明 神 丸

明神丸漁業


イカ釣り                 流し網

     

下の写真は、明神丸ではありません。が、よく似た写真だなぁ〜〜なんて思いましたから

明神丸漁業      石巻市湊町

第28 明神丸    96トン   北洋鮭鱒流し網  母船式流し網漁船

鮭鱒流し網漁(母船式)

日露漁業所属  1船団23隻



4月15日 石巻港にて、整備のために上架する。
       電気関係・油圧関係を整備する。
       この地域には、日本の最前線の造船技術を持つ東北造船がある。 アルミ船の技術としては、官公庁の船舶を手がけてる。
       油圧は、自分が見た感じでは最前線の技術を持つ技術屋が多く、この地で油圧に興味を持った。
       船用主機(外燃機関)蒸気タービンの勉強を始めたきっかけの土地です。



4月27日 金華山にて、玉虫を捧げ島の周囲を何十隻もの満艦飾に飾った船で、廻る様は圧巻でした。
       港へ帰港する前に、外海で若い者が海に潜り北洋鮭鱒流し網の漁に使う、船の脇に取り付ける網を潜って固定する作業を行う。
       流し網にかかった魚が、外れても網の中にに収納されるために使う大切なものです。



5月11日 函館に全国の母船式独航船が集結する。 全国に漁師が数多くいる事は、皆さん存じていると思いますが、この時期北海道の多くの港で鮭鱒の船が集結をしています。 根室港、釧路港、室蘭港は「サクランボ」と言って10トン以上の船体を、オレンジ色に着色した独航船が集結する港です。 落石港、釧路港、広尾港・・・などは、5トン未満の白い船体の独航船が集結する港。それらに対して函館港は、ベーリング海に母船式として出漁する百隻を超える多くの船が、許可が出るまでの間の数日間集結しています。 福島県、宮城県、岩手県、青森県、北海道の漁師が函館の港や街に溢れかえるのです。 買い物や、遊行や、観光(極々少数)など、歩き方や服装で、ある種嗅ぎ分けられるものです。周りにいる漁師の出身は・・・・。こんな状態ですから、何かが起きない筈はなく、警察も承知はしているのですが、数が多すぎますから、重大な事犯しか取り締まりの対象とはなりません。 漁師同士のいざこざや、喧嘩、暴行など、市民にも多大な迷惑のかかる事態も予想される時期です。 船から一歩足を離れれば、眼光鋭く注視しなければ自分の身が危ないのは当然です。 観光などに想いを馳せる暇もなく、当然の事ながら夜の街へと・・・・ヤクザが大挙して押し寄せているこの町を、平然と歩き回るわけですし、店から店へとはしご酒をわざとする事も、見栄のうち。 女の取り合いなどは当たり前の状態・・・各自が血眼になって、出身地の見栄を張る。そのうちに店の女の取り合いに・・・そこに素人の女性がいても、素人の女性とは考えもつかない世界です。 路地裏、店の裏、店の中、阿鼻叫喚の騒ぎが、幾時間も続く・・・・結果、出漁をし、港から船が離れるその時に、テープの数がどの船が一番多いか、どの船団の出漁光景が華やかなのかを競う。 だから本州から来る船の漁師は、家族を絶対に函館の地に呼ぼうとしないのは自分なりに分かると、その当時は思ったものです。
       大門界隈は、若い者でごった返し、北海道のやくざが集結してそれに対抗するために東北のやくざも集結するという漁師も、その頃は一つの船に何人かのやくざが乗っていて、漁師もやくざも見分けがつかないような、そんな時代でした。



5月23日 独航船出港一路ベーリング海へ
     
出港から8月の帰港まで、地獄のように毎日が過ぎて行く。
朝も昼も夜さえなく、唯毎日揚網、投網を繰り返す。
筆舌に尽くしがたい仕事である。
然し、金にはなった、当時家を新築するのに大体300万円くらいで出来上がった。
給料が21万円家宅送金される、歩金として船によって違いはあるが、250万円〜300万円になった。
が・・・・
自分の手元には1円も入らないのが現実であった。


宮城県石巻市湊町 明神丸漁業

不思議なことが自分にはよく続く、明神丸には函館の大門町の居酒屋でいきなり知り合った、明神丸の甲板長が何故かお互いに気があい乗船を快く引き受けてくれたのでその晩に、船に寝具を持ち込んでの乗船となった。 漁を終え石巻に帰港して甲板長の家に行き遊んでいた。 晩御飯をご馳走になりさぁ〜〜〜飲みに行くかというので、自分は初めてきた街だから皆目見当もつかないと・・・・!!
 何を心配しているとたしなめられて、湊町を出て八幡町から中央町へと続く、石巻大橋を渡ると石巻ハリストス正教会が見える。 この教会は橋の下にあり川の中州にできている建物で、古風な建物ではあるが好きな景観と感じた。 橋を渡ってまっすぐに進み石畳の店通りを抜けると、飲み屋街が見えてくる。 薄暗くなり店の並びをどんどん進んでもまだつかない。 初めて歩いている自分にももう賑やかな界隈は終わりに近づいているような・・・そんなはずれのとある、居酒屋・・・「綾」・・・・何故か吸い寄せられるように入ってゆく自分がいます。 店の中に入ると畳六畳分しかスペースがない。 客がカウンターに4人座れば満員となるような小さな店・・・「綾」・・・誰もいない。 甲板長がこの店は自分の姉がやっている店なんですという。 小一時間はたったと思う、店には誰も居ないまま時間ばかりが経って、そろそろ帰ろうかと(船に)自分が席を立ったとき、店の戸がカラカラと開いて、年のころなら34〜5歳の女性が入ってきた。 3ヶ月女性に接していない自分です。 観音様のように思え見えたとしてももなんら不思議なことはない、砂漠でのどが渇ききったとき、オアシスを偶然に発見し呆然となっているような状況と考えると分かりやすいかも。 綺麗で清楚で・・何にも変えがたいもののように見える。 甲板長が姉が店に来たときを見計らったように、彼女のところへ行くから姉さん僕の大切な仲間だからよろしくと言って、店を出て行った。 お姉さんこと女将は、今日は貸切にしましょうねと言いつつ、中から鍵をかけ暖簾をしまったときには自分の心臓は爆発するかと思うほど高まってくるのが分かった。 でも、待てよ・・・・そんなに世の中うまく行くものなのかな? うまく運んだら幸せだろうなぁ〜〜〜なんて
 若い者だから、何かを連想したとしてもそれは許される範囲でしょうね、石巻市は北上川が流れそそぐ河口にあります。 すぐそばには日和山という小高い庭のような山があり、椿が一面に咲き誇って「義経伝説」があり 
 「義経伝説」
 奥州平泉に弁慶と佐藤兄弟と郎党を含めて、源頼朝の征伐軍と藤原軍とに急襲され、高館にて自決したと言い伝えられている義経ですが、生き延びていた。 それを前提に各地に義経に関する伝説が生まれたのだが、この石巻にも義経に関わる伝記がありました。 平泉を落ち延びた義経一行は石巻の地方豪族佐藤・・?氏に逗留し娘との間に子を設けていました。 頼朝の追及は石巻にもおよび、義経が船で現在の青森へと落ち延びるのを、崖の上から見送って子どもともども身を投げたと言います。 その身を投げた辺りに姫の想いが白鳥となって飛び去った跡に、椿が一面に咲き誇るようになったと言い伝えられています。この伝説は、そっくり同じものが「八戸市」にもあります。
 この他にも、日本各地に義経に関する伝説が後から後から生まれたのは何故でしょうか?
自分が考えるに、あれほど栄華を極めていた奥州の藤原氏が、義経の自決した後、これといった戦いもなしに歴史から消えた事が上げられます。 不思議でしょう? 京の寺院や貴族に沢山の寄進をし、外国に金を送って経典や職人を求めていた位の、その当時としては朝廷を凌ぐほどの財力を誇っていた藤原氏です。 戦いが終わって、藤原氏が滅亡したとしても財力の元となった職人や、戦力はどこへ行ったのでしょう? 日本の歴史から忽然と姿を消してしまったのです。 自分は石巻に足をつけてその伝説に触れ、学生当時から不思議に思っていた古代史の欠片が、学者先生たちの史実を基にした歴史と言うものに疑問を持ったものですから、ふと・・・・
 歴史学は、疑問から調査をしても面白い学問だなぁ〜〜〜と

神社に史跡もあるようです。 女将の家はそのほとりにあり店が12時まで営業といっても、貸しきり状態だったから5時間も二人で飲んでいた事になりますか、家に誰もいないから泊まってゆきなさい遠慮はいらないからと、弟が世話になった人だからと・・・・こんな店をやっているけれど家に男の人を連れて帰ったことはないのよ、出戻りだから世間は違った目で見るから神経を使うのよと言われ、疑いもなく入ったのを鮮明に記憶しています。 北上川の流れと、女将の後姿が重なり切なくなるほど抱きしめたくなった、21歳のこと。 これが笑っちゃいます・・・・

 自分が紋別に親と暮らしていた、小学2〜3年のころアパートの隣に暮らしていた若い人がお嫁さんをもらいました。 何年暮らしていたのか定かではなかったのですが、いつの間にか別れて実家へ帰ったと聞かされた事があります。 女将の家でテーブルを挟んで椅子に向かい合って座り、どちらからともなく手を取り抱き合ったとき女将が、あれ、どこかで逢ったことがあると言うのです。
 自分は初めて逢ったばかりの人で、いま自分の目の前今にも唇が触れ合う距離と時間に・・・・あれ?
そうなんです。
隣にいた若いお嫁さんでした。
そう聞かされ自分も、少しずつ記憶がよみがえります。 そうなったら後は、昔話の朝までの時間・・・・
お茶でおなかがパンパンに膨れ、何度トイレに通ったことか・・・・
不思議な因縁ですよね。
 それからは、美智子といいますが。その人の家というかアパートからの会社・倉庫への出勤となりました。おおよそ一月の間その人と暮らしていたことになります。
 夫婦気取りで、店に行くのを引き留め。二人で石巻の街を買い物に、映画館に、公園にと・・・・
自分が所帯を持ったら、こんな暮らしをしたいし、このような女と暮らせたらと、何度も思いましたし話をしましたが、その度に、馬鹿じゃないの〜〜〜〜と!!
 貴男みたいなまじめな人に、自身は似合わないと・・・
ただのおばちゃんだよと・・・
 石巻の地に足を踏み入れてから、ほとんどの時間と日時を二人で共有していたはずなのに、一度も抱かせてはくれなかった人との、気恥ずかしい思い出です。
 その分、他で発散出来るように、色々と手を尽くして自分の性の処理もしてくれた人です。
自分が「明神丸」から下船すると決断したときに、連絡をしたらその方が良いと・・・
このままでは、自身もつらいから、その方が良いと・・・
 それきり、もう、三十有余年もの月日が流れています。


 鮭鱒漁が終わると、明神丸はサンマ漁の支度にかかります。 鮭鱒の操業に使った漁具を会社の倉庫や機械屋に片づけた後、船は大船渡へと回航しサンマの支度へ。 此処でも面白い話が多かった。 支度が終わる15日間、遊びました。遊びまくったと言った方がよいかも・・・・
 風光明媚で、気候も申し分なく、釜石の街と並んで自分の好きなところです。リアス式海岸も港の発展には、欠かせない理由も勉強になりましたし、青島から、松島、珊琥島、水鶏島、琵琶島、かき養殖場を経て港へと入ります。本増寺へは、またまた真っ直ぐに行けました。