飲料水と営農用水
土地改良の歩み
明日への歩み

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東百年史


飲料水と営農用水
(1) 開拓水道  東部落の不良土壌知多地として放置されていた未墾地636町歩が、戦後緊急開拓地に選定。開発計画が樹立され、昭和21年23戸が入植、その後東48戸、福島8戸、計56戸となり、開拓が進められたが悪水地帯のため、昭和34年h福島地区山手水源地より全長9030米の管路完成に依り、無水地帯は解消された。しかし管路が悪いため組合員負担による改修工事が度々行われていた。
 当時の開拓入植者は、大出辰造、藤本省二、吉田昌、平野豊、山田博、杉山保一、押野恒夫、古谷重信、立石吉三郎、江見、松永忠一、岡本喜四郎、竹中、柴田照美、榎本健三、野口博、小島清二、小野進、北谷秋吉、山腰武男、石山守雄、石山沢雄、小縄作美、北川昭二、高嶋信、上枝繁春、加藤鐘雄、小縄義久、松下栄、竹中敏雄、石川友一、谷口正七、前田安幸、佐々木正三、木下吉幸、新田正、岩佐宗一、伊藤貞雄、伊藤達治、後に矢内隆、臼井昭一、後藤昭である。
 その後乳牛の増加に伴い昭和43年バロー本間沢より引水、バロー開拓排水槽を経由して福島地区水源地よりの管路に合流管路を石綿管に変更改修工事が完成、受益者65戸が恩恵に浴した。前工事分を含めて国費8163万余円が投入されている。しかし完全には至らず昭和54年から55年にかけ、全長約11キロ受益戸数51戸、国費約7500万円が投入完備された。
 全受益戸数     62戸
 年間使用屯数    4万2771屯

 東部落受益戸数  24戸
 年間使用屯数    2万364屯
 乳牛総頭数     約1080頭

(2) 営農用水  東部落福島部落を含む当初計画36戸が悪水のため、営農用水の必要性を町役場に陳情、昭和43年用水施設1基、44年管路4・9キロメートルが道営事業により着工されたが、自己負担の重圧による受益者が減少29戸となった。
 工事費約3000万円が投入完成以後、悪水地帯が解消された。
 昭和54年秋、設立10周年記念式典が施行された。

 55年当時
 組合員 23戸 非組合員 3戸
 受益人数約100名 乳牛463頭
 肉牛837頭 年間使用量 2万8480屯

 慢性的な水不足解消のため、緊急に行われたこの2つの工事も上湧別町と共同で施設された町営上水道の普及と共にその役目を終え、揚水ポンプは取り外された。

土地改良の歩み
(1) 水田全面廃耕後の
    土地改良事業
 昭和39年30数年に亘る水田経営を全面廃耕に踏切った。
 先行き大きな不安を持ち乍らも早速土地改良に立ち向かわなければならなかった。
 渡辺満雄を会長とする「東畜経営改善既成会」(後に土地改良既成会に移行)が発足し12名の役員を選出して部落民一致して改善計画の策定と事業の計画が積極的になされた。
 極度の冷害凶作の中で農業が導入したブルドーザーにより水田畦畔の取り壊しが始まった。見る間に取り壊される畦、水路、変わり行く田圃の姿を淋しげに見守る長老達の姿が今も印象深く思い起こされる。灌漑溝を上湧別町界で打ち切る6号線明渠の新設工事が計画され、折からの冷害凶作下の救農土木事業として、11月中旬から押野栄治区長、増田新二現場主任を中心に部落民全員の出役により一致団結して工事に当たった。
 スコップ、ツルハシ、鍬等、手労働による過重な労働であったが、1300メートルに及ぶ寒風身にしみる中での難事業を年内に完成させた。
 町村北海道知事が冷害凶作状況現場視察のため、来町して工事中の現地を訪れて慰問され道政の中での援助を約束して激励された。
 引き続いて昭和40年既設の東5線、5線、6線明渠も救農土木事業により改修工事がなされて土地改良事業に踏出した。
 この事業による工事延長新設、既設改修、合わせて2000メートル、これに要した事業費は450万円となっている。

 明渠排水事業
 畑還元による土地改良の先決問題として暗渠排水による改良の必要性が痛感され、個々の改良計画の中から「施行希望面積」が集約され、40年・41年の2ヶ年計画の団体営の事業予算の枠付けがなされたが、部落民は1ヶ年完成を強く望んで既成会を通して強力に要請運動がなされ、農協も再検討の結果、支庁も大巾に計画修正し、大型堀削機2台を導入して9月中旬より野口広次、佐藤文雄を工事監督として工事を推進し降雪前に全事業の完成を見た。
 41年に若干追加事業がなされて総施行面積172ヘクタールとなり2832万円を要した。

 砂客土事業
 この事業は水田廃耕以前から、菅原貞三の献身的な努力によって続けられ毎年冬期間馬搬によって実施されて来たが、昭和40年まで引き続いて施行され現在に至った。
 部落民殆どの出役で寒風吹きすさぶ中を人馬一体となって事業に精進した。
 シャンシャンと高く響く鈴の音、幾十頭と続く馬橇の列は壮観を極めた。
 土地改良に大きな効果を上げる一方、この労賃が冷害凶作下の現金収入の道として農家経済をも大きくうるおした。
 39年、40年の2ヶ年により19・5ヘクタール実施し、534万円の事業費を要した。

 道営草地改良整備事業
 水田全面廃耕後、数年にして農家の経営形態も大きく変化し乳牛の飼育頭数も順次増加し、年間産乳量百屯を越える農家も出始めたが、まだまだ基盤整備を行って、生産力の向上を図る必要性から既成会を中心に部落民の世論を取りまとめ、規模拡大を柱に未利用地の開発草地化、既草地の改良再整備、農道の整備改良、酪農施設の整備を行って効率的近代農業の確立を目指して、国営直轄明渠排水事業の完成を前にして事業の導入を陳情した。
 町産業課農協の大きな指導援助と関係官庁の理解を得て本事業の指定を受ける事となった。(道内6か町村指定)昭和46年より2ヶ年で調査を完了し全体事業計画が策定された。
 本地区は、町の酪農近代化計画に呼応して1戸当り、搾乳牛26頭の規模を目指しているが、これに要する飼料を確保し省力的、効率的な酪農を確立するため、本事業を積極的に推進する事となった。
 事業完了後には1戸当り経営面積13・4ヘクタール、牧草収量も1ヘクタール当り53トンとなり畜産粗収入、8740万円余を目標とされた。昭和48年湧別地区(東6線以東)より事業が着手された。
 大型建設機械が入り抜廃根、廃根線除去、明暗渠排水の堀削、未利用地の開発、そして草地造成等に併行して道路工事も着々と進行し、日頃物静かな部落もブルドーザーの地響きと共に見る見る変ぼうして行った。
 翌19年には第2地区(東6線以西)事業も着工され、町産業課、普及所、農協、農業委員会、既成会が一体となって事業の推進に当たった。
 工事中、用地買収に伴う論議の調整、工事上の設計変更、受益者と工事業者間の意志の相違によるトラブル等が各所に見られたが、伊藤守寿会長をはじめ既成会役員一体となって説得、意見の調整につとめ町当局、農協も又積極的に指導に当り問題解決に助力した。
 部落民も又、より良い郷土造りの基礎となるだけに将来に悔いを残す事のない工事の推進を願って協力した。
 昭和54年12月、東4線、同6線の両線も完成して、東地区の全路線に近い道路網の完成を見、今後の交通運輸に大きな役割を果たす事となった。
  第2地区事業も次の様に善光寺の完成を見た。
 廃根線除去  17・7ヘクタール
 起伏修正   132・8ヘクタール
 暗渠排水   155・8ヘクタール
 糞尿灌漑    56・5ヘクタール
 草地改良    62・9ヘクタール
 農道整備    27660メートル
 明渠排水     2566メートル
 隔障物      21900メートル

 こうして東地区全域に亘った本事業も全事業の完成を見た。本事業の要した事業費は15億円余の投入がなされた。
 経営拡換を計って15年、農家の経営形態も大きく変わった。方々に見られたヤチ坊主の荒野、雑木の木立も広々とした緑豊かな沃野となり、近代的な設備の中で快適な作業と生活が営まれる様になった。

 国営直轄明渠排水事業
 暗渠排水、これに伴う附帯明渠事業も完成を見たが、既設の大明渠が十分の機能を持っていない事からこれが大改修を望む声が強まったが、莫大な費用を必要とする為、町当局をはじめ関係諸機関との協議が幾度も重ねられて国営直轄明渠排水事業の導入が適切であるとの結論により、事業指定枠内に清水町長、渡辺会長共々陳情に当たった。
 地域内排水網が未整備に放置され過湿地帯が多く、農業生産性を著しく阻害している現況を説明して地区内7条の排水路線1万7000メートルの完全改修により、過湿地帯の解消と未耕地の開発により経営面積の拡大と生産性の向上を図りたいと再三の陳情に道庁開発建設部も認める処となり、昭和42年工事計画調査費が予算計上され、44年全体計画が完了、47年より3ヶ年計画で東地区国営直轄明渠事業として着工した。
 用地の買収、5線明渠工事中長雨のため畑地に冠水し、調査により工事ミスがあった事から損害補償の要求が出されたり、3線明渠工事の捨土の処理が追い付かず2号・4号間が2ヶ月に亘って交通に支障を来す等、数多くの難問題も既成会、部落協力して克服して昭和49年当初計画の7号線が部落民の喜びの中で完成した。
 此の工事の延長1万6762メートル、これに要した事業費3億5095万円となっている。

 隔障物事業
 この事業は電気牧柵器を取り入れた乳牛の放牧施設である。亜鉛引鉄柱を4メートル間隔に打ち込んで鉄線2線を張り電気牧柵器に連結する。
 当初計画15キロメートルであったが、後希望農家続出し工事の追加予算の要請が認められ、両地区合わせて26・7キロメートルを51年に完成した。
 昭和52年、油別地区の全工事を次の様に完了した。
 廃根線除去 0・9ヘクタール
 起伏修正  7416ヘクタール
 暗渠排水  1216ヘクタール
 草地改良    539ヘクタール
 農道整備   9387メートル
 隔障物     4800メートル
 第2地区事業の順調な進展を見せた中に当初計画に入っていなかった東4線、6線道路の改良の希望が出され、昭和53年12月両路線の改良追加予算区長既成会共々実現方強く要請し、町当局も積極的に道に陳情して、54年度実施する事となった。

 糞尿灌漑施設
 この施設は牛の糞尿を相当数の7ヶ月分貯蓄出来る貯留槽を地下に造り、攪拌機により攪拌し腐熟した糞尿を圧送ポンプにより地下配管を経て70米間隔に埋設された、マンホールによりスプリンクラーで全圃場に拡散散布される。動力源はトラクターによるもので、昭和52年8月、道庁用地課西野係長が来町し本施設利用による効率の説明あり10数戸の家々の設置に関心が持たれ、先進地標茶町稲村牧場を度に亘る視察研修の上、その有利性を認め、53年度2戸の設置工事完成し、翌54年には4戸の工事が完成して周囲の注目を集めた。
 この施設は北見管内では最初の導入であり、今後の大きな成果が期待される。

 国営総合農地防災事業
 昭和54年、一連の改良工事も終結したのであったが暗渠排水工事により水位が低下した農地は、20数年経過した今地盤が沈下し再度暗渠工事を施さなければならなくなった。
 東地区は水田廃耕後の処置がまだ活きており、農林水産省直轄事業として平成12年、国営総合農地防災事業が計画され、網走開発建設部の管理下のもと、高水位農地を対象として、平成16年度より実施された。
 実施年度10年に及ぶ大工事であり、内容も明渠排水、暗渠排水のほか低地の置土、不陸ならし、橋梁工事など大型建設機械による壮大な工事であり、建設業者にとっても公共工事の縮小などにより工事量が減少している折、景気回復の起爆剤となったことは間違いない。工事完了後は湧別町における一大農業生産地となる事は自明の理である。
 かって東殖民地と呼ばれ大半が湿地帯であり、西高東低といわれた低位生産地帯も、今や国の巨費を投じての土地改良事業が実り、入植以来先人達の並々ならぬ努力を忘れてはならないし、関係官庁はじめ諸機関の指導援助によって、一大変貌を成し遂げた労苦に対し感謝をしてやまない。
 今後共地域住民は現在行っている排水草刈りはもとより、諸事業に対し自治会一同一致協力して明日への道を邁進すべきであろう。

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(2) 道路の変革  「植民区画の設定」
 明治24年、本州からの自由及び団体移民の渡来、又は資本家の企業的開墾、殖民地に供するため、湧別原野の区画測量が行われ、北海道独特の作業能率重点に、縦150間、横100間を1区画とする5町歩1区画の分割測量が実測され、その中で道路予定地も300間、間隔で6間巾と8間巾の路線の測量がなされ、ゆうべつ原野の一部が東殖民地として測量選定され、東全地域に縦横に道路予定地が設定され、地名も東植民地区と定められ、後昭和4年村議会において、区名紛らわしきため現在の字東に改定された。

 「道路のはじまり」
 区画設定時に道路用地も設定されたものの開拓初期の道路は、比較的小高い所や立木の少ない所を笹や雑草を刈り分けて利用し道路と言うほどのものではなかった。
 明治30年に、4号線道路が西4線から東10線、サロマ湖畔まで1里32町7間(湧別町史より)約7キロが開通したのが始まりと言われている。しかし道路とは名ばかりで、いたる所穴だらけの、排水も悪く歩くだけで道で、車馬の通行には非常に苦労したという。特に東4線から東10線のサロマ湖畔までは、泥炭地の湿地帯が多く、車馬の通行には何度も荷を積み替えなければならなかったという。部落民の暇な時期に共同作業で、立木を切り出し割木にして、道路に敷き詰めて通行した。
 道路改修工事で敷き詰められた割木が各所で出土した。
 明治36年頃、東3線排水が堀削され、その捨土を均し道路として利用され海岸まで唯一の道路であった。
 明治40年、2号線道路が東3線まで開削され、この頃5号線道路も基線から東6線まで開削されたと聞く。(古老談)

 「道路の役割」
 昭和6年、水田耕作と共に部落への入植者が急激に増え始め、特に東5線以東の宇従者が増えるに到って道路の必要性は高まり、自己の関係する道路を自力で堀削し、生活物資や農産物の搬出に大変な労力を費やした。
 昭和12年、澱粉工場の開設に伴い、馬鈴薯の作付が延びるに至って、秋の澱原いもの運搬には、家族総出で馬車の後押しをする風景が随所で見られた。
 昭和12〜3年頃から部落の共同作業として道路の砂利敷きが始められ、馬そりや馬車による補修時牛が進められ、道路補修事業は部落の大事な事業の一つであった。
 戦後の交通事情が大きく変わるに到って道路の整備は一層重要性を帯び、部落総会でも毎年道路改良計画が提案され、条件の悪い道路より逐次改修や新規路線の開発がなされ、その後町はトラックによる砂利敷きが各部落毎に計画的に毎年実施された。
 又、道路愛護組合の結成とも相まって部落の道路は、東の通行に支障のない程度に補修された。
 しかし40年代に入って農業も近代化し、大型機械の導入が盛んになり、馬からトラクターに変わり、道路の整備が一層望まれる様になった。

 「湧別からバローに到る道路」
 昭和20年頃の道路図面で示す様に、2号線から4号線の一部経由して、福島の一部を通りバローに到る。俗に斜め道路として明治末期から開削され、部落民はもとより湧別市街からバロー方面への重要な産業道路として広く一般に利用された。しかし、この道路も7号線道路の完備と各線毎の道路が整備されるに及んで昭和30年頃から廃止され、部落の道路は文字通り縦横のみの道路網となる。

 「道路の一大改革」
 昭和48年、道営草地改良事業実施により道路整備事業も含まれ、6年計画で部落内の町道全線が改修整備され、路巾も拡巾されて4・5米と5・5米の2通りで工事が進められ、54年には上湧別との町界道路も新設された。又55年、東10線2号線から海岸までの道路も改修整備される事により、こうして10年足らずの歳月で区域内の路線全線が整備完了されるに至り、部落民の大きな喜びとなった。土地改良事業と相まって、明渠排水の整備、道路網の整備と総て完成し、然も2号線、4号線、5号線の縦道路3本と7線横道路が舗装され、全道的にも稀に見る道路と生産基盤の確立された地区となったのである。
 部落民はこの事を喜び、53年線毎の交差点に町の補助を受けて防犯灯を設置し、一層美しい明るい部落となった。
 その後東地区の大半の道路の舗装がなされたが、現在人家のある所は東6線1本のみが未舗装であり、今後の改良に向けての運動が望まれるものである。

        
(3) 各河川の維持  私たちの住む東地区は水田耕作の関係から、他地区に見られぬ悪水落し河川があり、そのため国営明渠管理組合があり、部落民の労力奉仕によってこの管理につとめている。このことは土地改良の面から大変意義のある事である。
 土地改良既成会が昭和40年に結成され、水田跡地の暗渠、砂客土、道営草地改良事業が導入され、畑地、荒地の草地化、永年草地の更新、そして土面整備と進み、一昔前の東地区を見た人が現況を見ると目をみはるものがある。
 巨費を投じて完成されたこの改良事業も河川の流れが悪ければ意味がなくなる。河川の維持管理にはなお一層の意を注ぎ、豊かな土地としなければならない。
 その事が次代をつぐ者の大きな責任である。

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 (1) 福祉活動   公的な福祉機関は前述の通りであるが、私的なものとして、ボランティア活動がある。古くは資料不足のため不明であるが昭和40年代市街地区に、ボランティア麦の会が発足し青年が主体の組織で様々な活動を行ってきた。

 <日赤奉仕団あやめ会>
 昭和63年9月、初老の婦人が主体となった「日赤奉仕団あやめ会」が結成され、「博愛人道の精神に基づき全ての人々の幸福を願い、明るく住みよい社会を築き上げていくため蔭の力となって奉仕活動をする」を活動目的とした。具体的活動内容は、
 ・独居老人宅の慰問家庭訪問
 ・オホーツク園、湧愛園、プライム生田原、高齢者センターほのぼの、みどりの園丸瀬布、
  安養園、紋別サンヒル、ひまわり学園、など各施設の慰問
 ・オホーツク園の各種行事手伝い
 ・オホーツク園の洗濯物のたたみ
 などが主な活動である。現在東地区における会員は、佐々木ヨリ子、菅原米子、横山スエノ、関根トシ、鈴木雪子、である。

 <はまなすボランティアサークル>
 町教育委員会が主催していた生涯学習「ボランティア養成講座」があったが、北見、遠軽、湧別の保健婦が講師になり介護の実技指導がその内容であった。3年間の実技を含めた受講を終えた婦人たちがこのままで終わらせたくないとの思いから、平成2年8月「はまなすボランティアサークル」を発足させた。
 サークルの活動内容は、
 ・月1回の定例会
 ・オホーツク園の洗濯物のたたみ
 ・オホーツク園の運動会、秋の遠足の手伝い
 ・オホーツク園の仮装盆踊りの参加
 ・独居老人ふれあい食事会の手伝い
 ・クリスマス・独居老人の慰問
 ・サロマ湖100kmウルトラマラソンの前夜祭の手伝い
 などがあり、これらの活動資金として町民の支援を受けてのチャリティーバザーの収益が当てられている。
 東地区の会員として細田光子、北谷百合子がおり今後の活動が期待されている。

(2) 社会環境施設    近年になって様々な施設が東地区に建設された。

 <産業廃棄物中間処理施設>
 湧別小型運送株式会社が、平成8年操業開始
中間処理場は面積4700u、投資額141,427千円、がれき類破砕機、木材破砕機、廃プラスチック破砕機、木材2次破砕機、廃石膏ボード破砕機、すき取物選別機が機械類である。
 最終処分場は別の場所にあり埋立を主としたものである。
 面積3150u、容積13379u

 <水産廃棄物等処理施設>
 湧別漁業協同組合が、平成12年、沿岸漁業漁村振興構造改善事業で建設した。
 施設床面積392.58u
 イガイ・ホヤ・ヒトデなど流動式焼却法
 焼却能力 1560kg/時間

 <資源循環試験施設>
 当地区で生産される家畜の糞尿を原料として、エネルギーを取り出す実験施設が平成12年、3億4千万円で建設された。
 家畜の糞尿を発酵させ、メタンガスを取り出しそれを有効利用しようとするもので、廃熱を利用して発電を行い、また発酵の終えた糞尿は完熟堆肥として利用出来、一石二鳥をねらった実験装置であった。平成17年5年間の実験を終え、巨費を投じた施設であったが、住居から離れすぎていること、施設が少し小さすぎることなどが原因でその後の引受先もなく放置される事となった。

 <湧別終末処理場>
 昭和28年に「公衆衛生に関する民衆組織の育成要項」が示されて、環境衛生の充実が次代の要請であり、疾病予防とあわせて公衆衛生の昂揚要請されることとなったことから、「衛生組合」の復活をみた。その性格は戦時までの組合とは大きく変わり清掃美化運動、衛生に関する実験的啓蒙運動などがあったが、下水処理については自家用汚水溜による地下浸透や、道路側溝を利用するものが大半であった。
 し尿処理については指定業者のバキュームカーが汲み取りを行うようになり、投棄していたが悪臭公害を伴い閉鎖となった。
 その後終末処理場が昭和42年遠軽町学田に建設され、平成13年まで湧別地区の処理委託をしていた。
 その後両湧別の話し合いにより、公共水域の水質保全と快適な生活環境の整備をはかるため、平成9年から上湧別と共同で、管渠埋設、終末処理場の建設が始まった。
 事業費56億8500万円の巨費を投じ、供用区域1210戸、オキシデーションディッチ法による下水処理で、流入時BOD250mg/l、SS240mg・lが放流時BOD20mg・l、SS70明治漁業協同組合・lを目指し、平成14年3月供用を開始した。
 市街地区の各家庭のトイレも水洗となり快適な生活が約束されたわけである。住民1人1人がエコロジーに向けて心がけてほしいものである。

 <一般廃棄物最終処分場>
 し尿処理と並んで、環境衛生保全のうえから大きな比重を占める「じん芥」(ごみ)処理の問題は、戦後の復興〜高度経済成長の中で、いっそう比重を増していった。消費生活と物資流通形式の変容から廃棄物の急激な増加をみたのである。
 本町が家庭から出る生活ごみや廃棄物の処理について、公的にじん芥収集を行うようになったのは、昭和31年からである。
 廃棄場所は現在のし尿処理施設の近くで、全て埋立処理をしていた。
 しかし高度経済成長と生活水準の向上は家庭ごみの排出量の増量傾向をみせ、産業廃棄物の存在も公害などの見地から放置出来ない状況となった。昭和45年国が「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」を定めたのも、このような事態を見逃せないとしたからであった。このため従来の清掃条例を改正強化すると共に、じん芥専用の清掃車を配置する事となった。
 処理施設も燃えるごみについては埋立をしていた近くに焼却炉を建設し、またその他産業廃棄物も含めた粗大ごみについては福島地区平野勝美氏所有地に埋立て処理をすることとなった。
 長年に亘って処理をしてきた2つの施設も埋立地は満杯状態となり、また焼却炉は環境基準値が厳しくなり、ダイオキシンの数値がクリア出来ない事から閉鎖を余儀なくされ、用地の変更をした。燃えるごみは広域施設に運ぶこととなり、その他のごみは産業廃棄物と一般ごみは分離することとなり、産廃は業者委託となり、一般生活ごみについては福島地区東6線から入った湧別、えんゆう農協の共同山林内に埋立地を確保した。
 平成12年、埋立面積7900u、埋立容量33000u、サンドイッチ工法による埋立で、不燃性廃棄物、可燃性大型廃棄物、焼却残渣、下水道汚泥を対象とした埋立処分地が完成した。漏水した浸出水が地下水を汚染しない様二重の遮水スートで遮断し、浸出水については、接触ばつ気+砂ろ過により、環境に配慮した近代的な施設となった。

 
(3) 農業研修センター   部落民が待望久しかった研修センターの建設が町を始めとして各関係機関並びに部落民の協力に依り念願かない、開所以来部落民を始め婦人、青年、老人、子供会等に有意義に利用されている事は、其の主旨にあったものと喜ばしいことである。
 又、隣接地に作られた子供広場も子ども達の運動の場として喜ばれ、年1回の部落の祭りにも利用されている。
 総意によって作られたこの施設が部落民の研修の場、憩いの場として益々利用されると同時に、管理運営にも充分意をもちいられているまでも大切に維持したいものである。

 
(4) 自治会運動会   自治会の行事の一つとして、町主催の行事も整理統合されるなか、自治会独自の全員参加の行事がほしいとの要望があり、東体育部が結成され、部長に伊藤達美が選出され、昭和54年第1回運動会が研修センターグランドで開催された。

 しかし敷地が狭いので59年より旧東湧小学校のグランドを使用する事となり毎年5月か6月に開催してきた。
 東を地区毎に分けて対戦してきたが、同年福島地区も1チーム加わり、以来27年間に亘り開催を続けてきた。しかし年々参加者が減少し運動会の存続に暗雲が立ち込めてきた。住民の交流の場として運動会後の懇親会も捨てがたいものがあり今後代替えの行事も含めて検討を要する仮題であろう。

 
(5) 開基85周年記念事業   明治29年八木徳太郎が、東原野に鍬を入れてから、昭和55年まで85年となり、合わせて一連の土地改良事業の完成を見た事から、開基以来の出来事を記録に残さなければならないとの悲願から、記念誌の編集が企画され押野健一を編集委員長に委員として伊藤守寿、山田義茂、押野昇、長野清孝、福井正雄各氏が選出され、写真担当に市川浩氏を選定、資料召集、古老の話の聞き取り取材などを重ねたが、古老たちが相次いで急逝され取材活動に大きな障害をもたらした。
 素人の集団故、数々の困難があったが、専門家の助言をいただきようやく85年誌の完成を見た。昭和55年3月16日東部落85年と土地改良事業完成の記念式典並びに祝賀会を内外の関係者を招待して取り行われた。功労者表彰に続き祝賀会が盛大に行われ部落民が喜びの内に終了した。

 
(6) 開基百年事業   明治29年以来平成7年で東自治会が誕生してから丁度百年にあたり、自治会総会により記念事業が企画された。早速記念事業実行委員会が結成され、委員長に自治会長である井戸定利氏を置き、押野健一、吉泉徳孝、野口信敏、伊藤守寿、山田義茂、伊藤隆治、福井正雄各氏が選任され事業に着手した。事業の内容は記念碑の建立が決定され、各地の記念碑の視察や業者の選定に歩き、業者は横幕石材店に依頼する事となった。
 自治会の戸別位置図の作成を増田幹雄氏に依頼、共に立派に完成した。
 平成7年11月25日百年事業記念式典並びに祝賀会が行われ関係者の表彰に続き内外関係者を交えての懇親を深めた。

 
(7) 福島開基80年事業   大正5年81町歩の植民区画が実測され、翌6年佐藤源治を団体長として13戸の入植があってから、平成8年で80年を迎えるに当たり、自治会総会において記念事業が企画された。
 実行委員長は会長に自治会長の上枝清を選任、委員として佐藤友則、古谷吉史、内山裕一郎、真坂正人、若松昇、細田美智子、古谷由美子各氏を選任した。記念事業として記念碑の建立を決定し、業者は横幕石材店に依頼した。
 古谷義信氏に碑石の寄贈を受け、建立地には佐藤友則氏に用地の提供を受け、平成8年11月24日めでたく除幕式の運びとなった。町内外の関係者を招き、記念式典並びに祝賀会を行い関係者の表彰に続いて80年間の旧交を温め懇親を深めた。

 

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