拓魂八十年
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社会団体 | 共進青年団 | 明治三十四年発足した共進会は、三十六年四月兵村が解隊して、五月十五日に共進青年会と改称した。 翌三十七年八月、日露戦役に戸主全員が召集されると、出征軍人の送迎、遺族や出征留守家族の援助、陸軍恤兵部へ出願し手製の軍需品を募集し、陸軍省へ献納、其の他各区に率先して、火の見梯子(板木を釣るす) の建設等の事業を活発に行われた。 三十九年三月出征戸主達の凱旋後は、神社の清掃や祭典の余興の執行、馬頭さんの祭典などが主な事業であった。 明治四十年の会長は、能勢一徳と記録があるが、前后の役員名は不明である。 明治四十三年拾月拾五日 祭典余興費決算報告 子供角力之部 一、金参拾銭 コール天足袋 大関用 一、金弐拾銭 畳付下駄一足 関脇用 一、金弐拾銭 麻裏 一足 小結用 一、金六拾銭 半紙拾弐帖 景品用 一、金一円六拾銭 半紙四拾挺 同 一、金弐拾五銭 行司足袋一足 一、金弐円五拾銭 饅頭 中入ノ際用クロール洋紙 弐拾帖 一、金四拾銭 小 計 六円拾銭也 競走費 一、金弐拾銭 鉛筆 拾本 景品用 一、金四拾銭 筆 弐拾本 〃 一、金四拾銭 墨 拾丁 一、金五銭 筆入 一 一、金弐拾五銭 石盤 五枚 一、金三拾銭 状袋 拾五把 一、金六拾銭 半紙 小 計 弐円二拾五銭也 盲目撃剣費 一、金参拾銭 鉛筆 一ダース半 一、金拾九銭 手帖 三冊 以下省略 小計 四円弐拾弐銭也 通計拾弐円五拾七銭也 寄附金総額 拾弐円六拾銭也 差引三銭余 右調査候処 相違無之候也 共進会長 阿部三郎・ 副会長 東海林要太 組 長 吉村秀太郎・秦野甚吉・中村辰平・服部安次郎 取締役 秦野兼松・能勢一徳 明治四拾参年拾月拾八日 湧別村より分村して上湧別村となり、村長兼重浦次郎は、青年会活動を振興し、青年の修養の機会や産業振興、部落治安警備の中心としての役割を、持たせようと奨励した。 明治四十四年三月一日 村長通達 青年団体ニ関スル件 青年団体ノ目的ハ補習教育、町村民教育、公共事業ニ実習教育 以上ノ三要項ヲ具備スルニアラザレバ完全ニ青年団体ノ目的ヲ達スルハ不可能ト相考候間 貴部落青年団ヲシテ補習教育ノ外左記事項ヲ実行セシメラレ候様致度此段申進候 一、三大節其他ノ儀式ニ青年会員ハ可成参列スルコト 二、上湧別村役場主催ノ町村事務講習会ニ入会スル事 三、学校又ハ役場用ノ薪炭其他公共同人夫等ハ可成青年団員ヲシテ 供給セシムル事 四、村内道路橋梁堤防等ノ修繕工事ハ青年団員ヲシテ従事セシムル コト 五、水田試作、薄荷試作、農作物試作圃等ハ可成青年団体ヲシテ担 当セシムル事 六、前三、四、五項ヨリ得タル収入ノ幾分ハ其部落青年団体ノ経費又 ハ基本財産トナシ 若シクハ貯金セシムル事 以上当時の青年指導の方向を、うかがい知ることが出来る。 上湧別村連合青年会の結成 明治四十四年六月十一日 北湧校にて全村の青年会を、連合組織にした、上湧別連合青年会を結成した。 会 長 兼重浦次郎(村長) 副会長 戸井源蔵(北湧小学校校長) 各部落青年会は分会と称した。 村内の青年会四十四年十二月現在 共進青年会(四ノ一) 南湧青年会(四ノ二) 明徳青年会(四ノ三) 中央青年会(屯市) 北湧青年会(五ノ一) 北友青年会(五ノ二) 以上六団体 青年会館建築 明治四十四年六月一日、青年会場建設については、沿革の項で詳細に述べたので省略する。 この年の予算は 会長 中村辰平 収入予算 一、会 費 三七円八〇銭 会員二十一名一人一円八十銭 一、村費補助 三・00 上湧別村費補助 一、部落補助 一五九・○○ 会場並図書縦覧所新築費 一、寄 附 金 二四・七一 有志寄附 合 計 二二四・五一 支出予算 一、備品費 二円二五 机一ヶ七五銭書箱一ヶ一円外 二、消耗費 四・○○ 半紙手帖筆墨封筒石油五升薪炭 三、通信費 ○・五○ 通信運搬費 四、雑 貨 一・二三 事業費 一、会場新築費 一二○円○○ 会場十二坪 一坪十円 二、夜学費 二二・○○ 教師報酬・備品ランプ・書箱・石油外 三、図書縦覧所費 二六・五○ 書箱一ヶ名簿 新聞 雑誌 書籍代 四、警備費 五・○八 提灯張替四円 他ローソクマッチ代 五、講話会費 四・五○ 講話会諸費 六、発会式費 二三・○○ 式場装飾招待費 幻燈 発音機借受 七、歓送迎費 一三・九五 歓送迎費七円旗壱旒六十五銭他 八、会員表彰 八・五○ 功労者・善行者・表彰費 九、予備費 三・○○ 合 計 二二四円五一銭 以上の予算書が区長宛提出されている。 優良青年会表彰 四十四年十一月三日 天長節の祝日に優良青年会として、左記の青年会が村長より表彰を受けた。 尚奨励金十円の交付を受けた。 共進青年会 北友青年会(五ノ二) 中央青年会(屯市) 開盛支部の設置 開盛橋の流失により、通い作の不便からサナチ原野(開盛)の第二給与地へ、移転する者が増え、その子弟が夜分の会合や夜学会などに出席の困難から、青年活動に多くの制約を受けた。 このため四授与年より開盛支部を設けた。 四十五年一月の総会で論議され、開盛支部と、相互協力の体制を取ることになった。 定期総会決定書 M四十五年一月廿一日
共進連合青年会 本部と支部は四十四年からで、大正二年に共進連合青年会と称し本部を第一共進青年会、開盛を第二共進青年会と称した。 それぞれ会長、副会長の役員を置き、その連合会を組織し連合会長を選任して、統括することにした。 大正三年一月四日の総会で、役員は共進青年連合青年会長、中村辰平第一共進青年会長、田島八朗 第二共進青年会長 阿部三郎が選任されたが 二月十八日臨時総会を開催し。 規約の改正
大正三年四月一日より、開盛部落が独立したので、青年会も自然に分離したが、其の後大正十二年まで、第二共進青年会の名称が使われ、壱区青年との交流が深かった。 共進青年会報の発行 大正二年の秋から、共進会報が編集主任樋口信吾等の手で発行され、三年四月一日には第五号を発行している。 謄写版一式を購入し西洋紙にガリ刷りで、冬期毎月の発行で会員の作文や短歌俳句の創作や、学習文などが記載されている。 大正四年四月末に、樋口信吾会長は区長宛長文の所信を記して、辞任を申し出た。 『若輩の身で会長の重責を負い、会の運営に努力するも未だ力足らず、三月十八日に三回目の総会を招集するも、いずれも出席者少なく流会となる 前年は勿論前々年度の決算も出来ず、店払等が遅延し、多大の迷惑をかけている。 これは若輩の任にあらず三月末日で辞任する』 然し顧問、其の他有志の慰留と、激励で留任し会の再建に努力し、活発な活動を行った。 共進文庫の創設 この年共進文庫を創設し、図書の充実と学習に努め、樋口が書いた共進文庫(書箱)は、代々引継がれ、昭和四十年代まで使用されていた。 大正五年の春、村の開村記念碑の建立に当って、その石材を青年会員が、社名淵(開盛)駅より、上湧別神社境内まで運搬の奉任を二日間に渉って行った。 大正七年に消防組が結成されて、部落の治安警備は、非常の場合消防組に協力する体制となった。 大正十年二月二十五日 会長代理副会長山崎佐市郎(遠藤清治会長病中)は、区長穴田助太郎に次の要請書を出している。 概要 会員は十四名であるが、出稼ぎなどで常時集合は、八・九名に過ぎず会運営に困難であるため、名誉会員を年齢を問わず、入会を認可してほしい』 当時会員の減少で活発な活動は出来なかった。 連合青年会大運動会 大正十年頃から、上湧別村連合青年会が主催し、北湧校庭で大運動会が開催され、昭和十年頃まで続けられた。 この連合運動会は、全村の青年会員が集まって、競技(陸上競技)を行うもので、各部落から老若男女が応援やら、見物に集まり現在のお祭り以上の人出で、出店が多数並び盛大であった。 その応援合戦で第一の名物は、共進青年の舞台をかけた上と、下で笛と太鼓に合せて踊る応援風景であった。 会長遠藤清治が替歌を作り、踊りの振付けをし、仮装や、裸や襷がけで、拍子木を叩いて、跳ねて踊り、それはそれは賑やかな応援ぶりで見物人も競技そこのけで、見とれたものです。 一、応援歌 デカンショ節 昭和四年印刷より ・向かい山から熊尻出して 鎌でかけるよ屁をたれた ヨーイヨー イデッカンショ ・どうせ走るなら一等賞で走れ 一等賞でなければびりで走れ (ヨーイヨーイ同繰返し) ・デカンショどころか今日此の頃は 音のするよな屁も出ない 二、応援歌 船頭歌節 ・沖の鴎によー潮時間問へばよーソーラホイ 私しゃ立つ鳥浪に問へ ヨーソーラホイ ナンダヨーソーラホイ ・俺等の選手はョー時計の振り子ョー(囃じ同じ) 勝った勝ったと進み行く ・焼いたおいもはョー火事よりこわいョー 胸が焼けたり 屁が出たり ・おならしたいとてョー巡査に問へばョー お前どころかわしやしたい この応援歌で遠藤清治の熊尻が、名物となって永い間、熊尻の親分の名で親しまれた。 共進青年団 上湧別村連合青年会が、昭和に入って道庁の指導で、連合青年団と改称して、部落青年会は分団となった。 共進青年会でも会則を、分団則に改正している。 共進青年団則 昭和七年会報より 第一章 目的名称位置 第一条 本分団ハ青年ノ親睦ヲ厚ウシ、風紀ノ矯正知徳ノ修養ニ努 メ、且一致協力 公共事業ニ尽力シ、進ンデ本村ノ進歩発展ヲ促 ステ以テ目的トス 第二条 本分団ハ共進青年分団ト称ス 第三条 本分団ハ上湧別村南兵村第一区ノ青年ヲ以テ組織シ、会場 ヲ部落内ニ設置ス 第二章 分団員 第四条 分団員ハ年令十六才以上二十五才以下ノ者ヲ以テ組織ス 但シ通学中ノ者ハ此ノ限リニアラズ 第五条 分団員ハ事情ニヨリ休会スルヲ得 但シ左ノ条項ニ該当ス ルヲ要シ、本人ノ願出タル時ニ限ル 一、二ヶ月以上旅行 又ハ病気 或ハ出稼 奉公ヲナシ不在勝ナ ル者 二、本人ガ分団員タル其一家ガ、多大ナル家計上ニ影響ヲ蒙ル者 ニシテ 組分団ガ是認シタル者 第六条 休会者ハ分団費納入ノ要ナク、事業及ビ其他欠席随意 但 シ選挙権ナシ 第七条 分団員ニシテ転居シタル時ハ 役員ニ届出ヲ要ス 第八条 分団員ハ理由無クシテ入会ヲ拒ミ 又ハ退会スル事ヲ得ズ 第三章 役 員 第九条 本分団ニ左ノ役員ヲ置キ各々名誉職トス任期ハ一ヶ年トス 但シ再選ヲ防ゲズ 取締二名 分団長・副分団長・会計各一名 理事三名 第十条 取締ハ部落ヨリ推薦シ 分団長以下ハ分団員ヨリ選ス 第十一条 取締ハ本分団ヲ監督シ重大ナル要件ハ之ヲ処理ス 分団 長ハ一切会務ヲ統理シ且議決事項執行ノ責任ヲ有シ 副分団長ハ 分団長ヲ補佐シ之ガ不在ノ時ハ代理ヲナス 会計ハ分団費其ノ他 金銭出入ノ一切ヲ掌リ 理事ハ分団長ヲ補佐シ庶務ニ従フ者トス 第十二条 分団長ハ分団則施行上必要ナル細則ヲ設ケル事ヲ得 但 其場合ハ総会議ヲ経ズベシ 第十三条 役員ハ一切事務ヲ総会ノ是認ヲ得テ後遂行スルモノトス 但シ緊急ナル場合専決処分ヲナスヲ得レ共後日総会ノ協賛ヲ得 ルヲ要ス 第十四条 役員ハ本分団ニ必要ナル規約ヲ提議スル事ヲ得 第四章 事 業 第十五条 本分団ノ集会ヲ定期 臨時 役員ノ三種トス 第十六条 定期集会ハ毎年一月十二月ノ二回事業ノ経営経費ノ予算 編成 会務状況並ニ決算報告ヲナシ 役員ノ改選其ノ他重要ナル 事項ヲ議ス 臨時総会ハ分団長ノ必要ト認メタル時 及ビ分団員 五名以上ノ請求アリタル時之ヲ開ク 役員会ハ役員ヲ以ッテ 組 織シ会務諸般ノ競技ヲナス者ニシテ 分団長任意ニ之ヲ開ク 第十七条 本分団ハ第一条ノ目的ニ到達セン為左ノ事項ヲ行フ 一、討論会講話会 二、農業ニ関スル知識ノ補習ト之ノ実行 三、夜学会 四、勤倹貯蓄ノ実行ト奨励 五、卓牢粗暴ノ言行 ヲ矯正シ青年ノ面目ヲ保持ス 六、時間ノ確守 七、会報配布 八、体育奨励 九、天災地変ニ対スル尽力 十、公徳ヲ重シ公 益ヲ進ムル事 十一、文庫運動具ノ設置其ノ他 第十八条 本分団員中又ハ部落内ニ於テ燥行善良ナル者ハ 相当ノ 方法ニテ表彰ス 功労者ノ表彰モ之ニ準ズ 第二十条 役員及団員ノ不勉強ナル悪行者ハ、之ヲ総会又ハ 役員 会ノ決議二依リ 忠告又ハ除名相当ノ処分ヲナスベシ 第五章 会 計 第二十一条 本分団ニ必要ナル経費予算ハ総会ノ決議ニヨリ之ヲ定 ム 第二十二条 本分団ノ経費ハ補助金及ビ慰労金寄附金分団員費雑収 入ヲ以テ之ニ充ツ 第二十三条 本分団ノ経費貯金其他財産ハ役員ガ保管ノ責ニ任ズ 第二十四条 会計年度ハ毎年日月五日ヨリ一ヶ年トス 第六章 第二十五条 将来本分団則ノ改廃ヲ要スル時ハ 総会ノ決議ヲ経テ 区長取締ノ承認ヲ得ズベシ 但団員総数ノ三分ノ二以上ノ賛成届 ナキ時決議ヲ成スヲ得ズ 昭和に入って青年団員も増え、冬期間は夜学会を開いて、基礎的な学習を行い、秦野兼松を講師に藁細工、わらじ、つまごの作り方を習い、又討論会を行って、相互研修に努めた。 連合青年団が主催する 一夜講習会や辨論退会に参加するなど、中央の指導が強化されて来た。 昭和三年八月新たに会旗を作成樹立した。 昭和四年十一月十日青年辨論退会、北湧校に開催、分団より三名出場する。 青年試作地 昭和七年春南兵村部落で、各部落へ部落会場敷地買収経費寄附が議決された。 一区では既に会場敷地が確保されていたので、青年団の試作地を要望した。 試作地は二十四号線東部落財産地(鳥井始宅地南)七反六畝二〇歩が部落に寄附された。 この年分団長牧野光一等団員が燕麦の耕作を行った。 これが試作地のはじまりで、以後村農会の委託採種や、農作物の肥培試作を行い、青年団費の造成にも役立て、永く続けられた。 昭和八年 小麦・馬鈴薯・亜麻・デントコーン耕作 昭和九年 青豌豆・コンモンペッチ・大豆・小豆・ソバ 昭和十年 ビート・燕麦 同十一年 村農会採種・青豌豆・三反・ビート四反五畝 以後耕作については省略する。 主な事業 昭和七年 会長 牧野光一 夜学会 二月十三日より一週間に一回(以後毎年) 一や講習会参加 三月十二日十三日 修養団赤本宣誓 北海道号飛行機献納金募集四月三十日 傷痍軍人援農出役 東海林作太郎 遠藤庄兵衛宅 堆肥増産品評会開催 一等工藤東次郎 二等渡辺保外 昭和八年 月例会 早起会 会場掃除 月二回 農事研究 一人一反歩耕作純益貯金 五ヶ年継続 会報発行 年一回 三月 上湧別神社池掘工事 三月二七日 全員出役奉仕 北見連合青年退会(網走)参加 吉村真己・三品栄・渡辺保 昭和九年 会長 渡辺正喜 温根湯行軍 四月十七日 十八日 四時半出発 遠軽六時 生田原九時十五分着 汽車にて 奔無加着下車 昼食温根 湯行軍 午后一時半着 宿泊 十八日 汽車にて帰途 午 后十時開成駅解散 昭和十年 会長 渡辺正喜 三月九日十日陸軍記念日在郷軍人演習参加 九日午後七時 より夜間演習十日午后三時解散道路愛護デー九月二十四日 砂利敷、草刈工事 昭和十一年 会長 渡辺 保 団服制定配布七月二四日カーキ色 団員二十五名 農事視察 七月二十一日 自動車・トラック・青年十五名火防団 十三名参加 四時半出発 端野・水田・ハッカ・野付牛農試・ル ベシベ・ハッカ視察 温根湯温泉休み午后十一時帰宅 上湧別産業青年共励会 一等北見連青共励会出品 ・天皇陛下全道青年御親閲 九月三十日札幌市 渡辺保(会長) 細川勝参加 ・川上神社祭典演芸会 十月十七日夜七時〜午前二時 役者渡辺保 秦野春義・秦野正弘・細川勝 外団員 昭和十二年 会長 秦野春義 ・川上神社桜苗植樹 四・二九 基線道路植樹奉仕 五・十一 ・上湧別連合青年大会 八百リレー優勝 ・古雑誌献納運動 各戸収集し村役場へ納める 昭和十三年 会長 細川 勝 ・国防献金 二十円釧路連隊司令部へ送る ・上湧別連青主催 優良町村産業視察団参加 七・三一〜八・六まで 清真布ー栗沢ー札幌梶川果樹園、真駒内 畜種場〜琴似農試〜月形村〜石狩村沼田 ・国民心身鍛練運動実施八・一〜八・二〇まで四回 午前四時半集合 皇居遙拝 君が代斉唱 ラジオ体操外 昭和一四年 会長 工藤東次郎 四月より安本明 ・網走管内青年産業総動員研究発表大会(網走女子小学校) 上湧 別代表 本団副会長三品・榊発表 ・慰問袋作成発送 応召兵 遠藤恵一郎・平間勇・幕田義一・吉村 真己 男女団員協力五月六日 ・旭川市博覧会七・三一〜八・三 見学参加 道路愛護デー共励会九・二四 一等授賞 昭和十五年 会長 牧野政義 連青一人一研究発表大会 二・一二 四名発表 紀元二千六百年青年強化大会 十一・二四 参加 生活改善協議会(壮年連盟主催) 十二・二六 男女参加 昭和十六年 分団長 三品 榊 三月十五日 上湧別村青年団結成式 役場にて 四月十一日 共進分団結成式 分団長 三品 榊 正団員十四名 普通団員十一名 在営者六名 五月二十六日 神饌修祓式 村長・学校長・区長外 男子床かき奉仕二七日 女子種蒔農林十一号 昭和十七年 分団長 三品正吉 一月十一日 九月十日 鉄回収奉仕出動 七月五日 共進分団常会 青年会場にて 団長酒井佐一 単位団長須貝麟太郎 副団長浅井好 指導員十 河博 顧問穴田俊一 遠藤正雄出席 七月十七日 戸田侍従御差遣 勤労奉仕作業出征家族 東海林武 雄 阿部他人田氏林檎園袋掛薬剤撒布 午后三時二十分侍従下 車 作業実況を視察 七月三十日 常会視察 午后七時〜九時 毎年五日常会なれど管内町内会、部落会館指導研究会より分団常 会視察のため本日開催 道庁振興課赤沼氏(青年指導官) 外二十 四名、村役場より鈴木局長・藤島・浅井副団長外来団 十二月九日 慰問袋作製発送八名分 昭和十八年 分団長 細川嘉明 三月八日 大詔奉戴日記念青年大会 参加 三月二十六日 村団幹部常会 各部整備決定 修養部・産業部・貯蓄部・社会部・体育部 五月十三日 上湧別小学校水泳場工事出役奉仕 六月四日 体練会(運動会)男女参加 七月十三日 屯田集団騎馬舞台練習 参加 村幼駒運動場にて午前七時〜九時まで 九月三日 上湧別青年団視關官 支庁千葉主任 十二月二十五〜三日間大東亜青少年総決起動員令下る。 午前八 時改正駅前集合昼食持参 排水掘削客土資材運搬等、土地改良 事業へ 共進青年団歌 秦野兼夫は、父兼松の三男に生れ、昭和十一年海軍を志願入隊、日支事変に参加活躍中、たまたま病を得て療養を重ね、十七年十月除隊帰郷し青年団員となる。 共進青年団歌を、自ら作詞、作曲し団員に教え、団員の意気昂揚に役立てた。 当時の団員には懐かしいものであろう。 昭和十九年春 秦野兼夫詩 一、北斗の星に育くまれ ゆかしき歴史の屯田に きそいたちし若人は 伝統誇る信念と 共に輝く共進青年団 二、春川上のみ社に 進まんわれらの精神を 清く高く導びきし 桜の花のかんばせと ともに輝く共進青年団 三、時代の流れに従いて 古りても映ゆる姿こそ 強い雄々しいかたちなれ すべてのものを勝ち抜いて ゆかんわれらは共進青年団 上湧別村青年団の結成 昭和十六年三月十五日、村役場に全村の青年団幹部を集め、上湧別村青年団が結成された。 町内会、部落会が隣保班組織の強化と、行政の統制下に入ったように、青年団も全村を一組織として、命令指揮活動の一本化に改組された。 もとより臨戦体制の国家的要請による、官製青年団であった。 団長は村長酒井佐一、単位団長は中心学校長で、上湧別国民学校長須貝麟太郎、副団長浅井好(教員)、指導員は教員の外役員吏員郵便局長が任命された。 各部落は分団とし、男女青年を含め分団長・副分団長など役員を置き、本団の指示で各行事を行った。 本団では毎月分団長外幹部を集め、常会を開き、分団でも毎月常会を開いた。 共進分団では、毎月五日に常会を開き、本団の事業参加の外、独自の青年活動を行っていたが、入営者、応召者が多くなり幹部の入替りも激しく、少人数で団活動を活発に行った。 団員名簿 昭和七年一月 共進青年団 幕田善一・安部川清司・菊地滝之助・安本庄一・小関文司・東海林広・牧野光一・渡辺正喜・秦野美徳・吉村真己・中村嘉一・三品栄・秦野馨・平手直利・野田正光・渡辺保・松野政喜・山崎正康・樋口国男・秦野春義・工藤正雄・岡村重一・秦野正弘・市村一恵・鳥井茂雄・渡辺寅喜・細川勝・樋口真幸・平間勇・長倉勇次・牧野甚一・山本政雄・吉村明雄・野田幸雄・渡辺明善・遠藤恵一郎・安本明・渡辺光雄(新入団)・竹内信行・松野政義・細川幸雄・菊地長男・菊地竹次郎・工藤東次郎 休会樋口雄幸 本年度退会者 三品一男・吉村薫・吉田良雄・工藤良雄・穴田俊重・鳥井茂 昭和十四年一月 工藤東次郎・安本明・三品榊・渡辺光雄・穴田多喜四・三品正吉・阿部太・松野源蔵・岡村稔・遠藤盛幸・服部国光・稲垣松男・上楽保・細川嘉明・樋口吉良 普通会員 工藤敬蔵・阿部清・渡辺武雄・三品正十郎・三品昌一・三品昌夫・三品俊雄・はっ地理照明(応召者)幕田義一・遠藤恵一郎(入営者) 松野政義・山本政雄・吉村明雄・秦野兼夫・秦野保春・工藤政義 合計三〇名 会計状況 昭和七年度経常費予算
戦後の青年団 終戦后戦地より帰った青年を入れて、青年団は約40名にふくれ上がった。 軍事統制的な上湧別村青年団は解消されて、新に民主的な青年団活動が生まれた。 昭和二十一年四月、青年学校長千葉七郎 同教諭玉手忠男の呼びかけで、新に上湧別青年連合青年団が結成された。 団長は内田清(四ノ三)副団長に宮島コトエ(四ノ三)が選ばれた。 共進青年団では、男子と女子に分れて、団長、副団長を選び、別個の組織であったが、集合等は常に同時に開催し、事業も共同で行われた。 主な事業 昭和二十二年 団長 遠藤清喜 秦野常子 四月五・六日 幹部一夜講習会 青年学校 四名参加 四月十三日 弁論大会 上青連主催 喜楽座にて 一位入賞 石田淳子 六月十五日 上連青第一回体育大会 十一団参加 総合点 一位中央 二位富美 三位共進 百米二位・二百米一位稲垣亘 障害一位細川公雄 一万米二位 小関文男 八百米リレー三位稲垣亘・今野吉美・岡村正憲・山 本博隆 二千個目リレー三位 昭和二十三年 団長 遠藤清喜・細川政子 四月五日 芸能大会 上連青主催 喜楽座 四月十・十一日楽農郷建設青年祭 参加 弁論大会 一位入賞 石田淳子 六月十日 上湧別小学校運動会 青年団対抗競技 優勝 八百二百リレー一位 青年会場新築工事出役 基礎工事建舞其他協力 十月十七日 川上神社大祭 会場新築記念祝賀子ども神輿三年生 以上三十名 音頭 稲垣亘 十八日 演芸会 午后七時〜午前一時会場前 約十日間夜練習 師匠渡辺保 指導牧野光一・秦野美徳 悲劇生きぬ仲 樋口道雄・秦野松寿・岡村正憲・東海林武敏 阿部利夫・遠藤清喜・秦野栄子・石田淳子・秦野繁子・渡辺千代 喜劇人生はお人好しから 細川公雄・東海林武敏・山崎末夫 田島千恵子・菊地妙子 喜劇 大晦日 樋口道雄・山本博隆・阿部岩雄・佐藤馨 渡辺千代・石川孝太郎・東海林和市 十月十九日 敬老会 会場新築記念青年団主催 岡村進部落会長・牧野光一・樋口雄幸・顧問出席 敬老者七十才以上招待 樋口幸吉・樋口テジエ・樋口耕平・掘敬助・平手ヨシ・松野マ サノ・小島鉄治・東海林ミヤ・遠藤清五郎・吉村ミツヨ・服部 平八・渡辺善三郎・穴田助太郎・鳥井始・山崎佐太郎・小田井 亀次郎・三品玉吉・三品玉七・河瀬弁次郎・稲垣音松・工藤留 三・安本庄蔵・岡村ツデ 二三名 十月二十一日 産業振興大会 上連青主催 上湧別小学校 研究発表並弁論出場 岡村正憲・今野吉美 農産物出品総合点一位 北湧 二位 共進青年団 昭和二十七年 団長 小関文男・菊地多恵子 七月三十日キャンプ設営・社会部・男女三七名 湧別川畔にて共同炊事レクレーション行事 八月十六日お盆・部落内対抗野球大会 青年主催 部落内を四チームに別れ、野球大会を開く。 幼駒運動場を整備 し、はじめて開催する 十月十七日 川上神社祭典演芸大会(毎年行う) 昭和二十八年 団長 石田敏雄・山本隆子 一月十七日 教養娯楽会 十八日 カルタ大会開催 三月一日 卓球大会上連青主催 団体戦一位 遠藤正信・秦野和美・石田繁夫・阿部利夫 服部寿美・山本智子・秦野靖子・三品エミ 個人戦一位 遠藤正信 二位 秦野和美 五月二十五日 機関紙こだま第1号 発行 十二月七日第二号発行 八月十六日 各通対抗野球大会四チーム 中通優勝 幼駒運動場宝探し 助詞卓球大会夜盆踊 十二月四日 共進青年学級開講式 今野町長・遠藤清治町議長・清水教育長臨席 翌年三月二十五日 開講式 受講生・青年団員・農協青年部員 四十名 講師 渡辺寿雄校長・大江中学校長・野田四郎・長 岡萩邨・大沢順英・樋口寿幸普及員・東山一保 昭和二十九年 団長 穴田寿之・三品春子 一月十三日谺機関紙 谺印刷発行 昭和三十年 団長 工藤辰雄・樋口洋子 二月五日 部落各種団体役員懇談会 参加 便所新築の件 生活改善事項 其の他協議 六月二十六日 上連青体育大会 出場 総合点一位中央 二位共進 三位北湧 百米三位渡辺正利 走巾跳二位渡辺敏夫 砲丸投一位石川洋一 二位吉村邦彦 女子砲丸二位山崎康子 三位山崎美貴子 走高跳二位小田井 茂 三位服部寿男 三段跳一位渡辺敏夫 三位石川洋一 十月十七日 青年団として最後の演芸会 昭和三十一年 団長 吉村邦彦・三品美智子 三月四日 上連青卓球大会 団体二位 個人二位遠藤正信 三位三品恵美子 七月廿日 研修旅行一泊 阿寒湖畔温泉 青年団員 農協青年部員合同 四十一名参加 昭和三十二年 団長 石田繁雄・秦野靖子 二月十日 機関紙谺第十七号発行 三月十日 上湧別町青少年会協議会結成 この日庁内の青年団体役員が集まり、各団体の自主活動を主体と し連絡協調をはかる協議会組織に改変された。 会長沢口勝男 綱領 一、我々は社会文化の向上に努めます。 一、我々は産業の発展と生活の向上に努めます。 一、我々は友和に富む心を培い、健康の増進に努めます。 四月十七日 敬老会二十一名招待 婦人会と合同 七月十四日 遠軽地区青年陸上競技大会 丸瀬布町 百米・二百米 各一位渡辺正利 二百米二位工藤勝健 巾跳・三段跳 各三位渡辺敏夫 七月廿日一泊 上青協サマーキャンプ 志撫子浜十六名参加 十月六日 上青協体育大会 上湧別小学校 総合一位入賞 昭和三十三年 団長 秦野哲男 この年より男、女青年合併し副団長女子とする 六月二十九日 上青協体育大会 上湧別小学校 団体総合優勝 昨年につづき 十一月二日三日 産業振興大会 上湧別小学校 総合点、 一位 堆肥共励会 二位 昭和三十四年 団長 秦野哲男 六月七日 上湧別小学校運動会 対抗リレー競技 優勝 四月四日 上青協芸能祭 参加 湧宝座 七月十八日 上青協主催サマーキャンプ 富武士参加 三十五年以後 共進青年団の活動記録は以後十ヶ年間、議事録、会計などの書類が見当たらず、残念ながら詳記することが出来ない。 我が国の経済の高度成長がはじまり、農業の不況が深刻となって離農者が相次ぎ、農家青年は他に職業を求めて転出し、一方女子の職場が拡がり、高校卒業と同時に農協や商店、其の他の企業に就職する女子青年が増えるなどで、青年団員は急激に減少した。 四十年代にはいると単位の青年団活動が困難となり、永年続けられ団活動の資金源となっていた青年耕作地の耕作を中止し、自治会に返還した。 青年団の最大の奉仕事業として約七十年間続けられた川上神社の清掃事業や、秋の大祭、余興も又、実施不能となり、自治会に返還し、自治会が各組当番制で清掃を行い、大祭は自治会で執行するようになった。 その後高齢者による神社護持会が四十三年に発足し、神社の一切を世話するようになった。 こうして青年団員の減少で、昭和四十五年には解散の止むなきに至り、約七十年に及ぶ名誉ある共進青年団の歴史の幕を閉じたのである。 上湧別町内各部落の青年団も同様で、単位団活動が不可能となり現在では町内一本の上湧別町青年団体連絡協議会に直接加入し、研修や奉仕活動が活発に行われている。 参考 町内組織 (戦後) 昭和二十一年 上湧別村連合青年団 昭和三十二年 上湧別町青少年会協議会 昭和四十八年 上湧別町青年団体連絡協議会 昭和五十三年 上湧別青年団体協議会 上湧別町青少年協議会に幹部として、狂信青年団から活躍した青年は次の通りである。 昭和三十六年 事務局長 秦野 哲男 昭和三十九年 副会長 三品 勲 昭和四十年 会長(九代目) 三品 勲 昭和四十二年 副会長 安本 明男 昭和四十五年 副会長 三品 正幸 上青協の会員(現在部落内青年) 阿部和彦・秦野敦子・吉村智之 団員名 昭和二十二年度 団長遠藤清喜・副服部照明・三品俊雄・大島年雄・樋口道雄・佐藤弘義・遠藤庄一・稲垣亘・松野末松・秦野松寿・東海林武敏・岡村徳蔵・小田井徳好・岡村正憲・秦野正昭・山崎末夫・阿部岩雄・今野吉美・山本博隆・細川公雄・石川孝太郎・小関文男・三品満美・工藤辰雄・石田敏雄・穴田寿之・鳥井信夫・上楽和夫 三月入団 吉村邦彦・河瀬一恵・牧野幸一 昭和二十九年度 団長穴田寿之副阿部利夫・工藤辰雄・山本貴幸・吉村邦彦・石田繁雄・三品満美・遠藤勉・服部寿男・牧野勝一・遠藤誠一・遠藤一恵・上楽良夫・渡辺正利・佐藤文男・秦野和美・牧野日出夫・秦野哲男・岡村利通・岡村恒男・小関幸雄・安本静男・遠藤正信 女子 団長 三品春子 副 阿部キヨ子 三品律子・穴田貞子・渡辺照子・安本クラ子・樋口洋子・牧野ソメ・山崎康子・吉村美恵子・吉村勝子・遠藤幸子・東海林節子・吉田丹奈・三品恵美子・小島啓子・山本智子・松野和子・三品美知子・三品ミヤ子・秦野靖子・阿部悦子・石川妙子・菊地孝子・佐藤勝子・工藤節子 昭和三十四年 団長 秦野哲男 岡村恒夫・渡辺正利・安本明雄・石川信一・三品勲・鳥井宗喜・秦野正則・竹内東洋児・細川勝美・三品秀行・牧野淳一・佐藤タダオ・秦野洋一・牧野政三・上楽武・三品栄二・秦野弘子・秦野邦子・遠藤康子・渡辺紀久子・工藤美代子・山崎美貴子・細川智子・市村恵子・三品陽子・細川涼子・秦野典子・山崎千代子・河瀬満・岡村美子・牧野信子・秦野恭子・吉村勝子・渡辺文子・佐藤末子・秦野信子・上楽君子 昭和三十五年以後の団員 佐藤松幸・樋口芳子・安本一男・三品幸義・三品啓子・鳥井弘二・渡辺雅氷・阿部富士江・三品美恵子・樋口雄三・三品正幸・山崎正晴・山崎照子・阿部昭仁・遠藤清子・秦野町子・岡村雪江・遠藤芳子・田島洋一・工藤秀夫 青年会(団)歴代役員名簿
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四ノ一班旗が十八円で製作購入され、以後この班旗を中心に援護活動が活発に行われた。 大日本婦人会の結成 大東亜戦に突入し、昭和十七年二月国家的要請から、愛国婦人会と国防婦人会が統合し、新たに大日本婦人会が生まれた。 従って本町でも、国防婦人会は大日本婦人会と名称が変更された。 四ノ一班長 昭和十二年 穴田 キノ 昭和十四年 樋口テジユ 昭和十八年 細川 ミヨ 昭和二十年 田島 フサ 戦後の婦人会 終戦後婦人会活動は全く停止していたが、戦後の民主化運動から婦人の自主的活動が要請され、昭和二十二年に屯市新生婦人会が結成され、次いで中湧別婦人会が結成された。 市街の川村清井・田島フク・佐藤スカ・斉藤スエ・遠藤ミン等の努力で、全町的に組織結成の働きかけが行われた。 四ノ一婦人会の結成 昭和二十五年 昭和二十五年部落会有志の応援で、三月二十五日創立総会を開き四ノ一婦人会が結成された。 婦人の自主的活動を通し、社会的地位の向上を目指した地域婦人会である。 会長 遠藤ソトエ 副会長 穴田春子 会員 笹島としゑ・渡辺かね・山崎やよい・鳥井朝子・渡辺光枝・上楽キヨ・穴田よしゑ・遠藤八重子・渡辺しん・遠藤君子・細川みよ・牧野うめ・服部よしの・阿部こぎく・吉村文子・吉村初音・秦野きよ子・三品千代・三品ゆき子・市村照子・田島ふさ・秦野美喜江・鳥井リウ・樋口歌子・樋口ぶん・松野清子・石田鈴能・掘しづ・牧野みつい・牧野一枝・佐藤みどり・松野愛子・山本みつ・小島とし・石田百代・秦野春子・河瀬きよゑ・平間サツ・三品常子・三品オキ・三品ユキ子・三品ふじ子・秦野すゑの・工藤よしゑ・小松トラ・竹内とめ・佐藤いと・小関てる子・菊地のぶ子・安本みさを・小島けい子・阿部ふじ・渡辺みと・稲垣よしゑ・遠藤しずゑ・北向きく・岡村照子・塚田まさ子・岡村八重子・石川きよ・伊藤ふじの・細川きよし・東海林玉枝 こうして現在の婦人会組織が、新たに誕生したが、最初に出合ったのが、五月一日の細川・渡辺両家の大火災であった。 会員全員より見舞金二、三四0円を集めて、両家に贈った。 連合婦人会誕生 昭和二十五年七月二十四日 全村を一つにした上湧別婦人連合会が、昭和二十五年七月二十四日創立し、新しい婦人活動の第一歩が踏み出された。 会長 川村清井 副会長 田坂フク・筒井コウ この年十二月拾日 明光寺で連合婦人会の初総会を開き、婦人の自覚と自主的学習活動と、社会的活動の必要を申し合わせした。 婦人会の事業 四ノ一婦人会は、婦人同士の話合の場で、親睦を深めながら、新しい民主時代の婦人の立場、経済生活の相り方などの学習を目的とし、最初に取上げた事業は、部落内成人者の祝を行うことであった。 昭和二十六年一月十五日 成人祭 会場で 成人者招待 遠藤智・小島宏・石川孝太郎・佐藤幸正・岡村忠・阿部彦治 秦野昭子・秦野しげ子・三品正子・安本末子 婦人会員の心のこもった手料理で、成人者を祝い、記念品の贈呈が行われた。 この成人祭の祝いは其の後数年行われ、町の成人祭が行われるようになり、以後は毎年の成人者に記念品だけを贈っている。 一、国旗旗竿の購入斡旋 共同で購入をする 一、戦病死軍人遺家族、慰霊慰問の実施 八月十六日役員と青年団役員で訪問(毎年実施) 二十七年度 会長 穴田春子 二月二十六日 生活改善講習会料理 牧口女史実施 三月七日 建設の母 誌購入会員へ配布 二十八年 会長 樋口歌子 三月六日 生田原 北光学園園児慰問物品寄贈 四月四日 会場用茶碗購入部落へ寄贈する 七月 雑布作製 学校役場へ納入寄附 二十九年 会長 阿部こぎく 七月二十六日 研修視察バス利用 実施 三八名参加 北見農試外農作物見学 農協より六千円寄附 部落会第一、 第二農事組合各二千円寄附 九月十日 塩鱒共同購入斡旋初めて行う 十月 清潔検査部落役員と合同実施す 三十年 会長 穴田春子 三月 婦人講話の開催 会員の家具衣料などの買物資金とし、又 婦人の親睦を深めるため、年三回掛一回二千円 十回掛セリ講共 同購入斡旋 学校運動会・青年運動会・上湧別神社・川上神社祭 典などの寿し揚げを業者と値引契約し斡旋 売上利益 二、七五二円 六月二十六日 新篠津入植者慰問する 農協婦人部結成 昭和三十一年一月十三日 上湧別町農協婦人部が、農協の協力団体として結成された。 四ノ一婦人会もこれに参加し、農協婦人部四ノ一支部となり、町連合婦人会加入と、二枚看板となった。 三十一年度 会長兼農協支部長 穴田春子 一、農協共同購入斡旋事業 購買部の石鹸・地下足袋・食用油・ 野菜種・水田長靴・家庭薬等 一、敬老会協力 開拓六十年記念に部落会、青年団と共催で、敬老会 行う 湯呑贈呈す 一、講習会開催 三月四日家族計画 八月二十六日パーマ講習 一、遠軽地区婦人大会 丸瀬布町 正副会長出席 三十二年度 会長兼支部長 秦野春子 四月十七日 敬老会 婦人会主催 部落会三千円 町補助五千円の助成を受け手料理で敬老会を行 う。 以後昭和五十年まで二十年近く婦人会の、重要な事業とし て七十才以上の敬老者を慰問した。 九月十二日 研修視察 阿寒・層雲峡等 三十三年度 会長兼支部長 穴田春子 一、婦人むつみ講会 第二次講を発会する 一、会場用座布団三十枚 湯呑五十ヶを購入する 一、町連合婦人会より脱退する 町連合婦人会と、農協婦人部と二重加入となった部落の婦人会は、 農家を主体とし、生産活動経済活動が主となり、町連婦活動と協調 がむづかしく、各部落とも連合婦人会を脱退し、農協婦人部のみとな った。 然し会の名称は婦人部又は婦人会が使われている。 三十四年度 支部長 穴田春子 一、火防団動力ポンプ購入資金一万円寄附 一、農協共済事業推進協力 各戸共催契約勧誘 三十五年 支部長 穴田春子 二月二十二日 若妻会開催婦人部の世話ではじめて若妻会を発足させ助成協力を行う 清潔検査の婦人部実施 部落会長吉村薫の要請で、春秋の清潔検査を婦人部が実施、区費より経費三千円助成 現在まで引続き実施 一月、瀬戸瀬温泉一日慰安の日実施 八月三日 婦人むつみ講終演で温根湯温泉行き 十一月二十五日 婦人部制服 灰青色 事務服上着 補助二八、○○○円 五六名分 四ノ一農協婦人部として、農協利用活動が最も活発に行われ、会計収入金約四万円の内、農協の共同購入利益金が、二万一千円、貯蓄推進奨励金五千円と、大きな収入源となっている。 三十六年度 支部長 穴田春子 四月一日 会場用セト物 中皿・小皿三十枚購入寄贈 七月十一日 町国民年金集金を婦人部事業として引受け若干の手数料を 受ける現在まで引続き継続する。 八月二日 瀬戸瀬温泉慰安会 四八名参加 三十七年度 支部長 秦野春子 三月三十日 農協婦人部貯蓄共励会三位入賞 三月十八日 農事講習野菜作り外 西川技師 三十八年度 支部長 秦野すゑの 四月十日 敬老会 毎年行う 今年二四名招待 五月八日 上湧別季節保育所開所式一万円寄附す 十月二十五日 第四回婦人むつみ講会 開講する 三十九年 支部長 秦野美喜江 四月十六日 敬老会 二五名招待 工藤留三・工藤きよし・渡辺えん・上楽てい・山崎佐太郎・田島 八郎・田島ふさ・牧野まさの・平手よし・掘しづ・樋口耕平・樋口 テジユ・三品ウタ・三品太七・三品玉吉・今野吉五郎・今野さつ 秦野しげの・岡村つで・小田倉キヨ・小島ぬい・安本つじ・阿部 きよの・竹内連勝・渡辺はな 四十一年 部長 穴田春子 三月十四日 農協婦人部創立十周年記念式参加 四月八日 敬老会 二二名招待 十ヶ年の敬老会を、NHK北見 放送局が録画し、ローカル放送で婦人部活動として一般に紹介 された。 四十二年 部長 穴田春子 十月十二日 北光学園(生田原)慰問実施 十二月十二日 若妻婦人部合同簿記講習会 四十三年 部長 穴田春子 四月四日 敬老会 瀬戸瀬温泉に招待 十一名出席 一泊慰安す 渡辺正喜送迎用バス寄附 十月一日 婦人むつみ講 第五回目開講す 四十四年 部長 穴田春子 一月十五日 成人式に、記念品贈呈、最多の成人者 阿部ふじえ 阿部恵子・石田則夫・市村幸子・菊地康夫・小島和美・鳥井勝治 ・東海林とも子・秦野真知子・細川静子・三品幸義・山崎洋子・ 渡辺勉・田島清一・三品芳春・秦野克司・秦野祥二・渡辺秀夫 ・穴田功・十九名 部落の最多で珍しく特記する。 二月二日 四ノ一婦人自衛隊協力会結成す 四十五年 部長 秦野美喜江 五月十五日 敬老会 この日特に神社護持会の参加協力を得て神 社境内で花見を開催す 四十六年 部長 樋口歌子 一月二十三日 穴田春子へ永年会長、支部長に歴任し会の発展に 功労あり感謝状を贈呈する 五月十五日 婦人部リレー日記の記帖をはじめる 四十七年 部長 松野清子 六月二十二日 北見くるみ里親会上湧別町支部結成にあたり、育 成会員の募集に努力 五二名の参加を得たり 五十年 部長 三品ユキ 二月十日 老人クラブ・若妻婦人部合同懇談会開催 三月二日 農協婦人部二十周年記念式典挙行 穴田春子永年役員(副部長)表彰を授ける 九月十五日 敬老会、町主催で挙行 中学校体育館にて、役員手 伝い、これより町の行事となる 五十一年 部長 松野サダ子 十月二十五日 四ノ一婦人部 国民年金 有料団体表彰授賞 北海道国民年金協会長早坂正吉より札幌厚生年金会館にて穴田 春子出席 五十二年 部長 工藤ハナ 十一月二十七日 第1回婦人祭 町内各婦人団体主催 福祉会館 にて 部員出品参加 五十三年 部長 田島徳子 一月十五日 成人式 成人者へ記念品贈呈 石田明美一人 戦后 最少の成人者 五十三年度事業計画 一、成人者へ記念品贈呈し祝意を表す 一、春秋清潔検査 四ノ一会館の清掃 一、国民年金の集金 くるみ里親会費集金協力 一、若妻会の育成助成 一、各種講習会 研修旅行の実施 貯蓄の励行 一、婦人部会費を本年より1.200円とする 一、病気見舞い、お産見舞い、餞別は1.000円とする 会 員 昭和四十一年度 笹島としえ・渡辺かね・鳥井朝子・山崎やよい・上楽きよ・穴田よしえ・穴田春子・渡辺光枝・遠藤八重子・遠藤君子・細川よしえ・牧野うめ・服部よしの・吉村きよ・吉村文子・阿部こぎく・遠藤信子・三品ゆき子・市村照子・田島徳子・秦野美喜江・秦野久子・樋口歌子・松野清子・石田節子・牧野みづえ・佐藤みどり・牧野サダ子・秦野すゑの・石田きくえ・三品ふじ・三品ユキ・三品きう・秦野春子・岡村てる子・秦野静枝・塚田まさ子・竹内すみ子・石川きよ・岡村八重子・東海林玉枝・阿部よしえ・稲垣よし子・安本みさを・菊地信子・酒井純・佐藤豊子・工藤よしえ・渡辺みと・遠藤しづえ・工藤はな 五一名 昭和五十三年度 牧野みき子・服部よしの・細川よしえ・遠藤君子・穴田千恵子・穴田よしえ・上楽幸子・秦野久子・田島徳子・三品ゆき・遠藤信子・吉村輝子・阿部美智子・石田節子・松野清子・松野サダ子・三品ふじ子・三品ユキ・三品美代子・秦野好枝・細川さえ子・岡村照子・東海林百合子・岡村貞子・阿部よしえ・稲垣良子・安本操・工藤桂子・佐藤豊子・渡辺みと・工藤ハナ・秦野利子・竹内美恵子・牧野和子 三四名 歴代役員名 年次 会長(支部長) 副会長(副支部長) 二五年 遠藤ソトヱ 穴田 春子 二七年 穴田 春子 秦野きよ子・樋口 歌子 二八年 樋口 歌子 穴田 春子・小島とし子 二九年 阿部こぎく 吉村 初音・秦野 春子 三十年 穴田 春子 吉村 初音・秦野 春子 三一年 穴田 春子 渡辺 かね・秦野 春子 三二年 秦野 春子 穴田 春子・塚田まさ子 三三年 穴田 春子 牧野 ウメ ・塚田まさ子 三四年 穴田 春子 吉村 文子・渡辺 光枝 三七年 秦野 春子 秦野美喜江・三品 ユキ 三八年 秦野すえの 松野 清子・遠藤 信子 三九年 穴田 春子 穴田 春子・秦野すえの 四十年 穴田 春子 牧野 ウメ・渡辺 かね 四一年 穴田 春子 阿部こぎく・三品 きう 四二年 穴田 春子 阿部こぎく・樋口 歌子 四三年 穴田 春子 秦野すえの・樋口 歌子 四四年 穴田 春子 阿部こぎく・三品 きう 四五年 秦野美喜江 樋口 歌子・竹内 須美 四六年 樋口 歌子 松野 清子・三品 ユキ 四七年 松野 清子 三品 ユキ・田島 徳子 四八年 松野 清子 三品 ユキ・酒井 スミ 四九年 三品 ユキ 松野サダ子・遠藤 信子 五一年 松野サダ子 工藤 ハナ・三品 ユキ 五二年 工藤 ハナ 田島 徳子・遠藤 信子 五三年 田島 徳子 秦野 久子・佐藤とよ子 五四年 秦野 久子 三品 ユキ 若妻会 農協婦人部が結成され、農村婦人として教養を高める研修と、農協事業推進の参加協力活動が盛んに行われた。 一方何時の時代にもある、農村家庭の嫁と姑の問題から、若妻の学習の場、憩いの場的会合の必要が指導者の間に取上げられ、婦人部では若妻の会合を奨励し、育成に乗り出した。 四ノ一若妻学級の開催 三十五年二月二十二日 四ノ一会館で、若妻十数名を集め、教育委員会主催の若妻学級開講式が行われた。 婦人部役員も列席世話 毎月一回学級を開催する 学習内容 一、一般教養講話 一、育児衛生保険の講話 一、料理手芸 講話 一、レクレーション・軽スポーツ実施 婦人部では、支部の事業として若妻の集会研修の機会の提供に努めていたが、この若妻学級の開催を転機として、若妻会組織化が具体的となり、自主的な会の結成となった。 四ノ一若妻会の誕生 三十七年春、親婦人部の積極的な後援で、四ノ一若妻会が結成発足した。 婦人部では若干の助成金を出して、その育成にあたった。 若妻会は、町婦人部主催の若妻研修会や、管内若妻研修会の参加をはじめ、独自に料理や手芸の講習会、 又は育児家族計画等の講習会を開き、学習に努めた。 又レクレーション、軽スポーツの大会の参加、農協青年部と合同の農事視察、子ども会行事の協力など、活発な活動を行うようになった。 四十三年度 会員 阿部美智子・穴田千恵子・牧野みき子・工藤桂子・細川涼子・三品美代子・秦野好枝・竹内美恵子・秦野和子 五十三年度 会員 竹内美恵子・安本近・佐藤朋子・秦野とみえ・樋口ミヨ子・三品敏子・工藤千恵子・山崎千鶴子・吉村和子・岡村ユミ子・田島勝子・三品節子 歴代会長名
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上へ | 衛 生 | 衛生組合 | 明治三十七年 本町の衛生組合の発足は、「明治三十七年其ノ筋ノ許可ヲ経テ設定」され組合長には村医高橋謙造が就任、各部落に衛生伍長一名が置かれたのが始まりである。 然し実質は「殆ド有名無実ノ状態」であった。 明治四十三年 上湧別村が分村し、上湧別村衛生組合が設立された。 組合長 兼重浦次郎 村長 副組合長 庄田万里 村医 各部落に、衛生伍長一名が選任された。 南兵村一区 伍長 穴田助太郎(区長) 当時は部落の区長が、衛生伍長を兼任し、春秋の衛生検査に回り、伝染病の予防消毒等の業務を行っていた。 記録に残っているのは、 大正二年 衛生伍長 穴田助太郎(区長) 四ノ一衛生組合 大正八年 大正八年遠軽村が分村し、衛生組合の自主的活動を期待し、各部落に衛生組合が設立された。 四ノ一衛生組合 部落民の投票で役員選出 組合長 穴田助太郎 副組合長 岡村小太郎 組 長 各組に組長を置く 部落内の春・秋に清潔検査を行い、伝染病予防の消毒用噴霧器を備付け、緊急用の消毒薬などの備え付けをし、部落内の衛生管理にあたった。 役員の選出は投票で行ったが、ほとんど部落区長、副区長が選任された。 当時清潔検査には、巡査部長、役場係が立会して白紙赤紙を貼るきびしいものであった。 其の後衛生組合は、昭和十七年に戦時統制で、部落会に統合吸収された。 文書記帳に判明した組合長名は 大正八年 穴田助太郎 大正十五年 岡村小太郎 同十一年 岡村小太郎 昭和 二年 小島鉄治 同十三年 岡村小太郎 同 八年 岡村小太郎 同十四年 秦野兼松 同 十六年 岡村小太郎 戦後の衛生検査 部落会では戦後、役員班長が春秋二回の清潔検査を自主的に行い、役場の衛生係員が立会し、白紙(良好)、赤紙(不良)を貼って歩いたものである。 昭和三十五年、部落会長吉村薫は、家庭の健康衛生、庭の美化清掃は婦人の理解と協力が第一だとして、婦人部役員の協力を求め、この年より婦人部が清潔検査春秋二回を担当し、実施するようになり現在に至っている。 し尿処理工場 近代的町づくりから、し尿の処理を広域化する動きが出て、昭和四十年遠軽地区(佐呂間町を含め)七ヶ町村で、遠軽衛生事業組合が設立され、種々検討の上、四十一年遠軽町学田に処理工場の設置が決定、九月着工、四十二年九月より本操業された。 その後農家も肥料として、し尿の利用がなく、処理量が増加したため、春秋に集中するし尿の処理が困難となり、予備貯漕等の増設工事が計画された。 隣接する開盛部落では、悪臭問題が解決されず、その上増設工事は絶対反対と山口自治会長を先頭に猛反対の決議が待ち理事者に提出された。 地区衛生事業組合では、特別対策委員会をつくり、第二工場設置を検討し、円月長弥生に白羽の矢を立てたが、火葬場、と場、塵芥焼却場等が地域に集中し、その上と住民の反対が強く、開盛にも隣接し交渉は難航した。 四十八年に至って南兵村一区最南の山林、開盛鉄橋の南東の三品昌一、曽我耕策所有山林地を売却工場設置が決定した。 自治会長阿部岩雄は総会を開き、条件付で賛成した。 道路の改修や悪臭問題に迷惑料として、百万円が自治会に寄附された。 こうして、四十八年五月総工費四億八千万円の工事費が決定し、四十九年十月末工事が完了、五十年一月より操業を始めている。 現在部落内では年数回、計画的にし尿が収集されている。 |
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納 税 | 納税組合 | 納税は国民の義務として、行政上からも常に完納奨励の施策が講じられてきた。 当部落の表彰記録では 明治四十年十月十七日 湧別村第十四部 常ニ納税ノ義務ヲ重ンジ模範タル可シ依テ木杯一組贈与シ 表彰ス 湧別村長 兼重浦次郎 大正四年度第二期地方税完納表彰授賞 網走支庁長 川越常次郎 大正六年十二月八日 四ノ一部落 納税完納表彰 上湧別村長兼重浦次郎 大正十一年・大正十三年にも表彰を受けた。 以上のように区長の努力はもとより部落民の納税意識が高く、良好な成績を上げていた。 四ノ一納税組合 大正十三年 大正十三年三月二十一日 部落総会を開き、納税組合の規約を審議し、役員を選出して、南兵村一区納税組合が設立された。 組合長は、部落区長が、副組合長は副区長が兼任し、各組長も又兼任であった。 この大正十三年には、各部落も納税組合が結成され、村では納税組合奨励規定を設け、組合設立と、完納の奨励に努めた。 村の奨励金授与 大正十三年 三一円 昭和三年 四三円 同 十四年 五十円 同 四年 四四円 同 十五年 五二円 同 七年 二七円 昭和 二年 三四円 表彰関係 昭和八年十一月十八日 感謝状 南兵村一区納税組合長 岡村小太郎 貴下納税組合長ノ職ニ在リタルコト多年其間組合ノ指導誘腋ニ専念シ克ク納税思想ノ普及徹底ニ努力セラレ(以下省略) 網走支庁長 浅村貞輔 この感謝状を見ると、大正十三年の設立当時、部落区長の兼任と決められていたが、岡村小太郎が永年、組合長を勤めたものと思われる。 共進納税組合 昭和十年度の表彰状から以後は、共進納税組合と変更されている。 昭和十四年四月一日 表彰状 紋別郡上湧別村共進納税組合 大正十三年三月以来国税ヲ完納スルコト十五年ニ及ビ其成績優良ニシテ他ノ模範トスルニ足ル仍ナテ納税奨励規程ニ依リ滋ニ之ヲ表彰ス 紋別税務署長司悦官補 小野 茂 共進納税組合は、昭和十七年町内会、部落会組織の強化方針に従って、解散し、部落会に吸収された。 戦後の納税組合 戦後二十一年に、屯市須藤茂七が近隣の人たちと、正義納税組合を結成し、自ら組合長となり納税の完納に努めた。 村では税務署の要請もあり、納税貯蓄組合の設立を奨励した。 昭和二十六年一月の部落総会で、納税組合の結成が議決された。 名称は、四ノ一納税組合、組合長遠藤正雄、副樋口雄幸が選出され各班長が納税組合の班長と決定した。 然し実質的な納税奨励活動が行われず、その組織的活動に入れずに過ごした。 四ノ一納税貯蓄組合連合会結成 翌二十七年の部落総会で、改めて納税組合の組織問題が審議され、部落内を五組に分けて組合をつくり、責任を持って徴収にあたり、それを一括して連合会で納入する組織とすることに決定した。 四ノ一納税貯蓄組合連合会 七一戸加入 連合会長 穴田俊一 副田島澄蔵 第一納税組合 組合長 渡辺正喜 第二納税組合 〃 秦野春義 第三納税組合 〃 牧野源一 第四納税組合 〃 今野吉美 第五納税組合 〃 菊地滝之助 四月一日付で村に届出された。 この年の全村納税組合の結成状況 五ノ三区 一組合 中湧別南区 三組合 中湧北区 四組合 五ノ一区 八組合 屯市 二組合 四ノ三区 一組合 四ノ二区 五組合 フミ 三組合 四ノ一区 一組合 職域組合十二組合 合計四十組合 約七00戸 町納税奨励規則の制定 この年四月に、村は第1回納税奨励会議を開き、納税奨励規則制定の説明あり、奨励金の交付は二十六年にさかのぼって支給された。 一、奨励金の交付は予算の許す範囲内に於て 一、納期内完納の場合は、税額の3/100以内 一、納期後1ヶ月以内完納税額の1.5/100以内 一、納税組合員 一名につき 二0円交付 一、奨励金は毎年九月末日・三月末日 二回交付 一、表彰、納税成績の優れた組合、或は功労者優良者を表彰する この時に表彰者 納税優良者 四ノ一 竹内連勝 穴田俊一 部落では連合会長穴田俊一の熱心な勧誘と、組合員の協力で、優秀な納税成績を上げて注目された。 二十七年度村税 収入歩合全村59.1% 一位 四ノ一組合 99.1% 奨励金46.550円 二位 四ノ二組合 92.3% 三位 中鉄組合 90.0% 二十八年度町税 一位 四ノ一 99.2% 二位 中鉄 96.9% 三位 四ノ三 96.9% 道知事表彰授与 二十九年十二月九日奨励会議席上伝達 上湧別町四ノ一納税貯蓄組合 道知事田中敏文より優良組合として表彰状授与される(全道表彰組合九組合中) 一般納税功労者 屯市 須藤茂七 全道十九名 三十年度北海道知事表彰 一般納税功労者 四ノ一 穴田俊一 全道二五名 穴田連合会長の熱心な努力で、道知事の表彰を受ける良成績であったが、二十九年の凶作、十五号台風の被害で、町税道税の納入歩合が、66%に下がり、翌三十年度は、54%と苦しい成績であった。 三十一年は、水稲、小豆、菜豆が皆無という大凶作となって、農家の困窮は甚しく、納税の意欲も亡ない、又各通りの組合長は毎年交替するなどで、税金の集金に苦労し、納税成績は落ちるばかりであった。 五納税組合に分割 このため昭和三十二年一月の部落総会で、連合会長穴田俊一から この苦境の打開について提案があり、連合組合を解散し、五つの組 合に分離することになった。 其の後役員会で、積立金、立替金の配分を決定し、三月末に解散 し、四月一日より各通りを主体に、五つの納税組合が設立された。 四ノ一納税貯蓄組合(南通) 組合長 穴田俊一 四ノ一中通納税貯蓄組合 〃 秦野美徳 四ノ一北納税貯蓄組合(北通) 〃 樋口雄幸 四ノ一北納税貯蓄組合(北本通) 〃 三品太七 共進納税貯蓄組合(南本通) 〃 安本 明 各納税組合では、打続く不作凶作で離農者の出る不況に、僅かの組 合資金を利用して、立替納税し完納成績を上げたり、又は組合長の 手金で立替納入し、その後徴収に二年も三年もかかるような苦心を重 ねて来た。 四十年代に入って、ようやく税金集めも安定し、又農協組勘口座 利用の振替納税となって、毎月百%の納税となった。 町表彰条例による納税功労表彰者 昭和三十三年 穴田俊一 永年組合長 昭和四授産年 秦野 薫 永年組合長 同納税組合表彰 昭和四十一年 四ノ一中通納税貯蓄組合 四ノ一納税貯蓄組合 共進南納税貯蓄組合 四ノ一光納税貯蓄組合 昭和四十三年 四ノ一北納税貯蓄組合 役員名 四ノ一納税貯蓄組合連合会 会 長 穴田俊一 二十七年〜三十一年 副会長 田島澄蔵 二十七年〜三十一年 四ノ一納税貯蓄組合 組合長 穴田俊一 三十二年〜四十二年 山崎正康 四十三年〜現 四ノ一中通納税貯蓄組合 同 秦野美徳 三十二年〜三十六年 吉村 薫 三十七年〜四十三年 秦野春義 四十四年〜五十二年 三品正十郎 五十三年〜現 四ノ一北納税貯蓄組合 同 樋口雄幸 三十二年〜現 四ノ一光納税貯蓄組合 同 三品太七 三十二年 秦野 馨 三十三年〜四十四年 三品正吉 四十五年〜現 共進納税貯蓄組合 同 安本 明 三十二年〜三十五年 竹内連勝 三十六年〜四十年 阿部 太 四十一年〜現 |
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topへ | 社会福祉団体 | 子ども会 | 昭和三十七年四月一日 上湧別町青少年問題協議会が、町長石田勝喜を会長に組織された。 青少年の非行化が目立って増加し、その防止や補導対策が協議されたが、児童の福祉を進めるため、積極的に子ども会を結成させ、健全育成を計るべしの意見が多かった。 上湧別小学校長高松義郎先生、松橋秀雄社会教育主事、大沢順英社会教育委員等の尽力で、昭和三十九年一月十五日、屯市北区子ども会が結成された。 四ノ一子ども会 昭和三十九年一月十九日設立 この同じ日に一区では、子ども会結成準備会が会場で開かれた。 出席者 秦野馨(教育委員長) 樋口雄幸(社教委員長) 高松 義郎(上湧別小学校) 宮越先生(中学校) 自治会会長牧野光一 副会長鳥井茂雄・同田島澄蔵・班長岡村進・三品正吉・阿部岩雄・ 青年部小関文男・穴田寿之外三名 婦人部秦野すえの・松野清子外 三名・諸学生秦野明彦・秦野雅美外三名 中学生秦野克司。三品幸 義外三名 合計三十名出席 子ども会結成の趣旨や、活動組織などの説明協議が進められ、設 立総会を一月十九日に開くことが決まった。 昭和三十九年一月十九日 会場にて 四ノ一子ども会結成総会 出席 大沢順英・樋口雄幸(社教委員) 松橋社教主事 高松義郎 先生 自治会 牧野会長外役員 婦人部員 青年部外一般出席 計二十七名 小学生 中学生 七十二名出席 子ども会は高松先生・大沢委員の適切な助言を加えながら、子ども会 の規約の審議や、役員の選出、事業計画が樹てられた。 会 長 三品彰 (中学2年) 副会長 遠藤芳子(中学2年) 後援会(育成会となる) 会 長 三品正吉 副会長 遠藤清喜 会計 穴田寿之 理事 小関文男・石田敏雄・阿部岩雄・工藤ハナ・東海林百合 子・秦野久子・阿部よしの 以上のように、四ノ一子ども会は、屯市北区と共に、本町で最初 に結成された子ども会である。 子ども会の行事の計画 一、例会を開き話合い、軽スポーツ、レクレーション 一、映画、スライドの鑑賞 一、ソフトボール大会、育成会員と合同で 一、お盆、花火大会、子供角力大会 一、夏休み、ラジオ体操会を毎朝行う 一、一日川あそびの実施 NHK放送される 四ノ一子ども会が発足した三十九年八月三日、NHK北見放送局 では、会場でのこそも会の勉強会其の他の活動状況を録画し、八月 八日午前六時に全国放送が行われた。 昭和四十年 会長田島洋一等の発案で、フラワーボックスを作製 (四ノ一子供会名入)し、 共進駅、 バス停留所二ヶ所に置き花苗 を植え乗降者の眼を楽しませた。 町長表彰 昭和四十一年 町開基七十周年記念式典の席上 四ノ一子ども会 は、 優良子ども会として町長表彰を受けた。 四十一年一月に、 町青少年指導センターが発足して、子ども会の 設立を促進し、育成強化の行事が毎年実施されている。 一、子ども会リーダー研修会 年二回 一、リーダー研修、キャンプ村の開設 一、全町子ども大会 一、子ども会対抗ソフトボール・バレーボール大会 一、子ども会交通安全駅伝競走 四ノ一子ども会のこれ等の行事に参加し、活発な活動を行って来た。 子ども遊園地の造成 育成会では、子ども会活動を助け、資金の援助や、空瓶回収販売 の手助け、一日海遊びなど協力参加し、子ども会の育成に努めた。 四十一年旧幼駒運動場を、子ども遊園地に造成することになり、 自治会の事業として、農協や町有のブルドーザーを使用し地均し事 業を行い、以後毎年整地草地作業を行い、四十五年にほぼ完成した。 この間子ども会を主体としたソフトボールや、自治会大運動会(四十 五年)が開かれた。 四十六年に、町社会福祉協議会より、児童福祉設備補助として、 十四万円が交付された。 ブランコ・滑り台・遊動円本・鉄棒・砂遊場・育成会員の手でこれ等 の設備が設置された。 子ども会館の建設 昭和四十九年四月 昭和四十六年 新部落会館の建設の時、若手の者から、児童の健 全育成上、会館に隣接する広い遊び場が必要だとし、部落会館を遊 園地に建設すべきだと、強い意見が出された。 しかし大勢は現在場所を良しとして決定した。 新会館はその管理上、子どもに自由な遊び場として利用出来なく 前庭も又狭く利用出来なく、子ども会の行事は遊園地で行われた。 育成会では、雨降りの時の休み場や、飲料水の設備などを考え、遊 園地に休み場の建築が検討されていた。 四十九年の春、町で旧中湧別中学校の教室を払下げすることにな り、育成会では一教室を無料で払下げすることが出来た。 三月二十四日 自治会臨時総会で、子ども会館建築費五0万円が 決議された。(し尿処理場迷惑料一00万円の中から) 三月二十七日 基礎工事実施 三月三十日 上棟式(総経費約43万円) こうして四ノ一子ども会館が育成会員の手で立派に建設され、 子ども会の集会研修、卓球などの遊び場として、有功に使用されるよ うになった。 単位の地域子ども会が、専用できる会館を持っていることは、 支 庁管内でも珍しいことである。 子ども会が結成された三十九年には、小中学生合計七十八名を数 えた会員も、年々生徒数が減少し、五十三年は二十七名となった。 指導センターの行う団体競技にも、人数不足で参加できない場合 が多く、会の活動も次第に困難となった。 しかし育成会員や、指導 員の協力で数多くの行事が行われている。 役員名
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topへ | 老人クラブ | 町内では昭和四十四年と、老人クラブの結成が各部落で行わ れ、老後の楽しい生き甲斐と、学習や社会奉仕活動が行われるように なった。 当部落でも神社護持会の席で、老人クラブ結成の話が出たが、 集合する場所が問題となり、会館新築後に決せすることになった。 共進福寿クラブ 昭和四十六年十二月 四十六年十二月五日、四ノ一会館が落成し十二月十二日新装の会 館で、六十才以上の男女が集まり、自治会長、町民生課長出席の上、 老人クラブが結成された。 名称 共進福寿クラブ 会員 南兵村一区に在住の六十才以上の男女 目的 生きがいのある人生を過ごすため、会員相互の親睦をはかり、 学習や社会奉仕活動を積極的に行う 役員 会長一名 副会長二名 内一名神社担当 会計一名 神社 一名 監事三名 班長 各班より 任期 役員の任期は二年、補欠は前任者の残任期間 経費 会員の会費、町助成金、寄附金 総会 毎年一月総会を開き事業決算の報告新年度の事業計画収支 予算の審議外重要なる事項の協議 例会 毎月一回例会を開く 役員選任 会長 遠藤清治 副会長 岡村 進 庶務 副会長 吉村 薫 神社護持担当 会計 小島鈴松 神社会計 穴田俊一 初代会長遠藤清治の意欲的な活動が、着々と成果を上げ、町内優 秀なクラブとして注目されるようになった。 事 業 一、川上神社例祭の執行、清掃維持 毎月の例祭はクラブ員の出役清掃後当番の準備で例祭を執行、 清水神官病気以来会員工藤良雄が司祭を行うなど、老人クラブ 活動としては、珍しい事業である。 一、会館庭園、花壇の造成手入 四十八年四ノ一会館の東側に、庭石(開盛佐々木)を四万五千 円で購入し、庭に配置し、神社境内の水松三本を渡辺組の協力 で、移植、 なお東山より楓、 ナナカマド、 朴の移植、会員の 庭木の寄附を受け、立派な庭園を造成した。 尚花壇は、会館前西側に造り草花を植え婦人の手入れがなされ、 部落民の目を楽しませている。 一、文庫の設置 会館内に鉄製本棚を購入設置し、毎年2万5千円の予算で、高齢 者向の本や話題の本と購入し、既に百冊以上の本が保管され 会員に貸出されている。 一、例会と研修 毎月十七日を定例として、保健婦の血圧測定や保健衛生の話を 聞き、年に三回四回は学校長、町幹部又は学識経験者の講話を聞 きレクレーションを楽しんでいる。 一、研修視察の実施 毎年初秋二回管内や管外に、町有マイクロバスなどを借用して 研修視察旅行を行う。 四十七年 滝ノ上公園 四十八年 北見市大西牡丹園外 四十九年 網走国定公園めぐり 五十年 北見市公園めぐり・フラワーパラダイス外 五十一年 網走原生花園・知床公園・藻琴山日帰 五十二年 当麻鍾乳洞・旭川動物園・・芦別レジャーランド一泊 五十三年 根室市・ソサップ灯台・厚岸・釧路一泊旅行 五十四年 鴻之舞不動健康センター二拍旅行 一、物故会員の慰霊法要 五十二年十月 初めて会館にて、物故会員七名の慰霊法要を、 明光寺住職を招き取り行った。 以後毎年行う。 四十七年町の老人クラブ連合会が結成され初代の連合会長に遠藤 清治が選任され、翌年には花一杯運動を推進し、老人が出役して花 苗を育成し (寒地園芸センター) フラワーボックスに植えて街に飾り 、 学校、 駅、 其の他公共施設に花苗を配布し、 各老人クラブは 会場等に花壇を設けて、 町内の美化運動に大きな砕石を上げ、 毎年 続けられている。 遠藤老連合会長の主唱で、四十八年五月から教育委員会主催の、寿 学級が開講となり、 運営委員長となった遠藤清治は、 老人クラブ員 の参加を勧奨し、 学級が道内でも珍しい、 希望者全員受講卒業な し自主的運営の上上湧別方式を造り上げた。 共進福寿クラブの事業の一つに、 以上の花一杯運動の出役参加と 寿学級参加は大きな事業となっている。 歴代役員 年代 会 長 副会長 同神社担当 四六年 遠藤清治 岡村 進 吉村 薫 五一年 遠藤清治 小島鈴松 吉村 薫 五二年 小島鈴松 穴田俊一 吉村 薫 会計 秦野 馨 神社会計 穴田俊一 監事 遠藤正雄 牧野光一 樋口雄幸 五四年 全役員留任 |
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兵 事 | 軍事概況 | 兵 村 我が部落は明治三十年、 三十一年の両年に亘り、 六十九戸の屯田兵が、北辺警護と開拓の大使命を持って入植、 それによって拓かれた兵村部落である。 それだけに現役六ヶ年は、 屯田兵は勿論、 子どもから年寄りまで、 すべての生活が軍隊の規制を受け、 部落の形成が行われた。 明治三十六年三月三十一日、 屯田兵が現役満期解隊し、 後備役に編入後も、 軍事に関しては、 特に深い誇りと関心を持ち続けて来ている部落である。 日露戦争 明治三十七年八月、 日露戦争の充員召集令が、 後備役の屯田兵戸主全員に下命された。 戸主等は揃って旭川に応召、 勇躍征露の途に着いた。 一部は北韓軍に編入されたが、 殆どは満州第三軍の乃木将軍指揮下に編入、 旅順二○三高地、 奉天の大会戦に従軍、 赫々たる武勲をたてて凱旋した。 然しこの戦争に於いて、 部落出身の、 阿部忠蔵・井上亀蔵・中村俊潁・谷口栄吉・石田周一・井上繁治・加茂千治等の戦死、 小田井孫蔵戦病死、 以上八名は尊き殉国の英霊となって、 無言の凱旋をした。 尚戸主以外に家族では、 遠藤幸右ヱ門・上家武二郎が応召出征している。 兵 役 屯田兵の現役時代は、 その家族子弟の徴兵が、 免除されていた。 屯田兵現役満期解隊後は、 子弟の徴兵が復活して、 現役入営が行われた。 入隊者は屯田兵の名誉のためにも、 それぞれ努力をして、 立派な成績を上げて除隊帰郷している。 昭和七年満州事変勃発以来、軍人への志望がたかまり、部落の二・三男が特に海軍兵を志願、 横須賀海兵団に入団するようになった。 現役入営並入団者
第七師団秋季機動演習 大正十年十月八日より、 同月十四日まで七日間、 中湧別を中心に、 遠軽・紋別間に於て、 第七師団の秋季機動演習が行われた。 参加部隊は第十四旅団(歩兵第二十七・二十八連隊)を主隊とした騎兵、 野砲兵・工兵・輜重兵各隊の連合部隊であった。 演習に先だって、 村役場を通じて、 部落に左記納入物品の調達指命が来ている。 軍隊納入物品の記 一、10月10日までに燕麦稈1,800貫匁金6銭の割 一、10月11日午后4時迄に、元開盛橋附近草原の中に兵員に知られざるように、馬車10台を整え置くこと。 部落ではこの物品調達に左のように協力をしている。 燕麦稈供出者 東海林作太郎30個・遠藤清五郎40個・吉村友弥30個・秦野兼松10個・工藤留三65個・渡辺善三郎5個 計180個 馬車供出者 秦野栄九郎・平手宮次郎・市村喜次郎・東海林作太郎・服部安次郎・吉村秀太郎・長倉鶴次郎・ 遠藤清五郎・山本三之助・稲垣音松・以上10名 演習開始前に工兵隊による、湧別川に鉄舟架橋作業が行われた。 場所は現在の開盛橋の地点であった。 初めて見る珍しい兵隊の架橋作業に、小学校生徒は先生の引率で、亦部落民も大勢見学に行ったものである。 部落では此の架橋作業に従事した工兵隊員に、巻煙草を贈って、労をねぎらっている。 軍隊の歓迎に当たっては、村役場より歓迎に対する歓待事項や、注意事項が、部落区長を通じ、部落民に周知せしめられている。 屯田兵であった戸主は、現役当時に各地の軍隊の歓迎を体験しているだけに、この歓迎にあたっては、真剣に協力を惜しまず、在郷軍人を中心に、青年会、消防組と共に、部落を挙げて歓迎に当たった。 本門前の元諸岡商店跡を歓迎接待の本部として、連日交替で通過部隊に湯茶の接待を行い、演習に疲れた兵隊の労をねぎらった。 特に11日予定されていた、第27連隊連合部隊(赤軍)の、当部落24号線附近の露営が、演習状況から、第28連隊連合部隊(白軍)の露営地に変更されて、一部宿営となった。 このため部落の各家庭では、受入接待に多忙を極めた。 秦野商店に白軍の本部が置かれた、歩兵部隊は23号線西側の吉村友弥所有地に、騎兵、野砲部隊は、22号線北方の穴田助太郎所有地に、それぞれ野営をした。 各戸の宿営の兵隊は勿論、野営部隊にも。部落こぞって歓待にあたった。 上湧別村宿営部隊人員表
秦野 馨談 あの演習の当時私は、まだ小学校4年生であったが、店をしていた私の家が白軍の本部となって、第28連隊長有岡大佐が泊まられた。 床の間に第28連隊旗(軍旗)が覆布をかけたまま奉安されていた。 縁側の外には着剣した護衛兵が立ち、一晩中軍旗の前で一睡もしなかった。有岡連隊長の立派な八字髭が思い出される。 翌朝出発に当たって、連隊長より覆布を除いた連隊旗が旗手に渡された。それは日露戦役に出征し弾雨の中を経て、赫々たる武勲を揚げた、旭光の布地の部分が大きく破れ、垂れ下がっていたのが、印象深く記憶に残っている。 亦連隊旗の宿舎になった名誉は、今でも誇りに思っている。 その第28連隊旗は、太平洋戦争で一木支隊(一木清直大佐)が奉持して、ソロモン群島、ガダルカナル島に転進、昭和17年8月21日の米軍飛行場奪取の戦闘に、一木支隊は殆ど全滅となり、一木支隊長は残存部隊と共に敵陣に突入、壮烈な戦死を遂げられた。その突入の直前連隊旗を奉消されたと聞く。 今かって演習の折り、私の家の床の間に奉安されていた連隊旗。 翌朝出発の折、旭に輝いていた護衛兵の着剣と、旗手に奉持されていた威風颯爽たる連隊旗、その竿頭に輝いていた菊の御紋章が、想い出されて、無縁でなかった歩兵第28連隊軍旗に、感慨無量なものがあります。 (以上) スキー部隊の通過 大正15年2月19日、第7師団歩兵スキー部隊が、当地方を演習のため通過した。 部落ではこの歓迎のため、酒粕の甘酒を沸し、稲黍の大福餅をつくり、部隊の兵全員に贈り接待をなす。 同部隊は北湧校15号線附近に於いて、雪上演習を実施す、この演習には在郷軍人、北湧校高等科の生徒も仮説敵となり参加した。 騎兵隊の通過 大正15年9月10日、旭川騎兵第7連隊(連隊長以下176騎)は北見方面の騎馬行軍演習を10日間の予定を以て実施中、中湧別を通過紋別に向かう。 この騎兵隊の一部が当部落を通過したので、この歓迎の接待を行う。 日支事変と大東亜戦争 昭和12年7月、北支盧溝橋に端を発した日支事変は、静かな平和郷の部落にも、大きな波紋を投げかけて来た。 後備兵役にあった岡村進・加瀬良吉・遠藤正雄の3名に、充員召集が下令され、8月2日勇躍征途に着いた。 ついで8月29日、佐藤寿喜が出征し、それ以後続々と数多くの予・後備役を初め、補充兵役の者までが戦線に召されて行った。 部落では、次々に召集される出征兵の歓送に、並に出征兵留守宅の援護、労力奉仕等に全部落民を挙げて協力した。 昭和16年12月8日、太平洋戦争の開戦とともに、出征兵の数も多数に上り、国民兵役までが教育のため召集を受け、徴兵検査前の若者達も、志願で戦線に参加していた。 応召出征で一番印象に深いのは、小関文司が、国旗に書いた猛虎の絵である。 千里の路を行き、尚馳せ戻ると言う願いをこめて書いたもので、見事な絵であった。 母や姉妹が心をこめて作った千人針の胴巻きを締め、この祝出征の虎の絵の旗を持って、勇躍出征する兵士の士気を、どれだけ奮い立たせた事か、然し今は、この虎の絵の旗を一枚も見つけることが出来ない。 昭和20年8月15日、終戦を迎えた時は、現役応召含めて、出征兵の数は80余名に達していた。 終戦後出征兵は続々と復員帰郷して来たが、中には2・3年も拘留生活を送って復員した人もいる。 此の出征兵の中で、10数名が護国の英霊となって、無言の帰郷をしたことは、痛恨の限りである。 このようなことは、日露戦争の戸主全員の出征に次ぐ、部落の大きな事柄であるだけに、後日のため、出征兵や、その留守家族、その援護に協力した部落の人々の、追憶の資となればと思い、戦没者出征兵の兵籍を別項に収録した。 在郷軍人分会 日露戦争凱旋後の明治41年11月3日、湧別村在郷軍人団が結成された。 団長は歩兵少尉永山千嘉治で、幹事2名は藤倉倉蔵、樋口幸吉であった。 42年射撃会をつくり、陸軍大臣に旧式村田連発銃と実包の払下願いを出し、10月に許可になった。 一、銃(村田銃) 1挺 代金2円70銭也 一、実包(実弾) 50発 1円也 一、右送料 1円也(約) 計 4円70銭也 こうして年2・3回の射撃会を開き、軍人精神と技術の高揚を計った。 明治43年11月3日、帝国在郷軍人会本部が東京で発会式を挙げ、これに日を会わせて、上湧別村分会の創立総会が、北湧校で開かれた。 分会長は兼重浦次郎であった。 その後分会長には、大正3年永山千嘉治、大正8年城岡作之助、城岡転出の後、大正10年樋口幸吉・鈴木峯治・小野茂人・熊沢秀円・石田友一が就任している。 上湧別村分会設立当時の4の1部落の評議員は、43年水野安太郎・穴田助太郎・44年 穴田助太郎・福田仙次郎が選任されている。 その後各部落班長組織となり、4の1班長は山崎佐市郎・岡村進・穴田俊一・秦野美徳・山崎正康が就任している。 事業としては、簡閲点呼の協力、入営除隊者の送迎、旭川師団部隊の演習通過の歓迎接待、亦祭典行事の剣道、銃剣術等競技会の協力、支那事変以降は、出征兵の送迎、戦没者の遺骨出迎、村葬参列、出征兵留守宅の援護、郷土防衛等に。積極的に協力参加して来たが、終戦と同時に自然解体された。 遺族会 太平洋戦争は多くの戦没者を出したので、本町においても当然遺族の増加をみた。 昭和21年7月、北海道遺族会の結成がなされた。 これに呼応して、遺族有志によって、上湧別村遺族会が結成され、初代会長に石本勝恵(中湧別)が就任、部落の世話人として、穴田助太郎が選任された。 昭和25年、竹内連勝(町幹事)秦野馨(評議員)選任、昭和27年、竹内連勝町の副会長就任、昭和40年竹内連勝副会長辞任、替って秦野馨副会長就任、昭和44年8月、会長伊尾定勝辞任の後任として、5代目会長に、秦野馨就任(部落選出理事兼任)現在に至っている。 遺族会は戦没者慰霊の顕彰、遺族の援護、遺族の処遇改善、生活安定の推進等、積極的な活動を続けている。 部落内遺族会員(昭和54年現在) 石田百代・松野末松・佐藤松幸・穴田俊一・上楽源次郎・細川ミヨ・牧野光一・秦野馨・武山トミオ・竹内須美・稲垣正美・酒井清・菊地滝之助 戦没者兵歴 日露戦争関係 (50音順) 故後備歩兵上等兵 勲8等・功7級 阿部忠蔵 明治12年1月18日生、明治31年9月14日南兵村第一区に屯田兵として移住。 同36年3月現役満了、4月後備役編入、明治37年8月、日露戦役に充員応召、歩兵第25連隊補充大隊に編成、野戦補充として外征す。 同年11月本体に合し、旅順背面攻撃に参与を初め、203高地に大奮戦。 11月30日赤坂山強襲に於て、雨飛せる敵弾を冒して勇躍激闘中、敵弾命中果敢の戦死を遂ぐ。 功により勲8等白色桐葉章、並に功7級金鵄勲章を賜う。 故後備歩兵上等兵 勲8等・功7級 井上亀蔵 明治12年12月21日生、明治31年9月1日南兵村第一区に、屯田兵として移住す。 36年3月現役満了、4月後備役編入、明治37年8月、日露戦役に充員応召、野戦補充隊として外征す。 38年1月4日青泥窪に上陸、直ちに本体に合し、奉天会戦に参加次で阿可牛に勇戦し、3月2日達子塁の戦闘に於いて、硝煙弾雨を冒して挺身勇戦中、敵弾命中名誉の戦死を遂ぐ。 功に依り勲8頭白色桐葉章、並に功7級金鵄勲章を賜る。 故後備歩兵上等兵 勲8等・功7級 石田周一 明治9年9月5日生、明治30年5月29日屯田兵として、南平村第一区に移住す。 36年3月現役満了、4月後備役編入。 明治37年8月、日露戦役に充員応召。 翌年1月外征の途に着き、第3軍に属して北進し、阿可牛、徳勝営子の敵塁を粉砕し、3月6日劉家棚の攻撃に於て羽下させる敵弾を冒して突進激闘中、遂に勇敢壮烈の戦死を遂ぐ。 功により勲8等白色桐葉章、並に勲7級金鵄勲章を賜う。 故後備歩兵一等卒 勲8等 小井田孫蔵 明治15年7月1日生、兄鶴治明治30年5月29日 屯田兵として南兵村第一区に移住、兵村現役中不幸病に羅り、31年10月7日逝去の為、兵籍を相続し屯田兵となる。 36年3月現役満了、4月後備役編入。 明治37年8月日露戦役に応召、野戦補充隊として征途に着く、38年1月本体に合し、奉天会戦に参加阿可牛、達子堡、転湾橋。 北陵、遼陽等各地に転戦勇戦奮闘。 遇々遼陽に於て病に罹り後送旭川予備病院に於て、療養中38年12月1日、図らずも不帰の客となる。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故後備歩兵上等兵 勲8等・功7級 加茂千治 明治9年4月2日生、明治30年5月29日、南兵村第一区に屯田兵として移住。 36年3月現役満了、4月後備役編入。 明治37年8月13日日露戦役に充員応召。 38年1月第3軍に属して奉天会戦に参加、部隊の策動に随い北進し、阿可牛、達子堡、転湾橋、北陵等の敵塁を粉砕し以て、7月1日獅子峡攻撃に於て、奮進勇闘中敵弾命中して壮烈なる戦死を遂ぐ。 功に依り勲8等白色桐葉章、並に功7級金鵄勲章を賜う。 故後備歩兵上等兵 勲8等・功7級 谷口栄吉 明治12年2月7日生、明治31年9月14日、南兵村第一区に屯田兵として移住。 36年3月現役満了、4月後備役編入。 明治37年8月日露戦役に充員応召、歩兵第25連隊補充大隊に編成出征す。 38年1月4日清国青泥窪に上陸、直ちに本体に合し奉天会戦に参与。 阿可牛に勇戦、3月2日達子堡攻撃に際し、砲弾弾雨を冒して挺身勇戦中、敵弾頭部を貫通し遂に、勇敢壮烈の戦死を遂ぐ。 功に依り勲8等白色桐葉章並に功7級金鵄勲章を賜う。 故後備歩兵伍長 勲7等・功7級 中村俊頴 明治11年1月15日生、明治31年9月南兵村第一区に、屯田兵として移住。 36年3月現役満了、4月後備役編入。 明治37年8月、日露戦役に充員応召、歩兵第25連隊補充大隊に編成外征の途に就く。 第3軍乃木軍に属して、奉天会戦に参与、各地に転戦戦功あり。 38年3月3日伍長に昇進、抑4日桃家屯攻撃に於て、砲弾弾雨を冒し挺身奮闘中、隅々敵弾命中遂に名誉の戦死を遂ぐ。 功に依り勲7等青色桐葉章、並に勲7級金鵄勲章を賜る賜う。 大東亜戦争関係 (50音順) 故陸軍兵長 勲8等・功7級 穴田多喜四 大正9年1月17日生、世帯主助太郎4男 昭和16年3月1日、陸軍志願兵として、旭川北部第4部隊に入営。 昭和17年5月、一木支隊(歩兵第28連隊)に編成。 ミッドウェー島攻略作戦上陸部隊として宇品港を出港征途に就くも、同作戦は海軍機動艦隊の惨敗に終わり、反転してグアム島に寄港滞在す。 同年8月初旬部隊は内地帰還の命を受け帰途の途中、ソロモン群島、ガダルカナル島攻略の命を受け、反転しグアム島より駆逐艦に移乗、第一悌団としてガダルカナル島に急行す。 8月1日ガダルカナル島タイポ岬に無血上陸に成功、海岸沿にルンガ飛行場に進撃、8月21日一木支隊は飛行場奪取を計り、一斉攻撃を敢行す。 君の所属する大隊砲小隊は、イル川(中川)の岸近くまで進出、陣地を設け歩兵部隊の援護射撃に当たるも、敵の重火器の集中攻撃を受け、小隊は全滅す。 君も郵船奮闘壮烈なる戦死を遂ぐ。 功に依り勲8等白色桐葉章、並に功7級金鵄勲章を賜う。 故陸軍伍長 勲7等・功7級 稲垣松雄 大正7年12月2日生、 世帯主 音松長男 昭和13年12月10日、現役兵として、北部第3部隊に入営、満州派遣歩兵第27連隊(宮沢部隊)要員として、満州のん口に派遣、ソ連国境警備に服す。 昭和14年8月、ノモンハン事変の戦闘に参加す。 昭和16年3月13日現役除隊。 昭和17年5月8日、臨時応召により、旭川北部第4部隊に応召歩兵第28連隊(一木支隊)に編成壮途に着く。 昭和17年8月中旬、一木支隊は本国帰還の途中、ガダルカナル島攻略の命を受け部隊長以下第一悌団として駆逐艦にて任地に急行す。 君の所属する連隊砲中隊は、第二悌団に編入(熊大隊と改編川口支隊編入)、輸送船ぽすとん丸にてトラック出港、8月29日ガダルカナル島タイポ岬附近に上陸す。 この時既に一木部隊長以下全滅の後であった部隊は米軍飛行場背後に迂回、数次に亘る奇襲、総攻撃を敢行したが、敵の堅固な防備と強力な近代兵器と、物量による猛反撃を受け致命的損傷を受け西海岸に転進、セギロー附近に於て守備に任ず。 其の後の敵の艦砲、空爆等著しく、食料弾薬の補給つかず、戦況全く我に利あらず、同島撤収の止むなきに至り、撤収作戦従事中、昭和18年2月5日、壮烈なる戦死を遂ぐ。 功に依り勲7等青色桐葉章、並に功7級金鵄勲章を賜う。 故陸軍一等兵 勲8等 遠藤恵一郎 大正4年7月5日生 世帯主 本人 昭和13年9月20日、臨時応召により、旭川北部第3部隊に応召。 北支派遣松野尾部隊に編成外征、北支各地に転戦を続けたるも、陣中にて発病入院、各地病院を経て、旭川陸軍病院に還送、同病院にて療養を続け、昭和14年10月1日、兵役免除となり帰郷す。 その後久留米療養所に入所、一意療養に専念するも、昭和15年5月14日、同所にて無念戦病死す。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍兵長 勲8等 菊地竹次郎 大正5年10月2日生 世帯主 本人 昭和19年3月30日、臨時応召により、旭川第七師団通信隊に応召、満州牡丹江大795部隊に転属、同年7月5日第24師団通信隊(山3482部隊)保科隊に編成、同年8月15日、沖縄本島に転進、本土防衛の陣地構築並に守備に精励す。 昭和20年4月、敵米軍の上陸依頼、各地に激戦死闘相次ぎ、同島守備隊は全員玉砕に直面す。 昭和20年6月21日、真栄平に於て残存兵力と、学徒隊による、最後の総攻撃に参加、敵陣深く突入壮絶なる戦死を遂ぐ。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故海軍一等兵曹 勲7等 工藤政義 大正10年5月19日生 世帯主 正雄弟 昭和13年6月1日、海軍志願兵として、横須賀海兵団入団、海軍砲術学校入学、卒業後航空母艦「赤城」乗組、太平洋戦争改選のハワイ攻略を初め、格差苦戦に輝かしい武勲を治め、呉海軍潜水学校に入校。 同校卒業後は、潜水艦い17号配属、各地に転戦、昭和18年10月24日、南太平洋方面の作戦に従事中、名誉の戦死を遂ぐ。 功に依り勲7等青色桐葉章を賜う。 故陸軍上等兵 勲8等 佐藤松次郎 大正4年12月20日生 世帯主 正左衛門次男、昭和14年8月、臨時応召により、旭川北部第3部隊に応召。 満州独立守備隊派遣、国境警備に当たり、昭和15年8月応召解除となる。 昭和17年8月、再度の臨時応召にて旭川北部第3部隊に応召、同年12月満州派遣となり、国境警備に勤務。 過々病を得て、同地陸軍病院に入院、其の後内地還送、旭川陸軍病院に於て療養に努め、昭和19年1月11日、同病院にて応召解除となり帰郷するも、病症思わしくなく、上湧別久美愛病院に入院。 専ら療養に尽くせるも、昭和19年6月26日、遂に戦病死す。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍上等兵 勲8等 笹島市三郎 大正4年1月2日生 世帯主 本人 昭和13年12月、臨時応召により、旭川北部第7部隊に応召、14年4月応召解除、昭和16年7月、旭川北部第7部隊に臨時応召による再度の応召、満州東安省東安満州独立守備隊転属、国境警備に含む過激なる勤務に発病す、東安陸軍病院に入院、奉天陸軍病院を経て、大阪陸軍病院に送還、同病院に於て療養に専念するも、昭和17年6月1日、無念にも同病院にて戦病死す。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故海軍軍属 勲8等 藤原政光 大正5年4月8日生 世帯主 政蔵長男 昭和17年4月、海軍軍属として、横須賀海軍工廠に徴用。 小笠原群島父島造船所に派遣、同所に於て業務に精励しありたるも、昭和20年5月6日、本土帰還の輸送船上にて、敵機の襲撃を受け、機銃掃射の弾丸命中、名誉の戦死を遂げたり。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍上等兵 勲8等 上楽 保 大正11年2月14日生 世帯主 源次郎長男 昭和18年1月10日、現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊。 満州東安省独立守備隊に転属、同年3月、濠北派遣勢第5066部隊津田隊に編成、ニューギニア島に転戦す。 同島に於て戦務に精励、昭和19年2月2日、戦没す。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍兵長 勲8等 竹内信行 大正6年3月10日生 世帯主 連勝長男 昭和13年3月1日、現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊、満州国牡丹江省独立守備隊転属、同年3月、濠北派遣勢第5066部隊津田隊に編成、ニューギニア島に転進す。 同島に於て戦務に精励、昭和19年2月2日、戦没す。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故海軍衛生兵曹長 勲7等 秦野 保春 大正9年5月14日生 世帯主 馨弟 昭和13年6月1日 海軍志願衛生兵として、横須賀海兵団入団。 新兵所定の教育を終了、潜水母艦剣崎乗組、昭和15年5月13日、普通科練習生教育課程を修了、戦艦比叡乗組となる。 昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦のハワイ海戦、印度洋、ビスマルク沖海戦、ソロモン第1次、第2次海戦に参加、昭和17年9月25日、第8艦隊司令部(ラバール)は遺族、18年10月10日、第46期高等練習生教育のため、横須賀海軍病院に帰還、19年3月15日、同教育を終了、北浦航空隊付として配属、同年8月15日、308設営隊附配属、呉に於て部隊編成を完了、9月15日呉港出港、10月12月比島マニラ湾上陸、クラーク航空基地マバラッカットへ進出、部隊は陣地構築、飛行場整備作業に従事す。 昭和20年1月、リンガエン湾より上陸せる敵の大部隊は、潮の如く我が陣地に殺到、3月初旬には最後の、防衛復廊陣地を突破されるに至る。 其の後も敵との激戦死闘を続けたるも、彼我の戦力の差大にして、遂にピナッポ山附近に於て敵の大包囲攻撃により、織滅敵打撃を受ける。此の戦闘に於て昭和20年4月24日、壮烈なる戦死を遂ぐ。 功に依り勲7等青色桐葉章を賜う。 故陸軍一等兵 勲8等 平間 勇 大正3年11月15日生 世帯主 サツ長男 昭和13年9月20日、旭川北部第3部隊に臨時応召により応召、ホック?派遣松野尾部隊能戸隊に編成外征す。 北支各地の作戦に参加、激しい戦務に従事中、隅々発病野戦病院に入院す。 其の後各地病院を経て旭川陸軍病院に送還、七飯療養所を経て15年兵役免除となり帰郷す。 帰郷後も尚療養を要し、上湧別久美愛病院入院、18年には札幌簾舞療養所に入所、療養に専念するも、薬石効なく遂に、昭和21年9月1日戦病死す。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍上等兵 勲8等 樋口国男 大正2年1月7日生 世帯主 本人 昭和13年7月10日、臨時応召により、旭川歩兵第27連隊に応召、同日第七師団第7輸送隊編入、7月16日旭川出発征途に着く。 同月27日上海上陸、8月25日九江上陸、九江黄海攻略作戦、斉揚昌、馬廻嶺、西狐嶺攻略作戦に参加す。 其の後も武漢、南昌、襄東の各攻略作戦に参加、昭和14年10月内地帰還の命あり、九江出発旭川に帰還、同月18日召集解除となる。 昭和19年5月15日、臨時応召により旭川第7部隊に応召、同日北方派遣陸上輸送隊木村隊に編成、7月5日小樽港出港、北千島占守島に転進輸送の途中、北千島阿瀬渡島附近に於て、敵米潜水艦の攻撃を受け、魚雷命中輸送船は轟沈、任地上陸を目前にしながら悲壮なる戦死を遂げる。 昭和19年7月9日なり。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍兵長 勲8等 樋口吉良 大正12年4月22日生 世帯主 耕平3男、昭和19年1月10日、現役兵として、旭川北部第9部隊に入隊。 満州東安省牡丹江独立守備隊転属、同年7月5日、山第3483部隊に編成、同年8月沖縄本島に転進、本土防衛の戦務に従事す。 昭和20年4月米軍上陸後は、激しい敵の艦砲、空爆等、物量に物を言わせた猛攻撃を受け、激戦死闘相次ぐ。 昭和20年5月4日、山部隊を主軸とせる全軍の総攻撃に参加。 勇戦奮闘遂に前田に於て、名誉の戦死を遂げたり。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍兵長 勲8等 細川嘉明 大正13年2月5日生 世帯主 斉治郎4男、昭和19年1月10日、現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊す。 満州東安省牡丹江独立守備隊に配属、同年7月5日、山第3476部隊に編成、同年8月沖縄本島に転進、嘉手納港上陸、連勝半島具志川村附近に於て、陣地構築作業、10月10日の敵米軍の大空襲後は島南に転じ陣地構築に従事す。 昭和20年4月1日、米軍の上陸作戦後は敵の艦砲射撃、空爆等激烈を極め、全島を変貌せしめる物凄さで、精鋭なる我が軍も次第に陣地を転じ、各地に激戦相次ぐ。 昭和20年5月4日、山部隊を中軸として全軍挙げての総攻撃を敢行す。 君はこの総攻撃に参加奮戦、小波津に於て壮烈なる戦死を遂げたり。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍兵長 勲8等 松野正喜 大正元年10月 日生 世帯主 本人 昭和18年10月1日、旭川北部第5部隊に臨時応召により応召。 満州密山県独立守備隊に派遣、更に中部太平洋メレヨン島に転進、同島守備の戦務に精励す。 その頃より中部太平洋方面の戦況逼迫し、同方面諸島の食糧、物資の補給困難を極む。 同島守備隊も食糧補充全く杜絶し、草木皮葉を摂り、小動物、魚貝を捕り、かろうじて飢えを凌ぐ有様で、流石の戦いには鬼ももひしぐ将兵も、次第に栄養失調患者増加するに至る。 君も亦健康衰え発病し、昭和20年1月2日、悲壮なる戦病死を遂ぐる。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 故海軍航空整備兵曹長 勲7等・功7級 牧野甚一 大正4年2月7日生 世帯主 本人 昭和8年5月1日、海軍志願兵として、横須賀海兵団に入団す。 新兵教育を終了、戦艦高雄配備、昭和9年11月普通科練習生となる。 修了後戦艦金剛配属となる。 昭和13年高等練習生教育、大湊航空隊、霞ヶ浦航空隊配属を経て、佐世保飛行艇搭乗整備員として、近海の哨戒任務に活躍す。 昭和16年12月8日太平洋戦争開戦となるや、更にその任務重大となり、戦闘部隊の華やかに比し、地味な苦難の任務の遂行に、邁進し在りしが、昭和16年12月13日、比島北西部レガスピーに於て、壮烈なる戦死を遂げたり。 功に依り勲8等白色桐葉章、並みに功7級金鵄勲章を賜う。 故陸軍上等兵 勲8等 鳥井 茂 明治40年6月21日生 昭和19年4月第二次北海道実験開拓団に応募、満州国北安省海倫県福海村葉家堡に渡満、開拓事業に精励中、昭和20年7月24日、現地応召に依りハルピンの部隊(部隊名不明)に応召す。 8月15日終戦を迎えたが、ソ連の参戦により、ソ連に抑留生活を送るに至る。 昭和20年11月15日、ソ連イスペスト、テルマ収容所に於て戦病死す。 功に依り勲8等白色桐葉章を賜う。 昭和28年、部落会長吉村薫は、戦病死された英霊を称え 顕彰するための、日露役並に満州事変以後の英霊の遺影を、川上神社拝殿に掲額された。
現役、応召者の兵籍 部落出身者の兵籍 (50音順) 陸軍兵長 阿部 太 大正8年11月12日生 世帯主 他人田長男 昭和15年2月21日 満州国関東省延吉、関東軍独立守備隊歩兵第21大隊第3中隊に、現役兵として入隊、駐屯地付近の警備、昭和16年4月10日以降、吉林間島、通化各省の討伐作戦参加、昭和18年3月20日、現役満期現地除隊帰郷す。 昭和19年2月22日、北部第3部対補充兵に臨時応召、昭和20年2月6日、稔部隊根本隊に編成、同年5月鹿児島県串木野市に転進、本土防衛戦務に就く。 同県姶良郡溝辺村にて終戦を迎え、姶同年10月10日復員す。 陸軍伍長 阿部 清 大正10年11月30日生 世帯主 他人田次男 現役兵として、昭和17年1月10日、満州国安東満州独立守備隊第3大隊第4中隊に入隊。 同年7月以降北支熱河省、遵河県、北京島の討伐作戦参加、昭和18年11月満州出発南洋群島ポナペ島に転進、同島守備の戦務に当たる。 同島に於て終戦を迎え、昭和20年12月27日復員す。 陸軍軍曹 穴田 俊一 明治37年1月15日生 世帯主 本人 大正13年12月10日 旭川歩兵第27連隊第1中隊に、現役兵として入営す。 下士志願をなし、昭和3年12月1日、満期除隊帰郷す。 南湧青年訓練所指導員、上湧別村在郷軍人分会4の1班長を勤む。 故陸軍主計少佐 勲6等 穴田 俊重 明治47年7月30日生 世帯主 本人 昭和3年1月10日現役兵として、旭川第七師団軸重兵第7大隊に入隊。 昭和6年12月1日現役除隊、昭和8年1月10日再入隊、第七師団司令部に勤務す。 昭和16年満州国関東軍に派遣、陸軍主計少尉として編入される。 終戦後はソ連モリンヤンスク高級将校収容所に、抑留生活を送り、昭和22年12月帰国復員す。 海軍航空整備兵曹長 穴田喜代治 大正6年5月14日生 世帯主 本人 昭和9年6月1日 海軍志願兵として、横須賀海兵団入団、同年11月大湊海軍航空隊配属。 昭和12年8月、第23海軍航空隊(特設航空母艦香久丸)配属、支那事変の為南支那上海に派遣、昭和14年1月航空母艦赤城配属、昭和15年11月美幌海軍航空隊は遺族、同部隊は同年12月、鹿児島県雁屋飛行場に移駐、更に16年3月南支那上海、漢口飛行場に移駐、更に館山海軍飛行場に移駐す。 昭和16年9月東京海軍航空隊(羽田)に転属、終戦に至るまで同部隊に於て戦務、20年5月大和特攻隊編成要員、同地で終戦を迎え、昭和20年8月24日復員す。 故陸軍上等兵 阿部利五郎 明治33年1月4日生 世帯主 本人 大正9年12月1日、仙台第二師団工兵第2大隊へ、現役兵として入営、大正11年11月現役満期除隊す、大正14年予備役、昭和3年後備役とそれぞれ、旭川第七師団工兵第2大隊に応召を受く。 故陸軍二等兵 市村 一恵 大正3年6月18日生 世帯主 本人 昭和14年8月10日 臨時応召に依り、旭川北部第3部隊に応召、同年11月10日応召解除となり帰郷す。 陸軍伍長 稲垣 正美 大正10年3月1日生 世帯主 音松次男 昭和18年1月10日、旭川北部第4部隊に現役兵として入隊、同年3月10日満州東安省 独立守備隊歩兵第785部隊に派遣、同地方の守備に当る。 昭和20年3月北支河南作戦参加、大洞、長河江列車警備、雲石作戦参加、上海警備、南京に於て終戦、天津にて抑留生活を送り、昭和21年3月27日復員す。 陸軍二等兵 石田 誠 明治12年5月20日生 世帯主 本人 昭和19年6月25日、旭川北部第7部隊(工兵隊)に、臨時応召に依り応召、同年9月25日、応召解除帰郷す。 陸軍軍曹 遠藤 正雄 明治40年12月1日生 世帯主 本人 昭和3年1月10日、旭川歩兵第27連隊第2中隊入隊、昭和4年7月10日帰休除隊す。 昭和12年7月27日、支那事変による動員下令、8月3日応召、旭川第七師団、後備歩兵第3大隊(広辻部隊)古畑隊編成、8月15日北支派遣のため旭川出発、9月15日北支那郎坊飛行場着同飛行場警備、同年12月より徳県、済南、大?口、帰徳及徐州の各飛行場警備、14年1月21日、塩山、慶雲附近討伐戦参加、同年2月11日、独立歩兵第28大隊附転属、津甫線附近警備討伐戦参加、同年3月6日東光県李会庄附近戦闘に於て、左大腿部省銃弾貫通を受け、同日滄県野戦病院収容。 3月21日治癒退院原隊復帰、同年6月1日より、津甫線の装甲列車搭乗警備、及第2次討伐戦参加、同年10月1日より、津甫線第3次討伐戦参加、12月15日、小馬荘附近の戦闘に於て、左大腿部迫撃砲弾破片貫通創を受け、第27師団第2野戦病院入院、天津陸病を経て、15年3月14日広島陸病に送還、同日旭川歩兵第27連隊転属、3月27日旭川赤十字病院を経て、旭川陸病に転送。 5月26日同病院を治癒退院(傷痍軍人恩給四目症)原隊復帰、5月31日応召解除帰郷す。 戦功に依り勲7等青色桐葉章を賜う。 海軍一等兵曹 遠藤 盛幸 大正10年6月25日生 世帯主 清治弟 昭和17年9月6日海軍志願兵として、横須賀海兵団に入団す。 昭和18年1月29日、マーシャル群島、ウオッチェ島派遣、海軍第64警備隊、赤城機銃隊配属、同島守備の戦務に従事。 同島に於て終戦を迎え、昭和20年11月25日、横須賀港帰還、12月1日復員す。 陸軍憲兵上等兵 遠藤 清喜 大正14年9月23日生 世帯主 清治長男 昭和19年12月26日、現役兵として旭川北部第9部隊に入隊。 昭和20年2月1日、熊第9232部隊に転属、同年6月1日、札幌陸軍憲兵兵学校入学、同年8月5日、根室憲兵隊に配属、同地に於て終戦、同年9月28日復員す。 陸軍一等兵 遠藤 庄一 大正13年10月9日生 世帯主 本人 昭和19年9月28日 現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊。 昭和20年4月、護北第201部隊に編成、千葉県茂原に転進駐留、本土防衛の戦務に従う。 同地に於て終戦を迎え、部隊は旭川に帰還応召解除となり、20年10月25日復員す。 故陸軍衛生伍長 勲7等 岡村 進 明治36年1月20日生 世帯主 本人 大正12年12月10日、旭川疲弊第27連隊に現役兵として入隊、大正14年6月6日、帰休除隊す。 昭和12年8月3日、日支事変第一次充員召集を受け、旭川歩兵第27連隊に応召、同日北支派遣山口部隊前川隊(陸上輸送隊)附として編成完了。 同年8月12日征途につき、宇品、釜山、平壌山海関を経て天津着。津甫線、馬厩、克州、漢口、南京等各地作戦に参加す。 昭和14年3月、要員交替と也旭川に帰還、同年3月10日応召解除となり帰郷す。 昭和20年4月、熊第2285部隊要員として応召、湧別浜警備に服す。 同年8月15日終戦により応召解除となる。 支那事変の功に依り勲7等青色桐葉章を賜う。 海軍飛行一等兵 岡村 正雄 昭和3年1月9日生 世帯主 進長男 海軍志願兵として、昭和20年6月9日出発、和歌山県高野山、三重海軍航空隊に、海軍飛行予科練習生として入隊、同年8月同地にて終戦を迎え復員す。 陸軍二等兵 岡村 稔 大正8年12月20日生 世帯主 本人 昭和18年5月17日 旭川北部第3部隊に臨時召集により応召。 同日熊部隊衛生隊要員に編成、6月北部第9部隊に転属、同年9月30日、召集解除帰郷。 陸軍上等兵 岡村 正憲 大正13年8月13日生 世帯主 稔弟 昭和19年10月1日 現役兵として、東京高射砲隊に入隊、本土防衛戦務に従事す。 同隊にて終戦を迎え、昭和20年9月20日復員す。 海軍衛生二等兵曹 大島 年雄 大正13年1月7日生 世帯主 久吉弟 昭和18年9月1日、現役兵として、横須賀第2海兵団入団、同年11月1日横須賀海軍病院普通科練習生、昭和19年5月、横須賀海軍病院外科病棟勤務、19年8月、フィリッピン、フィンランド海軍航空隊基地隊配属、同年9月マニラ、ニコルス海軍航空隊編入、マニラで終戦を迎え、20年12月帰国復員す。 故海軍技術上等兵 小関 文司 明治42年 生 世帯主 本人 昭和19年10月1日 臨時召集により、横須賀海兵団に応召、10月末、戸塚教育隊転属、11月三上部隊(設営隊)に編成、鹿島飛行場派遣、神来特攻隊飛行練習場建設作業、同年7月相原に移動、松油製油工場建設作業、同地に於て終戦、後関に引揚げ召集解除、同年8月30日復員す。 故陸軍上等兵 勲8等 河P 良吉 明治37年3月1日生 世帯主 本人 大正13年12月10日、現役兵として、旭川歩兵第27連隊入営、15年6月現役満期除隊す。 昭和12年8月3日、充員召集により、旭川歩兵第27連隊に応召、北支派遣広辻部隊に編成出征、北支那郎坊飛行場警備を初め、徳県、済南、大?口、帰徳、徐州等各飛行場の警備に従事す。 昭和14年5月要員交替により、旭川帰還、5月25日召集解除帰郷 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍一等兵 北向 喜八 世帯主 本人 昭和2年12月10日 現役兵として、旭川野砲兵第7連隊入隊、昭和4年12月現役満期除隊 昭和18年4月7日、臨時応召により、旭川北部第3部隊に応召、同日北方派遣第9287部隊歩兵砲中隊に編成、同年6月4日、北千島幌筵等武蔵湾に転進、北方守備に就く。 同年遇々病に罹り北千島陸軍病院に入院、19年春札幌陸病に送還、療養に努め、召集解除帰郷す。 陸軍一等兵 菊地滝之助 明治42年8月1日生 世帯主 本人 昭和19年6月20日、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、8月稔第9260部隊白川隊に編成、苫小牧に転進、本土防衛の戦務に就く。 同年12月28日、召集解除により帰郷す。 陸軍衛生上等兵 勲8等 工藤 敬蔵 大正7年7月21日生 世帯主 留三3男 昭和14年8月10日、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、同日中支派遣中川部隊山岸隊に編成、隊附衛生兵として征途に着く。 中支那、江西省、九江に駐屯守備に当る。 昭和15年9月、第2次長沙攻略戦参加、続いて魯山、星子附近の掃討戦に参加、戦務に従事中発病、九江野戦病院に入院、南京、上海の各野戦病院に転送、療養に努め、昭和16年12月1日、退院召集解除となり帰郷す。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 陸軍伍長 勲7等 工藤東次郎 大正5年5月7日生 世帯主 本人 昭和14年3月12日、旭川輜重兵隊に臨時召集により応召、同年6月東京近衛師団に転属、同年7月15日、北支派遣第2526部隊に編成、北支新郷に転進黄河の河川警備に従事す。 17年9月以降大行山脈作戦、普東作戦等に参加す。 18年8月東部第2部隊に帰還、同年8月15日召集解除帰郷す。 支那事変の功に依り、勲7等青色桐葉章を賜う。 陸軍上等兵 工藤 正雄 大正3年2月14日生 世帯主 本人 昭和14年8月10日 旭川北部第3部隊に、臨時召集により応召、教育終了同年11月10日 召集解除となる。 昭和19年9月、樺太西海岸安別に出稼ぎ中、現地召集を受け、軍事物資揚陸作業に従事、10月召集解除。 昭和20年3月10日、帯広熊部隊伊藤隊に応召、同日催部隊に編成、根室に転進同地の守備に当たり、同地に於て終戦を迎え、同年10月5日復員す。 陸軍憲兵伍長 工藤 正利 大正8年2月21日生 世帯主 正雄弟 昭和15年3月1日、現役兵として、旭川歩兵第27連隊に入隊。 同年10月1日、札幌月寒歩兵第25連隊に転届、同日附で北部第2222部隊に編成、樺太上敷香に転進駐屯、国境警備に服務す。 昭和18年10月18日、現役解除除隊す。 昭和20年4月13日、召集下令釧路地区憲兵隊に入隊、網走憲兵分隊に派遣、同地に於て終戦、同年9月15日復員す。 陸軍二等兵 小島 金吾 大正2年8月11日生 世帯主 本人 昭和19年3月26日、教育召集により、旭川北部第3部隊に入隊、同年4月26日、召集解除帰郷す。 海軍飛行兵長 今野 吉美 昭和4年6月15日生 世帯主 吉五郎長男 昭和19年12月1日、海軍予科練習生を志願し、三重県加良洲の、三重海軍航空隊に入隊、同地に於て教育訓練を受く。 同地にて終戦を迎え、昭和20年10月1日復員す。 故陸軍上等兵 勲8等 佐藤 寿喜 明治34年8月 日生 世帯主 本人 熊本第六師団に於て、現役教育を終了除隊す。 昭和12年8月30日、充員召集により、旭川歩兵第27連隊に応召、中支派遣広江部隊、畑部隊笹原隊に編成、征途に着き、上海上陸、南京攻略戦を初め各地に転戦、昭和14年2月旭川帰隊、同年2月8日召集解除となり帰郷す。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 故陸軍上等兵 佐藤 弘義 大正14年2月21日生 世帯主 寿喜長男 昭和20年1月、現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊、千葉県に転進本土防衛の戦務に服す。 同地で終戦を迎え、9月復員す。 陸軍二等兵 竹内 謙二 大正4年2月27日生 世帯主 連勝養子 昭和19年6月20日、臨時召集により、旭川北部第3部隊第7中隊に応召、同隊にて教育終了、同年9月召集解除となり帰郷す。 陸軍伍長 田島 澄蔵 大正7年4月9日生 世帯主 八郎長男 昭和13年12月10日、現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊、直ちに満州派遣ノンロ歩兵第27連隊(宮沢部隊)に編成、本隊派遣ソ連国境警備に服す。 昭和14年8月、ノモンハン事変勃発、動員下命、9月出動ホロンバイルの戦闘に参加、16年3月旭川留守部隊に帰還、同月13日現役解除除隊す。 昭和18年5月、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、短期間で召集解隊帰郷。 昭和19年2月22日、サイド臨時応召を受け、旭川北部第3部隊通信中隊に応召、初年兵の教育。 昭和20年7月、鳩通信教育要員として、神奈川県相模原陸軍通信学校に派遣、同地で終戦。 旭川原隊復帰、終戦業務に従事、10月1日復員帰郷す。 ノモンハン事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 海軍飛行上等兵 東海林武敏 昭和2年2月20日生 世帯主 武雄長男 手話20年2月15日、土浦海軍航空隊丹羽市分遣隊に、海軍予科練習生の志願兵として入隊、奈良、岡崎、大和等各海軍航空隊に次々転属、大和海軍航空隊に於て終戦を迎え、横須賀航空隊に集結、昭和20年11月3日復員す。 海軍二等兵 鳥井 茂雄 大正3年6月15日生 世帯主 本人 昭和18年9月1日 臨時召集により、横須賀海兵団応召、同年9月23日、召集解除となり帰郷す。 陸軍兵長 秦野 美徳 明治44年4月12日生 世帯主 本人 昭和5年6月1日、陸軍資源へ意図して、東京近衛歩兵第2連隊に入隊、昭和6年11月帰休除隊す。 現役在隊中初年兵教育係として、銃剣術指導中負傷したのが原因で、帰郷後札幌北大病院に於て、助骨カリエスの手術を行う。 昭和13年依頼2度の臨時召集も、手術障害の理由で即日帰郷となる。 昭和20年7月3日、3度目の召集で、旭川北部第3部隊に応召、同日護北兵団独立砲中隊に編成、千葉県房総半島の突端、留良見に転進駐留、杉山司令の指揮下に入り、最後の本土防衛の任務に就き、連日空爆を受けながら終戦を迎え、同年9月15日復員帰郷す。 陸軍上等兵 秦野 春義 大正2年3月15日生 世帯主 本人 昭和18年8月10日、臨時召集により、旭川北部第3部隊応召、8月26日北支派遣のため旭川出発(独立歩兵第28大隊)佐野隊配属、同月18日同部隊石川隊に派遣、狙撃兵養成特別訓練を受け、第一次河南作戦、許昌、?城、確山等の戦闘に参加、確山に駐屯、昭和20年3月老河口作戦(第二次河南作戦)南陽、老化、老河口、雲台山、金家宮、淅川等各地に転戦、淅川で終戦を迎え、?城にて武装解除、大趙村にて抑留生活を送り、21年4月5日出発、武州、漢口、南京、上海を経て佐世保港帰還、同年5月2日復員帰郷す。 海軍二等整備兵曹 勲8等 秦野 兼夫 大正8年2月24日生 世帯主 美徳弟 海軍志願兵として、昭和11年6月1日、横須賀海兵団入団、同年11月15日、第3駆逐隊島風配属、昭和12年9月1日より、佐世保、上海間支那事変特別任務に従事、9月10月の2度、黄甫江に於て、甫東側敵野戦砲陣地と交戦す。 13年3月24日、普通科練習生として、横須賀海軍航空隊入隊、同年9月23日卒業、同日木更津海軍航空隊配属(支那方面艦隊附属)12月15日連合艦隊附属となる。 14年6月16日、横須賀海軍病院に入院療養生活を送り、17年10月1日服役延期解除となり帰郷す。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 陸軍二等兵 秦野 松寿 大正15年5月22日生 世帯主 美徳弟 昭和20年7月1日、札幌月寒北部軍管区情報部に、現役情報兵として入隊、同年8月5日、紋別特殊通信隊に派遣、同地に於て終戦を迎え、月寒の本隊に集結、9月9日復員帰郷す。 陸軍衛生伍長 秦野 馨 明治14年12月25日生 世帯主 本人 昭和16年8月3日、臨時召集により、樺太上敷香北部第43部隊に応召、同日戦時上敷香陸軍病院に転属、国境警備衛生業務に服す。 18年2月6日、北千島陸軍病院(幌筵相原)に転属、同年7月16日、同病院長崎分院(占守島)勤務、昭和20年3月18日、第89師団衛生隊附に転属、本道帰還帯広市にて部隊編成完結、同年5月根室港より択捉島天寧に転進、天寧患者収容所を開設、診療業務に従事中終戦を迎え、8月18日天寧港出港8月21日根室港上陸、同月23日復員帰郷す。 陸軍二等兵 秦野 正弘 大正3年2月12日生 世帯主 馨弟 昭和19年3月27日、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、同年6月19日召集解除帰郷す。 昭和20年4月及び6月、熊2285部隊に応召、沿岸警備教育を受く、同年8月15日警備召集にため、熊2285部隊に応召するも、終戦を迎え召集解除となる。 海軍上等水兵 秦野 正昭 昭和3年6月28日生 世帯主 馨弟 昭和20年1月25日、海軍志願兵として、横須賀海軍通信学校に入校、同年3月21日、同校豊川分校に普通科暗号練習生として入校、同年7月1日同校卒業。 大湊海軍通信隊配属、8月14日大湊海軍防備隊厚岸分遣隊配属、転属の途中青函連絡船上にて主戦を迎え、厚岸より9月1日復員帰郷す。 故海軍三等兵曹 服部 国光 大正10年4月18日生 世帯主 平八長男 昭和17年1月4日出発、現役兵として横須賀海兵団入団、教育終了後、戦艦武蔵に配属(以後の兵歴に就いては本人死亡のため調査不能で不明)昭和20年10月復員す。 陸軍上等兵 服部 照明 大正13年2月8日生 世帯主 平八次男 昭和19年11月1日、現役兵として、苫小牧稔第9260部隊に入隊、沼の端に於て3ヶ月教育修了、本隊復帰、20年4月、九州鹿児島県串木野に転進駐留、本土防衛陣地構築の任務に従事、同地に於て終戦を迎え、同年11月20日復員帰郷す。 陸軍兵長 樋口 道雄 大正13年11月20日生 世帯主 耕平4男 昭和19年9月5日、現役兵として、青森県陸軍電信隊に入隊、同年12月31日、小笠原群島父島守備隊に派遣、同島に於て戦務に従事す。 同島にて終戦を迎え、昭和21年1月10日復員帰郷す。 陸軍二等兵 樋口 雄幸 大正1年12月14日生 世帯主 幸吉3男 昭和19年3月27日、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、同年6月19日、召集解除となり帰郷す。 陸軍兵長 勲8等 樋口 正己 大正6年4月24日生 世帯主 幸吉5男 昭和14年8月1日、教育召集により、旭川輜重兵第7連隊に入隊す。 8月30日教育召集解除、即日臨時召集第5陸上輸送隊要員として、歩兵第26連隊留守隊に転属、9月10日旭川出発、9月28日、南支、漢口の本隊到着、同日第3鉄道輸送隊配属、南昌に於て南尋線の鉄道復旧、施設、保線、補修業務、漢口に転進京漢線輸送部勤務、昭和15年以降、襄東、宣昌、漢水、江花、襄西各作戦輸送戦務、17年2月予南作戦に参加、信陽、江水に転進輸送戦務続行、同年6月10日公傷(両肺結核)により、漢口第3兵站病院入院、南京、上海南市陸病を経て、広島陸病江波分院に送還、18年2月10日、旭川陸病に転送、同年8月31日退院、兵役免除となり帰郷す。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 陸軍中尉 樋口 寿幸 大正10年4月25日生 世帯主 幸吉7男 昭和17年1月10日、現役兵として、立川高射砲兵第7連隊入隊、同年4月、満州派遣野戦高射砲第54大隊編入(虎林)同年10月甲種幹部候補生として、千葉県稲毛陸軍防空学校に入校、18年4月30日、教育修了原隊復帰、集合教育のため牡丹江分遣、10月4日動員下命原隊復帰、10月9日、釜山出校、門司、高雄、マニラ、セブ等各港を経て、ニューギニア島西部ソロモン上陸、同島守備の戦務に服す。 11月30日、現役満期、12月1日補陸軍少尉、同日臨時召集引続き同島守備戦務、19年5月公傷のため、第125兵站病院ソロモン分院へ入院、同年7月10日、補久留米野砲兵第56連隊補充隊、大阪陸病へ送還、久留米陸病転送せられ、同病院で療養、20年4月4日補久留米師団管区砲兵補充隊、同地に於て終戦を迎え、8月20日、補陸軍中尉、9月10日復員す。 故陸軍二等兵 平手 直利 明治14年6月26日生 世帯主 宮次郎長男 昭和19年3月26日、臨時召集により旭川北部第3部隊に応召、同年6月19日、召集解除帰郷す。 陸軍伍長 勲8等 堀 勝雄 明治42年4月15日生 世帯主 本人 昭和12年8月 充員召集により、旭川工兵第7大隊に応召、北支派遣江橋隊に編成征途に着き、黄河、山西、武漢、三鎮の各作戦に従事、昭和14年4月帰還、召集解除となる。 昭和17年5月、旭川工兵第7大隊に臨時召集、爆破訓練演習中爆傷を受け、旭川陸病に入院治療退院、原隊復帰するも既に原隊は、北方派遣出発後で、同年8月召集解除となり復員す。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 陸軍曹長 細川 清澄 大正8年6月4日生 世帯主 斉次郎3男 昭和15年8月23日、現役兵として、満州公主嶺、第7航空隊入隊(集合地広島)8月29日本隊到着16年1月18日、敦化飛行第98連隊配属、2月21日、下士官候補者教育のため北京に派遣、同年12月28日以降、馬来フアリベスト、秦国チューリーンサワン、緬司シンガラドン、スンゲイベタニ等の各地に戦務、18年2月1日、水戸陸軍航空通信学校に入校派遣、同年9月21日卒業、同年11月19日原隊復帰、昭和19年1月11日、教育のため航空情報連隊に入隊、同年7月10日教育終了、第6航空隊特殊通信隊(帯広)に転属、内国戦争勤務に従事、同地にて終戦となり、現役延期解除となり、20年8月3日復員す。 陸軍一等兵 勲8等 幕田 義一 大正5年8月25日生 世帯主 善八2男 昭和13年7月10日、旭川歩兵第27連隊に応召、第七師団第7陸上宇輸送隊に編成、同月16日中支派遣のため旭川出発、8月1日上海上陸、同月25日九江上陸、9月より九江、黄海、斉揚昌、馬廻嶺、西狐嶺、武漢、南昌、譲襄等の各攻略戦に参加、各地に転戦、14年12月1日帰還の途に着き、同月22日召集解除となる。 昭和18年8月1日、鉄道省中支派遣中村部隊に軍属として派遣、其の後中華民国にて、保線業務の技術指導に当たり、昭和21年7月帰還復員す。 陸軍兵長 牧野 光一 明治42年11月2日生 世帯主 本人 昭和5年1月10日 現役兵として、旭川歩兵第27連隊に入隊、昭和6年7月9日、帰休除隊す。 昭和18年4月7日、旭川北部第2部隊に臨時召集、北方派遣先第9282部隊歩兵砲中隊に編成、同年5月27日小樽港出港、6月4日北千島幌筵島武蔵湾上陸、同地区の守備に就く、昭和20年5月17日、幌筵島野田浦港出港、同月25日小樽港上陸、函館に転進、津軽要塞砲兵連隊の指揮下に入る。 同地にて終戦を迎え9月3日復員す。 陸軍計技軍曹 勲7等 松野 正義 大正5年5月10日生 世帯主 本人 昭和12年1月10日、現役兵として、旭川歩兵第27連隊に入隊、昭和14年4月、北支派遣輜重部隊に編成、北支各地に転戦し、同年9月内地帰還、同月現役延期解除となり除隊帰郷す。 昭和18年5月21日、臨時召集にて、熊第9205部隊に応召、旭川より釧路に転進、本土防衛の戦務に従事、同地にて終戦を迎え、20年8月20日復員帰郷す。 支那事変の功に依り、勲7等青色桐葉章を賜う。 陸軍上等兵 松野 源蔵 大正8年6月5日生 世帯主 正喜弟 昭和15年3月3日 旭川北部第3部隊に臨時召集、同年5月29日召集解除帰郷す。 昭和18年5月21日、臨時召集により、旭川熊第9205部隊に応召、室蘭、北見島に派遣、19年7月達部隊編成、苫小牧早来に転進、本土防衛戦務に当たる。 同地にて終戦を迎え、20年8月17日復員す。 陸軍一等兵 松野 末松 大正15年1月28日生 世帯主 正喜弟 昭和20年6月20日、現役兵として、旭川北部第3部隊に入隊、達部隊に編成、苫小牧早来に転進、本土防衛戦務に従事、同地にて終戦を迎え、10月10日復員帰郷す。 陸軍二等兵 三品 栄 明治44年7月5日生 世帯主 本人 昭和19年3月27日、臨時召集により、旭川北部第3部隊応召、同年6月19日召集解除、20年4月25日熊第2285部隊に、沿岸警備教育召集を受け、同月27日召集解除となる。 陸軍二等兵 三品 正吉 大正9年1月29日生 世帯主 太七3男 昭和18年4月1日、臨時召集により、旭川北部第6部隊に応召、第1大隊第1中隊編入、教育終了6月25日、召集解除となり帰郷す。 陸軍兵長 三品 正十郎 大正10年12月29日生 世帯主 太七4男 昭和18年1月20日、現役兵として盛岡北部63部隊に入隊、北支山東省浜県駐屯、独立混成第7旅団、第30大隊補充要員として派遣、浜県地区の警備粛正に当る。 19年1月、弘兵団配属南方転進のため、青島に集結するも、転進中止となり、馬頭集に於て掃討戦に参加、10月開封、徐州間列車警乗、対空監視、飛行場警備島に服す。 20年1月新郷、石家荘間公用連絡、4月中支派遣予兵団に転属、蘇州、無錫の警備、8月終戦を迎え、抑留生活を経て、21年4月上海港発、佐世保港帰還、5月1日復員す。 海軍整備上等兵 三品 俊雄 大正12年2月10日生 世帯主 太七5男 昭和19年11月25日、現役兵として、千葉県香取海軍航空隊に入隊、教育終了後、千歳海軍航空隊配属、同地に於て終戦を迎え、同年8月17日復員す。 陸軍兵長 三品 昌一 大正9年1月26日生 世帯主 玉七次男 昭和16年4月25日、旭川北部第7部隊に応召、5月5日、中支派遣第七師団架橋材料中隊、吉田辰部隊(呂第5562部隊)に転属、5月27日、湖北省刑門県綴刀石の本隊に到着、飛行場警備、8月10日第2次長沙作戦出場、9月1日湖南省湘陰県長楽街の戦闘で、右足関節を負傷、漢口第1陸病入院、南京陸病に転送、湯水鎮にて療養、17年3月本隊復帰、同年9月湖北省鐘県旧口鎮警備、19年4月湘桂作戦、同年8月より長沙、桂林、柳州の各作戦に参加、嵯山にて20年を迎え、5月長沙に移動、8月東湘端待機中終戦を迎え、抑留生活、21年4月25日復員命令により、武昌、南京、上海を経て佐世保港帰還、部隊解散、同年6月16日復員帰郷す。 陸軍二等兵 三品 昌夫 大正11年3月6日生 世帯主 玉七3男 昭和18年4月1日臨時召集により、旭川北部第9部隊に応召、同部隊にて教育中、5月15日動員下命、北部第2部隊に転属、北方派遣部隊として編成待機中、アッツ島玉砕により部隊編成解除、同年7月1日召集解除となる。 陸軍一等兵 勲8等 山崎 正康 大正1年11月25日生 世帯主 本人 手話8年1月20日 現役兵として、旭川野砲兵第7連隊に入隊、9月1日、満州守備隊編入、山海関に派遣、満州事変に参加、9年5月5日旭川に帰隊、同年12月1日現役満期除隊。 満州事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 昭和18年5月17日、臨時召集により、旭川北部第7部隊に応召、熊部隊編入、同年7月26日召集解除。 昭和20年6月10日、旭川北部第7部隊に応召、四国善通寺部隊に転属、同地で終戦を迎え、8月29日復員帰郷す。 陸軍少尉 勲6等 山本 政雄 大正4年6月20日生 世帯主 静夫弟 昭和10年1月20日、現役兵として、旭川野砲兵第7連隊に入隊、同年12月1日、豊橋陸軍教導学校派遣、11年12月1日同校卒業原隊復帰、12年12月1日連隊本部書記、13年3月第七師団の満州移駐に伴い、野砲兵第7連隊もチチハルに移駐す。 同年5月より6月まで、北支徐州作戦参加、14年8月ノモンハン戦闘参加、15年8月公主嶺陸軍学校(諸兵種総合戦闘研究学校)砲兵教導連隊本部書記、19年1月東京陸軍航空審査部部員に補せられっる。 20年7月補陸軍少尉、同所に於て終戦を迎え引続き残務整理業務にたづさわり、同年12月復員す。 戦功に依り勲6等瑞宝章を賜う。 陸軍上等兵 勲8等 吉村 真己 明治44年7月8日生 世帯主 本人 しょおう我13年7月10日、充員召集により、旭川歩兵第27連隊留守隊に応召、同日第七師団第7陸上輸送隊に編成、同月16日中支派遣のため旭川出発、8月25日九江上陸、九江、黄梅、斉揚昌、馬廻嶺、西狐嶺等各攻略戦参加、武漢、南昌、襄東攻略戦に参加、14年7月19日機関のため九江出発、8月1日旭川帰還、8月5日召集解除、昭和16年7月19日、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、歩兵第32連隊第1大隊編入、満州密山県三梭に派遣同附近の国境警備に服す。 18年11月30日密山出港、旭川北部第3部隊帰着、12月15日召集解除となる。 昭和20年4月25日、熊第2285部隊に警備召集、同月29日召集解除。 同年8月15日再度熊第2285部隊に召集、同日終戦と也、即日召集解除となる。 支那事変の功に依り、勲8等白色桐葉章を賜う。 海軍上等兵曹 勲7等 吉村 明雄 大正4年11月15日生 世帯主 本人 昭和7年6月1日、海軍志願兵として、横須賀海兵団入団、同年11月戦艦榛名配属、昭和9年5月、横須賀海軍砲術学校入校、同年11月同校卒業、航空母艦赤城配属、10年11月第8駆逐隊朝霧配属、12年8月22日・3日、上海攻略の第三師団先遣部隊、呉松鎮附近敵前上陸作業及援護、陳家宅附近敵陣地砲撃戦に戦果を挙ぐ。 13年9月20日より、第2艦隊航空部隊に協力、達雲港砲撃に参加、同年10月広東攻略作戦に従事す。 その後第1駆逐隊野風配属、16年12月太平洋戦争開戦以来、アリューシャン列島哨戒任務に従事中、戦病のため17年、月、大湊海軍病院に入院加療に努めたるも、18年3月16日兵役免除となり帰郷す。 支那事変の功に依り、勲7等青色桐葉章を賜う。 陸軍衛生兵長 吉村 正七 大正7年3月15日生 世帯主 友弥6男 昭和15年11月1日、教育召集により、旭川北部第9部隊に入隊、同年12月30日召集解除。 昭和16年8月1日、臨時召集により、旭川北部第3部隊に応召、第4424野戦病院要員として編成、満州東安昌馬家子に転進駐屯、17年11月第9941航空通信隊に転属、19年7月、独立航空隊整備隊亀井隊に転属、同月下旬移動、福島権限や町裨田航空分遣隊配属、20年2月青森県油川飛行場に移動、終戦となり同年8月下旬復員帰郷す。 陸軍衛生二等兵 渡辺 正喜 明治44年3月28日生 世帯主 本人 昭和18年9月 満州国撫順に於て、現地臨時召集を受け、満州第8病院(岳城)に応召、同病院にて教育意を受け、同年12月召集解除となる。 陸軍兵長 渡辺 寅喜 大正3年6月15日生 世帯主 喜三郎次男 昭和10年1月30日 現役補充兵として、旭川歩兵第27連隊留守隊に入隊、同年7月、北支駐屯第3連隊第7中隊派遣、11年7月現役満期、土応日臨時召集同部隊にて、旭川歩兵第27連隊留守隊に帰還、3月20日召集解除帰郷す。 陸軍二等兵 渡辺 光雄 大正4年7月6日生 世帯主 喜三郎3男 昭和19年6月2日、臨時召集により、旭川北部第7部隊に応召、同年7月30日、召集解除となり帰郷す。 故陸軍二等兵 渡辺 武雄 大正11年5月8日生 世帯主 喜三郎4男 昭和19年3月27日、臨時召集により旭川北部第3部隊に応召、同年6月19日、召集解除帰郷す。 陸軍伍長 渡辺 保 大正1年10月28日生 世帯主 本人 昭和18年8月10日、臨時召集により旭川第27連隊に応召、中支武昌に派遣、呂第6109部隊、兵器廠警備隊に編入、同地に於て教育を終え、直ちに作戦に参加、長江、衛陽、桂林、缶州等に転戦す。 終戦後抑留生活を経て、昭和22年6月12日復員す。 海軍三等機関兵曹 渡辺 明善 大正4年4月24日生 世帯主 善三郎4男 昭和7年6月1日、志願兵として、横須賀海兵団に入団す。 同年11月15日、特一等駆逐艦第7駆逐隊、潮に配属、9年11月15日、横須賀海軍工器学校、第59期普通科練習生入校、昭和10年5月15日同校卒業、同日横須賀海軍水雷学校圧搾機械担当配属、同年6月20日、左腹膜炎のため、横須賀海軍病院入院、11年5月8日、疾病により兵役免除となり帰郷す。 陸軍上等兵 渡辺 正善 大正7年9月15日生 世帯主 善三郎5男 昭和14年4月1日、教育召集により、旭川輜重兵第7連隊に入隊、教育終了し召集解除。 昭和14年6月7日、旭川野砲兵第7連隊に臨時召集、北支派遣松井部隊に編成、北支に出征、済南、徐州、青島等の守備に勤務し15年11月20日、召集解除帰郷す。 昭和18年5月21日、臨時召集により、旭川歩兵第27連隊応召、同年7月1日、軍令56号により召集解除。 昭和20年5月7日、旭川管区歩兵第3部隊補充隊に臨時召集、同日歩兵第428連隊第2歩兵砲中隊編入、千葉県麦津郡小櫃村大多喜に転進、同地区の防衛に当る。同地にて終戦を迎え、9月10日召集解除復員す。 |
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