高 校 生 期
自分の高校生期は、北海道立紋別高校、43回生2年生から紋別北高校と、紋別高校水産科と花園高校との合併にて、紋別南高校となる。
これにより道立紋別北高校は、普通科、商業科になり簡素化が図られた、
自分は授業料が小学校から中学校にかけて、殆ど滞納かアルバイトのお金を入れていたが、子供の稼ぎではたかが知れている、自分はどうしても高校は行きたかったので、定時制を受験入る。 勤め先は、誠工藝社(看板屋)で有るがその前身の網走管内の看板店の殆どが集まっていた紋別工藝社にて1年間を修行する。
この看板店の修行が自分に今も大きな財産となり、船で旅をしていた当時も、此の手職が、どこへ行っても引っ張りだこにて、日本中を旅をする大きな要因となる。
その当時の時間割を。
午前 6時 牛乳配達 喜信堂
午前 8時 誠工藝社勤務
午後 5時 終了
午後 6時 紋別北高校
午後 9時 終了
午後10時 家庭教師 宇野
午後11時 帰宅
アルバイトで、屋根のペンキ塗り、 店の内装 これらが結構お金になり、高校の授業料の足しになる。
長男政春結婚して家に同居するも、折り合いが悪く家を出る、青森の姉嫁の実家を頼り、姉嫁の兄弟と友に東京の長女節子姉さんを頼りに、東京へ次女洋子姉さん結婚、宇野洋子となる(興部の実家へ)次男治男結婚(登女子)兄弟がこれ以降、東京と紋別に別れることに為り、これ以降何かと諍いが耐えなくなる。 自分の兄弟は皆、家を手伝い給金を家に入れるか、親が働き口に出向き、給金の前借りをして行くので、まともな付き合いをしていた者は居ない。
本当に両親とはなんたる親であろうか。
子供が家の力になるのは当たり前と言うが、其れにも程度がある。
自分の高校生の学校生活というモノは殆どがアルバイト、同級生のいろんな話を唯聞くのみにて、別世界の観があった・
学校祭、文化祭、仮装行列、フアイヤーストーンこれらの殆どが参加はしていない、仕事をしていないと授業料が支払えないので、致し方がないところ。
でも、修学旅行だけは、毎月内緒で積み立てて置いたので参加を出来た。東京、日光,京都、大阪、姫路総てに思い出があり、何にも代え難い自分の生涯最良の想いで。
この頃の高校の授業料は2,700円、看板店の給料は3,500円、授業料を支払うと残りは800円しかなく、バス代にも為らない。自ずとアルバイトに精を出すしかなくなる。
総ての事が終える、夜11時以降のアルバイトは、若い体にも結構辛い物があった、看板店の仕事はあの当時は結構忙しく、正月の飾り付けや初売りの看板、桃の節句、端午の節句の売り出しのチラシのデザインや看板、入学の売り出し、まつりの看板、お盆の提灯作り、秋祭りの出店の看板、クリスマスは特に忙しく、暮れの商戦へと休む間もない程の忙しさであったのが今ではとても懐かしい思い出。