資本主義に未来はない

      千年代最後の年、世界を一つの市場とする自由貿易体制の確立を目指すWTO(世界貿易機関)会議のため、各国の首脳がアメリカのシアトルに集まった。しかし、そこに招かれた環境保護や人権擁護団体などNGO(市民グループ)は、WTOそのものの粉砕を叫んで大混乱となり、先進国主導での合意も失敗に終わった。これは、自由資本主義体制にも先が見えて来たことの、何よりの現れであろう。世界で最も自由貿易の恩恵に預かる一方で、先進国中で唯一食糧自給率が極端に低い日本は、途上国の協力をとりつけるため、「農業には、単なる商品生産だけでなく多面的な価値があり、自由競争だけに委ねることはできない。」との主張を行なった。WTOが合意に至らず思惑は外れてしまったのだが、その主張は全く正しかったと思う。
 今世紀初頭、資本主義による人間疎外の超克を目指し、労働者革命により社会主義国家が誕生した。その後世界は、資本主義国家と社会主義国家という二つの体制が反目し合う状況が続いたが、社会主義国家の手本であったソヴィエト連邦は、世界初の社会主義革命の成立から、わずか70年ともたずに自壊してしまった。労働者独裁による計画経済国家というものが、資本主義以上の人間疎外を引き起こしたことの当然の結末と言えるだろう。一方で、社会主義的修正を加えながらも発達してきた資本主義国家は、ますます経済的発展を謳歌し、自由市場経済こそ正義とするアメリカを頂点とする資本主義体制の一人勝ちかのように見える。60年代にベトナム戦争反対や黒人の公民権運動などから生まれた若者中心のカウンターカルチャーも、結局は体制に取り込まれてしまい、アメリカでも日本でも、今や若者ほど体制に対して無関心で享楽主義的である。
 しかし世界では、自由貿易により先進国と途上国の、いわゆる南北格差はさらに拡大している。アメリカ合衆国内部でも、個人の貧富の差はますます増大し、4000万人が貧困状態にあるといい、高層ビルの谷間にホームレスがあふれている。日本でも、貧富の差は増大傾向で、一億総中流はもはや虚像となりつつある。東京や大阪、名古屋などの大都市では、この年末年始を越せずに路上で死ぬホームレスも数百名になることだろう。資本主義では必ず好況と不況を繰り返し、戦後最も失業者の割合が増えた現在、自ら命を断つ中高年の男性も異常に増えている。誰かを切り捨てなければ生き延びられないような社会になるくらいならば、経済成長などしない方がましだ。また、国栄えて山河滅びるよりも、国が滅びても豊かな自然が残った方が間違いなく人々は幸せに暮らせる。
 経済発展は、物質的な豊かさ、生活の便利さなどを与えてくれはしたが、一方で深刻な環境破壊、成人病や凶悪犯罪など、多くのマイナス面をももたらした。金利というものによって右肩上がりの経済発展が不可欠な資本主義に代わり、永続的な経済システムが生まれなければ、未来はない。自由市場経済の、どこが正義だと言うのだろう。持てる者と持たざる者の自由競争など、最初から勝負は決まっているではないか。それが公平であるはずがなく、アメリカに他国の保護主義を批判する権利はないだろう。(アメリカだってかなりの保護主義政策をとっている。)資本主義とは、お金という虚構の力で、他人の労働と天然の資源を搾取することに他ならず、現代社会の様々な危機は、まさに資本主義が招いたものである。これからは、競争ではなく共生、搾取ではなく自立ということが基本の社会を築かなければならない。もう現在の経済システムでは限界である。
 もちろん、お金は便利なものであり、それを完全に否定し、すべての人に農村での労働を強制した、カンボジアの旧ポルポト政権のような社会は、理想の社会とはほど遠いアンチ・ユートピアであろう。ポルポトは、ユートピア建設のために知識人を中心に何百万人も虐殺した。問題は、お金の遣い方であって、お金自体に罪はない。似たような危険性が、過激な環境主義者や、ディープ・エコロジストにもある。彼らは、すべての生命を重んじる生命中心主義によって、逆に人間の価値をおとしめるアンチ・ヒューマニズムに陥ってしまう。地球環境を守るために、個々の人間の意志を軽んじることが正当化されてよいということはない。それは全く本末転倒である。人間による人間の支配こそが、環境を破壊する根源なのであって、人間が他人を支配することがなければ、環境を破壊することもないのである。何が悪なのか、社会的視点を欠いたら本質を見誤ることになる。
 話は飛躍するようだが、添加物や農薬に関しても、それがどのような要求によって使用されているかを見抜くことが最も重要なのであって、何でもかんでも否定することはどうかと思う。例えば、ワインに入っている酸化防止剤(亜硫酸)やハムに使われるリン酸塩などは、多量に使用すればもちろん毒だが、これらは昔から使って安全性も確かめられているもので、これを全く使用せずにおいしい製品を作ることは非常に難しい。合成保存料や合成着色料のようなものと混同して否定すべきではないと思う。ワイン中の亜硫酸は、もし添加しなかったとしても発酵の副産物として検出される成分であり、もしこれで人体に影響があるだけワインを飲もうと思ったら、その前にアルコール中毒で死んでしまうだろう。農薬についても、世界的に有機農産物に使用が許されているただ2つの農薬として無機銅剤(ボルドー液)と無機硫黄剤があるが、これらは環境中でも問題が無視できる程度だし、特にワインブドウでは発酵中に酵母が消化してしまうので、発酵後のワイン中には全く残留しない。一方、合成農薬はどんなに薄めて散布しても、ワインを分析すれば必ず検出される。そして、環境中でも残留して生態系を狂わせる。また、天然の木酢液なども、精製度の低いものだと発ガン性物質がかなり含まれていて、天然=安全ということにもならない。無農薬でなければならないとか、天然なら大丈夫ということにこだわり過ぎると危険である。もちろん、何のこだわりもなく何でも食べるのは一番危険であるが。
 危険な添加物や農薬は、食品が生命のためのものでなく、利益を生む商品とされる時に使用されるものだ。これらを追放するためには、資本主義を超える経済の確立が求められるし、生産者と消費者との間にお金のやりとりだけでない関係を築く必要がある。


>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧