地域の概要
郷土の変遷

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1) 位 置   東自治会は網走支庁管内のやや中央部に位する湧別町市街の東南約3キロメートルに位し、東はサロマ湖畔、テイネイから南は福島地区芭露本間沢に燐し、西は東1線をを境として本町市街に接し、北はオホーツク海に面する東西に4・3キロメートル、南北に約6キロメートルに亘る地区である。
 当初は6号線を境として福島地区と接していたのだが、平成10年自治会合併により湧別町串間地区も東自治会となり広大な区域となった。

2)地名の由緒
    (ゆかり)
 湧別の地名ゆかりについて調べるに、「湧別」とは、アイヌ語の「ユペ」(ゆべつ)より出て、鮫(アイヌは鮭のことを鮫といった)
 多きにより、また湯ノ川を意味しているという説が、町名の由来だと湧別町要覧に明記してある。
東部落の地名は、他の部落の様に、例えば「パロー」「ポン川」と言う様なアイヌ語の由緒はない。区画整理の時点で湧別川の東側に位置する所から「東」と名付けられたのだと思う。
 「テイネー」については、アイヌ語では、湖岸で張るの融雪期には冠水するような低湿地という意味がある。

3) 沿 革  植民区画測量実施後、川西4号線と同様、明治27年以降東1線以東地域も貸付戸数、151戸の農業移民の計画がなされた。
 明治29年、湧別原野殖民地の貸付告示されるや東部落への入植も始まった様であるが誰が一番早かったのかは定かではない。
 然し、古老の話によると明治29年、30年、31年頃の入植者として左記の人達があげられている。
 八木徳太郎、佐藤 善蔵、 松下栄五郎、高橋長四郎、三木貫太郎、板東竜太郎、野口 周蔵、吉泉 金作、
 畑田 春松(テイネー)、小野寺嘉蔵、福本芳太郎。

 さらに数年遅れて入植した人達につぎの人達があげられている。
 海谷与右門、吉田新治郎、石山 平治、鹿の内幸助、小野 一二、武田 宗助、小野 丑、菅原 末吉
 山田 光治(テイネー)。

 未開の原野に入植した住民は、生活圏内の地域性に支配され、公共施設の整備を通し部落構成の共同義務を自然発生的にぶんたんしなければならないものであった。
 学校教育や産業開発が進み、部落活動の分野が拡大されるにしたがい部落共同体は機能化し行政的にも関連が深いところから部落は末端行政区として「部」が設置された。
 明治39年、2級町村制が施工後に指定された湧別村の初村会に「部長規則」案が提出され、全村38区を統合して21部の創設となった。
 東植民地区は8部となり長岡辨治を部長に指命した。
 明治43年上湧別村の分村により大きく縮小した。下湧別村の行政借置として部長制に基づく部の改編が行われ村内を12部に分画した。
 昭和4年、数字の区名がまぎらわしく昭和2年に区長制度が施行されたことなどから字名を冠することと具体的な地区名をすることに改正された。東部落の決定名称は、東殖民地から東と命名され現在に至っている。また、昭和6年2月、福島団体区が分離され、平成9年までの間それぞれの活動を続けてきたが、翌10年3月両自治会が合併して東自治会として現在に至っている。
 ながく植民的様相で放置されたこの地区の農業は、生産力が低く、農業自立が困難なため賃労働に追われ、農業外所得の依存度がきわめて高かった。すべての物資が湧別浜で荷揚げ積み込みされたため、夜中でも全戸が働きに出て賃金を得、さらに鉄道敷設工事には、全戸が出役したと言うことが古老の話から聞かれ、当時の真相がうかがえる。
 畑作農業では、経営確立の見通しが立たなかったこの地区に、昭和6年、湧別土功組合の設立で水稲栽培が可能になり、一条の活路が開けるにおよんで、造田化とともに、小作人がどんどん入地して戸数も急激に増加した様である。期待された水田も6,7年の連続冷害凶作でみじめな結果となり、さらに9年、10年と凶作が相次ぐに至って農家経済は破たんを来し、窮乏のどん底に落とされた。これによって、小作農は脱落転出するなど、農家戸数は極度に減少した様である。
 水稲栽培に魅力をもつ、小作人が増加した頃80戸位に増えた部落の戸数も昭和9年、10年の連続しての収穫皆無により、35戸、6戸に減少したと古老は語る。
 相次ぐ冷害凶作で土功組合設立当初の借入金や組合員の賦課金の滞納などで、土功組合はもちろん、農家個々も営農至難に陥ったため、危機打開の政治的解決運動が起こされた。
 そして昭和20年、自作農創設による更生計画が認められて、国からの助成金32万7千余円の交付を受け、負債金額を繰上げ、償還して個々の農家の負債も整理解消され、最も苦しい水田耕作の時代は脱却した様である。
 しかし、水田と畑が入り混じっての耕作のため、畑地帯の土地改良に困難をきわめ、さらに度重なる冷害凶作による経営不安定から部落の中では水田耕作転換の論議が交された。
 年次毎に段階的転作、或いは水田を集約して耕作等様々な論議がなされたが、39年秋、部落の臨時総会に於いて水田全面廃耕の議決がなされ、32年間の水田耕作に終止符が打たれたのである。
 廃耕後、町、農協が一体となっての強力な営農指導と明渠排水事業、暗渠排水事業、土地改良事業、草地改良事業等、東地区に投入された国費、道費は約24億円にのぼった。
 昭和55年現在の状況は次のとおりである。
 耕地面積  約1300ヘクタール
 乳牛頭数       2,190頭
 牛乳出荷屯数 6,351屯
 農産物生産高 約1億4,800万円
 世帯数   114戸 人口500人

3) 福島団体  上湧別村界6号線から9号線間湖畔に達する一体は兵村給与地として上湧別村有財産に帰属し、開拓の行われない所であった。
 大正5年、当地域外の10号線東7線から10線に及ぶ81町歩余の植民区画が実測され売払処分が告示されてから福島県より佐藤源治を団体長として、13戸の入植があって農業開拓が開始された。当時の入植者は佐藤源治、西川三次、梅田、佐藤栄太郎、遠藤彦三郎、佐藤金次郎、西から藤次郎、杉本佑進、遠藤一見、佐藤定二、その他は不明である。
 昭和6年、東から独立し福島団体区とされ、同年屯田給与地が解放された。
 昭和9年、上川方面から木下宇八、横関治平、若松卯吉、山本安一ら13戸の移住者が入植するに至って、開拓も安定し、戸数も次第に増加するようになった。しかし、入植地の立地条件が悪く凶作等もあって入植者のほとんどが営農意欲を喪失して他に転出し、残された者も国道沿いに入植した人々を主とするものでその内容は一変した。
 以来水田畑作の混合農業を主体として継続し、戦後緊急開拓地区の選定もあり19戸の入植者を受け入れたが劣悪な土地条件に災いされ営農が困難となりたいくさんの脱落者があり、部落戸数も昭和30年の52戸をピークに39年43戸、平成9年14戸と減少の一途をたどり、ついに平成10年3月東自治会との合併に至った。

4)東自治会世帯と人口の推移
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大正 2年    30戸
昭和 9年   79戸
昭和35年  124戸   812人
昭和37年  139戸   748人
昭和40年  128戸   676人
昭和43年  122戸   587人
昭和46年  119戸   546人
昭和49年  115戸   520人
昭和54年  114戸   500人
平成17年  215戸   595人

2,郷土の変遷
(1)先住民族の歩み  湧別市川遺跡
位 置
 湧別市川遺跡は、東3線市川浩の所有地で湧別市街地から東南方約2キロメートル、海岸線より内陸へ200メートル余りの地点で、標高わずか5メートル位のところにある。

 調査が始められた背景
 昭和30年7月、北見地方の遺跡を調査中の北海道大学医学部解剖学教室、大場利夫教授が当時本町に在住していた小川市十の資料を見て、その中にかなり多くの無土器時代の遺物が含まれていることを知り、この事実に基づいて、オホーツク海岸ならびにサロマ湖周辺の丘陵一帯に存在している遺跡について予備調査を行い、表面採集の結果、この地域一帯にわたって石刃鏃を伴うプレート文化の遺跡が存在することを認め、翌31年7月24日から6日間にわたって調査を行ったのが始まりである。
 その後、46年11月、網走開発建設部が47年度において東地区国営直轄明渠排水事業を実施する計画を知り、関係機関との再三にわたる接渉の結果、国費をもって湧別市川遺跡の緊急発掘調査を実施することになり、幸いに大場教授の推せんにより、札幌大学文化研究所木村英明所員の絶大な協力を得て、47年7月16日から8月24日まで、38日間にわたり本調査を行った。
 石刃鏃が「大陸より樺太、北海道を通って、日本原始文化の上にこの種の系統が伝播せられたことのように考察せられる」とした見解は、十勝郡浦幌遺跡の発見と同時に大きな影響を与えることとなった。
 以下発掘の成果については、48年3月、湧別市川遺跡調査団と湧別町教育委員会発行の「湧別市川遺跡」を参照せられたい。
 なお、調査団の構成と協力メンバーを列記する。
 東北大学大学院、明治大学大学院、北海道大学、札幌市教育委員会、明治大学、札幌大学
 札幌商科大学、北海道大学理学部地質学鉱物学教室、北海道開拓記念館(以下17名)
 湧別高校教諭坂上雅亮以下郷土史研究部(6名)
 現地での協力者(16名)
 湧別町教育委員会畑隆三、黒木武雄

 東3線遺跡及びポン沼遺跡
 東部落には、石刃鏃遺跡のほかに縄文土器の遺物包含地区が2ヶ所ある。
 東3線遺跡は、5号線道路、基線から約1,5キロ東へ入った部落の一段高い場所で、伊藤孝所有地で発見された資料はかなり多く、遺物の多くは土器並びに石器であるが、資料によると縄文文化早期のものと思われる。
 ポン沼遺跡は、東4線で海岸から約500メートル内陸の地点にある小さな沼のほとりで、ここの遺跡は縄文とは異なり押型文土器である。本地点出土のものは破片のみで、温根沼式か神居式か明らかでない。両地区の出土品については、湧別町郷土館に保管されている。

(2)土功組合  土功組合創立時役員
湧別地区発起人
 佐藤 善蔵 武藤 富平 島崎 卯一 伊藤惣太郎 山田増太郎

湧別地区代議員
 谷虎五郎 刈谷鋭太郎 鹿の内孝助 伊藤惣太郎 佐藤 源治 武藤 富平
 土井 重喜 小野 一二 島崎 卯一 佐藤 善蔵

 昭和4年6月13日、網走支庁長を組合長として設立許可をみた湧別町別土功組合は、大正12年増田熱の風潮を受けて、農業発展を米作転換に求める上湧別の沢口作一、東の伊藤惣太郎ほか10名が発起人となり、土功組合設立を企てたことにはじまる。7年の歳月を経て昭和4年、ようやく実現したものであり、許可面積2,101町歩は湧別川水流を灌漑する両村に跨り、本村東地区776町歩が包含され、同地区は泥炭湿地、重粘土など悪質土壌地帯が多く、植民解放以来農業自立見込薄で定着する者少なく、畑作不振地帯として省みられない処であった。
 したがって、水田造成は東地区開発にきわめて重要なことから町でも水稲耕作実施指導地の設置、あるいは補助金申請をまって客土の実施を奨励するなど、積極的な助長策が講じられた。一方、水稲栽培に魅力をもつ小作入植者も増加して、部落戸数は80戸くらいとなり振興の気運漲るものとなった。
 昭和7年、総工費34万6402円で、灌漑工事完成とともに栽培された水稲は、前年に続く冷害に遭遇して皆無作となり、当時世界的経済恐慌で不況のどん底に喘ぐ農村は疲弊の極にあったことからも、その打撃はきわめて大きかった。翌8年は反当5俵近い豊作で苦労の報いはあったものの、経済環境は立ち直らず全国的な豊作で、米価は1俵当り昭和2年13円、昭和8年8円と低落し、豊作貧乏の悲しい言葉も使われるほどのものであった。だが豊作で元気づいた栽培意欲は次表のように翌9年水田面積のピークを現出するに至った。

 昭和 6年   337町歩
7年   341町歩
8年   363町歩
9年   590町歩
10年   565町歩
11年   352町歩
 そのかいもなく9,10年と皆無作が連続して、水田に主力をおく農民は絶望のどん底に落ち込み、小作人はいち早く他に転出し、自作者といえども造田資金の負債に耐えかねて脱落する者続出し、本部落は37,8戸に減少したという程悲惨な状態に陥った。
 11年反別の減少もこの実情の現れとみられる。土功組合もこの様な現状を反映して、設立当初の工事借入金17万9920円は償還の見通しも立たず、財政運営はまったく行き詰まりとなった。これが打開の方法は昭和13年刊「北海道土功組合史」に次の様に指摘している。

 「財政将来の懸案、工事費及び冷害凶作に因る財政経理、其の他に充当したる公債の未償還額は42万5492円にして反当負債額は20円強なるに、更に地区整理を行うに於いては50円に垂んとする現況にして将来これが重荷に堪えざる所なり。依ってこれが対策として極力低利債の借替に因る負債の軽減を図り、他面地区整理に依る除外地に対する工事費、其の他の公債は政府の特別助成に依る恩典に浴して其の償却を企図するの外なしと思料す」すなわち地区整理による政府の特別助成にまつよりほかなかった。昭和13年、地区面積1632町歩の縮小認可も現地の的確な調査に基づく更正策であったとみられるが、栽培意欲を失った組合員は新規造田はおろか既成水田も不作付、また畑地に還元する者が増加して、組合財政はいよいよ窮迫し運営至難の状態に陥った。危機打開策は残された国の助成にまつより術なく同一条件に喘ぐ他の土功組合と歩調を合わせ政府的解決運動が展開された。
 昭和19年12月、「土功組合地区内農地更正助成要項」が定める、当時の食糧増産に付随する土地改良および自作農創設対策に便乗して更生計画を樹立し、これが認められて20年5月、助成金32万7957円の交付を受け、40万9000余円の負債金額を繰上げ償還して組合再建をみるに至った。これと同時に組合員個々の負債も解消されて永年の重圧から脱出する事ができた。されに健全運営を確立するために23年、地区整理を実施し地区361町歩の内「湧別町108町歩」の認可を得て、その後組合財政は円滑に運営された。24年、土地改良法の施行に伴い土功組合は廃止され、新法による湧別土地改良区が発足した。その後の水田面積はつぎの様である。
      東地区(東、福島)156町2反
 24年、土地改良区の発足に伴い、組合の長期の負債も解消され、組合は健全に運営され、更に水稲耕作の技術の向上、そして戦後の食糧難による米のすう拝観念もあり、耕作は安定したかに見えたが、28年、29年の連続大凶作により、水田耕作農家は自家飯米にもこと欠く事となり、農業経営の安定を望む酪農転換への気運も高まり、土地改良区理事会での上湧別地区理事の強い反対にもかかわらず、39年、東部落全面廃耕により東地区は土地改良区から脱却したのである。
 福島地区はその後も(45年)まで水田耕作を続けた。

(3)森林愛護組合  国有保安林を山火事や盗伐の被害から守るため、本町には大正3年森林防火組合規則が制定されて山火帽子に地域住民の協力を求め組合設置に補助金を交付されるようになった。
 戦時中は部落会機構の中に統合されて森林防火部と改められ組合機能も引き継がれた(町史より引用)
 戦後部落会の解体で自然消滅した協力体制は22年森林愛護組合設置要項の制定と共に組合結成がなされた。東地区においては昭和30年2つの組合が相次いで結成された。その一つは佐藤慶一を組合長として東の一部を含んでテイネー地区の人達25人の組合員によって結成がなされテイネー地区の保安林の管理に当たった。後高野国太郎が後任組合長になり活動を続けた。もう一つは松永忠一の声かけにより30戸の組合員によって結成され2号線沿いの保安林(現湧別牧野内)の保守管理に当たった。また愛護組合のもう一つの目的として薪炭材の供給がある。当時は冬期間の燃料は薪を焚いていたので多くは芭露方面から払下を受けて切り出していたが、近隣にある国有林内の風倒木や枯損材の払下げを受け薪炭材として利用していた。
 経済の復興と共に燃料も灯油に変わり愛護組合も休止状態にあったが、平成15年営林署の統廃合と共に当組合は解散した。

(4) 湧別軌道  昭和4年、嘉多山寛、安藤経歳らが発起人となり、札幌市の福山甚三郎を社長とする湧別軌道株式会社が創立された。
 そして、湧別市街、テイネイ間に軌道敷設,ジーゼル動力車によって、貨客運輸が開始された。旅客輸送は、1日定期便3往復、貨物は随時運行で荷物の積卸は、荷主の直接扱いとする営業内容であった。全盛時代は、サロマ湖に流送された木材を主体として、また海産物などは常呂、佐呂間の生産物も船で廻送され、この軌道を利用したと言われている。翌昭和5年、計呂地まで軌道延長を計画した会社に対し、同年4月26日村議会で大口丑定議員の建議案が採択され、請願書が関係官庁に提出された。
 しあkし、これは実現されなかった。昭和10年、湧網線の開通によって会社の業績は著しく低下し、13年、テイネイから東の中央部を走り部落民に親しまれた軌道は廃止され、同時に会社も解散のやむなきに至った。

(5)湧別運河  大正10年頃、宮崎正一(今の尾萩、三沢義男宅の附近)が亡父の遺志をつぎ、サロマ湖と湧別港を結ぶ大運河の開さくを計画、札幌および東京方面からの出資交渉に成功、道庁の認可も得て着工した。然し予想以上に困難な仕事(当時は勿論、スコップのみの作業)であって約4粁ばかりを開さくしたところで中断のやむなきに至った。
 今もポン沼までは各河川の水のはけ口として利用され、運河の跡は残っており先人の大いなる夢を後世に伝えてきた。

3地域文化の歴史             上へ
1)学校の沿革  紋別村外9ヶ村戸長役場当時の、明治30年6月1日、湧別尋常小学校(当時4年制)の設置認可となり、高島郡稲穂尋常高等小学校訓導松永嘉一初代訓導が任命され、6月15日真宗大谷派説教場(現真宗寺)を仮校舎として開設される。児童数1年生18名、2年生、19名、3年生11名、4年生8名、計56名。
 翌、31年3月、基線「旧湧別小学校」(現 総合体育館)に湧別小学校として教室20坪、職員室4坪、住宅19,5坪の校舎完成。
 34年、児童数131名となり、2学級編成となる。同年7月10日、菅原繁蔵初代校長に任命される。この初代校長菅原繁蔵は、東3線菅原末吉(現菅原正)の所から通勤した。

 <東教授場開設>
 明治43年12月23日、通学区の東部落に低学年「1,2,3年の複々式1学級」の特別教授場を開設。刈谷鋭太郎教師となる。その時の児童数15名であった。
 2号線道路の開削が明治40年であるから、東教授場の開設はその3年後になる訳である。場所は今の東農業研修センターのある所で学校敷地は石山平治が提供したとの事である。その時の学校生活について「小野宇次郎は、4号線道路はテイネイ迄、人の歩くだけのぬかるみの湿地で所々に丸太が敷いてあった。」
 「押野とめよは、3号線道路は道の両側に草が繁り、道のふちに熊の新しい足跡があって驚いて逃げ帰った」と想い出を語る。
 この東教授場は開設されたわけであるが、西の開拓進度に比べ東一体は湿地帯のため、定住する者も少なく、東地域一体は湧別小学校通学区に編入された。刈谷鋭太郎は、教授場廃止後も学校跡地に居住し、東部落の一員として農業に従事し、昭和50年90才の生涯を終えるまで東部落発展に大きく寄与した。
 刈谷先生が亡くなったいま、その当時の在籍児童名簿がないのは誠に残念であり、この記念誌発刊の遅れた事を悔やむものである。刈谷先生の教え子で東に居住していた人達の内に、伊藤金一、小野宇次郎、伊藤久由、吉田実、菅原トメ、押野とめよ達がいた。

 <東湧小学校の開校>
 湿潤地帯を有する東地帯は定着する者少なく、西の開拓進度に比べるべくもなかった。したがって教育施設も明治43年の東教授場の設置で川西同様の発足を見たが、農業開発の停滞から大正13年に廃止され、東地域一帯は湧別小学校通学区に編入された。
 大正6年、入植者を見た福島団体地域その周辺は、中湧別に近く通学に便利なことで中湧別小学校に委託借置を講ずる実情であった。
 戦後、不良土壌地帯に土地改良を施す緊急開拓政策による放置された東地区360町歩に20余戸の入植計画の実施は、開発の将来性と教育人口の増加に対応する学校設置の必要を生じ、昭和23年、開拓地学校設置国庫補助金をもって東7線(現東寿の家)に90,25坪の校舎を建築した。同年10月1日、通学区域を東5千と4号線間の排水溝以東全域と福島団体全域と定め区域内69名の児童を入学させ、2学級編成の東湧小学校が開設された。その後開発が進むにつれて児童数も増加し27年12月、後者40,5坪の建築、翌28年3学級編成となった。

 然し、複式学級の解消により充実した教育をとの湧別町教育委員会の方針により、川西、信部内、登栄床、確証学校と共に48年3月を以て湧別小学校に統合された。廃校時の児童数45名、廃校迄の卒業生は428名を数えるに至った。
 後体育館以外の後者は改築され、東湧寿の家として東の一部及び福島住民の社会教育や老人クラブの人達の憩いの場として、活用されていたが、老巧化のため体育館のみを残して取り壊された。







 <児童数の変遷>
 年 度   学級数  児  童  数  卒業者数 
 男   女    計  
23  34   39   73  11
24 45 44 89 13
25 40 56 96 16
26 38 60 98 13
27 38 59 97 12
28 47 62 109 19
29 49 58 107 25
30 53 60 113 12
31 61 62 123 15
32 65 62 127 11
33 71 73 144 27
34 71 64 135 20
35 79 65 144 27
36 74 67 141 25
37 73 59 132 19
38 67 57 124 20
39 63 48 111 21
40 62 44 106 19
41 55 44 99 20
42 49 38 87
43 46 41 87 18
44 41 37 78 14
45 38 30 68 20
46 27 26 53
47 24 24 48 12
合計 428
 <歴代学校長並びに旧職員>
(1) 学校長
  氏  名  就任年月日 転退職年月日 在職期間
 川内 忠  吉 昭23・10・ 1〜昭35・ 3・31 11・ 6
 加藤 牛太郎   35・ 4・ 1〜  38・ 4・16  3・ 0
 炭谷 繁  松   38・ 4・16〜  40・ 3・31  2・ 0
 見野 久  光   40・ 4・ 1〜  43・ 3・31  3・ 0
 坂本 武  春   43・ 4・ 1〜  47・ 3・31  4・ 0
 西山 日出男   47・ 5・ 1〜  48・ 3・31  0・11

(2) 旧職員
氏  名 就任年月日 転退職年月日 在職期間
小田島 栄 昭23・10・15〜昭25・5・1  1・6
川内 初枝  23・12・ 1〜35・ 5・30 11・6
漕谷 良子  24・ 5・ 6〜37・ 3・31 12・6
宮川 潤子  25・ 8・25〜29・ 4・30  3・8
川内 醇作  27・ 7・16〜28・ 4・16  0・9
永井 俊郎  29・ 6・16〜36・ 5・31  7・0
佐藤 哲郎  30・ 8・16〜37・11・ 1  7・2
小林 美智子  34・ 9・16〜36・ 3・31  1・6
加藤 みつえ  35・ 6・ 1〜37・ 3・ 1  1・10
畑岡 幸純  36・ 6・ 1〜39・ 4・ 1  2・10
相羽 c子  36・ 4・ 1〜40・ 3・31  4・0
佐藤 正雄  37・ 5・ 1〜37・11・ 1  0・6
馬橋 幸治  37・ 2・ 1〜39・ 3・31  1・5
鈴木  彰  37・12・ 1〜40・ 3・31  2・4
鹿野(柏谷)洋子  38・ 4・ 1〜40・ 1・31  1・10
戒 武裕  39・ 4・ 1〜44・ 3・31  5・0
佐藤エイ子  39・10・11〜40・ 1・ 3  0・3
大野 宏子  40・ 4・ 1〜42・ 3・31  2・0
中村 勝美  40・ 4・ 1〜45・ 3・31  5・0
野本  勲  40・ 4・ 1〜44・ 3・31  4・0
岩松 宣夫  40・ 4・ 1〜46・ 3・31  6・0
東条 ミノリ  40・ 4・ 1〜43・ 3・31  3・0
西村 恭子  43・ 4・ 1〜46・ 3・31  3・0
三浦 希嘉  44・ 4・ 1〜48・12・31  3・9
平野 芳英  45・ 4・ 1〜48・ 3・31  3・0
木幡 幸子  46・ 4・ 1〜48・ 3・31  2・0
佐藤 孝行  39・ 4・ 1〜48・ 3・31  9・0
季節用務員
外山 文太郎 昭和23年度〜昭和47年度 25・0
 <統合湧別小学校>
 昭和46年度をもって信部内、川西、東湧、登栄床、湧別の5小学校を廃止して、これを統合し新しく湧別小学校を創設することとなり、新校舎が出来るまで名目統合として分教場を存置し、昭和47年5月1日開校、翌48年4月1日に新校舎に移転して実質的な統合校舎が実現した。
 <新制中学校>
 小学校の呼称も終戦と共に国民学校から一旦尋常小学校に改められるが、昭和22年に公布された教育基本法に基づき「小学校」と改められ、高等科が廃止されて小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年とされた。また教職員の資格呼称も訓導から教諭に改められた。
 義務教育であるから当然村に設置義務が付加されたわけであるが当時の食糧難と、悪性インフレーションの経済状況下では学校新築と教員確保は至難の事実であった。昭和23年湧別中学校327坪の新築を見るまでは、旧小学校の高等科教室に間借りをする状況であった。新校舎といっても当時の経済状況下では立派な校舎が建てられる訳もなく、木造板張りの粗末なものであり節目からは外が見えるバラックに近い校舎であった。
 その後昭和63年近代的な校舎に改築された。
 登栄床地区と信部内地区が、小学校との併置校であったが、地区住民と数度にわたる熟議の結果、昭和37年3校の統合が実現し現在に至っている。
 <湧別高等学校>
 昭和25年の朝鮮動乱の特需景気を契機に日本経済は急速に立ち直り、その一端が教育への感心となって高等教育進学者が増加し始め、このような社会情勢の変化から勤労青少年を対象とする高等学校の設置が検討され、昭和27年定時制上湧別高等学校の分校として定時制高校が湧別中学校内に開設された。同年11月独立して湧別高等学校となり、翌28年湧別高等学校新設と共に下湧別高等学校と校名変更して、31年第1回卒業生を出して湧別高等学校定時制に吸収されて廃校となった。
 当時の全日制課程では遠軽まで通学しなければならず、遠軽高等学校の間口では狭いという憂いもあり、是非地元に高等学校をという気運が高まり、大口丑定村長が組合立高等学校を提唱するところとなり、下湧別村と上湧別村を包含した設立委員会を設置し協議の結果
 一、中湧別に新設校舎を運営する
 二、両村学校組合を設けて運営する
 三、全日制課程3学級編成で開校する
ことで合意し全国でも珍しい組合立の高等学校が設置されることとなった。28年4月中湧別中学校の一部を仮校舎とし、初代校長に平野貞を迎え湧別高等学校が開校した。
 昭和28年12月第1期工事が竣工、翌29年12月特別教室及び体育館が竣工し、待望の新校舎が完成した。30年上湧別高等学校、下湧別高等学校が廃校となり定時制課程の吸収併置となった。
 その後31年道議会において道立移管が議決され北海道湧別高等学校となった。
 しかし校舎は出来たが、グランド整備が間に合わず陸上競技場(ラクビー場)の整地、野球場の新設など生徒による労力奉仕の上に完成した。あたかも普通科高校に土木科があったような感があった。平野校長の「自ら求めよ」は創立30周年に校訓として制定され、その精神はこの厳しい風土に根ざし50余年に亘る卒業生に受けつがれ現在に活きている。
 当時の美しい木造校舎も老巧化し昭和57年全面改築され現在に至っている。

(2)青年会館の変遷  大正5年、伊藤音松等当時の青年達により建設された集会所は、昭和4年分教場敷地内に移転増築する事となり、当時の予算書によれば総額120円、所用木材代80円、移転費用20円、諸雑費20円となって居り、部落民の寄付による事とし、青年達の手によって集金調達がなされ、56名の寄付者により28円30銭の外、木材等の寄贈がなされて青年、部落一体となって移転、増築の工事が完了した。のち、幾度か補修を重ねて使用された。
 特に、昭和21年戦後開拓者の入植により児童数の増加を見、東湧小学校建設の気運高まり、23年1月より3月迄通学予定区域の低学年児童(1〜3年迄)を収容し、湧別小学校より交代で教師を招いて授業に当たった事もある。当時の劣悪な施設の中でよく耐えられたものと思う。此の年、秋農村電化事業の導入によって電灯が入る事となったが、建物の老巧甚だしく建て換えの声が聞かれる様になったが、資金の目途すら立たず不便を強いられた。
 昭和33年、ようやく建設の気運高まり、伊藤金一を委員長とする28名から成る建設促進期成会が発足して活発な活動がなされ、湧別町より10万円の助成金と湧別中学校旧校舎1教室の無償払下を受け、部落民の労力奉仕により解体運搬する一方、部落民全員及び関係諸団体、法人等の篤志寄附により83万5000余円の資金調達がなされ、上湧別町牧野組の設計施工によりブロック平屋24坪の落成を見、東公民館として発足した。特に昭和35年12月3日である。以来部落会合、青年、婦人活動に活用されて来た。しかし乍ら建物の狭あいや暖房設備、館内備品の不備等のため、特に冬期農閉期に多く開かれるべき各種の研修会、講習会等に全く使用し得ない状態にあり、之が改築、もしくは新築を望む声が度々出された。昭和50年12月、井戸定利区長を委員長とする7名による、東公民館建設委員会が発足した。
 以来刈谷鋭太郎所有地を用地として購入取得、湧別町中央公民館館長畑隆三の協力を得て、先進部落公民館の視察。地域選出町議会議員佐藤良夫を介して、議会誓願をする等活発な活動により、町当局の認める処となり第2次農業構造改善事業による湧別町農業研修センターとして建設を決定、町内宮本組の施工により昭和52年11月新装をこらして完成した。部落民の喜び一方ならず部落全戸より417万余円、部落出身の深川市芳賀照雄、北見市井戸正麿、同井戸久仁より高額な寄附の他、町内錦町鈴木暁、伊藤達美を介してトヨーネットより児童遊園地用バックネット資材の寄贈がなされ、子供会父兄の労力奉仕によって建設される等、この喜びがうかがえる。
 部落ではこの浄財を生かすべく総会にはかり備品購入、館前広場の整備、裏庭を児童遊園地として整備、部落史の編さん等を計画して着々実行にうつされた中に、町内西村組、北新産業及び中側組等の大きな協力があった事は忘れてはならない。
 のちに、町社会福祉協議会が地元の要望にこたえて、児童遊具を設置して頂いた事は児童福祉の面からも有難い事である。
 以来、部落諸会合は勿論、子供会、青年、婦人部、老人クラブ等の団体活動、農協、共済組合、農民同盟等の産業活動と幅広く利用され、地域の社会文化、産業振興に一段と活気を見せて居り、今後いっそうの有効利用を図ると共に、施設の保全管理には充分意を用いる事を忘れてはならない。

(3)青年活動の起こり  明治42年、4号線で中川長春、山田増太郎、忽滑谷丑蔵等が主唱して27名の同士を得て北斗青年会が発足した(湧別町史)とあるように、この頃から青年活動が各地に起こり、十指に余る青年会が誕生している。
 東に於いても大正に入って伊藤音松、野口春吉、八木仙ェ門等によって初められ、大正3年1月5日、14名の会員により東青年会として発足した当時の役員名簿によれば
 会 長 伊藤音松
 副会長 松下国市
 会 計 板東計蔵
 幹 事 小野寺嘉一
  〃   海谷彦造
とあり会員として古老談(八木、市川)によれば八木仙ェ門、市川谷蔵、野口春吉、小野一二、吉田弘、菅原定市、伊藤忠太郎、高橋直三郎、樋口某等の名が挙げられている。当時集会の場もなく、野口春吉宅の土蔵(大正2年建築)を借りて会合を重ねていたが、集会所の必要性が痛感されて青年達の手により佐呂間湖岸より流送材を中湧別へ運搬する等の労賃を資金に充て部落と協力して佐藤弥助所有地の一部を借りて遂に東青年集会場を建設した(八木仙ェ門談)当時の区長菅原末吉である。以来青年の収容を目指して心身の鍛練智性の向上につとめ奉仕的共同活動がなされて来た。
 昭和6年、7年、9年、10年と打ち続く冷害凶作で、農家経済は極度に逼迫した中で自立更正青年大会が催され北見青年産業総動員運動が起こり”1反歩試験畑経営”副業動員貯蓄動員等の事業が展開され「1人1研究」として創意工夫の研究があり成果をおさめた。
 昭和16年大東亜戦争に発展し、戦時体制がいっそう強化され、青年団にも行政の介入が多くなり、村長を連合青年団長とし中心学校を単位青年団とし各地区に分団を組織する事となった。
 従って、湧別青年団(団長合田堯助)のもとに東青年団は第5分団として改組して銃後活動に挺身した。こうした緊張した中で催された北見青年産業総動員10周年記念大会(別名カボチャ大会)が網走市で催されて士気大いに上がり盛会を極めた。特に一夜錬成会に於ける当時網走支庁教育課千葉七郎先生(網走高等学校校長)青柳唯一先生(清里町社協会長)の熱烈なる訓育を受け、感激の内に幕をとじた思い出が語られているが、青年活動本来の姿から逸脱した感はあるが、当時の情勢として止むを得ない事であった。こうして昭和20年終戦、虚脱状態の中から文化国家再建を目標によく組織の存在を守り通して新しい体制造りに挺身した。当時の酪農青年研究会、4Hクラブ等が組織され、共に研修に励んだものである。
 昭和37年頃より離農者が急増して極度に人員の不足をきたし37年、38年の2ヶ年解散の止むなきに至ったが、昭和40年に至って伊藤輝光、野口信敏、布目由一等、野幌機農高等学校を卒業して帰郷し、農業に定着して青年団の再建が図られて文化、産業両面に多彩な活動が行われたが、農協青年部の組織強化と研修に協力に活動がなされ、団員も部員であった事もあり統一をはかって吸収合併され、昭和50年をもって解散された。
 戦後の一時期灯の消えた青年団体の文化活動は、昭和29年湧別町青年団体協議会の組織確立と共に復活し、芸能や弁論に活発な動きをみせるようになった。
 芸能大会、弁論大会(昭35〜38)、秋期青年大会=芸能、弁論(昭39〜43)、湧青協文化祭(昭44〜56)、と絶えることなく事業が行われ、こうした努力集積の成果として、本町の青年文化活動は、網走管内はもとより、全道、全国でも高い水準にあり、次代の文化の担い手として着実に歩んでいた。勿論東における東湧、東の2団体が積極的に活動していた事はいうまでもない。
  43年、管内青年大会=弁論で村川好子 優秀賞
  46年、管内青年大会=舞踊で東湧青年団 努力賞
 また湧別市街青年会は53年全国青年大会で演劇で最優秀賞と最優秀舞台美術賞に輝いた。
 市街地区青年会の演劇活動は昭和49年からはじまり、現教育長の伊藤英二を中心に錬磨を重ね、53年山本節弥作「オホーツクのわらすっこ」を上演し、見事日本一を勝ち取った。
 これは全国的に有名であった湧別高校演劇部の活動が下地にあり、計呂地石渡輝道を中心とした「町民芝居ゆうべつ」の演劇活動に活きている。
 しかしこの活発であった青年活動も次代に押し流され、湧青協そのものの活動も停滞し、ついに平成7年活動を休止し、現在に至っている。
 いつの日か青年活動が息を吹きかえす事を念願するものである。

 <東湧青年団>
 福島地区にも昭和15年頃若松政信を団長として福島青年団が結成された。当時は戦時下であり、活動内容も各地にあった組織とほぼ同じであり、軍事教練などを行っていた。また招集を受けた留守家族の農作業を手伝ったり、湿地帯が多かったので暗渠排水を掘るなど女手で困っている課程には大変有難い存在であった。
 戦後東湧小学校が開校されてからは、学校の援助活動も行われ、名称も「東湧青年団」と改められ、福島の外に東の一部も加入し大きな組織に改変された。
 村内には戦前から青年団の上部組織である連合青年団があったが、昭和26年村内12組織をもって、「下湧別村青年団体連絡協議会」が結成され旧組織は発展的解消をした。
 幹部青年研修会、弁論大会、スポーツ文化行事など青年育成のほか全村的な行事を主催することとなった。当然地区内における団体も加入し、湧青協における中心的な役割を果たしていた。
 東湧青年団は、東湧青年団解散後も活動を続けmちいきも東全域を尾萩地区を加え広域青年団に改変された。湧青協も後年5団体のみの活動となり、一部市街地区の青年団が活動を続けていたが他の団体は東湧青年団も含めて休止状態となり、会長も団長も不在のまま平成7年湧青協は休止、東湧青年団は解散をした。
 また畜産農協青年部は昭和43年に結成されたが、資料不足のため詳細については不明である。

 <湧別農協青年部>
 長い間軍部に抑圧されていた農民たちは、敗戦という屈辱的な結果を迎えたにも拘わらず、やっと足枷がなずされ貧しくも表情は明るかった。農民組織は全国で次々と産声を上げ、湧別農協内にも「湧別農協青年部」が誕生し、何者にも束縛されない民主的・自主的な道を歩み始める事となった。
 昭和23年茨城県鬼怒川において、全国農協青年部が結成され全国を網羅する巨大な組織となった。
 復員してきた人達を含め、名の通り広い年令幅があり、なかなか意見がかみ合わず組織そのものがどんどん弱体化していった。
 これ以上続けられない所まで追いつめられ、農協青年部が発展的解散をして「湧別農協青年部」として昭和41年新しく出発することとなったが、当時の日本は高度経済成長下にあり、若者達が次々都会へ流出する時代であった。黒田勝雄部長のもと時代を荷負う者としての自負はあったが、意欲だけが空回りして実績が上がらず低迷の時期が続いた。役員会で数度の話し合いの末、まず学習活動により自ら何を求め行動を起こすか、原点に立ち還り足元を見直すこととした。
 管内主催の青年部大会、幹部研修会などに数多くの部員を出席させ、2年間の活動が功を奏し声をかえkるとすぐに集まる事の出来る組織に生まれ変わった。徐々に部員の増加を見るようになり、青年部本来の活動が出来るようになった。
 40年代の湧別農協は酪農を主とした経営であり、実質的な活動内容も酪農関係を主としたものになり、経営改善に基づくものとなった。当時の営農技術は幼稚なものであり、現在では信じられない落等乳が非常に多く、農家経済にも大きな影響を与えていた。ミルパップの無償配布をしたり、2等乳を防ぐための講習会や、各種共励会を開催して農家にとって力強い組織として完全に農協に定着した。当時の青年部員達が農協の役員となり、農民のリーダーとして活躍している事からも、学習活動が活きているのではないだろうか。
 またこの頃の活動がバルククーラー導入のきっかけとなり、後の乳質改善に大きく寄与したことでも青年部活動が、農協運営に大きく反映されており、その意義が活かされ現在につながっていると思われる。
 その後も着実に活動が続けられ、親農協が芭露農協との合併を迎え「湧別農協青年部」も合併をすることとなり現在に至っている。またこの年から支部は廃止された。
(4)婦人会活動の歩み







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 「愛国婦人会」明治34年、出征軍人および傷病兵の慰問ならびに慰家族援助を行う目的で婦人団体の創立を提唱した奥村五百子によって、上流婦人層を中心として大日本愛国婦人会が結成された。(町史より)、東部落においてもその主旨を理解して昭和初期に高橋マツエ、伊藤れいを中心として次第に会員が増えていった。
 「国防婦人会」満州事変の翌7年、一般婦人を会員とする国防婦人会が結成され、当時の時世を反映して軍事援護を目的とした婦人会に統一され、全戸加入が時局に応える婦人の役割とされ、半ば強制加入の感じを伴うものであった。
 「大日本婦人会」昭和17年2月、大政翼賛運動の進展と共に全国的に婦人団体の統合が行われて、大日本婦人会が設立した。
 これは全国婦人を統一する組織で各町村に支部を置き、東部宅においても必勝貯蓄の増強、衣料切符の献納、集団内職、廃品回収、軍事援護、国防訓練、勤労報国隊参加など活動範囲は拡大し、銃後の守りに専念した。
 「地域婦人会」終戦と共に戦争奉仕的参加の婦人会は、その目的を失い多くの組織は自然消滅の形で解散していった。低迷する婦人活動のなかで本町においては、下湧別町別村を中心とする婦人組織が戦後横すべりのまま存続し、東では地域婦人会として押野とめよ、松下つやなどを中心として抑圧された組織から脱皮して初めて自主的な民主組織として活動を始めた。
 以来農村女性も進んで社会進出するようになり、28年には全町組織である「湧別町婦人協議会」の成立をみるに至った。
 以来協議会の事業方針に基づき、教養を高めるための講習会開催、リーダー研修会への派遣、先進地視察、栄養講習会開催などが行われ、また東婦人会では敬老会開催、地域行事への奉仕、婦人学級開設など、住みよい地域づくりと婦人の教養と地位の向上に励んだ。
 上部組織はより連絡協調を図るため昭和35年「湧別町婦人団体連絡協議会」(湧婦協)と名称を改め改組した。
 東婦人会も湧婦協の一組織として活発な活動を続けてきたが30年代より世代の交代期に入り、昭和36年東地区では佐々木ヨリ子、海谷操、千葉初枝等が中心となり「湧別農協婦人部」の結成をみるに至り、東婦人会、東湧婦人会の一部を加えた61名の部員により「湧別農協婦人部東支部」が組織され、地域婦人会は発展的解消のもとに農協婦人部に移行した。
 48年開拓農協を脱退した6名を加え200余名の大組織となった。
 活動内容も婦人会時代の事業を引き継いだ外、婦人学級は文部科学省の委嘱学級となり、助成金を受け環境美化モデル地区に指定されたほか、家計簿共励会、生活購買委員会をつくるなど精力的な活動をした。しかし活発な組織ほど資金が必要とするもので、資金作りにせいろの敷布、無水鍋、トーフの販売、正月用品の一括購入販売などを行い僅かの益金を財源に当てていた。
 婦人部の大きな事業の一つに敬老会の開催があるが、当初は老人の数も少なく42年頃には23名程であったが老人の送迎に大変だったことから青年団の協力を得て行っていた。敬老会の開催方法も時代に合わせて変化を遂げ、東湧支部と1年交代で会場を変えたり、全町一円での開催と1年おきになったりしていたが、現在では手伝いの人手不足から全町を芭露と二つに分けての開催となっている。
 高度経済成長による農漁村の過疎化により、後継者の減少に伴い配偶者問題がクローズアップされたが、迎えた若妻たちに精神的にも住みよい地域社会環境を整えるため、昭和48年6月下部組織である若妻会の結成があり、初代会長に福井ノリ子が就任した。
 活動内容は育児、児童のしつけ、家族の健康法など専門の講師を招いての講習を受け明るい地域づくりの一端を担っていた。
 その若妻たちも現在では初老の時を迎え離農を含め脱退者が相次ぎ、平成17年には部員17名となり、かかしつくり環境美化など活動は、大幅に縮小し細々と活動を続けている。
 
 <東湧婦人会>
 東湧婦人会の創立は、他地区の組織とは異なり、23年東湧小学校開校に伴い、学校協力会的な性格が強く民主的な自由主義による団体ではあったが、学校を中心とした活動内容のもとに岩井光江を会長として川内初枝、外山テル、井戸藤尾、小野トミエ、若松サキ、上枝カヲル、増田美恵子、高柳ツヤ、大場とも、杉山、小関、山本等が中心となり、昭和24年発足した。その後細田ミツ子、古谷春子、加藤校長夫人、久保静子、佐藤ステ、佐藤マスヨが加わり活発な活動を続けてきた。
 昭和35年2代目校長加藤牛太郎夫人が会長の時児童達に温かい食事を食べさせたいとの気持ちから温給食を開始した。この事は当時画期的なボランティア事業として取り上げられHBCラジオで放送されている。
 36年農協婦人部結成により、当地区も東婦人会同様に発展的解消をして「東湧支部」として30名の部員で発足した。
 活動内容は多支部同様であったが、学校に対する協力体制は変わらず農協以外の人達も加入して48年の廃校まで続けていた。
 当支部も東同様に部員の減少を招き平成17年には12名の部員となり、今後合併も含めた組織強化が必要ではないだろうか。

 <畜産農協婦人部>
 戦争終結の昭和20年、日本は破局的な食糧危機に陥ったが、その為の食糧増産体制として、戦後緊急開拓が実施され、昭和22年「農業協同組合法」が公布された時点で「開拓者資金融通法」とからめて開拓農協設立の気運が高まり、本町においては23年、芭露方面とテイネー以西とを分けた2つの開拓農協が相次いで設立された。両組合共に弱小組合であることに変わりはなく、辛うじて存続したものの、昭和29年の15号台風、31年の冷水害を含む4ヶ年に亘る大凶作は、組合及び組合員の経済を極度に逼迫させた。この事から放置すれば組合経営はおろか、農業経営の破滅を招く情勢となり、昭和32年6月2つの組合が合併し「湧別開拓農協」の設立となり、以後懸命な再建を歩んできた。
 昭和47年、開拓行政の打ち切りを迎え、設立の目的が達成されたことを名分に「開拓」の2字を冠したまま一般農協へと体質がえを行い、49年7月「湧別町畜産農業協同組合」へ改組して開拓農協の幕を閉じた。
 開拓農協婦人部は、昭和36年4月9日、白石千恵子を会長に180名で発足した。親農協の負担を少しでも軽減したいとの思いから、50万の資金を借り中小家畜導入でヒナ7000羽、子豚125頭の導入を図りそれに伴う飼料の供給を行った。(当時組合では飼料は扱っていなかった)このようにして農協と一体となって再建の道を歩んできたが、47年湧別、芭露両農協への移行により会員119名から45名となり、平成14年畜産農協解散まで湧婦協に加入してその活動を続けた。
 東支部については資料不足のため不明である。

(5)老人クラブの歩み  老人クラブの歴史は、遠く平安時代にさかのぼり、貴族たちが中国に倣って催したものであり、文化の薫り高い「尚歯会」が前身であった。時代背景は公家や武家が中心の社会であり、一般庶民にとっては貧しく苦難に満ちた生活を強いられ、ささやかなやすらぎを求め、また悪病罹災から逃れるため、共に祈りの場であった宗教色の強いものであった。現在でも行われている「長命講」や「念仏講」などがそれであり、長い歴史に支えられてきた。
 これらが継承発展して、高齢者自身による地域社会を支える活動、共通の楽しみや学習活動、素朴な信仰活動などにより今日の組織が形成されてきた。
 戦争によりこれらの活動は亡国的なものとして排除されたが終戦を迎え昭和21年、千葉県八日市場市において老人クラブが誕生したのが日本での第1号とされている。

 <東老人クラブ>
 昭和38年6月「老人福祉法」が制定され、65才以上の老人を対象とした福祉行政が進められるようになり「老人クラブ設置補助制度」が創設され、福祉イコール老人福祉といわれる程少し偏ったともいえる福祉行政のなか各地に「老人クラブ」が相次いで結成された。
 昭和43年には「湧別町老人クラブ連合会」が組織され、修養、レクリエーション、懇談、園芸、奉仕活動などの連絡協調にあたってきた。
 東地区においては、民生児童委員、区長の協力を得て粕谷力三、松永忠一、押野栄治外数名が発起人となり、昭和44年5月「東老人クラブ」が結成された。
 以来毎月励会が持たれ、保健婦の派遣による保健指導、公民館活動による高齢者学級、知識と経験を社会に寄与する活動、レクリエーションを通じて会員相互の親睦を深める活動などを行ってきた。また全会員参加の温泉旅行も年中行事として定着し会員の大きな楽しみの一つとなった。
 憩の家隣接地約1反歩を借り受けて老人農園を拓き、小豆、甜菜、人参、とうもろこしなどの作付を行い、その収益をクラブ運営の基金に当てるなど多彩な活動を続けてきた。
 平成11年創立30周年に「東老人クラブ百寿会」と名称を変更し、角矢賢矩、野口信敏、村川勝彦、伊藤守寿各氏の寄贈により会旗を作成した。
 老人は全ての人が行く道であるが、悲しい事に最近では核家族化の様相を呈し、老人のみの世帯が増える傾向にあり、多年に亘る豊富な経験から家庭和楽の中心となるべき姿がうすれつつある。
 今後の社会教育活動においてこれらの知識が活かされる体制が望まれるものであり、よりいっそうの精進と活躍を期待し大きく社会に貢献してほしいものである。
 昭和55年  会員数  52名
 平成15年  会員数 102名

 ◆ 東老人クラブ年表
昭和44年  5月  松永忠一を会長として、会員66名にて東老人クラブ結成される
47年  2代目会長として押野栄治就任
11月  旧部落会館に接続して、老人寿の家新築
52年 5月  刈谷一郎氏所有地を借り受け老人農園開設
54年 5月  東老人クラブ創立10周年記念式典実施
57年  3代目会長として増田新二就任
8月  寿の家増築落成
59年 7月  創立15周年記念事業として環境美化のため老人庭園完成
60年 5月  会員手作りによるゲートボール場造成
61年 3月  農業改良普及所の役割向上対策事業モデル地区に指定される
63年 2月  全道婦人フォーラムにて、高齢者の役割向上対策について事例発表
平成 元年 9月  東老人クラブ創立20周年記念式典実施
2年  4代目会長として押野昇就任
4年  町助成金により、テレビ、ビデオ、カラオケ購入
5年  冷蔵庫購入
 パークゴルフコースに伊藤敏雄奉仕により造成する
6年  5代目会長として伊藤守寿就任
 町助成によりプレハブ物置設置
7年 10月  網走管内老人クラブ連合会において増田新二役職10年勤続表彰
8年 10月  小松松太郎、福本チヨ役職10年勤続表彰
 ふれあい老人農園閉園となる
11年 9月  東老人クラブ名称変更「東老人クラブ百寿会」
 老人クラブ会旗作成
 網走管内老人クラブ連合会遠軽ブロック大会当番村により
  湧別で開催される
10月  寿の家新築促進期成会発足
12月  長期入院会員慰問開始
12年  伊藤守寿湧別町社会福祉功労賞
13年 3月  一部助成によるからおけ器機購入
15年 7月  寿の家改築に伴い日の出庭園の移転、馬頭観世音碑移設
9月  下水処理合併槽設置
10月  旧寿の家解体 
16年 3月  東福祉の家西村組により新築落成
 木造平屋建255・96u 417万円
 6代目会長として押野健一主任

 <東湧福寿会>
 東老人クラブに続いて福島地区の人達によって、昭和49年11月21日、高柳喜重を会長に18名の会員により東湧福寿会が発足した。高柳喜重夫妻、横関薫夫妻、真坂夫人、上枝清一夫妻、小野政雄、外山文太郎夫妻、細田粂次郎夫妻、佐藤伝夫夫妻、大場奏夫妻である。活動ないような東老人クラブとほぼ同じで、その後東地区の一部の人達も加わり現在に至っている。平成17年会員24名である。

 <福祉の家建設>
 東老人クラブは発足当初少人数であったため、旧会館に隣接して、昭和47年11月、47uの憩いの家が完成した。
 その後会員数が増え非常に狭く不便になったため、57年増築工事完了、環境美化のため増田新二会長を先頭に庭園を造成した。またパークゴルフのコースも完成し毎月2回の励会を開催して来たが老巧化のため解体し、平成15年256uの1戸建東福祉の家が完成した。
 東湧寿の家は昭和48年10月、旧東湧小学校に隣接して施工され、その後54年に増築、以来土台がくさり床が落ちるなど老巧化が目立ち、平成11年待望の1戸建現在の東湧福祉の家が完成した。

(6)高齢者施設の建設  湧別オホーツク園
 我が国は急速な高齢化や少子化の進行に伴い、老年人口が増々増大し、近い将来65才以上の老人が3人に1人になると予測されている。本町においても核家族化、若年層の町外流出も加わり、世帯別人口構造の変化が著しく、独居老人世帯や、老人夫婦世帯が増加し、高齢期における寝たきりや、痴呆など介護を要する人達が増加の傾向にあり、大きな社会問題となってきた。このような状況下町議会で老人ホーム建設の気運が高まり、昭和62年社会福祉法人湧別福祉会の設立準備が発足、12名の委員が委嘱され、関係方面への陳情や働きかけが行われ、翌63年設立が認可された。日本船舶振興会、湧別町の補助を受け、湧別町債務負担により医療事業団よりの借入を含め、総工事費515,998千円により平成元年3月工事が完了し、特別養護老人ホーム湧別オホーツク園が歩み出した。
 畠山幸雄が施設長に就任し、50名の入居者を迎え2年には老人入浴サービス事業を開始した。また3年2月1日には、常陸の宮殿下夫妻が御来園になり入居者と親しく会話をなされている。5年にはショートステイ事業を開設のため拡張工事を行い、また8年には車椅子用リフト付きワゴン車を購入し増々施設の充実を図り、サービスの向上に努めている。
 平成17年4月ユニットケアハウスリラの杜を事業費365,994千円で建設・渡り廊下で繋ぎ運営を開始した。
 高齢者生活福祉センター
 高齢者などが身体に障害を持ち自宅では機能回復訓練が困難なため専門の介護士を置きリハビリを行うため、また1日を有意義に過ごしていただくためにデイサービスセンターをオホーツク円隣りに建設した。また居宅で生活に不安のある一人暮らしや夫婦世帯が居住できるケアハウス「亜麻の里」が平成5年12月に同時に完成し、オホーツク園共々福祉の充実に向かって進んでいる。毎日地区割りを決めてそれぞれの地区の住人達がマイクロバスで送迎を受け、1日を楽しく過ごしている。

(7)地域子供会と育成会












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 青少年の指導育成と保護矯正のため相互の連絡を密にすることを目的として、昭和39年「湧別町青少年問題協議会」が発足し、35年開設されていた「湧別町青少年センター」があい、問題青少年の早期発見と非行防止、および青少年の育成活動促進に資することになった。
 昭和44年「地域子供会育成協議会」が結成され「湧別町よい子の誓い」を教育委員と共に制定し、地域に子どもの健全育成を呼びかけると共に、子ども達の心がけの目安とした。

 湧別町よい子の誓い
一、私たちは常にほほえみをたたえ、明るい気持ちで人に接します。
二、私たちは物をむだにせず、時間を守り、特に公共物を大切にします。
三、私たちは、どんな事にもくじけない強い意志をもって生活します。

 昭和20年代から各学校にあった子供会活動を、さらに組織化し学校で出来なかった縦割り教育を強固に進めるため、家庭の枠や年令をこえて連帯し、集団の中で社会性と人格を高めようと発足したのが「地域子ども会」で、地域単位の奉仕活動や体育行事、近隣地域同士の体育行事やレクリエーション活動、さらに全町規模の体育行事やリーダーの交流が行われている。
 過疎現象などで変遷があったが、14団体507名をかぞえた昭和46年が最も多い年であった。東子供会、東湧子供会合わせて、200余名となっていた。
 少子化の影響から徐々に会員も減少し、昭和56年、東子供育成会押野恒夫、東湧子供育成会村川勝彦が会長の時、両子供会が合併を決意し、子供会、子供育成会、小学校PTA、中学校PTAが全て合併し、それぞれ東湧の名称がなくなった。
 合併した子供会組織は非常に大きく、しかも双方の良い所を持ち寄っての活動となり他の模範となる組織に成長し、昭和57年子供会、育成会共に全国子供会連合会の表彰を受けた。
 以来現在まで地道な活動を続けている。

(8)季節保育所の開設  昭和23年に施工された「児童福祉法」は、すべての児童(18才未満)の福祉に関し積極的な配慮と借置を打ち出した画期的な立法であって、骨子として、
○ すべての国民は児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない。
○ すべての児童は、ひとしくその生活を保護され、愛護されなければならない。

 と明示されている。このあと昭和26年5月に「児童憲章」の宣言をみて、
  児童は人として尊ばれること・・・
になり、5月5日を「子供の日」と定め、この日を中心に「児童福祉週間」が設定された。
 児童福祉法は、学校教育や社会教育との関連が深いので、民生児童委員、社会福祉協議会、教育委員、学校、PTAが協調して、単に週間のみでなく日常的な課題として取り組んでいる。
 その中の一つに、保育所の設置運営があり、町内各地に保育所の設置をみた。
 戦後の急速な経済成長を背景に、農漁村の婦人労働力確保のうえからも、幼児保育事業の必要性が高まり、されに「鍵っ子」が社会問題として取り上げられ、交通事故や非行の芽の予防策が論議されるようになり、福祉国家を目指す戦後の社会情勢からも保育所施設の実現は時代の要請途ともなった。
 本町においては芭露保育園、湧別保育園、上芭露保育所がその草分けであり、東地区においては、東湧保育所が昭和38年に開設され、季節保育所としては保母2名を置き開業した。
 昭和41年には園児32名、46年には保母1名園児12名となり、市街地の保育所へ通う者が増え、入所児童は減少の一途をたどり、昭和49年廃止となり、湧別保育所、かおる保育所へそれぞれ吸収されることとなった。
 その2つの保育所も合併となり平成18年新園舎の完成と共に閉園となる。

 東保育所の年次別園児数
昭和38年  保母山本光 子、岡田静子
   39年     佐藤エイ子、増田和子  園児38名
   40年        〃  、  〃        34名
   41年        〃  、佐藤洋子      32名
   42年        〃  、  〃        28名
   43年        〃  、  〃        26名
   44年        〃  、久保清恵      22名
   45年        〃  、  〃        18名
   46年        〃   (1名)        12名
   47年        〃               12名

(9) 医  療   北海道開拓以来明治末期まで、慢性的な医師不足が続き、各家庭では医者にもかかれず、富山の薬が家庭医薬の唯一の頼みの綱であった。不衛生な飲料水も伝染病罹患の一つの要因であり、川水を飲料水として使用する者が数多く見られた。
 本町においては明示36年頃から、腸チフス、ジフテリア等の伝染病がしばしば蔓延し、その数明示43年まで延100人を越えるものであった。その外にもトラホームらしき眼病が発生し「目くされ」といわれる減少に悩んでいた。
 その後大正7年に全世界を震撼させた「スペイン風邪」の大流行があり、死亡率は10%の効率であったという。
 なお現在では信じられない事であるが、終戦までは肺結核を亡国病視する風潮があって白眼視された。患者を「肺病たかり」と陰口し、感染を恐れて患者に近付くことはもちろん、患者の家族や家にも近付くことを避けるありさまで、患者が出ると家族までが肩身の狭い思いをしたということである。これは結核が「不治の病」を考えられていたためであり、病理衛生や医療の決め手がなかった時代に、罹患率が高かったことから、非常に恐れられ、特に男子の罹患は、兵役免除者が増えて国防力を減退させるところに起因していた。
 前述の法定伝染病の蔓延から、大正6年に東2号線2号に隔離病舎が建設され避病院と呼ばれた。(現在の西村組のコンクリート置場)
 戦時中と戦後の混乱期には、医療条件の不備不足や、衛生資材の欠乏などに起因して、健康上からも衛生上からも無理な生活環境を強いられ、戦後復興を見るまで全道的に、赤痢、ジフテリア、腸チフスが続発した。昭和15年から25年までの間の町内での罹患者は、赤痢159名、腸チフス17名、発疹チフス1名、パラチフス3名、ジフテリア127名、猩紅熱1名、天然痘1名、流行性脳脊髄膜炎3名となっている。
 その後29年夏再び赤痢が来襲し上芭露方面で40名に及ぶ保菌者が発見され、上芭露に隔離されて治療を受けた。
 大正6年4月に建設された84・25坪の隔離病舎も戦後は老巧化が進み使用に支障を感ずるようになり、28年使用を廃止した。その後も建物は倒壊されず数年存続し子ども達からお化け屋敷と呼ばれ肝だめしなど遊びの場となっていた。

10) 消防団の歩み  湧別では明治38年頃、自警消防組が組織されたとある。
 公設消防組の設立は明治27年、勅令に基づき内務省で消防組規則が公布され、同年5月、北海道庁令消防規則細則で消防組は1町村1組を原則として設置されることが定められた。明治43年3月浜市街、4号線市街、東殖民地、西殖民地、バロー、ケロチ、床丹全域を一円とする消防組が、組頭1名、部長1名、小頭2名、消防夫30名によって組織されたとある。
しかし、湧別全域を警備範囲とする消防組は、能力の限界から機能の及ぶ所、浜市街が主たるものであったことから、この頃急速に発達した4号線市街では、自警のため消防組織を設立大正2年から公設に移され下湧別村では、バロー方面が分かれ、3部の組織となり4号線市街、東が第2部として発足した。
 こそ消防組に東から最初に入組したのが伊藤音松、伊藤金一、渡辺満雄、伊藤久由、松下栄市、伊藤忠太郎等である。
 昭和4年、自動車ポンプの導入等機動力の増大で昭和8年、4号線、東を区域とする第2部は廃止され全村で2部制となった。日支事変の拡大につれ防空関係が緊迫したため、これに備える防護団が昭和12年結成され投下管制下の警護、防火救護等消防組の担当分野に及ぶ訓練が実施されるようになった。
 この様な情勢から戦時対応の警防団令が好守され14年、防護団と消防組を統合した警防団の設置となり、警察署長の指揮下におかれ民生安定の第1線を担うものであったため、昭和17年の機雷爆破作業にも動員され、不測の事故から警防団員40名の殉職者を生じる大惨事に至ったことは警防団の一面を物語るものである。
 この当時の東の団員として次の方々が居る
 伊藤敏雄  鈴木 貢  熊岡徳久
伊藤敏雄は九死に一生を得たが、鈴木貢、熊岡徳久の2名は尊い犠牲となった。
 占領政策の方向に添って22年、消防令が公布され戦時組織の警防団は解体され、新たに消防団の設置が定められた。
 消防に欠かすことの出来ない火の見やぐらは、明治時代から建設されたようであるが、東部落にも3本の丸太で組み合わせた梯子造り望楼に、釣板を吊し(後に釣鐘となる)火災の時はこれを叩いて部落内に知らせたものである。
 最初に今の福井正雄宅(佐藤弥助)の所に建立され、その後伊藤久由宅の所に立て替えられ、のちに会館敷地内に移された。
 湧別市街の望楼に近代的なサイレンが備えつけられ、それまでの釣鐘にとってかわり、このサイレンは「愛の鐘」にも利用されて日常生活にも寄与するものとなった。なお、この部落の釣鐘は郷土館に保管されている。

(11)電気・電話  ◆電気の導入
 欧州戦争の影響で物価は高騰し、好景気に伴い生活文化の面にも各種の変革をもたらした。
 大正6年、石油の高騰により各地で灯火用発電事業を計画する気運が高まり、下湧別村でも4号線の山田増太郎がほっきして3号線に10馬力火力発電機を設備し、大正7年に市街、4号線がランプに僅かに勝る程度の電灯がついた。
 大正12年、瀬戸瀬に湧別川水系を堰き止めた近代的、水力発電所が着工され、翌13年2月完成し、この頃から戸数の密集する市街地に主力がおかれたため、電灯は市街に集中することになり、散在する農村部落との間にはっきりと明暗を描くことになった。
 昭和初期に普及したラジオも農家におよぶべくもなく、一層無電地帯との生活格差を拡げた。
 戦時中の電気は、生産動力の重要性から昭和13年、国家管理におかれ18年、電気消費量の配分は軍需産業70%、平和産業30%と規制され、動力不足が決定的となった。
 昭和20年、終戦直後の8月すべての産業が機能停止状態に陥ったため、電力は使用制限が撤廃され、戦後の過剰電力は必然的に一般民需に求めるようになり、農村各地でも電気の導入に着手した。
 東部落でもその気運高まり昭和21年、伊藤金一を代表とする54戸の電気期成会が、翌22年には、押野栄治を代表とする10戸の期成会が結成され、強力な運動が展開された。
 21年、網走支庁管内で電化の申請が103部落から出されたが、道庁の査定で一番先に認定を受けて嬉しかった伊藤金一は語る。電柱は町有林から拡下げを受け、芭露から馬搬、資材の購入など大変な苦労であった。北電への補填金1戸平均5800円、事業費合計31万3260円とある。押野栄治の組は上湧別中土場から営林署の拡下げを受け、馬搬、電柱建立は勿論、総ての工事は労力の提供による共同作業でなされ、金銭的にも労力的にも大事業であった。
 こうして部落民待望の内に22年、伊藤氏の組が6月に、押野氏の組が10月に初めて電灯が灯された時の喜びと電灯に明るさの驚きは大変なものであった。
 部落民は、入植後の開拓の経過の中で幾人かの人が、その時の喜びを述べている様に、これを契機に農村は大きな変革を遂げたのである。

 ◆電話の導入
 電話は明治9年アメリカで発明され、翌10年日本に輸入されたという。
 明治23年、電話事業は国営となり東京、横浜間の電話交換業務が開始されたという。
 湧別市街に電話が架設されたのは大正10年8月とある。路用社が市街に偏在していた。電話業務は、戦後の行政改革により、郵便局で行われていた交換業務を、昭和24年電々公社の創立とともに、同社の所管に移された。東では昭和23年東湧小学校とテイネイの山本幸作宅に公衆電話が設置された。
 昭和30年12月、川西部落全戸に農村集団電話が設置されるにおよんで、東部落でも急速に電話設置の気運が盛り上がり、40年1月14日、伊藤金一を中心とする期成会が結成された。
 しかし、先に設置された隣の部落の川西集団電話は、部落内に交換手が必要のため、2年後になれば部落内に交換手の必要としない農村集団自動電話の設置の望み有りと郵便局長豊原正一の強い奨めもあり、農村集団自動電話の設置への運動が展開された。しかしこの自動電話は東のみならず、湧別農協管下の末設設置地域も包含する事が望ましいとする羽田組合長の助言もあり、東、福島、基線、西1線、尾萩の各地区を含めた期成会となる。
 よって2年余に及ぶ期成会の強力な運動と豊原正一の援助によって、昭和42年8月11日、遠軽地域では最も早く湧別農協管下199戸の農村集団自動電話が完成し、これによって農村は電気に次ぐ大きな文明の恩恵に浴することが出来たのである。
 42年8月11日、完成を祝して花火がうち上げられ、湧別中学校において各関係者多数の出席者が見守る中で、期成会長伊藤金一が郷里、愛知県との記念通話を行い、盛大な祝賀会が催された。
 以後10年余を経て、54年12月1回線8〜9戸の区域外、交換呼出の集団自動電話から、直通敷きの一般電話の切り替え工事がなされ、一層の利便を得るようになった。

(12)地域信仰  <馬頭観世音>
 ほとんどの地区に祀られている馬頭観世音の碑は、開拓の昔から労働力として貴重な財産であり、以後はさらに農家の副業として馬産の主役であった馬匹の安奉を祈り、併せて亡き馬に感謝を捧げるという、素朴な心情に発した信仰である。
 後述の馬産の項でも述べるが、東地区の祭典の謂われは、明治末期から大正始めにかけて、当時の青年達の間で草競馬が盛んに行われていた。娯楽のない時代唯一の楽しみであった競馬は大変人気のある行事ではあったが、石山二治所有の馬が転倒して骨折死する事故があり、その霊を慰めるため、伊藤音松をはじめとする青年達により木柱に「馬頭観世音」と記した碑を伊藤音松所有地内に建て、毎年7月17日を例祭日として祀られた。
 のち大正12年、伊藤惣太郎、伊藤音松、野口春吉の3人により馬車2台をもって開盛より原石を運搬し、現在の碑が建立された。
 昭和13年部落の政ごとの中心であった青年会館横に移され永く馬頭さんとして親しまれ、青年達による村祭りのシンボルとなった。戦後は女子団員も加わって、祭りにはハサ木で小屋を作り素人演芸会を開き、娯楽のなかった時代の楽しみの一つでもあった。また昼の余興であった草相撲は力士も数多く輩出し近隣町村からもたくさんの呂騎士達が集まり、力の入った行事となり、昼夜共に楽しく1日を過ごした。
 時代も移り行事が出来なくなり、映画上映など行っていたが、それも団員の減少と共に中止となり、祭典行事は自治会主催となり、平成17年現在では祭典の余興としてパークゴルフ大会を開き懇親を深めている。
 また福島地区には対象10年頃、木碑で、産業組合で牧場を経営していた当時に建てられ、経営休止の時福島区にゆずられた。
 その後の例祭は東と々7月17日に行われ、平成9年まで続けられ、10年自治会が統合となったため、東の馬頭観世音に合祀された。
 営農の機械化による馬匹の退潮に代わって、酪農の定着による乳牛の飼養が増加し、馬頭さんの祭祀に併せて各地で「牛魂祭」が行われるようになった。東8銭2号小縄一子の所に昭和54年肉牛友の会により牛魂碑が建立された。

 <福島神社と地神>
 昭和9年〜10年と入植者が増加し、神社建立の議が起こり、昭和11年8月、東7線8号の小関所有地約1反歩を借り受け、角柱を建て、福島神社と書かれ湧別神社の分霊を奉祀した。
 毎年9月25日に例祭を行ってきたが、昭和24年東湧小学校の隣接地に地神碑が建立されたのを機に、地神に合祀され、福島神社は廃社となった。
 また昭和10年水田発祥の地に地神を祀ろうと、地元民(東第3農事組合)の善意によって、東7線4号の曽根茂美所有地に碑が建立され、湧別神社の分霊を奉祀した。
 これも福島神社と同様に東湧の地神碑に同年合祀となった。

 <金刀比羅神社>
 丁寧地区も昭和に入り、次第に戸数も増え、神社も建立したいとの願いから、「金比羅さん」と愛着を持って呼ばれる四国の金刀比羅神社から分霊を受け、昭和2年嘉多山寛、千葉敏、山越らによって現在地の国有林内に祭祀された。祭神は「水の神」(海路の神)とあがめる大己貴命と崇徳天皇を祀っており、祭礼は毎年9月10日に行われている。
 戦中戦後にかけて居住者が多かった事もあり、湧別神社に先がけての祭礼で大変な賑わいをみせていた。最近でも漁業景気の復興もあり漁民一同が神社前に集まり、祭礼の1日を漁業の安全を祈願し楽しく過ごしている。

(13)湧別墓地  開拓の当初は墓地という敷地がなく、死者が出た時には手伝いの者によって穴を掘って「野焼き」が行われ、骨拾いの後土をかけて土まんじゅうにし、木の墓標を立て墓とした。また埋め方が浅かったことから野犬や狐に荒らされる事が多く、野焼きが環境衛生と宗教道徳の面から憂慮されたことで、火葬場の建設が行われた。しかし当初の火葬場は喪主が葬儀のとき借り受けて、手伝い人が薪を搬入して炉で焼くものであったから、手数は野焼きと何ら変わらなかった。
 明治38年頃、湧別浜市街付近にあったのち、年代不詳ながら現在地に移転した様だ。(八木談)
 葬儀、特に火埋葬には善光寺さん(松尾富士太郎)のかくれた善意の助力があった事が聞かれる(古老談話「湧別町史」)のち区画整理され、昭和6年火葬ろが新設されたが、周囲の環境は悪く、雑木の茂るにまかせて居たが、町議佐藤良夫が議会活動の中で墓地の清掃を提唱、2度に亘って大木の伐採、雑草の刈取りが行われ、住民もようやく崇祖の念が高まり、40年代より立派な墓碑の建立が目立ち始めた。
 昭和39年湧別火葬場の一部整備が行われ、燃焼方式も重油バーナー焼却炉が取り付けられた。火葬場も老巧化がめだち、54年近代的な火葬場に建て替えられ「湧別葬斎場」の完成をみた。
 昭和45年から8月上旬の1日を「墓地清掃の日」として励行しており、お盆にきれいになった墓地で先祖をお迎えする姿が定着してきた事は喜ばしい事である。

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