錦町開基百年記念史 百年の星霜

昭和の小漁師
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          第5章      第6章 郷土のために尽くされた人々


第5章
こんな施設もあった四号線

かっては銭湯も遊郭もあったというが今となっては詳しい事は分からない。
知る人も少なく、記録も無いからである。その中から拾い上げたのがこれらである。

当時としては大工場の
  マッチ軸木工場
 北海道におけるマッチ軸木製造は、明治十四年頃札幌地方で始
まったといわれるが、北見地方では明治二十四年に網走で始まった。
 このようにマッチ軸木製造が盛んになったのは、軸木に適したハ
クヨウの木が多くあることで、輸出産業として国も大いに奨励した
ため各地に工場が出来た。
 明治三十七年四月。三号線の今の吉田設備工業付近に森製軸所
として、マッチの軸木製造の工場が出来た。
 森社長は名古屋の人で、全国でも何カ所かの工場を持つほか、汽
船も持っていてこの汽船で製品の輸送もしていた。
 敷地には工場のほか職工の長屋が立ち並び、木材の土場もあり広
い敷地で活気があった。
 従業員七五名を使い、蒸気機関を装備し芭露方面から原木を輸送
して操業していたが、明治三十九年に乾燥室から出火して消失、翌
四十年信部内河畔にあって休業していた信太製軸所の跡地を借りて
、二工場で操業していたが同四十三年には両工場とも休止した。
 当時としては従業員を七五名も使った工場というのは少なく、大
きな工場であったと思われ、今もその付近より煉瓦などが出ており、
畑にはその欠片が見られる。
 そしてこの工場で働いていた支配人の藤田松之助という人は、そ
の後村長を勤めた。しかし、村長は、明治四十三年から僅か八ヶ月で
退任した。

四号線郵便局  明治の末、浜市街と共に栄えていた四号線に明治四十三年六月、
無集配の四号線郵便局が設置された。今の山田商店の裏、東へ行く
道路側であった。初代局長は小池正人であった。
 同四十五年には電信も扱うようになり大いに利用されていたが、
鉄道ができ駅が浜市街に出来たことから四号線は衰退し業務が減っ
た為大正九年中湧別郵便局の開局と共に閉鎖された。
 そして時は巡り昭和三十八年、湧別農協が簡易郵便局の業務を受
託し、金融店舗の中に錦町簡易郵便局を開設して現在に至っている。

馬産振興に貢献した
     種馬所
 上湧別村は下湧別村より分村後、北兵村三区の農家が地力の減退
から営農に行き詰まり、馬産を取り入れた畜産農業を計画し、国有種
牡馬の種付け所の開設を運動した。大正二年網走と共に網走管内最
初の種付所が七号線に設置され、その後施設整備を機会に六号線に
移転、大正四年に馬政局十勝種馬牧場湧別種馬所として発足した。
 当初三頭であった派遣種馬も配合牡馬の増加により昭和十年以降は
八頭となり管内位置の頭数となった。
 優秀な種馬の配置と優良な牡馬も揃っていたことから湧別馬の名声
は高く、品氷解や網走管内の共進会が種馬所で開かれ、軍馬や種馬
候補として農林省や陸軍省さらに各府県や満州国にも買い上げられた。
 その日は道内外の家畜商が多数来村し大いに賑わった。
 今も家畜市場となった広場に「種馬 良勇号」の碑が立っているが、こ
の馬はアングロノルマン種で軍馬として買い上げられる優秀な馬を生
産し、出産率が高く、生産者に大きく寄与したため昭和八年に受益農家
の人たちがこの碑を建てたものである。
 種付け所の牧夫は十勝より毎年六月末まで二人が派遣され、昭和十
二年頃から獣医が人工授精を行い大いに実績をあげた。
 終戦後は、元牧夫の個人経営となり、種馬も一頭くらいで、農業
の機械化が進むと共に馬もいなくなり消滅した。
 そして土地は昭和二十四年北見地区農協連に払い下げられ、さら
に湧別、上湧別の両農協に払い下げられて湧別家畜市場として使わ
れながら、昭和四十五年に改築され現在に至っている。
 今は、年に一度ホルスタイン共進会やブラックアンドホワイトショー等
が開かれて酪農の振興に役立っている。
 そして今も市場の裏の林の中に「相場妙見神社」の石碑が立って
いる。石碑によると昭和四年七月馬主一同で建てたと彫られており、
きっとかっては毎年ここでお祭りが盛大に行われていたのだろうと
思われる。

優秀な苗木生産の
    湧別苗圃
 昭和五年には遠軽営林署の苗畑として五号線に設置された。
 この土地は、湧別原野の区画設定で、幅一八二bの防風保安林で
あったのを大正十一年に、その内七三bを防風保安林と道路敷地と
し、残りを苗畑の用地として変更され開設を見たのである。
 その後昭和十九年〜二十年に隣接の防風保安林を解除し、更に隣
接の民有地を買収して育苗地の拡張を図り現在の規模になった。
 この付近の奇行が大変苗木の生産に向いているところから、民間
業者による苗木生産が現在も盛んに行われている。
  主な経過は次の通りである。
昭和六年五月  瀬戸瀬苗畑よりトド松の幼苗を写して苗木育成  
〃  十五年 紀元二千六百年記念見本林造成
〃  十八年 第一回北海道苗圃共励会で優勝
〃 二十一年 気象観測装置設置
〃 二十五年 第一回北見営林局管内苗畑審査会で優勝
〃 二十七年 映画「トドマツ」制作
〃 二十八年 苗畑事業の功績により北海道新聞社文化賞を授賞   
〃 五十三年 昭和五十二年度北見営林局苗畑審査会で優秀賞
昭和五十五年頃の現況は、苗畑の面積二○・四六f 
            川西採種園 九・七三f
            苗木生産量 山ゆき苗木七○〜八○万本   
 平成四年現在では、造林の施業方法の改良もあり需要が減少して
耕作面積は、約十f、生産苗木もかっての半数で、従業員も一一名
となっている。
 今育てている苗木は、トドマツ、アカエゾマツを主体にエゾマツ
グイマツである。
 しかしながら営林局は、最近造林事業も最盛期を過ぎて苗木の需
要が減少しているとの認識から、歴史ある湧別苗畑を昭和委閉鎖
するであろうと平成六年一月の新聞報道は伝えている。残念なこと
である。

農家経済を潤した
    澱粉工場
 昭和八年前後の冷害で豆類は皆無の年が五年も続き、農家は困窮
のどん底に陥った。
 その時土井重喜の発想で馬鈴薯による澱粉製造を計画。昭和十二
年に下湧別澱粉製造組合として、現在の中川組の所在地に工場を設
置した。
 そしてこの事業に参加を呼びかけたところ、川西の一部を含む東、
尾萩、中央の農家七五戸が参加した。
 その後町制となって名称を湧別中央澱粉組合と改称した。
 この工場ができたため湧別地方では、馬鈴薯耕作が盛んになり、
原料を加工して付加価値を付けて売るということで、大いに農家経
済を潤した。
 組合長は、安藤庄七、押野栄治、伊藤金一が勤めたが、昭和三十
六年スノー食品工場が出来たことにより、競合を避けるためスノー
食品の要請によって、昭和四十二年解散をし、三十年の歴史に終止
符を打った。
 昭和三十六年の事業報告によると、原料芋の受入総数四六、三
一○俵(注、一俵は六○`したがって二、七七八d)製品出来高八、
五七○袋(二一四d)歩留まりは五俵四分となっている。つまり澱
粉四○`製造するのに原料芋は五俵四分、三二四`必要であったと
いうことである。
 操業期間は八月二十六日より十二月六日まで。運転期間は九月五
日より十一月二十六日までとなっている。

四号線と澱粉工場
   苦節三十年
 八 田 亀 義
 四号線部落百年の歴史の中で、三十年の歩みを残した湧別中央
澱粉組合の地域に残した功罪について述べてみたい。
 昭和六、七、九、十年と連続の冷害凶作に、農家の経済は困窮
の極に達し、現在では想像も及ばぬ悲劇さえ生まれた。
 その時大きな指導力を持ち、多くの人に信望の厚かった土井重
喜氏が東地区、尾萩、基線、西一線の農事組合長ほか農業関係者
に呼びかけ、冷害に強い馬鈴薯耕作を勧め、農民の手による加工
工場の建設を力説し、下湧別澱粉製造組合を結成した。
 昭和十二年現在の五号線中川組事務所の位置に工場を建設し、
その秋より操業をに入った。組合は組合員七五名で発足したが、
経済は豊になり、加入者も急増して川西の一部にも及んだ。
 しかしながら急激な事業量の増大による無理などもあり乾燥場の
失火焼失を二度も繰り返し、類焼の危機に四号線の人たちを恐怖の
底に陥れ二度目の時には住民の間で被害のあった時には補償する
という念書を求める話が出たほどだった。
 当時の家屋は、屋根は柾(薄い板)葺きで、壁は板張りが殆どなの
で、乾燥場の火の粉は、澱粉の燃える爆発的な勢いで遠くまで飛ぶ
のでほんとうに恐ろしかった。
 運転期間中は、雨降り以外は安心して眠れないという住民の声も
無理でなかった。
 終戦頃から甘味不足を補う澱粉飴のの業者が急増し、澱粉業者と
飴屋の間で札束が飛び交い、澱粉業者の豪遊が戦後の不況にあえ
ぐ町の人の話題となった。
 そのうちに澱粉業者も増え、原料馬鈴薯の争奪が激しくなり組合
員の芋が他工場に横流しされ、運営の危機を感じるようになった。
 その時に顧問の立場にあった土井重喜氏の厳しい指導で、二十
四年から常勤役員を二名とし、勤務の傍ら組合員の説得に当たっ
た。二十七年執行部の更迭も行い、東の伊藤金一氏が組合長、八
田が専務となり、二人で斜網方面の先進工場に学び、大きく改善
を試みた。運営は急速に好転し、組合員の加入申込が増え、
上湧別五の三の農家十六戸までが加入し、ついに組合員は百二十
戸以上となり、原料四万俵以上を処理し、網走地区のモデル工場
の指定を受けた。町制施行と同時に名称を湧別中央澱粉組合と改
めた。澱粉粕の販売など組合員、員外者の区別をせず、原価販売
をし、四号線の街に多い勤め人、労働者の主婦の内職の養豚を盛
んにして喜ばれた。
 その後湧別の市街や亜麻工場の従業員からの需要も多くなり、
五号線に仙頭修氏が種豚所を開業、繁忙を極め、養豚の黄金時代
を迎えた。
 昭和三十六年スノー食品工場の建設で、個人工場や小さな組合
工場は消滅したが、中央澱粉組合は団結が固く、スノー食品の強
い要請により買収に応じ、昭和四十一年七月三十年に及ぶ歴史に
ピリオドを打った。
 操業期に入ると浜益村から漁場の若い男女が職工として来町し、
四号線の街を歩いて子供たちに浜益弁(浜言葉)が流行するとい
う微笑ましい一こまもあった。
 三十年の歴史は、色々と紆余曲折があったが、農民の敬税を豊
かにしたのに止まらず、団結の精神を培い、四号線の人達に不
安を与えたが、喜びも提供し、忘れがたい存在であった。

四号線家畜診療所  四号線の交差点から中湧別の方へ二百b程行った左側に家畜診療
所があった。
 建物は当時のままで今も在るが閉鎖されたままである。
 診療所の前身は、飯豊獣医の診療所である。
 飯豊獣医は、その功績が偉大だとして村から表彰され、広福寺の
境内に頌徳碑が建つ信望の厚い人であったが、昭和十七年脳溢血で
倒れ、昭和二十四年不遇のうちに亡くなった。その後を飯豊獣医の
弟子であった延原棟一獣医が継いで開業していた。
 昭和二十三年に下湧別農業共済組合が設立され、同二十五年開
業医であった延原獣医を組合の獣医として採用し、延原獣医の診療
所を共済組合の診療所として買い取って診療事業を行った。
 その延原獣医は、昭和三十九年九月十四日に急逝したが、
 「大変な酒豪で、斗酒なお辞せず」という人で
 「サラリーマンの経験は初めてで、勤務時間の認識はなく、開業当
時と同じで、日曜祭日でも仕事が在ればやり、普段の日でも仕事が
ないと日中でも休むという人でした」
        (同僚獣医だった中野氏談)

 そして昭和三十年三月に篠田一郎が共済組合の獣医として採用
され赴任した。

湧別家畜診療所の
      思い出
      篠 田 一 郎
 私は昭和三十年三月六日に遠軽よりバスで赴任しましたが、国道の
両側は除雪した雪がバスの屋根よりも高く積もっていました。
 私の家族は、両親と妻子合わせて六人でしたが、落ち着いた住宅は
、元の小学校の近くの小さな公営住宅で、六畳間の居間と部屋、三畳
の部屋と二畳間の台所という住宅に刺身のように親子四人が重なり
あって寝るという状態で、四月には三人目の子供が生まれたので
すから自分ながらよくぞ暮らしたものと感心しています。
 私は、四号線診療所勤務を命ぜられましたが、その当時の診療所は
、バラック建てで、両側に向かって治療所があり、その奥に事務所が
あり、その東に牛の人工授精所がありました。馬の外科治療などで
西風が吹く日などは、手がかじかむほどでした。
 延原獣医は、体格はずんぐりし、丸坊主の丸顔で、常に赤ら顔で酒の
好きな人で、体重は七○キロ以上はあったと思います。
 酒は毎日飲むという事でなく、何か気にくわなかったり、きっかけが
あれば三日でも四日でも飲むという人でした。 (中略)
 湧別は、この頃馬産地として北見地方でも有名で、私も着任早々馬
の人工授精を手伝いました。川西の藤崎さんが馬を飼育してたので、
毎朝川西の馬検所で人工授精の手伝いをしました。診療も馬が大半
でした。
 この当時湧別病というシダ類(わらび)の胞子による中毒がありました
し、木材運搬による蹄の事故もありました。
 往診は、オートバイですが、四号線診療所で使っていたのは、米軍が
沖縄戦で使用した中古の五五○ccのインデアンで、座高が高く跨って
も爪先がやっと付くくらいでした。
 又道路も砂利道の凹凸がひどく、転倒したことも再三でした。少し慣れ
てきたと思ったら九月に延原獣医が急逝され、全く驚きました。(中略)
 三十一年の五月に延原さんの遺族の方が、東京に引っ越されたので
その後の家に私たちが移りました。この家は明治四十二年頃に建てら
れたとかで、土台は腐っているし、台所もトイレもがたがたで冬の台所
は凍ったままでした。又吹雪の日には屋根裏に雪が吹き込み、それが
解けてあちこちに雨漏りがして座る場所も無い位でした。仕事では苦情
を言われるし、事務所は寒いし、給料は十二分に貰えないし、住宅は悪
いし、全く泣きっ面に蜂でした。  (中略)
 その後松尾獣医が採用されましたが、その頃は、家畜も包括加入にな
り、農協も組勘方式になって経営も安定して現在に至っています。
             (湧別農業共済史より)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この四号線の診療所も、経営の合理化の為に統合し、診療所の新
築の動きが出て、昭和五十三年から検討が続けられた。診療所統合
の候補地として、錦町の現錦研修センターの付近と芭露の畜産研修セ
ンターの付近が上がったが、芭露に建設することに決定し、五十六年
十二月に新診療所が完成した為に四号線診療所は閉鎖された。
 又篠田獣医は、昭和四十七年四月から共済組合の参事に就任し五
十年三月定年になったが、嘱託の診療所長として五十三年まで勤め
退職した。
 松尾獣医は四十三年四月から共済組合に勤め、篠田所長の跡を継ぎ
五十三年から診療所長だったが、五十五年三月惜しまれて急逝した。

中央会館から錦会館
   への変遷
 四号線の十字路を中心に町並みが急速に増え、繁栄し始めた明治
の末頃、住民の声として消防組設置の要望が高まり、大正二年に東
部落と呼応して浜市街に続いて、四号線に消防組第二部が生まれた。
 最初の頃の事務所は横沢金次郎氏宅であった。
 そして消防や部落の集会の場所として、部落の住民が総力を挙げ
て建てたのが中央会館である。(当時四号線は湧別村中央地区と呼
ばれ栄えていた)
 建てられた会館は、消防会館とも部落集会場とも言われ大切な施設
となっていた。
 場所は、十字路より東、約六○b北側で、四号線郵便局の東であ
った。木造平屋建、壁は板張り、屋根は柾葺きで玄関とも二五坪で、
二間に分かれ奥は畳二四畳の広間であった。
 現在錦研修センターの事務室に掲げられている厚板の「中央会館」
の大額は、後年道議会議員になった谷虎五郎氏の寄贈により、落成
記念として広間の高所に掲げられていた。
 額の書は大正七年に書かれたもので、書いた人は、網走刑務所の
典獄(今の刑務所長)であった書道家だと言われている。(以上土井氏
談)
 昭和に入り四号線の衰退と共に、消防組は浜市街の組織に吸収合
併になり、会館は専ら青年団の管理するところとなり「青年会館」
と呼ばれる時代が永く続いて多彩な用途に利用されるようになった。
 部落の会合のほか、青年の修養行事、団欒そして成人男子の軍隊
入営の送別会等、戦時下に水杯を交わして出で立ち、再び帰らなか
った人も十指に余る。
 昭和二十年終戦となり、樺太引揚者やその他の人の仮住宅として
貸し、部落の会合や青年の集会は個人の家が利用された。
 その会館も次第に老巧化が酷くなり、修理するにも多額の金が掛
ることから部落、または青年達のためにも新築を考えなくてはと私
は思い立ち、山喜一郎さんやほかの青年たちに呼びかけ、土井さんや
鍵谷町議にも訴えたところ
「よしやろう」ということになり、鍵谷薫を中心に若杉明、高木義宗、
八田亀義、山喜一郎の四^五人が相談を重ねた。
 場所として、馬頭観世音の碑を建てたときに快諾をして頂いた法
明寺の敷地で、道路よりの湿地を貸して頂けないかと伺った所快く
承諾を得た。
 湿地のため埋立は土井さんの砂をお願いし、建材はコンクリート
ブロックが良いのではないかということで山本社長に聞いた所
「部落の為なら必要なだけ寄付をするから良いものを建ててくれ」
との答えを貰い、それに感激した鍵谷さんが
「それならセメントは要るだけおれが出す」と言いだし、区長が早
速役員会と総会を開いて十分に話し合いを行い、賛同を得て寄付集め
の作業に入った。
 木材は町有林より払い下げを受け、共同作業で搬出し会館の材料
のほか、火の見櫓まで建て替えることができた。その時サイレンが
つき、半鐘は法明寺に預けた。
 戦後の物不足の中、数々の人の善意に感動し、一致団結した協力
の結果、近隣の部落の人達から羨ましがられる会館が完成したので
ある。古い会館はその後農協が壊し、ブロックの車庫を建てた。(今
は倉庫として使用している)
 昭和三十二年に完成したこの会館は「錦会館」と名づけられ部落
の大切な施設となり、後に町が老人の部屋を増築して老人の家を併
置し、長い間住民の心の拠り所として大きな役割を果たすことにな
った。
 馬頭観世音の供養が四号線の祭りになった七月十五日には、会館
の周囲の湿地を農家の人が、二日前から早起きして馬車で三台づつ
砂を運び、三年間続けて埋立を行い子ども達の遊園地までも出来た。
 埋立に使った大量の砂は、全部土井さんの砂で「会館建設の寄付
帳に書きたいので計算させてください」と言ったが
「現金以外は書かないで欲しい、部落の人達が喜んでくれれば満足
だ。資金が足りないのであれば言って下さい」と言われ、事あるごとに
最高の協力をしながら謙虚な姿勢を貫く土井重喜さんの言葉には胸に
熱いものを感じたのを今でも忘れない。
 昭和五十八年に内容の充実した錦研修センターが出来た後の会館
は、町に寄付をし網走管内青年団体協議会の事務所として利用されて
いたが、湧青協の自然消滅と共に空き家となっていたが、平成五年に
町により取り壊されて昔日の面影は今はない。
 かっての会館作りに関わった先人の苦労を知る人も少なくなった今、
その努力を思い出して頂ければ幸いと念じつつ筆を擱く次第であります。
         (八田亀義記)
   (八田亀義氏は、大正八年に五号線で生まれ、四号線区時代に
    澱粉組合、農協役員、部落会監事を務めた)

安立果樹園  五号線に大正の末期からリンゴやナシの果樹を栽培していた家がある。
今はその面影も残っていないが、その頃の思い出を安立広郷さんに語
ってもらった。
 「私の祖父の安立甚七が、生田原から大正七年に五号線に移住し
てきたときに既にリンゴの木があったようだが、その木を手入れし
たり、補充したりして昭和の始め頃は約二f(二町歩)のリンゴ園
があった。その頃のリンゴの種類としては「阿部七」「十二号」「四九号」
「旭」などであった。
 収穫したリンゴは納屋やムロに入れて保管し、荷車に積んで浜市街や
亜麻工場の住宅に行商して売った。
 大体正月頃まで売り歩いた。この行商だが、祖母のタマから父の大三
にと受け継がれ、果物のほかに季節の野菜も合わせて売り歩いた。
 そして私も(広郷)ナシを二年ほど行商で売った。
 親子三代の行商である。
 しかしこのリンゴ園も腐爛病が蔓延し次第に減って行き、昭和二十年
頃は、ナシが二五e(二反五畝)リンゴが一○e(一反)ほどになり、リン
ゴは二十五年頃にはすっかり無くなってナシだけになった。そのナシも
府県ものが店頭に豊富に並ぶようになると地物は敬遠されて五十年に
は全て切り倒してしまった。
 戦前の最盛期の頃は、四号線の学生達がアルバイトにリンゴやナシの
袋掛けに来たもので、埼玉にいる書道家の吉村昭三も来ていた。
 また子供たちが秋になると悪戯にリンゴやナシを盗みに来たものだ。
 果物とは異なるが、今はなくなった作物に亜麻がある。
 大正六年に湧別に日本製麻(株)の工場ができてから栽培されるように
なり四号線でも多い人で一f位作っていた人もいたが、当時機械がなく
て人力による収穫であった為と、連作が出来ないため栽培には限度があ
った。
 この亜麻も三十九年を最後に湧別から消えたが、この頃には工場所有
の刈り取り機も開発されて多くの面積が栽培され、私の家でも二f作っ
ていた」

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第六章
郷土のために尽くされた人々

今日の錦町の基礎を今は故人となった多くの人々の努力があったことを忘れてはならない。
その方々の総てを語り尽くすことは出来ないがその功績の一端を辿ってみた。
                                          (文中の敬称は略しました)


横沢金次郎氏  横沢金次郎は、万延元年(1860)十月に長野県北安曇郡北小
谷村で生まれた。
 明治二十八年金次郎三十五歳の時に、海路日本海より利尻を経て
下湧別村四号線に、二一戸の団体として入植した。
 金次郎の少年、青年時代は分からないが、学問の素養があり、座
右には難しい本がうずたかく積まれ、いつも正装をして正座して読
書や書き物をしていた。(横沢房談)というし、土井重喜は「漢学の
素養があった」という。
 明治三十二年、金次郎は自宅に青年を集め「青年塾」を開き青年
教育を始めた。
 そして消防組織も作り、私設消防として自宅を番屋として看板を
掲げていたという。(土井談)
 また湧別村が明治十四年、上湧別村と分村し下湧別村となった
第一回の村会議員選挙に立候補して当選以来、大正五年まで三期六
年勤めた。
 村会議員在任中の大正四年村議会は、湧別線鉄道(開盛〜下湧別
間)の開通を控え、停車場を何処に置くかで意見が対立し紛糾して
いた。
 金次郎は、四号線に停車場を作る住民の先頭に立って運動をし、
浜市街の宮崎簡亮氏などと争ったが、議会の裁決で五対四で破れ、
次期村会議員には出馬しなかった。
 分村後の行政区域は、六部と七部に分かれていたが、大正九年の
改正で第二部となり後に三部となり、昭和四年に四号線区となった
のであるが、金次郎はこの時代のどれかで部長を務めている。
 金次郎は四号線で旅館を営んでいたが三度も火災にあうなどしたが、
五号線では質屋も開いていた。
 一時は四号線から五号線まで有った一○町歩の土地も氏が亡くなった
時は半分になっていた。
 三度の火災により古い書類や写真、資料等が見つからないのが残念
である。
 そして四号線を湧別の浜市街に大して中央市街と命名したのも金
次郎で、広福寺の初代住職の須磨見造を、小樽の竜徳寺より連れて
きて広福寺のために尽くしたり、同郷の僧侶の松尾富士太郎が、善
光寺の寄進の金を盗まれて悄然として訪ねてきたのを慰めて世話を
したりと、人の面倒も良く見たといわれている。
 昭和十八年六月、金次郎は八十三歳でなくなった。

国枝善吾氏と与之助氏  国枝善吾は、明治八年七月に岐阜県本巣郡山添村で生まれ、明治
三十年兄幸吉一家と共に屯田家族として、上湧別四中隊二区に入植。
二十五歳の時につやと結婚して、湧別町西一線の現在地に入植した。
 善吾は今尊徳と言われる程農業に、そして農家の人々の指導に
熱心で、農業関係の公職を多く持つほか、町政にも積極的に参画し、
また社会的な公職も多く錦町の発展に大きく貢献した功労者である。
 善吾の農作業の持論は、「夏は朝四時に起き、夜は八時前に寝
る様、午前中の仕事は午後の仕事の倍の価値がある」というもので
又「金は蓄えてから使え」とこれを座右の銘として自ら実践していた。
 金銭の出し入れも厳密で、一面吝嗇にも見えたが公的な面では協力
を惜しまず、多くの人から尊敬された。
 村会議員として二十七年の長きに亘り町や、四号線部落の発展に尽
くし、昭和二十一年には議長として活躍した。
 善吾は、九十六歳という長寿で逝去したが、最後まで心身共に健全
であった。
 また善吾の娘婿である与之助は家を守り公的には表面に出なかった
が、部落のために影で貢献した功績は大きい。
 副区長、統計調査員、湧別中央澱粉組合理事、森林組合理事を長年
勤め、昭和四十五年に錦町に老人会ができると初代会長を務め、以来
十一年に亘り会長を歴任、錦町寿会の発展に尽力され、今日の基礎を
築いた功績は大きい。
 また与之助は、善吾の死後その供養として湧別中央公民館に「国
枝文庫」を寄贈し、紺綬褒章を授賞している。
 まを善吾の経歴を遺族の方より提供していただいたので要約して記す。

自治行政関係
 明治  四十年 網走支庁長より下湧別村第五部長を任命(注=当時
           の部落会長) 村会議員は別項
産業関係
 明治四十二年 勧業奨励委員
 明治四十三年 農会評議員(六年間)
 大正   七年 現地目調査員(十四年間)
 大正   八年 農産物検査員(五年間)
 大正  十二年 下湧別村農会総代、副会長
 昭和   四年 下湧別村信用組合理事、組合長
 昭和   六年 下湧別村農会副組合長
 昭和   十年 下湧別村農会会長
 昭和二十三年 森林組合理事(十二年間)
社会事業関係
 明治四十一年 学事奨励委員
 明治四十二年 鉄道期成会評議員
 大正  十二年 村衛生組合伍長
 昭和  十一年 村衛生組合副組合長
 昭和  十四年 小作調停委員
 昭和十九年〜二十六年 民生委員
 昭和二十三年 家事民事調停委員
               この項は八田亀義記

山田増太郎氏  明治五年岐阜県で生まれ、名古屋の工業学校を卒業して同三十二
年北海道に来道。小樽の呉服問屋に勤め各地を営業係として回って
いたが、当時四号線で呉服店として営業していた中川さんの勧めで、
山田呉服店の一人娘のテルさんと結婚し婿入りした。
 この頃の山田呉服店は当時としては大きな門構えの店で、近隣か
ら客が大勢来たという。
 増太郎は、呉服店を経営する傍ら電気事業に着目して、三号線に
大正六年木炭による火力発電所を作り四号線と浜市街に電気を送り
電灯を点した。
 その後増太郎は、瀬戸瀬で湧別川をせき止めて水力発電所を起こし
遠軽地方の電気事業の第一人者となった。
 昭和九年北見新聞社発行の北見地方の「北見大観」に山田増太郎に
ついて次の記述がある。
 「下湧別村村会議員、(注、大正五年より九年まで)学務委員を務め、
大正五年四月湧別電燈株式会社を創立、専務取締役となり、同八年十
一月北海道電燈株式会社と合併になるや、同社常務取締役に就任、
現在(注、昭和九年)生田原電気株式会社監査役、合同電気株式会社
取締役、函館水電、東部電力、盛岡電燈、静岡電鉄、三重電鉄等各社
に関与し又重役なり」
 更に後年には全国組織の電力会社の
 「重役までは行かなかったがかなり重要なポスト」(土井重喜氏談)
につき活躍したという。
 妻のテルはお嬢さん育ちで、増太郎との間に子供が出来なかった事や
増太郎が各地に出張で出掛ける事が多く、殆ど家に居ないため
に寂しさを紛らすようにと、当時では珍しいピアノを買い与え、
それを弾いていて店には出なかったという。
 又、増太郎が出張から帰ると街の人が次々と訪れ、最新の社会の話を
聞きに来たという。 (山田右子談)
 山田商店の方は、本間為吉が店を任されて采配を振るっていたが、
養子と養女として育てていた孫一と八重子が結婚し孫一が店を守るこ
とになった。
 増太郎は、昭和十二年九月十二日六十六歳で亡くなった。

谷虎五郎氏  四号線出身の道会議員である。
 湧別に来たのは明治四十年頃で、この頃は既に競馬の騎手として
活躍していたと思われる。競馬の騎手として鳴らしていたが、四号
線に住んで、大正九年六月村会議員に当選以来昭和十一年に道会議
員に当選するまで十五年間村議として活躍した。
 道会議員の選挙も一回目は落選したが、二回目は当選し、湧別の
発展に尽力した。
 また人望がないとなれない当時の役職であった北見畜産組合の組
合長としても活躍し、村会議員の時には小学校を四号線に建てるこ
とを主張して湧別市街の有力者に殴られたこともあった。今は谷の
主張通りとなって小中学校が錦町に建っているが、まさに先見の明
というべきか。
 また夫人は、東、川西、四号線の娘たちに茶道、生け花、裁縫を教え
て喜ばれたという。
 
鍵谷 薫氏  大正二年に上川郡士別村で生まれたが、十歳の時に父を亡くし、
母菊野により妹二人、弟一人と共に育てられ、昭和二年に小学校を
卒業するや直ちに、叔父の経営する澱粉工場や木材業を手伝う。こ
の時の経験があとあとまで生かされる。
 昭和十二年に五号線に一○町歩の畑を買い入れると共に、上湧別
町中湧別に澱粉工場を設立、周辺の農家に馬鈴薯の耕作を指導する。
 昭和十六年には五号線に家を建てて移住した。
 昭和十八年より二十一年五月まで招集で北支に従軍し、帰町後は
四号線部落の発展のために、土井重喜の良き相談相手として活躍し
ていた。昭和二十二年、戦後の民主化第一回の村会議員の選挙に立
候補し、定員二六名に対して四六名が立候補するという大混戦を制
して見事当選。以来七期二十八年間、その内の五期二十年間は議長
を努めるという、町の重鎮として活躍した。近い将来町長にと目され
ながら病を得て勇退、療養に専念していたが、昭和五十四年六月二十
八日六十五歳で惜しまれつつ世を去った。町ではその功労に対して
町葬をもってねぎらった。
 鍵谷は、公職としては町会議員のほかに、農業委員、湧別農協監事、
組合長、町観光協会長、町総合開発促進期成会長を務めたが、
実業家としても面目躍如で、澱粉工場は中湧別のほか、紋別の沼の
上や女満別で操業、戦後の昭和二十四年に、鉛材工場を五号線に建
てて操業し、二十六年には中湧別にガソリンスタンドを開業、スタンド
はその後留辺蘂、札幌にも開業しいずれも現在盛業中である。
 また企業誘致については、湧別駅の存続とも関係する重要問題と
して土井のアドバイスにより当時の村上町長と共に議長として努力
し、スノー食品工業(株)の誘致に成功し、初代の工場長として活躍、
その後のマッシュポテト工場の乱立による競争にも打ち勝ち今日の
基礎を築いた。
 中学校前にあった旧錦会館は、鍵谷の指導力と貢献によって建設
され、当時近隣にない立派な集会場として讃えられ、住民の団結の
精神を培ったのである。
 旧錦会館付近の湿地を子供公園に造り上げたのも坂上堅正の理解
と鍵谷の熱意に協力した役員の努力の賜物であった。
                     (この項は八田亀義記)

坂上堅正師  札幌市の名刹信行寺の布教師として活躍していたが、信行寺の長女
のみさおと結婚をして、昭和七年湧別の法明寺の二代目住職として赴
任した。
 堅正は、熱心な布教に努めるとともに、部落のためにも協力を惜しま
なかった人である。
 馬車追い組合や農家が、大切な馬の霊を祭る馬頭観世音碑の建て
る場所がなくて困っているとき
  「寺の道路寄りの湿地を埋め立て使いなさい。私は人々の善意によ
り支えられているから、宗派を越えて多くの人に報いるのが何より嬉し
い。寺に少しでも人が集まってくれるのが嬉しい」
 と言って無料で貸してくれ、馬を持っているものが、土井重喜の浜から
砂を運んで整地をし、馬頭碑を建てて、毎年七月の十五日(十七日が馬
頭祭の日であるが、川西や東から四号線のお祭りに参加したいというの
で日をずらして催じた)のお祭りには、子供相撲や青年団の演芸会があ
り、堅正も飲めぬ酒を無理に飲んで喜び
  「寺はみんなが喜んであつまってくれることが大切だ。これが仏の心
なのだ」と言ってみんなに深い感銘を与えた。
 澱粉組合の総会などは農協の二階を借りていたが、一○○人近く
集まる会合では入り切れず、困っているときに快く寺の広間二つを
開放して貸してくれたり、旧錦会館の建設に当たって適当な土地が
なく困っていたところを、境内の一部を快く貸してくれた。
 堅正は、教育委員としても任命制になった最初の昭和三十一年八月
から三十九年八月まで九年間勤め、その間教育委員長を二期務め
ている。
 また夫人のみさおも賢夫人の誉れ高く、四号線周辺の娘たちに生け花
、お茶、裁縫を教え、嫁入り前の娘の教育にも大きく貢献をした人であっ
たが、平成四年九月三日八十九歳で逝去された。
 また後継者の雅亮も孝行の教師を退職し住職としての勤めを果たした
ほか、昭和五十八年三月より教育委員、昭和六十一年四月より教育委
員長を努めていたが、昭和六十三年一月一日五十七歳で突然逝去され
た。        (この項は八田亀義記)

吉塚貫道師  広福寺の二代目住職で、貫道は明治二十三年新潟県長岡市に生まれ、
同市の安善寺で僧侶として精進していたが、広福寺の初代住職の須磨見
麿が急逝しあっため、小樽市の龍徳寺の推薦で大正六年二月急遽赴任し
た。その時貫道は二十七歳であった。
 赴任したときの寺は、荒れ放題で、冬になると本道は入り込んだ雪によ
ってご本尊も位牌も埋まっていたという状況であった。
 こうした寺の修築を進め、檀信徒に呼び掛け寄付を集め、自らも
負担し農地を購入して農耕に従事し、自給自足を禅の道なりとし励んでい
た。寺に付随する建物も常に質素を旨とし、建物、樹木の古きを喜び禅僧
の鑑と壇信徒に尊敬された。
 昭和四十二年十二月、在任五十年の記念に悲願であった鐘楼建設
が完成した。
 貫道は、仏の道を説く傍ら、人造りは子供からと日曜学校を始めた。四
号線の子ども達を日曜日に集めて菓子を与え、仏様の話を童話風に聞か
せて楽しませた。
 また釈尊誕生日の花祭りには、稚児行列といって幼児を化粧し、盛装さ
せ四号線の街を往復した。子供を持つ檀家の楽しみの一つであって、他
宗に 見られぬ麗しい教化活動の一つであり、貫道の誇りの一つでもあっ
た。
 夫人のフク(明治三十一年生まれ)も近くの娘たちに裁縫を教え婦女子
の教育に貢献した。
 平成五年現在九十六歳で健在である。
 その後昭和三十八年に貫道の長女で現住職の勇道夫人道子が保母
として、東、川西も含め幼児を保育し、現在のかおる保育所の前身として
子を持つ親に喜ばれた。      (この項は八田亀義記)

山重太郎氏と加代さん  西一線の出身で軍人として大陸に渡り、職業軍人として終戦時は少佐、
帰郷後は農業に従事し、昭和三十年五月に湧別農協の理事に就任した。
渡辺組合長が七月に辞任したあと組合長に就任し、残任期間を努め、以
後理事として三十八年五月まで在任した。
 また妻の加代は昭和三十六年九月に湧別農協婦人部が結成されるや、
初代部長として就任、昭和四十一年まで勤め、四十五年に請われて再び
部長に就任し、離農するまで部長を努めた。
 このほか湧婦協の副会長を昭和三十六年より四十一年までと四十五年
の七年間努め婦人活動に大きく貢献した。
 昭和五十五年農業を廃業し、現在神奈川県厚木市に在住。
                     (この項は八田亀義記)

特別寄稿
飯豊獣医先生のはなし
       東京都在住  小 松 立 美

第一話 先生と家族
 先生は四号線の歴史から欠かすことの出来ない偉人です。先生の
家柄は東北のさる藩の士族の出身だそうです。一説では剣道師範の
長男だともいわれているけれども「さぁそれはどうかなぁ。先生は
剣道の方はさっぱりで、せいぜい初段位の腕でなかったかと思うよ」
とは親父の話でした。
 最初の奥さんの事は私にも微かな記憶はあるのですが、はっきり
しませんので親父の話を記すことにいたします。
 奥さんは新潟県でも大きな神社の宮司の娘さんで、色白でほっそ
りした美人であったそうです。夫婦仲も良くやがて娘さんが生まれ
て先生はとても可愛がられていたそうですが、幼くして亡くなられ
たと言います。先生も奥さんも大層悲しまれたそうです。
 所が何年かして何と娘さんの後を追うようにして、奥さんが亡く
なられてしまったのには、さすがの先生もガックリされて、出入り
していた大勢の人達も慰めようがなく困ったそうです。それだけ先
生の愛情が深かったのでしょう。
 奥さんがお元気だった頃だったか、その後だったかハッキリしま
せんが新潟から奥さんの弟さんが、夏休みを利用して遊びに来たこ
とがあります。当時の高等学校の学生さんで十九歳とかでした。(姉
達の話)髪を伸ばした色白な奥さん似のホッソリした青年でした。
 私には色白な顔に数多くのニキビが散らばっていたのが強く印象に
残っています。
 私の夏休みも残り少ない頃「タン坊、川へ行くぞ」と弟さんに誘
われてついて行った事があります。その年は、本流が川西側に変わ
って、昨年の本流は今年はプールのような閑かな流れになっていて、
又余り深くなく私達チビ連に丁度よい泳ぎ場でした。ところが弟さ
んが橋から簡単に静かな流れに飛び込んだのにはビックリ、おそら
く高さは、五b以上あったと思うのです。
 それまでそんな高さから飛び込んだのは見た事がありませんから。
昨年までの本流は中州まで三○b程の川幅でした。
 弟さんは上手なクロールで瞬く間に三○bの川を行ったり来たりす
るのです。私は、弟さんの上手な泳ぎに見惚れていました。
 クロールなんて泳ぎ方は生まれて初めて見たのですから。
 「こらぁ、お前も泳げ」と大声でいわれましたが、私はまだその頃は犬
かきしか出来ませんでしたのでモジモジしていると
「何だお前は泳げないのか。男は泳げないと大人になって恥をかくぞ」
 そういって平泳ぎから背泳、クロールと繰り返し、幾度も泳いで
見せてくれました。後日私は夏休みになると、宿題なぞホッポラか
して弟さんの泳ぎを思い出して懸命に練習したものです。
 その後弟さんは何日位先生宅に滞在して新潟に帰ったのか私は知
りません。
 先生はその後何年かして再婚されました。再婚された奥さんは、
女学校の先生をされていたそうで、大変ハキハキした方でした。又
前の奥さんと違いとても丈夫そうな方だったと記憶しています。しかし
この奥さんも正確ではありませんが、確か出産の時に急死されたよう
に聞いています。
重ね重ねの悲運に、先生の落胆は酷く、最初の奥さんの時以上にガック
リされる姿を見て、出入りの多くの人達も慰めようが無く苦労したとのこ
とです。何分信頼の置ける良い医師も病院も近くにない時代でしたから。
 この後先生は独身で過ごされました。(編者注、その後もう一度結婚さ
れたがまた死別された) 昭和十九年晩秋に私が高知県に転居するの
で、先生宅へ挨拶に伺った時、先生の妹さんの娘さんという二十歳過
ぎの色白の美しい方が居られましたが、その後どうなったのか知りませ
ん。とにかく先生は家庭的には恵まれない人でした。

第二話 先生と集金係の親父
 親父(精麿)が、先生宅へ親しく出入りするようになったのは、親
父が満二年の兵役を終えて下湧別村に帰り、在郷軍人会に所属する
ようになってからでないかと思います。又何時頃から先生の集金係
みたいなことを長い間するようになったのか、詳しい事は分かりま
せんが、おそらく原因の一つは先生にもあったのではないかと思わ
れます。何分先生は武士で技術者、どうも金銭的な事は苦手であっ
たらしく、最初の奥さんも再婚した奥さんも金銭には何時も困って
いた様子で、親父が先生宅へ顔を出すと良くコボシていたそうです。
 親父も奥さんからそんな話を聞かされては、どうでも集金に行か
ざるをえず、時々集金をしてやっていたようです。親父の本業は山
での造材でしたが、春の蒔き付けの時と秋の収穫の時は、山から帰
って母や姉達と畑仕事をしていました。所がそんな時を見計らうよ
うにして、お弟子さんがやってくるのです。
「薬屋に払う金が無くなって困りました。おじさん何とかお願い
します」と親父に頼み込むのです。
 親父もまた若いお弟子さんが集金が苦手である事を知っていま
すから泣きつかれると、つい「全く集金も出来ないんだから」とブ
ツブツいいながら、畑仕事を止めて出かけていました。母はそんな
親父の姿を見送りながら「ほんとに人が良すぎるんだから」と何時
もぼやいていました。

第三話 先生と豚皮のカバン
 私は先生の家には、物心つかぬ頃から親父に抱かれて行ってい
たようです。先生は私をタン坊、タン坊と呼び、私は先生を飯豊の
おじさんと呼んでいましたが、小学四〜五年生の頃から先生と呼ぶ
様になりました。
 先生には私の一生涯忘れる事の出来ない、暖かく有難い思い出
があります。
 それは私が小学校二年生の十二月三十一日の夜の事です。私は親
父に連れられて先生の家に行きました。先生の家では、居間にして
いる六畳のキリ炉で、スキヤキ風の牛鍋がグツグツ音を立てて煮え、
白い湯気が上がり、お弟子さんが忙しく働いていました。何故かそ
の時の映像が、井ぁ明治でもハッキリ記憶しているから不思議です。
 たがて私が座ると、先生は、大きな紙の箱から、黒い学生服を出
して「タン坊、これを着てみろ」というのです。私は親父に促され
て着物を脱ぎ服を着ました。それを見て先生は、「ウン少しダブダ
ブするが子供は成長が早い、すぐ体に合う様になるさ」といいまし
た。私は生まれて初めて洋服を着たので照れていると先生は、
「ほれ次はこれを掛けて見ろ」と、ぴかぴかの豚皮のカバンを肩に
掛けてくれました。私は驚愕しましたが、先生は大変満足気でした。
 この豚皮のカバンは、私が高等小学校を卒業するまで使いました。
 ふと少年時代を思う時、すぐこのカバンの事が頭に浮かび、同時
に謹厳な先生の姿が甦るのです。
 親父の集金係は奉仕としてやっていたようです。先生はその親父
の労苦に対して、せめてもの報酬と考えてこれらの品物を揃えたの
ではないかと、私が大人になってからの考えです。

第四話 先生と老剣士
 親父から聞いた話ですが、おそらく大正の前半の頃だと思います。
 ある日突然七十歳前後の腰の曲がった老剣士が、剣道の道具を肩
に担いで先生を訪ねてきたそうです。
 老剣士は九州黒田藩の元藩士と名乗り、差し出した分厚い帳面に
は、訪れた元藩や師範の剣士の名がヅラリと書かれていたそうです。
 当時の四号線は人口も多く、精神鍛錬のために剣道が奨励され大
変盛んであったといいます。
 早速四号線を始め東や川西から若手の剣士が集められ、老剣士に
稽古を付けて貰う事になりました。
 やがて老剣士が、青首大根ほどもある稽古竹刀を持ち、中段に構
えると、何と曲がっていた腰がピンと伸びたのには皆ビックリした
そうです。一番手に何流とかの目録を持つ豆腐屋のじいさん(当時
は若かったと思う。後に試合の審判をしていた)が打ち込んでいっ
たが、老剣士の太い竹刀にバーンと弾かれると、二〜三回くるくる
と回ってブッ倒れ、何回打ち込んでも同じだったそうです。後の若
い剣士達も同じようにはじき飛ばされてもう稽古にならなかったそう
です。sんせいもまだ若い頃ですし何回か打ち込んでいったが、軽く弾
き飛ばされて話にならず老剣士を嘆かせたそうです。
 老剣士は何日か滞在して、馬小屋の板壁に四〜五ヶ所の竹刀でつ
いた穴を残して旅立っていったそうです。
 この話を聞いてから後々のことですが、思い出して馬小屋の板壁
の穴を見に行きましたが、もう大分年月も経っていましたので、そ
れに幾つも似た様な穴が開いていて、とうとうハッキリした穴を見
つけることは出来ませんでした。四分板にポッカリ穴が開いていた
というのですが残念でした。
 下湧別村へは、何故か大東流の武田ソウ岳を始め数多くの武道家
が来たようです。

第五話 御大禮と先生
 昭和二年、昭和天皇陛下の御即位式に際して、先生へ参列許可と
いうのか、通達が来てからが大変だったという親父の話。
 先生は一生に一度の晴れ舞台だと大乗り気。しかし少尉相当の大禮
服を作るのには、当時の鐘でも高額が必要で、そこで止むなく親父
は仕事を休んで集金に走り回り、先生の友人達もそれなりに援助の
ため動き回ったとのことです。
 先生の友人の一人、中湧別の木村おじさんは親父の造材商の先
生であり、また親分みたいな人でした。早大出身で陸軍曹長の豪傑肌
の人で、先生とも意気が合っていたようです。又四号線の火事で私
の家が、西一線に転居する際、建築材一戸分全部を出してくれた太
っ腹な人でしたから、それ相当のことをしたようです。それに芭露の
大口さんもかなりな援助をしたようです。
 やがて東京へ注文した大禮服が届き、いよいよ先生がその大禮服
の初着というのか、着初めというのかするというので、満足気な先
生の姿を見るべしと、かなりの人が集まったと聞きました。
 私は、親父に連れていって貰えませんでしたので、分かりませんが、
まあ立派な姿であろうと思います。
 いよいよ即位の御大禮の日ですが、新聞でも前々から大々的に報
道されていたと思いますし、私たちの学校でも何か行事があったと
思うのですが今の私には何一つ思い出せないのです。まことに情け
ない話です。
 幾日かして先生は無事に、御大禮の参列を終えて帰ってきました。
先生は出発前に何かと面倒をかけた人達に集まって貰い、参列の
模様や様子を報告されたようです。この時も私は親父に連れていっ
て貰えず、その有様は知りません。親父は母や姉達に、先生の報告
を話したと思います。又私も一緒に聞いたと思うのですがこれ又、
何一つ記憶していないのです。とにかく御大禮の一件は、先生にと
って強い想い出の一齣であったことと思います。その後あの大禮
服はどうなったでしょう。何となく気になるところです。

第六話 先生とピンコ、ポンコ
 先生は騎兵少尉と呼ぶのか、獣医少尉と呼ぶのか分かりませんが、
本職の獣医としての腕は大変良かったのではないでしょうか。又先生
の往診の広さや範囲が、どの位あったのか知りませんが、馬や牛を飼
っていた多くの人達に、絶対的な信用と信頼があったものと思います。
 先生は往診のために足代わりとして、道産馬の親子馬を飼ってい
ました。母馬をピンコ、息子馬をポンコと名づけて、たいそう可愛
がっておりました。親子馬ともに非常に走るのが早い馬でした。私も
幾度かポンコに乗りましたが、速歩ながらその早い走りにビックリ
したものです。先生は主にピンコに乗っておりました。いつ見ても
乗馬の基本通りに、ピンと背筋を伸ばした立派な姿勢で、往診のた
めサッソウと出掛けるのが常でした。この姿が当時の人達に強い印
象で残っていると思います。
 私は昭和十年頃から働きに出る日が多くなり、先生宅へは殆ど顔
を出さなくなりましたので、その後のピンコ、ポンコがどうなった
のか知りません。ピンコはもう馬としてはかなりな年になっていた
と思います。親父に詳しく聞いておけば良かったと今は悔やんでお
ります。

第七話 先生の伝説
 先生がさすが武士の息子と思ったのは、正座の時は勿論のこと、
あぐらを組んで座っていても、背筋がピンと伸びていることでした。
この姿勢はいつ見ても変わることはありませんでした。小さい頃良
く真似てやりましたがとても駄目でした。
 先生はぶるいの煙草好きでした。好みは朝日という口付の煙草で、
火をつけて二口か三口吸うと火鉢の灰につき刺すのです。火鉢の灰
には瞬くうちに朝日の吸い殻が林立する有様でした。私はそんな様
子を只々感心しながら眺めていたものでした。
 親父は勿体ないと、何回か吸い殻を持ち帰って吸っていたことが
ありました。
 先生にはほかに伝説的な話が幾つかあります。居間にしていた六
畳に、三尺程の切り炉がつくられていましたが、何時見ても見事な程
真直に、炉センで几帳面に整理されていました。
 先生が何十回でも真直になるまでやり直すのを見たことがあります。
また炉センと火箸の置く場所も決まっておりました。次に味噌汁の実に
する豆腐やネギを、物差しで計って切ると言われていました。見たとい
う人もいたらしいのですが、本当の所は分かりません。それほど正確さ
を重んじる人であったということではないでしょうか。次に親父に聞い
た話ですが「いや人間って意外に大食いしても大丈夫なものだ」と。
 先生が一升飯を食べて、三日程お茶ばかり飲んで過ごしたという話
です。みんな止めたそうですが「軍人は野戦に出たら作戦次第で、
食事が取れぬこともあるかもしれん。たまにはこのような体験も必要
であろう」と実行したらしいのです。まだ先生が若い頃の事らしいので
すが。
 とにかく謹厳実直な軍人の鑑みたいな一面のある方のようでした。

第八話 先生とお弟子さん
 お弟子さんは次々と変わり何人来たのか分かりません。子供の頃
は名前や年齢等も良く覚えていたのですが、六十余年も経つとどう
しても思い出せません。お弟子さんのうちで記憶にあるのは、川西
分校の校長をしていた、島村先生(土佐人)の長男で、春やんと言
われていた人です。一メートル八十センチ程の身長のあるお弟子さ
んでしたが、二十歳過ぎの若さで亡くなりました。お気の毒でした。
 もう一人は越智さんと呼ばれていた小柄なお弟子さんです。
 内弟子というのか、お弟子さんは一人の時と二人の時があったよ
うに思います。寝泊まりは居間から続く台所の隅から、急な階段を
上がった屋根裏の部屋でした。どれくらいの広さなのか一度見たいと
思っていましたが、どうも覗き見するのも悪いと思い、とうとう見
ないでしまったので分かりません。
 明かり取りの窓は部屋の西側にありました。
 わが家が西一線に転居するまでの事ですが、お弟子さん達が大喜
びする日がありました。
 毎年新小麦と新そばを収穫すると直ぐ製粉にしてきます。すると
母と姉達はその粉で、早速手打ちうどんや手打ちそばを作るのです。
やがてうどんやそなが茹で上がると、お汁とうどんとそばを姉達と
分けて持ち、二百メートル程ある先生宅へ近道を通って大急ぎで運
んだものです。
 この時ばかりはお弟子さん達も、大喜びで歓声を上げて食べてお
りました。何分当時は干しうどんの時代でしたから、手打ちうどん
やそばは美味しかったのでしょう。先生も麺類は好きな様でした。
 私も昭和十八年の春に旧満州から除隊して帰ってきた時に、親父
から聞いた話です。確か<マナベ>さんだったと思いますが、先生
がとても期待をかけていたお弟子さんだったそうです。しかし残念
なことに現役で招集されて陸軍少尉で戦死されてしまい、先生はが
っかりされていたそうです。きっと後を継いで貰うつもりだったら
しいとの話でした。
 時代が時代とはいえ、先生としてはやはり何かやりきれない思い
があったのではないかと思います。先生は家庭的にはあまり恵まれ
ませんでしたが、数多くの有能なお弟子さんを育てたのが、せめて
もの慰めではなかったかt私は思います。

第九話 先生と最後の会話
 私は昭和二十三年十一月末から二十四年一月末まで、高知から
一度私用で四号線に帰っていた事があります。親戚に迷惑を掛けな
がら世話になり、その間に私用を無事に済ませることが出来ましたの
で、二十四年一月末に再び高知県に帰る事にして、あちこちに挨拶
回りをしているときの事です。
 その日は戸沢の叔母と叔父に挨拶を終えての帰り道、線路の踏切
近くで飯豊の先生が杖をつき、犬の毛皮のチョッキを着て、毛糸の
首巻きを頬かぶりにして背を丸めるようにしながら、ジーと東部落
の方角を見ている姿が目についたのです。私は
「ハテ先生はまだ病後な筈なのに、しかもこの一月末の極寒に、何
で又こんな踏切などへ」
そう思った私は
「おじさんどうしました」と声を掛けました。先生は振り向くと
「おやタン坊、帰っていたのか」
「はいチョッと用事があって」
「そうか」先生はそういうと帰り始めました。
私も先生と並んで歩き始めました。
「オトッチャンは元気か」
「はい今のところは何とか」
「そうか」口数の少ない先生でした。
 良く見ると先生はやはり杖が必要な筈です。病気のせいか足をヒ
コズル様な歩き方でした。
やがて四号線の四辻まで来たので、
「先生私が明日高知へ帰りますので、まだ挨拶に行く所があります
から、ここでお別れします」
「そうか、ではオトッチャンによろしくな」
「はいおじさんもどうか元気でいてください」
 それが先生と私の最後の会話になりました。
不自由な思い足どりで去っていく先生の後ろ姿には、もうあの若
い頃の、颯爽とした面影は何処にもありませんでした。
 そして見送る私の心と目に、何とも言えぬ淋しさだけが染み込む
ように強く、印象に残りました。
 今でも目をつぶるとハッキリと当時の光景が浮かぶのです。
 思えば先生と親父との付き合いは長いものでした。おそらく心を
許した男の友情と信頼がなければ、とてもこのように長く続かなか
ったのではないかと思います。
 この事は親父ばかりでなく、木村のおじさんにしても芭露の大口
のおじさんにしても、皆開拓時代の男の友情と信頼があったからこ
そ長く続いたものと思います。
 勿論これには謹厳実直、誠意と信義に厚かった、先生が偉大な人
格者であったからこそ出来たものと私は思います。
 四号線の偉人飯豊健吾先生の一部を記してこの稿を終わります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    筆者紹介
 大正八年三月三十日下湧別村基線十八番地で小松精麿の長男とし
て生まれる。
 下湧別尋常高等小学校高等科を卒業して、湧別川サケマス捕獲場
に昭和八年から十四年まで、毎年五ヶ月間従事しその他の期間は農
業や林業土建業に従事する傍ら、新鋭漫画集団を結成。雑誌「キン
グ」小樽新聞、雑誌「少年クラブ」に寄稿執筆。
 昭和十五年満州で現地入隊。十八年除隊し紋別小向の金山で採鉱
に従事していたが、家庭の事情で高知県に移り、安芸の営林署で働
きながら、高知新聞社発行の月刊「高知こども高新」に連載漫画、
挿し絵を執筆していたが、病により入院。その間も連載漫画は執筆。
退院後の昭和二十八年四月鎌倉の横山隆一氏(注、フクちゃんで
有名)宅に寄宿後上野に転居し、毎日新聞に漫画連載していたが製
紙会社のストで紙面縮小となり連載中止となる。結核で闘病生活を
送りながら少年クラブ、冒険王その他の少年誌に漫画、物語等を単
発連載した。漫画単行本三十数冊発刊。
 又国際情報社の「私たちの地理歴史」「大法輪」その他の誌に地
図、挿し絵、図解等二十余執筆現在に至る。
 
 受賞歴
 昭和八年十一月三日 道庁より人命救助により賞状と金一封を
                受ける。 (注、第四部私の記憶の記に
                       詳細掲載)
 昭和二十二年四月   大阪府警、新大阪新聞主催少年防犯
                漫画優秀賞授賞
 昭和二十七年      四国四県新聞社主催幻燈画最優秀賞を
                受ける。
 昭和五十三年十月   日本文人画府入会。同年上野美術館で
                第七回展「思い出の山河」新人賞
 昭和五十六年      回展〃「土佐伊尾木川上流」で努力賞を
                受ける。
     

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