開基百年上湧別町史 0~169頁
第一編 自然環境       第二編 通 史

昭和の小漁師top
開基百年上湧別町史top   地 理 生 物 気 象 先 史  開拓使 湧別屯田兵 行財政 産業と経済 



第一章  
















































    
地   理  
第一節   
位置と面積 
  位 置
上湧別町は、北海道の北東部にある網走支庁管内の中央北部に位置し、紋別郡の東部を占めている。 六号線を境にして東、西、北を馬の蹄に似たU字形状で湧別町に隣接している。 南は遠軽町と境界を分け、西南の一部で紋別市に接している。 
 その位置は、東経143度38分10秒~143度24分32秒、北緯44度4分45秒~44度12分55秒に囲まれた地域である。


面 積
総面積は、160.69平方㎞である。 網走支庁管内では女満別町、端野町に次いで小さく、管内全域の1.8%、北海道の総面積に対しては、わずか0.2%を占めているにすぎない。

第二節  地勢と地質 
  地 勢
 上湧別町の地勢は、西南部が高く東北に向かって次第に低くなり、その間、起伏する丘陵が広がっている。
その丘陵地帯から複数の渓流が流れ出て、網走支庁管内大河川の一つ、湧別川に注いでいる。湧別川は、町内のほぼ中央を南から北へと流れ、流域には大きい原野が広がっていて、それを挟むように山並みが東西に平行してオホーツク海沿岸に延びている。
 湧別川西部の山並みは、南部の上富美と富美地区で標高300m(最高525m)、札富美地区で標高250mの山岳を形成、その間、富美川の流域にわずかばかりの帯状となった富美原野がある、朝日地区の10号線からは、標高120mほどの丘陵となって北へ向かっている。
 湧別川東部では、南部国有林の標高418m地点から20号線付近標高366m、14号線付近標高216m、9号線五鹿山付近標高126.6mと次第に標高を下げながら北方向へ続き、やがて標高20mの丘陵となって町界に達している。
 中央部の湧別原野は、湧別海岸平野に至り、その標高の変化は、開盛28号線付近55.33m、25号線付近48.27m、22,23号線付近48.27m、22,23号線中間付近39.55m、18号線付近29.92m、14,15号線中間付近21.18m、11号線付近15.94m、7号線付近9.82mと平坦な地形になっている。


地 質
 湧別川を挟む両側の山地には、湧別層群が広く分布している。 上湧別町の東半分を占めるこの地層の主な構成は、中粒、粗粒の硬砂岩で、灰色あるいは暗灰色を呈しているが、これに暗灰色、灰黒色、時には青を帯びた緑色の頁岩が含まれている。西半分に当たる富美川の中流から上流にかけての山地は、新第三紀の火山活動が激しく続いたところで、鴻之舞層群や社名淵層群などの凝灰質の地層と石英粗面石、石英安山岩、紫蘇輝石安山岩、普通輝石安山岩、玄武岩、多孔角轢質岩などの火山岩類が広く分布している。
 海成段丘には、上部に10cm以上の厚さを持つ火山灰粘土層があり、その下部に厚さ5cm内外の砂礫層がみられる。粘土層は水を帯びる性質はあるが、水を通しにくいのでここから得られる地下水は、ほとんど上水に近く、多量の酸化鉄を含んでいる。 しかも起伏の多いところでは非常に排水が悪い。 良質な地下水は砂礫層から得られるものの、その位置が非常に深いため、その利用は相当な困難を伴っている。
 町内の土壌は、砂岩、泥岩、凝灰質砂岩の母石が、そのまま風化した残積土もある。 しかし、そのほとんどは、河川などの作用で運搬堆積(河成)されたものをはじめ、谷間から押し出されたもの(扇状碓土)、傾斜面で崩れたもの(崩積土)などからなっている。 これらの土壌は、堆積時代の沖積土、洪積土に分けられる。 沖積土は、今から約1万年前の比較的新しい時期のもので、主として低地に分布している。 洪積土は、1~60万年も以前の古いもので、一般段丘や高台地を形成、重粘緊密せき薄地が多い、このほか、かって沼沢地に繁茂していたヨシなどの植物が枯死した集積層からなる泥炭地などもある。


山と河川
 
上湧別町原野部の東西には、北見山脈の支脈がオホーツク海沿岸へと延びて、美しい稜線を描いている。 しかし、高さは最高でも標高で525mにとどまり、明確に名前が付けられ親しまれているのは、標高125.5mの五鹿山と同208.3mの手拭山である。
 主な河川は、次のとおりである。


【湧別川】
(延長74km) 北見峠を水源とし、オホーツク海に注ぐ。 合流する支流は支湧別川(白滝村)、武利川(丸瀬  布町)、生田原川(生田原町)、サナブチ川(遠軽町)、富美川、中土場川(以上、上湧別町)で、湧別原野を東西に分  ける網走支庁管内四大河川の一つである。

【富美川】
(延長13km) 上富美と社名淵の分水嶺に源を発する。 上富美共栄の沢、富美支流の沢、南の沢の小河   川を合流、20号線付近で湧別川に注いでいる。
【サナブチ川】
(延長17.2km) 源は、紋別市と遠軽町との境界分水嶺である。
社名淵原野を通って、28,29号線の間で湧別川に合流している。

【中土場川】
(延長13km) 国有林中土場に水源を求めている。 町内を蛇行していたが、 20数年にわたる改修工事  により現在は9号線の地点で湧別川に流れ込んでいる。

【ヌッポコマナイ川】
(延長1.7km) 湧別本間沢の分水嶺に源がある。 ヌッポコマナイ沢を通って中湧別市街を流れ  ていたが、改修後は11号線近くで改修後の中土場川に注いでいる。

第二章 





















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生   物  
第一節  動   物 
  獣  類
 開拓以前の湧別原野やその周辺の山林地帯は、原始の姿をそのままに野生鳥獣の生息する地帯であった。 北海道を代表する大型獣のヒグマやエゾシカをはじめ、キタキツネ、エゾタヌキ、エゾユキウサギ、エゾオコジョ(エゾイタチ)など北方内陸系の動物のほとんでが生息していた。 しかし、エゾオオカミ、カワウソ、クロテンのように、開拓で追われたり乱獲がたたって絶滅したものも少なくない。 逆に昔はいなかったのに、その後よくみられるようになったものはミンクである。
 これは、毛皮用として町内外で飼育していたのが逃げて野生化したものであるが、最近は人の目に触れることは少ない。
 ヒグマやエゾシカは、先住民族の狩猟生活において、絶対に欠かすことのできない獲物の対象であった。 ヒグマは開拓以来、その生活圏が侵され、人との接触の機会が増えたことにより、人畜の被害が発生、開拓民を脅かすようになった。 一時は毛皮や薬用に内蔵をねらて乱獲され、絶滅の危機も叫ばれたが、その後禁猟期間の設定などの保護対策がとられている。
 エゾシカは明治12年(1879)の大雪やハンターの乱獲があって、絶滅の瀬戸際に立たされた。 しかし、手厚い保護対策が功を奏し、近年は生息数が急激に増え、農作物に食害を与え、 一部地域で深刻な問題になっている。 同じく保護されているキタキツネも増加が著しく、道路や人家付近まで出没して、餌をねだるシーンがたびたびテレビや新聞で紹介されるほどである。 そんな微笑ましい風景とは裏腹に、キタキツネが媒介するエキノコックス症の汚染が各地に広がっている。 獣類の生態系は微妙に変化していて、動物愛護の面からも関心が高まっている。


 
北海道産陸生哺乳類の動物のうち、上湧別町内でみられる主なものは次のとおりである。

【食肉目】  エゾヒグマ、キタキツネ、エゾタヌキ、エゾオコジョ(エゾイタチ)、イイズナ
         (コエゾイタチ)、ホンドイタチ
【偶蹄目】  エゾシカ
【翼手目】  ヤマコウモリ、ウサギコウモリ、キクガシラコウモリ
【齧歯目】  エゾマチネズミ、ハツカネズミ、ヒメネズミ、エゾアカネズミ、ドブネズミ、
        ミカドネズミ、エゾリス、エゾシマリス、エゾモモンガ
【ウサギ目】  エゾユキウサギ 
【食虫目】  エゾトガリネズミ、オオアシトガリネズミ

鳥   類
 オホーツク斜面に広がる広大な原始林は、野鳥たちの絶好の生息地であった。 豊かな木の実や、樹木に群がる昆虫類は、鳥たちにとってこのうえない餌となった。 地上や樹上を走り回る小動物は、猛禽類の旺盛な食欲を満たし、その繁殖を支えた。
 開発が進むにつれて、適応力と生命力のあるカラスやスズメ以外の鳥類は、生息地を次々と奪われて個体数も減少の一途をたどっている。 国の天然記念物に指定されているシマフクロウは、この地域では全くみられなくなった。 それでもウゴイス、カッコウ、セキレイ、トビ、タカ類などは、現在も市街地によくその姿を現している。

 上湧別町周辺でみられる主な鳥類は、次のとおりである。

【カイツブリ科】  カイツブリ
【ウミツバメ科】  ハイイロウミツバメ、コシジロウミツバメ
【サギ科】  アオサギ
【ガンカモ科】  ヒシクイ、オオハクチョウ、オシドリ、マガモ、カルガモ、コガモ、トモエガモ
          、ヨシガモ、オオヨシガモ、ヒドリガモ、オナガガモ、シマアジ、ハシビロガ
          モ、ホシハジロ、キンクロハジロ、スズガモ、ビロードキンクロ、シノリガモ
          、コオリガモ、ホオジロガモ、ミコアイサ、ウミアイサ、カワアイサ
【ワシタカ科】  トビ、オジロワシ、オオワシ、オオタカ、ツミ、ハイタカ、ケアシノスリ、ノス
          リ、クマタカ、チュウヒ
【ハヤブサ科】  シロハヤブサ、ハヤブサ、チゴハヤブサ、コチョウゲンボウ、チョウゲ
          ンボウ
【ライチョウ科】  エゾライチョウ
【キジ科】   ウズラ、キジ(コウライキジ)
【クイナ科】  クイナ、バン、オオバン
【チドリ科】  コチドリ
【シギ科】  トウネン、ツルシギ、キアシシギ、イソシギ、ヤマシギ、オオジシギ、
       アオシギ
【カモメ科】  ユリカモメ、オオセゴロカモメ、ミツユビカモメ、アジサシ
【ハト科】  キジバト、アオバト(ドバトを含む)
【ホトトギス科】  ジュウイチ、カッコウ、ツツドリ
【フクロウ科】  コミミズク、コノハズク、オオコノハズク、アオハズク、ツチクロウ、
          キンメフクロウ
【ヨタカ科】  ヨタカ
【アマツバメ科】  ハリオアマツバメ、アマツバメ
【カワセミ科】  ヤマセミ、カワセミ
【キツツキ科】  アリスイ、ヤマゲラ、クマゲラ、アカゲラ、オオアカゲラ、コアカゲラ、
          コゲラ
【ヒバリ科】  ヒバリ
【ツバメ科】  ショウドウツバメ、ツバメ、コシアカツバメ、イワツバメ
【セキレイ科】  キセキレイ、ハクセキレイ、セゴロセキレイ、ビンズイ、タヒバリ
【ヒヨドリ科】  ヒヨドリ
【モズ科】  モズ、アカモズ、オオモズ
【レンジャク科】  キレンジャク、ヒレンジャク
【カワガラス科】  カワガラス
【ミソサザイ科】  ミスサザイ
【ヒタキ科】  コマドリ、ノゴマ、コルリ、ルリビタキ、ノビタキ、マミジロ、トヲツグミ、
        クロツグミ、アカハラ、ツグミ、ヤブサメ、ウグイス、エゾセンニュウ、
        ココシキリ、オオヨシキリ、メボソムシクイ、エゾムシクイ、センダイム
        シクイ、キクイタダキ、キビタキ、オオルリ、サメビタキ、コサメビタキ
【エナガ科】  シマエナガ
【シジュカラ科】  ハシブトガラ、コガラ、ヤマガラ、シジュウカラ
【コジュカラ科】  コジュウカラ
【キバシリ科】  キバシリ
【メジロ科】  メジロ
【ホオジロ科】  ホオジロ、ホオアカ、カシラダカ、ミヤマホオジロ、シマアオジ、
          アオジ、クロジ、オオジュリン、ユキホオジロ
【アトリ科】  アトリ、カワラヒワ、マヒワ、ベニヒワ、コベニヒワ、ハギマシコ、
        オオマシコ、ギンザンマシコ、イスカ、ナキイスカ、ベニマシコ、
        ウソ、イカル、シメ
【ハタオドリ科】  ニュウナイスズメ、スズメ
【ムクドリ科】  コムクドリ、ムクドリ
【カラス科】  ミヤマカラス、ハシブソガラス、ハシブトガラス

魚 介 類
 上湧別町には海や湖沼がないので、河川に生息しているものばかりである。 開発の進展に合わせて河川改修も進み、生息環境が悪化する一方で、水質汚濁や乱獲も加わり、総体的に種類、個体数が激減している。 淡水魚で最大のイトウは、ほとんど姿を消し文字通り ”幻の魚” になってしまった。 平成6年(1994)春、 湧別町内の湧別川で体長55cmほどのイトウが、上湧別町の町民によって釣り上げられ、絶滅していないことを確認できたのは朗報だった。
 人工ふ化事業のため、河川下流に施設を造って親魚の捕獲を始めてから、その上流における湧別川のサケ、マスの自然遡上はほぼ途絶えてしまった。 ヤマメは、禁漁河川や禁漁期の設定などの保護対策や放流事業が進められているものの、乱獲ぎみであり、資源の減少は否めない。 小川などにすむザリガニも、農薬汚染などのためめっきり少なくなっている。これに対し、外来魚であるニジマスは放流などの結果、繁殖しすっかり定着している。
 上湧別町内の河川において確認されている魚介類は、次のとおりである。

【魚介類】  サクラマス(ヤマメ・ヤマベ)、ウグイ、エゾウグイ、アメマス、カラフトマス
        ニジマス、イトウ、シロザケ、フクドジョウ、ドジョウ、ハナカジカ、カワヤツメ、
        イトヨ、ニホンザリガニ、スジエビ

爬虫類と両生類
  爬虫類は、全般的に生活環境が悪化したのに伴い、個体数の減少が目立っている。 しかし、アオダイショウなどは、いまでも夏の山野や人家近くでみることができる。 両生類は、ニホンアマガエルなど現在でもよく目に触れるが、北海道全域と千島に限って生息し、”生きている化石” として動物発生学上貴重な資料になっているエゾサンショウウオは、最近数が減っている。
 上湧別町で生息している主なものは、次のとおりである。


【爬虫類】  アオダイショウ、シマヘビ(黒色型をカラスヘビ)、ニホンマムシ
        ニホンカナヘビ、ニホントカゲ
【両生類】  ニホンアマガエル、エゾアカガエル、エゾサンショウウオ

昆 虫 類
 上湧別町に生息する昆虫類は、種類が非常に多い。 北海道には生息していないといわれていたカブトムシが最近網走支庁管内でも繁殖していることが確認され、話題を提出している。 昭和65年(1980)、湧別町芭露の酪農家の牛舎そばに、敷きわら代わりに積んであったおがくずの中から発見されたのが最初である。 その後生田原町、遠軽町でも木工場のおがくずの中で繁殖していたのがみつかっている。 ペットショップやお祭りの露店で、子供に買われたカブトムシが逃げ出し、おがくずの発酵熱に守られて、厳寒の北海道の冬を越したものらしい。
 代表的な昆虫は、次のとおりである。


【バッタの仲間】
  トノサマバッタ、カワラバッタ、オンブバッタ、ミヤマフキバッタ
           コバネイナゴ(エゾイナゴ)、ハネナガキリギリス、エゾエンマヤコオロギ
           、エゾスズ、カンタン、ケラ他
【ハチの仲間】  クマバチ、ミツバチ、マルハナバチ類、スズメバチ類、アカウシアブ類
【トンボの仲間】  オニヤンマ、アキアカネ、シオカラトンボ、ギンヤンマ、アオヤンマ、
            イトトンボ類、ヒガシカワトンボ、タカネトンボ他
【セミの仲間】   エゾゼミ、アブラゼミ、コエゾゼミ、アカエゾゼミ、エゾハルゼミ他
【ガの仲間】    ヤママユガ、ウチスズメ、ジョウザンヒトリ、オオミズアオ他
【その他】     クワガタムシ類、コガネムシ類、カミキリムシ類、ゲンゴロウ、
           ミズスマシ他

 昆虫採集の対象として人気のある蝶は、上湧別町でも多くみられる。 主な蝶は、次のとりである。

【アゲハチョウの仲間】  アゲハ(ナミアゲハ)、カラスアゲハ、ヒメウスバシロチョウ、
                キアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、ヒメギフチョウ
【シロチョウの仲間】  ツマキチョウ、モンキチョウ、エゾヒメシロチョウ、エゾスジクロシロチョウ、
               スジクロシロチョウ、エゾシロチョウ、モンシロチョウ
【タテハチョウの仲間】  アカタテハ、コムラサキ、ルリタテハ、シータテハ、ヒメアカタテハ、
                コヒオドシ、エルタテハ、キベリタテハ、アカマダラ、サカハチチョウ、
                クジャクチョウ、コミスジ、ミスジチョウ、フタスジチョウ、ウラギンスジ
                ヒョウモン、イチモンジチョウ、オオイチモンジ、ギンボシヒョウモン、
                オオウラギンスジヒョウモン、カラフトヒョウモン、コヒョウモン
【ジャノメチョウの仲間】  サトキマダラヒカゲ、ヤマキマダラヒカゲ、シロオビヒメヒカゲ、
                オオヒカゲ、クロヒカゲ、ベニヒカゲ、ヒメキマダラヒカゲ
                ヒメウラナミジャノメ
【シジミチョウの仲間】   オオミドリシジミ、オナガシジミ、ミズイロオナガシジミ、ウスイロオナガ
                シジミ、メスアカミドリシジミ、ウラゴマダラシジミ、アカシジミ、ウラジロ
                ミドリシジミ、ミドリシジミ、アイノミドリシジミ、ゴマシジミ、ルリシジミ、
                ツバメシジミ、トラフシシジミ、ベニシジミ、カバイロシジミ、ウラミスジシ
                ジミ、カラスシジミ、コツバメ、ウラキンシジミ、スギタニルシジミ、エゾリ
                ンゴシジミ、ジョウザンシジミ、イシダシジミ(アサマシジミ)、ヒメシジミ、
                ジョウザンミドリシジミ、エゾミドリシジミ、ハヤシミドリシジミ
【セセリチョウの仲間】  オオチャバネセセリ、コチャバネセセリ、コキマダラセセリ、ミヤマセセリ
                、キバネセセリ、ギンイチモンジセセリ 
 
第二節  植   物 
  草   花
 上湧別町に分布する草花は、地質、土性、高低によって様々な植生をみせている。 その中で早春のエゾエンゴサク、初夏のセイコウタンポポの群落の美しさには、目を見張らされる。 路傍の草花ではシロツメクサ、オオアワガエリ、ヒメスイバ、エゾノギシギシ、オオツメクサなど外来種の帰化植物が目立っている。 帰化植物のうちシロツメクサ、ムラサキツメクサ、オオアワガエリは、家畜の飼料として高い利用価値がある。
 草地の改良や造林植樹のための山焼き、道路・河川の改良整備、宅地などの拡大などによって、草花の種類も次第に減少する傾向にある。
 上湧別町の各地でみられる野草は、次のとおりである。


【キク科】  アキタブキ、セイヨウタンポポ、チシマアザミ、ヒメジョオン、ハチジョウナ、コウゾリナ
        、ヨメナ、エゾノコンギク、エゾノキツネアザミ、ヤマハハコ、ヒメムカシコモギ、オオヨ
        モギ、オニノゲシ、オオハンゴウソウ、エゾタンポポ、ノアザミ、コメナモミ、ハンゴウソ
        ウ、ヤナギタンポポ、オヤマボクチ、ノゲシ、タウコギ、コシガギク、センボンヤリ、オ
        オアワダチソウ、ノボロギク、ノコギリギク、ノコギリソウ、オトコヨモギ、サワヒヨドリ
【ナデシコ科】  ハコベ、エゾオオヤマハコベ、ミミナグサ、オオヤマフスマ、ウシコハコベ、エゾマ
           ンテマ、オオツメクサ、ナンバンハコベ、ツメクサ
【ムラサキ科】  エゾムラサキ
【スミレ科】  アオイスミレ、タチツボスミレ、オオタチツボスミレ、スミレ、エゾノタチツボスミレ、ミ
         ヤマスミレ、サンシキスミレ
【バラ科】  キギムシロ、ツルキジムシロ、オニシモツケ、キンミズヒキ、オオダイコンソウ、ハマナ
        ス、ヘビイチゴ、コデマリ、シモツケソウ、ユキヤナギ、ヤマブキ、エゾクサイチゴ
【アブラナ科】  ナズナ(ペンペングサ)、コンロンソウ、タネツケバナ、ワサビ、セイヨウアブラナ
           (ナノハナ)、ヤマガラシ、スカシタゴボウ、ミヤマハタザオ
【ケシ科】  エゾエンゴサク、クサノオウ、エゾキケマン
【シソ科】  カキオドシ、オドリコソウ、ナギナタコウジュ、ヒメナミキ、ヒメサルダヒコ、トウバナ、ナ
        ミキソウ、イヌゴマ、カイジンドウ
【キンボウゲ科】  アズマイチゲ、フクジュソウ、ヒメイチゲ、エゾノリュウキンカ、ニリンソウ、タガラ
             シ、キツネノボタン、ミヤマオダマキ、カラマツソウ、トリカブト、アキカラマツ、ミ
             ヤマキンバイ、オオレイジンソウ、ベニバナヤマシャクヤク、ルイヨウショウマ
【ユリ科】  キバナノアマナ、オオバナノエンレイソウ、マイヅルソウ、アマドコロ、ユキザサ、ミヤマ
        エンレイソウ、ハイケイソウ、スズラン、キジカクシ、エゾゼンテイカ(エゾカンゾウ)、タチ
        ギボウシ、ギョウジャニンニク(アイヌネギ)、ツバメオモト、オオウバユリ、クロユリ、クル
        マユリ、エンレイソウ、カタクリ、エゾネギ
【ゼンマイ科】  ヤマドリゼンマイ
【ウラボシ科】  クサソテツ(コゴミ)
【ウェアラビ科】  クジョクシダ
【トクサ科】  スギナ、トクサ
【ツユクサ科】  ツユクサ、ムラサキツユクサ、イボクサ
【ウキクサ科】  ウキクサ、アオウキクサ
【サトイモ科】  コウライテンナンショウ(マムシグサ)、ミズバショウ
【イネ科】  スズメノテッポウ、オオアワガエリ、ヒメノガリヤス、イワノガリヤス、ススキ、メヒシバ、エ
        ノコログサ、エゾヌカボ、カモガヤ、チカラシバ、ミヤマドジョウツナギ、ニワホコリ、スズメ
        ノカタピラ、ケイヌビエ
【タケ科】  クマイザサ、チシマザサ
【ガマ科】  ガマ
【カヤツリグサ科】  カヤツリグサ、ヒラギシスゲ、チャシバスゲ、ケナシアブラガヤ、エゾアブラガヤ
【セリ科】  ウド、ミツバ、セリ、ヌマザリ、ヤブシラミ、ヤブニンジン
【アカザ科】  アカザ、ウスバアカザ
【クワ科】  カラハナソウ
【イラクサ科】  エゾイラクサ
【タデ科】  ハナタデ、ヤナギタデ、ミズソバ、ヒメスイバ、タニソバ、オオイヌタデ、サクラタデ、スイバ
        (スカンポ)、ミズヒキ、ミチャナギ、オオミズソバ、ハルタテ、ママコノシリヌグイ(トゲソバ)
        、イヌタデ、イタドリ
【カタバミ科】  カタバミ
【フクロソウ科】  ゲンノショウコ、チシマフウロ
【ユキノシタ科】  ノリウツギ(サビタ)、ウメバチソウ、ネコノメソウ
【アカバナ科】 メマツヨイグサ、ミヤマタニタデ、ヤナギラン
【アリノトウグサ科】  アリノトウグサ、フサモ
【ヒルガオ科】  ヒルガオ
【リンドウ科】  エゾリンドウ、ハナイカリ、チシマセンブリ
【オオバコ科】  オオバコ、ヘラオオバコ
【スイカズラ科】  エゾニワトコ
【キキョウ科】  キキョウ、ツリガネニンジン
【オミナエシ科】  オミナエシ、キンレイカ

樹  木
 北海道に一般的に分布している樹種のほとんどが、上湧別町に生育している。

【イチイ科】  イチイ(オンコ・アララギ)
【マツ科】  アカエゾマツ、トドマツ、エゾマツ(クロエゾマツ)、カラマツ、アカマツ、ヒメコマツ、トウヒ、
        ゴヨウマツ(ヒメコマツ)、クロマツ、チョウセンゴヨウ
【イチョウ科】  イチョウ
【ヤナギ科】  ウラジロハコヤナギ(ギンドロ)、ネコヤナギ、ウンリュウヤナギ、シダレヤナギ、エゾ
          ヤナギ、エゾノバッコヤナギ(エゾノヤマネコヤナギ)、ポプラ
【クルミ科】  オニグルミ、サワグルミ
【カバノキ科】  ハンノキ、ミヤマハンノキ、ヤマハンノキ、ダケカンバ、シラカンバ、サワシバ、アサダ
【ブナ科】  クリ、ブナ、クヌギ、ミズナラ(ナラ)、カシワ、コナラ
【ニレ科】  エゾエニキ、ハルニレ(アカダモ)、オヒョウ
【クワ科】  ヤマグワ
【カツラ科】  カツラ
【モクレン科】  コブシ、キタコブシ(エゾコブシ)、ホオノキ
【バラ科】  エゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)、チシマザクラ、シウリザクラ、ミヤマザクラ(シロザク
        ラ)、ミネザクラ、ナナカマド
【ミカン科】  キハダ(シコロ)
【カエデ科】  イタヤカエデ、アカイタヤ、ヤマモミジ、ハウチワケカエデ
【シナノキ科】  シナノキ
【ウコギ科】  コシアブラ、ハリギリ(センノキ)
【ミズキ科】  ミズキ
【モクセイ科】  ヤチダモ、アオダモ、ミヤマイボタ、ハシドイ(ドスナラ)
【トチノキ科】  トチノキ
【マメ科】  イヌエンジュ、ハリエンジュ(ニセアカシア)、エゾヤマハギ、フジ
【ヤドリギ科】  ヤドリギ
【ウルシ科】  ツタウルシ、ヤマウルシ
【ニシキギ科】  ツリバナ(エリマキ)、マユミ、ツルウメモドキ
【ブドウ科】  ノブドウ、ヤマブドウ、ツタ
【マタタビ科】  サルナシ(コクワ)、マタタビ
【ツツジ科】  エゾムラサキツツジ、レンゲツツジ、ヤマツツジ、シロバナトキワツツジ

果  樹
 上湧別町で栽培されたリンゴは、「湧別リンゴ」の名で知られ、北限の果樹産地として期待された。 屯田兵が入地した明治30年代(1997~)から大正時代に植えられた品種は国光、紅玉、祝、柳玉、倭錦、緋之衣、旭などだが、地理的に海が近いため、冬の気温がリンゴ生育の限界を超えることがなかったのが幸いした。
 最初は、家庭果樹として湧別川流域の沖積土地帯の宅地に植えられて定着、生活に潤いを与えた。 しかし、販売されるようになり、経済性を持つように変わった。 昭和年代(1926~)に入って果樹栽培農家が上湧別荓果(リンゴ)協会を結成、各地を視察、研究し、専門家の指導を受けるなどして栽培方法や技術の改良に努めた。
 その結果、昭和11年(1936)に陸軍の秋季機動演習が北海道で開催された際、来道された天皇陛下の天覧、御下賜果物調製の御下命を受けるなどの名誉を受け、「湧別リンゴ」の黄金時代を迎えた。 また、北海道の特別指導地が町内に設けられたこともあって、栽培技術改良が一層進んだ。 戦後は、果樹ブームの到来で地域の主要産業に育った。 新しい品種として、味と色の良いデリシャス系を導入、高値で売られたがウイルスによる高接病が発生するようになり、あたらしい苗木に更新して増反し、同40年代(1965~)には栽培面積が200㌶台に及んだこともあった。
 ところが、新しい苗木の導入とともに黒星病が侵入して大発生、その後も風害、凍害に見舞われ、さらに腐乱病も次第に増加するなど、老木を維持することができなくなった。 このため早期多取を図る方法として、昭和44年(1969)から矮性台木を入れたが、期待した実績が挙がらなかったうえ、いよいよ腐乱病が蔓延し、衰退が著しくなった。 その後、小面積ではあるが、ツガル、フジなどの新品種を導入し、試験栽培を続けた。 平成時代(1989~)に入ってからは北海道中央農業試験場の試験圃場の指定を受け、ハックナインの栽培を試み、量的には少ないが現在も出荷している。
 リンゴのほか、ナシ、スモモなども一般農家でかなり栽培されたが、やはり病虫害がひどく、減少してしまった。 わずかながら自家用としてアンズ、サクランボ、ブドウ、マルスグリ(グーズベリー)、フサグリ(カーランツまたはカリンズ)もみられる。

     
 第三章  

 気  象  
第一節   概   況 
 オホーツク海に面する網走支庁管内は、北見山脈と千島火山脈によって、東北斜面を形成している。 上湧別町は、東西を走る低い山地に囲まれている。 南方は山間地の狭い平地で遠軽町に接し、北方は平地で湧別平野に入る。 オホーツク海岸から南へ町界まで約4kmしか離れていないので、オホーツク海型気候の特色を持っている。

春  3、4月はまだ名のみの春で寒く、オホーツク海の流氷が姿を消す4月中旬から下旬にかけて寒さがやや緩む。 雪の終日は大体4月中旬から5月上旬で、すっかり春らしくなるのはそれ以降である。 気温も上昇して5月には平均10度を超すことも珍しくない。 このころ中国からの移動性高気圧が東進して北海道を覆うが、 一方で低気圧が通過することが多くなり、5月下旬から6月中旬ぐらいまで天候が不安定になる。 しかし、5月中にチューリップ、リンゴ、桜の花が満開になって花の町らしい彩と香りに包まれる。
 春は宗谷海峡から暖流が流れ込み、寒流とぶつかり合うため霧が発生することがあるが、その日数は極めて少ない。

夏   大陸部に低気圧、太平洋上に高気圧が生じ、洋上から南または南東の風が吹いて温度が急上昇するほか、山脈に遮られた空気は乾燥し、雨が少なく、好天が続く。 温度も7,8月には30度を超えることもある。 しかし、高温日数は数えるほどで、せいぜい8月下旬までである。 オホーツク海の高気圧が異常に発達し停滞したりすると、北東の風にさらされ、気温もほとんど上がらず、盛夏を迎えないまま冷害凶作に見舞われることがある。

秋  8月下旬になると、急に秋風が吹いて涼しくなる。 9,10月は昼夜の温度差が大きく、初霜は9月下旬から10月初めに降りる。 初雪は11月上旬から12月上旬である。 11月に入ると、土が凍結を始める。 夏から秋への季節の変わり目は、にわか雨が多くなるが、晴天も多い。 これは南東と北西の季節風の交代期で季節風が衝突するためである。

冬  シベリア大陸の高気圧最盛期で、気圧配置は、典型的な西高東低となる。 北西の季節風が強いが、地形の影響により北海道内では天気の良いほうで、降雪、吹雪などは比較的少ない。 気温は12月に入ると0度以下となり、翌年1月半ばごろにはオホーツク海が流氷に閉ざされる。 1年中最も酷寒の1,2月は氷点下20度以下に下がることもある。 根雪は12月中旬から1月上旬にかけてが多い。 積雪量は山地を除けば50cm前後とあまり多くない。

第二節   気   温 
 気温は1,2月に最低となる。 かっては氷点下30度を記録したこともあるが、最近は暖冬傾向になっている。 平均最低気温が氷点下15度以下になることはまれである。 3月は寒気が緩むが、春はまだまだ遠く、雪の終日は5月中旬にずれ込むことも少なくない。
 5月の平均気温は7~12度の範囲内で上下し、天候は概して順調である。 8月下旬はもう秋風の季節になる。 日一日ごとに気温が低下、12月に入ると土まで凍るようになる。
 
第三節   降 水 量 
 日本海や太平洋方面から吹いてくる湿気を含んだ風は、北見山脈、天塩山脈、千島火山脈に遮られて乾燥する。 このため雨量は少なく、特殊な年を除けば年間700~800ml程度で、5~10月の農繁期の降雨量は、北海道でも最も少ない地方といわれている。
 湿度は一応湿潤の地域に属しているが、時には乾燥する。 およそ湿潤期は春と秋である。
 
第四節   霜 と 雪 
  初霜と晩霜、初雪と融雪の早い遅いは、農作業や作物の生長、収穫に大きなかかわりがある。 上湧別町の場合、晩霜が4月下旬から5月中旬 、初霜が9月下旬から10月上旬の間が多く、晩霜と初霜の隔たりは140日前後と考えられている。 降霜の早い北海道中央部に接しているが、東北部の最も遅い地方に比べてもわずか数日しか差がないのが特徴である。

雪  初雪は11月上旬から12月上旬にかけて、根雪は12月中旬から1月上旬までと、その年に幅が広い。 融雪期はおおむね3月中旬から始まっているが、雪の終日は4月下旬から5月上旬にかけてである。 積雪量は山地以外は比較的少なく50cm前後にとどまる。 150cmを超すことはめったにない。

第五節       
 ”春一番”は、4,5月の南寄りの季節風がもたらす、7,8月は太平洋上の高気圧から南東の風が生じる。 10月下旬から11月初旬には、北西の季節風に変わる。 12月~2月は風がやや強い。 風速は、累年平均2.5~3.0である。 
第六節   日  照 
 平成7年(1995)までの18年間の年平均日照時間は約2090時間だが、昭和63年(1988)以降、新しい気象測定器導入の影響もあるが、2000時間を大きく割り込んで日照時間が短くなっているのが目立っている。 平成7年の場合、1476.3時間で前年より224.2時間減り、5月、7月、10月の日照時間は過去18年間で最低となっている。

月平均気温              (単位:℃)

年  1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 全年 
昭和53  -9.4  -13.0  -4.4  4.0  10.2  15.0  21.5  20.6 14.7  8.1  1.6  -3.6   5.4
 54  -8.3  -6.0  -4.6  1.0  7.7 14.3   15.5  20.4 14.9  10.3  2.0  -1.7   5.5
 55  -6.4  -10.1  -3.2  1.6  9.1 14.2   15.5  15.30 15.1  8.6  3.2  -1.3   5.1
 56  -8.7  -9.6  -5.0  3.9  7.8 11.0   17.8  20.3 14.4  9.3  0.2  -2.8   4.8
 57  -7.5  -9.7  -2.1  3.2  9.8 12.9   17.3  19.0 15.5  10.1  3.3  -2.2   5.9
 58  -6.3  -9.3  -4.6  7.8  9.2 8.7   14.5  20.6 14.7  7.3  2.6  -3.9   5.0
 59  -7.5  -10.3  -5.4  1.9  8.0 16.4   19.3  21.2 15.1  7.9  1.3  -4.8   5.2
 60  -11.8  -6.6  -3.0  5.2  10.2 12.0   16.9  19.7 14.1  8.8  2.3  -6.6   5.2
 61  -10.2  -10.6  -5.0  5.1  9.3 10.9   15.3  17.8 15.6  6.9  1.6  -4.0   4.6
 62  -9.7  -8.3  -2.4  4.7  10.8 12.7   18.0  20.3 15.9  10.0  1.6  -4.5   5.6
 63  -7.0  -9.6  -3.3  4.4  8.2 13.1   13.9  20.5 15.0  8.0  0.8  -2.2   5.2
 平成1  -5.0  -4.6  -0.4  3.6  9.0 11.1   19.6  19.9 16.2  9.8  4.1  -2.4   6.7
 2  -8.8  -4.7  -0.9  5.6  10.0 13.8   18.7  18.2 16.0  11.0  5.3  -0.2   7.2
 3  -3.4  -6.5  -2.5  56  11.1 15.1   16.4  18.1 15.4  10.5  3.2  -3.6   6.6
 4  -6.8  -6.1  -2.1  4.2  8.7 12.5   17.8  17.9 13.7  9.0  2.8  -2.6   5.8
 5  -4.8  -5.3  -2.2  2.5  8.3 10.7   16.1  22.1 15.4  9.3  2.8  -2.6   5.7
 6  -8.7  -4.6  -3.2  3.8  12.1 13.0   19.0  18.9 17.2  9.9  3.0  -4.5   6.6
 7  -6.1  -6.8  -2.9  4.8  12.5 12.5   18.8  19.8 15.5  10.7  4.2  -2.8   6.6

月降水量               (単位:mm)
 年 1月  2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月  全年 
 昭和53  61 20  62   23  88 70  26  163  56  72  47  47   735
 54  42 50  117   21  59 54  93  76  208  60  49   837
 55  45 18  82   59  27 121  15  90  21  58  21  44  601
 56  46 32  42   80  52 52  128  183  75  41  18  44  793
 57  48 34   74  62 78  55  52  52  44  61  25  591
 58  19 31  32   4  56 75  51  57  93  34  43  34  529
 59  50 13  50   18  24 33  37  97  34  52  24  436
 60  93 89  11   34  19 28  124  88  101  98  60  59  804
 61  38 24  47   43  47 24  57  124  52  22  45  527
 62  71 10   26  50 44  143  105  28  88  70  39  x
 63  26 12  32   28  68 60  23  81  45  77  79  18  519
 平成1  35 83   92  49 88  28  151  57  28  73  58  748
 2  49 31  110   89  43 31  41  169  190  40  41  46  880
 3  39 34  30   74  14 131  73  32  126  92  30  55  730
 4  41 11  21   31  44 52  163  212  293  70  53  43  1034
 5  69 25  18   63  21 125  21  54  96  104  66  56  718
 6  10 45  57   63  35 51  75  133  259  31  42  30  831
 7  41 91  26   54  57 46  150  150  92  110  61  87  965

平均風速                (単位:m/s)
 年  1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月  全年 
 昭和53 3.0  2.3  2.8  3.2  3.1  2.4  2.2   2.3 3.0  2.8   2.7 3.3   2.8
 54 3.1  3.2  3.4  2.5  2.6  2.4  2.0   2.6 3.0  3.1   2.4 2.6   2.7
 55 2.9  2.4  2.8  2.3  2.7  2.2  1.7   2.1 2.7  2.6   2.9 2.7   2.5
 56 3.0  1.9  2.7  2.7  3.3  1.6  1.8   2.3 2.9  3.8   2.9 3.5   2.7
 57 3.6  3.3  3.0  2.9  3.0  2.7  2.5   2.5 2.8  3.4   2.9 2.7   2.9
 58 3.2  2.9  2.8  4.0  3.2  2.4  2.2   2.2 2.7  3.4   2.9 3.5   3.0
 59 3.6  3.2  3.3  2.9  2.4  2.6  2.1   2.6 2.8  3.4   3.5 3.0   3.0
 60 3.5  3.2  2.9  2.8  3.1  2.5  2.2   2.0 2.9  3.1   2.9 3.2   2.9
 61 3.6  3.0  2.9  3.7  3.1  2.2  1.9   2.1 2.6  3.1   3.1 3.4   2.9
 62 3.2  3.1  3.3  3.4  3.2  2.0  2.2   1.9 2.9  3.1   3.2 3.3   2.9
 63 2.8  3.2  3.1  2.8  2.8  2.0  1.8   2.1 2.3  3.4   2.9 3.0   2.7
 平成1 3.1  3.3  2.8  2.8  2.6  2.5  2.2   2.4 2.4  2.9   2.6 3.5   2.8
 2 3.3  3.0  3.1  3.3  2.9  2.2  2.0   1.9 2.3  3.1   3.3 3.3   2.8
 3 3.1  3.4  3.0  3.3  3.0  2.0  2.1   2.0 2.7  3.2   2.6 3.1   2.8
 4 3.3  3.0  3.0  3.0  2.7  2.1  2.0   1.7 2.5  2.5   2.6 2.6   2.6
 5 2.5  2.7  2.9  2.9  2.4  2.0  1.9   1.8 2.3  2.6   2.8 2.7   2.5
 6 2.5  3.3  3.1  3.1  3.1  2.1  1.7   1.8 2.2  2.6   2.5 2.5   2.5
 7 2.9  2.8  2.3  2.7  2.6  1.9  1.8   1.7 2.3  2.3   3.1 3.0   2.5

日照時間                  (単位:h)
 年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月  全年 
昭和53  169.5  228.4  275.6  203.1  225.1  228.5   285.2  240.6 247.2  185.1  160.3   144.6  2591.2
 54 174.2  199.0  210.0  235.1  212.9  220.8   220.7  298.1 228.3  158.6  129.0   125.4  2451.7
 55 148.4  217.0  222.3  210.0  230.6  212.5   201.6  157.8 208.1  138.2  159.0   111.6  2259.8
 56 170.4  198.3  241.6  222.3  169.9  158.5   175.2  185.7 245.4  206.0  163.0   143.8  2297.2
 57 162.9  222.7  244.8  241.6  234.5  228.0   256.7  231.1 243.4  243.0  116.5   131.6  2547.4
 58 174.5  191.2  273.8  244.8  229.6  115.6   220.3  225.1 187.4  208.0  137.7   151.3  2346.5
 59 163.3  224.6  255.6  273.8  221.7  265.1   248.6  270.4 241.9  197.8  196.3   151.4  2732.1
 60 182.1  171.4  251.3  255.6  259.6  247.1   227.6  215.3 216.9  193.1  140.1   155.0  2533.7
 61 181.5  215.5  246.0  251.3  208.1  211.9   197.5  226.1 217.3  194.5  141.7   165.8  2470.2
 62 160.0  196.9  180.6  246.0  194.1  172.4   130.9  88.7 104.3  176.2  106.6   137.0  2038.4
 63 108.6  175.3  126.7  180.6  190.0  159.3   159.3  134.5 151.1  135.1  122.0   108.4  1790.7
 平成1 105.7  151.0  171.4  126.7  190.2  156.2   224.0  208.7 141.8  166.8  87.8   99.0  1773.8
 2 110.3  133.6  152.4  171.4  156.3  112.0   209.8  140.6 143.0  179.8  122.6   90.0  1784.5
 3 83.1  130.8  134.4  152.4  217.9  156.4   120.4  145.7 145.5  149.7  109.1   117.4  1708.8
 4 121.6  148.1  156.8  134.4  142.9  113.9   112.1  123.1 130.5  157.6  117.5   94.5  1596.6
 5 89.2  94.5  173.9  158.8  148.9  63.5   178.4  172.1 146.9  113.0  104.8   102.9  1564.2
 6 133.4  85.6  131.6  173.9  176.4  154.7   128.0  146.1 120.0  174.0  143.4   84.2  1700.5
 7 110.9  114.6  13.5  131.6  138.3  118.8   109.9  100.1 177.3  105.1  92.9   88.5  1476.3
  
   第二編  通   史
第一章 

先 史  
第一節   先縄文文化(旧石器時代) 
遺跡、遺物の調査研究
 上湧別町内には、先住民族の遺跡、遺物が数多く存在している。 明治期の開拓当時から至る所で石器、土器が出土しているが、本格的な発掘調査が始まったのは、昭和30年(1955)からである。 この年、北海道大学教授の大場利夫と元上富美中学校教諭の北村英夫らが、上富美遺跡を発掘調査した。 その後、大場教授や網走郷土博物館長の米村喜男衛らによって、発掘と調査が進められた。
 これまで調査された遺跡は、湧別川流域を挟む東西の山地と、それに連なる山裾の台地に多く分布している。 特に北兵村三区台地などでは、同一場所や同一竪穴から明らかに時代の異なった遺物が出ている。 これは年代を隔てた移民族が、同じところに住んでいたことを裏付けている。


白滝人
 北海道を覆った最後の氷河時代は、「トッタベツ氷期」(第四氷期、約7~2万年前)と呼ばれる。 この時代、海域が後退して間宮海峡、宗谷海峡が陸続きとなった。 北海道は樺太(サハリン)、シベリアとつながった一大半島を形成した。 当時、シベリア大陸を東へ移動していたマンモスやトナカイ、ヒグマなどを追って、この北海道にも人間の集団が渡来したとみられる。
 これらの人たちは「白滝人」と称されている。 彼らはまだ土器を作ることは知らず、打ち欠いて作った石器と、動物の骨で作った骨器を主な道具として使っていた。 矢じり、小刀などの武器、刃物の材料になったのが、白滝の山に大量に埋蔵されていた黒曜石(十勝石)であった。
 白滝に住み着いた彼らは、石器製造の作業場を作り、湧別浜、湧別芭露、上湧別地方にも原石を運び、そこでも石器を製造していた。 こうして洪積世から沖積世初期(約2~1万年前)の様々な種類の遺跡と遺物が、白滝村をはじめ上湧別町、湧別町、遠軽町、常呂町、紋別市などから数多く発掘されている。 上湧別町の上富美などの遺跡も、それに含まれる。


石 器 
 出土する石器は、あとに続く縄文文化以降のものとは異なり、ヨーロッパでみられる旧石器時代の各種石器と,形態、制作方法に共通する点が多い。 そのうえ、洪積土の地層に埋蔵されているので、年代的にも合致する。
 石器は、長さ10cm、幅2cm前後の石刃(ブレード)、不整形の剥片石器(フレーク・ツール)などの利器のほか、石刃制作用具として使われた端削器(エンド・スクレーパー)、彫器(グレーバー)、舟形石器、それに石核(コア)と称される石刃をはいだあとの円錐形の母岩などが一緒に出土している。 大場教授らによる上富美地区の発掘調査では、黒土層の40cm下の粘土層から四個の剥片石刃(フレーク。ブレード)が出土したほか、大型石槍(ポイント)、石刃、細石刃(スモール・ブレード)、削器(スクレーパー)、石核、半円形の礫器などが表面採集された。 いずれも、無土器時代(先縄文文化時代)のものと推定されている。
 白滝村や遠軽町から発掘されている北海道最古の石器類である石槍、白滝型舟底型石器などは、本州では分布が確認されていない。 しかし、大陸ではシベリア、モンゴル、中国東北部などで似たものが発掘されている。 このことから、同じ文化圏に属していたことが、十分にうかがわれる。
 また、法華道北東部沿岸地帯を中心に、石刃文化と性格を異にした石刃鏃文化が存在していた。 石刃鏃は、背面加工によって石刃から作られたものである。 湧別町、浦幌町、女満別町などに代表的な遺跡があるが、上湧別町でも五鹿山、北兵村三区から採集されている。 この文化が北海道南部や本州に及んでいないのは、源流を北方大陸に持ち、北海道北東部にわずかに伝わって、やがて終息した北海道特有の文化と考えられる。

第二節   縄文文化(新石器時代) 
遺 跡
  沖積世に入り、今から7,8千年前に地球の気温は上昇し、氷河が消えた。 海水が急に上昇して、それまで大陸と地続きだった北海道が形成され、縄文文化時代になると、現在とほぼ同じ地形に落ち着いた。 宗谷海峡や日本海ができたが、大陸で発生した土器文化が、海を越えて速やかに渡来した。 縄文文化人は、先縄文文化人が山稜地帯で生活していたのに対し、漁労、狩猟に適している現在の河川、湖沼付近に集落を形成していた。
 彼らが残した遺跡は、北海道各地に分布している。 そこから貝塚、竪穴住居跡、洞穴遺跡、環状石蘺(ストーン・サークル)、環状土蘺、積石墳墓、砦(チャシ)、盛土墳墓などが確認されている。 上湧別町における遺物包含地は、ほぼ全域に及んでいて、竪穴住居跡は各所にみられる。 積石墳墓は、6号線苗圃で発見されている。


出土品
 縄文時代になって、様々な形の石鏃、石刃、石槍、石斧、石錘、削器などが盛んに使われた。 この時代から、新たに土器が登場する。 主な土器に逐条体圧痕文土器(チクジョウタイアツコンモン)(早期)、組紐圧痕文土器(クミヒモアツコンモン)(早期)、押型文土器(オシガタモン)(前期)、綱文武土器(前期)、網走式土器(中期),北筒式土器(中期・後期)、栗沢式土器(晩期)、前北式土器(晩期、続縄文文化期)などがある。
 このうち綱文式土器は上湧別町の6号線、7号線、7号線台地、網走式土器は北兵村三区台地、北筒式土器は町内の至る所からそれぞれ出土、また、栗沢式土器は6号線苗圃、北兵村一区11号線東部台地、10号線東部山裾から、前北式土器は数か所で採集されている。

第三節   続縄文文化 
遺 跡
 気象の変化を中心とした地理的環境が、本州と北海道の文化の推移を分けた。 本州では、狩猟と漁労を主たる生活手段としていた縄文文化時代が終わりを告げ、稲作農耕を生活基盤とする弥生文化に移行した。 遺物も縄文文化が石器、土器に限られていたのに比べ、弥生文化には金属器が加わった。
 北海道では寒冷な気候が農耕を受け入れなかったので、弥生文化の影響が少なく、しばらくは縄文文化と同じ生活状態が続いた。 しかし、年代が経過するに従い、石器と土器の文化は改善されていき、やがて金属器の恩恵を受けるようになった。
 これを続縄文文化と呼ぶが、この時代遺跡は、縄文文化と比較して、いっそう海岸線に近いところに分布している。 立地条件は縄文文化と同じで、人々は河川や湖沼の周辺に住んでいた。 北海道では、主として北部、北東部に分布、遠くは北の樺太(サハリン)から南は本州の奥羽地方に及んでいて遺跡が発見されている。 湧別町では数多くの竪穴が確認されている。


出土品 
  この文化の重要な遺跡として、余市町フゴッペの洞穴がある。 ここからは後北式土器や石器、それに金属器で加工された骨角器、松明などのほか、壁面から200以上の彫刻が発見されている。 当時の生活の様子や大陸との交流を示す貴重な遺跡として注目されている。
 上湧別町では後北式土器の破片などが採集されるのにとどまっているが、この土器の特徴は、胎土に繊維を含まず、やや薄手にできていて深鉢型が多い。 地紋として縄文を縦に施し、または数本の縄を束にして施紋しているものもある。

第四節   擦 文 文 化 
遺 跡 
 本州中枢部の文化でいえば、奈良~平安朝の文化とほぼ同じ年代に当たる。 北海道の北部、北東部で一時代を形成した続縄文文化時代における後北式土器文化と、北海道南部で栄えた恵山式文化は、周囲の高度な文化、特に奥羽地方の土師器文化の強い影響を受けて、やがて擦文文化へと移行した。 この遺跡は河川、湖沼、海岸などに近い台地に多くみられ、上湧別町では、北兵村三区、旭地区で数多くの竪穴住居跡が発見されている。

出土品 
 住居跡は、深さ50cmから1mぐらいで、一辺が約6mの矩形、その周辺から擦文式土器や石器、骨角器、金属器、紡錘車、装身具などが出土する。 擦文式土器は焼き上げ温度が高く、薄手で縄文はないが、その代わりに擦痕が刻まれている。 器形は深鉢、淺鉢、台付、盃などが多い。
  
第五節   オホーツク文化 
遺 跡 
 擦文文化の時代に、大陸から特色ある文化が北海道北東部に伝えられた。 遺跡の大部分がオホーツク海沿岸にあることから、オホーツク文化と名付けられている。 この文化は、北海道北東部を中心に樺太(サハリン)、利尻島、礼文島、南千島に広がっている。 時代的に重なっている擦文文化とは、明らかに異なる特徴を持っていた。 擦文文化人が河川、丘陵を生活の場としたのに対し、オホーツク文化人は海岸を生活の拠点とした。 しかし、ところによっては、両文化の遺跡が隣接して存在している。 上湧別町に遺跡はないが、湧別町、常呂町、紋別市、網走市などに分布している。

出土品  
  遺跡は、一辺が10m前後、深さ1.5mぐらいの亀甲型の竪穴である。 遺物は土器、石器、骨角器、金属器などで、土器は胎土に繊維がみられず、砂粒が含まれている。 焼き上げの温度は割合低く、文様は刻文、型文をつけたり、年度の細紐を張りつけた浮文を口頚や胴部にぐるりと回してつけている。 大陸に類似したものがあり、骨角器も北太平洋圏に共通したものが多くて、やはり地理区的色彩が濃い。
 一般的に擦文文化の担い手は、アイヌ民族の直接の母体とされているが、オホーツク文化人については定説が確立されていない。 しかし、近年では、アイヌ文化の精神的側面に、オホーツク文化の影響をみる主張も出されている。

第六節   アイヌ文化 
湧別アイヌ
  擦文文化時代のあとに、近世アイヌの文化が開けた。 擦文文化が終わった12世紀ごろから、アイヌ民族の社会が北海道全域に成立し、湧別川流域を本拠とする湧別アイヌも繁栄していた。 松前藩が元禄(1688~1704)末期に幕府へ提出した報告書や、幕末に松浦武四郎が著した『近世蝦夷人物誌』に、湧別アイヌについての記述があり、湧別アイヌがこの地方の中心的存在であったことを伝えている。
 湧別アイヌと十勝アイヌの抗争も、有名な話として残っている。 湧別原野の豊富な魚介類や鳥獣などの獲物をねらって、十勝アイヌの一軍が湧別アイヌの猟区を襲った。 両者はチトカニウシの山を境にして激しい合戦を繰り広げたが、湧別アイヌの旗色が悪く、インガルシ(遠軽町の巌望岩)の砦を最後の決戦場と定めて後退した。
 この堅固な砦に立てこもった湧別アイヌと、応援にかけつけた北見国各地のアイヌの人たちは、必死の防戦に努めたが、強くて凶暴な十勝アイヌは、ある夜、暴風雨をついて一挙に攻撃をしかけた。 その時、夜半になってにわかに湧別川が氾濫し、大洪水となって十勝アイヌを濁流にのみ込んだ。 暁とともに暴風雨がやみ、空が晴れわたるころには、湧別アイヌの人たちの勝ち鬨が響いた。 しかし、双方共生き残る者は少なかったという。


コタンの英雄 
 湧別アイヌの拠点は、湧別コタン(上湧別町中湧別)にあった。 そのリーダーとして名を残しているのが、ハウアイノである。 ハウアイノは、アイヌ文化盛衰の岐路の時代にあって、民族の期待を一身に集めた英雄であった。 松浦武四郎も彼のエピソードを伝えている。 それによると、仲間たちが宗谷場所へ強制労働に駆り出されるのに抗議して番人と口論、雪深い石狩の山に立てこもったが、彼を慕って部下も同調したので、その番人もついに折れて呼び返したという。 ハウアイノの民族を思う心情と、仲間から寄せられる信頼の厚さを彷彿させる話である。 また、彼が射止めたヒグマは100頭を超えたという。

コタンの衰退 
 アイヌの人たちの衰退が表面化するのは、近世アイヌの文化に移ってから約200年後である。 その原因の一つとして、宗谷場所の開設が挙げられる。
 貞亨3年(1686)西蝦夷地に属していた北見地方に、松前藩主直轄の宗谷場所が初めて開設された。 本格的な場所の経営に伴って、アイヌの人たちは従来の自由な狩猟生活が維持できなくなった。 そればかりでなく、入植してきた和人の影響で、生活様式も徐々に変化せざるを得なくなっていった。
 特に場所請負人たちのアイヌ使役が過酷を極めたため、男子の犠牲者が多く、男女数が不均衡になり、結婚の機会が減少したりして人口増加を阻み、衰退に拍車をかける結果となった。
 上湧別では明治30年(1897)の屯田入地によって、中湧別のアイヌコタンの人たちに貸与地が与えられた。 だが、現在はその跡をとどめていない。 文久2年(1862)の記録によると、湧別アイヌの戸口は28戸・121人とある。


町名の由来 
 北海道の地名は、そのほとんどがアイヌ語から転訛したものである。 湧別も例外ではない。 しかし、語源については二つの説がある。 一つはアイヌ語の「ユベ」(サメの意味)と「ベツ」(川の意味)が結び付いたものとする説であり、もう一つは「ユー」は日本語の「湯」、「温泉」がアイヌ語に転じて「ベツ」に結び付いたという説である。 つまり「サメのいる川」と「湯の川」という全く異なった解釈である。 上湯別は、湧別村からの分村の時点で「上」をつけて、湧別村は「下」を付けて区別した。
第二章  
開 拓 使 
第一節   先住民アイヌ 
交易の要衛 
 上湧別に和人が初めて開拓の鍬を下ろしたのは、明治15年(1882)であある。 それ以前の湧別原野は、全くの未開の地であった。 アイヌの人たちが川辺などに三々五々集落を作って、魚や鳥獣の猟をして生活していた。 近世のアイヌ文化時代、湧別はオホーツク海岸第一の大きなコタン(アイヌの集落)があったことで知られている。 330年ほど前の記録によれば、宗谷、幌内、雄武、紋別、網走などのコタンが100~200人で構成されていたのに比べ、湧別は約300人と最も規模が大きく、中心的存在であったことを示している。
 湧別は湧別川をさかのぼって白滝から峠を越えて石狩川上流に通じ、石狩を結ぶ通路であった。そのうえ湧別から船でオホーツク海を航行し、樺太8サハリン)、山丹(中国黒竜江付近)、高麗(朝鮮半島)に渡る交通の要衛となっていた。 しかし、約310年前に松前藩によって宗谷場所を開設されたため、物資の取引の中心は宗谷に移ってしまった。 それ以前は、オホーツク沿岸の交通、交易の中心は湧別であった。 そして湧別アイヌの長は、近隣コタンのリーダーであった。


川西貸与地 
 明治時代になっても、湧別川の奥地まで全流域にわたってアイヌの人たちが住んでいた。 ムリイ(武利)、マウレセブ(丸瀬布)、インガルシ(遠軽)、イカンベツ(開盛)、サクベツ(15号線)、ヌッポコマナイ、ナオザネ(中湧別)、マクンベツ(6号線)などの集落がみられた。 このころ中湧別付近に住んでいたアイヌは、長内慶太郎ら19戸・50人であった。
 アイヌの戸数、人口が減少していったのは、日高、十勝などに集団移住する者が多かったことや、乳幼児の死亡率が高かったことなどが挙げられる。
 明治24年(1891)、中湧別の屯田兵村予定地の区画内に散在していたアイヌの人たちは、8号線と9号線の川西に設定された対余地に移動させられた。

 
第二節   和人の定着 
開拓の祖・徳弘正輝 
  徳弘正輝は、高知市の氏族の出身で、安政3年(1855)に生まれている。 当時の高知県は自由民権の気風にあふれていて、徳弘も自由民権運動に狂奔していた。 こうしたさなかの明治14年(1881)、国会開設の詔勅が出たので、徳弘は同志とともに上京した。 ここでのつに網走郡長となった大木良房と会い、北海道開拓の状況や将来の夢などを聞いた。
 ロマンに満ちた男らしいその壮大な事業は、彼の若い血潮を波立たせた。 徳弘は、未開の天地を開拓する野望に燃え、高知に戻らず、そのまま北海道に渡った。 最初は、網走郡役所の役人になって徴税の仕事をしていた。 しかし、本来の目的である開拓に従事するため、同年秋に湧別へ移住した。 狩猟生活で越年したあと、大阪出身の和田麟吉と共同で、仙台出身の半沢真吉の土地を借りて開墾に取り組んだ。 彼らは馬鈴薯、麦などを試作して、相当の収穫を得た。
 半沢は明治15年(1882)10月、紋別戸長に赴任したので、その土地を2人が譲り受け、翌16年(1883)から開墾を始めた。 徳弘が27歳の秋のことであった。 半沢、徳弘、和田は、湧別原野で野菜以外の畑作物を栽培した最初の人たちである。 和田も同17年(1884)に駅逓業に転じたため、和人として初めて定住し、地域の発展に尽くした徳弘が、上湧別町の「開拓の祖」の名誉を担うことになった。


徳弘の農場経営 
 徳弘が半沢の土地を引き継ぎ馬鈴薯などを栽培したのは、湧別海岸近くの2,3号線であったか、6号線辺りのマクンベツであったか、はっきりしない。 しかし、明治17年(1884)に、湧別村マクンベツ(湧別川沿いの6号線)の官有地3.3㌶の売貸指令を受けたという記録が残っている。
 明治20年(1887)春、牧場経営に失敗した網走の原鉄次郎らから、北海道庁貸付牛7頭をそのまま譲り受け、湧別浜に放牧した。 ところが、海岸地帯が放牧場に適さなかったため、同年10月に、水も豊富であり良質の草が繁茂しているナオザネ(中湧別)の新地に移り、早速30㌶の牧場払下げを申請した。 付近にはアイヌの人たちが多く住んでいて、、徳弘は彼らと親しく付き合った。
 この農場経営は、順調に伸びた。 明治29年(1896)の記録によると、牛25頭、馬2頭、豚4頭を飼育、成墾地を10.5㌶以上を持ち、小作人も7戸抱えていた。 この牛はやがて30頭まで増えたが、同30,31年(1897,1898)の屯田兵入植によって草原が減ったうえ、同31年の湧別川の大洪水で被災し、家畜は全滅状態になった。 このショックで徳弘の経営意欲が減退した。 工作畑も減ってしまい、余剰地は新しい移住者に食糧畑として貸したりした。 明治末期からは、土地を分割して売っている。
 徳弘は、最初の専業農家としても足跡を残している。 農作物の実験試作の実践者として、各種作物の種子や畜力、農具への下付けを願い出て耕作、栽培に努めた。 明治18年(1885)には、徳弘の作った馬鈴薯が、全道物産共進会で入賞し、褒状をを受けている。 徳弘の農場経営に対する並々ならぬ熱意がうかがえる。 また、後から入ってきた移住者の開墾の世話をするなど、湧別原野開拓の第一の功労者としてたたえられている。
 昭和11年(1936)7月3日、波瀾万丈の82年の生涯を閉じた徳弘の墓は、湧別原野6号線の湧別町墓地にある。
 昭和55年(1984)、徳弘の七男兎吉と孫の和尚によって、同場所に墓標に変わって、新しく石碑(墓)が建立され、近しい人たちに見守られている。

第三章   


目次



湧別屯田兵 
第一節   屯田兵とは 
屯田兵の起こり 
  明治18年(1885)に制定された「屯田兵条例」には、屯田兵は「平常ハ給与ノ家屋ニ居住シ、開墾ノ事ニ従ハシメ」(第4条)と定めている。 家族と一緒に生活しながら、軍事防衛に当たるとともに、農業を営み開拓を進めるのが屯田兵である。
 屯田兵制度創設の背景には、当時の帝政ロシアの日本北方への進出があった。
 すなわち、樺太(サハリン)や千島などの帰属について、江戸時代末期から外交上、ロシアとの間で対立があり、明治になってからも蝦夷地をめぐる情勢は一層激しくなった。 樺太などは諸民族が混在していたが、蝦夷地は松前地方などに和人がわずかに住んでいるだけで、あとは全道各地にアイヌの人たちの集落が散在しているという状況であった。
 樺太などを外国に日本領と認めさせ、蝦夷地への侵略を阻止するためには、 まず、蝦夷地に多くの和人を送り込み、その開拓を急ぐ必要があった。 箱館戦争が終わって間もない明治2年(1869)5月、明治天皇は蝦夷地開拓の方法を御下問になった。 これにより、同年7月8日に蝦夷地開拓の中核となる開拓使が置かれ、蝦夷地は8月15日をもって北海道と改称された。  北海道内は11国86郡の行政区が定められ、その開拓は国の重要施策として進展されることになった。


開拓使と屯田兵 
 屯田兵については、明治4年(1871)、時の陸軍卿(陸軍大臣)西郷隆盛が創設を主張した。 西郷の屯田兵構想は、廃藩置県によって仕事をなくした失業武士の救済策という側面を持っていたが、時期早々のため実現しなかった。
 明治5年(1872)北海道の人口は8万9000人であったが、その大部分は漁業に就いていた。 当時は耕作可能な土地が約771万㌶あったが、実際の耕地面積は、わずかs2496㌶(0.03%)しかなかった。 それまでも開拓使が募集した移民や一般の開拓者が、北海道各地に入植していた。 しかし、農業技術の未熟さや寒冷の気候のため、そのほとんどが不成功に終わっていた。
 北海道の開拓には、何よりもあらゆる困難に耐え抜く精神力と堅い団結力が求められた。 そのうえで、国の援助と指導による規律ある集団開拓が必要であった。 それには明治維新で失業した士族集団の存在がうってつけであった。 そこで、福山、恵山騒動が鎮圧された直後の明治6年(1873)11月、時の開拓次官黒田清隆は屯田兵設置の建議を右大臣岩倉具視に提出し、翌7年(1874)10月、「屯田兵例則」が制定された。 このようにして、屯田兵制度の成立が正式に決定されたのである。

第二節   屯田兵制度の移り変わり 
制度の時代区分 
  屯田兵制度は、行政上から三期に分けることができる。 第一期が開拓使時代(明治8年3月~同15年1月)、第二期が独立時代(明治15年3月~同29年5月)、第三期が第七師団時代(明治29年6月~同36年3月9である。 第一期は、開拓使の一部門として屯田事務局が置かれた。 第二期は、屯田事務局が陸軍省の直属となり、屯田兵本部、さらに、屯田兵司令部へ変わった。 第三期は第七師団の創設に伴い、屯田兵司令部は、これに吸収され、屯田兵制度が廃止されるまでである。
 応募者の身分上からは、第一期の士族屯田(明治8年1月~同23年7月)、第二期の平民屯田(明23年8月~同36年3月)に分けられる。 第一期は、応募者が主として士族出身者だった。 第二期は、明治23年(1890)8月の「屯田兵条例」の改正によって、士族、平民の区別なく採用されるようになった。 実際、翌24年(1891)以降の屯田兵のほとんどは平民出身であった。 これは廃藩置県後の社会が一応の落ち着きをみせてきたので、失業士族の救済よりも、奥地開拓が主目的となって農業経験者が求められたという事情もある。


屯田兵の義務と部隊編成 
 最初は無期限の服務であったが、明治18年(1890)から40歳を上限とするようになり、同23年(1890)以降は20年となった。 すなわち、8年間の現役兵と、12年間の後備役の合計20年間の兵役が義務づけられた。 明治23年8月の「屯田兵条例」の改正で現役3年、後備役13年、さらに、同27年(1894)に日清戦争が始まったので、同年11月から現役8年、後備役12年と元に戻った。 いずれも20年という兵役義務は変わらなかった。 同34年(1901)には三たび改正されて現役5年、後備役15年となった。
 屯田兵の部隊編成は、平時と戦時で区別されていた。 平時は現役兵だけで編成し、戦時になると、それに後備役が加えられた。 明治20年(1887)以降実施された平時編成では、一個大隊は5~6個中隊で編成され、1個中隊の兵員は200人であった。 同24年(1891)には第一大隊(本部・札幌。 新琴似、篠路、輪西の各兵村)、第二大隊(本部・滝川。 江別、野幌、南滝川、北滝川の各兵村)、第三大隊(本部・永山。 東永山、西永山の各兵村)、第四大隊(本部・和田。 東和田、西和田、南太田、北太田の各兵村)が置かれていた。 同30年(1897)には現役終了に伴い解隊下兵村があったほか、新設の屯田兵村も誕生したので、大隊の編成替えがあり、第一大隊(本部・深川)、第二大隊(本部・滝川)、第三大隊(本部・剣淵)、第四大隊(本部・野付牛)となった。


屯田兵の募集と給与 
 「屯田兵召募規則」(明治30年8月)によると、屯田兵採用の条件は、①満17~満25歳(ただし、陸軍予備後備補充兵在役の下士上等兵は30歳まで)、②身長5尺(1.52m)以上の者、③戸主、または戸主となるべき者、④身体強壮で兵農に耐えられる者、⑤満15~満60歳で、身体強壮のうえ志願者を助け農業に従事する志操確実な家族2人以上有する者、となっている。
 募集は最初、募集地や応募者の身分が限定されていたので、予定定員を満たすことは難しかった。 明治18年(1885)以降は応募者が急増して、定員の三倍にもなった。 採用(身体等)検査はあったが、学科試験はなく、採用条件さえ満たせば、あとは北海道永住の意思の硬さに重点が置かれた。 採用に当たっては、戸主と15歳以上の家族の連名で誓約文を提出した。
 採用が決まると、支度料、旅費、運搬料が支給され、入地後には土地、住宅、食糧、農具、生活用品が給与された。 これらは「屯田兵移住給与規則」、「屯田兵土地給与規則」に基づいて実施された。 支度料は一戸につき5円、旅費一人一日につき30銭(7歳未満半額)、運搬料一戸一日につき2円60銭であった。
 土地は、1万5千坪(約5㌶)、このうち60㌃は第一給与地と呼ばれる宅地で、兵屋が建てられていた。 兵村はあらかじめ区画され、地番が付けられていて抽選で所有地が決められた。 宅地を除いた4.4㌶が第二給与地である。 下士官にはこのほか約1.7㌶が給与された。
 屯田兵屋は広さ17坪5合(約57.75㎡)で、一戸辺りの建築費は平均すると190円前後といわれている。 家具は一戸につき、鍋大小各1個、茶碗5個、手桶1荷、小桶1組、担桶1荷、柄杓1個、灯具1個、鉄瓶1個、夜具は4布(掛布団)3枚、3布(敷布団)2枚、農具は鍬大小各一挺、唐鍬第2挺・小1挺、荒硎・中硎・鎌硎各1個、鉈1挺、鑢2挺、斧1挺、鋸大小各1挺、柴刈鎌・草刈鎌各1挺、筵20枚、熊手2挺、培養桶(肥桶)1個、農作物の種子は麻1斗、大麦1斗、小麦1斗、大豆1斗、小豆5升、馬鈴薯4斗がそれぞれ物で支給された。
 また、扶助米と塩菜料(副食料)も支給された。 現地に到着後、原則的に5日間は3食とも食事の切符をもらい、賄いの提供を受けることになっていた。 その後は5年間にわたって扶助米は玄米で塩菜料は現金で、定めに応じて給与された。 
 社会保障の制度も取り入れられていた。 移住途中で死亡した場合は、埋葬料の実費が支給され、移住後3年間は7歳以上の者の脂肪に5円、7歳未満は2円50銭が支給された。 医療費についても屯田兵とその家族は3年間無償であった。 また、公共施設として中隊本部、練兵場、射的場、事業場の他に学校、墓地、井戸、風呂などが設けられていたので、一般の開拓移住者に比べ恵まれていた。

第三節   湧別兵村の建設 
兵村の設定 
  湧別原野を兵村適地と定めたのは、屯田本部長の陸軍少将永山武四郎であった。 明治19,同20年(1886,1887)に現地を巡視、調査して屯田兵村設置の方針を固めた。 同22年(1889)、湧別原野が殖民地に選定された。 同24年(1891)には、湧別浜から野上までの区画測定が実施された。 翌25年(1892)に原野の中央部1、294万2千坪(4、314㌶)が屯田兵村予定地に指定された。 この年、原野中央を南北に貫く幅27mの基線道路が開通している。
 兵村の建設に当たって、①整備上重要な位置、②開拓上重要な土地、③濃厚、地積上の適地、などが考慮された。 区画は兵村の性格からいって農業経営、軍事両面の利便性が重視された。 一般の農村とは異なって練兵場、官舎敷地、事業上敷地、墓地、道路敷地、防風林敷地、射的場などの官有地が配置された。 このほか番外地という区画ももうけられたが、これは商店や一般の人たちの居住地に充てられた。 屯田市街地と呼ばれ、8㌶の広さがあった。


兵村の建設工事 
 建設工事は、明治29年(1896)春から始まった。 中隊本部、官舎、兵屋の建設や道路の開削、橋梁の架設などの土木工事を一挙に行うものであった。 不便な未開地であったうえ、天候不順に悩まされ、しかも労働力が不足していたので、工事ははかばかしく進まなかった。
 このため陸軍省は、途中でそれまでの請負契約を全部取り消し、直営工事に切り替えた。 明治30年(1897)5月13日、初代中隊長の岡村勝三郎歩兵太尉ら中隊幹部が着任した時は、兵村は未完成であった。 屯田兵の第一陣は同月29日に入地してきた。 兵屋はまだ工事中であり、土間板の上や押入で寝た。 とりあえず兵屋を一日も早く完成させるため、屯田兵や家族の中から大工などの心得がある者を駆り集め、工事を手伝わせた。 さらに、大工やその他の職人を一般募集して増員、同31年(1898)9月1日の第二陣の屯田兵入地までに、ようやく兵屋を全部完成させた。 その他の全工事が完了したのは、翌32年(1899)のことであった。

第四節   屯田兵の入地 
移 住 
  屯田兵の募集は、4回にわたって実施されている。 第4回計画の第5年度と第6年度の募集に応募したのが、湧別兵村の人たちであった。 採用されたのは第四中隊、第五中隊合わせて399戸であった。 出身地の県別では愛知が70戸で最も多く、熊本43戸、岐阜と山形の各36戸、三重29戸、福島28戸などが続いている。
 移住の荷物は1戸について8個までと制限された。 輸送船は明治30年(1897)が武州丸、翌31年(1898)が東都丸であった。 船室は畳敷きで、ごろ寝をする人や荷物などで雑然としていて、船が大きく揺れるたびに人も荷物もごろごろと転がり、船酔いする人が続出した。 暴風雨に見舞われる(東都丸第一船)といった災難もあった。 そんな中、船内で赤ちゃんが誕生、喜びに沸くなど周礼の夢と不安が交差する航海であった。


上 陸 
 慣れない船旅を終えて湧別浜に着いたのは、武州丸が命じ30年(1897)5月25日、東都丸の第一船が同31年(1898)8月31日、東都丸第二船が同年9月15日であった。 武州丸による第一陣は、折からの低気圧に伴う大時化で船上で足止めをくった。 上陸は2日後の27日の夜になり、翌28日は休養、兵村への入地は29日になった。 第二陣の東都丸の方は二便とも天候に恵まれ、湧別浜に着いたその日のうちに上陸を果たしている。 
 第一陣、第二陣とも上陸したその夜は、湧別浜の宿屋、寺院、民家などに分宿し、長い船旅の疲れをいやした。 当時の湧別浜には、全部合わせても、ほぼ50戸の家しかない。 そこへ一度に1,000人以上が泊まるのだから、どの家もはみ出すほどの満杯状態になった。 土間に筵を敷いて、ごろ寝をする者がほとんどであった。
 屯田兵やその家族は、久しぶりに踏みしめた大地に、ほっと安堵の胸をなで下ろした。 しかし、ただ風が吹きわたる広漠たる原野の向こうに、原始林がはるかに望まれるだけであった。 あらたな不安にかられるのも、またやむを得なかった。


入 村 
 第一陣は中隊本部下士官の案内で5月29日午前9時頃湧別浜を出発、昼ごろに兵村に到着した。 大きな荷物は、民間から雇った荷車に積み込み馬に引かせた。 その後に一行が続いた。 ほとんどの人は着物姿で荷物を手に下げたり、肩に担いだり、小さな子供の手を引いたりしていた。
 中隊本部で下士官から諸注意を受けたあと、定められた兵屋に入ることになったものの、兵屋はまだ未完成であり、道路もできていなかった。 地面に打ち込んだ杭の上に土台が載っていて、その上に柱が立ち並び、屋根だけは征がふいてあった。 そんなありさまであったから、目的地へやっとたどり着いたという喜びよりも、不安の念と望郷の思いが一人ひとりの胸に重くのしかかった。 
 湧別兵村では、到着後2日間は炊き出しが行われ、3日目からは白米が給与された。 作業は休む間もなく翌30日から始まった。 幹線道路から兵屋までの誘導道路や、兵屋から兵屋へと通じる道をつけるのにも、木を切り倒し、笹や雑草を刈る厳しい労働の連続だった。 兵屋の土台の土盛り、排水溝の堀削などの仕事が一日も休まず続けられた。
 未完成の兵屋は、床板は張ってあったが、畳も壁もつけていなかった。 このため、柱から柱へ垂木を渡し、それに板を立てかけて一時しのぎの囲いを作った。 夜中になると夜気が忍び込んできて、夏というのに寒さで眠れないこともあった。 しかし、第二陣として東都丸で上陸、入村した人たちは、一年遅れだったので兵屋も環境も整備され、先輩たちの世話を受けることができた。 その分、第一陣に比べ苦労は少なかった。
 
第五節   中隊本部の編成 
 第四大隊と中隊 
 明治19年(1886)、根室の和田村に設けられた屯田兵第四大隊本部は、同30年(1897)に現役解除となり、新たに野付牛、湧別の両屯田兵村が設置され屯田兵のに伴い、野付牛(北見)に移された。 第四大隊は野付牛兵村の第一中隊(端野)、第二中隊(北見)、第三中隊(相内)、湧別兵村の第四中隊(上湧別)、第五中隊(上湧別)で成り立っている。
 湧別兵村は、基線道路に張り付くように両側に設けられていた。 中隊本部は、14~16号線に区画された。 そして第四中隊の兵屋は18~24号線間、第五中隊の兵屋は6~13号線間に位置していた。 それらの居住区には給養班があった。 これは、現在の町内会、自治会のようなものであった。 第四、第五両中隊とも一区、二区、三区の3つの団地に分けられていて、その団地は区隊と呼ばれた。 区隊は第四中隊の場合、2つの給養班からなっていた。 第五中隊はそれと異なり、古兵(明治30年入地者)で二班、新兵(同31年入地者)で二班の合計4つの給養班で構成された。 給養班の職務は、給与に関するなど事務一般のほか、通知連絡、兵員と家族の日常生活や作業の指導監督、部下たちの風紀秩序の維持などであった。 班長は下士官が任命された。
 一方、中隊本部の仕事は人事、教育、給与、衛生、懲戒、検察、動員など一般師団の中隊事務とほぼ同じもののほかに、屯田家族の監督、戸籍事務、学校教育、衛生、土木、産業、兵村財政といった現在の役場のような仕事も担当していた。
 屯田戸主たちは、中隊において歩兵としての軍事脅威j区をうけたが、そのほかに特別勤務もあった。 下士官と上等兵には日直、宿直があり、兵卒には中隊当番、医務室当番が割り当てられた。 その他の当番として事務の助手、便所の清掃、命令の伝達、営門衛兵、営倉衛兵、厩舎当番などもさせられた。
 屯田兵の家族は、軍事訓練こそなかったが、農作業に従事する義務が課せられていた。

第六節   兵村の生活 
屯田兵と家族の心得 
 生活の心構えの基本は、「屯田兵員及び家族教令」に示されていた。 この教令には、20項目にわたって軍人としての日常生活、家族の心得などが詳細に定められている。 内容は忠節、武門の対面、健康、営農、武器の保管、倹約、独立自営、互助、虚飾虚礼の廃止、指定の教育、親睦、公共の利益、賭博の禁止、環境衛生、訓戒忠告などと幅広い。

官給品 
 屯田兵一人ひとりに屯田兵手蝶(手帳)、兵器、軍服などが支給された。 屯田兵手蝶には軍人勅諭(天皇が示した軍人の心得)、読法(軍人の心得)などが記載されていた。 兵器はピーボデイ・マルチニー銃とそれに付ける剣であった。 軍服は正装用として黒ラシャ生地製1着、演習用として霜降りの小倉生地製1着、夏服1着が支給された。 そのほかの被服類は襟布、冬襦袢袴下、夏襦袢袴下、木綿製手套(手袋)、麻製脚絆、短靴、靴下、外套、日覆などがあった。
 用具としては、行軍などで物を入れて背負う背嚢、食料を入れて持ち歩く燕口袋や小物を入れる属具ふくろなどがあり、服や銃の手入れに使うブラシ類や、櫛、鋏、糸巻き、糸、針まで支給された。 


教育・演習 
 軍事教練は、午前4時起床、同5時朝食後直ちに練兵場に集合して行われ、午前10時に解散となる。 はじめの3ヶ月は毎日敬礼、躁銃、行進などの各個教練で、午前中の教練が終わると、午後からは開墾に従事した。 午後にも教練がある場合は、弁当を持参した。 1ヶ月の内3回、練兵場に集まり、終日にわたり一般の軍隊と同じ教練を受けた。
 軍事教練の中には、学科も含まれていた。 中隊事業部を教室として軍人勅諭、読法などの精神的講話や実際の戦闘に必要な知識に関する授業が中心であった。 農家の知識や技術も教えた。 事業部は、本来産業振興のための施設だが、講習会、冬の銃創(銃剣術)、 教練の会場ともなった。
 演習は少なくとも年2回は実施された。 機動演習、宿泊行軍、雪中行軍などである。 屯田歩兵であった湧別兵村では、行軍は欠かすことができない。 兵村内の行軍は、随時行われていた。


軍 規 
 普通の師団同様に、軍規は厳しかった。 屯田兵手蝶の読法に軍規が詳しく記載され、屯田兵たちは一人ひとり誓約文に署名捺印している。 軍規に違反した者は、重罪であれば軍法会議にかけられ、それが軽いものであれば中隊において苦役や営倉入りに処せられた。
 教育結果を査定する検閲も厳しく行われた。 検閲は中隊長や大隊長によるものと、師団司令部や陸軍省の高級将校によるものがあった。 当日は演習、分列式などを披露し、日ごろの教練の成果を示した。 このときは各区隊の巡視もあり、武器装具はもちろん、農具などの点検も受けた。


共同事業  入地早々から熊笹かり、道路造成、門柱建て、側溝掘削などの作業を行った。 本格的な共同作業は、明治30年(1897)8月30日の練兵場の地ならしであった。 このあとも道路の開削と補修、橋の架設、排水溝や灌漑溝の堀削、堤防の構築などを続けた。
 網走道路と称された7号線道路(現在の国道238号)の改作は、共同事業といっても少し意味が違っていた。 本来の共同事業は、兵村民の利便に役立つ施設の建設が主目的だあったが、この場合は労賃を得て兵村の収入を増やすのが目的であった。


衣食住 
 屯田兵は日本全国から集まっていたので、衣服はお国ぶりにより様々であった。 岐阜出身の樋口耕平は、袖の長い木綿の肌着に着物を着て、その上に半纏をはおった。 下半身は褌の上に木綿の股引という姿であった。 山形出身者の専売特許だった雪袴は、最初は見慣れないのでみんなから笑われたが、便利なことがわかり、後からほとんどの女性が履くようになった。
 官給品の手袋は、教練の時、それも上官の指示がないと着用することが許されなかった。 軍手は、まだ地元で売られていなかった。 このため木綿で手の形に縫い上げ、その中にぼろを入れて指示のない”ぼっこ手袋”を作った。 履物も粗末だった。暖かい九州地方等の出身者は、寒い時以外ははだしで歩くこともあった。 笹藪などを歩く場合は、板きれに鼻緒をすげて下駄を作った。 多くの人は菅でこしらえた草鞋を履いた。 冬になると山形など東北出身の人たちは、菅や藁で作った雪草靴(雪道用のはきもの)を用意し、足袋の上に毛布を巻いて防寒とした。 
 食事については、一般の開拓移住民に比べて恵まれていた。 入地後は炊き出しが行われたし、それ以後は扶助米や塩菜料(副食料)が支給されたからである。 ほとんどの家庭で月に1石(約150kg)の玄米が配給された。 副食も味噌、野菜、魚肉などに不自由はなかった。 どこでも手軽にとれるキノコ、フキ、ワラビ、コゴミなどの山菜もよく食卓をにぎわした。 アイヌの人たちが売りに来るシカ、ヒグマ、ノウサギの肉も時々手に入れることができた。
 兵屋の原型は、開拓当初の殖民小屋であったから、完成しても粗末なものであった。 天井板を張っていなかったので、屋根裏がそのまま見えていて、冬になると征釘の先に霜がついて、屋根裏が真っ白になった。 また、屋根に煙出しが付いていたというものの、薪をたくと煙が部屋中にこもり、みんなは目をくしゃくしゃさせていた。 しかし、笹びきの屋根、七つ葉という草の壁で囲っただけの着手小屋で生活していた一般開拓移住民に比べると、まだ立派なものであった。
 井戸は、兵屋6戸に一つの割合で作られていた。 毎日使う水は女性や子供がここかr汲み上げた。 水桶と天秤が官給されていた。 風呂は水汲みの便を考えて、井戸のすぐそばに設けられていた。 練兵や開墾作業で汗をかくので、毎日のように沸かされた。 当番は井戸組の6戸が交代で行い、燃料は伐木で切り出した木を使った。 炊事や暖房の火は、大正時代まで炉が用いられた。 しかし、ストーブが全くなかったわけではない。 中隊本部では、入地当初から使われていた。 屯田兵屋で初めてストーブを取り付けたのは、第四中隊三区の清水彦吉であった。 地元で売られていないので、ストーブ、煙筒など一式を小樽から取り寄せた。 兵村内でストーブが制作、販売されたのは明治34年(1901)のことだから、それ以前であることは間違いない。 ほとんどの家庭でストーブが使用されるようになったのは、大正10年(1921)ごろからといわれている。


開 墾 
 上湧別は、その地形から原野と樹林地に区別されていた。 原野には背丈以上もある茅や萩が生い茂り、ところどころにナラ、アカダモの大木が立っていた。 樹林地はうっそうとした樹木の林でハクヨウ、ハンノキ、ダケカンバ、ナラ、アカダモ、マツ類が繁茂していた。 
 開墾作業は、屯田戸主たちが練兵や当番で中隊本部へ出かけることが多いので、いきおい家族たちが中心的担い手となった。 原野の一部で、明治32年(1899)ごろからキヌトセというアメリカ式のプラオ(馬一頭びきの農耕具)が登場した。 それ以前はもちろん、その後も大半は手耕しを強いられた。 毎日明け方から夜遅く真っ暗になるまで鍬を振ったが、萩や笹などの雑草の根が土中深くはびこっていて、つらい作業であった。
 特に伐木作業は、大変だった。 危険を伴ったので、男の仕事ではあったが、官給の鋸は切れ味が悪いので、鉞と併用して長時間をかけて切り倒した。
 開墾作業の大敵はブヨである。 顔でも手でも足でも肌を露出していると、どこからともなくブヨの大群が寄ってきて、ところかまわず食われはれてしまう。 雪袴をはいて、顔は目だけ出すかぶり物で隠し、手っ甲や脚絆で手足を覆っても、ブヨはその上から攻撃してくるので、防ぎようがなかった。 ぼろきれで縄をない、これに火をつけていぶし、腰の回りにぶら下げて仕事をしたが、気休め程度の効果しかなかった。
 衣、食、住どれをとっても寒冷積雪の地にとってお粗末なものであったs。 だから、越冬の厳しさは想像以上であった。 雪は屋根まで届くことがあったのにスコップがなく、十分に雪はねができなかった。 しばれもきつかった。 うっかり濡れた素手で鉄鍋や鉄瓶のつるを握ると、たちまちひっついてしまう。 無理に引き離そうとして手の皮をぬいてしまい、血を出すことも珍しくなかった。 朝、目が覚めると寝ていた掛け布団の襟が、はく息で真っ白に凍っていることもよくあった。


衛 生 
 衛生には細かく留意していた。 「屯田兵員及び家族教令」、「屯田兵移住者心得」でも身体、衣服、兵屋の内外、井戸の周囲、便所の清潔、側溝の疎通から寝冷え、山菜の採集に至るまで注意を促している。 こうした定めに基づき清潔検査が行われ、悪い点は直ちに改善させられた。
 散髪をするバリカンの利用組合もあった。 相互扶助の考えにより区隊ごとに設立し、共同でバリカンを購入していた。 手先の器用な者が練習して床屋を引き受けた。 バリカンの使用は屯田戸主が無料、家族は一人につき1銭であった。 バリカンを組合外に持ち出して使用する場合は、一人につき3銭の使用料を徴収した。
 医療については、屯田兵もその家族も入地後満3年間は無料であった。 診療は日を定めて中隊本部で行われ、軍医が担当した。 重傷者は、入院して治療を受けた。 病気は胃腸病が多く、あとは切り傷などの外傷がほとんどであった。 開墾作業や炊事に当たる主婦たちは、手足のひび、あかぎれに悩まされた。


結婚と葬儀 
 結婚する時は、婚姻願いを提出し、中隊長の許可を得なければならなかった。 当時は見合い、男女交際などはほとんどなかった。 普通は親同士の話し合いで婚約し、本人たちは結婚式で初めてお互いに顔を合わせるという具合であった。 このため、気が合わなくて離婚することも少なくなかったので、明治32年(1899)11月、第四大隊副官から「結婚当初から和合に努めよ」と通達が出されていた。
 婚礼は質素なものであった。 嫁入り道具は、着物など身の回り品を風呂敷包みにせいぜい一つか二つであり、たんす、たらいなどを持っていくようになったのは、かなり後になってからである。 結納金は3円ぐらいが普通で、余程裕福な家で5円というのが相場であった。
 花嫁の衣装は、銘仙の着物なら良い方で、一般的には木綿縞の着物で、髪も普段と変わりない島田のままであった。 祝儀の招待客は、両家の身内の者のほかに、ごく親しくしている同県や井戸組の人たちに限られていた。 それでも、宴席では官給の食器だけでは足りなくて、湧別浜からホタテ貝の殻を拾ってきて使うというありさまであった。 祝儀は10銭ぐらいが普通であった。
 葬儀も虚礼を廃し、質素を旨とした。 区隊に葬式組があって葬儀を執り行った。 香典は同じ組の者で、一戸につき10銭と白米5合(0.9㍑)となっていた。


娯 楽 
 日ごろの楽しみといえば、風呂に入る順番を待つ間のおしゃべりと入浴であった。 時にはお茶菓子を持ち寄り、故郷の思い出話や自慢話に花を咲かせていた。 しかし、お菓子といってもせいぜい黒砂糖程度であった。
 また、1月~4月、10月~12月の七ヶ月間の1日、10日、20日は区隊の休養日となっていたので、十分骨休めができた。 禁止されていた賭事も、正月や脳閉期に盛んに行われた。 男はさいころによる丁半博打、女や子供は宝引きや花札に興じた、宝引きは、数本のひもの中の一本に鈴などの目印を付け、それを引き当てた者が賞品をもらうというものである。
 お寺参りも楽しみの一つであった。 信仰心を深めるということばかりでなく、公然と仕事を休めるし、お寺で同郷の者と会うことができた。 各地を巡回してくる布教者の話は、外部からの唯一の情報でもあった。
 若い者の楽しみに「しこ」と呼ばれるウサギ狩りがある。 井戸組ごとに集まり、近くの山野にたくさん生息していたエゾノウサギを捕獲し、その肉をご飯に炊き込んで食べながら一晩中大騒ぎをした。 子供の遊びには釘うち、杭うち、下駄スケート、簡単な野球などがあった。
 娯楽の最大のものは、神社の祭りと正月である。 神社は明治32年(1899)7月、北兵村一区に水天宮が建立されたのを初めとして、両兵村各区に相次いで誕生した。 当初はそれぞれ別個の祭礼を通じてお互いの親睦を深めた。 祭礼日は6月から10月まで統一されていなかったが、同43年(1910)、村役場から上湧別神社の創立と各神社祭典を10月17日に統一するよう通達があった。 しかし、現実にはすべてがそのとおりになったわけではない。
 こうした祭りは年1回のことであり、しかも各地域の行事で、催し物も草競馬、素人芝居、武道大会などいろいろあって、老若男女、誰もが楽しめた。 特に素人芝居の人気が高く、「太閤記」や「義経千本桜」などの本格的な歌舞伎が上演された。
 正月は、稻黍の餅や濁酒などで祝った。 故郷に比べるとさびしさは隠せないものの、天下晴れての仕事休みであり、それなりの正月気分が漂って、つらい開墾、練兵生活から解放された。
 
第七節   現役解除と日露戦争 
兵村解隊 
  明治36年(1903)3月31日、湧別兵村の二個中隊は現役解除となり、解隊式を行って普通村に生まれ変わった。 兵員全員が4月1日から後備役に編入され、兵籍は旭川聯隊区司令部に移された。 屯田兵とその家族たちは軍規から解放されて、兵村は初めて「自由の郷土」となった。
 解隊式に臨んだ徳江重隆第四大隊長は兵員たちに、①軍人勅諭を日常生活に規範とせよ、②現役解除後も軍人であり、軍事諸般の復習を心がけ、召集された時、留守家庭を守る家族たちのことを考え、勤倹貯蓄に励め、③一旗揚げることだけを目的とせず、軍人精神の扶植者(啓蒙者)であることを自覚し、永住の覚悟を固めて農業に励め、④開拓の任務を忘れ、他に移住してはいけない、と訓示した。


日露戦争 
 明治37年(1904)2月10日、日本とロシアの間で日露戦争が始まった。 第七師団にも動員命令が下り、旧湧別兵村にも同年8月4日夕、召集令状が届けられた。 ちょうど麦焼きの時季で忙しかったが、現役解除後まだ1年も経過していないので士気は高かった。 しかし、兵村内の全戸が戦場に向かうので、残される家族たちの間に悲痛な雰囲気が漂った。
 明治37年8月末までに旭川や札幌・月寒の聯隊に入った戸主たちは、やがて満州や朝鮮北部に派遣された。 満州に行った人たちは、日露戦争の最激戦地として歴史的に有名な203高地の戦いに参加している。 留守兵村の中心になったのは、一度は隠居していた戸主の父親たちであった。 戸主たちが努めていた各部長を代わりに引き受けて、女や子供、年寄りしかいない留守家族の相談相手となり、字の書けない人のために代筆し、戦地へ慰問文を送った。  また、人手不足や病気などで農作業の遅れた家のために、労力奉仕を呼びかけて手伝ったりした。
 明治38年(1905)9月5日、日露戦争が終わり、「日露講和条約」が調印された。 召集されていた戸主たちは、大陸から旭川の第七師団に集結、名寄と白滝の二つのコースに分かれて、懐かしい兵村に帰ってきた。 無事に戻った人たちの家族の喜びは大きかったが、戦死者の家族にとっては、華々しい戦勝祝賀会さえ新たに涙を誘う悲嘆の場となった。
 戸主の戦死者は32人で、出生した者の約10%にも達した。 その他に病没者9人、傷病者が100人以上に達した。

第四章 



目次


        
行 財 政 
第一節    上湧別分村までの変遷
(1)松前藩時代
松前藩と蝦夷地
 
  蝦夷島(現、北海道)に日本の支配権が及んだのは、鎌倉時代に津軽の安藤氏が蝦夷管領となってからといわれている。 その支配権は、松前地方に限られていた。 長禄元年(1457)のコシャマインの戦い以後、在地権力の蠣崎慶広が慶長9年(1604)、徳川家康から黒印状(諸国からの蝦夷地商売を規制するなどの三ヶ条の公認証)を受け、徳川幕府配下の一藩となった。 同時に姓も松前と改めて、松前藩の基礎を確立した。
 しかし、西蝦夷地に位置する湧別地方は、まだ政治、経済の中心松前から顧みらけない辺境の地であった。
 湧別の名が「ゆうべち」として初めて文献に表れたのは、寛文元年(1661)、松前藩が家臣の吉田作兵衛に蝦夷地調査を命じて作らせた、「元禄御国絵図」である。 当時の湧別が、この地方のアイヌの人たちの生活圏の中心地であったことがわかる。
 松前藩は、オホーツク沿岸のような遠隔の地にも商場を開設し、藩の直領として経営した。 しかし、”武家の商法”はたちまち行き詰まった。 そのため場所請負制度を採用、運上金(一種の営業税)を課して経営を任せた。 宝永3年(1706)の村山伝兵衛の請負を皮切りに請負場所は次々と開設され、明治2年(1869)、開拓使によって廃止されるまで、165年間も続いた。 網走や紋別では又十藤野の漁業が大いに栄え、根室方面から和人資本が進出して明治末期まで存続した。


幕府の直轄 
 寛政元年(1789)、国後アイヌが、場所請負の支配人を殺傷したクナシリ・メナシの戦いや同4年(1792)のロシアからの通商要求、さらに、文化3年(1806)のロシアによる運上屋、船舶焼き払い事件などが相次ぎ、北辺の内外情勢はにわかに険悪になった。
 このため幕府は、寛政11年(1799)に東蝦夷地を、文化4年(1807)に西蝦夷地をそれぞれ直轄統治することとした。 松前に奉行所を置き、主要地に調役などを配置して警備と統治に当たらせた。 また、斜里には津軽藩士100人を派遣したが、和人初の集団越冬の試練は、病気などで生き残った者わずか17人という大きな犠牲を強いる結果となった。
 北辺の防備がある程度整い、ロシアの侵攻もみられなくなったため、幕府は文政4年(1821)、蝦夷地の統治を松前藩に返還した。 しかし、ロシアの使節プチャーチンが嘉永6年(1853)に長崎に来航、国境問題を取り上げ、再び通商を要求し、ロシア兵が樺太(サハリン)の久春古丹(大泊)を占拠するという事件が起きたので、北辺はまたも緊張感を強めた。 そこで幕府は安政2年(1855)2月、松前藩の統治部分を除いた他の蝦夷地すべてを再直轄することに決めた。
 函館奉行所は、警備、収納、アイヌの人たちの教育の一切を幕府から委任された。 オホーツク海沿岸では、宗谷、枝幸、紋別、網走、斜里に御用所をおいて幕吏を配置した。

  北見沿岸のアイヌ人口  (寛文10年 <1680>
  しよや(100) つんへつ(6) ほろへつ(50) とほしへつ(100) ほろない(150) おむ(100) おこつへ(100) しよこつ(200) まうへつ(100) ゆうへつ(300) ほこつ(530) はばしり(200) うからゆ(250) ちやる(250) うなつ(50) なしや(100) しれとこ(100)


(2)明治時代
開拓使の設置 
 慶応3年(1867)12月、徳川慶喜が大政を奉還し、300年に及ぶ武家政治に終止符を打った。 明治政府は明治4年(1868)4月12日、仁和寺宮嘉彰親王(議定兼軍防事務局督)を函館裁判所総督とし、蝦夷地開拓の兼知(=兼治)を命じたが、同親王の辞退により、同副総督の清水谷公孝を同総督に任命し、蝦夷地統治を命じた。 翌2年(1869)7月、政府は開拓使設置を決定し、開拓督務鍋島直正を初代長官に任命した。 開拓使は、エア落ちを北海道と改め、渡島、後志、石狩、胆振、日高、天塩、十勝、釧路、北見、千島の11の国に分け、さらに86の郡名と区画を決定した。 これは同2年8月15日付で公示されたが、湧別地方は紋別郡に含まれた。
 開拓使は明治2年10月、根室出張所を開設するなど機構の整備を進めた。 北見国は和歌山、名古屋、広島、金沢の各藩に開拓が委託されたが、各藩とも消極的で開拓が一向に進まなかった。 そのため、やがて宗谷、枝幸、紋別、網走、斜里に派遣官吏を詰めさせ、宗谷出張所の管轄に移した。
 明治4年(1871)5月、開拓使庁は函館から札幌へと移り、翌5年(1872)札幌本庁と改称、北海道を函館、浦河、根室、宗谷、樺太(サハリン)の5支庁に分けた。 4年後には浦河、宗谷両支庁は本庁に統合、樺太支庁は廃止されたので、統治は本庁と函館、根室の2支庁で行われることとなった。 北見国6郡は最初、開拓使宗谷出張所に所属していたが、枝幸、宗谷の2郡を除いた他の4郡は同5年1月、根室出張所に移され、支庁制に変わってからは根室支庁の管轄となった。
 明治6年(1873)7月、支庁内の機構改革により網走に出張所、紋別に分局が置かれた。 紋別分局は同7年(1874)に紋別郡出張所と改められた。 しかし、これも同8年(1875)6がつに廃止され、新たに網走に支庁民事課派出所が設けられた。 同年12月、さらに、民事課分署と改称された。 各分署の統廃合に伴って、同10年(1877)に網走分署が支庁直轄になるなど、組織機構はめまぐるしく変化した。


村の誕生と湧別 
 根室支庁は明治5年(1872)、北見4郡の村名を定め、戸長を任命して行政の基本体制を確立した。 村落の区画は、アイヌの人たちの居住状況に応じて郡内を数か所に分けた。 村名は、アイヌ語の地名をそのまま使った。 河口の数戸の集落が「ユウベツ村」と命名されたのは、湧別川が古くからアイヌの人たちの生活圏となっていたためである。 最初は片仮名で表記されたが同8年(1875)5月から「湧別村」と漢字で書かれるようになった。
 「戸籍法」の制定に伴い、根室支庁でも明治5年4月から戸長を置いた。 紋別郡は、常呂郡と兼任で紋別の藤野漁場の差配人、盛田辰蔵が任命された。 この年の調査で紋別郡の戸口は97戸・382人で、このうちユウベツ村は23戸・95人が登録されていた。 戸長は、事務量の増加拡大とともに、行政官としての役割を強めた。
 明治9年(18976)9月、北海道で大小区制が採用された。 北見地方は27大区、紋別郡10か村は四小区に分けられたが、実情に合致しなかったので同11年(1878)7月、「郡区町村編制法」が発布され、府、県、郡、町村という現行の区画制が確立した。


紋別戸長役場 
 「郡区町村編制法」は、それまで単に地域の名称に過ぎなかった郡や町村を、純然たる行政区画とするものであった。 これが明治政府の中央集権確立の基礎となった。 開拓使は北海道に18の郡役所を置き、その下に各村戸長役場を設けた。 北見地方では網走に郡役所、紋別と斜里に戸長役場が設置された。
 網走郡役所が実際に開庁したのは、明治13年(1880)7月である。 網走郡役所は根室支庁が根室県となり、北海道庁の出先に改変されても変わることなく、同30年(1897)4月に網走支庁と改称されるまで続く。
 湧別村を管轄していた紋別外9か村戸長役場は、郡役所の開設と同時に開庁し、滝田治三郎が新制度による初代戸長に任命された。


北海道庁の設置 
 明治15年(1882)2月、開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置された。 翌16年(1883)1月には、開拓事業を所管する農商務省北海道事業管理局が発足して、道内は3県1局体制となった。 根室県は北見、区知り、根室地方を統括した。 紋別外9ヶ町村戸長には、半沢真吉が就任した。 しかし、この分治方式も実情に合わず、わずか4年で廃止された。
 明治19年(1886)1月26日、札幌に北海道庁、函館、根室に同支庁を置く布告が出された。 道庁、支庁はともに同年3月1日から開庁した。 岩村通俊初代長官の方針で、同年12月には事務の煩雑さを省くため支庁を廃止し、道庁と郡役所を直結させた。 道庁の開設によって、間接保護政策と呼ばれる拓殖行政は、画期的な施策を次々と打ち出すことになった。 特に開拓移民誘致の基礎となった殖民地選定事業と区画測量の実施は、北海道各地に及び、開拓の進展に貢献した。
 湧別原野は明治22年(1891)、殖民地に選定され、開拓適地として初めて紹介された。 次いで同24年(1891)に区画則設(則設=測量・設定)が行われた。 南北に通じる幅27mの基線道路、湧別浜(駅通り)を1号線として遠軽町野上の55号線まで543mごとに基線に交差した号線道路、基線道路と並行した東西の道路は、この時の設定によるものである。
 明治25年(1892)にはその基線道路が完成したほか、前年の同24年に北見と上川を結ぶ北見新道(「中央道路」ともいう。現 国道39号)が開削された。 この幹線道路の整備により北見、湧別方面への移民の入地が一層促進されることになった。


北見国への移住 
 北海道庁設置と前後して、北見地方にもようやく和人の移住、定着がみられた。 湧別村では明治15年(1882)春、農業を目的に網走から移住してきた半沢真吉が、和人最初の入植者であった。 しかし、半沢は紋別外9ヶ村戸長就任のため、この年の10月に転出した。 同年、網走から徳弘正輝、さらに同16年(1883)になって和田麟吉らが来住、ようやく定着した。 徳弘は同20年(1887)、牛を購入してナオザネ(中湧別)に移り、和人として初めて牧畜を経営した。
 湧別原野については、明治26年(1893)12月に殖民地として貸し付けする旨の告示があり、同27年(1894)から浜殖民地(6号線以北)への本格的入地が始まった。 同20年からの湧別村の戸口の推移は、同年21戸・76人であったが、同25年(1892)に22戸・85人となり、同26年から急激に増え始め、同年は44戸・780人に達している。


1・2級町村制 
 本州から8年遅れて北海道区制と北海道一・二級町村制が公布されたのは、明治30年(1897)5月29日である。 一級町村制は同33年(1900)7月に16ヶ町村で、二級町村制は同35年(1902)4月に62ヶ町村で施行された。 この時、北見地方で二級町村に指定されたのは網走村だけで、その他の町村は依然として戸長役場制度のままであった。
 一級と二級の町村制の違いは、一級が町村長を町村会で選挙し、北海道庁長官が任命するのに対して、二級は北海道庁長官に任命の権限があった。 こうして北海道の自治制度は区制、一・二級町村制、戸長役場制が併行して実施され、大正元年(1912)には区制3,一級町村41,二級町村146を数えた。 長く続いて戸長役場制が廃止されたのは同12年(1923)3月のことであった。


(3)湧別村戸長役場時代
湧別村の独立 
 湧別原野も、幹線道路網の整備や浜植民地解放によって、農業入植者や湧別屯田兵村建設の工事人らの来住者が重なった。 湧別浜は明治29年(1896)には、ほぼ50戸の市街地を形成していた。 翌30年(1897)5月には北海道同志教育会が学田農場(現、遠軽町)を開設、30戸ほどの小作人が移住してきた。 同30,同31年(1898)にわたって湧別兵村(現、上湧別町)に屯田兵399戸、2459人が集団入地したので、人口が急増して村内の行政事務は増大した。 
 このため、湧別村は紋別外9ヶ村戸長役場から分離独立し、湧別村戸長役場を湧別浜に開設した。 明治30年6月13日に道庁から告示され、初代戸長に小池忠吉が発令された。 当時の行政区は現在の湧別町、上湧別町、遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の6ヶ町村に及び、1817㎡㎞という広大な面積を有していた。 しかし、湧別兵村だけは軍政に所属していて、戸籍事務や地方費戸数割りの徴収事務以外は、治外法権とされていた。
 湧別戸長役場は、明治38年(1905)まで9年間続いた。 その間の同36年(1903)4月1日、兵村は軍政から解放されて、名実とも湧別村に統合された。 この戸長役場時代に湧別村の人口は急増した。 同30年に724戸・2617人であったが、同38年には1397戸・6893人へと膨れあがった。
 役場は、北海道庁長官任命の戸長と支庁長任命の補助職、戸長任命の町村雇ら数人の職員で事務を処理した。 現在の議員に当たる総代人が住民から選ばれて、任期は2年であった。 選挙権、被選挙権とも、財産などにより大きく制限されていた。


財政と事業 
 明治30年(1897)度の財政の収支決算は、総額1、251円64銭3厘で、その内訳は教育費382円30銭9厘、衛生費12円55銭、村費取扱費44円52銭5厘、臨時費(教育費校舎新築費)812円25銭9厘となっている。
 明治38年(1905)度の予算規模は、解隊された湧別兵村財政の組み入れもあって約1万700円と8倍弱に膨れあがっている。 この時代の歳出の中で教育費の割合が大きいのは、教員給与が町村費で賄われたためである。 しかし、学校などの教育施設の建設費のほとんどは、財政事情が貧困であったため、地域住民の寄付に依存していた。 土木工事についてもほぼ同じで、開墾や畑の仕事に通う道路、橋は開拓途上の住民にとって生活に直結していたので、地域集落ごとに住民の共同事業で工事が行われた。
 衛生面では、明治32年(1899)から村医を配置、農政においては湧別村農会に対して農業指導奨励費を補助した。 このほか財政の健全化を図るため、基本財産造成に取り組んで、同38年までに735円余の資金を投入したことが注目される。 歳入面では、村財政の70%を村費(税)で占めていたが、その大半は戸別割の税であり、あとは補助金、寄付金、雑収入、財産収入であった。


(4)兵村時代
兵村の行政機構 
 屯田兵村は北海道内37ヶ所に配置されたが、これらは4つの大隊に編成されていた。 大隊本部と中隊本部は、第七師団の地方機関として設置された。 兵村の行政は、村統治者と自治機関によって運営された。 村治者は中隊長で、部下やその家族の教育、指導、取締りに当たったほか、開拓の促進にも責任を負った。
 自治機関としては、兵村査問会が設置されていた。 普通の町村会とは異なり、その役割は中隊長の査問に答申するだけであった。 最初は中隊長に指名であったが、明治32年(1899)ごろから戸主による選挙になった。 定員は12人で、会長のほか常置委員3人、監査委員3人が互選された。 湧別兵村の場合は、2つの中隊があったので村治者の中隊長が2人、査問会が2つ存在した。


兵村財政 
 兵村財政は、本部経費と兵村経費に分けられる。 本部経費は、中隊長以下兵員の給与、被服、兵器などの軍政に要するもので、第七師団の予算で賄われた。 兵村経費は、普通町村の一般会計に相当する自治的経費であった。
 その会計は、連合村費の予算と中隊単位の予算に分かれ、例えば、両中隊にかかわる北湧尋常高等小学校に関する教育費などは、連合村費から支出した。
 明治34年(1901)度の連合村費は3、453円14銭で第四中隊の予算は75円40銭であった。 連合村費の規模は、同33年(1900)度を除いて毎年度にわたり、湧別戸長役場のそれを上回っていた。 村費の賦課徴収は、収入などに応じて5等級に区分、査問会で評定して中隊長の許可を得て決定していたが、そのほかに一般徴収もあったらしい。 また、両兵村では、一般会計とは別に、基本財産造成のための特別会計が設けられていた。 学校、事業、水田工事などの資金を取り扱い、同33年度末には約6,727円を積み立てていて、その年度の連合村費の約2・4倍に達していた。 当時の人たちが、将来の村づくりにいかに意欲を燃やしていたかがよく分かる。


公有財産 
 明治23年(1890)制定の「屯田兵土地給与規則」によって、兵村に基本財産(公有財産)が与えられた。 1戸当たり約5㌶の割合で給与地積が決められた。 湧別兵村の場合、実際には南兵村(第四中隊)に約1,018㌶、北兵村(第五中隊)に約1,107㌶、合計約2,125㌶が与えられ、規定の1,995㌶より130㌶ほど多かった。 これは学校敷地や開墾地合わせて約8㌶ほかが余分に給与されていたためである。
 個人給与地以外の公有財産は、六号線~32号線の間に配置されていた。 集約された大地積として、南兵村では開盛神社通り(29号線)以南遠軽町界まで、湧別川西18号線以南富美小学校まで、阿佐比の号線は以南山麓まで、北兵村では旭の8号線以北湧別町界まで、北兵村三区東地区高台、湧別川西18号線以北などがあった。
 屯田兵司令部は、公有財産の適正管理運営のため、公有財産取締委員会(任期2年)を設置した。 湧別兵村では、明治34年(1901)2月に発足した。 委員は査問会員から互選し、定員は南兵村で12人、北兵村では現役中は不明、解隊後は18人であった。
 兵村が現役解除されたあとの公有財産管理は、第七師団副官部を経て道庁へと移った。 これにより、湧別村長が財産管理者と定められた。 明治40年(1907)3月、村会と同じ機能を持つ部会が両兵村に設けられ、公有財産(部落財産)の直接的な運営を行った。
 公有財産は、地内の立木処分や用地貸付けの収益により川船新設、神社補修、架橋補助など公共施設の充実、村費不足への補充に役立てられた。 その後、上湧別地区の発展に伴い、広大な財産地は公共用地などに寄付されて処分が相次いだ。 そのほとんどは学校や神社、産業組合の敷地となり、造田奨励や自作農創設のたえに活用された。
 明治36年(1903)3月31日に湧別屯田兵村が現役解除され、兵村の行政権が地方自治体に移ると、公有財産の受益をめぐって各地でいざこざが巻き起こったが、上湧別では前述のように公有財産を兵村部落財産として部会を設置することで円滑に管理された。


(5)湧別村二級町村時代
二級町村制の実施 
 湧別原野への移住者は、さらに増加した。 先発の屯田兵たちの手づるを求めて北海道内外から入地する者が多く、富美、芭露、白滝への移住が相次いだ。 また解隊により自由を得た兵村民の中から商工業に転ずる者もあり、湧別村は北見地方において紋別をしのぎ、網走に次ぐ大きな市街地を形成するようになった。 このため湧別村は、明治39年(1906)4月1日、それまでの戸長役場制度を廃止して二級町村制を施行した。
 二級町村になって最も大きく変わったのは、議決機関である。 それまでの総代人制は、戸長の諮問、相談機関といった従属的性格が強かったが、今度は議決機関としてきちんと機能する村会が設置されたのである。 明治39年6月14日に初の村会選挙が行われたが、定数12人のうち兵村の元屯田戸主が8人と全体の3分の1を占めた。
 執行機関の首長も、従来の戸長から村長へと改称され、初代村長に雄武村戸長であった佐藤信吉が就任した。 収入役も初めて置かれ、その初代には藤島倉蔵が村会で選ばれた。 このほか村内の部落は、末端行政区として位置づけられた。 部落の長である部長は、村長の補助職員として官選となった。 村内には20部あったが、このうち上湧別関係は北兵村一区、二区、三区、南兵村一区、二区、三区、屯田市街地の7部であった。 この部制は、昭和2年(1927)8月に「北海道二級町村制」が公布(10月1日施行)されるまで続いた。


財政状況 
 吏員の増員、収入役の新設、村会制度の採用などにより、財政規模が拡大した。 明治39年(1906)度決算の歳出は1万3039円10銭であったが3年後の同42年(1909)度には2万1474円3銭と1・6倍になっている。 税制は、国税と地方税(道税)の税額を課税基準とする賦課税と、村独自で設定した特別税(のちに独立税)とによって成り立っていた。 特別税として創設された反別割の課税は、一筆(土地の一区画)ごとに等級が付けられ、村会で審議された。 地方税の一つ、戸別割の等級査定も村会で行われたので、それらの議論は直接住民の負担につながる問題だけに激しかった。
 財政規模が拡大したのは、人口増も要因となっている。 戸長役場時代最後の明治38年(1905)は1397戸・6893人であったが、二級町村制を施行した翌39年に1648戸・7976人と増え、同40年には2094戸・1万42人と初めて1万人の大台を突破した。

第二節  上湧別村独立後のあゆみ 
  (1)上湧別村時代   
上湧別分村 
 広大な行政区域を持つ湧別村も、奥地開拓が次第に進み各地の人口が増加していった。 このことは反面、行政用務について住民に不便と負担をかけることになった。 さらに、湧別浜市街という片寄った位置にある村役場の在り方にも、住民から様々な意見や要望が出始めた。 特に上湧別の湧別兵村地区の人たちが、不便を訴えた。 両兵村中央部に行政機関としての中隊本部があったが、それが解隊後になくなり、一切の行政用務が役場で統括されるようになったため、遠く湧別浜まで出向かなければならなくなったからである。
 村会制度が発足して、兵村議員が多数を占めたので、湧別村役場の移転問題がにわかに持ち上がってきた。 役場庁舎が既に老巧化し、村会議事堂もなかったことが、庁舎改築問題もからんで移転問題に拍車をかけた。 兵村出身の村会議員である鈴木峰次、清水彦吉が明治40年(1907)3月、「湧別村役場位置変更新築ノ件」と題する意見書を村会に提出、可決された。 しかし、財源不足や村長の政治的配慮もあって実現しないまま、村長が佐藤信吉から兼重浦次郎に引き継がれた。
 その後も村会が開かれるたびに、役場の移転問題が取り上げられら。 明治42年(1909)3月の村会では、移転問題が上湧別の分村問題にする変わってしまい、結局は議員の意見の体勢も分村に傾いたので、上湧別分村が議決された。 こうして翌43年(1910)4月1日、上湧別村は湧別村から分離独立した。
 新しく誕生した上湧別村の行政区域は、現在の遠軽町、丸瀬布町、白滝村、生田原町を含み、広さは96方里(約1480㎡㎞)もあった。 分村当時は、湧別村役場内の仮住まいで執務し、村長も兼重湧別村長が兼務した。
 屯田市街地の民家を借り上げて役場仮庁舎が開庁したのは、その年の5月8日であった。 しかし、5月下旬には北湧尋常高等小学校敷地内にあった元屯田兵幹部集会所の土地建物を買収し、その建材を使って同じ場所(790㎡m)新庁舎を建てた。 庁舎は木造平屋建て(103㎡m)で、建設費、用地買収費合わせた360円は、樺沢金八を代表とする市街地住民の寄付によって賄われた。  上湧別開村と庁舎開庁の祝賀会は、明治43年6月11日、北湧尋常高等小学校で盛大に行われた。


部制の変遷 
 住民と直結して行政の補助的機能を果たしてきた地域集落ごとの部落会は、分村当時14部(上湧別町内区域は7部)であったが、村内の奥地開拓が進むにつれて分離独立するところが多くなった。 富美、開盛などが相次いで独り立ちし、大正7年(1918)2月までに31部に増加した。 各部長には、役場からの連絡を集落の人たちに周知徹底するなどの任務があった。

村政と同志会 
 上湧別分村と同時に、鉄道建設を主眼とする第一期北海道拓殖計画が開始された。 鉄道建設促進運動は、湧別地方でも既に明治42年(1909)に鉄道期成会z8野口芳太郎会長)が結成され、活動を進めていたが、上湧別の分村によって事実上解散となった。 このため兼重村長は、分村後間もなく、広く地方開発を促進する目的で各部落有志を説いて同志会を設立した。
 兼重村長は自ら会長に就任し、鉄道建設を1日も早く実現しようと、鉄道院技師一行の案内から予定路線の刈り分け、工事の小屋がけ、人夫の供給、歓迎接待まですべて行い、それに要する費用まで負担した。 このほか農産物、とりわけ薄荷、麦類の共同販売についても実績を残した。 同志会は、大正5年(1916)の湧別軽便鉄道の開通まで続いた。


開村記念碑の建立 
 屯田兵の第一陣が明治30年(1897)に入地してから20年たった大正5年(1916)、屯田兵の思い出の地、元練兵場(現、上湧別中学校敷地内)に開村記念碑が建立された。 兼重村長を建設委員長として同4年(1915)11月に工事に着手、翌5年5月30日に完成した。 屯田兵による開拓の偉業を後生に長く伝えようという企画で、記念碑の建立のほか、同10年(1921)に兵村誌も編纂されている。
 その後、昭和39年(1964)に記念碑のある敷地が上湧別総合中学校用地となったため、記念碑は、上湧別神社境内に移された。


登記所の設置  土地所有権を登記する登記所は、明治政府が人民の土地の私有権を認めたことによって設置されることになった。 湧別地方の登記用務は、明治19年(1886)末以来、紋別に設けられていた裁判所の出先機関まで出向いて果たしていたが、湧別兵村に関しては、すべて中隊本部で処理していたので問題はなかった。 しかし、兵村が現役解除されると、不便を極めた。
 住民の要求に応えて大正7年(1918)7月15日、屯田市街地に網走区裁判所上湧別出張所が開庁し、登記事務を取り扱った。 翌8年(1919)に遠軽村が上湧別村から独立すると、遠軽にも遠軽出張所が開設され、遠軽、生田原、丸瀬布、白滝を管轄した。 上湧別出張所は庁舎の老巧化を機会に、管下の上湧別、湧別の両住民の利便を考慮し、昭和37年(1962)に中湧別南区に移転新築した。 その後、同52年(1977)に遠軽出張所に統合された。


国勢調査の実施 
 わが国最初の国勢調査は、大正9年(1920)10月1日に実施された。 上湧別村の調査結果は、戸数が1320世帯・人口が男3791人、女3323人の合計7114人、職業別では農業が最も多く、本業者男1078人、女897人、従業者は男1100人、女1189人であった。 次いで工業、商業、交通業、公務、自由業の順で多かった。 また上湧別で生まれた者は男1275人、女1233人を数え、全人口の35.3%に達していた。

遠軽分村 
 分村後の上湧別村人口は増加を続けた。 明治43年(1910)に1230戸・5833人であったが、大正3年(1914)には2606戸・1万2539人と約2・1倍になった。 内陸部の鉄道敷設や道路の改良整備により遠軽・生田原方面への人口移入が多かったからである。
 大正2年(1913)6月、遠軽地方の住民から遠軽分村の意見書が村会に出され、可決した。 ところが、道庁は遠軽地方住民の税負担能力不足を理由に許可しなかった。 しかし、住民要求は強く、6年越しの運動が実って同8年(1919)4月1日、遠軽村が誕生した。 この分村によって上湧別村の行政区域は、約1480㎡m(96方里)からその10分の1強の160㎡mの広さに、人口も分村前の2万1076人から約3分の1の7157人にそれぞれ減少した。 面積は、網走支庁管内で端野村に次ぐ狭い自治体となった。 しかし、昭和3年(1928)、木造モルタル二階建ての近代的な庁舎が新築されている。


戦時体制 
 昭和12年(1937)7月7日に起こった盧溝橋事件は、日中戦争へと拡大し、長期化した。 戦争遂行のため政府は翌13年(1938)4月1日「国家総動員法」を公布し、人的、物的動員体制を固めた。 同14年(1940)7月1日から主食の配給統制を実施した。 上湧別役場は、配給を円滑に進めるため、物資調整係を設けて対応した。 また、同15年10月に大政翼賛会が発足したのに伴い、同会上湧別支部が結成され、酒井村長が支部長に就任した。
 昭和16年(1941)12月8日、日本海軍のハワイ真珠湾攻撃を発端とし、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。 国内生産のすべてが軍需に向けられ、兵員以外の人々も、「国民徴用令」により軍需工場に動員された。 国策に沿って、「産めよ殖やせよ」が奨励され、10人以上の子供を産んだ優良多子家庭を表彰したが、成人男子のほとんどがセンチに赴き、多くの犠牲者を出し、同13年以降の村内人口は男女の数が逆転、女性の方が上回った。
 政府は戦時食料を賄うため、自給自足を目標に掲げ、全国で「標準農村」を指定した。 北海道では、昭和18,同19年(1943,1944)に17ヶ所が選ばれた。 網走支庁管内では、上湧別村が端野村とともに指定された。 これに基づき自作農の創設、土地改良、共同作業場の設置などの事業を推進した。 政府の教化村の指定(昭和18年10月)も受けて、村ぐるみで戦争遂行の一翼を担った。
 しかし、戦局は大本営発表とは裏腹に悪化する一方で、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦を境に敗戦への坂道を転落し始め、同19年7月のサイパン島の玉砕(天皇のためにいさぎよく死ぬこと)に続いて、米軍機による日本本土爆撃が相次いだ。 日本軍の息を止める同20年(1945)8月6日の広島、8月9日の長崎への原子爆弾投下により、日本の敗戦は決定づけられた。 運命の8月15日、昭和天皇はラジオの玉音放送を通じてポルダム宣言を受諾し、連合軍に無条件降伏することを国民に伝え、ようやく終戦を迎えることとなった。


村常会の開設 
 昭和2年(1947)、北海道一・二級町村制の改正により部制が廃止され、新たに区制が採用された。 部長は支庁長から任命されたが、区長は村会で選任された。 上湧別村では12区(昭和8年)が置かれた。 政府は戦時下になると、「部落会、町内会、隣保班、市町村常会整備要網」を通達したので、上湧別村でも区制を廃止し同16年(1941)4月1日から2町内会、12部落会を設置した。 責任者として会長、部長、連合隣保班長を置いた。 毎年6月には一斉に常会を開いて、隣保互助精神にも続く挙国一致体制の強化が図られたが、村も定員50人の村常会を開設、村会と表裏一体となって戦争遂行に協力した。

終戦と食糧難 
 日本の無条件降伏は、国民を虚脱状態に陥れ、社会を混乱させた。 人々はかってない敗戦で大きな不安を抱いたが、その反面では、様々な犠牲を強いる戦争から解放されて安堵感も覚えた。 一方、食糧や生活必需物資の不足とうなぎのぼりに上がる物価は、国民生活を極度に圧迫した。 
 戦争が終わって、戦地からの復員者や引揚者が帰郷し、人口が増加した。 上湧別村でも昭和19年(1944)に8042人であった人口が、翌20年(1945)には9771人へと一挙に1729人(21・5%)も増えた。 同21年(1946)に若干減ったものの、同22年(1947)には1万293人になった。
 ところで、終戦の年の昭和20年は全国的な例外凶作に見舞われ、食糧不足は深刻な社会問題になった。
 主要食糧について強権発動の「緊急勅令」、連合軍の緊急放出などもあったが、問題解決にはほど遠く、主婦は一家の胃袋を満たすため四苦八苦の毎日だった。 配給の主食は米、麦のほか澱粉、玉蜀黍、大豆、馬鈴薯などだが、澱粉粕、燕麦など家畜飼料用のものまで混ざっていた。 そのうえ配給されたと思ったら、次は欠配となるなどひどいありさまで、村民たちは、食糧確保に狂奔し、特に消費世帯は、物々交換や買い出しにつらい日々を送った。


民主政策と新円切り替え
 連合軍最高司令官のマッカーサー元帥は、昭和20年(1945)8月26日に着任した。 国家統治の権限は、一切最高司令官の指揮下に入った。 本格的な占領政策は、天皇を中心とする国家主義を根本的に改めるところから着手した。 そして「大日本帝国憲法」下の現人神は同21年(1946)1月1日、歴史的な人間宣言を行った。 3日後の1月4日にはGHQ(連合軍最高司令部)から軍国主義者の公職追放及び超国家主義団体27の解散指令が出された。 引き続き、人権尊重を根幹とする民主主義的諸制度がGHQ指令として相次いで出された。
 一方、諸物資の極端な不足状況は、貨幣価値を著しく低下させ、急激なインフレを招いた。 政府は、その対策として昭和21年2月、「金融緊急措置令」を公布し、預貯金の支払い停止、封鎖に踏み切り、最高500円を限度に生活費の払い出しを承認した。 また、3月には旧円を新円に切り替え、手持ち金100円に限って交換し、他は全部金融機関に預けるようにした。 しかし、これもインフレ抑制の決め手にはならなかった。


地方制度の改革 
 昭和21年(1946)11月3日、「日本国憲法」が公布(昭和22年5月3日施行)された。 日本の進むべき道が民主社会と福祉国家人の建設と明確に定められた。 民主主義を理念とする地方住民の自治権の確立を目指す「地方自治法」が、翌22年(1947)4月17日に公布(5月3日施行)された。 従来の中央集権的色彩は取り除かれ、地方自治体も国や道とほぼ同等の立場になった。 地方議会の権限も拡大して、議決権のほか、公益に関する関係行政庁への意見書の提出権、事務調査のため証人喚問権も持つようになった。
 執行機関の権限も、行政の民主化の線に沿って細分化した。 教育委員会、選挙管理委員会、公平委員会、農業委員会、固定資産評価審査委員会が設けられ、それぞれ合議制で問題や課題に対応することになった。 また、従来の市町村会は、市町村長が議長を務めたが、昭和21年10月の地方自治制度改正によって、議員の中から選挙で選ぶことになり、議決機関の行政(執行機関)からの独立が図られた。


(2)上湧別町時代
町制施行 
 「地方自治法」が施行され、地方における国家再建の基礎が確立した。 さらに、関係法令も整備されて、住民の自治に対する関心が徐々に高まってきた。 敗戦後の混乱を乗り越えて、人心が安定し始めた時期である。 社会もようやく落ち着きを取り戻し、経済発展の足がかりをつかんだ。 上湧別村では市街地が活気をみせ、禁輸機関、諸官庁出先機関の設置、病院整備など郷土建設の歩みが力強く推進された。
 昭和28年(1953)には市街地戸数が754戸を数えたことなどから、村民の間で町制施行の機運が盛り上がった。 今野和七村長は、同年5月28日の村議会に「村を町とすることについて」の議案を提出し、満場一致の可決を得た。 今野村長は5月30日、田中北海道知事に町制施行を申請、知事は9月18日付で調整を施行する告示を行い、正式に決定した。


区町制と自治会制へ 
 敗戦によって大政翼賛会は解散し、町内会や部落会も廃止されることが必至となった。 しかし、行政末端組織を一挙になくすと、配給業務などに混乱を引き起こすおそれがあった。 このため、内務省通達によって町内会、部落会については、民意を反映した組織に再編成することになった。 北海道庁では昭和21年(1946)3月。「町内会、部落会整備要綱」を定めたので、上湧別村ではこれに基づき町内会、部落会とも従来の名称、区域をそのまま活用し、自治組織へと体質改善した。
 また、昭和32年(1957)8月27日付で「上湧別町区町設置条例」を設け、区町制を採用した。 14の字区を設定して、任期一年の区町を置いた。 区町には、非常勤特別職として年額報酬が支払われた。 さらに、同37年(1962)5月、「上湧別町自治会設置条例」を制定して、自治会制度を導入した。 町と地域住民とのパイプ役となる自治会はあくまでも地域の自主的な組織とし、非常勤特別職の自治会長は町長から委嘱した。 それまで各町内にあった48の農事実行組合を解散し、これを自治会に含めて一本化し、各自治会に町から助成金を支出した。
 発足当初は、14の自治会が設置された。 その後に一部地域で編成替えなどがあり、昭和52年(1977)には旭、北兵村三区、中湧別鉄道、中湧別東町、中湧別北町、中湧別中町、中湧別南町、北兵村一区、開盛、札富美、富美、上富美、池内の17自治会になっていた。
 これとは別に字名については、昭和33年(1958)に13の新しい字名を設定した。 それまでは開拓時代から60年以上も、アイヌの人たちが呼んでいた地名をそのまま使っていたので類似の名称が多く、しかも字名が33にも及んでいた。
 地籍調査における地番は、字名ごとに一番から番号が付けられた。 その後の戸籍や住民登録、その他の届け出などは一切この字名と地番が使用されている。 字名は、旭、北兵村三区、北兵村二区、中湧別、北兵村一区、屯田市街地、南兵村三区、南兵村二区、南兵村一区、開盛、上富美、富美、札富美である。


名誉町民 
 名誉町民の第一号は、開拓当初から地域医療のため一生を捧げた医師の庄田萬里で、昭和29年(1954)11月3日にその称号を受けている。 このあと元上湧別村長の酒井佐一(昭和41年1月22日)、元上湧別村産業組合長の熊沢助三郎(同43年3月13日)、元上湧別村議会議員(最後の元屯田兵)の三浦清助(同46年12月21日)、元上湧別町長の石田勝喜(同50年6月13日)が名誉町民の栄誉に輝いている。 なお、「上湧別町名誉町民条例」は、同29年10月に制定された。

開基七十年記念と鉄道開通五十周年記念 
 昭和41年(1966)は、屯田兵が命じ30年(1897)に湧別原野へ入地してから70年、また大正4年(1915)に下生田原(現、安国)~社名淵(現、開盛)間に初めて鉄道が開通してから、満50年という歴史の節目であった。 町は、同年9月29日、旧中湧別中学校を会場に開基七十年記念と鉄道開通五十周年記念の2つのお祝いを兼ねた記念式典を盛大に催した。 式典には三品玉吉ら生存している17人の屯田戸主のほか屯田家族、開拓功労者も出席、感謝状や表彰状を受けた。
 祝賀行事としては、ノンプロ野球大会、職域野球大会などのスポーツをはじめ、郷土資料展、芸能大会など文化的イベント、リンゴ展示、チューリップ球根展示即売などの産業物産展、それに舞踊パレードなどが多彩に展開された。 記念事業も多く、記念植樹のほか記録映画の制作「上湧別町史」の編纂、屯田兵屋など史跡の保存を行った。


町章・町旗 
 政府が明治2年(1869)8月15日、蝦夷地を北海道と改称し、開拓使を設置して本格的な拓地殖民に乗り出してから、昭和43年(1968)でちょうど100年を迎えた。 その記念事業は北海道の市町村で繰り広げられたが、上湧別町では、①町章、町旗の制定、②樹木公園造成と記念植樹、③屯田兵屋と史跡の保存、などを行った。 このうち町章はデザインを一般公募し、屯田市街地の北島和彦(当時16歳)の作品を採用し、同年6月21日に制定、町旗にも使った。 デザインは、上湧別の「カミ」の字を円形と縦線で図案化、住民の融和の姿と地面に根を下ろし未来に向かって、たくましく伸びゆく力を差し、中央には屯田兵村を象徴する星を描いている。
 町(村)章は、昭和4年(1929)ごろから星を月桂樹の葉で囲んだものが、住民に親しまれていた。 星は屯田兵村、月桂樹は屯田兵の栄光を表現していたが、開道100年を機会に一新したものである。 町旗は、この町章を中心に配し、地色は淡青色とし、円文字は濃緑色、星は”だいだい色”で浮き上がらせた。


広報、広聴活動の充実 
 戦後になって行政上の重要な施策の一つとして、広報、広聴活動が取り上げられるようになった。 上湧別町では昭和30年(1955)4月に「町だより」(B5版)をガリ版刷りで発酵し、全戸配布したのが最初であった。 これを活版刷りの「弘報かみゆう」(B5版)と装いを新たにして、第一号を発刊したのが同32年(1957)5月号からである。 さらに、同36年(1961)1月から題字を「広報かみゆうべつ」に変え、読みやすくするため写真や図版を多く使用、その後、紙質やレイアウトを何度か変更している。 頁数は4頁から始まって8頁、10頁となり、同45年(1970)ごろから12頁に落ち着いたが、予算編成時期や町内行事の多い時は増頁をして発行した。
 このほか昭和48年(1973)5月から月三回の旬報を発行して全戸に配布した。 それまで上部機関や各種団体からの通知、各種行事の案内、至急処理を要する事項などは、その都度自治会長を通じ回覧方式で知らせていたが、自治会の負担軽減、経費の節減のためにこれを廃止し、旬報方式に切り替えた。
 町民の声を聴き、これを町政に反映させる広聴制度については、昭和40年代(1965~)に入って、いろいろな形で取り入れられるようになった。 町長、課長らが出席して自治会ごとに開催する町政懇談会、町政調査員(モニター)制度、動(走る)町政教室、町長に手紙を出す運動、世論調査などがあり、町民と町政を結ぶパイプとして大きな役割を果たしている。 このうちモニター制度は、町政に関する町民の意見、要望を組織的、体系的に聴取するもので、同44年(1969)2月1日に発足した。 毎年20人の町政調査員を各位地区ごとに委嘱、提起意見調査書、随時意見報告、町政調査員会議を通じて町民の声を報告してもらっている。


広域行政 
 昭和30年代(1955~)の国民生活水準の向上、農山漁村地域の都市化、過疎過密問題の深刻化、交通・通信手段の発達などによって、行政区域を越えて物と人が日常的に交流するようになった。
 広域市町村圏の施策は、このような地域社会の変動に対応し、住民の高度で多様な要求に応えるため、市町村が協力して住み良い生活環境の整備を行おうというもので、国土の均衡ある発展と過疎過密問題の解決もねらいとしていた。 自治省は、昭和44年(1969)度に「広域市町村振興整備措置要綱」を制定し、同47年(1972)度までに全国で329の圏域を設定した。 北海道でも同44年度~47年度に20の圏域を設定し、各種施策を進めた。
 上湧別町を含む遠紋地区広域市町村圏は、昭和45年(1970)度の指定を受け、翌46年(1971)度から事業を開始した。 同市町村圏は、上湧別町をはじめ紋別市、遠軽町、佐呂間町、生田原町、白滝村、丸瀬布町、湧別町、滝上町、興部町、西興部村、雄武町の1市9町2村で構成、各市町村長をメンバーとする遠紋地区広域市町村圏振興協議会で振興計画をまとめた。
 同計画は、昭和46年度から同55年(1980)度までの10ヶ年計画で、①交通・通信体系の積極的整備充実を図る、②産業基盤の整備と近代化による高生産性の確立を図る、③生活と生産が調和する明るく豊かな広域生活圏の形成を図る、④恵まれた自然美と観光資源の開発による中部オホーツク観光圏の形成を図る、の4項目を柱に、これに関連して各市町村が特性を生かした独自の振興基本構想を策定した。
 上湧別町の基本構想は、①土地資源の高度利用による生産基盤を確立する、②北方に適した生活環境の充実を図り、安全快適なまちづくりを確立する、③産業振興の基盤整備と経営の近代化を図り、高生産性を確立する、④社会経済の高度化に適応した人材を養成するため、教育環境の整備と地域文化を推進する、の4項目からなっている。 圏域全体の総事業費227億2000万円のうち、上湧別町が実施する事業は11億8142万円、また、広域行政機構で実施するもの2億5900万円、共同処理機構で実施するもの6億5460万円であった。


上湧別町総合計画 
  昭和46年(1971)度からスタートした第三期北海道総合開発計画、遠紋地区広域市町村圏振興計画と期を同じくして、第一期上湧別町総合計画が実施に移された。 国の高度経済成長施策に伴って経済、社会は著しく変貌し、人口流出による過疎化が進み、行政需要も大きく変化した。 こうした新しい情勢に適切に対応し、誤りのない発展を目指そうというもので、同55年(1980)度までの総合十ヶ年計画である。 目標達成に要する財源総額は98億2000万円(昭和44年度価格)に設定、人口想定は9500人で、就業人口はその50%に置いている。
 町の未来像としては「緑豊かで近代的生産文化のまち」と定め、施策の基本方針に、①産業基盤の充実、②輸送通信機能の強化、③明るく住みよい町民生活の確立、④創造性豊かな人材の養成、を掲げた。 事業の実施に当たっては、3ヶ年ごとの実施計画を立てて、ローリング方式で進めることとした。

土地開発公社 
 土地資源の有効利用は、まちづくりの基本である。 町は、総合計画に盛り込まれた土地基盤整備をはじめ、生活環境や各種施策を計画的、合理的に整備するために必要な土地を先行的に確保することを目的に、昭和49年(1974)6月、上湧別土地開発公社を設立した。 同公社では、道路、公園、住宅、工業用地の取得や造成、管理とそれらに伴う事業を行った。
 また、昭和49,同50年(1975)度にわたり、中湧別地区で勤労者住宅用地の取得と団地造成を行い、宅地を分譲した。 募集区画は24で、価格は33万9300~37万1000円であった。 同52年(1977)度にも勤労者団地17区画(上湧別地区、中湧別地区)商工団地19区画(中湧別地区)の合計36区画の宅地造成を完成させ、完売している。


過疎対策 
 高度経済成長を支えた急激な工業化は、深刻な過疎過密問題を生み出した。 農山漁村地域の人口減少は、昭和30年代(1955~)から同40年(1965)までの5年間に30%を超える減少率を記録する町村が続出、青年層の町村外流出による人口の高齢化の弊害が防災、教育、医療など様々な分野で無視できなくなった。
 過疎問題の解決は、国の総合的地域対策に求められるようになり、昭和45年(1970)度から同55年(1980)度までの臨時立法として、「過疎地域対策緊急措置法」が制定された。 この法律でいう過疎地域は、同35年と同40年の国勢調査による人口の減少率が10%以上で、しかも同41年(1966)度から同43年(1968)度までの財政力指数の平均が40%未満という市町村である。
 この要件を満たす市町村は全国で776もあり、道内では70市町村を数えた。 上湧別の場合は、人口減少率が低くて同法の適用を受けられなかったが、北海道庁への陳情、要請活動に努めた結果、昭和48年(1973)度から準過疎地域として認められ、優遇措置の対象となる特別対策事業を実施することになった。 これにより同50年(1975)度までの3年間で、町営野球場の建設など3716万5000円(うち特別補助1750万円)のp事業を行った。
 昭和50年の国勢調査では、5年前より10.4%も人口が減り、翌51年(1976)4月に正式の過疎地域に指定され同51年度から4年間で24億2300万円の事業費を計上して道路整備、教育環境の充実、厚生福祉施設の整備、地場産業の振興などに取り組んだ。


上湧別町開基八十年記念 
 昭和51年(1976)、上湧別町は記念すべき開基八十年を迎え、同年9月26日に上湧別中学校体育館で盛大な記念式典が行われた。 式典には元屯田兵でただ一人の生存者、三浦清助(当時95歳)ら開拓功労者や一般町民、町内外の来賓ら約500人が参加した。 先人開拓物故者の霊に黙祷を捧げ、渡辺要町長が式辞を述べたあと、三浦翁ら開拓功労者など153人に感謝状、記念品が贈られた。 引き続き制定されたばかりの町民憲章や、町花「チューリップ」、町木「オンコ」が発表された。
 記念の協賛行事も多彩に催され、スポーツ大会、文化展、産業展、音楽パレード、芸能発表、文化講演などが町内各地で行われた。 3年ぶりというばんえい競馬が人気を集め、『上湧別町史』、記録映画も制作され、貴重な資料を残している。
 記念事業として、町民憲章、町花、町木が制定されたほか、タイムカプセルを埋設した。 50年後の町民に”今”を伝えるタイムカプセルは、昭和51年10月9日、屯田市街地の上湧別神社公園内に埋設されたが、50年後の西暦2026年9月29日に掘り出され、開封される予定である。

第三節  議決機関 
  戦前までの村会 
 上湧別村が湧別村から分村したのは、明治43年(1910)4月1日である。 それまでの上湧別地区は、湧別村の一地域を形成しているに過ぎなかったが、自治体として独立して、初めて上湧別村会が構成されることになった。 しかし、有権者の要件が極めて厳しく、村政に参加できるのは住民のほんの一部に限られ、民意を反映したとは、とてもいえなかった。 最初のころは議事堂もなく、旅館の一室を利用して村会を開会するというありさまであった。 議事堂がやっと完成したのは、大正8年(1919)4月1日、遠軽村が上湧別村から分村して、行政区域がぐんと狭まった。 しあkし、村会議員の定数は以前と変わらず、12人であったので、それだけ民意を反映しやすくなるはずであったが、相変わらず選挙権の制限が厳しかった。 このあと同10年(1921)と同15年(1926)に相次いで納税要件が緩和され、さらに、昭和3年(1928)の選挙から男子普通選挙が採用された。 これによって有権者が大幅に増えたうえ、かねてから問題となっていた 委任投票制度が廃止され、公正な選挙が推進され大正ので村会の機能は事実上高まった。 とはいうものの、議長は官選の村長が務めていて、議決機関としての独立は、戦後の民主化に待たねばならなかった。

議決機関の独立 
 昭和20年(1945)12がつには「衆議院議員選挙法」の改正により婦人にも選挙権、被選挙権が与えられた。 また、同21年(1946)9月、市町村制の一部が改正により、住民参政権が拡充され、地方議会の地位や権限も強められた。
 議会制度については、従来の執行機関に従属した立場から独立して、議会と執行機関である市町村が明確に分離された。 その相互牽制によって行政運営が適正化、円滑化されることが期待され、行政執行の前提となる完全な意思決定機関に位置づけされた。 議員は、公選制によって直接住民に責任を負うことになり、議長、副議長もその議員の中から選ばれるように変わった。
 議会には与えられた機能と責任を果たすため、議決権を中心にいろいろな権限が認められている。 それらはおおむね、①議決権、②選挙権、③調査権、④同意権、⑤決定権、⑥承認権、⑦検査権、⑧監査請求権、⑨意見提出権、⑩請願受理権、⑪報告、書類の受理権、⑫懲罰権、⑬規則制定権、などである。 また、議長には議会の代表者、統率者としての立場と会議の主宰者としての役割を持つことになった。


議員定数 
 上湧別村時代の議員定数は、遠軽村の分村後も12人であったが、男子普通選挙の実施に伴い、昭和3年(1928)の選挙から18人に増えた。 戦後は婦人参政権が認められて完全普通選挙となり、「地方自治法」の基準に基づいて、22人とされ、この定数が町政施行後も続いた。 しかし、同46年(1971)から人口の減少、経費の節減などを理由に2人の定数減を決め、20人と定めている。

戦後の議会活動 
 昭和20年(1945)~同51年(1976)の間に開催された議会の回数は289回で、提出された付議案件は3233件(昭和24年度は一部不明)となっている。 一年間平均の開催回数は9回で、付議案件は101件である。
 議会の効率的運営を図るため、委員会制度を採用し、委員会には常任と特別がある。 常任委員会は、条例によって4委員会以内の常設ができ、昭和45年(1970)5月から、総務財政、社会文教、産業工営の3常任委員会が設置されていた。
 これに対し特別委員会は、設置数について法律の制限がなく、臨時、特定の案件に関連して設置される。 上湧別村で最初に設けられた特別委員会は、昭和22年(1947)7月16日の議会で決定した消防特別委員会で、同53年(1978)度までに65の特別委員会が設置されている。


議員の報酬 
 議員に報酬が支払われるようになったのは、昭和22年(1947)5月からで、それまでは名誉職といった性格が強かった。 報酬額の決定については、町長の諮問機関として審議会が設けられ、その答申を受けた町が議会に諮って決定する。 同年5月には年額で議員200円、議長400円であったが、その後改正を重ね、同51年(1976)10月に、月額で議員8万円、議長12万円となった。
第四節  執行機関 
  首 長 
  二級町村制における上湧別村の村長は、北海道庁長官から任命され、網走支庁長の命を受けて村を統括し、行政事務を担当した。 つまり当時は、首長も地方の一官吏に過ぎなかった。 昭和13年(1938)4月、上湧別村が一級町村制を施行したので、村長が村会における選挙で選ばれるようになったが、これも民意を十分反映したものとはいえなかった。
 戦後の民主的な地方自治制度下においては、市町村長の地位は、市町村の執行機関であり、その最高理事者であった。 自治行政全般の事務を、議会の決定に基づき管理執行するとともに、国や北海道の委託事務を管理担当するのが任務である。
 首長の権限のうち非常に重要なものとして規則制定権、予算編成権、議案の提案権、教育委員会などのほかの執行機関の構成員や助役、収入役その他の補助機関の職員の任命権などがある。


兼重浦次郎村長 
 初代村長の兼重は、上湧別村の明治43年(1910)4月1日の分村と同時に発令された。 当初は下湧別村長との兼任であったが、上湧別村役場庁舎が屯田市街地で開庁すると、上湧別村長の専任となった。
 兼重村長は、就任早々から庁舎移転と遠軽分村問題をはじめ鉄道敷設促進運動、農産物の共販指導、とりわけ薄荷急坂問題にからむサミュエル事件の指導者として農民救済に奔走するなど活躍した。 その手腕は、北海道での3人の名村長と称された。 地方政治家であるとともに、経済人でもあって屯田市街地で荒物雑貨店を営んでいた。 大正7年(1918)7月現職のまま脂肪、在職は8年余であった

本多国彦村長 
 大正7年(1918)8月6日に発令されたが、前職は網走税務署長であった。 翌8年(1919)4月1日、遠軽村が上湧別村から分村すると、しばらくして遠軽村長として転出したので、在職はわずか1年4ヶ月ほどであり、上湧別村においては目立った足跡は残していない。

新野尾国之村長 
 大正8年(1919)11月に着任した新野尾村長は、6年間も兼重、本多両村長の下で収入役を務めた実務家であった。 湧別村役場と称した時代からの吏員でもあった。 新野尾村政は、偉大一次世界大戦後の経済不況と昭和初期の金融恐慌という試練の時代に立たされた。
 しかし、大正10年(1921)10月、鉄道の名寄線が全線開通したのを機に湧網線、石北線の敷設促進運動に全力を挙げたほか、中等女子教育の振興に努めて、同13年(1924)に南湧実科女学校を開設した。 造田推進にも政治生命をかけ、昭和5年(1930)に湧別土功組合を設立した。 公有財産を処分して造田奨励助成金を出し、水稲発展の基礎を作ったが、その成果を確認しないまま翌6年(1931)1月、造田問題にからむトラブルの責任をとって辞職した。


酒井佐一村長 
  湧別村役場吏員だった酒井は、上湧別、遠軽の分村の旅に新しい村に移り、その基礎づくりに手腕を発揮、小清水村長を務めていた。 温厚な人柄と威厳のあるリーダーシップが買われ、昭和6年(1931)1月に上湧別村長に招かれた。
 酒井村長は、昭和8年(1933)に湧別バロー山手間共同放牧場と上富美薪炭備林地の国有未開地の払い下げを受けて公有財産を造成した。 また、同9,同10年(1934,1935)国費による湧別川築堤工事を完成させ、さらに、同10,同11年(1936)にわたり村内小学校の一斉改築を行い、同10年に計呂地~中湧別間の湧網西線を開通させている。
 昭和13年(1938)一級町村制の初代村長として農村経済更生計画を推進したが、次第に強まる戦時体制の中で苦難の道を歩んだ。 しかも、戦後は公職追放の処分を受け、同21年(1941)11月に辞職している。 在職は15年10ヶ月に及んだ。


今野和七(町)村長 
 酒井村長の辞職に伴い、昭和21年(1946)11月8日、村長臨時代理者に発令された今野和七は、畜産主任から抜擢された。 翌22年(1947)4月6日の初の公選村長選挙で、無投票で当選している。 今野村長は、最初の4年間、戦後の諸制度の改革と民生安定に努め、特に新教育制度による新制中学校の整備、農村電化、国民健康医保険事業の開始などに功績を残した。
 昭和26年(1951)の選挙で再選されると、下湧別村も含めた地域住民から強い要望のあった湧別高等学校の新設を実現したほか、結核病棟、中湧別診療所の開設、国有林払下げ、商工振興資金制度の創設など山積みする諸問題を解決した。
 その結果、村勢は著しく伸展し、ついに昭和28年(1953)9月、町民待望の町制を施行し、開基五七年目にして上湧別町を誕生させた。 これにより今野は初代町長となったが、翌29年(1954)11月に部下の不祥事の責任をとって辞任した。


石田勝喜町長 
 今野町長辞任による町長選挙は、昭和29年(1954)12月10日に行われ、当時上湧別町農業協同組合長だった石田勝喜と、返り咲きをねらう元村長の一騎打ちとなったが、わずか8票の差で石田が当選した。 石田町長は就任早々、赤字財政(昭和29年度決算)という事態に直面したので、直ちに財政再建10ヶ年計画を立てて努力した結果、3年間で自主再建を果たした。 一方、同29年から3年連続冷害凶作に見舞われたが、様々な救済対策を講じて農民を助け、切り抜けた。
 こうした実績が評価され、2選目は大差で、3選目は無投票で当選した。 この間、庁内の道路や橋の改修整備、農山村振興事業の実施、全町の地籍調査、土地改良事業の実施、農業共済事業の町移管、社会環境施設の整備、池内工業の誘致などに努め、めざましい業績を残した。 しかし、町内5中学校の統合に伴う校舎建設の位置決定をめぐる問題が、町民のリコール運動へと発展したため、その責任をとって昭和40年(1965)8月に辞任した。


渡辺要町長 
 昭和40年(1965)10月10日の町長選挙では、町民の信を問うとして石田前町長が4たび立候補したが、上湧別村出身で白滝村長であった渡辺要が対立候補として出馬、石田を大差で破った。 渡辺町長は、懸案であった統合中学校の校舎の位置を確定し、落成させたのをはじめ、農業振興基本計画を策定して農業構造改善事業に着手、さらに、上水道を完成させた。
 2期目に入ると、公約の上湧別町総合10ヶ年計画を昭和46年(1971)度に策定して町政方向を定めたうえ、土地基盤整備事業を重点に推進した。 町営牧場の造成、上湧別町社会福祉会館や上湧別町青少年会館、保育所などの建設、市街地道路の舗装化、幹線町道の路盤整備、中小河川の改修などに取り組み、遠門地区市町村と協力して広域行政を展開した。
 3期目は国営、道営の土地基盤整備事業、林道整備、町営野球場の造成、本州企業の誘致に努めたほか、中湧別小学校の改築に着手した。 また、大型新規事業の農村総合整備モデル事業を導入、網走支庁管内有数の上湧別農村環境改善センターを屯田市街地に建設を開始、さらに、過疎地域指定に伴う関連事業にも乗り出した。 昭和51年(1976)彰には、盛大な開基八十周年記念式典を催し、記念事業として町民県章を制定、町民の規範を示した。


出倉定夫町長 
 昭和52年(1977)9月の町長選挙は、前助役の出倉定夫と前教育長の佐々木義照の対決となったが、出倉が当選した。 出倉町長は、①新設で、清潔な明るい町政、②産業振興で豊かな町を、③青少年と婦人に夢と希望を、④老人に思いやりを、⑤きれいな住み良い町を、政策に掲げて町政の執行に当たった。
 昭和53年(1978)度には福祉バスの運行、社会福祉協力員の創設、特別養護老人ホーム「湧愛園」の新築など福祉の充実に力を注ぎ、そのほか上湧別町農村環境改善センターの新築、産業観光祭のの開催、開盛営農用水道の建設着手などに取り組んだ。

第五節  財  政 
  戦前の財政
 明治43年(1910)4月、上湧別村が湧別村から分村したが、その前年度の湧別村は人口1万人強で、財政規模は約2万1500円であった。 独立したばかりの同43年度の上湧別村は人口5833人で、財政規模は、約1万6800円であった。 人口が42%も減っているのに対し、財政の報は22%にとどまっている。 これは湧別兵村の財政力がいかに大きかったかを物語っている。 大正8年(1919)4月、遠軽村が上湧別村から分村した。 この時、上湧別村の人口減少率が62%に達したのに、財政規模の減少率は45%にとどまったのも、上湧別の財政基盤が早くから確立していたことの証明である。
 財政規模の推移をみると、大正元年(1912)度2万2500円、同5年(1916)度4万5700円、同7年(1918)度8万9200円、そして遠軽分村後の同10年(1921)度には4万8900円と縮小している。 しかし、その後は拡大する一方で、昭和元年(1926)度には6万3700円、同5年(1930)度7万8000円、同10年(1935)度23万3600円と拡大した。しかし、戦時体制下では緊縮型となり同15年(1940)度14万4100円、同20年(1945)度20万9600円の規模となっている。
 明治、大正時代は歳入で村税、歳出で教育費が目立ち、公共施設の造成、建設のための住民寄付が多く、例えば、明治44年(1911)度から大正7年度まで8年間の総歳入額の約10%を寄付が占めている。 また昭和10年前後までは、税金を納める代わりに住民に労力を提供させる夫役制度が積極的に活用された。 開拓途上の町村にあっては、少ない労働力の確保と低所得者層への税負担代替措置として、重要な役割を果たしたのである。


戦後の財政 
   終戦直後の異常なインフレは、反面、住民所得の著しい伸びとなって表れ、村の村税収入も激増した。 村税収入は昭和20年(1945)度に16万1000円強であったが、翌21年(1946)度32万円、同22年(1947)度310万円、同23年(1948)度979万円、同24年(1949)度1592万円となり、これに伴い財政規模も同20年度の28万4000円が、同24年度には、なんと112倍の3197万6000円に膨張した。 このころから経済復興の兆候がみられるようになり、加えて経済安定9原則が定められ、為替レートの設定、金融の引き締め、シャウプ勧告による税制改正などの諸政策がj効果を示し、徐々にインフレも収まって物価は安定するようになった。
 特に昭和25年(1950)のシャウプ勧告による税制改正においては、従来市町村会で決定していた見立割制(農産物等を見た感じで課税する方法)が廃止された。 これに代わり、所得税に基礎を置く住民税と、家屋、土地、償却資産を評価して賦課する固定資産税、それに電気ガス税、煙草消費税、木材取引税、入湯税、鉱区税などが法定普通税として市町村税となり、国税、都道府県税と完全に分離された。
 またこの改正で国税に吸収された所得税の見返りとして、政府から地方財政平衡交付金(のちに地方交付税と改称)が地方公共団体に還元されることになり、市町村財政の主要な財源となった。 このため住民の税負担は次第に減少し、特に池田内閣の高度経済成長政策によって、国民所得が急速に増えたことを背景に、さらに、住民税の課税統一の実施も相まって昭和36年(1961)度以降、地方交付税の増額は著しく、財政規模の拡大とともに、市町村税負担率は一層低下した。
 上湧別村の場合、昭和26年(1951)度で歳入が3812万8000円で、地方交付税は869万3000円(22.8%)村税が157万8000円(41.3%)であったが、同37,同38年(1962,1963)度ごろから自主財源である町税の比率が年々減少、これに対し依存財源である地方交付税は、同45年(1970)度以降40%を超え、同51年(1976)度では歳入15億792万7000円のうち、地方交付税6億3824万1000円(42.3%)、町税1億7173万円(11.4%)、となっている。
 このほか依存財源である国や道の支出金(補助金)もかなりの比率を占めた。 さらに、学校建築や道路、社会福祉施設の整備などの大きな事業を行う場合は、起債(長期資金)を利用するので、総体的な財源の依存度は、昭和49年(1974)度以降75%前後に達している。


町有財産 
 大正2年(1913)、兼重浦次郎村長が学校基本財産715㌶と富美共同放牧場676㌶の国有林払い下げを受けた。 次いで酒井佐一村長が昭和8年(1933)、薪炭備林地76㌶、湧別バロー山手間共同放牧場228㌶の山林の払下げを受けた。 同24年(1949)にこのうち富美地区118㌶を農家備林として処分した。 しかし、同29年(1954)に再び国有林192㌶の払下げを得て、基本財産の基礎を固めた。
 一方、昭和13年(1938)に湧別兵村から寄付を受けて、小作収益を上げていた公有財産は、戦後の農地解放でそのほとんどを失った。 そのうえ、町有山林の立木は、戦後急増した財政需要のため相次いで処分したので、その対応策として同30年(1955)以降、計画的な造林を進めた。

第六節  戸数と人口 
  戸数と人口の推移  
 明治43年(1910)、湧別村から分村した当時は1230戸・5833人であったが、その後の鉄道敷設や道路の改良整備などにより、上湧別をはじめ遠軽、生田原、白滝方面の人口増加が目立ち、大正7年(1918)には4174戸(3.4倍)・2万1076人(3.6倍)に増えた。 しかし、翌8年(1919)に上湧別村から遠軽が分村すると、1138戸・7157人に減少し、網走支庁管内では端野村に次ぐ小規模村となった。
 遠軽分村後、湧別線鉄道開通や名寄線鉄道開通は、その分岐点となった中湧別の商工業を発展させた。 それとともに奥地の上富美、札富美、旭の開拓が進んだので、昭和10年(1935)には1433戸・8463人に増加した。 しかし、同20年(1945)の終戦までの戦時体制下では、ひたすら戦争遂行のために明け暮れ、戸数、人口も横ばいの状態であった。
 戦後は、外地からの復員、引揚者の増加で人口は急増し、昭和22年(1947)には1700戸・1万293人と遠軽分村直後に比べ戸数で1.5倍、人口で1.4倍に膨れあがった。 引き続き戦災者や緊急開拓による集団就農者(97戸)の受け入れ、湧網線鉄道の全線開通、金融機関の進出などで商工業も一段と活気づき、同30年(1955)には1953戸・1万1354人とピークを迎えた。
 この2年前に待望の町制を施行したが、昭和40年代(1965~)に入ると、高度経済成長の波に洗われ離農が始まった。 人口は、同40年以降減少の一途をたどり、ピーク時の同30年(1975)で8324人まで落ち込んだ。 この間、池内工業の誘致(昭和34年)、ホクユウ食品工業の創業(同41年)のほか、幾つかの製造工場、建設会社が新設され、あるいは事業拡大を行い、人口の減少を抑えた。
 戸数については、昭和22年z81947)以来増加し続け、同33年(1958)にはついに2000戸の大台を突破し2028戸となった。 その後も核家族の進行は人口の減少傾向に反比例して戸数を増やしたが、同46年(1971)の2450戸あたりから増減を繰り返して頭打ちの状態になっている。


人口動態 
 出生、脂肪による人口動態をみると、自然増が最も多いのは昭和26年(1951)の206人(出生320人、死亡114人)であった。 翌27年(1952)以降は産児制限の浸透などで出生が徐々に減り続け、同52年(1977)には102人で三桁の大台を割りそうな傾向である。 一方、志望者も医学の発達などにより減少し、同30年(1955)以降は二桁台に落ち着き、同44年(1969)から10年間は、50~60人にとどまっている。 こうした傾向の中で自然増は、同46年(1971)から100人を割り、同52年はわずか34人であった。 得意な年としては「ひのえうま」の同41年(1966)がある。 出生が105人と前年より46.1%も減少したのに、死亡はほぼ平年並みであったので、当時としては珍しく33人増にとどまった。
 一方転出入による社会動態は、昭和25年(1950)ごろまで復員、引揚者、集団就農者などにより毎年増加したが、同30年以降は2ヶ年の例外を除いて一貫して転出増となり、総体的な人口減の主因をなした。 同30年は転入437人に対し、転出が442人で社会減は5人であったが、同52年は転入526人、転出615人で社会減は89人となっている。


産業別人口 
 産業別就業数をみると、男子は第一次産業で昭和22年(1947)1533人(61%)、同30年(1955)1433人(48%)、同40年(1965)851人(30%)、同50年(1975)534人(23%)と減少し続け、特に農業就業者は同22年の1493人(60%)をピークに落ち込んでいる。 これに対し、第二次産業は同22年393人(16%)から上昇の一途をたどり、同40年906人(32%)、同50年740人(33%)と推移している。 このうち建設業への就業者は同50年に358人(16%)となっていて、離農者を吸収していることがうかがえる。 第三次産業も同22年の584人(23%)が、同50年に998人(44%)と大幅増加しているが、同30年以降横ばい状態というのが実態である。
 女子の就業者は、第一次産業の農業で、昭和22年に1536人(83%)であったが、毎年漸減を続け、同50年は521人(30%)と3分の1弱になってしまった。 しかし、実働人員で男子を上回っているのは、依然として「かあちゃん農業」が続いていることを物語っている。 また、第二次産業の建設業や製造業、第三次産業のサービス業、卸売・小売業などへの就業が軒並み激増しているのは、女子の職場進出、逆にいえば企業の女子労働力への依存度が高いことを示している。
 男女を総合すると、産業別就業者の構成比率は、農業者が激減して第二次、第三次産業に移行しているという変化が目立つ。 また、産業構造は次第に農村工業化へ進む傾向が強まっている。


年齢別人口 
 昭和30年(1955)と同50年(1975)の国勢調査結果により、年齢階層別変動の状況をみると、同30年の幼齢人口(0~14歳)が4222人(37.2%)、生産年齢人口(15~64歳)が6555人(57.7%)、老齢人口(65歳以上)が577人(5.1%)であった。 これに対し同50年の幼齢人口は2074人(24.9%)、生産年齢人口は5449人(65.5%)、老齢人口は801人(9.6%)であった。 幼齢人口が大幅に減ったのに比べ生産年齢人口、老齢人口が増えている。
 各年齢層の構成比は、若年層が下降して高齢層が上昇、この間の人口の減少は若年層、特に若年労働力層に最も顕著に表れて、町全体の人口は高齢化に向かいつつある。
第五章 


目次
  
産業と経済 
第一節  農  業 
  (1) 明治時代
徳弘正輝と農牧畜経営 
  湧別原野に居住し、開墾に従事した最初の人は、半沢真吉である。半沢は明治15年1882)春、網走から湧別五番地に移住し、馬鈴薯、大根、大麦、麻などを栽培した。高知県人の徳弘正輝が同10月、やはり網走から湧別に移り、翌16ねん(1883)から和田麟吉と共同で半沢の土地を借り、開墾を始めた。
 徳弘は、明治20年(1887)ナオザネ(中湧別)に約30㌶の未開地の払い下げを受けて移住し、小作人を置いて農牧畜を経営した。 徳弘は、上湧別の和人定住者第一号であり、湧別原野で牛を飼育した最初の人であった。 また、リンゴ栽培の先駆者、プラオ(馬一頭びきの農耕具)などの農耕具を初めてもたらした人として知られている。
 明治24年(1891)春、佐渡出身の竹内文吉が利尻から4号線付近に来住した。 約3000㎡mの開墾地に粟、馬鈴薯、大根を植え、大根などを当時中央道路開削に従事していた野上駐在の網走分監に売り渡した。 これが湧別原野で農産物を販売した最初の記録である。
 徳弘は、既に牛を導入していたが、明治29年(1896)には25頭まで増やし、豚も4頭飼っていた。 最初の豚飼育者でもあった。 馬については、このころ湧別村内に180頭ほどいたとされている。 そのうち農耕に使用されていたのは10頭ぐらいで、あとは乗用、雑用に使われていた。 徳弘は馬2頭、プラオ2台を持ち、農耕に活用していた。


屯田兵による開墾と農業経営 
 湧別屯田の給与地は、南はサナブチ川から北は6号線に至る草原地帯、疎林地帯であった。 明治32年(1899)からプラオが導入され、馬耕が可能になったことから、翌33年(1900)まで給与地全体の40~50%まで開墾が進んだ。 開墾当初の作物は、時給食糧として馬鈴薯、大根、人参などが中心で、そのほか裸麦、大麦、小麦、大豆、小豆、玉蜀黍、蕎麦、粟、稻黍、菜種などが栽培された。
 兵村における農事指導は、兵員の軍事教練とと同様に厳格に、しかも熱心に行われたので、明治36年(1903)の現役解除までに給与地のすべての開墾を完了した。 一般開拓民は離農が多く、開墾が遅々として進まなかったのに比べ、屯田兵村では販売商品作物の生産にも着手、経済基盤を固め畜力農耕に移行しつつ、北見農業の先導的役割を果たした。


水稲、リンゴの試作 
 上湧別の水稲栽培は、明治31年(1898)に南兵村二区の菊池勤が、郷里福島から早生種の種子を取り寄せて試作したのが始まりである。 同33年(1900)には中隊本部も種籾を無償で配布し試作させた。 同35年(1902)には三輪光義第四大隊長の命令で水門、樋管、水路などの構築工事を行い、灌漑溝と試験田を完成させている。
 各種試作物のうち当時から適作物として定着し、上湧別の特産品となったのがリンゴである。 明治31年、高知県人の中野半次郎が札幌方面から国光の苗木を購入し、南兵村二区の大川徳蔵ら数人に売ったのが、湧別のリンゴの第一歩となった。 翌32年(1899)には高橋定次、高橋留五郎の2人が5000本の苗木を購入して各戸に転売した。 それ以来、兵村全域で栽培されるようになった。 これらの幼木は同40年(1907)ごろから生産期に入り、いよいよ普及した。


薄荷の栽培 
 明治29年(1896)、湧別村の渡部(辺)精司が永山村(現、旭川市)から種根22.5㌔㌘を取り寄せ試作したのが、その後、世界市場の70%を制した北見薄荷の始まりである。 渡部(辺)は取卸油(薄荷を蒸留した第一次製品)の製造まで試みて成功したので、近隣の農民に奨励した。 さらに、4号線に入地していた高橋長四郎が、種根を大量に仕入れて転売したほか、学田農場(現、遠軽町)で小山田利七も試作に成功した。 薄荷は菜種や麦類の3倍近い収益が上がるので注目され、同34,同35年(1901、1902)ごろには湧別兵村はじめ網走支庁管内一円に急速に広まった。
 明治36年(1903)、湧別村の薄荷栽培面積は、約300㌶であったが、同38年(1905)に約600㌶、同40年(1907)に約800㌶とわずか4年間で2.7倍に達し収穫高は約7万円となった。 大正中期には、豆類、馬鈴薯の増産によって一時減反したが、網走支庁管内全体の呼称である、いわゆる北見薄荷は、昭和14,同15年(1939,1940)ごろ生産のピークを迎え、網走地方の発展に大きな役割を果たした。 このほか商品作物として菜種、朝鮮人参があり、農家経済を助けた。


麦と馬鈴薯 
 開墾当初から主要な自給作物であった麦類は、生産増加とともに重要な販売商品作物に転換した。 特に小麦と大麦は、菜種、薄荷に次ぎ販売高を示すようになった。 明治41年(1908)の大概販売高は薄荷7万875円、菜種5630円で、大麦の4130円、小麦の2392円がこれに次いでいる。
 馬鈴薯は寒冷な機大正道報に適合した作物で、収量も多かったので開拓者は、まず最初に作付けした。 その馬鈴薯を原料として最初に澱粉製造を行ったのは、南兵村三区の服部岩吉である。 服部は明治33年(1900)手摺機によって生産した。 その後、馬力、水力の製造法が導入され、澱粉を製造する者が増えたが、生産高は澱粉の需要や価格の変動により増減を繰り返した。 同43年(1912)に1万9200kgであったが大正元年(1912)には7200kgに減少している。


共同販売購買の開始 
 菜種の生産が急増し、主要販売作物になると、少しでも有利に販売するための試みが検討された。 兵村諮問会は、明治33年(1900)、菜種と米、裸麦を一括して大商店に売り渡す共同販売を実施して成功した。 これに自信を深め、翌34年(1901)に兵村共同販売組合を設立した。 同37年(1904)からは薄荷にも共同販売の枠を広げたほか、藁製品などの共同購入も行った。
 兵村という特殊な統制下の地域とはいえ、こうした共同に力で大商人に対抗し、その暴利攻勢から利益を守ったということは、上湧別農業史上特筆すべきだある。 薄荷取引にからむ大正時代のサミュエル事件でも、上湧別の農民が兼重村長らとともにリーダーシップを執った。 農民の共同利益を守る産業組合を組織する原動力にも、こうしたエネルギーがつながっている。

(2) 大正時代
大戦景気 
 大正3年(1914)7月、第一次世界大戦が勃発した。 菜豆(いんげん豆)、豌豆、大豆、小豆などの豆類と澱粉の相場が急騰し、空前の好景気を招いた。 凶作などで存亡の危機に直面していた多くの農民に、大きな力を与えた。 豆成金、澱粉成金が続出し、開拓時代からの貧困から脱却して、生活にも潤いがもたらされた。
 この好景気に加え、鉄道が開通したので北見地方に来住する者が急増した。 大正4年(1915)に約10万人であった管内人口は、同9年に約20万人と倍増している。 そのほとんどは農業移民であった。 地価も高騰して明治末期に一戸分(5㌶)300円から800円止まりであったが、約3倍にはね上がった。 農業の生産性も向上、上湧別村内で同4年に20万円であった総収入が、同7年(1918)には55万円になり、平均反収も7円から18円へと2.5倍以上の上昇をみせた。


大戦後の反動不況 
 大正2年(1913)、かってない大凶作と薄荷相場の大暴落に見舞われた。 さらに同7年(1918)に第一次世界大戦が終わると、輸出農作物の価格が大暴落し、農村に恐慌時代が到来した。 これに追い打ちをかけるように同8年(1919)から3年連続で水害と凶作の二重の痛手を受けたほか、同11年(1922)8月末の大洪水で決定的な打撃を被り、経営基盤の弱い農家は、農地が銀行や商人の抵当に取られ、離農したり、小作人に転落した。
 村農会は、自給自足を指導して裸麦、小麦などの増反を推進、販売作物として亜麻、甜菜の栽培を奨励した。こうするうちに薄荷の相場も回復し、大正の薄荷ブームが巻き起こって作付面積、生産高が急増した。 リンゴ栽培反別も増え、湧別リンゴ特産地の基礎を確立した。 除虫菊、食用百合、川穹(セリ科の薬草)などの特用作物の栽培も始まった。
 亜麻栽培は、大正5年(1916)から始まった。 下湧別村で操業していた日本製麻工場の耕作勧誘がきっかけである。 第一次世界大戦中は試作程度であったが、戦後の不況が深刻になった同9年(1920)には一躍210㌶の作付けがあり、総収入も3万5980円と薄荷に次いで第二位に上がった。 作付面積は同10年(1921)の315㌶をピークに、甜菜の耕作が伸びるに従って減少、40~80㌶に低迷していた。 しかし、昭和に入って軍需品として亜麻製品が脚光を浴びると、再び増反に転じた。


軍需燕麦
 家畜飼料用としての燕麦が軍用のために売渡しが行われたのは、明治45年(1912)からである。 軍用購買は一般市価より高かったので、次第に販売作物の主役となった。 大正13年(1924)には耕作面積が584㌶となって、薄荷を抜いて一位となった。 その後も300㌶前後の作付けを維持、薄荷に次ぐ面積を誇った。 昭和15年(1940)に二位の座を馬鈴薯に譲ってからも、馬産振興政策とともに終戦まで耕作反別は減らなかった。

(3) 昭和時代(戦前)
農作物の推移と農業恐慌
 昭和に入ってから、上湧別農業の特異性が顕著になった。 また、零細化した耕地において、集約多収を目的に数多くの作物が雑多に作付けされた。 作付面積は、650㌶前後で北海道っかが一位を占め燕麦が300~400㌶でこれに次いだ。 そのほか小麦、裸麦、大豆、小豆、豌豆、稻黍が主要な位置にあった。 特用作物では亜麻、甜菜が60~70㌶程度栽培されていた。
 リンゴを中心とする果樹栽培は、明治、大正と根気強い努力が続けられ、全損で00㌶を超えた。 その後、病害の被害を受けたことや昭和6,同7年(1931,1932)の水田造成に伴う廃園が続出して南兵村一区、二区に残るだけとなった。 この間、玉葱の栽培が盛んになり、同6年の作付けは98㌶に達した。 南兵村。北兵村に玉葱組合が結成され、管外へ移出するまでになった。
 水田は昭和4年(1929)、開成地区に灌漑溝が完成して作付けが62㌶になった。 次いで湧別土功組合の灌漑が始まり、同7年240㌶、同9年(1934)390㌶と激増した。 屯田兵入地以来の悲願が実現、上湧別の農業に一大変革をもたらした。
 馬鈴薯の作付けは、昭和初期まで50㌶前後であった。 耐冷作物として有利であったうえに、澱粉価格が値上がりしたので、同9年には100㌶となった。 産業組合が北湧、南湧両澱粉工場を建設して委託加工を行い対応した。 このため同13年(1938)以降300~400㌶の栽培が続き、主要作物となった。 その反面、玉葱、除虫菊などが次第に衰退した。

 世界的な経済不況は、ついに経済恐慌、農業恐慌にと発展した。 上湧別の生産米価も屯田兵4年(1925)に一票3円であったが、昭和3年(1928)に8円53銭、同6年には5円まで暴落した。 農業恐慌や冷害凶作の対策として、酪農が奨励された。 昭和初期まで馬産の陰に隠れていた乳牛の飼育が盛んになった。 同7年111頭、同10年(1935)283頭と増え、飼育戸数も5倍にはね上がった。 ここにやっと酪農振興の糸口が開かれたのである。
 農業恐慌の嵐は、農民の結束を強めた。 生産活動を活発化させるため、農事実行組合が再結成され、、村農会の下部組織の役割を果たした。 農事実行組合は、昭和7年に16組合を数えていた。 さらに、農家は、負債の累積に苦しんでいたので、金融の円滑化が必要になり、産業組合の強化が求められた。
 上湧別の産業組合は、大正3年(1914)に南兵村で結成された無限責任湧別兵村信用販売組合が最初である。 業務として資金の貸し付け、貯金の便宜、薄荷、麦類、豆類など農産物の委託販売を行った。 次いで同9年(1920)には、北兵村に北湧信用購買販売利用組合が設立された。 その後同12年(1937)に南湧、富美、札富美、共進の各信用購買販売利用組合が設立された。 その後昭和2年(1927)に湧別兵村、南湧、共進の三組合が統合して上湧別、そして富美、札富美の二組合が統合して川西(のちの富美)となった。 同9年(1934)になると、併立していた上湧別、北湧、富美(旧、川西)の三組合が一本化して上湧別村信用購買販売利用組合が誕生、村内一丸となって農民の経済安定に努めた。


経済更生計画
 農林省は、昭和7年(1932)、農山漁村の総合改善発達を図るため、経済更生計画を立てた。 翌8年(1933)、上湧別村は、その指定を受け5ヶ年計画を策定した。 同計画では湧両農具の共同購入、防護林の植栽、籾貯蔵倉庫の設置などが行われた。 しかし、産業組合の基盤がまだ弱かったので、十分な効果を挙げることができなかった。
 昭和12年(1937)には、再び農林省の経済更生計画特別助成指導村の指定を受け、村農会や産業組合が中心となって指導の強化、施設の拡充に取り組んだ。 その結果、産業組合が国の助成を得て様々な事業を行い、農業経済に大きな刺激を与えた。 ここに産業組合の基礎が確立した。 主な事業だけでも装蹄工場、澱粉工場、石灰粉砕工場、集乳所、味噌醤油糀加工場、共同育雛所、石灰硫黄合剤製造工場の建設や精穀精粉機具、貨物自動車の導入などがあった。 そのほか同13年(1938)に補助雌牛50頭を購入し、種牡牛の委託管理を行って酪農を大きく前進させた。


戦時統制下の農業
 昭和12年の日中戦争以降、戦時体制は次第に強化された。 自由経済は、戦時統制経済へと移行していった。 「物資統制令」が公布されると、肥料や農薬、農機具が食糧軍需作物関連物資として優先的に配給された。 逆に民需物資抑制の立場から、特用作物には制限、または禁止という厳しい指導が講じられた。
 さらに、「土地調整法」(昭和13年)、「自作農創設維持省令規定」(同14年)が公布され、自作農創設拡大による生産増強が図られた。 昭和17年(1942)に「食糧管理法」「農業生産統制令」「農地作付統制規則」が相次いで出され、一層緊急食糧増産体制が強化された。
 戦時統制下で、そのあおりを最も顕著に受けたのが薄荷であった。 不用不急の作物ということで、昭和14年(1939)ごろまで600㌶以上あった作付面積が、同17年には約4分の1の58㌶に減った。 豆類も半減したが、これに対し軍用作物であった亜麻は、同16年(1941)に2倍、同20年(1945)に3倍となり、軍需食糧の馬鈴薯は同10年(1935)に110㌶出会った作付面積が、同17年には437㌶と実に4倍に達した。 特産のリンゴも軍需品に指定され、袋かけ作業などが中学生らの学徒勤労奉仕の手で行われた。
 昭和19年(1944)1月、「農業団体法」によって、村農会と上湧別村信用購買販売利用組合が統合し、上湧別村農業会が結成された。 同会を通じ肥料、農薬などの生産資材や衣料品、米麦、その他一般日用品が統制配給された。 主要な農作物の作付統制から販売供出など、すべて同会が一元的に取り扱った。


(4) 昭和時代(戦後)
(1)戦後農業の動向
農業政策
 戦後の農村づくりは、昭和24年(1949)に出された「新農山漁村建設総合対策」から始まった。 この構想では、土地の高度利用計画に基づき、各種施策を総合的に実施した。 健全な発展性を持つ一つの生活圏として農村を建設、農業生産力の増強、農家経済の安定を図ろうというものであった。 引き続き「積雪寒冷単作地帯臨時措置法」が同26年(1951)に制定された。 上湧別町は同29年(1954)、農村振興の指定を受けて親王村建設3ヶ年計画を策定、農地交換分合、土地改良、生活改善センターの建設などを行った。 さらに、同32年から、「新農山漁村建設総合対策」の指定も受け、5ヶ年計画で事業を推進した。
 昭和35年(1960)、国民所得倍増計画が発表された。 翌36年(1961)に「農業基本法」が公布され、同45年(1970)の総合農政に引き継がれるまで”基本法農政”展開された。 しかし、この間は巨大化する企業と肥大化する都市に対して、農村地帯は膨大な労働力の供給源となった。 また、食糧供給は輸入農畜産物で補ったため、国内の農業は目に見えて停滞した。 特に目立つ経営農家である小農の破綻が目立った。
 「農業基本法」による農政の矛盾が拡大したので、政府は昭和3年(1968)に「総合農政の推進に関する施策」を発表した。 これにより米作中心の保護、食管体制の是正、酪農不況の打開、大規模農業の確立、借地型農業の形成などの農政を展開した。


農業形態の変化と農業人口  昭和20年(1945)には小作地が全耕地の約30%、小作農家は、全農家の約34%を占めていた。 しかし、同25年(1950)ごろまで進められた農地改革によって、全小作地面積の約90%が解放されて自作地化した。 同28年(1952)には自作農が、全農家の83%に達した。
 この自作農化は、農民の社会的地位を向上させ、農家の所得と営農意識を高め、農業技術の改良を促進した。 一方では自作農家戸数増に伴い、経営の零細化傾向を生み出した。 昭和40年代(1965~)に農村過疎化と農産物の自給率低下が顕著となり、米の生産過剰問題が発生するなど農村に暗い影を落とした。 これによって農業形態や農業規模なども大きく変化した。
 終戦の昭和20年には、集団帰農者や戦災者、復員らの未墾地入植と2,3男の分家などが進んだ。 農家戸数は前年よりかなり増加し、上湧別村全個数の59%(936戸)になった。 しかし、同28年からの相次ぐ冷害凶作、同40年代の高度経済成長に伴う離農が急速に増えた。 同30年(1955)883戸、同40年656戸、同50年(1975)479戸と農家戸数は、減り続け、同25年の963戸に比べ、同50年は50.3%も減少した。 農業従事者も同50年は1354人で、同20年に比べ44.2%も減っている。
 経営規模別でみると、耕作面積が10㌶以下の農家が減っている。 これに対し、10㌶以上の農家は、昭和25年にわずか0.2%であったが、同40年の1.8%を経て同50年には18.0%と増加、3~10㌶の農家も合わせると同50年は約63%に達しており、経営の大型化が順次進行した。 また、おおむね専業農家が減り、兼業農家が増えた。 同50年では専業44%、兼業56%という割合であった。
 離農の状況では、昭和25年を100として同50年の農家戸数は、50.2%と半数近くに落ち込んでいる。 このうち混合経営農家の離農率が最も高い。 離農が多かったのは、高度経済成長期の同36年(1961)=同45年(1970)の10年間で、全体の離農の61%を占めている。


農耕地と作付面積の推移  上湧別の農用地は、湧別川流域平坦地の畑作地帯と果樹地帯、それに川西山間波状地の酪農地帯の3つに大きく分けられる。 総面積は昭和20年(1945)の340㌶から同30年(1955)の4030㌶まで拡大され、これがピークとなった。 同30年以降は離農により農用地が造林地や荒地になったほか、宅地など多目的に転用されるところも多く、同30年対比で同50年(1975)には23%減の3112㌶に減った。
 耕地は、昭和20年に2812㌶であったが、一時は草地化により400㌶前後減少した。 しかし、同44年(1969)からは約3000㌶を維持している。 このうち水田の利用状況は、同34年(1959)に404㌶台を記録し、同43年(1969)まではなんとか300㌶を守っていた。 それ以降は、国の減反政策により畑作への転換が急速に進んだ。 同50年には、9㌶まで落ち込み、同57年(1982)には皆無となった。 これは冷害凶作に悩んでいた北辺の稲作地帯共通の現象であった。
 樹園地は、昭和20年の128㌶から同34年に74㌶まで減ったが、改めて主産地形成を目指した結果、リンゴの栽培面積は最大247㌶にも達した。 しあkし、同52年(1977)ごろから減り始めた。 その後、腐乱病など病害の大発生で、病気にかかった木が伐採されたため、区油劇に減少した。
 牧草地は、乳牛飼育の増加とともに増反した。 昭和20年に157㌶であったが、同44年には1135㌶と大幅に伸び、同48年(1973)には乳牛3000頭を突破して、草地も1621.2㌶に及んだ。 同50年は1521㌶で全耕地の51%を占めた。
 一般畑地は、昭和30年の2360㌶を頂点に、牧草地への転換という形で減った。 同40年(1965)1639㌶、同45年(1970)1180㌶と下降し、同50年には1227㌶とやや盛り返して全耕地の42%に回復した。 農家一戸当たりの耕地面積は、同25年(1950)に2.9㌶だったが同50年は6.1㌶となり、順次拡大している。
 農作物の作付は、畑作物を中心に商品化率を高めながら激しい変動を示した。
 畑作は、経営面積は狭いが、土地や立地条件に応じてあらゆる作物が栽培されて ”農業のデパート”と称されるほどである。 作付の傾向は、大正末期に麦類が最も多く、豆類、亜麻、燕麦と続いていたが、昭和初期になると、薄荷が一位、次いで麦類、豆類の順であった。 同10年代(1935~)前半は薄荷が全盛期を迎えたが、戦時体制下では食糧増産の掛け声とともに急降下し、豆類、馬鈴薯、亜麻などの作付が目立った。
 戦後の昭和20年代は、食糧確保のため、薄荷とともに亜麻も大幅に減反した。 代わって麦類が首位に返り咲き、馬鈴薯、豆類がこれに続いた。 同30年代になると、麦類、豆類、馬鈴薯などのほか寒冷地作物の甜菜の作付に関心が寄せられた。 しかし、同40年代は麦類が淘汰され、豆類、原料馬鈴薯も大幅減反して昔日の面影を失った。 これらに代わりアスパラガス、スイートコーンなどの農産加工原料作物やリンゴが一挙に増反された。 同50年代に入ると、北兵村で玉葱栽培が始まり、同52年には90㌶余りに増え、昭和初期の全盛時代を再現した。
 飼料作物は、昭和初期に100㌶前後であったのが、同20年代に300㌶前後、同30年代に500㌶前後と酪農振興、酪農経営規模拡大とともに急増した。 同50年代には、1800㌶と全耕地の約60%を占めた。


(2) 農地改革
第一次農地改革
 終戦直後の昭和20年(1945)12月GHQ(連合国総司令部)は日本民主化の柱の一つとして、「日本の土地制度改革と農民解放に関する覚書」を日本政府に示し、農村の近代化を促した。 その主な内容は、①不在地主から耕作者への土地所有権の委譲、②耕作していない所有者から農地を適正価格で買い取る制度の確立、③小作収入に相応した年賦償還による小作人の農地買収制度の確立、④小作人が自作農化した場合、再び小作人に転落しないように保証する制度の確立、などであった。
 これに対し政府は、昭和13年(1938)に制定した「農地調整法」の一部改正によってお茶を濁そうとしたため、全国各地で農民の全面解放闘争が展開された。 GHQからも改革案の再検討を求める厳しい勧告が出された。


第二次農地改革
 勧告を受けた政府は、「農地調整法」の改正に併せて、「自作農創設特別措置法」(いずれも昭和21年11月施行)を公布した。 その骨子は、不在地主の持つ全小作地と在村地主の持つ平均4㌶を超える小作地を国が強制買収し、直接小作人に売り渡すというものである。 これが、第二次農地改革といわれた政策である。 これによって小作人の実質的な全面開放という、わが国農政史上画期的な改革が実行された。 この改革事業は、新たに公選制が採用された農地委員会が国の委託を受けて実施。 のちに農業委員会に移行された。
 農地改革によって馬縊首された上湧別の農地は、昭和22年(1947)から同27年(1952)までの6年間に田117町4反317歩、畑803町2反520歩、宅地4町7反200歩、採草地140町7反589歩で、合計1066町1反626歩(約1066㌶)であった。 また、同20年(1945)に321戸(全農家比34.3%)であった小作農は、同22年に176戸(同20.8%)、同28年(1953)に50戸(同5.5%)へと激減し、ほとんどが自作農となって新しい農村に生まれ変わった。


(3) 戦後開拓
その背景
 政府は昭和20年(1945)5月、北海道に5万戸・20万人の集団帰農者を入植させる計画を決定、同年末までに約3400戸・1万7000人を北海道各地に送り込んだ。 その後、同24年(1949)までに2万7000余戸が来道したが、農業に全く無縁な都市労働者や旧軍人が多く、不慣れのため離農者が続出した。 開拓農業協同組合を設立して政策的に支援したものの、十分に実行を挙げるに至らなかった。

上湧別における戦後開拓  
 上湧別村では。昭和20年(1945)の8月から9月にかけて、第一陣20戸が湧別村福島地区(当時は上湧別村所有地)や中土場地区に入植した。 不吉付き、同23年(1948)に富美望が丘地区に7戸、同24年(21949)に富美支流流沢地区、上富美南滋賀地区などに28戸が入植、戦後開拓農家の受け入れは、これで一応完了した。 同23年頃には、開拓農業協同組合が設立された。
 しかいs、受け入れ体制が十分整っていなかったうえ、農業経験のある者がなく、その場しのぎの入植者が多かった。 そのため離農者が後を絶たなかった。 せっかく頑張って残留定着した者も、立地条件に恵まれず生産性が上がらなかった。 負債が増える一方の中で、昭和30年代(1955~)以降は、高度経済成長や「農業基本法」に基づく農政のふるいねかけられ脱落した。 同45年(1970)ごろには、開拓農業協同組合を解散し、戦後開拓農家のほとんどが姿を消してしまった。


(4) 上湧別の農業振興対策
地域振興計画 
 政府の新農山漁村振興対策に基づく特別助成地域の指定を受け、上湧別町は地域振興計画を策定、昭和32年(1957)から5ヶ年計画で事業を推進した。 この計画で農地の拡張、土地条件の整備、耕作と種蒔きの改善、園芸の拡大、畜産振興、林業振興、生活改善などが図られた。 特に新作物としてチューリップ球根、アスパラガス幼苗を先進地から取り寄せ、主産地形成の第一歩を踏み出したのが注目される。

農業構造改善事業  昭和36年(1991)に制定された「農業基本法」の重要な柱の一つは、農業の構造改善でであった。 政府は翌37年(1962)、関連の対策要綱や助成事業実施基準を相次いで出し、事業参加市町村を指定して政策を実施に移した。
 上湧別町は、昭和40年(1965)第一次、同47年(1973)第二次の地区指定を受けた。 第一次二地区、第二次三地区の合計五地区で事業を推進した。 第一次指定地区は、共南(四の一、四の二)、、富美で、第二次指定地区は川西(旭、札富美、富美、上富美)北兵村、南兵村で、この事業は同42年(1967)度~同56年(1981)度の間で完了した。
 主要作物は共南がリンゴ、富美、川西が牛乳、北兵村が玉葱、馬鈴薯、甜菜、スイートコーン、牛乳、アスパラガス、南兵村がアスパラガス、牛乳、リンゴ、馬鈴薯、甜菜、スイートコーンで、それに適した構造改善の諸事業を行った。 これらの事業を円滑に進めるため、上湧別町は農業改善指標と基本構想を策定したほか、全町一丸となった推進協議会を設置した。


農業振興基本計画  昭和42年(1967)上湧別町農業振興基本計画が策定された。 この計画では、農業振興の条件整備をしていくうえで、町の責任において進めるべき事業を計画化して対策を明らかにした。 農業経営の改善を図る一方、民間において実施されるべき分野については、計画に沿い誘導することによって、事業効果を発揮させようというものであった。 目標年次を同50年(1975)と定め、農業総生産額を約12億円、農業総所得額を約6億円とし、基準年次の同41年(1966)に比べ約二倍に増やすことを目標としていた。
 これを農家一戸当たりに換算すると、生産額では、2.1倍の112万3000円に増やすことを目指していた。 このほか営農団地の形成、上湧別町農業協同組合の事業強化、農業金融の拡充などの対策が盛り込まれている。


農業振興地域整備計画  昭和44年(1969)9月、「農業振興地域整備に関する法律」(農振法)が施行された。 この法律は、農地を虫食い状態で破壊していく無秩序な都市の拡散から農地を防衛するため、その利用区分(線引き)を明らかにするねらいもあった。 上湧別町は同46年(1971)9月、「農振法」に基づく農業振興地域に指定され、その翌年に上湧別町農業振興地域整備計画を策定した。
 この計画は、昭和46年度からの10年間を設定し、①農用地利用計画、②農業生産基盤の整備開発計画(土地改良事業)、③農地等の権利取得の円滑化計画、④農業近代化施設の整備計画、を内容としている。 これを基本計画として、3200㌶の農用地を4000㌶へ拡大することや、農用地の将来区分として水田0,畑3600㌶、樹園地300㌶、混牧林など100㌶と定めた。
 農業生産基盤の整備・開発計画では農道整備31.9㌶、農地集団化200㌶、草地開発700㌶、暗渠350㌶、客土(入れ土)440㌶、排水改良29㌶などの事業を盛り込んでいる。 酪農関係では機械化による作業体系を確立し、一戸当たり飼養頭数30頭以上を目指すほか、バルククーラーの導入などにより、近代酪農を図ることとした。


農村総合整備モデル事業  農村総合整備モデル事業は、農村の特性に視点を置き、農業生産基盤と生活環境の整備を一体的、総合的に実施しようとするものである。 昭和48年(1973)7月に農林省が「農村総合整備モデル事業実施要項」を制定し、同年から5年間で全国400市町村を指定した。 一市町村当たり8億円、国庫補助率50%で事業を推進した。
 上湧別町では、全体計画に基づき昭和51年(1976)度から事業実施に入った。 まず農村環境基盤整備のため、中湧別西一条道路と屯田市街地西一条道路の舗装工事が施工されたほか目玉事業である上湧別町農村環境改善センターは、同52,同53年(1977,1978)で屯田市街地に完成させた。 同54年(1979)以降は、水道(南兵村地区・屯市・五の一)、農道、公園整備などの事業を推進した。


農業改良普及所  国と北海道との共同事業として、農家の農業経営及び生活の合理化、農業研究グループの結成助長を図る専門技術員を配置し、巡回指導を主な業務としてきた。
 昭和25年(1950)、上湧別村役場内に上湧別村農業改良相談所を開設した。 同38年(1963)、農家の要望もあり、上湧別町農業協同組合との協力体制確立などから、上湧別町農業協同組合内に移された。 さらに、同44年(1969)、上湧別町寒地園芸営農センターが新築開設されると同時に、ここに事務所を移し、農業経営と技術指導などに当たってきた。


寒地園芸営農センター  リンゴ、アスパラガス、スイートコーン、ニンニク、玉葱、チューリップなど園芸、農産加工用作物などの主産地形成を目指す拠点施設・上湧別町寒地園芸営農センターは、昭和44年(1969)12月に旧上湧別中学校跡地でオープンした。
 技術革新とその普及、生産性向上などのために農業気象観測のほか、画策も津別の土壌分析と診断、リンゴ新品種導入と育成試験、チューリップ品種の選抜と栽培試験など幅広い取り組みを行っている。 センターは木造モルタル平屋建て,
173㎡の広さで、内部は営農相談室、気象観測兼果樹栄養診断室、地力測定診断室、第一、第二研修室などを備えている。


土地改良  土地改良とは、農用地の改良、開発、保全、集団化に関連して、農業生産に適するよう水利条件、土地条件などを整備する事業をいうが、広くは農業を営む人の生活環境を農業基盤と一体的に整備する総合的な事業も含んでいる。 上湧別町の土地改良事業は、昭和30年代(1955~)に入ってから、振農村建設計画に基づいて上富美地区で農地保全、全町的に農地の交換分合を実施したのが初めてである。 しかし、本格的に取り組み始めたのは、同36年(1981)の「農業基本法」の制定以降であった。
 昭和38年(1963)度に沼上、旭地区で国営直轄明渠排水事業に着手したのをはじめ、同40年(1965)度には待望久しかった旧湧別川河川敷跡地開発のため、兵村地区の道営パイロット事業にも取りかかった。 同47年(1972)度、旭地区で道営畑地帯総合土地改良事業、団体などの事業が実施された。 この中で重点的に行われたのが過湿地の排水事業、畑地帯の基盤整備事業、水不足対策事業、農道の改修事業、草地造成事業などであった。


農業後継者対策  昭和23年(1948)5月、上湧別村の農業青年たちが集まり、自主的な生産クループである青年農村研究会を設立した。 農業諸事情の研究、農業技術の習得、農産物生産費の調査、農家簿記の記帳などに初めて取り組んだ。 政府も「農業改良助成法」(昭和23年)を制定して、優秀な農業後継者の育成を目指して、農村青少年クラブの結成を奨励した。 同21年(1946)に結成され得た上湧別村青年団は同24年(1949)に上湧別村青年団体連絡協議会と改称された。
 昭和26年(1951)には札富美、富美、四の三、開盛などに4Hクラブが結成され、プロジェクト発表、サマーキャンプ、技術交換などの活動をした。 この年、上湧別町農業協同組合でも青年部が発足している。
 昭和40年代(1965~)に入ると、高度経済成長などのあおりで過疎過密の社会現象が進んだ。 農村青年の他産業などの流出が増加する一方で、農協青年部や酪農青年研究連盟、果樹協会青年部など生産団体の青年部の活動が活発化した。 同32年(1957)には4Hクラブなどの各単位青年団体がまとまり、全町を一つにまとめた上湧別町青少年団体協議会が結成された。 このほか同43年(1968)には、北海道農業学園が、上湧別町を含めた遠軽地区6町村を対象に開設され、町内の多くの農業青年がここで学んだ。
 昭和40年代から、農業後継者不足、農村花嫁不足が深刻な社会もんだ隣、各市町村とも対策強化に乗り出した。 上湧別町では同44年(1969)度に「農業後継者の結婚推進要綱」を制定、同51年(1976)度までに56組の結婚を取りまとめている。 また、同48年(1973)には役場庁舎内に農村青年結婚相談所を開設、町長が地区ごとに相談員を委嘱して実践活動を展開した。 さらに、網走支庁関内発の農業後継者奨学金交付(昭和45年)、農業青年道外実習派遣(同45年)、農林商工業青年海外派遣(同50年)の制度を設け、農業後継者育成に努めた。


農業共済  上湧別村農業共済組合は、昭和23年(1948)4月に設立された。 同38年(1963)までの15年間にわたって農作物共済、家畜共済事業を行った。 この共済制度によって、冷害凶作の多い上湧別の農家経済ィ、最低限の補償がなされてきたが、組合運営に困難をきたし同38年10月1日、町に移管された。
 農作物共済制度の水稲は、昭和34年(1959)度に耕作面積424㌶に対し383㌶(90.3%)を引き受けたのが最初で、その後、同43年(1968)度94.4%、同46年(1971)度98.0%、同48年(1973)度100%の活用率となったが、いずれも北限の米作として冷害の被害を受けたものであったが、しかし、国の減反政策もあって水稲の引き受けは、同54年(1979)度に皆無となり、同48年度以降引き受けが皆無の状態になった麦同様、共済の対象外となった。
 果樹共済制度は、昭和43年度から5年間試験的に実施された。 この間、同44年(1969)度は57戸、45.4㌶を引き受けた。 これに対し53戸で被害が発生し、453万7000円の共済金を支払った。 同49年(1974)度から本実施に移ったが、上湧別は他の果樹栽培地に比べ被害率が低かったので、掛金率は低調に抑えられた。 保険金額に対する金額被害率は、同52年度が最も多く53.0%を示したが、同49,同50年(1975)度は30%台、同51年(1976)どはわずか6.3%にとどまった。 
 畑作共済制度は、昭和49年度から発足した、5年間試験的に実施したあと同54年(1979)度から本実施に入り、畑作経営安定のため大きな役割を果たした。


農業機械  昭和初期までは、畜力による農機具が主力であった。 上湧別村が第二種経済更生計画特別助成村の指定を受けた昭和12,同13年(1937.1938)ごろから噴霧器、発動機、脱穀機、カッターなどの動力かが進んだ。 しかし、戦時下では農機具の改良普及が中止、発動機なども燃料の石油が不足し、代用の木炭ガスを利用した。
 戦後は国力の回復にしたがって農機具の改良発達が急速に進み、北農式馬鈴薯掘取機、ビートリフター、三畝除草機、三畝施肥機、畜力耕作機械が普及したほか、畜力モーア、ヘーレーキ、」ヘーテッターなど牧草刈取乾燥作業機が主力となった。
 昭和26年(1951)上湧別村農業協同組合に北海道庁よりトラクターの貸し付けがあった。 土地改良事業を進めるようになってからは、ホイルトラクターが導入されて、同時に耕耘作業から牧草の収穫、尿散布、馬鈴薯やビートの堀取りなどの管理作業まで行うようになった。 同34年(1959)には新農村建設計画に基づき補助事業として、南兵村一区、二区に果樹防除機スピードスプレイヤーとトラクターが2組導入された。 同38年(1963)頃からは、融資を受けてトラクターを共同購入して利用するようになり、各種農業機械が普及した。


肥料と農薬  新墾当時の肥沃な湧別原野も、間もなく地力を消耗した。 化学肥料の過燐酸石灰が広く一般農家に普及したのは、大正時代の中期といわれている。 この間、村農会は明治42ねん(1909)に「施肥奨励補助規定」を設けて、堆肥の製造と金肥(化学肥料)の購入を勧め、地力の維持増進に努めた。 昭和初期までは過燐酸石灰を主体として人糞尿、碓厩肥、魚粕、大豆粕、米糠、油粕などが一般に使用されていた。 ビート栽培には、大正末期からチリ硝石なども使用された。
 昭和初期から速効肥料の硫酸アンモニア(硫安)の使用が始まった。 水田耕作が盛んになった昭和7,同8年(1932,1933)ごろから、硫酸カリや石灰窒素、玉葱栽培が普及すると米糠、魚粕などがそれぞれ導入された。同11年(1936)、上湧別村の産業組合は、肥料配給工場を建設して運転を開始、原材料を調合して作物別に適する配合肥料を製造、供給した。 さらに、同13年(1938)に石灰粉砕工場を建設し、酸性土壌の改良に努めた。 しあkし、戦時中は肥料の配給統制が強化され、軍需作物優先の配給となった。 それも、同17ねん(1942)ごろから次第に減少した。
 戦後は昭和25,同26年(1950,1951)ごろになって肥料工業が急速に発展した。 化学肥料の消費がうなぎのぼりに増加、多肥増収の農業へと大きく代わった。 窒素肥料では戦前の硫安、石灰窒素、チリ硝石に代わって硝安、尿素、塩安なども使用されるようになり、リン酸肥料では同30年(1955)ごろから過燐酸石灰のほか溶性麟肥、重過石の使用が始まった。 カリ肥料は硫酸カリに加えて塩化カリの施用も増えた。
 昭和30年頃から単肥ばかりでなく、3要素のほかに苦土(酸化マグネシウム)硼素、マンガンなどの微量要素の入った複合肥料や化成肥料が多くの銘柄で登場、施用が急速に増加した。 しかし、地力消耗を懸念して有機肥料の見直しが検討された。
 病虫害の防除は、昭和元年(1926)ごろまで溝を掘って夜盗虫を集めて殺すとか、舟形鍋で泥食虫をすくい取って退治するという原始的な方法が取られていたぐらいである。 そのほか、わずかに果樹類に硫黄合剤が散布されていた程度であった。 昭和8年ごろになると、背負い式高圧噴霧器が製造され、甜菜や馬鈴薯にボルドー液が散布されるようになった。
 戦後、防除機具の省力化、動力化が進み、農薬も国内生産が急増し、輸入も活発に行われて、大量に使用された。 効果の高かったものとしてDDT、BHC剤、パラクチオン剤、水銀剤、ホルモン剤、溶触剤などが次々と登場したが、環境破壊や人体への悪影響を及ぼすものもあり、様々な問題が発生した。
 昭和35年(1960)ごろになると、防除剤が粉剤となって散布しやすくなったほか、水に溶かせば、すぐ使用できる水和剤が主流となって有機硫黄剤、有機水銀剤、有機麟剤、有機塩素剤などが普及した。 展着剤も糊のカゼイン石灰から、石油系のグラミンに変化した。 トップジンM水和剤は、リンゴの黒点病に高い効果を示し、同46年(1971)から使用されていたが、耐性菌による黒点病の大発生があり、同50年(1975)以降使用されていない。
目次
 
第二節  畜  産 
    (1)酪 農
畜牛移入のはじめ  北海道酪農の源流は、明治2年(1869)以降の開拓使によるアメリカ式農法の畜産奨励策にある。 網走支庁管内の最も古い記録では同18年(1885)、原鉄次郎と山田環が網走で牛7頭を飼育していた。 上湧別においては、徳弘正輝が同20年(1887)10月、湧別浜からナオザネ(中湧別)に移住して牧畜を営んだのが畜牛の始まりとなった。 この牛は最初7頭であったが、同29年(1896)には25頭、同30年(1897)ごろには30頭に増えた。 しかし、同31年(1898)の湧別川大洪水で大半の牛を失い、牧畜は挫折した。
 その後、明治44年(1911)ごろエーアシャ種牝牛を五鹿山で飼育した沢口作一をはじめ、大正中期までに畜牛農家は3戸を数えるに過ぎなかった。


甜菜栽培と酪農振興   第一次世界大戦後の地力低下、農産物輸出市場閉鎖などにより、不況の波に洗われた北海道農業を立て直すため、北海道道庁は甜菜栽培を奨励した。 それとともに、移入牝牛補助、種牝牛馬補助と貸付けなどの施策を積極的に行った。 これは甜菜栽培の上で必要な堆肥を生産し、労働力を高め、副収入を増加させるのがねらいで、大正中期から酪農が農家の中に定着するきっかけとなった。 上湧別村においても、この施策に応じて大正9年(1920)に北海道庁補助牛20頭を初めて集団導入、南兵村と開成地区で飼育して酪農の基礎を築いた。
 その後、飼養頭数、原料牛乳の生産量とも順調に増加したのは、北海道庁貸付牛の導入に負うところが大きい。 昭和14年(1939)には戦前最高の472頭の飼育を達成し、同年搾乳頭数は、270頭で2931石(52万7580㍑)の搾乳量を記録している。


戦時中の酪農  「産業組合法」に基づく酪農組合が、大正初期から全道的に結成されていた。 上湧別村における結成は明らかでないが、昭和10年(1935)に畜牛組合があったという記録があるので、それ以前である事は間違いない。
 戦時体制に突入すると、牛乳は軍需品製造に向けられ、にわかにカゼイン(接着剤の原料)、乳糖が注目されるようになった。 北海道製酪販売組合連合会(酪連)は昭和14年(1939)2月、中湧別に工場を新設してガゼインと乳糖の製造を開始した。 これで上湧別、下湧別の牛乳はこの工場に集荷された。 同16年(1941)3月、戦時統合により酪連は森永、明治の工場を一部合併して有限会社北海道興農公社となった。
 中湧別工場もその管理下に入って、生産増強に励んだ。


戦後の復興  終戦直後は乳価の低迷、濃厚飼料や酪農資材不足などにより、酪農不振にあえいだ。 昭和19年(1944)の上湧別村の繁殖牝牛は197頭、同21年(1946)は176頭に減った。 ようやく近代的酪農の道を歩むようになったのは、道有牝牛貸付制度(昭和24年)、「有畜産農家創設特別措置法」(道28年)、遠軽地区集約酪農畜指定(同31年)などに基づき、諸事業を推進してからである。 その結果、同37年(1962)には1000頭、同41年(1966)には2000頭、そして同48年(1973)には待望の3000頭を突破して、同52年(1977)に3595頭に達している。
 乳用牛の飼育頭数は、昭和35年(1960)の356戸がピークで、同31年(1956)対比23.6%増加したが、やがて下降線をたどった。 同35年度対比で、同51年(1976)は40%弱まで減少した。 主な要因は、酪農の近代化、専業化に伴う経営規模の拡大、後継者の流出や経営者の高齢化に伴う離農の増加などである。 1戸当たりの飼養頭数は、同35年は平均2頭台であったが、同51年に24.5頭と10倍にもなっている。
 生乳販売量は、昭和35年の2215㌧が、同51年に8865㌧と4倍に達し、販売金額では同36年(1961)の5728万9368円が同51年に8億6000万円と約15倍となり、上湧別町農業総販売額の40%を占めた。


酪農振興計画  昭和31年(1956)に遠軽地区集約酪農地域が指定されて、上湧別町を含む地域内6町村の酪農振興計画が策定された。 翌32年(1957)度から5年間にわたり、酪農振興施策が展開された。 このほか、北海道檀家の様々な計画に併せ、酪農経営改善計画(昭和35年路~同38年度)、畜産主産地形成計画(同37年度~同41年度)、第一次酪農近代化計画(同41年度~同46年度)、農業振興基本計画(同42年度~同52年度)、第二次酪農近代化計画(同46年度~同52年度)、第三次酪農近代化計画(同51年度~同60年度)が次々と策定され、酪農が上湧別町農業の根幹の地位を占めるようになった。

酪農振興対策事業  国の酪農振興施策を導入して、昭和40年(1965)前後から特定地域の農業改善事業の実施や一般酪農家への経営資金の斡旋を図った。 また、トラクター、ユニットクーラー、ミルカー、ミキサーなどの近代的な機械、設備の導入補助などを行った。 入室改善、牛伝染病予防、牧草畑増反に対する補助も毎年実施した。
 このうち上湧別の乳質改善対策は、上湧別町や関係機関・団体の努力が実り、昭和39年(1964)に館内乳質改善共励会、北海道乳質改善共励会でそれぞれ一位となった。 しかし、経営規模の拡大、多頭化飼養がすすむにつれて、乳質の低下が目立つようになった。 このため、同46年(1971)5月、関係機関、団体が一丸となって乳質改善連絡協議会を結成、努力している。 一方、町は乳質改善施設導入補助事業により昭和46、同47年(1971,1972)度でユニットクーラー、同50年(1975)に農業構造改善事業によりバルククーラー60基を導入した。 それ以来、乳質の向上が著しく、乳質は北海道でも上位の品質に達している。


町営富美乳牛育成牧場  上湧別町の飼育頭数は、昭和38,同39年(1963,1964)度で急激に増加した。これは自家の後継牛としてよりも個体販売用が多く、育成牛として付加価値を高める事がねらいであった。 場所は通称手拭山を中心に富美、上富美の境をなす町有の林地で、緩い傾斜地の多い牧場適地である。 同48年度の放牧面積は102㌶。 放牧開始の昭和42年(1967)度は延べ3896頭、同52年(1977)度は延べ5万2491頭を放牧している。

乳牛経済検定事業  上湧別町の乳牛経済検定組合は、昭和28年(1953)に発足。 検定事業の実施や普及に努めた。 同49年(1974)度から北海道が主体となって、乳用牛資質向上対策事業が始まったので、こちらの事業に切り替えて、同50年(1975)、上湧別乳牛検定組合を設立した。 北海道は、さらに優良乳牛資源の確保と選択利用、個体の組織的能力検定の実施を目的に、(社)北海道乳牛検定協会に業務を委託し、同52年(1977)から牛郡能力検定事業(新乳険事業)として開始した。 上湧別町の酪農家もこの事業に参加し、上湧別町乳牛検定組合を通して検定を実施している。

(2)馬 産
馬の移入  湧別地方に馬が初めて登場したのは明治17年(1884)で、湧別浜駅逓の和田麟吉に官馬25頭が貸与された。 その後、一般開拓者の来住増加によって民有馬の導入も進んだ。 同29年(1896)には湧別村内で約180頭が飼われ、そのほとんどは運搬使役用であったという。 同年は湧別兵村の建設工事が始まった年であり、宇亜明治の利用は同工事への就労が中心であった。 兵村工事終了後も、屯田市街地の田沼為四郎、コタン(中湧別)の佐々木定次郎らが馬を使い運搬業を営んだ。 農耕馬としては、昭和20年(1945)に入地し、牧場を経営していた徳弘正輝が飼育したのが最初である。
 上湧別で馬が本格的に飼育されるようになったのは、兵村民が農耕馬として活用するようになってからである。 明治34年(1901)に南兵村一区第一給養班35戸だけで馬36頭が飼育されたという記録がある。 南兵村、北兵村を合わせるとかなりの馬が飼育されていたことをうかがわせている。


馬匹改良と湧別種付所の開設  交配による馬匹(馬のこと)改良の北見地方の先駆者は、網走の原鉄次郎である。 明治23年(1890)に道有馬の種牡扶養号を借り受けたのが始まりであった。 湧別村農会も同34年(1901)に導入した北海道庁貸付牡馬ペルシュロン種の初椿号により、馬匹改良を進めた。
 大正2年(1913)、管内最初の国有種牡馬の湧別種付所が7号線に開設され、のちに6号線に移転した。 戦後の昭和24年(1949)に北見馬匹組合から北見地方農業協同組合連合会に管理運営が引き継がれ、やがて廃止された。


馬産奨励と馬匹品評会  日清戦争の経験から馬の需要が軍馬として急増、陸軍省は馬産を奨励した。 湧別村は、明治40年(1907)に陸軍省の軍馬購買地に指定されていた。 上湧別村では、分村5年目の大正3年(1914)に初めて屯田市街地役場前で軍馬検査が行われた。 こうした軍馬の売渡しは、太平洋戦争の終わる昭和20年(1945)まで続いた。
 優良牝馬奨励金制度も、かなり早くから導入されていた。 「産馬奨励規定」に続いて大正8年(1919)、「種牝馬保留規定」が設けられた。 保留指定された馬には、20円の奨励金が支給されるようになった。 上湧別村では、昭和7年(1932)から毎年保留馬が指定され、優良種牝馬の流出を防いだ。 この制度は終戦直後一時廃止となったが、昭和27年(1952)に復活、同33年(1958)まで続いた。 また、産牛馬組合湧別村支部は、大正13年(1924)から基礎牝馬購入資金貸付制度を創設、資金融資の道を開いた。
 馬匹品評会や共進会、競馬なども古くから盛んに行われた。 上湧別最初の品評会は大正3年、屯田市街の役場前で開催されている。 競馬は、明治33年(1900)に屯田兵村祭典行事として練兵場で行われたのが最初である。 その後兼重村長を会長とする上湧別村競馬会が結成され、毎年、村祭日の10月17,18の両日に中隊本部跡地で開催されるようになった。 しかし、大正11年(1922)に騎手が落馬して死亡するという事故が発生、中止となった。 昭和7年、10年ぶりに復活した競馬は、従来からの駆け足協議に速歩が加わり、中湧別でも祭典行事として行われるようになった。
 両地区の競馬は、戦争が激化する昭和15,同16年(1940,1941)まで続いた。 戦後は同26年(1951)ごろからばんえい競馬として再開されたが、競走馬がいなくなり2,3年で姿を消した。


飼育数の変遷  農家1戸当たりの飼育は、明治40年(1907)前後にようやく1頭平均になったが、昭和初期には2頭平均まで増加した。 軍馬購入方針が強化されたのと、農法が人力、畜牛力から馬耕に切り替わってきたことが原因である。 昭和12年(1937)から始まった日中戦争が長期化するに従い、軍用馬の需要がますます増え、強制的徴発も行われるようになった。
 戦後は「種馬統制法」、軍馬購買などの廃止で、一時馬産の意欲が失われたが、本州の農耕馬不足に支えられ、しばらくは生産が続いた。 しかし、その需要がなくなると、北見の馬産は重大な危機を迎えた。 ところが昭和27年(1952)ごろから食用馬肉が高騰すると、上湧別を含めた北見馬産は息を吹き返し、一大転機となった。 上湧別町では同31年(1956)以来ブルドン種を導入州、馬産振興を図ったが、再び同34,同35年(1959,1960)ごろから衰退した。
 馬産全盛期で特筆されるのは、牛馬商の東山鷹次郎である。 上湧別には古くから副業の牛馬商が多くいたが、東山は昭和初期から専業となり、同30年(1955)に没するまで馬産振興に貢献し、全盛期には北見管内のほとんどの馬を動かすほどであった。


(3)その他の家畜
ミンク ミンクは、高価な毛皮が売り物である。 これが、”ドルを呼ぶ新産業”として大当たりとなったのは、昭和30年代(1955~)に入ってからであった。 上湧別町では同31年(1956)、 屯田市街地の浜口善太郎が小樽からサファイヤ種、興部からパステル種を導入したのが始まりで、その後もミンク飼育者が増えた。 経営も順次拡大して、同52年(1977)度の町内飼育数は1万9000頭に達した。 同51年(1976)産の原毛皮については、海外取引価格の耕チュと国内需要の増大によって、全部売り尽くすという好成績を収めた。

(4)家畜市場と家畜管理所
家畜市場  北見畜産組合が昭和5年(1930)に開設した湧別家畜市場は、同23年(1948)に同組合が解散したので、北見地区農業協同組合連合会に引き継がれた。 同24年(1949)、今度は上湧別、湧別両農業協同組合がこれの払い下げを受けて共同経営し、毎年秋に家畜市場を開設した。 同45年(1970)には老巧化した施設を改修したが、馬の激減などにより市場は成り立たなくなった。 その後は、乳牛品評会などに利用されるにとどまっている。

家畜管理所 家畜管理所の前身は、昭和24年(1949)に上湧別村農業協同組合が開設した屯田市街地、中ユベツ、富美3ヶ所の家畜診療所である。 翌25年(1950)に、その経営が上湧別村農業共済組合に委譲されたが、やがて町に移されて、上湧別家畜診療所の支所という形となった。 しかし、家畜診療業務の能率化と質的向上を図るため、同45年(1970)9月に屯田市街地に上湧別町家畜管理所が新築され、3支所の診療所を統合して業務を開始した。  
  第三節  林 業 
    (1)開拓時代 
上湧別原野 上湧別原野には、巨木良材に富んだ森林資源が、手つかずの自然林のまま残されていた。 明治23年(1890)、「官有森林原野及産物特別処分規則」が制定され、林産物の特売制度が設けられたので、資本家による森林開発が進められた。 北見地方では同24年(1891)、網走大曲でマッチ製軸所が操業し、白揚材の市場が開設されるようになった。 上湧別では同29年(1896)から大規模な屯田兵村建設工事が始まり、本格的な造材事業がみられるようになった。 大量の建築材を必要としたので、現在の生田原町安国駅裏山から8000石(約2226立方㍍)の針葉樹が切り出され、生田原川によって流送された。 さらに不足分の木材は、南兵村二区中土場の沢から伐採、搬出した。
 明治34年(1901)に信部内で信太製軸所、瀬戸瀬で中沢製軸所、同36年には3号線で森製軸所がそれぞれ操業を始めた。 兵村では同34,同35年(1902)に交友財産地の白揚材2200石(約612立方㍍)を立木処分している。 上湧別原野の良材に着目して、造林業者が湧別地方に進出してきたのは、同37,同38年(1904,1905)ごろからである。 その中でも木材師の清水喜太郞は、自分で輸送船を所有していた。 南兵村三区に公益社製軸所、北兵村二区に蠣崎製軸所が設けられて富美原野、ヌッポコマナイ沢の白揚が切り出されるようになったのは同40年(1907)からであった。


(2)大正時代
北見地方の繁栄 大正時代に入って、上湧別村が北見地方木材繁栄時代の中核となった。 因、早川、木原、新妻、藤島、野田などの木工場、桑原、丑谷などの経木工場が競うように操業し、遠軽、白滝、生田原方面の森林資源の開発が積極的に進められた。 大正7年(1918)の上湧別林産物生産は、建築材、製紙原料、マッチ原料、下駄材、機具材、鉛筆材合わせて66万7000石(約18万5626立方㍍)を超えていた。 ところが、同8年(1919)の遠軽分村後は、行政区域の縮小に伴い、山林面積が大幅に減少したため、生産量は急減した。 したがって、上湧別むらにおける麟牛の隆盛は大正末期までである。 昭和になってからは、製材用原木が町内で消費される程度に落ち込んだ。 戦時中は、諸物資と同じように木材も統制され、軍需資材に向けられたが、生産量はわずかであった。

鉄道枕木王・熊沢助三郎  熊沢は、大正4年(1915)、林業の将来性に目を付け山林経営に乗り出した。 同9年(1920)には雑貨商のかたわら木材業を計画、その手始めとして、社名淵において坑木、電柱材を生産して三井物産に納入した。 これにより「小丸太の○助」の名を広げ、同10年(1921)から鉄道省枕木の直接納入に成功し、同13年(1924)から雑貨商をやめて木材専業になった。 その造林事業は、天塩国の恩根内、十勝国の浦幌、沼の上沢や紋別村藻別、瀬棚郡今金のほか、岡山、岐阜、福井、岩手など道外各県にも及んだ。 上湧別村内では、昭和8年(1933)ごろから中土場の国有林で行われた程度であった。

(3)終戦後
森林資源の状況  昭和50年(1975)末の森林資源は国有林255㌶、町有林1414㌶、私有林6638㌶で合わせて8307㌶であり、全町面積の52.0%を占めている。 その蓄積量は、国有林4万1000立方㍍、町有林10万1000立方㍍、私有林38万5000立方㍍で、合計52万7000立方㍍であった。 所有別では道有林はゼロ、国有林もわずか3%で、町有林も17.0%と少ない。 残りの80%近くは私有林であった。 樹種では全体の48%がカラマツ、トドマツの針葉樹林で、他はカンバ類、ナラ類、カエデ、シナなどの広葉樹林となっている。 人工林は、国有林を除いた森林面積の約68%に当たる5448㌶、を目標と定めているが、同49年(1974)度末の達成率は3769㌶、約69%にとどまっている。
 木材生産は、私有林において新規造林のため伐採したものをチップ材、一般製材用に供給する程度で、年間約8000立方㍍と少ない。 生産額にしても1億円程度で町内の木材需要にさえ対応できず、大半は他町村からの移入や外材に頼っている。 木材関連業の出荷額は、昭和50年度で合単板15億1300万円、木材チップ1億7000万円、特殊林産1億5900万円で、素材生産も合わせると19億8300万円であった。


森林振興事業  昭和39年(1964)に「林業基本法」が制定され、翌40年(1965)、農林省が「林業構造改善事業促進対策実施要領」を出した。 上湧別町では森林組合が同41年(1966)、北海道の「冷害備林造成事業実施要領」に基づき18組合、453㌶の冷害備林を造成した。 さらに、同42年(1967)には「団地造林実施要領」に基づき36団地、770㌶の団地造林を行った。
 里山再開発事業は、昭和44年(1969)から国の補助事業(3分の1)としてスタートした。 放置状態になっている原野や伐採跡地を中心に、薪炭林など資源の積極的な活用と林地利用の高度化を図ろうというものである。 上湧別町は同46年(1971)にその指定を受け、町が主体となり同50年(1975)までの5年間で事業を実施した。 2団地、470㌶の伐採跡地で造林や林道整備を行い、低質広葉樹林地区を高生産人工林地に切り替えた。
 間伐対策事業は、①計画の樹立、②作業道路の設計、③機械と施設の整備、を内容とし、国が事業費の2分の1を補助しようというものである。 上湧別町は昭和46年に地域指定を受けて、チェンソー(5台)などの機械を導入、同48年(1973)から同51年(1976)までの間に269.32㌶の除間伐を実施した。
 林業経営の近代化、生産性の向上に欠かせない林道の整備は、昭和51年4月時点で国有林が公共・経営林道19.177㌔㍍、生産林道18.273㌔㍍、間伐・造林作業道2.804㌔㍍、町や森林組合主体で施工したものは、道35年(1960)から道51年までの間に延べ10路線で整備された。 新設の主な林道には、富美線9.808㌔㍍(開通昭和37年)、澪波の沢線5.403㌔㍍(開通道51年)などがある。


(4)木材輸送の変遷
流 送  造林運搬の最初のころは、ニシタップ川(生田原川支流)を流送するのに降雨の日を待ち、あるいは馬を使って渓流の中を運んだ。 わずか8000石(約2226立方㍍)の木材を開盛橋まで12㌔㍍運搬するのに8ヶ月もかかったという。 湧別川の流送は明治40年(1907)前後から始まり、大正中期に全盛を極めた。 しかし、鉄道開通後は貨車輸送に切り替えられ、流躁は次第に姿を消していった。

陸 送  手橇で雪上をひいたのが陸送の最初である。 馬が導入されると、夏は丸太の輪切りで作ったドンコ車、冬は割木の台に馬車油を塗って雪上を引かせた。 銃床材のような比較的小さいものは、駄鞍で運んだ。 その後、馬橇にはタマ、バチといった運搬器具が使用されたが、これらが改良されてヨツ、バチバチが登場し、15石(約4.2立方㍍)ぐらいは1度に積めるようになった。
 国有林の官行伐採事業が盛んになると、各地で森林軌道による運搬が行われるようになった。 大企業による民間造林では馬鉄を採用した。 これは木線レールの上を馬でトロびきするもので、大正7,道8年(1918,1919)ごろには富士製紙が芭露から中湧別駅まで年間15,6万石(約4万1700~4万4500立方㍍)も輸送した。 しかし、一般の造林業者は、戦後まで馬橇に頼っていた。 自動車輸送に代わるのは、戦後しばらくたって貨物自動車が普及してからである。


(5)薪炭、木炭の製造
薪 炭  開拓当初の薪炭生産は、入植農家の自家用に限られていた。 湧別市街、4号線市街が成立すると、ようやく一般の需要が出るようになった。 最初は、入植農家が副業として供給していた。 屯田兵村では、開拓が進んで周辺に樹木がなくなったため、公有財産地に薪炭材を求めた。
 明治42年(1909)に解放された富美原野は、薪炭材の供給地として大きな役割を果たした。 屯田兵3年(1924)の上湧別村の薪炭生産は、約5300敷(約5914立方㍍)、8500円で、昭和10年(1935)には約9000敷(約1万立方㍍)に増えているが、そのほとんどは地元で消費された。 薪炭材の付則は年々深刻になり、同9年(1934)から北湧尋常高等小学校、中ユベツ尋常高等小学校の燃料が石炭に切り替えられた。 これを皮切りに、公共施設で次第に石炭を使用するようになっていった。 戦後は一般家庭でも薪炭から石炭使用に移っていった。


木 炭  木炭の製造は、ユベツ原野でィ住民の入植と同時に始められている。 屯田兵村では、南兵村仮学校で明治31年(1898)4月、南兵村一区の服部熊次郎らから木炭を1俵10銭で購入している。 農家の副業的生産により、需要が賄われていた。 札富美の中島村吉は5,6基もの焼き窯を所有する大口生産者で、一時は町外まで販売した。 しかし、他のほとんどは小規模生産であった。 屯田兵4年(1925)の生産は、全村でも8750俵にとどまっていた。
 戦時中は国の統制のもと、生産増強が叫ばれた。 森林資源の乏しい上湧別村では、自給自足すらままならなかった。 戦後の昭和22年(1947)の生産量はわずか1500俵で、原木の枯渇とプロパンガスの普及によって木炭の消費は激減し、やがて生産者はほとんどいなくなった。


(6)植林のあゆみ
戦 前  明治33年(1900)、北湧尋常高等小学校の御真影御下賜記念として、桜300本を植樹したという記録がある。 上湧別で最初に本格的な植樹を手がけたのは沢口作一と中島宇一郎で、大正7,同8年(1918,1919)ごろ長野県から落葉松の苗木を取り寄せて、役場北側の宅地に苗圃を作った。 沢口は五鹿山、中島は札富美のそれぞれの所有地各2㌶に植林している。
 これに刺激を受けて、山林所有の農家の間で植林が普及した。 昭和15年(1940)、旧北湧尋常高等小学校跡地に網走支庁上湧別奨励苗圃が設置された。 次いで同17年(1942)、上湧別村森林組合が結成され、造林指導が軌道に乗った。 この年の植林実績は民有林37.03㌶、村有林10㌶に及んだ。


戦 後 大戦中の資材調達のために乱伐された山林の復旧が、国土保全、森林資源確保の両面から戦後の緊急課題となり、植林造林が国家的事業として展開されることになった。 昭和25年(1950)に国土緑化推進委員会が結成され、緑の羽募金運動とともに国民的な植林、緑化運動の機運が盛り上がった。
 上湧別町森林組合は昭和31年(1956)、15号線旧競馬場で直営苗圃を経営した。 網走支庁苗圃は同37年(1962)に17号線東山麓に移転、管内の造林のため育苗に努めた。 この間、新制中学校の新設、湧別高等学校の設立資金を得るために、立木処分された。 植林地は同29年(1954)から同40年(1965)までの間に、約249㌶に達した。 上湧別町では、同30年(1955)に「町有林部分条例」を設けた。 これに基づき上湧別小学校PTAは学校林10㌶に植林している。


(7)森林災害
山火事  山火事は、開拓が進むにつれ増加した。 切り倒した木や笹を焼く火が原因になることが多かった。 明治30年(1897)には、徳弘正輝宅の西方の原野にあった公有財産地が被災したのが記録に残っているほか、昭和19年(1944)に富美の支流の沢で、植林の火入れの飛び火から山火事が発生、4,5日間も燃え続けて紋別市沼の上の中の沢に達する大火となった。 同36年(1961)には上富美の共栄の沢で、開拓者の住宅の火事から類焼し、町有林130㌶、民有林21」㌶を焼いた大火が知られている。

病虫害  森林病害の第一はカラマツの先枯苗で、上湧別においても被害が大きく、造林地や苗圃で発生した。 次いで北海道の郷土樹種トドマツの胴枯病である。 網走管内の虫害としてはマイマイガ(ブランコケムシ)、ツガカレハ、カラマツヤシバキクイなどが時折大発生して被害を与えている。 昭和52年(1977)に清里町、小清水町、美幌町、津別町などで発生したカラマツヤシバキクイは、上湧別町の開盛にも飛び火、伐採搬出などにより蔓延防止に努めた。 このほかノネズミ、ノウサギ、エゾシカなどによる獣害もみられた。    
目次  第四節  商工業 
    (1)商 業
屯田市街地とコタン(中湧別)の商店 屯田市街地は、17号線を中心に設定された屯田兵村番外地として区画された。 基線に面して間口6間(10.9㍍)、奥行き40間(72.7㍍)が1戸分である。 東西に各50戸、合わせて100戸分を用意、その外周を幅5間(9㍍)の防風林敷地で囲っている。
 この区画に最初に入ったのは、永山村から移住してきた渡辺表太で、明治30年(1897)5月から物品販売をはじめた。 次いで湧別浜市街にあった遠峰の出張店をはじめ、渡辺(庄樺沢、田辺などが開業、たちまち市街地が形成された。 また、屯田兵村の工事のため、同29年(1896)から入地していた建築や土木関係の職人、木挽き、運搬人らもその多くが屯田市街地に定着した。
 屯田兵村時代に店舗を構えていたのは、津f気の人々である。
 板東岩吉(食品日用品雑貨)、高橋良輔(食品日用品雑貨)、坂上作介(建具商)、楠瀬彦九郎(金物雑貨)、坂口新太郎(鍛冶屋)、渡辺表太(食品日用品雑貨)、村上太七(大工)、坂本仙太郎(ニチユ品雑貨)輇正男(日用品雑貨)、大和屋和平商店(日用品雑貨)、大谷弥八郎(麹店)、堀下健市(馬耕)、半沢林蔵(柾屋)、田沼為四郎(小運搬)、高広常平(小運搬)、渡辺三七(日用品雑貨)、樺沢金八(食品衣料雑貨)、桑原源助(大工)、高橋定治(食品味噌雑貨)、武田藤吉(木炭)、和田運蔵(畳商)、布谷伝蔵(鮮魚商)、村田豊治(豆腐)、遠峯栄次郎(食品日用品雑貨)、田辺文次郎(呉服反物)、高橋卯之松(木挽き)、中島万吉(日用品雑貨)、池田孫治(日用品雑貨)、堀出徳蔵(大工)
 これら承認の商圏は、主として南兵村であった。 北兵村の方は、湧別浜市街に近い4号線市街の商圏に属していた。 当時、4号線は陸上交通の要衛であった。 この地域は通行人、運搬人の休憩地として発展、旅館、飲食店、商店が建ち並んでいた。 

 そのころ、中湧別はコタンと呼ばれていた。 原野の皮のほとりにアイヌ小屋が点在していた。 明治29年春、兵村工事労働者の飯場が、大通りのヌッポコマナイ川辺に設けられた。 これらの労働者を顧客とした日用品雑貨店と運搬業を、佐々木定次郎が開業した。 これが上湧別における最初の店舗とされている。 兵村現役中は、このほか池田ツル(菓子雑貨)、笹島豊治(鍛冶屋)の2軒だけであったが、同36年(1903)の兵村解隊後は、兵村民に職業の自由があたえられたので、給与地を離れてコタン(中湧別)や屯田市街地に移り、商業を営む者が増えた。
 兵村出身の商業者は、兵村解隊後3,4年の間に、南兵村、北兵村合わせて21人に上った。 業種も豊富になり、さらに、他町村から移住してきて店舗を構える者も多かった。 明治40年(1907)の商店数は、屯田市街地40数軒、コタン(中湧別)20軒近くを数え、業種も食糧品、文房具、金物、郵便、理髪、旅館、木材など多様なものであった。


鉄道開通後の商業  湧別(軽便)線鉄道が大正5年(1916)に開通すると、各駅の所在地が市街地として発展した。 その中でも鉄道の分岐点となった遠軽とコタン(中湧別)が著しく伸びた。 これを機会にコタンは、駅名を取って中湧別と改称された。 市街地戸数は、同元年(1912)に屯田市街地87戸、コタン20戸であったが、同6年(1917)に屯田市街地109戸、中湧別117戸と逆転している。
 大正10年(1921)には名寄線鉄道も開通、その分岐点となった中湧別は、進行商業の街として膨張発展した。 湧別(軽便)線開通のころは、第一次世界大戦による好景気もあって商業は一層活性化し、同7年(1918)には中湧別だけで84軒の店が軒を並べた。 そのにぎわいは、白首屋(置屋、小料理店)、飲食店、旅館、劇場、写真屋、銭湯、質屋などの新商売が続々登場した事でも分かる。 屯田市街地においても、商店が増えて、番外地区画から南へ伸び、18号線まで軒が連なった。


中湧別開発期成会  鉄道の開発によって、中湧別の地価や借地料が高騰した。 土地の大半を所有している屯田関係地主が、地主会を結成して値上げを画策したことも一因であった。 これを阻止し、地の利を生かした活力ある街づくりを進めようと、大正8年(1919)1月に結成されたのが中湧別開発期成会(佐々木藤三郎会長)である。地元選出の村会議員や商店街有志らが結束、土地賃貸、売買の調停にとどまらず、裏通りの宅地化促進、電灯の増設、郵便局の誘致、湧網線鉄道の敷設促進など幅広い活動を展開した。 その活動は昭和5年(1930)に中湧別商工会が結成するまで続いた。

周辺集落の商店  周辺集落にも移住者が増えてくると、日用品雑貨を中心とした商店が開かれるようになった。 しかし、農家への貸売りによる資金の固定化から、いずれの商店も経営基盤が弱く、経営者の交代も多かった。 地域によっては、店が完全に姿を消してしまったところもある。 市街地の商店と開拓農民との間で、”吉田買い”、”青田買い”が一派的に行われたのはこの頃である。

薄荷取引き  明治41年(1908)から屯田市街地で小さな鮮魚店を開いた江田留次は、やがて食糧品雑貨の販売に手を伸ばした。 当時、全盛だった薄荷に目を付けた江田は、大きな取引をした。 昭和3年(1928)には、屯田市街地で7番目の高額所得者となり、いつしか、「江田銀行」と呼ばれるようになった。
 また、本州大手承認による薄荷の買い付け合戦は、産業組合によって、一元集荷が始まった昭和9年(1934)まで続いた。 当時の大手商人は、神戸や横浜を本拠とする”鈴木”、”小林”、”長岡”、ウインケル社、大粉、多勢、矢沢で、生産地の商人に委託買付けを行わせた。 商人たちは価格協定を結び、薄荷農家からできるだけ安く買いたたいた。 しかし、集荷を有利に導くため、協定破りも幾度となく起こり、産地市場は混乱した。
 搾取にあえぐ農家の間から、次第に薄荷相場の設定に疑問を抱く者が増えた。 上湧別村長の兼重浦次郎は、協定価格が実勢価格に比べ極端に低く抑えられていることに疑念を持ち、協定外のサミュエル商会横浜支店と交渉、明治45年(1912)11月30日、同商会と生産者代表者との間で委託加工販売契約の調印にこぎつけた。
 しかし、この秘密協定は、たちまち他の価格協定業者に知られた。 彼らは巧妙で強引な攻勢を展開、薄荷の羽化の足並みの乱れを誘った。 その結果、サミュエル商会は、大きな損失を被り、大正4年(1915)12月、協定に加わった北見管内生産者を中心とする969人を相手取り、その損失補償を求める訴訟を起こした。 これが世にいうサミュエル事件である。 横浜地裁における裁判は、同12年(1923)の関東大震災の影響で係争資料を損失、うやむやのうちに立ち消えとなった。


商工会の結成  第一次世界大戦後の経済不況は、関東大震災の追い打ちを受け、インフレを招いた。 その不況対策として打ち出された金の解禁策は、世界的な金融恐慌と重なって極度のデフレに転じた。 失業者がまちにあふれ、農産物価格が下落したので、上湧別村の零細な商店も、その余波をもろに受けた。 この沈滞ムードをなんとか打ち破ろうと昭和4年(1929)に上湧別商工会、同5年(1930)に中湧別商工会が結成された。 税金対策や湧網線鉄道の開通促進運動のほか、連合で年末、お盆の大売り出しなどに取り組んだ。 初代会長は上湧別が熊沢助三郎、中湧別が安藤林右衛門であった。 この種航海は、同15年(1940)の商業組合の出現によって、自然消滅の道をたどった。

戦時中の商業  日中戦争勃発後、急速に強まった戦時色の中で、統制経済の体制に移行していった。 統制物資の配給を円滑にすすめるため、昭和15年(1940)9月に各市町村単位で商業組合が設立された。 上湧別村商業組合は、中湧別市街に設けられたが、同19年(1944)になると、「商工組合法」が施工され、商業組合は配給統制組合に改組された。 このため商業者の保護育成という本旨から、著しく逸脱した。
 統制物資の中でも、食糧の不足が特に深刻であった。 昭和18年(1942)4月、上湧別村にも北海道食糧営団の出張所が開設された。 配給所として産業組合加盟の5商店が指定され、主食の配給業務をおこなった。 やがて衣料も配給制となり、様々な配給物資の取扱店が指定された。 商業の自由は制限され、行政的、官僚的 性格が強まった。
 また、昭和17年(1942)、10月「北海道小売業整備要網」が公布され、上湧別村においても小売業の合同整備が進められた。 89軒あった商店は、60軒に統合された。 こうして生み出された余剰労働力は、同16年1941)4月に結成されていた上湧別村商業報国会を通じ、援農や造林、炭鉱、軍需工場などに駆り出された。


戦後の商業  終戦後は、民主化政策により自由経済が復活した。 しかし、依然として物資部昭和区が続いていたため、統制方式は継続されたが、闇物資の売り買いが横行した。 工業生産の復興とともに、小売店登録制が実施され、消費者には自由選択の道が、商業者には自由営業の門戸が、それぞれ開かれた。 この登録制は昭和26年(1951)に米屋だけを残し全廃され、一層自由経済の幅が広げられた。
 昭和25年(1950)6月、朝鮮戦争の勃発によって軍需景気に沸き、工業力が拡大し、生産額も急成長した。 それらの波及効果を得て、上湧別村の商業も活況を呈するようになった。 同29年(1954)~同32年(1957)は全国的に神武景気を謳歌したが、上湧別町では同28年(1953)から4年連続の冷害凶作に襲われ、農家のみならず商店街も大打撃を受けた。
 その後、鍋底景気を経て岩戸景気に転じた。 さらに、昭和35年(1960)池田内閣の国民所得倍増政策により消費が拡大し、商況も上昇を続けた。 そのような状況下の同37年(1962)、上湧別町農業協同組合がガソリンスタンドを開設し、た。 次いで翌38年(1963)に本部店舗を、そして同39年(1964)に中湧別支所の店舗をそれぞれスーパー方式に転換、新しい消費者ニーズに応えた。 他の商店も消費時代を反映、経営意欲を高めたが、またも同39年から3年連続の冷害凶作に見舞われ、商店街は少なからず影響を被った。
 昭和45年(1970)、上湧別町観光協会が設立され、観光資源の開発、観光PRに積極的に取り組み始めた。 同48年(1973)には、商工会の拠点施設として待望の商工会館が建設されるなど、商工振興に多方面からのど努力が続けられた。 しかし、同40年(1965)ごろから人口が減少の一途をたどり、町の過疎化が大きな悩みとなった。
 商業統計調査によると、昭和37年に商店総数170軒、従業者数615人、年間販売額11億4828万円であったが、同43年(1969)には商店総数178軒、従業者数610人、年間販売額20億5363万円となり、同51年(1976)は商店数170軒、従業者数615人、年間販売額65億878万円を記録している。


商店街診断の実施  経済の高度成長とともに、消費者の生活が向上し、消費感覚や需要動向が大きく変化した。 交通機関の発達、車社会の進展、道路網の整備などにより商業環境も変わり、商店経営の在り方に変革が求められるようになってきた。 このため昭和43年(1968)、商店街診断を実施した。 上湧別町と上湧別町商工会の要請に応えた道が、北海道中小企業診断所に委託して行った。
 診断・調査は商圏視察、通行量、消費動向、企業個別経営実態、経済環境条件、商店街構造、照明色彩などの多岐にわたった。 その結果、①上湧別、中湧別両商店街の位置づけを明確にし、特徴を明らかにすること、②公正な競争力を持つため、商店の有機的一体化を実現すること、③個別店舗経営の近代化を図ること、④商店街の構造的再開発を積極的に進めること、⑤商店街再開発実現のための組織を作ること、の5項目について、昭和43年に改善の勧告が出された。


消費生活モニター  上湧別町の「消費生活モニター設置要網」は、昭和49年(1974)3月に制定された。 この制度は、町民の消費生活に関する意見要望や消費物価に関する動向、欠陥商品などの情報を把握し、行政上の施策に反映させようというものである。 町内の女性10人にモニターを委嘱、各種調査や報告、研修に活躍した。

(2)工 業
開拓時代  兵村の解隊後、住民生活に直接結び付いた工業が次々と開業した。 豆腐、澱粉、小麦製粉、精米などの農産加工をはじめ、柾、馬橇、建具、桶といった林産加工のほか、鍛冶、板金などがみられるようになった。 しかし、いずれも小規模で人力、畜力、水力が使われていた。
 精米業者は、明治時代だけでも7人いたが、その第一号は北兵村二区の藤島倉蔵である。 明治33年(1900)、ヌッポコマナイ川のほとりで水車を使い開業した。 澱粉製造も同年から始まった。 南兵村三区の服部岩吉が、馬力による機械を導入、操業した。 明治時代に澱粉製造を営んだのは、服部も含めて4人である。 豆腐製造は、賃加工の域を出なかったが、同35年(1902)に屯田市街地で開業した村田豊治が最初で、この時代に5軒が店を構えた。
 農産加工が、どちらかといえば副業的であったのに対し、マッチの製軸工業は、町外資本が経営し、規模が大きく、動力には蒸気を利用した機械を導入していた。 しかも、工場施設、従業員住宅を完備するなど、開拓地に新時代を告げる一つのシンボルになった。 上湧別村では明治40年(1907)に公益社、蠣崎の2工場が創業している。 公益社は南兵村三区の18,19号線間、蠣崎は北兵村11号線の辺りに工場があった。
 製材工場が初めて登場したのも、同じ明治40年である。 湧別浜の缶詰工場経営者、宮崎正一が北兵村二区で6馬力の動力機械を備え付けて製材した。 それまでの製材が、木挽職人によって行われていたのに比べれば、革命的な進歩であった。 しかし、需要がなく一年で廃業している。 このほか林産加工関連では、明治29年(1896)から兵村工事人の半沢林蔵が柾製造、坂上作助が建具製造をそれぞれ屯田市街地で始めている。
 明治時代の操業者は半沢、坂上も含めて柾製造7人、、建具製造6人、馬橇製造1人、下駄製造2人、桶製造3人であった。 そのほとんどは屯田関係者で、来道以前に郷里において既にその技術を習得していた人達であった。
 農産、林産加工以外では、兵村工事人の坂口新太郎が明治29年、屯田市街地で鉄工所を開業している。 その後、鉄工2軒、板金加工1軒、畳製造1軒が、同38年(1905)ごろまでに営業を始めている。


大正時代  鉄道開通による地域活性化や第一次世界大戦に伴う好景気で、上湧別村の工業も家内的なものから企業的なものへと脱皮し、地域工業の基礎が固まった。 特に製材工業は、鉄道輸送が可能になり、販路拡大と木材価格高騰の好条件に恵まれ、著しく発展した。
 しかし、兵村は既に開拓使尽くされ、原木に恵まれなかったから、工場の新設はみられなかった。 その反面、当時まだ上湧別村内に含まれていた白滝、生田原方面では、豊富な森林資源を背景に工場新設が相次いだ。 施設整備も大幅に近代化され、動力は水力に変わって蒸気機関が主力になった。 また、大正14年(1925)以降は、瀬戸瀬水力発電所の建設によって各種の工場は電力を導入した。 しかし、第一次世界大戦後は急速に景気が冷え込み、せっかく繁栄した工業もたちまち衰退してしまった。
 開拓期に最大の工業だった製軸関係は、原料の白揚材の枯渇によって衰退し、工場は減少した。 これと対照的に建築材、下駄棒材、枕木材、経木材などの需要が拡大、一般製材、経木工場が全般に増えた。 大正7年(1918)当時は、上湧別製軸工場、早川木工場、新妻木工場、斉藤第二工場、片野経木工場、吉田合資工場、○ヲ木工場、本名第三木工場、藤島木工場の9工場が操業していた。 さらに同8年(1919)以降、木原木工場、野田木工場、桑原経木工場、丑谷経木工場が開業している。
 このほか林産加工関連で大正時代に開業したのは、桶製造5軒、馬橇馬車製造3軒、建具製造5軒、下駄製造6軒である。 その他の工業では、鉄工8軒、板金加工5軒、畳製造1軒、打綿3軒、洋服仕立4軒、馬具製造3軒、装蹄5軒、レンガ製造1軒が大正時代に新たに開業している。 打綿、洋服仕立、装蹄は、この時代に初めて登場した職業であった。


昭和時代(戦前) 昭和初期は、電動機の普及によって生産技術とも向上した。 昭和12年(1937)の日中戦争以降は、軍需産業が盛んになった。 上湧別でも酪連中湧別工場が同14年(1939)に、北見興農土管工場が同15年(1940)に、それぞれ操業を始めた。 これに対し一般の企業は、原料、資材、販売などが厳しく統制されたため、ほとんどの企業が縮小、統廃合を余儀なくされた。
 農産加工業のうち、澱粉製造は、経済不況により大正末期にそのほとんどが姿を消していた。 しかし、馬鈴薯そのものは寒地作物として定着、生産も安定していた。 澱粉相場が値上がりすれば、いつでも再開される状況下にあった。 昭和8年(1933)9月、蜂谷寛らが共同出資して澱粉工場を南兵村二区入口付近で創業したのが、再開第一号となった。 同11年(1936)9月、産業組合がこの工場を買収、さらに、北兵村三区に新工場を建設、独占的に澱粉を製造した。 生産量は翌12年、5万俵であった。

 味噌、醤油の醸造は、産業組合が昭和12年に熊沢助三郎から上湧別工場を譲り受けて生産を続けた。 同16年(1941)、中湧別の早川醸造を買収、これを整備拡大した。 精米所は、同8年に早川薫が開業した。 一方、産業組合は大正14年(1925)、北兵村一区に開設した北湧精米所を昭和14年に中湧別に移転、拡充を図った。 このため、一般の精米所は衰退した。
 林産加工関係では、森林資源が乏しかったので、わずかにベニア、経木などの特殊製材工場のの新設にとどまった。 昭和16年(1941)の第二次世界大戦突入後は、統制経済の強化に伴い熊沢木材が早川木工場(昭和16年)、野田木工場(同19年)を買収統合、中湧別工場、上湧別工場として操業した。
 柾製造は、昔ながらの手割りが行われていたが、昭和10年(1935)、井上勝雄が初めて機械を入れ注目された。 建具家具製造は、出口直紀が同16年に中湧別で開業、馬車馬橇製造は、やはり中湧別で昭和初期に佐藤小三郎が同16年に、安村明男それぞれ開業している。 昭和の初めまで盛んであった下駄製造は、次第に行われなくなった。


昭和時代(戦後) 主産地形成が進んで、アスパラガス、スイートコーン、枝豆、ワサビ、食用馬鈴薯、玉葱の生産が増加した。 それに関連する農産加工業が、次々と創業した。 アスパラガス缶詰製造のホクユウ食品工業(昭和41年)、ワサビ加工の天野食品工業(同37年)、スイートコーンパウダー製造のコーン食品佐呂間工場(同42年)、スイートコーン加工の上湧別水産青果(同48年)、野菜漬物製造の大湧食品工場(同43年)などが、地場の農産物を原料として着実な生産を行った。
 また、酪農主産地の形成に伴って、雪印乳業(株)中湧別工場(前身は興農公社)が練乳製造の主管工場として生産を伸ばし、町内第一位の出荷額を誇った。 しかし、昭和49年(1974)7月、北海道農協乳業紋別工場が新設されたため、原料乳の集荷が激減し、同54年(1979)3月、工場閉鎖に追い込まれた。    澱粉製造は、戦後の食糧不足、糖分不足を補うものとして、戦前に引き続き盛んであった。 経営が産業組合から農業協同組合に引き継がれてからも、北兵村一区(昭和26年)、川西(同23年)、富美(同18年)、開盛(同23年)、に澱粉工場を新設、昭和30年(1955)の生産量は、2万7818袋に上がった。 しかし、同36年(1961)ごろから澱粉相場が下落、農業協同組合は同40年(1965)に全工場を閉鎖した。
 味噌、醤油醸造は一人残っていた天野貞雄が昭和43年(1968)に廃業、精米所も農業協同組合本部が同46年(1971)に、中湧別の高柳忠史も同54年にそれぞれ廃業し、両業種とも1軒もなくなった。 戦後初めて登場したのが製麺業である。 見楚谷外次が同22年(1947)、中湧別で開業して以来、一時5,6業者に増えたが、同53年(1978)には、中湧別のアサヒ食品工業(昭和27年開業)1社だけとなった。 このほか冷菓(アイスキャンデー)店が、同23年(1948)に平田寅三郎によって開業され、その後、相次いで開店した。 また、小池武男は同29年(1954)、中湧別でジュース製造を開業した。
 木材加工業は、高度利用の加工時代を迎え、割箸、合板ランバコアー、フローリング、各種木材チップ、木工芸品が主流となった。 戦後新たに開業したのは、沢口木工場(前森林組合木工場、昭和28年)、池内工業上湧別工場(同35年)、熊沢産業(同42年)などがある。 同25年、高田武夫が中湧別でスキー工場を開設、そのほか2工場も参入した。 昭和33年(1958)には野球のバット材の製造業も登場した。
 建具家具製造は、昭和22年、開盛の井上正義が開業したのを皮切りに、同40年前後までに9業者に増えた。 しかし、その後、廃業や小売業、建築業への転身により、同53年には4業者に絞られた。 馬車、馬橇の製造は、軽くて積載量の多い保導車が普及したので、ほとんど行われなくなった。 その他では、金属製品製造の手塚機械工業(昭和21年)、上杉金物店(導36年)、窯業・土石製品製造の北見興農土管ブロック工場(導28年)、同コンクリート工場(同40年)、渡辺組ブロック工場(同39年)、などが創業した。

 戦後の経済復興とともに、建設関連業が増えた。 それまでは個人経営の大工が多かったが、戦後は法人組織となった。 土木工事にも手を広げ、町内工業界の首座を占めるようになった。 昭和53年には、看板、電気、板金、左官も含め29業者にのぼり、従業者も434人を数えた。
 建設業を除いた製造業は、昭和36年(1961)に33事業所、従業員834人、出荷額約12億8500万円であったのが、同50年(1975)には、43事業所、従業員850人、出荷額約65億4000万円になっている。


工業開発 昭和36年(1961)11月、「低開発地域工業開発促進法」(低工法)が制定公布された。 開発の遅れている地域を対象に、雇用の拡大と地域間経済格差の改称を図るのがねらいである。 具体的には、開発地域を指定して地域内への工業誘致を促進するため、誘致企業に対して減価償却上の特別措置、事業税や固定資産税、不動産取得税などの減免による補填措置を認め、さらに施設の整備などについて、特別の配慮を加えることを規定した。
 紋別市、上湧別町など1市4町で校正する紋別(オホーツク)地区は、昭和38年(1963)10月に指定を受けた。 上湧別町の工業開発地区は、中湧別団地(北兵村三区・6.3㌶)が充てられた。 現在の国道238号、同242号に隣接し、中湧別駅まで約1㌔㍍という立地にあった。 同51年(1976)、上杉板金工場が同団地内に進出している。


企業誘致 昭和32年(195798月、「上湧別町工場設置奨励条例」が制定された。 企業誘致に本格的に取り組んだ結果、遠軽町に本社があった池内工業のハードボード工場誘致が、同33年(1958)末に正式決定、上湧別駅裏で同35年(1960)に操業を開始した。 さらに、同51年(1976)2月、本社が神奈川県大和市にある富士電業の進出が決まりとなった。 屯田市街地の旧上湧別中学校校舎を改築して、この年の7月から稼働した。

(3)商工業の振興
商工会館の新築  上湧別町商工会の事務局は、中湧別市街中町の産業会館(昭和33年建設)の一室を間借りし、町役場中湧別出張所と同居していた。 年とともに会員が増え、事業も多様化し、事務量が多くなったので、事務所が手狭になった。 また、会員の福利厚生、研修事業を推進するため、独立した商工会館の建設気運が高まった。
 会館の建設は、昭和47年(1972)10月の商工会臨時総会で正式決定、産業会館の隣接地に同48年(1973)秋、落成した。 木造モルタル2階建て、延べ216平方㍍の広さで、事務室、相談室、応接室、会議室などを備え、商工業者のセンターとして利用された。 総事業費は、1018万円であった。


商工振興資金   昭和32年(1957)、商工業者の強い要望を受け、上湧別町は「商工振興資金運用規約」を制定した。 この資金制度は、上湧別町商工会の会員に運転資金を貸し付けるもので、上湧別町が一定金額(昭和32年300万円、同52年2000万円)を取扱い金融機関に預託し、融資枠はこの預託金に金融機関の自己資金を上積みした合計額とした。 貸付枠は600万円からスタート、同36年(1961)1000万円、f同41年(1966)3000万円、同44年(1969)3900万円、同46年(1971)6400万円、同49年(1974)8000万円へと増額した。 貸付条件は何度か変わっているが、同50年(1975)に限度額150万円、15ヶ月以内償還、年利9.5%のうち1.45%は町が利子を補給するようにした。 資金の運用は、上湧別町商工会は、運用委員会を設置して対応した。 昭和51年(1976)度は102件、1億1185万円を取り扱った。 同32年以来20年間の合計では延べ3140件、13億3045万5000円を貸し付けている。

商工振興設備資金  小規模事業者の脱落防止、経営基盤の向上などを目的にした「上湧別町商工振興設備資金貸付要網」は、昭和49年(1974)に制定された。 融資枠を4000万円とし、事業所、店舗などの新・増改築資金を対象に、300万円を限度(6ヶ月据え置き、60ヶ月以内償還)に貸し付けた。 年利は8.2%で、このうち上湧別町が1.4%の利子補給を行った。 同51年(1976)度までの貸付楚実績は16件、3900万円であった。

(4)上湧別町商工会
商工会の統合 戦時中、有名無実となっていた商工会は、戦後の経済活動自由化により昭和24年(1949)、上湧別、中湧別両商工会とも再スタートした。 同36年(1961)12月、「商工会法」に基づく法人化を機に、両商工会を統合して上湧別町商工会を結成した。 翌37年(1962)4月、国の指導方針により経営改善指導員を配置、経営改善、資金や税金の相談窓口を開設した。 同32年(1957)に中湧別商工会青年部(上湧別町商工会青年部に移行)、同45年(1970)に婦人部を結成して組織の強化を図っている。

商工会の事業  定款によると、商工業に関して、①相談に応じ、指導を行う、②情報、資料を収集し、提供する、③講習会、講演会を開催する、④展示会、共進会を開催し、またはこれらを斡旋する、⑤意見を公表し、国会、行政庁に具申、建議する、⑥行政庁などの諮問に応じ、答申する、⑦商工業者の行うべき事務を委託処理する、などの事業を行っている。
 具体的な事業として、経営指導員による経営改善普及事業をはじめ、総合的な振興対策、商業振興対策、金融対策、経営、税務対策、福利厚生対策などを幅広く実施している。


(5)金 融 
個人金融と無尽 郵便局は、早くから金融機関の役割を果たしていたが、あくまで預金と送金だけであった。 開拓当初は、資金を借り入れようとする場合、個人金融に頼らざるを得なかった。 兵村解隊後、商工業者の金融需要が急速に高まった。 このため、南兵村一区で呉服反物を販売していた諸岡元太郎ら屯田関係者10人ほどが、副業として金融の看板を掲げた、金利は、月2分~3分であった。 利用者は、市街地の商人ばかりでなく、農家にも及んでいた。
 集団金融の無尽も盛んになった。 最初のころは、破産の急場を救ったり、土地の購入など一時に多額の資金を必要とする時に、親類や同県人たちが無尽を起こす場合が多かった。 商店主にとっては、銀行に匹敵する重要な金融であった。 無尽は、頼母子講とか単に講とか称された。 上湧別の代表的講は、大正2年(1913)にできた北見義正株式会社である。 屯田市街地や南兵村、北兵村の有力者ら39人によって興された。 上湧別村で最初の法人会社で、屯田市街の金物商、渡辺広吉が講長を努めた。 定款では金銭の貸し付け、土地建物の売買、肥料販売、薪炭と農産物の売買をうたっていたが、実際は金融が事業の中心であった。 同社は、昭和3年(1928)まで15年間続いた。


勤倹共成組合  明治43年(1910)、兼重浦次郎村長の肝入りで、上湧別村勤倹共成組合が設立された。 村民の貯蓄と納税準備金の積み立てが目的であった。 組合長は村長、会計は収入役、理事は役場職員という官制組合であった。 同44年(1911)の決算によると、定期預金者は1237人で、ほとんど全戸が加入していた。 歳出をみると総計3722円のうち3631円(97.6%)が貸付けとなっていて、納税準備というより商工業者に対する貸出が主で、利殖を図っていた。 しかし、不良債権が残って大正9年(1920)、解散に追い込まれている。

産業組合の信用事業  大正3年(1914)、湧別兵村信用販売組合(湧別兵村産業組合)が設立されたのに引き続き、北湧(大正9年)、共進(同12年)、南湧(同12年)、富美(同12年)、札富美(同12年)、の各信用購買販売利用組合(各産業組合)が誕生した。 組合員の零細な出資で信用事業を始めたので資金面が弱く、強力な組織にするため昭和9年(1934)、全町一本の上湧別村信用購買販売利用組合連合会に加入したので、系統資金が導入されるようになり、取扱いも増大した。
 戦時中の昭和19年(1944)、産業組合は農業会に改組され、自主性は全く失われた。 終戦後は同23年(1948)に農業協同組合として再スタート、民主的、自主的な運営が開始された。 それとともに自作農創設資金、レンガ医資金、マル寒資金(「北海道寒冷地畑作営農改善資金融通臨時措置法」に基づく融資制度)などの政府資金が流入するようになった。 このため、信用事業における貯蓄額、貸付金ともうなぎのぼりに増加した。


市中銀行  湧別地方では、遠軽での開設が早かった。 大正10年(1921),根室銀行の出張所、糸屋銀行の支店が進出してきた。 次いで同12年(1923)に安田銀行の出張所、同14年(1925)に北海道銀行の派出所ができた。 北海道拓殖銀行の支店が開設されたのは、昭和2年(1927)になってからである。 上湧別に初めて銀行が登場したのは大正14年で、屯田市街地の役場前に糸屋銀行の出張所が設けられたが、翌15年(1926)には本店が倒産したので閉鎖された。 この時、預金者と銀行側の間で大騒動が起こった。 
 上湧別村に再び銀行が開設されたのは、昭和26年(1951)12月である。 同年、遠軽町で設立された遠軽信用組合が屯田市街地に出張所を開店したもので、翌27年(1952)4月には中湧別出張所もできた。 同年、信用組合が信用金庫の改組されたのを機に、上湧別出張所を中湧別出張所に統合した。 これが湧別支店に昇格したのは、同30年(1955)であった。 その後、同32年(1957)に中湧別郵便局隣に店舗を新築、同37年(1962)の中ユベツ支店への改称を経て、同45年(1970)に再び新店舗を建てている。
 北海道銀行中湧別支店は、中湧別商工会の強力な要請によって、昭和26年11月に中湧別北区で開店した。 同44年(1969)中湧別中町に新築移転しているが、同42年(1967)には上湧別町の指定金融機関となり、業績を伸ばした。


(6)湧佐地区安全衛生協会
 湧佐地区安全衛生協会は、昭和26年(1951)4月に設立された。 上湧別、湧別、佐呂間3町の労災保険適用事業所が加入している。 事務所を屯田市街地の熊沢木材(株)に置き、従業員の危害、疾病防止、企業の合理化と能率の向上、会員と従業員相互の親睦交流などの活動をしている。 その実績が認められて同33年(1958)に北見労働基準監督署長から感謝状、同38年(1963)に北海道労働基準局から団体賞をそれぞれ受けている。 初代会長は、井上正志であった。 
第六章 



目次  
教育文化 
第一節   教 育 
(1)戦前までの教育
教育の夜明け  明治4年(1871)に廃藩置県が断行され、太政官制が改革されるなかで、教育を所管する文部省が設置された。 このころ道内では、函館、松前方面合わせて50ぐらいの寺子屋があった。 このほか同4年に設立された札幌の資生館、函館の官立函館学校のほか根室の松本十郎判官の私塾、有珠伊達氏の私塾などがよく知られていた。
 「小学教則」から発した「小学校令」は、幾度となく改正された。 主な変遷をみると、明治5年(1872)に上等、下等を各8級に分け半年ごとに進級するようにした。 その後、同14年(1881)に初等科3年、中等科3年、高等科2年、同19年(1886)に尋常科4年(義務教育)、高等科4年と変更している。 さらに、同20年(1887)に北海道令で尋常科4年のところ、僻地に簡易科3年を置き、同28年(1895)には尋常科は、第一類が3年又は4年、第二類が3年又は2年、高等科は、2年または3年か4年と定めた。
 しかし、明治33年(1900)に尋常科、高等科各4年に固定、同40年(1907)には尋常科6年(義務教育)、高等科2年または3年と改定している。 これらのうち簡易科教育は、大部分が僻地であった北海道では、大正5年(1916)ごろまで全体の80~90%を占めていた。
 学務委員制度も目まぐるしく変わっている。 明治28年になって北海道庁令で「学務委員規則」が公布された。 学務委員は、区長、戸長の指揮命令を受けて修学、予算、設備などの事務を補助するようになった。 同33年(1900)の大改正で、教育行政の執行機関から諮問機関に変わり、大正時代を経て昭和20年(1945)まで続いた。


教育費の国庫負担 明治初期の「学制令」では、教育費は、受益者負担の授業料によって賄うのを原則とし、その不足分は学区内徴収の協議費で補った。 明治6年(1873)、小学扶助委託金(のちに小学補助金)が学区補助として人口1万人に90円の割合で支給された。
 また大正7年(1918)に「市町村義務教育費国庫負担法」が公布されたのをきっかけに、国庫負担が拡大され、学校運営費の80%を超えた。 昭和8年(1933)には89.3%、都道府県補助も加えると公費補助は89.8%に達し、教育の普及は早くも世界の最高レベルに並んだ。


授業料 明治初期の教育費は受益者負担が建前であった。 したがって、授業料は相当多額の負担となっていた。 上湧別においては、明治31年(1898)の仮学校時代で月5銭、同一家族から児童2人の場合はその半額、兵村外は月20銭であった。 同32年(1899)になると尋常科7銭、高等科10銭、兵村外は月25銭で同一家族の場合は半額であった。 同33年(1900)には兵村外だけ改正され、尋常科20銭、高等科30銭となった。 同34年(1901)、法令によって尋常科の授業料は徴収しないことになった。
 上湧別村が湧別村から独立した明治43年(1910)、高等科は30銭、さらに、大正5年(1916)から月50銭になり、昭和13年(1938)に70銭に増額、終戦後の同22年22年(1947)に中学生は、30円となっていたが、同24年(1949)から廃止された。


国定教科書  明治の初期には、寺子屋で使用した漢文式の四書、五経や欧米の直訳物などが引き続き使用されていた。 明治13年(1880)、文部省に編輯局が設けられ、教育上弊害があるものを公表し、使用を禁止したのが教科書検定の始まりである。 同19年(1886)の「小学校令」で、小学校の教科書は文部大臣の検定したものに限ることになった。 同24年(1891)、修身教育を強化する「小学校修身教科用図書検定基準」が公布された。 同25年(1892)には、教育勅語による国家主義教育が強化された。
 明治36年(1903)、「小学校令」が改正され、小学校教科書の国定制度を敢行することが決まった。 翌37年(1904)から国語、書き方、修身、歴史、地理の国定教科書が採用された。 同38年(1905)には、これに算術、図画が加わった。 同42年(1909)、国定教科書は共同販売所で取り扱うようになり、国費負担で安く売り出された。 父母と地方財政の負担は、かなり軽減された。 しかし、中央集権的な国家統制はさらに強化されていった。 国定教科書の制度は、第二次世界大戦の終結まで続いた。
 戦後は「学校教育法」に基づいて、新しく教科書の検定制度が設けられた。 この検定は、「教科用図書検定基準」によって合否が決定され、合格した教科書は、教科書展示会を通じて採択される仕組みである。


(2)戦後の新しい教育
教育改革  昭和22年(1947)3月、「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、従来の教育理念を一変した。 民主的で文化的な国家建設を目指し、世界の平和と人類の福祉に貢献するという新しい理想を掲げた。 また、義務教育を9年に延長、6・3・3制の新制度を採用したのである。 これにより義務教育の修業年限は小学校6年、中学校3年となり、そのうえに高等学校3年、大学4年の制度が定められた。 国民学校は小学校に改められ、高等科が新制の中学校に切り替えられた。
 次いで昭和23年(1948)7月に「教育委員会法」、同24年(1949)1月に「教育公務員特例法」、同5月に「文部省設置法」、同6月に「社会教育法」、同12月に「私立学校法」が相次いで公布された。 これで民主教育の方途が示された。
 民主教育の変革へ、国民全体が直接教育行政の責任を持つことになった。 各都道府県や市では直ちに教育委員会を設置した。 しかし、町村では、特例をもって任意設置とされた。 この特例が期限切れとなった昭和27年(1952)に、上湧別村教育委員会が発足している。 最初は教育委員を公選したが、同31年(1956)から市町村長の推薦任命となった。 発足当初は教育長も兼任で常勤職員も少なかった。 物資不足の中で、管内第一番目に中学校独立校舎の建築に着手した。 その後、中学校の統合。教科書の無償配布、学校給食などを実現した。 そのほか教育、文化、体育など各分野で幅広く対応している。


PTA(父母と教師の会)の設立 昭和22年(1947)の学制改革に伴い、教育民主化の一環としてPTAが発足した。 従来の学校後援会、保護者会は廃止された。 しかし、しばらくは実態が変わらず学校の運営費、行事費の大半をPTA会費に依存した。 このため同35年(1960)ごろから、住民の間で公費負担軽減の要望が高まり、教育費が、年々段階的に公費で支払われるように改められた。 PTA会費は、会本来の活動に充てられるようになった。
 上湧別村では、各小、中学校ごとに設置されていた単位PTAが、昭和26年(1951)に連合会を結成した。 その後も相互の連絡を取りながら、研修活動に力を入れている。


学校給食の実施  終戦後の食料事情の悪化のため、児童生徒の健康と体位が憂慮された。 昭和29年(1954)6月に「学校給食法」が制定され、各町村で学校給食が検討され始めた。 上湧別町教育委員会は、同38年(1963)からミルクとコッペパン、クラッカー、カンパンなどの給食を始めた。 小、中学校で完全給食を行ったのは、同40年(1965)4月からである。 同時に。 健康や食習慣についての学習指導にも力を入れた。
 上湧別、湧別両町共同設置の給食センターは、昭和43年(1968)、中湧別南町の中湧別小学校の近くに設置された。 両湧別町学校給食組合が同44年(1969)1月から両町小、中学19校(3256食)を対象に、新たな完全給食を開始した。 同49年(1974)からは、保育所への副食の供給も始めた。 給食費は発足当初月額小学校500円、中学校700円であった。 同50年(1975)度には1食につき小学校110円、中学校140円、同51年(1976)度に小学校120円、中学校155円に改定されている。
    
  第二節  学校教育 
    (1)小学校
兵村仮学校  屯田兵村において、小学校本校舎が完成するまでの臨時応急措置として、仮学校が開設された。 第四中隊が屯田市街地の西本願寺説教所を借りて明治31年(1898)3月から授業を始めたのが第一湧別小学校である。 第五中隊がコタン(中湧別)にあった元陸軍経営部の払下げを受けて、同31年2月に開講したのが第二湧別小学校である。 入学児童は、両校合わせて尋常科4年までの94人であった。

北湧尋常高等小学校  明治31年(1898)11月、15号線に校舎が完成した。 北湧尋常高等小学校は、北海道庁長官の設立認可を得て、仮学校の両小学校を合併し、12月1日から授業を開始した。 6学級の編成で、193人の児童で開校したが、このころ高等科を併置している小学校は、北見地方で網走小学校しかなかった。
 明治40年(1907)1月17日夜、校舎が全焼するという災害に見舞われた。 村内に仮教室を求めて間もなく授業を再開するとともに、校舎再建の方針を固めた。 総額1万358円余の復興費を計上、同41年(1908)9月1日から本校舎での授業を始めた。 新校舎は木造平屋建て、1163.3平方㍍で7教室、屋内運動場、裁縫室などを備えていた。 学級編成は南湧尋常小学校、中湧別尋常小学校、開盛尋常小学校が独立する前年の大正4年(1915)には10学級に膨れあがり、在籍児童も尋常科627人、高等科87人の計714人となっていた。
 創立当時の教員は、訓導兼校長の下野熊太郎以下5人であった。 初代校長となった下野は、北海道最初の公立学校として知られる松前郡の松域尋常高等小学校校長から赴任した。 下野校長らは国、道庁の方針に基づき就学奨励に努めた。 創立当初の就学率は男子70.49%、女子25.46%で、平均49.42%とかなり低く、出席率も80%前後にとどまっていた。 このため中隊を挙げて就学、出席を厳しく督励し、明治34年(1901)の就学率は男女平均で98.66%、出席率も96.22%へと驚異的な向上をみせ、栄えある名誉職を受けている。


南湧尋常小学校 北湧尋常高等小学校は、第四中隊、第五中隊の中間地区に位置していた。 そのため南、北兵村の両端から通学するのは児童たちの大きな負担となっていた。 南兵村では第二区長の菊池九十九らが中心になり、二区の一般家屋を借り受けて仮教室を開設、明治38年(1905)12月から尋常科1,2年60人の児童を受け入れて授業を開始した。 これが南湧尋常小学校の前身である。 当初は北湧尋常高等小学校南仮教室と称していたが、翌39年(1906)の村会で第一分教場として正式に決定した。 同41年(1908)10月、20号線近くにある土地給与区画割の旧学校用地の一部に分教場として授業を始めている。
 その後、児童数の増加に伴い学級増、増築を繰り返した。 大正5年(1916)には4学級、201人となったため、同年7月22日をもって南湧尋常小学校と合併し、上湧別尋常高等小学校となるまで存続した。


上湧別小学校 上湧別小学校は、昭和11年(1936)12月、北湧尋常高等小学校と南湧尋常小学校とが統合、上湧別尋常高等小学校として発足した。 新校舎は、屯田市街地に建てられたが、この時は尋常科、高等科合わせて607人の児童を数え、9学級編成であった。 同16年(1941)に上湧別国民学校、戦後の同22年(1947)に上湧別小学校と改称されている。 同53年(1978)には開校八十周年を迎え、盛大な記念式典を挙げている。 同52年(1977)度の規模は8がっきゅ、241人であった。

中湧別小学校 創立までの事情と経過は、南湧尋常小学校と全く同じである。 低学年児童の通学負担軽減のため、北仮教室を開設したのがその前身であった。 五の二の石川勝四郎らが、北兵村三区の一般住宅を借りて明治39年(1906)1月から仮教室を開設した。 これが北湧尋常高等小学校第二分教場になり、やがて基線道路と9号線が接した用地に校舎を新築して移った。
 大正2年(1913)、中湧別に鉄道の湧別線停車場の設置が決まると、地域の人口増、児童増に拍車がかかり、分教場の施設、敷地が手狭になった。 このため基線道路から90㍍ほど西へ入った代替地に新校舎を建て、同4年(1915)4月に移転した。 しかし、中湧別市街の発展が予想以上に早く、児童の急増も計画をはるかに超えたので、大正んどくの小学校として独立する機運が高まった。
 こうして中湧別尋常小学校が、大正5年(1916)7月に独立した。 最初は3学級、214人の規模であったが、隣接地を買収し校舎の増築を重ねた。 さらに、高等科も設置して、昭和7年(1932)には10学級、538人の規模へと拡大した。 戦後の同21年(1946)には15学級、830人に膨れあがった。 新制の中湧別中学校が設立されたのに伴いやや縮小したが、ピーク時の同32年(1957)は19学級、896人となった。


開盛小学校 日露戦争から凱旋した第四中隊一区の屯田戸主たちは、仕事の便利さを求めて第二給与地のある開盛地区に移住した。 その数は22戸にも及び、周辺の社名淵、学田も次第に開けて人口が増えてきた。 しかも北湧尋常高等小学校に通うには危険な渡船もあったんで、教授所の設置を望む声が日増しに高まった。   有志の熱意が実って、開盛駅南にあった一般住宅を借りて尋常科1,2年を対象に二部授業を始めたのは大正2年(1913)に入ってからである。 この年、30号線に校舎を新築、同5年(1916)には開盛尋常小学校として独立している。 昭和4年(1929)、高等科を併置、その後、校舎と屋内運動場の大改築を行っている。 同53年(1978)の規模は4学級、39人であった。

富美小学校 明治42年(1909)に殖民(入植)地として開放された富美地区に入植者が相次いで、児童数が増加した。 これにより北湧尋常高等小学校への通学の不便が、父母の悩みの種となった。 大正2年(1913)6月、富美原野の22,23号線間の公有地に校舎を建て、富美特別教授所を開設した。 同7年(1918)には2学級、88人の規模になったので校舎を増築して独立、富美尋常小学校となった。 昭和13年(1938)には高等科を設置した。 同53年(1978)度の規模は3学級、22人であった。

上富美小学校 上富美地区に開拓者が入ったのは明治42年(1909)ごろからで、地域人口は大正2年(1913)ごろから増加した。 仕丁たちは㌔㍍の距離を富美尋常小学校まで通った。 父母たちの熱心な運動が実り、同13年(1924)に多田農場から寄付を受けた用地に校舎が完成、上富美特別教授所が開設された。 昭和13年(1938)になって上富美尋常小学校として独立した。 終戦の年の同20年(1945)には高等科を併置した。 同52年(1977)度は2学級、5人の規模であった。

旭小学校 南北兵村の区有財産地がある旭地区は、その財産処分が決定した昭和7年(1932)から入植者が増え、児童も急増した。 しかし、中湧別尋常高等小学校への通学は、7号線の渡船や鉄橋がネックとなっていた。 部落会長の遠藤鶴吉らの運動によって、同18年(1943)8号線西6線に中湧別国民学校付属旭分教場が開設され、授業を開始した。 戦後の同23年(1948)3月に旭小学校として独立したが、地域の過疎化に伴い、同38年(1963)3月31日をもって廃校となった。 その後、児童たちは、中湧別小学校へ通学した。

(2)中学校
新制中学校の誕生 昭和22年(1947)の学制改革で、義務教育の6・3制が実施されることになった。その移行措置としてまず中学1年生のみ義務制とし、2年生と前年度既に高等科を卒業していた3年生対象者については、希望者だけ入学を認めた。 翌23年(1948)度から中学1~3年生がそろったが、校舎も教員も小学校からの”借り物”が多かった。
 上湧別で新設された中学校は上湧別(昭和22年5月23日開校、安藤則武校長)、中湧別(同22年5月24日開校、浅井勤校長)、開盛(同23年4月1日開校、谷津晶一校長)、富美(同23年4月1日開校、毛馬内義成校長)、上富美(同24年10月11日開校、松本良太校長)で、このうち上湧別、中湧別両中学校以外の校長は、すべて併設された小学校校長の兼務であった。


上湧別中学校  上湧別中学校は、上湧別小学校に併置された形で昭和22年(1947)5月23日に開校し、開盛、富美、上富美各小学校に分校を配置した。 翌23年(1948)4月1日に開盛、富美両中学校が上湧別中学校から独立開校し、上富美は富美中学校の分教場となった。 上富美分教場は同24年(1949)10月11日、上富美中学校として独立開校している。 一方、上湧別中学校は同23年9月上湧別小学校と廊下続きに4教室を新築、さらに、同26年(1951)9月に独立新校舎を新築した。

中湧別中学校  昭和22年(1947)の学制改革で、上湧別中学校とほぼ同時に設立され中湧別中学校は、最初中湧別小学校に併置された。 翌23年(1948)に新校舎の第一期工事を完了して独立校舎となった。 その後、同26年(1951)から同33年(1958)までに三期にわたる工事を行い、体育館や教室、理科備品室などを増築した。 ところが間に合わせのバラック建築とあって早くに建てた部分が老巧化、同30年(1955)ごろから危険校舎となっていた。

統合上湧別中学校  上湧別町は昭和36年(1961)、老巧化した中湧別中学校校舎改築の方針を打ち出し、町議会に諮って議決を得た。 ところが、他の中学校校舎の改築問題もからみ、上湧別、中湧別、開盛、富美、上富美の5中学校を一挙に統合する考えたかが浮上した。 同38年(1963)9月、設置場所の問題を棚上げしたまま、1校に統合する案が町議会で可決されたが、その後、場所問題で当時の石田町長が辞職するという事態に発展した。 結局、統合が実現して新しい上湧別中学校が開校したのは、同41年(1966)9月になってからである。
 昭和40年(1965)5月1日、教育の近代化などを目的とし、町内5つの中学校を一つにまとめた統合中学校が正式に発足した。 新校舎が完成するまでは、旧中学校校舎や小学校校舎で分散授業を余儀なくされたが、同40年から3年計画により、屯田市街地の15号線町有地で新校舎建築工事が進められた。 同41年9月1日からは分散授業を解消、全生徒が新校舎で授業を始めた。 同42年(1967)9月末には全工事を完了し、同年10月18日に盛大な落成式を催した。
 校舎は2.7㌶の用地に建てられ、鉄筋コンクリート、鉄骨ブロック3階建て、延べ6131平方㍍で、建築費は約1億6830万円。 普通教室18のほか体育館、各種特別教室、図書室、放送室などを備えた近代的校舎となった。
 統合前の昭和40年は5校合わせて25学級、772人であったが、統合後の同41年には17学級、704人となった。 その後も町の過疎化が進み、生徒数は徐々に減少、同52年(1977)度には12学級、410人まで落ち込んでいる。


(3)高等学校
湧別高等学校  「地元に普通高校を」という父母からの要請の高まりを背景に湧別、上湧別両町が強力な運動を開始した。 その結果、昭和28年(1953)4月1日に組合立の湧別高等学校(全日制普通課程)の設立が認可された。 中湧別中学校の一部を仮校舎として同年4月5日3学級、159人の規模で開校した。独立校舎の建築工事は、中湧別市街において同28年、同29年(1954)度にわたって進められた。 同29年10月末に完成している。 校地総面積は約7.89㌶で、このうち校地敷地2.15㌶、屋外運動場補か.74㌶。 校舎は木造2階建てで、延べ約4100平方㍍。 普通教室9,特別教室7が設けられた。
 こうして施設も整ったので昭和31年(1956)3月31日、同率高等学校へ移管された。 同52年(1977)度の入学志願者は194人で、このうち180人が合格している。 同年度の在籍は、12学級で530人であった。


湧別高等学校定時制  高等学校の定時制課程が制度化されたのは、昭和23年(1948)からである。 同年、遠軽高等学校の上湧別分校が、上湧別中学校に併置された。 同24年(1949)4月には旧青年学校跡地に移り、同26年(1951)に上湧別村立高等学校として独立した。 同年7月に上湧別中学校内に分教場を置いた。 また、同27年(1952)4がつ、下湧別村に湧別分校を置き、同年11月下湧別村立湧別高等学校として独立した。
 このような高等学校の定時制教育に対する地域住民の熱意が、その後の全日制普通課程湧別高等学校を誕生させる原動力となった。 上湧別村立高等学校は昭和30年(1955)10月に廃止され、湧別高等学校の定時制課程に併合された。 しかし、その後、定時制への入学志願が減少の一途をたどり、ついに同37年(1962)度から募集を停止、同40年(1965)3月に最後の卒業生を送り出したあと、その歴史を閉じた。


(4)その他の学校
南湧実科女学校 実業教育の重要性は、大正時代の後半ごろから叫ばれていた。 上湧別村では、南湧尋常小学校の小杉秀太郎校長の主唱によって大正13年(1924)2月、南兵村公会堂に南湧裁縫教授所が開設された。 裁縫を主として修身、国語、家事などを農閉期に教えたが、翌14年(1925)5月には実業補習学校としての設置認可を得て南湧実科女学校と改称、通年制で修業年限を前期、後期各2年とした。 この年の生徒数は、65人であった。
 大正15年(1926)3月には、第一回卒業生12人を送り出した。 昭和6年(1931)4月、学則が変更されて農閉期の5ヶ月、年限も前期2年、後期3年とされ、新たに研究科1年が設けられた。 卒業生は、廃校の同10年(1935)までに123人を数えた。


青年訓練所 大正15年(1926)7月1日、北湧、南湧、中湧別、開盛、富美のアック小学校に青年訓練所が設けられた。 小学校卒業後の16歳から20歳までの勤労青少年を対象に、兵式訓練を行った。 4年間で修身・公民科、普通学科、職業科、教練科合わせて800時間以上修了した者に対して、軍隊の在営期間を半年間短縮する特典が与えられた。
 昭和10年(1935)4月、実業補習学校と青年訓練所が統合して青年学校となった。 戦時色が一段と強まった同14年(1939)4月から、それまでの任意制から義務制に変わった。 さらに、同18年(1943)4月には青年学校が一町村一校と定められたので、上湧別青年学校に統合した。 女子については南湧、中湧別、開盛、富美に分教場を置いた。 戦後の同21年(1946)12月、15号線北湧尋常高等小学校跡に独立校舎を建設したが、同23年(1948)3月の学制改革により廃校となった


青年学級 勤労青年を対象とした青年学級の開設には、2分の1の国費補助が支給されることになった。 上湧別では、昭和28年(1953)に富美、開盛両地区の小学校に開設された。 その後、同34年(1959)までに共進、南湧、上富美、中湧別にできたが、青年層の著しい減少に伴い、同38年(1961)度以降開設はゼロとなった。

洋裁学校  戦後になって衣服の様相化が進んだことにより、洋裁学校が各地に誕生した。 昭和21年(1946)に中湧別洋服学校(上田佐代子校長)、翌22年(1947)に道東文化高等女学校(山村勝弥)が開校、洋裁や編物などを中心に教えた。 中湧別洋服学校は、のちに中湧別家政高等女学校と改称され、華道なども教えるようになった。 しかし、社会の変化に伴い生徒が激減し、道東文化高等女学校は同47年(1972)に閉校した。

(5)幼児教育
みのり幼稚園  地域住民の幼児教育に対する関心の高まりに対応して、昭和49年(1974)4月、古川正道が湧別地方で初めての学校法人和光学園を設立、中湧別842番地の8に、ものり幼稚園を開園した。 1983立方㍍の敷地内に建てられた園舎は、木造モルタル造70平方㍍で保育室3,遊戯室、会議室が設けられている。 定員は、3学級で120人であった。

(6)特殊教育
 上湧別町では昭和41年(1966)から中湧別小学校に1学級、翌42年(1967)から中湧別中学校に2学級の特殊学級を併設し、心身に障害を持つ児童生徒の教育を行った。 殊学級への入級については、医師、民生委員、教員、役場民生課長(福祉関係担当)教育委員会担当者らで構成する判別委員会で判定、同41年から同51年(1976)までに延べ116人が特殊学級で学んだ。
 知的障害児やその家族を励まそうと、父母や理解者たちの手で昭和47年(1972)6月、上湧別町手をつなぐ親の会が結成され、地域への啓蒙活動や卒業生の自立促進運動などに取り組んでいる。
        
  第三節 社会教育 
    (1)戦前の動き
青年団体 社会教育活動の芽生えの一つは、青年会の結成である。 娯楽のない開拓生活の中で若い人たちが自然に集まり、話し合いの場を作るようになった。 上湧別では、明治32年(1899)1月に産声を上げた北兵村三区の北辰青年同窓会が第一号であった。
 昭和10年(1935)までに北辰のほか北湧、北兵村二区、共進、明徳、南湧、中央、開盛、富美、上富美、札富美、旭と集落の全てに青年会ができている。 会員は15歳から25歳までが対象であったが、会員が少ないなどの事情で、30歳まで入れている会もあった。
 青年会の活動は、自己修養ばかりでなく、集落の各種行事への強力や社会奉仕が主なものであった。 このため、部落会も積極的に後援し、助成金も出していた。 このように青年会は地域で自主的に発生したものであったが、明治38年(1905)12月に社会教育の重要な分野と認めた政府が青年団体設立症例に乗り出し、北海道庁の指導もあったので、同44年(1911)3月、上湧別村聯合青年会が結成された。
 青年会はその後、道や市町村などの公費助成を受けて、中央集権的な統一を求められ、国家支配の色彩を濃くしていった。 上湧別村においては昭和2年(1927)ごろから青年会は青年団と改められ、統一した単一の団組織となった。 各集落の青年団ぁ北海道、分団として支配下に置かれた。 青年団には最初のころ上湧別、中湧別市街を除く各集落の男子青年のほとんどが加入していたが、女子は入っていなかった。 団員数は大正7年(1918)266人、昭和10年275人、同17年(1942)338人という推移をたどっている。
 女子の青年団第一号は、大正14年(1925)に結成された南湧処女会である。 のちに村費補助も計上されるようになった。 昭和10年には南有のほか中湧別、北湧、開盛、富美に女子分団がができている。
 大正15年(1926)公布の「青年訓練所令」、昭和10年の「青年学校令」によって青年訓練所、青年学校ができると、青年団の本来の目的、使命がほとんど失われた。 一反歩耕作、堆肥の増産、銃後(戦場になっていない国内)後援会事業などに活動が絞られ、編成替えなどを重ねながら戦争遂行に埋没していく。


婦人団体 日本の婦人団体が全国的に注目されたのは、愛国婦人会だといわれている。 北清事変の出征軍人、傷病兵の慰問やその遺族を援助する目的で、明治34年(1901)に結成されている。 上湧別にもその末端組織として委員部が設けられたが、設立年月日など成り立ちは分からない。 ただ大正7年(1918)以降の村勢要覧に会員数の記録が残っていて、同10年(1935)266人となっている。
 昭和6年(1931)、満州事変が起こると、軍部の要請によって全国組織の大日本国防婦人会が、翌7年(1932)10月に結成された。 各市町村には下部組織の支部が設けられ、半強制的に全戸加入とされた。 上湧別村では同12年(1937)、日中戦争が始まったころから各集落に婦人会を作り、村支部が発足した。 村長夫人の酒井リヨを顧問とし、会長に熊沢エイが就任した。 会員たちは出征軍人の歓送迎、戦地将兵への慰問袋の送付、留守家族への訪問などを行った。


(2)戦後の動き
新しい社会教育 昭和24年(1949)、「社会教育法」が制定された。 これで教育は学校教育と社会教育を両輪とした民主社会建設の指針が示された。 この中で社会教育委員は、社会教育計画の立案、諮問などを通じ、地域住民を育成することを目的に、「社会教育法」に基づき各都道府県、各市町村に設置された。 上湧別村では同26年(1651)に発足している。
 昭和46年(1971)第一期上湧別町総合計画の「緑豊かな近代的な生産文化のまちの建設」に基づき社会教育推進計画を策定、その目標を、①自主性を養い、心身ともに健康な人、②創造性豊かで、文化を愛する人、③人間性を深め、道義心を重んじる人、④社会性を培い、愛情豊かな人、⑤生産性を高め、仕事に誇りと責任をもてる人、を育成することと定めた。 また、基本方針は、「生産教育の必要性の理解にたち、住民要求を掘り起こし、個人とグループの主体的活動を促進し、コミュニティ活動を高める」ことをねらいにしている。 内容は、①住民の要求に根ざした学習機会を積極的に提供する、②健康の増進と体育スポーツ活動の生活化をはかる、③豊かな人間性を育む郷土の文化振興をはかる、④社会教育指導体制の強化と施設設備の拡充をはかる、⑤明るく住みよい町づくりを進めるため積極的な住民運動をすすめる、の5本柱を方針に掲げている。 このような基本方針にのっとり、毎年度の社会教育計画が決められ、具体的な事業展開を行っている。


青年活動  終戦によって、戦前からの聯合青年団は自然消滅した。 単位青年団だけが親睦団体として存続していたが、戦後の混乱の中で活動の指針を失っていた。 地域の戦後復興と社会の民主化に果たす青年の役割の大きさを重視した青年学校長の千葉七郎らが、村内の青年に呼びかけて昭和21年(1946)4月、上湧別村連合青年団を男女別々に結成、翌22年(1947)に男女を一本化した。 その活動は活発で、講習会、生活研究発表会、青年弁論大会、意見交換大会、相撲大会、陸上競技大会などを繰り広げた。
 昭和24年(1949)ごろには、上湧別村連合青年団を上湧別村青年団体連絡協議会と改称して、単位青年団を主体とする運営に切り替えた。 このころから北海道が指導する農村職域青年の4Hクラブ結成の動きが出た。 これにより青年団との間に問題が生じ、一部の青年団で分裂騒動が起こったが、同32年(1957)4月に各単位青年団体がまとまり上湧別町青少年団体協議会と改称して再出発した。 単位団体は会員減少により、協議会中心の活動になった。 同52年(1977)度の会員は、41人であった。
 このほかの青年団体としては上湧別町商工会青年部(昭和36年結成)、屯田勤労青年部(同48年結成)、上湧別村農業協同組合青年部(同26年結成)などがあり、それぞれ独自の活動を展開した。


婦人活動  戦後は男女平等の原則にのっとり、婦人団体の結成が相次いだ。 昭和22年(1947)、屯田市街地に新生婦人会が誕生し、初代会長に佐藤スカが就任した。 次いで同年に中湧別市街に中湧別婦人会、同24年(1949)には上富美、開盛を除いた各地区に単位婦人会ができて、上湧別村連合婦人会が結成された。 初代連合会長に川村清井が選ばれた。 同25年(1950)7月の第一回総会で、①子どもをしっかり育てよう、そのために視野の広い公正な家庭教育のできる母親になるよう努めましょう、②家庭の平和、町内の平和を考えて助け合いましょう、③仕事の綿では国や町の行事に協力する、などの目標を決めた。
 間もなく開盛、上富美にも婦人会ができて村内全域に組織が網羅された。 網走支庁管内への国立大学誘致、生活改善運動などに取り組み、活動が活発化したのに力を得て、昭和30年(1955)春の町議会選挙で斉藤スヱを樹立して当選させ、教育委員に川村清井を送り込むことに初めて成功した。 婦人団体としては、そのほか教育町農業協同組合婦人部が同31年(1956)1月に結成され、活発な活動を展開した。


少年活動  民生児童委員の樋口雄幸、社会教育主事の松橋秀雄らの努力により昭和39年(1964)1月、上湧別最初の子ども会が活性された。 四の一子ども会と屯市北区子ども会で、子どもたちの健全育成が主たる目的であった。 次いで中湧別にも子ども会の輪が広がり、やがて全町的な組織へと発展した。 同41年(1966)1月、青少年団体の指導育成機関として、上湧別町聖書年指導センターが設立された。 同センターは子ども会活動の促進、リーダーの指導育成、家庭教育の振興、地域における生活指導などに重点的に取り組んだ。 同50年()1975)における子ども会は22地区にあり、小中学生1300余人が活動していた。
 ボーイスカウトの活動も活発だ。 覚王寺住職の古川湛然が、昭和41年7月に上湧別町第一団を結成した。 その後カブスカウト、シニアスカウトも発足して同50年にはボーイスカウト34人、カブスカウト33人、シニアスカウト13人、計80人となった。 同50年には、発団十周年記念式典を行っている。


施 設  昭和45年(1970)に上湧別町社会福祉会館、翌46年(1971)に上湧別町青少年会館が開設されている。 旧中湧別中学校跡地にできた上湧別町社会福祉会館な、児童からお年寄りまで幅広く対応できる施設で、図書室や相談室、子供室、老人室、婦人室などのほかに講堂、会議室を備え、教育・文化センターとしての役割も果たしている。 この上湧別町社会福祉会館に隣接して建てられた上湧別町青少年会館は、体育館、ホール、研修室などからなり、児童生徒から勤労青少年までスポーツ・文化活動などに活用されている。

(3)文 化
戦前の文芸活動  明治37,同38年(1904,1905)ごろから北兵村三区、4号線、湧別浜市街などの俳人たちが時折句会を開いた。 初代戸長の小池忠吉(黙蛙)、商人の中川花宿らで、大正初期には北兵村三区の真言宗住職、米本迷外らも加わり、北声吟社を結成してめざましい創作活動を続けた。 中湧別から歯科医の小島賢也、医師の赤坂照月らの俳人を輩出している。 北声吟社は、大正12年(1923)に北斗吟社、昭和2年(1927)に東海吟社と改めたが、その全盛期は大正時代から昭和の初期にかけてであった。
 短歌誌「覇王樹」の同人で南湧尋常小学校の教諭、大沢雅休の指導によって、村内に短歌ブームが巻き起こり、大正9年(1920)に短歌誌「にほぶえ」が創刊された。 大沢とその門下生たちは次々と秀作を発表し、北見歌壇をリード、北海道歌壇にも少なからぬ影響を与えた。 大沢雅同11年(1922)に東京へ去ったあとも、島田梅十、大塚盈らの弟子たちが短歌の灯を守った。 大正末期から昭和初期にかけて新短歌会、野菊短歌会、どんぐり短歌会などが相次いで誕生した。
 これらの短歌は文語体であったが、「橄攬樹」を創立して本道口語歌運動の先駆者となった渡辺要が、大正14年(1925)に故郷上湧別に戻り、村役場に勤めた。 渡辺は昭和2年「山脈」を創刊し、歌壇に新風を吹き込んだ。 「山脈」はやがて渡辺の常呂への転出で廃刊となった。
 排界は、昭和5,同6年(1930,1931)ごろから有力俳人の村外転出により一時勢いを失った。 しかし、正岡子規の弟子、武田蛍塘に師事した栗木踏青や、中央の排誌「南柯」の同人、長岡萩邨らの活躍で、俳句熱は再び盛り上がった。 詩や散文については、中湧別駅職員が発行した総合文芸誌「新生」において発表されていた以外、特にみるべきものはなかった。
 このほかの文化活動としては大正14年ごろから、古川湛然が未生流華道を教え始めた。 その後、人口増加に伴い、昭和15年(1940)ごろには井尾カネが古流、佐々木トミが青山流、今野峯、大滝フミが池坊を教授した。 茶道は同19年(1944)ごろから今野峯によって、箏曲は戦前から村上トヨによって、それぞれ始められた。


戦後の文芸活動  終戦後間もなく青野麦秋らが、青年学校の機関誌「こだま」に俳句や随筆などを発表した。 北湧青年団でも「あら雪」が刊行され、俳句は長岡萩邨の指導を受けた。 昭和22,同23年(1947,1948)ごろ堀亘暁らが睦み吟社、後藤若柳らも野蕗吟社を結成し、盛んに句会を開いた。 同22年には中央俳壇とのつながりを持つため、葦牙上湧別支部として谺吟社が長岡の提唱によって結成されている。 同25年(1950)には谺吟社主催の北見方面大会が法徳寺で開かれ、歴史ある上湧別俳壇の名をとどろかせた。
 上湧別の生んだ俳人、栗木踏青は終戦の年の12月、42歳で事故死したが、長尾から句友が栗木の句碑建立を計画、昭和31年(1956)9月23日に、句碑の除幕式を兼ねた記念全道俳句大会を明光寺で開いた。 句碑は同寺境内入り口に建っている。 栗木に師事し、戦前戦後を通じて上湧別俳壇に貢献した長岡の句碑も同44年(1969)5月16日、上湧別神社公園内に建立、除幕された。


文化協会 昭和30年代(1955~)に入ると、各分野の文化サークルが続々誕生した。 上湧別町教育委員会の指導により同37年(1962)2月26日、上湧別町文化協会が設立された。 会長には古川湛然が就任、文芸、園芸、茶道、書画、華道、囲碁、郷土研究、写真、三曲(琴・三味線・尺八)、芸能、音楽鑑賞、合唱などの部が設けられた。 事業として研修会、展覧会、芸能発表などを開催、町内の文化活動の中心となった。 同51年(1976)の部は文芸、華道、書道、絵画、写真、銘石、音楽、手芸、コレクション、舞踊、民謡、人形、茶道、俳句、詩吟、盤景(盆景)、剣舞、筝曲の18部で、会員は318人を数えている。

劇 場 娯楽施設のない開拓期は、歌舞伎好きが兵屋に集まって芝居の練習をする程度であった。 屯田兵が現役を終えるころは、各集落の氏神祭典余興で歌舞伎の公演が行われるようになった。 また、旅芸人も来村するようになり、祭文語り(歌の形にした語り物)や”うかれ節”(陽気なはやり歌)が開拓民を喜ばせた。 明治40年(1907)ごろ、北湧尋常高等小学校に幻灯機が入り、上映会がたびたび開かれた。 光源は、石油の灯火であった。 大正6,同7年(1917,1918)ごろから新派と称する現代芝居が、若い人たちによって上演された。
 上湧別最初の劇場は、大正座である。 大正元年(1912)10月、屯田市街地の覚王寺北側に開設された。 山口亀蔵が山田軸木向上の倉庫を買い、改造したものである。 芝居や浪曲が主に上演され、常時大入り満員であった。 山口の死によって熊沢助三郎が経営を引き継いだが、第一次世界大戦後の経済不況のあおりを受けて同14年(1925)に閉館した。 これと入れ替わるように、この年の9月、喜楽座が開館した。 屯田市街地の商人数人が共同出資して、3号線の山田電気会社の建物を買収して改造した。 その後、経営権が三木崎蔵、北島善次へと移り、昭和24年(1949)には湧宝劇場と改称、映画全盛期を謳歌した。 しかし、テレビの普及などの影響で、同39年(1964)に閉館した。
 大正6年、服部多四郎によって中湧別に中湧別座が開館したが、昭和9年(1934)の市街地大火で全焼し、閉館に追い込まれた。 翌10年(1935)には早川市郎右衛門が若松座を新設、早川儀重、早川昇へと経営は引き継がれ、早川昇はさらに映画常設館として湧楽館を開館したが、同38年(1963)に湧別町の南川保一に両施設を譲渡した。 南川は若松座を閉じ、しばらくは湧楽館を守り続けた。


(4)郷土文化
郷土史研究会  上湧別町は会期七十周年の記念事業として、昭和39年(1964)から町史編纂に着手した。 散逸した資料類を収集するため、同年11月に郷土史研究会が結成され、資料の発掘、保管補修に努めた。 同41年(1966)には町内42ヶ所に史跡表示板を設置し、史跡を保護した。 同43年(1968)には屯田兵屋の保存と文化財の収集保存施設の建設について、町へ陳情した。 その結果、郷土資料館が実現することとなった。 同46年(1971)9月の同館開館後も資料の展示、保存に協力した。

郷土資料館  屯田兵屋については、既に昭和6年(1931)秋から上湧別神社境内に移設して保存していた。 これは南北の屯田兵村戸主が、元屯田戸主、鷲見藤吉の兵屋に官給品なども収めて、屯田兵屋記念館として設置したものであった。
 この屯田兵屋記念館が老巧化したことと、町史編纂のため集めた郷土文化資料を保存、展示することをねらいに、旧上湧別中学校体育館を上湧別町郷土資料館に充てることを決めた。 内部の内装工事を行ったうえ、屯田兵屋記念館を原型のまま収蔵、さらに郷土の歴史に関する資料を展示して、昭和46年(1971)9月に開館した。 展示資料は屯田兵村関係、先住者の徳弘正輝の開拓資料、各時代にわたる生活、産業、社会、考古、文書など貴重なものばかりで、いずれも町民からの寄贈、寄託によるものである。


屯田会 昭和4年(1929)に、南兵村、北兵村の戸主会を結成した。 その後、屯田戸主たちの数が30数人に減ってしまったので、昭和32年(1957)5月、屯田家族を中心とした屯田家族会を結成している。 同52年(1977)には、屯田戸主が三浦清助ただ一人となった。 この年の5月に戸主会を解散し、新たに湧別屯田会を結成した。 会は二代目、三代目を中心に衣替えした。
 湧別屯田会は、同53年(1978)度の事業として屯田兵の肖像画を制作することを決めた。 屯田兵399人のうち382人と当時の大隊長3人、それに開拓の祖、徳弘正輝の肖像がを横須賀市在住の高名な画家、馬堀方眼喜孝に依頼して製作、郷土資料館に掲額した。
       
  第四節  社会教育 
    (1)戦 前
開拓期  各地に神社、学校が造られると、神社境内では祭典余興の相撲、学校の校庭では運動会が行われ、地域ぐるみで楽しむようになった。 古来の武術である県道も早くから愛好者がいて、4号線の山崎慶造、石川林作らの指導を受けた。 近代スポーツのきざしがみられるのは、開拓が進んで集落や村が形成され、人々の生活に一定の目安がついてからである。 小学校の教師らの指導によって陸上、水泳などの競技が盛んに行われるようになった。 このほか、野球も次第に盛んになっていった。

戦時体制  昭和16,同17年(1941,1942)ごろから個人の能力測定を目的に、体力章検定が始まった。 100㍍疾走、2000㍍耐久走、土俵運搬(30㌔㌘、50㍍)、手榴弾投げ、走幅跳び、懸垂屈臂(鉄棒)を行い、その記録によって上級、中級、初級のランク付けがなされ、それに応じた体力章が与えられた。 主に青年学校の生徒や一般の青壮年を対象に年一回実施されたが、戦局が急迫すると廃止された。
 日中戦争の勃発で奨励されたのが、勤倹尚武である。 これに基づき相撲、柔道、剣道などに加え、銃剣術、薙刀の武技、格技が国民体育となった。 こうした風潮の中で野球などの球技に対しては、敵性排除の名の下に抑制、制限が厳しくなった。


(2)戦 後
武道の禁止  GHQ(連合軍総司令部)は積極的なスポーツ奨励政策を取ったが、拝外思想や武士道につながるという利ゆで柔道、剣道、薙刀を禁止した。 裸で武器を持たない相撲だけは、例外とされた。 禁止が解除されたのは、昭和26年(1951)に講和条約が発効してからであった。

スポーツの祭典  戦後のスポーツ復興の背景には、①学校体育の充実、②社会体育の充実、③婦人の解放、④競技種目の拡大多様化、⑤スポーツマスコミの発達、などがある。 特にプロ野球人気に刺激された野球、フジマヤのトビウオ古橋広之進の世界的活躍で盛り上がった水泳、それに戦前から競技者が多かった陸上などが盛んになった。
 高度経済成長に伴い、国民の健康増進、健全な余暇活動の推進、スポーツの振興に一層の力が注がれるようになった。 そのうえ昭和39年(1964)の東京オリンピック、同47年(1972)の札幌オリンピックは、国民のスポーツ熱にさらに拍車をかける結果となり、スポーツ人口の底辺はぐんと広がった。
 上湧別町においても昭和30年代(1955~)に入ると、体育スポーツが急速に盛んになって、町民が楽しむ種目が次第に増加していった。 こうしたスポーツ熱の高まりに対応し同37年(1962)、町は町民の心身の健全な発達を図る目的で、「上湧別町スポーツ振興審議会に関する条例」を制定した。 また、スポーツ活動中に事故に対する「傷害見舞金交付要領」も設けた。
 施設整備の効果が出て、昭和40年代(1965~)からブームに火がついたのがママさんバレーボールである。 代表チームが同46年(1971)から5回連続して全道大会に出場、いずれも決勝リーグに進出するという好成績を残した。 同50年(1975)からは遊休施設の利用に着目、学校開放事業に乗り出し、施設利用者の拡大に備えた。


体育協会  上湧別町体育協会は、昭和35年(1960)1月31日に結成された。 スポーツ団体相互の連絡協調を通じ、スポーツレベルの向上を図ろうというものである。 発足当初は、個人加入組織の14部でスタートしている。 会員数はその後400人前後で推移したが、同38年(1963)度に規約を改正して、個人と団体加入の2本立てとした。 同51年(1970)度にはスキー協会、卓球協会、バレーボール協会、スケート協会、剣道協会、野球連盟、山岳会、ソフトボール協会、庭球協会、陸上競技協会、籠球協会、空手協会の12団体、805人が加入している。
 昭和46年(1971)に、(財)北海道体育協会に正式に加盟した。同48年(1973)に上湧別町で開かれた第五回道民スポーツ網走大会では、バレーボールで種目総合優勝を果たし、総合得点でも遠軽町に次いで2位を記録してくる。
   
第七章  交通と通信 
  第一節  道路と橋梁 
    (1)道 路
道路の始まり  明治時代の陸上交通は、従来の海岸道路に加えて官設駅逓、渡船場などの設置に伴って、殖民地道路の開発が積極的に進められた。 明治24年(1891)の中央道路、翌25年(1892)の湧別基線道路の完成は、北見地方に初めて道央との内陸交通の動脈を開いた。 旭川~網走間の中央道路は幅員5.4㍍、延長230㌔㍍で、主に釧路集治監の囚人によって開削された。 湧別基線道路は、北海岸道の湧別浜を起点として湧別原野の中央を南に縦走し、終点の野上で中央道路に接続している。 幅員5.4㍍、延長26㌔㍍で、網走分監囚人の就労で完成させた。
 このほか湧別~紋別間道路(基線道路4号~紋別)、湧別~網走間道路(湧別原野7号線東3線~計呂地16㌔㍍)、湧別原野乙線道路(遠軽~野上第6号5㌔㍍)、サナブチ原野道路(基線道路~上社名淵12㌔㍍)、フミ原野道路(湧別原野20号線~フミ原野12号線9㌔㍍)などが、明治31年(1898)から大正12年(1923)にかけて次々と整備された。
 また、兵村内の号線道路は、明治30年(1897)から4年間ですべて開通している。 全部で21路線あり、総延長は32.806㌔㍍であった。 これらの道路は、開墾の通り道として利用された。


駅 逓 行政連絡の円滑化と一般旅行者の便宜を図るため、北見国でも明治9年(1876)、斜里、網走、紋別の3ヶ所に駅逓所が開設された。 道16年(1883)には根室県が駅逓制度を拡充するため、新たに斜里郡差類(斜里)、常呂郡鐙沸村(佐呂間)、紋別郡湧別村、幌内村の4ヶ所に駅逓増設を決めた。 これに基づき湧別駅逓所は翌17年(1884)、和田麟吉の取扱いにより開駅した。
 その後、中央道路、基線道路、仮定県道、殖民道路などの開通が相次ぎ、内陸奥地へと駅逓所の開設が進んだ。 このうち中央道路沿いには13ヶ所の駅逓が開設され、網走と石北峠国境間には8ヶ所、当時の湧別村内は野上(現、遠軽、明治25年開設)、滝の下(現、丸瀬布、同26年開設)、滝の上(現、白滝、同開設)の3ヶ所であった。


北海道道路令 日本の道路行政が画期的な進展をみせるようになったのは、大正8年(1919)に「道路法」が公布されてからであった。 道路を国、府県、郡、市、町村道に区分し、路線の認定基準を設けて格付けし、管理者を定めるとともに、費用の負担区分も明確にした。 これに基づき同年、「北海道道路令」が督励として出され、道内の道路は国道、地方費道、準地方費道、区道(のちに市道)町村道に区分され、国道は国庫負担で整備された。 そのほかの道路でも道庁長官が特に認めた場合は、国の拓殖費で賄われたので、上湧別でも開盛~上富美間道路(昭和6年開通)、上富美~社名淵間道路(道11年開通)などが整備された。

戦後の道路行政 昭和25年(1950)、「北海道開発法」の公布により北海道開発庁が新設された。 これを契機に北海道の総合開発事業は、道路を根幹として展開されることになった。 また、同7年(1952)に「道路法」が制定され、道路が一級国道、二級国道、都道府県道、市町村道に区分された。 このほか「道路整備費の財源などに関する臨時措置法」など、道路関係法令の整備により、新しい道路行政の基礎が確立された。 さらに、同29年(1954)から始まった第一次道路整備5ヶ年計画は、同30年代(1955~)以降の道路事情の飛躍的な発展にはずみをつけた。 しかし、予想をはるかに超える自動車交通の激増は、道路の混乱や交通事故を生み出し、排気ガスや騒音といった交通公害を発生させる要因となった。

国 道 上湧別町内を走る一般国道は、242号と238号の2本である。国道242号は7号線~社名淵橋間の12.931㌔㍍で、中湧別、上湧別、開盛を通っている。 もともと明治25年(1892)に里道湧別~野上間道路として、囚人により開削された道路(仮定県道)が前身である。 大正8年(1919)の「道路法」制定に伴い、準地方費道旭川~下湧別線に改名、昭和28年(1953)以降道道生田原~下湧別線、道道遠軽~上湧別線、道道上湧別・生田原・留辺蘂線と名を変えて、同50年(1975)に一般国道242号に昇格した。
 国道238号は、東5線~6号線間の3.355㌔㍍で北兵村三区を走っている。 明治35年(1902)に仮定県道として開削された。 大正8年の「道路法」制定により地方費道稚内・網走線と改名、昭和27年(1952)には2級国道に昇格して網走・稚内線となった。 さらに、同40年(1965)に、一般国道238号と改名している。 もちろん両国道とも全線舗装。 国道の呼称は同40年の法改正に伴い、1級、2級の区別がなくなるとともに、従来の号線を改め、例えば国道242号というように「線」をはずして呼称している。


道 道  道道は、3本が町内を走っている。 上社名淵・上湧別線(遠軽町との境界~上湧別町459番地国道242号交点、16.932㌔㍍)、緑陰・中湧別停車場線(上湧別町旭199番地~上湧別町字中湧別460番地、5.394㌔㍍)、上湧別停車場線(国鉄上湧別駅敷地界~国道242号交点、138㍍)で、上社名淵・上湧別線は昭和35年(1960)、上湧別停車場線は翌36年(1961)、緑陰・中ユベツ停車場線は同46年(1971)に道道に認定告示されている。

町 道  町道の整備は、町の単独事業のほか農業構造改善事業、広域市町村圏振興事業、過疎地域対策事業、土地改良関係事業などに基づいて新設、改良、舗装を進めている。 昭和53年(1976)4月時点で町道は172路線あり、総延長は238.275㌔㍍に達している。 改良率は10.0%、舗装率は全道市町村道平均約4.1%に対し、上湧別町は2.7%と、ともに低い。

除雪対策 道路の除雪は、戦後しばらくの間は市街地、各集落とも各戸からの出駅により区間を定めて行っていた。 国道242号については、遠軽~湧別間でバスを運行していた北見バスが、昭和28年(1953)から沿線関係者で除雪協力会を結成し、協力してもらいながら、会社独自でもブルドーザーで除雪を始めたのが最初である。 昭和32年(1957)には網走開発建設部もブルドーザーを購入、部分的な除雪を開始した。 同36年(1961)からは国、道、町の各道路管理者が受け持ち、路線を除雪するようになった。 上湧別町では業者の協力を得て、主要町道の除雪を行った。 同41年(1966)に初めてドーザーショベル(120馬力、15㌧車)を650万円で購入、町単独で除雪を始めたが、大雪の時はやはり業者の応援を得た。 その後も機動力を充実させ、同44年(1969)には除雪路線の優先順位をA(翌日)、B(2,3日中)、C(一週間以内)の3段階に区分し、総延長100㌔㍍余の除雪を可能にした。 さらに、同47年(1972)、同49年(1974)にタイヤショベル、グレーダーなどを購入し、除雪体制を強化している。

(2)橋 梁
国道の橋    明治25年(1892)、湧別川に初めて架設された湧別基線道路(現、国道242号)の開盛橋は、同39年(1906)春の大出水で流失してしまった。 当時の湧別村の財政力では、自立復旧は不可能だったため、橋の跡地に渡船場を設け急場をしのいだ。 大正15年(1926)、基線道路が仮定県道に昇格すると、28号線において新しい開盛橋の建設が進められた。 光寺は同年11月に完成し、20年間に及んだ渡船通行の歴史に幕を下ろした。
 この橋が老巧化した昭和32年(1957)、堂々の路線変更に伴い、25号線地先で、3台目の開盛橋の架設に着工、3年の歳月と2億8000万円の巨費を投じ同34年(1959)11月に完成した。 これは町内の大橋では第一号の永久橋で幅員7㍍、延長396㍍は、当時網走管内で第二の規模であった。
 工法もプレスト・レスト・コンクリートという当時としては最新のもので注目された。
 国道の橋としては開盛橋に次いで長い社名淵橋(延長84㍍)は、昭和35年11月に開盛橋と同時に渡橋式を行っている。 同52年(1977)において、国道242号に架かる橋は跨線橋も含め8橋で、国道238号には全くない。


道道の橋  道道に架かる橋は、緑陰・中湧別停車場線では中湧別橋、川西橋の2橋。 上社名淵・上湧別線では山中橋、花木橋、馬頭橋、上富美橋、神社橋、上湧別橋、無名橋の7橋ある。 このうち上湧別橋は、その前身を富美橋と称した。 富美橋は、富美原野道路が開削された2年後の大正14年(1925)に架設された。 老巧化が著しく昭和19年(1944)に掛け替えられ、同29年(1954)に上湧別橋と改称された。
 富美原野道路は昭和35年(1960)になって、一般道道上社名淵・上湧別線に認定された。 これを機に位置を21号線から18号線に変更して同37年(1962)から架け替え工事にかかった。 4年の歳月と約3億円の総工事費をかけて、同40年(1965)に開通した。 幅員6㍍、延長600㍍の規模は、当時網走支庁管内では永久橋として最長であった。
 上湧別橋と同時に完成した中湧別橋は、昭和28年(1953)に湧別川7号線地先に架設された木橋であったが、同39年(1964)の融雪増水で流失したので架け替えしたものである。 両橋の竣工式・渡橋式は同40年10月25日に同時に行われ、これに併せて旧上湧別橋河畔で全道橋梁感謝祭が催された。 この時の中湧別橋は、簡易永久橋(幅員3㍍、延長96㍍)であったが、その後も光寺は継続されて同44年(1969)には市町村道としては、当時最長(延長384㍍)の永久橋であった。 緑陰・中湧別停車場線はその2年後に道道に認定されている。
 開盛、上湧別、中湧別の3大永久橋は、折からの車社会に対応して、地域産業の振興と文化の発展に大きく貢献した。


町道の橋  町道の橋梁のうち札富美橋、中湧別橋(のちに道道昇格)を除いて大半が木橋だったが、昭和40年代(1965~)に入ってから永久橋への架け替えが進んだ。 同50年(1975)末においては木橋17,永久橋57となっている。

(3)渡船場  
  渡船場は、開拓期において欠かすことのできない重要な交通機関であった。 明治7年(1874)には、北海道で114ヶ所の官営渡船場が設けられていた。 同15年(1882)藤野漁場が請け負って管理していた網走管内の渡船場は、斜里川、湧別川など13の河川と湖に及んでいた。
 道庁の植民政策の進展によって内陸の開拓が進むにつれ、渡船場は次第に内陸河川に増設されるようになった。 大正7年(1918)7月の記録によると、上湧別村内の湧別川には官設6ヶ所、村営1ヶ所の渡船場があった。 場所や経由、連絡などは次のとおりである。

設置  場   所     経 由・連 絡 
官設  7号線  基線道路から川西に渡り、紋別方面の北海
岸道に連絡 
官設  14号線  基線道路から川西に渡り、フミ原野に通じ
る 
 官設  19号線  基線道路から川西を超え、フミ原野に至る 
 官設  向野上  湧別原野乙線道路終点で湧別川を右岸に渡   
り、中央道路に連絡 
 官設  セトセ  中央道路から湧別川を左岸に渡る
 官設  マウセブ  中央道路から湧別川を右岸に越え、ムリイ
原野に至る 
 村営  26号線  基線道路開盛橋跡 
 このうち19号線渡船場は、明治36年(1903)の6月か7月に開設されている。 官設に移行する前は、南湧別兵村公有財産取扱い委員会の私有施設であり、南兵村の戸主の中で働き手の多い家や兄弟の分家などで、川西の公有財産地を借りた者が、開墾に通うためにできたものであった。 この渡船場が30年間も富美地区住民の生活に重要な役割を果たして、その歴史に終止符を打ったのは昭和8年(1933)11月である。 地方費によって21号線の湧別川に富美橋が完成、渡船場の必要性がなくなったのである。
 明治39年(1906)、湧別川の氾濫で26号線の開盛橋が流失した。 この被害は、基線道路の交通を完全に南北に分断した。 当時、里道(市町村道)に編入されていた基線道路を管理していたのは、村であった。しかし、財政力の乏しい村は早急な復旧に着手できなかった。 このため南兵村一区の有志によって同40年(1907)9月、開盛橋渡船場が開設された。 これが村営に移管されたのは、同44年(1911)12月になってからである。 翌45年(1912)5月早々の豪雨で湧別川がまたも大出水し、渡船場両岸一体が損傷したので、場所を約1㌔㍍上流に移して運航を再開した。
 大正15年、基線道路が再び仮定県道に戻されたのを機に、開盛橋が28号線に新設された。 25号線から新橋に至る湧別川右岸の山手道路も完成、同年11月25日、盛大な渡橋式が催された。 こうして開盛橋渡船場は、20年近い歴史の幕を閉じた。
    
  第二節  鉄 道 
    湧別(軽便)線の開通  明治29年(1896)、「北海道鉄道敷設法」が制定され、交通革命をもたらす大計画が開始された。 北見地方では、利別(十勝地方)・相ノ内間、網走・湧別間、名寄・湧別間の敷設が第二期線として計画された。 同39年(1906)には「鉄道国有法」が成立、鉄道敷設は新しい時代に入った。 同40年(1907)9月の旭川・釧路間の開通は、北見地方との連絡線となるもので地元の期待は高まった。 次いで池田・網走線が大正元年(1912)に開通し、初めて鉄道がオホーツク沿岸に達した。
 明治42年(1910)、「軽便鉄道法」が施行されると、野付牛(現、北見)と湧別間の湧別8軽便)線が敷設されることになった。 工事は同44年(1911)の測量から始まり、翌45年(1912)3月から6工区に分けて着工した。 大正5年(1916)8月に官制。 同年11月21日から全線で営業を開始した。 全長81.3㌔㍍で、総工費は153万円であった。 開通は、野付牛に近い工区から順次行われ、野付牛・留辺蘂間は同元年(1912)11月8日、留辺蘂・下生田原(安国)間は同3年(1914)10月5日、下生田原・社名淵(開盛)間は同4年(1915)11月1日、そして社名淵・下湧別間は同5年11月21日であった。
 停車場は開盛、上湧別、中湧別に設けられた。 中湧別には停車場のほかに、遠軽機関区中湧別駐泊所が同時に置かれ、時代の経過とともに中湧別保線区、北見物資部中湧別配給所、北見電気通信区中湧別詰所なども併置された。


名寄線の開通  湧別(軽便)線が開通した翌年の大正6年(1917)9月、名寄線の敷設工事が中湧別と名寄の両方から進められた。 工事は、同8年(1919)10月20日に名寄。下川間、道9年(1920)10月25日に名寄・上興部間、同10年(1921)3月25日に中湧別・興部間、そして同年10月5日に上興部・興部間が開通して全線が完成した。 これにより札幌までの所要時間は、池田経由より9時間半も短縮され、13時間半となった。

石北線・湧網線の開通  石北線は、大正9年(1920)に新設が決定した。 同12年(1923)1月には新旭川・上川間が開通したが、関東大震災(大正12年)の影響でその後の工事は一時延期となった。 しかし、地元の積極的な陳情が実って昭和2年(1927)10月に遠軽・下白滝間、同4年(1929)8月に下白滝・白滝間、同年11月に上川・中越間、同7年(1932)10月に中越・白滝間がそれぞれ完成し、全線開通した。これにより札幌までの所要時間は、9時間に短縮された。
 地元の期待を担った湧網線も昭和10年(1935)10月10日に網走・卯原内間、同年10月20日に中湧別・計呂地間が開通した。 しかし、日中戦争に続く太平洋戦争の勃発で工事は中断した。 終戦後の経済復興に支えられて、同27年(1952)12月6日に常呂・下佐呂間間(現、浜佐呂間)間、翌28年(1953)10月22日に下佐呂間・中佐呂間(現、佐呂間 )間が完成し、ようやく湧網線が全線開通した。 これで上湧別を通過する鉄道は湧網線、名寄線、湧別線の3線となり、列車が止まる停車場も中湧別、上湧別、社名淵の3ヶ所を数えた。 このうち社名淵駅は後に開成駅と改称された。 同30年(1955)以降は厚生病院前(北湧設置で廃止)、川西、旭、共進、五鹿山、北湧の各乗降場が設けられた。
目次  第三節  自動車運輸 
    (1)バ ス
戦前の運行  大正11年(1922)、伊藤幸二が下湧別・上湧別間の自動車運行の認可を得た。 小型フォード6人乗り1台を購入し、40銭の運賃を取って1日5,6回随時走らせたのが、バス運行の始まりである。 その後、経営者は何人かに移った。 昭和9年(1934)8月、安藤経蔵から路線権利を譲り受けた石田福弥、多田倍三は、湧別乗合自動車合資会社を設立して、1日6往復の定期運航を開始した。 同社は翌10年(1935)、上芭露、計呂地、同11年(1936)には登栄床に路線を拡大したが、いずれも冬期間は運休した。
 このころ遠軽乗合自動車合資会社などのバス会社が、各地に次々と設立された。しかし、戦時体制の強化に伴い、北見地区の企業整備統合が進められ、昭和17年(1942)3月に気病み乗合自動車株式会社が設立された。 その後、物資統制の強化は一層深刻になり、燃料割り当ての削減、部品の不足などにより同19年(1944)、ついに運航は中止された。


戦後の運航   戦後の昭和21年(1946)、北見乗合自動車株式会社は、北見バス株式会社と組織変えして営業を再開したが、遠軽・中湧別間の路線は鉄道併行路線であることを理由として認可されなかった。 しかし、同24年(1949)にようやく認可され、5月井「8日から湧別・遠軽間1日3往復の運行を始めた。 同30年(1955)ごろから除雪体制が整備され、通年運行が実現した。
 さらに、北紋バス、湧別町営バス、上湧別町営バスが運行されるようになった。 一時は各路線の1日雲海回数は延べ78回を数えたが、自家用車の普及などにより、昭和39年(1964)をピークに利用客は減少の一途をただった。 したがって運行回数も、次第に減っていった。


(2)ハイヤー  昭和26年(1951)4月に設立された遠軽ハイヤー株式会社が、中湧別営業所を設けて営業を開始したのは同29年(1954)10月である。 同37年(1962)3月には上湧別営業所も設けられた。 同50年(1975)、中湧別ハイヤーが、旧遠軽ハイヤー中湧別営業所の経営を引き継いだ。

(3)貨物輸送  
戦 前  城尾某が昭和8年(1933)にフォードトラック1台を購入して、中湧別駅前で運送業を始めたのが最初である。 同14年(1939)には上湧別村信用購買販売利用組合(上湧別産業組合)がトラック1台、また同19年(1944)に島崎中湧別自動車部がトラック3台をそれぞれ購入し、貨物輸送を始めた。 しかし、戦時体制下ではガソリン不足で、木炭を燃料とするよう改造したり苦渋の運行を強いられた。

戦 後  昭和21年(1946)、屯田市街地で服部浩一がトラック運送業を始めた。 それに続いて同年、中湧別の片山木材に最初の自家用トラックが入った。 その後、自動車が国産化されると、急速にじかようトラックが普及、陸上の交通運輸が馬橇から自動車へと大きく転換していった。 さらに、政府の高度経済成長政策によって、自動車の普及は加速し、車社会へと一挙に前進した。
 上湧別における貨物自動車の保有台数は、昭和28年(1953)度に普通22台であったが、同53年(1978)度には普通307台、小型666台に増加、このほか牽引車71台も導入されていた。
  第四節  運輸業者 
    戦 前  運輸業の始まりは、駅逓の取扱人によるものである。 屯田兵の入地後は馬車、馬橇による専業者が現れ、コタン(中湧別)では佐々木定次郎が店を構えた。 明治40年(1907)ごろは、赤繁助太郎ら9人が運送業者として登録されていた。 大正、昭和と時代が変わっても、小運搬業者が路上運送の主力をなしていた。 昭和12年(1937)には、専業者による輓馬組合が結成された。 戦時体制が強化されると、輸送力強化のため遠軽地方陸上小運搬組合に統合され、上湧別と中湧別に事業所が設けられた。 しかし、これは終戦とともに解散した。
 大正5年(1916)11月、湧別(軽別)線鉄道が開通すると、貨物輸送が鉄道に集中した。 このため鉄道輸送店の開業が相次いだ。 中湧別の野田松次郎、上湧別の熊勢勲、開盛の後藤満喜がそれぞれの拠点で最初の運送店を開業した。 同8年(1919)に運送取扱人公認規定、昭和2年(1927)に運送取扱人特定請負制度ができて、運送業は特権的色彩の濃い業界となった。
 昭和12年、「小運送業法」が施行され、1駅1店に制限された。 このため同17年(1942)6月、遠軽駅を中心とする33駅の運送店が合同して、”丸通”遠軽通運株式会社を設立、各運送店は同社の営業所に改められ、中湧別営業所と上湧別営業所を開設した。 同19年(1944)10月、遠軽通運は半官半民の日本通運株式会社に吸収され、遠軽がその支店となって各営業所を統括した。


戦 後  昭和22年(1947)の「独占禁止法」公布によって、日本通運株式会社は純然たる民間会社として再スタートした。 同27年(1952)2月には改めて遠軽通運株式会社が設立され、同38年(1963)9月に中湧別支店が店開きした。 高度経済成長に伴い、同40年(1965)ごろから貨物の輸送量が増大したが、同48年(1973)のオイル(石油)ショック後は急減した。 また、国鉄関係労働組合の打ち続くストライキで、貨車鉄道輸送がたびたびストップするという事態を招いた。 このため鉄道輸送への不信が高まり、トラック輸送への切り替えが急速に進んだ。
 昭和53年(1978)の町内運送業者は、日本通運(株)中湧別営業所、遠軽通運(株)中湧別支店のほか、湧別運輸、便利屋(現、下田急便運送)、丸一運送中湧別営業所、山下忠司の6社であった。
  
  第五節  自動車の普及 
    最初の車 上湧別に初めて自動車が入ったのは、昭和7年(1932)に庄田医院が往診のためダットサンを購入した時である。 翌8年(1933)に中湧別駅前の運送業者がフォードトラック1台を購入、さらに同9年(1934)には上湧別と中湧別の消防組にフォード消防車が1台ずつ入った。

車社会の進展 戦後の経済復興で各種交通機関の発展が促され、輸送のスピード化、大衆化が図られた。 昭和25年(1950)ごろから原動機付自転車、オートバイ、スクーター、貨物三輪が急増した。 さらに、同35年(1960)ごろからの経済の高度成長の波に乗って、業務用、レジャー用の四輪トラック、乗用車の普及が進んだ。 車種も軽自動車、小型車から普通車、大型車、外国車とバラエティーに富み、同45年(1970)ごろから完全な”車社会”に入った。
 上湧別町では昭和28年(1953)度に乗用車4台、貨物22台、三輪車15台の軽41台であった自動車は、同53年(1978)度には合計で2749台と67倍に増え、1世帯1台の割合で保有するようになった。
   
  第六節  郵 便 
    湧別郵便局の設置  明治17年(1884)に開設された湧別駅逓は、紋別・網走間を往復する郵便輸送を郵便受取所から引き継いだ。 湧別地方初の郵便局として、湧別郵便局が湧別浜市街地に開設されたのは同25年(1892)11月である。 湧別駅逓取扱人の和田麟吉が初代局長に就任した。
 当時の湧別村全域を集配区とする同局は、移住者の増加、屯田兵屋工事の労働者の急増などにより、明治29年(1896)7月から為替と貯金業務も開始、同年12月からは電信業務も併せて行うことになったので、湧別郵便電信局と改称された。


上湧別の郵便局  屯田市街地は屯田兵村があったので取扱量が多かった。 明治30年(1897)から渡辺表太の雑貨店に郵便箱を設置、切手やはがきも売りさばいていたが、同35年(1902)には湧別郵便局の屯田受取所に昇格した。 これが同38年(1905)4月、湧別屯田郵便局(無集配3等局)に認定され、屯田兵6年(1917)8月に上湧別郵便局として独立した。 同局が上湧別で最も古い郵便局である。
 次いで古いのが中湧別郵便局で、陸上交通の要衛だった湧別4号線にあった無集配3等局が、鉄道開通で発展した中湧別に大正9年(1920)に移転したものであった。 上湧別郵便局集配下にあった富美地区は、薄荷主産地として経済力のついた 昭和4年(1929)7月、富美郵便取扱所として開設された。同13年(1938)4月に集配局に昇格している。 開盛郵便局は同13年に郵便取扱所としてスタート、その2年後に、無主配特定郵便局の指定を受けている。
  第七節  電報電話 
    (1)電 話
電話の始まり 大正12年(1923)11月、上湧別、中湧別両郵便局に特設電話が開設された。 これが上湧別における電話の第一号である。 村内加入電話は翌13年(1924)2月、中湧別の30戸に架設され、初代交換手に須田キク、斉藤トリが採用された。 その後、上湧別局区内でも架設が始まり、いよいよ電話時代を迎えた。

電話の発達  昭和25年(1950)11月、遠軽地方の業務を管轄するため、遠軽電報電話局が開局した。 同33年(1958)7月には上湧別、中湧別両郵便局を統合して、電話の局番も中湧別局番に統一した。 同44年(1969)5月23日、中湧別電報電話局が開局、湧別一円でダイヤル式の全国即時通話ができるようになった。 同時に電話加入者も急増した。 町内の電話台数は、昭和8年(1933)度に47台であったが、戦後になって急速に伸びた。 同25年(1950)度79台、同35年(1960)度315台、そして同50年(1975)には2123台になった。

農村地域集団電話  農村地域には、昭和24年(1949)から情報伝達の手段として、共同聴取施設が導入されていた。 同37年(1962)には南兵村99戸が電話加入組合を結成し、地域集団電話を導入した。 これが同40年(1965)には全町の農村に広がった。

(2)電 報  電報は、明治の当初から唯一の緊急通信手段として利用されていた。 しかし、簡易な内容しか伝えられないので、電話の発達により昭和38年(1963)をピークに利用が激減した。
 その後は、冠婚葬祭など儀礼的な利用に限られてきた。 同50年(1975)に中湧別電信電話局が取り扱ったのは、発信が173件、着信が1万3789件であった。
  
  第八節  新聞・放送 
    (1)新 聞
戦 前   上湧別に屯田兵が入地したころには、「小樽新聞」(明治27年創刊)が中隊本部の将校や北湧尋常高等小学校の教員の一部で読まれていた。 道庁公示などがよく掲載されていた「北海タイムス」が発刊(同34年創刊)されると、これを購読する者も出てきた。 湧別(軽便)線が全線開通したのをきっかけに、新聞の鉄道輸送が始まり、新聞購読者が増えた。
 新聞の販売店は最初のころ不明だが、明治41年(1910)ごろからは4号線の戸田直吉が取り扱っていた。 大正時代になると、屯田市街地の高柳卯之松、中湧別の新妻町吉らが知られている。
 湧別地方の地元で発刊されたものとしては、大正6年(1917)12月創刊のの「北見タイムス」がある。 湧別の庄司新三郎が創刊、同9年Z(1920)に中湧別に支社を開設した。 旬刊で約1000部を出したが、同12年(1923)に廃刊した。 このほか遠軽を中心に「北見時報」「北斗時報」「北海民友新聞」「えんがる新聞」などが大正7年(1918)~昭和9年(1934)の間に次々と創刊されたが、上湧別においては、昭和6年(1931)に中湧別の岩上喜久三が「湧別新聞」を刊行したのが唯一の記録である。 旬刊で約2000部を発行、購読料月25銭で同14年(1939)まで続いた。
 昭和17年(1942)11月、戦時下の企業整理によって、長い歴史を持つ「北海タイムス」や「小樽新聞」などの道内有力紙が統合され、「北海道新聞」となった。 企業整理は地方の新聞販売店にも及び、屯田市街地は福田新聞店、中湧別は新妻新聞店のみが営業を続けた。


戦 後 言論、出版の自由が復活した戦後は、中央でも地方でも日刊新聞が次々と復刊し、各家庭に普及した。 遠軽dフェも地元紙が相次ぎ創刊され、道内ブロック紙の支局も開設されt。 これにより上湧別のニュースも時折新聞紙上を飾ることになった。

(2)テレビ
 昭和31年(1956)12月、NHK札幌放送局がテレビ電波を送り始めたが、管内ではまだ受像できない状態であった。 同32年(1957)に北海道放送(HBC)、同34年(1959)に札幌テレビ放送(STV)がテレビ放送を開始した。 上湧別においては、同35年(1960)秋ごろに中湧別市街の田中重一が、五鹿山山頂に受信用のアンテナを立てた。 そして、150戸と受信契約を結び、有線方式で共同視聴を行った。
 昭和36年(1961)4月、NHっきたみほうそうきょくの網走テレビ送信所が開局したのをはじめ、同37年(1962)に紋別中継所、同39年(1964)に遠軽中継所が設置された。 これにより全町どこでも、鮮明な画像が受信できるようになった。 これによりテレビの普及はいなぎのぼりに上昇、同36年に28%であったが、同37年50%、同38年(1963)60%、同39年71%、同40年(1965)80%と増え、やがて100%近くに達した。


(3)ラジオ
最初のラジオ  上湧別に初めてラジオが登場したのは、昭和2年(1927)のことである。 まず本多正雄が購入、次いで庄田医院、新国覚次郎らが手に入れたという。NHK北見放送局の調べによると、この年だけで8台が取り付けられていた。
 戦時体制下になると、戦況をいち早く知るため、ラジオが急速に普及した。 昭和17年(1942)には北見で中継放送が開始され、ラジオの性能も改良されていたので一団と聴きやすくなった。


戦後の流れ  昭和25年(1950)に「放送法」が施行された。 社団法人日本放送協会が解散、新たに日本放送協会(NHK)が設立された。 また、一般放送事業者の民間放送が認められて、翌26年(1951)から放送を開始した。 その後、短波放送、超短波放送(FM放送)が始まり、ラジオの多様化が進んだ。 さらに、トランジスタの開発によってラジオが小型化し、携帯が便利になった。 同20年(1945)に30%であった普及率は同35年(1960)に86%まで伸びたが、同36年(1961)以降のテレビ普及に押されて、ラジオはその存在が薄くなっていった。 
第八章  福祉と保健衛生 
  第一節  社会福祉 
    (1)戦前のあらまし
開拓期の社会事業  開拓期における社会事業は、移住民による相互扶助が中心であった。 屯田兵村では、災害互救制度が設けられていた。 例えば、兵屋が全焼、全壊した場合、15円、公務のため死亡したり、両眼両手足を失った場合15円が給付された。 明治33年(1900)から実施され、同36年(1902)3月の現役満期とともに終わっている。
 湧別村において社会福祉が行政上に具体化されたのは、明治32ねん(1899)にお行旅病人取扱費として5円が支出されたのが最初である。 これは旅行者が対象であった。 一般の窮民援護のために公的な道が開けたのは、同44年(1911)になってからである。 同年6月、「上湧別村窮民救助規定」が制定され、病気や事故によって生活の道を失った者に対して、生活一時金を支出した。


方面委員制度と救護法  昭和4年(1929)4月、近代的な社会福祉制度として、「救護法」が発布された。 昭和初期の経済恐慌に伴う生活困窮者の激増に対応したもので、医療費、助産費、生業費などを給付した。 上湧別では同7年(1932)1月から実施、救護法推進の補助機関として設けられた方面委員に、各地区の7人を委嘱した。 方面委員は後に制度化され、生活状態の調査、生活扶助、救療児童保護、職業その他の紹介斡旋、戸籍整備、教化指導、社会施設との連絡など幅広く活動した。
 戦時色が強くなると、軍人とその家族に対する福祉政策が強化されていった。 昭和12年(1937)の「軍事扶助法」「母子保護法」を皮切りに、「医療保護法」「戦時災害保護法」などが整備された。


(2)戦後の流れ
関係諸制度の動き  「日本国憲法」は、健康で文化的な最低生活を営む権利を保障し、昭和21年(1946)に施行された「生活保護法」は、保護対象者に対して民生児童委員制度の確立によって、社会福祉は、画期的な前進となった。 同22年(1947)共同募金が始まり、「児童福祉法」が公布された。 同25年(1950)には「生活保護法」が全面改正され、「身体障害者福祉法」など福祉3法が確立した。
 これらの法律は、保護を受ける権利を法律的請求権として確立、保障したところに大きな意味があり、昭和35年(1960)の「精神薄弱者福祉法」、同38年(1963)の「老人福祉法」、同39年(1964)の「母子福祉法」(現、「母子及び寡婦福祉法」)の制定により、社会保障制度は一層充実した。


社会福祉協議会  昭和26年(1951)3月、「社会福祉事業法」が公布された。 これに基づき同年9月、上湧別村社会福祉協議会が設立された。 共同募金からの配分金、篤志寄付、冠婚葬祭の際の寄付などを財源として、低所得者への援助、福祉団体の育成補助などを行っている。 また、歳末助け合い運動を展開、その浄財を恵まれない人たちに見舞金として贈っている。 このほか心配ごと相談所の開設、福祉結婚の推進、ボランティア活動の推進に努めている。
 共同募金は、昭和26年に上湧別分会が設立されたことによって、赤い羽根の募金運動が強化された。 同51年(1976)度の実績は47万795円で、目標の42万5700円を上回っている。


青少年問題協議会  戦後の価値観の多様化などに伴い、青少年問題が論議されるようになった。 青少年非行の地方都市への拡散、低年齢化などが深刻な問題となった。 それを誘発する有害図書、テレビ番組、映画、玩具などが、槍玉に挙げられた。 このため仮定、社会、学校の地域ぐるみで青少年健全育成を図ることを目的に昭和39年(1964)上湧別町青少年問題協議会が結成された。 同年には町条例を制定して、問題青少年の保護や子ども会などの育成に取り組んでいる。

生活保護  「生活保護法」による保護の内容は、生活扶助のほか教育、住宅、衣料、出産、生業、葬祭の各扶助が含まれているが、最初のころは、この制度になじまず適用申請が少なかった。 上湧別町の被保護世帯数の推移をみると、昭和35年(1960)に57(保護率16.0%)であったが、同40年(1965)に117(同31.7%)と増え、その後、増減を繰り返しながら同50年(1975)には138(同29.2%)となっている。 上湧別町の保護率は、全道、網走支庁管内平均よりやや高い。
 「生活保護法」、「児童福祉法」の円滑な運営を図るため、民生児童委員が厚生大臣から委嘱され、上湧別町では16人(のちに17人)が配置された。


児童福祉  「児童福祉法」は、昭和22年(1947)に制定された。 国と地方公共団体は乳幼児、少年期の健全育成を図るため、助産施設、母子寮、保育所、乳児院、虚弱児施設、肢体不自由施設などの各種保護施設を設けた。 国連の「児童の権利宣言」に基づいて、わが国においても同45年(1970)に児童憲章が制定され、物心両面から児童福祉の体制が確立された。「児童福祉法」による上湧別町の各種児童手当の受給対象者は、同50年(1975)には児童手当189人、福祉手当30人、特別児童扶養手当4人、児童扶養手当31人であった。
 保育所は昭和31年(1956)、光源寺境内に開設された中湧別季節保育所が最初である。 民間施設として婦人会が運営したが、同35年(1960)4月に移管された。 旧中湧別中学校を経て同47年(1972)、中湧別南町に移転して新築、同50年から通年の常設保育所に切り替え、さくら保育所と改称した。
 町民からの通年保育所設置要望に応えて、待ちが町営常設保育所を開設したのは昭和41年(1966)12がつで、中湧別北町の中湧別保育所である。 また、同38年(1963)5月に上湧別小学校の間借りで始まった上湧別季節保育所は、旧上湧別中学校に移ったあと、さらに、屯田市街地に移転、同48年(1973)に新築して、同50年から通年制に切り替えた。 同45年には、このほか開盛に季節保育所が開設されていた。


母子福祉 母子福祉の精神からはほど遠かった戦前の「救護法」や「母子保護法」とは違い、戦後になって軍人恩給の復活、「遺族救護法」や「福祉資金法」の施行によって、母子の援護更生の道が開かれた。 本格的な母と子の福祉が一体となって確立、保障されるようになったのは、昭和39年(1964)に「母子福祉法」が制定されてからである。 同51年(1976)度における上湧別町の母子世帯は59で、このうち被生活保護世帯13,困窮世帯13,普通世帯32、余福世帯1であった。
 明るい母子家庭を築くため、昭和38年(1963)に上湧別町母子会が結成され、様々な活動を展開した。


老人福祉  昭和26年(1951)、 全国社会福祉協議会は、9月15日を「としよりの日」として各種行事を行ってきた。 同34年(1959)に国民年金制度が実施され、高齢者の生活の国家的保障制度が確立した。 同35年(1960)、老人クラブの設置に補助制度ができた。 同38年(1963)の「老人福祉法」の制定によって高齢者対策は一層強化され、9月15日を「老人の日」とした。 同41年(1966)には「老人福祉法」が改正され、「敬老の日」として祝日になった。
 昭和50年(1975)の国勢調査では、上湧別における60歳以上の高齢者は1194人で、全人口に占める割合は14.3%であった。 この比率は年々上昇の一途をたどり、確実に高齢化社会へ進んでいる。 同49年(1974)の実態調査では独居老人13人(65歳以上)、寝たきり老人21人(70歳以上)となっていた。
 町は昭和44年(1969)から老人家庭奉仕員(ホームヘルパー)を配置、65歳以上で日常生活が困難な独居老人を対象に訪問し、身の回りの一切の世話をしながら相談を受けたりしている。 最初1人であったヘルパーは同50年から2人に増員、1集、2回程度の訪問奉仕を行っている。
 老人医療関係では、70歳以上の高齢者を対象に町が昭和47年(1972)1月から個人負担分を町費で助成する制度を創設した。 同48年(1973)の「福祉法」の改正で国、道費補助が設けられ、町費負担は6分の1に軽減された。
 上湧別町に初めて老人クラブが結成されたのは、昭和38年である。 中湧別、上湧別両クラブがまず産声を上げた。 その後、各地域に続々設立された。 このため町は同45年(1970)に「老人クラブ設置及び運営費に関する補助要網」を制定して老人クラブの育成に努めている。 上湧別町老人クラブ連合会は同47年3月8日に結成され、初代会長には遠藤清治が就任した。 同53年(1978)4月1日には15クラブが加盟、859人の会員を数えている。 高齢者の社会教育の場として、同48年から高齢者学級(寿学級)も開設されている。
 高齢者の福祉施設としては上湧別町特別養護老人ホーム湧愛園と老人憩いの家がある。 湧愛園は、昭和54年(1979)4月、屯田市街地の元厚生病院跡で開園した。 65歳以上で常時介護が必要でありながら、自宅で介護を受けることが困難な人を収容している。 老人憩いの家は、高齢者専用の集会所として同53年1月5日、中湧別中町で開設した。


身体障害者福祉  「児童福祉法」(昭和22年)、「身体障害者福祉法」(同25年)により、子供から大人まで身体障害者を対象に、保護と更生援助が実施されるようになった。 上湧別町で身体障害者手帳の交付を受けている人は、昭和46年(1971)で211人dふぇあった。 症状により1級から6級まで分けられ、このうち1,2級の重度障害者に特別援助が与えられている。

国民年金  
 昭和34年(1959)、「国民年金法」が制定され、翌35年(1960)から制度の中心である拠出制年金の受付が開始された。 これにより同36年(1961)4月から国民皆保険の基礎が確立した。 国民年金の内訳は老齢年金、障害年金、母子年金、遺児年金、寡婦年金などで、上湧別町の同50年(1975)度における加入者は2729人であった。

公営住宅  上湧別では昭和27年(1952)度の中湧別団地5棟10戸を手始めとして、同52年(1977)度までに7住宅団地で1種124戸、2種143戸の合計267戸を建築し、町民に提供している。 特に同46年(1971)度には町の長期10ヶ年計画を策定、その重要な柱の一つとして住宅建築の促進を掲げ、公営住宅100戸の建設を目標としたが、この目標を上回る実績を記録した。
 また、上湧別土地開発公社によって宅地分譲計画を立て、昭和49,同52(1974,1977)の両年に中湧別南町と五の一に33戸分、屯田市街地に8戸分の宅地を造成、一般勤労者に分譲したほか、五の一に商工従業員を対象に19戸分の宅地を分譲した。
 
目次  第二節  保健衛生 
    (1)開拓期
病院の始まり 湧別村最初の開業医師は、明治28年(1895)に4号線に来住した高橋謙造である。 上湧別の湧別兵村においては、中隊本部に派遣された2人の軍医によって診療業務が行われた。 兵員はもちろん、家族も無料で診療を受けることができた。 軍医は、第四中隊が島田五十三郎、第五中隊が江島謙造であった。 軍医の指導の下、一般の環境衛生についても厳しく目配りされた。
 明治36年(1903)3月、湧別兵村の現役解除に伴い、派遣軍医は師団に引き揚げた。 これに備えて両中隊聯合諮問会は、看護卒の庄田満里を東京慈恵医学院に派遣、医師養成を行っていた。 それが間に合わなかったので同年5月に医師、青木伊勢松が来住し、兵村内で北湧医院を開いた。 庄田は同39年(1906)8月に帰郷、村医の発令を受けて青きと一緒に地域を分担し、診療に当たった。
 当時、医師とともに住民から頼りにされたのが産馬さんである。 免許がなくても、経験豊かな母親たちがその役割を担った。 明治35年(1902)、同36年ごろの屯田兵村では、田村ハンらが活躍していた。


衛生組合  湧別村衛生組合(高橋謙造組合長)は、明治37年(1904)に設立され、伝染病予防などの衛生業務に着手したが、実効は挙がらなかった。 同40年(1907)、兼重村長が組合規約を改正し、業務を軌道に乗せた。 同43年(1910)に分村した上湧別に衛生組合が誕生したのは翌44年(1911)で、消毒、清掃検査、衛生士走の普及などの活動をした。 大正8年(1919)の遠軽分村以降は、各集落単位に組合が設けられた。


(2)大正時代
医療施設  鉄道開通による人口増に伴い大正2年(1913)、中湧別市街に赤坂医院(大正12年東京へ転出)が開業、次いで北湧医院は同5年(1916)に15号線から屯田市街地北端に移った。 この年、中湧別には上湧別初の歯科医、小島賢也(同11年遠軽へ転出)が開業している。
 懸案だった伝染病予防の隔離病舎は大正6年(1917)3月、ようやく17号線東山麓に落成した。 このころは伝染病の発生が多く、その前年の同5年に腸チフス28件、ジフテリア10件が報告されている。


免許産婆  兵村で初めて正式な免許を持って開業した産婆さんは、井手クニである。 井手は明治42年(1909)ごろから、看護婦兼務で産婆業務を行った。 大正時代に入って南兵村一区の野口セイが資格を取り遠軽で開業、また同4年(1915)に新野尾テキ、同11年(1922)に渡辺みねがそれぞれ中湧別で仕事を始めている。

(3)昭和時代(戦前)
病院の開業  鉄道開通で地の利を得た中湧別で、まず一戸守義が医院を開業した。 昭和11年(1936)11月には子息の秀麿が引き継いだ。 同13年(1938)に広瀬永子も開院している。 歯科医院も同9年(1934)に滝賢卓、石房芳、同12年(1937)に佐々木三知夫が開業した。 医療空白地帯だった富美地区にも診療所ができ、医療体制はぐんと充実した。

久美愛病院の開院  昭和14年(1939)9月、住民待望の総合病院として開院した久美愛病院は、上湧別厚生病院の前身である。紋別郡下14町村の産業組合を一つにまとめた保証責任北紋医療利用組合(会長・熊沢助三郎上湧別村産業組合長)が強力な設置運動を展開した結果、実現した。 上湧別の市街地に建てられた病院は木造モルタル、セメント瓦葺き2階建て、延べ約1600平方㍍で内科、小児科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科を備えた。 顧問には開院に功労のあった内科の庄田満里、院長には外科、産婦人科の曽我耕作がそれぞれ就任した。
 病院は北紋医連久美愛病院として35床で開院したが、すぐ53床に増やした。 昭和17年(1942)3月に遠軽分院、翌18年(1943)10月に上渚滑診療所をそれぞれ開院開所した。 その後、両施設は同19年(1944)3月に厚生病院として独立した。


保健衛生の動き  伝染病隔離病舎は、久美愛病院の開院によって、同病院に委託して運営された。各集落ごとに設立されていた衛生組合は、その後、聯合衛生組合を結成して連携を強めていたが、戦時色の強まりとともに活動が停滞、戦後は事前解散となった。
 産婆さんは助産婦学校出身の若い人の進出が目立ち、昭和3年(1928)から同14年(1939)までに6人が相次いで開業している。 薬局も増え十字堂、タマキ、中尾、サカイなどが三昭和を開いた。


(4)昭和時代(戦後)
医療機関  久美愛病院は昭和22年(1947)2月、火災で本館の大半を消失したが、翌23年(1948)2月に再建した。経営主体は当初の北紋医連から北聯、北海道農業会を経て、同年8月に北海道厚生農業協同組合連合会へと変わり、名称も上湧別厚生病院と改めた。 その後、結核病棟、精神病棟などの新増築を重ねたが、患者の利用増が見込める中湧別電報電話局裏への移転が決まった。 新病院は鉄筋コンクリート一部ブロック2階建て、延べ1999平方㍍で76床の規模で、最新の医療機器を導入し、昭和52年(1977)10月11日から診療を開始した。
 昭和27年(1952)閉院した広瀬病院を上湧別村が買収し、村営の国保中湧別診療所を運営した。 同38年(1963)、上湧別町は産業会館横に同診療所を新築、厚生病院を退職した曽我耕作が所長となった。
 伝染病隔離病棟は老巧化が著しく、昭和22年(1947)に久美愛病院北側に移転新築したが同38年には上湧別町から離れ、遠軽町に再移転した。
 昭和50年(1975)の医療機関は、病院が上湧別厚生病院の1ヶ所、一般診療所が国保中湧別診療所と一戸医院の2ヶ所、歯科は佐々木歯科医院、中湧別歯科診療所、上湧別歯科診療所の3ヶ所である。助産所は同49年を最後に、完全に姿を消した。


保健行政  昭和16年(1941)、「保健所法」が制定され、翌17年(1942)遠軽保健所が設置された。 警察が管理、担当地域は常呂、紋別両郡にまたがった。 同19年(1944)、北海道庁は、道庁健康保険相談所や簡易保険相談所などの官公営保健指導施設をすべて保健所に統合した。 戦後、同22年(1947~、「保健所法」が全面的に改正され、それまでの警察行政の一環として行われてきた衛生行政が、その本来あるべき姿をとり、保健所は公衆衛生の第一線期間として新しい業務を開始した。 その後、同28年(1953)には紋別保健所が開設されたので、遠軽保健所の管轄は上湧別町を含む7町村と狭くなった。

保健婦の配置  昭和35年(1960)4月、網走支庁開拓保健婦として高崎三枝が上湧別町に着任、保健指導活動を行った。 同37年(1962)4月には町と厚生病院の委嘱で1人増員、2人体制となった。

食品衛生協会  昭和23年(1948)11月、食中毒事件を未然に防ごうと、遠軽保健所管内の食品取扱業者によって、遠軽地方食品衛生協会が結成された。 その下部組織として同27年(1952)10月に上湧別支部が発足した。 同34年(1959)には関係業者が増えたので2支部に分割し、上湧別、中湧別両支部ができた。

献 血  外科手術に欠かせない保存血液を確保するために、(社)日本赤十字社の医療事業として献血推進が図られている。 上湧別町では。昭和44年(1969)から献血推進協議会を結成して協力している。 同50年(1975)の上湧別町の献血車は、目標の520人に対し640人であった。

母子衛生  「児童福祉法」(昭和22年)、「母子福祉法」(同39年)、「母子保健法」(同40年)に続いて、昭和41年(1966)に「母子健康法」ができた。 これにより母子の福祉、健康対策は前進した。 上湧別町では、同31年(1956)から乳幼児の健康優良表彰(同49年中止)、同50年(1975)から、よい歯の子どもコンクールを実施したほか、同37年(1962)に遠軽地方他町村に先がけて母子健康センターを建設し、妊産婦や乳幼児の保健指導、家族計画指導、一般母子衛生指導や各種サービスを開始した。 保健婦、助産婦も配置されていたが、助産部門は同50年に廃止されている。

成人病予防  食生活が向上し、社会の高齢化が進むに従い、成人病予防対策が健康で明るいまちの建設にとって、重要な課題となってきた。 成人病の脳卒中、心臓病、癌はかっての結核などと代わって死亡原因の上位を占めるようになった。 昭和43年(1968)度の統計では、上湧別町内で亡くなった75人のうち脳卒中18人、心臓病12人、癌6人で合計36人(48.0%)を占めた。 50歳以上の人の死亡は癌、脳卒中、心臓病が1~3位にランクされた。 こうした実態を踏まえ、上湧別町は同39年(1964)から北海道ガン協会の協力を得て癌の集団検診を始め、35歳以上の町民に受診を呼びかけている。
 遠軽保健所が昭和52年(1977)度にまとめた循環器疾患等健康診断実施状況によると、上湧別町では427人の受診者に対して19.4%に当たる83人から血圧、腎機能、糖尿、肝機能などの異常が発見された。


結核予防  戦前から青壮年の罹患率、死亡率が高かった結核にストップをかけるため、昭和31年(1956)に「結核予防法」が改正されて、その撲滅に本格的な努力が払われるようになった。 上湧別ではこれに先立ち、同24年(1949)に結核撲滅対策委員会を設置して結核予防に努めた。 それが認められて同26年(1951)には、道から結核予防モデル地区に指定された。 翌27年(1952)には北見、美幌に次ぐ管内3番目の結核療養所(50床)が上湧別厚生病院敷地内に開設された。
 上湧別町内の結核患者は昭和39年(1964)度に151人であったが、どう2年(1977)度には77人に減った。 遠軽保健所管内の結核患者死亡率は同44年(1969)度をピークに下がり、同49年(1974)度には19.4人(人口10万人辺り)まで減少した。 しかし、全国の10.4人、全道の10.8人よりかなり高く、しかも結核の有病率、羅漢立とも北海道内で最も高いといわれた。


特定疾患  戦後の激しい生活環境の変化などによって、原因不明の病気(一般に「難病」という。)が数多く発生するようになった。 遠軽保健所管内における昭和52年(1977)度の難病患者は、26人登録されている。 このうち上湧別町内ではスモン病、難治性肝炎、側索硬化症、ビュルガー病各1人、重症筋無力症、ベーチェット病各2人の計8人が確認されていた。

(5)国民健康保険
戦 前  「国民健康保険法」は、昭和13年(1938)に公布され、同17年(1942)に改正された。 これは任意加入の制度であった。 上湧別村では同15年(1940)に農民を対象に国民健康保険事業代行組合が設立され、保険料を徴収し、5割給付を行った。 初代組合長は熊沢助三郎であった。

戦 後  昭和23年(1948)6月、「国民健康保険法」の第三次改正が行われた。 健康保険事業は、原則として市町村が担当することになった。 このため保健事業代行組合を解散、上湧別村が政府管掌、公務員共済の加入者を除く全村民を対象に、国民健康保険事業を開始した。
 昭和33年(1958)12月、「国民健康保険法」が全面改正され、国民皆保健の制度が確立した。 これに基づき上湧別町は同34年(1959)4月、「上湧別町国民健康保険条例」を制定した。 5割であった保険料は、同38年(1963)12月から世帯主が7割になり、同40年(1965)1月からは家族についても7割に引き上げられた。


(6)環境衛生
公衆浴場  大正12年(1923)、屯田戸主であった田岡平次郎が中湧別北区に宝湯を開業した。 これが、上湧別における公衆浴場の第一号である。 大正の末には、服部外吉が中湧別駅前に旅館業兼業で梅の湯を開業したが、昭和9年(1934)の中湧別大火で焼失、そのまま廃業した。 この年、田中辰吉が中湧別駅近くに千代の湯を開いた。 しかし、同46年(1971)に老齢のため小野正夫に経営を譲った。
 千代の湯は市街唯一の公衆浴場として戦前戦後にわたって長い間営業を続けた。 昭和30年代(1955~)から一般家庭の風呂が増え、公衆浴場の利用者が急減したため、道費や町費の補助制度ができた。 同50年(1975)には65歳以上の高齢者の入浴料を町が肩代わりし、無料とした。 それとともに、千代の湯の内部改装費も補助した。 屯田市街地では同3年(1928)、出口市が上湧別役場横で開業したが、経営不振のため3年後に廃業している。


屎尿処理場  生活環境の美化、保全のため、屎尿の化学処理を求める声が高まった。 昭和40年(1965)に上湧別町、湧別町、遠軽町、佐呂間町、生田原町、白滝村、丸瀬布町の7か町村共同出資で遠軽地区衛生事業組合が設立された。 最新の機械設備を備え、1日45㍑(4万5000人分)の処理能力を持つ遠軽地区衛生センター学田処理場は、同42年(1967)9月、遠軽町学田で奔走業に入った。
 しかし、やがて季節によって投入量が処理能力を超えるようになった。 第二工場として上湧別町南兵村一区に南兵村処理場を建設、昭和50年(1975)4月から本操業を開始した。 こちらは1日55㌔㍑の処理能力を有していた。 両施設合わせると1日100㌔㍑の処理が可能となり、余裕ある屎尿処理体制が確立した。


ごみ処理  昭和35年(1960)ごろから国民経済は大量生産、大量消費の時代に入った。生活の向上とも相まって一般家庭や企業からでるごみ、産業廃棄物の量も急激に増大、”ごみ戦争”という言葉が生まれる社会現象までになった。 上湧別町では同37年(1962)から週2回、収集車を巡回させて一般家庭のごみを集め、町有地の山林や低地に投棄処理を行った。 しかし、捨て場確保にも限界があり、鳥獣による公害も発生して抜本的対策が迫られるようになった。 遠軽地区7町村では広域行政の問題として、ぎみ処理施設建設について話し合ったが、同50年(1975)時点で結論が出ていない。
 町は直営の収集運搬車(2㌧ダンプ)により、不燃性ごみに限り収集している。 焼却できるものは事故処理をげんそくとして、各家庭が購入するごみ焼却炉については、購入に当たって町が2分の1の補助を行っている。
 昭和37年8月、中湧別市街と屯田市街地が北海道の特別清掃地域に、さらに、同44年(1969)には屯田市街地が北海道の生活環境浄化実践モデル地区にそれぞれ指定され、「住まいの清掃美化運動」「ゴミと紙屑のない待ちづくり運動」を展開した。 同49年(1974)には待ちが「上湧別町廃棄物の処理及び清掃に関する条例」を制定、ごみの専用車を購入して、処理体制を強化した。


墓地・火葬場  屯田兵村では、給与地に墓地が区画されていた。 その後、屯田兵7年(1918)に南兵村(屯田市街地)、北兵村(北兵村一区)の墓地は共同墓地として許可された。 これにより2年前の同5年(1916)に開盛、昭和14年(1939)に上富美、同31年(1956)に富美に共同墓地が設置された。 それぞれが、霊園を形成している。 墓地に隣接して、上湧別と富美の両火葬場が設けられていた。

(7)水 道  
ポンプ給水  開拓当初は、飲料水をはじめ生活用水は川水を使ったが、間もなく井戸が掘られた。 兵村では6戸に1戸の割合で、共同井戸が官給されていた。 中湧別を中心に、吸い上げポンプが普及し出したのは、屯田兵9年(1920)ごろからである。 その後、ポンプも改良され、昭和30年(1955)ごろからは、家庭用小型電力ポンプを利用した自家水道が急速に普及した。

広域簡易水道  市街地の発展に伴い、生活雑排水が地下水汚染を招くようになった。 昭和40年(1965)には南兵村二区で澱粉工場の廃液が地下浸透し、屯田市街地一帯の井戸水が汚染されるという問題が発生した。 そのうえ湧別川の水位低下が目立ち、雨不足の時は防火用水も得られないという事態を招いた。
 このため昭和43年(1968)、屯田市街地裏手の東山中腹に広域簡易水道の浄水場を設置、中土場川上流から取水、屯田市街地、中湧別市街に給水した。 また渇水期に備え、17号線山手で地下水をポンプで汲み上げる第二取水施設(給水ポンプ場)を設けた。 最大給水人口は6200人、最大吸水量は1日930立方㍍である。


五鹿山水道組合  中湧別東町高台地区では、昭和40年(1965)ごろから地下水の水位が下がり、農家の水不足が深刻化した。 同46年(1971)秋、地域住民で五鹿山水道組合(高柳友五郎組合長12戸)を結成した。 五鹿山道路東一条付近に揚水ポンプ室を建設、各戸に配水管を敷設して同47年(1972)1月医10日から給水した。 400万円の工事費のうち、50%は町が補助した。

営農用水道  農村地域住民から水道敷設の強い要望を受けて、待ちは昭和46年(1971)に水道敷設の実施計画をまとめた。 国営・道営の農業基盤事業により旭(24戸、昭和48年通水)、富美・札富美(44戸、同53年通水)の両地区が完成、このあと開盛、北兵村三区高台、南兵村地区が完成した。

(8)公害防止  
公害問題の発生  北海道内でも産業廃棄物や農薬による水質汚染が、社会問題になってきた。 北海道は昭和45年(1970)4月に「北海道公害防止条例」を施行、翌46年(1971)10月にこれを全部改正して公害行政を推進した。
 
上湧別町における公害  昭和40年(1965)以降、公害、あるいは公害に類するようなものに関連して、何らかの苦情が発生するようになった。 同年、澱粉工場の廃液による地下水汚染が騒がれたのをはじめ、屎尿処理上の悪臭(昭和43年)、木工場と布団工場の粉塵(同46年)、木工場の騒音(同49年)などの公害苦情が寄せられたが、調査に基づいて発生源側と苦情住民との話し合いを指導、協定集結で問題解決を図った場合もあった。  
第八章  公安と防災 
  第一節  警 察 
    (1)戦 前  
開拓期の体制  北見地方に初めて警察機関が設けられたのは、明治15年(1882)12月で、根室警察署の分署が斜里、常呂、紋別に設置された。 行政・警察一体化の北海道庁方針により郡役所、戸長役場のあったところに併置されたものである。 湧別巡査派出所は同25年(1892)に設置され、同34年(1901)8月に分署に昇格した。 湧別村から分村した上湧別村には同43年(1910)6月、屯田巡査駐在所が設置された。 最初のころは仮庁舎で、場所を再三移動した。 屯田市街地番東35号にやっと落ち着いたのは、屯田兵3年(1914)のことである。
 次いで大正3年に開盛巡査駐在所、同7年(1918)に中湧別巡査駐在所がそれぞれ開設された。 臨時的措置であった開盛巡査駐在所は、3年後に廃止となった。 人口急増地区の中湧別は、昭和7年(1932)に巡査部長派出所に昇格した。


犯罪と警察の職務  明治、大正期における犯罪は、花札賭博が最も多かった。 次に鮭の密漁、窃盗が続き、強盗や殺人などの凶悪犯罪は比較的少なかった。
 明治から昭和20年(1945)の終戦までの警察は、犯罪捜査のほか高等警察(政党、結社の取締り)、特別高等(思想の取締り)、外事(海外旅行、外国人の取締り)、保安、建築工事、衛生、健康保険など広範な職務を持っていた。 このため警察官吏の権限は、極めて強かった。


(2)戦 後  
警察制度の変革  昭和23年(1948)1月、「日本国憲法」の下で警察制度も大きく変化、各市町村の規模により自治体警察や国家地方警察が設置され、2本立ての体制になった。 上湧別村は、遠軽町に設置された国家地方警察の管轄下に置かれた。 「警察法」が改正、公布され、現在の体制が確立したのは同29年(1954)になってからである。 自治体警察は廃止され、北海道警察本部は札幌市、北見方面本部は見た魅しにそれぞれ置かれ、警察署は遠軽町に配置された。 上湧別町は、遠軽署の管轄下に入った。 屯田市街地の巡査駐在所は同35年(1960)、上湧別巡査部長派出所に昇格した。 これで中湧別と合わせ、2ついの巡査部長派出所がそろった。
 昭和28年(1953)地域住民の自主的防犯組織として、遠軽地区防犯協会上湧別町支部が結成された。 啓発運動をはじめ防犯連絡所の設置、街頭補導、防犯診断の実施などの活動を行った。 司法関係の公職としては、町民の中から人権擁護委員、調停委員、保護司が委嘱されている。
 司法機関としては、釧路地方法務局上湧別出張所が中湧別に開設された。 不動産、会社、組合などの法人登記、船舶、農業用動産、抵当などの登記事務を行っていたが、昭和52年(1977)12月に同局の事務合理化により廃止され、一切のじむは、遠軽出張所に移管された。 上湧別出張所は大正7年(1918)7月、屯田市街地で開庁した網走地区裁判所上湧別出張所が前身であった。

交通事故と防止対策  


交通災害共済制度  
  
  第二節  消 防 
    (1)消防のあゆみ
消防のはじまり  相次ぐ山火事や屯田兵屋の火災に備えるために、南兵村三区の住民が自衛的に立ち上がった。 明治40年(1907)5月、湧別原野で最初の私設消防組を結成したのである。 初代消防頭取は屯田兵の兄、前川永三郎であった。 この消防組が、初期消火などに成果を挙げたので、必要に応じて南兵村三区外にも出動するようになった。 このため同43年(1910)3月、公設に移管して中湧別消防組と改称した。 初代組頭に清水彦吉が就任した。 この年、上湧別村が湧別村から分村、さらに、上湧別消防組と改称された。
 屯田兵2年(1913)、北兵村一区の住民が腕用消防ポンプを購入し、公設消防組を設立した。 のちに、これを上湧別消防組に編入、2部制とした。 同8年(1919)の遠軽分村によって、それらの地区は独立し、残った上湧別消防組は、6部制に編成を替えた。
 屯田兵末期に、画期的な自動車消防ポンプが登場した。腕用消防ポンプに比べ格段に違う機動性と威力に、関係者は目を見張った。 村は昭和8年(1933)3月、6部制を廃止し、上湧別、中湧別の両市街地に独立した消防組を再編成した。 翌9年(1934)、両方に1台ずつ自動車ポンプを配置した。


私設火防団の設立  6部制は消滅したが、各集落には住民が寄付した腕用消防ポンプや消化機器、火の見櫓などがそのまま残された。 そのため各集落では6部制廃止と同時に、私設の火防団を設立した。 全部で7ヶ所であった。これにより先、大正12年(1923)に中湧別の一部商人によって中湧別第一火防組が結成されたが、4年ほどで解散した。 また、火防団は戦後しばらく続いたものの、相次ぐ離農などにより一部地区を除き、昭和41年(1966)以降に解散してしまった。 

戦時中の消防  戦時色が強まってきた昭和12年(1937~12月、各区長が主体となって上湧別村防護団が結成された。 灯火管制下の各種訓練の実施が任務であった。 やがて警防団令が公布されて上湧別村でも同14年(1939)2月、上湧別、中湧別両消防組と防護団が警防団に移行、各集落の火防団も警防団と改称された。
 警防団の職務は、太平洋戦争に突入して以来一段と範囲が拡大した。 消火活動を主体としながらも、国土防衛の陣頭指揮団として防空演習や灯火管制の指導のほか、警察の補助的警護など民生安定の第一線に立たされた。


戦後の消防改革  昭和22年(1947)に「消防団令」が制定され、同年「消防組織法」が公布された。 警防団は消防団と改称され、従来警察にあった指揮、監督、人事権の一切が市町村長に移された。 国家的役割を排除して、自治消防としての本来の姿を取り戻したことになる。 同年7月、「上湧別村消防団設置条例」が制定されて上湧別消防団が発足した。 その下に上湧別、中湧別、開盛の3分団が置かれた。 この分団は一時、3消防団の独立性に改編されたが、同32年(1957)に再び1団3分団に戻された。

消防力の強化  昭和30年(1955)ごろから、消防機器に対する国庫補助制度が充実強化された。 これにより消防の機械化、近代化が促進された。 上湧別では同27年(1952)にニッサン消防自動車を上湧別消防団、フォード4気筒消防車を中湧別消防団に廃車したのをはじめ、タンク車を中湧別消防団に配車(同30年)、上湧別消防団番屋落成(同32年)、上湧別消防団鉄骨望楼完成(同36年)、ニッサン125馬力消防車を上湧別消防団に配車(同38年)などの整備が図られた。

(2)遠軽地区消防組合  
広域消防体制の確立  交通、通信の発達や自動車の普及などにより、広域の社会生活圏が形成された。 そのことにより、総合的な市町村行政を推進する必要性が高まった。 特に防災、公害処理、防疫、医療、教育などの分野では、単一の市町村では解決できない問題も多かった。 昭和44年(1969)には、自治省から「広域市町村圏振興整備措置要綱」が出された。
 遠軽地区消防組合は、昭和46年(1971)10月、上湧別町、遠軽町、湧別町、丸瀬布町、白滝村、生田原町、佐呂間町の7町村によって設立され、消防力が一段と強化された。 本部は遠軽町大通南4(現、北三丁目)に置かれ、各町村に支署が配置された。 上湧別町には上湧別支署と上湧別消防団が設置され、消防分団は従来通り中湧別、屯田市街地、開盛の3ヶ所に置かれた。
 消防組合の管理者は遠軽町長で、昭和51年(1976)の消防職員は85人、消防団員は779人であった。 このうち上湧別は、支署職員が署長ら11人、団員137人。 消防力は、支署と消防分団にポンプ車4台、小型動力ポンプ3台、水槽車2台、救急車1台のほか一般電話2台、消防専用電話2台、無線7台、召集サイレン3基を有し、消火栓18基、貯水槽8基、防火井戸143基を備えている。


消防訓練  分団別訓練とは別に消防組合でも毎年、各町村持ち回りで夏季連合消防演習を実施している。 全道規模でも毎年、全道消防双方訓練大会を開催している。 昭和50年(1975)8月の札幌大会には、上湧別町消防団が網走支庁管内代表として出場し、大会長の知事から竿頭綬を受けている。

救急活動  人命救助は、消防業務の最大の使命である。 自然災害に関連する救急出動は全体として減少傾向にある反面、交通事故、スポーツによる事故、労働災害、急患の搬送によるものが急増している。 遠軽地区消防組合の出動件数は昭和46年(1971)に88件であったが、同50年(1975)には512件と6倍近くにも増えている。
 救急車は昭和48年(1973)5月、建設会社渡辺組(渡辺正喜社長)が創立十五周年を記念して寄贈したもので、同48年型セドリックが上湧別支署に配車されている。 同年より上湧別支署の救急活動が開始されている。
  第三節  災害と防災 
    (1)災害の状況
農業災害   明治31年(1898)9月6日から2日間降り続いた豪雨で湧別川が氾濫し、湧別原野一体が水浸しとなった。 これで流域の農作物が壊滅状態となり、家屋の全半壊も続出、死者まで出た。 被災状況は、上湧別も例外ではなかった。 湧別川の洪水に伴う水害は同34年(1901)、同43年(1910)、同44年(1911)、大正2年(1933)、同11年(1936)と相次いで記録され、はたけを中心に多かれ少なかれ被害が出た。
 冷害凶作は数多いが、開拓者にとって最初の大きな受難は明治35年(1902)の大冷害だった。 春以降の低温が作物の生育不良を招き稲作、畑作とも被害が北海道全域に広がった。 その後も同44年、大正2年、同7年(1918)、昭和元年(1926)、同6年(1931)、同7年(1932)、同9年(1934)、同10年(1935)、同15年(1940)、同16年(1941)、同20年(1945)、同28年(1953)、同31年(1956)、同46年(1971)と冷害凶作が絶え間なく襲いかかった。 この中でも大正2年、昭和31年の大凶作の被害が大きかった。
 上湧別町における昭和31年の被害は、水稲、小豆が収穫皆無、馬鈴薯、麦類なども5,6分作程度。 上湧別町農業協同組合の販売実績は、計画の55%を達成するのがやっとというありさまであった。 このため町は冷害対策協議会を設置、8月31日には上湧別小学校で冷害対策町民大会を開催し、緊急、恒久の対策を要望する決議を採択した。
 このほか昭和29年(1954)の台風15号による湧別リンゴの全滅被害、同43年(1968)の南兵村、開盛地区の降雹被害などが知られている。


水 害  湧別川が貫流し、その支流が多い上湧別においては、川の氾濫被害が多かった。 農作物以外の被害をみると、大正岩塩(1912)5月に堤防が約720㍍にわたって決壊したのをはじめ、同4年(1915)4月には堤防約90㍍が決壊、6ヶ所で橋梁が流失、同24年(1949)の富美橋流失、同24年(1949)の河岸決壊、堤防流失、同28年(1953)の富美橋流失、川西橋流失、同41年(1966)の橋梁5ヶ所流失など湧別川、中土場川、富美川、ヌッポコマナイ川で大小の被害を受けた。

火  災  木造柾ぶき屋根の家屋が市街地に密集し、消防力も不十分であった戦前は、いつも大火の危険にさらされていた。 これに対し終戦後は電気製品、石油関係器具、暖房器具などが普及したことにより、焼死者を出すことが多くなった。
 火災発生状況は、昭和46年(1971)8件、同47年(1972)5件、同48年(1973)7件、同49年(1974)6件、同50年(1975)5件と増減を繰り返しながら、全体的には減少傾向にある。 山火事も時々発生している。
 大火の最も古い記録としては、明治30年(1897)の徳弘農場の西方原野(現在の旭地区)における山火事で、白揚材2000石(約557平方㍍)を焼失したとあるから、被害は相当広範囲であったとみられている。 このあとの主な火災では屯田市街地大火(明治38年)北湧尋常高等小学校火災(同40年)、北兵村三区大火(同43年)、中湧別駅前大火(大正7年)、役場火災(昭和3年)、中湧別市街大火(同9年)、富美川支流の沢の大山火事(同19年)、久美愛病院火災(同22年)、中湧別大火(同22年)、上富美共栄の沢の山火事(同36年)などがある。
 開村以来の大火といわれた昭和9年(1934)4月3日夜の中湧別市街の大火は、商店32戸戸を含む60戸が焼失、害総額は19万8246円に上ったと記録されている。 同36年(1961)5月13日に発生した共栄の沢の山火事では、開拓者の住宅から出火、町有林130㌶、民有林21㌶を焼いた。 この時は、消防団員ら延べ360人が出動している。


(2)治 水  
治水事業の沿革  繰り返される大洪水被害に対応して北海道庁は、明治34年(1901)度を初年度とする北海道10年計画を策定した。 その柱の一つとして、治水事業に取り組むことになった。 一方、政府は同43年(1910)度から北海道第一期拓殖計画を発足させ、主要河川の応急的治水工事を行いつつ、重要26河川の基礎調査を実施した。
 昭和9年(1934)旧「河川法」(明治29年制定)の一部が改正され、北海道の河川にも初めて督励で全額国庫負担の工事が認められた。 戦後は同22年(1947)度から土地改良や開拓に密接な関連を持つ河川についても、全額国庫負担で改修工事ができるようになった。
 昭和25年(1950)に発足した北海道開発庁は、翌26年(1951)に出先機関の北海道開発局を設置した。 同局は北海道総合開発大一次5ヶ年計画を樹立し、重要河川の改修を積極的に行った。 同32年(1957)に策定した第二次5ヶ年計画でも、災害発生頻度の高い河川や未開発地帯で会ぁ北海道角根幹となる特殊河川を対象に改修とダム計画、砂防計画を推進した。
 昭和39年(1964)には新しい「河川法」が制定され、わが国の河川制度にとって大きな転機となった。 水系を一貫した全体計画にまとめ、それに基づいて国土の保全、開発のため治水、利水対策の広域的な体制を確立しようというものであった。 河川を水系別に1級、2級に区別し、管理費用の負担も1級は国、2級は都道府県に分けた。 改良工事については1級は国が3分の2、2級は国が2分の1を負担することになった。
 治水事業は、昭和51年(1976)度までに第四次まで計画された。 1級河川の湧別川とその水系の一次支流中土場川、ヌッポコマナイ川などの改修整備が進んだ。 しかし、二次、三次支流の普通河川については改修の手が入らず、原始河川のまま放置された。


湧別川の改修工事  湧別川の治水計画は、大正8年(1919)に初めて策定されたが、しばらくは応急的な護岸と小規模の堤防を施行したのにとどまった。 やっと着工したのは昭和9年(1934)であった。 上湧別17号線地先の延長134㍍の切り替え工事は同10年(1935)、河口から湧別橋までの延長2370㍍の切り替え工事は、同12年(1937)に完成通水した。 築堤工事は湧別左右岸社名淵逆水堤と遠軽左岸、護岸工事は2380㍍をそれぞれ施工、同21年(1946)に完成している。
 戦後は昭和27年(1952)に「北海道開発法」(昭和25年制定)に基づく第一次5ヶ年計画がスタートした。 湧別川川については、同32年(1957)に改修全体計画が策定され、工事が進められた。 同35年(1960)度において遠軽右岸、野上左右岸、富美の築堤を追加することが決まった。 同38年(1963)に改めて湧別川改修総体計画が樹立され、中流部の築堤工事を完了した。


中土場川改修工事と砂防ダム  開拓時代から何度となく氾濫被害を出した中土場川は、最初は普通河川として町が管理していた。 管理が道に移り、指定区間外区間に昇格したのは、昭和44年(1969)になってからであった。 その結果、翌45年(1970)に中土場川流域全体の改修計画が策定され、道46年(1971)に着工した。
 改修計画は、上流の南兵村21号線付近で山側の灌漑用水に沿って新水路を掘削し、北兵村11~12号線間で支流のヌッポコマナイ川に合流させる。 さらに、鉄道、国道を横断して既設の湧別川右岸築堤沿いに流下させ、8~9号線間で湧別川へ流入させるものであった。 堀削の延長は9433㍍、築堤は上流で35㍍、下流で70㍍となった。 また付帯工事として道路橋11ヶ所、鉄道橋1ヶ所、水路橋2ヶ所、排水工6ヶ所、道路470㍍、揚水機場2ヶ所などを設けることになっている。
 着工以来、3年間は、用地測量、下流地域の用地買収、家屋移転などの補償を行い、本工事には昭和49年(1974)から取りかかった。 改修工事の全体が完成するのは、この時点では同58,同59年(1983,1984)度の予定であった。 工事費は計画当初14億円と算定されたが、同53年(1978)度の計画見直し時には、その2倍近くかかるものと計算されている。

 この改修計画に併せて、上流の砂防工事も計画された。 上流から流下してくる土砂流を調整し、安全に本流まで導こうというものである。 ダム2基、購買を緩和させる固床を階段状に配置し、全川護岸による流路工を設ける計画。 流路工は630㍍、護岸工は3000㍍で、この計画の原点位置は国道から山側に1300㍍入った21号線の中土場川の沢付近である。
 工事は昭和47,同48年(1972,1973)度で流路工上流端のダム1基(堤高7.5㍍、堤長177㍍)を竣工し、同49年~同53年の間に流路工延長515㍍を完成させている。


(3)防災体制  
防災会議  昭和37年(1962)7月から施行された「災害対策基本法」に基づき、上湧別町は翌38年(1963)4月、「上湧別町防災会議条例」を制定し、地域防災計画を策定している。 災害発生の際には災害対策本部を役場内に置き、本部長に町長を充て、応急対策、救護などの各班を配置、官民の協力団体機関との連携体制を取っている。
 防災会議の会長は町長が務め、関係機関の職員などから委員を選んで町長が任命し、地域防災計画の策定、計画の推進、災害発生時の情報収集などに当たる。 委員の任期は、2年である。


火防組織  家屋が密集した市街地において、自営のための火災予防組合を結成、自主的な防火活動を展開した。 いつごろできたのかはっきりしないが、大正9年(1920)ごろには屯田市街地、中湧別市街などで夜警番を設けたりしていた。 同組合は最初、部落会組織の中で活動した。 昭和初期からは独立、毎月2回の煙突検査や毎日の火の用心夜警を行った。 戦時チュになると、再び町内会組織に復帰した。 中湧別市街では、戦後独立して中湧別火防組合を設立したものの、後に財政難のため自治会の火防部として運営されるようになった。
 農村地域で組織されていた火防団は、昭和50年(1975)時点では、富美、上富美、南兵村一区、同二区、同三区で存続していた。


(4)自衛隊  
戦前の徴兵制  明治に入って徴兵制度が採用され、日清戦争、日露戦争、日中戦争、そして太平洋戦争へと歴史がつながる。 外的には陸、海、空の軍隊が対応したが、明治31年(1898)、旭川に聯隊区司令部が設置される一方、北見などに「徴兵令」が適用された。 徴兵検査は、はじめ網走、その後、紋別で行われたが、同45年(1912)から上湧別でも検査場が設けられた。 大正11年(1922)、遠軽に徴兵署が設置され、毎春、遠軽小学校で壮丁検査(徴兵検査)が実施された。 これは、終戦まで続いた。

自衛隊の発足  昭和29年(1954)7月、自衛隊が発足した。 前身は同25年(1950)に新設された警察予備隊で、保安隊を経て自衛隊に切り替えられた。 同26年(1951)3月、隣の遠軽町に警察予備隊の北部方面隊第四聯隊第三大隊(約1000人)が配置された。 その後、機構や編成の変更があり、自衛隊遠軽駐屯地は第二師団の管轄になった。
 同駐屯地は遠軽町向遠軽に置かれている。 上湧別町でも自衛隊協力会を結成、自衛官の募集業務などに協力している。 これに対し、同駐屯地では上湧別町の道路改良工事、中学校グランド整地、援農、災害復旧などに出動している。 災害救助にも、要請に応じて出動できる体制を取っている。

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