錦町開基百年記念史 百年の星霜
第15章 人物編 第16章 ひと、ひと、ひと 第17章 新しい街づくりを目指して
第十五章
人 物 編
現在或いはかってそれぞれの職場で活躍され又活躍中の方を紹介します。
勝手ながら管理職以上の方に限らせて頂きました。
湧別町役場 | 田川信男 明治42年5月岩見沢市で生まれる。 道立自治講習所 卒。総務課長、畜産課長、収入役を歴任、昭和45年6月任期満了 により退任。収入役在任4期16年、退任後46年より町の監査委 員に就任し、61年まで勤める。 畠山幸雄 大正12年12月湧別町で生まれる。 財政課長、民生課 長、議会事務局長、住民課長、財政か中学校王、総務課長を歴任 し昭和46年より助役、53年より収入役を勤め、61年任期満了で 退任。 62年より錦町自治会長を努めていたが、新設の社会福祉 法人「湧別福祉会」の特別養護老人ホーム「オホーツク園」の施 設長に就任、平成6年6月退任。 黒木保雄 昭和7年4月岩手県花巻町で生まれる。下湧別高等学校、 自治大学卒。消防組合、住民課長、総務課長を歴任して昭和61 年助役就任、弊政6年6月任期満了により退任。 田中篤一 大正13年4月紋別市で生まれる。 美幌農林学校卒。税 財課長を勤め昭和58年退職。 現在は大和産業(株)社長として造 材、植林の業務を行っている。 浅野謙吉 昭和5年樺太で生まれる。 道立水試付属水産技術講習 所卒。 水産技師、産業課長補佐、産業課長を歴任して平成2 年定年退職し、4月より商工会事務局長として現在に至る。 国井 隆 昭和9年2月湧別町で生まれる。 下湧別高等学校、自治 大学卒。教育委員会管理課長、福祉課長、総務課長、議会事務局 長を歴任して平成6年3月定年により退職。 同年4月より社会福 祉法人「湧別福祉会」特養施設「オホーツク園」の事務局長に就任、 同7月より施設長に就任。 高橋輝光 昭和13年5月遠軽町で生まれる。 酪農学園野幌機農高 等学校、自治大学卒。 産業課長、広域消防署湧別支署長、農業委 員会事務局長として現在に至る。 佐藤武見 昭和14年8月苫前郡初山別村に生まれる。 羽幌高等学 校卒。初山別村教育委員会社会教育係より湧別町教育委員会に移 り、社会教育課長補佐を経て平成6年4月より同課長。 横沢秀次 昭和18年湧別町で生まれる。 湧別高等学校卒。工 営課長補佐、教育委員会管理課長補佐を経て平成6年4月より同 課長。 柳沢勝彦 昭和19年3月鹿児島県喜界町で生まれる。 日本大学法 学部卒。広島市の広島文教女子大学附属高校勤務のあと、湧別町 教育委員会に移り、社会教育課主幹を経て平成6年4月社会教育 課長補佐。 茂木政則 昭和23年11月湧別町で生まれる。 国士舘大学卒。 農政課長補佐、総務課長補佐を経て平成6年4月農政課長。 吉川秀樹 昭和30年11月置戸町で生まれる。 北海道産業短期大 学卒。昭和53年に北海道土地改良事業団連合会に就職57 年4月に湧別町役場に派遣職員として来湧、62年に町職員となり 平成6年4月農政課長に就任し現在に至る。 |
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湧別農協 | 市川太平 昭和2年湧別町生まれ。 道立札幌工業学校卒。官立仙台 工業専門学校中退。 21年より29年まで農業に従事。その 間下湧別村生活協同組合専務理事、29年湧別農協に就職、参 事を経て59年に定年により退職、46年より町会議員を勤 めている。又61年より湧別振興公社常勤役員を勤めたが、6 年9月退任。 飯塚 武 昭和10年1月に空知郡北村で生まれる。 道立農業講習所 卒。30年に農協に勤め施設課長、購買課長、営農課長、施設課 長、審査役を歴任し平成6年3月定年で退職。錦町自治会の会計 を63年より勤めている。 藤井孝一 昭和15年10月に錦町で生まれる。 道立農業協同組合 学校卒。34年(株)西村組に入社。翌年湧別農協に就職、購買課 長、管理課長を経て平成4年6月より参事に就任現在に至る。 高橋 武 昭和21年5月に美幌町で生まれる。 美幌高校卒。40 年に農協に就職営農課長補佐、営農課長を経て4年より管理 課長として現在に至る。 吉田慎一 昭和21年6月に北見市で生まれる。 美幌高校卒。40 年に農協に勤め、営農課長補佐を経て3年より購買課長として 現在に至る。 辻 亨 昭和26年6月に大阪市で生まれる。 北大卒。 52年に農協に勤め、管理課長補佐を経て4年より営農課長と して現在に至る。 |
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湧別漁協 | 富永 隆 昭和7年10月に京都市で生まれる。東芭露高小卒。21 年より33年まで農業を営む。この間湧別町青年団体協議会長、 遠軽地区青年団体協議会長を勤める。芭露にて理容院経営、 遠軽の北東民報社、スノー食品に勤務した後37年より漁協に 勤務、指導課長、総務課長を経て61年より参事に就任。この 間管内漁協職員協議会長、北海道漁協職員協議会長を勤める。 又61年に北海道産業貢献賞を受賞。2年に定年退職し3年より 自治会長として現在に至る。 工藤 薫 昭和23年11月に湧別町で生まれる。湧別高校卒。 神奈川県の大和合金鐵工所を経て46年に漁協に就職し、信用 部長を経て5年より総務部長として現在に至る。 三室 昇 昭和29年11月に紋別市で生まれる。紋別南高卒。 北海道銀行勤務を経て50年に漁協に勤め、平成3年より販売課 長として現在に至る。 大友正英 昭和29年4月に秋田県男鹿市に生まれる。東海大学 卒。52年に漁協に就職、増養殖課長を経て6年より総務課長 として現在に至る。 藤江博文 昭和32年4月紋別市で生まれる。湧別高校卒。総務 課長を経て6年よりホタテ生産部会の課長として現在に至る。 |
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湧別畜産農協 | 柴田澄男 昭和7年1月に紋別市で生まれる。酪農学園短期大学 酪農学校卒。佐呂間町の木材会社に勤めた後29年より畜産農 協に勤務し、48年に業務課長を経て59年に参事に就任し6年 1月退任。現在遠軽軽食肉公社取締役。 沼館 弘 昭和29年にえりも町で生まれる。酪農学園大学卒。 53年に日東肥料工業に入社し、59年に畜産農協に勤務、61年 に営農課長に就任、6年2月より参事に就任し現在に至る。 柴田ミチ子 昭和11年9月に芭露で生まれる。遠軽高校卒。 昭和32年より特産農協に勤め61年より管理課長として現在に 至る。 |
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遠軽地区農業共済組合 | (合併により湧別農業共済組合が名称変更) 篠田一郎 大正12年7月に樺太大泊で生まれる。帯広獣医畜産専 門学校卒。 昭和23年相内農業共済組合就職後30年3月湧別共済に勤め、 湧別診療所長、参事を歴任して53年定年退職。55年より 遠軽保健所と畜検査員として現在に至る。63年に北海道産業 貢献賞を授賞。獣医師。 大井親男 昭和7年7月に雄武町で生まれる。 野幌機農高校卒業後道立家畜人工授精所講習所卒。 33年湧別共済に人工授精師として就職し、平成元年退職。同年よ り乳牛検定組合検査員を経て現在同組合事務局長。 池田 博 昭和21年11月に熊本県本渡市で生まれる。酪農学園大 学獣医学科卒。 45年に湧別共済に獣医として勤務。 現在東部診療所所長。 茂木洋一 昭和22年1月に計呂地で生まれる。道立農業講習所卒。 西春別農協に就職したが、44年2月に湧別共済に勤め、現在 中央家畜診療所改良課長。 真坂 仁 昭和27年10月に紋別市で生まれる。沼の上中学卒。 45年人工授精師国家試験合格。同年より湧別共済に就職し人 工授精師として現在に至る。 橘 泰光 昭和35年5月に和歌山県田辺市に生まれる。 帯広畜産大学大学院畜産学研究科獣医学専攻を修了。60年湧 別共済に獣医師として勤め現在に至る。 |
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その他の方々 | 野田 博 大正13年11月に上湧別に生まれる。札幌光星商業学校 卒。20年に上斜里小学校の助教諭、現役兵として樺太に入隊す るも終戦、ソ連に抑留され、21年に帰国、翌年上湧別村役場で、 企画、民生、工営、財政、総務の各課長を経て収入役に就任、56 年任期満了で退任。58年より湧別商工会事務局長を勤め、平成 2年に定年退職し、3年よりみなみかわ製麺(株)常務に就任した が6年4月退職。現在自治会副会長。 溝江弘子 昭和9年4月に錦町で生まれる。 遠軽高校卒。 昭和28年より38年まで湧別農協に勤め、その後山本ブロックで 3年間勤めて退職し、家庭にいたが56年からスノー食品に平成3 年まで勤務して退職した。 4年より民生児童委員を務めている。 東 達夫 昭和7年1月に訓子府町で生まれる。湧別小学校高等科卒。 自分の家の畑仕事をしながら23年より網走開発建設部の臨時職 員として勤務し、40年に正職員として採用され、網走西部河川事 業所の河川管理指導員として平成4年3月に退職した。 自治会の役員として長年勤め、4年より副会長を勤めている。又 5年より交通指導員を委嘱されて現在に至っている。 |
第十六章
ひと ひと ひと
錦町には7百人以上物人達が住んでいる。したがって色々な趣味や特技、経験を積んだ人達も多い。
本を自費出版したひと、木彫りを楽しむひと、菊の魅力に引かれたひと、料理や習字が得意なひと、
子供たちに野球を教えるひと等々、そんな人達を紹介します。 (敬称は略します)
本を出した人々 | 「恵まれしわが生涯」の土井重喜さん 土井重喜は、平成2年表題の回想録を出版した。 「88才の今年、何か記念にと考えた結果、回想録を思い立っ た。それで執筆者(注=木下正徳)との色々な何十年前の話し合 いやら、自ら文を起草したりして、思いがけず脳を刺激したことは、 意外にも老化を防止して若返ったように思う」と文中に語っている が、この回想録には、父菊太郎が青雲の志を抱いて高知県より 北海道の開拓に渡道する事から始まり、明治、大正、昭和、平成 の4代に亘る激変する社会を生き抜いてきた1人の生々しい歴史 が、飾らぬ言葉で語られている。 236頁に及ぶ回想録の中からその一つを紹介する。 湧別油田開発 牧野経営のため、海岸沿線を取得したり、貸付を受けたが、この 一帯には色々な資源があった。 物質的資源を挙げても泥炭土の鮮苔類の資源が豊富にあったし、 牧野の一部の海浜地には鉄道に不可欠の海砂があったり、また石 油噴出の可能性を秘めた夢の資源もあった。 昭和18・9年頃、石油資源の研究科外山成道によって、オホー ツク海域から湧別村の陸地内に、広大な地下石油資源のあることが 探査されたが、その土地が土井重喜の所有地であった。 昭和30年代に、通産省の金原燃料部長等により広範囲な地質調 査が行われたが、その結果石油の層脈地帯であることが再確認され た。ただし深度が大きいため探査は容易でないが、埋蔵量は大きい と学会での見方となっていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 土井重喜の回想 その一 山男・外山成道 昭和18年の夏頃だったと思う。 私が乗馬で恒例の牧場を巡って、ポン沼付近に差しかかったとき、 笹藪から1人の青年が飛び出してきた。 野草採取でもなさそうだし、一体誰だろうと馬から降りて話をした。 青年は外山成道という拓殖大学生で、大学では地下資源を専攻し、 実地に全国を股にかけて回っていると言う。 特に当時、国策的にも注目されている石油の探査で、北海道の 湧別沖から五鹿山方面に、石油の埋蔵が確認できるという学説を 裏づけるべく、毎年湧別を訪れている青年であった。 その時、彼が言うには、 1,井戸水が塩辛いという話しはなかったか。 2,地表面の湿地帯に油の浮かんだのを見なかったか。 3,表面微候としてアスファルトなど見なかったか。 等を聞かれ知っていることは答えた。 それが縁で戦時中、私の土地に櫓を建て試掘を始めた。外山青 年には以来来湧の度に色々相談されたり、協力を依頼されたりで 親密な交際をするようになったが、彼の父は師団長・軍司令官と して有名な軍人で、最後は戦死されたという。母方は宮内省で女 官長を勤めた名門だと聞いた。 その二 第2回石油探査 昭和33年だと思う。通産省の地質調査部から金原という専門官 が来て探査を始めた。 上湧別町の旭の一地点に案内させられて、一つの断層を精査 して「これだ!」ということになった。石油埋蔵の可能性は、 「白亜紀層と第3期層」が決め手で間違いがないということになっ た。これで、外山、金原両者の説が一致して、もう一度ボーリン グを開始してはと言うことになった。 当時の村上町長と私たちの協力で再開したのであるが、この時 の予定深度は、1.000bであった。800bの所で高温の蒸気が 出た。その土質を見ると温泉でないかということで外山に聞いたと ころ、そのまま油の出るまでやれということで1.000bでストップ した。1.000bに対して2.000bと追加する場合1.000b分だ け追加すればよいということにならず新しく設計し直し、鉄管の太さ 等一切新しくなるので新規と同じだけ経費がかかるという話しだっ た。 その三 石油試掘のスポンサーたち 香川県今治市で当時今治信用金庫理事長であった清水重喜氏と いう人は、信金のほか神戸でサルベージ会社等を経営する社長で、 清水氏が外山氏を見込んで1.000bのボーリング代の資金を引き 受けようと快諾された。「もし石油が出れば町の開発にでも使って下 さい」というような気楽な投資であった。 私とは同じ名前の重喜というので意気投合し、清水も土井も水に関 係があるとあって懇意に願ったことだ。さらにボーリングを担当した会 社は、長万部の鷲山ボーリング(株)で、社長は長万部で町営温泉を 掘り当てた人。 中間地点で高温が見られたものの、外山氏の意向でそのまま石 油掘削を進めたが、石油は遂に出なかった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 石油一途な外山の一蹴で温泉は水泡に帰したが、外山とはそうい う人であった。探査に当たった人の話では、普通の油田は、地下層 が平面に広がっているのだが、湧別のは岩層が縦であるために当た ったら量が多いのが特徴で、当たり難いという欠点があるそうだ。 何れにしても新しい技術の進展により、近い将来「湧別に石油あ り!」の夢もあり得る。 「将来に夢を抱いてもよいのではないだろうか」と重喜は20有余 年に亘って接してきた夢であるだけに、捨て難いものがあるようだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 童話と替え歌の三沢さん 三沢信美は、西一線で今は老齢になったとして酪農を止め、1fほ どの畑を作りながら悠々自適の毎日を送っている。 昭和50年のある日、老人会の集まりのときに保健婦さんから「老 化防止のために頭と足を出来るだけ使うように。特にものを書くこと はボケの防止にも役立つ」と言われたのが頭に残り、昭和52年ころ から童話の創作を始めた。 仕事をしながら作品のあらすじを考え、一作一年掛かりで、まず最 初にサロマ湖の円山に住む狐をテーマにした物語を作ってみたという。 書き出してみるとおもしろく、周りの題材をテーマにして7編ほどを作 ってみた。 昭和58年に、錦研修センターが出来てその落成式に参列し、 隣り合った人と童話の話しをしているのを聞いた湧別小学校の横地博 先生が、その話しを聞いて「是非一度その童話を見せて欲しい」という ことになり、見せたところ大変気に入って頂き、横地先生の監修で 小学校の副読本にも採用され、更に勧めもあって手直しをして貰い、 昭和59年5月出版された。 その本の題名は「サロマ湖のぽんぽこおどり」と名づけ、表題の 作品のほかに「おてんばなうさ子ちゃん」「ワタコちゃんのゆめ」 「一兵君の川あそび」「白い目のぺこちゃん」「十五夜のお月さん」 「コンタローの冒険」の7編が100nの中に収められている。 三沢はこの本300部を自費出版し、教育委員会を通じて各学校 んに寄贈したり、知人に配ったりしたが、印刷費は18万円かかった という。 その後もこつこつ書き溜めた作品を、町内のお母さんたちの勧 めもあって平成3年に第二集を出版した。 題は「海明けの詩」で、サブタイトルは「オホーツクの自然の物 語」となっている。 この作品には、表題のほかに「北国の街に鐘が鳴る」「九兵君の かけっこ」の3編が収められており、これは350部を北見のアルファ 社で印刷し、一部600円で病院の売店や湧別、芭露農協の店舗、 遠軽の計文堂書店、北見の福村書店や知人に販売を依頼した。 三沢の創作童話の話題は、昭和59年8月にNHKのラジオ番組 「オホーツクわが町」で取り上げられ、同年に北海道農業改良普及 協会発行の「農家の友」9月号で2nにわたって紹介され、平成3年 12月12日には、NHKのテレビ「ほっからんど」で全道に紹介され た。 次に「サロマ湖のポンポコおどり」よりその一部を紹介しよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「ワタコちゃんのゆめ」 3月のあるばんのことでした たかい そらから ふわふわしたゆきがたくさん ふっていました。 かず子ちゃんは もうすぐ一ねんせいになります。 まいばんねるときに 「はやく一ねんせいに なあれ」 かみさまに いのって ねることにしていました。 そのばん かず子ちゃんは ゆきのふるたのしい ゆめをみました。 もう ゆうびんやさんが くるころなので あかい長ぐつをはいて そとにでようとしたときです。 げんかんの やねのうえで 「だれかきて だれかきて」と よんでいます。 おおいそぎで やねのうえを見たんです。 ゆきがたくさん つもっているだけで なにも見えません。 「なあんだ きのせいか」といって ポストを見に行ったときです。 「ここだよ ワタコよ。たかいそらからきたんだよ」とおおきな 声でよんでいます。 かず子ちゃんは びっくり ふりむいて やねのうえを見たん です。するとこんどは 「ワタコといっしょに あそんでよ」 かず子ちゃんは よんでいる方を見ると ちいさな しろいゆきが うごいています。 「なあんだ よんでいるのは ゆきだったの」 おもわず そういいました。 「かず子ちゃん ワタコ おりていきたいから かさをもって きてちょうだい」 いそいで げんかんから かさをもってきてひろげ たかくさ しあげました。 「そうら はやく おりてきなさいよ」 ワタコは ふわりと かさのうえにおりました。 「しずかに かさを 下においてちょうだい」 かず子ちゃんは ワタコちゃんの いうとおりに かさを ゆ きのうえにおきました。 すると ワタコちゃんは かず子ちゃんのあしもとへ そっと おりてきて 「ゆきだるま つくってあそぼうよ」 「そうね」かず子ちゃんはゆきをころがして ピンポンの たまくらいのゆきだるまをつくりました。 ゆきだるまに 目を つけようとしたときです。 きゅうにかぜがふいてきてワタコちゃんは げんかんのやねの うえに ふきとばされてしまいました。 かず子ちゃんは あわてて 「ワタコちゃん!」とおおきなこえで よんだんです。 あかるかった そらも すっかり くらくなって かず子ちゃんは しんぱいそうに やねのうえを みました。 するとワタコちゃんは 「かず子ちゃん あそんでくれて ありがとう さようなら さようなら」そういって たかいそらへ とんでいきました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三沢はこのほか替え歌を作り、自分で歌うほか、めでたいことや 知人が選挙に出ると応援歌を作り贈呈している。 つぎに三沢が、錦町開基百年記念式典のために作詞した替え歌を紹 介する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 錦町開基百年記念奉讃歌 「錦の都まつり」 曲 ドンパン節 詞 三沢信美 ●ドンドン パンパン ドンパンパン ドンドンパンポン ドンパンパン 錦町百年 おまつりだ (一)住めば都だ 錦町 拓けていくとせ 歩みつつ 開基百年おまつりだ 喜び声かけ祝いましょう ●ドンドン パンパン ドンパンパン ドンドンパンポン ドンパンパン 錦町百年 おまつりだ (二)錦の歴史を 振り返り 道無き荒野に 踏み込んで 草葺き小屋に 火を灯し 国道沿いに 街作り ●ドンドン パンパン ドンパンパン ドンドンパンポン ドンパンパン 錦町百年 おまつりだ (三)静かで平和な おらが街 学校病院 マーケット 心のやすらぎ お寺ある 住み良い町だよ 錦町 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三沢信美は、明治43年に遠軽町で生まれ、早くから酪農家を 志して、昭和4年に野幌の出納農場、翌5年に町村牧場で実習し、 遠軽で兄と共に酪農をしていたが、昭和40年湧別町西一線に入地 して酪農を営み現在に至っている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「寄せなべ人生」と惣滑谷勲さん 惣滑谷は、昭和60年3月「寄せなべ人生」というエッセイと、 川柳、短歌、俳句、写真など主として退職してから書き綴ったもの を出版した。 退職後、著書を出してみようと考えついたのが56年で、決心した のが57年だったという。 54年の4月から、見よう見まねの我流で愛読していた北海タイム ス紙に川柳、短歌、俳句を投稿し始め、5年間で入選吟は400首を 数えるまでになった。 それに時、折々の世相に義憤を感じたり、 悲憤憤慨した文章を、タイムス広場に投稿したものが多くあったの でこれらを整理し、撮り貯めた写真と共に出版し、友人、知己、 親戚等に贈った。 ページ数は、430nでクロス張りの表紙にケース入りの立派な 装丁である。その作品の一部を紹介する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 俳 句 わらべ唄母の乳房が蘇る 秋蒔きの小麦の緑雲雀なく 一粒を落として願う実る夏 バスは峰へウルシは赤く鳶の舞う 孫の声海渡り来る松の内 短 歌 もろくして押せば漬かるる イチイ実凍て雪の中に赤き実光る 紛争のフォークランドを地球儀に 探せど見えずいらだたしかり アムール河より1500キロの旅をして 今オホーツクに流氷の群れ 百年は夢と去りにし先人の 偉業功績開基に偲ぶ (湧別町開基百年に) 開拓の斧と死闘の星遠く 万感迫る今日を寿ぐ (湧別町開基百年に) 川 柳 嫁ほめる姑へ嫁も負けずほめ チャイムなるパンツの忙し風呂上がり 酔ってない頑と威張って唾が飛ぶ 物忘れ書いたそのメモまた忘れ 選挙戦勝って公約神棚へ エッセイ 「ペンを執る楽しさを」 文章には心の温かさが 家族の安否を気遣い、または時候の挨拶など書簡で間に合うと 思われるものが、親兄弟その他諸々の方が電話のお世話になって いるのが昨今の姿である。 もちろん安否にもいろいろあり急を要するものは別。 若い女の子は十分、二十分、長いものになると公衆電話ボックス から三十分というものもある。 待っている人の迷惑も考えず、長電話をしている連中にも腹が 立つが、これは後日に譲って、私の言いたいのは、意思伝達の交 流手段として、電話と書簡の価値観を考えてみたい。 成程、文明の利器である電話は、誠に便利である。 この6・7年電話の普及は著しく、独身寮などに住む若者たち を除けば、凡そ一家を構えた家に電話のない家を捜すのが苦労す る時代である。 この電話をただ、便利だからと不急のものにまで用いているの が果たして合理的と言えるだろうか。 便利の名のつくものには必ずといってよいほど条件が付く・・・。 電話は、一発で伝達交流ができ、書く手間が省かれる効用はあ っても、大きなマイナス点のあることも忘れてはならない。 料金は書簡の比ではなく、声は消耗品である。書簡は、電話に 比べて 一、料金が安く 二、繰り返し読めて 三、文学と作文 が上達する 四、特に父母の他お年寄りに喜ばれる。 こうしてざっと拾ってみても、このように書簡が優れていて料 金が安く、父母お年寄りに喜ばれm文学作文の上達も期待できる。 若者たちよ、ペンを執ることの楽しさに・・・今から切り替えては どうだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 惣滑谷は、大正6年下湧別村字東で生まれ、湧別高等小学校 卒業後、農業、店員、兵役に従事。除隊後満州の関東軍軍医 部に軍属として勤務。終戦後は公共職業安定所を経て、保健所 に勤務。昭和51年千歳保健所の総務課長を最後に定年退職。 嘱託として千歳、遠軽の保健所に勤めていたが、昭和54年に 退職し錦町でキヨ子夫人と暮らしている。 号を岳峰をしている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 木を彫るひと 大月 良夫さん 「とても私の彫っている作品なんか」 「別に人に見せるためにやっているわけでないので」と固持され たが、こういう方がいるということを是非紹介させて頂きたいと、 無理に頼み込んで4月の或る日お宅へお伺いした。 茶の間と続きの部屋に所狭しと木彫りの作品が並んでいる。 圧巻である。 4,5年前から暇を見ては彫り始めたという。別に誰に習っ たのでもない参考書を読んでいたわけでもない。ノミ一つで1年に 2,3体を彫っているという。 熊などといった動物は彫らない。物語の主人公、それも童話が 好きという。人魚姫とかマリア像、森の女神というか山の神というか 、木の特性を生かした作品が並んでいる。 茶の間に高さ7,80センチの人間の像がある。これは、生と死の はざまに生きる人間の名誉とか、煩悩とか心の迷いを戒める「解脱」 を表したものだという。これは昨年秋に完成したばかりのものだと いう。 材料の木はどうしているのかと聞くと、別にお金を出して買ってく るわけではないという。 そしてまた芯を外して彫れるような太い木も殆どないという。 使うのは主としてエンジュの木なので尚更太い物はない。したが ってあり合わせの木で彫っているという。 今年は1メートル5〜60センチの観音像に挑戦してみたいと瞳を 輝かせる。 「もう年ですから農家も止めたいし、好きな木彫りでもして」 といい、最近我流ながら俳句も作っていますと語っていました。 大月は、昭和5年5月生まれ、昭和8年生まれの妻朝子と2人 暮らしである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 菊を作るひと 志田 旭さん 志田は元々は建具職人で、栄町で職人を使って商売をしてい た。昭和41年に、錦町の現在地に土地を買って住宅と作業場を 建てたが、昭和51年に後継者がいないのと木製建具からアルミ 建具に変わり、需要が減ってきたこともあって廃業。 西村組や雄武の道順組で型枠大工として働いていたが、ひざを 痛めて医者通いをするようになったので60歳の時にやめた。 そして病院に通っている63年に、何気なく立ち寄った本屋で、 菊作りの本を手にした時、カラー写真の菊の見事さに心を打たれ 、菊を作ってみようと思った。 しかし肩を痛めて入院しこの年は諦め、退院後の64年から本格 的に菊作りを始めた。繰り返し繰り返し本を読み、各地の菊まつり や菊作りをしている人を訪ねて教えを請い、一人で失敗を繰り返 しながら3年目で漸く人に見て貰えるような菊を咲かせることが できた。 だが、病気で菊が半分くらい駄目になってしまった年もあった。 今は菊作りの仲間も20人になったが、これは志田が熱心に指導 したお陰で、菊作りの楽しみが分かった人達で、「俺も」「私も」と やってみたが仕事が忙しかったり、余りの面倒さに嫌気がさして 断念した人も何人かいる。 今、志田が手がけている菊は、大菊が50鉢、ダルマ作りが40 鉢、福助作りが60鉢の百50鉢ほどで咲かせた菊は、郵便局や 農協、広福寺、オホーツク園、畜産農協から遠くは、丸瀬布の武 利温泉にまで配って歩き、多くの人の目を楽しませており、個人の 家にも20戸ほど配っている。 菊作りをしている人が毎年11月に集まって会費制で反省会を 開いているが、志田の方針として堅苦しいことが嫌いで、別にグル ープを作るわけでもなく同士的集まりとしてやっているという。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四号線小町といわれたひと 戸沢 常さん 戸沢 常は明治28年9月高知県で生まれた。父の名は仙頭 又右エ門で、母は後妻で常が3歳の時に湧別に移住した。 常は湧別小学校の高等科を第1期生として卒業したが、女性 は常1人であった。また本が好きで頭も良かった。 高等科卒業後、上湧別の庄田万里が経営する北湧医院に看護 婦兼お手伝いとして勤め薬の調合も行った。 生来の美貌で「四号線小町」として評判であった。 18才の時に東京へ習い物をしたくて上京したが、1〜2年で 呼び戻され、21才の時に戸沢栄吉と結婚した。 大正12年(常28才)に谷虎五郎の所に、紋別から生花の先生 が教えに来ていたので、常も入門し昭和3年33才の時に師範免 許を取った。その免許状を見せて頂いたが、それぞれの資格毎に 肉筆の巻物になっている立派なもので、特に免許皆伝は松竹梅 の3巻に分かれている。そして紋別や上湧別、湧別へいって教え ていた。 一方夫の栄吉は集会所で人を集めて追分や尺八を教えていた という。なんとも優雅な夫婦であったようである。戸沢家は新聞販 売店の元祖で、明治44年頃から新聞や牛乳を四号線で売ってい たが、字の読めない人が多かった当時とあって部数は少なかった らしい。 自転車やミシンもこの地方では一番早くから持っていた。 昭和12年から15年頃まで、2人で東京へ働きに行き、栄吉は 造幣局で、常は柳屋金語楼の家や渡辺陸軍大将の家で家政婦 として働いたが、看護婦の経験がとても重宝された。 昭和16年に湧別に戻り実子が居なかったので姪を養子に貰い 、苗木や養鶏、養蜂で暮らしていた。常は昭和58年88才で亡く なった。物静かで上品なお婆ちゃんであった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 書道を教えるひと 堀 喜一郎さん 堀喜一郎はしらかば団地に住み、毎週水曜日と金曜日に公民 館で子ども達に書道を教えている。それ以外の日の5月から10 月までは、町が管理委託をしている遠軽の建物管理(株)のアルバ イターとして、体育館のプール管理の仕事をしている。 堀は大正14年5月に遠軽の向野上(現清川)で生まれた。 7才のときに両親と共に湧別町志撫子に移り、小学校は志撫 子だが高等科は峠を越えて上芭露へ通った。卒業と共に役場の 兵事係に強く勧められ、志願兵として横須賀の海兵団に入団。 その後砲術学校を卒業して軍艦勤務を経験する。。一等巡洋艦 「大淀」や駆逐艦に乗りサイパン、硫黄島などを転戦して母島で 終戦を迎えた。 復員して農業を手伝っていたが、たまたま王子造林の機械班 が自宅付近で造林作業をしていた縁で、造材のコツなどをアド バイスしているうちに見込まれ、同社に入社し全国を造林作業 で駆け巡った。しかし、この仕事も木材不況で昭和43年にやめ 自宅に戻ったところ、経験を買われて町有林の臨時職員として 勤務以来7年間働き、次いで51年からは町職員として総合体育 館に10年勤め61年に退職した。 書道に開眼したのは、海兵団にいたときに福島県出身の書道 家に出会い、その見事な筆さばきに感心し、その人の教えを受 けたのが始まりという。 復員後、日本書道協会の通信教育を受け、以来今日まで同協 会に所属して研鑽に励むとともに、平成元年から子ども達を相手 に書道教室を始めた。書道教室の生徒は小学生が中心で、30人 ほどでその内、中学生は2人。 「子供には口で言うより手に手を取って教えてやるのが一番覚え が早い」という。 堀は52年に、9段の資格と師範の資格を取り、全国規模の同協 会の総合書道展に出品し平成元年には北海道新聞社賞を授賞 している。佳作入選は数多い。 毎年9月に網走で開かれるオホーツク臨書展に、ここ3年ほど 出品している。 誠実で穏和な人柄で多くの人に好かれている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 料理と生け花を教える 畠山 マサ子さん マサ子は、昭和2年に四号線の伊藤蹄鉄所の5人兄弟の長女 として生まれた。 湧別小学校高等科卒業後、遠軽の女学院に通い一通りの花嫁 修業をした。太平洋戦争の時で男手が足りなく、頼まれて中湧別 の国鉄保線区で事務員として勤めた。 21才の時、村役場に勤めていた幸雄と結婚したが、保道車に嫁 入り道具を積んで輿入れした思い出があるという。 昭和42年に、ホームクッキングアカデミーの家庭料理の通信教 育を受け初等、中等、高等科を卒業。師範の資格を取り、希望者 に教えていたが、だんだんその輪が広がり、湧別町内の各婦人学 級の料理教室の講師として招かれ、隣町の上湧別町の農村改善 センターや富美、開盛までも呼ばれて出掛ける程のもてぶりだった。 今も冬期間は、婦人学級で、それ以外は週に2回公民館で夜若い 人達に教えている。 生け花は、昭和49年に日本華道協会の現代花の通信教育を受け 、師範の資格を取り翌50年から自宅で教えた。最高で28人の生徒 がいて、2間通しの部屋が狭い程だったが、健康を害したときに休講 して今は15人ほどが習いにきている。 この花も上芭露の母と子の家にも、15・6年教えに通った。 とにかく多芸多才である。この料理とお花のほかに、書道と手芸の 通信教育にも挑戦したが、健康の関係で中断したという。 とにかく何故これほどマサ子が教える料理や生花に人気が高いの か、本人は「何処にでもある材料で手軽に造れる家庭料理だからで はないの」というが、それ以外に大いにマサ子の人柄があると感じら れる。 カラットした性格でずばずばものを言うが、それが聞く人に悪 い印象を与えない姉御肌なのである。 今までに料理を教えた人の数は数百人に上るという。 今でも頼まれると電気オーブン持参で出かけるが、講習の前に自分 でレッスンをし、新しい種目を仕入れたりとかするのに1週間くらいか かるという。商工会主催の味まつりの審査委員長や菩提寺の広福寺 の催しの接待には陣頭指揮を執るなど、八面六臂の活躍である。 勉強して良かったと思うことは、老人ホームで調理の指導をしていて お手伝いの出来たことという。 現在は、い亜麻明治でのオリジナル料理メニューを網羅した料理テ キストを発行するため原稿の整理と執筆に多忙という。そのテキストは 、和、洋、中で数百種類にも上るという。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 子供に野球を教え自ら凧作りを楽しむ 窪内 務さん 昭和4年に四号線で生まれた。父の源吉は山口商店の隣で馬橇の 製作所を大きく営んでいた。その後一家は、緑町に転居し、務は湧別 小学校から旧制遠軽中学校へ進み、5年生で卒業して1年ほど浜に あった天ぷら工場で働いたあと、昭和23年に郵便局に勤めた。そし て郵便局を昭和61年に退職した。 野球との出会いは、学生の時は戦時中で野球どころでなく、卒業し て天ぷら工場に勤めているときに職場で始めたのが始まりであった。 郵便局は当時電話交換手も入れて25、6人も居たので野球チーム もあり、本格的に野球を始めた。 郵便局チームから実業チームへと代わり、今はバッカスという5,60 才の人たちのチームで野球を楽しんでいる。 「湧別野球スポーツ少年団」には退職した年から関わるようになり、 以来熱心に指導を続けている。少年団の指導には窪内のほか木戸 周平、佐藤博、大場先生や高田先生などが当たっている。平成6年の 団員数は22名で、小学4年生以上の小学生たちで登栄床の子供もい る。練習は5月から10月までの毎日午後4時から6時まで町営球場で 行っているが、遠い子供は親が送り迎えしている。昭和62年に遠紋地 区で優勝し、札幌市の全道少年野球大会に出場したのが思い出で 1回戦を勝ったときは感激であった。この時の少年団員の数人が、去 年と今年の全道高校野球大会に選手として出場し活躍している。 「真剣に戦って負けてしまい、子供たちが泣いたときは、私も涙ぐみま した。でも今の子供たちは意地もなく、負けてもアッケラカンとしており 悔しがって泣く子もいない」という。務は湧別軟式野球協会の会長をもう 10年以上に亘ってつとめ1級審判員の資格を持っている。 務はこのほか趣味として凧と室内飛行機を作って楽しんでおり、凧は 作った数は数え切れないという。子供のころから絵が得意であったので 凧の絵は自分で書いている。 オリジナルの鳥凧も多い。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人命救助で表彰された 福地 留夫さん 平成6年の5月16日、福地留夫(湧別小型運送(株)勤務、59才) は、その朝湧別漁協のホタテ漁場造成事業で海底に貝殻を撒く仕事 の打合せのため、湧別漁港の東防波堤の先端で、曳船の桜井船長 たちとしけ模様の海を見ながら打合せをしていた。打合せが終わって 持ち場に帰ろうとしたが、もう一寸様子を見ようということになって何と なく雑談をしていた。 その時チカ釣りに来ていた一台の車が移動をし、近くにあった同じく 釣りに来ていた人の車に接触をした。慌てたその車の運転手は、 オートマチック車のブレーキをアクセルを踏み間違え、バックのまま海 へドボーンと落ちてしまった。 それを見た福地は、直ちに曳船の桜井船長と乗組員の南部谷に 救助を頼み、自分は漁協の市場に駆けつけて事故を知らせると共に、 救助を依頼し、消防にも119番して救急車の出動を要請した。 海に落ちた車は暫くは浮いていたが、だんだん沈み始め、中に乗っ ていた人も慌てて車から出ようとしたが、シートベルトを外すのに手間 どっていた。それでもバックをするのに窓を開けていたので、ようやく そこから這い出てアップアップしていたのを、桜井船長たちが船に備え ていた救命浮環を投げ、泳ぎの得意な桜井船長が飛び込んで助けあ げた。 午前7時頃のことであった。 助けられたのは中湧別に住む鈴木正一(72才)で、最近オートマチ ック車にしたばかりだったという。「あのとき俺たちがすぐ別れていたら あの人は溺れてしまっただろう」という。 近くに釣り人もいたがその人は助ける様子はなかったという。 福地等はこのお手柄で紋別海上保安部長と遠軽警察署長から感謝 状をもらった。「当たり前の事をしただけ」と福地は謙遜するが、なかな かどうして立派な行いでした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ある明治のあばぁちゃん 藤井 ヨシさん 北川 年枝 藤井ヨシばぁちゃんは明治40年生まれで、今年87才になった。8人 の子供を育て巣立たせた広くて古い家に1人で住んでいる。 ばぁちゃんは8人兄弟姉妹の中で育ったが、幼少の時から病弱で おとなしい性格であった。同居していた母、息子、舅、義弟、夫などを 長い間看病して後で見送ると言った。辛くて、悲しい体験をいくつも辛 抱強く耐え抜いてきた人である。 ばぁちゃんはそれまで同居していた長男一家が転勤で家を離れる とき、5男が家を新築するとき、じいちゃんがなくなって1人残ったとき、 その都度息子たちが同居することを勧めたが、人に迷惑や世話を掛け ることを極力避ける生き方を貫いた。 「自分が動けるうちは頑張るから、親孝行だと思ってこの家にそのま ま過ごさせてほしい」といって現在に至っている。 生来器用で働き者の人だから、中2階もある広い家に1人で住むよ うになってからも実に良く清掃、補修、管理をして身ぎれいに住んでい るのには何時訪ねていっても感心させられる。 大勢居る子供たちが、それぞれ独立しているので、家族連れで何時 帰ってきても利用できるようにと、押し入れには手入れした寝具を沢山 収め、台所には昔から使いならした調理器具や食器が色々と保管され ている。母を案じて里帰りした子供は、近くの兄弟と一緒に部落の集会 所でも利用するように気兼ね無く気楽に集まり、楽しく飲食し、宿泊し、 孝養を尽くして帰って行くのである。ばぁちゃんは私の叔母にも当たる ので良く知っているが、決して人の悪口を言うことがなく、たとえだれも が非難するような人に対しても、自分を同じ立場に置き換えて理解し 人を憎むことをしないのである。 また信仰心が篤く、良く気がついて面倒見の良い人である。 一昨年より高齢者の表彰を受けたとき「私なんか町の為に何もして いないのに間違ったんでないかと思うよ」と漏らしていたので「叔母さん は直接町のために尽くさなくとも秀明さん(長男)は郵便局長とし、また 孝一さん(5男)も農協の参事としてそれぞれ地域のために努力してい るし、叔母さんも回りに迷惑を掛ける事なく生きているので間違いでな いのよ」と言いましたが、このような明治生まれの気骨ある人も愈々少 なくなり、時の 流れとはいえ寂しい限りである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野菜売りの婦人たち 四号線時代から錦町には、市街や浜に野菜や卵を売りに歩く 婦人達がいた。 森田(森田栄の祖母)前田(現富永宅付近にいた)吉田(現長野隆則 付近にいた)本間ヤマ(故本間あつむの母)仙頭ハツ(仙頭富萬の母) 横沢房(横沢秀次の母)などである。 また五号線の安立家は、祖母のタマから父の大三、当主の広郷と3代 に亘って大正の末期から昭和37年頃まで、果物や野菜を売り歩いた。 この婦人たちが、売り歩いた時期は、古いことなので分からないが、 一番おそくまでしていたのが横沢房である。 リヤカーに季節の野菜や卵を積んで湧別市街の浜まで売りに歩いた 本間ヤマは、あつむの妻のハマ子が嫁に来た昭和9年には売り歩いて いたというから、「大正の末頃からやっていたのでないでしょうか」とい う。 ヤマは、野菜おばぁちゃんと呼ばれて春から秋にかけて、春は法蓮草 の時期から、秋は大根の頃までリヤカーの無い頃は荷車を引いて売り 歩き、3日か1週間置きに登栄床まで、馬を自分で追って売りにいったと いうから大したものである。そして片岡豆腐店から豆腐や油揚げも仕入 れて持っていった。 仙頭ハツは、昭和40年に高血圧で倒れるまでリヤカーに野菜やイチゴ 、卵を積んで「湧別の市街は天ぷら工場(小谷商店の工場裏)辺りまで 、中湧別の市街もいった」という。1日の売り上げは1袋2百円位にして 50袋から百袋位売ったという。 横沢房は、夫の慶次郎が「ニワトリを飼うのが好き」だったこともあって、 1年中冬も卵を売り歩いた。冬はリヤカーでなく小さな橇であった。 こうしてリヤカーに積んで汗を流しながら売った代金を踏み倒す人もい た。年末に1年分の請求書を持っていってもいなかったり、後でといって そのままになって、明くる年もまたそれを繰り返し、何年分も溜まってし まって、何時の間にかいなくなった人も何人かいるという。 新鮮な野菜や卵、果物やイチゴかが好まれ多くのお得意さんがいた が、何時しか彼女たちも年をとり、市街でも家庭菜園などが普及して懐 かしい野菜売りの姿も消えてしまった。 何故四号線の婦人達だけが野菜売りをしていたのか不思議でもある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 農業発展に尽力した人々 八田 亀義 四号線が、多くの商店や色々な職業の人たちが集まり、湧別市街は 勿論、上湧別はおろか遠軽までの客が来て殷賑を極めたものの、 大正5年停車場が湧別市街に決まったのを境に、急速に衰えていった。 大きな商店や旅館の建物が次々に空き家になっていった。淋しくなる 町並みの中で、周囲の東部落、川西部落、市街地区の農業の発展は 目覚ましく、馬産奨励の国策の下、畜産関係の仕事を持つ人たちは多 忙を極め、獣医師、蹄鉄屋、牛馬商等が繁盛した。 飯豊健吾さんは、腕も良いのに加え人柄が立派なので尊敬され、 慕われ湧別だけでなく中湧別からまで診療を受けに来る人が多く、 弟子を2人か3人置いてなお忙しいほどであった。 終戦前、軽い脳溢血で倒れ少し不自由になってから、故郷から妹さん を呼んで身の回りを見て貰っていたが、その頃の弟子の1人延原棟一 氏が、故郷から妹さんが連れてきていた浦子さんと結婚して家畜診療 院の後を継いだ。終戦後間もなく共済組合が出来、診療事業は組合に 移り延原氏は職員となったが、条件やその他の問題が、必ずしも延原 氏には満足できるものでは無かったように思われた。 その頃から農業を取り巻く産業構造も変化を見せて、換金作物が減り、 酪農が台頭し、馬産奨励は無くなり診療の対象に乳牛が多くなってき た。 延原氏は、獣医学の基本は馬を以て学んできた当時の経歴から、 反芻動物の診療に戸惑いを感じることを漏らしておられ、いささかノイロ ーゼ気味に見受けられ、私も同年輩であり、同情して色々励ましてあげ たが、だんだん落ち込んでいかれたようであった。 その時、昭和30年延原氏の相談役として赴任してきたのが篠田一郎 氏で、家畜を持つ私達に大きな安心感を与えてくれたものであった。 人触りが穏やかで、診療も慎重で処置も的確で当時獣医学の常識で 90%以上駄目という重症の私の馬が助かり、その手腕に驚嘆した事を 覚えている。 馬で学んだ獣医師だが進んで牛の治療に専念し成果を上げた。 延原氏が38才の若さで死去された後に木野氏が来たが、長く続かず 転職し、その後に松尾文彦氏が、続いて池田博氏が来られ、篠田氏の 片腕となり、なかなか信念的な人達で診療所も良い陣容になったと思 った。 その松尾氏も35才位で急逝し畜主達も力を落としたが、篠田氏のご 苦労がまた増え寝食を忘れた活躍であった。 その混乱の中で、先に延原氏の兄弟子で、飯豊さんに長くおり中湧 別に開業した川瀬重夫氏(旧姓菅井)の応援を得て畜生達も昔馴染み の有る人は頼んでいた。 その頃、池田氏の大きな活躍が始まり、若いながら非常に熱心で腕 も良く急速に畜生達の期待を満たし、中湧別から開業医を迎える必要 もなくなり、安全な共済組合の運営に進展を見ることができたのである。 乳牛の人工授精は馬よりも遅れて始まり、延原氏時代から始められ たが、牝牛は全部診療所に引き付けねばならず、暴れる牛を連れて怪 我をした人も多かった。 授精技師の大井親男氏が昭和33年に就任し戸別に往診してくれるよ うになり、安全で受胎率も急速に向上し、酪農の発展に大きな成果をも たらした。 当時の酪農家は、経験も浅くその知識も乏しく、思い悩むことが多かっ たが、馬と違う乳牛の生理や搾乳の方法等酪農の手引きを懇切丁寧に 指導し、只授精の技術だけでなく高度な指導力を発揮した功績は大きい。 現在は酪農家の知識も進み、診療所も広域化し、能率的に活動してい るが、四号線を取り巻く丁寧以西の農業の発展にはこの人々の大きな 働きがあったことを忘れてはならないと思う。 幸いこの方々は錦町を、永住の地とし地域活動のために大きく貢献し ておられるに当たり、往年のその功績は高く評価することを忘れてはな らない大きな史実の一つと思い筆を執った次第である。 |
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第十七章
新しい街づくりを目指して
戦後の混乱から立ち直ると、目覚ましい経済の復興が始まり、朝鮮動乱の特需景気の後に逞しい経済
の発展があった。しかし一方でそれは地方に過疎をもたらした。
減り続ける農村部とは逆に錦町は、市街地として発展してきており、色々な施設ができると共に道路
網も完成し、日一日と変貌を遂げている。
街灯設置に取り組む | 昭和24年、錦町に中学校が完成、そして36年にスノー食品が完成し、 238号線の道路が国道に昇格、翌年湧別農協の事務所、店舗が落成。 38年には土井産業の砂利プラントが完成。48年に小学校が新築落成 、51年に林業研修センター「しらかば」が生まれた。こうして錦町は次第 に市街化の方向に向かい始めたが、これに対する環境整備の一つとし て錦町に街灯設置の運動が起こった。 湧別市街には、目抜き通りに住民が資金を出し合って立てた街灯が あったが、錦町には街灯がなく夜は暗い町並みであった。 昭和50年、部落の事業として錦町に街灯をつけようということになり、 錦防犯灯委員会を結成し委員長に田畑上を選任した。 検討の結果次の計画を立て、部落総会の承認を得て町に対し補助の 要望を行った。 設置計画は、二号線から六号線までの道道、国道の東側に約30b 間隔に55灯、二号線、三号線、四号線、五号線の道路沿いに19灯。 西一線道路に5灯の合計84灯を付けるというものであった。 このうち既に7灯が付いていたので新設は77灯。うち美園団地の5灯 については町が設置することになり、町内会では62灯を付けることにし た。またこの内道道、国道の号線道路の交差点には、40hの水銀灯 を5灯設置し、他は20hの蛍光灯を電柱に設置することにした。 この時の事業費は、513.990円で、町はこれにたいし半額の補助 金を出した。また電気料についても、年間92.109円に上るとしてこれ に対しても補助要請を行い半額補助が決定した。 この錦町の補助決定により、以後各町内会や部落での防犯灯の補助 も決まり、現在に至っている。現在は新設の補助は6割となっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 街灯の歴史 明治40年頃、浜市街と四号線市街の店先に、ガス灯と呼ぶ石油に よる灯りが看板を兼ねて取り付けられたのが始まりである。 「点灯屋」と言われる人が、夕方になると脚立を肩に店を回って油の 補給と点灯をして歩いた。 大正7年に湧別電気(株)が創立され、発電を始めると浜市街から 五号線までの間に32ヶ所の街灯を村が建て、ガス灯は姿を消した。 しかし戦争が始まると、防火管制と電力制限で街灯は撤去させられ 以後街は暗闇となった。 昭和25年に、湧別市街の八人会が、混乱している社会の中で暗闇 の街に灯りを、ということで街灯の建設を計画し、お互いに資金を出し あって市街の数ヶ所に街灯を建てた。 この行為は大変な反響を呼び、八人会は更に会員を増やし、昭和 28年に町制施行記念事業として資金造成をし、30数万円で大通りを 主として市街地区に街灯を整備した。 完成後の維持管理は町内会に移され、37年には木製の柱が鉄製 のポールに改善された。 そして平成5年、町は街の美観と防犯の見地から湧別町の主要地区 に街灯を整備した。 湧別市街から五号線までに107ヶ所の街灯が設置され、電気料は 全額町が負担している。 |
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錦町開発促進期成会 の発足 |
(一)期成会の結成 この街灯設置の成功に部落の意気も燃え上がり、さらに街づくり に対して取り組もうとおいことになり、昭和52年に錦町開発促進 期成会が発足した。 期成会規約の目的には 「この期成会は、湧別町が総合開発十ヶ年計画実施に対する地域 住民の声を反映させ、よって住み良い環境と福祉の向上を図ることを 目的とする」 と記され、事業として 一、基盤整備に関する事項 二、環境整備に関する事項 三、生活に関する事項 四、その他目的達成に関する事項 と記されている。 そして目的達成のために次のような委員会を設置した。 一、総務委員会 一、基盤整備委員会 一、環境整備委員会 一、生活委員会 発足当時の役員は、次の通り。 相談役 鍵谷 薫 土井重喜 市川太平 安藤昇一 会長 朝倉直利 副会長 中川照夫 加藤秀夫 事務局 若杉 茂 飯塚 武 総務委員長 相沢隆治 副委員長 篠田一郎 委員 加藤秀夫 中川照夫 保育所委員長 若杉 茂 副委員長 渋谷光夫 樋岡 勇 委員 田中伸夫 安立広郷 八田亀義 樋岡 勇 吉塚道子 唐川喜美子 後藤マツエ 公民館委員長 田畑 上 副委員長 清水平治 委員 本間義秋 東 達夫 溝江満雄 若杉 茂 山 カヨ 北村信子 河川委員長 溝江満雄 副委員長 八田亀義 委員 田中伸夫 清水平治 江川宣弘 安立広郷 山口清一 宮島鉄男 工藤輝雄 吉川久美子 惣滑谷智恵子 道路委員長 東 達夫 副委員長 安立広郷 委員 秋野鉄太郎 本間喜八 樋岡 勇 山田富康 越智ヒサ 本間民子 公営住宅委員長 秋野鉄太郎 副委員長 山口清一 委員 吉田隆春 渋谷光夫 山田富康 田畑 上 大槻節子 鈴木フサ子 土地整備委員長 加藤秀夫 副委員長 簗部岩吉 委員 国枝 操 山重太郎 本間喜八 三沢ヒサ子 伊藤豊子 簗部里子 その後役員と機構の改正があり次の通り変更になった。 相談役 土井重喜 市川太平 安藤昇一 会長 朝倉直利 副会長 中川照夫 加藤秀夫 総務委員長 中川照夫 副委員長 篠田一郎(会計担当) 委員 加藤秀夫 八田亀義 事務局 若杉 茂 飯塚 武 宮島鉄男 基盤整備委員長 加藤秀夫 副委員長 本間義秋 簗部岩吉 委員 村雲成男 道路委員会(道路、排水関係) 委員長 朝倉直利 副委員長 溝江満雄 吉田隆春 委員 水谷 鎮 田中伸夫 本間喜八 池田 博 集会場委員会(集会、保育所) 委員長 田畑 上 副委員長 東 達夫 若杉 茂 藤井孝一 委員 安立広郷 大井親男 山口清一 大槻安男 山田富康 昭和56年朝倉会長と篠田委員が退任したために3月の総会で 次の通り補充と一部入れ替えが行われた。 会長 中川照夫 副会長 田畑 上 総務委員長 若杉 茂 副委員長 飯塚 武(会計担当) 道路委員長 樋岡 勇 (二)期成会の活動 期成会は、直ちに懸案事項の検討を始め、町事務局との協議を経 て次のような町に対する要望事項をまとめ、52年11月14日期成会 の正副会長と安藤区長等が清水町長に陳情した。 一、錦町公民館の建設について 理由=錦町公民館は、従来の建物に錦町老人憩いの家を増築され ましたが、公民館は従来通りであります。 利用も逐年増加の一途であり、本町に立派な公民館が建設され公 民館利用のことは承知でありますが、行政区域が二号線より六号線 まで2・2キロの広い区域であり、住宅建設も三号線、四号線より以南 であり住民の中心として公民館(名称はこだわらない)の建設をお願い いたします。 二、かおる保育所の存続と建設の推進について 理由=かおる保育所に収容の園児は、福島、川西、信部内を含め 現在63名で、錦町の住宅建設の現況から逐次増加の傾向でござい ます。 昨年湧別保育所の建設がありましたが、収容人員に限度があり、 逐次増加する園児にかおる保育所の存置と、通年保育所とし所得格 差のない均等保育料による収容をお願いいたします。 かおる保育所は、中古材料をもって建設された建物で、現在は非 常に狭く、教具、遊具も少なく加えるに増加する園児に対し、3名の 保母での保育に支障を来している現況で御座いますので早急に 新築をして頂きたくお願いいたします。 三、分譲宅地の造成について 理由=最近住宅を建てたくても中々宅地を取得できない現況にあ ります。錦町は、交通の便も良く、住宅を建てるのに最適の場所と 考えますが、町においてもぜひ錦町に分譲宅地の造成をせられる ようお願いいたします。 四、道路の建設について 理由=錦町は、個人住宅が逐次増加し、土地所有者も中通り及び 未着手の道路についての建設を強く要望しております。 特に町道のうちビート受け入れ等車両の交通量の多い個所、孵化 場の通路等及び個人住宅の建設に伴う冬季除雪の関係等により、 ぜひ早急にご計画を下さるようお願いいたします。 記 @二号線道路の改良 A三号線道路の改良と踏切拡張 B五号線道路の改良 C西中通りの新設(西中通りの用地については地主より無償提供 の承諾を得ている) D西一線道路(国道238〜五号線間)の改良 五、環境整備のための河川排水改修と悪臭の改善について 理由=@五号線横沢氏よりの湧水は、水位低下のため現在流下し ておりませんが、旧河川であり四号線改良の際、橋梁の設備を受け ました。融雪時及び長雨の際は河川として流下いたしますが、通常 は数箇所の溜め水のみで、加えて住宅の汚水のはけ口で悪臭と蚊 の発生源となっている現況で御座います。 環境衛生上、非常に住民の迷惑となっておりますので、改良方お 願いいたします。 A中学校、小学校横排水の整備について 当初、土地整備のための明渠排水として掘削されましたのを、小 中学校の汚水排出の排水溝として利用しておりますが、この排水に ついても前記一、と同じでありますので整備について早急に処理下さ いますようお願いいたします。 B国道238号線の四号線角より農協整備工場に至る側溝は、流下 する事なく、溜め水のため悪臭が甚だしく改善方お願いいたします。 Cスノー食品(株)の残留物、及び汚水からの悪臭が強く、付近住民 が多大な迷惑を被っております。この改善方を町当局より強くご指導 下さるようお願いいたします。 六、土地基盤整備について 理由=町内西一線より以西地域に旧河川敷地があり、一部国有地 の払い下げを受け農地として使用されておりますが、まだ旧河川敷 地のままで存置されている土地があり、関係住民もこの土地整備に 要望が御座いますので、ご考慮下さるようお願いいたします。 加えて簗部勇吉氏に通じる道路予定地がありますが、堤防上を通 行する現況であり、この整備に含めて建設されるよう要望いたしま す。 この陳情に対し、町長は熱心に内容を聞き、前向きに対応する 事を約束した。 (三) 事業の実施 町は、これらの要望を国の補助事業により推進することとして、 「農村基盤総合整備事業(ミニ総合パイロット事業)」として実施 することになり、53年度に計画を樹立し、54年より順次事業を 実施していくことになり、次の様に年次計画で実施された。 昭和54年度 西一線幹線農道測量 西二号集落道路 延長556b 幅員5・5b 昭和55年度 西二号支線農道 測量 西一線幹線農道 延長1.200b 幅員5・5b 農用地開発農地造成 面積2・4f 事業費2.676千円 農用地開発保全 面積暗渠排水13・3f 客土9・8f 層厚1f 心破事業11f 事業費15.206千円 昭和56年度 西一線幹線明渠延長2.131b 事業費81.515千円 西二号支線農道延長480b 幅員4b 西一条中通り道路測量 昭和57年度 一条中通り道路延長548b 幅員4b 錦集落排水延長1.010b 事業費41.398千円 昭和58年度 錦中央通り道路延長310b 幅員4b 西一線幹線明渠延長141b 事業費16.900千円 錦研修センター新築421・2平方b 錦研修センター備品、消耗品、事業費3.937千円 ここまでの事業費375.709千円 昭和59年度 錦研修センター駐車場 農村公園の造成 (四) 完成式典 そして、この事業の完成を祝う完成記念式典が新築成った錦研修 センターで、昭和58年12月4日盛大に開催された。 式典では次の方に対し感謝状を贈った。 事業功労者 中川照夫 加藤秀夫 田畑 上 故安藤昇一 故朝倉直利 高額寄付者 鍵谷 寛 東 達夫 田畑 上 湧別農業協同組合 (有)富井建設 臼井文雄 安立広郷 市川弘子 惣滑谷勲 土井産業(株) (株)北見ホッコン (株)西村組 北新産業(株) スノー食品工業(株) (企)山本ブロック製作所 山田商店 (株)高野商店 (株)大槻自動車整備工場 |
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明渠排水事業 | 開発期成会の要望事項にある、「五、環境整備のための河川、排 水改修と悪臭の改善について」の解決のためには、西一線の排水溝 の改良が必要であった。 ところがこの排水溝は、戦時中の昭和19年に食糧増産の目的を持 って「お上」の方針により無償で土地を提供させられ、工事は「勤労報 国隊」の学生が作ったものであった。 当時西一線の付近や、現大槻自動車整備工場の付近には、低地の 為に湿地が散在し、特に二号線より下流の土地の多くが湿地となって いた。この為土地改良のために排水を掘るという「お上」の方針となっ たのである。 しかし四号線付近には排水を掘る事で、畑が干上がるという土地も あったが、当時はそんな個人の理由は顧みられなかった。 「勤労報国隊」の学生の宿舎となった東達夫は、「家には北大の 学生が10人と慶應の学生が15人、札幌師範の学生30人が泊ま って、若い人たちの食料の買い出しに親父があちこち走り回ってい た」という。 学生はこのほか法明寺にも先生方と泊まったという。 こうしたいわくつきの排水溝を、さらに規模を拡大して明渠として 整備しようということになったのであるが、もともと原形の排水溝 の用地は、強制的に取り上げられたようなものだから、用地買収 は難航した。 昭和56年3月8日に第1回の地主との会合をもってから、9回に 及ぶ会合の結果、畑地反当たり35万円、川なりの用地17万円 (内2万円は期成会負担)で決着を見た。湯地の買収費は町が出 したのであるが、期成会は地主と町との中にあって調整役として大 変な苦労をした。 東側の明渠工事のときも期成会は、地主と町との間で用地の買収 には苦労をした。当時は、地元の要望した事項については、用地の 確保などは全面的に協力する事になっていたのである。 現在西一線の明渠は道道より西側にある道路側溝や学校、住宅 の排水が集められ農業よりも生活排水の処理に活用されている。 |
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錦研修センター | 錦町総合開発の最大目的であった公民館の分館設置は、農業構 造改善事業で採択され、国の補助事業として、昭和50年に錦研修 センターが建設された。 鉄骨作り平屋建421・2bで、大ホール、和室2室、事務室、調理 場、収納庫、トイレに玄関とホールが備わった当時としては立派な施 設であった。 備品を含めて総事業費は4千5百万円。 センターは、完成以来、錦町の中心施設として大いに活用され、 葬儀を始め、自治会や農協などの会議や催しに有効に使われてい る。 また各種の選挙にも錦地区の投票所として使用されている。 参考に町内各施設の平成4年度の利用回数と利用人員を記載する。
センターの建設した頃から見ると、錦町の戸数も人口も大きく増 えている。大きな会合や葬儀などでは会場が狭く、またテーブルや 椅子の格納室がなく、廊下に並べるという状態が続いているため、 町に対して増築と改修の要望をしていたが、6年度において1千5 百万円余の予算で改修が行われた。 その結果、大ホールが奥行3・6b広くなり、収納室が事務室の 屋に増築された。今までの収納室が控室に改造され、玄関も拡張さ れた。入口は風の影響の少ない引き戸になった。 |
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地場産品加工センター | 平成4年に錦研修センターに隣接して建設された。 農畜産物等地元で獲れる物を持ち寄って加工し、食生活を豊に するため設けられた。農家や漁業の婦人以外にも市街地区の婦人 にも好評で、連日利用者が絶えない有様である。 このセンターの運営は、各産業団体や婦人部、生活改善グルー プに町と普及所が加わって構成した「運営協議会」が当たっている が、利用推進のため、利用者の代表として各婦人部の代表や生活 改善、グルメ研究会の代表に町と普及所が加わった「推進会議」を 設けている。施設は木造平屋建324平方bで事業費は、建物6千 1百80万円、器具、備品類4千1百70万円である。 このセンターを利用して出来る加工食品は、次の通りである。 ○農産物=豆腐、麺、納豆、パン、うどん、そば、饅頭、ジュース、 ジャム、ケチャップ、菓子、山菜、味噌 ○畜産乳製品=バター、チーズ、ヨーグルト、アイスクリーム、 乳飲料と乳製品、ハム、ソーセージ、ベーコン、燻製 、佃煮類 ○水産物=味付け冷凍、佃煮類、乾燥、蒲鉾等 ○その他=五目の具、カレーライス、チャーハン等の主食類、冷凍、 缶詰、乾燥、真空包装 平成5年度の利用状況は、日数が292日で全く利用者がなかった のはたったの2日間のみという。 そして利用したグループの数は、1.194団体の5.566人。一方 視察に訪れる団体も多く、15団体416人が訪れ、平成6年も各地よ り視察に来ており、このような施設を造る町村も増えてきそうだとい う。 加工する食品の種類では、パンとうどんが抜群に多く、季節によっ て加工品も異なってくるがパンとうどんは1年を通じて作られている。 そしてパンは真空包装で保管すると1ヶ月は保つと言い、うどんは 冷凍にして持ち帰ると長く食べられるので人気商品である。 また6年はタイ米のドンが増えているという。 |
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かおる保育所 | かおる保育所は、昭和38年5月1日に「四号線季節保育園」として 広福寺の境内の物置を改造して始まった。 これは当時の広福寺の住職であった吉塚貫道師の保育事業に対す る関心と、周辺住民の開設要望とが一致し開設されたものである。 初代園長は吉塚貫道、運営委員長は四号線区長の簗部勇吉で、園 児36人、保母2人でスタートした。 保育園の園舎となったのは、広福寺の物置を改良したもので、町 の少ない補助金の他は、広福寺住職と川西の石川藤四郎の絶大な協 力があった。 そして、寺の本堂も子供たちの昼寝の場所に提供された。 園児は、四号線のほか川西、東、登栄床や沼の上よりも通ってきた。 また年毎に園児も増えて園舎が狭くなってきたため増改築の計画 を予定していたところ、町より消防番屋の有償払い下げを受けることが 出来た。 昭和40年のことであった。 4月に園の名前を「かおる保育園」に改め、5月にかおる保育園建設 委員会を結成。建設委員はもとより園児の父兄等が総出で消防番屋 の解体、運搬を行った。そして8月下旬より建設にかかった。 工事は朝倉組が請け負って進めたが、予定完成日が遅れ、11月2 日の卒園式の前日に完成するという慌ただしさで、この年の卒園児は、 新しい建物に1日だけの生活であった。 完成した建物は、木造2階建40坪の大きなもので、2階は全部畳敷 きにし、1階はホールと各部屋に分かれて作られた。この完成のため に四号線、川西、東、登栄床の大勢の父兄が労力奉仕を行い、経費 の軽減を図ったが、古いものを使ったために思わぬ費用も掛かり、関 係部落よりの負担と広福寺護持会の援助で完成した。 昭和41年には、木造の施設のため春や秋の期間は寒く、また防火 施設も不十分なため昭和45年11月に改良工事に取りかかったがこ の工事費の捻出にも苦労があったという。 昭和52年1月より町の直営となる。 通年保育となって、保母は町職員となり施設を町が借り上げて行わ れた。その後、昭和55年1月、町が直営の保育所を現在地に新設した ことから16年間に及ぶ民営の施設は閉園となった。 新設になったかおる保育所保育所の規模、設備は次の通りである。 建物構造規模 木造平屋造り 455・2平方b 施設概要 乳児室 はいはい室 保育室 遊戯室 調理室 医務室 事務室 保母休憩室 倉庫 便所 屋外遊戯場 1.636・22平方b 工事費 44.250千円 園長 昭和38年5月 四号線保育園園長 吉塚貫道 昭和46年4月 かおる保育所園長 吉塚貫道 昭和54年12月 町施設完成により退任 運営委員長 昭和38年5月 簗部勇吉 昭和39年5月 安藤昇一 昭和44年4月 惣滑谷武 昭和46年4月 吉塚勇道 昭和51年1月 若杉 茂 若杉委員長は、昭和54年12月町保育所移管により退任 保母 昭和38年5月〜同年10月 田中美智恵 昭和33年5月〜51年12月 吉塚道子 昭和39年4月〜40年10月 村川直子 昭和40年4月〜43年10月 小池広美 昭和41年4月〜55年3月 大淵初美 昭和63年4月〜平成4年3月 〃 昭和44年4月〜48年11月 田畑則子 昭和47年4月〜同年11月 市川弘子 昭和48年8月〜58年3月 〃 昭和48年4月〜同年8月 平野嘉子 昭和53年4月〜55年3月 中津川光江 昭和55年4月〜57年3月 大島恵子 昭和57年4月〜63年3月 茂木由美子 昭和55年4月〜63年3月 藤井明美 平成 4年4月〜 現在 〃 昭和58年4月〜平成2年3月 国井 香 昭和63年4月〜平成2年3月 船橋美千代 平成 2年4月〜3年3月 真田明美 平成 3年4月〜6年3月 江川理美 平成 3年4月〜5年3月 今井明美 平成 5年4月〜 現在 伊藤恵子 平成 6年4月〜 現在 吉塚聡子 保母数と園児数の推移
ライオン組(年長) 男9名 女11名 キリン組 男8名 女7名 ウサギ組(新園児) 男8名 女9名 |
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伝統の錦かるたチーム | 錦町の子供かるたチームは、ここ十数年町内子供会の大会で好成 績を続けているが、この強さには伝統があるようである。 昭和の初期、四号線に「いなづま組」と名乗る3人組のかるたチ ームがあった。 当時娯楽らしき物も少なく、かるたや花札は室内娯楽として大いに 盛んであった。 冬になると各地で大会が開かれた。 四号線の「いなづま組」は紋別、旭川、網走までも遠征し、大会 で上位に入賞して目当ての商品や賞金を持ち帰ったという。 その「いなづま組」を組んでいたのは、若杉明、佐野徳之助、千葉 壮平という面々であった。 戦後も若杉茂、臼井昭一、唐川良太郎というメンバーがチームを組 んで各地の大会に乗り込んで腕を競ったが、中湧別で開かれた東北 海道大会にも出場したことがあるという。 最近はかっての選手であった加藤秀夫、篠田一郎、山口清一、田 畑上などが子供たちの指導に当たっており、そのために錦子供会の かるたチームは毎年好成績を収めている。 かるた大会の主催は、最近はボランティアグループの「麦の会」だっ たが、その後町子供会育成協議会に移っている。 平成5年度の大会は、平成6年1月9日に行われたが、参加チーム は42チームにも及び、一子供会よりの出場チームを5チームに制限し ている。 その成績を錦研修センターに保管してある賞状より拾ってみた。 注=小学生低学年とは3年生イカの子供
月に湧別で開かれ小学生の部で錦チームが優勝している。 また第2回大会が平成元年3月同じく湧別で開かれ、このときも 錦チームは、小学生低学年の部2位、小学生高学年の部2位、中学 生の部でAチームが優勝している。以来この大会は開かれていない。 参考までに過去4年間の入賞チームの選手の氏名を書き留める。 ◎ 平成2年度 22回大会 低学年の部=優勝 富井和人 安藤みさ 阿部博文 追永正彦 高学年の部=優勝 松尾直樹 佐藤菜央子 吉田泰久 ◎ 平成3年度 23回大会 低学年の部=3位 本間明美 富井恵 田畑好浩 辻克喜 高学年の部=優勝 本間義輝 追永かおり 安藤みさ ◎ 平成4年度 24回大会 高学年の部=優勝 柳沢明彦 追永かおり 本間義輝 阿部博文 中学生の部=2位 本間朋子 伊東あさみ 神はるか ◎平成5年度 25回大会 低学年の部=優勝 沼館真一 真坂雄大 北川麻美 田畑美幸 高学年の部=3位 本間和美 阿部博文 安藤みさ 辻 克喜 |
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しらかば団地の造成 | 湧別町森林組合は、苗畑として所有していた二号線沿いの錦町地 区の土地約2fを住宅団地として造成し、区画を46に分割、昭和51 年より分譲を始めた。 当時の湧別町森林組合は、組合員数640名を擁し、道内の160の 森林組合の中で取扱高が33億円と言うトップの位置にあり日本一の 呼び名もあったほどであった。 ところが、赤字を隠した粉飾決算と、融通手形の乱発という乱脈経 理、放漫経営が破綻して昭和55年遂に破産してしまった。 売り出し中のしらかば団地の土地は、その後の調べですべて借金の 担保に入っていることが分かり、金を払ったものの担保に入っている ため登記も出来ず、土地を取り上げられかねない状況にあった。 大半の土地がまだ売れていなかったが、債権者の意向によっては どのように処分されるか不安が広がり、このために町が債権者の農林 中金と掛け合い、財産の処分、債務の減免等の借置により抵当権を 抹消して町が未処分の土地を取得し、既に土地を購入した人につい ても領収書を元に町が折衝し危機を救った。 しらかば団地も、今では道路も舗装され整然とした団地になって いるが、分譲初期に入地した人は、整備されていない道路は、雨が 降るとぬかるみのようになり、森林組合は混乱していて道路補修ど ころでなく町に陳情して砂利を入れてもらって、やっと歩けるように なったという頃もあった。 町が取得した土地も昭和63年にはすべて完売した。一区画の面 積は、一定でなく最大の区画の面積は、883平方bで最小は384 平方bである。 平成6年末で44戸が入居しており、残りは2区画が空地で残って いるのみとなった。 年度別の入居者数は次の通りである。 昭和52年 4戸 61年 4戸 53年 1戸 62年 2戸 54年 0戸 63年 2戸 55年 4戸 平成元年 1戸 56年 3戸 2年 1戸 57年 8戸 3年 0戸 58年 2戸 4年 1戸 59年 4戸 5年 1戸 60年 5戸 6年 1戸 |
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進出する企業と 新団地の造成 |
錦町に進出する企業がここ1〜2年、毎年1〜2件増えており、 現在営業中の企業でも、立地条件さえ整えば規模を拡大し会社を新 しく建てたいという企業もあり、今後ますます発展の可能性を秘め ている。平成5年には、三号線に多田産業が大型車両を揃えて事務 所と車両基地を整備し、(有)高橋産業も運送業の許可を取って、五号 線に開業、6年は五号線に葵源商事(株)が用地を確保し、飼料を扱う 北海道営業所を開店した。 そして適当な土地が有れば会社を新築移転したい企業や、拡張し たい企業、進出予定の企業の在ることを記念史の取材を通して幾つ も聞いた。 今はない国鉄の線路跡地には、リラ街道が着々と出来上がりつつあ り、湧別川の河川敷には緑も鮮やかなパークゴルフ場がオープンし、 ますます環境は良くなっていく錦町である。 そして町は、6年度から錦町に新団地の造成を始めた。 しらかば団地に隣接して、南側の3万6千417平方bの用地を購入 したのである。182番地の1・184番地の1・185番地の1と4である。 町はここに分譲宅地29区画と、公営住宅団地2戸建て7戸分14戸 の用地を造成する計画である。 団地内には、4本の道路と緑地公園も計画されており、用地の測量 を行い、農業委員会に農地転用の許可を申請し、許可がおり次第6 年中に一部工事にかかり、7年には分譲したいとしている。 計画では、この新しい団地に接する南側の小学校よりの土地も購 入して、小学校迄の道路を整備し、今の三号線の公営住宅のある美 園団地を整備し、しらかば団地と結んだ一大住宅団地を造成したい としている。 この団地が完成し、住民が入居すると錦町は町内最大の3百戸以 上の大自治会となる。 |
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湧別町の発展を阻んだ 対立 |
八 田 亀 義 小学校時代、五号線から二号線まで、8年間歩いて通学したが、 道すがら感じたことは大きな建物が空き家になって、その片隅に 人が住んでいても、すぐ出ていき別な人が入り、またいなくなる。 そんな家が所々にあって何と淋しい町並みなのかと思ったもの だが、物心ついて大人から聞いて知ったことは、鉄道の駅が市街 に決まってから、急速に四号線が衰え始めた。人が減り、大きな 建物は繁栄していた中央市街の名残を物語るものだという。 鉄道は、遠軽から四号線を経由して紋別へつなぐのが理想的と の案は、全く無視されたのだとのことであった。 また小学生の頃、校舎が古くなり建て替えられ、新校舎は四号 線に建つかもしれないと聞いて喜んだ。四号線の代表的人物谷虎 五郎さんが、村議会で生徒の通学する距離を考えて少し、四号線 寄りに建てるのが合理的でないかと提案した所、市街側の有力者 に廊下で殴られたとの話しで、今考えると情けないほど町の人の和 が欠けていたように思われる。 結局小学校は元の場所に改築された。終戦後、中学校が四号線 に建つことになったが、その敷地内で校舎の前庭から道路までは、 低い湿地でその埋立は、四号線、川西、東の人と馬車の奉仕作業 で行いほかの地区の協力はなかった。 小学校も小学校47年に四号線に建てられたが、谷氏、土井氏 の提唱が全町的に理解を得て現実の姿となったと思われる。 「鉄道や学校の事だけでなく、先人の心に四号線を中心に物事 が考えられていたら、四号線は中湧別と逆になって、浜市街とつ ながり、湧別町が或いは遠軽くらいの町に発展していた可能性も あった。残念なことだ」と多くの先輩から度々聞かされた。 町の指導的な人方は、事に当たって大所、高所から私心を放れ て物を考え、後世に悔いを残さぬよう運んで欲しいと願うのは私 一人でないと思う。 錦町もようやく戸数も増え、活気を取り戻しつつあるが、紋別 道路も七号線の橋が完成すると、四号線の交通量が激減するとの 説がある。錦町を中心に湧別町を象徴するような目玉が考えられ ないものか。 有能な人材が、町の残るよう、魅力ある街作りを望みたいと思 う。 錦町は、環境に恵まれた貴重な地域だと思います。 |