21世紀の北海道と農業

    今年は、北海道開拓という国策のために一世紀前に作られた北海道拓殖銀行が、あっけなく廃業し、観光こそこれからの産業としてバブル経済期に次々と作られた大規模なリゾートホテルも相次いで倒産し、北海道の経済は本当に大変だと言われている。しかし、つぶれるべくしてつぶれたものを、惜しいと思うことはない。自然の豊かな山奥にホテル・スキー場・ゴルフ場という3点セットでのリゾート開発をし、そのような計画に大金を注ぎ込んだ過ちのつけが来ただけのことで、当然の結末に過ぎない。せっかくの大自然を、ありのままに楽しむ方法こそ模索されるべきで、そのことに必要なのは金ではないだろう。
 日本中でも不景気だと騒いで、どうやったら皆が金を使うようになるかなどと、国もマスコミも商品券配布だの消費税率を下げろだの何やら知恵を搾っているようだが、根本的な間違いに気づいていない。不景気とは、必要のないものを買わずに、あるものを大切に使うことなのだから、こんなに正しいことはない。限られた資源を有効に使い、環境をこれ以上破壊しないことが求められている現代において、景気をよくする必要なんか、まるっきりないのである。雇用を守ることは必要かもしれないが、必要のない仕事を温存しておくことも、決して望ましいことではないだろう。
 必要なことは、経済の復興でも、景気の回復でもないのである。真の意味で豊かな生活を送るためには、今までとは別の価値観が必要だ。近代以降、経済、物質、効率、競争といったものが重視され、それが今日の混迷を招いた。これからは、いのち、こころ、安心、共生といったものが、前のものに優先されねばならないであろう。そのような価値観の転換を図るためには、今の不景気は大変よいことだとさえ思える。
 しかしながら、北海道における歯止めのかからぬ離農については、本当に問題なこととしなければならない。農家人口が5年前に比べ1割以上減り、30万人を割り込んで40年前の3分の1以下となり、高齢化も急速に進んでいる。ただ、農家1戸当たりの経営面積はかつての3倍の15ha以上になっている。一方で、本州では40年来、農家1戸当たりの経営面積はほぼ1haのまま変わっていない。日本の農業を大きく変えてきた農業基本法の選択的規模拡大路線というものが、なぜか北海道においてのみ実現してきたのである。規模においては、ヨーロッパ並をすでに実現し、酪農家1戸当りの飼育頭数などではEC諸国を凌ぐほどになっている。もちろん、まだまだアメリカの規模にはとても及ばないが。食糧自給率についても、EC諸国は100%以上の国が多いのに対し、日本は30%程度と世界最低レベルであるが、北海道だけでみれば、おそらく100%以上の英仏並みを確保していると思われる。これは北海道が、条件に恵まれていたとは言え、良くも悪くも国の基本法農政における優等生であった結果であろう。
 しかし、そのことで北海道の農家が豊かになったかというと、決してそんなことはないのである。本州の兼業農家の方がずっと所得が多く、専業農家の多い北海道では所得も少ないし、借金は多額だ。屯田兵による開拓以来、北海道の農業は、北海道のための農業ではなく、内地(今でも北海道の人は本州のことをそう言う)のための農業であったということであろうか。また、農家を豊かにすることを目標とした農業基本法通りに事が運んだ北海道で、農家が豊かにならなかったということは、何を意味するのであろうか。効率を追求して規模拡大するというのは、いわば工業的発想であって、自然相手の農業には必ずしも合致しない。特に、日本のような高温多湿な気象条件下における農業や、環境保全型の有機農業のような場合、いかに手をかけるかが重要であり、規模の拡大が単純には生産性の向上につながらない。農業人口が減ることにより豊かになることができるのは、決して農家ではなく、大量の労働者を確保し、また安い農産物により労働者の賃金を安く抑えることもできる資本家なのである。それに、北海道のように農家が大規模になっても、すべての農作業が機械でこなせるわけではないし、人間の労働には限度があるわけで、かつての地主と小作人のような関係が、また新たに生まれつつあることにも、非常な危惧を覚えるのである。アメリカの大規模農法は、機械化によるだけでなく、かつては黒人奴隷、現在ではメキシコ人の安い労働力なしには成り立ち得ないことを知るべきである。農業基本法以前、戦後農地開放直後の、自給中心の農家、1町ばかりの田畑に、牛か馬が一頭いて、庭にはにわとりが数羽いたという時代こそ、最も豊かな時代だったのかもしれない。それを壊したのは、復活した旧財閥と、共産主義社会の拡大を恐れて日本を再軍備化するため、それを後押ししたアメリカの巨大資本であったことは言うまでもない。
 しかし、その農業基本法も今新たな法律に変えられようとしている。それは、農業基本法に対する反省によってではない。その価格支持政策が、貿易自由化を求めるGATTに抵触するため、GATTウルグアイラウンドを批准した日本としては、この法律は変えざるを得ないためである。価格補償はいけないが、その変わりに所得補償ならよいということで、欧米ではすでにそのような政策が採られているのであるが、日本もそれに倣おうということである。所得補償というと、何やら農家にとって大変有り難い話のようにも思えるが、実は所得補償はアメリカのような大規模農家にとってこそ有利な政策でもある。日本では、欧米型のデカップリング(所得補償)政策はとらないということらしいが、本当に国政を担う人たちには、日本の農業を守ろうという考えがあるのだろうか。それどころか、他産業の発展のための生けにえにしようとしているのではないか。
 農業は、単なる産業の一つではない。北海道は、日本の食糧基地という位置づけもされているようだが、私はこの考え方に賛成できない。身土不二という言葉があるが、身体と環境は切っても切れない関係にあるということで、住んでいる地域でとれた旬の物を食べることが、健康に最もよいのである。また、資源やエネルギーの節約のためにも、そうすべきである。外来のものを食べることを完全に否定すべきではないが、それが主になるのは異常なことである。海外に車や電気製品を売りまくり、米以外の食糧の大半を輸入にたよるようなことは、長続きすることではない。世界的に食糧が過剰から欠乏の時代へ突入しつつある現在、食糧はできる限り地域内での自給を目指すべきだし、そのように求められることになるだろう。産業としてではなく、いのちの糧を生産するための農業が行なわれるようにならねば、人類社会に未来はない。


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