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                                                         生活・文化

生 活  雑 史   


花りんごほろほろ水のうまき村  青野 れい子

 生活      
  服 装  衣 服  屯田兵開拓時代の井戸組、葬式組については、前に述べてあるが、一般の生活はどうであったろう。
 四国九州のような暖国の者は、仕事着も膝までの着物に脚絆をはき、娘などは赤たすき、姉さんかぶりの姿は、人目を引いたと云われます。 又寒い雪国の東北地方の者は、暖かさを主として、冬着はチャンチャンコと云われた綿入れの袢纏を着、モンペをはいていた。
 開墾当時は、蛇、蚊、ブヨなどの虫が群れをなし、顔や首、手足は勿論、着物のすき間から入って、刺すので痛みかゆみで、仕事が出来ないほどであったと云う。 冬の寒さを防ぐにも、はじめは不様なモンペ姿と、笑っていた暖国の人々も、4・5年後には、皆モンペを造って、穿き、チャンチャンコを作って着るようになったと云う。
 着物や肌着は、ほとんど木綿で、縞物が多く、銘仙の着物は上等なもので、嫁入りに銘仙の着物で来たら、評判になったものだと云う。
 明治の末期に暖かいネルが出て、肌着やシャツ、女の腰巻き、又冬は三角頭布として使われた、 男は褌に木綿のシャツの上に着物(筒袖木綿縞)を着て、羽織を着用、帯は兵児帯、下肢には木綿の股引・足袋を穿くのが通常で、遠出には着物を尻にはしょって、帯にはさみ、下駄で歩いた。
 女は肌着に腰巻きをつけ、その上に木綿縞(女柄という)袂の着物に、やや幅広の女帯(腹合帯)を結び、羽織を着る、寒い時は脚絆を付け、足袋を穿き、草履下駄ばきが一般の服装であった。
 女の着物は銘仙、メリンス、セル、人絹等と変わって、戦後ようやく婦人服が一般化されるようになるまで続いた。然し昭和の初めから、毛糸のセイターの上に上っ張り(上衣)を着て、若い婦人に多く使われた。


 
    洋 服   男の洋服は、学校の教員や役場の職員が、夏は小倉服、 冬はラシャで詰襟又は背広の服を着るくらいであった。
 大正の中期から次第に普及しはじめ、昭和に入って一般化されたが、大事な行事には、紋付き羽織袴の和服が着用された。
 明治末期には着物の上に着る、インパネスと云われた二重マントや、学生にはダルママントが使用されはじめ、昭和の初期からオーバーが出はじめた。 冬物はラシャであった。 女は角巻きと云う広い毛布を、肩から上半身を覆い、前で合わせて寒さを防いだが、大正末期頃から、色彩も鮮やかに縁に房をつけて、着物の上の防寒用具として戦後まで着用された。 大正の末期から昭和の初めに、犬毛皮の外被(袖無)が流行し、特に冬期の薪切りや、運搬などの防寒衣として使用された。


    帽 子   明治時代から中折帽子や鳥打帽子が使用されており、夏はパナマ帽がかぶられていた。 一般に和服の場合は鳥打帽が多く、洋服になって中折帽子が使用されだした。
 明治の末期に、毛皮で出来た成金帽子が出て流行した。 大正の末には防寒用に耳を覆ふスキー帽が出はじめて、現在まで冬の防寒帽となっている。 昭和に入って毛皮の正ちゃん帽が出て現在まで多種な形で使用されている。 又戦時中は総てカーキ色の戦闘帽であった。


 
    履 物   屯田兵入植当時の履物は、下駄・草履が普通で、遠くへの用足しには草履をはいた。草履・草鞋は勿論、下駄も自分で造って穿いたという。 草鞋は屯田兵の演習にも持参させており、重要な履物であった。 冬は雪靴(藁で作った深靴)や『つまご』が使用された。 特につまごは、雪の深い時や、薪材の切り出し運搬などの山仕事に使われた。 素足に赤い毛布(軍隊の払下が多かった)を、ぐるぐる巻いてつまごに入れ、藁ひもをしっかり結ぶと、軽くて暖かく、雪や氷道にも滑らず便利なものであった。 ゴム長靴の出る昭和の初めまで使われていた。
 開拓当時、熊本県人は、素足で畑仕事をしているのに驚いたと云われているが、一般にはさしこ足袋が使われていた。 普通の足袋形で、裏底はボロ布を何枚も重ね、太い木綿糸で細かく針子にして作った。 これは案外暖かく又永持して便利であった。 後にはズック地や、厚手の足袋裏地が市販されるようになって、これを使って作られた。 冬の薄暗いランプの下で、母や祖母が太い木綿針で、一針一針刺子足袋を縫い上げる姿が目に浮かぶ。 これは地下足袋の出るまで使われた。
 革靴は早くから有ったが、教員にゃ官公吏が穿くだけで、わずかに軍靴の払下古靴が利用される程度であった。 大正に入って、ズック靴が市販され、後にズックにいくらかの皮をつけ、綿をつめた防寒靴が出た。 然し布製の靴は、濡れた後に凍れるなど、あまり便利なものでなかった。
 大正の末期に、澱粉クツと云われたゴム靴が出現して、履物に大きな変革を起こした。 最初は澱粉の粉を噴いたようなゴム靴は、短靴が多く、子どもから大人まで一斉に普及し、長靴も次第に普及していった。 昭和に入って、作業用にはゴム底の地下足袋が出現し、水田用のゴム長靴が出来て、幾百年の間の素足の水田耕作から解放された。
 はじめのグム靴は品質も不良で、冬の寒さで皹が入ったり、破れ易く、当時はゴム靴修繕屋が部落中を廻って、修理再生して歩いた。 以後グム靴、革靴併用の時代が現在まで続いている。


 
  食 物  主 食   屯田兵は第1年目は、大人1人1日、7合の玄米が支給され、別に塩菜用として塩味噌を購入する金が支給され、食糧には心配が無かった。 しかし扶助米も塩菜料の支給も、家族5人までであったから、8人も10人もの家族で来た人は、早速裸麦や稲黍を買って補った。 33年頃には、扶助米は4分の1に減り、ほとんどが自家生産の、裸麦、稲黍、栗を主にし、米を混ぜて食べた。
 明治33年5月 献立調 樋口日記

野田松五郎  米2合・麦3合・黍3合     6人 
中村平五郎  米1.5合・栗4合・黍6合  6人 
安部川 環  米2合・黍7合  8人 
遠藤 善蔵 
杉谷芳太郎
東海林作太郎   
米2合・黍5合・麦3合
米4合・黍6合
米3合・麦4合・黍2合 
11人
10人
7人 
 上のように米は極めて少ないが、屯田解体後は、米を買わなければならず、裸麦、稲黍、栗、裨などが主食で、小麦、燕麦粉を利用した麺類が、多く利用された。
 白い米の飯は、お正月かお盆、お祭りでなければ食べられず、一般に病人が食べるものと云われていた。 それでも僅かばかりの白米を麦飯の真ん中に入れて炊き、米飯は仏様に供えた後、いくらか米粒の混じった弁当を作って、子供に持たせてやるのが親心であった。 又子供心にも、麦飯や稲黍の弁当又南瓜、芋飯を手で隠すようにして食べる、情けない思いをした人がほとんどで、昭和の初めまでの状況であった。


 
    副 食   前記33年5月の献立調査で (樋口日記)
野田町次郎
中村平五郎
安部川 環
遠藤 善蔵
杉谷芳太郎
東海林作太郎   
味噌20匁・大根2本・大根漬2本・魚肉50匁
味噌20匁・人参3本・大根漬1本
味噌10匁・牛蒡2本・大根漬1本
大根漬2本・魚肉100匁
味噌10匁・人参牛蒡4本・大根漬2本
大根3本・魚肉14匁・ 
    注  1匁は3.7グラム 
 と記録され、一汁一菜の粗末なもので、3分の1の家で魚肉が使われている。
 川魚は山女がなんぼでも釣れたし、鱒や鮭が上がって来て、子供達でも取れたと云う。 今では見られない、どじょう・うぐい・かじか・やつめなども、東山から流れ出る小川に、いくらでもいた。
 魚は焼いて乾魚にしたり、塩魚にして貯蔵した。 又湧別の浜から馬車の荷台にはみ出るような、大鮃を買って来て、焼いて還送しソボロにして、汁のだしに使ったと云う。
 開拓3・4年もたつと、大豆や小麦で味噌や醤油を自家製造し、自給する者が多くなり、2年味噌、3年味噌と美味しい味噌を使うようになった。
 裸麦を炒って石臼で碾き、香煎にしたり、大豆を炒って黄粉にして食べたり、唐黍や
南瓜の時期は、それが主食となった。 3食とも南瓜で、お汁の身も南瓜、間食も南瓜で、顔から手間で真黄色になり、汗をふく手拭いまで黄色になった。
 馬鈴薯(五升薯)は開拓当時の主要な食糧で、当時屯田薯と云われた紫薯は、大きく長さが20糎以上もあり、縄で束ねて背負って帰ったと云う。 芋が常食であったので、屯田兵を『いも屯田いも屯田』と、悪口を云われたと云う。
 薯は塩煮やお汁の身にする外、細く千切りにきざみ、麦飯の中に入れて炊いて食べた。
 その外薯をゆでた後冷やして、木臼で芋餅についたり、生芋をオロシ金で擂りおろし、汁を搾ってだんごにしたり、飴を入れて饅頭にふかしたり、いろいろに料理された。 凶作の保存食として、薯を冬凍らせて、春風に融かし、縄であんで吊し、乾芋にすると2年も3年も保存が出来た。 これは粉にし、だんごにして食べたものである。
 腹をすかして学校から帰ると、南瓜が煮てあったり、薯の塩煮がほかほかと熱く煮てあるのが、一番の楽しみで又何よりも美味しかった。 佐藤は貴重品であまり使わなかった。
 正月の餅つきは、米餅が2臼か3臼で、稲黍餅を20臼もついたもので、黍餅は山へ薪切りの弁当に持っていき、焚火で焼いて食べると、美味しいものであった。
 等部落の小関与八は、明治40年屯田市街に出て、豆腐店を開業したが、部落の中には石臼を利用して、自家で豆腐を製造する者が多かった。 正月前には何箱も造り、凍み豆腐なども作って食前を賑あわせた。
 屯田兵移住心得に
 野草の内蕨・蕗・独活の外医官の示さざるものは決して食すべからず、殊に茸類は間々生命を損することあるを以て食せざる事
 と注意されているが、山野のわらび蕗独浩は豊富で良く利用された。 特にアイヌ葱・アサズキ・こごみ・たらの芽などが、野菜として利用された。 特に凶作時には蕗を細かくきざんで、ご飯に混ぜて炊き、蕗飯を食べたものである。


 
  住 居  住 宅   屯田兵の兵屋は、当時一般移住者の2間に3間、草葺き草壁の開拓小屋からみれば、金殿玉棲とも云えるもので、恵まれていた。
 しかし兵屋は木造で、外壁だけ内壁は座敷のみで、天井板はなく吹雪の時は蒲団の上に20糎も雪が吹きこんだと云ふ。 6畳の座敷と4畳半の2部屋で、8人10人の大家族の生活は、どうであったろうか。 板を張ったり増築などは中隊長の許可がなければ、一切出来なかった。
 居間には踏み込み炉を造り、焚火で暖を取り、食事の煮炊きをした。 天井から釣るした炉鉤に、大きな鍋を釣してご飯やお汁を炊く。 煮たった大鍋を下ろすには、相当の力がいるし煮湯をこぼして、火傷をする人が耐えなかったと云う。
 屋根には煙出しが付いているが、秋から冬にかけて、一日中火を炊くので煙のため目を真赤に爛らせて、医者通いをする者が多かった。 囲炉裏の生活は、大正中期にストーブが入って来て、昭和の初めには、一般に普及し薪ストーブの時代となった。
 座敷には1尺3・4寸畳を切って床下に炉を造り、寒くなると炭火を入れて灰を薄くかけコタツ櫓を炉の上に乗せ蒲団を掛ける。 三方又は四方に蒲団を敷き、足を入れて寝ると暖かった。 又置きコタツの中に、炭火を入れたアンカを入れ、蒲団をかけて寝むんだ。
 適当な石を炉で焼いて熱くし、それを何枚ものボロ布で包んで(温石と云う)湯タンポの替わりに使われた。 湯タンポは最初陶磁器製で後に亀の子と云われた亜鉛トタン製のものが大正末期に出て、永く使用された。


 
    灯 火   屯田兵入植当時”ことばし”が支給され、唯一の灯火用具であったブリキ製のことばし(カンテラ)に石油を入れ、木綿の芯に火をとぼす粗末なもので、障子張りの行燈の中に入れると、風で吹き消されないが、薄暗い光で女達は縫物をし、子どもは勉強したものである。
 ロースクは高価で普通は使われず、外出時には提灯が、各戸に二ツ三ツは用意されていて、昭和のはじめまで使われていた。
 釣ランプは明治の末期から5分芯が使われだした。 三・四倍も明るい5分芯ランプも、当時は油を食うと云うので、ぜい択品と云われた時代であった。 学校から帰ると薄暗くなり、ランプのホヤ磨きをするのが仕事であった。
 昭和に入って、釣りランプを改良した安全灯が出て、持ち歩きが出来るようになって提灯が次第に姿を消した。
 瀬戸瀬発電所は大正12年着工、13年完成し、同年11月中湧別変電所が完成・14年1月に中湧別市街、屯田市街に電灯が付いた。
 等部落は昭和6年11月に電灯が各通りにつき、はじめて文化の恩恵に浴したのである。


 
    家 具   開拓当時は机や飯台はなく、子どもの勉強には石油の空箱を机や本箱代用に使っていた。 食事には箱膳が一般に使われた。 1人1人が茶碗、お椀や箸を入れる膳を持っていて、食事には蓋を返してお膳とし、食後はそれぞれ茶碗、箸を洗って箱の中に納め、蓋をして定まった処に積み重ねておいた。
 この風習は飯台と云われた広い机が、使われるまで続いた。
 兵村では明治の終わりから、大正の初めにかけて、ほぼ生活が安定し、客膳や、お椀など、漆塗りの立派なものが、各戸に買われ、手文庫、机、茶ダンス、時計などが備い付けられるようになった。
 此の頃から嫁入道具も、箪笥や鏡、下駄箱などが使われはじめた。
 現代では電気アイロンが使われているが、入植当時は火ゴテや火熨斗で、火ゴテは火で暖め、着物の細い部分の折目やしわを伸すに使い、火熨斗は炭火を入れて、着物や服のしわを伸したものである。

 
  電 話  農村公衆電話設置
 昭和32年3月 
 昭和6年11月に電燈線が架設された。 通電されたが、部落内に電話が設置されたのは、昭和32年3月で、当時農協組合長を勤めていた遠藤清治宅に、農村公衆電話が1基設置された。 これは公社の負担で設備された。 部落内1ヶ所のの電話のため、遠藤家には他人の呼出しや、用件の取り次ぎなどで、苦労をかけたが、部落民に緊急の用件に大いに役立った。

    農村地域団体加入電話
 昭和37年 
 昭和34年、当時遠軽電報電話局に勤務中の樋口道雄から、新制度の地域団体加入電話があり、南兵村3部落の地域や、未収戸数の規模が好条件なので、設置したらどうかと勧めがあった。 部落会長穴田俊一、副会長の樋口は、2区3区の有志に呼びかけ、樋口宅で部落役員、2区平野毅、池田恵弥、3区浅井好等と、数回の会合を持ち、公社の三村局長・稲沢業務課長等の説明を受けた。
 各部落は会合を開いて、加入申込を取ったが、当時は不況続きで参加申込者は予想の半分にも満たなく、時期尚早として延期となった。
 その後公社は、新国上湧別局長の協力で町理事者に働きかけ、昭和37年1月11日、町役場に南兵村3部落の役員を集め、吉村総務課長、新国局長、遠軽電報電話局長谷川梅次業務課長、営業係菊地勇(1区出身)等が出席し、地域団体加入電話の説明会を開いた。 当時の部落会長樋口と、副会長牧野は、前回の話合いのかかわりもあり、積極的に話を進め、3月2日南兵村地域団体加入電話期成会を発足させた。
  期成会会長 牧野光一  副会長 平野浩・八巻智也
  会計  秦野馨


 
    南兵地地域団体加入電話組合設立   昭和37年3月26日設立総会
 この設立総会で、電話組合の設立と、地団電話の設置を決議し公社へ正式に認可を申請した。
 加入参加者 101戸  内1区45戸
 組合長 牧野光一   会計理事 秦野美徳
 副    平野 浩    理 事   樋口雄幸
  同   八巻智也    同     花木利雄
 監 事  穴田俊一    同     麻植牛太
  同   鈴木 武     同     浅井 好
 役員は留辺蘂町大和地団電話組合を視察し、電話交換所や、組合運営内容を研修し、新国局長の指導で、電話交換所を2区大沼正雄宅に設置を決定した。 札幌東光電業社により、7月より架線工事が着手され、9月15日工事完成し、開通式を行いここに多年念願の電話が実現したのである。
 地団電話組合では、校舎に支払う基礎料金、交換機の賃貸料、交換所の運営経費、交換手の給料等の支払計算から、各戸の電話料金の計算、徴収、支払などの業務を、組合長、会計が行った。


 
    第2次増築工事
 昭和38年 
 最初の電話加入者は、地区の約6割であり、電話の便利さに1年足らずで、新たに加入参加を希望する者が多く、牧野組合長の尽力で、公社に増設工事を認めさせた。
 昭和38年10月5日
第2次架設期成会が、35戸で設立された。
 期成会会長 堀  勝雄  理 事 工藤敬蔵
 副会長    片手武雄   同   戸田 誠
 会  計    上松二雄
 10月17日より測量設計に着手、次いで架設工事が進められた。
12月26日 開通式・祝賀会 32戸
 こうして直ちに地団電話組合に加入した。


 
    第3次増築工事
 昭和40年 
 この地団電話は、1架線に5戸乃至8戸の電話機が設置され、1戸が使用中は他の者は通話が出来ず、受話器を上げると他人の話が聞こえるので問題が多かった。 又新規加入希望者もあった。(31戸)
 手話40年、公社は増設工事をかね、交換機を共電式秘話交換機に、入替を計画し、8月7日、第3次の増設工事が完成した。
  電話加入者は  164戸
 電話組合の運営は同様であった。


 
    農村集団加入電話設置
 昭和45年 
 昭和44年5月30日、中湧別電報電話局が開設され、これを機会に全農村集団電話の架設が計画され、富美地区、旭、5の3部落を1集団とし、南兵村地団電話に開盛地区も含めて1集団とし、農村集団加入電話(1架線に数戸の電話、個別呼出秘話式)の設置工事が行われ、翌45年3月25日開通した。
 地団電話組合の解散
 農集電話の開通で、南兵村地区電話組合の交換所も必要がなくなり、業務の整理を行って、同年4月28日解散式を行った。
永年役員就任者    理 事 樋口雄幸(8年) 
組合長    牧野光一(8年)     〃   城岡嘉蔵(5年) 
副組合長  八巻智也(8年)     〃   松川寿雄(5年) 
監 事    穴田俊一(8年)     〃   片平武雄(5年) 
 同     鈴木  武(8年)     〃   菅野  賢(5年) 
会計(理事)浅井  好(8年)     〃   平野  浩(4年) 
     〃   花木利雄(3年) 
     〃   秦野晴蔵(3年) 
     〃   吉村  薫(3年) 
 
  文 芸  親 友 会   青年会の学習活動のなかで、文芸活動が行われているが、特に大正2年北湧高等科を卒業した樋口信吾は、同級の清水竜彦・片岡音松・片岡幹雄・石田友一・井上徳嘉等と、親友会を組織し、通信教育の中学講義録を共同で取り、毎晩のように裏の座敷に集り、学習に励んだ。
 この親友かいでは、作文俳句短歌などの初歩を学び、創作活動を行っていた。
 大正2年秋、樋口は、共進会報主任となって、会報発行の責任者となり、感想文、詩、俳句、短歌などの創作を載せ、青年の文芸活動を促したが、当時良き指導者もなく、樋口が病魔に倒れてからは、文芸活動も中断した。
 親友会には白滝峠を越えて、旭川師団訪問と云う壮挙があった。清水竜彦・片岡音松(亡)の話によると
 大正5年の4月16日、樋口信吾・片岡幹雄・片岡音松・清水竜彦・安藤定一・山本栄作計6名の親友会員ハ、曹長4時旭川に向けて出発した。 8号の駅逓(上白滝)にお着いたのは、夕方であった。 約13里(50キロ)元気な青年達は夕食を済ませると、夜道に白滝峠を越そうと、駅逓の人の止めるのを聞かずに出発した。
 奥白滝からは雪で、峠は雪も深く折柄の月夜で、電線をたどり、励し合いながら頂上に向かった。 ようやく頂上にたどり着き、下に灯を見つけて、休場に付いたのが午前1時頃であった。 主人は今1人道に迷った人を助けて来た処で、良くこんな夜中に来たものだと、あきれながらも、火をどんどん炊いてくれたと云う。 朝まで死んだように眠った青年達は、翌朝峠を降りはじめた。
 雪が解けだして、1足1足ぬかる道を、何回も休みながら、中越を過ぎたが精も根も尽きて、1歩も前に出ない状態であった。
 この時1台の馬車が来たので、事情を話して上川市街まで送ってもらった、まさに地獄に仏の思いであったと云う。 この時の無理が樋口の発病の原因だったろうと片岡音松が話している。
 翌日旭川に着いた親友会の青年は、旭川師団司令部や連隊、新聞社を訪問し大歓迎を受けた。 新聞は『湧別屯田兵村の青年師団訪問』と雪中の白滝峠越え快挙を、2日間大見出しで報道した。 帰途は滝川、池田廻の記者で帰ったが、汽車の連絡が悪く、池田で1泊金が不足で、皆んなの財布の底をたたいて宿銭を払い、翌日北見廻りで夕方ようやく社名渕駅に帰ったと云う。


 
    野菊短歌会   大正9年より11年まで、南湧校教師として、群馬県より赴任した大沢雅林は、南湧青年会の平野毅・池田恵弥・ 森谷吉郎・大川一恵、共進青年会の岡村進・穴田俊一・教員の島田梅十・上野英雄等多くの歌人を養成した。
 大正9年短歌誌『にほぶえ』を創刊し、湧別地方はもとより、管内に新短歌の第1期を築く、大きな足跡を残して11年3月、東京に出て野菊社を創設し、歌道に専念した。
 その後島田梅十・森谷吉郎・大塚郷湖・江田万葉・大畑しげる等が、にほぶえの流れを守って、野菊短歌会をおこした。
 大沢雅林の教子、市村すゑの、大川智恵子等に秦野美徳が短歌会に入って創作に当った。
 大正15年発行歌集  竜謄  大沢雅林編
                    市村すゑの
師の君の形見の箱にかんざしを
   ひめおく時ぞ心さひしき
妹は童謡をうたいと林檎をば
   糸でしばりてほほゑみてゐし
                    東海林吉雄
何気なく馬屋に来れば此の鹿毛が
   ふふとて顔を出すも愛らし
                    山崎佐次郎
ねらひきてずとんと打てば雪の上に
   血に染み落ちし山鳥あはれ
                    秦野美徳
       大沢雅林先生を送る
遠き国に行かるる先生の名残りにと
   作りておくる歌はさみしき


 昭和3・4年頃から、この野菊短歌会は、当時盛んであった希望者の、相互修養会と合わせて行われた。 等部落の出歌者は、市村すゑの・小関渚舟(文司)・樋口幸美・秦野美徳・安部川清司・秦野かおる・野田正光・樋口雄幸等であった。

    市村すゑの著「亜麻の花」    市村すゑのは、歌誌野菊の誌上でもすぐれた女流歌人として、注目されていたが、昭和5年の春、大沢雅林を慕って上京し、歌道にはげみ、昭和6年4月、大沢雅林の手で野菊社より、歌集『亜麻の花』を出版した。
作品
夕やみに麦焼き居れば畑より
     帰る人等の声かけて行けり
となり家の薄荷製造のこころよき
     にほいたたよいて雨降れにけり
畑に穿く度をぬいつつ広々し
     畑を今よりあくがれてをり
亜麻の花盛りなるらしむらさきの
     並のうねりのはろばろと見ゆ
一つ一つ見ればさみしき亜麻の花
     畑一面にさけばさやなり
 その後僅かの中断があったが、歌の道を忘れられず、今も歌の道に精進し、中央歌壇に活躍中である。 すゑのは歌集『亜麻の花』の外歌集”野免”を発表している。


 
    第二次親友会
 昭和2年 
 昭和2年北湧校を卒業した、野田正光・渡辺保・樋口雄幸等が、1年上野秦野美徳・秦野馨らの協力を得て、高等科在校生を含め、20数名で、第二次の親友会をを発足させた。
 学習活動は南湧校の千葉七郎・水野与志松両先生の指導を受け、中古の謄写版一式を借用、会員の作文・詩・俳句・短歌の創作や、学習の問題などを記載する。 会報『黎明』を発行、学習に努めた。黎明の第1号は、昭和2年10月に発行し、冬期は毎月発行した。
 親友会では、この年11月より、中学講義録を取って学習し、特に冬期は毎週1回樋口の裏の座敷に集まり、学習を重ねた。
 昭和3年1月発行の黎明を見ると
編集部  渡辺保・秦野美徳 
読書部  野田正光・樋口真幸・中村嘉一 
経理部  秦野馨・樋口国男・秦野春義・小島金吾 
実行部  樋口雄幸・平手直利・松野政喜・山崎正康 
外に正会員  東海林司・秦野正弘・細川勝 
援助会員  安部川清司・遠藤正雄・穴田俊重 
会 費  1ヶ月  1人10銭 
誌 代  1冊      10銭 
 となっている。
 しかし親友会の学習活動が、共進青年会の行事や学習の植から、分派的行動と見られ、又軽費もかかることから、会員が減少し、昭和4年3月に解散した。
 親友会の読書活動に寄贈された人は、
千葉七郎(南湧校)新国民・希望・覇王樹・文芸春秋  外4冊
水野与志松(南湧校)  文藝春秋              8冊
小笠原栄吉(北湧校)  乃木大将訓論外          2冊
渡辺  要 (村吏)   撤攪樹・エルム・北新歌集外  27冊


 
    どんぐり会   親友会が解散後、秦野美徳・野田正光・樋口雄幸らは、農村文芸活動を夢見て、どんぐり会を結成し、昭和4年5月1日機関紙『蕗の苔』第1号を発行した。
 主に作文、自由詩、短歌、俳句などであった。
 同人は遠藤清治、安部川清司(聖夢)・秦野美徳(刈萱)・秦野馨(蕗村)・野田正光(麻沙光)・樋口雄幸(淡宵子)・秦野春義であった。

第1回どんぐり短歌会 4年7月26日 樋口宅
 出席者  32名
 このどんぐり会短歌会の出席者は、市村すゑの・樋口幸美・小関渚舟・秦野美徳・遠藤君江外 部落の青年男女光景18名の出席があり、盛大に行われた。 その後も数回集会が開かれた。


 
    文芸誌 山脈の発行
  昭和4年8月 
 当時役場吏員であった渡辺要は、既に口語歌誌『橄攬樹』の創立者として、道内有数の口語歌人として有名であった。
 大将14年帰村以来口語歌の普及に努めていたが、昭和4年8月1日、歌誌”山脈”を創刊発行した。
 山脈創刊号の詠草紹介を見ると
 啄木追悼短歌会   4月13日 村田屋旅館
 炭 光任画伯歓迎短歌会 5月21日  長岡宅
 新短歌会           7月13日  南湧女学校
 野菊短歌会         4月21日  大川竜三宅
  同              6月21日  大川竜三宅
 ドングリ会短歌会      7月26日  樋口宅
 『面積僅か11万里、猫の額の様な上湧別村に新短歌会、野菊短歌会・南柯北見支部・土曜会・どんぐり会・山脈社・白潮社等、こいつは夜店の果物屋みたいに、チト盛りあがりがよすぎはしないか』と誌してあり、当時の文芸活動の有様が目に見えるようだ。
 この山脈は毎月発行されたが、文語歌が主体で、渡辺要の口語歌は、光岡つよじ、弟の渡辺愁平(好雄)、野田正光などであった。
 文芸誌として発行された山脈は、5年1月号から純口語歌誌として発行、渡辺要はその編集のかたわら、個人の歌集を編集発行した。
 昭和4年秋   
 一、中本初雄遺稿集   
 一、歌集 ふる郷の湖     大塚郷湖作品 
 昭和5年春   
 一、歌集 荒原   森谷吉郎作品 
 一、歌集 蒼空の下にゐる    松井光人作品 
 こうして渡辺要は、口語歌の同志の養成指導に努めた。

 
    俳誌 樹心の発行
 昭和4年10月 
 一区の屯田兵栗木重太郎の長男重光は、鉄道に奉職中大正14年排誌南柯にはいり、内藤鳴雪・武田蛍塘に師事し、排誌時雨の編集を担当するなど、北海道俳壇に新風を巻き興し、その名を上げていた。 たまたま病気療養のため帰郷中、長岡萩邨のあることを知り、中央誌南柯に入ることを勧め、共にその普及に努めた。
 長岡萩邨は昭和3年、南柯北見支社を結成し、管内にまで広く同志に呼びかけ、句会を開いた。
 昭和4年10月、俳誌樹心を創刊した。 樹心は北見管内初めての活版印刷で、各方面から注目され、道内各地から投句者を集め、実に36号まで発刊した。


 
    口語歌誌 瞑想
 昭和5年10月 
 渡辺愁平(好雄)は兄要の口語歌に浸水し、その才能を発揮し、口語歌の振興に志し、純口語歌誌”素描”を創刊した。 その同人は31名で、柴山太郎・清水かのえなど同級生が大半を占めていた、しかしこれは2・3ヶ月で廃刊した。
 昭和5年10月1日新たに”瞑想”を創刊した。
 第2号’5年11月1日発行)同人欄に
 三谷晴眉(登)・花田礼子・野田雅光(正光)・海老名としを・渡辺愁平の5名となっている。 渡辺愁平は、全道の口語歌人とも多くの交流を持ちながら、湧別遠軽地方の口語歌の普及に努めた。
 この瞑想は、昭和6年に、愁平の離村で一時休刮となっていたが同年6月愁平が帰村し、澤口一雄の協力で、瞑想復活第1号を発行した。
 昭和7年12月号第14号の同人欄は
  光岡みよし・秦野かおる・丘千夜詩・橋本不二郎・樋口淡宵子  
  福田真砂子・秦野美徳・渡辺愁平  
  瞑想支部  上湧別4の1  秦野かほる 
  遠軽村市街  山下 静児 
  白滝  橋本不二郎 
  野付牛町  歌川 三郎 
  同号『短歌会の記』     
 瞑想同志社第10回短歌会は、1区樋口淡宵子宅にて、秦野美徳・秦野かほる・小関文司・秦野春義・樋口淡宵子・市村キヨ・樋口秋芳・長倉勇次氏等の参集を得て盛会に、去る11月15日夜催されたが、引続き白滝から同志のだ雅光氏が来湧された為、去る11月23日夜同樋口氏宅にて、第11回短歌会を開催した。』
編集後記に
 『瞑想、どうも歌を作ってても此の名前じゃ、兎角瞑想に落ち入り安くていけないてんで、大塚氏や伊藤兄達と一晩中考えた揚句、4月から”角燈”と改題に決定、18集から瞑想同志社にもお別れで新しい角燈詩社に生まれかわる』と誌してあるが、角燈は発行されなかった。


 
    文芸誌
”屯田”の発行

  昭和8年4月 
 長岡萩邨編集の文芸誌”樹心”は、昭和7年末には休刊の止むなきに至った。 次いで瞑想の改題の問題となって、この機会に長岡と渡辺愁平が、手を組んで昭和8年4月、文芸誌『屯田』を創刊した。
 最初は渡辺愁平が編集を担当し、長岡萩邨が発行人であった。
 屯田第4集(8年8月発行)の編集後記に、『7月7日夜編集打合終了、愁平兄に代わって編集事務にたずさわる事は、樹心以来3年ぶりである』と記してある。
 第4号より長岡萩邨が、変種発行人となり、隔月発行となっている。
 ”屯田”は文芸誌で、指導的の立場にあったのは、俳句長岡萩邨、口語歌渡辺かなめ、文語歌大塚郷湖・詩評論大盛りかつみ、短唱伊藤魔児であった。
 当部落では秦野美徳・秦野かほるの2人が、短歌に詠草を出しているのみである。
 その後渡辺愁平が小樽へ、昭和9年には渡辺かなめが常呂村に、大塚郷湖・伊藤魔児らが転出するに及んで、本村では長岡萩邨が多田任、狐畳を守るだけとなった。


 
    戦後の文芸活動   戦後の混乱に心の憩いを求めていた。 秦野馨は、長岡萩邨について俳句の道に入り、排誌葦牙(主幹長谷部虎枝子)の誌友となった。
 たまたま昭和22年の春、排誌時雨時代の先輩俳人、堀垣暁(勝雄)が鉄道を退職して帰郷した。 こうして俳句同好者が増えた。


 
    葦牙上湧別支部
谺吟社 
昭和22年 
 長岡萩邨は俳句将来の発展のため、中央俳壇との連けいを考え、垣暁、凍声等南兵村を主体に、昭和22年秋、葦牙上湧別支部、谺吟社を結成した。 凍声らの勧めで秦野美徳・樋口雄幸や、樋口道雄・今野吉美ら若手が参加し、部落の中で句会を持つようになった。

 
    むつみ吟社創立句会
  昭和25年 
 青年の参加が多くなり、昭和25年1月31日、凍声宅に萩邨師を招き、むつみ吟社の創立第1回句会が開かれた。 参会者は、樋口みちを・礼子・今野よしみ・吉村邦彦・山本弘隆・細川公雄・落合幸吉・尾崎文男・秦野正昭・穴田寿之・阿部利夫・樋口夕光・秦野美徳・堀垣暁・秦野凍声
 むつみ吟社では年4・5回、句会を開き、俳句熱の最も高い時期であった。 しかし、2・3年でむつみ吟社は消滅し、後はこだま吟社が中心となって句会が開かれていた。


 
    重光句碑建立
 昭和31年9月23日 
 南兵村一区屯田兵の2世、栗木重光(踏青)は、南柯、時雨、葦牙を通し、道内著名な俳人であったが、手話20年11月札幌踏青に出札し、不慮の災難で死去した。
 萩邨・亘暁・凍声らが主唱し、彼の遺業を永く残すため、句碑の根リュを企画した。
 秦野凍声の尽力で、一区東山の自然石を求め、踏青檀家寺、明光寺に凍声亘暁夕光・みちを(孤洗)等の労力で、句碑が建立された。
  つるひけば西日こぼる秋の風
 踏青絶句を葦牙主幹長谷部虎枝子先生の清筆で彫まれ、昭和31年9月23日、除幕式に遺族を招待し、句碑建立記念全道俳句大会が、明光寺本堂で盛大に開催された。
 当時葦牙誌上では、萩邨・亘暁・凍声をはじめ、堀美香女・樋口孤洗・今野よしみらが、佳作を発表し、又青野麦秋・古川正道・市崎宵子・青野礼子・花木研二等が活躍し、こだま吟社の名声を高めていた。


 
    萩邨句碑建立
 昭和44年5月 
 長岡萩邨は、俳句一途に家業も顧みず、俳句振興に努め、多くの優秀な俳人を育て、北海道俳壇有数の俳人として認められていた。
 こdま吟社では、萩邨師の句碑建立の計画が立てられ、凍声の辛苦で一区東山から、自然石、台石共、渡辺組の協力で搬出した。
 建立は亘暁・凍声・夕光・涼宵子等が、上湧別神社境内に折柄桜の花の下、基礎コンクリートを打ち、盛土配石を行った。
 昭和44年5月16日除幕式を行った。
  凍てきびし日輪あさの野を歩む 萩邨
 裨面は萩邨の自筆で、裏面は古川正道の書
  石工横幕正美
 除幕式後句碑建立記念俳句大会が、道内各地より俳人が参会し、覚王寺で開催された。
 昭和46年2月、長岡萩邨が函館に転出し、こだま吟社は、秦野凍声が継承し、葦牙上湧別支部は、堀亘暁が責任者となった。
 こだま吟社は、紋別の草の王吟社(堀川旦州)と交流を深め、遠軽や湧別の同好の士とも、定期的な句会や、文化祭俳句大会を通して交流を深めている。
 こだま吟社 54年1月現在
 市先涼宵子・古川正道・野呂幸子・山田不句三・三宅一寒
 樋口夕光・秦野凍声・堀亘暁・渡辺恍人(要)


 
  短 歌     昭和初期、盛んに行われた新短歌も、島田梅十・大塚郷湖・森谷吉郎等が離村し、口語歌も渡辺かなめ・愁平の離村で、火の消えたようになった。 その中にあって1人、秦野美徳は、大沢稚休師について作歌をつづけていた。
 昭和45年離農して札幌に居を移すや、札幌に在任中の大塚郷湖と交友を深め、中央歌誌『形成』に背理、一躍詩情をたかめ、作歌に精進し、形成誌上に活躍、その名声を上げている。


 
  書 道     部落では囲碁・将棋などを娯楽的に習い、楽しむ者がいたが、趣味として書道に精進し、教授の免許を取得したのは、吉村薫である。
 吉村薫は、同級生浅井静渓(好)が、道内有数の書家として活躍していることに刺激を受け、かねて好きな書道に志し、日本習字教育連盟の通信教育に入った。
 夏季農作業繁忙の時期にも、1日に1回は必ず筆を取ると言う努力を重ねた。 その精進の甲斐あって、52年、5段の認定と、教授の免許を受けた。 雅号 吉村暁峯
 現在寿学級書道グループで、高柳清治・小島鈴松・秦野馨らと共に研鑽にはげんでいる。


 
  庭 園    上湧別町は開拓が比較的早く、経済的にも安定して、庭に水松や桜、其の他の花木を植え、庭園づくりが行われた。 大正末期には庄田医院をはじめ、兵村内にも庭木づくりがはじめられた。 戦前に熊沢庭園、覚王寺の庭園が人目を見張らす豪壮な規模で造園された。
 一区では田島八郎・三品玉吉・三品太七等の庭木水松が、庭師鳥羽の手で刈込仕立られたのは、昭和のはじめであった。 秦野兼松は鳥羽の刈込技術を見習い、独自に庭園を造った。 これ等の水松は其後の手入れが良く、名木となり、現在も残っている。
 吉村薫は、檀家覚王寺の古川住職から、庭木剪定技術の手ほどきを受け、多くの水松を刈込み、美事な玉づくりを完成した。 51年新たに巨石を配し、規模を拡げて水松、其の他の庭木を移植し、立派な庭園を造成した。
 吉村薫は、昭和50年造園師の試験に合格、北海道知事より、2級造園技能士認定証書を受け、翌51年には、職業訓練技能指導員免許証が交付された。 若い人にも面倒だと言われている試験を取った。 その努力は誠に敬服の至りである。
 秦野馨は、昭和の初期より種苗店を経営し園芸や庭園に趣味を持ち、昭和12年現在地に移転するや、2ヶ年をかけ、各種の庭木を集め、小規模ながら庭園を造成した。 依頼40数年の手入れや、水松の刈込みに工夫し、古びた苔むす庭園の風情は、誠に清涼人の目を楽しませてくれる。
 近時住宅の近代的県地区にともない、造園が流行する風潮が出て、部落内にも、それぞれ庭に石を運び、珍しい花木を選んで造園する者が多くなって来た。


 
  樹 木     部落内では川上神社境内の、桜樹、トド松、唐松は、明治40年頃に植えられたものであろう。 中庭に桂の大樹が生い茂っているが、これは自然木で、大正、昭和の初め、この樹より芝居の舞台掛けをして、青年のお祭園芸が盛んに行われた。 懐しい思出の樹である。

原始木
 樋口の宅地にアル楢は、現在兵村内に唯一残った原始木で、樹齢2百年位と思われる。
 松野末松・樋口雄幸の宅地には、屯田移住直後に植えられた梅の老木があり、吉村薫の宅地には杏の大木があり、その当時のものである。
 部落内の各所に内地赤松の大木が植えられているが、これは秦野人吉が大正の末に取寄せた苗木を分譲植えられたものである。


 
雑 史    秋蝉やいま終宴の声上げて    樋 口 夕 光  
  故郷の思い出   
      ●部落出身者寄稿  
      オンコの大木    屯田市街  福田 保国
 振り返って見ると、この世に生を受けてはや、77才の春を迎えました。 欠点だらけの青年期から今日に至るまで、天と地と人たちから、はぐくみ育て上げてくれた事、何と俺を申し上げてよいやら、感謝の言葉がありません。
 私の少年時代のことを今思い浮かべて見ますと、私の父は屯田兵として、南兵村一区中通の、秦野さんと吉村さんの間に入植しました。 その後明治38年頃に、今の25号工藤留三さんの処で、水力で精麦製粉業を始め、主として祖父彦兵衛が営んでいました。
 一家も都合で同地に移転し、私達もそこで生活するようになりました。
 明治43年に南分教所に入学し、岡村進さん等と通学いたしました。 履物は下駄で雨の日などは、ハダ足で通った事が思い出されます。 分教所の先生は、相羽先生と上野先生かと思います。
 学校から帰ると、すぐ前の小川浜見橋の下で、魚釣りして帰りが遅れ叱られた事など、思い浮かんで参ります。私が4年生の頃、父が屯田市街地で商売を始めましたので、私達も父の店の方に移住して現在に至って居ます。
 長い間住みなれた一区の家がなつかしく、何度も魚つりに参りました。 又畑の中に有った、オンコの大木を馬車2台と、手伝いの人が5・6人で、市街に運んで参り、毎日水かけをした事や、一区中通り出先の馬頭観音様の前で、相撲を取ってお菓子をもらった事、諸岡商店で美味しい水を呑ませてもらった事、どれ一つとして、一区の人々に御世話になった事は、忘れません。
 只々感謝の念でいっぱいで御座います。 皆様の御健康を祈ります。
     注 福田仙次郎次男


四中隊一区の思い出  開盛  阿部 義正
 阿部四郎の兵屋は9番でした。 南通り渡辺寅喜氏の居られた処です。 父も死亡し一区の思い出は、余りありません。 不肖子供の折、開盛に転居しましたので、唯子供の頃の思い出しか有りません。
 入地すぐ明治31年洪水があり、兵屋の前が川となり、亦2回目38年洪水に会い、其の折は薪木を針金でしばったり、燐家杉谷家に行くことも出来ず、流れは穴田・東海林・諸岡氏の方に流れた様でした。
 叔父三郎が同志を集めて、自宅物置にて夜学をされた事、又家には馬を多数飼い居り、冬中通りまで逃げて行き、大騒ぎをした事。 馬は7・8頭位でした。
 神社の祭典に弟が、裏の山に子供達と登り、ころがり落ち頭に怪我をして、青年の方に連れられて家に帰った。
 小学校入学は、二区の分教場まで通学でした。 南通りに柏原坂が有り、北側に柏の大木が10数本あり、中に池の如き水溜まりがある非常に寂しい道でした。 今の樋口氏の土地で、色々の伝説が言われ、我々子供には最もいやな処でした。
 中通り門の処に、諸岡・福田・野田・吉村秀氏頭の店が立ちならび一応商店街の感じがしました。
 盆には盆踊りや、子供角力等が催うされた様です。 其の他渡辺豆腐屋・山崎柾屋等有り、北通り出た処に中島・落合・小田井諸氏、北通りの角に小川商店がありました。
 大正2年大洪水有り、不肖春に開盛に転住し、家は流出独立状態と成り、一区の皆々様の御尽力で救出され、福田仙次郎氏物置を借りて、住居いたしました。 浜見橋が有り、橋の下で魚つりをしたものでした。 又山形県人の建立した湯殿山の碑が、今の安本氏の処に有り、後に山形県人がほぼ開盛におりし為、開盛に移した。 今は6月15日を祭りとして祠って居ります。
 小生子供の折、宅地に林檎が植えられてその当時でも、早生中早生晩早生が大きくなり、非常に嬉しく喜んでおりました。 四中隊一区は、果樹の一区として名声を高められ、発展されて来られましたが、今は病害のため古き大きな樹は堀り取られ、実に寂しく感じます。

 何とか再度の御努力を願い、亦立派な果樹園の再建を祈ります。
 大正2年開盛部落が一区より分れ、第18部落として独立致しました。 本家と、分家の状態です。 今後益々の御友好を願います。
 四中隊一区に兵屋69戸あった様ですが、其の中の9号に阿部四郎が、明治31年に、30年兵加茂千治氏の世話で入居致しました。 現役を終え、二給地が開盛に有り、しかも開盛橋が老巧に依り取りこわし渡船通いの不便から遂に大正2年に四中隊一区を離れることに成りました。 今ふり返って、一区に現在生え抜きの兵村人が何戸居られるのかと考える時、 本当に何戸も住居無きように思われます。 この世の変遷を痛切に考えられます。 今後共部落民最大の協力を致され、益々のご発展を衷心より念じ申し上げます。
    注阿部四郎長男


思い出  夕張由仁町9区  寺本すゑの
 此の度部落史をまとめられるに当って、私の事を思い出して下さった事を感謝します。 かえり見て部落の為に何一つ役に立っていない自分を、はづかしく思います。 そんな私でも、南兵村一区と声に出して云っただけで、涙をもよおす程、なつかしい言葉です。
 父は岐阜県、母は熊本県、長女として明治44年2月に生まれました。 20才まで過ごした此の部落は、私のみなもとです。 このふるさとなくしては、安心して生活は出来なかったでしょう。
 ・海なくば徒歩で帰らむふるさとようらめしかりし津軽海峡
 ・四時間の津軽の海がある故に徒歩では行けぬえぞ地ふるさと
 こうして何でも彼でも、ふるさとを恋しく思ったものでした。 居を変る事10数回、引越して来て一番先に東はどちらですかと聞き、すぐ心に浮かぶのは生まれた家です。 そして東に向かって立つと、一区の方角にあわせて安心して住みます。
 一区の家は東向きで、朝はサラサラ南風、そして少しづつ西へまわり、最後は北風になります。 これがいいお天気の風、又東の山にガズがかかっている時、南風なら自然にガスは、北の海の方に流れて晴れて来ます。 所が北風なら少しのガスでも、南に流れるにつれて、だんだん白くなり、山の木々が見えなくなりやがて雨です。
 西の山は代表が富美の三角点です。 ここに雨雲が生まれてだんだん南の方に広がると雨、然し広がらず山伝に南の方に行っちゃうと雨になりません。 雨は社名淵の部落にとられたのです。 此の変化が微妙な所です。ハッカ畑の暑いいきれの中で、雨の降るのを待った悪い娘の時代もありました。
 さて昔を想い起こして
 ・2分芯のランプともして親と子のスイートホームよ屯田兵屋
 ・婚礼の手伝いに行き5分芯のランプ明るくはづかしかりき
 兵村の子と云われる事も、屯田とは何かと云う事も訳も知らず大きくなり、ここが天下だと思っていたものです。 家の事は兵屋と云うものだと思っていました。
 ・底辺に生れ育ちてがまんこそ美徳と習い生きて来りし
 ・底辺にうごめきし者ようやくに立ち上る時身は老いにけり
 誰も誰もがまんして生活し、そして死んで行った親達よ、私も老いました。そしてこのぜいたくな、わがままな世の中をみています。 がまんをする者が馬鹿なのでしょうか。
 なつかしい一区の皆様にお話しできて、本当に嬉しく思いました。 私も70才、思い残すことは何もありません。
 親も子もすべて死にしを逝きおくれ死がこわしとは恥かしきなり
    注 市村喜次郎長女


光陰箭の如し  広島町  小井田寿之
 このたび、南兵村自治会長工藤さんと、部落史編集委員長樋口さんから、四ノ一で育った当時の思い出話や、部落の印象、感想などの寄稿依頼を受けて、いまさらのごとく「月日の立つのは早いもの」ということばが実感として私をとらえた。
 現代の人間が時の経過を実感するのは、時計の針の動きによってであろうか、時計の最も原始的なものは日時計であり、古代人が時を感ずるのは、日影の長さによってであった。 それを端的に表したのが、光陰という語であろう。 古い記憶というものは、いかにも平凡なありふれた事象であっても、折にふれて「月日の立つのは早いものだ」と痛切な感じをいだかせられることがある。
 私が四ノ一で育ったのは、出征から小学校2年修了までと、小学校の5年から卒業までの10年間であって、その後は学校の夏休み、冬休みの期間中だけである。 したがって、脳裏に残っている記憶は主として幼少のころのことである。
 まだ小学校に入る前のことであろうか、中通りに曲がるところにあった。 秦野商店前の広場で、お盆に成ると部落の青年達が仮設舞台を造り、田舎芝居をして部落の人達を楽しましていたことを思い出す。出し物はなんであったかよく覚えていないが、歌舞伎芝居であったように思う。「そんなことからすると、部落青年の文化水準は、それなりに高かったのでなかろうか。
 小学校に上がるようになってからのことであるが、鎮守川上神社のお祭りでは、子供、大人相撲が毎年行われ、私の親父も相撲が好きであったせいか、私も好きでいつもとっていた。 最後の三役相撲では、小結にかなうとして御幣をもらい。 家の神棚の天井に親父のものと私のもの数本を差していたのを懐しく思い出す。 川上神社といえば、参道の両側に先人の植樹した桜も美事であったが、両側に清水が流れていて、大き目の石を上げるとざりがにがおり、幼友達とザリガニ採りに春日を過ごした記憶がある。
    注小田井哲二長男


りんごの回想  札 幌  秦野 美徳
 十年一昔と云ふけれども、私も郷里を離れて早や、十年が経とうとしている。
 故郷の上湧別へも来るまで何十回となく往復し、今度こそ友人を訪ねたち、りんご園を見て来ようと思って出かけるが、何時も時間切れになって帰札して仕舞うことが多い。
 勤めを退いたら故郷の山に登って、美味しい空気でも腹一杯吸いたいと言うのが偽らない新郷である。
 さて故郷の思い出記を所望されたが、どの思い出記一つを取っても、限られた枚数に納めることはむづかしく、私はやはり、りんごの事を書いて責を果たしたい。
 りんご栽培の北限の地と言われる上湧別の果樹が、其の経済性を確立するに居たる過程は、左記の町史に記された通りだが、私の家では私が学校を卒業する前に、父が札幌平岸の山際さんんから苗木を購入して、川上神社横に2町5反を新植し、子供の成長とりんごの生育がマッチする様に計ったものだった。
 品種も当時は祝・紅絞・旭・花嫁・生娘・甘露などの中熟種が主で、寒地で完熟するものを選んでいたので、私が兵役を終わって帰郷する頃には、成木に達した園は美事な結実を見せ、市場からも熱い眼差しが注がれていた。
 勿論生産する為の肥培管理や、剪定技術・薬剤撒布等は幼稚ではあったが、他の農作業と違って、常に新しい経営技術が要求されたので、その苦労も多かったが、良き先輩の指導もあって年々向上し、地の利を遺憾なく発揮出来る、立体的な果樹栽培に自信を深める事が出来たのである。
 やがて同志による果樹協会が誕生し、講習会や先進地視察等で見聞を広め、増産体制を確立して、上湧別りんごの名声が年と共に上がり、農協に販売を移してある年には私も、3千箱に及ぶ出荷をする様になった。
 戦争が長引いて弟達も応召し、物資も枯渇する中で、女子を相手に手押噴霧器の薬かけをやり、つづいて自分も出征するという苦しい時代を経て、終戦を迎えるのである。 戦地から復員して港に流れるりんごの歌を聞いた時の感激は忘れられない。
 やがてりんごの黄金時代が到来し、一時代とはいえ待ちの経済上にも大きな役割を果たして来た。 国民生活の向上と共に品種の改良が進み、34年にはスピートプレヤーが導入されて、協会員も120名に達し、南兵村一区と二区の山麓に300町に及ぶ果樹園が出来た。
 私は8年間この栄ある果樹協会の会長を勤めたことを限りない誇りとして居るが、時流のおもむくところに抗し得ず、生涯をりんごに捧げる決意を翻へしてしまったのである。
 最近果樹園の老化による腐爛病の多発に加えて、果物の自由化による市場の圧迫等、多くの問題をかかえている果樹業界に、そして故郷のりんごに、夢よもう一度の幸多からん事を祈らずには居られない。
    注 秦野兼松長男


川上神社  旭川市  樋口 寿幸
 『ふるさと』と聞かれて、私の故郷はどこどこですと、答えられる人が少ない中で、私はアチコチと転勤して歩いて『あのリンゴの村上湧別四ノ一です』と答えてまいりました。
 古い時代に生まれ、田舎の生活とは言え思い出が山程あって、こんな幸福な者はないと感謝しています。
 冬の吹雪の中で、父兄に道をあけてもらって登校した思い出、川上神社の南側で、山の樹々の間をぬって滑り降りたスキー。 時には小さなジャンプ台を作って飛んだ事、そして3月固雪になると、どこえでも好きな処へ歩けるので、リンゴの樹の間を鬼ゴッコしながら登校したり、又下校時には、中戸場川にかかった二区南通の、線路の橋をわたって先生に叱られたり、小さな私達は三品正十郎君、稲垣正美君・三品昌夫君・遠藤盛幸君等と、本当に腕白時代の楽しい毎日だった。
 春ともなれば、神社の両側にあった大きな桜の花見から、灌漑溝幹線には満水の水が流れる。 子供達には危険を忘れての、良い遊び場でした。 夏には魚つりや水泳など、今ではとても許可にならない様な遊びの中に、良き友達の交遊があったのだとお思います。
 秋になると、必ず神社の石垣の北側に舞台が出来て、若い人達の田舎芝居があった。 この夜だけは、子供達もおそくまで自由だった事。 そして私達は居並ぶ出店を見て廻り、もらって来た20銭、30銭のこずかいで、紙弾の百連発ピストルを買って遊んだもの、懐かしい思い出です。
 終戦後ではなんと言っても、一区の全戸が心を合わせて頑張った、堆肥増産共励会だと思います。 遠藤正雄さん、山崎さん、安本さん、工藤さん、鳥井さん外みんな優秀な成績を上げ、審査には大勢の人達が熱心に巡回し、今でも会館前で写した優勝旗と賞状と共に、皆さんの若々しい写真が、私のアルバムに輝いています。
 当時の地力対策、そして今のトラクター農業と考えて見る時、これからはどんな努力をしても、土地生産力の向上をと思います。
 食糧増産を唯一の目標にして、農家の皆さんと頑張って来た昭和20年代は、リンゴの樹がようやく活気をおびて、隣の家も見えなかった一区の部落が、なつかしく思い出されます。
 年月の移り変わりの早い中で、私達は精一杯頑張り抜いて、その良い社会風習を後輩に、申送りたいものと思います。 故郷の皆さん、元気で仲良く、一区の伝統を誇りに、大いに頑張って下さい。
    注 樋口幸吉7男


カラス貝の思い出  旭 川  野田 正光 
 東山の山肌が集めた水は、数本の小川となって蛇行しながら、一区の部落中央を横切ると、一せいに来たのオホーツクへ、向きを変えて中土場川や小畠の坂に流れ去った。   ー大正時代、今からざっと60年前のことであっる。
 部落の早春は、まず雪解け水の響きで活気づいた。 欄干も手すりも無い土橋や板橋の橋桁が、今にも流されるのではないかと濁流でゆれ動いた。 しかし春が過ぎると小川は、静かな深いよどみを残したまま流れを止めた。 そして蛙や水すましが、秋まで繁殖の場をそのよどみに作っていた。
 私の生まれたところは、一区45番地である。 中通り北側の最初の兵屋で、一生一度の呱呱の声をここで挙げた。 だから今でも川上神社までの中通りは、生涯、私の思い出の中の所有権なのである。 この宅地にも小川が流れていた。 水源地も名もわからない。 上流にはドングリの林(樋口さんの二給地)があって、水はそこから流れ出ていた記憶がある。
 ある日私は、宅地を流れる子の小川の急流で、黒い大きな貝を見つけた。 珍しいので家に持ち帰って祖母に見せた。
『ホー、カラス貝がまだいたんだねェー』しみじみと眺めていた祖母(野田キク 大正11年72才で亡)は、この貝は堅くて食べられないから鶏にやると喜ぶよーといった。
 私は鶏を呼んだ。 野放し飼いの鶏は尻をふりふり私のもとに集まった。 群れの中に貝を放り投げてやると、喧嘩に一番強い雄のロックが、真先に驚いて私の背丈ほど飛び上がった。

『馬鹿だね。 小さく刻んでやるんだよ』
 祖母がいった。
 私は物置小屋から小さなナタと取り出して、ていねいに貝を叩いてきざんだ。 バラバラにほぐした貝を投げてやると、今度は喜んで食べ合った。 堅い貝殻の破片まで食べる姿を見て私は驚いた。 鶏が石灰石を好むという、私の最初の大発見であったのだ。
 カラス貝のいた小川の向かい側に、カラマツ林があった。 戸主の伯父(松次郎)や父(政次)らが植えたもので、其の先が青年会場である。 会場の広場には円を描いた土俵に砂が敷いてあった。 相撲は何時でも取って遊んだ。 疲れたらタンポポの草むらで仰向けになって休んだ。 ー青い空を仰ぐと、高い高い火の見櫓が立っていた。
 トド松丸太で組んだこの火の見櫓の10段目ごろに、集合の合図に打ち鳴らす桂の板木が掛っていた。 火の見櫓の階段は全部で23段あったと思う。 その天辺の横木に火事や非常の時に打ち鳴らす”釣鐘”が吊り下げてあった。
 火の見櫓と会館の風景は、数十年を経った今でも私は、下手なグリッド法であるが、正確に絵に出来るほど、印象に強い昔の故郷の風物詩である。
 会館前の広場は、消防、洪水など部落自衛のために馳せ参じた人々が、緊急対策に組織を編成する所であり対話の場所であった。 そして、祭りの打合せも会長の選挙も、盆踊りや素人芝居のリハーサルも農事のことも、すべてこの会館で具体化された。 つまりここが部落の『まつりごと』のセンターであった。
 私は昭和7年、20年間育ててもらったこの部落を去った。 翌年現役に徴兵されて出征した。 その後、再び召集されて遂に負傷して廃兵になるまで、戦時という位時代が長く続いた。 青春も故郷も忘却の彼方に去っていたが、平和が蘇り老城に入ったこのごろ、故郷の地を踏むことが、何より懐かしく楽しくなってきた。
 しかし高度成長の名のもとで、特徴のない風土に開発された立派なこの部落にきて、何時も遠い昔を探そうとするのだがその都度、空しく感じることが多い。 だが、どこかに泥臭いわずかの昔を見つけたとき、私は子供のように喜んで旭川に帰るのである。
    注 野田政次長男


思い出のままに  温根湯  山口 常子 
 部落80年記念誌発行とのお便りを頂き、逝く歳月の早さに感がい一入のものがございます。 80年と云う長い歩みの中に、私も屯田の1人として、25年間住まさせて頂き、想い出多き懐かしい部落を後にしてより、最早30余年と云う長い年月が、流れ去っております。
 今当時を思い偲んでも、つきぬ想出が走馬燈の如く次から次ぎえと頭をかすめ、何から書いてよいやらペンが進みません。
 大東亜戦争と云う大きな渦の真只中に、青春時代を送ったあの頃が、一番印象に残っております。 部落の人は勿論私達青年は、本当に夢中になって朝早くより夜遅く迄、働く事ばかり。 だが其の蔭には、青年団と云う集まりが、私達を支えて呉れた様なものです。
 男の人は皆んな兵隊に、成年男子も一時は十代の人ばかりになった事もあり、でもみんな留守を守る為、力を合わせ頑張りました。 青年に出る事だけが、唯一の楽しみでした。 何時もあの大きな5升炊きの鍋で、おしるこ・カレーライス・うどんと良く作り、みんなして喜んで食べ語り合い、正月にはあの大きなストーブをかこみ、手拭い落とし、尻取り又カルタ取りして顔にスミを塗ったり、月に2回の神社掃除、試作地の草取り、特に思い出す事は、秋祭りの大根芝居、寒いのに夜遅く迄張り切ってやった事。 又戸田侍従を迎えて光栄であった事。 数々の想い出、今ここに十分に書き表す事は出来ませんが、本当に共進青年といえ、部落の人といえ、みんな団結力そして明るく楽しく、又人間の触れ合いが暖かく、本当にいい人達ばかりで、今考えると懐かしい事ばかりで胸が一杯になります。
 あの部落一面見事なりんご畑、袋掛時季には、あちこちでキャタツの上での歌声が聞こえて来た。 あの頃の懐かしさ、木も年と共に寿命が来たとみえ、すっかり切り取られ、昔の面影が全然なく、他の土地に行った様な気がして、何にか寂しく感じられました。
 でも部落は無くなりません。 これからも先人先輩の労苦に恥じぬ様、立派な部落を作り育て上げて下さい。 終わりに今後の発展を、心より祈念しましてペンを置きます。
    注 秦野人吉3女


共進と言う名  遠 軽  今野 吉美 
 部落80年の歩み出版に当たり、在住中の感想文をとの事ですので、昭和25年までお世話になった思出を書いてみます。
 私には四ノ一と言うよりも『共進』と言う言葉が一番の思い出でしょう。
 終戦で復員して共進青年の一員となり、又火防団員となり、又当時の農事実行組合員となり、すべてが『共進』ち言う名の下で活動して来たからでしょう。 終戦後の混乱期に只一つの楽しみは青年団活動でしょう。 現在の様な車等勿論なく、レジャーと言えば青年で行う行事に出席すること位です。
 試作地の作業には各自馬を出し、整地から種蒔まで1日で終わらして、その後の慰労会には、各自が小麦粉ビートの糖蜜を持寄って、汁粉を作って食べた美味しさは、今でも忘れられない思い出です。
 特に青年団の運動会には、部落の人達が保導車での応援の中で、大いにハッスルした事も思い出の一つでしょう。 特に私は派手な事で噂の人だったから。
 又火防団員としても、当時の腕用ポンプで火事場とか、種々の行事に出動した事、団服が出来、又東初だと思うがポンプが購入されて、これも思い出です。
 又実行組合員としても、私は百姓脱落者ですが、当時の第一組合第二組合に別れて、すべてに競った事も深い深い思い出です。
 当然四ノ一部落の人として、お世話になって来ましたが『共進』と言う名の下で過ごして来た事が、今の私の四ノ一部落の深い深い思い出です。 又四ノ一部落は私の故郷です。
 最後に部落史出版に、心からお祝い申し上げます。 又編集に当たった御苦労に感謝し、貴部落の益々の発展を祈念致し、終わりとします。
    注 今野吉五郎長男


共進魂  札 幌  樋口 道雄 
 42年4月、住みなれた一区の部落を離れて14年になります。 年に一度お盆には墓詣りに帰郷しますが、仲々皆さんとはお会い出来ずにいます。 以来紋別に3年6ヶ月、本別に3年、余市に3年、現在は札幌電信電話料金局に勤務しています。
 一区もずいぶんと変わりましたね、故郷はやっぱり懐かしい思い出が沢山あります。 子供の頃は堀さんの四つ角に落葉松の林があり、よくチャンバラをして遊びました。 南湧校まで2K余りでしたが、毎日歩いて通ったものです。 たまには喧嘩もし、歌も歌って、冬は走ってくる馬橇に飛び乗ったものです。
 学校を卒業して郵便局に入り、16年に札幌の逓信講習所に、10ヶ月余り勉強に入りました。 この年に大東亜戦争が始まり、私も一応軍隊に行きました。 2人の兄を北千島、沖縄で亡くしました。 そのため復員後2年余りで郵便局を辞めて、皆さんの仲間入りをさせていただきました。
 2月のりんご剪定から始まって、水稲の苗植え・アスパラ・馬鈴薯・ビートと、ゆっくり休む時間も無く働いたものです。 しあkし結構楽しい事も沢山ありました。 お盆には会場での盆踊り、人気投票もやりました。 10月17日は川上神社のお祭りで、共進青年得意の大根芝居が面白く愉快に思い出されます。 正月にはカルタ(百人一首)を毎晩遅くまで楽しんだものです。
 農事組合で皆んなが協力して、ラジオの共同聴取の設備をしたのも、上湧別で一番早く、今は亡き石田勝美さん宅での開通式は、今も大きな思い出の一つです。 組合長さん宅に持廻りでお世話をいただいたわけですが、ほんとうにご苦労さんでした。 役員会などの後で一杯やりながら、共同聴取を通してのど自慢の披露、楽しく聞いたものです。 青年団、火防団の皆さん元気でした。 共進魂と決めこんで、オッカナイもの知らずで、いつも運動会や消防演習には、頑張り通し応援にも花を咲かせ盛んなものでした。 『優勝旗にはあまりお目見得しなかったようですが』闘志にあふれ又笑いもあり、とにかく部落を愛する団結心が旺盛でした。 共進魂と言うのでしょう。

 思い出の深い印象に残っている人は
小島鉄治さん  一区の名区長で世話役区長さん 
三品玉吉さん  健脚で街までよく歩いていました 
渡辺善三郎さん  名演説 チャンヤの愛称と奇行 
三品太七さん  即席民謡 アレワ何節でしたか 
秦野兼松さん  消防組頭の威厳 三河万才 
細川斉次郎さん  馬の立乗曲芸はウマカッタネ 
田島八郎さん  のんきな父さん、チョットマッテー 
竹内連勝さん  一区の立役者いい度胸をしていました 
阿部利五郎さん    さんさ時雨仲々聞かせてくれなかった   
 沢山の人の思い出が残っています。
 一区部落80年誌の編集にあたり、思いつくままに書きました。
共進部落の益々の御発展と、皆さまのご多幸をお祈りいたします。
  つれづれの芽木と語りし果樹の故郷   孤洗
    注 樋口耕平4男


お祭り園芸会  瀬戸瀬  藤原 政子 
 部落史編集のお知らせを戴きまして、本当に嬉しく存じます。 生まれ育った部落の父母が、年一年と去られて行くのをお聞きする度、何とも淋しさを感じる事でしょう。
 幼き頃又娘時代の事が何時も、夢の中に出て参ります。 雨降りの朝、林子畑で籠一ぱい拾って食べた甘酢っぱい味と香り、今のように水着もなくパンツ一枚で、裏の灌漑溝で泳いだ日々、援農が大勢入り、あっちこっちから笑い声、唄声が流れる林子の袋かけ、青年団の資金作りに朝仕事に、遠藤さん岡村さんに行ったものです。 又朝露を踏んで川上神社のお掃除もしました。 戦争時代でした。 出征する人々を神社の前で『海ゆかば』を身の引き締まる思いで歌い送り、帰らぬ人となった方々も居られます。 運動会『川上神社の神主がおみくじ引いて申すには、今年も共進勝ち勝ち勝ち』と大声を張り上げて応援し優勝もしました。 時々当時の写真を見ております。 又10月17日のお祭りには、必ず園芸会をしたものです。 共進は上湧別の中でも特に有名でした。 踊り、唄、ハーモニカ合奏、お芝居は牧野光一さん、渡辺保さん方の御指導を得て、毎晩会館で練習したものです。 セリフは畑仕事をしながら暗誦しました。
 先般上湧別小学校の80周年式典に出席した折、屯田兵のお写真を拝見致しまして、先人の方々の御苦労の御陰で、現在の上湧別がある事を、つくづく感じさせられました。
 一区の部落も戸数が少なくなったようですが、立派な後継者が居られますので、末長く益々の御発展を祈念致します。 最後に編集委員の皆々様、御苦労さまで御座います。
    注 細川斉次郎2女


りんごの花  中湧別  石川 君江 
 遠軽からの帰路、息子の運転する車窓から見える私の故郷は、すっかり見通しのよくなた、あちこちの畑から、アスパラの稈を焼く煙が立ち上る光景でした。 その立ち上がる煙を見つめながら、時の流れの速さを改めて感じさせられ、50数年前の故郷を思い出し”海に真すぐな白い道 りんごの花のにほう道” 私の子供達が学んだ中湧小の校歌ですが、5月の末頃になると、果てしないりんご園にこぼれるように花が咲き、お盆過ぎには、赤いりんごの甘ずっぱいにおいが漂います。
 すっかり見通しのよくなった畑を見るにつけても、りんご並木が根こそぎ掘り起こされ、消えていくことは、私の故郷の思い出が、かき消されていくような淋しさにひたされるのです。 ところどころにぽつんと残されているりんごの木、それは私の小さい頃の思い出につながります。
 りんごの苗木を今はなき父と植えたことが、真先に思い出されます。 今ではめざましい農業の発展で機械化され、動力で一度に何本もの木が消毒されますが、あの頃は一本一本手押ポンプで消毒しました。 ポンプを押すのは私の役目です。 いつのまにか睡魔におそわれ、ポンプの柄にもたれかかり、うとうとしてしまいます。 「おい出ないぞ」と云う兄の声に目を覚まします。
 また何年頃か思い出せませんが、ブランコ毛虫が大発生して、次から次とりんごの木の葉が、喰い荒らされていきました。 すっかり喰いつくされ裸になった木も沢山ありました。 いくら消毒しても死なず、家中総出で大きな枝をゆすぶって毛虫を落とし、幹にワイムというベトベトした薬を塗りました。 落とされた毛虫たちは、ぞろぞろとはい上がり、薬のところで身動き出来ず、沢山かたまります。 そのかたまったところをボロ切れで、身ぶるいしながらつぶしました。
 一区と開盛を結ぶ東山の道路が出来たのもこの頃だったと思います。 泥にまみれ、足をよろつかせながらモッコをかつぐ、タコ部屋の人夫の姿が思い出されます。 つらさに耐えかねて逃げる人夫もありました。
 疲れ果てた人夫に鞭をふるい、すきを見て逃げた人夫を追い捜す棒頭の恐ろしさが強く心に残っています。
 秋にはりんご売りです。 乗降所がないので開盛まで歩かねば汽車に乗れませんでした。 毎日御用かごを背負って、遠軽まで出かけました。 御用かごの重さと痛さが背中にそして腰に懐かしい思い出として残っています。 その痛さよりも娘であった私にとって、りんご売りの最中に、知人に合うことがなによりもはずかしく、つらく、家々の軒下に身を寄せかくれたものでした。
 いちばん楽しみにしていた、お祭りやお正月を指折り数えて待っていたものです。 青年会館のところに舞台が作られ、花形青年の芝居におしみなく拍手を送りました。
 学校卒業してから樋口雄幸さんの離れの部屋で、二区の大川亀蔵さんを交えて学んだ事など、さまざまな思い出が浮かんで来ます。 そのどれもが楽しく思い出ばかりです。
 こうして書いておりますと、思い出の輪がいっぱい広がって、娘時代に戻った様な心地がします。 でも二度と帰ってこない私の過去なのです。
 故郷を離れて47年、67才、こんなすばらしい思い出を持っている私は幸せです。
    注 遠藤清五郎長女


 
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      牧野 勝一  牧野光一長男  昭和13・3・21生
家族  妻美紀子 長男克好 次男敏晴 
  長女和美 父光一 母ウメ  
移住 昭和2年3月30日 
  祖父円四郎家族共 町内札富美より転入 
経歴 祖父円四郎 愛知県より大正4年 
  道南瀬棚村に団体移住し、大正8年縁戚安藤林右エ門を頼って札富美に転住す。昭和2年南兵村一区の現在地に土地を求め転入す。円四郎は大工棟梁として、現町役場庁舎、上湧別神社、農協石造倉庫等の建築にあたる。昭和9年没す。
父光一  北湧校高等科卒業後農業に従事、昭和9年縁戚に当る、富良野井村ウメと結婚農業に専念。耕地を拡大畑作、水田の経営に努力す。この間青年団長、警防団長、部落会長、農業共済組合監事、町固定資産審査委員、町国土調査委員、町監査委員、町表彰条例審査委員等数多くの公役職に就き、功労多く幾多の表彰を受ける。
 長男勝一、上湧別中学校卒業後家業に従事、昭和39年、興部町白幡美紀子と結婚、46年水田を畑に転換、後りんごも皆伐し畑作主体の機械化農業に移行、49年家業を相続す。
 青年団長、火防団長、農事部長を歴任、自治会の中堅なり。
   
服部 照明 屯田 服部平八次男 大13.2.8生 
家族 妻よしの
移住 明治34年5月29日 愛知県西春日井郡尾張村より、
    屯田兵家族として移住
 
経歴 父平八は、明治43年頃独立分家し、24号線北の第二給与地で営農、、大正の中頃    現在地に移り農業経営、2男照明家業を継ぎ、共進青年団幹部、共進化防団の幹部    団長を勤める。性寡黙にして勤勉努力するも男子に恵まれず、畑作経営主体の農業    を断念し、昭和49年4月より、屯市熊沢割箸工場に勤務し、最近では原簿記責任者と    して働いている。農業は妻よしのがアスパラガス其の他の作物を合せ約3町歩を耕作    経営中である。
追記 本記述後、54年4月長女美喜子の近くに移転する事になり、宅地住宅を佐藤松幸に    売却、旭川春光町3区11条に転出する。
  
   
細川  勝 屯田 細川斉次郎長男 大3.9.16生 
家族 妻ヨシエ 母みよ 養子正一 長女涼子 孫裕美 孫洋和 孫久美 
移住 明治31年9月14日 
  新潟県西蒲原郡松長村字道上より、父斉次郎屯田兵家族として、26番地に入植 
経歴 父斉次郎は兄綱治の家族として移住し来り、 
  長じて大工渡辺熊次郎の弟子となり修業、球磨次郎の次女みよと結婚、大正の始め現在地に分家独立、農地を買収し大工業の外家族は農業を経営す。資性明朗で民謡を良くし騎馬の名手でもあり、町内に多くの建築を残した。 多くの子女に恵まれ、戦時中優良多子世帯として表彰を受く。 昭和32年死去。
 世帯主勝は長男として生まれ、青年団長火防団幹部として活躍、昭和14年12月五の一佐野政義妹ヨシエと結婚す。 父の家業を継ぎ、大工を修業今日に至る。 昭和25年5月1日不慮の火災で、住宅、厩舎、納屋等全焼の厄に会う。 この年渡辺組と合併勤務、51年退職す。 長女涼子に昭和38年11月、開盛中村貴の弟正一を婿に迎え、正一も渡辺組に勤める。 妻子はアスパラ其の他を耕作している。 
   
遠藤 盛幸 屯田 遠藤清五郎5男 大10.6.25生 
家族 妻君子
移住 明治31年9月1日
    宮城県伊貝分桜村字佐倉より 
  父清五郎屯田兵として38番地に入地す。
分家 昭和25年5月1日 
経歴 父清五郎については、本家遠藤清喜の項に詳記す。 
  世帯主盛幸は清五郎の5男に生まれ、北湧校高等科卒業後兄清治と共に農業に従事する。 昭和17年9月海軍志願兵として、横須賀海兵団に入団、大東亜戦争に参加、終戦後復員し、細川斉次郎に弟子入り建築業を修業する。 昭和21年4月、渡辺喜三郎の娘君子と結婚し、君子は本家を手伝う。25年5月1日現在地に住宅を建て分家す。 昭和26年渡辺組に入社、現在まで一貫して建築業務を担当し、建築部長として勤務している。この間火防団長を勤め功績あり。 
   
穴田 寿之 屯田 穴田助太郎孫 昭7.1.7生 
家族 妻千恵子 長男敏文 長女みゆき
    次男健二 父俊一 母ハル 
移住 明治31年9月14日 石川県河北郡花園村字岸川より 
  祖父助太郎屯田兵として入地する
俊一談 宅地の西南の隅に楢の大木あり、中隊本部から早く伐り倒せの命令で、上野辰さんと云う人に伐ってもらった。
根は十分切られているのに木が倒れない。 辰さんは大木に登り、ゆすったら、辰さんを乗せたままどうーと倒れたが、辰さんは、擦り傷一つ負わなかったそうである。 
経歴 祖父助太郎は屯田兵の項に述べたように、 
  部落並に村の公職を歴任し功績多し。 父俊一第七師団に入隊現役4年を勤め帰郷後家業を継ぎ、火防団長、農事実行組合長、納税組合長、部落会長、土地改良区理事等多くの公職を勤め功績多し、母ハル婦人会の会長を勤め、農協婦人部結成後4の1支部長、本部副部長を務め永年夫人活動に尽力功績多し。 寿之青年団長、火防団長、農事部長、自治会長、農協青年部長、支部長等を歴任し、現在町議会議員農協理事を務め活躍中である。 農業は初め薄荷主作であったが、米作主体となり其の後林檎栽培と変り現在約6町経営、内訳は林檎3町歩残5町歩はビート、馬鈴薯、アスパラガス其の他である。 山林28町歩所有 
   
菅原 康夫 菅原 守長男 昭31.2.9生 
家族 妻祐子 長男健昭
移住 昭和53年4月1日転入 
経歴 
   佐呂間町栃木部落に入植した菅原梅子は、渡辺守(渡辺正喜縁戚)を婿に迎え、昭和3   2年頃富美に転住し小農を営む。世帯主康夫渡辺組に入社、建築部門に勤務す、渡辺   寅喜専務が遠軽に住宅を新築移転後その住宅に転入し現在に至る。
   
穴田喜代治 屯田 穴田助太郎3男 大6.5.14生 
家族 妻よしゑ
分家 昭和16年 現在地に分家農業経営
経歴 屯田2世として生れ、昭和9年6月横須賀海兵団に入団し、其の後上海、仏印、中支     等に転戦し、内地勤務を経て、昭和20年終戦後9月兵曹長で復員した。
     昭和23年2月1日渡辺組に入社して、主に砂利採取事業を担当し精励、53年ハル    まで30年間永続勤務し退職した。 
     その後引き続き臨時職として働いている。その間共進火防団員として活躍、団長を1    期勤め予防消防に尽力した。
 
   
渡辺 梅子 故渡辺謙吾妻 大9.3.13生 
家族 単身
移住 明治43年10月20日義父善三郎宮城県柴田郡槻木村大字入間田より来住
経歴 岐阜善三郎は、明治10年高橋善六の次男に産まれ、明治34年平間忠左衛門の仲     媒で同地の渡辺慶太郎長女ゑんと結婚婿養子となる。当時不動産は親類の吉田に    質入れされており、渡辺家債権に努力するも思うにまかせず、明治43年、妻ゑんの叔   父渡辺清三郎が、専念当部落に来住しており、そのすすめで渡道を決意、一家ひきい   て来住平間円八宅に着く、後浜口虎蔵の井戸小屋に仮遇し、浜口家の営農を手伝い、   小作農に粉骨砕身の努力を重ねる。 大正7年秦野甚吉の跡(大泉宅地)に移る。昭和   に入って玉葱栽培に熱中し、玉葱組合長を勤む、その情熱と努力に部落の信用を得、    農事組合長、部落会長、戦後農地委員、初代森林愛護組合長等多くの役職に就き功    績多し。 
    次男謙吾農業を継ぎ、吉田豊治娘しんと結婚、青年団長、火防団長、農事実行組合    長などを勤め、戦後農業経営を拡大す。 昭和25年5月1日不幸にも、住宅外建物を    全焼の厄にあい、南通西村の宅地(現在地)に受託建築し移る。31年妻しんに死別、翌   年4月梅子と結婚す。 父善三郎が36年没し、母ゑんは46年死去夫謙吾は46年春脳   軟化症で倒れ、52年9月死没す。 この間梅子は良く両親や夫の介護に尽力す。
    現在遠軽中央病院に勤める。 
   
上楽 和夫 上楽源次郎2男 昭3.9.10生 
家族 妻幸子 次女和子 父源次郎 母きよ
移住 祖父和七 昭和8年 旭川市神居町字雨粉より移住
経歴  祖父和七水田耕作の経験を買われ、当時法徳寺の所有の現在地に転入し、水田耕    作をはじめ、水稲栽培の指導的役割を果たした。 父源次郎家業を継ぎ、終戦後の農    地解放で自作農となり和夫は父を助けて水田2町歩、林檎普通畑合せて2町歩計4町    歩経営していたが、昭和40年離農し、農協に本採用となり、ブルドーザー、トラクター    の運転手として勤務している。 
     妻幸子は昭和42年渡辺組に入社し、ブロック工場に働いている。
    両親はアスパラガスと野菜合せて、約6町歩を耕作している。
    兄保は大東亜戦争に参戦し、名誉の戦死をされた遺族である。 
   
鳥井 茂雄 屯田 鳥井 始次男 大3.6.15生
家族 妻朝子
移住 明治31年9月1日
    熊本県上益城郡六嘉村大字下六嘉より、父始屯田兵として移住す。
経歴  父始は、屯田兵に入植以来開拓に努力、農業経営に専念し、農地を拡大し、部落内    有数の農地を所有し、模範的経営を行い、開拓の功労者として生涯を兵村にて終える    。 兄茂は部落内に分家、農業を経営していたが、昭和19年沢口作一を団長とする     満州開拓団に応募し、渡満する。 20年7月現地召集を受け、終戦後ソ連に抑留され    、20年11月15日イスベスト・テルマ収容所で戦病死す。
    世帯主茂雄は父の家業を継ぎ、生来馬好きで、20才の時牛馬商免許を取り、28才     まで道内各地を歩いて馬商に活躍する。 又愛馬倶楽部の幹部、会長として馬産改     良に尽力す。 その間共進第一農事組合長、甜菜振興会理事並監事、自治会長等の    役職に就き功労多し、農業はビート、豆類、馬鈴薯等の畑作の外、水田林檎等約10    町歩余の大経営を続けていたが、昭和52年健康と家事の都合で離農する。4男1女    あり、それぞれ独立家業を営む。
 
   
山崎 正康 屯田 山崎佐太郎3男 大1.11.25生 
家族 妻矢代恵 長男正晴 長男妻チズ子
移住 明治31年9月14日
    石川県河北郡西英村字多田より、父佐太郎屯田兵として移住す。
経歴  父佐太郎は当時18才で、零細な農業より5町歩の地主様になれると、屯田兵を志     願し、47才の祖父、44才の祖母、弟2人を連れて当地に入地した。 原始原野に開     墾の鍬をふるい、営々辛苦健実な経営で産をなした。 当部落開拓の功労者である。     特に馬産の改良に力を入れ、晩年に至るまで馬を飼うのを生きがいに、昭和44年8    月、91才の長寿を終えた。
     正康は佐太郎の3男に生まれ農業を継ぐ、昭和12年1月、開盛阿部三郎次女八代    恵と結婚、経営に励む。 軍隊は現役入隊後大東亜戦にも応召す。
    馬産に熱心で、優良馬の生産に成績を上げ、又りんご栽培にも力を入れ、多くの子女    を養育す。 この間愛馬倶楽部の役員、農事組合長、町農業委員、部落副会長、納     税貯蓄組合長、防除組合長等多くの役職を勤め功労多し、姉マツエは前上湧別町長    渡辺要の妻である。 長男正晴は雄武町池田チズ子と昭和48年結婚、家業を継ぐ。
 
   
阿部 岩雄 阿部利五郎長男 昭4.2.9生 
家族 妻美智子 長男和彦 母こぎく 次男法幸 
移住
経歴 
 祖父岩治、山形県より明治45年に南兵村一区に入地 
 祖父岩治は1人娘みよしの婿、菊地長ノ助(建具師)と共に来住、中野の宅地に入る。 大正3年頃井上亀蔵の宅地(現在所)を買って移り農業に従事する。 後継ぎのため、娘みよしの長女こぎくを養女に迎え育てる。
昭和3年こぎくは、当時同郷の渡辺熊次郎方に寄寓していた、塚目利五郎を入婿として結婚する。 地続きの宅地を買い、利五郎の馬搬業や小作地の経営に、夫婦は日夜を分たず努力し、農地を拡大した。
 戦後の農地解放で、自作農として経営を確立した。 利五郎は手先の器用さで各種の細工物を作り、独特の話術で人に親しまれた。 戦後農事組合長、部落副会長を勤め53年に死亡。
 世帯主岩雄、昭和30年進美智子と結婚家業を継ぐ。 水稲、馬鈴薯、豆類、ビートの畑作を主体に果樹約2町歩を経営、水田の畑作転換後は機械化農業に指向し、模範的経営を続けている。岩雄は青年団長、火防団長、自治会長を勤め功績多し。
   
吉村 英夫 屯田 吉村真己次男 昭21.5.3生 
家族 妻和子 長女真由美 長男聡 父真己 母ふみ 
移住

分家
経歴
 
明治30年5月29日 祖父友弥、岐阜県本巣郡真桑村大字下真桑より屯田兵として入地す。
 昭和11年12月
 祖父友弥の来歴は、本家吉村邦彦の項に詳記す。 父真己は友弥の4男に生まれ、兄薫と共に農業に従事、昭和11年春、片平ふみと結婚、この年の12月現在地に分家す。 住宅は昭和9年、南 亨の家屋を購入し、改造建築されていた。
 分家後農業基礎づくりに励む初期、昭和13年7月、日支事変に応召出征し、翌年8月帰還したが、16年7月再度召集出征し、18年12月帰還す。 この間1児を亡くすなど、男手を失った留守家族の苦労は一通りではなかった。
 当初、水田、畑、果樹を耕作、一部小作の小規模経営から、漸次土地を買収し4町歩余の自作農となった。 その後それぞれ子女が、他産業に就職するを機に、耕地を縮小した。 世帯主英夫は湧別高校卒業後、北海道自動車短期大学に進み、卒業後三菱北見ふそうに就職、昭和48年湧別町農協車両整備センターに就職現在に至る。

 
   
吉村 邦彦 屯田 吉村 薫長男 昭7.10.3生 
家族   妻輝子 長男智之 長女瑞美子 次男裕明 父薫 母初音 
移住   明治30年5月29日
 岐阜県本巣郡真桑村下真桑より、祖父友弥屯田兵として入植す 
経歴   祖父友弥は3反歩小農のため、5町歩の屯田兵募集に応じ、勇躍新開地を目指したと云う。 雑穀、薄荷を主要作物とし、堅実な農業を続ける。 父薫、長ずるに及んで農業の傍ら、馬搬収入によって家業を助ける。 昭和手記より水田を造り、林檎を植栽して後、40年代半ば迄此両作が農業経営の主要作物であった。
 一方馬産改良に努め、昭和12年管内共進会に、2才馬が1位入賞し3百70円で売却された。 1年間の農業所得が千円に満たない当時、破格の高収益であった。 今に残る畜舎はこの時の所産である。
 その後愛馬倶楽部の2代目会長となり軍馬生産の全盛時代を迎えた。
 昭和20年代に入り、部落会長、農事実行組合長、農協理事、森林組合理事等外多くの公職を勤め功績多し。
 世帯主邦彦、昭和32年生田原町安国小林輝子と結婚家業を継ぐ、約9町歩を耕作し、故知会長、火防団長、他の公職を勤め、現農業委員を勤め活躍中である。 
   
遠藤 清喜 屯田 遠藤清治3男 大14.9.13生 
家族   妻ノブ 2男裕二 父清喜 
移住   明治31年9月1日
 宮城県伊貝郡桜村字佐倉より、祖父清五郎屯田兵として一区に入植。 
経歴   入植初期の開拓事業を更に困難にさせたのが、日露戦争であった。 戸主清五郎と、弟幸右エ門の2人が出征し、留守家族の辛酸は想像に絶するものであった。
 この様な女世帯の苦難を見かねて、井戸組の人々が新設に相談に応じ、仕事の手助けをしてくれるなど、人情の篤さに涙を流したと云う。 父清治は長ずるに及び、家族労働の過酷な畑作作業から脱皮を期し、大正5年、それ迄のはっか、雑穀主体の耕作から、林檎栽培に志した。
 その後幾多の障害を克服して、りんご栽培に精励し、上湧別特産りんごの基礎を築いた。 10数年に亘って果樹協会長を勤め、果樹栽培の振興に努めたが『林檎の花咲く故郷』と町民はもとより、町外に去った人迄も、長くその心に潤いと親しみをもたらすに至った。
 一方清治は、部落や町の重要な公職に就き、町議会議長、農協組合長を始め各分野に活躍し、褒章、表彰等の授賞は枚挙に暇がない。 世帯主清喜は瀬戸瀬より吉川ノブを妻に迎え、農業を継ぎ、更に果樹栽培に専念した。 昭和30年に水田の大巾増反を行い、果樹、水田を中心にした経営は、当時町内有数の高所得者として推奨された。 40年代後半、子女の就職に伴い、自ら転職、渡辺組に就職現在に至った。
 その間青年団長、火防団長、自治会長等の降職を勤め功績多し。 
   
三品 正十郎 屯田 三品太七次男 大10.12.27生 
家族   妻ユキ 長男正幸 長男妻敏子 孫雅敏 孫慎吾 3男正明 
移住   明治31年9月1日
 祖父玉吉 福島県伊達郡粟野村より、屯田兵として一家を挙げ入植す。 
経歴   屯田兵として入植した祖父玉吉の長女ヨシイは、紋別上モベツ吉田家より、太七(父)を婿に迎え結婚し、加茂の宅地に分家する。 正十郎は太七の次男として生まれ、高等科卒業後兄正吉と共に農業に従事す、大東亜戦に従軍、復員後の21年、上モベツ吉田ユキと結婚、23年に分家独立する。 昭和14年に本家は基線道路の現在地に移っており、元の加茂の宅地に住宅を新築し分家した。 当初は1町歩余りの小農で、農閉期には、護岸工事、造材仕事や、冬期間馬搬仕事に従事、営々努力し漸次農地を拡大した。
 昭和47年、隣接する叔父一男より、宅地家屋農地を買収し48年一男の屋敷跡に住宅を新築移転する。 終始農業一筋を志し、甜菜果樹の共励会に於て優秀賞を受賞する。 長男正幸農業を継ぎ、市村敏子と結婚、現在9町歩余を経営近代的農機具施設を整備し、優秀な経営を続けている。 
   
市村 照子 屯田 故市村一恵妻 大5.8.24生 
家族   7女悦子 
移住   明治31年9月1日
 岐阜県郡上郡北濃村より、父喜次郎屯田兵として、現在地に入植 
経歴   戦国武士の血を引く市村家には、代々伝わるホラ貝が現存する。 入植当時このホラ貝は集合の合図になると共に、時折出没する熊を退散させる為に役立ったと云う。 又内地より持参の名刀が多く、大東亜戦出征の軍刀として使われたことも有名である。
 大正の中期隣接する宅地を買収し、林檎栽培を始め、以来一家の主要作物となった。
 長男一恵は家業を継ぎ、農業の傍ら馬搬業に精を出し、馬の育成にも力を入れ、牝馬共進会に1等1席を授賞する成績を上げた。 妻照子との間に7女をもうけ、30年代より水田、果樹の経営に努力中、39年発病、治療に専念するも、39年秋ついに死亡する。 性温厚で部落の人々に親しまれ、特に菓子、ヨウカンなど甘いものに眼がない事で知られていた。
 世帯主照子は夫亡き後、良く子女を養育し、優良母子家庭として表彰を受けている。 娘等を嫁がせ、50年に離農し現在に至る。 
   
田島 澄蔵 屯田 田島八郎長男 大7.4.9生 
家族   妻徳子 長男清一 長男妻カツ子 孫理恵 孫稔章 
移住   明治31年9月1日
 埼玉県児玉郡児玉村字阿那志より、屯田兵田島芳平兄と共に母フサ入植す。
 母フサ、四ノ三の服部八郎を婿に迎え、本家を継ぎ、兄芳平は白滝に土地を求め分 家。 
経歴  田島家は代々、可成裕福な暮らしをし、土地の代官の相談相手になっていたという。 祖父が晩年になって手を出した相場に失敗、漸次蓄えを費消するに及んで、当時屯田兵募集があったことから、祖母は熱心に祖父を説得し、長男に田地を相続させ国に残し、次男芳平を戸主として屯田兵移住に応じたものである。
 祖母すみは男まさりの肝の大きい人で、良く人の面倒をみ、土地を買収し、一時は遠軽、白滝に農場を持ち、芳平を分家させ、フサに、服部八郎を婿に迎え家業を継がせる。 父八郎は相羽、小島と共同で灌漑溝分派を構築、水田を造成し、多くの人に小作をさせ、果樹、水田の耕作に努力した。
 戦後の農地改革で小作地を開放し、10町歩の自作農となった。
 長男澄蔵は一時教員を勤め、兵役勤務復員後、湧別川西友沢家より徳子を妻に迎えて家業を継いだ。 果樹を主体に、田畑の耕作に努めて来たが、昭和45年以降、水田を畑作に転換、果樹も50年以降畑作に転換した。 長男清一、次男洋二の他産業への転出に伴い、一部を小作にし経営を縮小しつつある。
 その間農事組合長、自治会長、果樹協会副会長、農業委員会長(現在)等数多くの公職を勤め、自治功労をはじめ多くの授賞を受け、功績多し、長男清一、役場奉職中。
 
   
秦野 洋一 屯田 秦野春義長男 昭18.12.12生 
家族   妻とみえ 長男英昭 父春義 母美喜枝 弟寛昭 弟雅美 
移住   明治30年5月29日
 愛知県東春日井郡小牧町大字小牧原新田より、祖父兼松、屯田兵戸主又三郎の家族として入植。 
経歴   戸主又三郎生田原転出に伴い、兼松が本家を継ぎ、雑穀を主体に経営を続け、一方有畜農業の必要性に鑑み、馬産振興に力を入れ、20頭余の馬を飼育し、明治末期から、種馬を繋留し産馬の改良に努力し、昭和に入って愛馬倶楽部を結成し、自ら会長に就任、部落の馬産振興に大きな功績を残した。
 又、大正中期より、りんごの栽培に取組み、経営を拡大後年りんご最盛時代の基礎をつくった。
 兼松は部落区長、村会議員、消防組頭、郡畜産組合代議員頭公職を勤め、自治教育産業振興等の授賞30数件の多さに及ぶ。 昭和15年住宅全焼の災害を受け、16年住宅新築するも、病魔のため倒れ苦闘の生涯を閉じた。
 父春義は兼松の次男として生まれ、兄美徳を扶けて家業に従事、昭和14年小野美喜枝と結婚、17年現在地の東に分家、18年大東亜戦に出征、北支に転戦、21年復員帰郷農事に専念する。 この間青年団長、自治会長を勤め、果樹、水田、耕作に努力す。 昭和38年現在地に住宅を新築、分家当時果樹畑8反、水田5反、馬1頭の小農から漸次土地を買収し、果樹を主体に6町歩余の経営となった。
 長男洋一が家業を継ぎ、本家美徳札幌転出により家屋宅地を買収する。 現在水田は畑に転換、果樹も又畑作に転換した。 
   
秦野 松寿 屯田 秦野兼松4男 大15.5.22生 
家族   妻久子 長男明彦 長女敦子 長男妻澄枝 孫千奈美 孫亜由美 
移住   明治30年5月29日
 愛知県東春日井郡小牧町大字小牧原新田より、父兼松屯田家族として入植。 
経歴   父兼松は戸主又三郎の転出で本家を継ぎ、母ぎんとの間に11人の子を設けた。 当時としては珍しい事ではないが、現在長男美徳をはじめ、明治、大正、昭和に亘る11人の兄弟、姉妹が、今尚健在で活躍している事は目出度い。 又多数の子女の為に百町歩の山林を残した。
 長男美徳は家を継ぎ、家屋全焼、父兼松の死去など相継ぐ災厄にもめげず、弟妹を立派に育て、りんご栽培に精魂をかたむけ、遠藤清治の後継者として、本町りんご栽培の振興に大きな功績を残した。 この間、警防団長、農事組合長、部落会長、果樹協会長など多くの公職につき、自治功労賞をはじめ数多く授賞している。
 世帯主松寿は、網走中学校卒業後兵役勤務、終戦により帰郷し、兄美徳を扶けて農業に従事、26年五の三高橋久子を妻に迎う。 その後兄と共同経営とし、35年現在地に分家する。 最初は、田、畑、果樹の零細混同農業のため、果樹専業を志し、耕地2挺反歩程買収し、水田も果樹に切替え、果樹専業となる。 然し近年フラン病の多発と、果樹の価格低迷などの経済上から畑作へ転換の現況である。
 その間松寿は、青年団長、自治会長、農協理事に選任され功績が多い。 長男明彦農協に勤務。 
   
石田 百代 屯田 故石田清美妻 明36.10.20生 
家族   なし 
移住   明治30年5月29日
 義父周一、岐阜県揖斐郡池田村大字大之井より、屯田兵として67番地に入地す。 
経歴   周一は明治32年、市村喜次郎妹カツと結婚し2児をもうける。 37年8月、日露戦役に充員召集、翌年1月清国に出征、第3軍に属し北進転戦、38年3月6日、劉家窩棚の戦闘に勇戦敢闘、名誉の戦死を遂く。
 夫清美は長男として、明治33年7月12日現住所に於て生る。 幼少にして父を失う。 母は中橋安次郎を後夫に迎え再婚、農業に従事していたが、大正3年、鉄道が開盛駅まで開通した折、駅前に旅館を開業したので、両親共に開盛に移り成人す。 学校卒業後は造材、木材流送等の仕事に従事す。 大正12年8月、南兵村二区鈴木熊次郎長女百代と結婚、辺材地に戻り、養鶏を営み、傍ら造材に稼働、亦昭和6年灌漑溝の施行に伴い、新規造田工事を請け負い、水田造成に尽力する。
 其の後熊沢木材KKに入社、造材山頭として地元はもとより、遠く道南の瀬棚、岐阜県の事業所を経て帰郷、昭和20年退職31年四ノ一小団地造田事業を請負い工事を施工す。
 その後自宅に於て、中湧別大谷氏と共同し、ヤチダモ材による野球バット素材の製造に当る。 事業半ばにして病魔におかされ、昭和39年11月19日没す。
 夫清美亡き後、宅地の水田を耕作していたが、其の後血圧で健康を害し、水田を貸与して今日に至る。
  
   
小島 鈴松 屯田 小島鉄治2男 明39.8.23生 
家族   妻トシ 
移住   明治30年5月29日
 愛知県春日井郡高間村大字幸心より、父鉄治屯田家族として現在地に入植 
経歴   父鉄治は、兄善助の家族として入地し、以来開拓に従事し、34年共進会の最初の総代として尽力、明治40年、田島芳平の妹ヌイと結婚、明治41年3月、兄善助、佐呂間村に土地を求めて分家転出に依り、本家を継承し農業に専心努力財を成し、晩年に居たる。
 温厚誠実な人柄は、人望厚く推れて部落区長、副区長を十数年にわたり勤め、その間、産業組合理事、監事、農事実行組合長、土功組合理事、村会議員等の養殖に永年尽力し、社会発展に貢献多し。
 鈴松、鉄治の2男として生まれ、北湧高等科卒業後、空知農学校に進み、同校卒業後、岩見沢教員養成所に学び、阿智小15年同所卒業、端野尋常高等小学校に訓導として奉職す。 昭和4年3月、関運喜次女トシと結婚。 美幌、丸瀬布尋常高等小学校を経て、昭和18年10月、小清水町砥草原国民学校長となり、21年4月美幌町豊岡国民学校長に転任、22年4月、家庭の都合に依り依頼免官、帰郷、水稲を主とした農業に従事する。
 昭和29年4月、遠軽東小学校教諭に再奉職、自宅より通勤す。 昭和41年3月31日、同校を退職し、再び農業に従事。 果樹野菜の栽培を続け現在に至る。
 長男宏は、中学校教諭。 次男律夫はホクレンに勤務、長女啓子は小学校教諭に嫁す。 公職、部落副会長、農事組合役員、現在共進福寿クラブ会長を勤む。 
   
松野 末松 屯田 松野和蔵4男 大15.11.28生 
家族   妻サダ 
移住   明治30年5月29日
 熊本県鹿木郡獄間村大字椎持より、父和蔵屯田兵として当地に入植 
経歴   父和蔵は屯田兵現役満期後、日露戦役に従軍、39年3月凱旋す。 明治41年、脇島末三郎マサノと結婚、以後兵村に於て農業経営に生涯を捧げる。 温和と誠実なるその性格は、人々より好感を以て親しまれる。 4男2女あり、昭和16年6月24日病没す。
 兄政喜、北湧高等科卒業後、農業経営を継ぎ、耕作に精励する他、農閉期は熊沢木材の専属馬夫として稼働す。 昭和11年、開盛二瓶吉之助2女あい子と結婚、昭和18年10月1日応召、旭川より満州、更に中部太平洋メレヨン島に転進、昭和20年1月2日、戦病死す。 2男1女あり。
 世帯主末蔵は、和蔵の4男に生れ、上湧別国民学校高等科卒業後農業を手伝う。
 昭和20年6月応召、終戦言夫10月復員し、義姉に協力農業経営に従事する。 21年6月、義姉の妹二瓶サダと結婚し、爾後は経営主として水田主体の営農となる。
 昭和46年、義姉は長男秀勝の勤務地室蘭に転出す。 46年、水稲の生産調整を期に、全水田を転畑し、アスパラを主作とし、耕地を縮小し現在2町7反歩を耕作、兼業農家として現在に至る。 この間火防団副団長を勤め功労あり。 長男寿幸遠軽地区消防組合遠軽分署に奉職。 
   
桶嶋 正安 桶嶋滝蔵次男 昭8.3.2生 
家族   妻隆子 長男正隆 次男紀智 母ミヨ 
移住   昭和41年3月
 紋別郡丸瀬布町南丸瀬布より、転入す。 
経歴   父滝蔵、幼少の折、祖父万蔵と鳥取県倉吉市より、明治30年代の末、同郷の橋本元蔵を頼り、北兵村一区に移住す。 大正11年、南丸瀬布に移り農業に従事する。 昭和44年離農、正安の扶養となる。
 世帯主正安は、昭和8年滝蔵の2男として南丸瀬布に生れ、中学校卒業後は父の農業経営に従事す。 昭和41年、山本静夫長女隆子と結婚。 南丸瀬布より妻隆子の家に転住す。
 其の後季節労務者として稼働していたが、昭和48年遠軽職業訓練所に入所、建築科を修得卒業後は、中湧別佐藤組に建築士として入社、今日に至る。
 妻隆子は、大正2年現在地に入植した、山本三之助の孫で、父静夫の長女として此の地に生まれ、昭和30年母みつの死去後、父を扶け、多くの弟妹を養育し、正安と結婚後父が湧別町に移り現在地を継ぐ、47年より、屯市池内工業に稼働している。 
   
佐藤 松幸 屯田 佐藤松次郎長男 昭16.6.6生 
家族   妻明子 長男潤一 次男昭 
移住   昭和20年、母みどり、南兵村二区より転入 
経歴   祖父庄左ヱ門、明治31年9月1日、愛知県海西郡川沿村より、南兵村二区に屯田兵として入植す。
 父松次郎は、庄佐ヱ門、母ユキの次男として、南兵村二区に生る。 北湧高等科卒業後は、農業を手伝い成人す。 昭和15年留辺蘂町平野みどりと結婚す。
 昭和17年8月、大東亜戦争に再度応召、満州国境警備に服務中病に罹り、各陸病を転送療養に努め、19年1月、召集解除となり帰郷す。 引き続き上湧別久美愛病院に入院療養に専念するも、同年6月26日遂に戦病死す。 1男1女あり。
 父死亡に依り、昭和20年春、母は実弟平野忠一を後見人として、南兵村一区現在地に分家、水稲を主とした経営をなす。
 松幸、湧別高校を卒業し家業を継ぐに当り、叔父忠一は遠軽に職を求めて分家す。 以来母と共に農業に従事、昭和44年、瀬戸瀬岡村明子と結婚、47年水稲の生産調整を期に、水田を畑作に転換、アスパラを中心とした畑作経営に移行す。
 かねて病気療養中の母みどりは、昭和49年12月21日永眠す。 その後機械を導入し耕地を拡大し、営農に努力す。
 昭和54年4月、服部照明の転出後の住宅、宅地を買収し移転する。 (追記) 
   
藪  等  藪秋太郎次男 明33.11.20生 
家族   妻ハツ 
移住   昭和48年11月
 上湧別町上富美より転入す。 
経歴   福井県南条郡湯の尾村第75の13番地に、秋太郎の次男として生る。 大正15年12月、上湧別村元北湧校前に移住、札富美に通い、作2町3反歩余をなす。 昭和6年6月、上富美に未開地を払下げ入地、開拓に精励、薄荷を主作とする農業を経営す。 その後酪農を取入れ、かたわら植林に努める。
 その間部落会長、農事実行組合長、町共済組合理事、監事、町森林組合理事島を歴任し、上富美部落の功労者として知られる。 生来明朗で、唄、酒を好み、開拓の辛苦に耐え、8男5女の子宝に恵れ、それぞれ成人独立させた。 営農の後継者なく、昭和48年住み慣れた上富美を離れ、平手直利の住宅に転居す。
 以後野菜や花づくりを楽しんでいたが、昭和53年6月、畑作業中高血圧のため倒れ、自宅療養に努め現在に至る。 
   
牧野 幸一 牧野源一長男 昭7.7.1生 
家族   妻和子 長男哲男 長女幸恵 母めつい 
移住  昭和7年12月
 上川郡愛別町字愛山より、当地の転入 
経歴   父源一は愛別町愛山にて、農業に従事、水田耕作の経験から、昭和7年石田清美を頼って転入し、当時新規造田事業が盛んであったので、造田事業に稼働する。 最初北湧北の風防林敷地(現松野源蔵宅地の北)に仮住居を建てていたが、その後現在地を買収し住宅を新築す。 水田の小作を主体に農業経営に努力し、戦後は3町歩余の自作農となる。
 世帯主幸一、父の家業を継ぎ、昭和34年北兵村一区稲垣和子を妻に迎う。 父源一の死去に会い、小農経営に見切りをつけ、昭和42年離農する。
 その後郷土建、西村組等に季節労務者として稼働し、昭和52年より北新土建に勤め現在に至る。  
   
堀 勝雄 堀 敬介婿 明42.4.14生 
家族   堀 敬助婿 明治42・4・14生 
移住   昭和11年 義父敬助、上川郡東川町より、転入す。 
経歴   義父敬助は、東川町より、昭和11年長倉鶴次郎より現在地を買収して転入し、林檎、水田、稲作の混同農業を経営し、特技の蹄鉄業も依頼に応じて兼業していた。
 これより先1人娘の美香、庁立旭川女学校を卒業後、鉄道員赤間勝雄と結婚す。
 世帯主勝雄は、宮城県黒川郡大郷町の赤間家に生れ、昭和3年永山町の叔母を頼って渡道、同年国鉄職員採用試験合格、永山駅勤務となる。 昭和8年、堀美香と結婚、堀家に入籍、昭和12年8月、日支事変に充員召集を受け、旭川北部工兵第7大隊に応召、北支、中支に派遣、各地に転戦す。 昭和14年4月機関紙職場に復帰する。 その後助役試験に合格、妹背牛駅助役として勤務、昭和21年4月家事の都合により退職し、現在地、義父と同居し農業の経営を継ぐ。
 果樹栽培を主体とし、水田畑作約3町歩余に耕地を増し、経営に努力す。 昭和43年頃フラン病の多発により、意を決し果樹園を皆伐、アスパラ、ビートその他の普通作物の栽培に変更。 営農に努めて来たが、高年齢のため、昭和54年1月離農を決意す。
 趣味に俳句を昭和4年頃より始め、排誌『時雨』に入り、50年俳歴あり、現在北海道排誌『葦牙』の金剛集同人となり、俳号亘暁と号す。
 上湧別町果樹協会理事、町文化協会理事、共進第二農事組合副組合長、部落会監事を歴任す。 
   
石田 勝利 屯田 石田勝実5男 昭20.1.6生 
家族   妻栄子 長女利江 次女久美 母鈴能 
移住   明治30年5月29日
 祖父周一、岐阜県揖斐郡池田村大字大之井より、屯田兵として入植。 
経歴   祖父周一については、石田百代、父勝実については石田敏雄の項に詳記す。
 勝利は父勝実、母鈴能の5男として、昭和20年1月6日、現住所に於て生れる。
 幼くして父を失い、母と兄敏雄の養育により成長し、昭和38年3月、湧別高等学校を卒業、つづいて野幌酪農短期大学に進学、昭和41年3月同校を卒業。 上湧別町役場吏員に奉職す。
 昭和45年6月、遠軽町関端 貢長女栄子と結婚し、現在所に分家今日に至る。 
   
松野 源蔵 屯田 松野和蔵3男 大8.6.5生 
家族   妻清子 長女道代 
移住   明治30年5月29日
 熊本県鹿本郡嶽間村大字椎持より、父和蔵屯田兵として、65番地に入植。 
経歴   父和蔵については、本家を継いだ末松の項に詳記す。 因に熊本県出身の政治家、松野頼三は松野家の本家であると云う。 世帯主源蔵は、父和蔵母マサノの3男として生れる。 上湧別小学校高等科卒業後は、兄の農業経営に協力する。
 昭和18年8月再度の召集を受け、応召に際して脇島金一長女清子と結婚す。 20年8月終戦により復員本家に同居。
 昭和21年本家の納屋を改造分家す。 水田耕作3町2反歩の混同農業を経営、冬期間は馬を使い冬山造材に稼働す。
 昭和24年11月現在地(粟木の宅地)に住宅を新築移転、営農に努力す。 昭和46年離農し、江別市郷土建KKに入社現在に至る。 長男の和憲、湧別高校卒業、電電公社北見通信部に奉職、鈴木照子と結婚、1男1女あり、次男美明は湧別高校卒業後、遠軽地区消防組合、上湧別支署に小食、工平惠子と結婚、2女あり。 
   
石田 敏雄 屯田 石田勝実長男 昭6・9・16生 
家族   妻節子 長女明美 長男敏昭 
移住   明治30年5月29日
 岐阜県揖斐郡池田村大字大之井より、祖父周一、屯田兵として67番地に入植。 
経歴   父勝実は周一の2男として明治36年6月に生まれ、幼くして父を亡い、母の再婚により義父の下に成人す。 兄清美と共に独立し、造材人夫、木材流送夫として各地に稼働、大正15年市村儀藏長女鈴能と結婚、兄の下で家庭を営む。 昭和5年北通55番地に分家、農業経営を始めると共に、熊沢木材KKの専属馬夫長として、遠く瀬棚、岩手県に稼働する。
 亦、馬産に意をそそぎ、愛馬倶楽部の役員として馬匹の改良に努める。 戦後農地解放で自作農となり、水稲を主作として営農に意欲を燃やしていたが、25年1月2日急逝す。 時に共進第二農事組合長在職中のため、農事組合葬を以て葬す。
 世帯主敏雄は、勝実の長男として生れ、幼くして父を亡い、母を助けて家業を継ぐ。 昭和32年3月、湧別町川西、大水民之助2女節子と結婚、果樹水稲中心の経営に努力、その間弟等を教育、結婚分家させる。 昭和42年樋口道雄の転出に際し、宅地住宅等を買収移転す。 46年稲作の生産調整を機に水田を畑地転換、更に果樹栽培も畑作に切替え、大農器具を導入し、甜菜、馬鈴薯、小麦等畑作専業に移行今日に至る。
 共進青年団長、火防団長、農事部長、自治会長、子供会育成会長を勤む。
 昭和43年町甜菜耕作郷励会最優秀賞、47年支庁管内稲作転作郷励会湯終章並全道稲作転作共励会表彰等授賞す。 
   
樋口 雄幸 屯田 樋口幸吉3男 大1・12・14生 
家族   妻歌子 長男雄三 長男妻ミヨ子 孫隆志 孫綾子 
移住   明治30年5月29日
 岐阜県安八郡神戸町字北一色より、父幸吉屯田兵として49番地に入植す。 
経歴   父幸吉は、屯田現役中給養班長、屯田兵解隊後は、公有財産取扱委員会常置委員、明治40年、公有財産が、村役場管理となり、湧別村役場、南北部落財産係として奉職す。 この間初代の部落区長、村会議員を勤む。 上湧別村となり、その後主席書記を勤め、昭和7年退職、上湧別村産業組合専務、19年農業会副会長、21年農業会長、又森林組合長、土地改良区理事長等を勤める。 町自治功労章、道長官表彰等多く授賞す。 昭和34年5月18日現在地にて死去す。 生涯酒を好み、子供の養育に努め、2男幸美は北海道庁に奉職、農業部長、5男正己は、道立遠別高等学校長、7男寿幸旭川農業改良普及所長を勤めて退職した。
 世帯主雄幸は、幸吉の3男に生れ、北湧高等科卒業後農業を継ぎ、果樹、水稲を主体に経営に努力する。 昭和13年、当麻町住友敬子と結婚、戦中は警防団長を勤める。 戦後農事組合長、自治会長を勤め、町農協の監事、専務理事となる。 その間上湧別町の社会教育委員、公平委員、監査委員等を歴任する。 現在、北海道民生委員連盟理事、上湧別町社会福祉協議会長、社会教育委員、上湧別コミュニティ協議会長外数多くの職に就いている。
 長男雄三は酪農学園短期大学卒業後、愛別町荒川ミヨ子と、昭和45年結婚、農業を継ぎ、46年水田を畑作に転換、りんご栽培に専念するも、近年フラン病のため次第に畑作に変え、アスパラ、ビート等畑作の経営となっている。 
   
秦野 正則 屯田 秦野正弘長男 昭17・9・7生 
家族   妻利子 長女由美 長男仁志 父正弘 母スエノ 
移住   明治30年5月29日
 愛知県東春日井郡小牧村大字小牧原新田より、祖父甚吉屯田兵家族として入植 
経歴   祖父甚吉は、屯田兵又三郎の弟で、明治44年分家農業に従事、大正7年12月福田商店の跡を買受け、雑貨商店を開く、 大正15年より種苗販売を始め、農業経営し、乳牛や種馬の飼育、養鶏等に力を入れる。 温厚で趣味多く、常に部落民が集合して親しまれた。 昭和11年3月若くして死去。 長男馨、家業を相続す。
 父正弘は甚吉の次男として生れ、北湧校高等科卒業後、兄を扶け農業に従事、開盛栗木重太郎の娘スエノと結婚、兄の経営を扶け、馨召集後は、経営の中心となり家業振興にあたる。 戦後昭和21年12月、現在地に住居を建て分家す。 果樹、水田、畑作の混同経営に努力、38年地続きの土地を購入、経営を拡大。 46年稲作を転換、果樹主体の経営となる。
 この間、農事組合長、自治会長、共南森林愛護組合長、現森林組合理事を勤め、多くの表彰を受く。
 世帯主正則は、正弘の長男、家業を継ぎ、昭和40年3月開盛中村貴、妹利子と結婚、営農に努力、農協青年部四ノ一支部長、火防団長等を勤める。 
   
三品 昌一 屯田 三品玉七4男 大9・1・16生 
家族   妻フジ 次女美幸 
移住   明治31年9月1日
 福島県伊達郡粟野村より、父玉七屯田兵として入植す。 
経歴   父玉七屯田兵の弟として入植し、開拓草創の開墾に尽力、明治41年12月現在地に住宅を建て、2町歩の畑作農家として分家す。 其の後土地を拡大、果樹、水田等を入れた営農に努め、昭和31年死去。 本町開拓の功労者なり。
 世帯主昌一は玉七の4男に生れ、兄の死去のため、農業を継ぎ経営に努力する。
 大東亜戦に応召し、21年6月、中国より帰還す。 この年10月西バロー伊藤フジ子を妻に迎え、果樹、水稲、畑作の経営を続ける。 特に馬の育成に熱心で、戦後の農耕馬では多くの優良馬を育成、品評会、共進会に出陳し、昭和32年から36年まで連続町の品評会で1等を授賞している。 又機械が好きで保導車を最初に使い、石油発動機、脱穀機、モミ摺機やオートバイ(原付自転車)、耕転機等は、部落でも比較的早く導入使用している。
 この間、農事組合長、自治会副会長の職を勤める。 
   
石田 則夫 屯田 石田  誠4男 昭23・9・2生 
家族   妻ユミ子 長男佳弘 次男亮二 父誠 母きくえ 
移住   明治30年5月29日
 祖父乙吉、愛知県より屯田兵家族として、南兵村二区に入植。 
転入   父誠、昭和37年4月10日、南兵村二区より、当部落に転入す。 
経歴   祖父乙吉、愛知県東春日井郡勝川村より、南兵村二区に移住し、戸主友次朗より分家、農業経営、次男勝喜家を継ぐ。 父誠は分家農業を営む。 昭和10年1月北沢きくえと結婚、営農に努力し耕地を拡大し、昭和37年小田井徳好、白滝村転出の跡地住宅を購入し、部落に転入す。
 以来、水稲、畑作、果樹等の経営に努める。
 51年高血圧にて倒れ、以後耕地は小作させ、休農の状態である。 生来実直、農業一筋に努力、子弟はそれぞれ独立す。
 世帯主則夫は佐官を業とし、独立していたが、昭和53年現在地に住宅を新築し9月遠軽より戻り、父と同居現在に至る。
 元町長石田勝喜は、父誠の長兄であり、現農協組合長石田静夫は従兄弟である。 
   
三品 正吉 屯田 三品太七長男 大9・13・29生 
家族   妻ユキ 母ヨシイ 次男幸義 次男妻節子 孫由香 孫拓也 
移住   明治31年9月1日
 母ヨシイ、福島県伊達郡粟野村より、屯田兵三品玉吉長女として入植 
経歴   祖父玉吉の経歴は、本家三品勲の項に詳記す。 父太七(吉田)、大正2年福島県伊達郡伏黒村より、紋別、上藻別在住の兄を頼って渡道し、遠軽野上の岡崎富蔵宅に草履をぬぎ、大正4年3月、三品玉吉長女ヨシイの婿養子となる。 大正10年35番地加茂の宅地に分家独立。 営農に努力す。 昭和14年現在地に住宅を新築移転す。 性直にして、精農家として知られ、消防組第6部長、農事組合長、部落会長、村会議員、土地改良区理事等多くの公職を歴任功績多し、44年死去。
 3男6女あり。 長男正吉家を継ぎ、次男正十郎を部落内に分家。 3男俊雄は、昭和27年、新篠津村開拓地新湧部落に分家移住させる。
 正吉は昭和20年、開盛、井上捨治長女ユキと結婚。 果樹、水田を主作として経営に努める。 この間、青年団長、農事組合長、自治会長、果樹協会会計、町議会議員、納税組合長等多くの公職に就き、功労多し。 44年水田を畑作に転換、アスパラ、ビートを栽培、近年フラン病の多発でりんごも減反縮小しつつあり。
 次男幸義に昭和52年置戸原 節子を妻に迎え、家業を継がせている。 
   
三品  勲 屯田 三品 栄長男 昭16・3・5生 
家族   妻美代子 長男義和 次男博志 3男茂美 父栄 母キウ 
移住   明治31年9月1日
 福島県伊達粟野村より、祖父玉吉屯田兵として、34番地に入植す。 
経歴   祖父玉吉屯田兵として入植以来、農業に専念し、村長、村農会長の表彰多く、大正7年東海林と共同澱粉工場を操業する。 昭和6年現在地に住宅を新築移転す。 長男一男は兵屋にて、農業を経営す。
 玉吉は昭和40年町の表彰条例による社会功労章を受け、昭和45年3月28日、93才の長寿を完し生涯を終った。
 父栄は、玉吉の次男に生れ、北湧校高等科卒業後家業に従事、昭和10年6月、生田原中里井上宗治の娘キウと結婚、果樹水稲を主体に監事綱経営を行う。 この間火防団幹部として永年尽力、農事組合長、自治会副会長等を勤む。 農業熱心で各種作物品評会に多くの入賞表彰を受く。
 世帯主勲、湧別高校卒業後農業に従事、昭和40年12月南兵村二区山口美代子と結婚、家業を継ぐ。 46年水田畑作に転換し、果樹、アスパラ、ビート等約8町歩を経営、青年団長、町農協青年部長、社会教育委員、火防団長等を勤めるなど、活躍中である。 
   
秦野 哲男 屯田 秦野 馨長男 昭12・3・13生 
家族   妻好枝 長男修一 長女和枝 次男智樹 父馨 母はる 
移住   明治30年5月29日
 愛知県東春日井郡小牧村大字小牧原新田より、祖父甚吉屯田兵の弟として入地。 
経歴   祖父甚吉は明治26年6月26日生れ、長兄又三郎屯田兵志願家族として一区に移住、北湧校高等科を卒業農業に従事、明治43年12月、上家梅吉長女シゲノと結婚、大正元年12月、兵村4番地大泉の宅地に分家農業に従事、農会長より模範経営の表彰を受けるほど経営に努めるも、病弱のため労働に耐え難く、大正7年12月、福田商店跡を引継ぎ、雑貨商を営む。 然し小部落の上経済の変動等、店舗経営が意のままにならず、大正14年雑貨商を廃業す。 この間種牝馬の繋留乳牛エァシヤの飼育を行う。 大正15年春貸地の返還を受け、農業経営に再出発、翌昭和2年秋より農産野菜種子の販売、果樹造林苗木の生産販売に着手、漸次事業を拡張苗圃事業を経営、昭和11年3月6日病没す。 この間消防小頭、農事組合理事、玉葱組合理事、養鶏貯蓄組合長等を勤める。
 父馨は甚吉の長男として生れ、北湧校高等科卒業後農業に従事、昭和15年5月開盛井上重次郎長女はると結婚、家業を継ぐ。 其の後造林苗木落葉松の播種から育苗と本格的経営をはじめたが昭和46年8月臨時召集を受く。 戦後弟妹の分家、結婚、就職等の事情で種苗業を止め、水稲畑作混合農業に移行す。 果樹栽培の外アスパラの植栽など、営農改善に努める。 その間、町消防団班長、農事組合長、部落会長、森林愛護組合長、光納税組合長、町教育委員(内2期委員長)、町農協理事、監事、町文化協会長、町遺族会長、厚生省戦没遺族相談員等数多くの公職を勤め、功績多く、各種の表彰を受く。 若くして俳句をたしなみ、排誌『葦牙』の金剛同人となり、活躍、凍声と号す。
 世帯主哲男は、馨の長男に生れ、上湧別中学校卒業後農業に従事、昭和38年愛別町阿部金作2女好枝と結婚、45年12月営農、家計一切を受継ぐ。 稲作調整で水田を畑作転換、又果樹園も近年廃園、畑作に転校経営に努力中、青年団長、農協青年部長、消防団班長外公職多し。 
   
武山 芳夫 武山政司3男 昭26・2・3生 
家族   母トミオ 妹京子 
移住   昭和49年4月5日
 中湧別市街より、現在地に転入す。 
経歴   父政司は、祖父忠助と共に明治43年4月、宮城県桃生郡大川村より、湧別町東芭露に入植、開拓に従事、営農に努めていたが、昭和8年12月離農し、中湧別市街に転住し、丸通に勤める。
 父政司は、昭和47年6月死去。
 世帯主芳夫、渡辺組に勤務し、昭和49年4月遠藤清喜の斡旋で秦野正昭が遠軽に転出後の宅地、住宅を購入し中湧別より現在地に転居し部落の一員となる。 現在は遠軽職業訓練所測量科に入所、勉学中である。 又芳夫は41年火災早期発見通報により、遠軽警察署長より表彰される。 
   
細川 正美 屯田 細川齊次郎8男 昭11・3・25生 
家族   妻小夜子 長男泰男 長女淳子 2男真吾 妻の母佐藤フミ 妻の義父館田仁三朗 
移住   明治31年9月14日
 新潟県西蒲原郡松長村より、父斉次郎屯田兵家族として、26番地に入植。 
経歴   父斉次郎の経歴は、本家勝の項に参照。
 正美は斉次郎の8男として生れる。 中学校卒業後、遠軽高等学校に進み同校卒業、昭和30年7月10日、上湧別町役場に奉職、各課の係を歴任す。 昭和38年4月瀬戸瀬佐藤小夜子と結婚。 妻の仕事の関係で、湧別芭露診療所住宅に転住す。
 この年11月現在地に受託を新築、翌39年5月部落に転入した。
 38年総務課統計係長に昇進、以後、産業課農業構造改善係長、工営課管理係長、工営課長補佐を経て、52年工営課長となる。 妻小夜子の母夫婦と同居し孝養に勤め、49年宅地6反歩を購入し、アスパラ4反歩外耕作している。 
   
岡村  稔 屯田 岡村金太郎長男 大8・12・20生 
家族   妻テル子 長男勉 長男妻優美子 孫真自 孫英己
移住   明治30年5月29日
 熊本県飽詫郡浜田村字浜口より、父金太郎屯田家族として、51番地に入植。 
経歴   父金太郎は、本家の農業を永年手伝い、大正11年4月、現在地に住宅を建て分家、農業に従事、勤務努力、多くの子女を養育す。 昭和19年4月、大きな夢を抱き、満州開拓、北海道実験開拓団を志願し、鳥井茂、大島久吉等と共に8人の子供を連れ、満州国北安省海倫に集団移住、開拓に当った。 この時長男稔は、現在地に残り家業を継いだ。 然し終戦となり、父金太郎は引揚の途中、20年12月新京にて死去、家族は21年8月帰郷す。
 世帯主稔は、昭和15年今野吉五郎娘テル子と結婚、農業を継ぐ。 幼少より馬を好み、熱心に産駒の育成に当り、愛馬倶楽部の幹部を務め功績多し、46年より49年まで、馬事協会の貸付種牝馬、ブルトン系キナル号、ペル系カプリシー号などを繋留し種付事業を行う。 長男勉昭和47年北見市細田優美子と結婚、現在5町5反歩の畑作経営をなす。 
   
塚田  寛 塚田峰次郎次男 明35・4・26生 
家族   妻まさ子 
移住   昭和20年7月
 室蘭市母恋北町より、妻まさ子、市村を頼って、当部落に疎開し来る。 
経歴   寛は、広島県安佐郡口田村に生れ、大正12年11月家を出て、汽船平龍丸に料理人見習として乗船、13年橘丸、14年幸喜丸、15年萬里丸、昭和2年第5御崎丸など航海船上生活を続ける。
 昭和2年7月、東隆丸に賄長として乗船、昭和3年10月、塚田まさ子と結婚、室蘭市に住居を定める。 仝年11月広通丸、9年8月昭榮丸、14年12月徴用されて弘玉丸、15年12月武洋丸、16年5月永洋丸に賄長として乗船、日本近海は勿論、朝鮮、中国、台湾、東南アジア方面まで航海したと云う。
 昭和20年9月、終戦により海上生活に別れをつげ、当部落に来住し、行商を業として今日に至る。 昭和24年現在地を買求め住宅を新築し、藪地を開墾、野菜を栽培、苹菓、野菜などを、遠軽、北見、紋別方面に行商、冬期厳寒の日も休まず、その辛苦努力は部落民の驚嘆の的であった。 この間、多くの子女を教育、長男一彦は、日通北見支店、好彦、光彦は国鉄、伸幸は教員となり独立す。 現妻まさ子身体不自由で、遠軽特養花の苑に入所し療養中である。 
   
竹内東洋児 竹内謙二長男 昭19・1・2生 
家族   妻美恵子 長男美洋 長女理恵 父謙二 母須美 
移住   大正4年1月
 雨竜郡秩父別村より、祖父連勝、穴田助太郎を頼って転任す。 
経歴   祖父連勝、明治43年、石川県河北郡花園村より、父母と共に雨竜郡秩父別村に移住す。 其の後大正4年親戚の穴田を頼って来住する。 縁あって南兵村二区竹原トメと結婚、北通諸岡の宅地に住み、後に現在地に住宅を建て移り住み、小作を主体に営農にはげむ。 昭和15年湧別土功組合の導水門管理人、水路巡視として33年まで勤務す。 理論弁説は特に有名で、渡辺善三郎と共に部落の双璧であった。 農地解放で自作農となり、農事組合長、納税組合長、町遺族会副会長等を勤め、土功組合永年勤務で、支庁長、道知事の表彰を受ける。 昭和15年1月死去。 長男信行戦病死のため、母須美、昭和16年湧別計呂地の関戸謙二を婿に迎え農業を継ぐ。
 謙二祖父の後を継いで、土地改良区の水路巡視人となり、33年より48年まで勤務す。
 東洋児は、昭和42年、三品一男4女美恵子と結婚家業を継ぐ。 馬鈴薯、ビート、アスパラ等の畑作で、現在約6町歩を経営す。 青年団長、火防団長、町交通指導員等の役に就き、活躍中である。 
   
石川 信一 石川福次4男 昭19・8・4生 
家族  妻京子 長女浩美 2女和美 3女由美 父福次 母キヨ 
移住  昭和19年3月28日
 紋別市小向弘道より、父福次一家引いて、鳥井 茂の跡地に転住す。 
経歴  祖父徳次郎、大正4年新潟県西蒲原郡松長村より、紋別市小向弘道の木原農場に入植、開拓に営営努力する。
 父福次長男に生れ、昭和4年、南兵村三区会田円丈の長女キヨと結婚す、青年時代短距離の選手で管内大会に出場が自慢、青年団長、森林防火組合長、国勢調査員などの公職に就き、道長官、紋別町長外多くの表彰を授く。 木原農場が水銀鉱区買収となったため、紋別町長の添書を上湧別村長宛にもらい、昭和19年満州開拓に出向く鳥井 茂の跡地を買収して転入。 其の後土地を拡大、営農に努力する。
 4男信一家業を継ぎ、昭和44年遠軽社名淵、須田大吉の娘京子と結婚、農業経営に専念、機械化農業を目指し、近年農地を買収拡大し、現在10町歩の稲作経営となる。 
   
岡村 恒夫 屯田 岡村 進 昭11・12・7生 
家族   妻貞子 長女則江 長男隆司 次男樹美彦 母ヤエ 
移住   明治30年5月29日
 熊本県飽詫郡浜田村より、祖父小太郎屯田兵として此の地に入地す。 
経歴   祖父小太郎、明治35年鳥井 始の妹ツデと結婚、日露戦役に従軍、戦傷を受け、帰還の途中、6号野上駅逓に一泊、39年2月24日早朝、帰家を目前に住宅、馬舎、全焼の災厄に会う。 このため42年第二給与地の現在地に住宅を建て移転す。 農業に精励し篤農家として著名で、農業経営共励会馬産振興の功労など多くの表彰を受く。 この間部落区長、村会議員、初代消防部長、産業組合長、納税組合長等多くの公職を勤め、我が部落創建の指導者として功績誠に多し。 昭和20年11月、69才で死去。
 父進は、一人息子として家業を継ぎ、東海林ヤエと結婚、りんご栽培に熱心で、苹果協会の幹部として活躍、性明朗快活、青年団長、火防団長を勤め、昭和12年8月、日支事変を最初の応召兵として従軍、戦後部落会長、農事組合長、町議会議員、民生委員等多くの公職に就き功績多し。 昭和51年5月死去。
 世帯主恒夫、家業を継ぎ、昭和38年南社名淵池添貞子と結婚、アスパラを主体の畑作経営に努力す。 
   
東海林武敏 屯田 東海林武雄長男 昭2・2・20生 
家族   妻百合子 次女多恵 母たまえ 
移住   明治31年9月14日
 山形県北村山郡福原村大字野黒沢より、祖父作太郎、屯田兵として入地。 
経歴   祖父作太郎、日露戦鋭気に従軍、奉天会戦八家子攻撃に胸部貫通の重傷を受け、兵役免除となり、終身軍人恩給を受く。 大正宇7年より三品玉吉と共同で澱粉工場を経営す。 果樹栽培にも熱心で、村農会のリンゴ栽培標準木の指定を受け、整枝剪定技術の指導を受け、部落リンゴ栽培の役割を果たす。 部落の副区長、共進産業組合理事を勤める。 昭和10年5月死去す。
 父武雄家業を継ぎ、農業経営に努力、上芭露佐々木スエヨと結婚す。 昭和7年7月妻スエヨ、弟勇湧別川にて遭難水死の災厄に会う。 翌年遠軽海野たまえを後妻に迎え、多くの子女を養育す。 円満柔和な性格は常に一座を和ませ、豪快な笑い声は印象に深い。 徳人として知られ、昭和49年12月死去。
 武敏農業を継ぎ、昭和26年樋口百合子と結婚。 昭和32年現在地に移り、リンゴ、水稲、畑作の経営に当る。 リンゴ、水稲を転換、現在、アスパラを主体に畑作経営に努力中である。 
   
阿部 太 阿部他人田長男 大8・11・13生 
家族   妻ヨシエ 次男和彦 母フチ 長男昭仁 長男妻良子 孫美智子 
移住   明治45年
 山形県北村山郡福原村大字毒沢より、父他人田、東海林作太郎を頼って来住。 
経歴   父他人田、東海林作太郎の母が叔母の縁で、17才の時渡道、東海林家で農業を手伝う。 大正5年、北兵村二区笹原藤吉の妹フヂと結婚、国元より両親を呼び寄せ、東海林の二給地(現アスパラ畑)に仮屋を建て小作農をはじめる。 その後向遠軽に適地を探し3年余り耕作したが、東海林の世話で大正9年、浜口の給与地(現在地)約4町歩余を購入、仝13年杉谷の兵屋を写して住宅を建築、農業経営に専念す。 ハッカ、玉葱など畑作を主体に耕作、後りんごも栽培す。 昭和32年10月死去。
 長男太、農業を継ぎ、昭和21年1月向遠軽北沢ヨシエと結婚営農に努力、昭和31年に水田1町6反歩を造成、水稲耕作をはじめる。 40年頃りんごを皆伐、アスパラ等に転作、46年水田も畑作に転換する。 この間火防団長、国勢調査員、交通安全指導員、農事組合長、納税組合長、自治会長、土地改良区理事等多くの公職を歴任し功績多し。 
   
植木 孫一 父植木仲平 昭5・10・25生 
家族   妻末子 次女久美子 
移住   昭和48年10月20日
 斜里郡斜里町ウトロより、一家転入す。 
経歴   父植木仲平は岡山県より、明治の末期斜里町星川に入植し、大正2年4月、宇登呂チャシコツ原野3線に未墾地の払下を受け、通い作をなし、大正7年この地に移り、営々辛苦農業経営に当る。
 世帯主孫一、ウトロで生れ、長じて農業に従事、昭和26年独立を目指して、斜里町岩宇別の開拓地に土地を求め、単身分家す。 昭和28年、宮城県佐々木末子を妻に迎え、開拓に努力、後酪農経営に精励する。 昭和48年10月、長野県邑楽郡邑楽町篠塚の長柄農協が、北海道哺育センターを当部落に開設するや、最初の哺育センター職員として採用され、その建設に努力、開所以来主任者金子拓夫を扶け、経営拡大、充実に尽力現在に至る。 
   
屋中 敏之 屋中敏夫長男 昭22・11・30生 
家族   妻光子 長男雅之 長女里美 
移住   昭和49年10月5日
 網走郡美幌町南3西2より、長塚農協哺育センター職員として当部落に転入す。 
経歴   祖父三次郎、大正5年頃福島県より、常呂村に移住し、処、卯原内間の逓送に従事。 昭和10年10月網走、常呂間の鉄道開通により、網走二見ヶ岡に入植農業経営をはじめる。 5男6女に恵れ、養育に努力す。 父敏夫は、長男として家業を継ぎ、網走豊里平間コトエと結婚、畑作経営に営営努力し産をなす。 昭和53年2月没す。
 世帯主敏之は長男に生れ、農業に従事し、昭和47年3月、増毛町佐藤光子を妻に迎え、仝年2月、家業を弟に任せ、美幌町に分家木工場に勤務、49年長柄農協哺育センター職員に応募し、当部落に転入、現在に至る。 
   
今野 陽一 今野虎一長男 昭24・10・25生 
家族   妻るり子 長男陽 
移住   昭和50年8月28日
 網走市二見ヶ岡より、長柄農協哺育センター職員として当部落に転入す。 
経歴   祖父吉次は、大正の末期に、網走御崎(野登呂灯台附近)の開拓地に入植し、営々辛苦農業経営に努力、3男4女を育てる。 その後同市二見ヶ岡に移り、畑作経営す。 父虎一は次男に生れたが、兄が幼くして死没し、家業を継ぎ、東モコト畑田スズエと結婚、畑作養豚等経営に努力す。 5男2女を養育す。
 世帯主陽一は虎一の長男に生れ、長じて農業に従事、昭和48年増毛町、高橋家次女るり子と結婚、昭和50年、長野県長柄農協の哺育センター職員の募集に応じて、当部落に来住、現在に至る。 
   
安本 明雄 屯田 安本 明長男 昭18・5・17生 
家族   妻近子 長女明美 次女貴子 父明 母操 
移住   明治31年9月1日
 鳥取県東伯郡竹田村大字曹源寺村参番屋より、屯田兵の家族として入地。 
経歴   祖父庄蔵、明治41年南兵村二区門馬フヂと結婚と同時に、26号線南の二給地に住宅を建て分家す。 翌42年より毎年の重なる大洪水のため、土地流失の災害を受け、大正2年頃25号線の南、基線道路の西側に移り営農す。 大正11年8月の大洪水に、一家消防組員に救助されるなどのことから、翌12年現在地に移転する。 ハッカ豆類の栽培から昭和に入り、玉葱、果樹栽培に努力す。 3男7女と多くの子女を養育、昭和31年12月死去す。
 次男明家業を継ぎ、昭和17年1月、札富美深見操と結婚、経営に専念、優秀な果樹園に仕上げる。 昭和31年水田1町4反を造成、水稲栽培を始める。 42年頃フラン病蔓延のため、りんご栽培を止め、46年には水田を排耕し、以後アスパラ、野菜等を栽培する。 この間、火防団長、農事組合長等公職を勤める。
 世帯主明雄、家業を継ぎ、昭和44年置戸町結城近子と結婚、農業経営に努力、青年団長、火防団長、農協青年部長を勤む。 
   
稲垣 正美 屯田 稲垣音松次男 大11・3・1生 
家族   妻良子 長女美智子 
移住   明治30年5月29日
 愛知県東春日井郡片山村大字牛山より、父音松屯田兵の弟として入地す。 
経歴   屯田兵戸主の謙吉が、明治41年頃分家し、父音松は祖父と共に兵屋で農業に従事。 富美星家の娘ヤエと結婚、農作に専念す。 昭和11年所有の山林より建築材を切り出し、第二給与地の現在地に、住宅、畜舎を建築し移る。 畑作を主体に経営す。
 兄松男、昭和17年5月応召出征し、翌18年ガダルカナルで戦死、仝年7月29日無言の凱旋し、村葬が執行される。
 この時穴田多喜四の村葬も同時に行われた。
 次男正美は、昭和18年1月応召し、終戦後21年4月帰還し、農業を継ぐ。
 この年佐呂間町吉野良子と結婚、砂礫療薄の土地を努力で克服し、畑作を主体にりんご栽培を加え、懸命に努力す。 43年渡辺組砂利採取部門に勤務、46年7月左眼を失明する災厄に会う。 46年秋渡辺組が南兵村一区に砂利採石場を操業し、作業員として稼働中、48年残る右眼を病み、加療に努めるも51年2月遂に失明身障者となる。 妻良子、長女美智子渡辺組に勤めている。 
   
酒井 清 酒井福太郎長男 大3・9・20生 
家族   妻純 
移住   昭和39年9月17日
 遠軽町2条通南1丁目より、小関文男跡地を購入し転入す。 
経歴   愛知県豊橋市萱町に生れ、東京の商業学校卒、薬種業を見習っていたが、後名古屋畜産技術者養成所に入所、養鶏技術を習得、各事業所に勤務実習、昭和14年北海道庁真駒内種畜場に、養鶏鑑別師として単身渡道勤務。 翌15年11月ホクレン北見ふ卵場の開設に招かれて、主任技師に就任、昭和16年、旭川野川家長女純と結婚。 昭和19年5月満州中央銀行経営の新京農場の養鶏技術担当者として渡満。 翌20年5月現地召集を受けソ、満国境警備に服務。 終戦後ようやく家族と一緒になり、21年8月旭川に帰還す。 翌22年3月、ホクレン帯広ふ卵場に勤務。 24年8月函館に移って、単独養鶏ふ卵場を経営、27年遠軽町に来住、ふ卵場並に種鶏の飼育経営す。 その後遠軽町都市計画法で、多羽数飼育が不可となり、遠藤正雄の斡旋で、昭和39年、小関文男離農跡地の現在地に移転養鶏業を経営す。 卵価の低迷、飼料の高騰の中、最高の産卵技術を発揮するも、50年秋ついに40数年経験の養鶏を断念し、池内工業に就職現在に至る。 
   
菊地 滝之助 菊地善六長男 明42・8・1生 
家族   妻ノブ 
移住   大正5年4月
 岩手県上閉郡遠野町青笹より、祖父善之丞一家を連れて入地す。 
経歴   善之丞は、大正の初期にこの部落に入植していた妹婿、菊地善八を頼って、大正5年9人の大家族をひきいて来湧し、最初は24号線東1線、現上楽源次郎の土地に入地した。 大正7年現在地移転、農地を求めながら農業経営す。 善之丞は、だるま爺さんの愛称で呼ばれ、笛、はやし、踊りの名手で、川上神社祭典余興に大黒舞を青年に教え、得意の笛で踊らせたものである。 昭和3年5月亡くなる。
 父善六農業を継ぎ、特に玉葱の栽培は、昭和2年から約15年間、1町5反歩の直播耕作をする。 昭和35年9月死去。
 世帯主滝之助は、父を扶けて農業に専念し、昭和6年4月、北兵村一区斉藤与四郎の娘ノブと結婚、経営に努力す。 この間、青年団、火防団の幹部として活躍、手押消防ポンプの機械係では、その敏捷な操作は当団の花形であった。
 戦後妻ノブの健康すぐれず、農業経営を諦め、昭和38年頃農地を整理し、遠軽営林署に稼働し、後町役場の労務に就く。
 長男勇は電電公社に勤務、遠軽在勤中、南兵村団加入電話の架設に尽力される。 
   
佐藤 義幸 佐藤寿喜次男 大15・11・25生 
家族   妻トヨ子 次男保信 
移住   大正12年春
 熊本県上益郡六嘉村より、父寿喜親戚鳥井始を頼って来住す。 
経歴   父寿喜は、鳥井 始が故郷熊本県六嘉村を訪れた時、北海道の雄大な農業の話を聞き、始が帰道の後を追って大正12年渡道、鳥井家で農業に従事する。 近しい親戚でもあり、翌13年、始の長女イトと結婚、24号線上手湧別川沿の
水車(工藤留次より鳥井が買収)の処に分家す。
 昭和2年現在地(能勢二給地)約2町歩の土地に住宅を建築移転し、農業に専念する。 次第に耕地を拡大し、一般畑作からリンゴ栽培をはじめる。 昭和12年、日支事変に出征中支方面に活躍、戦後ゼンソク発作に健康すぐれず、昭和40年12月、4男正高の在住する大阪に行く。
 妻イトも共に正高の処に移り静養、48年10月、大阪で死去。
 長男弘義は、昭和24年3月、鉄道事故で死去。
 義幸農業を継ぎ、昭和24年町内旭の松岡とよ子と結婚、畑作の外、養鶏、養豚など経営に努力。 現在アスパラ、ビート当を主体に経営す。 
   
工藤 武(辰雄) 工藤良雄長男 昭6・11・25生 
家族   妻桂子 長女智子 長男隆宏 父良雄 母芳枝 
移住   大正8年、祖父留蔵 興部村藻オコッペより入地する。 
経歴   工藤家は明治の末、宮城県遠田郡富長村より渡道、寿都、和寒等各地を廻り、興部村モオコッペに開拓に入る。 留蔵の弟留次が、大正2年頃南兵村一区に転入し、24号線上手の原野秋蔵の水車を買収、澱粉製造、精米事業を経営した。
 これを縁に大正8年、留蔵一家が一区に来住した。 はじめ現三品正吉住宅地や、小野豊宅地、西村幸一宅地等転々としていたが、大正11年、娘婿、須藤茂七が屯市に移転後、現在地(福田仙次郎所有地)に入る。 人一倍の努力と農業経営の上手さで資産を増す。
 父良雄は、昭和5年縁戚の工藤芳枝を妻に迎え、父母と共に寝食を忘れて努力、畑作を主体に、ハッカ、豆類、ビート等大反別を耕作す。 この間、青年団、火防団の幹部となり、愛馬倶楽部会長、農事組合長を勤める。 辰雄父の後を継ぎ、昭和35年美幌町田中桂子と結婚、ビート、馬鈴薯、豆類、及びアスパラ等を耕作、49年より玉葱栽培をはじめる。 町消防団に永年勤続、農事部長、自治会長等の役職に就き、功労多し。 35年の新開盛橋の渡橋式に、親子3代夫婦揃い渡初めを勤める。 
   
工藤 敬蔵 工藤留蔵3男 大7・7・21生 
家族   妻ハナ 長男秀夫 長男妻千恵子 孫いずみ 孫茂樹 
移住   大正8年
 分家 昭和32年 
経歴   父留蔵 大正8年興部村藻オコッペより、当部落に来住す。
 その来歴は本家工藤辰雄の項に記す。 
 敬蔵は北湧校高等科卒業後家業を手伝う。 家畜の飼育が好きで養兎、養鶏、養豚などに力を入れる。 戦時中応召し終戦後、昭和24年湧別町信部内小野ハナと結婚す。 その後本家経営を手伝い、緬羊の多頭飼育や養鶏飼育に努め、鼓動家隆興に尽力す。
 昭和32年、かねて用意していた元青年会場(昭和6年改造)の材料で、住宅を新築分家する。 1町2反歩の零細経営のため、養鶏種卵の生産に努力、約4百羽飼育するなど辛苦勉励し43年までに現在の5町8反歩の農地に拡大す。 豆類、ビート、馬鈴薯の外、アスパラなどを耕作、47年より玉葱栽培をはじめ、現在約4町歩の専業的経営となった。 46年に自治会長として、新四ノ一会館の建設に尽力。
 長男秀夫は49年、北兵村三区藤井千恵子と結婚、農業を継ぐ。
   
辺 光雄 渡辺喜三郎3男 大4・7・2生 
家族   妻ミト 
移住   明治39年2月
 宮城県伊貝郡桜村より、祖父熊治郎、遠藤清五郎を頼って来住す。 
 分家 昭和22年12月25日
経歴   祖父熊治郎は大工棟梁で、一族9名外弟子数名を連れ、名寄からは徒歩で紋別を通り来住、遠藤善蔵方に仮寓し後川野小太郎の兵屋に移る。 この年南兵村三区八幡宮、40年川上神社の神殿を造営す。 優秀な建築技術で村の公共建築や、農商家の住宅店舗等、多くの建築物を残す。 熊治郎の長女ハナ、佐藤喜久治の弟喜三郎を婿に迎え、建築業を継ぐ。 農地を購入し家族は農業を営む。
 父喜三郎は建築業に専念するかたわら、消防組第6部長、農事実行組合長を勤め、部落区長在勤中、昭和19年2月死去される。 部落葬を以て生前の功績にむくいた。 
 長男正喜は弟寅喜と共に建築業を継ぎ、戦後渡辺組を同族で組織、現在管内指折りの土建業渡辺組を築き上げる。
 50年12月、北兵村一区に新居を建て移る。 弟寅喜は専務を勤め、52年遠軽に移る。 この間正喜は青年会長、共済組合理事、農業委員、部落会長を歴任し、町議会議員に当選、現在町議会議長4期目を勤め、地方自治の功績多大なり。
 世帯主光雄は、喜三郎の3男に生れ、農業を担当し、家業を扶ける。 昭和17年富美、佐藤鶴治2女ミトと結婚。22年25号線西の現在地に住宅を新築、仝年12月分家、約3町歩の農業経営を行う。 畑作を主体にリンゴ栽培を試みたが、健康に恵まれず、近時アスパラを主体に耕作、渡辺組砂利採石場に勤務している。  
   
佐藤 こう  故佐藤鶴治妻 明36・7・10生 
家族   独居中 
移住   昭和42年4月
 上湧別町内、富美より、夫婦で転入。 
経歴   大正の初め、宮城県伊達市より、義父要吉一家を連れ、姉婿菅野米助(四ノ三区)を頼って来湧、札富美に入地。 農業に従事す。 長男松治は大正9年、湧別村東8線吉沢こうと結婚、農業を継ぎ、2女3男をもうけるも、病のため死亡す。 このため昭和3年弟鶴治、宮城県より来り、こうと結婚家業を継ぐ。 昭和7年富美ガンケ橋の東に土地を求め、開墾に従事、畑作を主体に経営に努力する。 この開墾地は低地は湿地多く、高台は粘土地で耕作には苦労が多かった。  戦後多くの子息がそれぞれ職に就き独立し、夫婦2人で営農を続けていたが、老齢のため離農を決意した。
 昭和12年、長女ミトが渡辺光雄に嫁しており、光雄の住宅の北に隣接して住宅を建築、来り住居する。 夫鶴治は役場労務者として、47年まで稼働し、その後49年5月6日病魔のため死亡。 妻こうは病弱で52年8月、遠軽中央病院に入院し、療養に努めている。
 4男文雄は、大工として渡辺組に努め、当部落馴染みが深く、遠軽町北町に在住している。 
   
遠藤 正雄 屯田 遠藤清五郎4男 昭40・12・1生 
家族   妻すずゑ 
移住   明治31年9月1日
 宮城県伊貝郡桜村字佐倉より、父清五郎屯田兵として入地。 
経歴   父清五郎の4男に生れ、北湧校高等科卒業後農業に従事。
 昭和2年より現役教育を受く。 昭和5年4月、五の一区小野寺すずゑと結婚、本家の経営に尽力、昭和9年12月、一区北通中村の宅地に分家す。 2町8反歩の農業経営に努力中、昭和12年8月、日支事変最初の召集を受け、北支に出生2度の戦傷を受け、15年5月帰還す。 15年10月より青年学校の指導員に選任、18年4月、仝村一校に統合し、助教諭、主任指導員となり、戦後23年3月まで、青年教育に尽力す。 この間農業報国挺身隊道錬成会(札幌)農村翼賛中核青壮年錬成講習会(札幌)全国強化村指導者講習会(岡山県)等に参加、北海道新聞に師団長表彰記事発表、札幌放送局より体験発表など活躍する。
 昭和18年25号線南入口に住居を移す。 戦後も多感な情熱を農民運動にそそぎ、農民同盟の副委員長に就任、政治活動や公職に活躍する。 農地を拡大し約6町歩を経営するも、長男正信を42年学校に奉職させ耕地を縮小、養鶏に力を入れ、最高700羽のケージ飼育を行う。 52年老齢のため離農する。
 この間在郷軍人村分会長、愛馬倶楽部会長、農地委員、農業委員、部落会長、農事組合長、町養鶏友の会長等多くの役職を歴任し、功績多し。
 

 



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