コンサート2009

ごあいさつ

余市室内楽協会 代表  牧野 時夫


   本日は、余市室内楽協会のコンサートにお越し下さり、まことにありがとうございます。余市室内楽協会は、昨年創立20周年を迎え、「コンチェルトの夕べ」と称して、ヴァイオリン、フルート、オーボエ、チェンバロの独奏者をすべて自前のメンバーで用意して、プログラムを組みました。本年は、小編成で演奏できる初期の交響曲を集めて「シンフォニーの黎明」と称し、自前で用意できないパートは小樽や札幌の音楽仲間に手伝っていただいて演奏いたします。とはいっても、初期の交響曲は、協奏曲に近いものが多く、特にモーツァルトの協奏交響曲など、独奏ヴァイオリンと独奏ヴィオラにおいては、かなり高度なテクニックと音楽性を必要とします。しかし、今回も独奏者を外から呼ぶのではなく、余市在住のメンバーで独奏を務めます。プロの札幌交響楽団でもソリストを自前のメンバーが務めるのは珍しいことですから、このような小さな町で、このようなことが可能だというのは、北海道では唯一と思いますし、全国的にみても極めて珍しいことではないだろうかと思います。惜しむらくは、このような生演奏に適した音響のよい会場が、余市には存在しないということですが、いずれはそのような会場が余市にできる日が来ることを期待したいものです。
 我々の演奏には、まだまだ未熟なところが沢山ありますが、生演奏ならではのワクワク・ドキドキ感はたっぷり味わっていただけるのではないかと思います。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。

演奏曲目

0.新井満〜板谷知子編/千の風になって (テノール独唱:鈴木史郎)・・・故 篠田壽生氏を偲んで

1.モーツァルト/フルート四重奏曲 第4番 イ長調 K.298
第1楽章 アンダンティーノ
第2楽章 メヌエット
第3楽章 ロンド(アレグレット・グラツィオーソ)
(Fl. 瀧谷まゆみ、 Vln. 牧野時夫、 Vla. 嶋田 宏、 Vc. 山川雅裕)

2. ヨハン・クリスチャン・バッハ/シンフォニア(大序曲) Op.18−2 変ロ長調
第1楽章 アレグロ・アッサイ
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 プレスト
              休憩 10分

3. ハイドン/シンフォニー(交響曲)第6番「朝」ニ長調、Hob.I-6
第1楽章 アダージョ〜アレグロ
第2楽章 アダージョ〜アンダンテ〜アダージョ
第3楽章 メヌエット
第4楽章 アレグロ(フィナーレ)

  4. モーツァルト/シンフォニア・コンチェルタンテ(協奏交響曲)第2番 変ホ長調 K.364(320d)
第1楽章 アレグロ・マエストーソ
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 プレスト(ロンド)
(独奏ヴァイオリン:牧野時夫、 独奏ヴィオラ:嶋田 宏)

曲目解説

1. ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
フルート四重奏曲 第4番 イ長調(1778)

  シンフォニーと直接関連はないが、この後で演奏するヴァイオリンとヴィオラの協奏交響曲と同時期に作曲されたもので、シンフォニックな響きを得るための最小人数である4名による楽曲というものを、まずお聴きいただければと思う。モーツァルトの室内楽曲のうちでも、フルート四重奏曲はとりわけ娯楽的な作品と言える。それらはアマチュアのフルート愛好家の依頼によってか、または社交的な楽しみのために書かれたものであって、手軽に演奏して楽しく、また聴いて親しめる作品となっている。フルートは、その明るい音色と繊細な感情表現能力によって18世紀にとりわけ愛好された楽器であるが、モーツァルトの時代の楽器は機能性に欠けるところがあり、特に正しい音程を得ることが難しかった。このためモーツァルトはフルートをあまり好まず、ある時には「御存知の通り、ぼくは耐えがたい楽器(=フルート)のために作曲させられる時には、すぐ頭がぼけてしまうのです」とさえ語っている(1778年2月14日付の父宛の書簡)。しかし、これらの四重奏曲におけるフルートの玲瓏とした響きを聞くと、結局フルートも、木管楽器の扱いの名人であったモーツァルトの手により最も見事に生かされたと実感しないわけにはいかない。このためこの4曲は、フルーティストの貴重なレパートリーのひとつとして、協奏曲とともに広く愛好されている。

2.フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)
   交響曲 第6番「朝」(1761)

第7番「昼」第8番「夕」と共に、3部作となっている。交響曲の父と呼ばれるハイドンが、まだ本格的な交響曲のスタイルを確立する以前のバロック風の曲で、チャーミングな名称もあって、100曲以上あるハイドンの交響曲のうち、初期のものの中では、最もよく演奏されている。交響曲とはいうもの、第2、4楽章ではヴァイオリンとチェロで独奏パートが完全に独立して設けられ、他の楽章ではフルートやファゴット、ホルンも独奏的に活躍する箇所が随所にあり、4楽章形式で交響曲のスタイルにはなっているが、合奏協奏曲(または協奏交響曲)と言ってもよい感じで、雰囲気的にはディベルティメントやセレナードという趣もある。
第1楽章は、日の出の雰囲気を伝えるように,ゆったりと徐々に明るくなっていくアダージョの序奏に続いて,アレグロの主部になる。この気分の転換は実に鮮烈で見事。全編通じて、覇気とユーモアに溢れた明るい曲。

3.ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735〜1782)
シンフォニア 作品18の2(1773)

  クリスチャン・バッハは、同じ作品番号のシンフォニア群を何回か作曲しているが、そのうち最後のものである「6つのシンフォニア作品18」は1772年から77年にかけて作曲され、今回演奏するのは、その第2曲。原題では「大序曲」となっているが、実質的にはシンフォニアと言える。編成的には、弦楽5部の他にオーボエ、フルート、クラリネット、ホルンが2本ずつと、ファゴット1本が入っている。まだ誕生したばかりの楽器であったクラリネットを交響曲に使用したのは、クリスチャン・バッハが最初である。
クリスチャン・バッハは、ハイドンより3歳若かったが、ハイドンがモーツァルトと競いあうようにして4楽章制の複雑な交響曲の形式を大成させて行ったのとは違い、3楽章のシンプルな古典的序曲形式のため、日本語では交響曲と訳さずにシンフォニアと呼んでいる場合が多い。シンフォニアというのは、イタリア語でシンフォニーのことなので、交響曲と訳してもよいのだが、元々シンフォニアというのは、イタリア・オペラで歌のない管弦楽だけの序曲のことを指し、それが緩急緩の3部形式となり、それを演奏会用に独立して演奏するようになったところから交響曲としての発展が始まった。しかし、クリスチャン・バッハのシンフォニーは、まだその序曲時代のスタイルの域を脱してはいない。
クリスチャンは、ヨハン・セバスチャン・バッハ(=大バッハ、1685〜1750)が50歳でもうけた末子(11男)で、音楽の才能が ありイタリアへおもむきオペラ作曲家を目指す。そして、イギリスに渡り王室の保護を受けオペラで成功を収める。15歳で父・大バッハを失い、異母兄弟の次男エマヌエルに育てられ、兄から作曲とクラヴィーア奏法を学ぶ一方、イタリアのミラノで最新の音楽を身に付け、やがてロンドンに渡ってオペラ、オラトリオ、シンフォニアなどで成功を収める。また、1765年に世界最初の会費制コンサートを行ったことでも知られる。彼のオペラは、現在演奏されることはほとんどないが、シンフォニアや協奏交響曲、ピアノ協奏曲は知られている。彼は生前、非常に高く評価された大作曲家であり、幼少のモーツァルトも彼のことを敬愛していた。彼の時代、バッハと言えば1にクリスチャン(ロンドンのバッハ)、2には兄エマヌエル(ベルリンのバッハ、またはハンブルクのバッハ)を指しており、決して大バッハではなかった。大バッハが再評価されるのは、例のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲の再演以降である。
クリスチャン・バッハの大きな特徴は、優しい愛の感情と明るくふくよかな響きである。彼の音楽には、大バッハのしかめつらしい対位法はほとんど顔を見せず、イタリアで学んだ魅力的な「歌」に溢れている。傑作とされるシンフォニアや協奏交響曲を聞くと、歌うようなメロディーと洗練された詩情を感じさせ、決してモーツアルトに引けを取っていない。
しかし、彼の絶頂期は、年をくってからようやく結婚した73年から78年くらいまで。その後は進行するアルコール中毒で体力が衰え作品数も少なく、注文があったにも関わらずオペラは一つも書けていない。そんな彼を襲ったショッキングな事件が、財布を任せていたメイドの使い込みで、これによって彼は金持ちから多額の債務を抱える身に転落し、このことが死期を早め、彼が生まれた年の父の年齢より長く生きることができなかった。訃報を告げられたモーツァルトは、父親宛ての私信の中で、「音楽界にとっての損失」と述べている。そして、生前は絶大な名声を誇ったクリスチャンも、死後は急速に忘れられて行く。かつて、兄エマヌエルがクリスチャンを評して「あいつの音楽は耳には快い。が、精神には何ももたらさない」と述べた。発言当時から、これは、かつて面倒は見たものの、血のつながらない弟の大成功への嫉妬は免れえなかった頑固なエマヌエルのやっかみだ、と捉えられてきたが、兄のこの評価は、クリスチャンの急所を突いている。確かにエマヌエルの発言は言い過ぎだが、その音楽には、確かにハイドンのような革新性というものはないし、モーツァルトのような陰影にも乏しいと言える。しかしそれは、クラシック音楽というものに、何か高尚なものばかりを求めるからであって、当時のポピュラー音楽であったと考えれば、もっと評価してもよいのではないだろうか。

4.ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調(1779)

9歳(1764年)で最初の交響曲を書き、88年に書かれた後期3大交響曲まで41曲の交響曲を残したモーツァルトだが、第30番を書いたあとに3年ほど交響曲から遠ざかっていた時期があり、この頃に2曲の協奏交響曲というものを書いている。77年から翌年にかけてパリを訪れ、マンハイム楽派の影響を受けたモーツァルトは、78年にパリで、当時彼らの間で流行していた協奏交響曲をフルート,オーボエ,ホルン,ファゴットの4人の管楽器奏者のために書いている。その後、ザルツブルグに戻ってから書かれたもう1曲の協奏交響曲がこの曲である。ピアノとヴァイオリンのための協奏交響曲も同時期に作曲したが、完成されずに破棄された。
協奏交響曲は、複数の独奏楽器がオーケストラと協調的に響きを作る性格を持ったもので、協奏曲でありながら交響曲のような雄大さも備えている。しかしこの協奏交響曲の独奏パートには、かなりの名人技も要求され、2重協奏曲と言った方がしっくりくる。 モーツァルトの初期の交響曲は、クリスチャン・バッハの影響が濃厚である。後期の円熟した交響曲には、同時期に作曲していたハイドンの影響も随所にみられるが(ハイドンの第1交響曲は、モーツァルトのそれよりも7年早く、最後の第104番はモーツァルトの第41番より7年遅い)、この協奏交響曲を書いたことも、後期の一連の優れた交響曲が生み出されるきっかけの一つとなったと言う事は十分あり得ることだろう。
なお、弦楽器の独奏がある楽曲としては非常に珍しいフラット3つという調性で書かれているが、原曲のスコアでは、独奏ヴィオラのパートはシャープ2つのニ長調で記譜されている。これは、半音高く調弦することにより、弦の張力を増してより強い音を出すことができるのと、シャープの調性で響くようになっている弦楽器にとって、明るい響きが得られるようになるためであって、自身もヴィオラ奏者であったモーツァルトならではのアイディアである。編成は,弦楽合奏にオーボエ2本とホルン2本が加わっただけで、これは6曲(第5番までと番号なしの習作)ある彼のヴァイオリン協奏曲などと同じだが、第2楽章をはじめとしてかなり大人の雰囲気になっていて、モーツァルト作曲の弦楽器が独奏となる曲の中では最高傑作と言ってもよいものである。
第1楽章冒頭は、クリスチャン・バッハのシンフォニアOp.18-2に、とてもよく似ている。真似したような感じさえするが、強弱の付け方がモーツァルトの方では断然ユニークなものになっている。古典的協奏曲の形式通りのオーケストラによる長い序奏のあと、弱音から伸びてくるヴァイオリンとヴィオラの導入部がとても魅力的。ちなみに、独奏部が出てくる直前の長い長いクレッシェンドが、いわゆるマンハイム・クレッシェンドというもの。この楽章では、独奏ヴァイオリンと独奏ヴィオラの自由な対話と、息もつかせぬ競い合うような掛け引きが、たっぷり楽しめる。第2楽章は、この曲の最も愛すべき部分。モーツァルトらしい哀愁を帯びた旋律。最初ヴァイオリンで奏でられる憂鬱なメロディーを引き継いだヴィオラは、ヴァイオリンよりも少し明るさを帯びて光も差す。モーツァルトの短調の楽章で長調が現れるところは、本当に美しい。そして、すっかり気分を一新した、第3楽章の歓びに溢れた明朗快活さは、音楽の楽しさというものを満喫させてくれる。まさに名曲と呼べる作品。

出演者

   第1ヴァイオリン
 牧野時夫、井坂有美子、久保田睦、古谷 甫 
   第2ヴァイオリン
 嶋田 宏、嶋田覚子、舘巖晶子、廣田洋子、中岡亮子、金田 勇
   ヴィオラ
  清水三佐子、板谷知子、浦 宏吉、古谷洋子
   チェロ
    山川雅裕、村上朋広(賛助、札幌)
   コントラバス
    荒木雅幸
   フルート
    瀧谷まゆみ、寺島隆司
   オーボエ
    石田浩子)、廣瀬修平 (賛助、札幌)
   クラリネット    河西真人(賛助、札幌)、三浦美央(賛助、小樽)
   ファゴット
    高嶋孝寛
   ホルン
   屋根谷了司(賛助、小樽)、笠 小春(賛助、札幌)

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