農地は誰のものか?

    土地は、農民にとって生命である。農地を所有できない農民が、いかに悲惨な状況におかれるかは、歴史が証明している。今なお第三世界の農民が貧しいのは、一握りの地主がほとんどの土地を握っていることに最大の原因がある。日本では、第二次大戦に負け戦勝国のアメリカにより農地解放がなされ、初めて農民はまともに暮らせるようになった。楽ではなくとも、自分の土地で自分の食料を作ることさえできれば、サラリーマンほど所得がなくとも、これほど独立自由なことはない。では、社会主義国の場合はどうなのだろうか。地主による収奪はないわけだが、独立自由とはいかない。旧ソ連でも国営農場ソホーズよりは、民営のコルホーズの方がましだったようだ。中国の人民公社は、自給が基本にあった時代は、理想に近かった。しかし最近では、個人所有を大幅に認めるようになったのはよいが、資本主義的な競争により万元戸なども現れて混乱してきているのではないだろうか。コミューン的な農場としては、イスラエルのキブツが最もうまく行っている例だろう。日本でもヤマギシ会など全国的に展開するような自給的共同体があるが、閉鎖的なところが気にかかる。アメリカでも大規模企業農場が多い一方で、古い歴史を持つアーミッシュなどのコミューン農場も残っているところが面白い。だが、やはり世界的に最もうまく行っているのは、家族経営農業なのではないかと思う。日本もヨーロッパも、現在は家族農業が基本であり、これは守っていくべきものだろう。最近は北海道でも、共同経営で法人化するところが増えてきていて、それはそれで悪くないのだが、農場に従業員として雇われる企業的なものも出てきていることには、ちょっと危険性を感じる。
 私は、農家になる当初から、借地での農業は考えていなかった。あまりよい話をきかなかったからだ。学生時代にはコミューンに興味を持ち、そういう所を短期で経験したりもしたが、今更家族で加わりたいと思うような共同体はなかったし、たまたま離農する農家から譲ってもよいという話があったので、最初から農地を購入することを前提に北海道農地開発公社というところに一旦農地を買い上げてもらい、3年間の無償貸与期間の後に国の農地取得資金を借りて、自分の土地を得た。農地を所有するためには、各市町村にいる選挙で選ばれた農業委員の承認が必要であり、農業者でなくては所有できない。農業者と認められるためには、農業(研修)経験が一定以上あることと、一定面積以上の農地を保有することが必要である。この下限面積は北海道では本州よりかなり広いのだが、果樹園芸が盛んな余市町では例外的に少なく、私が入植した当初は1.5ha、現在は1.1haあればよいことになっている。しかし、農地を売る場合、なかなか切り売りはしてくれないので、下限面積で土地を手に入れるのは現実的には難しい。しかし、本州に比べれば、はるかに農地を手に入れやすい。先祖伝来の土地ではないという自由さが、農地の流動を容易にしているからである。
 ここで、北海道開拓の歴史について少し学んでおこう。北海道は、今でこそ日本の食料基地という位置づけをされており、食料自給率30%の日本において北海道だけでみれば100%を大幅に超えている。しかし、たった百数十年前にはほとんど農地らしい農地はなかった。明治から戦後にかけての開拓によって、道路や鉄道が敷かれ、農地が開墾されて今日の北海道がある。幕藩体制が倒され明治時代となり、和人に蝦夷地と呼ばれていたアイヌモシリは北海道と名付けられ、国内植民地として位置づけられる。しかし、なかなか開拓のための労働力がなく、当初は囚人労働が主体だった。自由民権運動の政治犯なども多かったがその扱いは悲惨を極め、彼らの多くが鎖に繋がれたまま道路やトンネルに生き埋めになっている。次いでは没落士族の棄民政策としての屯田兵による開拓がある。明治後期からは、資本主義の発達により貧しい農村から甘い言葉で巧みに連れてこられた者たちが、かつての囚人労働並に恐ろしいタコ部屋(監獄部屋、土工部屋)で奴隷労働させられた。今の道内大手の建設業者は、これで大きくなったわけである。昭和に入ると外地より連行された朝鮮人・中国人による強制労働が主体となる。これは本当に凄惨を極め、ダムやトンネル工事、鉱山などできわめて多数の死者を出している。北海道開拓は、このような血塗られた労働によりその基盤が作られたわけだ。
 農地開拓の方を詳しく見ると、明治中期に国有地(アイヌから非道な方法で奪い取った土地)を資本家・華族(旧藩主・公卿・高級官僚)らに安価で払い下げる国策により、多数の小作人を擁する巨大地主(不在地主)が誕生し、本州ではまれな一千ha以上の巨大農場が数多く誕生した。自作農を夢見て北海道に渡った人が開拓を担っていた明治25年には自作農は65%あったが、徐々に没落して、明治40年には50%になり、大正4年には30%にまで落ち込み小作農が圧倒的になる。小作料は本州ほど高率ではなかったが、作況に関係なく取られたため収穫の安定しない稲作では実質的には半分以上の年貢米を地主にとられた。畑作では現金での小作料であったが、収穫物を安く買い叩き高利貸しも兼ねる悪徳仕込商人からも絞り取られ、小作人は貧窮におとしめられていた。そんな中で、大正後期から昭和初期には小作争議が頻発し、小作人らは日本農民組合北海道連合会などの組織を作り闘った。小樽の生んだプロレタリア作家・小林多喜二の「不在地主」は、富良野の磯野農場の小作人らが、小樽で海産物商を営む地主に対して小作争議を行なった実話をモデルに書かれた。この争議では、小樽の労働者がスト、デモ、集会、ボイコットなどにより農民に協力し、労農提携が理想的な形で勝利をもたらした。
 また、北海道は御料地(=天皇の土地)も国内で最も多かった。戦前において天皇は政治的・宗教的な最高権力者であるだけでなく、国内最大の地主でもあったわけである。この御料地は有力者に貸出され、彼らはそれを小作人に闇で又貸しすることにより、地主のように利益をむさぼるという現実があった。昭和になり、地主よりも資本家の力が増すようになり、また戦争遂行のためもあって地主に対しては一定の規制が加わるようになって行く。1938年(昭13)の小作料統制令や、1942年(昭17)の食糧管理法などがそうである。しかし、地主制の基本が大きく変わることはなかった。地主制そのものの解体は敗戦によって初めてもたらされた。
 しかし、例外がいくつかある。その一つが現在私のいる余市の土地である。ここはもともと明治14年に700haの黒川毛利農場として発足し、その後地主が二度ほど変わり、昭和には駒谷農場となっていた。しかし敗戦の直前1944年(昭19)に、小作制度廃止を申し出た小作人の願いを地主が聞き入れ、137名の小作人に全てを払い下げた。そして、18haの共有保安林を無償で提供し、現在もこの地域の農家が共栄組合というものを作り共有財産として保持している。
 もっと有名な例が、ニセコの有島農場で、札幌農学校で社会主義思想に目覚めた有島武郎が、父親から譲り受けた450haの農場を、大正11年に69戸の小作人に解放した。こちらは無償だったが、有島の考えにより当初はすべてが共有財産とされた。また、もっと以前には、明治37年から40年にかけて短期間であったが、ニセコにほど近い現留寿都村に、社会主義者やキリスト者による平民者農場という農場が作られたこともあった。 いずれにせよ、これらは稀な例に過ぎない。農地解放は、占領軍GHQによる民主化政策の大きな柱として、皇軍の解体、財閥の解体と共に遂行された。当初日本政府の立案した農地改革案は、占領軍GHQの承認を得ることができず、GHQ主導による農地の国家強制買収・旧小作人への売渡による農地解放がきわめて短期間に断行された。しかし、日本人がアメリカの押しつけにいやおうなく従っただけではなく、もともと地主からの解放を求めて闘っていた農民運動の存在があったからこそ実行できたと言えるだろう。もちろん、地主による抵抗もあったし、旧土人保護法によってアイヌに給与された土地のうち、和人によって開拓された土地が不在地主と認定されて、再びアイヌの手を離れてしまうという問題も起こっている。旧土人保護法が廃止されてしまった今、アイヌ民族の権利を保証する法律が全くないのは非常に問題である。
 地主制のなくなった戦後は、戦災と食糧不足から立ち直るべく、外地からの引揚者や失業者など4万5千戸が戦後開拓者として入植したが、それに先がけ敗戦直前にも拓北農兵隊という都市戦災者の集団移住があった。しかし、戦後開拓地の多くは明治以来の開拓で手がつけられなかった悪条件地であったため、70年までに7割は離農し、ほとんど定着できなかったのである。
 その後、農業の姿が大きく転換する時がやって来る。それは、日本がもはや戦後ではないと復興期から高度経済成長期に入り、労働力不足が問題となり、また原料を輸入し工業製品を輸出するという体制を維持するため、またアメリカの余剰農産物を受け入れるため、自民党政府が農業政策を自給中心から、米以外は輸入する方針に変えたからである。それは、農業所得を労働者並にするという名目の元に作られた農業基本法(昭和36)により遂行されることになる。しかし、そこにうたわれた選択的規模拡大は、選択的という点だけが成功し、麦や大豆、飼料・油脂・繊維作物などの生産はほとんど放棄されてしまった。一方、規模拡大の方は都府県では兼業化によりほとんど進まなかった。それでも工業への労働力移行はうまく行ったわけで、基本法により名目は達成されなかったが本音の目的は十分に達成されたのである。ところが規模拡大については、北海道だけが国内で唯一進行した。当時の農家戸数23万戸は現在の8万戸へと激減し、1戸あたりの経営面積も平均15haに増えたが、都府県は今でも1ha強という状態である。これは、北海道の農民が農地に執着しなかったことと、兼業するための産業がなかったからである。では、規模の大きくなった北海道の農家は裕福かというと、全く話が違う。都府県と違い北海道では専業農家が多いのだが、労働者より所得の多いのは兼業農家だけであって、専業農家は所得がぐっと少ない。規模拡大で増えたのは借金と労働時間だけである。広い農地を所有しても、昔の地主のようなぼろ儲けは無理なのである。
 つくづく農業は、経済の論理でやってはならないと思う。経営の合理化とか、省力化ということは工業的発想なのである。生命を育てる農業は、子育てと同じだと考えるべきではないか。子どもを育てるのに、元を取るために投資するとか、そんな考え方でやって成功するはずはない。必要なことは愛情であり、育てているつもりが親も子どもに育てられるのである。作物も愛情をもって育て、消費者においしく食べてもらうことを喜びとすれば、農業も捨てたものではない。今の農家は、「何を作ってももうからない。土地さえ買ってくれる人がいたらいつでもやめたい。」なんて、ぼやいてばかりいるから、だめなんである。国の言うことや、農協の言うことをきいて、良かったためしなんてないのに、いつまでもお上をたよろうとする根性がだめなんである。一方で、生存競争で勝ち残ろうなんて、一人だけ生き延びようなんて根性もいただけない。
 農業は、ビジネスとしてでなく、命の糧を得るための暮らしの基本として、あるべきものだと思う。有機農産物も、JASによる認証制度がこの4月から始まり、世界から入って来るオーガニック農産物との競争の時代に突入した。商品としての農産物と闘うことから始まった日本の有機農業運動は、この問題にどう立ち向かうべきなのか。有機農業をまじめにやってきた農家は、世界的なオーガニック農産物のグローバル・スタンダードの流れに、何か危険なものを、かぎとり始めている。有機農業は、ビジネスになり得るものではないし、そうなるべきでもないのである。もっともっと本質的な人間の営みなのであり、国から認証してもらう必要もないし、消費者も認証マークを選択しさえすれば本物を手に入れられると考えてはいけない。
 私は、有機栽培で豊かな生命を育んでいるこの農地を守り抜こうと思う。「えこふぁーむ」は、決して個人的なエゴでもつ土地ではない。ナショナルトラストのように、環境を守るために個人の力で守る土地ではあっても、個人の土地ではないのである。三里塚(成田空港)や忍草(北富士演習場)、沖縄伊江島(米軍基地)では、農民が、文字通り命をかけて農地を守った歴史がある。これは公共の福祉に反して個人の利益を主張したのとは違うのだ。自分の生命を落としても守らねばならないほど、それほど農地というのは大切なものなんである。


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