拓魂八十年
農 業 ハッカ栽培 りんご栽培 甜菜栽培 玉葱栽培 水稲栽培 共進産業組合 農事実行組合 防除組合
産業 経済 |
農 業 | 農業の推移 | 屯田の開拓 明治30年5月29日入植した屯田兵は、6月初めから開墾に従事し、翌31年秋には、給与地の約4割を開墾したが、31年兵は9月に入植したので、実質には2ヶ年の遅れとなり、32年から本格的な開墾がはじまった。 開墾の苦労は言うまでもないことで、樹木を切倒し枝をはらって焼き、又原野では、生繁る熊笹、葦、茅、蓬などを焼き払い、唐鍬で一鍬一鍬木の根草の根を、たたき切って耕して行く仕事は、並大抵のことではない。 屯田兵は練兵や、本部勤務共同事業で練兵場を整地、区隊内の道路橋梁づくり作業に追れて、開墾作付の仕事は、父母や弟妹の仕事であった。 樋口日記によると、入植1週間目には作付けを始めている。 6月5日 芋植へ 7日 夏大根 種蒔 10日 唐黍 種蒔 15日 人参 種蒔 廿4日 アハ 種蒔 開拓初年は先づ、野菜、芋、唐黍、栗、稲黍などの食料作物が作られた。 10月卅日 初霜降り 雪ハ十一月廿1日ヨリ降リ、卅日頃積コト一尺有余 31年は雪解が早く、4月21日裸麦サヤエン豆を蒔付しているが翌4月22日雪降積ムコト5寸余りとあり。 6月15日 霜降り害アリ 9月 8日 大洪水 9月26日 霜降り この年は夏季の寒冷と、9月7日8日の大洪水、又早霜などで全道的な大凶作の年であった。 32年の春本格的な開拓に入り、中隊からは、優良な農作物の種子が配布された。 官給種子 麻種子 一斗 大麦 一斗 小麦 一斗 小豆 5升 馬鈴薯 4斗 蚕卵紙 4半紙 樋口の蒔付反別 明治32年 裸麦 5反半 6石6斗 偏豆(姉子豆)7畝 大麦 2反半 3石7斗5升 野菜 1反 小麦 2反 2石2斗5升 豌豆 3畝 栗 1反2畝 燕麦 2反 黍 4反5畝 玉蜀黍 3畝 大豆 1反 馬鈴薯 1反8畝 小豆 1反 合 計 2町3反8畝 以上12種類の作物の外に野菜の名は 夏大根、午ぼう、仙台蕪、赤蕪、胡瓜、玉葱、赤芋、南瓜、西瓜、瓜、人参、水菜、子持カイベツ、茄子、畠稲 この作付の中で特に注目されることは、畠稲即ち陸稲が試作されていることである。 明治32年7月30日調べ 成墾反別 第一給養班 35戸 総計 73町7反2畝 30年兵 43町4反7畝 18戸(1戸平均2町4反) 31年兵 30町1反5畝 17戸(1戸平均1町8反) 右の表から見ると、31年兵が、9月から翌年の7月末までの僅かな期間に、1戸平均1町8反歩の開墾をしており、これは驚くべき進度であった。 これは原野の多かった部落内に、馬耕が入ったもので、三品玉吉は『32年の春自分の馬1頭をつけて、3頭曳きで賃耕しをしてもらった』阿部四郎は『生島通太という馬耕請負人に来てもらい、1反歩2円位で賃耕をした』と話している。 馬は30年入植すると、間もなく購入する者があったが(樋口日記8月29日馬1頭買求)プラオは32年に入って、買入れ馬耕に使われだした。 32年6月30日調 (第一給養班 35戸) 納屋新築センモノ 36棟(1戸−1棟) 厩屋新築センモノ 9棟(4戸に1棟) 開墾成耕 33年秋に、5町歩の開墾成耕する者があったが、34年の春には、ぞくぞくと成耕する者が多く、皆起届を出している。 4月11日 皆起届 大泉富蔵 5月 2日 皆起届 阿部忠蔵 5月20日 国有未開地貸下願 井上繁治 6月 1日 国有未開地貸下願 中村平五郎、岡村小太郎、小野 豊、上家梅吉、三品玉吉 注 皆起届を出した者のみが出願出来る。 其の他公有財産地(兵村に支給された土地)の貸付願、福田仙次郎などが記されている。 34年7月31日 人畜物件表 第一給養班(35戸) 総反別 1.766反2畝 内開墾反別 1.555反1畝(成耕率 88%) 馬 39頭 注(1戸に1頭以上) プラオ 12台 3戸に1台 ハロー 9台 4戸に1台 馬 車 19台 2戸に1台 馬 鍬 4台 部落の半数の屯田兵の状況ではあるが、馬は全戸が飼育し、3分の1の農家が馬耕を行い、馬車は約6割が所有していた。 中隊の農事奨励と厳しい督励で、各区隊が競って開墾に励んだと云うが、34年の秋で成耕率約90%は、兵村中最も優秀な成績であった。 販売作物 開墾初めは食糧作物が、第一に作付けされたが、2町以上の開墾が進み、食糧が確保されるようになった33年から、販売作物の栽培がはじまった。 先づ第一にナタネが栽培され、明治33年の湧別村内、810町歩の作付反別のうち、ナタネが300町歩の作付となっている。 34年には、4.5中隊合同の湧別兵村共同販売組合を結成し、ナタネの共同販売を行った。 我が区隊の販売状況は (樋口日記) 九月十日調 予想数量 52戸 四八四石二斗 (注 反収約八斗〜一石) 十石以上申込者 石田周一、服部熊次郎、岡村小太郎、中村平五郎、河瀬弁次郎、原野秋蔵、 小野寺半右ェ門、中村俊頴、秦野又三郎、野田松次郎、遠藤清五郎、東海林作太郎、三品玉吉、 上家梅吉、阿部四郎 九月十九日 三百二十五石ト申込致シ置ケ共現在売人ヲ取調ベタルニ、三百九十五石五斗アリ、 内第一、百八十七石五斗 第二、弐百七石アリ 九月二十一日調 未ダ売却セザルモノ 合計 百参拾四石弐斗 樋口日記の内容では、不詳の点があるが、兵村販売組合を通した共同販売は 十一月六日 第一区共同販売総石数 四百拾四石五斗 区隊のみの共同販売を行い 第二回売却石数 (区隊ニ於テ) 一、総石数 壱百参拾六石弐斗 但シ湧別浜大益恒夫ニ売ル 合計 五四二石七斗z(注 五斗俵で1.085俵) 販売金額 約三、五00円(推定) 以上が我が部落での販売であった。 兵村解体後の農業 屯田兵現役時代34年頃から、薄荷の種根を買って作付る者が多くなり、35年は四中隊で6町4反となっており、その有利な作物から、36年には約60町歩となった。 我が部落でも、20町歩位の作付されたものと思われる。 ナタネに替わって薄荷の栽培が、以後販売作物として、昭和初年まで続けられた。 明治32年、はじめて相羽静太、樋口幸等がりんごの苗木を植え、40年頃から収穫が出来るようになると、部落内でも、多くの苗木を購入作付する者が増えた。 然し明治時代にはまだ販売は極めて少なかった。 大正時代の農業 薄荷栽培の黄金時代が、大正元年の、サミュエル会社へ、共同委託販売を境にして、仲買業者の買い叩きと、価格の低迷で、大正2年以後は苦難の道に転落した。 加えて大正2年は未曾有の大凶作で、食糧作物もろくに取れなかった。 第一次世界大戦で、豆類特に青豌豆や澱粉の価格が高騰して、一時は好景気に恵まれたが、戦后は一時に農産物の価格が下落して、農家の経済は苦境に立った。 我が部落では大正7年、三品玉吉、東海林作太郎が共同で澱粉工場を開始し、一般には青豌豆をはじめ、豆類の作付が多くなった。 りんごの作付は、大正5年に14町となり、上湧別のリンゴ栽培の約7割を占めた。 部落の重要な作物となり、大正11年3月、四ノ一果樹組合が結成された。 手押噴霧器3台を購入し共同使用し、病害虫防除に当った。 大正10年村農会の奨励で、甜菜の栽培がはじまり、11年には作付反別12町1反となり、大正12年2月、四ノ一甜菜耕作改良組合が結成され、その栽培改良にあたった。 この年、5月20日、共進産業組合が設立総会を開催し、組合員36名で設立決議を行い、道に設立申請を出し、9月21日設立認可を受けた。 大正時代は大凶作あり、大洪水(大正11年)あり、好景気あり、戦後の大不況と、めまぐるしい不安定な時代であった。 昭和の農業 昭和に入って玉葱の栽培が盛んになり、昭和3年玉葱組合を結成し、以後昭和12年頃まで、部落の重要な作物となった。 リンゴ栽培は、本町りんご栽培地の中心として発展し、昭和4年りんご同志会を結成し、剪定、肥培管理、病虫害の防除等の研修に励み、昭和8年上湧別苹果協会を設立し、遠藤清治会長等の良き指導で、部落の基幹作物となった。 昭和11年秋の陸軍大演習が、北海道札幌を中心に挙行され、天皇陛下の渡道に際し、天覧果物、並に御下贈品謹製の下命を受け、協会員協力して栽培謹製にあたり、無事大役を果した。 戦時中は軍用物資として活用され、戦後は菓子、果物の不足時代に、最も所得の多い作物として、税務署から注目され、好景気を迎えた。 昭和5年、湧別土功組合が設立され、灌漑溝の掘削工事に着手し、部落では昭和7年から造田水稲栽培がはじまった。 屯田開拓以来の念願がようやく実現し、自分の手で造った米が食べられるようになった。 部落の農事上画期的な水稲耕作は、15年頃には、約25町歩となり、昭和45年6年の減反政策で廃田するまで続いた。 昭和12年上湧別産業組合の南澱粉工場が開設され、澱粉原料の馬鈴薯の栽培が、玉葱に替って盛んになり、戦時中は主要な食糧又はアルコール原料として栽培された。 終戦後は食糧増産供出制度で、水稲に次ぐ主要な作物となったが、後澱粉価格の低下でマッシュポテト原料又は食用芋の栽培に変わり現在に至っている。 大正10年頃からはじまった甜菜、亜麻の栽培も、増減を繰り返しながら、戦時中は亜麻が軍用物資として増反された。 然し戦后衣料品が豊富に生産されだして、亜麻工場が操業停止となり、全く影を消した。 甜菜は寒地耐冷作物として、又甘味資源保護の奨励作物として、主要な地位を占めている。 昭和34年頃から農業の機械化が進み、動力耕転機の導入、小型トラック購入などで、農耕馬が次第に減少し、防除機の大型化、トラクターの導入などで、昭和48年頃には、総ての農作業が機械化して、全く畜力農業の形態が一変した。 昭和33年、秦野 馨がアスパラガスの苗を部落内で、はじめて植えた。 其の後36年に数名の者が、アスパラの苗を定植したが、リンゴ栽培などの制約で増反は進まず、町の積極的な奨励で、39年頃から次第に増反され、41年、ホクユウ食品KKの工場が操業し、価格の高騰から、最も有利な作物として部落内に定着今日は主要な作物である。 現在部落の農業は、アスパラガス、甜菜、馬鈴薯、りんごを主体とし、スイトコーン、南瓜などが栽培され、一部に47年頃から玉葱の栽培がはじめられ、ニンニク、わさびの栽培が行われている。 西山村有林の開拓 昭和2年より 今湧別川越しに西山を望むと、富美の牧場が広がり、白黒の乳牛が放され、豊かな牧歌風景を見ることが出来る。 この土地は、我が部落民が最初に開拓の鍬を下した処である。 当時分家や、移住者の耕作地の確保に、岡村小太郎、秦野兼松等有志が、湧別川越しに目の前にある村有林(学校基本財産)の、開墾払下運動を起した。 昭和2年12名の出願で、開墾の許可を得た。 出願者 遠藤清治、阿部岩治、秦野兼松、野田政治、菊地善八 幕田善八、渡辺栄治、伊藤寅彦、岡村小太郎、秦野甚吉 川野忠嘉、今野吉五郎 湧別川は前年の大正15年11月、開盛橋(28号)が落成し渡船が廃止となったので、その渡し舟の払下を受け、23号線と24号との中間に、ワイヤー張った渡船場を設けて利用した。 この村有地は湧別河畔で、急な崖となっているので、斜に道を掘削して台地に登った。 その年5月より、阿部、渡辺、秦野甚吉、菊地等が開墾に着手、野焼きの火が広がって、思いがけぬ人の分まで焼き払い、大慌てする事もあった。 菊地はプラオで1町歩ほど開墾し、薄荷を植えた。 こうして交通不便を克服し、開墾に努めたが、皆んなの足並みがそれわず、開拓が進まなかった。 この土地が、学校基本財産地であることから、一部村会議員から横槍が入り、昭和5年解約となり、開拓が中止された。 現在の牧場は、戦后引揚者緊急入植、岡村徳蔵、大島久吉等が開拓した跡地である。 |
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戻る | 薄荷栽培 | 部落の薄荷 薄荷が部落に栽培されたのは、明治34年で、湧別殖民地や学田の山形県人から、薄荷の種根を求めて、植えたのがはじまりである。 三品玉吉は、東殖民地の植松吉助から、小島善助は佐藤善蔵から分けてもらったと云う。 36年頃には有利な換金作物として、部落一般に普及し、重要な作物となった。 明治44年10月14日、湧別原野開発に最も主要な作物として貢献した。 薄荷の記念祭が、上湧別神社境内で盛大に挙行された。 この時栽培熱心者として、当部落で右の者が表彰された。 阿部熊次郎、阿部四郎、東海林作太郎、中村幸吉、小野寺半右ェ門、熊勢 正、樋口幸吉、福田仙次郎、中橋兵次郎、福田甚吉、三品玉吉、川瀬弁次郎、野田芳松 当時の販売作物は薄荷で、大正元年販売作物の総金額、約24万円の内、薄荷取卸油の販売額は、22万5千円で93.7%を占め、薄荷一色の状況であった。 サミュエル事件 薄荷の売買は大手輸出業者が、価格を操作し生産地の仲買人を駆使して、買集め、暴利をほしいままにしていた。 当時道内敏腕三村長と云われた、上湧別村長兼重浦次郎は、村農会長を兼任しており、農家経済向上のため、薄荷取卸油の共同販売を提唱し、道農会をはじめ、道会議員田口源太郎(雄武町)前田駒次(野付牛)等の協力を得て、湧別、野付牛、紋別、永山、士別を含め、全道の薄荷を取纏め、道庁や道出身代議士木下成太郎を通して、サミュエル商会と、精製販売委託契約を行った。 特に大正元年11月30日であった。 ところがこの秘密協定が、他業者の探知する処となって、12月1日には、各社が一斉に買出動し、わずか3日間に1組9円から、15円35銭まで、価格をぶちあげてしまった。 当時の価格は7円80銭で、共販価格は9円の協定であった。 この共販体制をぶちつぶせと云う、他業者の買あふりで、農民は大混乱し、業者に高値で売渡す者が続出した。 三品玉吉は、「一区二区も大変な騒ぎで、13円15円で抜け売りする者が出て、せっかく取りまとめていた契約も、半分の数量も集らない。 河瀬や私が世話をしていたので、同志会、村農会の人々や警察署長からも、契約を違反すると、大変なことになるとせめられるし、品物は商人の手に渡っているので、どうにもならない。 五ノ三の渡辺 寛さんの処に行って、事情を話した処、よしわかったと、鈴木に契約していたハッカを、相場よりいくらか安値で、2駄(4百斤)を譲ってくれました。 その時お金を持っていなかったが、手金などいらない、すぐ持って行けと言う。 おかげで部落の契約に近い数量が出荷できました。 それでもサミュエルとの差額が大きかったので、責任を持った私達は大分損をしました。」と話している。 これが有名なサミュエル事件の発端である。 この共同販売に尽力した三品玉吉、小野 豊、中村幸吉、野田政治等は、サミュエル商会の訴訟で大正5年、土地仮差押が執行されるなど、この部落でも大きな事件であった。 大正6.7年頃は豆景気となり、10年頃から亜麻、甜菜などの特用作物が増加して、薄荷の栽培が減少しているが、部落内ではまだ重要な作物であった。 その後昭和に入って、玉葱の栽培が増加しりんごの栽培ものびたが、薄荷はサビ病の発生があって、次第に減少して行った。 歩等勲御薄荷栽培反別の推移は、不明であるが、昭和3年度のハッカ検査の結果は、次の通りである。 昭和3年ハッカ検査 67罐 出荷戸数 40戸 4罐 遠藤清五郎、安部川銀助、長倉鶴次郎 3罐 吉村友弥、竹内治郎、山崎佐太郎、三品太七 2罐 渡辺善三郎、工藤留三、三品玉吉、水野直次郎、渡辺熊次郎、伊藤寅彦、山本三之助 中村巳之八、稲垣音松、岡村小太郎 1罐 阿部岩治、東海林作太郎、市村音次郎、田島八郎、松野和蔵、菊地善八、平間吉五郎 穴田助太郎、服部平八、安本庄蔵、石田清美、鳥井 始、佐藤寿喜、竹内連勝、平手宮次郎 小関文四郎、岡村金太郎、樋口耕平、野田政治、樋口幸吉、阿部他人田、工藤与平治、岡村金作 注(1罐14組入り) 昭和7年より、水田の耕作がはじまり、サビ病などの激発で、ごく一部の者が耕作するだけとなった。 薄荷油の製造は最初、天水釜が使われ、明治末期には、蛇管冷却式の桶、又はサイロが使われた。 薄荷蒸留機はたいてい、2.3戸の共同でハッカ小屋の中に設置した。 収穫時期の9月下旬頃には、薄荷を刈取り、架木を何段にも組み、架掛けを夜遅くまで行い、部落中長いハッカ架にかこまれたものである。 大正に入ると各戸で、ハッカ乾燥小屋を建て、刈り取った薄荷草を縄で連に編んで、小屋中につるし乾燥した。 充分乾燥するといよいよ製造にかかる。 部落中がハッカの香に包まれて、夕暗の空に白い蒸気がただよう風景は、懐しい思出である。 製造小屋の設置は 阿部四郎、三品玉吉、安部川銀助、工藤留三、穴田助太郎、水野直次郎、山崎佐太郎 岡村小太郎、小関文四郎、遠藤清五郎、小野 豊、渡辺善三郎、チソ釜三品太七 昭和20年、航空機の燃料として、松葉油の採取が部落に割当られ、三品太七の薄荷製造釜で、実行組合員が総出で行われた。 終戦后薄荷の品種改良が進み、反収が倍加されるようになって、部落内でも耕作する人が増えたが、その時期には部落内に蒸溜設備がなくなり、開盛や南兵村二区に設備された。 農協の製造工場まで運搬するなど不便が重なり、昭和40年頃には全く栽培するものがなくなった。 |
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戻る | リンゴ栽培 | 屯田時代 我が部落の農業史の上から、リンゴの栽培は、実に80年に渉る重要な作物であり、部落の消長を物語る、尺度にもなる作物である。 明治31年の春、高地県人中村半次郎が、札幌方面より国光の苗木若干を入手し、南兵村二区の大川徳蔵、三区の野田寅喜等数名に転売、植付けされたのが湧別リンゴの始めである。 翌32年、屯田市街の高橋定治、高橋留五郎の両人が、早生種紅魁、晩生種倭錦、国光など数種の苗木1,2年生5千本を購入し、南兵村一区樋口幸吉、相羽静太,同二区高橋吾三郎、上野三蔵、同三区片岡粂ェ門、杉本佐一、藤枝作一郎を始め、各戸に5本、10本と転売した。 (旧村誌参照) 三品玉吉談 『中隊本部から33年頃5本ばかり、リンゴの苗木が各戸に配布になった。 品種は33号だった』と語っている。 34年7月31日作付反別報告 第一給養班(30戸) 果 樹 2.830本 8月26日 葡萄 40本注文 8月31日 金3円68銭8厘 苗木代払 35年2月11日 注(第二給養班 34戸) 林 檎 反別 1反8畝 243本 これが本町でリンゴに関する、最も古い記録であり、果樹苗木はリンゴのみではないものと思われる。 明治40年10月17日、川上神社の神殿新築と、日露戦役記念碑の祝賀会に、樋口幸吉からリンゴ1斤5銭で、百斤(60キロ)を買入れしている。 三品玉吉は『日露戦争凱旋してから、多くの人がリンゴの苗木を買って植えた。 私も宅地全部に植えました』と話しており、村農会の記録でも、41年には、リンゴ苗木1.400本を補助配布を行っている。 生産販売はじまる 湧別村事務報告書より
大正5年の調査では、南兵村一区の果樹反別、14町歩であり、大正7年の全村(遠軽も含む)の苹果作付反別、20町5反歩(成木反別)なので、南兵村一区は、全村の約7割を占める作付反別であった。 大正5年湧別鉄道が開通し、リンゴの村外輸出販売が有利となって、北兵村から開盛富美方面まで、リンゴの栽培が急激に増加した。 大正11年には各部落に、果樹組合が結成され、8月の果樹組合長会議の文書に 『湧別産苹果モ成木二万本、圃場ニ定植ノ未成木三万五千本、苗木又、四・五万本保存サレ一ヶ年産額八十万斤ノ多キニ達シ』と報告されている。 成木と定植された幼木の合計、5万5千本は密植しても、約120町歩を下らない反別であり、保存されている苗木を合計すると、10万本となり、これが平常に植栽されたとすると、200町歩を超す、一大リンゴ生産地が出現するはずであった。 然し大正13年頃のリンゴ作付反別は、約60町歩であった。 栽培指導と品評会 大正5年村農会は、苹果剪定指導を行った。 4月17日 二区 高橋五三郎宅 18日 一区 小野寺半右ェ門宅 19日 三区 清水彦吉宅 リンゴ樹の剪定技術と、穂接芽接の指導であった。 この年網走で、網走外3郡共進会が開催され、本村から12点のリンゴが出品された。 当部落から 三品玉吉、山崎佐太郎、水野直次郎 この時菊地 勤が、4等賞18点の内1点のみ入賞した。 穴田俊一談 『大正6年の秋、北湧校で、農産物共進会が開かれて、林檎も若干出品された。 講評に「リンゴらしいリンゴは1点もない」との酷評であった。 農会技術員中山某は全校の生徒に、「お前達はナマケ者でワカンナイ、林檎の虱を一つも取っていない、これからナマケテないで虱を取れ」と貝殻虫とは言わなかったし、どんな形をしているとも言わなかった。 大正8年の春講習会で永田技術員が、はじめて貝殻虫と名を発表し青森県では曹達水で樹幹を洗うから、貝殻虫はいないとの事で、薬剤駆除の方法が、なかった模様であった』 大正10年永田技術員に替って、石川善三郎技師が幕別より赴任し、以後昭和3年までの在任期間中、特に果樹栽培の剪定技術、病虫害防除方法の指導に力を入れ、果樹組合の結成により、共同意識の高揚など、大きな功績を残した。 石川技師は空知農学校卒業後、東瀬棚村、幕別村農会を経て、上湧別村農会に来り、以後滝ノ上、遠軽、浜益、羽幌を歴任し、最後に遠軽普及所に勤務、生涯を農業技術普及に努められた。 上湧別在勤中牧野円四郎の長女と結婚され、当部落に居住して、技術の指導に当った。 袋掛けの奨励 大正10年7月4日、村農会は公書を出し、林檎袋無償配布1.100枚の希望者を募っている。 大正11年8月25日、村農会主催のリンゴ栽培実施視察研修が行われた。 午前中 学田、吉村果樹園管理状況と果実貯蔵法 午 后 南兵村一区 秦野果樹園 袋掛の研究 これが本町で袋掛けのはじまりである。 大正11年3月7日、四ノ一果樹組合を設立し、手押噴霧器3台を共同購入し、石川技師の指導で病害虫の防除に当り、本町リンゴ栽培の中心的活動がはじめられた。 四ノ一果樹組合 大正11年3月7日 設立総会 組合員 27名 組合長 穴田助太郎 副組合長 岡村小太郎 組合ではこの年、共同使用のため宿谷式T字形手押噴霧器3台を購入し、病害虫の防除に最新式の威力を発揮した。 穴田組合長宅にて、石川技師が劇薬亜砒酸曹達に、硫酸銅液を混合して、札幌合剤を調製し、各組合員に配布し撒布させた。 現役の取扱は危険なので、石川技師自ら取扱い、使用後の残量は毎回、土中深く埋没処理を行った。 組合は穴田組合長の献身的な努力で、薬剤の購入や、防除機具の整備、組合員の技術向上に努め、大正13,4年のブランコ毛虫の大発生にも、最小限度の被害にくい止め得て、将来上湧別リンゴの中心地としての、基盤を作り上げた。 四ノ一果樹組合は、経済団体として、その使命をつづけていたが、昭和9年、全村1組合に統合され、上湧別村産業組合が生まれ、生産資材の取扱いが容易になったため、昭和10年3月3日、解散総会を開き解散した。 組合員は14年間、組合長として尽力された穴田助太郎の功績をたたえ、その労苦を感謝して、感謝状を贈呈した。 標準木の指定 村農会では、リンゴの剪定や肥培管理指導のため、各部落に標準木を指定して技術指導をした。 大正15年 標準木指定 四ノ一 東海林作太郎 五ノ一 黒川荘右ェ門 屯市 佐藤島三郎 四ノ二 原田 竹蔵 五ノ二 大谷 幸作 開盛 山口西之助 四ノ三 長谷川彦左ェ門 五ノ三 黒川 久吉 フミ 竹内 徳蔵 この年、砒酸化鉛加用0.3度酸曹液(石灰硫黄合剤)の調合指導が行われている。 昭和4年 標準木指定 四ノ一 秦野兼松 祝、柳玉 南湧 平野嘉吉 柳玉、紅玉、旭 四ノ三 長谷川彦左ェ門 中湧 石川貞治 富美 竹内徳蔵 北 湧 小野寺半右ェ門 仝 大谷幸作 上 湧 関 運喜 五ノ三 黒川久吉 大正15年10月1日、相羽誠の手引で北大教授星野勇三博士が、道庁係官と来村し、果樹栽培の講習会が開かれた。 以来北大農学部の星野博士、島善隣博士などが来村し、栽培指導が続けられるようになった。 苹果研究同志会 リンゴ栽培技術の研究は、一部落のみでなく、広く村内の栽培者が集まって、研修の場を持ち、親睦を深めることが必要だとして、南兵村一区二区の青年が中心となり、昭和4年、上湧別苹果研究同志会が発足した。 会長 小川正雄 (二区) 会員80数名 遠藤清治、井上徳喜、平野毅等が中心となり、研究と親睦に努力した。 苹果協会の設立 遠藤清治、井上徳嘉、平野毅等研究同志会の若手が、札幌、余市方面のリンゴ視察研修を行ううち、苹果協会を設立し、全道的な連絡の必要を感じ、 昭和8年北大星野博士の来村を機会に、苹果協会を設立した。 昭和8年8月7日 北湧校にて(村農会報告書) 記念講演 北大教授(農学部) 星野勇三博士 会長 遠藤清治 副会長 井上徳嘉 北海道苹果協会に加入す 以上上湧別のリンゴ栽培興隆の、功績者である。 遠藤清治の生涯を貫いたリンゴの思い出を述べてもらうことにする。 −遠藤清治記− リンゴ栽培の動機 私は大正3年北湧校を卒業、その年4月、上生田原市街から、常紋トンネルより3キロの開拓地へ、3人の若い衆と共に父につれられて入地し、薄荷作りに使われた。 魚釣りと建築列車の通る姿に見惚れたりして、仕事はいっこうに駄目な私でした。 そして秋の刈り取り後の夜業や、薄荷製造に徹夜したり、或は朝暗いうちに起こされるのがつらく、こんな生活なら百姓は絶対嫌だと考えた。 大正5年3月、遠軽で開かれたりんごの講習会で、札幌平岸と余市が、りんご栽培に成功した話しに興味と感動を覚えた。 当時、三品玉吉、秦野兼松、東海林作太郎、岡村小太郎などは5・6反の成木が有り、私方も一宅地ほど有った。 私は思い悩んだ末、父に自分はりんご作りに成りたいと、強い決意を訴え賛同を得たので、地つづきの三品玉吉所有地、宅地2戸分を売ってもらい、合せて宅地4戸分がひとまとめになった。 大正7年8月15日より、札幌中島公園で開道50年記念博覧会が、50日間開催され、私は9月1日に見物ぬ出かけた。 その序に豊平町から、平岸開道の両側に展開する、りんごの一大集団地に建ち並ぶ、豪華な邸宅を目戟して感嘆した。 次いで大正8年2月、結核性りんぱ線炎のため、札幌区立病院に手術を受け、再発防止治療のため、1週間毎にレントゲン照射を受けるのに、北一条西八丁目藤原旅館に下宿した。 毎日遊んで徒食するわけにもいかず、兼て関心の有ったりんご栽培地の見学を始めた。 平岸りんごは当時対露貿易の花形として、余市りんごと共に脚光をあび、驚異的な就役で殷賑を極め、豪邸が軒を接する一大楽園を形成して苗木6百本の育成を頼んだのである。 余市山田の北大附属果樹園などの見学は勿論、北大農場果樹園で稼働し。竹内友助先生の教えを受け得たのも、山際氏のご尽力に依るものであった。 肥培管理、剪定摘果、袋掛作業の初歩を学び得て、私のりんご栽培の動因となった。 栽培発展の過程 上湧別りんご栽培は、明治31年屯田兵移住直後に端を発し、日露戦役凱旋後急速に植栽された模様である。 然し肥培管理は粗放極まる原始的なもので、一時はカイガラ虫の発生に依り、危機に追いこまれたこともあった。 上湧別りんごの始めは、殆んど地場消費が主で、僅かに遠軽、生田原、湧別など、近隣の需要に応えるのみであった。 大正5年湧別、野付牛(北見市)間の鉄道が開通、次いで大正10年には名寄線も開通し、漸く管外移出が可能となった。 紋別、興部、名寄、中頓別、浜頓別、ルベシベ、北見方面にまで販路が広がり、始めてりんごが販売作物として脚光を浴び、村内の栽培意欲の昂揚を見るに至った。 ところが大正13年から発生した、ブランコ手虫が猛威をふるい、樹上に一枚の青葉をとどめぬ惨害を受けたため、廃園放棄するものが続出し、まさに壊滅的打撃を受け、60町歩に及ぶ上湧別りんごに、ピリオドを打つのではないかと憂慮されたのである。 然るに四ノ一部落には大正11年から果樹組合が設立されて居り、手押噴霧器3台を常備し、農会技手石川善三郎氏の指導により札幌合剤の撒布を励行したため、僅かに惨害をまぬかれ得たのである。 たまたま二区部落の平野毅、井上徳嘉の2人が、私方を訪れ、危機をまぬかれた事実を目戟して驚嘆し、直ちに部落の人々に呼びかけ、果樹組合を組織し、一区の組合と協調提携し、再出発を策した。 かくて前途に一楼の希望を見出した両部落の人々は、全村の栽培者に呼びかけ、再起に団結したのである。 先づ第一番目に薬剤撤布の重要性を確認し、防除機具の導入と、防除体制を整え、病害虫の駆除予防を積極的に行い、更に整技剪定其の他肥培管理を、石川技手の指導のもとに相争って努力し、漸く前途に曙光を見るに至った。 リンゴ研究同志会結成 昭和4年りんご研究同志会の結成を実現し、盛んにプリント等を発行し、研究結果の照会に努めたり、作況調査を行うなど栽培に本腰を入れて来た。 苹果協会設立 超えて昭和7年、りんご研究同志会を発展解消し、新たに上湧別苹果協会を設立し、北海道果樹協会にも加入し、全道的連携のもとに、栽培研究の途が開かれたのである。 たまたまりんご栽培の北限地として、上湧別りんごに関心を持つ、北大農学部の星野、島両博士らが、しばしば来町直接指導するに及び、りんご栽培熱は澎湃として起り、特に一新紀元を画する一大動因をつくったのである。 協会の役員たちは血気盛んな若年なのに、親にも均しい屯田戸主の会員諸公も、克く協力してくれたのは、忘れ得ぬ思い出である。 会員は優に百名を超え、村内の立毛調査は勿論、道内先進地や、遠く青森県の先進地方の栽培の実態や、県立試験場の視察見学を行うなど、実に驚くほどの努力を払ったのである。 指導地の指定 このような努力の成果が、やがて道庁の認めるところとなり、昭和8年、平野毅が果樹栽培指導地の指定を受けた。 栽培技術の向上、肥培管理、寒害の予防、塾期の促進等の実地指導には、北海道農試の宮沢、宮下両技師が功献してくれたものである。 この年青森県黒石市の、県立リンゴ試験場より、綿虫の天敵寄生蜂の移入に成功し、3年経って硫酸ニコチンの使用が必要でなくなった。 販売指定 昭和6年、相羽誠が野付牛運輸事務所管内の、駅売り指定を受け、興部、渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蘂、北見、置戸、陸別各駅の駅売指定人へ、上湧別産の、祝、旭、紅玉、国光等を供給し、1個毎にレッテルを張って販売し、大いに声価を高めた。 運輸委員指名 上湧別産りんごの声価が認められ、取扱業者に依る貨車出荷が増大するに及び、運搬事務所管内の重要駅で組織する運輸委員会委員に、当時協会長遠藤清治が、昭和7年より11年まで任命され、荷主代表になった。 御下賜果物並天覧品謹製下命 昭和11年陸軍特別大演習が、北海道で行われるに際し、上湧別苹果協会に、天覧品並に御下賜果物謹製者、遠藤清治、山口政雄、井上徳嘉、秦野美徳、岡村 進、石田 繁らが御下命にあづかった。 酒井村長始め協会員一同は、無上の光栄と感激し、使命の重大性を痛感し、当時の協会長平野 毅及び農会技術員関山英吉の、献身的な指導激励のもとに協力一致、逸品の生産に成功し、9月30日北海道大学に所在の大本営に無事搬入献納し、大任を果たしたのである。 品種の改良 従来の品種は多種雑多のため、これを淘汰改良の必要を痛感し、昭和11年2月平野 毅、井上徳嘉、秦野美徳、田島八郎、遠藤清治らが、島博士の紹介により、青森県南津軽郡蔵立村期栗権左ェ門を訪れ、穂接、芽接の技術を習得し、同年春には穂接、夏には芽接を実施成功し、忽一般に普及し、急速に品種の改良が進み、次いで其の後の新植は、旭デリシャス系統を主体に、経済品種に統一されたのである。 動力噴霧機の導入 昭和11年春、四ノ二に有光式動力噴霧機1台を導入し、次いで翌12年、四ノ二に2台、一区に2台購入し、共同防除の端を開いた。 昭和11年産業組合醸造工場跡を利用し、濃厚石灰硫黄合剤の共同調製を行った。 緑肥栽培の普及 りんご協会設立以前は、土壌管理は清耕法であったが、島博士の指導で緑肥栽培が俄に普及し、袋掛直後に全園にクローバーや、ナタネを播種し、りんご収穫後堆肥と共に鋤込み、地力の培養に努めた。 園芸功労者表彰 昭和15年11月10日、北海道園芸会は創立50周年を迎え、札幌市で記念式典を催し、其席上多年本道果樹園芸の主産地形成に尽力した、果樹関係の14名の1人として、遠藤清治が表彰を受けた。 これは協会員一同の協力に依り、主産地形成したのが認められた所以と思う。 本格的袋掛け始まる 昭和の初期から多少袋掛は行われていたが、りんご協会設立後、島博士の紹介で、札幌市豊平町愛隣館との、袋取引から盛んに成った。 次いで昭和10年春、青森県弘前市の増田商店の来村取引を始めてより、留金入の機械張り袋に統一した。 第二次世界大戦勃発後は新聞紙の不足から、教科書の手張り物に依存の止むなき時代もあった。 終戦後22年より、札幌市苗穂町佐々木商店より、機械張りの購入が復活したが、品種の更新が進展したのと、スピードプレアーの使用に依り、無袋栽培に移行したのである。 青森県より袋掛労務者招聘 昭和15年7月青森県より、始めて熟練した袋掛け労務者を招聘したところ、その優れた技術に驚嘆し、翌16年平野 毅と遠藤清治が、青森県大鰐町虹貝部落に行き、男女36名の若い労務者を誘致し、各戸2・3名づつ分宿し、得意の技術を公開して貰い、之を契機に本村の袋掛け技術は、一躍進歩向上したのである。 青果物道営検査施行 昭和15年4月より、青果物の統制が実施され、道営検査が併せて施行された。 上湧別産りんごは特認に依る自主検査とし、道営検査規格に従って実施した。 井上徳嘉、岡村 進の2名が検査員に依嘱された。 配給統制 昭和15年11月、青果物の公定価格が定められ、集荷配給が一元化された。 上湧別の場合は、自主統制が認められ、協会に一切の権限を与えられた。 軍需品としての役割は勿論、治持つ取扱業者及び管内町村業者への配給をも掌握した。 買い出しも警察で取締り、贈答用までも苹果協会長の許可証明書を必要とした。 従って庶民の手には簡単に得られなかった。 要するにりんご協会が一糸乱れぬ団結と、統制のもとに行動したのが当局に認められ、異例の特権が与えられたと思う。 侍従御差遣 本町りんご協会に、侍従御差遣の御沙汰が有り、昭和17年7月10日、戸田侍従が来村した。 午后2字より四ノ一東海林、阿部両りんご園で、女子青年団の袋掛作業並に薬剤撒布作業を御覧頂いた。 我が国りんご栽培北限地のりんごが、天覧品並に御下賜果物謹製の下命についで、侍従御差遣の光栄に感激した協会員一同は、更に決意を新たにし、栽培意欲を高めたのである。 袋掛援農 青果物統制令施行後、極端な人手不足の結果、学生の袋掛援農が特認された。 昭和17年7月遠軽旧制中学校生徒が、袋掛援農の先鞭を果たし、次いで18年7月からは、遠軽中学校と遠軽家政女学校の、校長自ら全校生徒を引率して来村。 各戸に分散、毎年7日間袋掛に聖汗を流してくれたのである。 駅頭での感動的な受入式や、元気溌剌とした学生を満載した、保動車の送迎風景は、当時村の美しい風物詩として、村人の注目を浴びたのである。 両校の袋掛援農行事は、22年学制改革の前年まで行われた。 また18年から20年までには、青森県五所川原農学校、千葉県茂原農学校、北見中学校、慶応大学校、長野県小県農学校の援農作業が相次ぎ、りんご生産に貴重な功献をしてくれた。 学制改革後にも、上湧別中学校、開盛中学校、上湧小学校の6年生援農も3ヶ年受けた。 その他、中頓別高等学生の援農実習も有った。 戦争終結 戦争中の農業政策は、主食勇戦で、配給統制令の制約もあり、りんご栽培に不可欠の、農機具、肥料、農薬等の入手の途が閉され勝ちであった。 こうしてりんご作りは、あらゆる困難に耐え抜いて、昭和20年8月15日の終戦を迎えたのである。 11月には生果物の配給統制令は解除サレ、次いで生鮮食料品の公定価格も廃止され、あらゆる制約から解放されて、りんご作りも再出発のスタートを切ったのである。 戦後の好況 終戦後の食糧難と、物資の欠乏から、インフレはその極に達し、りんごは物々交換の花形として俄然脚光を浴び、価格の上昇も烈しく、収入の飛躍的な増大で、将に我が世の春を謳歌する、千載一遇の黄金時代に逢着したのであった。 この現象は昭和26年頃までつづいた。 この好況は道内産始め、内地産の輸入も皆無に等しく、所謂生産と需給のアンバランスに依り、一人舞台のような幸運に巡り合ったわけだ。 税金攻勢 税務署は、りんごの好況時代到来に着目し、所得税の増徴を目論み、査定は過酷を極め、立毛調査には直税課長を始め、多くの職員がりんご園に立入るので、役員はモギ取りを拒否し、素人では正確な反収の把握は、絶対不可能な所以を力説し、団体交渉に依り、協会員の収穫量を算出して、公平な申告を約束し、15号台風の前年までその方法で納税した。 15号台風 29年9月26日、15号台風の襲来で、中塾種は収穫後で難を逃れたが、まだ未熟で発育途上の晩生種は、全滅に近い被害で倒木も多く、未曾有の損害を被った。 スピード、スプレーヤー導入と無袋栽培 34年より、新農村建設にもとづく補助事業で、一区二区の協会員が共同で、ユニマウント社の、スピードスプレイヤー、2セットを導入し、其後数を増して6つの防除組合を結成し、完全な防除体制成り、ようやく無袋栽培と、省力化栽培が可能と成り、まさに一新紀元を劃する、一大躍進であった。 農業構造改善事業 更に42年には、共南地区農業構造改善事業で、トラクター自走式噴霧機と、ロータリーの導入に依り、栽培の機械化は完璧なものとなった。 44年構改事業の一環として、上湧別農協は、りんご集出荷、低温倉庫を建設し、同時にりんごの一元集荷と、機械選別と、共販体制を確立した。 消流の変遷 終戦後りんごの増殖は、道内外で活発化し、更に本州でのミカンの新植は物凄く、30年代後半以降の生産は急ピッチに増え、ミカン、ブドウ、梨、柿、桜桃、そしてパインやバナナの通年輸入もあり、また西瓜、メロン、イチゴなどのも道内に殺到し、遠軽ブロックへの入荷も盛んで、上湧別りんごと競合する事態となった。 自由経済下で消費者の嗜好と需要の多様化も有り、本町産りんごの消流も比較的緩慢と成り、販売価格も生産費の増高に反比例して却って低迷しつつあるのが現況である。 黒星病とフラン病の多発 集荷選果貯蔵が本格化し、販売体制の確立で、協会員の生産意欲も高まり、47,8年ころは栽培面積、230ヘクタール、販売高は8万箱を記録し、その他自家販売もかなりの数量になる。 然しこの時点をピークに、49年より黒星病とフラン病の異常発生に依り、これの予防と駆除に懸命に取り組んだ。 黒星病は特効薬の一斉撒布のため、被害を克服し得たが、フラン病の蔓延は益々猖けつを極め、更に52年冬の記録的な寒波の影響で、被害は加速度的に拡大し、そのため老木の多くは伐採焼却し去り、実在反別は恐らく半減したかのように見うける。 加えて若木への伝染も懸念され、前途に危懼を抱くの余り、廃園する姿も顕著で、上湧別りんごが、将に存亡の危機に当面したかの感が有り、ひそかに憂慮するものである。 然し幸いにも如何なる障害や、隘路にも屈せず、栽培に情熱を注ぐ青年グループの存在は実に頼もしく、この若人たちの逞しい努力によって、伝統あるそして町のシンボルにも等しい、上湧別りんごの命脈を保ってくれる事を期待する。 53年6月記 遠藤清治 果樹青年部の結成 昭和32年 りんご栽培農家の後継者が、甚六会を作って親睦を深めていたが、昭和32年春に、遠藤清喜、井上春一等の若手が、果樹協会長秦野美徳等役員の奨めで、果樹協会青年部を結成し、親協会の事業に参加、積極的に栽培管理の研究に努力し、多大な成果を上げた。 初代青年部長 遠藤清喜 全道の果樹青年部に加入し、交流研修を深め、整技剪定技術の向上、病虫害の予察と適期防除、肥培管理の研究、台木の育成、苗木の育成、わい生台木の研究等多くの事業に情熱を注ぎ、その活動は目覚しいものがあった。 果樹試験共済の実施 昭和42年 りんご栽培には、寒害、風害などの危険が多く、昭和42年度から、道庁の指導で果樹共済事業(農作物災害共済)制度が実施された。 上湧別のりんご栽培農家は、町が共済掛金の助成(初年度5割次年度より4割、3割と漸減)を決定、勧奨したので、ほとんどの農家が加入した。 以後今日まで加入し、災害時には共済金の交付を受けている。 人工授粉機(動力)の導入 昭和45年 デリシャス系の栽培が増加したため、手で受粉作業が行われていたが、昭和45年5月に、人工授粉機(空冷エンジン)が、四ノ二区3台、四ノ一区2台を導入、共同使用を行った。 西川照る憲普及員の指導で、寒地園芸センター内に、開葯室を設備し、花粉の多量収集を行い、千両梨、デリシャス等の人工授粉が、効率的に行われるようになった。 北海道苹果協会が昭和22年、果樹協会と改名されたので、上湧別も果樹協会と改名された。 協会は、りんご栽培振興に大きな役割を果たした。 果樹協会役員名 協会長 遠藤清治 昭和8− 平野 毅 井上徳嘉 以上3名が交代で勤める 松川寿雄 昭和28− 秦野美徳 昭和32− 平野 浩 昭和40− 八巻恒雄 昭和45− 井上春一 昭和50−現 |
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戻る | 甜菜栽培 | はじまり 大正10年からはじまった部落の甜菜耕作は、翌11年は31戸で、12町1反となり、12年には28町3反歩と倍増した。 12年2月、甜菜耕作改良組合が結成されて、会社との交渉取引も組合が当り耕作意欲が盛んであった。(会社は帯広の北海道製糖会社) この12年に網走外3郡農会主催の、第一回甜菜増収品評会が開催され、16ヶ町村292点が出品審査を受けた。本村では27点が出品、2等1点、3等10点、4等5点の成績を上げた。当部落の入賞者は
一、肥料ト種子代ヲ無料ニシテ精算ヲ願フコト 二、肥料ト種子代ヲ無利子ニテ明年迄貸付ヲ受ケ 母根ヲ幾分多ク 残シ其収量シタル種子代ニテ差引ヲ願フコト 三、運搬ノ補助ヲ幾分増額ヲ願フコト 四、昨年ノ種子ハ二十二円ノ約定ヲ 百封度(ポンド)二十五円ニ買増ヲ願フコト 右四案ノ条項ヲ三区清水組合長ト協議ノ上、書面ニテ会社ニ交渉スルカ、又ハ直接出張面談ヲナスコト、若シ帯広ノ会社迄行クトキハ反当六銭ヲ徴収シ費用ニ充ツ 右決議ス これ等の減収補償問題は、網走、十勝の農民が結集して運動したが、要求通りにはならなかった。 翌14年度は耕作反別が、18町5反分と半減した。 当時はビートの種根を植え、種子採取が契約され、各戸2.3反耕作し、原料ビートの栽培と2本立であった。 然し種子栽培も14年迄で、以後は原料ビートのみとなった。
原料ビートの受渡は、上湧別駅構内に桟橋を組み、台車に積込みが行われ、出荷時期には馬車が何十台も連がり、馬を追う怒声で賑やかなものであった。 当時のビートは、根部が細長く土中に入る品種で、抜取の爪を根冠に引っかけて、力一杯引抜く作業は手間もかかり、相当な重労働であった。 ビートの反当収入は、30円前后であった。 昭和前期のビート 昭和に入って玉葱の栽培が増え、昭和7年からは、水田の耕作がはじまるなどで、ビートの耕作は伸びなやみ、一進一退の状況であった。 大東亜戦争が苛烈となり、食糧不足や砂糖の配給で、ビート耕作者のほとんどが、糖蜜を造り砂糖の代用に使用した。 ビートを包丁で薄く刻んだり、又は大型のかんなを作り、ビートを持って突くと薄く切断される。 それを大鍋に入れて煮る。 糖分の侵出を待ってザルに上げて搾る。 この汁を気長に煮つめると糖蜜になる。 3百斤も5百斤も残して、糖蜜を製造すると、半年位は砂糖代用に使用出来たし、親戚等に分けて上げると喜ばれたものである。 精糖会社はその後北糖から、日甜の区域となり、昭和10年頃から受渡駅が開成駅となった。 東山の掘割道路を通って出荷するには、近い処の物で1日4回、遠い処は3回の運搬であった。 あの坂道を登るに、馬を叱咤してようやく登る。 中には坂の上から河原まで、馬もろ共馬車を、転落させる者があったり、大反別の耕作は不可能であった。 戦後のビート 戦后昭和29年、甜菜振興法が制定され、原料ビートの価格も安定したため、本町でも寒地耐冷作物として奨励し、部落でもほとんどの農家は耕作をはじめた。 昭和34年芝浦と日甜の集荷合戦から、農民の間に紛争が起り、このため農協組合長井上徳嘉の努力で、翌35年4月、上湧別町甜菜耕作振興会が生れ、農事実行見合いにビート係を選任し、耕作の振興にあたった。 ビートの耕作は品種の改良や、病虫害防除機具の開発で、いくらか反収が上がったが、間引除草に手間がかかり、大反別の耕作は至難であった。 昭和42年から、紙筒移植栽培がはじまり、反当収量が、平常3トン前後から5トン位に増収されるようになり、間引除草の手間が半減され、大反別の耕作が可能となった。 部落でもビニールハウスを建て、紙筒栽培に替え、町内部落別、最高反収を上げる成績を納めるほどであった。 昭和45年水田転換地で、秦野春義が町内第1位の反収、約8.000キロの収量を上げ、稲作転換の適作物として、全道的に注目を浴びた。 昭和46年には 北海道製糖北見地区ベストテン賞 阿部岩雄 全道水田転換ビート耕作優秀賞 石田敏雄 が授賞した。 46年水田の転換が行われ、リンゴ栽培も、多発する腐蘭病のため減反が進み、現在ではアスパラと共に、部落の重要な基幹作物となっている。 現在は大農機械の利用が行われている。 |
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戻る | 玉葱栽培 | 菊地善八 本町の玉葱栽培は明治末期で、明治43年度の報告に、輸出農産物、玉葱200貫、単価40銭、80円との記録がある。 我が部落では大正10年、菊地善八が1反歩を試作し、翌11年に3反歩を耕作した。 蔬菜作りの名人と云われた菊地善八は、糞尿を手づかみでもみほぐし、肥桶を荷って野菜に施肥する、その努力は部落民の驚嘆を受けた。 玉葱栽培の先駆者であり、その指導で玉葱栽培は、一躍部落の花形作物となった。 普通作物は反当粗収入、約25円程度であったが、玉葱は100円を超す粗収入があり、手間のかかる作物であったが、急激に部落内に広がった。 大正12年、南兵村一区と三区で栽培が伸び、13年種子の斡旋記録は 札幌黄玉葱 1升4円80銭 砂川産業組合 当時、北見地方には、大きな消費地がなく、先進地の岩見沢の仲買業者が買付けて、札幌方面に販売していた。 この販売を少しでも有利にするため、共同販売の必要を痛感した、秦野兼松、渡辺善三郎が協議し、昭和3年春、四ノ1玉葱組合を結成した。 四ノ一玉葱組合 昭和3年 組合長 秦野兼松 玉葱組合は、耕種栽培管理技術の相互研修や、種子、肥料の斡旋、木箱の手当、資金の貸付等を行い、共同販売の取纏め、業者との販売交渉を行い、有利に販売するなど、玉葱栽培に大きな役割を果たした。 昭和4年7月28日、村農会の村内視察に、四ノ一玉葱組合が選ばれており、村内の指導的な成績を上げていた。 共同販売 昭和4年10月、はじめて共同選別を行った。 等級 特玉 大玉 中玉 4段階 木箱 正味 12貫匁入(45kg) 耕作者4・5戸で共同選別し、木箱に入れて縄掛けをして出荷した。 村内では、五ノ一、四ノ三、四ノ二にも玉葱組合が組織され、販売にも連絡し合って、有利な販売に協力した。 四ノ二玉葱組合長 八巻半右ェ門 四ノ三玉葱組合長 八巻吉郎次 部落では秦野組合長に次いで、渡辺善三郎が組合長となり、販売に力を入れ、岩見沢、札幌の生産地を視察し、又業者との交渉に寝食を忘れて努力し、玉葱栽培振興に、大きな功績を残した。 取引先 札幌 岡本商事 安養商店 岩見沢 丸共商事 中湧別 安藤林右ェ門 屯市 熊沢助三郎 昭和6年 全村耕作反別 (玉葱) 98町歩 販売額 23.148円となり、ハッカの販売額68.601円(682町歩)に次いで2位、昭和8年から上湧別産業組合で、玉葱の販売も取扱ったが、価格の変動が多かった。
戦後の玉葱 戦前上湧別と並んで、玉葱生産地として有名であった北見では、昭和35年頃から耕作反別が伸び、端野、訓子府に普及し、40年頃には一大産地となった。 上湧別農協では中島敏美が、西川普及員の指導で、44年から五ノ一の農家に試作を行わせていた。 46年因芳民がはじめて玉葱を耕作し、反収約5トンの収量を上げ、価格も良かった事から、栽培熱が盛り上がり、農協の積極的な指導で、翌47年、五ノ一区を中心に約7町歩が、栽培された。 一区では工藤敬蔵が、はじめて6反歩を耕作した。 53年度 耕作者工藤敬蔵、工藤 武、安本 明3戸 8町8反歩 戦前の玉葱栽培の夢には、ほど遠いものであるが、農協では集荷場を造り増反中である。 |
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戻る | 水稲栽培 | 土功組合の設立 屯田兵入地以来、米を食べる生活が望みであり、水田を試作して、米を取るための努力が、20数年続けられて来た。 従来の水苗代移植栽培から、直播に変って、大正7年頃から上湧別でも、数戸の耕作が成功した。 水稲栽培は灌漑溝による水利が第一条件であった。 上湧別土功組合設立計画 大正11年3月 土功組合設立趣意書を村内全戸に配布3月25日まで参加者募集 発企人 岡村小太郎外16名連署 内部落発企人は 岡村小太郎 小島 鉄治 樋口 幸吉 大正11年12月25日 道庁発 土地改良工事設計計画調査申請提出 大正12年5月 発企人 沢口作一外17名(各部落より) 第一回創立総会を開いたが、時期尚早として成立せず解散した。 その後管内各地に、土功組合設立が進み、本村でもその機運を等閉に出来ず、昭和2年各部落より設立調査委員の推せんを求め、本格的な調査に入った。 当部落の 調査委員 穴田助太郎、小島鉄治、秦野兼松 当時湧別川の水利権をめぐって、上湧別と湧別が競願となっていたのを、支庁の斡旋で、両村に通じる一大幹線を掘削し、一組合とすることになった。 小島鉄治、穴田助太郎外24人が発起人となり、 昭和3年3月 湧別土功組合設立総会開催 両湧別を区域とした地区調査、組合員、灌漑溝設計、事業予算等の基本調査を実施す。 昭和4年6月12日 湧別土功組合 設立認可申請を提出す 地区面積2.101町歩余り 組合長 茶谷幸一 (網走支庁長) 造田反対運動 土功組合の地域の決定や、灌漑溝斡旋、支線の測量設計が進むにつれ、灌漑溝の通水造田によって、浸透水が他作物、特に果樹等に悪影響を与えること、組合の賦課金が、地区全反別に賦課徴収される等の問題から、猛烈な反対運動が起きた。 反対理由 一、相ノ内村で、水田耕作以来、地下浸透水の上昇で、リンゴ栽培が全滅状態となった。 一、特に当部落の宅地上手に、第二幹線が横断するため、浸透水の影響が強い。 一、造田不可能地の宅地、りんご畑、又は支線分派の通行不能地まで、賦課金が取られる。 一、玉葱など有利な作物があり、(当時玉葱は普通作物の3倍の収入)収穫不安な水田は必要なし。 以上が反対の主な理由で、特に水田に関係のない反別への、賦課金が大きな理由であった。 造田反対者 南兵村一区 渡辺善三郎、秦野兼松、遠藤清治、竹内連勝 南兵村二区 石田勝喜、八巻半右ェ門、井上徳嘉 南兵村三区 長谷川春治、野田 実、八巻吉郎治、宍戸与太郎 反対運動が激化し、賛成派と反対派は、役員や代表者を交互に出札させ、道庁や道議会へ陳情合戦が繰返された。 道庁の指導姿勢が、認可の方針であることから、反対運動は一転して、地区除外運動に変り、除外希望者の反別を調査、地区除外請願書を提出し、その実現をせまった。 このため支庁が斡旋に乗り出し、相互の譲歩で協定が結ばれた。 協定事項 一、工事施工後組合現地区中、除外希望ノ面積三百七十七町歩ヲ除外スル事ニシテ調査ヲ施行スルコト、但シ地区除外希望者ニシテ后日水田ヲ希望スル向アルトキハ、水田造成反別如何ニ不拘、其ノ希望者ノ意志ヲ尊重シ、組合地区ニ加入セシムルコト 二、地区整理ノ際ハ、出来得ル限リ除外区域ヲ地区面積ノ一割限度ニ止ムルコトニ相互商議ニ努ムルコト 三、第一幹線ニ属スル第一支線ハ、除外希望地区内ヲ貫通スルノ計画ナルヲ以テ、右支線掘削ニ付テハ、技術上支障ナキ程度ニ於テ溝路ヲ深ク切リ下ゲ、除外希望者他ニ流水ノ浸透ヲ避ケル様施設スルコト 四、地区除外実施前ニ施行スルトモ、除外希望地区ニ対スル反別割ハ、参ヶ年間賦課猶予スルコト、但シ組合設置セラレタル今日ニ於テハ、創立費ハ之ヲ負担ナスコト 五、本項ニ於ケル除外希望地区トハ曩ニ除外ヲ其ノ筋ニ陳情セル三百七拾七町歩ニ限ル 六、組合ノ事業タル工事ハ速ニ着手シ、可成短時ニ完成セシムルコトニ努力スルコト 七、右各項ハ議員会ヲ開キ、承認ヲ求メタル上、覚書ヲ交換スルコト、前各項承認ノ上ハ其ノ筋ニ提出シタル地区除外ニ関スル陳情書ノ取下ヲ為ス事 昭和五年一月十五日 於 網走支庁 こうした地区除外運動の外に、当時は不況のどん底にあって、組合の創立費や反別割が造田以前から賦課されるため、賛成者といえども、経済的に大きな負担であった。 このため、南兵村部会(部落財産部会)では、昭和5年2月5日、区会を開き造田奨励資金交付規定wp制定し、部落財産地5百町歩を売払い、土功組合の反別割を初年から、3ヶ年補助することに決定した。 造田補助金 南兵村造田可能地621町歩 昭和5年 1反歩 1円59銭 9.692円 昭和6年 1反歩 1円60銭 9.945円 昭和7年 1反歩 1円78銭 11.053円 地区除外運動も、1月の協定にもとづいて、数次の交渉が成立し、地区除外請願書を取下げ、村内を2分した紛争も円満解決をみた。 誓願取下願 私共儀 今般湧別土功組合ヨリ地区除外誓願中ノ処、組合ト円満ナル協調締結相成候ニ付、除外請願書御取下相成度此段奉願候也 昭和五年四月二十五日 除外請願者 代表者 署名 こうして除外運動が円満に解決し、組合の設立認可が下りた。 湧別土功組合工事 昭和5年 5月26日 道庁設立認可 昭和5年 7月 1日 札幌地崎組と工事契約 全 10月 幹線工事着工 昭和7年12月 幹線、支線工事完成 昭和6年 5月10日 分派工事地崎組と契約 昭和8年 9月15日 分派工事完成 この灌漑溝幹線工事は、現在の開盛頭首工から、第二道水門を通って、部落の東山ぞいに湧別東地区に通ずる大工事で、数ヶ所に飯場が建てられ、赤フンドシのタコと云われた労務人夫で、スコップ、モッコを主として行われた。 造田工事 壱区では分派工事が、昭和6年秋に完成したので、直ちに造田工事がはじめられた。 小島鉄治、樋口幸吉が、東一線の東、下士給与地に造田を行い、小島鉄治は中通北の分派の階段から水路を引き、北通の北側に造田し、三品玉吉、三品玉七等が23号線北側に、第一支線より水路をひいて造田した。 昭和7年始めて、水田耕作が行われたが、大凶作で皆無に近かった。 然し昭和8年は造田工事が遅れ、6月中、下旬に種蒔した水稲まで、充分実が稔る大豊作となった。 この大豊作で造田熱が高まり、8年から10年にかけて水田が急増した。 相羽 誠、小島鉄治、田島八郎が共同で、南通の分派線階段から水路を取り、中通は階段落差を利用、コンクリート管の埋設工事を行い。 相羽の二給地を道路添いに西行し、右折し北通を越して、田島、小島の土地に3本の水路通した。 この全面積約8町歩を造田した。 この他河瀬良吉、樋口幸吉が二給与地に、秦野兼松、松野和蔵、田島八郎、三品太七が、それぞれ造田を行った。 昭和10年の凶作羅災者(減収7割以上) 種苗購入助成金交付調査 四ノ一 20戸 水田面積 15町2反歩 四ノ二 28戸 水田面積 20町5反歩 全村合計 被災反別 330町3反歩 造田工事は、ほとんど請負工事で、鈴木庄蔵、石田清美、森田栄松、牧野源一等が請負い3,4人の専従人夫の外は、部落の青年が人夫として働いた。 当時はスコップ、ツルハシが道具で、水平器で土地の高低を測り、スコップで水路を掘り、水田の均平をし、モッコで土を水路や低地にかついで運んだ。 遠い処は馬車で土を運んだ。 モッコ一杯の土は150キロ以上もあり、後棒(人夫)が棒を肩に当て、モッコの吊縄に両手をかけ、先棒(人夫)の気合で、エッーとモッコを引上げ先棒のかつぎ易いようにし、足を合せてモッコが振れないよう、腰で調子を取るのがコツであった。 その後石田晴美が部落の青年を使い、請負造田工事を行った。 造田の用具に鉄製のズリ(ゼリとも云う)が使用されるようになった。 ズリに胴引をかけ、馬に曳かせ、ズリの先端を土中に曳き入らせて、土をすくい入れて、畦や低地に運ぶ、人夫の3,4倍も能率が上がったものである。 昭和15年頃には、耕作者約40戸、耕作反別約25町歩となった。 戦後の造田 (牧野光一資料) 昭和29年から始まられた、新農村建設計画で、当部落では河川跡、砂礫地の荒廃地を改良造田の計画が樹てられ、翌30年遠藤農協組合長の尽力で、国の補助事業が認められ実施することになった。
既成会 会長 牧野光一 副会長 遠藤正雄 理事 吉村 薫、渡辺正喜、山崎正康、安本 明 会計 阿部 太 工事請負者 石田清美、牧野源一、津野 農協所有 ブルドーザー借上使用 測量設計 農協土地改良係 起工式 昭和30年8月26日 24号線南沿道清司所有地で、地鎮起工式を清水神官の司祭で挙行す。 8月30日の役員会で、土工人夫賃最高、600円、馬1.300円〜1.500円と決定、経費は1戸150円、反当50円徴収と決定する。 この工事は砂礫地、高低の甚しい河川跡地を、ブルで耕土をはき取って集積し、砂利を均平し、又耕土を平均にその上にもどす作業で、その後人夫で畦や水路を構築した。 当時農協のブルドーザーは小型老化のため、作業がはかどらず、このため11月中旬に至って、網走支庁に要請、ブルドーザー1台を借上げ、運転手2名を牧野会長宅に宿泊させ、約20日間工事の協力を受けた。 かくして翌31年春、雪上に土を撒布し融雪を促進して工事に着手、5月12日部分検定、6月10日最終検定を無事終わった。 25号線灌漑溝幹線から、東一線まで号線に沿い、東一線の西側を北に24号線を超え、牧野所有地まで水路が構築され、小関、安本、阿部、東海林、牧野、三品の水田が造成され、又神社附近や、基線道路両側、24号線の南、北側の河川跡地が主体で、約17町歩の水田が造成、区内では40町を超えた。 当初予算は、国費補助、719千円、融資1.340千円、自己負担337千円、計2.397千円であったが、実績では砂礫地難工事が多く、ブルドーザー代2.043千円、労賃2.137千円、合計4.180千円であった。 作 況 水稲耕作は昭和6年頃から寒冷期に入って豊凶の差が甚しく、品種の改善で耐冷品種が発表され、直播栽培から、冷床植栽に変り、終戦后はビニール、トンネル育苗と改良されたが、常に7,8月の天候に左右される、不安定な作況であった。 当部落では豊作年は反当7俵至8俵で、平年反収は5俵程度で、凶作年は、皆無に近い作況であった。
稲作転換 連続する冷害凶作で、北兵村の高台地帯、開盛、富美、上富美など酪農地帯で、飼料畑に転換する者が増え、南兵村でも果樹、アスパラなどに転換し、本町では36年、約430ヘクタールを最高に、44年末には約300ヘクタールに減少した。 昭和45年、政府は稲作生産調整政策で、休耕田、転作田に、反当2万円の奨励金を交付し、転換特別事業の、均平起工、整地、土壌改良資材(炭カル、溶燐)等は補助金、経費の4分の3,牧草転換には牧草種子、果樹、野菜、転換畑には苗木、種子、育苗資材等の購入補助3分の2,又酪農転換には、乳牛購入の2分の1の補助が与えられた。 45年 生産調整反別 町の調査 南兵村一区 休耕 19町5反3畝(19ha53) 転換 3町8反2畝( 3ha82) 合計 23町3反4畝(23ha34) 全町では休耕113.5ヘクタール、転作40.9ヘクタールで、本格的な米の生産調整政策が実施された。 これは休耕転作共に、平均反収量キログラムに、68円を乗した金額を、休耕田には3ヶ年、転換田には5ヶ年間、1万円を加えて、支給するもので、本町では休耕田は約2万円、転換田は約3万円であった。 北限地帯の不安定な低収量に加えて、検査等級も低く、まずい米では、政府買上の対象には、ならないなどの条件から、本町ではほとんどの水田耕作者が、休耕転作に踏み切った。 北兵村一区と屯市の一部に、10数町歩の耕作のみとなった。 南兵村一区水田転換反別 46年町調査
アスパラガス耕作 昭和33年春、秦野 馨がはじめて、アスパラガスの苗を2反歩定植した。 次いで秦野正弘も定植した。 当時アスパラガスの採取出荷がはじまったばかりで、採取に手間がかかり、それほど有利な作物とも思われなかった。 36年に、秦野春義、遠藤清喜、三品正十郎、吉村真巳、樋口雄幸、石田敏雄、岡村 進、東海林武敏等が、それぞれ3反至4反の定植を行い、ようやくアスパラガス栽培が注目され出した。 37年9月種子、2町9反歩分を10名に配布し、苗の自家育成をさせた。 38年には共同出荷場を、秦野 馨宅に設け、出荷受入がはじめられた。 39年採取反別 2町7反歩 8戸 秦野 馨 40アール 秦野 春蔵 60 東海林武敏 20 秦野 正弘 40 三品 正十郎 15 石田 敏雄 20 樋口 雄幸 35 岡村 進 40 40年41年と増反奨励で、栽培者が増え、ホクユウ食品KKの工場新設操業で、集荷合戦となり、価格のつり上げとなり、有利な作物となった。 その後集荷場も、三品正吉、岡村恒男宅に増して3カ所にした。 49年には、トラクター培土機の導入で、作業が楽になり、稲作転換による白畑の余裕から、アスパラガスがほとんどの農家に栽培されるようになった。 現在の耕作者、37戸である。 りんご耕作の減少した現在では、ビート耕作と並んで最も重要な収入源の作物となっている。 |
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戻る | 共進産業組合 | 組合の設立 大正12年5月20日、創立総会を開き設立した共進産業組合(保証責任共進信用販売購買利用組合)は、全年9月21日付で、道長官の認可を受けた。 共進産業組合 設立許可申請 大正12年5月20日 設立許可 大正12年9月21日 組合員 田島八郎外35名 定款の概要 目的一、組合員の産業経済に必要な資金の貸付及貯金の便宜を得きしめる。(信用事業) 二、組合員の生産物の販売 (販売事業) 三、組合員の産業経済に必要な物資の購買 (購買事業) 四、組合員に設備を利用させる (利用事業) 出資 出資金一口の金額は五十円とす。 第一回払込、五円、第二回から十円以上。 準備金の積立 出資総額に達するまで、毎事業年度の余剰金の四分の一を積立する。 役員 理事 五名 監事 二名 理事は組合長一名、専務理事一名を互選する。 理事の任期は三年、監事は一年とする。 事業年度 事業年度は歴年度とする。 信用事業 貸付金は信用程度表により理事が決定し、保証人、又は有担保貸、貯金一回金額 十銭以上、貯金利息は名年十二月末計算する。 販売事業 取扱品目 米、麦、大豆、小豆、豌豆、菜豆、薄荷、其の他総会で決議したもの。 購買事業 肥料、家畜、家禽、種苗、蚕卵、味噌、醤油、罐詰、砂糖、塩、酒類、乾物、茶、糸類、 織物、雨具、履物類、金物、文房具、小間物、荒物、石油、其の他総会で決議したもの。 利用事業 農業用地、倉庫、種畜、産業用機械器具、冠婚葬祭用具、其の他総会で決議したもの。 以上が定款の内容である。 役員は次の通り選任された。 組合長 理事 岡村小太郎 専務理事 穴田助太郎 理 事 小島鉄治、水野直次郎、東海林作太郎 監 事 樋口幸吉、秦野兼松 10月15日臨時総会を開き 一、貸付最高額 一組合員50円 利息年1割5分 一、貯金利息 5ヶ月据置 翌月より満1ヶ月壱円に対し8厘 一、販売歩合金 壱俵につき十銭以内(13年1月代金の百分の三と改正) 一、購買品 代金の1割以内 以上の様に決議された。 大正12年販売取扱高 小 豆 166俵 1.307円50銭 大納言 84俵 660円65銭 大 豆 92俵 539円15銭 其の他、中長鶉、長鶉、金時、白丸鶉、ソバ等 合計 548俵 3.658円40銭 大正13年改選で、穴田助太郎が組合長に就任し、御成婚記念事業として、産業組合宣伝活動写真の映写を、5月青年会場で行い、組合で製麺機2台を、66円50銭で購入し、利用料1日30銭、半日20銭で利用させた。 大正14年1月19日の総会で、組合長穴田助太郎、理事小島鉄治、東海林作太郎の3名が辞任したため補欠選挙が行われた。 一、理事補欠選挙、監事改選挙 組合員42名 理事 水野直次郎29 遠藤清五郎23 岡村小太郎22 安倍川銀助22 鳥井 始21 監事 樋口幸吉29 秦野兼松13 然し理事に当選した岡村小太郎、監事の秦野兼松が固く辞退して受けず、紛糾しておさまらず、組合員より、解散の声が出る事態となり、止むなく穴田組合長は再開を宣し、後日に決定することにした。 その後監事の樋口幸吉が組合長理事に、監事に穴田助太郎、小島鉄治が就任することで、紛争は解決した。 大正15年総会決議 一、貸付金最高限度額 1組合員 100円以内 二、販売歩合金 販売金額の100分の2以内 三、貸付金利率 日歩4銭5厘以内掛貸日歩3銭 四、貯金利率 年1割2分以内 五、余剰金の預入先 拓殖銀行 絲屋銀行 六、製麺機の利用料 1日30銭 七、装蹄料の割引歩合金 割引歩合の内1割は組合に、2割5分は本人の貯金 八、組合合併の件 今少し早きょうなので機の熟するまで今1ヶ年延期すること。 以上の記述で、組合の運用内容が推察することが出来る。 事業内容 一般の組合員は、共同販売で農産物が有利に販売され、肥料や日常品も安価に購入出来、借入資金も安い利息でと、期待していたが、3・40戸の部落組合では、資金も充分でなく、経営も全くの素人であった役員の苦労は、大変なものであった。 日常金銭の出入れは、大福帳に記入し、複式簿記は知らないので、貸借対照表の資産(貸方)負債(借方)の仕訳も、村農会技師、支庁の産業主事補の指導を受けて、決算を行う仕末であった。 阿部四郎談 『支庁の係官が来て、役場に産業組合の役員を集め、経理の講習会を開き、複式簿記の資産とか損金だとか、一つの金の出入れの記帳にも、小むづかしい事を云うので、穴田の戸主が、「我々百姓頭にそんなものが分かるもんか」と怒って帰ってしまった』と言う。 販売事業では、豆類が主体で大豆、小豆其の他の豆を集め、屯市、中湧別の仲買人に、交渉し共同販売をしていたが、ハッカは仲買人の個人買が多く、集荷販売が出来なかった。 購買事業、報告書を見ると生産資材では、大豆撒粕、過燐酸石灰、莚、叺、セメント等で、村農会の斡旋で共同購入して配布した。 日常品では、米、外米、醤油、砂糖、酒、塩、冷麦、ソーメン、等が主な仕入品で、時季に応じて組合員より注文のある日用品を、仕入れて配布した。 これ等の購買品は組合長や、各通りの役員宅に置いて、組合員に販売した。 アンペラに包まれた黒砂糖を、重い金てこでくだいて、1斤2斤と秤にかける、酒は2斗樽4斗樽を横にして、呑口の栓をひねって枡に計って入れ、1升瓶にうつして売るなど、役員には大変な仕事であった。 購買量が増えるに従って、売掛金(未収金)が大きく残り、組合員の借金となった。 利用事業 製麺機の使用の外、蹄鉄所や精米所と契約して、割引料金で利用させた。 装蹄料 割引2割5分 東山、上家両装蹄所 精米料 割引1割5分 須藤、若杉両精米所 信用事業 出資金や組合員の貯金が運用資金となり、肥料や生産資材の購入や、土地取得の資金に、貸付が行われたが、農村不況の中で貸付金や売掛金が増大し、昭和2年、上湧別産業組合に合併後も、貸付金の回収は、旧共進産業組合役員の責任で、毎年十数戸の旧組合員に、貸付金の催促がなされていた。 部落産業組合であったので、専任職員は置かず、貯金や貸付金の金利計算から、購買品の棚卸し、金銭出納の仕訳、決算書の作成など、総て組合長や専務の仕事であった。 上湧別産業組合へ統合 南兵村部落の産業組合は、支庁の指導で統合の話が進められ、大正15年に、二区の湧別兵村産業組合長菊地 勤は、統合の中心組合として、専任職員小野義男、松川重雄の2名を採用し統合の準備をした。 大正15年11月4日、役場で組合合併について、各組合役員合同協議会を開き、合併統合の方針が決定された。 共進産業組合では、11月21日臨時総会を開いて、協議し、合併統合が決議された。 かくして、昭和2年4月3日、解散総会を開催し、総ての資産、負債をそのまま、新組合上湧別産業組合に、引継ぎ解散した。 共進産業組合役員名
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戻る | 農事実行組合 | 農事改良実行組合 大正7年道庁は、町村農会の蕪指導組織として、農事改良実行組合を設立、農家経済の安定と、農事技術の向上を計るよう、通達勧奨した。 大正8年村農会は通達を出し、その目的趣旨を説明、各部落に設立を促した。 当部落では大正8年、総会を開いて、四ノ一農事改良実行組合を結成した。 この年農事改良実行組合、並に衛生組合役員選挙の、開票結果申送り文書と、投票紙が残されている。 当時は村農会の指導体制も、僅か一厘御技術員では充分な指導が出来ず、単に村農会の農業施策や、指導の伝達機関として、自主的な活動はなかったと思われる。 大正15年に改良の2字が除かれ、農事実行組合となった。 大正8年設立 組合長 岡村小太郎 副 穴田助太郎 仝 10年 組合長 穴田助太郎 仝 11年12年 仝 岡村小太郎 仝 15年 仝 岡村小太郎(判明分) 農事実行組合 昭和2年村農会長通牒に 『過般開催セン農事懇談会ニ於テモ、部落的甜菜、果樹等ノ同種類似ノ組合ノ存置アリテ、集会其他ニ関シ困難ヲスル向ハ、新ニ農事実行組合ヲ設立シ、之等ヲ合併シ整頓刷新ヲ希望スル向モ有之』と述べ各種団体を統合し、農事実行組合を勧奨している。 昭和3年、御大典(今上陛下即位式)記念として、ほぼ各部落に農事実行組合が設立された。 昭和4年11月には、12組合組合員481名となった。 昭和5年 村内農事実行組合名 14組合 五ノ三、北湧、中湧別、上湧別、四ノ三、南湧、四ノ一、開盛 札フミ、富美第一、富美昭和、富美中央、富美、上富美 四ノ一農事改良実行組合は昭和に入って、堆肥の増産、優良種苗の斡旋、農薬の共同購入など、活発な活動に入った。 昭和6年2月8日 第五回堆肥品評会 弐等賞 仝 年2月8日 表彰状 南兵村一区農事実行組合 組合創立以来組合員和衷協力、農事実行事項ヲ尊守シ本村産業改善上多大ノ 功績ヲ挙ゲ他ノ模範タリ 村農会長 沢口作一 昭和2年組合長 岡村小太郎 4年 小島鉄治 5年渡辺善三郎 法人登記 昭和7年道庁は、自作農創設資金や、負債整理資金の貸付について、農事実行組合に連帯責任を持たせるため、組合の法人登記を指導した。 秦野 馨談 『私が村役場に臨時雇で、事務の手伝をしたのが昭和8年で、支庁の指導で、村内17の農事実行組合の法人登記を行った。 組合の目的、区域、組合員、役員、総会、事務所、事業、会計など一切を規準に合せて、規約を作製し、総会議決の書類と、専任役員名をととのえ、登記を行った。』 四ノ一共進農事実行組合 設立年月日 昭和8年7月1日 目的 組合員ノ共同ノ利益増進ヲ図ルヲ以テ目的トス 以下省略 理事 岡村小太郎、遠藤清治、秦野甚吉、鳥井 始 竹内治郎、渡辺善三郎、三品太七、安本庄蔵 登記年月日 昭和8年7月5日 農事実行組合は、村農会の下部組織として、耕種栽培の改善に努めて来たが、昭和9年上湧別村産業組合が、村一円に統合して、実行組合の法人加入が認められ、経済行為では、産業組合の連絡協力団体となった。 戦時体制下では、生産統制や、生産資材の配給統制、戦時物資の出荷供出に、大きな役割を果たした。 四ノ一共進農事実行組合戦時協力事業 一、軍用燕麦の増産供出 一、食糧増産協力、米、大豆の供出、ハッカ栽培中止 一、食用馬鈴薯、アルコール原料馬鈴薯増産供出 一、応召軍人、戦死遺家族の労力援助活動 一、松葉油採取事業(昭和20年2月〜6月) 一、援農学徒受入、慶応大学生、四ノ一、46名、四ノ二、56名 合計 102名 昭和20年5月14日〜9月29日) 遠軽女子高校生 40名 一、農業勤労奉仕隊受入 昭和20年8月5日〜8月31日 千葉県茂原農学校生徒 北見中学校生徒 主なる表彰 昭和11年3月15日 第九回地力増進共励会 三等賞 昭和12年4月5日 第一回冷害地方農業経営改善共励会 一等賞 昭和16年2月4日 表彰状 応召兵遺家族援助 北見郡農会長 中村嘉平 昭和19年3月31日 感謝状 十八年産米完全供出 北海道長官 坂 千秋 松葉油採取 昭和20年2月軍部の命令で、ガソリン代用松葉油の採取事業が開始された。 上湧別村針葉油緊急生産事業 村内 蒸留釜 19釜 松葉原料 300トン 採取目標 3.000キログラム 作業期間 2月1日〜3月31日 共進農事実行組合 生産目標割当 蒸留釜 3基 松葉84トン 採油 84キロ 以上が農事実行組合の割当であった。 この年開盛の木材業深沢が、東山国有林から戦時用材の払下を受け、伐採事業を行って居り、この松葉が原料であった。 組合長三品太七の指揮で、組合員は勿論青年団員や小学生までが動員され、トド松の枝を一米くらいに切って束ね、馬搬道までかつぎ出す。 雪まみれに倒された松の枝を切り、雪の中を足で踏みかためた道を運び出す仕事は大変青森県重労働であった。 交替に出役した組合員は、バチバチ橇に乗せて、三品太七宅まで運び出すのに、3月一杯かかった。 其の后松葉に着いた雪や氷が解けるのを待って、5,6名交替で出役し、薄荷釜に松葉を詰め蒸し上げ採油した。 作業は薄荷油の製造と同様であった。 春の忙しい蒔付時期に、5月末まで採油作業が行われた。 昭和20年度予算 四ノ一共進農事実行組合役員名
昭和20年は(登記されず) 組合長 三品 太七 副組合長 穴田 俊一 で昭和22年1月、組合が二つに分かれるまで勤め、組合解散の清算人として整理に当り、昭和23年4月5日付で、解散届を出し、仝月15日解散登記がなされた。 第一共進農事組合 南通 中本通 南本通り 組合長 穴田俊一 副組合長 岡村 進 第二共進農事組合 中通 北通 北本通 組合長 吉村 薫 副組合長 阿部利五郎 二つの農事組合は、良きライバルとして地力増進共励会や、水稲健苗育成、病虫害防除、各種作物増産等の共励会に、互いに優秀さを競って、良い成績を上げた。 さらに食糧増産に努め、両組合とも供出係を設け、食糧供出の完納に、町内模範的な成績を納めた。 ラジオ共同聴取施設 昭和24年の春より、共進第二農事組合長石田勝実外役員は、当時まだ一般化していなかった、ラジオの共同聴取と、有線放送アンプ設備を検討していたが、北見市明電社に依頼し、12月9日より、電柱建、架線に着手、11日に完了し、初放送が開始された。 この共同聴取設備は、支庁管内でも珍しく、遠軽地区で最初の有線放送施設であった。 昭和24年12月11日 竣工 受信機(アンプ)ナショナル交流式出力30ワット 架 線 銅線0.22ミリ 複線4キロメートル スピーカー設置戸数 35戸 総工費 12万円 1戸 3.500円負担 この共聴設備は、1ヶのラジオ受信機と、放送アンプによって、各家庭にラジオの放送、レコード放送、組合の連絡事項を放送するもので、特に屋外拡声器で部落中に、ラジオニュースや、楽しいレコード放送がされた。 昭和25年には、第一共進農事組合でも、ラジオ共聴施設を、本町第二番目に設置した。 これが全村の有線放送設備設置のきっかけとなり、26年の秋、町役場、農協に本機を置き、全村をつなぐ放送がされた。 所得税対策 戦後食糧の不足から、農産物価格が暴騰し、農家の所得も、超過供出などで増加し、所得税が重くかかって来た。 特にりんご栽培農家はお札を物差しで計って、尺祝いをしたなどの噂が出て、税務署の強い査定を受けた。 戦後組織された農民同盟が、農業所得の税対策にあたり、農事組合からも委員を出し、適正課税に努力した。 特にりんご協会では、所得税の対策に全力を上げて努力した。
この所得税も、昭和28年には、課税者僅か5名となった。 両農事組合では、各戸に果樹をはじめ、麦類、馬鈴薯などの作況を、2,3回にわたって調査をし、これを基礎資料として、所得税又は町税の所得計算を、役員総出で行い、公正な申告に努めた。 時には申告が戻されて、再計算をするなど、農事組合の最大重要な仕事であった。 共同防除 昭和27年頃から、水田に姫ハモグリ蠅の発生があったが、29年苗植後の低温続きで、大発生し、苗は全滅の状態となった。 第2組合長は直ちに普及所村産業課に通報し、ホリドール粉剤の買付と、動力微粉機の手配をした。 第一、第二の農事組合は、各1台宛の動力微粉機を購入し、早速共同防除に当り、1週間後に第2回の防除を行い被害を最小限におさめることが出来た。 動力微粉機1台 価格 44.000円 町補助金 20.000円 組合員負担水田反別2/3 畑反別割1/3 24.000円 共同防除係長 三品正吉(第二農事組合) 使用料 水田、畑共 1反 10円 この共同防除は、青年部員が主となって行い、水稲、馬鈴薯、ビートなどに威力を上げていたが、其の後芝浦製糖の動力噴霧機の貸付を受け、微粉機と併せて防除係が管理した。 両組合の防除機械は、37年農事組合の解散で、自治会生産部(現農事部)、防除係に引きつがれた。 其の他の事業 1,各種共励会に参加し、多くの授賞を受けたが、共進第一農事組合は特に、堆肥の増産に力を入れ良い成績を上げた。 昭和26年度網走支庁主催各種共励会 地力増進共励会 1等賞 共進第一農事組合 稲健苗育成共励会 2等賞 共進第二農事組合 網走支庁主催各種教励会 堆肥増産ノ部 3ヶ年連続優勝旗授与 共進第一農事組合 両組合は其の他数多くの授賞を受けている。 二、家族慰安会 両組合共 豊穣祈願春の花見慰安会 家族づれ 夏の海浜海水浴遊び 家族づれ 三、冷害対策救農事業 連続冷害凶作 28年、29年、31年 救農土木事業、砂利敷 砂利採取、客土事業等 四、15号台風被害対策 29年9月27日 未曾有の被害を受けた15号台風の復旧対策、恒久対策等 五、町産業文化振興大会 堆肥増産ノ部5年連続優勝 共進第一農事組合 農事組合の解散 昭和37年3月、町役場、農協、普及所の主唱で農事実行組合を解散させ、新たに自治会の農事部に統合させた。 当時町内の農事実行組合は、50組合を数え、離農などで10戸以内の組合があり、又、一部落に四及至五組合に分かれるなど、町や普及所の指導、農協の経済活動などに、支障があり、農事組合の自主活動も不能となっている組合が多くなったためである。 こうして共進第一第二の両農事組合は解散し、5月1日より自治会に統合した。 5月7日、自治会では合併祝賀会を開いた。 歴代役員名簿
農事部の独立 部落内2つの農事実行組合が統合し、自治会の生産部となり、副会長が生産部長を兼任し、自治会で農事活動費を予算に組み、事業を行った。 42年の自治会総会で協議。 農事活動を振興するため、生産部を農事部と改称し、部長の権限を拡大し、部長宅に放送アンプ設備を2万5千円をかけて設置した。 その後自治会に非農家が増え、自治会費の負担徴収にも問題があり、農事部を分離しようとの話が進み、昭和49年1月の総会で、農事部の分離独立が決議された。 四ノ一農事部 49年1月改選 部 長 1名 部 長 穴田寿之 副部長兼会計 1名 副部長 吉村邦彦 監 事 2名 班 長 6名 農協専門部に委員を選出、農事部の係とする。 農事部は区内の兼業農家も含めて組織され、農協の専門部会制に従って、専門部係を専任し、生産販売活動や、町、普及所の指導連絡活動を、活発に実施している。 歴代役員 49年 部長 穴田寿之 副部長 吉村邦彦 50年 〃 吉村邦彦 〃 工藤 武 51年 〃 工藤 武 〃 石田繁雄 52年 〃 石田敏雄 〃 秦野哲男 53年 〃 秦野哲男 〃 牧野勝一 54年 〃 牧野勝一 〃 三品 勲 54年度農事部役員 部長 牧野勝一 副部長 三品 勲 監事 秦野松寿、石田敏雄 班長 細川涼子、阿部岩雄、石田敏雄、秦野哲男、岡村恒男、阿部 太 専門部委員 果樹部会 穴田寿之、吉村邦彦、秦野哲男 甜菜部会 阿部岩雄 アスパラ部会 安本明雄 樋口雄三 玉葱部会 工藤 武 特作部会 牧野勝一 小麦部会 阿部岩雄 青年部 三品幸義 |
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戻る | 防除組合 | りんご栽培では、病虫害の防除が最も重要な作業であり、最初に手押噴霧機が、共同購入され使用された。 昭和13年経済更生計画で、有光式動力噴霧機が入り、終戦後29年、初田式動力噴霧機有光式動力噴霧機が、2,3戸の共同又は個人で購入された。 これ等は小規模の共同使用で、防除組合の組織には至らなかった。 四ノ一防除組合(若葉) 昭和34年設立 昭和33年、果樹協会の先進地視察で、札幌、平岸、余市方面を廻り、イギリス、ユニマウト製スピード・スプレア(SS)の作業を見て、その高性能と能率に驚嘆した。 南兵村二区南通の耕作者は、帰ると直ちに防除組合を結成し、この秋に購入し使用をはじめた。 一区では秦野美徳、田島澄蔵らが中心となって、SSの共同購入と防除組合の結成、資金や運営について協議し、参加者を決定して、組合を結成した。 昭和34年、四ノ一防除組合 組合員 秦野春義、田島澄歳、市村一恵、三品正十郎、秦野美徳、遠藤清喜、吉村 薫、吉村真己、樋口雄幸、樋口道雄、秦野正弘、三品正吉、三品 栄、秦野 馨、穴田俊一 (35年秦野松寿加入)16戸 組合長 秦野美徳 会計 秦野 馨 監事 樋口雄幸 ユニマウント製スピード・スプレア 一式 ホイルトラクター、フォード 32馬力 一式 SSは4月の末に到着し、農協のトラクターで、試運転を兼ねて第1回の共同防除を行い、その威力に驚き且つ喜んだものである。 6月3日、フォードトラクターの入魂式を行い、共同防除の体制が整った。 次いで秦野美徳所有地に、材料を持ち寄って車庫を建築した。 ゴムホースを引っぱって、灌注竿で一枝一枝手かけの作業から、自走で強力なファンから、微粒噴霧の薬剤が、一斉に5,6m以上も撒布出来ることは、防除作業上、画期的なものであった。 吸水には会場裏の灌漑溝階段の上に、コンクリート製貯水槽を設置し、薬剤の調合に当ったが、後にはヒウラ揚水ポンプを購入し、各戸の井戸や灌漑溝から、吸水利用した。 四ノ一防除組合では、36年、2連式のプラオを購入して畑作の耕転作業に利用した。 共立式SSの導入 昭和40年 動力噴霧機SSの改良と国産化が進み、ユニマウントも古くなり、故障が多く、又りんご栽培も専業を目指して、新植反別が増加したので、四ノ一防除組合では、新たに動噴を購入した。 昭和40年4月29日 入魂式 一、トラクター、ファイアット 45馬力 1台 二、クボタSS 索引式タンク 1.000g入 1台 価格 220万円 災害資金借入 共進防除組合 昭和35年設立 共進第一農事組合では、岡村 進、山崎正康、安本 明等が、SS導入と防除組合の結成を提唱し、第2農事組合員10数名の参加を得て、35年春、共進防除組合を結成した。 組合員 山崎正康、渡辺正喜、鳥井茂雄、渡辺謙吾、岡村 進、東海林武敏、阿部 太、安本 明、佐藤寿喜、掘 勝雄、石田敏雄、三品一男、阿部岩雄、遠藤正雄、三品昌一 組合長 岡村 進 会計 阿部 太 一、ユニマウントSS タンク付き 一式 1台 二、トラクター、フォード 32馬力 1台 三、プラオ 2連式 1台 農林漁業資金借入 年賦償還する。 この防除組合の運営作業は、四ノ一防除組合と、ほぼ同様であったが、腐蘭病のの多発で40年頃には、数戸の組合員がりんごを廃園とし、脱落、ユニマウントSSやトラクターも古くなり、故障修理に困難を感じていた。 農業構造改善事業 昭和42年 昭和42年、南兵村地区が、農業構造改善事業の指定を受け、主幹作目をりんごとして、41年実施計画を樹て、翌42年から、3ヶ年計画で実施された。 りんご栽培振興を目的とした構造事業は、大農機具の共同利用が目標で、両防除組合では、検討の結果表面上、部落一本の共進機械利用組合を結成し、作業上の防除組合は、現在のまま別個に運営することとなった。 共南地区農業構造改善事業 主幹作目 近代化施設計画 共進機械利用組合 42年度(初年度) 一、トラクターファガソンMF135 2台 3.100千円 二、共立式SS 1.200g入 1台 1.840千円 三、ローターベーターハワードEMW 2台 840千円 四、デスクハロー スガノTL 1台 175千円 五、ブロードキャスター 川崎式BW 1台 139千円 六、ホットムプラオ スナノB 1台 140千円 農機具格納庫 112u 1棟 1.456千円 合 計 7.690千円 共進機械利用組合として、補助導入した機械は、次のように両防除組合が購入した。 四ノ一防除組合 トラクター 1台 ローターベーター 1台 デスクハロー 1台 ブロードキャスター 1台 共進防除組合 トラクター 1台 共立式SS 1台 ローターベーター 1台 ポットムプラオ 1台 44年度(第3年目) 一、共立式SS 1.200g 1台 1.840千円 四ノ一防除組合購入 3ヶ年事業費 合計 9.530千円 国費補助額 4.709千円 自己負担額 4.821千円 その内近代化資金借入 3.850千円 共進機械利用組合の組合長は田島澄歳、副組合長には屋桑崎正康が選ばれ、格納庫は部落会館の西側、1反歩を自治会より購入し、建築された。 (渡辺組請負) 2つの防除組合は、格納庫の電気料、税金などの共通経費は、6割四ノ一、4割共進が負担するなど、独自の運営を行って来た。 共進防除組合の再編成 42年 42年の第1次構造改善事業を機会に、共進防除組合では、新たに新植りんご栽培者を加え、畑作業機械を導入して、再編成を行った。 昭和46年度の組合員 山崎正康、鳥井茂雄、渡辺謙吾、阿部岩雄、三品一男、掘 勝雄、石田敏雄、三品昌一、東海林武雄、岡村恒男、阿部 太、牧野勝一、工藤良雄、工藤敬蔵(47年三品一男脱退、竹内東洋児加入) 48年 稲作転換事業 半額補助事業 ローターハロー 332千円 1台購入 49年 単独 ホイルトラクター、ファガソン 135 46年式 中古 1台 1.188千円 クボタ支店購入 51年 単独 ブロードキャスター 160千円 1台購入 多難なりんご栽培の中で、廃園となって、SSの使用者は(りんご栽培者) 46年 11名 48年 10名 50年 6名 51年 5名 昭和51年には、組合員12名中、僅かに5名となった。 この組合は畑作機械の利用が、多くなると、48年頃から共進防除機械利用組合と称していたが、防除組合の再編成が、若葉組合と種々の角度から検討され、52年にりんご栽培者を、若葉防除組合に統合し、共進防除組合は、畑作専門の機械利用組合として新編成することになった。 従って、山崎正晴、牧野勝一、阿部和彦、三品昌一が防除機械SS一式を持って若葉防除組合に加入した。 共進組合は新たに畑作農家数戸の参加者を得て、共進機械利用組合として再発足した。 組合員 工藤 武、工藤秀夫、阿部 太、東海林武敏、岡村恒男、岡村 努、竹内東洋児、石川信一、石田敏雄、佐藤松幸 組合長 工藤 武(辰雄) 第2次構造改善事業が、52年から始まり、次の大農機具が導入された。
歴代役員
四ノ一若葉防除組合 四ノ一防除組合では、43年樋口道雄、45年秦野美徳、市村照子が離農し、13戸の組合員となった。 49年遠藤清喜離農12戸 47年に四ノ一防除組合は、若葉防除組合と改名した。 昔から四ノ一共進の名は、同一名称に使われていたので、農協の組勘や其の他の取引に、2つの組合が混同し、間違いが多発するため改名されたのである。 昭和48年 稲作転換補助事業 一、共立式SS 1.200g 1台 二、ハイストトラクターファガソン135 1台 三、ロータリーハロー 1台 四、サブソイラー 1台 購入金額 4.314千円 補助額 2.157千円 昭和49年 一、ローターベーター 53万円 1台 二、アスパラガス 培土機 上家式 1台 三、作業機格納庫 D型 1棟 若葉防除組合では、48年から役員や、機械係に手当てを支給し畑作の作業機を購入して、一般作業の強化に当った。 51年からは、組合員の慰労費が組まれて、温泉一泊慰安会が催されるようになった。 組織の再編成 昭和52年 部落内のりんご栽培者が激減し、防除組合の再編成が論議検討の結果、52年の春、共進防除組合の4名が、若葉防除組合に加入し、再出発することになった。 組合員 秦野哲男、三品 勲、三品幸義、秦野正則、樋口雄三、秦野松寿、秦野洋一、田島澄歳、三品正幸、吉村英夫、穴田寿之、山崎正晴、牧野勝一、阿部和彦、三品昌一 組合長 秦野哲男 会計 三品 勲 監事 田島澄歳 〃 三品昌一 第2次構造改善事業が、昭和52年度からはじめられ、りんご防除機械はもとより、一般畑作作業機械も導入され、作業機具の格納庫が新たに1棟建築された。 第2次構造改善事業(補助事業) 52年春 プラオ 14×2 1台 ロータリーハロー 1台 ブロードキャスター 1台 ロータリーカッター 1台 秋 トラクターファガソン135 2台 農機具格納庫 D型60坪 1基 53年春 スピードフレア 昭信式 1台 (格納庫は23号線、会館の西に建てられた) 54年度購入予定 トランスプランター(ビート) 2台 フロントローダー一式 1台 ファムワゴン 2t積 1台 単独事業購入(補助なし) 53年 ビートハーベスター 1台 毛利式チョッパー(ビート) 2台 アスパラ培土機 上家式 2台 こうして、りんごの腐蘭病による廃園が急速に進み、畑作への転換から、大型農業機械化経営に変わりつつある。 歴代役員
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