百姓としての誇り

なぜわたしは 民衆をうたわないか
わたしのおやじは百姓である
わたしは百姓のせがれである
白い手をしてかるがるしく
民衆をうたうことの冒涜(ぼうとく)をつよくかんずる
神をうたうがごとく
民衆をうたいうる日がきたなら
その日こそ
ひざまずいてれいかんにみちびかれてものを書こう
  (八木重吉詩稿より)

 百姓という言葉は、水呑百姓とか、三反百姓、どん百姓にいたるまで、あまりよい使われ方をしない。というよりも、さげすみを含んだ、差別的な呼称として用いられてきたといってもよい。でも、愛農会は誇りをもって宣言している。

百姓は自立する
  百姓は生命を守り育む
    百姓は金にしばられない
     百姓は大地の恵みに生きる
      百姓は世界をつなぐ心となる

 なんとすばらしい言葉であろう。現代日本の暗い世相をもたらした原因は、多くの人が百姓=民衆としての生き方を失ったことにあることを思い知らされる。歴史上において常に百姓=民衆は、汗と血をにじませて大地を耕しながら、搾取され窮乏を強いられてきた。しかし、神は常にそのような民衆の側に立ち、彼らこそ幸いな者であると祝福する。それは、搾取や窮乏の現実を肯定しているのではない。彼らの生き方こそが、神の前に正しいものであると肯定しているのである。逆に、富んでいる者、つまり搾取する側の人間を、神の国にふさわしくない者として断罪する。豊かになるためといって、心や生命を犠牲にしては、何にもならないではないか。

 だから、我々は百姓であることをもっと誇るべきである。私の住む北海道の余市は、後志(しりべし)という地域にあり、数年前に有機農業をおこなう仲間で「しりべしなんでも百姓くらぶ」というグループをつくり、無農薬野菜市や、ファーマーズ・チャリティー・コンサートといったイベント活動をおこなってきた。新規就農者が中心の、ごくごく小さい集まりであるけれども、これからも百姓であることにこだわり、地の塩でありたいものだ。

 

(「愛農」1998年10月号 巻頭言)  

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