拓魂八十年
土地及び人口 組 織 部落行政 屯田時代 明治大正時代 昭和時代 産業経済
土地及人口 | 屯田給与地 | 屯田入植当時の四中隊一区の区域は、基線二十二号以南の、兵村区域全部(現在の開盛部落全域)で、屯田兵に給与された土地は、29号線まで69戸で、約350町歩が給与された。 兵村内6反歩、第二給与地4町4反歩計5町歩が給与された。 開盛地区に給与された屯田兵は、新兵26戸、古兵で加茂千治が、31年の大洪水で、二給地が流失したため、1戸だけ開盛で給与され、合計27戸であった。 大正3年に開盛橋を境に、開盛部落が分離独立し、現在の部落区域となった。 従って部落内の給与地は42戸で、約230町歩で外に公有財産地を含め、約300町歩(300ヘクタール)であった。 然し明治の末期から昭和の初期にかけて、湧別川の洪水によって、公有地(部落財産地)が流失したり、鉄道用地、又は湧別川堤防用地等に使用され、又灌漑溝用地に買収されるなど、農耕地は減少し、現在は約250ヘクタールである。 |
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部落所有地 | 部落所有地は、現在左記の通りである。 一、会館敷地 南兵村281番地 宅地8畝17歩 名義者 穴田助太郎 秦野兼松 一、試作地 南兵村280 1畑、5反2畝13歩 名義者 秦野哲男 一、四ノ一公園地 南兵村291、292,293番地 畑、面積計1町6反2畝(16.129u) 名義者 石田勝美、遠藤正雄、牧野光一(3名) 一、川上神社敷地 南兵村570番地 山林 1反5畝(1.487u) 南兵村571番地 山林 1反歩 (992u) 名義者 穴田助太郎、秦野兼松 追記 四ノ一公園地(旧幼駒運動場)、1町6反2畝は、名義者の遺産相続登記に、多額の費用を要するとして、自治会永年使用を条件に、町役場へ寄附し、昭和53年11月12日登記された。 従ってこの土地は自治会の所有地ではなくなった。 四ノ一会館敷地 明治44年6月青年会が、はじめて23号線風防林地(現会館の北東)に建てられた。 この風防林は十間巾で兵村宅地を囲んでいたが、当部落は原野で樹木が少なく、防風の役に立たず、部落共同で公有財産委員会より貸与を受け、隣接地主30戸に小作として貸し、小作料を部落の収入としていた。 明治40年の記録では、3町9反5畝、小作者30名小作料一等地80銭二等地60銭三等地40銭(反当)である。 大正6年相羽静太樋口幸吉穴田助太郎等7名で、共同払下を出願し、大正11年5月17日付で売払許可となり、共同払下を受けた。 昭和4年この風防林を小作者に解放、分筆登記を行った。 時の部落区長秦野兼松は総代会と協議し、会場敷地として4畝7歩(約4.6ヘクタール)を、金十五円で買入れ、5月16日部落所有とし、秦野兼松名義で登記した。 然し昭和6年土功組合の灌漑溝支線が通過することになり、会場移転の必要から、敷地を土功組合に売却し、7月8日新らたに、樋口耕平所有の現在地5畝3歩を、金百十円で購入し会場を移転した。 昭和7年1月15日土地売買登記を行った。 これが四ノ一会館の敷地である。 青年耕作地 屯田兵は5町歩の土地を給与されたが、四中隊200戸1.000町歩と同面積の土地が、別の公有財産として兵村に給与され、現役中から公有財産取扱委員会が管理し、一般に小作地として貸与されていた。 明治39年制度が変わり、兵村部落財産地として、町村の行政管理となった。 その後公共設備や行事の費用に当てる為め、この土地が売払いされたが、昭和に入って自作農創設の指導で、小作人に売払が行われた。 部落財産地の整理に関して、屯田戸主会の強力な要望があり、昭和7年南兵村部会で、一区二区三区の部落会場敷地寄附として、部落財産地、14町7反歩の売却が決定した。 昭和7年12月、当部落では青年耕作地として、7反6畝20歩の部落財産地(現鳥井氏所有地)が寄附され、共進青年会員の栽培技術研修の場であり、資金造成の役割を果たした試作地は、終戦後の農地解放で農地買収となり、昭和24年8月、230円で、秦野 馨、樋口雄幸に売渡された。 勿論部落所有地として、両名の名義が借用されたのである。 昭和30年新農村建設計画の土地交換分合で、試作地を近接の鳥井茂雄へ、鳥井の土地(23号線西1線附近)を、樋口耕平へ、樋口の土地(現会館敷地の西隣)を試作地として交換した。 秦野馨の名義で登記され面積は6反3畝であった。 其の后昭和43年、共進防除組合の機械格納庫敷地に1反1畝(南兵村280−2)5万5千円で売却し、現在は5反2畝13歩(1.134u)である。 試作地は40年頃、青年団員の減少から耕作出来ず、部落民に小作されており、秦野哲男の名義で登記されている。 四ノ一公園 四ノ一公園は、元南兵村部落財産地で、昭和8年、共進愛馬倶楽部会長秦野兼松等が、馬産振興のために運動し、無償で、部会より貸付を受けた。南兵村112番地牧野1町2畝(約1.62ヘクタール)であった。 この土地は岡村小太郎が小作していたが、気持ち良く提供された。 幼駒運動場として整地、牧柵を造って、周囲に落葉松を植樹するなど、幼駒の放牧育成に大いに利用された。 終戦後の農地買収で、昭和24年愛馬倶楽部が432円で買受け、石田勝美、遠藤正雄、牧野光一の3名の名義で登記した。 昭和38年5月、部落の農耕馬の飼育が激減した為め、愛馬倶楽部(会長遠藤正雄)を解散し、自治会の畜産係に合併し、幼駒運動場を自治会に寄附した。 その後子ども会育成会員や、自治会の労力奉仕で運動場を整備し、児童遊園地整備、児童会館を建設し、四ノ一公園として桜苗木の植込みなど、公園づくりに努力している。 神社敷地 川上神社は最初兵村内の宅地が、空き地となっていたのを払下げ、そこに神社を建てるよう協議されていたが、当時は売払が許可にならず、現在地23号線の東山麓、道路敷地内に建設した。 然し神社敷地としては道路巾6間では狭いので、南兵村二区菊地 勤より、道路の北側1反歩の寄附を受けた。 ヌッポコマナイ2.232番地ノ2原野壱反歩で、大正11年12月15日、穴田助太郎、秦野兼松両名名義で登記した。 神社南側は部落財産地で、約1町8反歩を神社敷地として、無償貸下げを受け部落民に小作させ、この小作料で神社維持経営がされていた。 大正13年4月1日の貸付契約は、次の通りである。 市村喜次郎 1町2反9畝6歩 水野直次郎 3反9畝18歩 田島 八郎 8畝12歩 この土地は、昭和4年に上湧別神社所有地として登記されたが、小作料は部落の収入としていた。 終戦後の農地解放で、昭和25年市村一恵外数名に売払いされた。 神社の南側の山林は5名の共同山で、地主達は神社境内に必要な土地は、自由に使ってほしいとの意見であったが、昭和16年稲垣音松、田島八郎、市村喜次郎、東海林作太郎、小島鉄治の共同山から神社に隣接地タチカルシナ237番地ノ2山林壱反5畝歩を金参拾円で譲受け、穴田助太郎、秦野兼松の名で登記した。 以上が部落の所有地の概況である。 |
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戻る | 戸口の変遷 | 明治30年屯田兵入植 33戸 216人 明治31年屯田兵入植 36戸 243人 合計 69戸 459人 以上2ヶ年の屯田兵入植で、我が部落が形成された。 明治32年6月9日、福田彦蔵(仙次郎兄)33年5月、井上富治(繁治弟)が、中隊長の許可を得て、分家した。 36年屯田兵解隊の年小関文四郎が分家し、39年2月秦野兼松、40年4月小島鉄治、谷口栄吉が分家している。 こうして日露戦役後は一般移住者も、屯田兵を頼って入植する者が一時に増え、39年末には91戸となり、43年には108戸、大正元年10月発行の区費納入告知書では114戸となっている。 大正3年、開盛部落の分離独立によって、現在の区域になり、戸数は69戸と半減した。 其の後部落明の移動が激しく、昭和に入って、定着する者が多く落ちついた。 この間戸数は大正5年の71戸と、最も少ない昭和2年の51戸の間60戸前后となり、終戦後帰還者の分家などで、70戸の間を前後していたが、31年を境に漸減し、60戸前後で現在まで続いている。 年代別戸数調べ
ちなみに昭和30年は、1戸平均6・86人、40年は1戸平均5・18人。 52年は1戸平均4・28人と、家族数が減っている。 |
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人口の推移 | 当部落に一般移住者として最初に入植した人は不明であるが、明治38年までの人は宮城県人平間重左ェ門、平間栄治郎、愛知県松井源治郎の外中島利信、小島籐吉、後藤又三郎、大場丑松、鈴木隠恵 39年入植者 渡辺熊治郎、渡辺多利治、渡辺貞三郎、鈴木利左ェ門、平間円八、山本久義、高橋留太郎、林新八(区長日誌。39年村税戸別割より)阿部利平 41年3月中村常三郎の記録がある。 39年2月入植した渡辺熊治郎は、遠藤清五郎を頼って、一家9人をつれ、棟梁として数名の弟子と共に来住し、この年南兵村三区神社天満宮を造営し、翌40年川上神社殿を造営し、以後長く定住して多くの功績を残した。 当部落に来住した移住者の大半は、現在の開盛部落に多く入植したが、其の出入りは多く確実な氏名は把握出来ない。 明治43年使役簿 部長 穴田 助太郎
この使役簿では明治43年4月で108戸となっており、現在の一区域は72戸、開盛区域は36戸である。 しかし、41年4月の部落惣代会で、新移住者は来住より一ヶ年間、区内の諸事を免除することになったので、この使役簿又は区費徴収戸数よりは実質は多い。 44年度の区費徴収令書は、123号発行されている。 43年〜45年の分家及新移住者 兵村内 市村儀三、菊地善の丞、幕田善八、吉村秀太郎、村井初太郎、渡辺善三郎、松原政造、久本富夫 開盛地区 小野惣太郎、山崎音松、中村巳之八、高橋弥吉、中野弥市、岡崎萬次郎、青木 清、長谷川久助、難波善右ェ門 大正年間の来住者 (数字は移住年) 横山菊松、村形惣治、山本三之助2,工藤留治、阿部与惣治、阿部岩治、吉田豊治、長倉鶴治郎、竹内連勝4,工藤与平治、大村音治、遠藤庄兵衛、菊地長之助、渡辺栄治、菊地善八、伊藤寅彦、須藤茂七、工藤留蔵、中島兼太郎、今野吉五郎、佐藤寿喜、竹内 大正6〜7年部落居住者 69戸
昭和前期来住者 (数字は移住年) 加瀬良吉6、上楽和七、大島義久、掘敬助、牧野源一、牧野肇、岩見嘉平、鈴木庄蔵、森田栄松、藤原政造、北向喜 八、市村儀三、石田勇一(かつ)、石川福次、笹島としゑ 昭和5〜6年部落居住者
昭和17年部落居住者 51戸
昭和後期来住者 水落恒彦、佐藤みどり、細川稔男、佐藤としゑ、鳥井リウ、吉田喜久夫、塚田 寛 和田山善吾、石田 誠、酒井 清、佐藤鶴治、浦島正安、藪 等、武山芳夫 本宮英一、高橋磊三、岡本浩三、佐々木亮、鶴岡勝治、屋中敏之、今野陽一 植木孫一、菅原康夫 昭和31年部落居住者
屯田兵の転出 明治40年頃から屯田兵の中には、新開地の生田原、佐呂間、湧別原野の開拓に意欲を燃し、家族を残して転出するもの、又は商工業に転出する者が多く、加えて大正3年開盛部落が独立したので、兵村部落内に残った屯田兵は、大正末期には僅かに12戸で、戦死者又は死亡者の直系が2戸計14戸である。 その外に屯田兵の家族は18戸であった。 開盛部落へ転出 17戸、内戦死又は死亡遺族6戸 井上八右ェ門(繁治父)、上家梅吉、佐藤小三郎、川野小太郎、細川綱治、安本喜代八、阿部熊次郎(忠義父)、谷口勇吉(栄吉弟)、阿部四郎、田島芳平、会田小七、脇島末三郎、栗木重太郎、稲垣兼吉、井上兼吉(亀蔵養子)、加茂勘蔵(千治弟)、佐藤今蔵(助蔵父) 屯田市街へ 6戸、 内戦死遺族1戸 相羽静太、長谷川幸八、小関与八、杉谷芳太郎、福田仙次郎、中村辰平(俊禎弟) 遠軽へ 5戸 能勢 勲、南 緩蔵、大泉富蔵、小川国次郎、中橋兵次郎 生田原へ 8戸 佐藤喜久治、野田喜一、秦野又三郎、浜口鉄蔵、小野寺半右ェ門、福田甚吉、矢萩市次、中野弥作 湧別へ 3戸 宍戸運三郎、中山長蔵、服部熊次郎 佐呂間へ 3戸 小島善助、遠藤善蔵、諸岡元太郎 網走へ 田宮森太郎、西村幸一 白滝へ 落合仲次郎、原野秋蔵 富美へ 大甕慶蔵 中湧別へ 野田松次郎 旭川へ 中村平五郎 東神楽へ 河瀬弁次郎 内地帰還者 3戸 宮崎市之助、小野 豊、石坂岩彦 部落外転出屯田兵 53人 部落内戦死死亡屯田兵 4人 部落内屯田兵 2人 大正末期の状況であるが、屯田兵69戸のうち、部落内の屯田兵12戸、直系2戸、合計14戸が定住した。 これは他の兵村に比べて誠に少ない数である。 其の他に屯田家族系統では、10家系が部落内に定住した。 一般転出者 (屯田兵を除く)
現在居住者 家族数60戸255人 昭和54年4月
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部落 行政 |
組 織 | 屯田時代 | 明治30年31年に屯田兵入地し、第一区隊として、部落集団が出来たが、兵村として中隊本部の軍政下にあり、普通部落の自治組織はなかった。 井戸組 然し6戸に1カ所の官給井戸を、中心とした井戸組があり、毎日の水汲みや、交替で風呂をわかして交互に入浴する、又官給の臼で米麦を精白するなどの日常生活から、全国各地から集り、言語風俗の異った隣人が、相互に組合い親睦を深めるために、大きく役立った。 給養班 区隊には、中隊の指揮統治組織として、二箇の給養班が置かれた。 これは軍隊内務班に似た業務を取扱い、兵員だけでなく家族を含め取締監督した。 はじめは、中隊本部付きの下士官が、給養班長を努めた。 32年6月から屯田兵の下士官が、給養班長を命ぜられ、助手に上等兵がなったので、いくらか部落的要望がまとめられ、中隊本部に進言したり、区隊内の取りきめが、実施されるようになった。 第一給養班長 樋口幸吉 東1線より西 35戸 第二給養班長 相羽静太 東1線より東 34戸 2つの給養班長が打合せて、区隊内の屯田兵を集め、協議を行い、中隊長の許可を得て実施した。 樋口日記(32年5月より9月まで) 一、区隊ニテ空地ノ場所有之ニ付払渡シヲ願ヒオ区隊ノ共同財産トスルコト 二、前項共有財産地ニ於テ神社ヲ設置スルコト 三、前項ニ件ニ関シ特ニ委員ヲ撰挙スルコト 四、委員ハ四名及至八名トシ内壱名を委員長一名ハ副長ヲ撰定ス 五、区隊ノ休養日ヲ取極メルコト 六、祝事死去ノ如キコトニ関シ組合規定ヲ改正スル件 七、其ノ他一切ノ事ヲ契約スル件 八、第二給与地内ニ作道ヲ築造スル件 九、第二給与地境界ニ両方ヨリ三尺宛ヲ残シ都合一間ノ作道ヲ造ルコト 以上の事項が協議されて、休養日や祝事葬式等の申合せがされた。 葬式組の編成 災厄の助合いとして従来、8戸であった葬式組も、拾弐戸に改められた。 (一) 委員ノ報酬及ボ一切ノ費用ハ区隊ヨリ負担ス (二) 区隊ノ休業日ハ祭日ノ外毎月一、十、二十日ノ三ヶ日ヲ定メ、内五、六ノ二ヶ月及七、八、九ノ 五ヶ月ヲ除ク休業日ニ家族一人タリ共業ヲナスス者ハ五十銭以上一円五十銭ノ材料トス (三) 死去及其ノ他ノ組合ハ、区隊六班ニ分ケ、一給養班ヲ三ツニ分ケ、イ組十一戸、ロ組十二戸、 ハ組十戸、二、ホ、ヘノ三組ハ各十二戸トス (四) 組合ハ香典トシテ白米五合及金十銭、祝儀ハ金十銭ト規定ス 其ノ他ハ金五銭ヲ最小限ト定ム (五) 死去ノ宿方ハ組合ヘ中飯ヲ出シ 特別ノ時ニハ酒飯ヲ出スコト(別記) 香典ハ組合中ハ壱戸ニ付五銭、其ノ他ノ班ハ一戸ニ付弐銭ト是ヲ定ム 以上の記録から見ると、今で云う隣組が、井戸組二つを合せて結成された。
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明治、大正時代 | 明治36年3月31日、屯田兵解隊によって4月1日から部落は、湧別戸長役場の行政下に入り、旧四中隊第一区部落が発足した。 部落総会を開き、区内申合規約を作り、組を決定、区長其の他の役員を選出し、民主的な部落自治が、始まったものと思われるが、記録はわずか、雑役簿(36年5月記)があるだけである。 この区内申合規約は、39年4月の総会で修正を行い、次いで大正元年9月修正された。 これは39年湧別村が、二級町村制となったことゝ、部落民の増加による、組編成の改正及規約の整備がなされたものである。 区内申合規約 (朱筆で) 明治三十六年創設ナルモ修正 永久保存 大正元年九月 第一区 区内申合規約 第一条 本申合ノ目的ハ区内一般住民ノ親睦ヲ旨トシ協力一致福利ノ増進ヲ計リ 以テ善良美風ヲ慣習スルコトニアリ 第二条 本申合規約ハ本区内ニ居住スルモノノ規準トス 第三条 本申合規約ヲ実行スルタメ区内ヲ十一組ニ分ケ其区域ヲ左ノ通リトス 第四条 区内ニ左ノ役員ヲ置ク 一、区長 壱名 一、副区長 壱名 一、協議員 拾壱名(各組ニ壱名ヅツ) 第五条 役員ハ名誉職トシ其任期ハ壱ヶ年トス 但シ惣会ノ決議ニ依リ年報酬ヲ与フコトヲ得 第六条 区長ノ許ニ有給小使壱名ヲ置ク 其任期ハ一年トス 但シ小使ハ区長是ヲ任免ス 給料は惣会ノ決議ニヨル 第七条 役員ハ区内ヨリ撰挙シ投票ノ最高点ヲ以テ当撰人トシ 同点数ノモノ二名以上アル時ハ 年長トシ全年令ナルトキハ抽撰ヲ以テ之レヲ定ム 第八条 投票ノ結果ハ撰挙長ヨリ当撰人及ビ区内一般ヘ報告スベシ 但シ協議員ハ其組内ヨリ互撰ス 第九条 当撰人ハ正当ノ理由ナク辞任スルコトヲ得ス 第拾条 役員ニ欠員ヲ生ジタルトキハ次点者ヲ以テ補欠スルモノトス 但シ補欠ニヨリテ役員トナリ タルモノノ任期ハ前任者ノ残期間トス 第拾一条 役員ノ任期ハ毎年二月一日ヨリ翌年壱月参拾壱日迄満壱ヶ年トス 第拾二条 区内ノ経費ノ収支予算ハ協議会ニ於テ編成シ総会ニ附シ処決スルモノトス 第拾三条 定期総会ハ毎年壱月開会シ年度施設事業経営経費予算ノ編成並ニ庶務ノ状況決算ノ 報告ヲナシ役員ノ改撰其他重要ナル事ヲ決議ス 但シ区長ニ於テ必要ト認ムルカ協議 員参名以上若クハ区民弐拾名以上ノ建議ニ依リ臨時総会ヲ開会スル事ヲ得 第拾四条 時機ニ依リ総会ニ代ワルル協議会ヲ以テスル事アルベシ此場合ニアリテハ協議員ハ直 チニ受持部内一般ヘ決議事項ヲ通達スルモノトス 尚急施ヲ要シ協議員会ヲ開ク暇ナキ 時ハ区長専決処分ヲナス事ヲ得 但シ次ノ会合ノ時ニ報告シ承認ヲ求ムベキモノトス 但シ部内報告ノ結果協議員参名以上ノ再提出アルトキハ再議ス 第拾五条 会議ハ半数以上出席ニアラザレバ開会スル事ヲ得ス 第拾六条 議事催促ハ別ニ是レヲ定ム 第拾七条 右ノ事項ハ本区内ニ居住スルモノ堅ク遵守スベキモノトス 一、天災地変ニ際シ区長ヨリ集合ノ示達シアル時ハ速ニ集合シ区長ノ指揮ニ従フベシ 一、火難盗難ニ罹リタルト認ムルトキハ何人ニ拘ラズ発見者ハ直チニ最寄ノ家ニ通知 スベシ 但シ前項ノ場合ハ何人タリトモ 非常集合ノ板木ヲ打ツベシ 一、区内ニ死亡者アルトキハ一般会葬スルモノトス 一、区内ニ死亡者其他水火災盗難ニ罹リタル時ハ第三条ニ定ムル組別ニ依リ其組内ニ 於テ尽力スルモノトス 一、兵屋区画外ニ死亡者アル時ハ其組内勿論該死亡者ノ旧組員は尽力スルモノトス 若シ旧弊屋区画内ニ死亡者アルトキハ準是 一、区内ノ経費ハ勿論、スベテ課税ハ納期日内ニ必ズ納付スル事 一、区長ヨリ集合ノ達シアルトキハ止ムヲ得ザル事故ニシテ集合シ能ハザル時ハ其理由 ヲ区長ニ届出ズベシ 一、凡テ集合為シタルトキハ区長ヨリ開散ノ命アラザレバ退散スルコトヲ得ズ 一、集合ノ記号左ノ通リ定ム (注 板木打方) 一、非常集合 乱打 一、火災集合 半鐘 乱打 一、通常集合 三ツ拍子 一、小使召換 四ツ拍子 第拾八条 道路橋梁ノ修繕ハ区内ノ夫役ヲ以テシ壱番地ヨリ遂次是レニ充ツ 若シ当時者ニシテ 事故アルモノハ区長ニ届出代人ヲ出スカ又ハ夫役換算金ヲ以テスルコトヲ得 但シ 夫役換算金ハ夫役一日ヲ要スルトキハ金五拾銭半日ヲ要スルトキハ金弐拾五銭トス 区長ノ所見ニ由リ次回ニ繰越ス事アルベシ 夫役金ハ壱週間以内ニ区長ニ納入スベシ 第拾九条 工事施業ハ毎年四月中及八月中ニ於テス 第廿条 区内ノ雑役夫ハ未番地ヨリ順次之レニ充ス (注 兵村宅地以外ノ者) 第廿一条 夫役ハ男子拾五才以上六拾才以下トス 第廿二条 区長、副区長ハ、協議員ヨリ諸帳簿ノ監査ヲ申出タル時ハ是レヲ阻ムコトヲ得ズ 職務規程 第廿三条 区長ハ区内一般ノ村治上ニ関シ一切ノ事務ヲ掌ルモノトス 第廿四条 区長ハ右ノ帳簿ヲ置キ一切ノ事務ヲ執ルモノトス 一、各戸所有地調 一、戸籍簿 一、金銭収支明細簿 一、夫役簿 一、雑役簿 第廿五条 副区長ハ区長ヲ補佐シ区内ニ係ル一切ノ経費ヲ徴収シ会計ノ事務ヲ掌ルモノトス 第廿六条 副区長ハ会議ノ際ハ副会長ノ権ヲ有シ及議案ノ説明ヲ為スモノトス 第廿七条 副区長ハ区長事故あるとき代理ナスモノトス 第廿八条 会議ニ当リ区長ハ副区長事故アルトキハ協議員ニ計リ兼任スルコトヲ得 第廿九条 区長副区長ハ上湧別申合規約ニ依リ事務ヲ取ルモノトス 第卅条 協議員ハ区内一般ノ利益ヲ謀リ総会議ニアリテハ説明ノ任ニ当ルモノトス 第卅一条 協議員ハ区内臨時費及緊急事件ヲ総会ニ替ヘ議決スルノ権利ヲ有ス 第卅二条 協議員ハ区内経費徴収ニ際シ其受持組内ヲ取纏メ主任者ヘ交付スルモノトス 第卅三条 協議員ニ於テ必要ト認ムル時ハ区長、副区長ニ就キ諸帳簿ノ監査ヲ為スコトヲ得 附則 第卅四条 本規約ノ修正ハ総会ヲ以テス 第卅五条 本規約ヲ実行セシメンガ為メニ各自記名捺印ナシ置クモノトス 記名捺印者 上家梅吉 井上八右ェ門外(全員九十名) 注 (別記区内申合規約後頁へ) 明治四十一年四月二十七日ノ惣代会ニ於テ新来住者及区内分家者並ニ不幸者ニ封スル取扱ヒニ関シ左之通リ議決ス 新米移住者取扱ノ件 一、区内ニ新来住者アルトキハ其月ヨリ起算シ壱ヶ年間区内ノ諸事ヲ免除シ年限満チタル トキハ其年度ニ限リ月割ヲ以テ経費ヲ賦課徴収ス 但しシ新米移住者ト難トモ同居 者ハ之ヲ免除ス 分家者取扱ノ件 二、区内ニ分家者アルトキハ前項ヲ適用シ、六ヶ月間ハ諸事ヲ免除ス 三、本年自一月至四月間ニ移住亦ハ分家ヲ為セシ者ハ、本月(四月) 事ヲ為シタルモノト 見倣シ本月ヨリ起算シ之ヲ実行ス 四、夫婦生活者ニ於テ死亡及不幸ノ生ジタルトキハ其貧富ニヨリ区内諸事ヲ免除スルト否 トハ区長ノ権限ニ任ス 注 (別 記) 規約改正 大正十年一月三十日、役員会ニ於共進青年会取締役ヲ部内一般ヨリ推撰ト改ム 大正寿一年一月廿三日、定期総会ニ於テ総会ヲ二十日ヲ毎年一月廿五日ト改ム 以上 この区内申合規約は、数度の改正で整備され永く適用された。 組(隣班)の変遷 屯田現役時のイロハ組の時代から、組編成は開盛地区に3組出来た。 大正元年の11組を最高にし、開盛部落分離後は、兵村内の戸数減少のため組も減少した。 明治36年 6組 兵村内各通2組迄 明治39年 8組 基線道路1組 開盛地区1組増 大正元年9月 11組 基線2組 開盛3組 兵村6組 大正2年 8組 基線2組 兵村内6組 |
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戻る | 昭和時代 | 其の後永らく8組編成が続き、昭和17年、隣保班が国の制度とされるようになり、以後組を班と称するようになった。 終戦後兵村内の戸数が減少し、中通りが一ヶ班となり、続いて南通、北通りも一ヶ班となった。 戦后基線通りが一ヶ班増えており、現在は六ヶ班となっている。 (人口推移の項参照) こうして部落の組織は、区長副区長の役員と、組又は班より選出された協議員の役員会議と、総会と云う自治組織が、時に惣代会となり班長会議と名称が変ったが、組織の体系はほぼ同じであった。 戦時中統制が強くなって、食料をはじめ、衣料品其の他の日用品まで、配給されるようになり、部落に、はじめて、配給係及び納税係が設けられた。 自治会組織 昭和37年3月町条例で、農事実行組合を部落会に合併して、新たに自治会が発足した。 この時副会長を2名とし、1名は従来の会計庶務を担当し、1名は生産部長を兼任し、今までの農事組合の仕事を担当した。 自治会長 1名 副会長 会計庶務 担当 1名 副会長 生産部長兼任 1名 副1名 文化厚生部長(班長兼任) 1名 副1名 経済部長(班長兼任) 1名 副1名 各班から班長が選ばれ、班長の中から部長、副部長が選ばれた。 生産部は43年頃から農事部となり、又体育部が新設された。 昭和49年1月の総会で、自治会より農事部が独立した。 農家戸数の減少から、農家だけで生産活動を強化するためであった。 |
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役員 | 最初の役員 明治36年から、部落の自治が始まったが、初代の区長は、現役中給養班長であった。 樋口幸吉が選任されたと云う。 37年38年の日露戦役中は不明で、戸主の父が代行したち云われる。 大正15年、開村30年式典に功労者として表彰された、能勢 正、小野寺恒三郎の両名が、区長を勤めた事は間違いないと思われる。
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戻る | 財 政 | 財 源 屯田現役時代は、区隊内の神社の建築や祭典其の他の経費は、各戸平均に割当徴収された。 36年部落の体系が出来て、申合規約を定め、事業計画や予算をたて、必要な経費は区民より徴収した。 外に財源として、風防林約4町歩を部落財産(公有財産委員会)より無償で借受け、この小作料を部落の収入源としていた。 又神社敷地として、部落財産より約1町8反歩を借受、終戦后農地解放で、売払いされるまで、この小作料を、神社経営維持費に使われていた。 会計の変遷 以下部落会計の変遷を述べてみよう。 明治40年会計 区長 河瀬弁次郎 収入金 288円60銭 区費徴収小作料寄附金 支出金 250円20銭 内 訳 川上神社建築費240円20銭 区長手当25円 青年補助6円 この外に仮橋架橋費、渡船購入費等が特別会計 大正元年(明治45年) 会計 区長 福田仙次郎 収入金 経常部 196円52銭 臨時部 124円30銭 計 320円82銭 支出金 経常部 174円32銭 主ナ内訳 区長報酬 50円 副区長報酬 10円 青年会補助 9円 小使料 30円 半鐘購入代 19円90銭 臨時部 136円16銭 主ナ内訳 水害救助経費 43円64銭 仮橋架設代 60円 大正7年度会計予算書
昭和2年経常部歳出決算書
昭和19年度予算書 昭和30年、昭和40年予算表 昭和52年、53年予算 以上の記載で、部落財政の流れを推察することが出来るが、明治時代には小使料、神官の礼は、各戸より裸麦稲黍などの食料を、徴収して支給されており、大正に入って金銭の支給となった。 又財源として、兵村部落財産地の貸地料と、道路の砂利敷など、部落共同で請負い、その収入金を、部落会計の財源としていた。 この外区長は使丁を使って、連絡文書の発送など行っていたが、終戦后は使丁(小使)制度が廃止された。 区費の徴収 部落財政の基礎となる区費は、屯田兵時代は均等割で負担している。 屯田解隊後は、村費徴収の等級割制度を取入れ、収入や財産を査定して各人の等級を定め、年間の経費を割り、徴収令書を出して徴収した。 生活の苦しかった大正、昭和の初期には、誰に比べて等級が高い、あの人は低いとか、一等上げるか下げるかなど、役員の大事な仕事で、種々の紛争が起きることが多かった。 等級割は戦後36年まで続けられたが、37年農事実行組合を合併、自治会に改組された時、所得割、反別割、資産割、均等割で、割出し賦課計算し徴収に改正された。 その後農家の減少で反別割を廃し、現在は 所得割(町民税賦課額) 45% 固定資産割(町評価額) 35% 均等割 20% |
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戻る | 財 産 | 部落会館の歴史 我が部落で、集会場の建設が計画されたのは、明治39年の春、時の区長小野寺恒三郎の時で、満州出征の屯田兵はまだ凱旋していなかった。 (区長日誌) 二月二日 集会処創立委員、祭典委員ノ件 凱旋ノ件ニ付水野宅ニテ会議ス 二月九日 集会処建設ノ件ニ付評議員及建設委員同日六時出頭通知同夜自宅ニテ会議ス 三月一日 集会処建築費徴収ノ為令状調印ス 三月六日 集会処創立委員木材運搬ノ為 雪除人夫 橋向ヒニ (以下不明) 青年会場の建設 明治44年 明治44年5月、共進青年会長中村辰平から、青年会場の建設について、区長迄要望書が出された。 区長福田仙次郎は、直ちに5月10日惣代会を開き、部落青年共有の集会所の建築を決定した。 こうして建築は渡辺熊次郎が請負い6月1日に竣工した。 場所は中通り北側の風防林を4畝10歩を借用し(現在会館の北側灌漑溝敷地) 青年会場 木造平屋柾葺 建坪13坪 間口3間 奥行4間 玄関1間×1間 はじめ12坪(3間×4間)建築費坪10円 計120円の予定であったが、後に玄関を1坪加えて、13坪となった。 収入 一、参拾五円 元建物売払代金 一、四拾円 橋梁弐ヶ所架設請負金収入 一、四拾五円 堤防修築工事請負収入 計 壱百弐拾円也 支出 一,六拾円也 建築用材,並板六拾坪、貫、樽木、小牧等の請負人阿部利平外弐名へ支払 一、六拾弐円也 大工請負人渡辺熊次郎へ支払フ 計 壱百弐拾壱円也(外ニ余興費ニ十円ヲ部落民負担ス) 内訳 人夫費 一日 六十銭(十五人) 大工費 一日 一円十銭(三十人) 柾一束 三十銭 板一坪 五十銭-六十銭 タルキ 一本 十五銭 柾葦賃一坪 十二銭 会場設備備品決算書 収入 一、金 五拾五円拾銭也 寄附総額 支出 一、金 参拾四円四拾銭也 天井九坪 敷居一ヶ、障子弐間 額壱面代 一、金 弐円六拾銭也 障子壱間 一、金 九円五拾銭也 薄べり(ゴザ) 拾八枚代 一、金 五円也 暖炉 壱台(薪ストーブ) 一、金 五拾銭也 ランプ 壱ヶ 一、金 参拾銭也 半紙五帖、障子張用 一、金 壱円也 鉄瓶 壱ヶ 合計五拾参円参拾銭也 差引残金壱円八十銭也 以上建築費設備費、祝賀余興等の総計は、約二百円程度であった。 会場が木の香も新しく新築されて、あらゆる集会に利用されるようになったが、特に青年の学習の場として利用され、わが部落として画期的な事業であった。 青年会場の移転 昭和6年、湧別土功組合の支線工事のため、青年会場の移転が必要となり、区長小島鉄治副岡村小太郎等が、会場、消防番屋、火の見櫓、馬頭さんの移転について交渉した。 6月11日 移転経費計572円を請求する。 7月 3日 土功組合より移転費400円決定報告あり、移転する会場の敷地を、樋口耕平所有地(現在地)に選び、買入の交渉に入り、7月8日敷地買収の契約が成立した。 樋口耕平所有地 5畝3歩 価格 土地代 100円 作物代10円 合計110円 この敷地は翌昭和7年1月15日登記した。 移転建築委員 委員長 小島鉄治(区長) 副委員長 岡村小太郎 委 員 渡辺熊治郎、渡辺善三郎、竹内連勝 大工棟梁 渡辺熊治郎 人 夫 部落民共同事業 7月9日より移転工事に着手した。 会場は移転を機会に増築し、3間に長さ5間半の16.5坪とし、更に1間に2間の玄関をつけた。 移転会場 木造平屋 柾葺 建坪 18.5坪 大工料 38円50銭 渡辺熊治郎 建具料 5円 菊地長之助 大工工作以外は部落民が出役し、7月末に終了した。 この外の移転工事 一、 消防番屋、火の見櫓 消防組直営工事 一、 馬頭観世音 門柱松の移転、青年会員請負工事 55円 各種移転工事総経費 366円97銭 11月 青年会場 消防番屋 電灯新設工事 1円也 昭和7年部落門柱建設(水松材) 寄贈者 水松材 秦野兼松 1本 吉村友弥、山崎佐太郎 安部川銀助共同山 1本 2月10日部落共同事業で伐採搬出する。 4月 一区中通入口両側に建立し、以来約50年、南兵村一区の表札を掛け、部落の文化財産的存在である。 部落会場の新築 昭和23年 青年会場が老巧化し、冬期には大きなストーブに、山ほど薪を焚いても、会場が暖まらず、新築したいと云う希望から、青年団では昭和16年から5ヶ年計画で、積立貯蓄を行い、先づ初年度20円後毎年10円の積立を行った。 然し終戦后、経済不安や物資の不足で、建築に取りかかれず、昭和22年部落会長岡村 進は、青年団の要望で、先づ建築材料の用意にかかった。 折柄中土場の国有林より薪炭材の払下げを機に、森林愛護組合長渡辺善三郎の尽力で、松材の払下を受けた。 翌23年部落総会で、部落共同事業で、伐採搬出し、社名渕白滝の製材業那須某に、移動テーブル式製材機で、必要材別に製材した。 青年団会議録に 4月5日 会場新築問題について、顧問牧野、樋口2名出席建築委員遠藤清喜、秦野松寿により、充分討議する。 5月6日 青年団員の協議による新会場の設計を、細川斉次郎氏宅にて作表する。 団幹部4名出席する。 こうして会場の設計が出来上がり、直ちに旧会場の取壊しにかかり、新会場は細川斉次郎が請負、工事に着手した。 5月28日 旧会場取壊し作業、共同事業 5月29日 会場跡の片付整地 青年団 6月 1日 基礎工事目掘り コンクリート 共同事業 6月20日 上棟式 7月8.9日 壁小舞 壁土運び 青年団 7月10.11日 荒壁塗り 共同事業 9月15日より 砂壁用粘土、砂運搬 青年団 砂壁塗り 共同事業 9月23日 会場整理地均し完成する 午前中祝賀会準備 午后3時 会場落成祝賀会 新会場にて 部落民全員出席し、岡村会長より棟梁細川斉次郎へ感謝状を贈呈し、自分達の手で完成させた新会場の落成を祝った。 会場設計 建坪30坪 基礎コンクリート 木造平屋 中2階1部屋 天井ベニア使用 外便所並薪納屋の建築 新会場の東南に、 1間×2間 3坪を新築した。 9月30日 青年団主催落成祝賀会 女子青年の手料理で祝賀会を開き、部落の各種団体長、近隣青年団長、歴代青年団長等を招待し、会場の落成を祝った。 10月19日午后3時 共進青年団主催 会場新築記念敬老会を開き、敬老者24名並部落会長 青年団顧問2名を招待した。 部落会場増築工事 昭和28年 会長 吉村 薫 戦後民主化が進み、生活の合理化が追求され、婚礼祝賀会が、部落会場を使用されはじめ、又部落の大きな行事などを行うには、会場が狭かったり、別に火防団ポンプ置場も、改修の必要にせまられていた。 昭和28年、会長吉村 薫は会場増築の件を総会にはかり、承認された。 一、増築は現在の会場北側に4間巾で行う 一、増築分の正面に舞台を設ける。 一、火防団ポンプ置場を2間巾に併設する。 会長副会長班長が建築委員となり、設計士細川 勝が棟梁で大工作業を請負い、9月より着工した。 一般人夫は部落共同事業で出役し、10月15日完成した。 増築工事 建坪 4間×4間 16坪 内 火防団ポンプ置場 2間×2間 6坪 会場 4坪 舞台 4坪 物置 2坪 四ノ一会館新築 昭和46年 会長 工藤 敬蔵 昭和40年代に入り、近代的な防寒建築が、住宅や会館に用いられるようになり、各部落でも、近代的な暖かい会館が新築され、我が部落でも会場の新築が、要望されるようになった。 昭和46年1月の総会で、会館建設について協議され、準備委員が選出された。 会場建設準備委員 委員長 秦野 馨 委員 牧野光一、工藤敬蔵(会長)、秦野松寿(副会長) 穴田寿之(火防団長) 三品 勲(火防団副) 準備委員会は秦野 馨、牧野光一を中心に、現会場の材料を有利に利用し、現在地に暖かく使用に便利な設計に努力すると共に、町の助成の獲得に、町議会議長渡辺正喜の協力を得て、見込みを立てることが出来た。 5月 1日 臨時総会 会長召集 一、経過説明 準備委員長より 一、会館建築設計並建築費概算見積説明 一、町費助成見透 施工業者 説明 協議す 一、新会館の建設を全会一致で可決承認す 一、建築委員の選任、選考委員により推せん 委員長 秦野 馨 副 牧野光一 委 員 工藤敬蔵、他各班長6名 委員会計 秦野松寿 建築委員は数回の会合を重ね、渡辺組と接渉し、設計の手直しするなど、工事見積を取り、渡辺組と請負工事契約を行った。 8月27日28日 旧会場取壊作業 共同事業 9月 1日 基礎工事コンクリート打 共同事業 9月 9日 上棟式 12月 4日 竣工受渡し 12月5日午后1時 落成式祝賀会開催 落成式は、工藤馨会長挨拶、秦野委員長の工事報告、秦野会計より会計報告があり、建築功労者に感謝状が贈られた。 感謝状贈呈 建築功労 秦野 馨、牧野光一(募金委員長) 施工者 渡辺組社長 渡辺正喜 区外寄附者 秦野美徳、渡辺マツエ、秦野兼夫、小田井宗重 佐藤 馨、岡村 忠、吉村明雄、遠藤 勉 佐々木照子、村上清司 この日渡辺町長、掘下農協組合長の外自治会外寄附者を招待し、婦人部総出の手作料理で盛大な祝賀会を開いて、新会館の落成を祝った。 . |