世界の幸福と、農民として生きること

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらはまことの幸福を策ねよう
求道すでに道である
 (宮澤賢治『農民芸術概論綱要』序論)

 この賢治の文章は、他人からみれば非常に恵まれていると思える境遇を捨てさり、彼が農民として生きる道を歩みはじめて3カ月ほどたった時点でのものである。私も6年ほど前に、安定した会社勤めを辞めて農民になり、農民芸術の道を追い求めている。彼と同様に、自分の幸福のためである以上に、世界の幸福のために、そのような生き方が必要だと考えてのことである。賢治がこれを書いた70年ほど前にくらべると現代は、当時では考えられもしないほど便利な世の中になってはいるが、決して農民の暮らしが明るく生き生きしているとは思われないし、世界には環境破壊、飢餓や戦争、凶悪犯罪や癌・エイズのような死にいたる病気などさまざまな不幸が満ちあふれている。これらの問題を解決するためには、すべての人が自然の摂理にしたがう生き方を実践することしかないだろう。

 賢治にとって、科学・宗教・自然は一体のものであった。個人の幸福が、世界全体の幸福、さらには宇宙の安定なしにありえないということは、地球規模での生態学的危機が科学的に警告され、宇宙の謎が解明されつつある現代においては、より明白に理解されうるはずである。しかし、危機がより一層深まっているかに見えるのは、現代人が科学を万能と思い込み、宗教を忘れたためなのではないか。

 彼は法華経の信奉者、私は聖書の神を信じるキリスト者という宗教上のちがいはあっても、求めるものは同じなのだと思う。聖書の神とは、宇宙を創造し、自然の摂理を支配している存在そのものである。人間の幸福とは、神にしたがうことをおいて他にはありえないのである。聖書でいうところの罪とは、神から離れるということであり、人類の罪のはじめがエデンの園での生活を捨てて本格的農業をはじめたことにあったことには注目しなければならない。

 農業そのものに、自然に逆らう原罪をみることは容易であろう。しかしながら、イエスの教えは、洗礼者ヨハネのようにイナゴと野蜜を食べて生きよということではなかった。イエスは、罪を犯さざるをえなかった罪人をそのまま受け入れた。彼が祝福したものは、農民が土を耕してえた収穫に、さらに人手をくわえ酵母という微生物の力もかりて豊かな味覚をもつ食物に生まれ変わったパンとぶどう酒であった。聖書の神は、大地とともに農民として生きることを、何よりも祝福してくださるのである。   

(「愛農」1998年2月号 巻頭言)  

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