東百年史
戦時編
産業の発展

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(1)戦いに青春を捧げた人々  東部落110年の歴史の中で、明治大正期における幾度かの戦争は、部落的にあまり影響はなかった様である。
 昭和12年、日支事変より大東亜戦争の敗戦に至る9年間に及ぶ戦争の時代は、農業経営の発展途上にあった時代であっただけに、生活、営農、部落の発展に及ぼした影響は限りなく直接的には14名の尊い生命を失い、間接的には戦後60余年の今日迄あらゆる分野に影響を及ぼしている事を思う時、今更乍らあの悲惨な歴史を振り返らずにはいられない。
 明治29年、開拓の鍬がおろされて以来、様々な困難に耐えて営農の基礎を築いた我々の先輩達にとって、此の時代程苦難と悲痛に満ちた時代はあるまい。
 昭和29年12月8日大東亜戦争に突入。戦争の激化とともに最愛の息子を、夫を戦場へ送り出さなければならなかった。湧別神社の神前に武運長久を祈って湧別の駅頭から数多くの精兵が発車の汽笛とともに起こる万歳の声を背に”撃ちてし止まん”の決意も固く征途に上がった。残った青少年達は軍事教育に防空監視に、そして女性は国防婦人会員として出征兵士への千人針、慰問袋の作製を銃後活動に精進した。
 従って農事に当たるものは食糧増産の責務を負い乍らも学校から帰って来た子ども達を相手に細々と続けざるを得なかった。日増しに物資は不足する中で衣料品等は買う事も出来ず「欲しがりません勝つまでは」を合い言葉に、ほの暗いランプの灯りを頼りにつくろい物に夜を明した事もしばしばだったと、ある古老は語ってくれた。
 昭和20年8月15日一億国民の努力も空しく戦争は敗れた。父母の、妻の祈願も甲斐なく大陸に、南の島に。護国の鬼と化した英霊に祖国のためにつくされた功績を讃えると共に謹んで英霊の氏名を記して心から冥福を祈るものである。
  東部落戦死者名
殉公者名 階  級 年 月 日 場       所
 青柳 勘次郎   陸軍兵長   昭和21,1,4  ソ連イルクック州タイシェト収容所 
 伊藤 兵 治  陸軍兵長  昭和18,11,22   ソロモン群島ガダルカナル島
 小野 一 行  陸軍兵長  昭和20,6,20  沖縄本島
 佐々木 正  陸軍上等兵  昭和18,5,29  アッツ島
 野口  勇  陸軍兵長  昭和20,5,4  沖縄本島大名
 山田 幸 夫  海軍上等兵  昭和20,7,14  函館湾口方面
 八木 五 郎  陸軍兵長  昭和19,7,28  ニュウギアマウデス
 後藤  猛  海軍上等
 整備兵
 昭和20,4,24  フイリピンクラークピナツポ山西北
 小縄 義 弘   海軍上等
 水兵
 昭和19,6,1  中部太平洋方面
 金塚 信 二   陸軍一等兵  昭和19,9,25  中支那
 山本  博  陸軍中尉  昭和20,5,8  沖縄本島
 城之内 盛雄  陸軍二等兵  昭和22,2,16  山梨県北都留郡賑岡村宮ノ沢
 山田 兼 義  陸軍兵長  昭和19,6,10  サイパン島
 福地  清  海軍上等
 整備兵
 昭和20,3,17  硫黄島

(2)戦時中の青年教育  ◆ 青年訓練所
 欧州戦後国際的にも軍備の縮小が叫ばれ、国内に於いても国際情勢に合わせて軍縮政策がとられた。(昭和4年4ヶ師団廃止)この様な軍縮政策に肩代わって潜在軍事力の強化がすすめられる中で、大正15年青年学校令が公布され「青年の心身を鍛練して国民たるの資質を向上せしめる」を目的に16才から20才の男子を対象として本村にも15年7月1日湧別、川西、芭露、上芭露、計呂地の確証学校に併置された。
 当時の訓練科目及び時間数によれば
 修身公民科  100時間
 普通学科    200時間
 職業科     100時間
 教練科     400時間
 以上の様な教科内容から軍事教育に重点がおかれた勤労青少年の教育機関であった。
 満州事変の勃発後その重要性を加えて行ったが、全員入所とは至らなかった。

 ◆ 青年学校
 昭和10年青年学校令の公布により、本村においても先に創立していた湧別女子職業補修学校と湧別青年訓練所を統合して湧別青年学校の発足を見、ほとんど全員の入学を見た。
 戦局の進展にともない軍事教育は一層強化され、小学校を卒えたばかりの小さな身に重い軍装をつけての訓練は見た目にも痛々しさを感じられたものだが、度重なる厳しい訓練もみについて村内校との連合演習を経て、秋の釧路連隊区司令官の査閲を受ける頃には一種の逞しささえ身に付いた。
昭和14年4月義務制の実施
 昭和18年1町村1校とする整備拡張方針が示され、立地条件を取り入れて次の3校に整理統合されて防空監視の強化を始めとする決戦体制へと進んだ。
 下湧別第1青年学校  テイネー以西一円
 下湧別第2青年学校  バロー地区一円
 終戦と同時に教練科が廃止され、教科内容の転換もされたが就学者も減少して昭和23年制度的にも廃止となった。
 
(3)翼賛壮年団  大東亜戦争への進展は国民の総力結集は勿論、国民思想の健全化を図り貯蓄の励行、愛国心の涵養を目的として、昭和17年4月国の要望に応えて壮年層に呼掛けて下湧別村翼賛壮年団として発足した。
 団長に土井重喜、外、野津二三、本間資義、高須実、阿部文男、坂上堅正、当地区より渡辺満雄、伊藤金一、押野栄治、増田新二等の名が上げられ15,6名と思われる。(増田新二談)
 年1回上下湧別団と合同で下湧別小学校を会場に白襦袢に袴白鉢巻で集合。
 ”みそぎの錬成会”を催す等不屈の精神を養う鍛錬がなされたが、昭和20年7月湧別神社で解散して国民総動員部隊へと移行した。

(4)在郷軍人会  下湧別村在郷軍人会が創立されたのは大正2年頃と芭露部落史はのべている。
壮丁教育、軍人精神、軍事能力の涵養
 教育招集、観閲点呼への予備教育を行う事等を目的とし、分会費により運営されていた。常に機会ある毎に射撃、銃剣術等の練武を行い有事に備えた。
 陸軍獣医少尉飯豊健吾が長く分会長として貢献したのはあまりにも有名である。部落でも渡辺満雄、山本鹿蔵等が班務に尽力し、青年訓練所の創立後は山本鹿蔵、佐藤良夫、山田正美、渡辺満雄が指導員を委嘱されて青年教育に尽くした。
 昭和20年終戦により8月22日分会旗を焼いて解散した。
村の分会長は小沢虎一であった。

(5)沿岸特設警備隊  戦局も日増しに不利となった昭和18年8月オホーツク海沿岸の敵の上陸作戦に備えて配置された。正式には熊第2285部隊1箇中隊編成で4ヶ小隊からなっていた。
 中  隊   長   陸軍中尉  飯野 哲三
 副    官   陸軍曹長  武田 小七
   〃       陸軍々曹  室井 孝一郎
   〃       陸軍伍長  清水 清一
 第1小隊長   陸軍々曹  渡辺 満雄
 第2小隊長   陸軍々曹  築部 勇吉
 第3小隊長   陸軍々曹  上条 三郎
 第4小隊長   陸軍々曹  柳橋 勲一郎
 中隊幹部は湧別小学校を本部として常勤し、オホーツク海沿岸の上陸作戦に備えた。隊員は在郷軍人を充て未教育者は第7師団へ教育招集され、2ヶ月間の後警備隊に復帰している。年3回程度1週間、湧別小学校を兵舎として起居し訓練に演習に励んだ。上、下湧別合わせて200名〜250名位。緊急時には旭川第7師団より派遣部隊が合流する事になっていた。タコツボと称する穴を掘り、敵の上陸作戦に備え、対戦車攻撃など実戦さながらの訓練だった。今でも東2銭道路の両側の海岸線(現在の東牧野)には当時のタコツボの跡が沢山見られる。1週間の勤務を終わって緊張と連日の演習の疲労で家へ帰っても直ぐには農作業が手に付かなかったと、当時の隊員達は回顧する。
 産業と国土防衛の任務を負い、開拓当時の屯田兵を思わせる此の部隊も昭和20年8月終戦と共に解散された。

(6)ポン沼機雷爆発事故  昭和17年4月、4里番屋附近に機雷2個が漂着した。これを安全場所に引き揚げ戦時中ゆえ、青年学校生徒、警防団、一般の人達にも見学させて威力の恐ろしさを認識させる目的であった。爆破現場を中心に1000メートルを危険区域とし周囲に警戒線を設けて赤旗で標示し、爆破は午後1時とし下湧別警防団、および芭露分団から出動応援を受けて前日まで一切の手配を終わり、近隣町村の警防団から見学、参観の問い合わせがあり、警察署の行事として、これを全面的に認めたのである。
 爆破当日、5月26日朝から快晴、例年になく気温も上がって真夏の如き日和であった。下湧別市街から1里離れた所、漁場の番屋が1軒あるだけ、警防団が指揮して処置の準備をする。
 警察官、警防団員、青年学校生徒、一般見学者約1000名、湧別小学校生徒も列をなして現場に向かっていたと言われる。「東3線から海岸迄の道もあり他の部落からの者も随分案内した。」(菅原 正談)2つの機雷は、当初50メートルくらい離れた所に陸揚げしてあったが、1個を爆破する際、その爆風によって他の一個が誘導的に爆発する恐れがあったため、さらに引き離す作業をしていた。もう一方の位置を直すべく17名の警防団員が力を合わせてロープを引いていた。東からは、この中に伊藤敏雄、熊岡徳久、鈴木貢等がいた。一瞬機雷が爆発し、大音響は附近の山々に反響し、湧別市街の窓ガラスも響きでこわれた位と言う。特に5月26日午前11時26分、煙が立ち去ったあとの現場には直径10メートル、深さ3メートルの大穴があき、50メートル四方には死傷者2百数十名が折り重なって、これらの悲鳴とうめき声でさながら地獄の絵図を現出した。
 使者106名の人名を奪い120有余名に及ぶ重軽傷者を生み、オホーツクの然も東部落のはずれの海岸に起こった事件としては、あまりにも大きな悲劇であった。死者106名の中、東部落で1度に3名の犠牲者を出した海谷家(現上湧別町5の3に転居)は悲惨たるものがあった。爆破時間が10分遅かったら災害は計り知れないほど増大したであろうと当時のをしのぶ人々は洩らしている。警防団員40名を含め、村内犠牲者82名の霊を弔うため、翌年罹災現場ポント附近に慰霊碑が建立され、厳かに1周年の追悼祭が営まれた。昭和26年、海岸のため碑が倒壊する事を心配して湧別神社境内に移転し、現場跡地には木標を立てて標示したが、現在は波浪に洗われた海浜には、当時の惨状をしのばせる浜なすの郡も姿を消し、跡をとどめず町有牧野(湧別農協管理)として夏は牛の群れなす牧野となっている。
 町では毎年、6月15日戦死者の霊と共に湧別神社境内で慰霊祭を行っている。
 ポント浜機雷爆発事故死傷者
 死亡者
  島田 トモ、 熊岡 徳久、 後藤 要、 小縄 アキ、 海谷 彦治、 海谷 彦蔵、
  海谷 テル、 鈴木 貢

 負傷者
  小縄 行男、後藤 嘉美、 小野 タケ、 横山 フミ子、 海谷 さめ、 伊藤 敏雄、 
  小縄 フク子、 関根 イシ、 関根 タカ、 関根 とめ

産業の発展                            上へ
(1)生活様式の移り変わり  開拓者の農家経済は当時の立地条件の制約を受けて金銭支出を極度に抑えて自給自足によらなければならなかった。
 住居も草葺き草囲いの掘立小屋。雨露をしのぐ程度のもので中央にランプが主で時にはガンビと称する樺の皮をまるめて光源とし囲炉裏の焚き火も又夜の灯りとなったものだと古老が語っている。
 衣類はほとんどが自製、食糧は自家生産の穀物、主として麦、稲きびを手碾きで精白して主食とし、馬鈴薯、南瓜、トーキビ等も主食の座にあった。
 どうしても買わなければならない煙草も下級品のきざみが常用され、酒も焼酎が主として用いられ所得の少ない事から生活は極度に切りつめられていた。尚開拓のおくれから自給自足の生産にも及ばず、当時の反当たり麦、稲きびで1俵半、馬鈴薯で10数俵程度であった様だ。
 大正の初め頃、湧別浜に貨物積取船が着く様になり、貨物の荷上、積込の仕事に我先に馳付けて男も女も働いた。(八木仙ェ門、菅原りな談) 砂原を荷を背負って倉庫へ運ぶ難儀な仕事で現金収入を得るのには他になかったようだ。米1俵1銭、酒樽1本(4斗)2銭、1日働いて25銭から30銭程であった。
 やがて馬による農法が普及して開拓も進み、生産も少しづつよくなったが、反面出費もかさみ容易に生活の向上を見るには至らなかった。
 欧州戦後一般的に経済は好転して農家の現金収入も増えたようで、この頃よりようやく米食率も高まり、住居もこの頃から改善されはじめ土台付き柾葺きの家が建てられるようになり大きな囲炉裏に焚き火という姿も次第に薪ストーブに変わって行った。後に縁側付きの家も見られる様になったが、厳しい北海道の気候風土には適さなかった。これは郷里の農村住宅の再現で”ふるさと”を想い浮かべて自らを慰める糧とも想われる。
 住居の改善とともに衣食にもようやく改善が見られ、かっての麦、馬鈴薯食も米麦飯に、ツマゴ、わらじ履きもゴム靴、地下足袋と変わって行った。
 昭和7年、待望の水稲耕作をはじめたが、不幸にして大凶作、翌年恵まれた荒天で初めて米の収穫を見た喜びは例えようもなく、開拓以来久方ぶりに米の味を満喫したと当時の喜びが語られている。
 昭和9年、10年と幾度も冷害凶作に痛めつけられながらも軍用馬の育成、軍用燕麦の供出等によって生産を上げ、特に軍用馬は1頭33円から35円と一般需要より高額に買い上げられて農ぁ南瓜の経済もうるおして生活安定につとめた。(小野宇次郎談
 こうした発展途上に日支事変、大東亜戦争”ほしがりません勝つ迄は”を合い言葉に耐乏生活の内に敗戦、極度の物資不足に加えて追い打ちをかけるような冷害凶作は、食糧供給の任を負う農民自身すら又しても麦飯(燕麦もかなり食用に供された)、馬鈴薯に頼らざるを得なかった。
 昭和25年頃から朝鮮動乱後、経済の立ち直りと21年以降安定して米の収穫がなされて、電気の導入を契機に電気器具の急速な普及や衣料品など、大衆の購買心をそそる新製品も出回り、農村生活に新知識を取り入れる見学や観光旅行等の外出の機会も多くなり、前時代的な国防色の服装は一変して市販の洋服となり、特に女性の洋装は著しく都会並みの普及を見せて生活様式は一変して農村伝来の自給経済は大きく後退するものとなった。
 今、明るく輝く電灯の下、赤々と燃える石油ストーブ、テレビの番組に興じ若者はパソコンに向かい団らんの一時を過ごす良き環境にはあるが、往時を偲んで厳しかった先人の足跡を振り返って反省の資とする事は明日への前身の糧となる事を信じたい。

 ◆ 住 居
 開拓当時の住居はほとんど掘っ立ての草葺き。草囲い入口には筵を下げ、中央には大きく囲炉裏をとって焚き火。床には麦稈や干草を敷きつめて筵を敷き、雨露をしのぐ程度の粗末なものだった。
 囲炉裏の焚き火は炊事にも暖をとるにも時として灯火にもなった。灯火もカンテラ(サメ等の魚油)よくて2分芯と言われる石油ランプで年間石油1缶(18リットル)とは使わなかったろうと古老は語る。
 その粗末な住居で凍れる夜布団の襟は、はく息で真白に凍り、吹雪の夜等、朝目を覚ますと吹き込んだ雪で覆われる事も度々だったと言われる。
 大正に入って土台付きの家も建ちはじめ薪ストーブの普及とともに焚き火の必要もなくなり、生活様式もかなり改善されたが玄関を入って大きな土間、居間、台所、奥座敷等がとられていたが、居間、台所は比較的暗く、寒い間取りになっているものが多く、後日生活改善が大きく取り上げられた頃この住居改善が頭痛の種とされたものだ。
 昭和22年、農村電化事業により、電灯が灯され暗いランプ生活に別れを告げた。パットともされた煌々たる文明の光は、資材の調達から労力の提供と協力した部落の人々にとって思わず万歳を叫んだと語る人が多い。近年農業後継者が他部落に比較して割合に多く定着傾向にあることは喜ばしい。
 この事が新しい住居造りに結びついてここ数年来近代的な住宅が目立っている。耐寒構造を取り入れた新しい建築様式で断熱材を活用して窓もアルミサッシの2重窓、、居間に台所を併置しステンレス流し台を備え付け、かっての薪ストーブは石油暖房に変わり、電気器具を取り入れた快適な生活が出来るようになり昔の面影をとどめなくなった。
 遂数十年前迄は薪材を確保するために冬期ともなれば山へ入って切り出し、運搬に精出して、家の周りに高く積まれた薪の量で貧富がわかるとまで言われたものだった。
 沢の近くに開拓当時を思わせるような粗末な小屋掛け、お互いに食糧を持ち寄って共同飯場で自炊生活、1日に3敷から4敷の薪を切ったものだ。(小野宇次郎談)(1敷=高さ5尺長さ6尺)
 こうして切られた薪は、馬によって数里の道を運んだものだ。十数頭の馬が鈴の音も高く列をなして通る壮観な姿は、冬の風物詩として懐かしい風景となったが、石油に頼りすぎた現在の姿と対象して省エネルギー対策の見地からも一考を要する時代となった。

 ◆ 衣 服
 入植当時の衣服はほとんど自製によるもので、男子は下着に白木綿の襦袢に黒か紺の股引、冬はネル地を用い上着には縞木綿の胖天(冬は綿入)、女子は木綿縞織の筒袖の着物だった。
 入植当時山形県出身の婦人が用いていたモンペを見た他県の人達が暖かさと作業の便利さを知って、たちまち全戸に普及して、後にスラックスが用いられるに至るまで長く愛用された。
 履物は自製の足袋に外出時には下駄、草履が用いられ、冬は米俵をほぐして造った藁靴、ツマゴ、赤ケットと言われる毛布を足に巻いてはいていたので、春の雪どけともなるとビシャビシャに濡れて困ったと言う。畑仕事には自製の「刺し足袋」をはいたが、これは冬中に女達が働く者一人に2,3足分を造って春の蒔付作業に備えなければならず、ほの暗いランプの下に集まって、農作業や子供の着物のつくろいとともに過重な労働を強いられていた。
 大正に入って欧州戦争後の好況が反映して現金収入の道もひらけて市販の乗馬ズボンやセーター、メリヤス製品、ゴム靴、地下足袋などが出回って手製の見栄えのしない衣服にとって変わり女達の針仕事も楽になった。
 昭和に入って学生服が市販されて、夏は霜降り、冬はコール天、女子は毛糸編のセーターにスカートという姿が一般的に使われた。
 戦時中は衣料品の統制、そして切符制となりすべての物資とともに極度に不足し新調などは思いもよらず”欲しがりません勝つまでは”と耐乏生活を余儀なくされた。
 終戦後も衣料事情は悪く、軍服類米軍放出の衣類等、体裁など言っては居られない時代で此の頃緬羊の飼育がはじめられ、どこの家でも紡毛機を踏む音が聞こえたものだった。手編でセーター、股引、手袋と多様に利用され重宝された。後には洋服地の交換もなされて見違えるほどの背広姿が増えた。
 昭和30年頃、化学繊維の著しい進歩と既製服が店頭を賑わして、特に女性の洋服が都会並みの水準になり”戦後強くなったのは女と靴下だ”と女性解放を皮肉った言葉が生まれたのも此のころだ。
 こうした既成衣料品の進出は家庭での針仕事から女性を解放したが、反面流行を追って使い捨ての傾向が目立ち、再利用など考えられなくなってきたのは遺憾である。

 ◆ 食生活
 資力も乏しく幼稚な農具に頼る開墾は容易に進まず、自家食用の麦、稲きび、比較的栽培容易な馬鈴薯などが作付けされたが自給も中々追いつかなかった。
 穀類はすべて手碾によって精白して食用に供した。馬鈴薯は何時の頃からか冷凍して干上げ製粉して団子等にして食され、長く貯蔵出来る事から戦争中も造られて居た。
 春先堅雪となる頃、日中に畑の雪を踏み固めて土中に貯蔵した馬鈴薯を掘上げて踏かためた雪の上へ並べて凍らせ日中の陽光で融けたのを表皮をむいて川水につけて糸に通してつるして干上げる。
 こんな作業が、当時何処の家でも行われ、春先の風物詩だった。干上がったものは臼や碾臼にかけられて製粉し団子や「まんじゅう」になり、独特の風味とシコシコした歯ざわりで喜ばれ単調な麦飯の食前を賑わした。
 稲きびは餅や、赤飯等多様に用いられ唯一の御馳走だった。米は盆や正月に僅かに使われるに過ぎず、病人用に用いられる程度であった様だ。開拓も進むにつれ、小麦、ソバ、大豆などと作物も増えるにつれ味噌、正油などの調味料も造られ、手打ちのうどんやそばが一層食卓を賑わした。
 幸い海が近く、魚も豊富にとれて安く手に入った。移住当時、魚の安さにほれ込んで大きな大鮃を買い込んでいろいろな料理をして食べたが、とても食べ切れず困った揚句、そぼろに加工して使った事もあると菅原りなさんは語ってくれた。
 昭和8年、はじめて念願の米がとれ、移住以来久方振りに米の味を満喫したと古老が語るように喜びは一方ではなかった事からも米への限りない愛着が感じられる。しかし度々の冷害凶作のため依然として麦、馬鈴薯を主食の座から外す事は出来なかった。
 日支事変とともに戦時体制が強化され、すべての物資が統制下におかれ、、砂糖の配給も極度に抑えられ砂糖の代替えとして相当量の原料ビートが自家甘味料に消費されたのも此の頃からで終戦後にも引き継がれ、糖蜜の闇取引も出現し、精糖会社からは出荷策として砂糖の還元による奨励方法を実施した事もある。
 極度に物資が不足した中で遂に終戦となるが、追い打ちを掛けるような冷害凶作に食糧供給の任にある農家自身も又食糧に窮する有様で、本来家畜の飼料である燕麦も精麦して食用に供される外、又しても大きく澱粉をはじめとする馬鈴薯のお世話にならざるを得なかった。
 昭和21年から比較的に安定して米の収穫がなされ農家経済もようやく立ち直り、加工食品も取り入られて食生活の面でも向上が見られるようになった。
 29年移行の連続的な冷害凶作は遂に酪農への経営転換となり、近年ようやく経営安定に向かいつつあるが、多種多様な加工食品が出回って食生活面での様式を著しく変化せしめた。特にインスタントラーメンをはじめとする食品の普及は目を見張るものがあり、どこでも簡単に短時間に調理して食べられる利点はあるが、反面単食することによる栄養面の考慮や台所をあずかる主婦自身も又手間が省けるなどの理由で安易に取り入れ、本来尊ばれる「おふくろの味」がうすれつつある様な気がしてならない。
 今、主食は勿論肉類、鶏卵甚だしきは野菜に至る迄、消費者に買手市場で位置付けされている現状にあり、キュウリ、茄子、ピーマン等、年中いつでも食べられる事の良し悪しは別としても、自家の野菜畑に丹精して作られ初めて取り入れたときの初物と称して神仏に供えた後「七十五日長生きする」と喜んで家族揃って賞味した事も過去のものとなった。
 日常の食生活も向上して、盆、正月と言っても特別に御馳走というものも無くなって昔のようにワクワクする様な食事の楽しみが薄れてきたのは淋しい事である。
 百年前未開の荒野に入って苦難の道を切り開いて歩んだ先人の遺業を今しみじみと偲んで反省の資とするとともに心を引き締めて着実に明日への歩みを続けたいと思う。

(2) 水  稲  大正8年、佐藤弥助によって湧水を利用して米の試作が行われる。(現福井正雄所有地)その頃は季候も良く米も良くとれたので、米作りの意欲は益々盛んになった。昭和4年、土功組合が創立され、翌年から大規模な灌漑用水路の工事が札幌地崎組によって行われ、6年末、完成している。一方造田工事も昭和5年頃から急ピッチで行われ、各地から小作人が入地し部落の人口も急速に増加していった。昭和7年春、待望の水稲栽培をはじめるが、その歳は大凶作に見舞われ農民達は皆一様に落胆をし暗い正月を迎えたものであった。しかし翌8年は前年に反し未曾有の大豊作に恵まれ部落内は活気に満ち人々は米作りの自信を得たのであった。昭和9年、10年はまたまた凶作となり、それまで80戸を数えた世帯数も11年には37,8戸と急減している。当時の水田耕作面積は、昭和6年337町歩、7年341町歩、8年363町歩、9年590町歩、10年565町歩、11年353町歩となっており、昭和9年と11年との対比は約半分に減っている状況からみても、いかに水稲栽培が気候に左右され難しいものであるかを物語っている。厳しい自然条件に対して北限地帯の水稲栽培を可能にするためには品種の改良、栽培技術の改善などに弛みない工夫がなされた。
 当初の試作には東北地方の早生赤毛が用いられ、その後道農事試験場の研究結果推奨される品種が主軸となった。当時の品種として在東坊主、坊主2号、坊主5号、坊主6号、チンコ坊主、走坊主、玉置坊主、ニオイ早生、栗柄餅などが上げられ、その後富国、農林20号、33号、34号、95号などが主として作付けされ20数種にも及んでいた。とくに農林20号などは食味も良く戦後10数年経っても最高の栽培面積を有し、当時から優良品種とされていた。奨励品種以外は各地で好成績を上げたものを農家が導入し、まったく無名に近いものまであり、収穫を左右する品種の選択には強い関心があった。秋涼も、5俵程度から次第に上がり6俵位はあったと言われている。栽培技術については、昭和13年頃、村役場内に農会と呼ばれる指導機関があり、藤田技師の指導によってタコ足足幡種器による直幡式の方法から温床育苗による移植栽培へと次第に変化していった。
 育苗方法も温床から広く取り入れられている冷床へと改良されている。また移植栽培になった大きな原因の一つには直幡栽培の最大の害虫であるドロット虫の大発生があり、防除をしない水田はほぼ全滅に近い状態であった。(防除方法は灯油を砂に混ぜて散布した)またこの頃から乳牛が導入され、水田一色の農業経営から多角経営へと漸次変化をしていった。昭和16年、大東亜戦争が始まり、食糧は統制となり米は供出制度とされ農協の前身である産業組合より各農事実行組合へ割当がなされた。
 その頃から出征兵士の数が増え労働力は減少の一途をたどる中で割当数量の消化には大変な苦労をしたものである。相次ぐ冷害と労働力不足から農家の経営は悪化し、税金や土功組合費の滞納が急増していった。一方土功組合をしても水田農家を救済すべく反別割賦課猶予などの処置を取るが、組合の負債額は増加の一途をたどり国の助成による負債の全額国庫負担によるしか道はなかった。昭和19年12月「土功組合地区内農地更正助成要項」が定められ、一挙に解決をみた。(徳政令制度、土功組合の項参照) 食事は事情は終戦と共にますます悪化をきたし、米作農家は他のうらやむ存在となった事は衆知の事であろう。昭和27年頃から食糧事情も次第によくなって来るが、その頃から上川方面にイネヒメハモグリバエが発生、その後29年に北見地方で大発生して収穫皆無になる水田もみられパラチオン粉剤で一斉防除を行った(全道で防除に使用した薬剤、BHC粉剤3000トン、オアラチオン粉剤177トン、金額約3億円) 害虫は絶滅したものの夏の風物詩といわれるホタル、トンボなど益虫を含めたくさんの昆虫が激減した事は大変残念な事である。30年代に入り冷害凶作があいつぎ、米は3年に一度しか取れなくなり、ついに昭和39年当時の区長押野栄治を中心として水田廃耕の気運が高まり10月臨時総会を召集、議長に井戸敬をおき、水田全廃の議決をしたのであった。また水田廃耕後酪農に転換したことからその体験発表として、酪農青年研究会のメンバーの一人であった押野健一は、雪印乳業主催の全国研究発表における弁論大会において最優秀賞を受賞している。泣き笑いの30余年に及ぶ水稲耕作もここで終止符を打ったこの記録は、NHK「現在の映像」として同年、全国放送され永久に保存されている。

(3) 薄  荷  明治28年、礼文島から西1線に入植した渡辺精司は郷里(福島県)の家業が薬種商であったことから、しばしば横浜の薬種商に出入りして、薄荷の知識を有していた。たまたま入地選定の途次、野生の薄荷の繁茂する状況を見て、これをアイヌに刈り取らせて持帰り、帰郷を機会に乾草を持参し横浜の小林商店製油場で蒸留したところ相当量の採油を見たことから、薄荷栽培に確信を抱き入植と同時に栽培を企図して、種根を入手するため道庁その他に道内栽培者の紹介を依頼した。これに応えて札幌農学校鈴木武良教授から上川郡永山村に栽培していることが知らされ、渡辺は直ちに永山村に赴き植松戸長斡旋を得て、山形県から入植した屯田兵(永山)、石山伝ェ門から種根6貫を譲り受け駄馬に託して持帰り、開墾地に植付したのが明治29年5月、これが北見薄荷栽培の起源といわれている。(町史より)
 しかし、栽培に経験のない入植者の多くは、山師的な作物として警戒し相手にしなかった。この中にあって岡山県から移住した入植者の有地護一は郷里で栽培の経験をもっていたので29年秋、永山村から苗根百貫余を買い求め、越田兼松および高橋長四郎(伊藤音松の前の居住者)に分配したとある。その後高橋は耕作面積を増やし遠軽町学田や上湧別屯田に苗根を売り、薄荷高橋の偉名をとった。後にハッカの湧別と名声をとどろかせたハッカの苗根も元は東から普及したものと思う。町史によると明治34年上渚滑が高橋長四郎から種根を買入れとある。開拓当初のハッカ栽培は生産物が軽量で運搬に容易であったばかりでなく、一度植付けると翌年から作付けする必要はなく地味の肥沃さからよく繁茂して雑草も少なくきわめて作りやすい作物であったようである。
 北見市では、明治35年に湧別より苗をもとめて耕作したとあるが或いはこの苗も東の高橋長四郎の所から出たのかも知れない。高橋の住んでいた所は地味が良くハッカの栽培にも適していたが、東の土地の大部分は湿地帯のため幸作に適しなかったので、一時期2,3人の人が少しの間耕作したことがあったが永続きしなかった。
 高橋長四郎は以後樺太に渡り、終戦後引揚げてその子孫は今、中湧別に居住している。

(4) 麦  類  裸麦は部落開拓当初から主食として作付けされていた。しかし、開拓当初の土地条件は湿地が多く、しかも強酸性土壌が多くあまり裸麦の作付には適さなかった。そのため裸麦よりは酸性土壌をきらわない小麦(小麦は春蒔き)が割合多く作付けされていた。水田廃耕になる直前36,7年まで各戸で裸麦、小麦の作付がなされていた。
 戦後、秋蒔き小麦が推奨されたが、1戸3反から5反位で当時は冬枯れ防除の薬剤散布等徹底せず定着しなかった。しかし、昭和49年、政府の小麦に対する価格の補助政策などもあり、近年秋蒔き小麦の作付の伸びが見られるようになった。昭和49年、湧別地区の麦の生産者による麦生産組合が結成され、川西に乾燥施設を設備、大型コンバインが導入され1戸当たりの作付面積は拡大した。54年、東地区における耕作者、面積及び収量は次のとおりである。
 松永忠男、村川勝彦、北谷 実、菅原米吉、小関信宏、曽根茂美、佐藤良夫
合計面積 36町6反  反当平均収量 7俵
 平成2年には町内一円の麦生産組合に改変され、芭露に乾燥施設が建設され、幡種、収穫、乾燥調整を全て組合で行っており、幡種機、5台、コンバイン、3台を所有し機能的に作業を進めている。
 秋蒔小麦の品種の推移は昭和30年代の北栄からはじまり、ホロシリ、チホク、タクネ、ホクシンと変わり現在に至っている。 特にホクシンは四国香川県まで運ばれさぬきうどんの主品種に位置づけられ、粉の色は少々黒いが、非常に食味の良い品種である。 平成17年現在作付けしている耕作者、曽根秀明、小野悟、渡辺豊、小関信宏、野口信敏、真坂正人であり、面積は約40ヘクタールである。

 ◆ 燕 麦
 燕麦は、開拓当初から馬の飼料として大切な作物であった。裸麦、小麦よりは、比較的酸性地あるいは湿地でも収穫出来たため、割合多く作付けされて来た。しかも昭和3年頃より軍用馬の飼料として政府買入により、かなり多くの面積が作付けされた時期がある。
 戦時中から終戦直後、食糧の不足から燕麦を籾すり機で脱皮して食糧に供した事があり、松下栄市は町議事堂で冬期間、動力による燕麦の皮むき作業をしたことがある。
 近年、農作業が次第に馬からトラクターに変わり、燕麦の作付は見られなくなった。

(5) 亜  麻  大正5年、湧別に亜麻工場が(今のホッコンの所)創立され、亜麻の耕作が始まった。夏作物のため、収穫跡地に大根など2毛作の収穫が出来、また夏期間の収入源として大切な作物であった。
 戦時中は見返り物資として衣料品の配給などがあり耕作者の魅力であった。近隣町村の上湧別町別、佐呂間、紋別方面からも原料が運び込まれ、会社の敷地に野積みされた原料の山は壮観であったが、東地区は泥炭地が多かったため、あまり質の良い亜麻は生産されなかった。
 戦後、化学繊維の開発により、衣料用繊維の亜麻の価値は落ち、湧別亜麻工場も昭和35年閉鎖のやむなきに至り、45年余に及ぶ亜麻耕作の歴史を閉じた。

(6) 馬鈴薯  馬鈴薯は、開拓当初から北海道に適した作物であり、又農民の食糧として欠かす事の出来ない作物であった。塩煮して食べたのは勿論、冬の内、土に埋めて貯蔵して置き、春早く掘り出し雪の上に広げて凍らせ春暖かくなるにしたがって、やわらかくなったのを皮をむき、水にさらして、糸でノレンの様に吊し乾燥させ、それを臼でついて粉にし、団子にして食べたものであると古老は語る。自家用食糧としての栽培のうちは、作付の面積は伸びなかったが、大正5年、欧州戦争による輸出農産物として澱粉の価格が暴騰し、道内各地に澱粉工場が建設されるに至った。川西では昭和12年、小池澱粉工場(今の本宮氏の所)が開設され、又4号線(今の中川組の事務所の所)に西1線、基線、尾萩、東一円とする82戸の内、東35名を株主とする澱粉工場が昭和12年開設されるに至って馬鈴薯の作付は急速な伸びを示した。
 また、昭和25年、現福井正雄宅の所に井戸金八が個人経営の澱粉工場を開設。そして昭和27年頃、菅原正宅の前(関根所有地)に市街の高野徳松が同じく個人経営の澱粉工場を開設した。また東7線7号には福島地区の協同澱粉工場が開設され、高柳貴重が操業に当たっていた。8月の末から工場が操業されるや、昼夜兼行でいもをすりつぶす機械の音が遠くまで響き渡り、そして馬鈴薯を運搬する馬車が工場の付近の道路に列をなしたものである。有利な販売策と津としては勿論、澱粉は食用としても大切な物であった。特に戦時中食糧難の時代は農家の者ばかりではなく、市街の非農家の者はほとんどの人が馬鈴薯を作付けし、澱粉と交換したものである。当時普及した品種には革命的と言われた、紅丸(赤円)が最も多く、戦後澱粉粉含有量の多「農林1号」「エニワ」が一般化したが、一時食用として「ペポー」「ホッカイ号」「金時」なども栽培された。
 戦後、年数を経て徐々に食糧難も解決され、馬鈴薯、澱粉の価格は低迷し、年々作付面積は減少し、昭和36年スノー食品工業の開設もあり川西の小池澱粉工場、中央澱粉工場、共に41年に閉鎖され、昭和55年当時は酪農主体の経営に転換したため、飼料作物の増反から湧別農協内での作付面積は、僅かに5ヘクタールに減少し、東地区では北谷実の3ヘクタールの作付となった。
 平成に入って食用や、カッルビーの加工向けの作付に変わり順次作付が増加し、湧別農協内で平成3年3戸12・6ヘクタール、9年6戸34ヘクタール、15年5戸25ヘクタールの作付となり、品種はトヨシロ、ワセシロ、ダンシャク、キタアカリなどとなり、17年現在は曽根秀明、渡辺豊、北谷貞博のみである。

(7) 甜  菜



























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 甜菜は開拓使の農業政策で明治4年札幌官園において栽培したことからはじめとし、根室官営農場でも10年アメリカから種子を購入して試作している。明治13年官営で有珠郡門別村に製糖所を設け、耕作の奨励とともに製糖事業も行われたが、成績はあがらず中止された。というように開拓初期から甜菜の栽培は重要視されたが、明治期における湧別地区はおよそ無縁の作物であった。
 欧州戦争の好況で砂糖の国内消費が増大、輸入阻止の国策で本道甜菜糖業の復興が進められ、大正9年十勝に製糖工場の設立とあわせ、耕作の奨励が道庁並びに会社によって積極的に行われた。この年西1線、川西等の10数戸の農家によってはじめて採種用甜菜栽培が行われ、大正11年から原料の販売がなされた。
 作付面積反当収量を明らかにする資料を欠いているが「栽培方法を全然知らなかったため、よい成績ではなかった」と当時の耕作者は語っている。栽培技術の普及などのため、耕作改良組合の組織がもたれ、大正14年耕作者145名で2組合を結成、作付反別も68・3町となり、収量239万5000斤で1万1538円の所得であった。この面積は芭露の一部と輸送に恵まれた湧別地区を主とするもので、昭和10年まで多少の増減を示しながらほとんど固定され、同年秋湧網線が計呂地まで開通するにおよんで芭露方面の作付増加を見て生産量も増大した。
 日支事変以来、戦時体制の強化で作付割当となり、16年164町、20年186・8町と時局の要請に基づく増加をみたが、収量は反当平均2113斤と前記11年の5181斤に比較すると60%の生産減であった。この著しい生産低下の原因は戦争の進展に伴う労働力の減少で栽培管理が行き届かなかったことや、肥料不足で各作物生産量の減少は避けられなかったなかに、砂糖輸入が途絶えて甜菜は戦時重要作物として肥料の割合は豊かであったため、肥料欲しさに割当反別は消化しても、配給肥料は有利な他作物に流用するとか、さらに配給停止された砂糖の代替えとして、自家用甘味料に相当量の原料が消費されたという歴史的背景のもたらしたものである。自家消費は終戦直後にも引き継がれ、砂糖不足から糖蜜需要は旺盛でこれに乗じて製造販売する者多く、1斗缶入り2500円から3000円で買人がむらがり、商品化する者が現出した。これによって22年204町と作付増加をみた自家製造量の増大に対し、製糖会社は集荷策として原料1万斤に対し130斤の製糖還元の報償方法を実施し、原料確保を計るなど世相はまさに「3白時代」(米、塩、砂糖のこと)であった。
 経済が安定した27年172町と減少、この年冷害で他作物の減少著しく翌28年は冷害対策として作付奨励がなされ250町と増加、30年豊作の翌年195町と減反をみたが、この年も冷害で寒地農業安定確保の上で甜菜に対する認識は深まり、一方28年公布された甜菜生産振興臨時借置法などによる政府の施策もあって、翌32年北見市に芝浦製糖株式会社の製糖工場の開設をはじめ、斜里、美幌にも工場設置を見て甜菜耕作はクローズアップされ、32年264町、33年366町、35年405町と漸増し、生産額も35年に4488万円と、販売作物中馬鈴薯を抜き首位を占めるに至った。
 東地区の甜菜栽培については、大正時代に下段地帯にいくらかづつ作られていた事が古老の話で判明している。当時としては3000斤前後でもちろん直蒔きである。上段については湿地であるため栽培されていなかった。
 昭和7年水田耕作が始まると一時甜菜作付は中止された。暫くおいて25年頃、1戸2反か3反位作られたが、水田作業とのからみもあって反別ののびはなかった。39年水田廃耕と同時に急速にのびた。そして40年試験的に佐藤文雄がポット栽培を始め、好成績であったため、2,3年後は全面的に移植に変わっていった。その間、日甜と芝浦の区域変更があったため、くわしい資料が得られぬのが残念である。ポット栽培により、昭和39年、東平均反収が2580キロ(4500斤)であったのが、昭和43年は4286キロ(7286斤)と約6割近い収量増となっている。
 水田廃耕によって甜菜栽培には一段と熱が入り、42年には、農協主催による甜菜増産共励会には東地区から11名の入賞者を出し、45年には同じく9名の入賞を果たしている。
 又42年には、小野宇次郎が5500キロで芝浦製糖区増産賞を、44年45年には曽根茂美が北糖築甜菜増産賞に、福井正雄が6400キロで管内一に、井戸定利が牧草跡地甜菜連作試験貢献賞に、45年には北谷光雄が5900キロ(1万斤)で北糖築甜菜多収増産賞、それぞれ表彰を受けている。ちなみに年次別反別と反収量は、
 昭和45年  耕作戸数73戸 面積91町 反収4550キロ(7700斤)
 昭和47年  耕作戸数72戸 面積102町 反収5270キロ(8900斤)
 昭和51年  耕作戸数71戸 面積104町 反収5740キロ(9700斤)
 昭和54年  耕作戸数64戸 面積109町 反収5320キロ(9000斤)

 昭和55年の耕作者は63戸109ヘクタール、平成5年26戸170ヘクタールと戸数は半減したが、移植機、収穫機の性能の向上、直播栽培の技術向上、委託耕作などにより戸数別の面積が増えた。長い間重量取引が続いていたが昭和61年糖分取引に移行した。又品種も改良が加えられ、糖分の多いもの根腐れに強いもの、そう根病などに強い品種に改良された。
 また畑からの輸送も平成16年に中間貯蔵から北見工場への直送となった。最近は建設業の不振から農業を副業とする企業が出始め大面積の栽培が可能となり供給過剰となり作付調整がされることになった。55年湧別農協内61戸159ヘクタール、平成3年42戸119ヘクタール反収6371kg、品種スターヒル、9年25戸114ヘクタール、風害を受けたためその内直播、8・4ヘクタール、平成15年26戸170ヘクタール反収5738kgとなっている。

(8) 南  瓜  経済が安定してくると農産物物価は反比例して上がらなくなる傾向があり、農家はより安定した作物を求めるようになり、スイートコーンの減少と共に南瓜の作付が増加しはじめた。
 機械化が出来ない反面コストが安いことから、禁煙飛躍的な伸びを見せ、酪農から畑作への転換もありマルチ直播の技術向上から大面積を栽培する農家が出はじめた。
 取引会社はあけぼの食品、スノー食品、ホクユウ食品のほか近隣町村の仲買業者などであり、エビス、ホウユウ、雪化粧、黄生う、ケントなどがあり、面積は平成3年8・2ヘクタール、15年13戸26・5ヘクタール反収エビス1765kg36円、黄王1598kg46円となっており、歩引き率が今後の課題となっている。作付けしている農家曽根秀明、小野裕一、野口信敏、北谷貞博、福井正雄、小関信宏、真坂正人、小形千代子、渡辺豊
、伊藤孝、渡辺満、伊藤久志、伊藤一夫、小野隆博である。

(9) その他の畑作物  (そば)
 開拓以来作付面積は少ないものの忘れてはならない作物にソバがある。冷害に強く土質を選ばないため入植した人達の主食となった。荒地を開墾して焼畑にしてそばの種をバラ蒔きすると真っ白い花が咲き、一面のそば畑は心がやすらぎやいやしの効果もあった。石臼で粉をひくのは子供の仕事であり、毎晩ランプの下で子ども達が次の日に食べる粉をひいていた。2・3時間の仕事だが毎日となるとつらく苦しいものであった。
 現在では趣味で手打ちそばを打つものが多くプロのそば屋であった高橋精兵衛が来てから急激に増え、作付けしているものも福井正雄、押野健一、井戸定利がいるが共に湧別そば会に加入してそば打ちを楽しんでいる。東地区においても毎年12月に独居老人を招待してそば打ち講習会を開き地場産のそばに舌づつみを打ち昔苦しかった思い出を今は懐かしく1日を過ごしている。

 (スイートコーン)
 とうもろこしの品種には大別して家畜飼料用のデントコーンと食用のとうもろこしに別れるがスイートコーンの出現までは八条とうもろこし(品種としてオニアなどがあった)これはうるちきびであり外にももちきび、はぜなどがあった。
 開拓当時には米や麦の収穫も少なく、芋、南瓜とならぶ主食の一つでありとうきびを取って来てゆでておくのも子供の仕事であり9月頃から毎日、毎食同じ食事が続いた。
 昭和20年後半頃からアメリカからスイートコーンの種子が輸入され販売用としての作付が始まった。当時の品種はゴールデンクロスバンタムであり皮が硬く歯にくっつくものであった。
 その後缶詰用の品種早生リワード、中生リライアンス、晩生ジュビリーが導入され、平成6年まで作付されていた。また生食用としてはハニーバンダム、ピーターコーンにはじまり数種の改良種が出現したが共に芭露方面では栽培しているが東ではその大半が自家用であり、北谷貞博と福井正雄が少量手がけている。なお福井正雄は16年よりインターネットでの販売をはじめ年々増加傾向にある。

 (アスパラガス
 日本にアスパラガスが渡来したのは、江戸時代であり当初は食用ではなく観賞用のものであった。食用となったにはごく近年であり、昭和20年後半より植え付けがなされ、あけぼの食品では昭和30年より缶詰用のホワイトの買入が開始された。
 昭和30年から40年代は一世風靡した人気作物で、腰を曲げての収穫はきつい仕事であったが短期間に高収入を得られる事から広く栽培されるようになったが、栽培条件として湿地を嫌うことから東ではあまり作付が見られなかった。

 (薬 草)
 人類と薬草との関わりは非常に古く、紀元前2000年ほど逆のぼるといわれ、出版の年代は不詳だが中国の漢方医薬の古書「本草綱目」に詳しく記されている。日本における古書では西暦918年深根輔仁が著した「本草和名」が日本最古の生薬辞典であり、本草綱目をはじめ30余部の中国医学書より、1025種の薬物を挙げ、自らも日本全国を旅して薬草を集め、当時の国内の薬物供給に対応すべく出版されたものである。
 江戸時代になって多紀元簡が幕府紅葉文庫に古写本を見つけ復刻版を出版した。本草和名は古本草や古医方書の資料として、あるいは国語学史上で貴重な文献である。輔仁は百済系の帰化人蜂田薬師を祖とする代々の医家である。
 他にたくさんの生薬に関する医学書が出版されているが、江戸時代1874年小野蘭山は本草綱目を解り易く解析し、日本における生薬の状況が詳細に記された「本草綱目啓蒙」が発刊され江戸時代最大の博物誌とされている。テレビの時代劇にも毎々紹介される著書であり参考にせられたい。
 本町における生薬研究では緑陰の岩佐幸夫さんの奥に住んでいた「中野哲」氏が本町においてはあまり名が知られていなかったが、日本生薬学会においては有名な研究家であり、特にエゾウコギの研究は当時世界で最も進んでおり、ソビエト連邦ではその研究発表を一番待ち望んでいた。元北海道大学薬学部長本間博士の著書にもしばしば登場する人物であった。しかし悲しい事に親戚家族からは変人扱いされ、氏の没後その研究資料は全て焼却処分され、日本においても、世界においても大きな損失であり悔やまれてならない。
 本町において薬草栽培は戦前から行われていたようだが、詳細については不明である。昭和50年薬草研究会が発足し栽培可能な薬草を沢山植えていた。オオブカウキ、ホッカイトウキ、オウギ、センキュウ、シャクヤク、ハンゲ、キッソ、モッコウ、ビャクシ、ハマボウフウなどであり、トウキ、オウギ、シャクヤクが長年栽培された薬草である。東においては北谷実が50年からトウキの栽培をはじめ、次いで小野寺一雄、村川勝彦、長野清孝、福井正雄、吉泉徳孝、渡辺賢が続き少しおいて福地誠、渡辺満、増田新二、小野勇が作付をしていた。以上のメンバーのうち福井正雄は北海当帰の外大深当帰、シャクヤク、キッソ、モッコウ、ビャクシ、ハマボウフウの作付をしていた。
 年次毎の作付は55年1戸0・2ヘクタール、平成3年8戸4・1ヘクタール反収233kg、9年2戸0・94ヘクタール、15年1戸2・5ヘクタールとなり、価格の下落もあり全道的に縮小の傾向にある。17年現在収量は安定してきたものの湧別町で福井正雄ただ1戸だけとなった。

 (人  参)
 加工用と食用に大別されるが、平成に入って町の助成を受け、加工用向けの人参収穫機が導入され、農協の奨励もあり多くの農家が作付をしたが、機械のトラブル、業者との取引上の問題などがあり長続きがせずわずかの農家が残った。加工用に、北谷貞博、野口信敏、小野寺一雄、生食用に伊藤輝光、布目昇、渡辺豊が作付をしていた。品種は加工用がダンパース、生食用が向陽2号などが主品種であった。平成9年7戸4・2ヘクタールであった。

 (長  芋)
 高級食材の一つである長芋は、土地条件や深い堀削が必要なことから最初から作付けする者が少なく、ごく限られた人達が栽培をしてきた。近年北海道産の食材として注目され関東、関西方面、また台湾向けの輸出と販路が拡大された。しかし栽培技術面でも熟練を要しだれでも作れるものでもなく現在の耕作者は伊藤輝光、高橋精兵衛だけであり、多めの自家用として押野健一があいる。17年現在の面積0・2ヘクタールである。

 (豆  類)
 豆は日本では五穀に数えられ古来から栽培をされてきた。特に小豆は日本人の食のふるさととも言うべき欠かす事の出来ない豆類の一つでその消費量は郡を抜いての一番である。
 開拓当初から広く豆類の栽培がなされ、金時、うずら、手亡小豆、大豆を中心として作付けされ農家の大きな収入源でもあった。しかし、水田との複合経営のため畑も湿地が多く、次第に作付けする者も減少していった。自家用としてはほとんどの農家が作付をしているが販売用としては、平成に入ってわずかに3戸が栽培しているのみである。平成5年伊藤久志、伊藤孝、小野悟、渡辺満であり、面積2・5ヘクタール品種マリモ、サホロで反当り5万円である。

 (野  菜)
 野菜もまた人間社会にとって欠かせない食材であり、ほとんどの農家以外の家庭でも野菜の作付は行われている。販売用としては慣れていない事もあるのか作付けする者は少数であった。
 伊藤久雄キャベツ、ハクサイ、北谷貞博ハクサイ、大根その他、福井正雄大根、ギョウジャニンニク、ホウレン草などである。
 今後は最も安全な国内産の有機野菜が望まれるなか多くの耕作者が出現する事を希望するものである。

(10) 馬  産  人類と馬の関り合いは非常に古く、犬と並んで文系発祥のはるか以前とされている。馬は大変利口な動物であり家畜と云うより家族の一員であった。開拓当初は馬小屋と住宅が一緒になった家屋が数多く見られた。北海道開拓と馬は欠かす事の出来ないものであり、荒野の開墾に物資の運搬に人馬一体となっての苦労話は古老の間で今も語り草となっている。湧別は明治の頃よりオホーツク沿岸で最も早く拓けた町であり、有数な馬産地であった。優秀なペルシュロンの種牡馬が沢山おり、町内はもとより近隣の馬産家や遠くは上川方面から貨車で種付に来ていた。戦前北見に住んでいた福井松次は3・4頭の馬をつれて2日がかりで旭峠を越えて種付に来ていたものである。東地区においても優秀な馬産家が数多く輩出され町内外の歴史書にその名が記されている。昭和初期より日本は軍制下にあり、各種共進会に優勝する事はもとより、農林省種牡馬買上げ、満州国馬政局買上げなどをめざし良馬生産に専念していた。高額なものは明け2才で千円を超える馬も続出し、お祝いをしたものであった。馬産家の主な者は伊藤金一、伊藤音松、市川谷蔵、小野宇次郎(その外にもいたと思うが不詳である)などがあげられる。
 当部落においても馬に関わる行事が沢山あり、大正時代青年達の主催による草競馬が盛んに行われた。その折り転倒事故があり骨折死した馬の霊を慰めるため、有志により後述の馬頭観世音建立のきっかけとなった。
 昭和30年代に入り耕作体系も馬耕からトラクターに移行し馬産の目的は大きく転換し、品種もペルシュロンからブルトン種(ばんえい競馬用)に変わりフランスからの輸入種牡馬を飼養する者が出た。小野寺一雄は挽馬合格をめざし日夜調教を続けている。

(11) 乳  牛




















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 湧別で牛の元祖と言われる徳弘正輝は、明治20年頃網走から牛を導入したとある。
 明治26年、紋別の高野庄六が湧別の徳広正輝から牛を10頭買い受け、小向の八十士の牧場に放牧したという。しかし31年の大洪水で湧別原野に放牧中の牛はほとんど死亡。その被害によって徳弘は再起出来なかったと言われている。明治42年バローの内山牧場開設と同時に網走の卯原内から、ホルスタイン雑種1頭を買入れ、増殖が計られたという。湧別では大正12年20戸、84頭、13年12戸、45頭と統計でみるかぎり定着する事なく、甜菜耕作をはじめた湧別地区の甜菜耕作改良組合を対象に、始めて牛の奨励があり大正14年、千葉県から20頭導入され配分されたが、東部落は対象にならなかった。この補助牛飼育が主体となって、湧別畜農組合を組織、組合事業で大正15年4号線に集乳所が設けられて輸送に耐えるクリームに加工され、名寄、野付牛などの乳業会社に送り込まれた。東部落に乳牛が導入されたのは、昭和に入ってからで吉田弘、八木仙右ェ門、野口春吉、伊藤音松等が最も早く、次いで菅原定市、石山義雄、小野宇五郎、小野一二等が導入したという。
 当時牛乳は、4号線まで缶に入れて背負ったり自転車で運搬し脱脂乳を持ち帰ったといわれている。

 原料乳価表     脂肪3・2%    1升当価格
  1等乳(銭)     2等乳(銭)  
  昭和4年    17,1,5 14,2,4
昭和5年 15.2.3 12.9.9
昭和6年 8.8.3 7.9.4
昭和7年 7.3.6 6.7.2
昭和8年 9.6.0 8.9.6
 大正14年支庁統計では下湧別村で乳牛飼養戸数29戸、乳牛82頭とあるが、残念ながら東での飼養頭数については明記する事が出来ない。

 ◆ 農業恐慌時代
 昭和5年の金輸出解禁は、当時の世界的経済恐慌の厳しい現実に何の効果もなく、逆に安価な乳製品の大量輸入となり、わが国酪農を混乱に陥れた。前記の表で示す如く、乳価の大暴落と共に乳業会社の操業短縮は原料乳の受け入れ制限となって現れ、中でも森永野付牛工場のごときは、昭和5年9月、45%の受け入れ制限実施という過酷なもので生産者に大動揺を与え、売れない牛乳を抱えた生産者の処理問題は深刻をきわめたと言われ、生乳生産の歴史は今よりまだまだ深刻な時代があったと言わなければならない。
 昭和14年2月、中湧別に酪連工場が開設されるにおよんで4号線の集乳所は閉鎖され、工場直接の販売方法に変わった。この時から各農家は、共同で工場迄運搬を始め、夏は馬車で冬期間は馬そりで、冬の除雪作業は路線毎に共同作業で行われたものである。
 一方、東部落では新田又四郎が昭和7年に鈴木平吉が昭和10年、種牡牛の導入を計り東地域のみならず広く乳牛の繁殖に貢献した。
 この頃から野草や稲ワラ主体にした飼料から、栄養価の高い牧草やデントコーンの作付がみられるようになった。
 湧別では昭和9年バローの大口丑定が地上サイロを(木造)を築造したとあるが、東部落では昭和15年石山義雄が始めて流し込みコンクリート製の地上サイロを建設した。
 水田を主体とする東の農業も3年に1度は冷害凶作という繰り返しの中で28年の冷害凶作によって、翌29年国の酪農振興法の公布をみるにおよんで寒地農業安定確立、酪農振興が本町の骨格として位置づけられ、31年集約酪農地域(遠軽地域)の指定を受けるなど国有並びに道有貸付牛の導入、町貸付牛233頭などのの積極策が酪農を指向する農民の経営意欲の盛り上がりとなり、東でもこのころから酪農転換への意欲が徐々に見られるようになった。
 一方、昭和17,8年頃から試行された人工授精事業は、25年地区連によって事業の統一機構の整備がなされ、翌26年農協委託による共済組合での人工授精事業が始まったのである。
 昭和20年移行一進一退を繰り返してきた東の酪農も30年代の打ち続く冷害凶作によって酪農専業への気運高まり、39年秋(この年も凶作であった)部落の臨時総会に於いて激しい討議の末、水田の全面廃耕が議決され、この時から酪農専業の転換へと歴史的変革を逐げる事になったのである。

  昭和39年乳牛の飼養状況
 農家戸数       120戸
 乳牛飼育戸数     98戸
 乳牛総頭数      524頭
 搾乳牛1戸平均   2・9頭
 1頭当乳量    3,820kg
 1戸平均飼育頭数  5・3頭

 中湧別工場管下50トン以上乳量出荷者
 (東) 昭和45年   10戸
     昭和47年   20戸

 水田廃耕後、年毎に乳牛、乳量も増加を一途を辿るが、47年度1戸平均の乳量では川西の61トンと比べると東は40トンと先進地の専業地帯よりまだまだ低かった。
 然し水田廃耕後、町、農協の一体となっての強力な指導と積極的な土地改良事業、基盤整備事業等の補助事業によって東地区の飼料作物の生産性は、急速に高まり、次の表で示すように乳牛頭数も順調な伸びを示し、酪農専業地帯として着実な発展を遂げるに至ったのである。1頭あたりの産乳量においても廃耕当時の3820kgから5400kgと伸び、湧別農協平均を大きく超す農事組合も現れた程である。
 より産乳量の高い個体改良意欲も高まり、東においても湧別農協の奨励施策と相まって、能力の高い輸入牛が3頭導入された。
 その後順次個体改良が進められ、より産乳量の多い個体や、より点数の高いものが作出され、高橋徳雄、山田弘幸、鈴木幹雄等を中心に多くの若者が競い合い、全道共進会に優勝するまでに至った。しかし昭和30年当時は乳牛の個体管理技術も、牛乳の冷却技術も稚拙であり現在では考えられない2等乳が数多く見られ、農協青年部を中心に落等乳防止共励会をもうけこれらに対応する一方、共進会の前に良い牛を観察するために、ジャッチングコンテストを開催し次第に技術も向上していった。落等防止の切り札として、昭和50年湧別農協事業主体によるバルククーラーの導入が計られ飛躍的に乳質は改善された。
 その後更に乳質改善が計られ、細菌数の減少はもとより体細胞の減少などより良質な牛乳をめざし技術の研鑽がはかられた。平成に入り野積みであった堆肥も環境に配慮して補助事業による屋根つきの堆肥舎の建設、尿だめの整備等地球規模のエコロジーとして整備されている。
 飼養技術もスタンチョンで繋ぐ方法から、多頭飼育をめざし、平飼いで搾乳室(ミルキングパーラー)を設置してのフリーストールによる飼育方法に移行した者も出た。横山原一郎はこの方法により永い間湧別一番の乳量を続けていた。経営方法も個人から法人格に移行する者もおり、この事が大手企業の農業への参入も懸念され、今後の酪農の行方が心配される。

組合別 戸 数 経産牛 育成牛 合 計 乳 量 t・k 1頭当産乳量 k
129 114 243 655.961 5.268
東第1 11 174 148 322 902.649 5.454
東第2 12 229 208 437 1.318.727 6.155
東第3 10 159 145 304 833.582 5.100
東第4 143 111 254 829.198 5.894
東中央 117 88 205 593.739 5.484
東 栄 147 132 279 711.887 5.000
新生1・2 104 42 146 505.435 4.860
72 1.202 988 2.190 6.351.178 5.415

(12) 牧場経営  (土井牧場)
 大正・昭和にかけて湧別は道内でも有数の馬産地であり、当時の人々の馬に対する思い入れは強く、主として農耕馬ではあったが家族同様の扱いをしていた。
 土井重喜は企業としての牧場経営をめざし、大正13年東地区に100町歩余りの用地を取得した。この土地は農耕地として一旦払い下げたものであるが、成功期限が来ても成功の見込みがないことで、引上処分となったもので、農耕地としては不適当な土地であった。そのため目的を変更して、牧野としての起業条件つきでの許可となった。
 一、30頭以上の馬を放牧すること
 二、土地の周囲に牧柵を設けること
 三、牧草畑10町歩を作ること
 四、成功期限は3年とすること
 以上の条件を全て履行し、3年後に土井の所有地として承認された。土地を取得して実際に牧場経営を始めたが、100町歩の面積ではとても狭く、営利を目的とした経営はむずかしかったため、用地の拡張計画を進めることとした。
 接続地の国有保安林の解放と、海岸地帯の民有地の買取りによって、約350町歩の面積が一括使用できることとなった。
 放牧馬は主として両湧別、遠軽方面、遠くは北見、上川方面からも貨車で運ばれてきた。春5月から秋11月までが放牧期で250〜300頭が収容できた。
 また預託馬だけでなく、10数頭の種牡馬を置き、生産育成に努め、各種品評会には常に上位の成績であり、また種牡馬として毎年のように農林省の買上げを受けていた。
 このようにして牧場経営は20余年間続いたが、戦後農地解放の影響から閉鎖の止むなきに至った。
 また土井牧場の一部は、昭和42年整備されて湧別農協の管理のもと湧別牧野として甦り、牛の楽園として年間280頭が放牧され、秋の下牧時には丸々と太った仔牛が引き取られ、農家に大変感謝をされている。

 (新田牧場)
 新田又四郎は明治31年、福島県郡山で生まれた。大正10年遠軽町を経て、下湧別村トエトコ野崎牧場(現新田牧場)で牧夫として働いていた。一度郷里に帰っていたが、昭和7年再度野崎牧場に入り、当時管理人であった上湧別村開盛斉藤金三郎と共に牧場経営に精進する一方、その頃から地域に乳牛の導入があり、農家の要望から種牡牛を導入、自場の供用牛の外受精事業も行っていた。
 新田の牧場買取りは、経営主の野崎久が、静岡県在住のため、行き届かない点もあり、また斉藤金三郎の口添えもあったことから、息子の正と共に買い取りを決意した。面積は75町歩、南北は2号線より1号線、東西は東8線と9線の間から、サギ沼のあたりまでであった。また土井牧場とせっしていたため、太い牧柵を立て仕切りをした。東側には柵がなかったので牛たちは勝手に保安林内を歩き、遠くはワッカまでいっていたという。牛馬共にそのまま引き継いだので、種牛1頭、牝牛20頭、馬20頭の内容であった。後サーキクミコロニーコ8号の外、4・5頭の種牛を管理して、乳牛の資質の向上に貢献した地域酪農の先駆者であった。
 牛乳の出荷についてはセパレーターを買入れ、自家でクリームに加工して汽車で遠軽の森永工場まで送っていた。
 また戦後の農地解放により牧場経営を断念せざるを得なくなり狭い面積での自場だけの経営となり現在に至っている。
(13) 漁  業  サロマ湖の黎明期、僅かの塩分を含む湖は※牡蠣がうず高く積もり(※天然カキは「ナガカキ」と呼ばれ珊瑚礁のように生育する立ちカキで現在でも湖内に若干残っている)沢山の淡水系の魚が棲息する神秘に満ちた魚たちの楽園であった。 サロマ湖漁業の開祖は明治33年志撫子浜に※畑田春松が漁業権を得て市街地から居を移した。(町史をはじめ多くの著書に記されているが後述の山田光治が明治31年にテイネーに回漕業の営業のため移住している。畑田は明治20年後半テイネーに住みその後志撫子に移住をした。)
 魚類は豊富で、いくらでも獲れたが、売る事は出来ず僅かに秋口から結氷期まで魚屋が買出しに来るだけで、それも40kg15銭くらいに過ぎず、夏期の漁獲物は魚粕に製造したが、これも百石当り湧別着値で450円くらいで輸送費を差し引くと採算の合うものではなかった。その後湖畔原野の開拓が進み消流も拓けはじめて芭露、床丹、登栄床など各地に漁業を営むものが増加した。丁寧地区においては、明治31年回漕業を営む為に山田光治が移住した。当時は道路網が整備されておらず船による運送が主流であり、当時最も栄えた湧別への物資輸送の動脈となっていた。
 大正14年に山物常次郎が入地してハゼ(ゴリ)チカ、あかお、しらうお、こなご、イサダ(オキアミ)など小魚を佃煮に加工して販売していた。その後入地した高野も本州で修行を積み佃煮製造をしていた。湧別軌道の停車場でもあり、また戦前戦中に軍の御用達の権利も得ていたので大変繁盛していた。
 東において最も早く一般加入電話を引いたのも山本である。昭和2年森五三郎、4年斉藤昌一、11年大館慶蔵、その後続々と入植し23戸の集落を形成した。
 当時の住民は高橋、山田光治、柴田定吉、高野預松、熊谷、小林、大館慶蔵、児玉米吉、金内康和、大館幸一、鈴木清、古谷博次、菅原長市、坂本音次郎、嘉多山吉郎、山本幸作、吉田新次郎、中飯洋助、藤田、山越、森五三郎、斉藤昌一、大谷、砂小沢栄吉、伊藤清蔵、坂本久蔵、木村孫三郎、斉藤菊三郎、高橋憲五郎、木戸である。
 魚粕の清蔵が主とした仕事であったが、その他サヨリ、しらうお、えび漁に加えて、こなごの集魚灯による棒受網漁があった。5月末から6月始めの10日間位であるが、製品で約3屯程の収穫があり煮干しに製造したが業者から沢山の引き合いがあり短期間乍ら貴重な収入源であった。戦時中は苫前から、いわしの流し網のため50隻の船団が集結して番屋で魚粕の製造をしていた。戸数も沢山あり船団を組んでの漁などで水夫との交流もあり、9月10日の金刀比羅神社の祭典などは大変な活況を見せていた。昭和初期潮流の変化なのか天然ホタテが死滅し、3年間の休漁となり前浜の漁民が多数丁寧に移り「オゴノリ」(テングサの仲間でカンテンの材料にした)取りで生計を立てるために人口が増えた事も一つの当地区のにぎわいの要因とも考えられる。
 しかし安定した漁業経営には至らず、湧別前浜に移住するものまた湖内漁業に見切りを付ける者も続出した。ホタテの養殖が始まるまで長い混迷期が続いた。出て行く者がいた反面来る者も又居り、窪田、竹林、小松、川口、五十嵐など戦後の移住者によりほぼ現在の集落形成の原形をなした。後に述べる養殖事業にはノリ養殖もあげられるが、丁寧では大館幸一が芭露で参加している。
 当時のサロマ湖は常呂の鐺沸まで回航して外海に出るという不便さがあり、船を砂丘越しして外海まで運びまた戻るという作業が一般的であり、そのため新湖口開削はサロマ湖漁民の悲願であった。
 大正14年岡島主水蔵を先頭に3里地区の人達が中心となり郡境の最狭部(80間位、150m)の掘削を開始した。常呂漁民との紛争を繰返しながら5年の歳月が流れ、昭和3年村議会に村営事業で事業費600円が計上され、翌4年4月に工事着工、1日80余名の作業員により手堀で9日間休むことなく続けられ、上幅4間、敷幅2尺、最深部20数尺の通水路が完成した。工事最終日は折からの悪天候で霙の降りしきる中終了し、後に雪に変わり大嵐となった。嵐は湖水を揺らし折からの雪解け水と共に一気に外海へ流れ出した。岡島主水蔵は翌早朝小高い砂丘に立ち水の流れる様を望見して長年の夢が実現した喜びに雀躍したとあります。
 オホーツク海の水位より8尺高いと言われるサロマ湖は湖水の流出によって湖口は漸次拡大されその後閉塞することなく、なた海流の影響も強まって棲息魚類に大きな変化をもたらし、予測しなかった諸現象がおこった。まぞ在来の淡水魚が急減し、変わって外海の魚介類が多数棲息することとなった。
 獲る漁業から育てる漁業は戦前から検討されていたが、弱った苗貝を地蒔きするなど失敗に終わり中断していたが、25年常呂、佐呂間と共同でカキの苗貝1車を宮城県松島より導入組合員に無償配布され簡易垂下式による養殖が行われた。2年目収穫といわれた養殖は調査の結果1年貝で商品化されることがわかり好成績を収めたが、27年15号台風により甚大な被害を受けたが、その後養殖規模は逐次拡大され、湖内主要漁獲物になった。しかし思いもよらない事からホタテ採苗による養殖がはじまる。
 昭和8年に北海道水産試験場の木下虎一郎技師(博士)がたまたま湖内でカキの採苗試験をしていた所、それに多数のホタテが付着したいたことにヒントを得て、翌9年水産試験場の「海扇増殖試験地」として本格的な採苗試験を行うとともに、移植試験にも着手した。
 戦後湖内の海洋的性格がますます強くなり浮遊期幼生貝の分布状態が変化してきたので調査を行い、昭和27年サロマ湖養殖漁業協同組合の設立による採苗事業の統一をみた。また施設も木架式から筏式に改められた。木架式とは幼生貝の付着器に貝殻を用いそれを下から木架で支えるものであった。また筏式とはさぎり丸太で筏を組み立て浮玉を付けて貝殻を針金で筏から吊り下げるもので両者ともに稚貝の落下期に貝殻ごと放流地点に運んで移植するものであった。
 その後稚貝の越冬技術が開発され、落下期の稚貝をさらに人工的に管理し、冬期間育成して春再補して器具を使用しての養殖(ホタテハウス、ポケット)や外海への放流が行われるようになった。技術が開発されるに伴い筏式から延縄式(のし)が採用されるようになり、資材も順次改良され採苗にはハイデックスフィルムからネトロン網によるものに変化し飛躍的な進歩をとげた。
 昭和42年ほたて畜養殖事業部会共同体の組織改変により10名ずつの共同組織が編成され、丁寧では坂本、岡田辰美、小松、五十嵐、斉藤昌作、大館幸一等が参加し養殖資材を使用しての畜養事業が始動した。2年後組織も10名から2名共同でよくなり川口倉次郎、高野国太郎等がそれに続いた。その後資材もハウスから耳づり(稚貝の角に穴を空けてヒモを通してつるす)が研究され食味も外海のものと変わらなくなった。
 悲願であった船着場は、昭和53年第2期山村振興農林特別対策事業として、事業費4931万円で、物揚場、取付道路、橋の整備と同事業で斜路船揚場、巻き上げ機1式が2179万円で整備され、拡張工事、浚渫が行われ丁寧船物揚場として活用されている。
 以上が、今日のホタテ王国を形成する基礎となる訳だが、そのために先人の血と汗の努力があった事を忘れてはならない。

(14) その他の産業













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 東地区は非常に土地条件が悪く、したがって低収入であったため生活は困難を極めた。冬期間出稼ぎをしたり夏の間も出面に行ったりしながらの生活であった。また農業の傍ら他の産業との兼業をしていた人達がいた。

 福井 松次
 戦後まもなくサロマ湖の塩水を利用して製塩業を始めた。斉藤茂の横の空地に小屋を建ていくつもの釜を据え付け大漁の薪で海水を煮詰めて塩を製造していた。2人の従業員を雇い24時間体制で3年程仕事をしていたが塩の専売制と共に廃業した。
 24年頃から養鶏飼料の製造を始めた。当時は自家用も含めて中小の養鶏農家が沢山いたが、配合飼料もなくやわらかい殻の卵が出来る事からカルシウム飼料の供給が必要であった。厄介物扱いされていた天然ホタテの貝殻に着目し、粉砕機も独自に考案し試行錯誤の末ようやく製品が出来上がり本格操業に移った。自宅の工場の外各地に移動しながら製造を続けていた。
 主に作業をしたのは小向、紋別、沙留であり販売先は道内各地主として道央方面の農協に卸していた。
 配合飼料の出現と共に単味飼料の需要も減り昭和40年頃廃業をした。
 湧き水を利用しての鯉の養殖は昭和19年に当地に移住してすぐに養魚組合に加入して約2万匹の鯉を養殖し販売していた。
 しかし戦後食糧事情が悪化3年位で事業としての養鯉は中止し趣味として金魚と共に約30年間飼育をしていた。
 その外精米、搾油、脱穀、籾摺り、等手広く事業を行っていた。また福井正雄は父松次と共に高校卒業後昭和35年より造材業をしていた。その傍ら移動製材機を据え付けて個人向けの賃挽きをしており小さな木工場として重宝されていた。
 昭和43年からミンクの飼育を手がけ平成4年まで続けていた。

 伊藤達美
 昭和13年福島団体へ小作農として入地する。昭和18年家族共々満州開拓団として渡満した。昭和20年終戦を迎えて引き揚げ現在地に入植するが重粘土地のため作物も取れず養豚を始める。38年よりミンクを導入するが自宅の所では3相電気が引けなかったので福井正雄所有地に43年全面移転して本格的に事業を展開した。原皮生産を主としていたが毛皮に付加価値を付ける為、子弟を本州へ研修に出し昭和50年より縫製工場を建設コートを始めとした製品の生産を開始した。生産から販売までの一貫作業ということでテレビで放映され全国でも名の知られる存在となった。しかし経済の大きなうねりの中では個人の小さな力では如何ともし難く加えて消費者の毛皮離れも手伝い昭和62年毛皮部門を廃業した。
 昭和58年よりボイラー加熱による蒸製骨粉の製造に着手した。屠場から出てくる大量の牛骨を集荷して事業を展開していたが、昭和63年12月31日乾燥機附近から出火して工場が全焼する事故に見舞われた。すぐに工場を再建して機械も大きなものに一新して事業を再開した。BSE事件で世間が騒然としていた時期製品は在庫も含めて全量政府買い上げとなり、後蒸製骨粉は肉骨粉と違い完全熱処理をしている事から問題なしとなり継続して事業を行う事が出来現在に至っている。
 平成8年から斃死牛処理の許可を取得、斃獣処理工場を併設し、管内各地から集荷をしており湧別町としても大切な企業として扱われている。現在は長男栄が骨粉と斃獣処理の2本立てで事業を行っている。

 伊藤隆治
 終戦と共に父末吉、兄達美達と満州から引き揚げ、兄達美と農業に従事する。31年東地区開拓の最後の入地として東10線の現在地に分家して入植した。当時は収入も少なく出稼ぎと両用して生計を立てていたが、昭和40年犢の肥育に着手した。当時は生後間もない牡子牛をそのまま販売していたが、国と町の助成を受け大きく肥育して販売する事業に町で最も早く着手した。
 しかし肉牛育成のデータにも乏しく失敗に終わった。43年再度肉牛に挑戦、合わせて廃鶏利用の食肉工場を兄達美と佐藤良夫との3人共同で立ち上げた。だが共同経営は考え方の相違から1人抜け出る事となった。48年正式に工場を買い取り本格的に食肉工場の経営に取り組み始めたが、水質が悪く製品の色も味もあまり良くなく水質の改良を余儀なくされ福井正雄の敷地内に揚水ポンプを据え工場まで約500米の配管をして送水する事となった。水が良くなれば当然製品も良くなり需要が殺到するようになりピーク時には7人の授業員を雇い年間2万羽の処理をしていた。国内経済が安定期にはいると肉の嗜好が次第に豚肉や牛肉に移行するようになり需要も減少し平成11年廃業した。
 一方肉牛はオイルショックにより3年間休止したものの技術的にも向上して安定した経営状況となった。
平成12年鶏工場を全面改装して、輸出向けの牛足加工工場にしたが、牛の口蹄疫が流行して保健所の停止命令や輸出先の買入停止などから中止のやむなきに至った。
 現在は長男浩市が後を継ぎ肉牛一本の経営となっている。

 北見ホッコン
 昭和38年道央地区の農業土木用にコンクリート製品の需要が大幅に見込まれる事から、東出身の芳賀昭雄が経営していた富士電気工業株式会社にコンクリート製品部を設け「水路装工用コンクリート平板」の製造工場を新設したのがホッコン親会社の芽生えである。昭和43年北海道コンクリート製品株式会社の北見工場として設置されコンクリート二次製品、主に連結ブロックの製造販売を開始、48年社名を変更し、株式会社ホッコン北見工場となる。
 昭和54年3月北見工場が独立して、株式会社北見ホッコンが設立され、工場が亜麻工場跡地に建設され、東出身の村川勝治が社長に就任した。
 設立当時は二次製品を主として製造販売していたが、北海道開発計画の一環として今後当地域の港湾整備、農業土木開発、河川用水路整備、漁場開発、各産業の基盤整備事業に生コンクリートの需要が見込まれる事から、昭和56年6月生コンクリートの製造設備を設置して、生コンクリートの製造販売を開始した。
 以来生コンの外二次製品である連結ブロックや護岸用ブロックなど各種ブロックの成型機を設置して製造販売をしていたが、平成12年3月企業合理化のため親会社の株式会社ホッコンに吸収合併され現在に至っている。
 独立してからの代表取締役は2代目として本社から転任した藤巻星人、3代目に角矢賢矩が就任した。
 現在の事業内容は年間生コンクリート出荷量15000立方米、コンクリート製品生産量5000t、年商35000万円、従業員19名である。

 湧別林産
 大正時代の木材ブームに乗って本州資本が北海道に投入され不二製紙、王子製紙、三井、住友、等財閥が本町にも乗り込むようになり芭露方面の山林が伐採された。
 戦時下においては、日華事変〜太平洋戦争と長期化するなか航空機用材、艦船用材、建設用材としての軍需用材、石炭増産のための坑木、代替燃料としての木炭、航空機燃料の松葉油の生産など戦時の特需景気による乱伐により人手不足も加わり、山林は植林されないまま放置された。また戦後の復興のための緊急非常伐採が加わり戦時以来の無計画に等しい乱伐の代償は非常に大きなものとなり、国有林の伐採も縮伐となり、以来木材景気は次第に下降線を辿る事となった。
 昭和14年森林法が改正され、山林所有は森林組合を組織して、森林資源の培養と伐採を計画的に進めなければならないとされた。本町では昭和11年6月結成を見た。木工場については一般製材の工場は23年、チップ工場は35年に建設され操業を続けていたが、昭和49年ごろからオイルショックの影響から急激に木材市況が悪化し、加えて大口取引業者の倒産による貸倒れなどから目に見えて赤字がふくらむはずなのに組合はなぜか赤字隠しの粉飾決算を行った。負債額4億円を含む巨額な赤字が判明し、54年に倒産し工場も閉鎖した。
 母体解散のままでは民有林の疲弊を招き森林所有者は経営上支障をきたすので早急に新しい森林組合の設立が必要である事から、56年設立総会が開催され、谷口勇を組合長として同組合が立ち上げられた。
 一方木工場の方は森林組合と切り離して、渡部組、土井産業の協力を得て、昭和55年株式会社湧別林産として、社長渡辺正喜、副社長土井重喜として亜麻工場跡地に建設した。
 当初は15名の従業員で、主としてカラ松材を原料に梱包材を製造していた。カラ松は生長が早く植林してから最も早く換金できるという事で戦前から信州カラ松を中心に植樹されていた。しかし曲がりやすい、ヤニが多い、フシが多いなどの理由から建設財には向かないという事から、梱包材やダンネージ材に利用していた。最近はカラ松の品種改良に加え、乾燥技術の向上や、新しい工法による集成材の出現により、増え過ぎたカラ松材の消流に明るいきざしが見えている。近年オールカラ松による住宅建設を手がけている建築業者も出て来ている。
 現在湧別林産工場では従業員35名で、カラ松材、トド松材を製材しており梱包材の外、ラミナ(集成材用の原板)の製造をしている。
 年間の原木消費量50000立方米、年商8億円を上げている。
 木材不況の折近隣木工場が次々閉鎖するなか当工場の存在は森林所有者、木材業者にとっても大きな力となっている。

 北鴻銘木
 湧別林産の工場建設と同時に、木材の二次加工の工場として紋別市にあった銘木工場の湧別工場として、佐藤新一が有限会社北鴻銘木を林産敷地内に工場併設し操業を開始した。
 主として湧別町近隣に自生するエンジュ、オンコを原木として床板を始め飾り柱の生産をしていた。その他壺や置物、ヤナギ材のまな板なども作っていた。
 木材の付加価値を高めるための工場として有望視されていたが国内景気の低迷や、製品需要の激減により、平成10年操業停止となり現在工場の一部が取り壊されている。

 すずき鉄工
 湧別山田鉄工場で兄の暁と共に働いていた鈴木徹は、錦町で鈴木工業として兄弟で鉄工場を経営していたが、敷地の狭さなどから東地区への進出を考え、平成2年長兄法明の土地を買受け鉄工場を建設しすずき鉄工として独立した。
 当初は農機具修理を主とした内容であったが、漁業関係の注文や、食品加工場の機械製作修理、また運送会社の車両修理など手広く注文が来るようになり、経営も安定した。
 現在は重量物の運搬のための大型フォークリフトや、ユニック車など補助的な機械を備え工場内の機械器具も最新式のものを導入し町内外の農機具の修理の外、町内企業の指定工場として営業している。
 東自治会内で便利な村の鍛冶屋として貴重な存在となっている。従業員4名家族的な経営を行っている。

 共律水産
 湧別前浜における水産物の水揚げも天然物が次第に枯渇し、ホタテ漁家が増加したものの水揚げ量が不安定な様相となり、禁漁をしながら資源の保護をしなければならなかった。
 ホタテの採苗による養殖は、たまたま昭和8年にサロマ湖でカキの採苗試験をしていたところ、それにホタテの稚貝が多数付いていた事にヒントを得て、9年に水産試験場の「海扇増殖試験地」として本格的は採苗試験を行うと共に移植試験にも着手した。消w11年に採苗蒔付が実施されて事業家の道がひらかれ、以来今日まで変転をつづけながらホタテ漁業の根底を形成して経過している。
 採苗方式も順次進歩をして、木架式から筏式になり原座員お延縄式(のし)が採用され、作業の効率化が計られた。
 養殖も資材を使っての方式(ホタテハウスなど)の外に、外海に直接放流がされるようになり、漁獲量が安定して来ると、貝柱加工も当初の自家加工から大々的な加工工場へと移行していった。
 共律水産の前身である吉松学は余った魚を自宅の工場で加工販売していたが、広い工場での大規模経営をめざし長男吉松丈善が姉正江と共に平成5年照井勝則の敷地内に加工工場を建設した。
 内容はホタテの加工が中心となり各種の魚介類を手がけた。
 従業員も最高時には30名を有し、手広く加工販売を行っていたが、玉令ホタテもEU向け輸出が解禁となったが、供給過剰による価格の下落もあり、現在は規模を縮小して営業を続けている。

 ホテル観湖
 戦後の町内で旅館を営む者は少なく市街地に阿部旅館が1軒のみあるだけで外に数軒の民宿があったが観光客も少なくしばらくの間ホテル業を営む者がいなかった。
 佐呂間町在住の佐藤良一は、サロマ湖の観光を活かし、本格的リゾートホテルをめざし、観光客誘致のため昭和50年新田正所有地を買受け客室12室のホテル観湖を建設した。
 広い浴室とサロマ湖の朝日と湖内で獲れるおいしい魚をキャッチフレーズに観光客誘致に立ち上がった。夏場の観光は順調であったが、秋口から冬にかけのシーズンオフには客足が遠のき苦しい営業となった。以来12年間貸室として提供したりがんばってきたが62年営業を停止廃業した。

 商店
 昭和初期より漁業で大きな賑わいを見せていた丁寧地区に、商業を営む者がいた。吉田新次郎は嘉多山と山本の間で駄菓子屋と居酒屋をやっていた。約30戸程の集落を形成しまた苫前から鰯流し網船団が50隻も集結していたので市街地区の様相であったようである。昭和16年満州へ渡るまで営業をしていた。古谷フサは自宅6線7号に店を置き、丁寧には毎日通って雑貨店を開いていた。五十嵐を過ぎた所から下へ降りる斜め道路が当時の道であり、その角に店を構え20年代頃まで営業をしていた。

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