拓魂八十年
生 活 雑 史
生活 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
服 装 | 衣 服 | 屯田兵開拓時代の井戸組、葬式組については、前に述べてあるが、一般の生活はどうであったろう。 四国九州のような暖国の者は、仕事着も膝までの着物に脚絆をはき、娘などは赤たすき、姉さんかぶりの姿は、人目を引いたと云われます。 又寒い雪国の東北地方の者は、暖かさを主として、冬着はチャンチャンコと云われた綿入れの袢纏を着、モンペをはいていた。 開墾当時は、蛇、蚊、ブヨなどの虫が群れをなし、顔や首、手足は勿論、着物のすき間から入って、刺すので痛みかゆみで、仕事が出来ないほどであったと云う。 冬の寒さを防ぐにも、はじめは不様なモンペ姿と、笑っていた暖国の人々も、4・5年後には、皆モンペを造って、穿き、チャンチャンコを作って着るようになったと云う。 着物や肌着は、ほとんど木綿で、縞物が多く、銘仙の着物は上等なもので、嫁入りに銘仙の着物で来たら、評判になったものだと云う。 明治の末期に暖かいネルが出て、肌着やシャツ、女の腰巻き、又冬は三角頭布として使われた、 男は褌に木綿のシャツの上に着物(筒袖木綿縞)を着て、羽織を着用、帯は兵児帯、下肢には木綿の股引・足袋を穿くのが通常で、遠出には着物を尻にはしょって、帯にはさみ、下駄で歩いた。 女は肌着に腰巻きをつけ、その上に木綿縞(女柄という)袂の着物に、やや幅広の女帯(腹合帯)を結び、羽織を着る、寒い時は脚絆を付け、足袋を穿き、草履下駄ばきが一般の服装であった。 女の着物は銘仙、メリンス、セル、人絹等と変わって、戦後ようやく婦人服が一般化されるようになるまで続いた。然し昭和の初めから、毛糸のセイターの上に上っ張り(上衣)を着て、若い婦人に多く使われた。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
洋 服 | 男の洋服は、学校の教員や役場の職員が、夏は小倉服、 冬はラシャで詰襟又は背広の服を着るくらいであった。 大正の中期から次第に普及しはじめ、昭和に入って一般化されたが、大事な行事には、紋付き羽織袴の和服が着用された。 明治末期には着物の上に着る、インパネスと云われた二重マントや、学生にはダルママントが使用されはじめ、昭和の初期からオーバーが出はじめた。 冬物はラシャであった。 女は角巻きと云う広い毛布を、肩から上半身を覆い、前で合わせて寒さを防いだが、大正末期頃から、色彩も鮮やかに縁に房をつけて、着物の上の防寒用具として戦後まで着用された。 大正の末期から昭和の初めに、犬毛皮の外被(袖無)が流行し、特に冬期の薪切りや、運搬などの防寒衣として使用された。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
帽 子 | 明治時代から中折帽子や鳥打帽子が使用されており、夏はパナマ帽がかぶられていた。 一般に和服の場合は鳥打帽が多く、洋服になって中折帽子が使用されだした。 明治の末期に、毛皮で出来た成金帽子が出て流行した。 大正の末には防寒用に耳を覆ふスキー帽が出はじめて、現在まで冬の防寒帽となっている。 昭和に入って毛皮の正ちゃん帽が出て現在まで多種な形で使用されている。 又戦時中は総てカーキ色の戦闘帽であった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
履 物 | 屯田兵入植当時の履物は、下駄・草履が普通で、遠くへの用足しには草履をはいた。草履・草鞋は勿論、下駄も自分で造って穿いたという。 草鞋は屯田兵の演習にも持参させており、重要な履物であった。 冬は雪靴(藁で作った深靴)や『つまご』が使用された。 特につまごは、雪の深い時や、薪材の切り出し運搬などの山仕事に使われた。 素足に赤い毛布(軍隊の払下が多かった)を、ぐるぐる巻いてつまごに入れ、藁ひもをしっかり結ぶと、軽くて暖かく、雪や氷道にも滑らず便利なものであった。 ゴム長靴の出る昭和の初めまで使われていた。 開拓当時、熊本県人は、素足で畑仕事をしているのに驚いたと云われているが、一般にはさしこ足袋が使われていた。 普通の足袋形で、裏底はボロ布を何枚も重ね、太い木綿糸で細かく針子にして作った。 これは案外暖かく又永持して便利であった。 後にはズック地や、厚手の足袋裏地が市販されるようになって、これを使って作られた。 冬の薄暗いランプの下で、母や祖母が太い木綿針で、一針一針刺子足袋を縫い上げる姿が目に浮かぶ。 これは地下足袋の出るまで使われた。 革靴は早くから有ったが、教員にゃ官公吏が穿くだけで、わずかに軍靴の払下古靴が利用される程度であった。 大正に入って、ズック靴が市販され、後にズックにいくらかの皮をつけ、綿をつめた防寒靴が出た。 然し布製の靴は、濡れた後に凍れるなど、あまり便利なものでなかった。 大正の末期に、澱粉クツと云われたゴム靴が出現して、履物に大きな変革を起こした。 最初は澱粉の粉を噴いたようなゴム靴は、短靴が多く、子どもから大人まで一斉に普及し、長靴も次第に普及していった。 昭和に入って、作業用にはゴム底の地下足袋が出現し、水田用のゴム長靴が出来て、幾百年の間の素足の水田耕作から解放された。 はじめのグム靴は品質も不良で、冬の寒さで皹が入ったり、破れ易く、当時はゴム靴修繕屋が部落中を廻って、修理再生して歩いた。 以後グム靴、革靴併用の時代が現在まで続いている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
食 物 | 主 食 | 屯田兵は第1年目は、大人1人1日、7合の玄米が支給され、別に塩菜用として塩味噌を購入する金が支給され、食糧には心配が無かった。 しかし扶助米も塩菜料の支給も、家族5人までであったから、8人も10人もの家族で来た人は、早速裸麦や稲黍を買って補った。 33年頃には、扶助米は4分の1に減り、ほとんどが自家生産の、裸麦、稲黍、栗を主にし、米を混ぜて食べた。 明治33年5月 献立調 樋口日記
白い米の飯は、お正月かお盆、お祭りでなければ食べられず、一般に病人が食べるものと云われていた。 それでも僅かばかりの白米を麦飯の真ん中に入れて炊き、米飯は仏様に供えた後、いくらか米粒の混じった弁当を作って、子供に持たせてやるのが親心であった。 又子供心にも、麦飯や稲黍の弁当又南瓜、芋飯を手で隠すようにして食べる、情けない思いをした人がほとんどで、昭和の初めまでの状況であった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
副 食 | 前記33年5月の献立調査で (樋口日記)
川魚は山女がなんぼでも釣れたし、鱒や鮭が上がって来て、子供達でも取れたと云う。 今では見られない、どじょう・うぐい・かじか・やつめなども、東山から流れ出る小川に、いくらでもいた。 魚は焼いて乾魚にしたり、塩魚にして貯蔵した。 又湧別の浜から馬車の荷台にはみ出るような、大鮃を買って来て、焼いて還送しソボロにして、汁のだしに使ったと云う。 開拓3・4年もたつと、大豆や小麦で味噌や醤油を自家製造し、自給する者が多くなり、2年味噌、3年味噌と美味しい味噌を使うようになった。 裸麦を炒って石臼で碾き、香煎にしたり、大豆を炒って黄粉にして食べたり、唐黍や 南瓜の時期は、それが主食となった。 3食とも南瓜で、お汁の身も南瓜、間食も南瓜で、顔から手間で真黄色になり、汗をふく手拭いまで黄色になった。 馬鈴薯(五升薯)は開拓当時の主要な食糧で、当時屯田薯と云われた紫薯は、大きく長さが20糎以上もあり、縄で束ねて背負って帰ったと云う。 芋が常食であったので、屯田兵を『いも屯田いも屯田』と、悪口を云われたと云う。 薯は塩煮やお汁の身にする外、細く千切りにきざみ、麦飯の中に入れて炊いて食べた。 その外薯をゆでた後冷やして、木臼で芋餅についたり、生芋をオロシ金で擂りおろし、汁を搾ってだんごにしたり、飴を入れて饅頭にふかしたり、いろいろに料理された。 凶作の保存食として、薯を冬凍らせて、春風に融かし、縄であんで吊し、乾芋にすると2年も3年も保存が出来た。 これは粉にし、だんごにして食べたものである。 腹をすかして学校から帰ると、南瓜が煮てあったり、薯の塩煮がほかほかと熱く煮てあるのが、一番の楽しみで又何よりも美味しかった。 佐藤は貴重品であまり使わなかった。 正月の餅つきは、米餅が2臼か3臼で、稲黍餅を20臼もついたもので、黍餅は山へ薪切りの弁当に持っていき、焚火で焼いて食べると、美味しいものであった。 等部落の小関与八は、明治40年屯田市街に出て、豆腐店を開業したが、部落の中には石臼を利用して、自家で豆腐を製造する者が多かった。 正月前には何箱も造り、凍み豆腐なども作って食前を賑あわせた。 屯田兵移住心得に 野草の内蕨・蕗・独活の外医官の示さざるものは決して食すべからず、殊に茸類は間々生命を損することあるを以て食せざる事 と注意されているが、山野のわらび蕗独浩は豊富で良く利用された。 特にアイヌ葱・アサズキ・こごみ・たらの芽などが、野菜として利用された。 特に凶作時には蕗を細かくきざんで、ご飯に混ぜて炊き、蕗飯を食べたものである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
住 居 | 住 宅 | 屯田兵の兵屋は、当時一般移住者の2間に3間、草葺き草壁の開拓小屋からみれば、金殿玉棲とも云えるもので、恵まれていた。 しかし兵屋は木造で、外壁だけ内壁は座敷のみで、天井板はなく吹雪の時は蒲団の上に20糎も雪が吹きこんだと云ふ。 6畳の座敷と4畳半の2部屋で、8人10人の大家族の生活は、どうであったろうか。 板を張ったり増築などは中隊長の許可がなければ、一切出来なかった。 居間には踏み込み炉を造り、焚火で暖を取り、食事の煮炊きをした。 天井から釣るした炉鉤に、大きな鍋を釣してご飯やお汁を炊く。 煮たった大鍋を下ろすには、相当の力がいるし煮湯をこぼして、火傷をする人が耐えなかったと云う。 屋根には煙出しが付いているが、秋から冬にかけて、一日中火を炊くので煙のため目を真赤に爛らせて、医者通いをする者が多かった。 囲炉裏の生活は、大正中期にストーブが入って来て、昭和の初めには、一般に普及し薪ストーブの時代となった。 座敷には1尺3・4寸畳を切って床下に炉を造り、寒くなると炭火を入れて灰を薄くかけコタツ櫓を炉の上に乗せ蒲団を掛ける。 三方又は四方に蒲団を敷き、足を入れて寝ると暖かった。 又置きコタツの中に、炭火を入れたアンカを入れ、蒲団をかけて寝むんだ。 適当な石を炉で焼いて熱くし、それを何枚ものボロ布で包んで(温石と云う)湯タンポの替わりに使われた。 湯タンポは最初陶磁器製で後に亀の子と云われた亜鉛トタン製のものが大正末期に出て、永く使用された。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
灯 火 | 屯田兵入植当時”ことばし”が支給され、唯一の灯火用具であったブリキ製のことばし(カンテラ)に石油を入れ、木綿の芯に火をとぼす粗末なもので、障子張りの行燈の中に入れると、風で吹き消されないが、薄暗い光で女達は縫物をし、子どもは勉強したものである。 ロースクは高価で普通は使われず、外出時には提灯が、各戸に二ツ三ツは用意されていて、昭和のはじめまで使われていた。 釣ランプは明治の末期から5分芯が使われだした。 三・四倍も明るい5分芯ランプも、当時は油を食うと云うので、ぜい択品と云われた時代であった。 学校から帰ると薄暗くなり、ランプのホヤ磨きをするのが仕事であった。 昭和に入って、釣りランプを改良した安全灯が出て、持ち歩きが出来るようになって提灯が次第に姿を消した。 瀬戸瀬発電所は大正12年着工、13年完成し、同年11月中湧別変電所が完成・14年1月に中湧別市街、屯田市街に電灯が付いた。 等部落は昭和6年11月に電灯が各通りにつき、はじめて文化の恩恵に浴したのである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家 具 | 開拓当時は机や飯台はなく、子どもの勉強には石油の空箱を机や本箱代用に使っていた。 食事には箱膳が一般に使われた。 1人1人が茶碗、お椀や箸を入れる膳を持っていて、食事には蓋を返してお膳とし、食後はそれぞれ茶碗、箸を洗って箱の中に納め、蓋をして定まった処に積み重ねておいた。 この風習は飯台と云われた広い机が、使われるまで続いた。 兵村では明治の終わりから、大正の初めにかけて、ほぼ生活が安定し、客膳や、お椀など、漆塗りの立派なものが、各戸に買われ、手文庫、机、茶ダンス、時計などが備い付けられるようになった。 此の頃から嫁入道具も、箪笥や鏡、下駄箱などが使われはじめた。 現代では電気アイロンが使われているが、入植当時は火ゴテや火熨斗で、火ゴテは火で暖め、着物の細い部分の折目やしわを伸すに使い、火熨斗は炭火を入れて、着物や服のしわを伸したものである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
電 話 | 農村公衆電話設置 昭和32年3月 |
昭和6年11月に電燈線が架設された。 通電されたが、部落内に電話が設置されたのは、昭和32年3月で、当時農協組合長を勤めていた遠藤清治宅に、農村公衆電話が1基設置された。 これは公社の負担で設備された。 部落内1ヶ所のの電話のため、遠藤家には他人の呼出しや、用件の取り次ぎなどで、苦労をかけたが、部落民に緊急の用件に大いに役立った。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
農村地域団体加入電話 昭和37年 |
昭和34年、当時遠軽電報電話局に勤務中の樋口道雄から、新制度の地域団体加入電話があり、南兵村3部落の地域や、未収戸数の規模が好条件なので、設置したらどうかと勧めがあった。 部落会長穴田俊一、副会長の樋口は、2区3区の有志に呼びかけ、樋口宅で部落役員、2区平野毅、池田恵弥、3区浅井好等と、数回の会合を持ち、公社の三村局長・稲沢業務課長等の説明を受けた。 各部落は会合を開いて、加入申込を取ったが、当時は不況続きで参加申込者は予想の半分にも満たなく、時期尚早として延期となった。 その後公社は、新国上湧別局長の協力で町理事者に働きかけ、昭和37年1月11日、町役場に南兵村3部落の役員を集め、吉村総務課長、新国局長、遠軽電報電話局長谷川梅次業務課長、営業係菊地勇(1区出身)等が出席し、地域団体加入電話の説明会を開いた。 当時の部落会長樋口と、副会長牧野は、前回の話合いのかかわりもあり、積極的に話を進め、3月2日南兵村地域団体加入電話期成会を発足させた。 期成会会長 牧野光一 副会長 平野浩・八巻智也 会計 秦野馨 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南兵地地域団体加入電話組合設立 | 昭和37年3月26日設立総会 この設立総会で、電話組合の設立と、地団電話の設置を決議し公社へ正式に認可を申請した。 加入参加者 101戸 内1区45戸 組合長 牧野光一 会計理事 秦野美徳 副 平野 浩 理 事 樋口雄幸 同 八巻智也 同 花木利雄 監 事 穴田俊一 同 麻植牛太 同 鈴木 武 同 浅井 好 役員は留辺蘂町大和地団電話組合を視察し、電話交換所や、組合運営内容を研修し、新国局長の指導で、電話交換所を2区大沼正雄宅に設置を決定した。 札幌東光電業社により、7月より架線工事が着手され、9月15日工事完成し、開通式を行いここに多年念願の電話が実現したのである。 地団電話組合では、校舎に支払う基礎料金、交換機の賃貸料、交換所の運営経費、交換手の給料等の支払計算から、各戸の電話料金の計算、徴収、支払などの業務を、組合長、会計が行った。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2次増築工事 昭和38年 |
最初の電話加入者は、地区の約6割であり、電話の便利さに1年足らずで、新たに加入参加を希望する者が多く、牧野組合長の尽力で、公社に増設工事を認めさせた。 昭和38年10月5日 第2次架設期成会が、35戸で設立された。 期成会会長 堀 勝雄 理 事 工藤敬蔵 副会長 片手武雄 同 戸田 誠 会 計 上松二雄 10月17日より測量設計に着手、次いで架設工事が進められた。 12月26日 開通式・祝賀会 32戸 こうして直ちに地団電話組合に加入した。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第3次増築工事 昭和40年 |
この地団電話は、1架線に5戸乃至8戸の電話機が設置され、1戸が使用中は他の者は通話が出来ず、受話器を上げると他人の話が聞こえるので問題が多かった。 又新規加入希望者もあった。(31戸) 手話40年、公社は増設工事をかね、交換機を共電式秘話交換機に、入替を計画し、8月7日、第3次の増設工事が完成した。 電話加入者は 164戸 電話組合の運営は同様であった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
農村集団加入電話設置 昭和45年 |
昭和44年5月30日、中湧別電報電話局が開設され、これを機会に全農村集団電話の架設が計画され、富美地区、旭、5の3部落を1集団とし、南兵村地団電話に開盛地区も含めて1集団とし、農村集団加入電話(1架線に数戸の電話、個別呼出秘話式)の設置工事が行われ、翌45年3月25日開通した。 地団電話組合の解散 農集電話の開通で、南兵村地区電話組合の交換所も必要がなくなり、業務の整理を行って、同年4月28日解散式を行った。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文 芸 | 親 友 会 | 青年会の学習活動のなかで、文芸活動が行われているが、特に大正2年北湧高等科を卒業した樋口信吾は、同級の清水竜彦・片岡音松・片岡幹雄・石田友一・井上徳嘉等と、親友会を組織し、通信教育の中学講義録を共同で取り、毎晩のように裏の座敷に集り、学習に励んだ。 この親友かいでは、作文俳句短歌などの初歩を学び、創作活動を行っていた。 大正2年秋、樋口は、共進会報主任となって、会報発行の責任者となり、感想文、詩、俳句、短歌などの創作を載せ、青年の文芸活動を促したが、当時良き指導者もなく、樋口が病魔に倒れてからは、文芸活動も中断した。 親友会には白滝峠を越えて、旭川師団訪問と云う壮挙があった。清水竜彦・片岡音松(亡)の話によると 大正5年の4月16日、樋口信吾・片岡幹雄・片岡音松・清水竜彦・安藤定一・山本栄作計6名の親友会員ハ、曹長4時旭川に向けて出発した。 8号の駅逓(上白滝)にお着いたのは、夕方であった。 約13里(50キロ)元気な青年達は夕食を済ませると、夜道に白滝峠を越そうと、駅逓の人の止めるのを聞かずに出発した。 奥白滝からは雪で、峠は雪も深く折柄の月夜で、電線をたどり、励し合いながら頂上に向かった。 ようやく頂上にたどり着き、下に灯を見つけて、休場に付いたのが午前1時頃であった。 主人は今1人道に迷った人を助けて来た処で、良くこんな夜中に来たものだと、あきれながらも、火をどんどん炊いてくれたと云う。 朝まで死んだように眠った青年達は、翌朝峠を降りはじめた。 雪が解けだして、1足1足ぬかる道を、何回も休みながら、中越を過ぎたが精も根も尽きて、1歩も前に出ない状態であった。 この時1台の馬車が来たので、事情を話して上川市街まで送ってもらった、まさに地獄に仏の思いであったと云う。 この時の無理が樋口の発病の原因だったろうと片岡音松が話している。 翌日旭川に着いた親友会の青年は、旭川師団司令部や連隊、新聞社を訪問し大歓迎を受けた。 新聞は『湧別屯田兵村の青年師団訪問』と雪中の白滝峠越え快挙を、2日間大見出しで報道した。 帰途は滝川、池田廻の記者で帰ったが、汽車の連絡が悪く、池田で1泊金が不足で、皆んなの財布の底をたたいて宿銭を払い、翌日北見廻りで夕方ようやく社名渕駅に帰ったと云う。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野菊短歌会 | 大正9年より11年まで、南湧校教師として、群馬県より赴任した大沢雅林は、南湧青年会の平野毅・池田恵弥・ 森谷吉郎・大川一恵、共進青年会の岡村進・穴田俊一・教員の島田梅十・上野英雄等多くの歌人を養成した。 大正9年短歌誌『にほぶえ』を創刊し、湧別地方はもとより、管内に新短歌の第1期を築く、大きな足跡を残して11年3月、東京に出て野菊社を創設し、歌道に専念した。 その後島田梅十・森谷吉郎・大塚郷湖・江田万葉・大畑しげる等が、にほぶえの流れを守って、野菊短歌会をおこした。 大沢雅林の教子、市村すゑの、大川智恵子等に秦野美徳が短歌会に入って創作に当った。 大正15年発行歌集 竜謄 大沢雅林編 市村すゑの 師の君の形見の箱にかんざしを ひめおく時ぞ心さひしき 妹は童謡をうたいと林檎をば 糸でしばりてほほゑみてゐし 東海林吉雄 何気なく馬屋に来れば此の鹿毛が ふふとて顔を出すも愛らし 山崎佐次郎 ねらひきてずとんと打てば雪の上に 血に染み落ちし山鳥あはれ 秦野美徳 大沢雅林先生を送る 遠き国に行かるる先生の名残りにと 作りておくる歌はさみしき 昭和3・4年頃から、この野菊短歌会は、当時盛んであった希望者の、相互修養会と合わせて行われた。 等部落の出歌者は、市村すゑの・小関渚舟(文司)・樋口幸美・秦野美徳・安部川清司・秦野かおる・野田正光・樋口雄幸等であった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市村すゑの著「亜麻の花」 | 市村すゑのは、歌誌野菊の誌上でもすぐれた女流歌人として、注目されていたが、昭和5年の春、大沢雅林を慕って上京し、歌道にはげみ、昭和6年4月、大沢雅林の手で野菊社より、歌集『亜麻の花』を出版した。 作品 夕やみに麦焼き居れば畑より 帰る人等の声かけて行けり となり家の薄荷製造のこころよき にほいたたよいて雨降れにけり 畑に穿く度をぬいつつ広々し 畑を今よりあくがれてをり 亜麻の花盛りなるらしむらさきの 並のうねりのはろばろと見ゆ 一つ一つ見ればさみしき亜麻の花 畑一面にさけばさやなり その後僅かの中断があったが、歌の道を忘れられず、今も歌の道に精進し、中央歌壇に活躍中である。 すゑのは歌集『亜麻の花』の外歌集”野免”を発表している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第二次親友会 昭和2年 |
昭和2年北湧校を卒業した、野田正光・渡辺保・樋口雄幸等が、1年上野秦野美徳・秦野馨らの協力を得て、高等科在校生を含め、20数名で、第二次の親友会をを発足させた。 学習活動は南湧校の千葉七郎・水野与志松両先生の指導を受け、中古の謄写版一式を借用、会員の作文・詩・俳句・短歌の創作や、学習の問題などを記載する。 会報『黎明』を発行、学習に努めた。黎明の第1号は、昭和2年10月に発行し、冬期は毎月発行した。 親友会では、この年11月より、中学講義録を取って学習し、特に冬期は毎週1回樋口の裏の座敷に集まり、学習を重ねた。 昭和3年1月発行の黎明を見ると
しかし親友会の学習活動が、共進青年会の行事や学習の植から、分派的行動と見られ、又軽費もかかることから、会員が減少し、昭和4年3月に解散した。 親友会の読書活動に寄贈された人は、 千葉七郎(南湧校)新国民・希望・覇王樹・文芸春秋 外4冊 水野与志松(南湧校) 文藝春秋 8冊 小笠原栄吉(北湧校) 乃木大将訓論外 2冊 渡辺 要 (村吏) 撤攪樹・エルム・北新歌集外 27冊 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
どんぐり会 | 親友会が解散後、秦野美徳・野田正光・樋口雄幸らは、農村文芸活動を夢見て、どんぐり会を結成し、昭和4年5月1日機関紙『蕗の苔』第1号を発行した。 主に作文、自由詩、短歌、俳句などであった。 同人は遠藤清治、安部川清司(聖夢)・秦野美徳(刈萱)・秦野馨(蕗村)・野田正光(麻沙光)・樋口雄幸(淡宵子)・秦野春義であった。 第1回どんぐり短歌会 4年7月26日 樋口宅 出席者 32名 このどんぐり会短歌会の出席者は、市村すゑの・樋口幸美・小関渚舟・秦野美徳・遠藤君江外 部落の青年男女光景18名の出席があり、盛大に行われた。 その後も数回集会が開かれた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文芸誌 山脈の発行 昭和4年8月 |
当時役場吏員であった渡辺要は、既に口語歌誌『橄攬樹』の創立者として、道内有数の口語歌人として有名であった。 大将14年帰村以来口語歌の普及に努めていたが、昭和4年8月1日、歌誌”山脈”を創刊発行した。 山脈創刊号の詠草紹介を見ると 啄木追悼短歌会 4月13日 村田屋旅館 炭 光任画伯歓迎短歌会 5月21日 長岡宅 新短歌会 7月13日 南湧女学校 野菊短歌会 4月21日 大川竜三宅 同 6月21日 大川竜三宅 ドングリ会短歌会 7月26日 樋口宅 『面積僅か11万里、猫の額の様な上湧別村に新短歌会、野菊短歌会・南柯北見支部・土曜会・どんぐり会・山脈社・白潮社等、こいつは夜店の果物屋みたいに、チト盛りあがりがよすぎはしないか』と誌してあり、当時の文芸活動の有様が目に見えるようだ。 この山脈は毎月発行されたが、文語歌が主体で、渡辺要の口語歌は、光岡つよじ、弟の渡辺愁平(好雄)、野田正光などであった。 文芸誌として発行された山脈は、5年1月号から純口語歌誌として発行、渡辺要はその編集のかたわら、個人の歌集を編集発行した。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
俳誌 樹心の発行 昭和4年10月 |
一区の屯田兵栗木重太郎の長男重光は、鉄道に奉職中大正14年排誌南柯にはいり、内藤鳴雪・武田蛍塘に師事し、排誌時雨の編集を担当するなど、北海道俳壇に新風を巻き興し、その名を上げていた。 たまたま病気療養のため帰郷中、長岡萩邨のあることを知り、中央誌南柯に入ることを勧め、共にその普及に努めた。 長岡萩邨は昭和3年、南柯北見支社を結成し、管内にまで広く同志に呼びかけ、句会を開いた。 昭和4年10月、俳誌樹心を創刊した。 樹心は北見管内初めての活版印刷で、各方面から注目され、道内各地から投句者を集め、実に36号まで発刊した。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
口語歌誌 瞑想 昭和5年10月 |
渡辺愁平(好雄)は兄要の口語歌に浸水し、その才能を発揮し、口語歌の振興に志し、純口語歌誌”素描”を創刊した。 その同人は31名で、柴山太郎・清水かのえなど同級生が大半を占めていた、しかしこれは2・3ヶ月で廃刊した。 昭和5年10月1日新たに”瞑想”を創刊した。 第2号’5年11月1日発行)同人欄に 三谷晴眉(登)・花田礼子・野田雅光(正光)・海老名としを・渡辺愁平の5名となっている。 渡辺愁平は、全道の口語歌人とも多くの交流を持ちながら、湧別遠軽地方の口語歌の普及に努めた。 この瞑想は、昭和6年に、愁平の離村で一時休刮となっていたが同年6月愁平が帰村し、澤口一雄の協力で、瞑想復活第1号を発行した。 昭和7年12月号第14号の同人欄は
編集後記に 『瞑想、どうも歌を作ってても此の名前じゃ、兎角瞑想に落ち入り安くていけないてんで、大塚氏や伊藤兄達と一晩中考えた揚句、4月から”角燈”と改題に決定、18集から瞑想同志社にもお別れで新しい角燈詩社に生まれかわる』と誌してあるが、角燈は発行されなかった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文芸誌 ”屯田”の発行 昭和8年4月 |
長岡萩邨編集の文芸誌”樹心”は、昭和7年末には休刊の止むなきに至った。 次いで瞑想の改題の問題となって、この機会に長岡と渡辺愁平が、手を組んで昭和8年4月、文芸誌『屯田』を創刊した。 最初は渡辺愁平が編集を担当し、長岡萩邨が発行人であった。 屯田第4集(8年8月発行)の編集後記に、『7月7日夜編集打合終了、愁平兄に代わって編集事務にたずさわる事は、樹心以来3年ぶりである』と記してある。 第4号より長岡萩邨が、変種発行人となり、隔月発行となっている。 ”屯田”は文芸誌で、指導的の立場にあったのは、俳句長岡萩邨、口語歌渡辺かなめ、文語歌大塚郷湖・詩評論大盛りかつみ、短唱伊藤魔児であった。 当部落では秦野美徳・秦野かほるの2人が、短歌に詠草を出しているのみである。 その後渡辺愁平が小樽へ、昭和9年には渡辺かなめが常呂村に、大塚郷湖・伊藤魔児らが転出するに及んで、本村では長岡萩邨が多田任、狐畳を守るだけとなった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
戦後の文芸活動 | 戦後の混乱に心の憩いを求めていた。 秦野馨は、長岡萩邨について俳句の道に入り、排誌葦牙(主幹長谷部虎枝子)の誌友となった。 たまたま昭和22年の春、排誌時雨時代の先輩俳人、堀垣暁(勝雄)が鉄道を退職して帰郷した。 こうして俳句同好者が増えた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葦牙上湧別支部 谺吟社 昭和22年 |
長岡萩邨は俳句将来の発展のため、中央俳壇との連けいを考え、垣暁、凍声等南兵村を主体に、昭和22年秋、葦牙上湧別支部、谺吟社を結成した。 凍声らの勧めで秦野美徳・樋口雄幸や、樋口道雄・今野吉美ら若手が参加し、部落の中で句会を持つようになった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
むつみ吟社創立句会 昭和25年 |
青年の参加が多くなり、昭和25年1月31日、凍声宅に萩邨師を招き、むつみ吟社の創立第1回句会が開かれた。 参会者は、樋口みちを・礼子・今野よしみ・吉村邦彦・山本弘隆・細川公雄・落合幸吉・尾崎文男・秦野正昭・穴田寿之・阿部利夫・樋口夕光・秦野美徳・堀垣暁・秦野凍声 むつみ吟社では年4・5回、句会を開き、俳句熱の最も高い時期であった。 しかし、2・3年でむつみ吟社は消滅し、後はこだま吟社が中心となって句会が開かれていた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重光句碑建立 昭和31年9月23日 |
南兵村一区屯田兵の2世、栗木重光(踏青)は、南柯、時雨、葦牙を通し、道内著名な俳人であったが、手話20年11月札幌踏青に出札し、不慮の災難で死去した。 萩邨・亘暁・凍声らが主唱し、彼の遺業を永く残すため、句碑の根リュを企画した。 秦野凍声の尽力で、一区東山の自然石を求め、踏青檀家寺、明光寺に凍声亘暁夕光・みちを(孤洗)等の労力で、句碑が建立された。 つるひけば西日こぼる秋の風 踏青絶句を葦牙主幹長谷部虎枝子先生の清筆で彫まれ、昭和31年9月23日、除幕式に遺族を招待し、句碑建立記念全道俳句大会が、明光寺本堂で盛大に開催された。 当時葦牙誌上では、萩邨・亘暁・凍声をはじめ、堀美香女・樋口孤洗・今野よしみらが、佳作を発表し、又青野麦秋・古川正道・市崎宵子・青野礼子・花木研二等が活躍し、こだま吟社の名声を高めていた。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
萩邨句碑建立 昭和44年5月 |
長岡萩邨は、俳句一途に家業も顧みず、俳句振興に努め、多くの優秀な俳人を育て、北海道俳壇有数の俳人として認められていた。 こdま吟社では、萩邨師の句碑建立の計画が立てられ、凍声の辛苦で一区東山から、自然石、台石共、渡辺組の協力で搬出した。 建立は亘暁・凍声・夕光・涼宵子等が、上湧別神社境内に折柄桜の花の下、基礎コンクリートを打ち、盛土配石を行った。 昭和44年5月16日除幕式を行った。 凍てきびし日輪あさの野を歩む 萩邨 裨面は萩邨の自筆で、裏面は古川正道の書 石工横幕正美 除幕式後句碑建立記念俳句大会が、道内各地より俳人が参会し、覚王寺で開催された。 昭和46年2月、長岡萩邨が函館に転出し、こだま吟社は、秦野凍声が継承し、葦牙上湧別支部は、堀亘暁が責任者となった。 こだま吟社は、紋別の草の王吟社(堀川旦州)と交流を深め、遠軽や湧別の同好の士とも、定期的な句会や、文化祭俳句大会を通して交流を深めている。 こだま吟社 54年1月現在 市先涼宵子・古川正道・野呂幸子・山田不句三・三宅一寒 樋口夕光・秦野凍声・堀亘暁・渡辺恍人(要) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
短 歌 | 昭和初期、盛んに行われた新短歌も、島田梅十・大塚郷湖・森谷吉郎等が離村し、口語歌も渡辺かなめ・愁平の離村で、火の消えたようになった。 その中にあって1人、秦野美徳は、大沢稚休師について作歌をつづけていた。 昭和45年離農して札幌に居を移すや、札幌に在任中の大塚郷湖と交友を深め、中央歌誌『形成』に背理、一躍詩情をたかめ、作歌に精進し、形成誌上に活躍、その名声を上げている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
書 道 | 部落では囲碁・将棋などを娯楽的に習い、楽しむ者がいたが、趣味として書道に精進し、教授の免許を取得したのは、吉村薫である。 吉村薫は、同級生浅井静渓(好)が、道内有数の書家として活躍していることに刺激を受け、かねて好きな書道に志し、日本習字教育連盟の通信教育に入った。 夏季農作業繁忙の時期にも、1日に1回は必ず筆を取ると言う努力を重ねた。 その精進の甲斐あって、52年、5段の認定と、教授の免許を受けた。 雅号 吉村暁峯 現在寿学級書道グループで、高柳清治・小島鈴松・秦野馨らと共に研鑽にはげんでいる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
庭 園 | 上湧別町は開拓が比較的早く、経済的にも安定して、庭に水松や桜、其の他の花木を植え、庭園づくりが行われた。 大正末期には庄田医院をはじめ、兵村内にも庭木づくりがはじめられた。 戦前に熊沢庭園、覚王寺の庭園が人目を見張らす豪壮な規模で造園された。 一区では田島八郎・三品玉吉・三品太七等の庭木水松が、庭師鳥羽の手で刈込仕立られたのは、昭和のはじめであった。 秦野兼松は鳥羽の刈込技術を見習い、独自に庭園を造った。 これ等の水松は其後の手入れが良く、名木となり、現在も残っている。 吉村薫は、檀家覚王寺の古川住職から、庭木剪定技術の手ほどきを受け、多くの水松を刈込み、美事な玉づくりを完成した。 51年新たに巨石を配し、規模を拡げて水松、其の他の庭木を移植し、立派な庭園を造成した。 吉村薫は、昭和50年造園師の試験に合格、北海道知事より、2級造園技能士認定証書を受け、翌51年には、職業訓練技能指導員免許証が交付された。 若い人にも面倒だと言われている試験を取った。 その努力は誠に敬服の至りである。 秦野馨は、昭和の初期より種苗店を経営し園芸や庭園に趣味を持ち、昭和12年現在地に移転するや、2ヶ年をかけ、各種の庭木を集め、小規模ながら庭園を造成した。 依頼40数年の手入れや、水松の刈込みに工夫し、古びた苔むす庭園の風情は、誠に清涼人の目を楽しませてくれる。 近時住宅の近代的県地区にともない、造園が流行する風潮が出て、部落内にも、それぞれ庭に石を運び、珍しい花木を選んで造園する者が多くなって来た。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
樹 木 | 部落内では川上神社境内の、桜樹、トド松、唐松は、明治40年頃に植えられたものであろう。 中庭に桂の大樹が生い茂っているが、これは自然木で、大正、昭和の初め、この樹より芝居の舞台掛けをして、青年のお祭園芸が盛んに行われた。 懐しい思出の樹である。 原始木 樋口の宅地にアル楢は、現在兵村内に唯一残った原始木で、樹齢2百年位と思われる。 松野末松・樋口雄幸の宅地には、屯田移住直後に植えられた梅の老木があり、吉村薫の宅地には杏の大木があり、その当時のものである。 部落内の各所に内地赤松の大木が植えられているが、これは秦野人吉が大正の末に取寄せた苗木を分譲植えられたものである。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雑 史 | 秋蝉やいま終宴の声上げて 樋 口 夕 光 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
故郷の思い出 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
●部落出身者寄稿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オンコの大木 屯田市街 福田 保国 振り返って見ると、この世に生を受けてはや、77才の春を迎えました。 欠点だらけの青年期から今日に至るまで、天と地と人たちから、はぐくみ育て上げてくれた事、何と俺を申し上げてよいやら、感謝の言葉がありません。 私の少年時代のことを今思い浮かべて見ますと、私の父は屯田兵として、南兵村一区中通の、秦野さんと吉村さんの間に入植しました。 その後明治38年頃に、今の25号工藤留三さんの処で、水力で精麦製粉業を始め、主として祖父彦兵衛が営んでいました。 一家も都合で同地に移転し、私達もそこで生活するようになりました。 明治43年に南分教所に入学し、岡村進さん等と通学いたしました。 履物は下駄で雨の日などは、ハダ足で通った事が思い出されます。 分教所の先生は、相羽先生と上野先生かと思います。 学校から帰ると、すぐ前の小川浜見橋の下で、魚釣りして帰りが遅れ叱られた事など、思い浮かんで参ります。私が4年生の頃、父が屯田市街地で商売を始めましたので、私達も父の店の方に移住して現在に至って居ます。 長い間住みなれた一区の家がなつかしく、何度も魚つりに参りました。 又畑の中に有った、オンコの大木を馬車2台と、手伝いの人が5・6人で、市街に運んで参り、毎日水かけをした事や、一区中通り出先の馬頭観音様の前で、相撲を取ってお菓子をもらった事、諸岡商店で美味しい水を呑ませてもらった事、どれ一つとして、一区の人々に御世話になった事は、忘れません。 只々感謝の念でいっぱいで御座います。 皆様の御健康を祈ります。 注 福田仙次郎次男 四中隊一区の思い出 開盛 阿部 義正 阿部四郎の兵屋は9番でした。 南通り渡辺寅喜氏の居られた処です。 父も死亡し一区の思い出は、余りありません。 不肖子供の折、開盛に転居しましたので、唯子供の頃の思い出しか有りません。 入地すぐ明治31年洪水があり、兵屋の前が川となり、亦2回目38年洪水に会い、其の折は薪木を針金でしばったり、燐家杉谷家に行くことも出来ず、流れは穴田・東海林・諸岡氏の方に流れた様でした。 叔父三郎が同志を集めて、自宅物置にて夜学をされた事、又家には馬を多数飼い居り、冬中通りまで逃げて行き、大騒ぎをした事。 馬は7・8頭位でした。 神社の祭典に弟が、裏の山に子供達と登り、ころがり落ち頭に怪我をして、青年の方に連れられて家に帰った。 小学校入学は、二区の分教場まで通学でした。 南通りに柏原坂が有り、北側に柏の大木が10数本あり、中に池の如き水溜まりがある非常に寂しい道でした。 今の樋口氏の土地で、色々の伝説が言われ、我々子供には最もいやな処でした。 中通り門の処に、諸岡・福田・野田・吉村秀氏頭の店が立ちならび一応商店街の感じがしました。 盆には盆踊りや、子供角力等が催うされた様です。 其の他渡辺豆腐屋・山崎柾屋等有り、北通り出た処に中島・落合・小田井諸氏、北通りの角に小川商店がありました。 大正2年大洪水有り、不肖春に開盛に転住し、家は流出独立状態と成り、一区の皆々様の御尽力で救出され、福田仙次郎氏物置を借りて、住居いたしました。 浜見橋が有り、橋の下で魚つりをしたものでした。 又山形県人の建立した湯殿山の碑が、今の安本氏の処に有り、後に山形県人がほぼ開盛におりし為、開盛に移した。 今は6月15日を祭りとして祠って居ります。 小生子供の折、宅地に林檎が植えられてその当時でも、早生中早生晩早生が大きくなり、非常に嬉しく喜んでおりました。 四中隊一区は、果樹の一区として名声を高められ、発展されて来られましたが、今は病害のため古き大きな樹は堀り取られ、実に寂しく感じます。 何とか再度の御努力を願い、亦立派な果樹園の再建を祈ります。 大正2年開盛部落が一区より分れ、第18部落として独立致しました。 本家と、分家の状態です。 今後益々の御友好を願います。 四中隊一区に兵屋69戸あった様ですが、其の中の9号に阿部四郎が、明治31年に、30年兵加茂千治氏の世話で入居致しました。 現役を終え、二給地が開盛に有り、しかも開盛橋が老巧に依り取りこわし渡船通いの不便から遂に大正2年に四中隊一区を離れることに成りました。 今ふり返って、一区に現在生え抜きの兵村人が何戸居られるのかと考える時、 本当に何戸も住居無きように思われます。 この世の変遷を痛切に考えられます。 今後共部落民最大の協力を致され、益々のご発展を衷心より念じ申し上げます。 注阿部四郎長男 思い出 夕張由仁町9区 寺本すゑの 此の度部落史をまとめられるに当って、私の事を思い出して下さった事を感謝します。 かえり見て部落の為に何一つ役に立っていない自分を、はづかしく思います。 そんな私でも、南兵村一区と声に出して云っただけで、涙をもよおす程、なつかしい言葉です。 父は岐阜県、母は熊本県、長女として明治44年2月に生まれました。 20才まで過ごした此の部落は、私のみなもとです。 このふるさとなくしては、安心して生活は出来なかったでしょう。 ・海なくば徒歩で帰らむふるさとようらめしかりし津軽海峡 ・四時間の津軽の海がある故に徒歩では行けぬえぞ地ふるさと こうして何でも彼でも、ふるさとを恋しく思ったものでした。 居を変る事10数回、引越して来て一番先に東はどちらですかと聞き、すぐ心に浮かぶのは生まれた家です。 そして東に向かって立つと、一区の方角にあわせて安心して住みます。 一区の家は東向きで、朝はサラサラ南風、そして少しづつ西へまわり、最後は北風になります。 これがいいお天気の風、又東の山にガズがかかっている時、南風なら自然にガスは、北の海の方に流れて晴れて来ます。 所が北風なら少しのガスでも、南に流れるにつれて、だんだん白くなり、山の木々が見えなくなりやがて雨です。 西の山は代表が富美の三角点です。 ここに雨雲が生まれてだんだん南の方に広がると雨、然し広がらず山伝に南の方に行っちゃうと雨になりません。 雨は社名淵の部落にとられたのです。 此の変化が微妙な所です。ハッカ畑の暑いいきれの中で、雨の降るのを待った悪い娘の時代もありました。 さて昔を想い起こして ・2分芯のランプともして親と子のスイートホームよ屯田兵屋 ・婚礼の手伝いに行き5分芯のランプ明るくはづかしかりき 兵村の子と云われる事も、屯田とは何かと云う事も訳も知らず大きくなり、ここが天下だと思っていたものです。 家の事は兵屋と云うものだと思っていました。 ・底辺に生れ育ちてがまんこそ美徳と習い生きて来りし ・底辺にうごめきし者ようやくに立ち上る時身は老いにけり 誰も誰もがまんして生活し、そして死んで行った親達よ、私も老いました。そしてこのぜいたくな、わがままな世の中をみています。 がまんをする者が馬鹿なのでしょうか。 なつかしい一区の皆様にお話しできて、本当に嬉しく思いました。 私も70才、思い残すことは何もありません。 親も子もすべて死にしを逝きおくれ死がこわしとは恥かしきなり 注 市村喜次郎長女 光陰箭の如し 広島町 小井田寿之 このたび、南兵村自治会長工藤さんと、部落史編集委員長樋口さんから、四ノ一で育った当時の思い出話や、部落の印象、感想などの寄稿依頼を受けて、いまさらのごとく「月日の立つのは早いもの」ということばが実感として私をとらえた。 現代の人間が時の経過を実感するのは、時計の針の動きによってであろうか、時計の最も原始的なものは日時計であり、古代人が時を感ずるのは、日影の長さによってであった。 それを端的に表したのが、光陰という語であろう。 古い記憶というものは、いかにも平凡なありふれた事象であっても、折にふれて「月日の立つのは早いものだ」と痛切な感じをいだかせられることがある。 私が四ノ一で育ったのは、出征から小学校2年修了までと、小学校の5年から卒業までの10年間であって、その後は学校の夏休み、冬休みの期間中だけである。 したがって、脳裏に残っている記憶は主として幼少のころのことである。 まだ小学校に入る前のことであろうか、中通りに曲がるところにあった。 秦野商店前の広場で、お盆に成ると部落の青年達が仮設舞台を造り、田舎芝居をして部落の人達を楽しましていたことを思い出す。出し物はなんであったかよく覚えていないが、歌舞伎芝居であったように思う。「そんなことからすると、部落青年の文化水準は、それなりに高かったのでなかろうか。 小学校に上がるようになってからのことであるが、鎮守川上神社のお祭りでは、子供、大人相撲が毎年行われ、私の親父も相撲が好きであったせいか、私も好きでいつもとっていた。 最後の三役相撲では、小結にかなうとして御幣をもらい。 家の神棚の天井に親父のものと私のもの数本を差していたのを懐しく思い出す。 川上神社といえば、参道の両側に先人の植樹した桜も美事であったが、両側に清水が流れていて、大き目の石を上げるとざりがにがおり、幼友達とザリガニ採りに春日を過ごした記憶がある。 注小田井哲二長男 りんごの回想 札 幌 秦野 美徳 十年一昔と云ふけれども、私も郷里を離れて早や、十年が経とうとしている。 故郷の上湧別へも来るまで何十回となく往復し、今度こそ友人を訪ねたち、りんご園を見て来ようと思って出かけるが、何時も時間切れになって帰札して仕舞うことが多い。 勤めを退いたら故郷の山に登って、美味しい空気でも腹一杯吸いたいと言うのが偽らない新郷である。 さて故郷の思い出記を所望されたが、どの思い出記一つを取っても、限られた枚数に納めることはむづかしく、私はやはり、りんごの事を書いて責を果たしたい。 りんご栽培の北限の地と言われる上湧別の果樹が、其の経済性を確立するに居たる過程は、左記の町史に記された通りだが、私の家では私が学校を卒業する前に、父が札幌平岸の山際さんんから苗木を購入して、川上神社横に2町5反を新植し、子供の成長とりんごの生育がマッチする様に計ったものだった。 品種も当時は祝・紅絞・旭・花嫁・生娘・甘露などの中熟種が主で、寒地で完熟するものを選んでいたので、私が兵役を終わって帰郷する頃には、成木に達した園は美事な結実を見せ、市場からも熱い眼差しが注がれていた。 勿論生産する為の肥培管理や、剪定技術・薬剤撒布等は幼稚ではあったが、他の農作業と違って、常に新しい経営技術が要求されたので、その苦労も多かったが、良き先輩の指導もあって年々向上し、地の利を遺憾なく発揮出来る、立体的な果樹栽培に自信を深める事が出来たのである。 やがて同志による果樹協会が誕生し、講習会や先進地視察等で見聞を広め、増産体制を確立して、上湧別りんごの名声が年と共に上がり、農協に販売を移してある年には私も、3千箱に及ぶ出荷をする様になった。 戦争が長引いて弟達も応召し、物資も枯渇する中で、女子を相手に手押噴霧器の薬かけをやり、つづいて自分も出征するという苦しい時代を経て、終戦を迎えるのである。 戦地から復員して港に流れるりんごの歌を聞いた時の感激は忘れられない。 やがてりんごの黄金時代が到来し、一時代とはいえ待ちの経済上にも大きな役割を果たして来た。 国民生活の向上と共に品種の改良が進み、34年にはスピートプレヤーが導入されて、協会員も120名に達し、南兵村一区と二区の山麓に300町に及ぶ果樹園が出来た。 私は8年間この栄ある果樹協会の会長を勤めたことを限りない誇りとして居るが、時流のおもむくところに抗し得ず、生涯をりんごに捧げる決意を翻へしてしまったのである。 最近果樹園の老化による腐爛病の多発に加えて、果物の自由化による市場の圧迫等、多くの問題をかかえている果樹業界に、そして故郷のりんごに、夢よもう一度の幸多からん事を祈らずには居られない。 注 秦野兼松長男 川上神社 旭川市 樋口 寿幸 『ふるさと』と聞かれて、私の故郷はどこどこですと、答えられる人が少ない中で、私はアチコチと転勤して歩いて『あのリンゴの村上湧別四ノ一です』と答えてまいりました。 古い時代に生まれ、田舎の生活とは言え思い出が山程あって、こんな幸福な者はないと感謝しています。 冬の吹雪の中で、父兄に道をあけてもらって登校した思い出、川上神社の南側で、山の樹々の間をぬって滑り降りたスキー。 時には小さなジャンプ台を作って飛んだ事、そして3月固雪になると、どこえでも好きな処へ歩けるので、リンゴの樹の間を鬼ゴッコしながら登校したり、又下校時には、中戸場川にかかった二区南通の、線路の橋をわたって先生に叱られたり、小さな私達は三品正十郎君、稲垣正美君・三品昌夫君・遠藤盛幸君等と、本当に腕白時代の楽しい毎日だった。 春ともなれば、神社の両側にあった大きな桜の花見から、灌漑溝幹線には満水の水が流れる。 子供達には危険を忘れての、良い遊び場でした。 夏には魚つりや水泳など、今ではとても許可にならない様な遊びの中に、良き友達の交遊があったのだとお思います。 秋になると、必ず神社の石垣の北側に舞台が出来て、若い人達の田舎芝居があった。 この夜だけは、子供達もおそくまで自由だった事。 そして私達は居並ぶ出店を見て廻り、もらって来た20銭、30銭のこずかいで、紙弾の百連発ピストルを買って遊んだもの、懐かしい思い出です。 終戦後ではなんと言っても、一区の全戸が心を合わせて頑張った、堆肥増産共励会だと思います。 遠藤正雄さん、山崎さん、安本さん、工藤さん、鳥井さん外みんな優秀な成績を上げ、審査には大勢の人達が熱心に巡回し、今でも会館前で写した優勝旗と賞状と共に、皆さんの若々しい写真が、私のアルバムに輝いています。 当時の地力対策、そして今のトラクター農業と考えて見る時、これからはどんな努力をしても、土地生産力の向上をと思います。 食糧増産を唯一の目標にして、農家の皆さんと頑張って来た昭和20年代は、リンゴの樹がようやく活気をおびて、隣の家も見えなかった一区の部落が、なつかしく思い出されます。 年月の移り変わりの早い中で、私達は精一杯頑張り抜いて、その良い社会風習を後輩に、申送りたいものと思います。 故郷の皆さん、元気で仲良く、一区の伝統を誇りに、大いに頑張って下さい。 注 樋口幸吉7男 カラス貝の思い出 旭 川 野田 正光 東山の山肌が集めた水は、数本の小川となって蛇行しながら、一区の部落中央を横切ると、一せいに来たのオホーツクへ、向きを変えて中土場川や小畠の坂に流れ去った。 ー大正時代、今からざっと60年前のことであっる。 部落の早春は、まず雪解け水の響きで活気づいた。 欄干も手すりも無い土橋や板橋の橋桁が、今にも流されるのではないかと濁流でゆれ動いた。 しかし春が過ぎると小川は、静かな深いよどみを残したまま流れを止めた。 そして蛙や水すましが、秋まで繁殖の場をそのよどみに作っていた。 私の生まれたところは、一区45番地である。 中通り北側の最初の兵屋で、一生一度の呱呱の声をここで挙げた。 だから今でも川上神社までの中通りは、生涯、私の思い出の中の所有権なのである。 この宅地にも小川が流れていた。 水源地も名もわからない。 上流にはドングリの林(樋口さんの二給地)があって、水はそこから流れ出ていた記憶がある。 ある日私は、宅地を流れる子の小川の急流で、黒い大きな貝を見つけた。 珍しいので家に持ち帰って祖母に見せた。 『ホー、カラス貝がまだいたんだねェー』しみじみと眺めていた祖母(野田キク 大正11年72才で亡)は、この貝は堅くて食べられないから鶏にやると喜ぶよーといった。 私は鶏を呼んだ。 野放し飼いの鶏は尻をふりふり私のもとに集まった。 群れの中に貝を放り投げてやると、喧嘩に一番強い雄のロックが、真先に驚いて私の背丈ほど飛び上がった。 『馬鹿だね。 小さく刻んでやるんだよ』 祖母がいった。 私は物置小屋から小さなナタと取り出して、ていねいに貝を叩いてきざんだ。 バラバラにほぐした貝を投げてやると、今度は喜んで食べ合った。 堅い貝殻の破片まで食べる姿を見て私は驚いた。 鶏が石灰石を好むという、私の最初の大発見であったのだ。 カラス貝のいた小川の向かい側に、カラマツ林があった。 戸主の伯父(松次郎)や父(政次)らが植えたもので、其の先が青年会場である。 会場の広場には円を描いた土俵に砂が敷いてあった。 相撲は何時でも取って遊んだ。 疲れたらタンポポの草むらで仰向けになって休んだ。 ー青い空を仰ぐと、高い高い火の見櫓が立っていた。 トド松丸太で組んだこの火の見櫓の10段目ごろに、集合の合図に打ち鳴らす桂の板木が掛っていた。 火の見櫓の階段は全部で23段あったと思う。 その天辺の横木に火事や非常の時に打ち鳴らす”釣鐘”が吊り下げてあった。 火の見櫓と会館の風景は、数十年を経った今でも私は、下手なグリッド法であるが、正確に絵に出来るほど、印象に強い昔の故郷の風物詩である。 会館前の広場は、消防、洪水など部落自衛のために馳せ参じた人々が、緊急対策に組織を編成する所であり対話の場所であった。 そして、祭りの打合せも会長の選挙も、盆踊りや素人芝居のリハーサルも農事のことも、すべてこの会館で具体化された。 つまりここが部落の『まつりごと』のセンターであった。 私は昭和7年、20年間育ててもらったこの部落を去った。 翌年現役に徴兵されて出征した。 その後、再び召集されて遂に負傷して廃兵になるまで、戦時という位時代が長く続いた。 青春も故郷も忘却の彼方に去っていたが、平和が蘇り老城に入ったこのごろ、故郷の地を踏むことが、何より懐かしく楽しくなってきた。 しかし高度成長の名のもとで、特徴のない風土に開発された立派なこの部落にきて、何時も遠い昔を探そうとするのだがその都度、空しく感じることが多い。 だが、どこかに泥臭いわずかの昔を見つけたとき、私は子供のように喜んで旭川に帰るのである。 注 野田政次長男 思い出のままに 温根湯 山口 常子 部落80年記念誌発行とのお便りを頂き、逝く歳月の早さに感がい一入のものがございます。 80年と云う長い歩みの中に、私も屯田の1人として、25年間住まさせて頂き、想い出多き懐かしい部落を後にしてより、最早30余年と云う長い年月が、流れ去っております。 今当時を思い偲んでも、つきぬ想出が走馬燈の如く次から次ぎえと頭をかすめ、何から書いてよいやらペンが進みません。 大東亜戦争と云う大きな渦の真只中に、青春時代を送ったあの頃が、一番印象に残っております。 部落の人は勿論私達青年は、本当に夢中になって朝早くより夜遅く迄、働く事ばかり。 だが其の蔭には、青年団と云う集まりが、私達を支えて呉れた様なものです。 男の人は皆んな兵隊に、成年男子も一時は十代の人ばかりになった事もあり、でもみんな留守を守る為、力を合わせ頑張りました。 青年に出る事だけが、唯一の楽しみでした。 何時もあの大きな5升炊きの鍋で、おしるこ・カレーライス・うどんと良く作り、みんなして喜んで食べ語り合い、正月にはあの大きなストーブをかこみ、手拭い落とし、尻取り又カルタ取りして顔にスミを塗ったり、月に2回の神社掃除、試作地の草取り、特に思い出す事は、秋祭りの大根芝居、寒いのに夜遅く迄張り切ってやった事。 又戸田侍従を迎えて光栄であった事。 数々の想い出、今ここに十分に書き表す事は出来ませんが、本当に共進青年といえ、部落の人といえ、みんな団結力そして明るく楽しく、又人間の触れ合いが暖かく、本当にいい人達ばかりで、今考えると懐かしい事ばかりで胸が一杯になります。 あの部落一面見事なりんご畑、袋掛時季には、あちこちでキャタツの上での歌声が聞こえて来た。 あの頃の懐かしさ、木も年と共に寿命が来たとみえ、すっかり切り取られ、昔の面影が全然なく、他の土地に行った様な気がして、何にか寂しく感じられました。 でも部落は無くなりません。 これからも先人先輩の労苦に恥じぬ様、立派な部落を作り育て上げて下さい。 終わりに今後の発展を、心より祈念しましてペンを置きます。 注 秦野人吉3女 共進と言う名 遠 軽 今野 吉美 部落80年の歩み出版に当たり、在住中の感想文をとの事ですので、昭和25年までお世話になった思出を書いてみます。 私には四ノ一と言うよりも『共進』と言う言葉が一番の思い出でしょう。 終戦で復員して共進青年の一員となり、又火防団員となり、又当時の農事実行組合員となり、すべてが『共進』ち言う名の下で活動して来たからでしょう。 終戦後の混乱期に只一つの楽しみは青年団活動でしょう。 現在の様な車等勿論なく、レジャーと言えば青年で行う行事に出席すること位です。 試作地の作業には各自馬を出し、整地から種蒔まで1日で終わらして、その後の慰労会には、各自が小麦粉ビートの糖蜜を持寄って、汁粉を作って食べた美味しさは、今でも忘れられない思い出です。 特に青年団の運動会には、部落の人達が保導車での応援の中で、大いにハッスルした事も思い出の一つでしょう。 特に私は派手な事で噂の人だったから。 又火防団員としても、当時の腕用ポンプで火事場とか、種々の行事に出動した事、団服が出来、又東初だと思うがポンプが購入されて、これも思い出です。 又実行組合員としても、私は百姓脱落者ですが、当時の第一組合第二組合に別れて、すべてに競った事も深い深い思い出です。 当然四ノ一部落の人として、お世話になって来ましたが『共進』と言う名の下で過ごして来た事が、今の私の四ノ一部落の深い深い思い出です。 又四ノ一部落は私の故郷です。 最後に部落史出版に、心からお祝い申し上げます。 又編集に当たった御苦労に感謝し、貴部落の益々の発展を祈念致し、終わりとします。 注 今野吉五郎長男 共進魂 札 幌 樋口 道雄 42年4月、住みなれた一区の部落を離れて14年になります。 年に一度お盆には墓詣りに帰郷しますが、仲々皆さんとはお会い出来ずにいます。 以来紋別に3年6ヶ月、本別に3年、余市に3年、現在は札幌電信電話料金局に勤務しています。 一区もずいぶんと変わりましたね、故郷はやっぱり懐かしい思い出が沢山あります。 子供の頃は堀さんの四つ角に落葉松の林があり、よくチャンバラをして遊びました。 南湧校まで2K余りでしたが、毎日歩いて通ったものです。 たまには喧嘩もし、歌も歌って、冬は走ってくる馬橇に飛び乗ったものです。 学校を卒業して郵便局に入り、16年に札幌の逓信講習所に、10ヶ月余り勉強に入りました。 この年に大東亜戦争が始まり、私も一応軍隊に行きました。 2人の兄を北千島、沖縄で亡くしました。 そのため復員後2年余りで郵便局を辞めて、皆さんの仲間入りをさせていただきました。 2月のりんご剪定から始まって、水稲の苗植え・アスパラ・馬鈴薯・ビートと、ゆっくり休む時間も無く働いたものです。 しあkし結構楽しい事も沢山ありました。 お盆には会場での盆踊り、人気投票もやりました。 10月17日は川上神社のお祭りで、共進青年得意の大根芝居が面白く愉快に思い出されます。 正月にはカルタ(百人一首)を毎晩遅くまで楽しんだものです。 農事組合で皆んなが協力して、ラジオの共同聴取の設備をしたのも、上湧別で一番早く、今は亡き石田勝美さん宅での開通式は、今も大きな思い出の一つです。 組合長さん宅に持廻りでお世話をいただいたわけですが、ほんとうにご苦労さんでした。 役員会などの後で一杯やりながら、共同聴取を通してのど自慢の披露、楽しく聞いたものです。 青年団、火防団の皆さん元気でした。 共進魂と決めこんで、オッカナイもの知らずで、いつも運動会や消防演習には、頑張り通し応援にも花を咲かせ盛んなものでした。 『優勝旗にはあまりお目見得しなかったようですが』闘志にあふれ又笑いもあり、とにかく部落を愛する団結心が旺盛でした。 共進魂と言うのでしょう。 思い出の深い印象に残っている人は
一区部落80年誌の編集にあたり、思いつくままに書きました。 共進部落の益々の御発展と、皆さまのご多幸をお祈りいたします。 つれづれの芽木と語りし果樹の故郷 孤洗 注 樋口耕平4男 お祭り園芸会 瀬戸瀬 藤原 政子 部落史編集のお知らせを戴きまして、本当に嬉しく存じます。 生まれ育った部落の父母が、年一年と去られて行くのをお聞きする度、何とも淋しさを感じる事でしょう。 幼き頃又娘時代の事が何時も、夢の中に出て参ります。 雨降りの朝、林子畑で籠一ぱい拾って食べた甘酢っぱい味と香り、今のように水着もなくパンツ一枚で、裏の灌漑溝で泳いだ日々、援農が大勢入り、あっちこっちから笑い声、唄声が流れる林子の袋かけ、青年団の資金作りに朝仕事に、遠藤さん岡村さんに行ったものです。 又朝露を踏んで川上神社のお掃除もしました。 戦争時代でした。 出征する人々を神社の前で『海ゆかば』を身の引き締まる思いで歌い送り、帰らぬ人となった方々も居られます。 運動会『川上神社の神主がおみくじ引いて申すには、今年も共進勝ち勝ち勝ち』と大声を張り上げて応援し優勝もしました。 時々当時の写真を見ております。 又10月17日のお祭りには、必ず園芸会をしたものです。 共進は上湧別の中でも特に有名でした。 踊り、唄、ハーモニカ合奏、お芝居は牧野光一さん、渡辺保さん方の御指導を得て、毎晩会館で練習したものです。 セリフは畑仕事をしながら暗誦しました。 先般上湧別小学校の80周年式典に出席した折、屯田兵のお写真を拝見致しまして、先人の方々の御苦労の御陰で、現在の上湧別がある事を、つくづく感じさせられました。 一区の部落も戸数が少なくなったようですが、立派な後継者が居られますので、末長く益々の御発展を祈念致します。 最後に編集委員の皆々様、御苦労さまで御座います。 注 細川斉次郎2女 りんごの花 中湧別 石川 君江 遠軽からの帰路、息子の運転する車窓から見える私の故郷は、すっかり見通しのよくなた、あちこちの畑から、アスパラの稈を焼く煙が立ち上る光景でした。 その立ち上がる煙を見つめながら、時の流れの速さを改めて感じさせられ、50数年前の故郷を思い出し”海に真すぐな白い道 りんごの花のにほう道” 私の子供達が学んだ中湧小の校歌ですが、5月の末頃になると、果てしないりんご園にこぼれるように花が咲き、お盆過ぎには、赤いりんごの甘ずっぱいにおいが漂います。 すっかり見通しのよくなった畑を見るにつけても、りんご並木が根こそぎ掘り起こされ、消えていくことは、私の故郷の思い出が、かき消されていくような淋しさにひたされるのです。 ところどころにぽつんと残されているりんごの木、それは私の小さい頃の思い出につながります。 りんごの苗木を今はなき父と植えたことが、真先に思い出されます。 今ではめざましい農業の発展で機械化され、動力で一度に何本もの木が消毒されますが、あの頃は一本一本手押ポンプで消毒しました。 ポンプを押すのは私の役目です。 いつのまにか睡魔におそわれ、ポンプの柄にもたれかかり、うとうとしてしまいます。 「おい出ないぞ」と云う兄の声に目を覚まします。 また何年頃か思い出せませんが、ブランコ毛虫が大発生して、次から次とりんごの木の葉が、喰い荒らされていきました。 すっかり喰いつくされ裸になった木も沢山ありました。 いくら消毒しても死なず、家中総出で大きな枝をゆすぶって毛虫を落とし、幹にワイムというベトベトした薬を塗りました。 落とされた毛虫たちは、ぞろぞろとはい上がり、薬のところで身動き出来ず、沢山かたまります。 そのかたまったところをボロ切れで、身ぶるいしながらつぶしました。 一区と開盛を結ぶ東山の道路が出来たのもこの頃だったと思います。 泥にまみれ、足をよろつかせながらモッコをかつぐ、タコ部屋の人夫の姿が思い出されます。 つらさに耐えかねて逃げる人夫もありました。 疲れ果てた人夫に鞭をふるい、すきを見て逃げた人夫を追い捜す棒頭の恐ろしさが強く心に残っています。 秋にはりんご売りです。 乗降所がないので開盛まで歩かねば汽車に乗れませんでした。 毎日御用かごを背負って、遠軽まで出かけました。 御用かごの重さと痛さが背中にそして腰に懐かしい思い出として残っています。 その痛さよりも娘であった私にとって、りんご売りの最中に、知人に合うことがなによりもはずかしく、つらく、家々の軒下に身を寄せかくれたものでした。 いちばん楽しみにしていた、お祭りやお正月を指折り数えて待っていたものです。 青年会館のところに舞台が作られ、花形青年の芝居におしみなく拍手を送りました。 学校卒業してから樋口雄幸さんの離れの部屋で、二区の大川亀蔵さんを交えて学んだ事など、さまざまな思い出が浮かんで来ます。 そのどれもが楽しく思い出ばかりです。 こうして書いておりますと、思い出の輪がいっぱい広がって、娘時代に戻った様な心地がします。 でも二度と帰ってこない私の過去なのです。 故郷を離れて47年、67才、こんなすばらしい思い出を持っている私は幸せです。 注 遠藤清五郎長女 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
topへ | 現在居住者家歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
牧野 勝一 牧野光一長男 昭和13・3・21生
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||