アナキズムと自給農業…そして、キリスト教ラディカリズム

    農民文学者の住井すゑと農村医療に携わる若月俊一の対談集(『いのちを耕す』労働旬報社 '95)を読んだ。出版当時93才と85才で現役なのだからすごい。二人ともアナキストで、天皇制に対する批判は徹底している。住井すゑは、被差別部落を描いたベストセラー『橋のない川』で有名になったが、同和を書く前は、いくつもの男の名前で童話を書いて生計を立てていたとのこと。しかし、国を挙げて戦争に邁進していた時期にも、アナキストであることを捨てなかった。いいものを書いていたのに、そういう時期に国家権力になびいた著名な作家たちを批判し、こう述べている。「軍部や役人に、国家に協力するものを書けと言われたが、私はそういう話は書けませんと言った。田舎にいたから、そんなことをしなくても百姓して暮らしていく自信はありましたからね。ほかの人は軍部や大蔵省の役人のいうことをきかなければ、飯の食い上げだったんですよ。」ここに、アナキストが自給農業を求める必然性がある。食の自立なしに、思想の自立はないのだ。
 アナキズムとは何か。無政府主義と訳されるので誤解されやすいが、非強権主義とでも訳したほうが正確だろう。住井すゑは、無搾取政府主義と翻訳したらよかったと言っている。もともと原語でもアナキストは、敵対者のつけた蔑称であったのだが、この語を自らの主義主張に初めて用いたのがプルードンであり、さらにバクーニン、クロポトキンらが、その思想を深化させた。だが、マルキシズムのように一元的ではなく、多様な思想を総称している。支配を拒否し、自由を追求することから、テロリズムの悪いイメージがつきまとうアナキズムという言葉を避けて、リバータリアン(これも適当な訳語がないが、純粋自由主義者とでも訳すべきか)という言葉も使われる。マルキシズム(ボルシェヴィズム)も、社会の最終段階には無政府共産主義を想定しているのであるが、それに至る段階として、労働者(プロレタリアート)独裁による社会主義国家を主張している。しかしアナキストは、そのような社会を断固拒否する。マルクス主義がプロレタリアートのものであるのに対して、アナキズムは自立農民、職人、中小自営業者、芸術家のものだと言える。ただ、どのようにして理想の社会を実現するかという方法論は、様々である。
 議会主義を否定して直接行動を主張するのが一般的なアナキストだが、組合運動により行動しようとする社会主義に近いアナルコ・サンジカリズムというものもある。アナキストの組合は、かつて総評傘下にあり、旧社会党にも所属していた。そういえば、勢いがあった時代の社会党は、非武装中立を唱え、日米安保はもちろん自衛隊にも反対、君が代や日の丸にも反対していたから、その思想は社会主義を超越してアナキズムと言ってもよいものであった。しかし社民党と名称を変えた時点で、そんな理想は完全に棄ててしまい、今は見る影もなくなっている。
 そしてもう一方に、非暴力直接行動、市民的不服従という形での実践を伴う、平和主義的、個人的アナキズムがある。その代表格は、何と言ってもトルストイであり、ガンジーなど世界中に影響を与えた。そして、彼らの最大の特徴が、自給農耕生活を理想としていることである。アメリカの作家ソローも、このようなタイプのアナキストと言えるだろう。トルストイやソローは、自らアナキズムという言葉は使わなかったが、彼らの思想はまぎれもなくアナキズムであるし、老子や荘子、イエスの思想もアナキズムと言えるかもしれない。あらゆる権威を否定し、人間直耕を唱えた江戸中期の安藤昌益なんかは、徹底したアナキストと言ってよいだろう。
 一般に日本でアナキストの代表格と言えば、明治政府のデッチアゲ大逆事件により12名の仲間と共に死刑となった幸徳秋水や、関東大震災での混乱に紛れて数千名の朝鮮人と共に憲兵やデマを信じた市民らに虐殺された大杉栄らが有名であるが、彼らは社会行動派のアナキストである。一方、日本での平和主義的アナキストと言えば、キリスト教社会主義者でもあった石川三四郎が代表格と言えるだろう。彼は土民生活ということを主張して、自給的農耕を試みた。トルストイも自給農耕を主張したし、日本でも同じく作家の武者小路実篤、有島武郎らが、その影響を受けて農場を開いた。アナキズムの思想に基づいて自給農業を実践した人はまだまだあり、最近注目されてきている青森の江渡狄嶺、山梨の丹沢正作、同じく山梨出身だが北海道で平民社農場を開いた渡辺政太郎らもそうである。不思議なことに彼らすべてに共通する点は、キリスト教を棄てなかったという点である(既存のキリスト教会に対しては、批判的であっても)。アナキストの大半は、最初キリスト教に魅かれ洗礼を受けている。有島武郎はキリスト教を棄てたが、自殺してしまった。幸徳秋水も大杉栄も、キリスト教を棄てた。幸徳秋水は最初リベラリスト(自由党左派)であったが、マルクス社会主義に転じて社会民主党結成に参加し、最後は無政府共産主義者となって、国家権力により虐殺された。私には、キリスト教を否定したアナキズムは、テロリズムかニヒリズムに陥る危険性が大きいと思える。なぜなら、アナキズムは人間性に最大の信頼をおくことによっているものであるが故に、神の存在を否定すれば、自己の理想のためにはどんなことも許されるという考え方や、現実の社会や人間に希望を失う結果に陥ってしまうのではないかと思う。
 キリスト教の本質は、希望の宗教ということだと思うのだが、一方でキリスト教は、歴史的にずっと自給共同体(コミューン)を作ってきた宗教でもある(決してそれが主流ではないが)。これは、キリスト教以前のユダヤの農業社会に由来していることだと思うのだが、現在のイスラエルにも農業コミューンであるキブツがたくさんあり、アナキストの理想とするような社会が営まれている。キリスト教においては、カトリックの各修道会は、現在でも世界中で自給農耕生活を基本にしているし、プロテスタント最左翼のアナバプティスト(再洗礼派)の多くも自給コミューンを実践している。アメリカでは、アーミッシュが現在でも文明を拒否した有畜自給農耕生活を続けているし、そこまで徹底しなくとも、メノナイト、フッタライト、ブレザレンなどにもそのようなコミューンがいくつかある。彼らは、絶対平和主義でも知られ、軍事費不払いや、良心的懲役拒否など、アメリカでは市民的不服従としてその権利を法的にも認められるに至っているから、アナキズム派キリスト教と言ってもいいだろう。
 話はそれるが、一般のキリスト教会からは異端とされるエホバの証人(ものみの塔)も、国家や軍隊などを否定しているが、投票には行かないし、君が代はもちろん、校歌の斉唱や柔剣道の授業も拒否するほど、徹底している。輸血の拒否もそうであるが、なかなか一般には理解されにくいことだろう。ただ、戦前にキリスト教で反戦を本当に貫いたのは、ワッチタワー(ものみの塔)伝道に尽くした明石順三くらいであり、正統派のキリスト教会がすべて戦争に協力したことを考えると、正統とは一体何なのか考えさせられる。イエスは国家の権威を否定しながら、「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに」と、神殿税やローマ帝国への税金の支払いを否定しなかった。そこに、理想を追求しながら現実とうまく折り合うイエスのしたたかさを見るのだが、それでもなおイエスは国家権力により虐殺された。そのイエスを信じる者を危険視して迫害していたローマ帝国が、その思想を体制維持のために変貌させたものが、正統派キリスト教なのだとしたら、イエスの思想は正統派のキリスト教とは全く異なるものということになる。
 イエスの思想を正しく知るためには、聖書に対する実証的な研究が必要である。イエスに興味をもたれる方は、新約聖書はもちろんであるが、ぜひとも『イエスという男』(田川建三著 三一書房)を読んでいただきたい。イエス自身は農業について多くを語ってはいないが、アナキズムと自給農業、それを結ぶところにあるのが、キリスト教ラディカリズム(正統派キリスト教とは違う、イエスという人間の思想)ではないかと思う。トルストイも、石川三四郎も、キリスト教会ではなく人間イエスを信じていたのである。


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