錦町開基百年記念史 百年の星霜

昭和の小漁師
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        第7章   第8章 小学校、中学校と定時制高校  第9章 交通と道路 


第7章
お寺と宗教施設

錦町には他の地区に見られない程お寺を始め宗教施設が多い。
それはそのまま錦町の歴史の重みにも繋がるのである。

遙拝所  明治の頃、誰が作ったか、いつ頃からいつ頃まであったのか、御
神体は何か等、詳しいことは何も分からない。現在の中川組の裏に
楢の木の林があり、その楢林の中に遙拝所(やしろとまでは行かない
規模の小さなもの)の小さな小祠があったことを、八田亀義は覚え
ているという。

法明寺   (浄土真宗本願寺派)
 明治二十七年六月に本願寺は下湧別村の布教の始めとして、四号
線に紋別村の光源寺の住職が兼務して説教所を開設し、これが法明
寺の基礎となった。
 明治三十五年に島根県より中川大悟師が赴任し、熱心に布教に従
事したと言われている。
 大正三年三月に責任総代竹内文吉の努力で「瑠璃山法明寺」の
寺号公称の認可が下り、中川大悟師が初代住職となった。
 本堂は、明治四十三年に発願され、大正五年に落成した。
 中川住職は、当時の開拓使長官にお堂を建てる木材の払い下げに
ついて直訴をし、木材の払い下げを受けお堂を建てた。(土井重喜
談)
 この本堂は、建築後約八十年を経たが、殆ど狂いもなく健在であ
る。
 この中川住職は、なかなか豪快な人であったようで馬に乗って檀
家回りを行い、誘われれば博奕もしたと言う。(土井重喜談)
 昭和七年中川住職が一身上の理由で法明寺を去り、樺太に移住し
たので、後任として札幌市の信行寺で布教師として活躍していた、
坂上堅正師が同寺の長女みさおと結婚して二代目住職として赴任し
た。
 昭和二十六年に庫裏が落成したが(工事費一五○万円)、この庫裏
を建てるに当たって土井重喜は遠軽営林署に行き、署長に木材の払
い下げのお願いをしたが、署長は
「原木を立ち木で払い下げても、素人では造材は出来ないだろう。
署で上丸太を持っているからそれを払い下げてやる」
 と言われ上丸太五○○石の払い下げを受け庫裏を建てた。(土井重
喜談)
 堅正師は、昭和五十三年五月逝去され、同月に雅亮師が三代目を
継承した。
 昭和五十八年納骨堂が落成し(工事費四、九○○万円)、昭和六十
三年一月に雅亮師が五十七歳の若さで急逝。四代目住職として雅人
師が就任した。
 平成二年九月に庫裏が新築完成した。(面積四七○平方b、工事費
六、一五○万円)。
 法明寺の境内には、多くの木々が鬱蒼として生い茂っているが、
この境内を二代目住職の堅正師は、「原林万正聚楽園」と名づけた。
 そして町では昭和四十九年にこの樹齢二百年以上のハンノキ等を
「湧別町名木、記念木」に指定している。
 平成六年の檀家数は約二百戸である。

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   浄土真宗(真宗)について
 浄土宗開祖法然上人の門下である親鸞を教祖とする宗派。
 親鸞は法然の浄土念仏の教えを継ぐが、念仏中心から信心中心
へ進んだ。
 阿弥陀仏に対する信の一念によって救いは確立するので、特別
の修業の必要はなく、念仏も仏の慈悲救済の願いに対する報恩感
謝の現れとして存すると考え、僧の肉食妻帯を許した。
 親鸞の没後、末女覚信尼は京都の大谷に祖廟を建て本願寺の称
号を勅許により受けた。
 その後宗派は大きく発展したが、他の宗派との争いや時の権力
者に攻められるなど、苦難の道を歩んできたが、豊臣秀吉によっ
て土地の寄進をを受け、京都堀川通りに西本願寺を設けた。
 秀吉は、十一世顕如の跡を教如に継がせたが、異議が出て弟の
准如に継がせ十二世とした。
 ところが徳川家康は、京都烏丸に土地を寄進して教如を復活さ
せて、東本願寺を名乗りここに東西本願寺の分立となった。
 現在西本願寺を本願寺派、東本願寺を大谷派といっている。

広福寺    (曹洞宗)
 明治二十七年七月に紋別村の報恩寺(大桃玄龍住職)が、四号線
の基線一九番地(錦研修センターの入口右側付近)に説教所を建て
布教を始めた。
 また明治三十六年に、四号線の横沢金次郎ら有志が相談して、小
樽の龍徳寺より須磨見道師を招き、基線一七番地に同じく説教所を
建て布教を始めた。
 そしてその説教所は翌三十七年に本堂(三六坪)の建設に着手し
たが、資金のめどが立たず三年間を経て完成した。
 明治三十八年三月に北海道長官より「湧別山広福寺」の寺号公称
の許可が下り、初代住職として須磨見道師が就任した。
 大正六年二月須磨住職が逝去し、小樽の竜徳寺の推薦により新潟
県長岡市の安善寺より吉塚貫道師が派遣され二代目住職を継承した。
 貫道師二十七歳であった。
 この間曹洞宗の説教所と寺が近くに二ヶ所有るという状態が続き、
互いに競いあっていたが、中に入る人があって大正六年十一月九日
に広福寺が説教所を吸収する形で併合した。
 大正七年十一月に信部内で広福寺の布教が早くから行われていた
こともあり、仮説教所を、広福寺の生田鼓仙師がシブノツナイ川左
岸(現沼の上)の民家を借りて開設し、大正十四年十二月に説教所
の認可を受けると共に、信部内市街の旅館跡を買い求めて改造し、
昭和二十七年七月寺号公称の認可を得て「曹渓山霊源寺」と称した。
 一時は檀家も一二四戸を数えたが過疎の中で次第に檀家も減り、
四代目住職の大桃貫龍師の逝去と共に昭和四十二年廃寺となり、檀
家は広福寺と紋別の報恩寺に移った。(この項は信部内開基八十周
年記念誌より)
 大正十四年 広福寺の境内に松尾富士太郎(第二章の善光寺さん
の項参照)の地蔵尊を有志の寄付をもって松尾の三回忌に建立
 昭和    三年 本堂改修
 昭和    十年 庫裏新築
 昭和二十二年 位牌堂新築
 昭和三十年十月 獣医飯豊健吾の威徳を偲び境内に顯彰碑を
             有志が建立
 昭和三十八年 境内に「かおる保育園」を開設し同五十二年町に移管
           になるまで運営をする。
 昭和四十二年 鐘楼(工事費三○○万円)
 昭和四十六年 貫道師老齢により引退し勇道師が住職に就任。
 昭和五十三年七月 貫道師逝去(八十九歳)
 昭和五十六年 位牌堂、会館、山門を新築(工事費三、五六三万円)
           旧位牌堂を座禅堂に改築した。(工事費六八九万円)
 平成   二年 本堂を新築面積八○坪、工事費(付帯工事含め)
           七七、八三六千円
 平成   四年 庫裏新築落成。面積一三六坪、工事費五、○九五万円
 平成   五年 十一月一日開創百年、本堂庫裏落慶、先住一七回忌の
           大法要を行った。

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     曹洞宗について
 禅宗五家七宗の一つ。
 日本へは鎌倉初期に道元によって伝えられ、以後臨済、黄蘖と
共に禅三派の一つとして大きな精力を持っている。道元は、一二
四四年に越前の国に永平寺を開き、四世蛍山紹瑾が能登に総持寺
を起こして以後、主として地方武士や庶民に支持され、全国に広
まった。
 曹洞宗では道元を高祖、螢山を太祖と称する。曹洞宗の特色は、
綿密さと厳格さにあるといわれ、座禅を主とし戒律を重んじて目
的と手段の一致を協調する。現在永平寺と総持寺を大本山とし、
全国に末寺約一万五千を数え禅三派の中で最大である。

天理教湧光分教会  最初の天理教教会は、繁藤大教会(紋別分教会)に属し、明治三
十四年、富井建設の作業場裏の土管置き場に片岡順三郎が開設した
が、その後浜市街の現吉田床屋の裏に移転し今はない。
 これとは全く別系統の深川大教会に属する湧別分教会は、中山ズエ
が天理教布教師として、昭和十六年布教所を四号線基線十八番地
に開設し、四号線在住の鎌田ハルヨと共に布教に従事した。
 中山ズエは、山形県に生まれ両親と共に来道したが、病弱なために、
結婚したが離婚し一時は自殺を考えたが、天理教の会長に出会い懇々
と教祖の教えと共に、命の尊さを諭されて反省し、天理教教会に住み
込み、修業を重ねた。
 そして野付牛(現北見市)で布教に従事していたが、十勝和裁女学校
の同級生であった片岡ハナ子を頼って、湧別に来村したのが昭和十二
年である。
 そして片岡家に住み込み布教を続けるうちに、前述の昭和十六年四
号線の基線十八番地に土地を求めて布教所を開設し、鎌田と共に布
教に従事したのが湧光分教会の始まりである。
 片岡次雄(ハナの夫)は、浜市街の現緑町で魚の仲買人や魚屋を開
業し、次雄の実母とハナは豆腐屋を営んだ。
 昭和十七年に片岡次雄は、警防団員として機雷爆発事故で亡くなり、
ハナ子は実母の感化もあり天理教に入信し、七人の子育てを終えると
教会に住み込み、布教活動を行った。
 会長の中山ズエは、昭和六十二年十一月十六日に八十二歳で亡く
なり、後任の会長には、片岡ハナ子が二代目会長として平成元年に
就任した。毎月七日は月次祭を行い信者のお参りがあるが、多い時
は三十数名からのお参りがあったが、最近は信者も高齢化し遠方の
人もいるため半数ほどのお祭りという。
 昭和四十年二位教会神殿を建築したが、老巧化してきたために平成
六年春新築した。新築した教会は、一部二階建ての一六五平方メー
トル(五○坪)の神殿と教職舎を兼ねた立派な建物である。

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     天理教について
 幕末に起こった諸宗教教団のうち最大のもの。
 一七九八年奈良県に生まれ、地主中山家の主婦であったみきは、
天保の大飢饉となった天保九年十月二十六日の四十歳のときに神
のお告げを受け翌年より布教を始めた。
 しかしながら人間主義の教えと、当時の男尊女卑の中で女性の
教祖による布教は弾圧を受けながら一九○八年に教派神道の一つ
として独立した。
 教義は神道、仏教、心学などの影響を受けながら「天理王の命」
(現神とも言う)の信仰に集中する信仰と、この地上に幸福な世
界が実現するという独自の終末観に集約できる。
 人間の「ほこり(埃)を除いた「陽気ぐらし」を勧め、教祖の書いた
「みかぐらのうた」と「おふでさき」を主な聖典としている。

真言宗湧別教会     (弘法大師堂)
 山形県から湧別町信部内に移住し、夫吉右ェ門と共に農業を営ん
でいた鈴木キヨが、明治三十九年三月に単身で現在地の四号線に移
住して、大師堂を建てて「教真院」といったのに始まる。
 昭和十七年に真言宗湧別教会と名を改め、キヨの引退後七男の武
雄が主管者となり、同三十四年には堂宇の改築が行われた。
 昭和五十二年一月、武雄の死去により妻のサダノ(定照)が継承
したが、サダノも平成二年五月一日死去。後継者もなく閉鎖しよう
としたが、信者の強い要望で祈祷師が不在のまま存続することにな
り、キヨの末子の幸雄の娘である松尾弘子が近くにいるためお堂
のお守りをしながら毎月二十一日のお大師さんの日にお参りする信
者の世話をしている。
 キヨは信仰する弘法大師の御利益を多くの人に授け、火傷、怪我、
病気の治癒祈願を行い喜ばれた。
 「火傷をした人がお呪いを受けて傷の跡もなく直ったのを見て驚いた」
と松尾弘子はいう。
 そしてその恩を感じた人が信者となりその話を聞いた子供も信者とな
って親子二代にわたりお参りする人も多いという。
 今は信者の人でお参りする人も年寄りが多くなり、段々と少なく
なっているがそれでも毎月の二十一日には三十人ほどの人が朝九時
頃から集まり、お経を唱え御詠歌を歌い、昼の食事をしておしゃべ
りで時間を過ごし夕方帰っていく。
 お参りに来る人たちは、地元の人のほか遠軽、中湧別、紋別、上
川など元は札幌から来ていた人もあった。
 十五〜六年ほど前までは、もっと大勢の人がお参りに来たし、遠
くの人は前の日から来てお堂に泊まっていったという。
 鈴木家ではそのために、大きな樽に自家製の味噌を作っていたと
いう。

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   真言宗について
 大日如来を教主とする密教信奉の仏教の宗派。
 空海(弘法大師)により宗派として確立した。
 高野山金剛峯寺、教徒東寺を道場とした。
 密教は呪文を媒介として内奥の心理との神秘的同一を強調する
ところから、合一のための種々の方法、儀礼が考案、伝承された。
空海は、真言密教の奥義を明らかにすると共に、それを根幹とし
てぼっきょうの総合体系化を試み、仏教思想としては、最高のものを樹
立した。空海はまた文芸書、教育にも多くの業績を残し、書は嵯峨天
皇などと共に三筆と云われた。

キリスト教湧別聖公会講義所  明治三十四年に三号線の、現スノー食品工場の入口に開設され、
山中奈良吉牧師が伝道活動を行った。
 師のことについて「遠軽日本キリスト教会五十年史」は次のよう
に伝えている。
 「下湧別に根拠を置く、聖公会の教職山中奈良吉師の伝導は、至極
熱心なもので、教派を越えて近隣の村落を勤勉誠実に巡回、伝道に
努めた彼が大衆啓蒙のために配布する救世軍の機関紙「ときのこえ」
の感化を受けてついに救世軍遠軽小隊が後に生まれたほどであった」
 山中牧師は、明治四十一年まで本町に在勤、その後を元城佐吉郎、
今井四郎太が継承したのが、昭和四年に今井牧師が転出して閉鎖さ
れた。
 信者の仙頭クスキは
「私は、山中牧師さんの洗礼を受けたが、その頃一○人位の信者が
日曜に来ていた。
 学田(遠軽)からもよく見えていたが、今井さんが行かれて教堂がなく
なり、今では聖公会の方はだれもいない。」と語っていた。

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第八章
小学校、中学校と定時制高校


湧別小学校  湧別小学校は、明治三十年六月に「湧別尋常小学校」(当初四年
制)として認可になった。
 「明治三十年六月一日、湧別村戸長の下に設立せられるや、同六月
二日をもって高島郡稲穂高等小学校訓導松永嘉一氏任命。同月十
四日着任。同十六日より校舎なきため浄土真宗大谷派説教場(現真
宗寺)を教場として教授を開始す。九月六日基線一八番地(四号線)
に有地護一氏所有の民屋を借り校舎として授業す。児童一年一八名」
(湧別小学校沿革史より)
 だがそれ以前の明治二十八年に、
「四号線で西本願寺の僧侶鑓水冬堅氏私塾を開き児童一二名を集め
教授せり」
 という記述が町史にあり、これは紋別の光源寺(西本願寺派)が明治
二十七年に、四号線に説教所を開設しているからこの住職が教えた
のではないかと思われる。

 小学校の統合
 湧別小学校は創立以来栄町の現体育館の場所に有ったが、昭和四
十六年教育委員会は、小学校の統合基本方針を決定し、以来関係住
民との教義が続けられた。
 統合の理由は、中学校とほぼ同じ理由であったが、信部内や登栄床
では、地域から学校がなくなるとして反対運動も起こった。
 
 その断腸の思いを信部内の閉校記念誌は、
 「筆舌に尽くせぬ哀愁の葛藤、それは地区住民と学校の強い絆であ
った。大正三年に特別教授所が開かれて幾星霜、時には戦場に教え
子を送った教師の涙が、また炎天下を叫び回った子ども達の声が・・・
同窓生は勿論のこと地区住民の断ちがたい万感を込めつつ、静かに
六○年の歴史を閉じたのである」

 とその思いを綴っている。
 錦町の子供たちや父兄は、こうした廃校という経験はせずに来た
わけであるが、現在の小学校の歩みの中に、こうした歴史の有る事
を知っておくことも意味の無いことではないと思う。

 新校舎の建設
 昭和四十六年十二月、統合の新校舎の建設地として、錦町の中学
校の隣地が決定した。
 昭和四十八年三月、新校舎の第一期工事が完成し、四月新校舎へ
統合校の児童も含めて移転した。そして五月一日に開校式が行われ
た。
 同六月、第二期工事も落成し、十一月に屋内体育館が落成した。
新校舎は、四、○六八平方b、体育館七八八平方b、工事費三億四
千一三二万円。特色は暖房を電気暖房にしたことであった。
 グランドは陸上自衛隊第二師団により整地が行われた。
 そして新築落成式典は、十二月十七日に行われた。統合後の児童数
は、一年生五四名、二年生七○名、三年生七三名、四年生七六名、五
年生一○三名、六年生八四名の合計四六○名であった。
 そして中学校とともにスクールバスが走り始めたのである。
 昭和四十九年八月 屋外便所完成
    〃   〃    野球用バックネット完成
    〃     十月 屋外遊具施設の設置(ブランコほか一一種類)
      五十年五月 気象観測器設置
    〃     八月 遊具施設設置(登はん棒ほか四種類)
    五十五年一月 スケートリンク完成
      六十年一月 北方圏サケ学習交流校に指定(カナダのセチ
               ュルト小学校)
    六十一年八月 視聴覚室全面改修
 平成   三年六月 二ヶ年計画で全面改修着工(改修内容は、外
              壁全面塗り替え、暖房器取り替えほか)
平成六年四月の児童数は次の通りである。
一年生五三名、二年生六二名、三年生四一名、四年生六九名
五年生五六名、六年生五一名
 このうち錦町の児童数は、男二六名、女二一名の四七名である。

統合後の校長
 昭和四十七年四月 西山日出男
 昭和四十九年四月 小笠原武男
 昭和五十二年四月 岩崎 弥
 昭和五十六年四月 宮沢 亮
 昭和  六十年四月 臼田哲男
 平成   元年四月 梅木允夫
 平成   四年四月 井口観芳
 平成   六年四月 三樹武夫

湧別中学校  中学校の紀元は、次の通りである。
一、明治十九年に小学校令で、普通初等教育の年限を八ヶ年とし、
 前半の四ヶ年を尋常科として義務に、後半の四ヶ年は高等科とし
 て設置。就学は任意とされ、北海道は開拓途上と云うことで二ヶ
 年から四ヶ年で良いとする弾力性をもたせた。
二、これにより湧別町では、
 明治三十一年十二月 北湧尋常高等小学校=四年制
  〃 三十八年  七月 湧別尋常高等小学校=二年制
三、その後明治四十一年の義務教育六ヶ年の施行により、高等科の
 修養年限は二ヶ年とされ、三年制も認められたが本町では設置
 はなかった。
四、大正十四年、上芭露尋常小学校に高等科が設置されるまで、村
 内で高等科は湧別尋常小学校のみであり、遠隔地に住む向学心の
 あるものは湧別市街に下宿したという。
 その後、昭和四年に芭露と計呂地にも高等科が設置された。
五、昭和寿六年、太平洋戦争の開戦と共に戦時教育として、「国民
 学校令」が公布され、高等科も昭和十九年から義務教育となった。
 しかしこれはその後の戦局の悪化で立ち消えた。
六、昭和二十二年三月新憲法の施行を受けて「教育基本法」が制定
 され、合わせて「学校教育法」も施行された。
  この中で六・三・三制の新学制となり、小学六年、中学三年
 高等学校三年、大学四年となった。そして男女共学、高等学校に
 おける定時制、通信教育課程が設置された。

新制中学校の発足
 新学制により中学校も義務教育となり、新制中学校出発を
する事になったが、独立した校舎を建てるには、当時の乏しい町
の財政事情では容易ではなく、また教員の確保も大きな課題であった。
 湧熱中学校では、昭和二十二年四月十日に「仮入学式」を行ったが、
開校には至らなかった。
 村議会が中学校設置の条例を議決したのがその年の六月二十七日
という事からも当時の混乱ぶりが伺われる。
 生徒数は、
一年生一一○名、二年生七五名、三年生二九名の五学級編成で、
独立校舎が未だ出来ていなかったために小学校の高等科の五教室を
借りて四月十一日より授業を行った。そして開校は、六月一日であった。
初代校長は、湧別国民学校長であった村上重吉で、教員は湧別小学
校より四名、下湧別青年学校より三名
 ほか一名に授業を嘱託してスタートした。
 昭和二十三年になると生徒数が三一八名に増加、二部授業を行
わなくてはならなくなり、障害が出始めた。
 このため父兄の間からも、学校建設の気運が急速に高まり、二十
三年に学校建築促進委員会が結成された。校舎敷地の提供(一町八
反歩 安立信男)、「愛村教育債ということで、資金を村に貸し
付けたり、篤志寄付(五千円 南川保一、四千円 湧別青年同志会)
などの全面協力により、その年の九月に現在地の錦町に新校舎の建
設が始まった。
 しかし建設地が、四号線に決まるまでには、市街地区の反対があ
り、安立の土地提供があってはじめて四号線に決まったと言われて
いる。

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 当時の中学生はどんな遊びをしていたかというと、男子は、随
分野球をしていました。野球しかなかったように覚えています。
熱心な指導者もいて教え方も上手でした。
 第一回遠軽地区少年野球大会に、湧別中学校チームが優勝しま
した。
 その時私は、キャプテンで一塁手でしたが、網走管内大会では
留辺蘂中学校に敗れたのを覚えています。女子は、ドッチボール
やバレーを良くしていました。
     黒木保雄町助役の話 湧中第一回卒業生
        (湧中共育のまどより)
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第一次校舎の建設
 新校舎は、昭和二十四年三月に完成し、三月二十八日落成式を行
った。校舎は、木造の平屋建てで面積は、三二七坪、工事費は二八
五万円であった。
二十五年  九月 屋内運動場新築一二六坪
二十七年十二月 普通教室一増築一九・二五坪
と逐次整備が図られてきたが、資材の乏しい時代に作った校舎は風
の強いときには倒壊の危険もはらみ、又冬季間は隙間より入る風が
冷たく、授業にも師匠が出るようになり、道教委よりも危険校舎とし
て指定された。

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 中学校の校舎が出来たのは、昭和二十四年三月です。
 木造校舎で板を打ちつけただけのものでした。
 当時はバラック建築と呼んでいましたが、風が吹くと大変でした。
 西風が強いと校舎が飛ばされそうになるので支え棒をしたり、
ワイヤーロープで校舎が倒れそうになるのを防いだものでした。
特に冬は雪が入り、寒く、大変でした。
 物も不足で履物も十分でなく裸足の学校生活でしたので足を釘
に引っかけて怪我をすることも良くありました。
     矢崎町教育長の話 湧中第三回卒業生
         湧中共育のまどより
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 このために、昭和十四年に全面改築が決定し、同年九月二ヶ年計
画で着工した。

第二次校舎建設と統合
  昭和三十五年十月新校舎完成
  鉄骨作り二階建て六六一・二五坪
  工事費三千二六万円
  十月二十日落成式
 一方中学校では、校舎の私設、教材教具、体育施設の充実が求め
られ、小学校一二校、中学校九校を抱え持つ湧別町としては、町財
政のからみとして折からの過疎化の波の中で、生徒数の激減ということ
から昭和三十二年に「教育施設整備五ヶ年計画」により、中学校を
町内二校に統合する案が三十三年決定。これにもとずいて新校舎は
これら統合校の生徒も収容できる規模で建設されたのである。
 昭和三十七年 信部内中学校が統合、昭和四十年登栄床中学校が
           統合し、湧別中学校の統合計画は達成された。
 昭和四十一年十一月 特別教室の増築(音楽、理科、家庭科、技
                術科二二一・五坪)
 昭和四十二年 バレーボールコート・テニスコート完成
 昭和四十五年十一月 体育館落成
 昭和四十五年十一月 開校二十五周年記念式典開催
 昭和五十一年四月 特殊学級一学級を開設
 昭和五十二年九月 言語演習教室、視聴覚教室新設
 昭和五十三年八月 屋外便所新設
 昭和五十七年九月 技術科木工工作台新設
 しかし鉄骨校舎も建築後二十八年を経過して、内外の壁に亀裂が生
じ、防火扉の開閉不能、冬の隙間風による室内温度の低下等から
再び危険校舎として指定され全面改築されることになり、二ヶ
年計画で昭和六十二年着工した。

第三次校舎建設
 昭和六十二年  八月 校舎の解体工事が始まる
 昭和六十三年  七月 校舎の一期工事が終わり移転
 昭和六十三年十二月 二期工事も完了
 昭和六十三年十二月 十日落成式挙行
 新校舎は、鉄筋コンクリート造り二階建て 三・二五八平方b 総
事業費五億八千六八五万円
 屋内運動場(クラブハウス並行)鉄骨、鉄筋造り平屋建て一、一二
六・二○平方b 二億六○六万円
 グランド並びに外溝工事事業費一億四千六二○万円
 グランド=三○○bトラック、ダックアウト二、器具機材庫、ス
        コァーボード、バックネット、テニスコート(全天候型)
 外溝工事=駐車場、自転車置き場、花壇、フェンス、インターブ
         ロッキング舗装
 完成した新しい学校は、各種の設備も完備しており生徒も伸び伸
びと勉学やスポーツに興じている。
 平成五年度の生徒数は次の通り。
一年生四四名、二年生五四名、三年生六一名、合計一五九名
 教職員は一五名

歴代の校長
 昭和二十二年四月 村上重吉
 昭和二十四年七月 新妻松雄
 昭和三十二年四月 元村琢磨
 昭和三十八年四月 高瀬隆資
 昭和四十六年四月 石崎瑛一
 昭和  五十年四月 佐久間清
 昭和五十四年四月 岩間寅彦
 昭和五十八年四月 高橋一郎
 昭和六十二年四月 近藤道弥
 平成   二年四月 堤 利明
 平成   四年四月 小川輝道
 平成   六年四月 山下敬二

定時制高等学校  戦後国民生活もようやく落ち着きを取り戻しかけた昭和二十五年
頃から、高等学校への進学希望者が増えたが、当時は遠軽にしか高
校はなく、通学に不便であった。特に勤労青少年に対する教育の重
要性も叫ばれていたこともあり、昭和二十六年十二月に上湧別高等
学校(定時制)の分校として、定時制高等学校を設置することが決
定し、翌二十七年より湧別中学校に開設して授業が始まった。
 上湧別高等学校は、既に昭和二十三年十一月に遠軽高等学校上湧
別分校として上湧別中学校に開設され、昭和二十六年三月に村立上
湧別高等学校として創設されていた。そして二十六年七月には、中
湧別中学校に併置となり上湧別に分教場を設けた。
 開設時の湧別分校の定時制の生徒は、四○数名であった。
 そして二十七年十一月に独立して湧別高等学校となった。校長は
中村良平上湧別高校長が兼任した。
 昭和二十八年四月に湧別、上湧別両町による組合立の湧別高等学
校が設置されたため、校名を下湧別高等学校に変更、昭和三十一年
三月組合立の湧別高等学校定時制課程に吸収されて廃校となった。
 この年第一回の卒業生一四名を出した。

回 想 
  「下湧別高等学校」
       黒 木 保 雄

この度錦町開基記念誌に、下湧別高等学校の事について一筆を
と依頼があった。これは、四十年も前の事であり、私の頭から忘れ
かけていた事でしたが、第一回卒業生であったのは事実なので、
当時をの記憶の糸をたぐる為に、アルバムの中から卒業記念写真
を見て当時を思い浮かべてみた。
 まず下湧別高等学校の経過をひもといてみると、当時戦後の混乱
期も落ち着きを見せ、昭和二十五年の朝鮮動乱を景気とする日本
経済の急速な立ち直り、住民生活も明るさとともに安定し始め、教育
への関心も高まって高校進学希望者も逐次増えてきた事等、当時の
社会情勢の変化もあって、勤労青少年を対象とする普通高等教育を
実施するため村や議会、教育関係機関の理解と取り計らいで、昭和
二十七年四月湧別中学校校舎に併設して、定時制課程高等学校
(四年制)が開設されたのであります。
 当時私は、下湧別村役場に勤めるようになって三年を過ぎていま
した。
 私たちのような勤労青少年を対象として、定時制高校が地元に開設
されることになり、青春の希望遙かに職場の同僚四人とともに向学心
にもえて、胸を弾ませて入学させて頂いたのであります。
 思い起こせば、残雪まだ深い昭和二十七年四月の初めに開校式
並びに入学式、定時制北海道上湧別高等学校湧別分校の産声を上
げ、勉学意欲に燃える勤労青少年四○名の入学であったと記憶して
いる。
 生徒諸君は、昼間はそれぞれの職場に勤める傍ら、商店の店員や
自家業に従事しながら労働の疲れを押して、夜間に通学し、眠い目を
こすりながらともに学習に励んだことであります。
 中には、途中で雇い主の不理解や家庭の事情、あるいは健康など
の理由で退学するものもあったが、生徒が共にその苦しみを励まし
合い助け合い協力しながら通学した事でありました。
 通学するに辺り、当時は砂利道を夏期は自転車で、雨風の強い
時や冬季間は歩き、寒風、吹雪の時はその辛さが身に沁みて感じ
たことでありあmす。
 ご承知の通り当時の校舎は、戦後物資の窮屈な時代の建築のた
め、バラック校舎で隙間風が入り、時には雪が吹き込んだ。
 石炭ストーブを真っ赤に焚いても暖まらず、オーバーを羽織って
学習するようなこともしばしばであった。
 こんなに辛く厳しい中にも、ホームルームや部活動を通じて
学友と気をほぐし、又士気を高め楽しい学校生活を送ったもので、
中でも遠軽地区定時制高等学校体育大会においては、野球の部、
柔道の部で優勝するなどその成果を共に喜び、意欲の向上に繋が
ったことで懐かしく思い出されます。
 今往時を懐かしく偲び、当時の貴重な体験がこれまでの人生に
異議有る結果をもたらしてくれたものと確信しており、労苦と感
激を共にした学友達が、現在夫々の立場で社会に貢献し活躍され
ていることを同慶に思うと共に、尊い教導を賜り、大変お世話に
なった恩師諸先生方に、感謝申し上げまして回想の一端といたし
ます。
  (下湧別高等学校の諸先生方のお名前を紹介させて頂きます)
校長=中村良平(上湧別高校長 開校から三十一・四まで)
     平野  貞(湧別高校長 三十一・四〜三十一・八まで)
教諭=大塚尊造、本田 武、坂上雅亮、川村尚道、小木国夫
講師=柿崎隆夫、堀江精一、岡本保久、片岡一郎、新妻松雄
     遠藤清松、中島和男、本間悦子、尾張吉男、高橋春作
     西村美代子、中川富司、酒井美和、畠山和幸、田口利弘
     藤本昭次、北川年枝、竹内秀夫、佐藤忠昭、斉藤亮一
     西 善弥

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九章
交通と道路

いまや道路網の整備は著しい。碁盤の目のように走り、そして舗装されている。
穴ボコだらけの雨が降ると水溜まりの出来る道路は、もう何処にもない。
その道路を大型、小型の車が行き交う。昔を偲ぶ跡形も今はない。


開拓時代の道路  踏み分け道
 先住民族であるアイヌの人々は、狩猟をもって営みとしていたか
ら獲物を求めて移動することが多かった。
 本拠地であるコタンの他に奥地に仮住まいを持ってこれを狩猟基地
とし、コタンとの往復には、熊や鹿、狐などが踏み固めた「けもの道」
を通っていた。
 和人はこれを「踏み分け道」と言い、奥地に入植する人たちはこ
の道を通って入地した。
 そしてこの「踏み分け道」は川に沿って通っていた。
 和人がまだ入植しないころの交通は、湧別地方では船が主であっ
たようで、古文書にもそうした記述が多い。寛政十年(1798)
に瀑布の蝦夷地調査隊に同行した、絵師谷口青山の「ユウベツ絵図」
も海から見た湧別の模様が描かれている。
 陸路にあっては、乗り物や荷物運搬の主役となったのは馬であった
が、まだ道らしきものの無い頃では、馬による通行も困難を極めたよ
うでぬかるみ、険しい山坂に転倒することもしばしばあったと古文書は
伝えている。
 また湧別川では船(丸太船)や筏も使われており、「アイヌの丸太舟
が川岸に繋がっていたのを子供の頃の記憶として残っている」と八田
亀義は語っており、「ユウベツ川幅三○間程、舟渡しを過ぎて・・・」と
安政四年(1865)の成田修の書いた「東檄私筆」にあるように橋の無
い頃は専ら舟で行き来をしていた。

 刈り分け道
 その後、明治の初期になって官吏が巡回のとき、土人を使って「笹
を刈り、雑木や雑草を取り払い、地形に合わせて曲がりくねった道
路を作り、小さな川には丸太橋を架けて・・・」という刈り分け道が
できた。

 「基線道路」
 明治十九年に北海道庁が置かれ、開発計画が進められて、主要な
各地に道路が開削され始めた。湧別地方でも明治二十五年に中央道
路(網走・北見峠間)の野上(遠軽)から分かれて、湧別原野の中央
を浜湧別に至る「基線道路」六里二○町が開削された。
 この道路は後に「湧別街道」とも称された。この道路の開削には
囚人が使役された。

 「仮定県道」
 当時は、中央道路と基線道路を国道、県道としその道路の枝とな
る幹線道路を仮定県道とし、稚内から根室までの北海岸道路とし
て、紋別・四号線間六里一七町五四間が明治三十一年に竣功した。
 しかし仮定県道といっても、踏み分け道に毛の生えたようなもの
で、砂利が敷かれているわけでなく、
「道の形にはなっていたが、容易に固まらず、両側の木を倒しこん
で漸く人馬の通行を可能にする有様」(土井重喜談)であった。

 「殖民道路」
 また国は、開拓期の北海道の道路開発のため、国費で「殖民道路」
の開削を勧め、明治三十年に西四線四号から東一○線の佐呂間湖畔
までの一里三二町五七間の「湧別原野道路」を開削した。
 しかしこの「湧別原野道路」もご多分に漏れず、道路事情は次の
通りであった。
 「道路とは名ばかりで、至る所穴だらけの、また排水も悪く歩くだ
けの道で。車馬の通行には非常に苦労した。特に東四線から東一○
線の佐呂間湖畔までは、泥炭地の湿地帯が多く、車馬は何度も荷を
積み替えなければならなかった。部落住民の暇な時期に、共同作業
で、立ち木を切り出し割木にして道路に敷き詰めて通行した」
(湧
別町百年史)
 と記されている。

 湧別橋
 湧別川は明治の頃、今のように堤防に囲まれていたわけでなく、
自然の流れで低地を通り蛇行して、川筋も分かれていた。
 したがって川幅の狭いところに簡易な橋を架けていたが、馬が荷
物を背負って渡れる橋ではなかったようである。
 明治十二年にこの地を通行した酒井忠郁の「北地履行記」にはそ
の模様を
「湧別川ニ流ニ分カレ海ニ注グ、一ハ十間程ノ板橋アレドモ馬通ズ
ルヲ得ズ」
と記している。
 そして明治三十二年に湧別橋が出来たがそれまでは、官営により
渡し場が開設され、渡船が行われていた。渡船賃は、人が一銭二厘、
馬が二銭であった。
 しかし作られた湧別橋は木橋であったため、大水が出る度に流失
し、明治四十四年、大正十年、昭和十四年にも流失をしている。

 道路の補修
 道路とは名ばかりの道であるから補修を行わなければならないが、
開拓期で財政的に余裕の無い村や道庁がやらないためにこの作業
は殆どその地域の住民の共同作業によって行われた。
 そして明治二十七年に国は行政上の借置として「道路掃除受け持ち
区域」なりものを設け、区域標識を立てて地域住民に区域を割り当て
道路の補修の責任を持たせた。
 以来、「道直し」は地域の共同事業として年中行事となり、七月下旬
に一斉に出役して路面の補修、草刈り、側溝の浚渫を行った。
 しかしその内、交通量の増大から、到底「道直し」の負担では追いつ
かなくなって来た。
 この電灯は、昭和になっても受け継がれ、各地に「道路愛護組合」
ができ、行政の足りない部分を負担させられた。
 八田亀義が子供の頃というから昭和の始め頃
「土井重喜さんの家の辺りから国井さん、田中さんの辺りまで雪解
けの頃になると水が詰まって、水の流れが悪くなるのか水が道路に
まで浸かった。それで裸足になって学校へ通った」

と言うし、加藤秀夫も
「私の一年生の時もそうだった。また道路の側を川が流れていてそ
の水がきれいであった。学校の行き帰りにその川で足を洗った。勿
論長靴などは無く下駄だった」

と言う道路事情であった。

開拓時代の交通は
  馬車、馬橇
 開拓初期の交通手段は専ら徒歩と馬であった。その馬も駄馬と言
われる馬の背に、荷物を載せて運んだのである。道がないのだから
荷車などは使えなかった。
 その後馬を使った運搬用具として農民が、手作りで直径六○a位
の堅い木を輪切りにしてこれを車輪とし、心棒にイタヤの木を使って
ドンコロ馬車として使ったが、後に心棒や車輪に鉄を使うようになっ
た。
 また土橇を作って使う農家もあった。この土橇は馬車の代わりとし
て戦後も馬を飼育している農家では使っていた。
 馬車がこの地方に導入され始めたのは、明治三十年代のようであ
るが、この頃に冬の交通手段として馬橇が普及し始めたのである。
 明治三十六〜七年頃五号線で太田某が馬橇の製造を始めたが、
三十八年に転出したため佐藤弥助が後を継いだ。
 また川西に入植した窪内長太郎は、四十五年に四号線で馬橇
製作所を作り営業を始めた。
 窪内馬橇製作所は大正三年に弟源吉が継いだが、全盛の大正時
代は
「今日も百円札が降ってきた。今日も百円札が降ってきたと毎日喜
びあったものだ」
(源吉夫人談)
 しかし時代とともに需要も減り昭和十二年に廃業した。
 一方馬車のほうは大正九年に、石原与七が五号線で馬車製造を目
的として鉄工場を開業したが、翌十年名寄線の全通を機会に中湧別
へ工場を移転してしまった。
 馬車などの修理を目的とした鉄工場は、昭和二十年に精米所を経営
していた三号線の高木義宗が開業し以来四十年近く営業をしていた。

 自転車
 自転車が湧別に入ってきたのは、明治三十六年に浜の楠瀬彦次郎
が小樽から中古の自転車を買ってきたのが最初で、故障すると小樽
まで、その都度送らなくてはならなかった。というから大変だった。
 大正三年には村内に自転車は一三台と少なく普及は遅かったようで
ある。
 したがって、自転車は希少価値があったらしく、大正二年九月二十四
日に第一回自転車競技大会が開かれて大勢の慣習が詰めかけた。

 馬車追い
 馬を浸かった運送屋というような「馬車追いさん」が明治の末頃に
現れ、収益を上げていた者もいたという。
 赤繁助太郎、田島為四郎、安立勇七、本間梅吉、佐野好次郎、小
松文太郎、伊豆田忠七、中島利信、飯野仙太郎の九名が明治四十年
の地方税営業税の第一種運送業者として記録されている。
 この地方は馬産地としても栄えたため、家畜商や馬を使った運送業
を営む人も多く、湧別川の築堤工事がはじまった昭和九年頃には、多
くの馬車追いさんが活躍し、西村組の創立者の西村幸太郎も馬車追い
の親方として四号線に定住した。
 その後トラックやトラクター、ブルドーザーなどの普及により馬車追い
の仕事もなくなったが、四号線で最盛期に活躍した馬車追いさんは
次の方々である。
 内匠清次、仙頭修、安藤三平、安藤秋男、佐野徳之助、
 原田秀雄、吉田国彦といった人たちで砂利や木材を保道車というゴ
ム輪の馬車で運び、冬は造材現場で原木の搬出を行った。
 昭和十六年に当時の馬車組合の人たちが、大事な馬の霊を弔うた
け法明寺の境内を借りて馬頭観世音菩薩の石碑を建て、この碑の前
で毎年七月十五日に盛大なお祭りが開かれたのである。

 鉄 道
 鉄道については第三章の「痛恨の停車場問題」を参照されたい。

 バ ス
 バスが乗合自動車という名で四号線の道路を走り始めたのは、大
正十一年で、下湧別・上湧別間を小型フォードの六人乗りの車一台
で、伊藤幸二が最初である。
 下湧別〜上湧別間一人片道四○銭で1日五〜六回運行したがその
後経営者は再三変わった。
 その後湧別市街の武藤富平などが「湧別乗合自動車株式会社」を
設立し、バスの運行を続けたが、昭和九年に石田福弥などが「湧別
乗合自動車合資会社」を設立して、路線の権利を譲り受けて営業を
続けた。
 同社は、
 昭和九年  八月 下湧別・上湧別間 1日六往復
 昭和九年十一月 下湧別・上芭露間夏のみ1日三往復
 昭和十年      計呂地一三号まで延長
 昭和十一年    下湧別・登栄床と営業を拡大した。
 当時の車輌はシボレーとフォードの五〜六人乗りの車二台で運行し
、下湧別・中湧別間は一人一○銭であった。
 このバス会社も太平洋戦争の昭和十九年には遂に燃料不足から
湧別町内の運行は打ち切られた。
 この頃、ガソリンの代わりに木炭や薪を焚いてガスを発生させて走る
バスが出現したのである。
 そして、戦後昭和二十一年に北見バス(株)が営業を再開し、二十四
年から湧別・遠軽間1日三往復の運行を始めた。
 以後湧別遠軽線は利用客が多く、北見バスのドル箱とまで言われ、
三十年代後半からは三○分毎の運行となり、1日二五往復まで増便さ
れたが、四十年代になってから自家用車の普及と共に利用客も次第
に減少している。しかし名寄線の廃止による代替え運行や、紋別・北見
間急行バスの運行などで、平成六年四月、現在四号線を通過する便
数は往復三五便に達している。だが四号線を通過するバスの中には乗
客の皆無の便もある。

道路整備が急速に進む  戦前北海道の道路は、他の府県を異なり開拓期の特殊事情から国
道、地方費道、準地方費道、市道、町村道に区分され、拓殖費を以て
支出できる特別の定めになっていた。昭和二十七年に道路法が全面
改定され、国道、都道府県道、市町村道に体系化された。
 昭和二十七年に二級国道二三八号線が指定された。
 また昭和二十九年三月に湧別市街・四号線間が道道の指定を受け
た。
 こうして幹線道路の整備は急速に進んだ。

 湧別大橋
 また湧別大橋も、昭和三十一年三月に永久橋として完成した。
 この湧別大橋は、明治の頃から木橋のため再三流失し、永久橋は
住民の永年の念願であったのでその必要性が認められ、昭和十七年
に四ヶ年計画で着工し、橋脚二基の基礎工事中に終戦となり、戦後の
経済混乱などで中止となってしまった。
 このため木橋として仮橋が作られていたが、これも再三流失し、また
車の増加から危険視され、永久橋建設の陳情が繰り返された挙げ句
、昭和二十八年九月に着工し完成した。
 完成した湧別大橋は、鋼ワーレントラスと鋼ゲルバーガーター型式
併用で、延長三八四b、幅員六bで一億三千三四○万円の工事で
あった。
 この湧別大橋は、現在管内では第五位の長大橋である。
 なお第二位には平成二年に完成した湧別一号橋の延長四二六bが
ある。

 道路舗装
 湧別町で最初の道路舗装は、昭和三十六年に湧別町港町の基線道
路の始まりから一、○二○bの舗装と駅前通りの一四二bで、その
後国道、道道の舗装が着々と進み、昭和五十年に国道二三八号線の
全線舗装が完成した。

錦町の道路整備  昭和五十年頃から錦町は、団地の造成もあり、高度成長時代で急
速に住宅の新築が行われ、それに伴って道路の整備も急ピッチで進
められた。
 この道路の整備は、農道などの国の補助事業によって、整備され
たものが多い。
 整備の状況を道路別に年次より記す。
@西一線道路(二号線〜四号線間)
 昭和四十六年 (西一線地区団体営農道整備事業)
  改良工事  延長一、○二○b 幅員五・五b
  事業費六三○万円
 昭和五十年(同事業)
  舗装工事 延長一、○二○b 幅員五・五b
  事業費七五○万円
 昭和五十七年(同事業)
  補修工事延長三五○b 幅員五・五b
  事業費五四○万円
 昭和五十八年(同事業)
  補修工事延長六七○b 幅員五・五b
  事業費一千八○万円
Aサロマ湖道路(国道より東一線までの四号線道路)
 昭和五十年 (東第二地区道営草地整備改良事業)
  改良工事延長(注、錦町の区域分)五四五b 幅員五・五b
  事業費一千九百七万五千円
 昭和五十一年 (同事業)
  舗装工事延長五四五b 幅員五・五b
  事業費一千三六二万円
 昭和六十二年 (東地区農道整備事業)
  延長五四五b 幅員五・五b
B東五号線道路 (国道より東一線までの五号線道路)
 昭和五十一年 (東第二地区道営草地整備改良事業)
  改良工事延長四四五b 幅員五・五b
  事業費一千五七○万円
 昭和五十二年 (同事業)
  改良工事延長一○○b 幅員五・五b
  事業費三五○万円
 昭和五十三年 (町単独事業)
  舗装工事延長四四五b 幅員五・五b
  事業費七三二万円
C美園道路 (国道より西一線までの三号線道路)
 昭和五十二年 (町単独事業)
  改良舗装工事延長五四五b 幅員五・五b
  事業費二千一一○万円
D錦西中通り道路 (東宅前より普及所横迄の道路)
 昭和五十三年 (町単独)
  新設事業延長五五○b 幅員四b
  事業費二百八万円
 昭和五十七年 (ミニ総パ事業)
  改良舗装工事 延長五四八b 幅員五b
  事業費五千四百四万円
E西二号線道路 (国道より西一線までの二号線道路)
 昭和五十四年 (ミニ総パ事業)
  改良舗装工事 延長五五七b 幅員五・五b
  事業費四千七七○万円
F西二号支線農道 (西一線より堤防までの二号線道路)
 昭和五十六年 (ミニ総パ事業)
  改良工事延長四八○万円 幅員四b
  事業費一千二二○万円
G西一線五号道路 (西一線の五号線と四号線までの道路)
 昭和五十五年 (ミニ総パ事業)
  改良工事 延長一、二○○b 幅員五・五b
  事業費三千九二五万円
 昭和六十年 (町単独事業)
  舗装工事 延長一二○b 幅員五・五b
  事業費三一八万円
 平成元年 (錦西一線地区農道整備事業)
  舗装工事 延長二八○b 幅員五・五b
  事業費一千四三二万円
 平成二年 (同事業)
  舗装工事 延長五二○b 幅員五・五b
  事業費二千九八七万円
 平成三年 (同事業)
  舗装工事 延長三○二b 幅員五・五b
H錦中央通り道路 (国道より錦研修センター手前までの道路と右に
              保育所までの道路)
 昭和五十八年 (町単独事業)
  改良舗装工事 延長三一○b 幅員五・五b
  事業費一千七八五万円
I東三号線道路 (国道より東一線までの三号線道路)
 昭和五十八年 (町単独事業)
  改良舗装工事 延長一九○b 
  事業費不明
Jしらかば団地道路 (しらかば団地内の道路)
 昭和五十九年 (町単独事業)
  改良舗装工事 延長五七○b 幅員五・五b
  事業費四千九六七万円
K湧中南側道路 (湧別中学校新築工事の外溝工事として竣工)
 昭和六十三年
  延長一九○b 幅員六b
  事業費一千九三○万円
L錦中央通り道路 (錦研修センターと加工センター前の道路)
 平成四年 (町単独事業)
  改良舗装工事 延長七一b 幅員六b
  事業費一千六四八万円
Mオホーツク・リラ街道 (旧名寄線跡地の錦町分)
 平成三年 (町単独事業)
  改良工事 延長三二四b 幅員七・五b
  事業費三千二四八万円
 平成四年 (町単独事業)
  改良と測量設計 延長五五八b 幅員七・五b
  事業費八千二五○万円
 平成五年 (町単独事業)
  改良と測量設計 延長五七七b 幅員七・五b
  事業費九千四一五万円
  舗装と測量設計 延長一、二八七b 幅員七・五b
  事業費六千八○万円
Nしらかば道路 (道道よりしらかば団地左側を通る道路
 平成五年 (町単独事業)
  改良舗装工事 延長一二五b 幅員四b
  事業費二千四九一万円

馬車、馬橇の頃の
 四号線盛衰記

 
   八 田 亀 義
 明治三十六年、中湧別より五号線に移った父母の談によると、取
りあえず馬(道産馬)と馬橇の必要に迫られ、佐藤から購入したと
いうが、明治末期四号線の繁栄の頃、五号線角(西北)に佐藤長五
郎が馬車、馬橇屋を開業。その北側に鋸店が親戚の者で開かれた
という。大正の半ば四号線が衰退の兆しの見え始めた頃、桜井兄弟
呉服店が廃業し、跡へ窪内源吉が移り大きな馬車橇製造所となった
(今の山口商店の南、前野宅の所)
 私の子供の頃(昭和の初期)、学校の帰りに佐藤長五郎の仕事場
から木の屑を貰って帰って遊んだ覚えがある。
 弟子を置いて繁盛していた。人が引く手橇やスキー等も造って販売
していた。馬車の方は昭和十五年頃までは、金輪が多く変わりは無
かったが、馬橇の方は大きな改良開発が目覚ましかった。山から薪
木や丸太材を運ぶのに、最初売り出された洋風の芝巻橇は安定が
悪く、幅を十a広げたが駄目で、山仕事専門の稼ぎ人の考案により
ヨツといって幅十四a、高さ十八aの楢の長さ三b位の角材を削り
橇状にして底の裏金も幅の広い六a程の物を付け、山仕事だけでな
く一般にも急速に普及した。
 これを最初に製作したのは元の小学校(今の体育館)の前で文房具
店を妻にやらせ、自分は船の艪や櫂、餅臼、杵、船巻用のカグラサン
など木を材料にした細工仕事をしていたのが管吉次郎という人で、腕
がよいので大繁盛となり、窪内や佐藤も負けじと製作した。
 ところが「必要は発明の母」というが、また山仕事の馬夫の注文で、
ヨツを真ん中から切って前と後ろに橇を離し、鎖で連結し前の橇に回
転枕を装備し、舵を切るとき軽く切れ、しかも長い丸太材等は驚くほど
多量に運べるようになった。これをバチバチといった。
 これは誰にでも簡単に造れるので、馬橇屋の仕事は馬車のみとな
った。昭和十年頃、三号線の高木義宗が父隆次郎の精米所を継ぎな
がら、このバチバチの裏金を、トラックのスプリングを使い安価で仕上
げた。またトラックの古タイヤを仕入れてきて、タイヤのついた馬車を
売り出し荷馬車界に革命の口火を点じた。
 窪内はその頃四号線を去り市街に転出し、また佐藤も同じ頃中湧別
に移転して開業したものの後継者が転業した。
 高木製作の馬車は保道車と呼ばれ道路の損傷が少なくなり、積載量
も多く、乗って振動も少ない所から急速に普及した。
 馬車製造は高木の専業となり、鉄工場も持って機械の修理などもし、
終戦前後の物資の乏しい頃、本州に出掛け購入してきて多くの人に
喜ばれた。
 また高木は、終戦後電灯の無かった五号線、二号線、西一線の道路
沿い家家に、北電の会社に交渉し、電工であった中村恭臓を動かし、
古電線を名古屋から自分で購入して来て点灯させ、ランプ生活の人を
驚喜させたのも大きな仕事である。また澱粉工場の機械等でも度々
お世話にになったことがある。
 現在長男の義一は(株)西村組を定年退職して、幸栄商事(株)の嘱託
として、車両の整備や機械の修理に頑張り、弟の定久は父親のような
性格を持ち、横浜で自動車の輸入販売の会社を経営している。
 思い起こせば、私の子供の頃は四号線が年毎に淋しくなった頃であ
る。
 それを食い止めようと努力していた人の姿が強く印象に残ってい
る。
 桜井兄弟呉服店が廃業した跡に入った窪内源吉が、間口の広い店
先を開放し、舞台として素人の芝居や浪花節(浪曲)、にわか(俄か狂
言)、民謡等部落の芸達者の人たちを集めて人々を喜ばせた。
 九月のお祭りか八月のお盆であったかは思い出せないが、窪内源
吉の女装姿に大きな拍手。また中川商店の店員であった、惣骨谷慶
一郎、高村梅松が好演し、特に前述の管吉次郎の浪花節には、一節
一節の切れ目に沸き立つような大きな掛け声と拍手が鳴り渡り、その
名調子に多くの観客が聞き惚れていたのを覚えている。素人離れして
いるとの定評があった。
 このような人々の努力も空しく、四号線が衰えていったのは、何と
いっても大正五年の停車場の争奪に負け、浜市街に持っていかれ
たのが運命の分かれ道となったと言える。
 四号線の盛衰のドラマ。
 私の小学校入学前後の思い出である。

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