聖書の神とエコロジー

神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ。
人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。
同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさることはない。
すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
すべては塵から成った。
すべては塵に返る。
   (旧約聖書 コヘレトの言葉3章18〜20節/新共同訳)

 以前の翻訳で伝道の書と呼ばれていたこの書は、聖書の中では異質とも思える内容をもつ。東洋的というか、仏教的な感じさえ受ける。しかし、創世記において人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と語った神と、異なる神について述べているわけではない。一見、矛盾するようであるが、神が矛盾しているのではなく、人間の理解が矛盾しているだけである。

 現代では、生物学や生態学の進展により、人間が他の生物とまったく同じ遺伝子による生物にすぎないことや、物質的には土から生まれ土に返る循環のひとつの部分にすぎないということが容易に理解され得るようになった。そして人類がその遺伝子を作り替える技術を手に入れ、その循環を断ち切る化学物質を次々に生み出している現在、我々はこのコヘレトの言葉を重く受けとめ、創世記を正しく読み直さなければならないのである。 地を従わせ、生き物すべてを支配するということは、人間が自然に逆らい自由に振る舞ってよいということでないのはもちろんだ。人類が地球環境の未来を大きく左右していることが明らかとなってきた現在、その自然環境を守り、生物を絶滅から救うのは、人類に課せられた義務と考えるべきではないだろうか。

 私も、農業の現場でその義務を果たそうと努力している。生命に貴賤はないのだから、作物に害虫がついたくらいで殺虫剤をまくようなことはできない。虫にもいくらかの分け前を与えなければならないし、殺虫剤をまかなくても天敵がいれば、ちゃんとバランスをとってくれるのに、殺虫剤は天敵をいなくしてしまう。もし殺虫剤をまかないで害虫が増えすぎたときには、栽培方法自体が自然に逆らっていたと反省するだけである。そんなわけで、今日もわが菜園にはモンシロチョウが乱舞し、ブドウ棚にはクモの巣がいっぱい、ヒヨドリの巣まである始末。でも、この農園ではたくさんの生命が輝いている。

(「愛農」1998年8月号 巻頭言)  

>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧