今こそ鎖国を!

     貿易の自由化によって自由を得るのは、誰なのか。海外の産物を得ることができるようになる市民であろうか。しかし、それによって失うものは余りにも大きい。自給できるはずの食糧を失い、伝統的な産業や技術がすたれ、世界をまたにかけることのできる大手資本にすべてが牛耳られることになる。自由を得るのは、大資本以外の何者でもない。市民も農民も、ほんの少しの利益と引き換えに、大幅に自由を奪われかねないのである。経済のグローバル化という美名のもと、多国籍企業がますます大手を振るい、自給体制が破壊され、雇用条件や、環境、安全性といったものまで侵されていく。我々はきっぱりと、貿易の自由化に対して反対ののろしをあげるべきなのだ。
 自由ということ自体は、間違っていない。国境の垣根を取り払うことも、結構なことである。しかし、現在のような為替レートでの貿易行為が、果たして公正なものと言えるのだろうか。日本では1時間で稼げるお金が、発展途上国では1か月働いてようやくもらえるかどうかである。途上国には、先進国からの債務を返済するために、さらに借金を重ねてどうにもならなくなっている国がたくさんある。経済行為という名目で、さらには経済援助などというあたかも慈善行為のように聞こえる言葉の裏で、先進国は途上国から、その資源や労働力を搾取しているのが現実なのだ。このことに、先進国の良識ある市民は気づきつつある。昨年5月、WTO(世界貿易機関)の閣僚会議が開かれたジュネーブでは暴動のあらしが吹き荒れ、同月にバーミンガムで開かれたG7サミットでは、途上国の債務削減を求める市民のデモに5万人が集結したという。彼の国には、途上国の農民や労働者との連帯を求める市民がそれだけいるというのに、日本では、これらのことに関する市民の意識はあまりに低く、マスコミも自由化や規制緩和ということに無批判であるどころか、積極的に賛成しているかにも見える。世界一の債権国家である日本が、世界に対して貢献して行くためには、それらの途上国に対する債権を放棄することしかない。それこそが本当の援助であるのだから、貧しい国から借金を厳しく取り立てるようなまねだけはさせてはならないだろう。
 鎖国体制にあった江戸時代、それは固定的な身分制度の時代であり、個人の自由は大幅に制限されていたので、決して古きよき時代と懐古するわけにはいかない。しかし、当時世界で最も人口の多い都市であった江戸が、ほとんどゴミを出さない世界に誇りうるリサイクル都市であったことが、再評価されてきている。糞尿垂れ流しで悪臭を放っていたという中世ヨーロッパの都市と違い、下肥はちゃんと近郊農家に売買され利用されたし、灰屋などというリサイクル業者があり、薪炭を燃やした後に残る灰までが、肥料、酒造、紙漉、染物、陶器など様々な用途に利用されていたのである。このようなリサイクル体制が破壊され、無駄遣いとゴミに悩まされるようになったのは、明治維新後に欧米列強の真似をして資源や労働力を海外に求めるようになってからということだろう。
 江戸時代のような鎖国を、現在の日本で実行することは無理かもしれない。しかし、環境や安全性を守るという大義があれば、輸入に制限を加えることは可能なはずで、不完全かつ不公正な市場原理のみに振り回さわなければならない道理はない。今こそポスト・ハーベスト農薬がたっぷりかかった小麦や、無気味な遺伝子組換え大豆の輸入を拒否し、それらを自給する政策に転換するべき時である。これらの米に次いで基本的な食糧は、余りにも輸入にたよっており、我々には無農薬のものや遺伝子組換えでないものを選択する余地がほとんどない。これではほとんど日本人全体が、人体実験されているようなものである。電気製品や自動車などの輸出産業にたよってきた日本政府は、それらの権益を守るために農業などをスケープゴートにしようとしている。我々市民や農民にとっては今こそ、そのような政府の姿勢に強く反対する運動を起こさねばならない時なのである。


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