。
 潮の匂いと油の匂い。
漁港とは違った匂いがこの辺りには充満している。
 自分には、恵久丸や他の乗り組んだ船などの、機関室の匂いに似ているように感じた。貨物船の錆びた船体と、金属音を奏でながら荷揚げをする「ウインチ」の音、船から延びるアンカーチェーンの軋む音と、アンカーチェーンと海水が奏でる音。
 日差しの暑さと匂いのきつさに、街へ戻るため運河を渡る。
運河前の倉庫群から対岸には、古びた家並みが累々と屍が横たわるように並んでいる。
現在のように、運河沿いに「ベンチ」など無く。
 雑草が芝生のように点々と・・・!!
その場所で、倉庫群の屋根から上に突き出るように、「ウインチ」が、錆びた色だが会社によって「ウインチ、の色が微妙に変わって、有るものは動き、有るものは廃棄されたもののように、「ウインチ」の先を項垂れているように下げて、もの悲しさを・・・
 陽が山に傾く頃になり、自分は駅方向へと歩き出す。
今で云うところの、「ウインドショッピング」か?
運河に背を向けて歩き出すと、繁華街と様子が一変する。
パチンコ、映画館、デパート群、商店街、やはり大きな街だったのです。
 時間つぶしには、あまりある多くの店並み・・・
 駅に向かって右手に、店並みの後に見え隠れするような、工場か作業所か、それらしい建物の連綿が続いて・・・
 反対に、駅に向かって左手方向は、商店群の後に、繁華街と色街らしき佇まいが、表の商店群から、ちらちらと・・・
自分が今晩目指すのは、色街とその周辺界隈・・・
 自分が働く前の北海道に、有名な色街が数カ所有り、札幌はその中には入っていない。
函館、釧路、小樽、稚内の色街の、多くの事柄は、先達の漁船員からも聞き及んでいたが、やはり一番耳に入ったのは、父の飲み仲間の会話の中から仕入れたもので、現在この船に乗り組んでいる者達は、この色街の話は興味が湧かない様子であった。
 街の繁栄の様子よりも、これから向かうところの「女」にしか興味は湧いてこないのでしょうね。
 でも、軽蔑する無かれ・・・
これから、釧路へ帰って、「銀タラ釣り」の支度を終えて、太平洋アメリカ西海岸沿いの漁場へ付くまで、この時の遊びの話で、船内の調和が取れる事を思えば、安い買い物なのです。
 船の重要な場所の人達にとっては、船員の「うさ」を貯められるのが、一番の悩み事であり注意を払う事柄なのです。
 狭い船内で、1年中操業と支度の繰り返しには、色話で乗組員が笑い合っているのが、一番の幸せとなるのですから・・・
 これ以上、この時の自分の行動と話術は、推測をしてください。
一月もの間、若い独身の男が働き尽くめで、その仕事から解放されたとき、取る行動にはストレスの発散。
 その瞬間は、推して知るべし・・・
これから、港を離れ
一路、釧路港へ・・・
ちなみに、ニシンの水揚げ港は、小樽港で、銀タラ釣りの水揚げ港は、東京晴海埠頭。
東京では、考えられない行動を自分はするのです。