錦町開基百年記念史 百年の星霜

昭和の小漁師
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  第1章 錦町の起こりと開拓の歩み  第2章 四号線の全盛時代


第1章
錦町の起こりと開拓の歩み

鬱蒼と茂る原生林、草深い原野、至る所を流れる小川や沼地、ばっこする野生動物。
そんな大地に入植して今日の基礎を築いた先人の努力には頭が下がります。

錦町の区域と名称の変遷    錦町の区域は、湧別町の「自治会設置条例」の別表によると「東
は東1線以西、西は湧別川以東、南は上湧別町町界以北、北は2号
線以南とする」となっており、これが現在の区域である。
 しかしながらこのような区域となったのは、大正9年の改正の時
からで、それ以前は、6部と7部に分かれており、6部の中に現在
の栄町の一部も含まれていたようである。またそれ以前には5部も
あったようであり、詳しいことは分からない。
 (大正9年の改正の時に当時6部の部長であった土井菊太郎よ
り村長に改正反対の意見書が提出されている。
 「・・・本年4月より当第6部を分割して第1部と第7部に付属するこ
とになったが、第6部は人口も暫時増加して70戸にならんとする
に至り、部民一致団結して共同の美風を養い、納税の成績も他の部
に負ける事なく・・・」
といった主旨のものであったが聞き入れられなかった)

 6部と7部の境は3号線辺りであったようで、当時6部の部長が
土井菊太郎で7部の部長が横沢金次郎であったようである。
 そして合併して第2部となり、昭和3年に今の登栄床が市街の1
部から独立して第2部となり2部の錦町が3部となったのであるが、
昭和4年に名称が部から区に替わり、3部の錦町は「四号線区」と
なり、以来「四号線」として呼ばれ、親しまれてきたのである。
 そしてその「四号線区」から錦町になったのは、行政的には、昭
和42年12月25日の「湧別町区設置条例の一部改正」によっ
てであり、翌年の43年に字名地番改正によりそれまでの基線○
○番地または原野○○番地、西1線○○番地が「字錦○○番地」に
なったのである。
 しかしながら昭和28年の町制施行の時に部落総会で「四号線
部落会」(戦中に区から町内会と部落会に変わった)を改め、市街
地区の栄町、曙町に習って「錦町」と決定しており、この間通称と
して錦町が通用していたようである。
 したがって「錦町」の名前は官製ではなく自主的な住民の命名で、
その名前の由来は「今の四号線は昔と異なり色々な職業の人たちが
住んで綾をなし錦のようだ」ということからだと発案者の西1線の
八田亀義は語る。
先住民族と当時の湧別原野  湧別町における人類の生活の起源は、約一万年前に遡るという。
 そしてそれらの先住民は河川や湖沼近くの段丘に竪穴住居を構え
、川や海の魚や貝、オットセイやアザラシ、陸に住む動物や山菜を
取って暮らしていたものと考えられる。
 錦町にも6号線で縄文式(縄文文化前期)、同じ6号線の苗圃附近
で亀ヶ岡系(同後期)の遺跡が発見されている。また石器や土器
などもあちらこちらで出土しており、この地区も行動範囲にあった
ものと想われる。アイヌ民族が北海道に出現し、アイヌ社会を築い
たのが擦文文化の終わった西暦1500年から200年位の間とい
うから今からおよそ500年から300年位昔のことになるが、湧
別のアイヌの人たちの伝説も残っており、湧別川の流域やオホーツ
ク海の沿岸に相当数が住んでいたものと想われる。
 今から300年前の「津軽一統志」牧只ェ門の記録によると「ゆ
うへつ村300人程、大将シホサヌ」とあり宗谷や雄武、渚滑、紋
別、網走のアイヌの人たちの集落が100人から200人程であっ
たことから見て、オホーツク沿岸の中心部落出合ったことが分かる。
 しかしながらこれらのアイヌの人たちは、和人の進出により漁場
を奪われ、労働力として酷使され、無知に乗じて脳されて次第に衰
退していくのである。
 そして明治二十四年道庁による区画測量が行われ、屯田兵の入植
が始まると湧利川流域に散在していたアイヌの人たちは八号線と九
号線の間の川西に土人貸与地を設けてここに集められたのである。
 西一線に住むハ田亀義は、子供の頃五号線付近の湧別川のほとり
にアイヌの人が拝み小屋を建てて住み、丸木舟を川に浮かべて漁を
していたのを覚えているという。
 未開の地であった当時の錦町は鬱蒼たる大木が茂る原生林と笹や
草が生い茂る原野で、その問を、幾つもの小さな川が流れ至る所に
湿地や沼があったという。

 当時の湧別原野
 北海道初代長官岩村通俊は、健全な移民と土地処分の簡便化を図
る為「植民地」が必要と考え、全道で主な原野を対象に「植民地選
定」事業を実施した。この中に湧別原野も明治二十二年に選定された。
 この湧別原野選定報告の中から当時の湧別原野を再現すると次の
ようになる。(注=口語文に訳す)
 
 『地理南は山を背負い、中央に湧別川があり、その支流の「ナョサ
ネ」川で上湧別原野と境になり 北は海に臨み、束は「サルマ」湖
西は「シブヌッナイ」川と「シブヌッナイ」湖で紋別原野に接する。
 これを下湧別原野という。土地高低おおむね大差なく・・楢・・柏
が生い茂り・・・平坦の土地は肥沃にして・・・。
 土質……河岸の樹林地は褐色の沖積土が上層を成し、下層は砂礫
である。
 表土は一定ではないが、一尺五寸から四尺で砂礫になる。河岸よ
り中に入ると林と草原が半々くらいで、表土は、黒い壌土が七・ハ
寸から二尺位ありその下は赤い沖積土か砂礫である。
 植物……河岸の林は、アカダモ、ヤチダモ、ハクョウ、クルミ、
ドスナラ、カッラ、コブシなどで一反当たり平均二〇本から三〇本
で、下草は、ョブスマ草、ナナッバ草がよく茂り、草原は、セリ、
カヤ、カラマッ草、フキ、ワラビ、ナナッバ草などが蜜生し……。
 用水……湧別川、「ナョサネ」(注中湧別)「マクンベッ」(注
六号線)川は共に澄んで河岸の地は、河川の水を利用するのに便利
がよいが、「サルマ」「シブヌッナイ」湖は、潮の満ち干で海水が
湖水に入るためと、湿地を通って湖に流れ込む川の汚れのため利用
できない。
 運輸……海に沿って道が一本あり、紋別、錯沸へ行けるが、湧別
より西南に向かうには僅か足跡を辿る小道で上湧別へ行ける。しか
し湧別川の下流にあるため川幅広く船の交通に便利がよい。
 気候……ここは北海道の北部に当たるため石狩、十勝よりやや寒
いが、夏は大体東南の風が吹き晴の日が多く、冬も根室地方と比べ
るとはるかに暖かく、初霜は九月中旬、初雪は十一月上旬で、積雪
は海岸では、二尺五寸川の岸では三尺から三尺五寸くらいである」

錦町開拓の歴史  湧別町の開基
 湧別町に和人として開拓の鍬を入れたのは、明治十丑年春、網走
郡役所に勤めていた半沢真吉が職を辞して湧別町五番地に移住した
のが最初とされ、これが湧別町の開基とされている。
 錦町の開基
 それより十一年後の明治二十六年七月十七日に利尻より竹内文吉
が基線二〇番地に入植したのが錦町に和人が入植した始まりといわ
れている。
 竹内文吉は、安政四年(一八五七)九月十日に新潟県加茂郡高千
  拓村で竹内仁右衛門の次男として生まれた。(紋別市弘道小学校
閉校記念誌より)
 「竹内さんは、最初今の清江さんの裏の川(G今は明渠になってい
るが当時は横沢家の裏に湧く水がこんこんと流れる川であり、泳ぐ
ことも出来たという清流で有ったという)の側に拝み小屋を建てて
住み、その後今の森田さんの家の付近に移ったと聞いている」
 (土井重喜談)

 この竹内の四号線入地の年度について「上湧別兵村誌」によると
 「明治二十四年佐渡の人竹内文吉利尻より四号線付近に移住し、農
園を開き、初めて組織的農業を経営せり。初年にはその作付け三反
歩にして、一反歩は栗、一反半は馬鈴薯、余の五畝は大根とす」
とあり二十六年入植の前記と相違するが、湧別町史は
 「土地台帳の明治三十年付与より見て、逆算すると明治二十六年の
入地が正しいようだ」と有り、竹内翁が移住した紋別市の弘道の記
念誌にも明治二十六年と有るのでこれを正当とした。
 竹内翁は明治三十一年六月小向駅逓開設のため弘道に移った。そ
して明治三十三年四月に駅逓の施設が整い、官設の駅逓所の取扱人
となった。
 今は廃校となった弘道の小学校の側に竹内翁の「彰徳碑」が建っ
ている。
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 その碑文は次のように記されている。
 「翁は明治三十一年人跡未踏の当地に移住し開拓に力を効かすこ
と実に二十有九年弘道教授所の設置、その他地方公共のため尽瘁
して至らざる成し。
 して至らざる成し。
 部民相諮り碑を建てその徳を彰せんとす。
 洵に美挙というべき也。即ち文を余に求めむ。
 因って記して以て後世に伝うると云う。
                   網走市庁長 渡辺勘一郎
  大正十五年五月二十三日 除幕式」
と記されており、碑建立の寄付人の氏名が碑の裏に刻まれている
が、「湧別村四号線」として次の名が刻まれている。
 「伊藤紋蔵、飯豊健吾、森田馬吉、忽滑谷丑蔵、窪内源吉、
山田増太郎、岩本正之、大谷音次郎、横沢金次郎」
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 湧別原野開拓の祖
 湧別原野開拓の祖、と「上湧別町史」が記しているのが徳弘正輝
である。
 高知の人徳弘は、明治十四年北海道に渡り、網走郡役所の水産税
吏として働いていたが、地味豊かな湧別を永住の地と決め、アイヌ
の人の小屋に住んで狩猟生活をして冬を過ごし、半沢が十月に紋別
戸長として去るに当たりその土地を譲り受け、麦、馬鈴薯を作った。
馬鈴薯などは、反(一〇e)当たり七・八○俵(注、一俵は六〇s)
も採れたという。
 その後徳弘は規模を拡大して行くが、「上湧別町史」によると「耕
作の場所については、海岸近くの二、三号線であったか六号線付近
のマクンベツで有ったかはっきりしない」と述べているが「明治十
七年に湧別村マクンベツ(湧別川洽いの六号線)の官有地三・三f
の売買指令を受けた記録がある」としており、錦町と満更関係無し
とも言えない。
 余談で有るがこの徳弘はその後中湧別に住んでいた美貌のアイヌ
の娘「大坪ホウ」を内妻としー〇人の子をもうけた。
 移住が相次ぐ
 明治二十七年四月二十八日岩内から西一線に入植した土井菊太郎
 (土井重喜の父)は
 『私は、明治二十五年に北海道に来て、岩内に住んでいたが、当時
北見地方を視察した宮崎寛愛が、湧別は将来有望な所と力説、移住
を勧めるので同志一三名と語らい移住を決意し、滝川から徒歩で、
中央道路の悪路を荷物を背負って苦労を重ねて現地に辿り着き、開
墾に着手したが、始めの間は主食物を確保するため徳弘の既懇地(約
10町歩位)の一部を借りて耕作した。この方法は大部分の入植者
が行った。』 (湧別町史)

 湧別方面への移住について土井重喜は、次のように述べている。
 『明治二十七年高知団体(秦泉寺広馬ら十数戸)広島県人
 (河合豊吉ら十数戸)が川西方面に来往、翌二十八年に礼文利
尻団体(池田関太郎、上野徳三郎ら六戸)が二号線付近に、高知
団体(西沢収柵ら七戸)と徳島団体(田村熊三郎ら数戸)が川西に、
渡辺精司ほか四十五戸と横沢金次郎ほか二十戸が四号線付近に来
往、引き続き石川、福井、徳島の各県から移住するものが増加し、
同年には浜市街にも茨城県から遠峰栄次郎ほか数戸が来往して
漁業を始めた』

 また法明寺に残っている古文書に初代住職の中川大悟がしたため
た次のような一文がある。
 「本派の説教所をここに置かれしは、明治二十七年六月にして仏行
事として本所のほかこれなく、村としてまた行政の機関なく、わず
かに来往者一七〜八と旧土人を合わせて三二〜三の炊煙を見るに過
ぎず……」


 
土地の払い下げ  湧別原野が「植民地」に選定され、区画測量が明治二十二年から
大正六年まで行われた。
 下湧別原野の測量は、明治二十四年に行われ、二三、四四七・五
九六坪がー、四九二区画に分けられた。区画は、まず基線を設け、
それと直角に基号線を設定し、それと並行して三〇〇間(五四五メー
トル)毎に碁盤の目のように区画道路を引いた。
 区画の単位は、まず九〇〇間四方の大区画を作り、それを九等分
して三〇〇間四方の中区画とし、さらにこれを六等分して小区画(間
ロー○○間×奥行一五〇間)を作りこの小区画五町歩を一戸分とし
たのである。この区画の設定にもとずき明治二十五年に貸付の募集
を行ったが、はじめは希望が多くなかったようで、二十六年に貸付方
法が一部改正になり本格化したようである。
 そしてまた大資本に対して無制限に貸し付けられていたものも制
限され開墾目的地は一五〇万坪、牧場目的地二五〇万坪、植樹目的
地は二〇〇万坪となり、本州よりの単独、集団移民に対して、汽車
賃、船賃の補助があり、土地は無償の貸与とし、五年以内の貸与期
間中に開墾検査に合格すると無償で払い下げられるようになった。
 以上が湧別原野の土地が払い下げられ開拓されていく背景となっ
た国の施策や原野の状況である。
 この時代に作られた三〇〇問の区画が、今も使われて号線となっ
ているのである。

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  浜口首相が湧別に
           住んでいた?

 昭和六十一年六月二十六日の高知新聞はこの記事を五段抜きで
報じている。(注、高知新聞はこの年姉妹都市である北見市に親善使
節団を派遣したが、その時同行した記者が取材したもの)その記事の
全文を紹介する。

 本県が生んだ最初の総理大臣、浜□雄幸が北海道開拓者だった?
浜□が明治二十九年から三十二年にかけ、北海道紋別郡湧別町ヘ
往んでいたことを示す戸籍関係の記録が、この程確認された。し
かし、浜口の年譜によれば、当時大蔵省に勤務しており、北海道
開拓のちよとしたミステリーになっている。
 浜□雄幸は明治三年四月、長岡郡五台山村唐谷(現高知市)、
水口胤平の三男に生まれ、同二十二年安芸郡田野村(現田野町)
浜□義立の養嗣子となっている。同二十八年東京帝国大学を卒業
後大蔵省に入り、各局長職を歴任。大正六年に辞職後政党活動に
入り、昭和四年七月、第二十七代内閣総理大臣になった。
 ところが、湧別町開拓の歴史を調べている町史編纂委員、土井
重喜さん(八四)によると『紋別郡湧別町西一線二十番地、戸主
浜□雄幸は明治二十九年二月二十一日、高知県安芸郡田野村五五
七番地より来往』との記録が残っているという。さらに『明治三
十二年五月二十日、安芸郡田野村二七八番地へ転移届け出、同日
田野村戸籍吏村木繁枝受付』とあり、湧別村には戸籍上、浜□は
約三年三ケ月、入植していたことになる。
 しかし浜口の年譜によると大蔵省に入った後明治二十九年、山
形県収税長となり、同三十年には大蔵省書記官兼参事官に。
 三十一年からは松山、熊本、東京の各税務監督局長を歴任して
おり、北海道へ入植した事実はうかがえない。土井さんは『田野
町からの入植者は現実にいた。しかし、総理大臣になった浜□さ
んが当町で開拓農業をしていたとは考えられない』とし本人の意
志で(または承諾を得て同郷の入が)戸籍を動かしたのでないか、
と推測している。当時、入植者数によって開拓団へ国有地が払い
下げられており、名義上の入植の可能性が強い。
  一方、安芸郡田野町にもそれを裏ずける記録は残っており、同
町の町史編纂委員で、浜□雄幸の研究家・細川高義さんは『当時
は日露戦争(明治三十七〜八年)前であり、徴兵検査を逃れるた
め一時、戸籍を移したのではないか。この説に根拠はないが、同
時代の多くの入がそうしていたからだ』と話している。
 総理大臣就任後は緊縮財政を掲げ、金解禁を断行した浜□雄幸。
 『男子の本懐』と実直なイメージで知られる人柄だけに、こうし
たエピソードは似つかわしくないためか、両町の町史には触れら
れていない。北海道開拓の秘話と言えよう。

 浜□雄幸について
 総理に就任してから折からの世界大恐慌による不況
が深刻化し、ロンドンの海軍軍縮条約に調印したこと
が軍部や右翼により統帥権の干犯として追及を受け、
翌五年十一月東京駅で愛国者社員に狙撃されそれが原
因で翌年死亡した。
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開拓の苦労を語る    ここに一通の手紙がある。
  それには北海道への入植と入植し
  てからの苦労活か詳細に記されて
  いる。
  お許しを得てここにその一部を紹介する。

   (差出人は東京都田無市に住む小松立美さん、
    受取人は錦町の仙頭富萬さん、小松さんは錦
    町生まれ)
移 住
  (前略)仙頭家の初代は又右工門だったと思いますが、違うかな。
 生まれたのは高知県安芸市(現在)穴内、刑部と聞いています。
 先祖は地頭職の家柄で代々地頭職を続けたので仙(専)頭と言わ
れるようになったとの伝えもありますから立派な家柄の子孫のよう
です。初代は頭が良く商売も上手く、温厚で大変な働き者であった
とのことです。その初代が何故高知から遠い下湧別村なぞへ来たの
か。それは当時安芸市土居出身の宮崎寛愛氏(注、明治二十六年
新天地を求めて来道、当地方を有望な土地として同志を募る)の誘
いによるとのことでした。
 初代はわざわざ遠い下湧別まで下見に来たそうです。そして土地
の状態、気候、その他の事も良く細かく調べて帰県したとの事です。
 (明治何年か不明です)初代には目算が有ったのか、下湧別への移
住を決意したようで、財産の半分ほどを売却して(残りは後年湧別
の生活が安定してから売却したようです)その金を資金にして家財
道具全て、ハタオリ機から味噌、醤油、豆腐を作る道具まで運び出
し、安芸沖に停泊する貨物船に積み込んで家族六人も乗船した由で
す。
 一家が乗船した貨物船は(トン数等不明) 一ケ月の航海をして、
下湧別の沖に着きましたが、港がないので”ハシケ”で上陸したそ
うです。この時土佐人が何家族、何人乗船し上陸したのかは聞いて
いないので分かりません。(編者注、町史に因ると明治二十八年西
沢収柵ら七戸とのこと)

開 墾
 この時の道路事情等はどうなっていたのか知りませんが、川西
か五号線に落ち着いたようです。落ち着いてからどの位の日数の
後から開墾を始めたのか不明です。しかしこれがもう大変なことで
あったと開いております。
 何せ直経一メートルもある堅い堅い柏、楢の大本を切り倒して取
り除き、その後を開墾するのですから。
 この楢の木には皆于を焼いて、やむなく火をっけて燃やす人が
おおくあったそうです。しかし初代は「モッタイナイ」と考え高知で
慣れている炭焼きで木炭を生産して、高知時代から取引のあった
楠瀬氏の店(丸大)に売却していたようです。
 また炭焼きはかなり長く続けたようです。初代ばかりでなく他の
土佐の人も多くは炭焼きを長く続けたようです。それだけ原
木が豊富にあつたのでしょう。
 開墾には丸鍬という特殊な鍬を使いました。
 大地を魚のウロコの形に据り起こしていくのですが、誠に合
理的で優れた最良の道具でした。私も大分使いましたが、笹の根
等もバスバスと切れ感心したものです。大発明品でした。(編者注
戦後の開拓でも使われていた)
 土佐人の中にはこの丸鍬で一日に一反歩も据り起こした猛者もい
たと開いています。勿論毎日ではなかったのでしょうが。
 また馬を死なせてやむなく一頭引きのプラオを人間が引っ張っ
た豪傑もいたそうです。この人は高知の山で木材を搬出する木馬
引きをしていたそうです。土佐人の中にも色々な人が居たようです。

苦 難
 しかしやがて開墾が進むにつれて過労のために次々と
倒れ込む人が多くなったそうです。川では「サケ」や「マス」が
豊富に獲れて良く食べたそうですが、何分他の食糧事情が悪かった
そうですから密漁と分かっていてもやむを得ない状態でした。
 開墾は女、子供だけでは無理なだけに全てを諦めて帰県する人が
出始めて帰県の金策に、初代又右工門の所に「頼み込んで」来て泣
きついたそうです。
 初代も共に夢を抱いてきた仲間です。見捨てるわけにも行かず、
旅費の代わりに土地を押しつけられ所有地が三十町歩近くにもなっ
たことがあり困ったそうです。又多くの人が寒さ等で死んだとも聞
きました。
 土佐人が入植した土地は川筋の肥沃な特等地もあったそうですが、
何分とも湧別川は暴れ川ともいわれたイヤな川で、春の雪解け水で、
毎年の様に流れが変わるのでした。
 護岸工事もない当時のことですから、開墾したばかりの畑が雪解け
水の濁流に流され消えていくのを無念の涙を流しながら見ていた
ことでしょう。
 (後々は毎年冬の間に蛇籠等で護岸工事をするようになったそう
です。)
 そんなことで初代が押しつけられた川筋の土地は、殆ど流されて
しまったそうです。その為に入植地を去る人達もいたそうです。
 それでも十町歩余りの開墾には、家族だけでは手が足りずに人を
雇っていたとも聞いています。開墾時代の「ガン」的存在であった
 ”ナラ”の本の巨根は、昭和二〜二年頃になってもまだ腐らずに、
本の白骨のように頑張っていました。
 そんな事で各農家では、冬の間に大きな巨根を除去する姿を良く
見かけました。三十年程経っても腐らない「ナラ」の木の巨根は、
それ程シブトイ木でした。
 この当時の老人は男も女も過酷な労働のために背筋が伸びてしま
い腰の曲がった人が多数いました。
  初代が隠居したのは何時頃なのか分かりませんが、小さい頃の記
憶でも、もうへの字に曲がった姿でした。隠居の家は西一線の道路
がマクンベツ川に突き当たって消えた手前に建っていました。茅葺
き屋根の家でした。 
 働き者の初代は味噌から醤油、野菜等を作り、米以外は殆ど自給
自足の生活で、川のすぐ側なので魚も考えて獲り食べていたようで
す。隠居の家の前の畑には十本ほどのリンゴが植えて有りましたが、
消毒不足で虫食いが酷くて食べられませんでした。リンゴの木は、
屯田兵村で、現金収入のため全村に植えたらしく、その影響なのか
西一線の家家では、五本か六本は大抵植えていましたがその内に消
毒不足で駄目になり皆切り倒したようです。
 初代は高知で子供の頃覚えたという小鳥の鳴き方や「エビ」や「ウ
ナギ」の獲り方などを面白く話してくれました。
 その初代も私が十五才の年の秋に亡くなりました。私達は孫だけ
で柩を担ぎました。確か八十六才か八十七才で亡くなったと思いま
す。
 又後日聞いた話ですが、高知では一年中もう働き通しで息つく暇
もなく働いたが、北海道では夏は忙しく働くが、冬は骨休みが出来
ると働き者の初代が北海道移住への決心を話していたそうです。
 昔の高知での仕事はそれだけ苛酷だったのでしょう。(後略)
屯田制度と錦町
































第1章に戻る
 明治30年と31年の2ヶ年に亘り現在の上湧別町に屯田兵
399戸が入植したが、屯田兵村に燐する四号線はこれにより大
きく発展すると共に、屯田兵の流れを汲む多くの人が四号線に移
り住んでいる。
 (屯田兵制度は、徳川時代まで続いた郷士制度と似通っており、
軍事上や産業上重要な地点に農業を職業として家族とともに生活
した土着兵である)
 そのなかの一軒である高桑国光家の場合を見てみよう。
 愛知県西春日井郡豊場村出身の高桑吉衛門は、父庄三郎母セイ
、妻たま、弟兼三郎、妹つね、てる、と共に明治30年5月19日屯田
家族の移送船団武州丸に乗り、愛知県知多湾の武豊港(たけとよ)
を出港、5月25日湧別浜に到着したが時化のため上陸できず船内
に2日間待機して27日に食糧も底をついてきたため艀による上陸を
決行した。
 「5月の末だというのに、家の裏の日陰には消え残りの雪があり、
黒々とした枝が強い風に吹かれて音を立てて揺れていて、言い表
すことの出来ない淋しさと、不安に胸を曇らせた」
 「我々の落ち着く所は何処だろうと見渡すとただ風だけが吹きす
ぎる広漠たる原野でただ茫然として棒を呑んだように立ちつくし
てしまった」 (注、屯田入地者=上湧別町史)

 この頃四号線は移住者が相次いで入植し、中心部には伊藤商店
や遠藤旅館が店開きをした。そして屯田の家族は四号線に買い物
に来たという。
 「うちは家族が多かったから、蕗とか麦、黍を混ぜて食べた。兵
村で麦が獲れるようになるまで四号線まで買いに行きました。肩
に担いできました。」

 高桑吉衛門は屯田兵として勤めていたが日露戦争に参加して負
傷帰還してから生涯中湧別で農業に励んだ。
 弟兼三郎は18歳で兄と共に来道し、兄の農業を手伝っていた
が、明治の末下湧別村西一線一八番地に分家して農業を営み兄の
妻たまの妹なつと結婚して4男4女をもうけた。
 その長男正義(明治40年生まれ)が国光の父である。
 正義は昭和17年警防団員として湧別浜で機雷爆発事故の
犠牲者として36歳の若さで家族6人を残して亡くなった。

第2章
四号線の全盛時代
 
紋別道路の交差点となった四号線は、中央市街と称して殷賑を極めた。
銭湯から遊郭、劇場までないものは無いという全盛の時代があった。

四号線商店の第一号は
   伊藤商店
 湧別地方は、明治20年代に移住者も増えるに従って商店も生ま
れたが、湧別町の最初の商店は、27年に浜市街で酒、駄菓子、
脚絆などを売った遠峰栄次郎が始まりであり、明治29年に上湧
別で屯田兵の入植の為の工事が始まると一層商業の進出に拍車がか
かり29年に秋には、商店12戸、鍛冶屋2戸、料理飲食店4戸、湯屋
1戸、理髪店1戸の20戸(河野常吉巡回手帳)となった。
 一方四号線も「当地に商店を開設するもの無く、単に農地たるに過ぎ
ず、明治29年兵村工事が着手されるや急に人馬の往来煩雑となり、
また附近の移民次第に多くなるに伴いこの地に露天商、腰掛け茶屋
等を営むものが現れたが、いずれも仮設のものであった。
 翌30年夏伊藤紋蔵(雑貨)、遠藤幸作(旅館)、の両人が初めて
開店す」
と兵村誌は伝えている。
 したがって商店らしい店として営業を始めたのは、伊藤商店が第
一号である。
 伊藤商店の有った場所は今の農協の資材店舗のところである。
 この伊藤商店は明治36年に裏を流れる湧水の水質の良さに着目し
、自分の店で売っている酒の質の悪さから酒類の製造を始め、明治
40年には酒の製造量は425石、焼酎16石の生産を上げ、特に焼酎
は「エビス焼酎」の名で有名でまた酒も「伊達藤」で三郡物産共進会で
3位に入賞するなど、最盛期には管内一の生産量を誇った。そして容器
の樽は材料の木材を内地より取り寄せ樽職人を雇ってこも樽を作らせた
と言われている。
 また屯田兵として北兵村に入植した西潟かぎさんは
 「四号線は私たちが入地したときは原野で一軒の家もなかったが、
屯田入植とともに人家が建ち、商店も増えて見る見るうちに市街と
なった。大概日用品は四号線で求められましたが、気のきいたもの
は浜市街の店でした。南兵村の人たちも四号線まで買い物に来ました。
と語っている。
 明治31年に四号線と紋別間に「紋別道路」が開通したことにより四号
線は一躍交通の要衝となり遠く滝ノ上方面までに及ぶ農産物の集散地
となり冬期間には馬橇が列をなし、商店も大いに賑わった。
 そして一般商店のほか、飲食店、旅館、湯屋などの開業が相次ぎ、
たちまち市街を形作り、商店の数は浜市街に及ばなかったが売上高は
匹敵する繁盛ぶりで、中でも伊藤紋蔵商店(酒造、醤油製造)は紋別郡
のほか常呂、佐呂間、網走まで出荷したという。
 大正7年の新聞記事にも次のように紹介されている。
 「中川、桜井(呉服店)、伊藤(造り酒屋)、田中、山田、片桐の大商店
を始め、福山、山口の馬具金物店、香川、藤田の菓子店、小川時計店、
戸田薬店、浅野理髪店等いずれも堅実な経営・・・それに赤繁、遠藤の
旅館あり、郵便局、戸田医院、加藤、里中の蹄鉄工場、飯豊、斉藤の両
獣医、その他飲食店、鍛冶屋(注=3軒、鋸鍛治1軒)、大工、洗濯屋、
古物商等に至るまで軒を並べ・・・遠軽地方より呉服太物買いに汽車賃
を投じて四号線市街に来る客筋あり・・」

 という有様で、
 「川西にいた川村という人が、弘法さんの辺り(旧共済組合診療所の
向かい辺)で飲み屋をやっており、屋号を「かわたけ」といい、女7〜8人
を置いてやっておたこともある」(土井重喜談)
 「明治42年の四号線市街の戸数は、112戸を数えた」という。
 これは平成5年の錦町の三号線から五号線までの戸数とほぼ同じ
であるから如何に栄えていたかということである。
中央座と山西三次  川西に入植した山西三次はその後四号線に移り今の加藤弘一さん
の家の辺りに住んでいたが、明治43年に山本ブロック向上の裏
辺りの川の側に劇場を建て「中央座」と称した。
 これは本格的な興業施設としては、湧別地方の第一号であった。
 この劇場が出来て間もない頃の或る夜、三次が劇場の興業を終え
て自宅近くに戻ってきた所、馬小屋で音がしたので不審に思い捜
していたところ怪しい人物が逃げ出したので、息子2人とともに追い
かけた。
 ところが相手は刃物を持っており、息子の一人は挌闘になったとき
にその刃物で刺され死亡した。
 怒り心頭に達した三次は、湧別橋を越えて男を追いかけ、ついに
その男を持っていた棒で殴り殺したというのである。
 この殺された男は、後で警察が調べたところ盗みの七つ道具を持つ
プロの泥棒であったという。
善光寺さん  本町が開村したばかりの頃と云うから明治30年頃であろうか、50歳
前後の僧衣を纏った気品のある男が飄然と来村した。
  この人はもと長野県善光寺の寺侍で松尾富士太郎といい、当時寄
付金を集めに根室にきたが、折悪しく火災に遭い、集めた金品を消失
したことから寺にも戻れず自責の念と失意から遁世的に同郷であった
横沢金次郎を頼って来村したのであった。
 懺悔の生活を発念した松尾富士太郎は、一定の職業にもつかず、
もっぱら難渋する人々を世話することに傾注し、出産や葬儀には
進んで世話にあたり、特に助産の心得深く、頼みに応じて数里の道
も厭わず村内のいたる所へ出向いたという。
 また、漂着した海難による腐乱死体を引き受けて埋葬するなど、一
般の成し得ないことを平然と奉仕し、住民に尊敬と親愛の情を深め、
信望を集めて、誰いうともなく「善光寺さん」とあいしょうされるまでに
なった。
 終生独身で、ささやかに起居した三号線の居室で病臥したときは、
善意の見舞いが絶えなかったという。
 そして大正2年12月2日に惜しまれつつ70歳を前に他界した。
 佐藤善蔵、遠峰栄次郎、武藤富平、山田増太郎、中川辰造等有志
が発起人となり五百円余の浄財を募り、地蔵尊建立を進め、大正14
年の命日に広福寺の境内に建立して追悼を行った。
 以来「善光寺さんの化身地蔵」と呼ばれているが、松尾富士太郎の
篤行に対して、村としても昭和12年の開村40周年記念式典で、
社会事業功労者として追悼表彰を行って遺徳に報いている。
仁徳の人飯豊獣医  飯豊謙吾は、明治39年春に四号線(注=元共済組合診療所隣り)
に来住して家畜医院を開業したが、自らは赤貧甘んじ恵与や利欲
に淡々とした人格者で、診療に際しては、貧富の差別なく親切にし、
困っているものには治療費の請求をせず支払いに来る者からのみ貰
ったという。
 従って農民からは神様のように慕われた。子供を幼くして亡
くして夫人とも早くに死別し、晩年は妹を呼んで二人で暮らした。
 当時の家畜診療期間の乏しかった明治末期から、昭和17年に病
に臥すまで、獣医師としての昭和委は、町の畜産の振興、特に馬産の
振興に大きく貢献した。
 しかし行いが奇人のように想われた所もあった。また在郷軍人会
分会長、消防組頭なども勤め昭和12年の開村記念式で表彰された。
 昭和24年に永眠したが、生前に親交のあった大口丑定、木村
敵造、友沢喜作、野津不二三等が発起人となり、30年に頌徳碑建設
を呼びかけ、篤志寄付によって広福寺境内に、「飯豊健吾頌徳碑」
ができ、同年、10月除幕式が行われた。
 碑文に詳しく氏の業績、生涯が記されているのでその全文を紹介
する。(飯豊獣医の事については、小松立美氏の特別寄稿文にその
人となりや暮らし振りが詳しく紹介されている)
 なお碑文は元湧別町長で名誉町民大口丑定氏である。
 『君は青森県田子町の士族飯豊家の長男に生まれ、三本木畜産学校
を卒業、明治36年獣医免状を受け、北海道庁に奉職、
 翌37年一年志願兵として騎兵第七連隊に入営し引き続き日露
戦役に従事、同39年陸軍三等獣医に任官、同年5月除隊になり
本村に移住し、村獣医として開業以来常に病畜は門前市を成す有様。
 君は診断的確且つ懇切にして料金の如きは、督促せし事なく実に
稀に見る人格者にして、世人の敬仰せる所なり。
 なお幾多公職の嘱託を受け、就中大正元年本村在郷軍人分会副会
長、大正八年会長就任以来本村分会解散に至るまで凡そ3十余年間に
亘り実に模範的会長として幾多の賞状、有功章を受け、更に昭和六
年本村消防組頭となり、地方のため貢献せられたるはよく人の知る
ところなり。
 君は資性温厚の中に剛毅な性格を有し、一面奇人の評あるが如き
奇行もありたるも清廉潔白にしてあたかも古武士の風格を備え、一
般の畏敬せる所なり。
 然れども君は家庭的には極めて不幸にして早く妻子に死別し、遂
に孤独の生涯を送りたるは誠に同情に堪えざるものあり、この不幸
の中にも幾多の青年獣医を育成し、今日各々成功しつつあるは君の人
格の反映ともいうべきなり。
 しかるに昭和十七年二月七日突如脳溢血のため倒れ療養につとめ
るも再び立つを能わず、遂に昭和二十四年四月三日逝去せられる。
 時に年六十八歳。地方住民として君の遺徳を忍び今回同志相計り
幾多の寄与を得て、ここに君の英霊を慰めんとす。
    以上略歴を叙して記念となす。
  撰文 大口丑定 平野 貞謹書
  昭和三十年十月建立』
と書かれてあり、碑の正面には
 『正八位勲六等飯豊健吾頌徳之碑  建設委員長大口半湖書之』
とある。
飯豊さんの思い出  飯豊さんは男の目には軍人の凛々しい姿が素晴らしく映ったも
のであった。
 学校の行事や村の行事に出席のため出掛けるときは必ず軍服姿
にサーベルを下げて小さな道産っ子馬(ピンコとポンコと二頭飼っ
ていた)に乗ってポコポコと走らせていく飯豊少尉の姿に誰でも
頭を下げたものだ。老人にでも子供にでも必ず挙手の敬礼をして
馬の早さを少し押さえて通り過ぎていくのだ。子供心にそれが嬉
しくて遠くから立ち止まって頭を下げたものだ。礼儀正しい古武
士を思わせる謹厳の塊のような人であった。
 家庭運に恵まれず夫人を二人も亡くし、子供も一人夭折し不運
を越え弟子を置いて農家のために治療に専念し、しかも困った農
家が治療代を滞らせても「家畜に罪はない」といって治療をして
やり、請求書は一切出さず払いに来る者からだけ貰った。
 農家の人は、神様のように尊敬していた。
 弟子二人、時には三人と生活し不自然な衣食の生活で、夏でも
厚い綿入れの半纏を着、暑さを妨げるといって離さず冬もセーター
の上に必ず着ていた。
 食べ物も一度に詰め込んで何食かはお茶だけで過ごすと言った
奇行もあった。
 経済的にも家庭的にも苦しさに耐えて、世の人から尊敬され在郷
軍人会、消防組の長を勤め、晩年も必ずしも幸福ではなかったが、
四号線時代の偉人と言える一人であった。
                (八田 亀義)
薪を燃やして電気を供給
した
   湧別電気(株)
 第1次世界大戦の影響による物価高騰により、この頃ランプに使用
していた石油が高騰し、大正2年に18リットル入り2円30銭で
あったものが、大正6年には3円にもなった。
 このため各地で灯火用の発電を計画する動きが起き、大正7年四号
線の山田増太郎が発起人となり、資本金5万円で「湧別電気株式会社
」を設立した。
 三号線高木義宗宅跡に10馬力の火力発電機を置き、薪を燃料とす
る動力機によって、大正7年9月に操業を開始、四号線や湧別市街に
送電し本町最初の電気が灯った。しかし幼稚な機械設備で、発電力も
十分でなくランプよりも幾らか明るい程度で、加えて故障も多く、その
度停電という状態であったという。
 その後木炭ボイラーとして25馬力から75馬力に改良したので
かなり明るくなり、翌8年からは上湧別市街まで送電した。
 しかし技術も進歩し、水力発電の時代になって、山田増太郎は、
大正12年に瀬戸瀬で湧別川をせき止めた近代的な水力発電所の建
設に着手し、翌13年2月19日に完成し、遠軽地方に電力を供給
した。このため「湧別電気株式会社」はこの年に廃業した。
 因みに、生田原の点灯が大正10年、遠軽が同13年というから湧別
の7年の点灯はこの管内のトップであった。これも山田氏の先見の
明によるものである。
 この後山田氏は、電力業界の技術者として全国を駆け回る活躍をし
財力もあって、四号線の発展に寄与した功績は大である。町でもこの
業績を後々にまで残すために平成5年の開基百十年記念事業で会社
のあった三号線に史跡記念碑を建立した。
四号線の祭り「馬頭さん」  馬頭観世音の碑は、各地に建てられているが、これは当時の農業や
運搬の荷役に重要な労働力として活躍していた馬に対する安全と、
亡き馬に対する感謝を捧げるために建立されたもので、四号線にも昭
和16年8月に当時の荷馬車組合の本間為吉、内匠清次、佐野徳之助
、仙頭修、田中実の各氏等が中心となって建てられた。
 場所も法明寺の住職坂上堅正師の好意により境内の一隅に設けら
れた。
 建立当時から供養は毎年7月17日に行われてきたが、終戦後の
打ちひしがれて明日への希望も見出せない暗い世相に北斗青年団(団
長 山喜一郎)がこの供養に合わせて演芸会を催し、以来四号線の
年中行事として楽しみに待たれるようになり、東、川西、湧別市街
からも多くの人が集まり夜遅くまで賑わった。
 昔から「馬頭さん」(馬頭観世音の碑は親しみを持ってこう呼ばれ
ていた)のお祭りはどの部落も7月の17日に決まっていたが、
四号線は他の地区と重なるのを避け、2日早めて15日として四号
線部落祭典と名づけて法要を行うと共に、子供運動会と相撲、その
あと青年相撲を法明寺の境内の遊園地(湿地であったのを農家の馬
が総出で土井産業の砂を貰って埋め立てて作った)で行った。
 夜は四号線の十字路で空地となっていた伊藤酒造店跡(現農協資
材店舗)にドラム缶を建て、細木丸太を組んで舞台を作り、芝居や
歌、漫才などを半月以上稽古して上演し、時には他部落の人の飛
び入りもあり大騒ぎであった。
 またお盆の8月15日、16日は、十字路で道路一杯に輪を広げた
盆踊りの様子は、今は想像もできないように盛んであった。戦後の
娯楽の乏しい時代であり、車もバス以外走らないし、今の歩行者天
国のようで心行くまで夜を楽しむことが出来た四号線十字路社交場
も交通量も増え他の娯楽が多くなり、30年頃にはその姿を消した。
 私は当時北斗青年団の相談役であったので演芸会の芝居や、漫才
の台本を書いたが、素人の私の書いた台本であれほど喜んでくれた
ことは、町の人が如何に娯楽に飢えていた事か。今と比べて50年
の歳月をつくづく思う。
              (八田 亀義記)
賑わった種馬所と馬市  北海道農業にとって馬は貴重な唯一の動力であった。
 また軍用馬の生産も重要であり、このため農林省は大正4年に下
湧別村六号線の保安林地の基線道路側に十勝種馬牧場湧別種馬所
を開設した。
 開拓当初の農耕馬は、道産駒(どさんこ)といって野生馬を飼い慣ら
した小柄な馬で、体躯の割には驚くほど力があった。(これは昔本州
から道南の開拓に導入された和種が放牧され自然繁殖して野生化
したとの説がある)
 種馬所開設に伴い輸入種馬も多くなり、馬も大型化され大正末期
からは陸軍の重要な戦闘機動力として高価に買い上げられ農家の
経済を潤した。
 軍用馬は、雄の良いものだけを買い上げられるのでを買い上げら
れるので生産者の努力の目標であり羨望の的であった。
 昭和11年遠軽に北見種馬所ができ、湧別にも大きな厩舎が建て
られ、種馬も増え、家畜市場も改築され、共進会が開かれて馬産北
見の全盛期を迎えた。
 軍馬のほか特別良い馬を厳しい審査の上、農林省の種馬候補とし
て数頭買い上げられた。これらの馬は軍用馬の三倍くらいの価格で
買い上げられた。
 共進会が始まると近郊の農家が、馬宿となり7月13日より16日
迄で入賞が決まり、17日より農林省の種馬買い上げと陸軍省の
軍馬購買と一般馬の競りが22日まで続き、17日には種馬所の森
の中程に祭る相馬神の碑の前で神官のおはらいのあと祝宴があり、
午後からは相撲、撃剣(今の剣道)、銃剣術や時には農耕馬の競馬
等が奉納行事をして行われた。
 上湧別、遠軽方面、芭露などからも人が集まり地元の若い者たち
と腕を競った。東京相撲(今の大相撲)崩れの大男も来て賞金の取
り合いが見物だった。餅撒きもあり、共進会の客も多く、露天商の
店も立ち並び大賑わいのお祭りであった。
 当時の物価はタバコ20本が10銭から25銭、普通の人の月給
が30円から50円の時に軍用馬は3百円以上、農林省の種馬は千
円以上で買い上げられた。
 因みに普通の馬は百50円前後であったと記憶している。終戦近い
頃は更に価格が上昇した。
 思い起こせば4月末になると遠軽から種馬8頭と係員2名が来て
種馬所が開所され、朝は7時、午後は2時に合わせて両湧別の農家
の馬の長い列が通い始め、道路縁の作物は仔馬の飛び跳ねる足跡で
踏みにじられた。
 また種馬の運動も朝夕行われ係員の他、私たち近所の若者が頼
まれて騎乗し馬場だけでなく、道路に出て五号線を西に向かい、西
一線を二号線まで走り、堤防に上がって種馬所の裏まで走るのが
コースであった。
 自分の農耕馬より30センチも高いので乗るのに苦労したことを
覚えている。全頭一斉に走るときなど壮観であった。
 春風に、新緑の草木の間を走る種馬のひずめの音や種馬所に通う
農家の馬の長蛇の列やその人たちの話声は、春の躍動を告げる風物
詩の一つであった。7月30日の閉所に種馬に乗って遠軽まで送り
届け一泊して帰宅すると種馬所の森は、かっての静寂を取り戻して
いた。終戦後は、馬の需要も激減し種馬も半数となり、個人の管理
となったが、トラクターの普及で農耕馬も姿を消し、時代の流れの
大きな転機となった。今に残る当時の面影は、元厩舎前にオンコ松
に守られた「良勇の碑」(この馬は強健で従順な良い軍馬を多く出
した父馬として功績を讃えるために建てられた)と老木の森にある
馬場の中央の「相場神の碑」と家畜市場の建物だけとなった。

 後記  昭和19年の私の日記には
 農林省買い上げの種馬候補は11頭
 土井重喜の生産馬2頭 最高2,000円
 安藤庄七の生産馬  最低1,200円
 陸軍軍馬買い上げ 八田生産馬650円とある。
                (八田 亀義記)
四号線の大火


































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 四号線の大火については、四号線出身で東京に出て漫画、挿し絵
画家を志望して大成した小松立美氏の思い出に克明に書かれている
ので蛇足は避けるが、自分の体験と感銘を覚えた事柄を記してみた
い。
 当時小学校は、二号線の現在体育館の所にあったが、昭和6年1
1月の或る日の昼頃授業中に小使さんの声で
 「四号線が火事だ。四号線の生徒は帰してくださいと校長先生が言っ
ています」と担任の先生に告げに来た。
 私は、先生の指示を待たずに飛び出してみたら黒煙が天を突いて
いる。思わず走り出した。 
 菩提寺広福寺には八田家先祖伝来の家宝の仏像千住観世音菩薩が
安置させて貰ってある。和尚様の勧めで父母が修理代を工面して磨
きあげてもらった古いものである。もしもの事を考え夢中で走った
が三号線近くまで来て風の向きから寺は大丈夫と分かって小走りで
現場に近づいたが、道路は熱くて山田商店と千葉餅屋の軒下を走り
抜けて山口商店の前で見ていた。
 中川商店裏の倉庫の石油缶の破裂して燃える炎が恐ろしかった。
そして裏の小松精麿さんの家が燃えていた。小松精麿さんは消防士
なので出火と同時に現場に駆けつけ消火に奮闘し、自分の家に飛び
火したのを知らなかったのである。その職務に忠実で義勇奉公の精
神は日常生活にも現れていて人々に尊敬されていたのでこの不幸な
現実に大きな同情と敬意の目が注がれたものであった。
 出火したのは四号線全盛期に建った赤繁旅館の大きな建物で、北
西の四つ角に建っていたのを山田商店が買い取って物置と店員の
寝室にしていたその2階から燃えだしたという。
 類焼したのは酒井時計店、石川(村雲)豆腐店、詫間某宅と南側
の中川商店(現在の農協事務所)と小松精麿宅であったが、後の噂に
よると山田商店では、同業の中川商店には消失した店より間口も広
く大きな家を建て、他の被災者にも適切な補償ををし、陳謝の意を表
したということを聞いて子供心にも感動したが真意のほどは定かでな
い。
 その後小松氏は、町の近くを嫌って湧別橋の川縁(現在の加藤秀夫
氏宅付近)に住居を移した。因みに小松立美氏は精麿氏の子息で、
書道の大家吉村昭三氏の母方の従兄弟である。
                     (八田 亀義記)